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〇敬愛する俳姉のお一人、きくよさんの句。 ビール注ぐすこしの嘘はつかせおき きくよこれなンですよ、女性の凄いところは。所詮、お釈迦様の手の平の上であっち行き、こっち行きしている孫悟空と、世の男どもは同じこと。女の嘘は男に見抜けないのに、男の嘘は女にゃ~直ぐ判る。 男は嘘をつく時、余計な事を言ったり、いつもと違った行動を取ったり、妙に優しくなってしまうから、女の脳細胞にある異物検出器がすぐ反ねる。気づかれているのに、まだ嘘の上塗りを男はしてしまう。程度問題であるが、まあ少し見逃せる範囲であれば、女は可笑しさこらえて目を瞑る。 男の根正直なところにほだされ、女もお酌などしてサービスする。そこまでサインを出しているのに未だ気づかない。男って変な生きもの!
2016.07.31
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〇部屋の押入れを片付けていると、色褪せた大学ノートが出て来ました。誰にも見せていなかった古い歌詞が載っていました。社会人になった翌年に入院し、静養中に書いたバラード風の歌詞。森進一氏が人気を博していた頃かなぁ。 1)夜のしじまに ただ独り ギターを小さく 爪弾けば 何故か目頭 熱くなる 昔流行った 悲恋の歌よ 夜のおんなが かわいそう 2)風呂の帰りは 月も無い 口笛小さく 吹きながら 何故にこの俺 涙する 今日も聞こえる 悲恋の歌よ 夜のおんなが いじらしい 現在のキャバクラ的な場所に働く女性の大半は、「遊ぶ金欲しさ」が動機のようですが、昔は家族、一家を養う為に、嫌な世界に身を汚す女性が多かったように思います。もちろんメロディもついているのですが・・・。そういう意味での、かわいそう、いじらしいなおです。今朝の京都新聞には、阿久悠さんの日記について触れていました。
2016.07.30
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〇中央公論社の生みの親だった麻田駒之助は父の叔父に当たり、可愛がられていたようです。 私が中学か高校生の頃、西本願寺に御参りする祖母の護衛として随行した記憶があります。そのに麻田家の墓があって駒之助も葬られていたのでしょう。 明治38年(1905)の11月号では幸田露伴、泉鏡花、夏目漱石らが誌を賑わせ、翌年の10月号でも漱石や島村藤村、国木田独歩らも活躍していました。編集は高山覚威を経て滝田樗陰が担当していたようです。 では麻田駒之助から父吉田すばるに届いている葉書を一部、ご紹介しましょう。昭和9年7月9日、東京中央郵便局の消印です。すばるが”ホトトギス”雑詠に入選したことを祝す内容です。同年8月18日、「砂山の乏しき草や夏の蝶 すばる」に寄せたハガキの差出人欄は印刷で、東京市本郷区駒込西片町十番地となっていて、時代を感じますね。翌年10月8日「月高く小さくなりぬ寝るとせむ 椎翁」など彼がホトトギスに入選した句やその喜びなどが綴ってあるハガキは当時の工場の写真や丸の内ビルヂングの写真。 12年の年賀状の句は「われもはや古稀に一借る炬燵かな」「円山の棒鱈うまし□もよ志」「折からの大夕立に出征す」「虹立つや祇園清水その下に」昭和9年のハガキは1銭5厘、写真つきのハガキは2銭、昭和12年は2銭、「をしどりといふ髷の名も節分会」昭和15年3月3日、和歌山旅行中のすばるから生家京都へ出したハガキには 海苔洗ふ女ながらの力瘤 海苔屑の乾く腕に漕ぎ戻るまた中井大夢氏宛に出そうとしていた葉書には父と妹二人の句が寄せてありました。 辻曲るときのこたへがぐんと鉾に すばる 鉾を見て思ひまふけぬちまきうく きみ 視線あふ幼な友より投ちまき ち津 わが家には椎翁の短冊30余り、彼の筆になる風景画の掛軸も父より継いでいます。
2016.07.29
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〇もう5年程前までのテレビ番組に100円ショップで売っているグッズと、目玉が飛び出そうなほど高額な商品を目利きする番組があって、このコーナーだけは家内も大好きでした。15種類ほどの品物の中に、100円のもの、〇万円以上もするものがごっちゃに置いてあると、人間の物を観る目はいい加減で、100円という破格で拵えたグッズまで高級に見えたり、逆に、こんなものは子供や素人の作品だろうと思わせる個性的なものが、世界的な売れっ子のデザインによるものだったり・・・。 詮議のほどは別の機会に譲るとして、100円の老眼鏡や、折りたたみ式の傘が100円で買えます。きちんと畳むことができ、何度も使えるし、第一軽さにおいて優れものです。時雨の多い京に出かける身にはこれほど重宝する100円グッズは無いのでは?
