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奴隷とか奴隷根性などと書きましたが却って要らざる誤解を招く結果になったかもしれない。そんな風に思ったものですから、しつこい様ですが再び・三度と解説をいたします。実は、今回のタイトルにも表記したように私達現代人はその大半が「自らに由っていない」囚われ人だというのが私・草加の爺の主張なのです。迷信にとらわれ、風評に左右され、マンモン ― 現代の唯一の神・金銭に支配され己の本分を忘れ去っている「愚か者」がそれと意識しないで「アッケラカンと」毎日を送っている。自分こそはそんな馬鹿・阿呆とは全く無縁、とお気楽に考えておいでの貴方・貴女。そうです、あなた方こそ私の鋭い(?)舌鋒のまさしき標的なのですから、ご用心あれ!迷信とは無知蒙昧と考えられている大昔の人々ではなく、万物の霊長を気取り合理精神の権化を自認している私達・現代人こそが無数のそれに鼻先を掴まれて右往左往させられている犠牲者なのだ、と申し上げたいのです。クレグレも誤解の無いようにおねがいします。現代こそは様々な迷信が幅を利かし、跳梁跋扈している時代に典型なのでして、遥か遠い時代の過去話に過ぎないなどというとんでもない思い違いは即刻止めて頂きたいもの。現代の迷信、数えだしたらそれこそ枚挙に暇が無い。説明するのはいとも容易いことなにですが、次回までの宿題と致しますので皆さん方ご自身の優秀な頭脳で、一遍考えてみて下さいませんでしょうか。思っている以上に難しい仕事かも知れませんので……。
2011年06月30日
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前回、書いたテーマが私・草加の爺にとって余りにも自明すぎる事でしたので、一体何が言いたいのかまるでチンプンカンプン、アイ ドン ノー、ということになってしまったようです。まことに申し訳ありません。心を入れ替えまして少し詳しく、具体的に申し上げたいと思います。と、言いますのもこれは「大人世代にケチをつけ、物申す」この欄のボヤキの根幹をなす重大な問題だったからです。「お恥ずかしい」と言いながら質問して下さったお若い学生さん(?)に感謝申し上げます。議論というものは一方通行では、張り合いもなければ、何の成果もあがらない不毛な、そして無意味なものになってしまいます。気が済めば良いと言う様な割り切り方もありますが、それでは詰まりませんね。前置きが長くなりました、奴隷の解説から始めます。人類の歴史をさかのぼって閲覧してみますと、戦争に継ぐ戦争といった時代が続く様です。何故こんな風に大袈裟な記述になるかと言いますと、大和民族にはっきりとした奴隷制度があったのかどうか、寡聞にして分かりませんので西洋主体の、それも古代の歴史に逃げたわけです。戦争があり、負けた国の民が戦勝国の奴隷として使役されるようになる。奴隷の子は奴隷として代々資産の一部として家々に引き継がれる。主人も奴隷も、もともとは同じ人間なのですが、長い世代にわたって家畜のように主人から使役され続けているうちに、所謂「奴隷根性」なるものが奴隷たちの内部に根深く植え付けられてしまう。そうなると自由人たる御主人さまと使用人たる奴隷の間に画然とした差別ができてしまう。もともとは同じ人間なのですが。そういえば昔のロシアには農奴と言う制度がありましたね。教育は勿論、食べ物にいたるまで主人たちとは格段の差がつけられる。そうゆう境遇に生まれながらに育った奴隷の子供がどんな精神構造を持つに至るか、ちょっと想像してみて下さい。またまたロシアを引き合いに出しますとチェーホフの書簡だったかに「奴隷の血を一滴一滴と搾り出すように」身内から意識的に排除して勉学に励んだ、若き日の苦悩の体験談もありますね。現代の日本に育った私には実際に「奴隷」を目にしたりした体験は皆無ですが、「奴隷根性」と形容するような心根のお人には、イヤというほどお目にかかっています、残念至極ながら……。それで、前回のような一人合点な文章になった次第。ですから、私の言う「奴隷根性」とは周囲の権威(それはあらゆる形、機会を捉えて私たちを屈服させようと待ち構えている、目には見えないが恐ろしい、実に恐ろしいもの)に無条件で従う従順さと、無気力を最大の特徴とする主体性の無さを兼ね備えている。無論、自らに由るー自由人としての教育を受けておりませんので当然、その自覚は持っておりませんね。ただ唯々諾々と「権威」ある大樹に寄り添い、「権威」の命令に服することしか頭にない。ここまで書いて参りましたが、このテーマはまだまだ無限に近く物申すことがありそうです。どしどし、ご質問なり、ご意見なりお寄せ下さい。また、近く開設予定の「四つの幸せ塾」でも具体的に詳しくご説明させて頂くつもりでおりますので、どうぞ奮ってご参加ください。お待ちいたします。
