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便利とは何か?辞書によると「それを使う・(そこに有る)ことによって何かが・都合よく(楽に)行われる様子」とある。また生徒との現代文の読解の時間に、あるテキストには「欲しい物が素早く手に入ること」という説明がありました。簡にして要を得たものと思いますので、こちらの解釈を使わせて貰いましょうか。欲しい物が最初から明確に分かっているという前提に立てばこれは殆ど完璧な「人間の理想」でありましょう。しかし何が一体自分にとって一番に必要なのか?或いはまた、そもそも自分は人生に何を求めているのか?そんな風に自問自答する人間が居たとしたらどんな事になるのでしょうかね……。そんなバカは早くこの世から消えてしまえ―、とでも言えばよいのでしょうか。その目障りなバカの代表者の様な私は、世間からは無言の内に白眼視され、無視され、変人扱いされ続けて来ました、つい最近までは。ここでもう一つ質問です。機械と人間との決定的な違いは那辺にあるか、という疑問。お分かりになりますか。結構、難問でしょう。答え、何も違いはありません。吃驚しましたか、それとも冗談も休み休み言えとお怒りですか。からかっているのでも、冗談を言ったり無駄口を叩いているのでもない。大真面目に皆さん方に問い掛けをしたのですがね。つまり、機械がこの世で最高の産物であると考えている人にとって完璧な合目的性を備えたロボットこそ理想そのものでありましょう。あらゆる人が忌み嫌う危険で、退屈で、困難なだけの仕事をロボットたちは進んで、積極的に、どんな場合にも「いや」と言わずに完璧にこなす。ブラボー!万歳!フラー!嫌な事、苦しい事は全部を彼らに任せて、我々人間は昼寝でもして過ごす事にしましょうかね。えっ、崇高な仕事が沢山残っている?!本当ですか、例えばどんな事です?困難な事、苦しい事を除いてしまったら後には「崇高」の「す」の字も残ってはいませんでしょう。最後にダメを押す心算で究極の極論を申し上げます。現代はスポーツが盛んでプロの一流選手が英雄として持て囃されていますが、超一流のアスリートなど何処かロボットに酷似していませんでしょうか、あの人間離れしたアクロバティックな曲芸技と言い、筋肉隆々たる容姿と言い。観客席の大衆は目だけ異様に光らせながら自分達の英雄の勇姿に熱狂し、興奮する。何か異様な雰囲気を感じているのは変人の私一人だけでしょうかね。運動好きの私はスポーツなどは見るより、ド下手でも自分の身体を動かす方がどれだけ楽しい事か、と思っています、常日頃から。苦は楽の種、楽は苦の種、なのです。人生のパラドックスとはこれ。皆さん、篤とお考え下さい、じっくりと十分時間を掛けて。何度も書いている事ですが、疑問、質問、反論など何なりと歓迎いたします。一方通行は詰まらないでしょう。コミュニケーションを取りましょうよ。
2011年10月29日
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間もなく一人の生徒が私の元を巣立って行こうとしている。季節はずれではないかと人は訝しく思われるかもしれません。彼は公立の学校から見捨てられ、担任の教師からは見限られ、見放された、4・5年前に。現行の公教育制度ではやはり限度というものがあり、已むを得ない成り行きだったとは考えながらも、強い憤りにも似た感情がこみ上げてくるのを禁じることが出来ない。必死の思いの親御さんの気持ちが天に通じたのかも知れない、彼との出会いが生じたのは。私の拙い文章をあちこちでお読み頂いている方には毎度の事と感じられるでしょうが、人一倍己惚れの強い私・草加の爺ですが今日の彼の姿・在り様を正直、想像すら出来なかった……。誰の手柄なのか?そんな次元の低い話などと仰らずに、もう少し続きを聞いて下さい、あなた御自身の為に。客観的には全く絶望的で一縷の望みさえ見えない。そんな状況の中で、一種の盲目的な親の愛情が奇跡を呼び込んだ。一応はその様に言える。事のキッカケは現象的に見ればその通り、間違いないでしょう。しかし、親御さんに「非常識」な「蛮勇」にも似た強烈な力を与えたのは一体誰か、何処の何方なのか?私はここで古代ギリシャの賢人・ソクラテスを思わないではいられないのです。その産婆術の拠って来たる所を。彼、ソクラテスは信心深い古代ギリシャ人の中でも独自の敬神の法を有していた様に思われる。敵国との戦闘の最中でも彼は時としてその場にじっと佇み、微動だにしない長い時間を持つことが有ったらしい。その間に彼の内部でどの様な出来事・不思議が起きていたのか当人以外には知る人は無い。