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考えてみると、明治維新以後私たち日本人は西洋の先進国に追いつけ追い越せと慌てふためき、富国強兵で国力増強に一意専心でやってきました。終戦を機に今度はエコノミック・アニマルと誹謗されながらも経済大国への一筋道をわき目も振らずに国民が一丸となり猛進してきました。21世紀を迎えて様々な歪が噴出して肝心要の経済が不振となった今、国の指導者を始め国民の誰もが将来への強い不安を感じ始めています。将来への強い不安という点に関しては、何も申し上げる事はありません。私・草加の爺ごときが今更らしく口出しする事でもないのですが懸念されること、猛省を促したいこと、があります。それは人生の一大事について。私たちは一体究極の目標として何を心底から望んでいるというのか。国民の一人として、また市民の一員として、ですね。私の認識では応仁の乱に始まった戦国乱世は今日まで及んでおり、現代は特にその「戦国乱世」が地球規模に拡大し超弩級の大津波が地球狭しと猛威をほしいままにしている。何だ大袈裟なコケ脅かしの誇大な表現をする奴だ。平和国家、福祉国家安全保障社会、治安完璧システム、等々の世界に冠たる模範的な素晴らしい国・日本を悪し様に罵るなどとは言語道断もはなはだしい。見当違いもいい加減にしろ。その他の頼もしいご意見が皆さん方のあちこちから飛び出して来るのでしたら、誠に幸いですがね。私の問題にしているのは、価値観の世界を第一にしての事。心の問題、幸福観・満足観・充足観その他諸々の人生観を下から支えている「たましい」の領域の諸問題にかかわる重大事。貧乏でも、お腹をすかしていても、心の充実や生活の安定はありうるが、飽食の果ての魂の虚脱状態にはホトホト愛想が尽きるというもの。精神の世界の混乱・混迷・惨状は今まさに極限に達しようとしている。こうした危機感が全く通用しない世界こそ、その腐敗堕落の証左ではありますまいか?如何ですか、皆さん。活発な反論、猛烈な批判の声。私・草加の爺は大歓迎です。どしどし貴重なご意見をお寄せ下さい、お願い致します。
2011年02月19日
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何やら難しいタイトルになってしまいました。しかし内容は出来る限り易しく、誰にでも理解できるようわたしの・草加の爺の能力の限りを尽くすつもりですのでどうぞ宜しくお付き合いください。ロシアの文豪ドストエフスキーの作品の中で、虚無的なインテリの兄が純真で敬虔なキリスト教信者の弟に「神はいない。たとえいたとしてもその神は悪魔の顔を持っているに違いない」と毒ずく場面があります。ある傲慢な貴族の地主が飼い犬に軽い怪我をさせた農奴の幼い子供を罰する為に厳寒の中に素っ裸にして、猟犬たちを嗾けて惨殺してしまうエピソードを挙げる。もし神が全能であるなら、何故このような残虐非道の振る舞いを見逃してしまうのか?数々の奇跡を実現可能な神にすればこの地主の蛮行を止めさせることなど造作もないことではないか。何故に神はその「ほんの些細な手間」を惜しむのか、と。そして、とどめの一撃として言い放つ。全能の神などいないのだ。いたとすればその神の顔は悪魔の形相をしているに相違ない。純粋無垢な弟を理詰めで追い詰めるのです。私はこの兄に託して言われている内容は殆ど作者・ドストエフスキーの本音であったと考えますが、以前にはhuman matterとsacred matterと言う表現を使って説明しました。これは決して全能の神を貶めることにはならない。つまり神の責任ではなくて、神の慈愛を一身に受けた人間の側の問題なのだ。極悪非道の悪魔は人間の心の中深くに棲みついていて、例えば人非人の地主とともに悪の限りを尽くすのだ、と。今回は別の方向から、この難解な問題にアプローチしてみようと思っています。つまり、私たち人間には宇宙の全体像をパーフェクトに把握する能力は無い。どうしても一部分の理解・認識に限定されてしまう。たとえば「自然界の掟」である「弱肉強食」にしても力の弱い生き物が、強大な生き物の餌食とされる。「なんて残酷なんだ!」と部分にのみ目が行ってしまう私たちは非難・攻撃を内に込めて言いますが、全体の調和・完成を専ら心掛けている全能者には自ずから人間の観点や感じ方とちがっものがある筈。第一私たちの美醜・善悪・正邪などと違う価値観があるでしょう。それは部分であり、したがって時間的にも空間的にも極端に限定されている不完全な存在とは、決定的に異なって当然ですね。あとは信頼すること。私たちは真に信頼に値する対象を無条件で信頼するだけ。それが無限の慈愛を注ぎ続けている絶対者に対する最低限の礼儀と言うものでしょう。如何でしょうか?納得していただけたでしょうか……。
