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父の日記に拠れば、昭和18年の当月30日は土曜日で偶然今年と曜日は同じ。会社の同僚と神戸・南京町の肉屋にて牛肉の味噌漬け買うため40分並んで居た様子。百匁(375g)1円45銭のを1.2kgほど購入しています。土曜日なのに4時から会議に出席、その後某中華楼にて夕食を摂り、社に戻って入金伝票に検印。京都への帰宅は10時過ぎ、就寝は11時半。大層寒い日であった由。 翌、31日は雪が降ったり止んだりの空模様で、夜分にはかなり積もったとあります。午前中には支店の懸賞論文を書き終えたあと、前日買った牛肉を親友の新関(一杜)氏など3名にお裾分けしています。分配がてら本屋へ寄り、アルス叢書の「能」と「学生と読書」を買っています。帰宅後ぜんざいに舌鼓を打ち、俳句誌「駒草」への原稿(”含嗽ガンソウ”と題したらしい)を書くものの、俳句を添えたいのに作れなかったのを口惜しく感じたようで、父にも時にはこういう苦しみもあったかと・・・。(付録:駒草がらみの日記ですが、駒草
2010.01.31
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角界がニュースの焦点になっていますね。この日記にも幾度となく書きました。相撲の魅力は武士道をベースにした国技的崇高なスポーツの一つであり、また肉弾戦、或いは技が決まった時の両者のスタイルの美しさに在ると思っています。 わたし達がこどもの頃、テレビが一般家庭に普及し始めた頃の相撲は見ごたえがありました。制限時間いっぱいになると館内の歓声が大きく谺(コダマ)しました。好取組の栃・若(栃錦・若の花)になると全国の人々が仕事の手を休めて魅入るほどの人気、緊迫感がありました。 今の相撲と根本的に違うのは”仕切り”での呼吸合わせです。時間いっぱいになると両力士は塩を撒いた後の立ち振る舞いを相手に合わせる気使いをしていました。今のように、相手を無視して先に土俵に両拳を着けるような無作法はしていませんでした。最後の仕切りだけは、きちんと相手との間合いを合わせながら、そして迷う事なく、両者がぶつかっていました。某親方が声を荒げて注意をする光景を度々見ますが、あれは何の役にもたっていません。武士道・騎士道にそった”正々堂々”の勝負を、もう一度、みっちり教え込むことです。それに従わない力士、明かに相手と呼吸を合わせない力士は相撲を取らせず、強制的にその一番を敗戦者にすること、双方とも呼吸を合わせない場合の取組(一番)は、これも相撲をさせず、その一番は両者とも負け勘定にすること館内のお客様には相撲させなかった取組の分だけ減額の払い戻しを行うこと。このくらいの荒療治をしないと改革はできないと思われます。仕切りがきちんとできれば、角界のいろんな負の問題は解消されるものと信じています。
2010.01.30
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父が蒐集したジャンルの中で場所を取り過ぎて困っているのが”東北こけし”です。大阪の帝塚山に居た頃は、これら”こけし”の殆どは、3棹の整理ダンスに格納されていました。整理ダンスに納まるものと言えば衣服類が相場なのに、わが家では大小さまざまな”こけし”が陣取っていたのです。大阪からこちら長岡京市の新居に移った時から、彼らの住いは、段ボール箱10数個、衣裳缶4ケースに格下げになりました。父の親友T・Nさんも集めて居られたけれど、バブル崩壊前に売りに出されたとかで数百万になったとか? 正月早々、甥がYAHOOオークションに出品して呉れましたが、不景気のどん底に低迷する日本経済ですから買手がつかない状態でした(人気作家のものは高額、それは甥の蒐集が穏当)。買手さえつけば、甥宅へ送れますが、嵩張る代物ですので様子見をしています。妹の親友だった方が某老舗に嫁がれ、そのご主人がこけしファンだったと聞き、近づこうとしましたら、生憎、その親友は既に離婚、別の方と再婚して居られるようで、”万事窮す”??尚、ご参考までに余所さまのサイト。東北の伝統こけし
2010.01.29
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秋田実編「ユーモア辞典」(文春文庫)の中から拾ってみました。「別れた妻なんぞ」 或る男が友人たちの前でしゃべっている。「この前、横町で別れた妻とすれ違ったんだよ。俺は言葉をかけることは無論のこと、振り向きもしなかったがね、あの女は何遍も俺のことを振り返り振り返り見て行きやがったよ」友人たち一同「・・・・・・??」「不可思議な女心」A「どうも女の心理ってものが解らんね」B「どういう部分?」A「男の視線が胸の辺りやヒップに注がれると、いやらしいって軽蔑する癖に、自分たちは、そういう部分を目立たせるようなファッションを選ぶんだから」「伝達」訪問者「本当に支配人は不在なのかね?」取次者「ええ、支配人のお言葉を信じないのですか?」(注 本日のブログは、三題の表題も、文章も出典から大きく変えて綴りました)
