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第 三百九十三 回 目 今回は前回の続きの意味合いで 「 情けは 他人 の為ならず 」と言うタイトルで、この諺の持っている非常に深く、含蓄のある味わいを皆様方と御一緒に再検討してみようと考えました。それが取りも直さず青森県上北郡の野辺地町を起点に始まる、セリフ劇活動の真の目的をも鮮明に種明かしして呉れると、確信しているからであります。 私達は、とりわけ現代人と呼ばれる人達は個人尊重の立場からして、自己の利益を第一に全ての事柄を考え、その考えに基づいて行動をする。そういう思考のパターンが定着しており、それに従った行動様式が常識となっています。その事自体に注文を付ける積りは毛頭ありません。しかし「急がば廻れ」という教えもありますので、心にゆとりと幅を持たせて、もう一度対象や状況を緩やかに眺めてみるならば、違った展望や景観が視界に入って来ないでしょうか。 私・草加の爺自身の体験から言っても、自分の為だけを念じて何か行動を起こすよりも、家族や隣人、更には社会の為を思って真剣に考え、行動を起こした場合の方が結果としては、何倍も多く自分の為になって自分に還って来る事を、実感し体感出来ております。この一種逆説的な道理の在り方が正に「人生の極意」なのであろうと、痛切に思い知らされている。 此処は説得の場所ではありませんので、ごく簡略に結論染みた事だけを取り敢えず申し述べますので、あらかじめご承知置き下さい。 聖武天皇が国民の安寧幸福を願われて大仏造営を祈願された際にも、先ず「浄財」を全国から募ることから始められた。明治の日本も西洋の知恵に学んで、当時の浄財集めである株式を広く民間から集めて大きな国家的な事業の数々を、創始する事が出来た。今日の国際社会や日本でもこの資本主義的な「発想」は、修正資本主義と呼ばれるようになってからでも既に久しいのですが、いや、それ故に金銭という非常に便利で具体的な力に根拠や原点を求める、一種の浄財主義は真っ盛りといった景観ばかりが見られております。人々の心にはその限りない魅力ばかりが大写しになっていて、その他の事柄は全く目に入らない、といった珍風景が現出していますね。 しかし、これはどう考えても可笑しい、異常でありますよ。 キリストの愛の教えを引くまでもなく、仏教でも唯識の「一切唯心造」、つまりこの世の全ての事象は我々の心がそのように認識しているから存在するのだ、とする考え方が厳存しています。更には「無盡灯」の考え・思想もあります。つまり、一つのろうそくに灯った燈が次々と上下左右に点火されて全世界が光明で光り輝く、とする素晴らしいアイデアでありますが、一人の人間の心に確実に掻き起こされた 温もり もまた、次々とリレーされて 全人類に伝達される のであります。 彼のマザーテレサも言っています、愛の反対は憎しみではなく無関心なのだ、と。絶望もまた人の心の為せる業であります、同じ心の作用ならば「失望を希望に変える」方向に私達の心をちょっとだけ舵を切ってみようではありませんか。私達にはその能力と智慧とが備わっているのですから。 以上の言葉は、他人を説得する目的のものではありませんで、私・草加の爺が心の中で自分自身の心構えを整理整頓したものと、御承知下さい。人様には傍からは伺い知れない様々な「隠された」諸事情があるものなのですから、自分勝手に相手を「勝手読み」しては断じてならないのです。呉れ呉れも慎重に、細心に、そして最後には大胆に相手に向かって切り込む。そういう心構えが私には必要でありましょうから…。 扨て、どうしても野辺地の方々に申し上げなければならない、大切な事があります。既に大風呂敷を広げに広げ過ぎた感があるので、個人的にはもう十分過ぎるくらい十分に申上げた積もりになったのですが、ここまで来たからには肝腎要の真実を申し述べろと、私に「啓示が降りて来て居て」どうしても中断が許されないので、独り言と聞き流されても仕方がないと覚悟の臍を固めて、開陳致しましょう。 私達は全員がイエスキリスト的な存在なのだ。もしくはキリストは私達一人一人の直ぐ隣りに立っていて「敲けよ、さらば開かれん」と声なき声を発している、のだと。 別の比喩を披露しましょう。ips 細胞と言う細胞がつい最近話題になっています。将来において人体のあらゆる細胞となり様々な臓器に変化する可能性を、内側に秘めた万能細胞の事だそうです。人類全体を人体に比すれば、一人一人の個人はこの万能細胞に準えることが可能です。 人は簡単に奇跡、奇蹟と御大層らしく口にしますが、この世の中で奇蹟の類に属さない事象や現象があるでしょうか。見る物聞く物の全て奇蹟と言えないでしょうか。私達は、特に現代人はこの奇跡に慣れ過ぎて、奇跡を奇跡と感じなくなってしまっている。私達の人体にしてからが、実に奇蹟の塊そのものではありませんか。受胎から発生のメカニズムを知れば知る程に、驚嘆の一語に尽きるではありませんか…。 精霊による懐胎、人間としての受肉、人類の罪を一身に背負っての十字架上の悲惨な死と復活、大いなる愛情の人であると同時に贖罪を齎す者、そして常に我々の良き隣人とし在る「キリスト」は特別な事であって、実は特別な事ではない、この此岸に於ける人間の「在り方」の象徴であり、一代表であるとも解釈可能なのです。 ですから、私達は「意欲」さえ正常に保てば「奇跡」が可能なのであります。様々な有形無形のメッセージがその事実を明瞭に私達に告げています。ただ、私達の側にその有難いメッセージを受け入れる心の準備が、有るのか無いのかが問われるだけ。アンテナをしっかりと張り巡らしさえすれればOKなのであります。謙虚であり、感謝の心さえ忘れなければよいのでありますよ。 浄財ではなく、善意、無垢な心、赤心を集めることがその儘で、正に画期的な一大偉業をスタートさせるに十分なのであります。その大変さは普通に新しい事業を開始するのと、何等選ぶところはありませんが。 そして、古代からの名言・至言の最たるものに「ペンは剣よりも強し」という格言があります。長い時間のスパンで見れば、人を殺し、破壊において最強の武器である剣は、遂に人を活かし建設に強力な力を発揮するペンには敵わない。ペンは、人類が手にし得た「武器」の最大のものだ、の謂いですね。 そのペンの象徴する言葉・文章・文学・劇の力を以ってして、偉大なる仕事を成し遂げるのに何の疑いがありましょうか。あるとすれば、その責めはきっと言葉の側にはなく、それを用いる人間の側にあるに相違ないと肝に銘じて、様々な障害や壁に対処しようと私・草加の爺は滿を持している所なのであります。普通なら、神の御加護をと敬虔なる祈りを捧げてしかるべきなのでしょうが、御加護の手応えは既に十分過ぎる位に受けておりますので、後は粛々と行動を開始する段階に到達した。そう言えるのであります、間違いなく。 私に可能な事に対してベストを尽くす。 レッツ アクト! ここで私が野辺地の町の人々に対するスタンスに就いて一言、述べさせて頂きたいと存じます。確かに私・草加の爺は私独自のコンセプトに基づくセリフ劇を御地に根付かせ、花開かせようと考え直接の働き掛けを始めたいと考えて居ります。その事自体は世の中広しと言えども余人を以って代えがたいユニークな特殊な能力を必要とする特別任務であります。その事実は素直に認めて頂きたいし、私自身にもなにがしかの自負が御座います。 