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私・草加の爺は今、人生の最も幸せな日々をそれと自覚しながら生きております、本当のほんとの事でありますよ。昨夜はお世話になっている学習塾の仕事納めで、授業の後で大掃除をし、その後で教室長以下講師の十数名で忘年会を紫菜館という中華料理のお店で本当に豪華に、そして最高に盛り上がって、更には十二分に楽しく飲み且つ食べ、気楽なトークに花が咲き……、と言った具合に、何の変哲も無い六十八歳の本当に風変わりな老講師の或る年末の一日でありましたが、これが私にとって「悟りや涅槃」の自分にとっての自覚を確固たる物にしてくれた最高のハッピネス(HAPPINESS)の二十四時間。この他にもプライベートでももっと、もっと素晴らしい「体験」があったのですが、それは煩わしくなるので割愛いたします。ここでがらりと話しが変わりますがあの有名な良寛さん、子供達と日がな一日かくれんぼなどして遊び暮らした伝説の老僧の晩年の逸話。ふと私の脳裏をよぎったのですね。あの良寛さんほどの「澄み切った悟り」の境地ではありませんが、私なりの相似比で言えば一億万倍対一ぐらいの比率でしょうが、何か和尚の心境の一端を覗い得た様な思いに捉われたのであります。それがタイトルに掲げたいささかオーバーな表現となった次第。また、畏れ多い言い方を許して頂くとしたら、お釈迦様の「涅槃の心境」も自分なりに勝手に、これこそ生きながらの「私にとっての涅槃」なのだと納得したのでありますが翻って考えて見ますと、名も無く、貧しい庶民が浅学菲才の身で錯覚にもせよ、このような幸福感に包まれる事が可能であるのは、何と有難い事ではありませんでしょうか?如何でしょう……。老婆心、いや老爺・心で申し上げると、皆さん方もお心がけ次第では現状の儘で直ぐにでも「この様な幸福感」を自分の物とすることが出来るのですね。ご自分の「不幸」や「不仕合わせ」を呼び込んでいるのが、他ならないあなた自身なのだと言う「反省」をして、来年は素晴らしい、そしてこの世に生まれてきて本当によかったと自覚できる、良い年でありますように心から念願いたして、本年の最後のご挨拶と致します。ご愛読に感謝、感謝。
2011年12月31日
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このブログをご愛読下さっている方々は何度も眼にして居られるので、「あっ、またか」と思われたかもしれませんが暫らくお付き合いください。どんな仕事でも、たとえ報酬がどれ程微々たる物であっても、仕事と名が付く以上はどれもこれも皆大変であります。つまりは楽な仕事などは有りっこ無い。ではありますが仕事に携わる者の心掛け次第では、その「苦しい、大変」がいつの間にか「楽しい、素晴らしい、ブラボー」と、天上知らずに良い方向に向かって変化し、劇的な質的変貌を遂げる。少々オーバーな表現を使えばこれ程「素敵な稼業は無い」と言う事になるのですから、本当に不思議。お前さんは元々お頭がお目出度く出来ているから、そんな世迷いごとが平気で言えるのさ、などと厳しい罵声を浴びせたりなさらずに、どうかもう少しご辛抱ください。私は定年後の八年間を教師の真似事をして生活していますが、虐めに遭ってで十代の貴重な大半を「引きこもり」で過ごさなければならない若者や公立の学校から見捨てられた児童、親との関係で学習だけでなく生活全般に亘って苦渋を強いられていた子供、などなどに対応を余儀なくされましたが、お陰様で「奇跡的に」 その全員を所謂「問題の無い」子供として無事に親御さんの手に戻す事が出来ています。それもこれも私を背後から目には見えない糸で操って、良い方向に導いて下さっている「偉大なる存在」のお陰なのですが、同時にそのような気付きに道を開いてくれた子供達、若者達、そしてその保護者の方々にも深く感謝したい気持ちで一杯ですね。勿論、私の身近で陰になり日向になり支えてくれている有難い家族にも深甚なるお礼の気持ちを捧げたい。要するに私の場合も「人の和・輪」があっての私の「活躍」であった。
2011年12月30日
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あなたが人生に望んでいるのは、一体何なのでしょう。お金ですか、それとも幸福の方でしょうか。そんな事、決まっているじゃないか。わざわざ考えてみるまでもないこと。そんな風に、あなたはきっと答える事でしょうね。ノー天気で自分自身の頭脳を使って「考える」と言う事をしたことが無いので。幸福な生活を手に入れる為にお金が必要だから、先ずお金儲けをしてその後で、お金儲けに成功した暁には、心置きなく幸福をその美味な果実を味わい尽くす。それこそが万人が無条件に心に描いている幸福の青写真というもの。それ以外に一体何処に我々の幸せや幸福が見出せると言うのか?十人が十人、そう信じていてこれっぽっちも疑いを持たない。これ常識……。しかし、本当でしょうかその考え方は。物事を本当に考えた事のある人なら、そんな風には考えたりしませんし、第一その安易な思考法は根本から間違っていますよ。