2010.01.28
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湯婆と書いて、ゆたんぽと読みます。この日記でも採り上げたように、人気商品になっていますね。昨日の向陽俳句会の兼題が”湯たんぽ”でした。頂戴したのは、 湯婆や亀に見たてて乗ってみる 照子 ゆたんぽや畳紙包む手付きにて 幽泉 ほかの例として 湯たんぽや時の流れをカラフルに 美代子 湯たんぽを幾つも入れし子沢山 静(改) 湯婆を温め客待つ湯治宿 愛子 取り合ひし湯婆そとに蹴散らして 洋花(改)第2回関西現代俳句大会が4月24日に行われます。その募集期限が2月10日に迫りましたので、投句用紙を15人分コピーし、封筒に宛名そして80円切手を貼り付けたものを皆さんに配りました。新聞に発表する作品以外のものを出して下さいとお願いしました。勝手ながらわたしの2句は現代俳句に出句予定ですので、今回は省かせて戴きます。このあと、新年会でした。僅かな費用で愉快に過しました。
2010.01.27
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例年よりも今冬は寒く感じますね。冬の苦手なおりくに妻から毛糸編みの靴下カバー。夜分はなるべく水分を摂らないようにしていますが、それでも1度は夜中にトイレへ。その折、ベッドからトイレのカーペットに辿り着くまでに何度となく冷たい床に足裏が触れます。家内が編んでくれた靴下カバーをじかに履けば、あの不快感がなくなります。 長めのカーディガン(オレンジ色)、頭を包む帽子(茶色と深緑)、そして同色の首巻き。いずれも機械編みに無いふんわり感、温かさが嬉しいグッズです。これで家内に編んで貰った防寒具が豊かになりました。
2010.01.26
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桂米朝師匠の「鹿政談」の枕(導入部分)では三都の名物から話し出されています。三都とは勿論、江戸、京、大坂のことで、江戸の名物と言えば、武士にかつお、大名故事・小路(?)、生いわしにむらさき、茶店、火消しに錦絵。京都の名物は、水菜・壬生菜、をんなに羽二重、みすや針(三條本家)、寺に織屋、人形に焼き物。大坂に参りますと、橋に船、お城に芝居に米相場、そうか(?)、揚屋、植木屋。そうか(とうか?)とは身をひさぐ女性のことのようです。さらに歩を進めて奈良の名物はと言えば、大仏、鹿の鳴き、筆、あられ酒に春日灯篭に町の早起き。大仏観るものにして尊ばずというように、初めてみた時の感動だけで、拝むことを忘れがち。熊野の鯨が大仏さんと背くらべしたらクジラが勝った。その訳は金(尺)とくじら(尺)では2寸ちがう。或る馬鹿な男が傘をさして大仏さんの中身を散策、丁度、鼻に来たところでどすんと落ちた。その訳は、嵩が鼻に廻ったら鼻が落ちると言って、梅毒の終期の症状だったようです。江戸や明治時代のことを探るにしても、インターネットでは難しいご時世になって来たようです。
2010.01.25
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先日、樋口一葉はヘビースモーカーであったとブログに書きましたが、その出所は、掌に乗るほど小さな冊子(旧日本専売公社)から拾った情報です。一葉は小説を書く時は必ずタバコを手元に置き、”朱らお”のキセルで一服吸いつけてはペンを走らせ、行き詰ると亦一服。その証拠に一葉の作品には、たばこの場面がよく出て来るのです。高級官吏に見染められて貧家から嫁に来たものの、周囲の冷たい眼に身の置き所のない若妻の嘆きを描いた「十三夜」には、<煙にまぎらすたばこ二、三服から咳こんこんとして、涙をじゅばんの袖に隠しぬ>という女将の表現。「にごりえ」にはお力という女性に触れて、<胸くつろげてたばこすぱすぱ、立ちひざの無作法さもとがめる人のなきこそよけれ>と綴っています。登場人物の性格をたばこを吸うしぐさひとつで、見事に描写されているのも、彼女が愛煙家だったからこそと言えるでしょう。余談ながらたばこポスター百年史によれば、昭和30年代は有馬稲子、33年:司葉子、34年:池内淳子、39年:佐久間良子、40年代には浅丘ルリ子、池内淳子、浜美枝、大空真弓、江波杏子など懐かしい女優さんがずらり。
