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〇この世に誕生した音楽は神からのお告げ、戴き物のようなものだと私は思っています。 平成5年から12年ごろにかけて、マッキントッシュを使って楽譜に仕立てる方法でクラシックや演歌、ポップスなど自由気侭に作曲しました。 どのようにして曲が出来るのかと言えば、まるで空耳のように、聞えずして聞えるメロディ。ビートルズの「イエスターデイ」も、ジョン・レノンが翌朝になって、この曲聴いたことがあるかと仲間に尋ね、ノーの返事があったので自分が夜中に作り上げた新曲ということで”yesterday"と名付けられた経緯がありますね。 ベートーベンやショパン、モーツァルトなど天才的音楽家の一部の人には、きっと天からのメロディが耳元で聞えたのではなかろうかと真面目にそう思っています。 ところで、歌い手の殆どが、曲を授かった恩義や初心を忘れ、原曲のリズムを勝手に異なる長さに変えたり、メロディの一部音程を変えることは、神の意図に背くに等しい行為です。 カラオケなどで自分がお気に入りの曲を歌う場合も、最初に感じた感動のまま、聞き手に作詞・作曲者の想いが伝わるよう、私は丁寧に歌うよう心がけています。
2016.12.31
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〇昭和20年半ば頃は、まだ物資が乏しくて、テレビで映る北朝鮮の子供たちのような襤褸をまとっていました。 継ぎ接ぎは当たり前、服もズボンも靴下も、穴が空いたら別の布で継いでいました。 桂に住んでいた頃、ご近所に大きなクリスマス・ツリーを飾る家があって、 わたし達は兎も角、嬉しくって嬉しくって・・・手を繋ぎ、いろんな歌を歌った想い出が・・・。 正月にはお年玉が貰えたり、着るもの全てが新調の服だったり、いつもより華やかなご馳走だったり・・・。 それにも増して、大人の人に遊んで貰えること、みんなでトランプや坊主めくり、カルタ取りなど 終日遊んでいても叱られない自由な時間を貰えることが何よりも嬉しかった。 双六、羽つき、独楽回し、凧揚げ・・・。 12月29日の日暮れには、みんなで口を揃えて歌っていました<あした、明後日、しあさって~~>。
2016.12.30
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〇阪神大震災、東北大震災、今年の大分地震、鳥取地震そして昨日の茨城地震。南海トラフ地震への恐怖をかきたてられますが、千年の古都・京都の地震を調べてみました。827年淳和帝 M6.7 余震翌年まで続いた。887年光孝・宇多帝 南海トラフ内側 M8級 大津波 京では圧死。937年朱雀帝 天慶の大地震。M7.976年円融帝 屋舎・諸仏寺の転倒 M6.7級。1096年堀河帝 東海沖巨大地震 M8級。 東大寺の巨鐘落下。1185年後鳥羽帝 M7.4 法勝寺五重塔壊滅。1317年花園帝 M6.5~7.清水寺出火。1361年後村上帝 M8級 南海トラフ沿岸大地震。1498年後土御門帝 M8級 〃 紀伊・房総津波。1596年後陽成帝 M7.5 伏見城大破。1662年後西帝 比良・花折断層? 江戸でも有感。1830年仁孝帝 M6.5 京都大地震。 二条城本丸大破。御所破損。1854年孝明帝 M7.3 木津川断層、伊賀上野・ 奈良・大和郡山での災害大。1995年今上帝 阪神淡路大震災。活断層直下型。このような記録があります。私はいつも身辺に飲物や災害笛を常備しています。参考図書:黒田正子著「京都の不思議」
2016.12.29
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〇勝海舟の花押は、彼の通称:麟太郎から採っていることには納得が行きます。その海舟の花押と信長のそれとが酷似しています。 花押はそもそも他人から真似されないよう、独自性の表徴として工夫されているのですが、其処には願望や思想も包含されていると学者たちは述べています。 麒麟は空想上の動物ですが、中国思想を参考にすると、至治の世にしか姿を見せない動物とされていたことから、信長もそういう平和な世の中を渇望していたとも思えるのです。 