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第 三百七 回 目 今回は、自然とメッセージというテーマで書いてみます。 ご承知の如く、自然には「声」が有りませんので、所謂「声なき声」のメッセージという事に当然の様になります。で、必然的にその声に耳を傾ける 人間の力量 が問われる。自然が声なき声で以って伝えようと 企図 しているメッセージに、真剣に耳を傾ける、その真剣度合が問題になるわけです、実際。 何故なら、そのメッセージは、声どころか、色も形も匂いも、触感も人の持つセンサーの機能を遥かに超越した広大にして無辺な、際限もない、途方もない「重要極まりない」メッセージを絶えず、止めどなく、幾度となく度外れな回数、私たちに発し続けて止まないから、でありますね。 これは、分かる人には解る、といった性質のものでありまして、私・草加の爺は丁度今、言わば神懸かり、乃至は 神憑り の状態でこの文章を書いている。否、書かされているから、そうなるのでありますので、何のことか皆目見当もつかない、とお感じの御方がいらっしゃいましたら、これは無視して、つまりスルーしていただいて結構です。申し添えますが、これは私が偉そうに、もしくは傲慢な態度で発言しているからではありません。本質的に そう言った性格の物言い だからなのです、はい。 さて、自然の発しているメッセージに話を戻しましょう。私たち人間も自然の一部でありますので、個々人が本質的に固有のメッセージを保有して、無自覚にそれを発している。発し続けている。それも無限に近い膨大な量のそれを。 数学の事を頭に描いてみて下さい。無限にも、本来は較べようがない無限にも大小があって、どちらが大きいかはどちらがどちらを「含む」かによって、大小が分かる。例えて言うならば、整数の中には偶数と奇数がありますから、偶数も奇数も整数に含まれますので、無限である整数の方が、同じく無限である偶数・奇数より大きい、と言ったように。 無限ですから、散漫で恣意的な眼には、混乱と不規則な事象の羅列のようにしか、映らないのですが、緻密で厳密な、そして繊細かつデリケートな緊密さが、或る視点を獲得した者には鮮明に浮かび上がって確定的なイメージを、映像を感じさせる。その辺の精妙さ、見事さは言語に絶して美しい、殆ど醜悪なまでに…。 その一つと言ってよいのが、曼荼羅・マンダラでありましょうか。仏教や最近の深層心理学が注目する人類の魂を透して見た、自然のメッセージの原風景。 また身近な所では、私たち人間の体の仕組み。これも見事な造りの「小宇宙・無限空間」の見本のようなものではありませんか。自然は、飽くこともなくこの小宇宙の数々を次々と創造して、倦む事が無い。 私たちにはそれぞれにあらかじめ定められた「役割」がある。ですから、自由に、勝手気ままに、生きることなど、本来は許されていない。そのことの意味合いを、よくよく、篤と考えてみる必要がある。間違いなく、なのでありますよ。 キリスト教の方では「初めに言葉があった」といいますが、言葉をメッセージと言い換えてみてもよい。言っていることは同じでありましょうから、結局は。 熱い、熱い、思い・想いという火・炎が赤々と燃え立ったし、いま尚赤く灼熱して燃え滾っている。そしてその火は未来永劫に亘って燃え続けることを、止めないでありましょう。 信教の自由という事が言われます。一見して尤もと思われる主張の様に思われますが、ここで私は思い切って断言してみます。そんな自由などは、体裁のよい上辺だけのもの、それ故に嘘偽りだと。 信ずるに値する対象をこそ信じなければいけないのだ。それはこの世でも、無論過去世でも、当然にあの世でも、唯一無二のもので、ただの一つしかない。それ故に「宗教」、つまり宗とする教えなのだと。 それは大切なメッセージを発し続けている自然の背後に、或いはその遥かな彼方に、確として存在し自然を的確に支えている。 この事実は、乃至は、真実は直観力によってしか私たち人間には把握・感受することは許されない。まして合理的な、余りに合理的に過ぎる科学の常識をはるかに超越している。 私は何も殊更に誇張した、或いは、持って回った、奥歯に何か物の挟まった言い方をしているわけでは、ありません、けっして。 ただ人間というものの限界を素直に認め、真っ正直になろう。すると不思議な事に「 真実の 不思 議 」が何処からともなく、その在りのままの姿を浮かび上がらせて来る。その事実を、真の実在に関して述べようとしているだけにしか、過ぎない。お判りでしょうか? これを仏性と呼んでもよい。私たちは仏という全体の、微小ではあっても、有難い事に一部なのですから。全体との関係・関連を素直に、ただありのままに認識すればよい。 妙好人と呼ばれる人々がいます。そのほとんどが無学であり、無名な庶民の典型のような人。その一人がこんな言葉を発しています。「親様の家なのだから、遠慮や余計な気遣いなどいらない。安心して暮らそう」と。そして彼は、それを事もなく実行して見せた。 これを私は、否、周囲にいた人々は驚嘆、讃嘆した。偉人や哲人も及ばない見事の一語に尽きる、素晴らしい生き方ではありませんか…。 こうした達人の生き方、暮らし方が、万人に対して開かれている。これは実に有難く、勿体無く、驚異の一語のみ。外に言葉を失ってしまう。