すると、忽ちこんな反論が返って来る。こいつ、偉そうに、何て事をほざく!自分を何様だと思っていやがるんだ。まあまあ、そう感情的なならないで暫らくご辛抱願います。私は、この草加の爺は「虎の威」を借りてきてこんな風な物言いをしているのですよ。虎とは人類の師・ソクラテス。それを自分流に今日の世相に合わせて考えを深めていくと、さっきの様な「暴言」になるのでして。いや、暴言などではない。極めてオーソドックス正統・本道を行く、従ってこれ以上はないほどに合理的な思考法なのですね。お金とは抽象化された「欲望」の謂い。抽象化された欲望は、抽象化されているが故に無限に快楽を追求する、その為の便利な、恐らくは史上最強の道具でありましょう。しかし「快楽主義」は決して、金輪際、「幸福や幸せ」とは結びつかない。これもいわば思想史の超「常識」。快楽は無限に快楽を追い求める運命にあるので幸福とは無縁の存在なのですよ。ですから、幸福の獲得には、幸せな生活を手中に収めるには最初に快楽主義と綺麗さっぱりオサラバしなければならない。それには私のように貧乏であるのが好都合なのですね。どうか、其処の所を篤と、じっくりと、落着いて考えてみて下さい。そして、得心がいったならば直ちに実行して下さい。この実行が肝心要なのですからね。
2011年12月29日
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日本の各地から、静かではあるが、私には百万人の声にも匹敵するメールやお手紙や、電話など暖かなご声援、励ましの言葉を頂戴し、身に余る光栄とひたすら感謝申し上げます。知床でお会いしたYさん、お元気そうで何よりです。プロデューサーとしては余り世間に持て囃されるような大活躍は出来ませんでしたが、私なりに充実した毎日を送ることができそのお陰と言うのも変な物言いになりますが、若者や子供達と接している現在は、「世界で一番の果報者」と自認する幸せ長者に成り上がっていますよ。主観的には、「世の為、人の為に」と心に念じつつ自分に今出来るベストを尽くそうと活動しているだけなのですが有難い事に、天の御眼鏡に叶っているようでして、正に絶好調!鹿児島のN子さん、お久し振りです。元気そうなお声で安心しました。長崎・福江のヨウコさん、丁寧なお手紙を本当に有難う。お嬢さんとご一緒でお仕合せとの事、何よりです。四国のS雄さんニューヨークでの御活躍、陰ながらお祈りしています。どうかご健勝で。この様に、幸福の響きあいは静かに、そして確かに、更には豊かに増幅、拡大を続けるのみ。商売の世界では「ウィン・ウィン主義」とか殊更らしく互恵関係を強調するのですが、ハッピー・ライフの世界ではウィン・ウィンは極めて当たり前のこと。誰も損をしないどころの話ではなく無尽蔵に幸福や幸せの利子が「複利の何乗倍」にも膨れ上がるのは常識。そして資本や元手などという厄介な代物は一切不要ですね。ただ、真面目に実直に、己の誠を尽くすのみ。誰にだって出来る事。行動あるのみ。理屈や、戦略等と言う面倒も要りません。掛け値なしで、裸一貫で自分の人生と真っ向から取り組みさえすれば、それで用が全て足りるのです。嘘では有りません。皆さん方の一層の御奮闘をお祈り致しております。
2011年12月27日
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私・草加の爺は折に触れて、何度も自分自身の人生の転機について触れてきました。その際、60歳の誕生日を境に謂わば生き方の中心軸を180度転換させた、或いは「宗旨替え」をしたと言うような意味合いの事を書いてきましたが、もう此処までくればもっと、もっと普遍的な、それ故に誰にでも適応が利く表現を使ったほうがよいのではないかと思われますので、以って回った遠まわしな言い方を止めにして、単刀直入にそのものズバリの物言いに切り替えてみようと決意致しました。それは、例えばこうです。幸福の泉と呼ぶに相応しいものが「心の大地」にもあって正しく「井戸を掘るように」すれば、万人が誰でも滾々(こんこん)と湧き出る恵みの井戸水に遭遇出来る。別言すれば、正しい道を各自が辿ってくれば清冽な、そして実に滋味掬すべき泉に行き着く、偶然ではなく。その様に「有難くも」私たちは「生まれ付いている」のでありますね。私は運命によってその泉に、オアシスに導かれた。いや、自分自身のたゆまぬ努力と周囲の暖かい愛情溢れる協力とによって、遂に自分自身の宿命的な「井戸」を掘り当てた。こんな風に表現した方がより相応しい表現になるのではないでしょうか。そこからは、その井戸や泉からは汲めども尽きない「幸せと言う名の霊水」が次々とあふれ出て、私たちの乾ききった喉を、そして身体を実に豊かな味わいで潤してくれる。如何でしょう、私の言わんとしている所をお汲み取り頂けたでしょうか?私たちが辿る道がたとえどの様な紆余曲折を経たとしてもこの井戸、泉、オアシスに至るのは理の当然であり、必然なのです。本当に、実に有難いではありませんか、「地の恵み」とは。それを内包した「四つの幸せ」が私たちに天与のものとして平等に与えられているのは。もう、誤解を全く恐れずに宣言いたしましょう。