彼が深く信じていた「神」と独特の交信が行われていたのだろう。と周囲の人々は想像した。彼ほど人間の限界というものを深く根本的に掘り下げて考えた偉人も居ない。私にいわせれば、慧眼並ぶもの無い無類の哲人にして、であります。汝自身を知れ、と教えた彼はまた人一倍自分と言う存在を知ろうと血の滲む様な努力を怠らなかった。彼は巷に出て、世の為・人の為になる素質豊かな青年を探し、彼らが知らずして「身ごもって」居る状態を即座に察知して、相手に最も相応しい魂の教育法を駆使して、無事に「出産」させようと腐心した。それが彼自らが「産婆術」と命名したユニークな教育術の正体なのだ。私たちに子宝が「神」から授かる如く、叡智もそれに相応しい「親」から天与の恵みとして地上に下される。と、少なくともソクラテスは固く信じた。ソクラテスの弟子を僭称する私も、私の生徒に拙劣極まりない「産婆術」を施したに過ぎない。私には何も出来なかった、只管彼が無言の内に発していた心の声を信じる事以外には。浅学菲才の私は専心、彼を暖かく見守り声にならない声援を贈り続けるしか芸がなかった。有難い事に、本当に有難い事だと感謝しなければならない事ですが、彼は今非常に前向きにあんなに忌み嫌っていた勉強を進んで行っているのですから。教師冥利に尽きるとは正にこの事でありましょうね。で、このブログをお読み下さっている皆さんへの改めての私からのメッセージですが皆さんは、自分自身と本当に辛抱強く向き合い、我慢強くお付き合いなさっていらっしゃいますか?如何でしょうか、それが始まりであり同時に究極の「人間関係」でもあるわけですね。お子さんや、夫や妻や、友人や、知人達と仲良く正しい付き合いをする前提として、先ず何をおいても足元を固めて置きませんと立派な、本当の人間関係は構築出来ないのが道理というものではありませんかね、如何。
2011年10月26日
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私たちは通常社会という人々の中に生まれてその社会の中で死を迎える。所謂「孤独死」と言われる悲しいそれも含めてです。誕生にも「孤独生」と呼べるものがある。社会から見捨てられた死も、社会や生物学的な親から認知されないとても不幸な誕生をも、ここでは一応社会の中での出来事と考えておきましょうか。主観的に、または客観的に「孤絶・孤立・隔絶」していたとしてもその不幸極まりない事態・出来事は、正に社会全体の責任と見做さなければならない。人間が社会的動物であると言うのは、つまりはそういう事。ですから私は個人が生甲斐という問題を考える際には、先ず他者との関係を第一に重要視する必要があると思っています。つまり自分が如何にして他者の役に立っているかという点ですね。そして大勢の人の役に立てている。そう最初に直ぐ考える事のできる人は幸せです、たとえそれが間違った認識であったとしても。その人の個人的な生甲斐を問題にする限りでは。しかし、そうで無い人はどうしたらよいか。多分、今の世の中では他人の役に立てていないと自己診断する人の方が多いのではないでしょうか?自分は無価値だ、誰の役にも立っていない、生きてる意味が全く無い、などと。が、一寸待ってくださいな。この世に人の役に立っていない人などは存在しないのですからね。何よりも先ず自分自身の役に立っているしその自覚が持てないからと言って、自己否定するのは天に対する冒涜でしょう。当事者が強く自己否定する前に、周囲の人々(親、兄弟姉妹、親戚、近所の人地域社会の人々、などなど)の責任が、或いは無責任が強く問題にされなくてはならないでしょう。個人は誰でも「生まれるべくして」この世に生命を享け大切に迎え入れられる天与の資格を有している、極めて「有難い」存在である。この世に存在する金銀宝玉といったどんな宝物よりも真価を認められずに蔑ろににされているとしたら、その社会は腐敗堕落の極致に落ち込んでいると断言せざるを得ませんでしょうよ、如何ですか?兎に角、現在の自分の在り方を「無条件」で肯定する。そして行動を前向きな第一歩を、可能なところから踏み出してみようではありませんか。間違いや失敗を恐れる事は少しもありません。何故なら、あなたは楽しむ為にこの世に生を享けたのですからね。理屈抜きで、そういう考え方を身に付ける。とても大切なこと、必要不可欠な事柄と思いましょうよ。人生というものは不思議なものでして、気分が考えたり、心の中で思っている様に成っていくもの。ですから、最初は少々無理をしてでも前向きで、積極的でポジティブな考えや思考法を実行してみることです。