2011年02月13日
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昔の日本人は、感謝する心というものをとても大事にしていたようですが、今日ではどうでしょうか。なんでも「当たり前のこと」としてなにか不都合なことがあった場合にだけ誰か自分以外のせいにする。例えば「社会が悪い」、「政治がいけない」「アイツが悪人で酷い事をしたから」など等、原因や「下手人」の詮索に余念がない、といった按配になる。そして反対になにかよい事や、自分にとって好都合な事が起こると自分が心がけがよいから、偉いから、性格がよいから、美人だから等々と至極当たり前のこととして受け止めたりする。いわゆる自己中 ー 勝手で気ままなとても自己中心的な考え方をしがち。そこからは感謝の「か」の字もでてこない。どうしてこんな風に成ってしまったのでしょう。最近の親御さんたちの子供に対する姿勢を見ていますと、とても気になることがある。自分の勝手な願望を子供に押し付けることが、教育でありまた躾けなのだとする誤った考えが横行しすぎている事。わたしが今更らしく申し上げる事ではありませんが、教育や躾けは親の都合だけで行われてはイケナイものですね。子供にとって良い生き方や行動に結びつく方向に、意図的に誘導するのが目的。私は子供たちは本能でそのことを承知していると、最近では確信していますよ。本当に自分のためを思ってくれているのか、そうでないのかを子供たちは直感で判別できる。そういう能力を生まれながらに備えている。間違いありません。もしそうでない子供がいたら、その子は不幸にして「悪しき」教育や「悪しき」躾けの洗礼を受けて、大切な「本能」に異常を来たしてしまっている。その様に断言いたしましょう。いつの場合でも「大人」の側に非があるので、「子供」には罪はない。そう判断して九分九厘は間違いない。精神年齢十歳を自称するわたし・草加の爺がこの七年間というもの間近に子供たちと接していて得たこれが結論です。本当に「今の大人たちは罪深い」のでした。だから、先ずは大人たちから教育し直さなくてはダメ、と愚考するに至ったわけ。お分かり頂けますでしょうか?わたしたち大人が先ず最初に「感謝する心を取り戻さなくてはいけない」のでありますね。そうすれば、子供たちは何時の時代でも素直で真っ直ぐな心を持っていますから、何の心配も要らない。ご安心下さい。そして感謝してください、何者かに対して。えっ、感謝の対象が分からない、ですって。それならお教えしましょうか。手始めに、お天道(てんとう)様、つまり太陽に感謝してください。後のことは、自然に良い方向にむかって動き出しますのでなんのご心配もいりません。騙されたと思ってでも結構ですからとにかく実践してみてください。あなた自身のためになるのですから……。
2011年02月10日
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前回、人が生きるとは吸ったり吐いたりする呼吸が楽にできる事が基本だ、と書きました。息の乱れが生活の乱れを誘発し、更にマイナスのスパイラル(負の螺旋状進行)へと悪循環に陥る危険もある。人間として生きるからには、ただ息をしているだけでは詰まらない、もっと積極的に「生甲斐」を感じながら生活したい。そう自然に思いますね。しかし、生甲斐とはそもそも何でありましょうか。それこそ人によって千差万別、価値観や物の見方によって様々な生甲斐がありうる事でしょう。しかしながら基本は一つではないでしょうか。心穏やかに安心して毎日を送る事ができる。そのためには何が必要か。自分が本来居るべき処にいる。そんな実感・充実感に包まれる ― 安心立命の境地。こんな風に表現するとなんだかひどく難しいことのように感じられるかも知れませんが、本来は(元々は)極簡単で容易いこと。世の中全体が妙な方向に捻じ曲がってしまっている所為で、ちょっとやそっとでは手が届きそうも無い、特殊な生き方に変質してしまっている。それが実情でしょう。宗教心を涵養するなどというと大変難しく特殊なことのように思われがちですが、要はこの生きるための中心軸を確認する作業のこと。特定の宗教の教義や戒律を教えたり、学ばせたりする事ではない筈のものです。何物かにしっかりと支えられて自分がこの世に存在している。くよくよしたり悩んだり、心配する必要などない。安心して呼吸しなさい!そう小さな子供たちに実感させる。そのためには先ず親たちが「楽に呼吸」できる状態になくてはいけませんね。