これは、これこそ現代の「最高の福音」でなくてなんでありましょうか。つまり正真正銘の、掛け値なしの「これこそが正しく福音の名に値する福音」なのでして私・草加の爺は謂わば「その福音の伝道師」の一人に任命された。あるいは自らをその立場に置くに至った。その様にご理解いただければ幸いです。幸福・幸せに取憑かれたと、一見オーバーで奇異な表現を用いた、または用いざるを得なかった理由がご理解していただけるでしょうか。かつて、キリスト教徒は「悩めるものは来たれ!」と人々に呼びかけた。私もそれに習って、苦しみ悩む人はどうぞ遠慮なく相談してください。協力の手は少しも惜しまない心算でおりますので、どうぞ御遠慮なく声を上げて下さい。何の躊躇も無く協力の手を差し伸べますので。あなた自身の内心の声にじっと耳を傾け、そして正しい、間違っていない。そう感じたなら、直ちに行動に移りましょうよ。何よりもあなた御自身の幸せの為に!99パーセントの汚泥の為に純正なゴールドを見誤る事のないように御用心、くれぐれも注意して下さい。再び、三度、あなた様御自身の幸福を身近に引き寄せる為にも。草加の爺は何時でも、皆さん方の御声掛けを辛抱強くお待ち申しております、嘘ではありませんよ、誓って。
2011年12月21日
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私は実は「キャリア学習サポート21」というNPOグループに加わっておりまして、研究会やワークショップなど色々な活動を仲間達と展開中であるますが、三年ほど前にこの会の顧問格の元大学教授のお勧めもあって「バカを磨け!― 幸せという義務」と言うタイトルの本を出版しようと意図して、原稿を纏めておりました。しかし「ビック・チャレンジ!」という映画の製作を思い立ち自分自身で出来る、最大限の努力を傾注してこの映画の実現に向けたプランを立てて、色々と行動・実践して来ました。所が、あの恐るべき東日本大震災の発生でした。未来ある青少年のキャリア教育に微力を尽くす。そして日本全国に対しては埼玉県という県が如何に素晴らしく魅力溢れる土地柄であるかをアピールする。延いては 全世界に向けて日本と日本人が如何に人間としての魅力に満ち溢れ更には数々の個性と特有の麗しい文化で溢れかえっているかを、サクセス・ストーリーと言う一大エンターテインメントでアピールしようと言う「壮大な目的」を有したプロジェクトだったとは言え、本当に断腸の思いで中断のやむなきに至った。普通に映画製作と言えば大資本による純粋に営利追求を目的としたものか映画が好きで同好の人同士が集っての小規模なそれであって、今回の「ビック・チャレンジ!」プロジェクトに見られる様な、「大義」や「公共的の利益」を目指したそれは娯楽映画のジャンルでは皆無でした。そもそも私やNPOグループと言った資金力の乏しい者達が大資本さえ制作を目論もうとしなかった超ド級の大作を手がけようとするなどと意図する事自体が、謂わば常識外れの「狂気の沙汰」なのですね。しかし、私は今何者かに背中を押されるようにして、次なる映画製作の青写真を描きつつあるのです、本当のこと。昨日私は或る出版社宛に「バカを磨け― 幸せと言う義務」の原稿を郵送したのです。慧眼の編集者の目に留まれば、忽ちにしてベストセラーは間違い無しと誇大的妄想を逞しくしているわけでも有りませんが、何かの糸口か次なるステップへの突破口になるのではないか、位の心算では居りますね。そして、もっと驚くべき事に「幸せ者」という私自身をモデルにした映画の実現を期して既にアクションを起こしている。英語のタイトルはA HAPPIEST MAN IN THE WORLD ですが、英文法の初歩で最上級には定冠詞のtheを付けるのが決まりですが、この場合の不定冠詞は「~の様な人」といった意味合いで付してあるもので知識不足の為に間違っているのではないことを、念のため補足しました。これは一人の名も無き庶民が、自分は世界で最も幸せな人間だ、と自覚する迄の物語であるが、日本の戦後史の一側面でもある。これがトップシーンのナレーションです。そうです、もう具体的にシナリオの構成まで出来上がっていると言うこの早手回しなこと。我ながら呆れているほど。ですから、事ほど左様に私・草加の爺の日常は超多忙を極めているのです、如何です、実に実に呆れ果てた所業ではありませんか……。こうして、この記事のタイトルに掲げた「幸せに取り憑かれた」と言うまことに罰当たりと申しますか、呆れた形容が出てきたのでした。自分のためではなく世のため、また人の為―今の私は、次代を担う青少年の未来の為に役立ちたい。その為の基金を確保したいというのが夢なのですから周囲の中傷(つまり、あいつは口では綺麗ごとを言っているが、本心は単なる金儲けさ、失敗するに違いないけどね、と言った類の)や、誤解を恐れずにまっしぐらに目的に向かって邁進するのみ。その資格と準備は少なからず私の仲に備わっているとまでは自負していますよ。出来ます事なら、世に隠れた篤志家の方を含めた大勢の方々のご協力を仰ぎたく、衷心よりお願い申し上げる次第であります。
2011年12月19日