一度きりの人生、楽しまなくて苦しむのは、苦しむだけなのは詰まらないじゃありませんか。何よりも先ずはあなた自身の為にそして次は身近な人の為に、そして最後には総仕上げの仕事に社会全体の為に、役立つように努めて見ましょう。すると如何でしょう?あなたの生甲斐の総量が知らぬ間に驚くほど大きなそれに変化している事に気づく事になる筈。下手な考えは何もしないのより劣っています。間違えても良い、失敗しても良い。とにかく行動してみる事。それが一種の袋小路や蟻地獄から抜け出す秘訣。その袋小路や蟻地獄と見えたものが幻想にしか過ぎなかった事実を後になってから私たちは気づくのが常なのですからね、本当ですよ。騙されたと思って清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気を奮い起こして、行動する!一歩を踏み出す事が今は何よりも大事なのです、一歩の踏み出しが。
2011年10月24日
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私自身が様々な気づきによって、感謝・感謝の毎日を送れるようになった所為か、人様の生き方の実相が本当に良く見えるようになってきました。例えば人々は実に、実に「欲が深い」のですが、それをもっと具体的に申せば、出発点で「白紙の状態」が謂わば暗黙の了解となっているのに、実に様々な「お荷物や前提条件」を既に仰山なほど抱え込んで、梃子でも離さない決意で居る。それで当然と、頭から信じて疑わない、平気の平左でいる。えっ、何のことか分からないからもっと具体的に説明しろ。これは、失礼致しました。極身近な例で申し上げましょう。私たちが一様に心の底から望んでいるらしい、幸せになる事を選んで解説しますと、私が「幸せになるのは簡単です」と提言したとします。すると貴方・彼方は自分流の幸せの前提条件をしこたま抱え込んでいて身構える。曰く、金持ちでなくてはいけない。いわく、容姿端麗でなければ話にならない。曰く、頭脳明晰でなければ詰まらない。曰く、何々、何々……。私の方はと言えば、説明の必要が無い事として、スタート・ポイントは全くの白紙状態であり、無条件、前提条件なし、と端から考えている。もう既にこの時点で、話は大きく食い違いを見せている。従って私が次に何を言ったところで、辻褄が合う道理がありませんね。まあ、ざっとこの様な次第です、一から十までイスカの嘴(はし)ととんでもなく食い違ってしまう。私には私なりの弁解があるのですが皆様方にも「正当」な理由が有る。五分五分の引き分け、と落着いて居られても困るのですね。是非とも大勢の方に本来在るべき立ち位置のハッピー・ライフ、幸せな生活を御自分の物にして頂きたいからですよ。この世ではあれもこれも全てを自分の物にするわけにはいかない。何かを選び取った瞬間に、何か別の大切な物を失わなければならない。これが現世での根本的なあり方。文句を言っても、わめいてもどうしようもない定め、道理なのですから、素直に受け入れて頂かない事にはどうにも成りません。念の為に申し添えますが、この鉄則は私が意地悪してそうしている訳ではない。過去・現在・未来に亘って動かす事ができない人間の、いや、生物全体の宿命の様なもの。この事実を素直に受け入れて貰えない内は、どんな親切も、お節介も全く役に立たない。私がくどいほどこの点に拘っているにはそれなりの根拠があるのですが、話を先に勧めることに致しましょうか。心理学の用語にリフレイミングというのがある。簡単にいえば「言い換え」です。つまり短所は長所、長所は其の儘で短所ともなるので、短所があると嘆かないで同じ短所を長所になるように言い換える。つまり、愚図ならば思慮深く軽挙妄動しない性格、などと。何かを失ったならば大切な別の何かを得ている筈と、極めてポジティブに考え前向きに行動する。どうですか、悲観ばかりしなくてもよいと納得がいきましたか。そうです、その通りですよ。心の持ち方次第だったのです。心は思うほど簡単には自分の思うようには出来ないのですが訓練と工夫によってはある程度までは制御可能となる。そこを頼りに私たちは精進と努力とを続ける事が出来る。しかし、精進に努力などと言うと途端に嫌な顔をする人が大勢いらっしゃるのですが、何もご心配には及びません。努力も精進も習慣にしてしまえば楽しいだけの行動に変化して、あなたが今想像しているような嫌らしい、憎たらしいだけのものでは無くなりますから。ほんの暫くだけのご辛抱で済みますよ。兎に角、今日からでも明るく前向きな気持ちに切り替える訓練を始めてみませんか。あら不思議、人生って満更棄てたものじゃ無かったと眼から鱗が落ちますからね、本当に、本当に大丈夫ですよ。