2010.01.24
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京都に隣接する大阪府三島郡島本町の広瀬遺跡を発掘していたら、後鳥羽上皇が造営された水無瀬離宮跡とみられる大型建物跡が見つかったと発表されました。宅地開発にさきがける今回の発掘により、人工的に作られた石敷きと側溝、剣頭文様や巴文様の瓦を発見。私たち”大山崎ふるさとガイドの会”のガイドでは、資料館に後鳥羽院のお手紙などを常設展示していますので、こういう新しいニュースは嬉しい限りです。後鳥羽上皇のご才気と短所も存知申し上げる私にとって、後鳥羽院は非常に近しい御方ですので、新たなニュースは大歓迎なのです。 最近、大山崎の観光ガイドコースに新たに増えたものは”淀川辺の散策コース”で、天王山山頂登山コース、中腹の山麓コースとは異なり、淀川の堤沿いを歩きながら、光秀本陣跡を経てサントリービール京都工場へとお連れしています。菜の花に似た野生の”からし菜”が堤防を埋め、山手を望めば満開の桜のピンク色、その色合が綺麗です。 菜の花や月は東に日は西に 蕪村男山から対岸の天王山を眺望した折に、蕪村を捉えた景色とも伝えられています。
2010.01.23
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まだ学校へ上る前だったろう、頭の片隅にあるのは鋳掛屋さん。鍋・薬缶の漏れを直すのが本業ですが、それだけに留まらず、傘の修繕、鋏・包丁の研ぎ、鋸の目立てまで、何でもござれ。鍋の穴は白目という特殊な金属で上手に塞いで下さいます。白目は白鑞とも書き、銅と亜鉛の合金で、シルクハットのような型をしていたような記憶があります。鋳掛屋のおじさんは風采はあがりませんが、表情に独特の味わいがあって、修繕の手際の良さは天下一品。いつまで見ていても、その段取りの良さ、手捌きの良さに感心していました。大正・昭和初期の日本人はものを大切に使っていたように思います。景気の悪い、こういう時期、ふと鋳掛屋さんのことを思い出しました。
2010.01.22
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今頃になって初夢の話など変ですが、ひょっとしたら今年の初夢は”喫煙”している自分に驚いている、そんな内容だったような・・・。去年の10月17日にくも膜下出血で緊急入院、4日後に亡くなった南田洋子さんのご主人である俳優長門裕之さんのタバコに寄せた文章によれば、大学入学の初日に喫煙を始められ、役者になってから本格的に吸い出したとか。それは役者には”手の芝居”があって、演技中、手のおさまり場所が難しい場合、たばこを使うのが一番安易な方法だと述べていらっしゃる。たばこに頼り切るようになると1日に3箱まで増えた時もあったとか。 わたしも思考をまとめようとする時、たばこを燻らせると頭の回転が良くなったような・・・。健康上、たばこは百害あって一利なしという正論が罷り通り、止む無く何度か禁煙を試みましたが、昔は何度も何度も喫煙している夢を見ました。それで、スナック等、アルコールを口にする場所では、つい、友人から1本貰い受けると、途端に逆もどり。自己嫌悪に近い心境に苛まれること、屡(シバシバ)でしたが、もう2年余り禁煙をキープしています。それは喫煙の夢を見ることが久しく無かったからかも知れないし、スナックへ行っても手持ち無沙汰ではなくなったから。この儘、きっと大丈夫でしょうが・・・。あっ そうそう余談ながら、樋口一葉はヘビースモーカーだった由。
2010.01.21
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今朝の京都新聞の番組紹介コーナーには、昨年12月、テレビ朝日系で放映されたM-1決勝で、”笑い飯”の「鳥人」というネタ。頭が鳥で身体が人間という荒唐無稽な出し物で、島田伸介氏が満点をつけたほどの出来映え。わが家でも家内とふたりして大笑いさせていただいた記憶があります。 ところで、年末の吟行で訪(オトナ)った上賀茂地区や昨日行った青蓮院界隈の山麓、そしてわが家の庭にも赤い実が目につきます。四条川端バス停にある”檀(マユミ)の実”、東山地区でみつけた”多羅葉の実”、庭やトイレに飾っている”万両の実”、万両の実は葉の下にぶら下がりますが、葉の上にややオレンジ色した”千両の実”、そして伏見は五百羅漢で有名な石峰寺にある”南天の実”。切ないほどの赤味を彩るこれらの赤い実に目が吸い寄せられ、まるで鳥になったかのような季節です。 大寒や紅き実ばかり鳥の目に(参考までに他人様のブログを無断拝借 沢山載せていらっしゃいます)http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-n-MIaka.htm