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本ブログをご愛読頂いている方々には改めてお断りするまでもないのですが、最近からお読み頂くようになられた方もいらっしゃるのでまたまた自己紹介を兼ねてご披露させて頂きますと私・草加の爺は60歳で定年退職するまでテレビドラマのプロデューサーをしていました。自分で言うのも何なのですが業界では一寸は名の知られたプロデューサーとして在京キー局の大型企画作品を中心に数多くの作品を手がけて参っております。松平 健さん、渡辺 謙さん、渡瀬恒彦さん、宇津井健さん黒木 瞳さん、名取裕子さん、樹木希林さん、紺野美沙子さんなど、ほんの一部の方のお名前を挙げたに過ぎませんが作品でお世話になっています。そして考える所があって、定年を期に業界を去り、全く新しい世界に飛び込んだわけですが学生時代に教職の免許を取得しておりましたので、自然教師の真似事をするようになって早、八年が経過する。考えてみれば、年月の経過するのは本当に早いもので今お世話になっている学習塾では、小学一年生から高校を卒業した若者まで殆ど全教科にわたって(生意気なのですが行きがかり上そうなってしまったのです)、指導して結構生徒やその保護者様から好評を博しております。さてここからが今回の本論に入るわけですが、昨日のこと中学生の女生徒と話していた際に、「勉強が出来ない事は何も恥ずかしい事ではないよ。知らない事をそのままで放置しているそのことの方が、むしろ恥ずかしいと感じなければいけない。折角、学習塾に通っているのだから授業がない日にも自習に通って来なさい、いくらでも手助けするので」というような事を出来る限り穏やかに諭したのですが、その中学生は素直に受け止めてくれたようです。私が、少し時間が経過してから「はっ!」として気付かされた事があります。我ながら「何と素晴らしい事を言った物だ」と感心したのですね。知らないことそれ自体は何も恥ずべきではない。むしろ恥ずかしいと感じなければならないとすれば、自分が知らない事を隠して知った振りをしたりそのままで放置したりして、自分の無知と真正面から対峙し行動を起こさない事の方にあるだろう。ソクラテスの「無知の知・智」を持ち出すまでも無く、私たちは本来「何も知らない」のですからね。私はあの時にあの生徒を介して「何者か」にあの言葉を言わされた、のですね。生徒は、例えばそんな風に講師や教師役を務めている私に対して諭しや教えを垂れてくる、のでありますよ。こんな事がそれこそ数え切れないくらいに沢山ある。ある時に「その事実」に気付いてからは実に多くの相手から「言わされた」教訓に吃驚仰天の連続。生徒に教えている弾みで発言した言葉が、まるでブーメランの様に突然、何かの折に自分に「飛び掛ってくる」のですから。これを称して私は「自分にとっての天の啓示」と今では受け取っておりますよ。皆さん方にもこれに似た現象が多発している筈なのですから、騙されたと思ってで結構ですから少し注意してご自分の言動を「観察」してみて下さい。きっと、大いなる覚醒を経験なさるに間違いありません、本当です。
2011年12月16日
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私は現在お世話になっている学習塾に来るまでは凡そ掃除と名の付くことは嫌いで、敬遠し関わりを出来るだけ持たないように警戒さえしていました。それが現在では週に二回の業者のゴミの回収に備えてのゴミ出し作業などを自分から進んで加わるようにしている。この私自身の180度の変貌に一番吃驚しているのが、他ならぬ私なのですね。自分さえ良ければそれで良い。自己中心の生き方は積極的に他人に危害や損害を加えない限りにおいては、誰からも非難や攻撃を受けたりする筋合いの物では無い。しかし、世の中は相身互い。直接には利害関係を持っていなくても間接的に「助けたり、助けられたり」の密接不可分の人間関係の網の目の中に共生している事は自明ですが、しかしその自明な事柄をシッカリと日々の生活行動の中に生かしていく事とは、必ずしも一致出来ない。現在のビルに移転するまでの教室は塾内に専用のトイレがあり、男女に分かれて毎日分担の係りが決められて授業が終了後に指名された係りが清掃する決まりだった。私は其処で生まれて初めて自ら進んでトイレ掃除に取り組む事ができたのでした。六十歳を越えた年齢になってからですよ。そしてその作業が決して苦痛ではない事を実感したのです。苦痛どころか、実に楽しい、心地よい軽労働だった。一事が万事で、何事も自らの意思で、それも進んで物事に臨む事が出来るとすれば、「嫌な事」や「毛嫌いする事」などは何一つこの世に存在しなくなってしまう。この不思議。この驚異。行動してみれば、誰にでも出来る造作もない簡単な事。実践とは、時に考えていた時には想像すら出来ない「奇跡」を起こしてしまう。それを容易に変えてしまう。そうしたこの世の不思議を皆さん方も、ご自身の行動の中で是非とも体感して頂きたいと思うのです、本当なのですよ。世に言う所の不思議とか奇跡の類とは実は私たちの周囲に、極身近な所にごろごろ、ウヨウヨと群れを成して存在している、そうに違いない!如何でしょう?