けれども、それだからと言ってその事を過剰に恩に着せたり、殊更に驕り昂ぶったりといった気分や態度は金輪際ないつもりであります。神が勿体無くもこの様な大切な仕事で、私如きふつつかで未熟な者をよくぞお使いになるお気持ちになられたと、恐れおののくような気持で拝命したミッションであります。町の方々との息の合った二人三脚は必須にして最低限の条件でありますからして、何卒宜しくご指導ご鞭撻の程を何度でもお願いしたい率直な、文字通りに謙虚な、そしてごくごく素直な気持ち、心の持ち方で居りますので、そのお積りで御対応をお願い申したいと存じて居ります。 その事に関連して、私・草加の爺の人生の大事に処する姿勢について、一言しておきたいと思います。私は何事によらず徹底してやらないと気の済まない性分でありますが、よくも悪くもプロ意識に徹し切れない所があります。と言うよりもディレッタントが性に合っていると申しますか、何事にも遊び心を持ち込んでしまう癖がある。ですから、人様から見て「何々らしくない」という評価を頂戴する事になる。プロデューサーの時はプロデューサーらしくないと言われ、教師を勤めれば教師らしくないと評され、学習塾の講師としても普通の講師らしくないと「褒め言葉」を頂戴しました。結局のところ「らしくない」のが私らしさ、古屋克征のライフスタイルとなっています。バカは死ぬまで治らないと言いますが、私の らしくない 流儀は生涯直しようのない物と御承知おき下さり、せいぜい可愛がってやって頂きたいものです。しかし、甘えたり、楽をしたりをおねだりする心算は毛頭御座いません。 西行は「 寂しさに 耐へたる人の またもあれな 庵ならべん 冬の山里 」と詠みましたが、言ってみれば私は同じ呼び掛けを野辺地の土地神様から受けた、そこで私で宜しかったら庵を並べる隣人として住まわしてくださいませんか。そして、共に花咲く春を待とうではありませんか、と応じた者として優しく受け入れて頂けたなら、これに過ぎる幸福は御座いません。 蛇足めいた付け足しになりますが、私は六十歳を過ぎてからおよそ十五年間、学習塾の講師として暮らす実に幸せな時を過ごす幸運に恵まれました。それと言うのも、生徒の子供達から様々な教えを蒙ったからであります。えっ、何だって? 学習塾の講師なら「教えた」、「指導した」と表現するのが本当なのではないか。そう貴方は仰る、はい、教えもし、指導も致しましたが私は教えるよりは遥かに多くの事柄を、教え子達から学んだのであります。或いは、生徒達を通して教えられた、と表現した方がより正確なのでしょう。そして、何度もブログに書いた事ですが小さな奇跡を連発した。六十五までの五年間は同時に東京都内の私立高校で、虐めにあって学校に通えなくなくなった引き籠りの生徒達を十人程担当したが、ここでも奇跡と学校側の関係者から称される評価を受けたが、生徒達から多くの事を教えられた、実際の話が。 私は、そういう意味からも本当に教師・先生らしくない教育者でありましたし、プロデューサーの時代にも「時代劇を玩具にして遊んだ」能村庸一氏と一緒に、仕事を徹底して「遊んだ」のであります。そんな私を評して或る女優さんは「プロデューサーらしくないお方」と驚嘆の言葉を発していましたよ。 私は既に後期高齢者の仲間入りを果たした老人でありますが、精神年齢は十歳を高言して憚らない変な爺であります。野辺地の町の方々にせいぜい可愛がって頂き、多くの事柄を御教授願いたいと期待いたしても居ります。 また、六十歳の折にキャリアカウンセラーの勉強をして、自己の棚卸をしました。プロデューサーとしての自己をカタリスト、つまり触媒だと規定しました。 今度の新しい仕事の始めに当たって、自分の立ち位置を自己規定するならば、「歩みを共にする良き隣人たれ」と念じている者、と考えるのであります。少なくとも 善意を持った隣人 と暖かく迎え入れて下さると有難い。そう念願する気持ちでいっぱいであります。
2018年12月30日
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第 三百九十二 回 目 今回は、ラッシュアワーのアナロギーから始めてみようと思います。 「満員電車の中」と掛けて、「二十一世紀の日本」と解きます、その心は「ストレスではちきれそうです」。私のブログを長い間御愛読頂いていらっしゃるお方は、もしかしたら「ああ、亦か」と感じられたかも知れません。これは何も自分の表現に自画自賛したり、自己陶酔したりしている為ではありませんで、自分自身の十代の頃の身に沁みた体験上から、自分の身の丈に合った、借物でない切実な経験の吐露から発している、私個人の実体験であるからです。 私・草加の爺は東京生まれの、東京育ちでありますが、所謂乗り物酔いが激しかった。小学校から中学までは徒歩通学でしたが、都立の高校に入学して電車通学をすることになった。たった四駅程度ですから、時間にすれば十分か十五分程のことです。しかし、当時の私にとってはそれこそ死ぬほどに苦しい難行苦行と感じられた。電車から漏れて来る人息れだけでもう気分が悪くなったくらいですから、押し合い圧し合いの車内はまさに地獄そのもの。何も殊更にオーバーで過剰な表現を使っているわけではありませんで、生まれて初めての辛い経験でした、実際。実社会に近づくという事の意味合いを身に染みて感じさせられた。余談ですが、実際に大学卒業後にテレビドラマの制作会社に入社して、ロケバスにしばしば乗る機会に接した時も同様の苦い思いを甞める事になったのですが、その際には乗車した瞬間にガソリンの臭いをちょっと嗅いだだけで、胸がむかむかしたのを今日でも鮮明に記憶して居ります。 さて、地獄のようなラッシュアワー時の電車の中では、一体どのような事態が発生しているか?一度でもご自身で体験されたことのある方には説明の必要もない事ですが、乗客達は誰もが一様に激しく押され圧倒されて息もろくろく吐くのさえままならない。座席に腰を掛けている少数者はさぞかし楽ちんだろうと想像されるかしれませんが、さにあらず。とても安閑となどしてはいられません。前方に立っている人々の脚が、足がそれこそ立錐の余地がない程に床に下ろしている両方の脚に迫って、身体全体がかぶさるように迫り、圧迫してきます。それも前後左右に激しく揺さぶられるのですから、平常心ではとてもいられない。誰かに席を譲ってやりたいと仮に考えたとしても、それも事実上は不可能である。だから、自然誰もが一様に知らんぷりを決め込むしか手がない。こんな酷い非人間的な環境は他には絶対に考えられない。しかも、ここが肝腎な所なのですが、被害者はいても加害者はだれも車中には存在しない。乗車した限りは、通勤や通学には毎日毎晩この苦役を免れるわけにはいかない仕組みになっているのだから始末に悪い、一旦電車の中に入り込んだが最後、地獄さながらの責め苦に乗客の全てが苦しむ羽目になっている。加害者は不在で被害者だけの不思議な空間。お解り頂けるでしょうか? そして、二十一世紀の現代社会がまさに同様な環境になっていると、私・草加の爺は愚考するのであります、はい。特にストレスという視点から眺めた場合に、そう強く感じるのですが、皆さまは如何お考えでしょうか、お訊ねいたしたい。はっきりとした下手人が挙がらない、ストレスばかりが時々刻々と増幅し、拡大する。にも拘わらずに元凶が、悪の元締めが見つからない。