2010.01.20
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小説家佐藤愛子さんの異母兄で、童謡”ちいさい秋みつけた”や歌謡曲”長崎の鐘””二人は若い””あゝそれなのに”、数え切れないほどの校歌など多くの作品を残されたサトウ・ハチロー氏に掲題のような花柳界をテーマにした詩集があります。「小唄と絵」(内外社、昭和6年)がそれで、清水三重三さんの挿絵があってつやっぽい本です。 おもひがかなつておもひがかなつて 紅てがらごはんじたくや 拭掃除あぶない手つきの 針仕事 みやげを待てよと やさしくも 朝に出かけた そのあとも 気のやるせなさ もどかしさ思ひのたけを あらはせて半襟さへも 幅広に出してゐたのは すぎし夢 いまはきつちり 襟あはせ ほそめにほんのり うすあづき 色さへじみな しとやかさひとり帰りを 待ちわびていくどと立つ 門先の暮れゆく空に 雁の声最後のフレーズなどは俳句的技巧ですね。
2010.01.19
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見所いっぱいの全国女子駅伝ていどの表題から、季語を入れて十七文字に。岡山県の皆さま、初優勝おめでとう御座います。ここ5年間は5、4、2、3、2と優勝を目前に、地元京都に躱(カワ)されて来た悔しさをバネとして練習して来られた成果が花開きました。 毎年わたしは都大路を駆け抜けるこの女子駅伝を愉しみにしている者の一人ですが、地元の京都新聞には事前に特集が組まれますので、それらの情報、ニュースを切抜き、当日直前に優勝チームほか10位ぐらいに入るチームの予測をしています。北海道から沖縄まで、都道府県別、区間ごとの一覧表がありますので、そこへ順位を赤書きしています。予め有力選手には色を変えて記(シルシ)をしていますので、個人の成果も楽しみの一つにしています。今回特に嬉しく思ったことは、いつも華やかな京都の陰に隠れていた”滋賀県”勢の大活躍、6、4、19、9、10、11、11、15、そして12位と健闘。下位チームは有力選手の区間のみ好順位、ともすればその後は元の木阿弥になる傾向が一般的ですが、今回の滋賀県は4区の竹中さんが区間1位の木崎(大阪)に次ぐ2位で順位を戻し、その後のメンバーがこれを死守した団結への思いに拍手を贈りたいと思います。
2010.01.18
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もう十年ひと昔になりますが、尊敬する句兄から戴いた句集の名が「姫はじめ」だったので驚いた記憶が生々しく現在に至っていますが、興津要氏の「おもしろ雑学日本語」によれば、江戸時代の暦には、正月2日に”姫はじめ”と記されていて、いろいろな事柄を初めて行う日とされているようです。釜で炊いたやわらかい”ひめ飯”を初めて食べる日であるとか、台所で炊事を始める”火水(ヒミ)始め”の日だとか、女子が裁縫を始める”姫はじめ”の日であるとか、馬に初めて乗る”飛馬始め”であるとか、太陽を初めて拝する”日見始め”の日であるとか、その年初めての男女の睦ごと”密事始め”など数知れないほどです。そこでこんな川柳が やかましやするにして置け姫はじめ
2010.01.17
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月曜日には初稿への誤字訂正やフォームの変更、追加原稿を添えて印刷会社に届けなくてはなりませんが、気分転換のため、昼過ぎから銀行員時代の混声合唱団の練習に出かけます。 本日の話題を何にしようかと迷っていたところ、5年前の正月7日の日記では、女将修行中さんご夫婦の旅に触れ、向日市の図書館で借りた”漱石”に関する本を紹介していました。漱石の書画美術5年も経てしまうと、昔の日記など霧散してしまい、その内容なんぞすっかり忘れ切っています。漱石と”大山崎山荘”、そしてその縁を取り持ったのが祇園の女将”磯田多佳”までは今でも諳んじているのですが、漱石が初めて教師になった時、”耳なし芳一”や”雪女”で有名なラフカディオ・ハーンつまり小泉八雲の後任だったとは、今、改めて驚いています。 このブログは大したものではありませんが、いずれにせよ、5年前の日記の方が少し読み応えがあるのかも??