2011年10月23日
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迷信の類は世の中に沢山ありますが殆ど全部が過去のものとなっている。そんな迷信が現代に蔓延っていて迷信の中の迷信となっていますね。区別と差別似たようなカテゴリーに属するように感じられますが実体はまるで違っている。区別は、二つ、または二つ以上のものの間にある特徴の違い(によって、それらを分けること)で、当然そうしなければいけない場合であり、そうすることで私たちは利益を受け、生活が楽になる。しかし、差別となると価値判断による違い(に基づき、扱いを区別すること)となり、その殆どが根拠の無い「価値判断」が前提になった不当で、不合理な分け隔てとなっている。私たちの生活が楽になったり楽しくなったりするどころか、反対に無闇に不利益を蒙るばかりでメリットは何も無い。しかしそれが前述のように罷り通っているからにはそれなりの「長所」もあるのでしょう。ネガティブで陰湿で、一口で言えば地下に潜らされたマイナスの権力欲の意趣返し・復讐的な、まことに厭らしいそれ。大手を振って正面から通行できないので、ドサクサに紛れて自己主張しようという「病的な執念」が取付いた本当に厄介な代物と言わざるを得ない。歪つな社会に生まれるべくして出現している歪つな考えで、いっそのこと現代の妖怪とでも敢て呼びたくなる。この様に私・草加の爺が口を極めて罵りたくなったのには、それなりの理由があります。妖怪の類だけに正体や姿が白昼では見えにくい。少なくともその気配に鈍感な人々には。それだけに始末に困る。大勢の人が無頓着で済ます事が出来るし、現に済まして平気ですね。実に腹立たしい、本当に。その一つが専業主婦という役割や仕事・立場などに対する根強い差別・偏見、そして色眼鏡。私などは嘗ての古き良き時代の日本には確かに存在した女性たちの在り方にある種の崇高さまで感じてしまう「時代遅れ」の古い人間ですから現代の余りにも行き過ぎた偏りを悲しく、また残念に思っているのでした。家族と言う愛する対象に命を賭けて奉仕しすることが、そんなにも賎しく、恥ずかしい、そして価値の無い活き方でしょうか、実際。この様に言いますと決まって、戦後女性たちの血と汗で勝ち取った男女共同参画の尊い世の中を、古い封建思想を持ち出して無に帰そうと企むのか、この時代遅れの耄碌爺!と、強烈な反論が出てきます。しかし、早とちりはしないで頂きたい。私はなにも女性は全員家庭に帰れ、専業主婦に納まれなどとは一回も口にしておりませんしその様に考えた事も無い。ただ昨今の風潮が余りにも偏りすぎている事を大変に嘆いているだけに過ぎない。そして、もう一つ気掛かりな事柄。頭脳労働と肉体労働の過度な差別の存在。そして考えてみると主婦の仕事の大半が肉体労働という「下級な仕事」であるという認識。本当にそうでしょうかね? 主婦にはサラリーマン以上に知的で深い配慮や全知全能を傾けつくさなければならない知的な高級な頭脳労働の部分も沢山ありますでしょ。成程、それもひっくるめて「主婦業」は割りに合わないと、緻密な計算を抜かりなくした上での判断だったわけでしょうかね。だとしたら尚のこと、そんな計算高いだけの考えは危険ですよ。お金に換算できない尊い仕事が世の中にはまだまだ数多く存在しています、本当に。どうかご自分の頭とハートを全部使って十分に時間をかけて考えてみて下さいませんか。お願い致します。
2011年10月20日
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欲張りな私たちは多くを望み、多くを手中にしたいと願います。しかしそうは上手い具合に問屋が卸してはくれない。目先の事に追われて何か大切だとその時に思われていたものを追い求め、運良く目指す目的の対象を獲得して、やれ安心と一息吐いた瞬間に、あっしまった大切なもう一つの大事な事柄を残念ながら失ってしまっていたことに、改めて気付く。ままあることですね。太平洋戦争に負けた日本人は、経済発展だけに目標を定めて只管に、ただもうガムシャラに形振り構わず、国民が一丸となってエコノミック・アニマルなどとの揶揄も気にせず、頑張りに頑張りを続けた。その結果、東洋から唯一国だけ欧米先進国の仲間に数えられる繁栄と豊かさとを自分達のものとすることが出来た。今の時点で冷静に反省してみる時に、その代償として失った「何か大切なもの」の貴重なのに気付いて、呆然自失する人も決して少なくはない筈。