2011年06月26日
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今に始まった事ではないのですが私はかねがね私たち市民は本当に「独立自尊」の誇り高い「自由人」を志向しているのだろうか ― という疑問を持っています。疑問の余地などない。そう、きっぱりと否定する声に劣らないほど、いやいや、我々の大半は「奴隷根性」を後生大事に抱え込んで、梃子でも手放そうとしない。そんな風にも思われる。一体全体、どっちなのか?真相はその中間にありそうです。ここまで書いてきて、ふと、私が何について不満を漏らしているのかいぶかしむ方の顔が浮かんできました。そうでした、人々は意識的には奴隷根性などとは関わりを持ってなどいないのですね。無意識の内に、知らず知らずの内に私の言う奴隷根性をシッカリと抱え込んでいるわけですから、事態は想像以上に厄介な、また錯綜した、一筋縄では決していかない困難さをともなっているので。自由人と一口に申しますが、そのあり方はそれ程容易でも、簡単でもない。奴隷状態でいたほうがよっぽど気楽で、快適とさえ形容できる。歴史的に見て来ますと、私たち現代人の血液の中には色濃く奴隷の血が混ざっているのでしょう。そして、まるで天から降って湧いたように「自由なる市民」というまことに有難い特権を与えられた。原始的な血液は意識下で「有難迷惑」の悲鳴を上げ、有害なガス状の不平不満を頻りに噴出させている。ざっとこんな風に表現してみましたが、そんなに的外れの現状認識とも思っておりませんが、私の杞憂であって欲しいとの密かな願いが無い事も無いのですよ。奴隷とは、プライドや世間体をかなぐり捨ててしまうならば、それが出来てしまうならば、ある意味ではこんなに気楽で快適な境遇はないのです。ご主人さまの命令を忠実に遂行している限りは生命の維持は保証され、将来の様々な不安に自ら対処する労から完全に開放されている「素晴らしい」存在。何を好んで独立と言い、プライドなどという面倒で厄介な代物に拘り続ける必要があろうか? ― 雑駁極まりない立論でありますが、皆さん方がご自分の胸に手を当てて虚心に反省されるならば、今述べたような根性の腐りきった心情と満更縁もゆかりも無くは無いことを自覚されるでしょう。それが、わたしが指摘している奴隷根性のありようなのですね。始末にほとほと困る所以なのですよ。みなさん、他人事ではありません。現代人は誰でもこの世に生を享けた瞬間から自由人として躾けられ、自由人として教育を受けなければならない「運命」にあり、それ以外の選択をまったく許されては居ないのです、驚くべきことに!えっ、そうだったの、今のいままで知らなかった、気がつかないでいた。ほんとビックリ ― そんな貴方・貴女たち、真面目に生きることを考える習慣を身につけるよう精々頑張ってください、今からでも少しも遅くはないので……。
2011年06月24日
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前回は新規開設予定の「四つの幸せ塾」の宣伝をさせて頂きました。久々に大きな反響を頂きましたので、それに気をよくしてその続きを書くつもりです。一部の人には繰り返しになるのですがとても大切な事ですので繰り返して御説明いたしますので、そのつもりでお読み下さい。四つの幸せの内容ですが、1、天の配剤 2、地の恵み 3、人の和・輪 4、自分が自分であること以上の四つを言います。「天の配剤」とは、人の力だけではとてもこんな風に上手くはことが運ばない ― といったような、人智を超えた天の計らいを意味します。「地の恵み」とは説明を必要としないほど分かりやすい事柄ですね。要するに山の幸・海の幸全てを意味します。「人の和・輪」は、私たちはたった一人では生きられないし、またたった一人でこの世に生きているわけではありませんね。お互いに持ちつ持たれつの関係を維持しながら、協力して生きているわけです。「自分が自分である事」とは英語でアイデンティティー。自己同一性その他色々に訳されたりしますが、自分が他の誰でもなく紛れも無く自分自身である事。改めて考えて見て下さい。とても有難い事だとは思いませんか。以上の四つの事は私たちは皆一様に、生まれながらに身に備えている、有難いことに、ですよ。である以上、こんなに恵まれた条件を託されているのですから、私たちは無条件で「幸せ」なのです。にも拘らず、世の中には不平や不満ばかり、それも年がら年中、口にしている人が大勢いますね。あなたの場合はどうでしょうか?そこで老婆心ながら、せっかく身に付けている宝物を自覚し、もし輝きが不足しているなら一緒に「原石」を磨こうではないか。そういう趣旨の試みなのですが、ご理解頂けたでしょか。どうぞ、文句無く楽しい時間を共有致したいと準備を整えておりますので沢山の方のご参加を、心よりお待ち申し上げます。