2016.07.28
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〇桂米朝師匠が小松左京さんと中国に旅行に行かれたのは、父に告げもしないで報道機関に小米朝さんが婚約を発表された年のこと。もう随分昔のことなんですが、見渡す限り麦畑だったそうです。 一体全体、お百姓さんが何処に住み、何処からやって来て、その広大な畑の世話をするのだろうと不思議に思っていらっしたことを、落語に入る前の「枕」で話して居られました。おそらく日本の農業地帯とスケールが違うのでしょうね。 緑色は目に良いとか言いますが、今を置いてあの瑞々しい緑は目にすることができません。人の腰、胸の高さまで伸びた稲の葉が、折からの風に吹かれる様は美しいですね。まるで透明人間がその上を歩いているかのように、風の織り成す紋が南から北へと移動して行きます。 日本の食料政策は専ら外国からの輸入に頼っています。冷夏の年なら米の稔りも危ぶまれますね。数十年前、国内の米不足の為、外米に頼ったことがありました。外米と日本の米の味は歴然と違っていました。穀物は主食となる大切なもの。そういう感謝の目で、もう一度、青田を見て御覧なさい。生きる原点、幸せの原点が見えてくるかも知れません。
2016.07.27
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〇きくよさんは亡父ゆかりの俳句仲間で、大阪は帝塚山の家にも同僚とお越し下さっていました。色白の才媛でわが理想像のお一人でもあります。 すててこの車を洗ふ日曜日 きくよ 住宅街ではよく目にするの図。昔颯爽として女心を口説いた旦那様。髪もふさふさとしていたし、黒くて艶があった。外で逢えば、大切な一日のスケジュールをきちんと立てていて頼もしい。 この人ならと、我が一生を託した伴侶。もうお互いを知り尽くして遠慮というものが無くなった。これでいいのだが、何だか騙されたような、損したような気がしないでもない。近頃は奥様よりも車の方に、愛の手を施す時間がとみに増えて、自分は置き去りにされているみたい。 車に嫉妬する訳にも行かず、その昔、角隠しに引っ込めた角を出す訳にも行かない。トドのつまりは、こっちも好きなようにさせて貰うことにする。旦那も古女房のご機嫌に時間を割く手間が省けるから黙認する。 40代、50代の夫婦なら正常。結婚後間もなく旦那が様変わりで車に手をかけ過ぎるのは、イエロー信号。綺麗に磨いた車に乗るのは、よその女かも知れない。注意肝要、注意肝要。
2016.07.26
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〇この間まで一緒に生活していた鶯たちが、どうやら山に戻る日が来たようです。それに打って代わって何ともうるさい蝉の声。思考回路を塞がれそうな勢いです。で昨日の吟行句会に出したのは 蝉時雨その坩堝なる生活tatukiかな吟行句会の会場は京都駅近くの某家電大手の真向かい。勘違いして鉄道記念館近くに行くと、夏のセレモニーの人だかり。水辺に子供たちがはしゃいでいました。〇水遊び天使の羽が子らの背に 嬉しそうな子供たちの瞳の中にオーラーを感じたのですが、それをこういう表現にしたのでした。 他に 片蔭をゆづつてくれし人は今 隣国のロケツト弾やイルカシヨー ビル狭間雷雲を呼ぶ不動尊 さて例会その他の句の記録として、 打水や赤児のやうな吸ひつぷり 飛騨高山の旅行記として 単線を桂馬跳びせる夏の河 飛魚の日矢好打せる波間なる〇飛魚の群れ友連れとして那覇めざす〇青蔦の蔓延る山辺渇きをりこれから月内に双滴集や現俳協への応募作品を捻出しなければなりません。ひと踏ん張りです。
2016.07.25
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〇先だって永六輔さんが亡くなりました。一家言を持ちながら、どこか飄々とした雰囲気に誰もが癒されました。永六輔さんの俳号は六丁目。東京やなぎ句会の師範は、入船亭扇橋、小沢昭一(変哲)、桂米朝、江國滋(滋酔郎)らがメンバーでした。 これまで数回この日記にも書いてきましたが、「食」の編から適宜抽出しますと、 数の子の忘れた頃に歯にプツリ 渡辺よみこ この玉砂利は焼芋に使えるなあ 磯村 昌二 積んである西瓜の一番下のが欲しい 牧野 弘志また仕事編から 痛ければ言え歯科医の意地の底 伊藤 隆夫 先人に学ぶのも大切ですが 新人にも学んで下さい 近藤 博二 ただいま!と元気の良い独り言 各務 雅憲 動かされているワイパーが淋しい 小杉 英則いろいろありますが、こんなところで。
2016.07.24