2010.01.16
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時事的なこと、日常的なことは新聞やテレビを介して吸収しますが、私が新聞紙上で大切に読む欄と言えば、地域版と歴史・文化に触れている紙面です。京都新聞の地域欄に掲載されている「中村武生さんとあるく洛中洛外」は親近感の持てる内容です。本日の内容は中京区(その4)で、龍馬など勤王志士に関わる”池田屋跡”は観光地図に載っているのに、秀吉に翻弄された豊臣秀次公墓のある瑞泉寺は記されておらず、それでも瑞泉寺前の碑でその存在を知ることが出来ます。東洞院六角に住んでいた三宅安兵衛という豪商が死に際して息子清治郎に、”恩ある京都の公利公益に使え”と遺した1万円。それに清治郎自身が蓄えた金も足して、京都府南部の400カ所に道標や史跡碑を建てたようです。この資金は現在の凡そ1億円に相当します。碑を建てることによって其処は大切な場所になり、遺跡破壊を防ぐ広義の文化財保護活動とも換言できそうですね。三宅親子らを含めた建碑の行いは、突き詰めて考えると文化財保護のみならず、一つの功徳、宗教的な行いでもあったようです。
2010.01.15
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正月6日に墓参りを済ませましたが、わたしは長男なので家に仏壇があります。ご先祖さまをお守りするのは大変でも何でもありません。むしろ毎日親、祖父母などと会話しますので、大いに得します。夫婦の会話や家族との会話の中にご先祖さまが多々登場なさいます。 さて新年の本部例会は10日でしたが、この日は毎年、野風呂翁の墓前にお参りしてから会場に入ります。わが家の仏前、そして野風呂翁の墓前に拝したことがプラスしたのでしょうか、新年早々、特選7句の中に選んで貰いました。先日、祇園二軒茶屋で戴いた小冊子の写真をヒントにした句 洛中は小地蔵あまた松の内京都市内を縦横に走る道路に面する町屋の一角に、或いは会社であってもタイル張りの壁を刳り抜いた空間に祀られているお地蔵さまなど、小さな地蔵さんの祠が至るところで見受けられますね。
2010.01.14
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「三丁目の夕日」以来、昭和グッズへの憧憬が募り、今や昭和ブームが商店街やデパートにも押し寄せています。今朝の番組では松坂屋では往時の「お子様ランチ」が復活、これは大人も注文可とか。また昔のエレベーター嬢の制服展示などを紹介していました。 「よ~いどん」という番組その他でも、商店街の復活にむけ、商店主・商工会議所・行政が三位一体となって、昭和の良き時代へのタイムスリップを図り、年間33万人もの集客に成功している話題を映していました。市場やアーケードにおいて数軒のシャッターが閉じたままの歯抜け状態ほど侘しい光景はありませんね。今や、値下げに拘っていないで、それ以外のスキンシップ的なサービスが求められる時代になっているようです。現に家内の実家近く、大阪は東住吉区の駒川商店街では、スーパーの方が太刀打ちできず追いやられるという現象がここ何年も続いているようです。観光地の土産物展にせよ、アーケード商店街にせよ、一軒もの落伍者を出さないよう、歯抜けにならないよう、みんなでお互いを護る草食動物の円陣のような防御体制と新しい試みへの弛まぬ努力が求められるところです。
2010.01.13
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昭和17年度の”當用日記”の1頁は、七曜表があって皇紀2602年西暦1942年とあります。2頁の略暦には明治元年以来75年とか大正元年来31年とか記してあり、元旦の四方拝、3日の元始祭、5日の新年宴会、2月11日の紀元節、3月21日の春季皇霊祭、4月3日の神武天皇祭など聞きなれない行事がいっぱい書かれています。また第87代四條天皇700年式年祭、122代明治天皇30年、52代嵯峨天皇1100年、第84代順徳天皇700年の式年祭という節目でもありました。当時から東西大学ラグビーその他の新春スポーツが元日から開催され、初荷は2日、東では6日西では14日に門松撤去とあります。日記末尾の付録には歴世年號表があって、わたし達の祖父母・父母が暗記させられた年号がずらり。主な山岳・河川・湖沼・峠など。面白いのは高層建築物が挙げてあり埼玉の川口放送塔などの鉄塔や煙突、京都の東寺塔、名古屋及び大阪城の天守閣、東京三越本店塔、大阪朝日新聞社航空標識塔など。当時内地の人口は73百万人。海外在留人が176万人。その他多岐に亘って懇切丁寧に記されていますが、怖いなと思ったのは、最終頁の徴兵適齢表、17年度の徴兵適齢者は大正10年12月2日~11年12月1日生まれとの表示でした。
2010.01.12