その事態その物が益々ストレスを増やし、大きくさせる。まさに負のスパイラルそのもの。 いやいや、君の言う「悪の元凶」などはっきりしているさ、資本主義がいけない、共産主義がいけない、テロリストがいけない、無能な政治指導者がいけない、南北の格差を生む社会の仕組みがいけない、女性を不当に蔑視し差別する男優位の思想がいけない、そもそもは不完全な人間を此の世に誕生させ「産めよ増やせよ、地に満てよ」、などと人間を甘やかした創造主がいけない、云々と。 この「何々が、いけない」式の思考方法とも呼べない思考法を際限もなく辿って行けば、落ち着く先は、そもそも人間がいけない、ロボットがよい、A I が最高なのだ、と言ったヒューマニズムや人間存在の否定に、完全なニヒリズムに行き着かざるを得ない。 これでは実も蓋もない。絶望の為の絶望による、絶望の思考回路に陥るのが落ですよ。 これは「神を殺した」人間が「自己をも完全否定する、自己抹殺」の図式で、少しばかり頭を冷やして冷静に判断すれば誰にでも容易に、その異常さ加減が理解できる体のもの。今はこれには深入りせずに、「君子は危うきに近づかず」と賢明な道を進もうと思います。 現代はいまだ科学万能主義の迷妄から完全には脱し切れず、その副産物でもある便利・便宜至上の傾向と一緒になって、人間性の持つ不完全さや脆弱さ、不確実性などを忌み嫌い、そうした曖昧で割り切れない人間性を極力排除したいと、無意識に指向し続けて来た。その結果で何を得たか?御存知の如くに「強烈な自己否定」と完璧完全なる機械に対する幼児的な崇拝願望とでありました。人工衛星や宇宙探査のロケットがその象徴であるように。 人間は本質的に弱い生き物でありながら、時に途轍もなく強くなれる。だから素晴らしいのだ、と考えて悪い理由はない。機械的に、正しく強く賢いだけの存在として誰かにあらかじめプログラミングされているわけでもないのに、自分の自由意思で時に「強くなり」、「正義を発揮し」、「限りもなく優しくなれる」、そういう存在だからこそ素晴らしいのだ。そう言う風に考えて悪い理由は見つからない。だったら、そう解釈して人間を、人を、自己を、隣人を「全肯定」しようではないか。可能性として、限りもなく美しい人間性を想定して、その理想に向けて精一杯の努力を傾注して止まない。そういう可能体として自他を評価し直すこと。今、私達にとって一番必要な事はそういう地道な、派手ではないが、堅実な作業なのではないでしょうか。 そこで、本当にささやかではあっても確かな第一歩として、自己と隣人に人の心の温かさを届ける「声を響かせて、人の心の温(ぬぐ)だまる、温かさを直接に贈る」音読推進運動を大いに、声を大にして推奨したいと考えるのであります。 言葉を発する事の可能な幼児から、シルバー世代と呼ばれる高齢の御年寄りまで、誰でもが手軽に楽しんで行為出来る音読こそ、心の健康増進に、そして何よりも毎日の不要なストレスのクリーニングに非常に効果を発揮して、延いては活力ある未来を切り開く強力なエネルギー源となる。 個人の心の中の問題だけではありません。現代社会に有害な毒素を放出し続けているストレス問題を一手に引き受けて、社会の健全化に向けて多大な貢献が期待できる「音読の推進」は、近い未来に於いて「新しいセリフ劇」創出と完成を目途として、更に大きな可能性を私達に約束してくれる。 もう一度繰り返しますが、誰もが被害者であり、それ故に誰もが加害者であるという、非常に奇妙な社会が現に出現してしまっている。今更に「真犯人探し」を始めた所で何等生産的な結果は見込めそうにない。この俺が悪いわけではないし、こちらの私が原因なのでもない。ただ、ただ、被害者意識だけが異常に膨れ上がってしまっている事だけは、確かな事実。 人々はこの事態にじっと耐え、我慢するしか仕様がない。セクハラ、パワハラ、煽り運転、モンスター的なクレイマーの増殖現象、韓国ではカスハラなる社会現象も顕在化していると言う。 心の時代と言われる二十一世紀の今日にあって、最大の病根に様々な形でのストレス問題が俄かに急浮上している。 私達は 野辺地町を起点にしてストレス専科の安らぎの場所を提供する ことで、人類と言う悩み多き霊長類に課せられた「永遠のテーマ」であると同時に、二十一世紀という極めて今日的な課題である難問に対して、一つの建設的で明確な回答を与える意欲的な試みを意識的に開始しようと言うのであります。 ここまで書き進めて来た私は、どうしても付け加えなければならない、事柄を心に浮かべつつ、或る種の逡巡、ためらいの気持ちを持つに到りました。今の段階ではもうこれで十分過ぎるくらい話を進めたではないか、と。人からは既に「大風呂敷を、広げに広げている」と評されても仕方のないような言い種を既に、大胆不敵にも「大言壮語」してしまっている。この上、屋上に屋を重ねるが如き言説は無用であるどころか、有害でさえあるかも知れない。しかし、私は遂に「毒を喰らわば皿まで」の諺を実行する積もりになっています。 扨て、扨て、今日は何の日でありましょうか。言わずと知れた救世主イエスキリストの誕生日でありますが、私は暫らくの間、彼に、彼の述べたと伝えられる表現に見習う事に決めました。不遜でありましょうか、或いは不敬であると人は非難するでありましょうか。その挙句に私は「私の十字架」に懸けられるでありましょうか? 生来から臆病な事にかけては人後に落ちないと自負する私・草加の爺でありますが、それは覚悟の上でありますから。 私はこう言いましょう、私はこの仕事の為に地上に生を享けたのだと。誤解は避けられないと承知の上で兎に角弁明すれば、私には大それた野心など有りません。結果として、現在ただ今地球村を支配し、統治しつつあると錯覚している「愚か者」の群れを否定し、彼らを駆逐する結果を招来しようとも、であります。 私はイエスキリストと共に「愛の教え」を改めてこの地上に強化する目的で、派遣された者でありますから。 金銭至上のマンモンは地球村からは早期に排除され、愛と慈悲の正しい絆が人々を結び付けなければならないからでありますよ。一人の幸福が隣人の倖せを倍加させ、その様な幸福の輪が見る間に世界中に広がり、そして美しい水の惑星地球が真の意味で光り輝く。そうした天国・極楽が来世ではなく今生で花開き、実を結ぶ。 この嘘の様な夢が、ささやかな善意の地道な積み重ねで実現する。少なくとも、そうした可能性が、平易で、遣り甲斐のある真実の「人間の仕事」と呼ぶに相応しい行動と、道筋とが神の慮りによって開かれようとしている。白を白と言う勇気を持たないで如何しようか。 人類の偉大なる先人たちがことごとく「誤解を免れなかった」。私如きが誤解を恐れていても仕方がありませんね。私はキリストに倣って「現体制を破壊する為に来たのではない」、私は現体制を補強し、完成させる目的でこの世に来たのだ、と言明したい。 「資本・金銭」だけではなく、愛情・善意・叡智・慈悲心が大切なのだ、と極当たり前の事実を殊更に強調するのが主訴なのであります。そして、出来ればその確かな証明を、実践行動で示す事。それがこの私・草加の爺に託された任務であり、「神」はお前の知恵と努力でそれが可能だと諭されて居られる、明示されて居られる。義を看てせざるは勇無きなり、と古人も加勢されています。今やまさに実際行動あるのみ、焦らず、騒がず、粛々と己に可能なベストを尽くすのみ。
2018年12月26日