信長、秀吉、家康の花押は大山崎資料館に展示されていますので諳んじているほどですが、源頼朝は別として、足利義詮、義政、義満の将軍は台形のような同じ形をベースしているのが印象的です。 実を言えば、信長の花押は年々変遷していますので全て覚えるのは大変です。斉藤道三の花押は美的だし、武田信玄は背高のっぽ、上杉謙信は軍艦のような恰好です。 六角定頼の花押はまるで小学校の運動場にあるアーチ型の雲梯みたいだし、明治に入って板垣退助、原敬、昭和の吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、三木武夫、福田赳夫という政治家も花押を残しています。参考図書・「花押を読む」佐藤進一著(平凡社)
2016.12.28
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〇一般的には英語に比べて日本語の方がはるかに表現語彙が多いのですが、 ”皮”については、日本語では皮、または革ぐらいしか見あたらず、片や英語では以外に細やかで、 ふわふわした毛皮はfurと言い、なめした皮はleather、なめす前の皮はskinと表現します。 他にhide(人の皮膚や獣の皮)、jacket(動物の毛皮)も。 木の皮はbark、樹木・果物・野菜の表皮はrind、果物の剥いた皮はpeelと言います。 パンやパイの皮はcrust、ソーセージの皮はcasingと意外に多いですね。 日本では牧畜がそれほど盛んでないこと、或いは、獣皮などはけがわらしいものとして忌み嫌っていた所為かも知れません。 中国では皮のほかに、なめす前の皮を革と表し、なめした後の皮を韋として区分しているようです。 毛皮で面白いことを想い出しました。次姉が20年ほど前に懸賞でミンクのコートを当てたのですが、 それに相応しい服や帽子、靴などを揃えることになり、大出費だったと笑っていました。 父は姉の毛皮コートで一句に遺していますした。残念ながら、今その句は思い出せませんが、 娘は眩しミンクのコート五歩譲る 並んで歩くのが気恥ずかしく、こういう雰囲気の句だったように思います。
2016.12.27
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〇今年も押し迫り、昨日は吉田神社界隈での恒例の歳末句会、若干参加者が少ない状態で残念に思いました。前月熊野古道一泊旅行に参加した折の十一句。 熊野路の冬日こぼるる句碑辺り 風を聴く九十九峠の枯尾花 眼下なる雲母kiraraの海や枯尾花 眼下なる海は縮緬返り花 忠敬の見し熊野灘冬はじめ 過疎の地の語らふ人の小春がほ 冬天や熊野風土記を肌で知る 猪荒れてなんじゃもんじゃの土起こし 冬雲の影は綿菓子おむすび山 冬うらら一踏みごとの感謝なる 霧霽れて熊野古道の石の貌当月吟 白障子利休好みの小茶室 白障子卒塔婆小町の黒き肌 対ならぬ靴下の数十二月 大琵琶や望遠レンズ 鳰捉らふ 寸莎壁を晒す農小屋干大根 絣地の御居処oido見事や大根洗ふ 社家なれば白山茶花の映ゆる門 冬枯や會津藩士の深眠り 数へ日や迫る慶弔二重奏こんなところでしょう。
2016.12.26
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〇父すばるが永年新聞記事の切抜きを保存していたこと、 俳人・鈴鹿野風呂翁を親の如く敬愛していたことは既に書いていますが、 コクヨ小さサイズの大学ノートにスクラップしてあるのは、野風呂翁が亡くなる数年前の 京都新聞俳壇欄に残された翁の「選後に」という随想、句評の綴り。 昭和44年の某月間賞には白川狸村さんの句が選ばれています。 狸村さんと言えば五条通にあった金光院での例会の仲間(当時私は学生)。痩身の青白いお顔と長いあご髭が印象的な人でした。 鷹翔くる山を十津川郷士守る 狸村 <(評)十津川は大和から大塔を通り南紀熊野に出る秘境で、今はバスも通じているが、そこには郷士が屯して勤王に尽くした種族が居た。 奥吉野に行けば鷹が鳶のごとく飛翔して初夏には瑞杉の梢に鷹の巣も見られる。そこを昔ながらの十津川郷士の裔が先祖の地を守っていると言う。 鷹翔くるで深山のさまをあらわすに足り、剛直なる十津川野武士の末孫を想定する。 狸村氏は真如堂山内を去来の有力なる一員で、多年船乗りもしたこともあるのに、長髯を撫しての作句思考には風格がある。> <>内は野風呂翁のほぼ原文通りに掲載しました。