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源氏物語の”鈴虫の巻”に<花づくゑのおほひなど、をかしきめぞめもなつかしうきよらなるにほひそめつけられたる心ばえ、めなれぬさまなり>とあるように、絞り染めは、舞妓さんの”割れしのぶ”で解るように実に愛らしいものです。鹿の子は文字通り、小鹿の背の斑模様に似ているところから言われ、「京鹿子娘道成寺」という演目は、その名だけでも華やかな舞踊が推測できます。絞染めの歴史は古く、インドから中国を経て伝えられ、平安時代には鹿の子絞が京の都で行われていたので”京鹿の子”と呼ばれたようです。江戸時代には飛鹿子、匹田鹿子、黄返し藍鹿子、小太夫鹿の子などが大流行。総鹿子絞の着物は庶民には贅沢品として禁止されていました。 一方鹿子絞に似た花として京鹿子草があります。父の時代にはこの庭に咲いていました。一旦枯れたので義兄から立派な京鹿子草を貰いましたが、リフォーム増築の折、再び枯らせて仕舞いました。線香花火のような、かそけなく愛らしい鹿の子模様に咲く花は、俳句結社の名前になっています。
2010.01.11
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京都高島屋では今、「竹久夢二展」を25日まで開催しています。”大正ロマン漂う独自の情感をたたえた美人画で世界を一世を風靡し、明治・大正・昭和を駆け抜けた竹久夢二”と栞には銘打っています。”書籍の装丁や生活用品のデザイン、グラフィックアートの先駆者として画期的な役割を遺した夢二”。彼の作品は多岐に亘っている所為か、今回の出品数の多さに先ず驚きました。父が沢山遺してくれた夢二に関する美術書や限定部数の本の中で見慣れた作品の原画や本物に接することができて幸せでした。
2010.01.10
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朝食の洗い物をしていると、家内が「ほらっ 此処行ったでしょ」と同意を求めるのです。デジタル8「にじいろ」という番組で、漫才コンビのひげ男爵が細身の老婦人と30代後半のお嫁さんにインタビューしているところでした。ふくろうをモチーフにした陶器店「唐橋焼窯元」が映っていたのでした。随分前に、この日記でも一部採り上げていたことを思い出し、あれはいつの季節だったかなぁ~と家内の記憶を参考にします。やや寒い時期で”近江八景”を尋ねて、紅葉を見たような気がするというので、秋を中心にこの日記から探しましたが容易に見つからず、カテゴリー<京の街の風物詩>を遡ってようやく見つけました。http://plaza.rakuten.co.jp/oriku2/diary/200403050000/あの時から既に6年ほど経っており、当時はお嫁さんは居なかったことになります。放映をご覧になった方には届いたことと思いますが、本当に仲の良い”嫁・姑”。嫁いで来て3年ほどなのに、店の飾り付けなどを一切嫁に任せる姑さんの心の広さ、それに感謝し、舅・姑・婿殿を敬愛して止まないお嫁さんの素直さ。次のコーナーでは、”嫁・姑”ふたり揃って大変身。綺麗な衣裳と綺麗なメイクを施して貰って、見違えるほど若々しい二人の女性。この店のご主人は思わず老妻を抱きしめられ、小学低学年の孫が瞳をらんらんと輝かせて老夫婦と両親を見つめていた一家の和やかな画像が印象的でした。付録)直ぐにそのブログへ2004年3月5日の日記石山寺「至誠庵」「唐橋焼窯元」
2010.01.09
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昭和10年2月、日本文学社から発刊された「俳句選釈」は、頴原退蔵氏と鈴鹿登氏(野風呂翁の本名)の共著になる書物で、俳諧の歴史(貞門、檀林、蕉風先駆、蕉風時代)については頴原氏が、蕪村の句評釈を鈴鹿氏が記述しておられます。その書に拠れば、連歌の起源を遡ると、日本武尊が甲斐の酒折宮で火燒翁と唱和されたのが当初らしいのですが、平安時代には一時の余興的な詞遊びとして行われていた模様で、あの和泉式部が下鴨神社に詣でた際、足を草鞋に摺られ痛かったので紙を巻いていたのを神主忠頼が ちはやぶるかみ(神、紙)をば 足にまく物かと囃したてれば、和泉式部がすかさず続け、 これをぞしものやしろとは言ふまた頼経・公資の二人のやりとりに 桃園の桃のはなこそ咲きにけれ 梅津のうめは散りやしぬらむこのように滑稽問答に近いものだったようです。 ところが後鳥羽天皇の頃から漢詩の聯句などの影響で、2句どまりにせず、数10句に亘って続けるようになり、その後50、100句という連歌の形になっていったようです。定家・家隆といった当時の歌壇の名匠たちも好んで連歌を楽しんだようです。これにいろんな規則、形式を決めた幾分真面目な連歌の時代(莵玖波集)を経て、山崎宗鑑らの、奔放にして自由闊達な作風が再び勃興、”犬筑波集”となり、それから更に風雅な味わいを基礎とする蕉風時代へと移り、今ン日の俳句へと繋がるのですが、最近、個性を尊ぶ余り、主観・感覚に走り過ぎる風潮が流行っているようです。
2010.01.08