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第 三百九十一 回 目 ―― 町の人々への提案・その二 ( 草案 ) 声に出して、「 言葉の世界 」をエンジョイしよう! いきなり人々に「語り」を聞かせる行為は、ちょっとハードルが高い、そんな風に感じる方に気軽に、何時でも、何処でも始められる ワード・エクササイズ を楽しむサークルの提案。 これは単純に自分自身が言葉を発声・発語して心と身体をリラックスし、楽しむだけの行動ですから老若男女、年齢その他を問わずに出来る、非常に簡単で、手軽な行いであります。 発声する言葉は純粋に「エンジョイ」するだけのもの、他の目的を持たずに楽しむためだけにするものですから、本来はどのような物でもよい。ただし、最初は可能な限り御自分が楽しくなり元気づけられる内容の物が、より相応しいでしょう。短い物、簡単なフレーズから始まって、段々とより長い物、より複雑な内容の物、更には敢えて悲しくなる物、もっと言えば不愉快になったり、憂鬱、絶望的な気持ちに駆られるものに至るまで、言葉の世界に一切の制限をつけないで発語する、高級者の段階まで自由自在に選択が可能です。ジャンルに関しても、呪文のような意味内容のないものから高度な詩や散文・物語・ドキュメンタリー、紀行文・随筆・哲学書に到るまで際限はありません。 また、そもそも言葉が私達に与えてくれる効用や恩恵には、私達の予想を遥かに超えた非常に多彩で豊富なものがあります。 少しその事について理解を深めて頂きましょうか。まず、日常会話の大切さがあります。「お早う」、「今日は」、「今晩は」、「お休みなさい」などの毎日の挨拶に代表される言葉は、私達の社会生活にとって空気の様に必要不可欠なものとなっていますし、相互のコミュニケーション・相互理解・意思の疎通を深める重要な手段であります。ちょっとした表情とか身振りなどのボディーランゲージも含めた「挨拶の表現」は社会生活を円滑に、そして潤いのある豊さをもたらしてくれています。 家庭での躾や教育は勿論のこと、社会人として成長するためには不可欠なツールとして、個人や社会を基本・根柢の所でしっかりと支えてくれています。 更には、これが最も重要なのですが、個人が一人の市民として、また国家の構成員として、延いては地球村の成員としての正しい思考や行動が、適切にとれるように「自己教育やリカレント」出来るためにも自国語を中心にした言葉を、有効に活用する必要があるでしょう。 つまり、人々はパンや空気によって生きると同時に、言葉によって生かされているのであります。ですから、人間とは言葉に基づいて生きる動物だ、と表現しても間違いではないのであります。 そうそう、肝腎要の事柄を忘れていましたね。無駄話の効用と言う事です。私達ははっきりとした目的の為に言葉を使用するばかりではなく、気の置けない仲間同士での罪のない世間話などで時間を空費するのが、何よりも楽しいし、必要でありましたよ。現在では完全な死語と化した感のある「井戸端会議」がその代表格ですが、どのようなきっかけであれ何か口実が有れば勿論のこと、なければ無理にでも拵えて、互いが相寄って「意味のない無駄話に花を咲かせたい」のであります。それが、そういう無意味な時間の空費がわけもなく愉しいからなのです。この事の深い意味合いを、それをすっかり忘れ去って毎日の生活に時間を忙殺されている、現代人の多くはとことん考え詰めてみる必要があるのではないでしょうか、如何お考えでしょう? その前に、お前さんは二言目にはストレスだの心の清掃だのと、さも重大事の如き口ぶりで発言しているが、「ストレス」や「心の清掃」がそんなに大事な事なのか、我々にはお前さんの過剰な心配が一種の杞憂なのではないかと、感じられて仕方がないよ。まあ、こういった声なき非難がいつもの様に何時もの如く私の耳に聞こえて来ましたので、それに先ずお答えしたい。 そうです、私は現状で一番の問題は此処にあると非常に深刻に考えている者であります。現代に於ける重大で深刻な問題の最たるもの、とまで考え詰めている。それは私が人一倍心配性で、異常な過敏症を患っているからではないのです。現代人は二言目には「癒し、癒やし」と口癖のようにいいますが、もう無意識の範囲を遥かに凌駕する程に、私達の心の中は汚染の極みに達している。それは大気の汚染問題より数倍恐ろしい領域に達していると、断じないわけにはいかないのです。よく、テレビ報道などで世界の第二番目の経済大国に躍り出た中国の首都・北京の大気汚染の深刻さ加減を報じる画面に接する機会がありますが、あれはまだ客観的に見えますから、比較的に対処の必要性が急務なのが一目瞭然で首肯できるのですが、心の中の汚染や害毒の状況に関しては、見逃されてしまい、人々の関心が逸れてしまいがちですね。 この問題を論じだすと限がありませんので、ごく掻い摘んで申し上げましょう。小学校の理科の教科書に新陳代謝という記述があったのを思い起こしてください。生物は食べ物を取り入れ、不要物を体外に排泄して生命現象を営んでいます。肉体だけではなく、それに呼応している精神・心の分野でもこの新陳代謝的な機能が十分に果たされないと、生命体は不具合を起こし、十分な行動が果たせなくなる。考えるまでもなく、誰にでも分かる自明な理屈であり、現実にそういう風に私達人間に於いては特に顕著な、重要な働きを示している。心の中の不要物・不純物をひとくくりにストレスと呼ぶことしましょう。健全な心を保持し、健康で前向きな心を保つためには、この余分になったストレス要素を上手に取り除く必要があります。特に「ストレス」社会と呼ばれてからだけでも久しい現代では、この有害なストレスをしこたまに溜め込んだ心が、社会中に充満して知らず知らずの裡に私達の正常な生活を目に見えて、害し傷付け、蝕んでいる。これはもう誰の眼にも明らかなのですが、人々は有効な対処法も持たないで、無意識の裡に苦しみ踠いる。 直ぐに切れる、怒りを爆発させる、或いは「誰でもいいから人を殺したかった」などと言う狂人が後を絶たないでいる。表面は平和に見えるその裏側で、恐ろしい病根が蔓延して人々の心・精神を内面から腐敗させ、朽させつつある図はまさに戦慄そのものではないでしょうか。 更に根本的なストレス発生の理由もあげられます。私達のとる行動は通常非常に中途半端なものに終始する。ハッピーエンディングにしろ、悲劇に終わる成り行きにしろ、大概は行き着くべき最終段階に達しない所で中断され、また別の全く違った脈絡での行動に追いやられることが、普通です。そしてまた、その行動が何の前触れもなく途中で中断されて、新たな事態に対処しなければならなくなる。悲劇でも、喜劇でもその他の何でもよい、私達の生理は行き着くところまで行き着きたい欲求に駆られますが、現実ではなかなかそれが思うにまかせない。必然的にストレスが溜まりに溜まる仕組みになっているのが、通常のケースと言えるでしょう。 ストレスを意識して、意図的に排除してやる必要が生ずるのは、必然なのでありました。そして現代人は何かに憑かれた如くに滅多矢鱈に多忙でありますから、ストレスはいやが上にも増え続けることになる。そして体内に溜め込まれたストレスの塊が、知らない間に身体全体を害し、損ない、その結果でとんでもない予想外な不幸な事態を招来してしまう。早めに予防策を講じるに如くはないのであります、実際の話が。 