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〇長いトンネル生活から脱却した蝉たちが、眩しい夏陽に命を謳歌しています。昨日借出した図書は、1)「戦国武将と茶の湯」米原正義著(淡交社) 大山崎のガイドをする時、中世の古典学者三条西実隆公を意識の中に入れていますが、茶の湯と少なからず縁があるのです。2)「比喩の日本語」榛谷泰明著(白水社) 古今東西の比喩を網羅した良書です。募集大作賞というジャンルへの参考に、双滴集という互選の作句の一助になれば幸い。3)「赤のなぞなぞ」柴田武・谷川俊太郎。矢川澄子共 著(大修館書店) 一九八四年に刊行された「世界のなぞなぞ大辞典」三部作(赤、白、黒)六千五百、千二百ページを越える大辞典の縮小版。詩編としても面白い。4)「英語で案内する京都・奈良」向井京子著(日本文芸社) そう遠くない日に大山崎にも外国の方が来られることでしょう。英語的な表現法を脳裏に植えつけたくて。5)「中国語通訳への道」塚本慶一著(大修館書店) 上記同様、英語との共通点を探りながら、中国語の表現を知っておきたくて。CDが付録についています。
2016.07.23
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〇昔から言い伝えられた詞に<東男に京女、京に良きもの三つ をなご・賀茂の水・寺社>洛中の婦女子でないものには、大原女、白川女、桂女。また謎の女性として挙げられるのは小野小町。美人で歌の巧者でしたが、出生が詳らかでなく、よって謡曲では「通小町」「雨乞小町」「草紙洗小町」「関寺小町」骸骨になった「卒塔婆小町」「清水小町」「鸚鵡小町」の七小町など。 他に印象に残る女性は、源義朝と平清盛に翻弄された常盤の一生、清盛入道が常盤に溺れ過ぎたため、彼女の遺児に平家は滅亡。もう一人挙げるなら小督。清盛の娘二人はこの女の出現で嫉妬と不遇に。同じように不運な一生を送った妓王。或いは、恋ごころの行き違いの男女、滝口入道と横笛の物語。夫への操を守るため、自ら刃の犠牲になった袈裟御前。和歌・俳諧・書道・茶道・華道から管弦に至るまで奥義を弁えながら慎ましやかな美女の吉野太夫。この他、蓮月尼、ぎをんに咲いた一輪花・モルガンお雪、幕末の志士を支えた多くのおんな達の話題には事欠きませんね。(参照図書・奈良本辰也編「京都故事物語 下巻」)
2016.07.22
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〇「朝風呂の味」田辺禎一著(住吉書店)は、ちょっと艶めいた話題の本です。 しかし色っぽい話ではないものに「二世坊ちゃん」という副題をつけた項があって、田辺氏は坊ちゃんを書いた夏目漱石の教え子の一人。その田辺氏が教師となられ、W中学の物理を教えて居られた。昭和29年、NHKの「話の泉」にゲスト出演した折、同席したサトウ・ハチロー君は「私は学生の時に、田辺先生から落第点を貰ったから、今日の話の泉も先生の前では落第だ」と言ったそうな・・・・・・。明治時代にイギリスの大学に入った日本人留学生が、入試の化学の問題に、<石炭よりアルコールを得る方法如何」とあったのを、「石炭を売ってアルコールを買えば良い」と書いて出したので、この男は将来偉くなると思って及第させたという話を聞き覚えています。教育者はそのくらい、先見の明が無いとね。また親友の話によれば、娘の婚約の仲人が「彼は秀才で酒も飲まず、道楽もしたことのない謹厳な男です」と紹介したので、「そんな状態では、世の中に出て出世することは覚束ない」と断った話もあるそうで・・・・。 さて話を本題に戻して、物理の問題に<弦の音の性格を、三味線について説明せよ」というのを出したら、「三味線の音は粋で、一杯飲みながら聞くによろし。女の膝枕で聞けば一層よろしい。」という名答案。「この男なら将来有名になるに相違ない」と及第点をあげた。この答案者こそ何を隠そう、サトウ・ハチロー君だったと思っている。>とこの著書で述懐して居られます。
2016.07.21
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〇もう既に今年の先祭の巡行は済んでしまいましたが、鉾の先にある長刀そのものはレプリカ。 本物は長刀鉾保存会に、長刀に彫ってある銘の拓本も保存されているようです。それによると、天文五年(一五三六)に京都の法華宗が延暦寺や六角氏と戦って破れ、長刀もぶん捕られました。それを近江の石塔寺の麓に住む左衛門太郎助長という鍛冶が買い取り、八坂神社に寄進したとのこと。先述の拓本は読みにくいものですが、平安城住三条、大永二年六月三日つまり一五二二年に作ったものと解されいます。大和の国から林国家という刀工一族が平安末期に粟田口に移って来て、平安・鎌倉期での名工と称賛されていたようです。国家の孫には六人もの兄弟が居て、その全員か一部の者か不詳ながら、後鳥羽上皇の「御番鍛冶」のメンバーに加わっていた記録のあるようです。そして自分たちにも崇める神社が欲しいと願い、本来はこの粟田郷の産土神だった粟田神社をまるで刀剣の社であるかのように手の込んだ演出をしました。そもそも粟田社は貞観十八年(八七六)まで遡り、祇園祭の起源とされる同十一年から僅か七年後であり、祇園社の創建と同年なのです。また二社の共通点は当初の名前が「感神院」と「感神院新宮」、祇園の牛頭天王社に対し粟田の天王社。そして祇園祭に似た粟田口祭。いずれにせよ、大山崎の資料館には後鳥羽院のコーナーがあって、天皇自ら御造りになった「菊一文字」という国宝の刀にも言及しますが、粟田口の刀剣名工たちの一部が後鳥羽院の「御番鍛冶」という情報を得たことだけでも収穫と言えます。(参考図書・高野澄著「京都の謎」戦国編)