2016.12.25
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〇この世に誕生した音楽は神からのお告げ、戴き物のようなものと私は思っています。 平成5年から12年ごろにかけて、マッキントッシュを使って楽譜に仕立てる方法でクラシックや演歌、ポップスなど自由気侭に作曲しました。 どのようにして曲が出来るのかと言えば、まるで空耳のように、聞えずして聞えるメロディ。ビートルズの「イエスターデイ」も、ジョン・レノンが翌朝になって、この曲聴いたことがあるかと仲間に尋ね、ノーの返事があったので自分が夜中に作り上げた新曲として”yesterday"と名付けられた経緯がありますね。 ベートーベンやショパン、モーツァルトなど天才的音楽家の一部の人には、きっと天からのメロディが耳元で聞えたのではなかろうかと真面目にそう思っています。 作曲家は1つの曲を彼なりに一番理想的な表現方法として5線譜に記して残します。この楽譜があるから百年後、五百年後であっても、誰もがその曲を再現することが出来ます。 ところで、歌い手の殆どが、曲を授かった恩義や初心を忘れ、原曲のリズムを勝手に異なる長さに変えたり、メロディの一部音程を変える等は有ってはなりません。 ヒット曲を何千回も歌うことで飽きを覚えても、歌手は作曲家の了解なしに曲想を変えることは慎むべきことと思っています。 カラオケ等で自分がお気に入りの曲を歌う場合、最初に感じた感動を忘れず、原曲通り、聞き手に歌詞の意味が伝わるよう、丁寧に歌うよう心がけています。
2016.12.24
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〇父すばるが永年新聞記事の切り抜きを保存していたこと、俳人・鈴鹿野風呂翁を親の如く敬愛していたことは既にお伝えしていますが、 コクヨ小さサイズの大学ノートにスクラップしてあるのは、野風呂翁が亡くなる数年前の京都新聞俳壇欄に残された翁の「選後に」という随想、句評の綴り。 昭和44年の某月間賞には白川狸村さんの句が選ばれています。 狸村さんと言えば、五条通にある金光院での例会の仲間(当時私は学生)。痩身の青白いお顔と長いあご髭が印象的。 鷹翔くる山を十津川郷士守る 狸村 <(評)十津川は大和から大塔を通り南紀熊野に出る秘境で、今はバスも通じているが、そこには郷士が屯して勤王に尽くした種族が居た。 奥吉野に行けば鷹が鳶のごとく飛翔して初夏には瑞杉の梢に鷹の巣も見られる。 そこを昔ながらの十津川郷士の裔が先祖の地を守っていると言う。 鷹翔くるで深山のさまをあらわすに足り、剛直なる十津川野武士の末孫を想定する。 狸村氏は真如堂山内を去来の有力なる一員で、多年船乗りもしたこともあるのに、長髯を撫しての作句思考には風格がある。> <>内はほぼ野風呂翁の原文通りに掲載しました。
2016.12.24
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〇一般的には英語に比べて日本語の方がはるかに表現語彙が多いのですが、 ”皮”については、日本語では皮、または革ぐらいしか見あたらず、片や英語では以外に細やかで、 ふわふわした毛皮はfurと言い、なめした皮はleather、なめす前の皮はskinと表現します。 ほかにhide(人の皮膚や獣の皮)、jacket(動物の毛皮)も。 木の皮はbark、樹木・果物・野菜の表皮はrind、果物の剥いた皮はpeelと言います。 パンやパイの皮はcrust、ソーセージの皮はcasingと意外に多いですね。 日本では牧畜がそれほど盛んでないこと、或いは、獣皮などはけがわらしいものとして忌み嫌っていた所為かも知れません。 中国では皮のほかに、なめす前の皮を革と表し、なめした後の皮を韋として区分しているようです。 毛皮で面白いことを想い出しました。次姉が20年ほど前に懸賞でミンクのコートを当てたのですが、 それに相応しい服や帽子、靴などを揃えることになり、大出費だったと笑っていました。 父は姉の毛皮コートで一句に遺していますした。残念ながら、今その句は思い出せませんが、 娘は眩しミンクのコート五歩譲る 並んで歩くのが気恥ずかしく、こういう雰囲気の句だったように思います。
2016.12.24