この手立てとして非常に有効であるのが言葉を発声する行為・行動なのですね。手軽に、誰でもが何処ででも行う事が出来る発声・発語に始まり、非常に巧みに構成された、それ故にカタルシスの効果が最高度に期待できる名作の音読から、主としてイマジネーションに訴えかける私達の目指す「セリフ劇」は、万人向けの癒しの場として最適なエンターテインメント空間として確立されるべき、限りない可能性を内に秘めた素晴らしいものなのであります。 またもや茲で私・草加の爺の耳元にこんな声も囁かれるのが聞えます。成程、成程、あなたの説明を聴いて居りますと、何処の誰にでも有効であり、必要である事が土台・基本に有るのならば、そもそもが青森県の野辺地町でなくともよいのではないか、と思われますが、あなたの語り口を耳にしていると是が非でも野辺地でなくてはならないような、一種思い詰めた頑なさが感じられてならない。それは一体何故なのか? 大体、こういった趣旨の疑問でありますよ。 お答え致しましょう。疑問は御尤もであります。同時に、ある種の言いがかりと言う物ですとも、申し添えなければなりません。此の事の深い理由や謂れに関しては謂わば人知を超越した事情が介在して居りますので、簡単な説明は不可能だと返答して置くに留めます。いずれ事の成行きが辛抱強く関心をお示し下さる方々の眼に、明瞭に示されるでありましょうから。もう一言付言するなら、このブログのサブタイトルの 神慮に依る「野辺地ものがたり」 から賢明なる読者は類推して頂ける筈でありましょうか、恐らくは…。 閑話休題 ―― ここで、私・草加の爺の独り言です。ですから聞き流して頂いて結構です。今私は亡妻悦子が新婚当時に私に買い与えて呉れた英語のバイブルを、或る懐かしさの感情と共に読み直して居ります。新約 The New Testament のマタイ伝であります。そしてイエスの言葉の余りの格調の高さに、今更ながらに驚いて居ります。と同時に、人間としてこう在りたい、こう生きられたらどんなにか素晴らしいだろうかと、感じながらも、これ程の高い理想と規範を掲げられても、少なくともこの私には無理だとも心の中で呟いてしまいました。 理想と現実、謎の人イエスと凡愚の中の凡愚の典型である私。私自身は野辺地の町の人々との折衝を通じてイエスとの対話を深めて行きたいと考えて居りますが、一方で既に仏教と釈迦の教説の理解を通して一定の回答も得てもいる。少なくともベクトルの方向性はぴったりと一致している。その内に秘めたエネルギーと能力の違いなので、目指す物、到達点は同じなのだと考えるある種の自負も保持している。彼岸に重点を置くか、此岸・現世に重点を置くかの相違であり、肉体をより大切と見るか精神を優先させるかの力点の置き方の違いに、結局は帰着するのであって。 神よ! どうぞ、この私の身をご自由に御使いください。私はあなた様の御心の儘に可能な限り忠実に任務を遂行致す所存であります故。 草加の爺、謹白
2018年12月19日
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第 三百九十 回 目 台本候補としての「平家物語」の続きです。 [ 源氏 揃 (げんじぞろへ)] ―― 新帝の御即位はめでたいが、世の中はまだ治まっていない。例えば法王の第二皇子・高倉宮以仁王(もちひとわう〉などは不遇をかこつ一人であった。そのころ源三位入道頼政が高倉宮に向かって宮の不遇、平氏の横暴、諸国に雌伏する源氏の状況を説いて、しきりに奮起をすすめた。宮は最初は迷ったが意を決し、熊野にいた源行家を密使として東国に派遣した。 その頃一院(ゐちいん)第二の王子以仁の王と申しけるは、御母(おんはは)加賀大納言季成(すえなり)卿の御娘也。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去(いん)じ永萬(ゑいまん)元年十二月十六日、御年(おんとし)十五にて、忍びつつ近衛河原(このゑかわら)の大宮の御所にて御元服ありけり。御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれて在(まし)ましければ、位にもつかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみにて、おしこめられさせ給ひつつ、花のもとの春の遊びには、紫毫(しがう)をふるッて手づから御作(ごさく)をかき、月の前の宴には、玉笛(ぎょくてき)をふいて身づから雅音(がいん)をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御年三十にぞならせ在(まし)ましける。 その頃近衛河原に候(そうらひ)ける源三位(げんざんみ)入道頼政、或る夜ひそかに此の宮の御所にまいッて、申しけるこそおそろしけれ。「君は天照大神(てんせうだいじん)四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや。當世(たうせい)のていを見候に、うへにはしたがいたるやうなれども、内々(ないない)は平家をそねまぬ者や候。御謀反(ごむほん)をおこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇(ほうわう)のいつとなく鳥羽殿(とばどの)におしこめられてわたらせ給ふ御心をも、やすめまいらせ、君も位につかせ給ふべし。これ御孝行(ごかうかう)のいたりにてこそ候はんずれ。もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨(れうじ)をくださせ給ふ物ならば、悦(よろこび)をなしてまいらむずる源氏どもこそおほう候へ」とて、申しつづく。「まづ京都には、出羽の前司光信が子供、伊賀の守光基、出羽の判官光長、出羽の蔵人(くらんど)光重、出羽の冠者光能(みつよし)、熊野には、故六条判官為義が末子(ばつし)十郎義盛とてかくれて候。摂津国(つのくに)には多田の蔵人行綱こそ候へでも、新大納言成親の卿の謀反の時、同心しながらかゑり忠したる不當人で候へば、申すに及ばず。さりながら、その弟多田の二郎知實(じろうともざね)、手嶋の冠者高頼、太田(おほだ)の太郎頼基、河内国には、武蔵の権守入道義基、子息石河の判官代義兼、大和国には宇野七郎親治が子供、太郎有治・二郎清治・三郎成治・四郎義治、近江国には、山本・柏木・錦古里(にしごり)、美濃尾張には、山田の次郎重弘、河邊の太郎重直、泉の太郎重満、浦野の四郎重遠、安食の次郎重頼、その子太郎重資(しげすけ)、木太三郎重長、開田判官代重国、矢嶋先生(せんじゃう)重高、その子太郎重行、甲斐の國には、逸見冠者義清、その子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光・同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、平賀冠者盛義、その子四郎義信、帯刀先生善賢が次男木曾冠者義仲、伊豆の国には、流人前右兵衛佐頼朝、常陸の国には、信太三郎先生義憲(よしのり)、佐竹冠者昌義(まさよし)、その子太郎忠義(ただよし)、同三郎義宗(よしむね)、四郎高義、五郎義季(よしすゑ)、陸奥國(みちのくに)には、故左馬頭(さまのかみ)義朝が末子(ばっし)九郎冠者義経、これみな六孫王(そんわう)の苗裔(べうゑい)、多田新發(しんぼッち)滿仲(まんぢう)が後胤(こうゐん)なり。