2011年12月14日
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幸せとか幸福と言う物は、メーテルリンクの戯曲「青い鳥」のチルチル・ミチルではありませんが何処か遠い所に探しに行かなくてはならないもの、と考え勝ちですが、所がそうではありませんで、私たちの直ぐ目の前に、自分の方から手を伸ばしさえすれば、唯それだけの努力で獲得できる対象だったのですね、本当の所は。それなのに私も貴方も、こぞって無駄な努力ばかりしてあらぬ所にばかり視線を走らせ、また関心を寄せたりしてばかり。愚かと言えばこれ程の愚かな事は無いのですね、実際。私がお世話になっている「キャリア学習サポート21」のメンバーで同じ草加市の住人でもあるオギャリンさんこと小川氏はそのブログに「素直な心を持とう」と書き綴られていらっしゃいます。本当に、素直になるという極めて当たり前に思えることが意外に難しい現実があることを窺わせて、示唆に富んだ、また役に立つ内容ですので、是非機会を設けて御一読をお勧めいたします。私は私で、労せずして手中に出来る幸福をあたら自分の方から見捨てたり、手放しているも同然の人々が余りにも大勢いらっしゃる事実に愕然とし、及ばずながらのアドバイスなりと世のため人の為に少しでも役立つことがしてみたいと、日夜心を砕いておる所ですよ。それにつけても、毎日近くの学習塾で小学生から高校生までの生徒と接していて一番強く感じるのは、親や学校の教師は「意図して」子供達を「勉強嫌い」にさせているのではないかと訝るほど勉強を嫌いにさせる名人揃い、いや決して誇張や冗談、或いは言葉の綾などでは全く有りません。幸福の場合と同様、それと気付かずに徒労に終わる、いや、それ以上に嫌悪・唾棄すべき行動を私たちは数多くしている事に、改めて吃驚させられますね、残念ながら。如何ですか、何か参考になる所が御座いましたでしょうか?どうぞお気軽にご連絡等を頂戴できますと幸いで御座いますが。
2011年12月13日
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古代の古き良き時代には、老人が尊敬され、大切にされた「伝説」がありますが(勿論姥捨てなどと言う悲惨な現実も有ったようです)、少子高齢化の今日では年金や医療費の増大などの問題で、まるで厄介者扱いを受けてばかりの様に感じられ、老人の仲間入りしている小生と致しましては誠に肩身が狭い思いなのですが、ここでも「にも拘らず」に本当に脳天気な発言をしますよ。今年の夏にお世話になっている学習塾の講師仲間から誘われて東部動物公園のプールに行きました。初めて行った東部動物公園は実に広大な敷地面積を有しており酷暑の炎天下で入場門を潜り抜けてからプールの入り口に辿り着くのに徒歩で優に30分以上を要した。小生は今年68歳ですからこの種の施設のプールに入るのは記憶に無いくらいに遠い過去、恐らくは二・三十年振りでしょうか、だったのでビーチ・サンダルすら持たずに、さながら焼けた鉄板状態のコンクリートの熱さに耐え切れず慌ててプール内部の売店で購入する体たらくでしたが、兎に角半日をプールで大学生達と過ごした。楽しかったのですが、その後が大変。やけどをした背中はひりひりと二週間以上は痛み続け、背中の皮膚は醜く剥がれ落ち、散々でした。今回は新三郷にあるスポッチャなる所にまたまた性懲りも無く大学生中心の有志の集いに加わり、深夜から翌日の夜明けまで実に十種類に余るスポーツや遊びを経験した。いくら強気の私でも、内心ではケガをするのではないかとか、後で酷い疲れや痛みが体中に残るのではないか、とか不安が一杯でした。しかし24時間以上が経過した現在のところは、心配した様な不具合はなく軽い疲れ、中程度の筋肉痛で済んでいますから、心配するような強度の後遺症は恐らく杞憂に終わるのではないかと予想されますね。またそう願いたい所です。何が言いたいのかと申しますと、実に、実に楽しい深夜から夜明けにかけての数時間であった事。ですから虚勢や誇張でなく、心底から貴重で楽しく、また有意義な時間であったと塾の講師仲間に深甚なる感謝の念を捧げると同時に、「神や天」に対しても感謝の念に耐えない次第なのですね、勿論本心からですよ。ですから、今の私には恐れる事は何も無くなっている。本当に自分自身で信じられない様な事態に立ち至っている。それで、自慢するわけではありませんがこれは、つまり私の様な「積極的で全肯定的な生き方」は、その気になりさえすれば誰にでも出来る、それ故に極普通の、そして極めて普遍的な「当たり前な生き方」であり、この世に生を受けた以上は皆が、その身に受けている果報の木の実を味わい楽しまないと、勿体無いと考えるのです。如何でしょう、何処か可笑しな所でもありましたか?不幸で居るなんて、そしてその不幸の下手人探しをして、不貞腐れているとしたら本当に罰当たりな事だと、声を大にして主張したいのですが如何思われますか?率直なご意見・ご異見などお聞かせ下さいませんでしょうか。衷心よりお願い申し上げます、何卒。草加の爺 謹白