2016.07.20
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〇小学二年生の夏まで京都は右京区の桂に住んでいました。桂に紙芝居の小父さんが来ていたのか、幼さ故に記憶が曖昧模糊としています。京都銀行の本店の真裏の小島町に祖父母が住んでいて、従妹の家でもありました。春休み、祇園祭、夏休み、冬休みなど年に数回泊りに行く機会があって、きっとその時に紙芝居をみることが出来たのでしょう。おやつに飢えている子ど達は五円だったか、十円だったか、いくばくの金を払い、煎餅だの、水飴だの何か一種類のお菓子を得て、かつ夢の広がる紙芝居に魅入ったものでした。 大人になって、ボランティア・ガイドのサークルに入り、紙芝居に似た出前ガイドを班の一員として担当しています。大阪に戻った小学四年生の頃から、歌舞伎座や文楽座へ連れて行かれ、関西歌舞伎に親しんだお陰で、名セリフの幾つかは今でも披露できます。幸せなことに、声質を幾種類も変えることが出来ますので、七、八人登場する脚本でも、全ての役を声色を変えて演じることができます。閻魔大王のちょっと図太い声や、村人のか細い声、娘さんの声、お坊さん、役人の声や下僕に至るまで・・・。声の強弱、高低差、テンポなどを工夫すれば、その役柄に成り切って演じる喜びがあります。この歳になって、役者・俳優という仕事に憧れを抱いていますが、次に生まれ変わった時にその目的を果たしましょうか?
2016.07.19
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〇猿は庚申信仰と結びついていて、庚申(かのえさる)の日に、人のお腹の中に住んでいる三戸sanshiという虫が、人の寝ている間に這い出して天に昇ってその人の罪を密告し、密告された人は長生きできないと信じられてきました。庚申堂に三戸の虫を抑える青面金剛shoumenkongouを祀り、そのお使いとされる猿を布で作って祠に奉納したり、家の軒下にぶら提げたりして、願をかけてきました。 以上は「縁起物」という本の文章をそっくりお借りしていますが、その本では滋賀県の日吉大社の猿を主に紹介。大阪の住吉大社の千疋猿、奈良県奈良町の庚申堂もあれば京都は八坂の塔のすぐ側にある庚申堂がカラフルです。
2016.07.18
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〇米編に宗と書いて粽chimaki。本日は祇園祭に因んで”粽”の話題を綴ってみましょう。五月端午の節句に粽を食しますが、昔むかし、高辛氏の子が水の神となって人々を悩ませたので、五色の糸で粽を作って水に投げたら、水神の祟りが無くなった。これは汨羅bekiraの淵に身投げした楚の賢人:屈原を祀った中国の故事の模倣のようで、「公事根源」という古書に記載されているようです。京都ではこのほかに祇園祭に備えて粽を作り、玄関にかけて魔除け、泥棒除けのまじないにしています。 粽を神に捧げる神事は全国的に行われていて、京では一乗寺の八大神社での御供えや大山崎の小倉神社の還幸祭でも大きな粽を宮年寄に捧げる”粽受取”の神事があります。 面白い逸話を話せば、本能寺で信長を倒した明智光秀が鳥羽に向かった折、一人の京童が「今日の御合戦大利を得給ふように」と粽を献上しました。ところが、光秀は気分が昂ぶっていたのか、「むきもし侍らで」つまり剥かないでほおばってしまった。これを見た京童は、大戦の前に天下取りの大将がこんな状態では先が知れていると大急ぎで都へ帰ったという話。あの周到な光秀にしては信じられない、なんとも哀しい話ではないでしょうか。(参考図書:奈良本辰也著「京都故事物語(上巻)」)
2016.07.17
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〇京都には古来の浴室を持つ寺があって、一つは妙心寺の明智風呂、或いは同志社大学の傍にある相国寺の浴室。さらに泉湧寺にも寛永期の浴室があります。風呂の”風”は水蒸気を指し、”呂”は深い部屋を意味し、詰まるところ足利時代以降の風呂とは蒸し風呂のことでした。この蒸し風呂にて汗をかいた後、冷水浴や冷水で身体を拭ったりしていたので、無料で振舞われた庶民は至って清潔。しかるに平安時代の貴族は入浴の習慣が無かったから、匂い隠しに香を焚き込んでいたようです。 熱い湯気の中に身をさらすのだから火傷防止の被服が必要でした。それが”湯帷子(ユカタビラ)”で、麻の単衣の着物を着用していました。蒸し風呂の中でのみ着用するということは本来、人目につかない下着でしたが、時代が下るに従い、浴衣と称して夏季に愛用する単衣となってきました。もう一つ加えるなら、蒸し風呂で長時間座っていると、簀子(スノコ)の下から上がってくる蒸気が熱くなるので、持参した麻の布を尻に敷くようになりました。これが風呂敷なのです。