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5日に月刊俳句誌の初稿を持参しましたので、数日フリー。で、先ずはご先祖さまへの初墓参り。大丸で購入したお寺さんへの菓子折を提げ、家内と徒歩で”本覚寺”へ。本家、分家など4カ所で手を合せ、京都駅までぶらぶら歩くことに。本覚寺同様、塩焼きを愉しんだ風流人:源融の屋敷跡「河原院跡」の敷地内にある”新善光寺(来迎堂)”は、善光寺創建の本田善光の息子:義助が長野の善光寺さんの本尊を分祠した阿弥陀如来を本尊として堀川松原に建てたもの。秀吉によって、本覚寺などと一緒に富小路五条下ル本塩竈町に移されました。余談ながら、新善光寺は全国に沢山あります。次に”市比売神社”に寄り、娘の良縁を祈願。しばらく南下すると”文子天満宮”を発見しました。天満宮の起源とも言うべきお社には菅原道真公が大宰府へ赴任される時に、いっとき坐られたという伝説の石”腰掛石”が”かくれみの”という樹木の下にありました。大山崎から三島郡へ下る山崎町、サントリーウイスキー蒸留所へ行くまでの西国街道沿いにも菅公の”腰掛石”が残っています。 散歩の話はこの辺でとどめ、10日が家内の誕生日ですので事前にプレゼントの品を伊勢丹にて一緒に探しました。現在、家内は白色の財布を使っているのですが、それ以前の黄系統の財布から、この白色に変えて以来、懸賞の當り具合が下火になっていますので、今回は元を担いで、もとの黄色を選びました。軽くって使い易そう。家内の誕生日を忘れてなくって本当に良かった。プレゼントできて良かった♪
2010.01.07
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万葉集巻頭を飾る雄略天皇の求婚の御歌から若菜を摘む慣習が始まったとされますが、宮中でも内膳司がその年の七種(ナナクサ)の新菜を羹(アツモノ)として献上しました。この行事は中国から伝えられ、万病を除くといわれ、不老長寿を祈念するものでした。七草粥の源となる慣いで、芹、なづな、すずな、すずしろ、仏の座、御行、はこべら。 我が家ではワン・セット二百五十円もするものは買わないで、専ら庭に生えているハコベや元日の雑煮に使った細大根、人参や葱、白菜など七種類の菜で対処するようになっています。本日の晩、俎板に火箸、包丁を寝かせ、そのそばに湯掻いた七草を並べ、 とんとの鳥が、 日本の土地へ 渡らぬさきに 七草なずな 七草薺 七草なずなと囃しながら、擂粉木で俎板を叩きます。家族みんなでこのお祓いを済ませ、翌朝家内が七草粥にしてくれたものを戴きます。ご参考までに城南宮さんの2月の行事を。
2010.01.06
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桂に居た時分、妹が家で生まれた。近所に住んで居たお祖母ちゃんの大活躍の日でした。お湯を一杯沸かし盥(たらい)にそれを何杯も注ぎ足します。水を足して二の腕まで浸けて湯加減をみていました。出産の現場は男子禁制。やがてオギャ~と威勢の良い産声が聞こえたかと思うと、ガーゼに包(クル)まれた赤黒い赤ちゃんの初湯です。生まれたての赤ん坊と言えば、猿のような皺くちゃな顔にお臍が飛び出て居て何とも不可解な生きものに見えたのでした。・・・やがて赤ちゃんと並んで寝た母の顔は大きな仕事を済ませた安堵感に満ちていました。歳が離れていましたので、人(ニン)気を攫(サラ)うこの赤ん坊には嫉妬を感じないで、可愛がって居たのだろうと思います。 ご近所に堀井さんのお婆ちゃんが独り住んでいらして、その家の二階には日の差し込まない倉庫部屋が有りました。次姉と二人してその部屋に夥しく残してあったレッテルを貰って来ました。何かの商品の商標だったに違いなく、子供の目には色鮮やかなそのレッテルが宝物に思え、何枚も集めていました。飴やキャラメルの包装紙も皺を伸ばして保存していました。 父の青春時代の日記を紐解けば古き昭和の香りがしますが、このように、わが幼年期の思い出の一コマを綴ってみても、同様に、貧しい戦後が甦って来るのです。
2010.01.05
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京大三高俳句の機関紙として発刊されていた「京鹿子」誌が野風呂翁の個人誌に改組されたのを機に、新たに「京大俳句」が昭和8年1月に発刊されました。爾来昭和15年の大量検挙事件を境に廃刊。最近復活準備委員会が活動しているようですが、わが家の段ボール箱の1つを開けた中から、1冊のノート。それは、昭和6年5月16日に発足された「青葉会」なる句会の誕生から2年後の19回までの句会の記録簿でした。飯田、大浦、大橋、斉藤、篠村、向井(彼は爾来ずっと父の親友)そして父の7名にて発足。会の名前を決めるのに、11もの案に対し、4回の投票を行い「青葉会」にて決着。開催回数も投票で月3回。第1回の句会での昴(当時は漢字を使っていました) つばくらめ窓よこぎれり青葉濃き 昴この日の優勝は大浦氏と思われます。 常盤樹を押し払ひたつ若葉哉 迫緑(?)この日の費用は、菓子代75銭、珈琲代25銭。第2回目は吟行で”立木山”午前8時45分京都駅集合、石山から徒歩、粟津渡船にて南郷へ。正午に立木観音堂に到着。 老鶯の声さへぎりて蝉のなく 向井 たんぽぽのまぢる芝生の柔らかみ 白崎6人総句数45句の中、新加入の白崎氏の優勝。費用:電車賃1円44銭、船賃96銭、湯茶10銭、茶店1円、汽船・車賃3円計6円50銭。父は第4回目の例会(当時は運座と表現)にて初優勝。またこの記録ノートは持回り制で、いろんな人物が記入しています。この青葉句会はもう一つの京大俳句とも言えましょう。