2011年12月12日
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私は今、最高に幸せな人生を生きています、本当ですよ。で、何故、如何してそうなっているのか何度もその理由について考えているのですが、結局は良く分かりません。兎に角理由はどうであれ現在が幸せならば、それでいいじゃないか?と一応は自分なりに結論を付けてみましたが、「幸せを売る人間」を自認する者としてはそれだけで済ましておく事ができない事に気付きました。それで、更に目下の所考慮中なのでありますが自分と反対のケースを考えて見ました。此処に一人の「不幸なひと」がいる。何故、その人は不幸なのか?、と。色々と理由は考えられるしその理由・原因についても何も一つだけとは限定できないかも知れない。つまり様々な要因が複雑に絡み合い作用して、現在の不幸を成立させている。と言った具合に、ですね。幸福だから、幸福なんだ。不幸だから不幸なんだ。こんな風な一見投げやりな理由付けが、結局は一番合理的な結論なのかも知れませんね、本当は。所で、今現在日本に、いや、地球上に何十億と言う人々が生存していて、その大半が「不幸」の只中に生き、生活苦に喘いでいる、呻吟している。それは間違いの無い事実であると、実は私は既に知識として知っているのですよ。それなのに、自分ひとりだけ幸福だ、幸せだ等と放言するのは全く無責任極まりない。何処かの誰かさんからキツイお叱りの言葉が飛んで来そうにも思われる。逆に、いやいやそうではない。大勢の不幸者の居る中でたった一人でも、主体的に幸せだと感じられる人間がいると言う事だけで立派ではないか、そんなお褒めの言葉が頂戴できるかも知れない。と、こんな風な堂々巡りの「下手な考え」に頭の中が混乱させられたりしてもいますよ。振り返ってみると、二十歳前後の頃の私はと言うと、それこそ世界中の不幸を自分ひとりが独り占めにしているのではないか、と思われるような主観的な、或いは「独善的な」苦悩者でありました。その記憶だけは鮮明で終生忘れる事は無いでしょう。しかし、その理由や原因は?となると、今日では皆目見当もつかない、すっかりと忘れ去ってしまっている。本当の本当、嘘などではありませんよ。そして、今の私はそれで良いのだと心底思っています。少なくとも自分の「不幸」を売り物にするような愚かな真似だけは出来るだけしたくない。そう確信している。そうかと言って逆に自分の幸せを自慢するのも憚られもするが、此方の方は「自慢しても」よさそうな気がしないでもない。何故なら、客観的に自分自身を反省してみると、「不幸」になっていても可笑しくはない色々な要素が、実は現在の私には「沢山」あるから。数え上げれば恐らくきりが無いほどに……。試みに少しばかり例を具体的に数え上げてみると一つ、68歳の老人である故に身体中のあちこちにがたが来ている。ひとつ貧乏である、但し直ぐには餓死する心配だけはない。ひとつ、94歳の老母が寝たきりの「赤ちゃん状態」にあり、状態がよい時には早くあの世からお迎えに来て欲しいと口走ったりしている。ひとつ、花粉症が酷く一年中何らかの花粉の飛散に悩まされ続けである。ひとつ、プロデューサー時代に公私にわたってお世話になった恩人にこれと言った恩返しが出来ないで居る。その人は経済的には私などより遥かに恵まれているが、最近まで「わが世の春」を謳歌していた「特権的な立場」を年齢制限という不可避の条件ゆえに「剥奪」され私の様な人間には、本当に何一つお手伝いする方策が無い、情けない。ひとつ、それ故に世が世であれば(幸福な時代が続いていれば)その恩人と二人でプロダクションを設立して好きな映画やドラマなどを製作したいのだがそれは所詮叶わない夢のまた夢、残念無念。ひとつ、好きなスポーツ三昧に耽りたいところだが、年齢ゆえに思うに任せない、身体が言う事を聞いてくれない。これは人間の宿命で致し方の無い事と諦めているが、性分で諦めが悪い。スキーや社交ダンスなども本格的にやってみたいのだが、当分の間は事情が許さない。などなどと、煩悩過多の身ですので悩み事のタネは尽きませんね。にも拘らず、現在がわたしの拙い人生の中で最高というのは、如何にお粗末なそして自業自得の過去であったかがおのずと浮き彫りになって慙愧の念に耐えませんが、一方では自分なりに精一杯の、そしてまた、無我夢中であり必死の人生行路でありましたから、悔いは少しも残っていませんよ。東京都から埼玉県の草加市へと移り住んで、本当に「住めば都」を実感している今日この頃。皆さん方も、心掛け次第では、現状其の儘で「極楽往生・即身成仏」が可能だという真理をお忘れなく、私のように「愚か者」に成り切って現状の強い肯定、それも全肯定を断行してみて下さい。また、その為のアドバイス、お手伝い、何でも致しますからお気軽にご連絡などしてみた下さい。衷心よりお待ち申し上げております、本当ですよ!