2016.07.16
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〇一番広いのは月鉾ですが、他の鉾なら凡そ3畳ぐらいの広さ。鉾の縁に腰掛けて笛を吹いたり、鉦を叩く京男が頼もしく見えます。鉦を叩く棒には紫色の長い房が垂れて居て、それが鉦を叩く都度、上下に揺れる様にも風情があります。鉾の屋根からぐ~んと天に向かって心棒が伸びていて、これを心木と言いますが、その天辺に鉾のシンボルマークが乗っています。菊水鉾は菊の形の輪。長刀鉾にはキラリ光った長刀の刃。月鉾のそれは月の形・・・・。蒸し暑い京の夜空にそれらのシンボルをみるのも楽しく鉾町の図柄入りの提灯に灯が入って、祭り気分は上々に盛り上がります。・・・参考までに亡父の句を添えますと、 今はなき山鉾かたる竹床几 夕立の洗ひし町に鉾灯る 鉾の灯の揃ふを待たで囃しそむ 京言葉つぶやき鉾の灯を入るヽ 鉾空に宵星とある御長刀 鉾稚児の化粧なほしも鉾の上 鉾粽うけとめしより笹匂ふ鉾町生まれの亡父は幾つになっても祇園祭が近づくと早朝から京へ出向きました。私は父の助手役で照明係。 鉾町の旧家は祇園祭には代々家宝の衝立や着物小紋や屏風などを店(道路に面した部屋)に飾って披露します。その中に「蛍狩り」の屏風があって、画全般が墨色で浴衣姿の美女が団扇を持った図がありました。まるで幽霊のように見えるが構図と言い、筆遣いと言い秀作で、上村松尊を初め、多くの画家がその屏風から学んだと言う代物。もう何十年も、その屏風を目にすることが出来ないのが心残りです。
2016.07.15
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〇京都の夏の風物詩の一番華やかな行事は祇園祭だと思います。神事が通算まるまる一ヶ月かけて行われると言う壮大な行事。 夏宵の空が群青色に染まる頃、歩行者天国の四条烏丸一帯は浴衣に団扇を持った美女が、下駄の音も高らかに、あちこちから繰り出して来ます。一番人気の山鉾・長刀鉾まで行ってしまうと人垣に囲まれて身動きできなくなりますので、宵山散策の上手なコツは、できるだけ中心地から離れた遠くの山鉾から観られますように。 鉾の集会所の細い暗い階段をトントンと上がれば渡り廊下を経て鉾の座敷に移動します。耳を劈くような祇園囃子の笛、太鼓、鉦の生バンド。ちょっと奮発して粽(祇園祭りの粽の中には餅は無し)と手ぬぐいを買い、男の浴衣帯にこの粽を差し挟むと粋で優越感に浸れること請け合い。
2016.07.14
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〇奈良の都には仏教勢力が強く、施政に不便を感じられた歴代の天皇の思いを果敢に実行されたのが桓武天皇でしたが、皇位に就かれた折の経緯に自戒の念をお持ちになった帝は、長岡京での相次ぐ不幸な出来事にナイーブになられ、山城の国に遷都されましたが、邪気、魔神を封鎖する法として羅城門を構築されました。帝は長岡の宮から再々行幸遊ばし、羅城門へのチェックは殊の外鋭敏にあらせられ、工事半ばの構築物の高さを、もう一尺下げるよう命じられました。その理由は強風によって倒壊するのを避ける為でした。 さて平安京が完成し、遷都間際になって再び桓武帝が行幸され、羅城門をご覧になったとき、一尺短くせよと命じたのに、まだ高い、一尺五寸と命じるべきだったと後悔されたところ、工事の責任者が恐れをなして言上するには、一尺のところ、見映えを考え実際にはご命令に背き、五寸だけ短く致しましたを詫び入れる様子。帝はご立腹されることなく、改築費用の無駄を考慮されお許しになり、ご自身の見立ての良さに満足遊ばしたという逸話が残っています。桓武帝の予想された通り、その後羅城門は数回倒れ、嵯峨天皇の弘仁七年八月十六日の夜、大風の為、洛中洛外の被害には甚大なものがあったそうな。(志村有弘著「羅城門の怪」一部参照)
2016.07.13
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〇小泉和子さんが著した「昭和 台所なつかし図鑑」の表紙には、坊ちゃん刈りの末子、その横に両親、お婆さん、そしておかっぱ頭の長女と丸刈りの6人家族が小ぶり長方形の卓袱台2脚を囲んでいる写真が載っています。また写真の下部には、菜入り擂り鉢と擂粉木、綿入り保温布と木製のお櫃、真ん中に焦げ茶いろの頑丈そうな冷蔵庫(上の段に氷と牛乳瓶、下段には西瓜やビール瓶など)、かつお節削り箱や藁製のたまご容れ、行平、十能などが写っています。桂米朝師匠が「つぼ算」を演じる枕(本題に入る前に少し笑わせる部分)に、昔の台所と現代の比較を挙げ、<甕が病気したンで台所じゅうの者が見舞いに行きます。大丈夫かえ? ええ大したことはありません、ちょっとシャク(柄杓)が突っ張って・・・>という小噺まで。明治生まれは明治・大正・昭和を見、大正生まれは大正・昭和・平成を見て亡くなっていかれました。電化製品の出現によって台所の多くの道具類が一掃され、戦後から一大躍進した昭和という時代もどんどんセピア色に変遷して行くようです。