大人たちの心を正すことが先決だと考えますが、如何でしょうか?人間は煩悩に支配され、小さなことにくよくよと拘泥し最後の時が来るまであれこれ悩み続ける「哀れ」な存在ですが、今申し上げた拠り所となる中心軸に支えられている確信を持てるかどうかによってその生き方に雲泥の差が生じますね。本来の宗教心とはそうした有難い「宗(むね)」となる教えの意味で、専門的な学びを必ずしも必要としないものでした。その意味では日本人に宗教心が無いあるいは日本人は無宗教だとの主張は、見当違いも甚だしいというべきこと。豊か過ぎるほど恵まれた自然環境の日本列島に育まれて生活する私たちは何処のどんな国や民族にも劣らず、極めて宗教心の篤い人間集団だったわけです。そして今も本質的には変わりがないのですが様々な要因に災いされて自覚が不十分なだけ。もっと自信を持ちましょう。自虐的な「反省癖」にはいい加減におさらばして、健全で正しい自己認識を恢復させようではありませんか、皆さん方。蛇足ながら付け加えますが、自分に自信を持つのには難しい作業は少しも要りません。他人との比較は有害無益で全く不必要。ただ在りの儘の自分を素直に肯定すればよいだけの話し。そして、自分が生きてこの世にあるその事実に感謝するだけで十分なのです。ほかには何も要りはしない。本来の素直で正しい心を目覚めさせる努力を、今日からでも始めてみませんか、どうでしょう……。
2011年02月06日
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私たちは兎角有るものには意識が行かず自分に無いものばかりが目に付いてしまう「悪しき」傾向があるようですね。心当たりはありませんでしょうか。現在ある健康は当たり前のことで、病気にかかったときにはじめて日頃の健康の有難さに気づくわけですね。ところで健康な状態というのは本当に「当たり前」の、当然のことなのでしょうか?若くて、健康で、活力があって毎日が楽しい。そんな状態は当事者自身にとってみれば至極当たり前、何もことさら取り立ててどうこう言うようなことでもない。ところが足腰の弱ったお年寄りからみれば、羨ましい限りの「この世の春を謳歌している」状態と見ることでしょう。誰だって一度は若さや青春を経験することだからなにも羨ましいと思う事もない。若者は自然にそう答えるでしょ。しかし、その若者も老人になった時には「若さ」に羨望を感じることになるかもしれませんね。ことほど左様に人というものは現在自分が何気無く享受出来ている「有難い」ことには無関心あるいは、無知であり、また気がつかないことが多いもの。しかし、考えてみるまでも無くこの世に生を享けた事自体がもう当たり前のことではなく、とても「有難い」事柄なのでした。なにも頼んで生まれてきたわけじゃあない。などと罰当たりな悪態をつく若者がいるとすれば、それは第一に周囲にいる大人の責任でしょう。なかでも親の責任は重大です。私・草加の爺の持論なのですが、生きるとは「息をする」が基本です。吸ったり吐いたりする呼吸が楽に出来る状態が自然で健康な状態。呼吸が乱れて息をするのが苦しいから、グレたり非行に走ったりの困った行動が始まるのです。それにしても身近にいて子供の「息の乱れ」に気づかない親のなんと多いことか。話しを本筋に戻しましょう。自分に無いものを欲しがるのではなく現在有るものを本当に有難いことだと感謝しよう。自分には何も無い、などとバカなことを口にしているあなた。何が無いと言うのですか。一杯あるじゃありませんか。エツ、自分はどうしようもないバカですって!それならバカさはお持ちなんですね。そしたらわたしはこう忠告いたしましょう。あなたのその「バカ」を大事にして、磨きをかけましょう。そうして周囲の人からアイツはバカはバカでもタダのバカとは違う。そう評価されるように努力してみたらいかがでしょうか、と。人はみな「自分のバカさ」から逃れる事は出来ないのです。だったらそれが、バカさが大切な資源なのだから、磨きに磨きをかけるしか手は無いのです。そうしてひとは自分の「バカさ」を抱えて墓場まで持っていく。役に立たないとばかり思っていたその「バカさ」が、ある時思いもかけぬ宝物に変わっている。そんな奇跡が人生には無限に近く継起し続けているのです。嘘だと思ったら実際に行動を起こしてみて下さいな。騙されたと思って!これは私・草加の爺ごときが保証することではなく本当に有難い神仏の御加護によるものなのですから、ご安心の程を。
2011年02月04日
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