2011年12月08日
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「就活」とは大学生などが就職に向けての活動を展開することを称しての呼称として一般に定着している。実はこの就活就職活動は一生涯にわたって継続的に実施されるべき性質のものであって今日のように「泥縄式」(念のために説明しますが、泥棒を捕まえてからその泥棒を縛り上げる為の縄を藁から綯うような、計画性の無い態度を言う)の就職活動が、それだけが就活だと言うような風潮に対して私・草加の爺は強い違和感を感じているので、今回はこの事に就いて書いてみようと思っています。徳川家康は自分の人生を「重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し」と形容しています。天下人になるような特殊なお人の場合だけでなく、この言葉が人口に膾炙している背景には一様に、忍耐や辛抱を強いられる私たち普通人にも強く共感できる要素があるからだろうと首肯出来ます。しかし、その様に人生を重く、そして暗くのみ捉えるだけが私たちに一様に与えられている人生ではないようですね。なるようになるさケセラセラと楽観する心組みの上に、この度の東日本大震災に見られるように何時いかなる時に、思いもかけぬ「災難」が降りかかってくるか知れない「一寸先は闇」の人生に備えて、常日頃から自分自身を磨きに磨き鍛えに鍛えておく細心で周到な備えがあれば、憂いは少ないのです。いや、少ないばかりではない。楽しみが倍加する。苦しみや、辛さが一変して実に楽しいハッピー・ライフになっている。自分自身の人生と真正面から向かい合う覚悟さえ固めていれば。そして最初の話に戻れば、就職の本当の備えや活動準備は幼少期からはじめなければ本当はいけない。親の指導、躾、教育、これがとても大切。親が自らの生き方を通してする真実の教え。これこそが教育の要なのですから。こんな風に言うと、必ず次のような答えが返ってくる。「私共にはそんな立派な生き方も、素晴らしい教育法もありません。だからこそ立派な学校や、有名大学に子供達を入学させたいと望んでいるのです」と言った様な具合に。でも、一寸待ってください。蛙の子は蛙と言いませんか?瓜の蔓に茄子(なすび)は生らない道理です。ダメな親からどうして立派な子供が出来てくるでしょうか。もっとご自分に自信を持って下さいな。えっ、自分には学歴が無い。立派な職歴も無い。自慢できるような特別な才能も皆無。そう、仰言るのですね。人に自慢の出来る物が一つも無くっても他人から後ろ指指される様な後暗い事さえしていなければ、誰に遠慮が要りましょう。堂々と胸を張って生きたらよいでは有りませんか。子供に教えたらよい。少なくとも、例えば落語に出てくる江戸長屋の住人・熊さんや八ちゃんは貧乏暮らしを物ともせずに肩で風を切って、汚い路地裏を闊歩していましたしそれで、何処からも文句は来なかった。倅には無学をも恥じずに、偉そうなお説教さえして憚らなかった。自由平等とはそうした風土を指して言うのではありませんか。自分にプライドを持つのに、理由や根拠など何一つ必要とはしない。自分が自分である、だから自信を持って胸を張って生きる。貧乏だって、何も恥ずかしい事ではない。盗みをしたり人の財布から無理やり中味を強奪して澄ましている「泥棒紳士」も世の中には少なくは無い。精一杯、根限りの努力をしての貧乏なら何も恐れるものは無いのですね。ですから、兎も角も正々堂々と生きてみたらよい。子供にも正々堂々と対したらよいでは有りませんか?如何です、ご納得頂けましたか。その上で、就職活動(本来のです)に向けた不断の努力を続けましょうよ。人生では、死の直前までもう遅いと言う事は無いのですから。何時だってやり直しが利くし仮にまた失敗した所で、新しい可能瀬が開けた。思いもかけなかった別の道が発見できるのだと、前向き、積極的に事態を捉えて絶望等と言う忌まわしいものには見向きもしないで居て欲しい。それでも失敗を重ねたとしたら。これでこそ、ユニークな貴重な体験が思いがけずに出来てラッキーと極めてポジティブに受け止めてやりましょよ。人生には勝ち負けも、失敗も成功もないのです、本来は。偏見や先入観に捉われる事が無い限りは、明るく、また楽しい毎日しか無いのですね。人生には至る所に青山あり、と昔の人は教えてくれました。青山とは青々と木々が茂った素晴らしい山ですが、自分が生まれ育った故郷の懐かしい山々に匹敵する住みやすい場所であり、そこを終(つい)の棲家即ち、お墓を作って永遠に心を安らげる理想の土地を意味します。失敗も挫折も、誰もが忌み嫌う災厄でさえもが、対処する心掛け次第では希望へと導くチャンスと変ずる事がある。職業は、その選択は一生の大事です。と言う事は、何も皆が血眼になって「天職」を追求すべきだということを意味するのでは有りません。本来は、医者になるはずだった人が、農民になったり、教師たるべく生まれついた人間が漁師になっても少しも可笑しくは無いのですね。同様に、一人の人間が一回の人生で様々な職種を転々としたとしても、誰にも気兼ねする必要はない。人間の力ではどうしようもない事と言う物が、紛れも無く存在する以上は。
2011年12月07日