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〇源氏物語が世に出て来年で千年に當る「源氏物語千年紀」に合わせ、二〇〇八年には京都市内ゆかりの地に説明板を四十カ所も設けられました。 主に集中した地域は私にとって懐かしい担当地区なのでした。某銀行千本支店に配属された昭和五十五年秋、先ずは店舗の背中、主税町から中京区職司町辺りの担当。 それから法人外交の折は京都市内や亀岡など。三度目の担当地区換えでは丸太町千本通の北東一帯の地区で、下立売、出水、そして土屋町、浄福寺、黒門などの各通りに囲まれた地域は日々足を運んだ懐かしい地域です。
2016.12.23
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〇藤原定家の日記「明月記」(国宝)の一文に、星座の異変について述べられた件があります。 <寛喜2年(1230)11月8日、客星の事、不審に依り泰俊朝臣に問う。 返事此の如し。暁夕東西の条、驚き余り有り。客星、一昨日夜、露れ現ぜしめ候ひ了んぬ。> 当時は吉凶を占う予兆として星座の異変が取り沙汰されていました。 陰陽師の安倍泰俊に問い合わせ、その返事が来たので、日記に貼り合せています。 驚いた事に、オランダの天文学者J・H・オールト博士の”超新星の爆発”理論と時期的に一致しているのです。 彼の理論を裏付ける資料が、日本の天文学者による英訳の「明月記」のこの記事だった訳です。 オールト博士は第3回の京都賞を受賞。為に昭和62年(1987)に来日、受賞後、冷泉家を訪い「明月記」を見て大いに感激された由。
2016.12.14
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〇清水義範さんの「日本語がもっと面白くなるパズルの本」から方言編の鳴き声から拾ってみました。 下は、ある動物の鳴き声をある地方の方言で言ったもの。それぞれの動物は何でしょう? 1) ちゅーちゅー (徳島県) 2) びょーびょー (長崎県) 3) わしわし (宮崎県) 4) めーめー (青森県上北郡) 5) ぐゆしぐゆし (大分県日田郡) 英語では犬の鳴き声をバウワウと表現することは学校で習いました。日本ではわんわんが一般的ですが、 バウワウでも一応納得できます。長崎県のびょーびょーは、一体どんな耳をしているのだろうかと不思議に思います。 そう言うものの、ある程度の認知があれば、びょーびょーでもわんわんでもばうわうでもOKと言う訳です。 静かな場所を表現する場合、シーンという語を使いますが、ガーンやドーンでは誰も納得しないからサポート零という結果になっちゃいます。 一方、シーンという音などしなくっても、なるほどと皆から思って貰えばこの表現は一般的に通用するのです。 (正解)1 スズメ 2 イヌ 3 セミ 4 ウシ 5 カエル <注、文章は清水義範さんから離れ、私なりに変えて綴っています。>
2016.12.13
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〇日本には古くから徒弟制があって指物師、大工などのメーカーの職人や、一般の商家にあっても、それが雀の涙ほどのお給金であったとしても、 丁稚奉公した者は暖簾分けするまで親方や大店に雇われ、喰う・寝る・住むの3要件が保証されていました。 確かに封建的であったことでしょう。大阪や京都の丁稚などの3食は、朝は味噌汁と漬物と御飯、昼は1品おかずが増え、晩飯は朝と似たような粗食。 紋日(ついたちや10日20日月末、祝日など)にはいつもと違って少しましなご馳走があったとか。 御飯を与えられ、寝る場所も与えられるので職人や丁稚たちは必死に働きました(ご奉公)。近代になっても、この制度に近い状態で日本の会社が経営されていました。 働き蟻とかエコノミックアニマルなどやや侮蔑を含んだ言葉で日本の勤労者と会社制度を評していた欧米が近年、日本の最終雇用制を評価し直し真似た時期もありました。 世界に誇る日本の雇用制度が今や瓦解しつつ有ります。経営者側と労働者側の意思の疎通が図られず、アメリカ風の割り切った対応が日本の経営者に浸透しているとすれば、これは日本そのものの瓦解に意味するものでしょう。私にはその警笛が聞えてきています。
2016.12.12