2011年06月20日
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私はこのブログでも同様ですが、「世のため、他人のため」を目指して毎日活動しております。60歳までの私はと言えば今とは真逆の意識で、つまり「俺が、俺が……」で自分のことだけしか考えない自分本位・自分勝手な狭隘な目的意識しか持たずに毎日を送っていました。それで当然だし、誰からも非難されずにまあ、定年までやってきましたが……。とれあえず定年まで会社が倒産などせずに残っていたらそれまでは居させてもらおう。さて、その後は?幸か不幸か勤めていた会社は残存しましたので無事(?)勤め上げて退職ということになりましたが、その後のことなどまるで考えることがなかった。こう書きますと「随分と暢気なことだ」とあるいは傍目には見えるかもしれませんが本人にとっては暢気どころの騒ぎではなかった。その気になれば暇などはいくらでも作れたのでしょうが、実際のところは何も考えなかったいや、考える手立てがなかった。そうこうしている間にそのときが来た。ハローワークに通う中にキャリア・カウンセラーという当時人気の職種があること、「古屋さん、あなたは資格を取らなくてもユニークなキャリア・カウンセラーになれますよ」と教えられ、その気になって資格を取った。しかし現実にはこの後八年間というものCDAの資格をいかした職には就いておりませんが、学校や学習塾で大学生から小学生までの青少年たちと接する機会にとても役立っている。そしてテレビドラマのプロデューサーとして過ごした30と数年間は「人間というまことに複雑怪奇な生き者」の実に厄介な心理と行動に関するフィールド・ワークを生きた社会で身をもって学んできたことを悟ったのです。これからが自分の人生の真実のステージで、これまでは準備段階にしか過ぎなかったのだと自覚するに至ったのでした。そこで「四つの幸せ塾」の開設ですが学ぶ事の純粋な楽しさを味わうことが、それのみがターゲットであり目的。そのほかの諸々の功徳は実は「どうでもよい事」なので、少なくともこの草加の爺にとっては。この8年近い時間に私が学んだ事、それは大人たちが寄って集って子供たちを「勉強嫌い」にしているのだという恐るべき事実。学校の教師も、保護者も、大人の誰も彼もが「勉強、勉強」と言って子供たちを大の勉強嫌いに仕立て上げている。猛省を促したい。しかし、実際に「学ぶことが楽しい」体験をしたことのない者に、いきなりそんな事を口にしたところで分かりようがありませんね。そこで、有言そして率先して実行するに如かない。斯様に考えての「四つの幸せ塾」の開設です。本当は(本音は)高額な報酬を要求したい滋味掬すべき価値ある内容なのですが私が無理してでも大勢の方に体感して、実感して頂きたいので当分は実費のみの費用でご提供させて頂きますので、みなさまお友達などお誘い合わせの上御参加下さいます様こころよりお願い申し上げます。以下は念のためにスケジュール等の宣伝です。場所:JR浦和駅前 コムナーレ九階(パルコ9F)のラウンジ ミーティング・スペース日時:7月は10日、16日、24日、30日の14:00~16:00 8月は6日、13・14日、21日、28日を予定学習テーマ:世界の名作や日本の古典、哲学、宗教など幅広い分野を扱う (ホームページやブログをご覧下さい) また、ご要望とうがありましたら遠慮なくお申し出て下さい。お待ち致しております。草加の爺 謹白
2011年06月18日