朝敵をも平らげ、宿望(しゆくまう)をとげし事は、源平(げんぺい)いづれ勝劣なかりしか共、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にも猶(なお)おとれり。國には国司にしたがひ、庄には預所(あづかりどころ)につかはれ、公事(くじ)雜事(ざうじ)にかりたてられて、やすひおもひも候はず、いかばかりか心うく候らん。君もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨をたうづる物ならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさん事、時日(じじつ)をめぐらすべからず。入道も年こそよッて候へども、子供ひきぐしてまいり候べし」とぞ申したる。 宮はこの事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸(あこまる)大納言宗通(むねみち)の卿の孫、備後の前司季通(すゑみち)が子、少納言伊長(これなが)と申し候は勝れたる相人なりければ、時の人相(さう)少納言とぞ申しける。その人がこの宮を見まいらせて、「位に即(つか)せ給ふべき相まします。天下(てんが)の事思し召し放たせ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道もか様に申されければ、「さてはしかるべき天照大神(てんせうだいじん)の御告(おんつげ)やらん」とて、ひしひしと思し召したたせ給ひけり。熊野に候ふ十郎義盛(よしもり)を召して、藏人(くらんど)になさる。行家(ゆきいへ)と改名(かいみやう)して、令旨の御使ひに東國へぞ下りける。 同(おなじき)四(しッ)月二十八日、都をたッて、近江の国より始めて、美濃尾張の源氏どもに次第にふれてゆく程に、五月十日の日、伊豆の北条に下り着き、流人前(さきの)兵衛の佐殿に令旨たてまつり、信太(しだ)三郎先生義憲(よりのり)は兄なれば取らせんとて、常陸國信太の浮嶋(うきしま)へくだる。木曾の冠者義仲は甥なれば賜(たばん)とて、山道(せんだう)へぞおもむきける。 その頃の熊野の別當湛増(たんぞう)は、平家に心ざしふかかりけるが、なにとしてか洩れ聞いたりけん、「新宮(しんぐう)の十郎義盛こそ高倉宮の令旨給はッて、美濃尾張どもふれもよほし、既に謀反を起こすなれ。那智新宮の者どもは、源氏の方人(かたうど)をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を天山(あめやま)とかうむッたれば、いかでか背きたてまつるべき。那智新宮の者共に矢ひとつ射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、ひた甲(かぶと)一千人、新宮の湊へ發向(はつかう)す。新宮には鳥井の法眼(ほうげん)・高坊(たかばう)の法眼、侍(さぶらひ)には宇井・鈴木・水屋(みずや)・龜の甲、那智には執行(しゆぎやう)法眼以下(いげ)、都合その勢二千餘人なり。時つくり、矢合はせして、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうとこそ射れとて、矢さけびの聲の退轉もなく、かぶらの鳴りやむ暇もなく、三日がほどこそたたかふたれ。熊野の別當湛増、家子郎等(いへのこらうどう)おほく討たせ、我が身手おひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げのぼりけれ。 ―― 鳥羽殿で鼬(いたち)が沢山騒いだので、占わせてみると、三日の間に吉事と凶事とがあるということであったが、果たして法皇は鳥羽からお出になることが出来た。都では高倉宮の計画が知れて大騒ぎとなり、討手がただちに宮の御所にさしむけられた。
2018年12月14日
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第 三百八十九 回 目 音読 励行の すすめ ( 町の人々への呼び掛け の 草案として ) この世に人として生まれて、誰もが必ず毎日自然に行っている行動の一つが、声に出して言葉を発する行為でありますが、それを意図的・意識的に行い、それを暮らしに役立てようと言うのであります。明治の初めに福沢諭吉は「学問のすすめ」を書いて、学問する事の大切さを世人に広く訴えましたが、私・草加の爺は「音読のすすめ」をアピールして、人の心と身体に元気と癒しとを与える大切さを力説したいのであります。 直接の目的は 町興し の手段でありますが、そればかりではなく更に大きく遠大な目標も含まれてもいる。それに就いては追々触れることにして、ここではごく身近な行為・行動でありながら、広く人間一般に通用する普遍的な有用な効用・価値に関して、主として述べる事に致しますので、どうぞ御静聴をお願い申します。 音読を楽しもう、普段着の言葉で心の中を清掃する習慣をつけて、健康な毎日を楽しく送りましょう! これが最初の一歩であり、同時に、最終の目標でもある。そして、そのプラスの副作用として町全体が活性化し、延いては外部から人々が頻繁に足を運ぶようになる。そして中期的には新しい形の娯楽としての セリフ劇団 が誕生し、それが起爆剤として地球上のあらゆる土地から観客が 心の癒しと安らぎとを求めて 押し寄せて来る、必然として。 先ず最初はお気に入りの言葉を口に出して言う。呪文か口癖の様な一句・一言でよい、たとえばの話が毎日起き抜けに洗顔や歯磨きが終了した後で、 「私は元気だ」、「今日は何か良い事が起こりそうだ」、「雨が降るのは後で晴天が期待できるので、ラッキーかも」、「曇りの日も悪くないよ、気持ちが落着くからね」などと、何でもよいから思いつくままに発声してみる、自分自身を励まし鼓舞する気持ちで以って、口から出まかせでもかまいませんので、とにかく何度か口に出して言ってみる。所要時間にして一分もかからない。これを毎日の日課として兎に角、途中で忘れて中断したり、休んだりがあったとしても気にしないで、暫らくの間継続してみる。そして無理せずに言葉の数を多くしながら、習慣化してみることです。 心が軽くなり、身体も何だか元気が増したように感じてきたら、もうしめたもの。あなたはもう音読の常習者の一人に数え上げられる、立派な朗読者予備軍と見なされて然るべきなのです。 このようにステップの一は自分が自分自身にプラスの暗示をかけるように語り掛ける訓練から始まって、次なる二歩めは一番身近に居る人への語り掛けに移行する。音読の調子は自分への語り掛けと何ら変わることがなくてよい。気取らず、力まず、親しい人への言葉の挨拶と考えて普段着の口調で、ごくごく自然に発声・発語すればよい、閊えたり噛んだりも O K ですよ。 これだけの事ですから、誰にでも何時からでも直ぐに出来る事です。ほんの少しだけ「その気」になって貰えればの話です。そして、自身で実地に体感し納得して頂ければ、それだけで済む話ですから何処にも難しい点は存在しない。いいことずくめで、マイナス面は本当にゼロです。気に入らなければ、止めて頂いて結構ですが、とても楽しく快適ですから病みつきになるのが自然でしょうよ、きっと。論よりも証拠で、一回軽くトライしてみて下さい、お気軽に。 