2010.01.04
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日常”合点が行く”とか”合点できない”とか言いますが、角川の国語中辞典(時折誠記・吉田精一共編)で調べると、1)承知・了解・承認することとあり、2)和歌などの良いものに印として点をつけることとなっています。広辞苑の電子辞書では、上の2)が1番目に挙げられ、和歌などを批評して佳いものに点・丸・鉤などの印(シルシ)を付すこと2)回状などで承知の意を表すために、自分の名の肩に印を付すこと3)承知。承諾。うなずくこと。がてん。4)納得。得心。がてんとあります。「おもしろ雑学日本語」(興津要著)によれば、 寝とぼけ「たれじゃたれじゃ」と、とがむれば、「おれじゃ。あけてたも」と言う。「はて、合点のゆかぬ。おれは、ここにいるが」(出典、天明3年正月序「夜明烏」) 表にいる人物が、自分のことを<おれ>と言うのは当然だが、室内の寝ぼけた<おれ>には一瞬<合点のゆかぬおれ>だった。おまけですが、和歌や俳諧から出たことばに<けりをつける>もあります。”逢ひ見ての後の心に比ぶれば昔は物を思はざりけり”(権中納言敦忠)や”磯千鳥足をぬらして遊びけり”(蕪村)というように、助動詞<けり>で終わる和歌や俳句が多いことから、終わりにする、決着をつける意味で、<けりをつける。と言うようになったとさ。(皆様にお願い)わたしの所属するボランティア・ガイド大山崎ふるさとガイドの会は毎月内容を更新しています。特に行事などを載せている歳時記欄をご覧下さい
2010.01.03
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きのうの続きで、長女の発案で一家4人、先ずは目と鼻の先にある長岡天満宮へ御参り。長蛇の列は本殿前から石段を鍵の字に曲がり、霧島ツツジの橋近くまで延々伸びています。わが家の本当の氏神は天満宮に非ず、小倉神社である旨こども達に告げますと、今年のテーマに沿うので歩こうという話になり、天満宮様は石段を上った辺りで拝み、4人歩調を合わせ、家の近くを横切り、円明寺団地を経由して小倉神社に到着。小倉神社は延喜式に並べられる古き神社で、向日神社同様、勤王志士たちの隠れ社でもありました。こちらも列になっていますが、程よい人数で、本殿前では、大きな株を燃やしていました。恭(ウヤウヤ)しく金一封を賽銭箱に納める方もあったりで実に和やかな初詣風景。2拝2珀1礼のあと、おみくじを買いました。付録に小さな飾りがあって長女は金色の鳩、家内は銀色の四葉クローバー、わたしは金の桃。説明書に拠ると、このおみくじは金と銀、各8種類(巾着、クローバー、貝、馬、鳩、桃、鍵、扇)の縁起物が1個ずつ納めてあって、金は陽性であって輝く太陽の如く明るく活動的。銀は陰性で太陽の光を受け静かに照らす月の如く、守りを表しています。長女の鳩は幸福到来・交通安全、家内のクローバーは幸福到来・身体健全、わたしの桃は災難消徐・子孫繁栄<桃は邪気を祓い、生命力強く、繁殖力旺盛な事から子孫繁栄>因みに、巾着=金運招来・商売繁盛、貝=良縁成就・夫婦円満、馬=出世開運・商売繁盛、鍵=開運招福・学業成就、扇=開運招福・芸能上達。どれもこれも良いものばかり。わたしの御籤そのものは”吉”。文面
2010.01.02
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明けましておめでとうございます 一年の計は元旦に有りと申しますが、ここ数年、いや、もう数十年、否、テレビがお茶の間のメインになった頃から、わたし達は時間に追われる生活にどっぷり嵌っています。昔は現在に比べて何かにつけて不便でした。時間がかかり過ぎました。その代り、一日一日の記憶が現在よりも豊かだったのではないでしょうか。Aという地点からBという地点まで、てくてく歩いて行くことが今よりも多かった分、地上の景色や空の色、風の肌触り、光の明暗・強弱というものを頭脳に記憶していたのではないでしょうか。江戸時代の人々は何処に行くのも自分の足に頼らざるをえませんでしたが、その分、時間を贅沢に使うことができました。現在のわたし達は、時間刻み、いえ、分刻み、否、職場によっては秒刻みの仕事や娯楽をしています。その代り、後のち思い出せることが少ないのではないでしょうか。考えてみますと、記憶に残っていることは時間をゆっくり使った旅の思い出、家族一日たっぷり使ったお出掛けの様子、諸々の練習など、時間を存分に要した行いではなかったでしょうか。 老い先短いことを考えますと今年から時間を贅沢に消費することをベースに、便利なものに頼らないで、歩くことを優先したり、家に在っては便利な電子辞書を避け、分厚い辞典・辞書を引いてみようと思っています。
2010.01.01
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