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〇寒い日が続くこの頃ですが、寒々しい光景を歌った曲と言えば石川さゆりさんの”津軽海峡冬景色”を連想しますね。斉藤茂著「この人この歌」には昭和の流行歌100選・おもしろ秘話が網羅されていて、 「かくれんぼ」でデビューした石川さゆりさんは当時15歳でした。それから3年、ポップス、演歌、叙情歌とチャレンジしたものの低迷の日が続きました。 高校を卒業した時、三木たかし氏と阿久悠氏とのコンビで彼女に365日花模様という12曲のLPを編み出したのだそうです。「花供養」を4月に、そして最終の12月は、詩の最終行に”津軽海峡冬景色”を必ず入れて下さいと三木氏から作詞家の阿久氏に依頼された由。 <この主人公は、上野発の夜行列車に乗るまでにどんなに苦しみ、どんなに迷ったか知れない。連絡船への桟橋に一足かけた瞬間から今日までの過去を全部捨てる、そうしたぎりぎりの女の情念や覚悟というものを、彼女(さゆり)に理解して貰うのに、かなり時間をかけました。>(三木氏談) <・・・それから竜飛岬へ行きました。風というのは横から吹いてくるものじゃなくて、下から吹き上げてくるもの、そして冷たいというよりは痛いものだということを知りました。その風の痛さが、歌の中の”風の音が胸をゆする 泣けとばかりに”の本当の意味を教えてくれたような気がしました>(さゆり談)。
2016.12.11
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〇草食動物に譬えられがちな現代の日本男児、一括りにするには問題がありそうですが、 粋な漢の象徴と言えば江戸職人気質を背ナで語る”半纏”ではないでしょうか。 因縁の振袖に因る振袖火事(明暦年間、死者3~10万人)、八百屋お七火事(天和年間、死者3500人)などに活躍したのは幕府直轄の大名火消しと定火消し。 歌舞伎では「め組の喧嘩」という出し物がありますが、火事現場に駆けつけ火消しを独占したい思いから、火消し同士の喧嘩が絶えませんでした。 気風の良さ、格好の良さ、伝法な言葉づかいなどに小町娘が魂を奪われ、憧れていた様はこんにちのジャニーズ系に群がるギャルと何ら変りませんね。 ”はんてん”は伴纏、絆纏、半纏、伴天、半天、袢纏などと表記しますが、火消しの纏に伴うの意で”伴纏”という字が本家筋。 火消しの半纏のほかに江戸職人が鯔背に纏った半纏も一本気な男の美の象徴と言えます。 置屋、祭り、乾物屋、鳶職、漁師、男衆、待合、米屋、材木屋、 建具屋、荷役、獅子舞、板前、大工、土建屋、料理屋、植木屋など数え切れません。 文字として草書体を使うのは料亭や、待合など花柳界に多いようです。 素材としては木綿が主流。法被が縹や茶色が主体なのに対し、紺やお納戸が多いのが特徴。 普段は嬶ぁ天下に甘んじている世の男どもが法被や半纏を纏う日は、亭主の株は急上昇、この日ばかりは夕餉に銚子が一本増えるとか。
2016.12.10
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〇こんな夢をみました。第一夜 六年生の頃に亡くなった祖父。亡くなってから五十年も過ぎているのに、冷たくベッドに横たえる祖父を見つめながら必死に神仏に拝んでいると、死んだ筈の 祖父の顔の筋肉が少し動き、忽ち、細い目を開き、黒目もはっきり、顔に赤味が差し、祖父が蘇ったという不思議な夢。第二夜 都会で見る数倍もの星の数と見事に尖った三日月を頂く広大な砂漠。美しい目だけを残し、すっぽり顔を覆った頭巾の姫を乗せた駱駝と並行して私も駱駝の背ナ。逃亡しているのか、別天地を指して旅する途中なのかは定かでないにせよ、余りにも鮮明な世界。第三夜 京都市内の、とある場所が何故か私の代で土地所有者となっているらしく、不安を感じて久しぶりにその所有地に臨んだところ、所有者の私には無断で日舞と洋舞をミックスしたような流派の稽古場になって居て、 家主として苦情を言ったところ、先方は平身低頭に詫びを入れていました。店子としての利用は認める代わりに家賃を幾らにしようかと話し合っている最中に目が覚めた。 交渉相手はもう六人目の子を孕んでいながら、うら若い奥さんで、彼女の旦那はおろおろするばかりの男でした。・・・何故、かくも鮮明に物語風の夢を見たのでしょう?