2016.07.12
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〇ちょっと涼しくなるお話をば綴りましょう。大阪の郷土歴史の大家だった牧村史陽さんが書かれた「亡女の片袖」。 大阪平野区の大念仏寺に掲題の絵巻亡女の片袖」と香箱が大切に保存されて居て、毎年八月の第四日曜日に限って公開されているようです。 大坂落城直後の凡そ四百年前に遡りますが、奥州人観音信士が箱根山の暗い道で休憩していると、一人の白衣を付けた女から話かけられました。「大坂住吉大社の神職・山上松大夫という者の妻でしたが、死後の今、宿業が祟って地獄の苦しみを味わっています。夫に回向して呉れるようお伝え下さい。」と片袖・香箱二つの遺品を彼に差し出して頼みました。そこで七月七日、漸く大阪に着き、松大夫に面会。松大夫は証拠の品を出されてびっくり仰天、まさしく亡妻の愛用していた遺品だったので、親類縁者と共に大念仏寺に出掛け、念仏回向を繰り返したところ、亡妻たちまち地下獄苦から解放され蓮華座に転生できたという物語を絵巻物にして保存しているとのこと。 片袖は朽葉色の絹地に円に下がり藤や鶴の模様が刺繍された高級品、香箱は黄銅製で蓋には蟹の彫刻が施された逸品だとか。ほかに幽霊が証拠品を遺した事例では寝屋川の来迎寺の「幽霊の足跡」、東野田大長寺の「鯉うろこ」などありますが、関東の四谷怪談、牡丹灯籠、かさね、小幡小平次、宇都谷峠などの怪談よりの、関西の方があっさりしているのは、上方の楽天的な性格の現れなのかも知れません。
2016.07.11
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〇編集その他で若干鬱積していたものを解消すべく、昼のカラオケに出掛けました。ここは久しぶりに来ましたが、男女とも良い人ばかりだったので、腹式呼吸を採り入れた唱法のもと、スッキリさせることが出来ました。その帰路に図書館に寄り、借出したのは次の通り。1~2)「本所しぐれ町物語」 上下巻 俳句もなさった、文章の端々から匂うお人柄、藤沢周平さんの作品。大活字本(本来は新潮文庫)3)「羅城門の怪」志村有弘著(角川選書) 副題が異界往来伝記譚と書かれて居て、羅城門を中心に、謎の歌人・蝉丸や一条戻り橋の渡辺綱、安倍晴明や小野篁と百期夜行ほか、夏の読物にどうでしょう。4)「縁起物」<「現代用語の基礎知識」編>(自由国 民社) 副題は日本のたしなみ帖・福を招くかたち とあって、正月から節分、節句、七夕、月見などの行事のほか、お守り、めでたい食べ物、動植物と縁起物など。5)「プロ野球 最期の言葉」村瀬秀信著(イーストプ レス) プロ野球選手の総勢400人。己の魂を削り、野球人生「最期の瞬間」に紡がれた言葉たち。その言葉には命が宿り、「言霊」となって人々の魂を震わせる。という歌い文句のある本で、大好きだった近鉄の選手の人選には少々、不満がありますが・・・。
2016.07.10
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〇下の文章は以前に出された神戸新聞社の問題です。あなたもチャレンジして下さい。(問)下の文章には十か所、漢字の誤りがある。その文字を抜き出し、正しい文字を書きなさい。〇灯下親しむころとなりました。昨年は千歳一遇の好機を逸し、絶体絶命の境地でしたが、一生懸命に努力したかいあって、今年は一陽来福、再び多士斎々の同僚とともに前人未踏の分野に挑戦する機会を得ました。難行苦行が予想されますが、同士打ちを避け、独断先行を排し、直情経行に走ることなく、互いに短刀直入に話し合っていきたいと思います。どのような成果が出るか興味深々ですが、一生一代の晴れ舞台と思い頑張ります。ヒント・火、載、復、済、到、専、径、単、津、世。
2016.07.09
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〇父が新聞の切抜きを多々遺しておいてくれたので、ガイドやこのブログを書くことに重宝しているのですが、ここで言う切抜きの大きさは横14、5センチ、縦25センチ足らずの紙片ですので、残念なことに日付が不明なのです。どうやら朝日・毎日・読売・日経といった日刊新聞でもなく、娯楽用の日刊紙だろうと推察できる新聞のシリーズもので、劇作家:行友李風さんの「近世遊侠録」の第2弾、「李風聞書 おんなごよみ」(1~12)や、作者名が不詳ながら22項まで続いた「日本をんな艶史」などの新聞切片。先ず「おんなごよみ」の裏面をみると、テレビ番組の紹介欄が辛うじて読み取れます。