その例の一つとして私は専業主婦に対する行き過ぎた否定的態度について分析してみようと考えました。戦後の女性の地位の向上と男社会への目覚しいまでの進出ぶり、本当に素晴らしいものがありご同慶の至りであります。そして、女性の地位が正当に社会から評価され、その結果私たちの国がトータルとして住みよい社会に生まれ変わったとするなら、これに勝る喜びもありませんね。ところが所がであります。そんな風に諸手を挙げて喜んでばかりも居られない困った現象も一方で顕著に見られるようになっている。それまで日本の古きよき時代に社会の根底の所で私たちの生活を支え、守っていた家庭が脆弱化し、家庭崩壊の惨状目前にまで達してしまっていた事実。以前に父親不在の家庭の危機が叫ばれましたが、母親消滅の危機は誰も問題にすら出来ないでいる。それ程に男女共同参画社会の実現は急務であり、日本社会の国際化・近代化にとって必要不可欠な最重要な課題であった。少なくとも政治的指導者や日本社会をリードする知的指導者の大半以上は、その様に声高に叫び庶民達を叱咤激励し続けてきている。しかし本当だろうか。一時マイホーム・パパと言う言葉で家庭を大切にする男性が軽蔑的な扱いを受けたが、マイホームに母親がいないに等しい現状は由々しき一大事では無いのでしょうか、実際。私は何も封建的と否定された江戸時代のように、家という頚木(くびき)に再び女性たちを繋ぎ止めようなどと言った、無謀な反動的言辞を弄そうなどと言った大それた考えを持っているのではない。極常識的に母親の居ない家庭はもう家庭とは言えないと、常識的な主張を申し述べたに過ぎない。皆さんが、それでいいじゃないか。ノー・プロブレムと仰るなら何をか言わんやでありますね。一回と言わずに二度三度と熟考してみる価値があるのではないかと、控えめに問題提起しているのに過ぎません。遠慮しいしい図図しいのが私の以前からの特徴のようですから、更に私のささやかな私見によれば、母系社会を古来からの伝統として受け継いでいる日本の社会は、賢婦・賢女によってこそ支えられ、維持され続ける事が出来た「女尊男卑」の精神が脈々と活きて活躍しているお国柄。優れた女性たちが借り着のフェミニズムなどに踊らされて、「劣等」な男の真似をして喜ぶなど愚の骨頂。あの世で先輩達がさぞかし嘆き悲しんでいるに違いない、と愚考いたすのでありますが……。如何なものでしょうか?またまた、心ならずも暴言を吐いてしまいましたが、どうぞ意のある所をお汲み取り頂きご容赦願います。ご異見、ご感想、その他何なりとメールしてみて下さい。首を長くしてお待ちいたしております。
2011年10月16日
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反時代的な事ばかり言う私・草加の爺ですが実は新しい物、新しい事柄、新しい発見、新しい何々……といった具合にチョーが付く程の新し物好き人間でして。古きを尋ねて新しきを知る、と孔子が言っていますね。実は私はこの孔子の言葉が大好きなのです。似た様な言葉で新しい酒を古い皮袋に盛る、と言うのもありましたね。口卑しい私は美味しい食べ物が殊の外大好きなのですが実は一寸したアル中ではないかと思われるほどのお酒好き。勿論、男の端くれでもありますので、素敵な女性なら思わずユダレが出てしまう程の「女好き」でもありますよ。所で、日本と言う国は大昔からこの女性によって助けられ支えられ続けてきた女性上位のお国柄なのです。これは今のところ「公認」されておりませんので「孤独なる私見」の地位に留まってはいるのですが中々の卓見だと密かに己惚れている所であります。それはさて措きまして、表題に掲げた「専業主婦の再評価」という問題ですが、お金という抽象的な欲望を無限に追い求める「量や物」の時代は終焉を迎えている昨今、生甲斐的な「心の満足度や質」の再発見の時代へと必然的に転換せざるを得ない以上、日本女性のお家芸であった主婦業に再度新しい角度からの、見直しの必要が絶対にあるのだと愚考致す次第なのです。六十歳までの仕事柄日本全国をあちこち歩き回った経験から言っても、「カカア天下に甲斐性なし亭主」は各地で一つの例外もなく通用する一般的な現象ですね。天照大御神や卑弥呼の例を持ち出すまでも無く、武力専制の武家社会ですら表面上は男上位と称されていますが、実情は女性が裏側で実権を握り名目だけ男を立てていただけのことに過ぎない。要するに男が女性より勝れているのは単に筋肉の強さだけ。それ以外は圧倒的に女の性の側に分がある。日本の歴史に照らしてみて間違いの無い見解。そしてまた日本女性の中でも一際傑出しているのが外でもない主婦たちだった。