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散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ人も人なれ ― 明智光秀の娘で細川忠興に嫁した玉子・細川ガラシャ夫人の辞世の句。関が原の合戦に先立ち、石田光成から人質を強要されたガラシャはそれを断固拒絶し壮絶な最後を遂げた。美しい桜の花、皆から誉めそやされてこの世に花開いたが、散り時を心得ているからこそ「見事だ!素晴らしい、名残惜しい……」などと最上級の褒め言葉を頂戴し、満開時の絢爛豪華な様を大勢の人々の心の中に長く、大きな感動の念をもって刻み込まれる。人も、いや人間の場合にこそ「散り際」が重要ではないか。ただ徒に命を永らえればそれで良いことにはならないでしょうよ。自分の死ぬべき時を自覚して潔く「桜の花のように」散る。それでこそ立派な、一廉の人間だと言えようもの。―ーまた例によって拙い解釈となりましたが、ざっとこんなガラシャ夫人の言い分なのですが、平成のまことに平和そのものの時代に生をうけられた貴方(貴女)様はこうした考えに対してどの様な感想・ご意見をお持ちになられますか?私・草加の爺は本当に立派な生き方(死に方)だと心の底から感服いたししております。ガラシャ夫人の例に見られるように戦国乱世には男のみならず女性もまた「合戦」に参加し、見事な「武勲」を(いわゆる赫々たる武勲を)たてていたのでした。私が今回テーマとして取り上げたいのは、時代との調和を如何に取るかという問題であります。日本の国内のみならず世界中が「一つの村」社会となった今日、文字通り地球の裏側でおこっている出来事は「よそ事」ではありません。今の時代や社会とどのように折り合いをつけていくのかは極めて重大な問題ですね。孤立したり、他を無視した生き方ははっきりと罪悪なのですし、またそうした自覚こそ急務なのですね。如何でしょうか。これは自分勝手な生き方を選択する自由とも矛盾するものではありません。要は、自覚的に生きるということ。悪も自覚して選択したものなら(勿論、主体的に)後で後悔する仕方も当然ながら違って来る筈。人任せ、他人まかせの考え・行動はあるいは他人本位の無責任は許されない。つまり、社会が悪い、国が悪いと愚痴ばかり言っていても現実は少しも改善されない。自らの考え(信念)と確固とした行動こそ、たとえそれが誤りであったとしても、我々を幸せと充実とへ導いてくれるのです。個人の生き方とは何時の時代でもそれ以外にはありません、断じて!如何でしょうか?
2011年06月10日
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清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵逢う人 皆美しきかな明治の女性歌人・与謝野晶子の余りにも有名な短歌ですが、私・草加の爺はこの歌がことのほか大好きなのです。この歌が読まれた時期や作者の置かれていた状況など知らなくとも、この手放しの幸福感の吐露には思わず拍手喝采したくなるではありませんか……、如何ですか?場所は古都・京都、季節は美しい桜が爛漫と咲き誇る春。主役は得恋の「旨酒に酔いしれる」絶世の美女。しかも作者は自分を直接表現するのではなく、「逢う人が皆が皆、全員美しい!素晴らしい男も女も」と周囲の人物を主観のみで最上級の持ち上げ方をするだけです。それでいて、作者の美しさは勿論「この歌の登場人物中」でも文句無く傑出していることを読み手の私たちに否応なく、確信させるのですから。そのテクニックの巧みさは心憎いほど。人生の絶頂の喜びをこれほど嫌味なく真っ正直に謳い上げている晶子は、間違いなく日本女性の中でも傑出した歌詠みと言わなければならないでしょう。人生の絶頂を歌った短歌と言えば藤原道長の「この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けることの無きを思えば」が直ぐに思い出されますね。時の権力者が自分の今に時めいている様子を、これも嫌味なくすらりと自然体で詠んだ句。この自慢の心情がそう長くは続かなかったことは皆さんよくご存知の通りですが得恋者や権力者でなくとも、我々下々の一般庶民でも常に「会う人みんなが美しい」あるいは「自分の人生は思い通りで不足がない」という前向きで肯定的な姿勢を保持し続けたいものですね。「八苦の娑婆」がそのままで「極楽浄土」として我々の眼前に現前する事実。これは何も大袈裟な奇跡などという表現を使うまでもなく、我々の心の持ち方一つで現実の物となる。これをこそ「即身成仏」と称する、のではありますまいか……。いや、そう解釈するべきでしょう。そうでないと「即身成仏」なる言葉はお飾りか死語と化して永久に忘れ去られてしまう無意味な符牒でしかなくなる運命にあるでしょうね。そのためには、先ず何をおいても謙虚さを取り戻すこと。人間の傲慢驕り昂ぶりを止めること。そうして感謝の念を肝に銘じて、どんな場合にも置き去りにしないこと。以上、きわめて当たり前の誰にでも実践可能なことばかり。
2011年06月03日
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