NHKでは7時半、柳屋金語楼&水の江滝子の「ジェスチュア(小川アナウンサー)」、8時半「お笑い三人組」(江戸屋猫八、貞鳳、小金馬ら)。 当時、民放テレビはまだ黎明期ゆえ、大阪テレビ(OTV)しか無い過渡期でしたから、紹介欄もOTVのみ。 6時15分、「名犬リンチンチン」、7時半「水戸黄門漫遊記(益田キートン)」、「ヒットパレード」、9時15分笠置シヅ子の「雨だれ母さん」などが。 こうして検討するものの、執筆者の行友李風さんは昭和34年に亡くなっておられるので、この「李風聞書 おんなごよみ」はそれ以前と思われます。 一方、「日本艶史」の裏面には、映画館の広告としてグレン・フォードの「誘拐」、「キングソロモン」、「わんわん物語り」。宇治の全国盆踊大会の広告欄には、宝とも子・丘みどりの名前、ほかに山本冨士子・上原謙主演映画「夜の河」など。佐田啓二の「俺は死なない」、ラジオ欄では「全国高校野球選手権大会」を実況しているので真夏の時季。これらから推し測るに、1956(昭和31)年8月21日以降の時代と思われるのでした。
2016.07.08
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〇京都を愛する者にとって、糸へんつまり着物、織物、染めなど和装産業の好・不況には敏感なもの。夏場となりましたので、若い人や外国人に人気のある浴衣について触れてみたいと思います。 ゆかたとはユカタビラの略で、「建武年中行事」を一節をみれば、<御前ゆかたびら召して入らせ給ふ>とあるように、昔の上流貴族は、風呂に入るのに、素っ裸というような行儀の悪い振る舞いはせず、浴衣を着たまま入浴していました。カタビラは単衣の着物を指し、当時は蒸し風呂今で言うならトルコ風呂ですからバスタオルを巻いている感覚に近かったと思われます。近年になって用途が変わり、着易い外出着として定着しつつあります。祇園祭りの囃し方の揃いの浴衣は粋ですし、それを見上げる女性たちの色とりどりの浴衣も、祭り気分を盛り上げて呉れますね。
2016.07.07
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〇琵琶湖畔、草津市烏丸半島の蓮が不作のニュースが先日放映されていましたが、十数年前の日記を見ると、朝から守山市へ向かい、五百円での乗り放題の乗車カードを首から提げ、専用バスに乗り込んでいます。 新聞紙上で案内の通り、池に咲き誇る数万個の蓮の群れは、正しく「彼岸」の世界のようでした。珍しい睡蓮も多々生育して居り、この公園(博物館や水族館)だけで一日楽しく過ごせそうな場所でした。昼食は「鮎鴨亭」。その工場の製造工程もガラス越しに見学できます。その奥にある特設の部屋で、表題の雛人形を見せて頂きました。 京雛のような上品な顔(かんばせ)、受け唇、五人囃子の人形は髪型も表情も左右の目も微妙に変えてあります。御衣裳は、ブルーを基調とした絣風の夏バージョンで、世に珍しいものを見せて貰いました。 妙蓮という珍しい蓮は、蓮というよりも牡丹に似ていました。炎天下の強行軍でしたが、自宅でシャワーを浴びるとその足で、お土産と晩ご飯を母に届けるため、ヘトヘトながら実家にやって来ていたのでした。
2016.07.06
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〇銀行員の頃は外回り、つまり営業部員でもありましたので、遠隔地での車移動の折も、わけて近隣地区担当なら傘を片手に自転車で移動するのですから濡れ鼠になり果てて大弱りでした。ツユは露にかかるとか、ものの腐り易い季節だから「潰ゆ」が語源だとか、或いは梅が熟す、つまり「熟(つ)ゆ」になったという説もあります。この期間はケチケチしないで、時間の経った食べ物は捨ててしまうぐらいの方が健康上ではが安全なのかも。
2016.07.05
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〇永井路子さんの「日本夫婦げんか考」から清少納言を引っ張りだすと、夫の名は橘則光。清少納言より少し上の位の中流官僚で、その出世ぶりは 左衛門尉・・・警視庁の局長クラス 修理亮 ・・・宮中の営繕を司る役の次官 遠江介 ・・・副知事クラスという具合です。彼とは早くに結婚し、男児を設けていますが、同居という形はとって居なかった模様です。 2度目の結婚は彼女が中年過ぎの頃でかなり年上の藤原棟世がその人で、摂津守や山城守を歴任した人物。 或るとき、藤原斉信が清少納言の才女振りに嫌気して、「蘭下花時錦帳下」という白楽天の詩の一節を使いに持たせ寄越しました。この続きは「蘆山雨夜草庵中」なのですが、少し工夫して、「草の庵を誰かたづねん」と添え、 ”そんなことをおっしゃっても、廬山雨・・・の一句をお答する人などおりませんよ”と、とぼけました。その手紙を見て、斎信や周りの公家たちは、”やられた、この女、ただ者じゃないぞ”と感心し、それ以降はすっかり少納言のファンになってしまったということです。 