ピンチの時は実はチャンスの時なのであります。俗に「火事場のクソ力」と言う表現がありますが、困難や不幸に直面した際には人は通常以上の能力や実力を発揮するし、現実に、普通には潜在的に持っていた大きな力を行使して、ビックリするような偉大な結果を残すことになる。 こうした逆転の発想を無理にも奮い起こして、実地に行動する、前進してみる。トライ・アンド・エラー、試行錯誤の中から光明が見えてきます。ほんの少しの勇気と意欲を掻き立てることが、近い将来・未来での大きな成果・成功につながる重要な第一歩となる筈なのですから。 矢っ張りあんたも おんなじ男 あたしはあたしで 生きてゆく 今更なにをいってるのさ 気まぐれ夜風に 誠なんかあるもんか 捨てちゃえ 捨てちゃえ どうせひろった恋だもの / 飲もうと酔おうと あたしの勝手 余計なお世話だ よしとくれ 愚痴ってみても 仕方ないさ 女のこころを あンたなんか知るもんか 捨てちゃえ 捨てちゃえ どうせひろった恋だもの / 笑っているのに 涙がにじむ 並木の夜星よ 見るじゃない泣かなきゃすまぬ 年じゃないさ 気まぐれ男に 未練なンかあるものか 捨てちゃえ 捨てちゃえ どうせひろった恋だもの 大昔に流行った流行歌の歌詞(野村 俊夫 作詞)ですが、所謂「女ごころ」も男の浮気も今日も大した変わりがないものと思われますが、千年前も気取りや衒いをかなぐり捨てた男女の恋愛心理の実相では無いでしょうか。このようなポプュラーな流行歌の歌詞なども「心の憂さ」を晴らす手段には利用出来ますので、積極的に活用してよいのではないでしょうか。 ちょっとばかり理屈っぽい話をお許しください。四苦八苦の娑婆、というような事が言われましたが四や八の数字は唯数の多さを表しているに過ぎません。男でも女でも人生を生きる上では「苦」を避けてスルーすることは、誰にも許されていません。生きると、苦しむは同義です。しかも偶々楽しさや幸福を手にしても長くは続かず、又もや別の困難や不幸が待ち受けていて、私達を安らかな境地に置いておいては呉れません。で、自然ストレスが溜まりに溜まって無意識の裡に心の内部からも有毒ガスさながらに、私達を悩まします。それでもまだ、意識出来ている物はどうにか対処のしようもあるでしょうが、気が付かない儘に鬱積して残存した心の中の不純物は、どぶ泥の如くに腐敗して、とんでもない悪さをする場合さえ出て来て、本当の病気になってしまう最悪のケースだって稀ではないのです。 早期に手を打つ。軽微で微弱な段階で解消してしまう。その為のベストの手段が朗読という心の健康法であり、癒しの特効薬ともなる。そればかりではありませんよ、予防や精神の強壮にも効果が大であります。 こう在りたいと望む理想の自分、逆にあんな風にはなりたくない自分を、虚構の世界に一時的に入り込んで 演戯 することでカタルシス(心の浄化・清掃)を体験する。それが劇・ドラマだけではなく詩や物語やコントなどでも、工夫次第ではいともたやすく入手可能なのです、実際の話がなのであります。 それからまた、独りで様々なストレスに対処する事に関連付けて申せば、一人で何役も兼ねる理窟になります。今日でも踏襲されている俳優や役者の「在り方」は、主役なら主役、二枚目役なら二枚目、そして敵役なら敵役を生涯ずっと続けるのが、いわば当たり前のようになっていますが、私の提案している「役者修行」においては、各自が全ての役柄をこなして演じる必要がある。つまり人間性のあらゆる要素に対して、銘々が銘々の工夫と努力によって正面から向き合い、自分なりの回答を出すことが肝要なのでありますね。 私が今述べた従来形の俳優・役者の典型を言えば、三船敏郎であり美空ひばりなのであり、高倉健なのです。三船は三船しか、美空は美空しか、高倉は高倉しか演じなかったし、また演じることが出来なかった。お判りでしょうか、彼等は皆厳密な意味からすれは狭く限定された役柄しか演じられかったし、それで彼等の役割は十分とされたからであります。 私達のセリフ劇で要請される俳優・役者は根本的に違っている。あらゆる人間のタイプを演じ分けられる本物の俳優や役者として、更なる高みを目指して修行を積み重ねる必要があります。それは「銭の稼げる職業人」が理想ではなく、自ずから全く異なった、一種崇高なる役割が俳優・役者に課せられているからなのですね。それは癒やす人であり、安らぎをもたらす救済者であり、その理想形を言えば「究極の愛」を仲介し、確実に地上の人々に届ける慈愛の担い手となるべき、尊い存在たるべきミッションの 遂行びと そのものを目指す人達だからなのであります。 こんな風に書きますと、人に依っては俳優・役者とは非常に特殊な人種ではないかと、誤解されるかも知れません。しかし、それは間違いです。そもそもこの世に人間として生まれたお人は皆が例外なく自然に「名優」揃いなのでありますから。 えっ、何だって? 自分もその名優とやらの一人だと言う心算なのだろうか? そんな具合に感じた人が居らっしゃれば、私は即座に「はい、そうです」とお答えします。貴方は紛れもない貴方であり、他の誰でもない。嘘だとお思いでしたら周囲の身近にいらっしゃる誰でも構いません、こう尋ねてみてください、「今日の自分は、昨日までの自分と何か大きく違っているか」と。九十九パーセントの人が恐らく「何にも違っていないよ」という、ごく普通の返事を受取ること請け合いですから。つまり貴方は無意識の裡にではありますが、御自分を毎日繰り返し 演技 しているわけです、それも間然する所など少しもなく。だから私は名優と呼ぶのです。 私達は誰でも様々な発展性を蔵した多様な可能体として生まれて来ているわけです。世の中の人々の驚異的な多様性を見て頂ければ、その事実は容易に首肯して頂けますでしょうし、例えば教育の重要性はより良き方向へ向けて鼓舞し、勇気付ける事で人が望ましい変化を遂げ得る何よりの証左でありましょう。 意識的な改変によってどの程度の変貌が可能かは、人によって様々でしょうし、置かれた環境や時代などによっても大きく影響を蒙るでしょう。 しかし、人生と言う大舞台でおのずから名優たることを許された私達には、フィクションという虚構の舞台で様々な人物や人生を演技・演戯することなど、いとも容易い芸当な筈。少なくとも可能性や、能力の上では。 生涯に一つの役柄しか演じる事の出来ない不器用な名優は、スポットライトを浴びない端役である場合が多い私達にとって馴染み深いだけでなく、現実に映画や舞台などでスターとして持て囃されている三船敏郎、美空ひばり、高倉健などの大スターも同様なのです。だから、意図的により高い境地やステージを目指しての懸命な努力が、必要になりもするのでありますね。 それでは、一層の高みを目指すにはどうしたらよいか、簡単です、自分らしさを如何にしたらよりよく出せるか、自分らしさとは一体「何か」を追求し修行を積むこと、に他なりません。それには自己を正しく「習う」ことが一番大切です。飽くまでも自己・自分とは何かを真摯に追い求める、人生の大事はこの一事に尽きるのでありますから。 念の為にもう一言申し添えれば、人真似は駄目です。自分を見て、それを正しく習うのです。
2018年12月06日