2016.12.09
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〇いつの世も勝者の手で歴史は塗り替えられますので、敗者の霊は浮かばれません。信長公が頭角を表す前、その弟信行を支持し、先見の明を誤っていた柴田勝家は大いに反省し、信長の筆頭家老としての地位を築く過程で、本能寺の変あと、覇権争いで秀吉に敗れ、城に火を放った上、お市の方を刺し、自分は胸の下から臍の下まで断ち切って、五臓六腑を掻き出して果てました。北の庄の名君として人望の厚かった勝家の死後、地名を福井と改めた頃から「柴田忌」には、首のない勝家を筆頭とした数百騎に及ぶ隊列の亡霊がつくも橋を渡って合戦に臨む態に見えたとか。この行列を見た者は数日内に怪死すると伝えられ、唯一行列に向かって「天下の名将、柴田勝家公殿」と叫ぶと難を逃れるという風聞も明治維新前まで続いていたという話。
2016.12.08
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〇昔の人は粋でした。藤原定家選の小倉百人一首の和歌を題材に、<和田の原、漕ぎいでてみれば、久方の、雲井にまがふおきつ志らなみと、法性寺の入道、前のくわんぱく太政大臣よまれたり、さツてもながいお名前ぢや、所詮(しょせん)暮(くれ)には讀めません、まづ春永(はるなが)に。> 落語には「寿限無」と言う長い名前をネタにした噺がありますね。<寿限無 寿限無 ごこうのす~りきれ かいじゃり水魚の すいぎょう松 うんぎょう松 風来松 食う寝るところに 住むところ 油小路 ぶら小路 パイポ パイポの しゅうりんがん しゅうりんがんのぐうりんだい ぐうりんだいの ぽんぽこぴ~ ぽんぽこぴ~の ぽんぽこな~の 長久命の 長助>この落語を男声合唱曲にしたものを、学生時代に歌った記憶があります。コンクールの課題曲や随意曲は、そのご折に触れ鼻歌?で歌っていますので、あまり忘れません。 落語にはもう一つ、長屋に嫁入りして来た公家奉公出の「延陽伯」と言う同じ趣旨の噺があります。
2016.12.07
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〇「東京の職人」(文:清澤一人、写真:大森幹久)、これはこれなりに彩色豊かな楽しい本です。 額縁に始まって、纏(まとい:江戸火消しの象徴)、半纏、押絵羽子板、桐下駄、金槌、剣道武具、つづら(これは黒漆地に朱色の家紋など)、東京銀器、つげ櫛、欄間彫刻、型紙(小紋、友禅、更紗など)、江戸凧、提灯(かなり粋な)、碁盤、鉋(かんな)、すすきみみずく、江戸風鈴(ガラス)、座敷箒、舞踏用和傘、たわし・・・。 いろんなジャンルがありますね。普段何気なく使っている「たわし」、金槌、武具、碁盤の重量感、すすきみみずくも懐かしいな。まだまだありますよ。 歌舞伎衣装刺繍、弓矢、投網、粋な柄の江戸手拭、三味線、江戸小物細工、べっ甲細工、江戸漆芸家具、竹刀、尺八、銅おろし金(大根おろしなど)、江戸絵摺り、釣り忍、檜皮葺、そして時代ものの必需品:鬘(かずら)、つまみ簪(かんざし)、甲冑、和竿、千住絵馬、裁ち鋏、江戸独楽、まだ需要のある木製カメラ、木版彫師、需要の増えている篠笛、色も鮮やかなポチ袋、そして祭りに欠かせない神輿。 此処で逐一紹介できないのは残念ですが、どの職人芸も後継者問題や材料調達上の問題などを抱えながらも、潔い美しさを護って居られます。京の雅(みやび)と江戸の粋の微妙な差異が面白いなぁと感じます。
2016.12.06
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〇亡父は生き字引みたいに何事にも精通していましたが、和菓子は特によく知っていました。新聞の切り抜きやそのファイルに旅先の菓子舗の包装紙なども挟んで残していました。一方母に関しては、真っ赤な”焼き林檎”が、その色合いと香りと甘味を伴って思い出されて参ります。 戦後間もない頃は、甘味料といえば”サッカリン”に決まっていて、それは人工的な甘味で好きにはなれませんでしたが、やがて砂糖が”配給”ではなく、自由に購入できる時代になりました。母の実家は元大阪市助役でしたから、否応なくお歳暮の品が山のようにあって、海苔や砂糖の缶を戴いて帰ったり、また父宛にもデパートの柄の入った大きな円い缶入りの砂糖が届くようになりました。 すると母は子供四人に”焼き林檎”を拵えてくれました。熱くって、甘くって、綺麗な色合いで・・・台所に充ちているのは、切ないような、ケーキ屋さんのような甘酸っぱい香り。ほかほかの焼き林檎には母の愛情がしみこんでいました。もう少し時代が下って豊かな昭和33年頃になると、おやつにはホット・ケーキやたこ焼き、夏にはわらび餅などを子供たちが自分で作って食べました。 もう二度と食べられない母の”焼き林檎”。・・・本日、いずみやでの買い物に、真っ赤な林檎を一つ、仏様のお供え用に買いました。そこから懐かしい母の焼き林檎へと記憶が辿っていったのでしょうね。