この評判を聞いて、夫の則光は、さっそく彼女の元を訪れ、あの時は俺も傍にいて鼻高々だった、自分の出世より嬉しく感じたと述べています。 この時期、少納言・則光夫婦は少し上の公家たちから”いもうと・せうと(兄)”と呼ばれていたようで、同居しない二人がからかわれていた節があります。 清少納言はその後ますます有名になり、ともすればいろんな貴族が押しかけてきますので、こっそり誰にも告げないで秘密の家に里下がりしていると、斎信さまから「お前は何処へいったのか、せうとなら知っているだろう、教えろ」と迫られ往生したと則光は打ち明けます。この秘密の場所を知っていたのは夫の則光と公卿の藤原経房だけでしたが、経房はその場に居合わせながら知らん顔。経房さまと目が合ったりしたら笑い転げそうで、目の前の若布ばかり、がむしゃらに食べていたよと漏らします。やはり夫婦ですね。
2016.07.04
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〇2003年の7月の終りからこの楽天サイトを無料で拝借し日記を綴っていますが、毎年、この時節になって登場するのは”捩り花”。 ’04年は6月23日に綴っていて、この時母はこの世の人。父の後を追い、’05年、母も鬼籍の人となりました。それから1年間据置期間を経て、’06年5月から全面リフォームに突入。引越し作業が大変でした。何せ狭い向日市のわが家に一部家財を運び入れたのですから・・・。 ’06年7月10日はちょうどリフォームの真っ最中。南面の庭にはまだそこそこ捩り花が生息していたようで、大工さんや工務店の社長にお裾分けしている記事が。 ’07年の6月30日は弧の家に住んでほぼ1年が経過。しかし母が亡くなった余韻も感じられ、捩花のほか、初蝉にも触れています。’08年の7月3日の日記には南の庭では全滅、玄関の前に咲く2、3株の捩花に触れていました。’09年では洋間の前を隈なく探しましたが見つからず、しかし幸いなことに、玄関前の3株はこの年も茎をのばしていた様子を綴っていて、ピンクの小花が螺旋状に巻き上がるのはこれからです。と書いていました。それから7年後、’16年の今年はかなり大きな捩花が咲いています。 去る26日の日曜日、北野天満宮界隈での吟行句会でしたが、上七軒のとあるお宅の玄関先には、1mを超す大ぶりの捩花を見つけ驚いた次第です。
2016.07.03
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〇昨日供えた仏花は、檜扇、捩花、擬宝珠。七月に入っていよいよ京都は祇園祭一色。数年前から昔のように、十七日巡行の祭りと一週間遅れの後の祭りに分けられたので、特に後の祭りはゆっくり見られそうで好感。 さて天皇家を東京に奪われ意気消沈する間もなく、京は都市機能の近代化に最も熱心な町でした。琵琶湖から水を引く疎水を完成させ、日本最初の水力発電を行い、全国に先駆けて市内に電車を走らせました。河原町通や烏丸通の拡張工事を断行し、その目貫通には高島屋や大丸などの百貨店が建ち、商戦を競いました。 娯楽面では新京極を発展させ、モダンボーイやモダンガールが闊歩し、ビアホールやカフェ、ダンスホールも賑わいを見せていました。明治後期になると、今のバスの原型・乗合自動車が七条停車場~堀川中立売~祇園石段下を一区四銭で走ったのでした。
2016.07.02
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〇山村武彦さんが書いて下さった「大震災これなら生き残れる」には、地震対策の要点が理解し易いようにまとめてあります。本文のほかに<防災ひとくちメモ>欄がいくつかあって、これまた大切な知識を添えて下さっています。 ”ハワイと日本が合体する” 現在、ハワイは日本に向かって年間平均六.五センチのスピードで接近し続けているようで、日本との距離は約五千七百キロだから、八千七百七十万年後にはハワイと日本は合体する勘定になるんだとか。地球の裂け目から噴出したマントルが冷えたプレートと呼ばれる厚さ約百キロの二十数枚に分れた岩盤で覆われていて、このマントルが対流に乗って年間数センチずつ移動し続け、隣接する他のプレートに衝突したり、沈み込んだりして相互に影響を与え合っています。五年前の東北大震災もプレート間の歪み、ズレによって起こったものですが、このプレートテクトニクス運動は地球がある限り絶えることなく続くようです。日本列島はユーラシアプレートとオホーツク海プレートの上にあり、その下にハワイをのせた太平洋プレートが年間六.五センチずつ沈み込んでいるようです。これらのプレートの境界で地震が発生している訳で、関東の丹沢や伊豆半島も以前はフィリピンの方にあったのですが、フィリピン海プレートに乗って、日本列島にくっついたと言われているようです。
2016.07.01
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