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私は前回に、部分は全体の前に「無条件で、頭を垂れなければならない」と書きました。その場合の「部分」と「全体」とは何か、或る特定の部分なり、全体を 意味 しているのではありません。言葉の 正しい 使い方正統的な意味合いでの部分であり、全体であります。そして、当然ながら部分と全体とは 相対的な ものであります。この辺のことはくどくどと説明をしなくとも、わかる人には解るものなのですが、他方から考えてみますとこれ程人々の理解が難しい命題も又、ないわけであります。 例えば、宗教に例をとってみましょう。わかりやすく、世界の三大宗教と言われる仏教・キリスト教・イスラム教とを取り上げてみましょう。学問的に、宗教というジャンルを設けた場合、人類の宗教全体を考えたときに、仏教もキリスト教もイスラム教も「部分」なのであります。また、これらを個別に論じようとして例えば、仏教を取り上げてみたときには、世界中の様々な仏教が「全体」となります。この場合の部分と全体とでは、論理的に 上位 概念と 下部 概念との相違がありますが、意味的、あるいは価値論的に上位・下位の関係はありません。カテゴリーとしての上位であり、下位概念なのでありますよ。ここのところを、冷静に、そしてまた感情や個人的な好き嫌いを厳密に排して、クールに判断してみてください。 私が人類全体の運命を問題にして、個人や部分は全体の前に「自己否定」しなければならないと主張する、真意を取り違えないでいただきたい。呉呉も、お願い申し上げます。 よく、嘗ての日本の軍国主義、全体主義が宜しくない ― 式の紋切り型の教説が聞かれますが、その場合の「全体」は特殊な、極めて限定的な使われ方をした全体であり、全体主義なのでありますから、それをもって「全体そのもの」を色眼鏡で見る悪癖はお止めください、どうか。 さて、当然ながら人類は生物界全体の一部でありますから、全体から見れば部分なのであります。部分が部分であることの限界を超えて「でしゃばり過ぎる」ことは禁物なのであります、如何ですか、少しご理解が頂けたでしょうか? 私が時に自分が人間であることを忘れたかの如き「言動」をとるのは、結局は人類全体の幸福や安寧を切に望んでいるからでありまして、そのほかの疚しい、あるいは悪しき意図など微塵も御座いません。 くどいようですが、人類や生物は地球という水の惑星から生まれた「部分」にしか過ぎません。そして、ご承知のように母なる地球は銀河系の一部分であり、銀河は果てしもない大宇宙の「塵、芥」も同然の存在であり、一部分なのであります、驚くべきことなのですが。この全体感を常に念頭におく必要が私たちには必須なのでして、その当然のことを、私・草加の爺は力説するだけなのでありまして……。 そして、最近特に力を入れている、青森県の野辺地町へのアプローチもこれらのテーマに密接に関連していること。部分を過剰に 押し立てる 事のようでいて真逆の行為なのでありますが、このことについては追々ご説明させていただきますので今後共、よろしくお願い申し上げます、衷心より。
2014年10月30日
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シェークスピアではありませんが、綺麗は汚い、正義は不正である…?何故に地上から 戦争 という憎むべき残虐行為が無くならないのか?その答えは簡単です、つまり人類は「戦争行為」=殺人が何にもまして大好きだから!…? なぜイジメが無くならない、これも答えは簡単ですよ。つまり、イジメをするのが何よりも「楽しい」からであります、事実は。しかし、人々はがんとしてその峻厳な事実を認めようとはしない。何故か?人間がそんな醜い性質を「本質的に保持している」ことを断じて認めたくないから。そして、我が校には「いじめなどありません」式の綺麗事が繰り返されて、本質的な対策が先送りされている。殺傷行為にしても、同様の事情があります。人々は戦争反対、戦争反対と唱えてさえいれば、この世から暴力による残虐行為が根絶されると 心底から信じているような 顔をしている。そんなふうを装っている。または、演技している、人間性の絶対的な「麗しさ」は微塵も揺るがない、とばかり。 そういう「おバカさん」や「お人好し」ばかりが幅を利かして、真実を見据えている「悪人」が不当に無視され続ける。なんて「能天気な御仁」たちなのか、本当に。 さて、私事ですが、昨日家内と一緒に 孫たち に会いに行ってまいりました。久しぶりでした。私は有り難い事に学習塾の授業が無かった。家内は死病と言われる癌治療の合間ができて、これも有り難い事に時間ができた。孫というものは 無責任に付き合うことができるから、無条件に可愛い、などと下世話に申しますが、私どもは「無責任には考えておりません」が、やはり 可愛い かった、親馬鹿ならぬ爺ばか、婆ばか ぶりを遺憾なく発揮してまいりました。 考えてみれば、実に 感無量 なのでありますよ。私は若い頃には、とても暗くペシミスティックな人生観を持っていましたから、子供は、自分の子供はいらない。そう家内に言い続けておりました、結婚の最初の頃は。底抜けに明るく、健康的な人生観を保持していた家内は、うちの亭主は 世界一変わり者だとは思っていたが、こうまでひねくれものとは、露知らなかった、とばかりに猛烈に抗議しましたね、実際。