亭主を自分の掌の上で上手に躍らせて名目だけは、ほんの上辺だけは「口先だけで意気地の無い」男共に勝を譲り、実権はシッカリと自分の手で握って離さない。そんな離れ業を名もない庶民の御かみさん連中に至るまでが難なくやり遂げていた。少なくとも太平洋戦争前まではそう言えた。戦後強くなったのはストッキングと女性だと、一時巷間で噂されましたがあれはとんでもない事実誤認です、私から言わせれば。昔の夢よ!再び式の懐古趣味からこの様に申し上げているわけでは断じてない。主婦という役割・仕事は外に比べるものが無いほどに大切で、重要な、そして家庭生活に、否人生にとって最も不可欠なものと断言しても間違いない、恐らく。
2011年10月13日
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世の中には確かな理由や正当な根拠も無いのに人々の社会的な役割や仕事、職業などに対して理不尽な色眼鏡をかけて対する態度が横行しているようですがこれなどは原始人の所謂「迷信」、「無知・蒙昧」などに匹敵する、否、それ以上に「笑うべき、そして軽蔑」に値する野蛮さではないかと私・草加の爺は日頃から愚考致しております。たとえば、この様に「鋭い」指摘をしてみても、えっ、一体何のこと?と全く拍子抜けのあっけらかんとした態度なのですから始末にほとほと困り果てる仕儀。実に世も末とはこの事を言っていたのかと、今更ながら深い溜息を重ねて吐くばかりで打つ手に困り果てる。しかし、それではならじと、改めて気を取り直し勇気を鼓舞して、この文章を書いている、実際のところ。発想や思考における「貴族趣味」とでも形容すべき、全くバカの一つ覚えのような方式にすがる単純極まる方法。それは頭脳・大脳皮質が一番という幼児的傾向。或いは汗を伴う肉体労働は下賤で下級な、そして賎しい者共に押し付けるべき役割であり仕事であると言う丸で根拠薄弱な考え方。如何です、思い当たられましたか?でも、この先がある。あるときハイティーンの若者にこの種の話をしたところ、相手は誠に怪訝そうに「えっ、その考えのどこが悪いのです。超正しいと思うけど……」とのたまわれたので、今度はこちらが吃驚仰天して、開いた口が塞がらなくなってしまつた。本当に、実に、一筋縄ではいかないとんでもない世の中を私たち大人はいつの間にか将来させてしまっていた。今更理屈を並べても詮無い事、とは十二分に承知しながらも、馬の耳に念仏と分かり切ってはいても、説明しない事にはどうにも収まりがつかないので、手短に、掻い摘んでの説明を試みる。世の中は持ちつ持たれつ相身互い、誰一人として真実の一人っきりでは生活も、生きていく事も叶わない。人体に例をとっても、いくら脳が大切だと言っても手足が無ければ動きが取れない。口から食べ物を摂取できても、肛門や尿道・膀胱がなければどうなるかぐらいは幼児にも理解できること。有機体の個人の人体に始まり、社会・コミュニティーといった人為的な有機体に至るまで銘々が独自の役割や働き・仕事を有しながら緊密に結びつき、助け合い、庇い合いながら成立出来るのだし、現にそうしながら生活を営む事が可能になっている。便宜的に、脳の調整機能を大切と考え、大きな価値を置く事が許されてもそれは飽くまでも便宜上の措置であって、本質的な区別とはならない筈。如何でしょうか、何か間違った事を言ったでしょうか。もしご異見などがおありでしたら、是非ともお聞かせ下さい。お待ち申し上げます。
2011年10月12日
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町を散歩していると町内会のものらしい立て看板に「子供たちは地域の宝物です。大切にしましょう!」と書かれていた。それを見て私は何故かイヤな気がしました。言葉というものは私たちにとってとても大切な物ですが使い方を誤ると(現代では殆どのケースがそうなっている)、誠意とか、真心、切実さなどの人間としての大切な部分が宙に浮いて、何だか空々しい、バカバカしく空虚な表現に堕してしまう。私が看板の言葉を目にして感じたのは胡散臭い妙な気配だった。世間では子供を虐待したり、粗末に扱っているようだが、此処では「宝物」として大切に世話されていますよ。そういった先制攻撃的自己弁護めいた、乃至は殊更に誇張した宣伝、といった嘘っぽさが結果として強調されてしまう。本当に、当たり前の事として子供達が大切に育てられている町で、そんな看板を麗々しく立てるでしょうか?万葉歌人の山上憶良は「銀も黄金も珠も何せんに勝れる宝子に如かめやも」と詠んでいますね。