2016.12.05
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〇いつの世も勝者の手で歴史は塗り替えられますので、敗者の霊は浮かばれません。信長公が頭角を表す前、その弟信行を支持し、先見の明を誤っていた柴田勝家は大いに反省し、信長の筆頭家老としての地位を築く過程で、本能寺の変あと、覇権争いで秀吉に敗れ、城に火を放った上、お市の方を刺し、自分は胸の下から臍の下まで断ち切って、五臓六腑を掻き出して果てました。北の庄の名君として人望の厚かった勝家の死後、地名を福井と改めた頃から「柴田忌」には、首のない勝家を筆頭とした数百騎に及ぶ隊列の亡霊がつくも橋を渡って合戦に臨む態に見えたとか。この行列を見た者は数日内に怪死すると伝えられ、唯一行列に向かって「天下の名将、柴田勝家公殿」と叫ぶと難を逃れるという風聞も明治維新前まで続いていたという話。
2016.12.04
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〇六波羅蜜寺を建立された空也上人ご生誕千百年の記念行事として、辰の歳に開帳される国宝十一面観音様が、左右の日光・月光菩薩様と同時に一般公開されるのは実に凡そ百年に一度ということでした。 先ず最初に弁財天さまの前に座ったら、ご身体に結んせある紐を通して、こちらの願い事を聞き届けて下さるとのこと。これまで苦労ばかりかけ通しだった傍の家内の幸せを、祈願しました。僧の呪文と共に、何やら不思議な力が身体に入り込んだような気持ちがしました。 さて本堂に参りますと、大きな十一面観音様が中央に立って居られました。直接祈祷しましょうと僧がおっしゃって、私達夫婦を先頭に衆生を集めなさいました。十一面観音様と紐で繋がった状態で願い事を聞いて下さるというのは生まれて初めての経験でした。両手で拝みながら左右の親指を手前に寄せ、重たいバトンのようなモノを挟み、無心で願い事をするのです。 宝物館には、むかし教科書で見た、空也上人の像がありました。口から阿弥陀様が六体出て居られれる、あの有名な像です。ほかにも歴史的にも価値のある品や工芸品などを鑑賞した後、八坂の塔へと歩を運びました。
2016.12.03
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〇渡辺淳一著作の与謝野晶子夫婦の物語に目を通すと、与謝野鉄幹という人物は余り誠意の無い人間だったようで、同時に幾人もの女性を誑taburaかせて居たようでした。まるで自分が業平の生まれ変わりのように、世間を憚ること吹聴していましたし、「星の子」とも称していたようで、私の雅号が「星子」だから、実に迷惑千万な話です。 彼の場合、文学誌の主宰という立場を利用して、嫁入り前の女性に甘い言葉をかけ、晶子たち女性の恋心を掻き立たせ煽っていたようで、その前に同じ方法で得た滝野という妻の実家から金をせびり取り、子を産ませ、約束の婿にはならず、婚姻すら一方的に解消してしまったとか。星の子でも私は、彼ほどの厚顔で世間を渡るという度胸もありませんので、世の姫ぎみよ、安心してこのネットでお付き合い下さい。
2016.12.02
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〇高額ではないにせよ、芸術的なものの蓄え、管理に秀でた父でしたから、没後数年否、十数年経ってもお宝に近いグッズを見つけることがあります。既に書いたのかも知れませんが、A3大のファイルにはこけし柄、紙人形柄、子ども玩具柄などの千代紙が70枚ほど。大正時代の作者らしき婦人の生活図の錦絵が20枚ほど。特に紅色が際立っています。 もう一つのファイル2には、千代紙のほか、値打ちものの浮世絵(美人画、役者絵など)国貞、国輝など本刷りで保存してあります。金は無駄遣いするのではなく、このような芸術品に投資しておくことも、心を豊かにするのでしょうね。
2016.12.01
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