あれこれ、色々ありまして、結局わたしが家内に根負けしたかたちで、長男と次男がこの世に誕生して居ります。そういう次第ですから、そのへそ曲がりのわたしが、両手を上げて、相好をくずしてやにさがって、孫たちと相対している図、などというものは自分でも想像すらできないことなのでした、少なくとも若い頃の私から見たら。 わたし、草加の爺は人間を嫌悪する、心からの変人なので有りましょうか。私は 誰よりも 人間というものが大好きであります、嘘ではありません。しかしだからこそ、この世の醜さに我慢がならないのでありますよ。自分の子供について言えば、生まれる以前から「大好き」でした。だからこそ「彼ら」をこの地上に呼び寄せるのが辛かったに過ぎない、辛すぎた。こんなはずではなかったのに。若い頃の私は心の中で、何時もそう呟いていた、いつも。「お父さん、どうして僕をこんな嫌な世界に連れてきたのですか?」、もし仮に息子からこんなふうに言われたりしたどのように申し開きしたら良いのか? ― そんなことばかり考えておりましたもので。 そんな超厭世的なわたしが「神の申し子」の家内によって癒され、今日に至っている。そして遺憾なく爺バカぶりを発揮してまいった次第であります。 個人は 全体のために 死ななければならない、誰もが。下世話に申せば、情けは他人の為ならず、なのでありますから。個人の正義を 過度に お仕立てては絶対にいけない。部分は、どのような場合にも、全体の前に、無条件で頭を垂れなければいけない。そうでないからこそ、この体たらく、無残至極、阿鼻叫喚の地獄図!!
2014年10月17日
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確か、最近は青森県の小さな町 野辺地町を全国に、また、全世界に向けて売り込むのだと、「豪語」していたはずなのに、その天命のような仕事と、前回論じたような「本質論」とはどこでどの様に繋がっているのか?身近にいる友人から、そんな素朴な質問を受けました。成程、これには丁寧にお答えする必要がありそうですね。 私のような「不信心者」が神とか、天とか、はたまた絶対者などと、ご大層なお題目を並べ立てること、そのこと自体が既に「常軌を逸している」行為と言わなければならないでしょう。きっと。確かに…。私は、書きました、自分は何のためにこの世に生まれて来たのか?子供の頃から物心がついて以来ずっと、心の底に蟠っていた 本質的な疑問 でありますよ。この「個人的な疑問」に直接答えてくれる人は誰もいなかった。と言うより、その疑問ははっきりとした言葉になっていなかった。誰も彼も、自分の人生のはっきりとした目標なり、目的なり、ゴールをそれぞれに明確に持っているかのように振舞っていた。或いは、わたしにはその様に見えた、感じられた。だから、何となく周囲に対して引け目のような 劣等意識 を知らず知らずのうちに植えつけられてしまっていた。そして、文学の世界に強く惹きつけられてしまった。特に、ドストエフスキーの特異な世界に魅了されてしまっていた。彼、ドストエフスキーは一言で言えば、人間の異常性を異常だと認めなかった天才であります、特殊人でありますよ、本当に。普通に「異常心理」などと表現する人間性は、平凡な、ありふれた人間の中に普通に、当たり前のように存在している。人間とは、人間性とは、「狂的なる何か」なのでありますが、それはなぜなのか?天才は異常な熱情を持って、その謎を追求していきます。他人事などではないのですから。自分の本質に迫る重大事なのでありますからね、何といっても。― おっと、ここは作家論を開陳する場ではありませんでした。生きるとは、生物としての活動はそもそもの始めから明確な目標などで律しきれない、ある闇雲な衝動なのであります、実際。 しかし、人類はパンのみにて生きているのではありません。正義の 神 とともにありたいと念願する聖なる意図を内部に秘めてもいるのですから。単純ではありませんね。一筋縄ではとても行きませんよ。だから、面白いのでありましょう。 私も、人並みに 正義を求めています、熱烈に、激しく。野辺地は私にとっての「聖地」なのであります、与えられた目標なのであります。どうしてそうなったのかは神のみぞ知る。韜晦的な言辞ではありません。私を活かすと同時に、日本をも輝かす。そして、思い切って言ってしまえば、全世界をも照らす、大きな、大きな、灯火の種火となる大切な土地なのであります、はい。
2014年10月14日
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単なる言葉遊びに 堕さない ように、生や人生の本質部分に肉薄することは非常に難しい仕事であります。が、だからと言って、それを避けていたのでは、いつまで経っても肝心な事柄に無関係な、それ故にどうでも良い無駄話しか出来ない。 それは仕方のない事で、「泡」や「芥」の存在に「ましな事」が言えるわけがない。然り、そして同時に、否 なのでありました。またもや、禅問答のような具合になってしまいましたが、存在世界の本質的なあり方自体が、二律背反であり絶対的な矛盾を孕んだものなのですから、必然的にその様な結果になってしまう。 非論理的な対象を、論理的に、秩序建てて説明しようとすると、どうしても論理矛盾に陥らざるを得なくなる。架空やフィクションでなく、飽くまでも現実に沿って出来るだけ忠実に、ありのままを語ろうとする場合に―。 どうするか?直感に、頼るのでありますね。