千年以上前の下級官僚だった彼は、赤貧洗うが如き貧乏でしたが、妻や子、そして家庭を大切にしたマイホーム・パパでした。公の仕事よりもプライベートを優先させて憚らないどころか彼はそうした自分の生活振りを自慢げに口にし、満足していた様ですが私たちは憶良の爪の垢でも煎じて飲まなくてはならないでしょうよ。子供を真に大切にするとは、一体どういう事かをじっくりと考える時間を、私たちはお互いに持たなくてはなりませんでしょうね、如何。お題目の様に、また機械的に繰り返される綺麗ごとだけでは、私たちの生活は決して改善されたりはしません。時には、いかに辛い事柄でも自分自身に鋭いメスを振るう蛮勇を持ち合わせないと、その内に本当に取り返しのつかない事態に立ち至ってしまう恐れがある。そう思われませんでしょうか、何かとお忙しくしていらっしゃる皆様方。
2011年10月09日
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応仁の乱に始まった所謂「戦国時代」は江戸時代の表面的な小休止を飛び越えて平成の今日にまで及んでいる。そんな誰からも聞いた事がない暴論・臆断を耳にしたらそんな無知蒙昧の輩は相手にするのも時間の無駄。そう言って忽ちそっぽを向いてしまうでしょうか。でもしかし、これ中々奥の深い卓見では無いかと、私・草加の爺は密かに自負しているのですよ。現代の戦国・乱世はグローバルに、地球規模に飛躍的に拡大・発展を遂げてはいる。古代のsacred kinng(神の神聖な力を背景にした王)からwar king(軍事力と言う実力で支配者の地位についた王)、そして現代の実力者はpop king(人気と言う虚名によって支配する王)― これは不肖私が勝手に命名して使っている呼称ですが、これも中々的を射ていると言うか、言い得て妙だと自画自賛しているもの。確かに徳川政権によって武力こそ封じ込めに成功しましたが士農工商と名目の階級としては最下層に位置付けられた商人たちが実力によって台頭し、明治維新後は国家の富国強兵策に乗って政商・財閥としてのし上がり、敗戦後も経済発展一筋という政府の方針の下に着々と力を蓄え、世界的な名声を見事に勝ち得た。一応はその様に今日の商人・実業家・企業家を賞賛する事も可能なのですが、王と呼ぶには風格乃至は人徳的素養に欠け、自己の利潤追求のみを事として国民乃至、人民・大衆の幅広い幸福や安寧を犠牲にして省みない偏狭な利己主義者過ぎる側面が邪魔している。宣伝やコマーシャル・メッセージによる虚名的人気によって合法的に庶民大衆から冨を一方的に収奪して憚らないのです。現代は政治と言い、経済、芸能、学問、その他様々な分野でポピュラーである事が最大のステータスとなっているのが実情。それでは次の来るべき時代の「王」は如何なる権威や実力で時代の支配者の立場に就き得るのか?私の予想では士農工商の三番目に位置付けられた工業者、つまり工業部門のスペシャリスト・名人級の職人たちが実力を発揮しfuture kingとなるのではないかと予想しております。それは兎も角として、戦国時代を本当に制するのは私たち名も無き無名の庶民であり、一人ひとりがそれぞれの工夫と努力で「豪傑」たるべく己を磨き上げる事が何よりも大切だと考えておりますが如何でしょうか。実力を十分に備えた「生甲斐豪傑」たちが手と手とを携えて創り上げる「生甲斐共和国」こそ来るべき未来社会の一つの理想形なのではありますまいか、そんな風に考えている今日この頃であるます。本当は、何時の時代でも「生甲斐」こそ人間の最も大切にすべき目標であり、ひと時たりとも忘れてはいけない人生の大事であるべきもの。長寿という人類の夢も量だけでは実も蓋もない。質の充実が伴わないそれは災いや苦痛すら齎す事になるかも知れませんからね。じっくりとお考え下さい。
2011年10月05日
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前回は「経済大国」の見果てぬ夢を追うのではなく「生甲斐大国」を目指そうと言う提案を致しました。望外にも大きな反響を頂きました。そして生甲斐作りと簡単に言うが、それはとても難しい事の様に思われるが草加の爺・私はいとも容易いかの如く言う。少々不親切ではないか、といったご不満の言葉を頂戴しました。どう致しまして、私は「不親切」どころか至って親切。親切どころか、それが過ぎてお節介焼き過ぎるくらい。本気で御相談くださればトコトン相談にのりますし、その手間に対して料金を呉れなどというケチな料簡もない。