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第 三百八十八 回 目 平家物語の続きで、順不同で私の気儘で選択しています。 [ 有 王 ( ありわう )] ―― 俊寛の召使に有王という者があって、俊寛に会うために鬼界ヶ島に下った。有王は島に着いてぼろ着て心身ともに衰え果てた俊寛をやっと探すことが出来た。人間の報いにも色々あるが、俊寛のはこの世で犯した罪が直ちに、報いられたものであったろう。 さるほどに、鬼界ヶ嶋へ三人ながされたりし流人(るにん)、二人(ににん)はめしかへされて都へのぼりぬ。俊寛僧都一人(いちにん)、うかりし嶋の嶋守(しまもり)になりにけるこそうたてけれ。僧都のおさなうより不便(ふびん)にして、めしつかはれける童あり。名をば有王とぞ申しける。鬼界ヶ嶋の流人、今日すでに都へ入ると聞えしかば、鳥羽(とば)まで行きむかふて見けれども、わがしうはみえ給はず。いかにと問へば、「それはなを罪ふかしとて、嶋にのこされ給ひぬ」と聞いて、心憂しなンどもおろかなり。常は六波羅邊(へん)にたたずみありいて聞きけれども、赦免あるべしとも聞きいださず。僧都の御むすめの忍びておはしける所へまいッて、「この瀬にも漏れさせ給ひて、御(おん)のぼりも候はず。いかにもして彼の嶋へわたッて、御行方を尋ねまいらせむとこそ思ひなッて候へ。御ふみ給はらん」と申しければ、泣く泣くかいてたうだりけり。いとまをこふとも、よもゆるさじとて、父にも母にもしらせず、もろこし船のともづなは、卯月皐月に解くなれば、夏衣たつを遅くや思ひけむ、やよひの末に都を出(いで)て、多くの浪路を凌ぎ過ぎ、薩摩潟(さつまがた)へぞ下りける。薩摩より彼の嶋へわたる船津(ふなつ)にて、人あやしみ、きたる物を剥ぎとりなンどしけれ共、すこしも後悔せず。姫御前(ひめごンぜん)の御文(おんふみ)ばかりぞ人に見せじとて、元結(もとゆひ)の中に隠したりける。さて商人(あきんど)船にのッて、件の嶋へわたッてみるに、都にてかすかにつたへ聞きしは事のかずにもあらず、田もなし、畠もなし、村もなし、里もなし。をのずから人はあれ共、いふ詞(ことば)も聞きしらず。もしか様(やう)の者共の中に、わが主(しう)の行方や知りたるものやあらんと、「物もうさう」どいへば、「何事」とこたふ。「是に都よりながされ給ひし、法勝寺(ほつしやうじ)執行御房(しゆぎやうごばう)と申す人の御行方やしりたる」と問ふに、法勝寺とも、執行とも知ッたらばこそ返事もせめ。頸をふッて知らずといふ。その中にある者が心得(こころえ)て、「いさとよ、さ様(やう)の人は三人是に有りしが、二人はめしかへされて都にのぼりぬ。いま一人はのこされて、あそこ爰(ここ)にまどひありけ共、ゆくえもしらず」とぞいひける。山のかたのおぼつかなさに、はるかに分け入り、峯によぢ、谷に下れども、白雲跡を埋んで、ゆ來の道もさだかならず。青嵐夢を破って、その面影もみえざりけり。山にて遂に尋ねもあはず。海の邊(ほとり)について尋ぬるに、沙頭(さとう)に印(いん)を刻む鷗(かもめ)、澳(おき)の白洲にすだく濱千鳥の外は、跡とふ物もなかりけり。 ある朝(あした)、いその方よりかげろふなンどのやうにやせおとろへたる者よろぼひ出(いで)きたり。もとは法師にて有りけると覚えて、髪は空さまへおひあがり、よろづの藻くづとりつゐて、をどろをいただいたるが如し。つぎ目あらはれて皮ゆたひ、身に着たる物は絹布のわきも見えず。片手にはあらめをひろいもち、片手には網うどに魚(うほ)をもらふてもち、歩(あゆ)むやふにはしけれ共、はかもゆかず、よろよろとして出(いで)きたり。「都にて多くの乞丐人(こつがいにん)みしか共、かかる者をばいまだみず。「諸阿修羅等居在大海辺(しょあしゅらとうこざいだいかいへん、諸阿修羅は大海の辺に居在するという意味)」とて、修羅の三悪四趣(さんあくししゅ)は深山大海(しんざんだいかい)のほとりにありと、佛の解きをき給ひたれば、しらず、われ餓鬼道(がきだう)に尋ね來たるか」と思ふ程に、かれも是も次第にあゆみちかづく。もしか様のものも、しう(主)の御ゆくえ知りたる事やあらんと、「物もうさう」どいへば、「何ごと」とこたふ。「是は都よりながされ給ひし、法勝寺執行御房と申す人の、御行(おんゆく)えや知りたる」と問ふに、童は見忘れたれ共、僧都は何とてか忘るべきなれば、「是こそそよ」といひもあへず、手にもてる物をなげ捨て、すなごの上にたふれふす。さてこそわがしうの行方もしりてンげれ。やがてきえ入り給ふを、ひざの上にかきのせ奉り、「有王がまいッて候。多くの浪ぢをしのいで、是まで尋ねまいりたるかひもなく、いかにやがてうき目をば見せさせ給ふぞ」と泣く泣く申しければ、ややあッて、すこし人心地(ごこち)出(いで)き、たすけおこされて、「誠に汝が是まで尋ね來たる心ざしの程こそ神妙(しんべう)なれ。明けても暮れても、都の事のみ思ひ居たれば、戀しき者共が面かげは、夢にみるおりもあり、まぼろしにたつ時もあり、身もいたくつかれよはッて後は、夢もうつつもおもひわかず。されば汝が來たるも、ただ夢とのみこそおぼゆれ。もし此事の夢ならば、さめての後はいかがせん」。有王「うつつにて候也。此御ありさまにて、今まで御命ののびさせ給ひて候こそ、不思議に覚え候へ」と申せば、「さればこそ、去年(こぞ)少将や判官(はんぐはん)入道に捨てられて後(のち)のたよりなさ、心の内をばただおしはかるべし。その瀬に身をなげむとせしを、よしなき少将の「今一度都の音づれをもまてよかし」なンど、なぐさめ置きしを、をろかにもしやとたのみつつ、ながらへんとはせしか共、此の嶋には人のくい物たえてなき所なれば、身に力のありし程は、山にのぼッて湯黄(いわう)と云う物をほり、九國(こく)よりかよふ商人(あきびと)にあひ、くい物にかへなンどせしか共、日にそへてよはりゆけば、いまはその態(わざ)もせず。かやうに日ののどかなる時は、磯(いそ)に出(いで)て網人(あみうど)に釣人(つりうど)に、手をすりひざをかがめて、魚(うほ)をもらい、鹽干(しほひ)のときは貝をひろひ、あらめをとり、磯の苔(こけ)に露の命をかけてこそ、けふまでもながらへたれ。さらでは浮世を渡るよすがをば、いかにしつらんとか思ふらむ。爰にて何事もいはばやとおもへ共、いざわが家へ」とのたまへば、この御ありさまにても家をもち給へるふしぎさよと思ひて行くほどに、松の一むらある中に、寄り竹を柱にして、葦をゆひ、桁梁(けたはり)にわたし、上にもしたにも松の葉をひしと取りかけたり。雨風たまるべうもなし。昔は法勝寺の寺務職にて、八十餘ケ所の庄務(しやうむ)をつかさどられしかば、棟門(むねかど)平門(ひらかど)の内に、四五百人の所從眷属(しよじうけんぞく)に圍饒(ゐねう)せられてこそおはせしか。まのあたりかかるうきめを見給ひけるこそふしぎなれ。業(ごう)に様々あり。順現・順生・順後業(じゅんごごう)といへり。僧都一期(いちご)の間、身にもちゐる處、大伽藍の寺物佛物(じもつぶつもつ)にあらずと云う事なし。さばかりの信施無慙(しんぜむざん)の罪によッて、今生(こんじやう)に感ぜられけりとぞみえたりける。 ―― (この後の粗筋) 有王は陰謀発覚後の俊寛一家の悲惨な有様を語り、たった一人生き残っている娘からの手紙を見せた。以後俊寛は食を断ち念仏を唱えて死に、有王は遺骨を持って帰京した。かように人々の遺恨や悲歎の積もった平家の行く末こそ恐ろしいものである。
2018年12月03日
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