「本能」を信ずる、そう言い直しても良い。健全な 生命 は決して過ちを犯さない。何故なら、「過ち」を犯した生は「死」によって正されているから。つまり、健全な生は死によって「保証されている」のでありました。それゆえに、死は生にとってこそ本質的に大切なものなのであります、驚くことに…。個は全体によって 保証され、全体もまた、個によって健全なる個によって生かされる仕組みになっている、本来は。この絶妙なバランスが現代では、生の歪みによって崩れてしまっている。それが問題なのですが、誰もがそれを 問題だ と感じなくなってしまった。That is the question! 失礼しました、浅学非才の身で「学」をひけらかすような言動は、慎むべきなのですが事が本質論となると、誰にでも理解しやすいように語ることは至難の業なのであります、実に。 へそ曲がりの私・草加の爺が「大人たちにぼやく」のは、故あることだったのであります、はい。
2014年10月13日
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私は前回、「個人」などというのは 迷妄 であると断言いたしました。しかし、それは余りにも 常識はずれでありおかしい。そんな暴論を吐くなんて、何という学のないやつか…、式の反論、非難があちこちから聞こえてきそうでありますよ。しかしながら私の、言葉足らずではありますが、主張している文脈に沿って素直にお読みいただければ、従来の常識が間違いであったことに気付き、眼から鱗の思いをされるはずでありますね。真の存在である絶対者の前で、ちり芥にも値しない 我々ごとき微弱な者が自己をお仕立て、過剰に自己主張を押し通すなどとはまさに笑止千万、へそがお茶を沸かすでありましょう。 そういえば、私が若かった半世紀以前には、日本は「個人主義が微弱であり西洋のような確固たる、本物の個人主義を確立するにはまだまだ時間がかかる」といったような論評が流行しておりました。たとえば、そういった「場」における個人の意味合いと私が目下問題にしている「個人」の場合では、全くレベルが、指している意味内容が著しく相違していますね、お分かりですか?個人と絶対者とはイコールの関係で釣り合っている。しかしながら、個人は全体の前で、己を否定しなくてはならない、最終的には。この二つの命題は同時に成立する。少しも矛盾を孕んでなどいない。この辺の「大人の論理」が正しく把握できないようでは、生を語ったり、人生を論じたりする資格がないと申せましょうか。宗教とは、絶対者の前に顕な、裸の自己を晒す行為にほかなりません。せめて一年に一度は、この様な「宗教体験」を己に課すべきなのであります現代人は。
2014年10月09日
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自分が 立派な 年寄りになったから、開き直って申し上げるのではありません。便宜的に、この世に生を享けてからの年数を通常「年齢」と言い、誕生日を重ねるごとに今年で何歳になったなどと称しておりますね。例えば、私・草加の爺は8月28日で満年齢71歳に相成りました。ところが、本人には 古来稀なる 年齢を365日以上も経過したという、年寄りとしての必要にして十分な資格を備えたという実感がない、まるでない。強がりでも、誇張でもありませんで。何故なのか?色々と理由は考えられるのでありますが、根本的には私に限らず現在只今、この地球上に生息している人類は誰もが直接的に 死 を経験していない。― お分かりですか、私たちは直接的には誰もが未だかつて「死」を経験していない。そして、驚くことに自分の死を体験しないままで あの世 に「行く」のでありますよ。お解りになりますか…。人類の最初の祖先がこの世に誕生して以来、驚くべきことに私たちは皆、驚異的な年月をいきてきているのであります、実際の話が。そして、この本質的な事柄は個々人についてもおなじなのであります、はい。つまり、個体として私たちの体の細胞は毎日の生活を重ねていく上で、数多くの細胞が死滅し、それを超える多くの細胞を増殖させて、生活しているのでありますから。いかがです?私が論理的に、冷静 且つ順序だててご説明申し上げている生命の実相が!つまり、「個人」などという 迷妄 さえ忘れ去って仕舞いさえすれば、永世とか、永遠の命とかの「人類に共通の悲願」はとっくの昔に実現していたことに気づく筈。このパラドックス、本当にびっくり仰天でしょ。驚天動地でありますね。 人類は原始のはじめから 皆が兄弟姉妹だった。同胞であった。こんなに単純な事実に 誰も注目しようとはしない?いや、知っていて、忘れたふりをしている。初めに 全てがあった。そして、その最初に存在した事柄は 永遠に 存在し続ける!最新の宇宙物理学の理論では、この宇宙は「無」から生じた とされますよ。そして最後は再び、「無」に帰する。そして、更に再び、新たなる宇宙が無から始まる。気の遠くなる、などという表現では追いつかない程の巨大な「時間」の中で存在は永遠に「回帰」しているのでありました。我々 うたかたの 泡の如き存在は過剰に己を自己主張してはいけない。偉大なる絶対、無限なる存在の前で静かに頭を垂れ、静かに瞑想を凝らすに如くは無いのでありました、はい、本当の本当。
2014年10月06日
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