嫌な世の中になってしまっていますので、親切を装った詐欺紛いの行為が横行しておりますので、いや、それどころでは無く親切と見せた行為を餌に、結局は大金をせしめようと目論む太い輩が我が物顔にのさばっているご時勢。本物と紛い物・贋物の区別が非常付けにくい。まして私のような「言動」を弄する人物が最も怪しい、となると羹(あつもの)に懲りている方々は、膾(なます)をも吹いて用心するのは無理からぬ事でしょう。不肖私・草加の爺は始めの頃、これが一番気になり、また嫌だと感じておりました。いっその事止めてしまおうか?クソも味噌も一緒にされてまで頼まれもしないヴォランティア活動を続ける必要があるのか、と。しかし短気は損気、と気を取り直しまたぞろ無心で頑張っておりますとどうやら「何者」かが背後から応援し、後押しして下さっている確かな手ごたえが感じられるようになって来た。― これも不用意に発すると「危険」な発言に聞こえる内容ですね。でも、もういいのです。誤解は所詮避けられない運命(さだめ)と腹を括ってしまいましたから。と、いうような経緯ですので、どうぞ安心して私の懐に飛び込んでくださって構いません。やっぱり心配だと考えられる方はどうぞ御随意に。生甲斐を作り出す事ほど簡単至極な事はない。何故なら私たちはこの世に「遊び楽しむ」為に生まれて来ているのですから、この道にかけては本来名人揃いなのですから。所謂「心の生活習慣病」などによって、心ならずも本来の面目を十分に発揮できない「不幸」な人々が大半なのですね。だから理屈としてはその悪い癖を矯正して差し上げればいい。いや、皆さん方が置かれている正確な情況の指摘だけでも大分違ってくる筈。私ならずとも造作もないことなのですよ。本来は、ですね。それが所謂「病膏肓に入る」といった最悪の状況ですから、現状はそれほど楽観が許されるような状態にはない。まあ、そこで私の様な者がお節介を焼かなければならない破目になった。ざっと、まあ、こういった次第です。少しはご理解頂けたでしょうか?沢山のお便り、メール、声掛けなど遠慮なくお寄せ下さい。交流やコミュニケーションこそ何にも勝る励みとなりますので。
2011年10月04日
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太平洋戦争に日本が負けて、戦後六十数年が経過した今日私たちの日本も、そしてわが国を取り巻く環境も大きく、また激しく変化し更に混沌とさえ形容出来る様な未来が予測されています。先進諸国である欧米に翳りが見えその後を必死の形相で、眦(まなじり)を決するが如く追走し続けてきた今日、気がついてみれば私たちは人類史上で嘗て経験した事がない最長寿国で、少子化それに天文学的国の巨大なる負債というおまけまで付いた本当に容易ならざる局面に私たちは直面しているわけですね。その上に、三月十一日のあの巨大地震関連の甚大な災害であり追い討ちを掛けるような台風による豪雨等の被害。正に「踏んだり蹴ったり」の惨憺たる有様。誰もが暗澹たる気持ちに襲われていますし、それも無理からぬ事ともうせましょう。この謂わば八方塞がりとも言える状況の中でも、私たち日本人は本当に力を振り絞って懸命に頑張っている。要するに、私・草加の爺が一番申し上げたいことはどんなに客観的な条件が悪くても、たとえ今日のような悲観すべき状況下でも人は「ハッピー・ライフ」を実現させなければならないという事。「四つの幸せ」を後ろ盾としている以上は、でありますね。資本主義経済が破綻しかかり、経済至上主義に強い疑問符が付けられた今日発展途上国から新興国に成長を遂げたBRICSなどの国々は先進諸国が歩んだ同じ轍の上を猛追しつつある。これはこれで致し方のない歴史の必然でありましょうが、日本は当然ながら全方位親善で世界中の国々と末永く、平和的に仲良く付き合って行かなければならない。嘗ての「経済大国」の見果てぬ夢を追うのではなく「幸せ大国・ニッポン」を目指して邁進したいもの。それには先ず第一に私たち一人ひとりが「生甲斐作り」に精を出さなくてはなりませんね。そして、その幸せは、幸せの青い鳥は極々身近な所にいて、私たちが本気でその気になりさえすれば手中に出来る。本当です。貧しさの中に、苦しさの只中にこそ真の生甲斐は得られる物。貧乏や艱難こそハッピー・ライフを実現するための貴重なリソース・資源。何も悲観する必要などはない。本当の勝負はこれからなのですから。お互いに元気を出して、手を取り合って、仲良くやって行こうではありませんか。どうでしょう、納得して頂けたでしょうか……。
2011年10月03日
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