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何事にも流行り廃りがあるのですから、所謂「婚活」なるもの結婚に向けての積極果敢な行動が、独身男女の間で一種の流行・ブームとなっているのも、その一つとして客観視すれば何の不思議も無い。しかし、そうとばかりも言っておられない流行現象ではあるますまいか。つまりあの恐ろしい東日本大震災の影響が大きいのだとか、の説が巷では俄然浮上して来ているそうですが、もしもそれが本当だとすれば人生では何時なんどき、何が起きて自分がどうなってしまうか分からないから、良いタイミングが来るまでじっくりと、慎重に好機を覗っている暇など無かった事に、ようやく気がついた独身者が可能な限り速い時期に、かねてから心の隅に温めていた結婚への願望を実際の行動に移し始めた、と言うような具合になる。雑駁な論の立て方で誠に恐縮ではありますが、仮定の話にもう少し、お付き合いをお願いします。もしそうなら、結構ずくめで歓迎すべき事態ではないかと一見しては思われるのですが、そうではないからこそ臍曲がりの私・草加の爺がまたぞろ、横槍を入れたくなったりするのですね。急いては事を仕損じる、と諺でも教えているように事を急いでは余り良い結果は得られないのが世の常識というものですよ。泥縄(―泥棒を捕まえてから、その泥棒を縛り上げる縄を藁から縒り上げて作るような計画性の無い行動の仕方を戒めた教訓の言葉)式とか、拙速とか急がば回れ、とか。色々と人生の大事に際しては用意周到に事を運べと古人たちは私たちに貴重な教訓を残してくれていますね。この世に男と女が居て、男女の中に子供が生まれてくるように造られているからには、成人男女はすべからく程よい時期に結婚するのが良い。そうに決まっているし、本来はそうあるのが自然な男女のあり方。それを原則として定めて置いて、そのほかは色々な事情でそう出来ない人或いは、そうしたくない人は例外として、それは別個に「個人の自由」だと別の定めを置いておけば、この世は円く収まるようになっている。それを驕り昂ぶった「人間共が」、その分際も弁えずに勝手放題の「我が儘」を遣りつくして、それこそ「勝手に」不幸を呼び込んでいる。天や神の方向から見た場合には、そんな風に見えるに違いない。そう私・草加の爺は反省しているのですが、あなた様は如何お思いでしょう?貴重なご意見などお聞かせ頂けましたら幸甚に存じます。
2011年12月03日
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今年、年下の友人から招待をを受けて人前結婚式と言う物に、生まれて初めて参加しました。なかなかに立派な結婚式場で、いかにも今時の若い人たちに人気がありそうな施設であり、立地環境でした。さぞかし予算などもかなりな額を必要としたのだろう、と世間知らずの老人は思ったものでした。それは兎も角として結婚という人生の節目に際して、大多数の人が「結婚式」という形式に非常にこだわりを持ち、出来る事ならば豪華に、また盛大に執り行いたいと望むもののようです。しかし、形式は表面的、外見的な他人に対する一種の「見得」の様なセレモニー。本当は、結婚する当事者はもとより近親者を始めとする参列者にとっても、比較的に軽いもの、或いは極端な言い方をすれば「如何でも良いこと」の部類に属します。所が、私の様な「ひねくれ者」の目からするとその順序が全く逆転している如くに感じられて仕方が無い。結婚式さえ立派ならば、或いは外国の「ロマンチックなチャペル」で夢の様なウエディング・ドレスが着られるなら、それで本望だ。そんな風に思われて仕方が無いのですね。肝心要の結婚の中味の方は意識の外に置かれている。そんな印象。いや、当事者と祝福する側との両者が完全に満足して、二人の結婚生活が平穏無事に「共白髪」まで添い遂げる。そんなカップルばかりが世の中に満ち満ちているのならば、いくらへそ曲がりな私・草加の爺も下手な口出しなど致しませんよ。現実には皆さん方がよくご存知の本当に厳しい真相が隠されている。離婚、家庭内の別居、形式だけの同居、などなど悲惨な現実はそれこそ山のよう。だからこそせめて結婚式の時だけでも「一時の幸福幻想」を体験しておきたいのだ。もしその様にお考えの人が居られたとしたらむしろ人生を達観した「見上げたお方」として賞賛したい。仏教では俗に「八苦の娑婆」と言います。私たちの生きているこの俗世は様々な苦難が溢れている。中でも男女の関係と言う物は「複雑怪奇」ですよね。結婚生活は「辛苦の山」と形容しても良い程。仇や疎かに結婚という人生の大事を考えてはいけない。そんな事は今更らしく他人から指摘されるまでもないこと……。えっ、本当にその様な自覚と覚悟をお持ちでいらっしゃる?私・草加の爺にはそんなこととても信じられない、本当に!!次回に「婚活の流行現象」についても触れる予定で居りますが、私は大人たちの世代の無責任さが真の原因だと考える者であります。そして更に遡って真相を究明すればその親世代の無責任を問題にしなければならない。要するに、人生の大事に対しての備えや基礎教育が全くと言って良い程に成されていなかった悲しく、残念な現実をよくよく見極めてみなければならないのですね、実際は。
2011年12月01日
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