2018年05月28日
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第 三百六 回 目 目指している「セリフ劇」の台本候補を主として掲載している本ブログですが、今回は一息ついて人間の本質的な営みの一つである 愛情 の在り方について、少しばかり考察を加えてみたいと思います。 人間の愛情がテーマですから、最低でも一人、もしくは二人の場合が想定されます。 先ず順序として一人の場合を考えます。自分が専ら自分自身に愛情を注ぐ。これは一見すると簡単極まりない事柄と見えます。しかしながら、果たしてそうでしょうか? 自己の中には所謂「社会化された自己」と生来の自己とが混在しています。つまり自己をそういうある種 完成された成人 と規定してスタートさせようと思うからでありますよ。すると、基本は二人の人間を想定すればよい、という事になりそうですね。 愛し手としての人間と、愛される対象者としての人間とです。未熟な愛し手と、未熟な愛の受益者と。 それでは人は何故に自己以外の人を愛するのか? 素朴にして、根底的な疑問であり、問い掛けでありますが、これに答える事は容易ではない、予感がいたしますが、如何…。 ここで私は、私としての結論から申し上げたいと考えました。これは私草加の爺が74年間生きて来た学びの成果でありますが、これを他の人々に押し付けようという意図からではありません。出来るならば私の結論を参考にして、読者の方々それぞれがご自分の考えを、しっかりと固めていただけたら望外の倖せであると、そんな風に思うのであります。 これは申すまでもなくアカデミックな学術論文の類ではありません。言ってみれば私流の独断であり、偏見であります、間違いなく。但し、人類史上に名を留める諸賢人の卓見を十分に斟酌・忖度・参酌した上での愚見・管見でありますので、逆説に聞こえるかも知れませんが、公正にして中庸を得た、それ故に私見( つまり、個人的な見解など何処にもない、在りの儘の真実でもあるのですが )そのものに他なりません。 人は何故に自分以外の他者を愛するのか。その答えは単純明快、人はそもそも偉大なる存在者からの絶大なる愛情に支えられているから。その存在者の真似をしているのに過ぎない。もどき(擬き、もどき は似て非なる真似)をしているだけ、無意識に、そして無自覚に…、それ故に稚拙に。 莫迦を見たけりゃ親を見ろ、の言葉の由来は 人の親 が超絶的な存在者を「無様に」もどいている、似て非なる猿真似をしている事に発している。 人は誰も例外なしに「親バカ」であります。つまり、目に入れても痛くない可愛い子供に対する溢れるような愛情の洪水に溺れて、どうしても溺愛してしまう。 ですから古人は「可愛い子には旅をさせろ」と教えました。この場合の「旅」とは「物見遊山の気楽で愉快な旅行」などではなく、時には命の危険も伴う試練の遠出、親離れの時間・体験を意味しています。百獣の王の獅子が、生まれたばかりの吾子を千尋の谷底(つまり、目もくらむ深さ、高さを言う)に蹴落とす、との教えは、この人の親が共通して持つ弱点を戒めようと意図したもの、に他なりません。 今ここで、親を神仏に置き換え、人間を子供にして考察してみましょう。 この場合に明確に言える事は、愛し手としての神仏は申し分が無く完璧なのですが、その広大無辺な愛情を受け止める側の私たちが、余りにも未熟に過ぎる。縁なき衆生は度し難きかな、という仕儀に立ち至ってしまう。両者の呼吸がぴたりと一致する必要があるのですが、片方があまりにも不完全で、脆弱にして軟(やわ)な存在なのが、全ての不幸せを呼び込む災いの元凶なのですが、それにも関わらずに更なるセイフティネットがあらかじめ準備されてもいる。実に有難いの一語に尽きる親心なのですが、親の心を子供は知らないし、知ろうとも努力しない。じつに実に罰当たりな子供の在り方であり、心の仕組みなのでありました。 こうして、大いに未熟である者同士が愛し手であり、同時に受け止め手である人間世界でありますから、現実世界で私たちが体験し、目撃している一大混乱状況はいわば、必然であった。そう断言できるでありましょう。夫婦の不和、親子の離反、兄弟間の諍い、友人知人との喧嘩やいがみ合い、恋人の反目と憎悪などなど、この根本の筋道に着目するなら起こるべくして起こっている現象だと、極めて明確に理解可能な事柄でありましたね。 原理原則は例によって例の如くに、じつに単純明快でありますよ。私たちは謙虚にそして真っ正直になればよい。相手の事を親身に考え続ければよい。何者かに対する感謝の気持ちを忘れない事。真摯に直向きになればそれで済む。そんな風にお膳立てが出来上がっている、有難い事には。 それなのに何故に私たちにはその単純至極のことが実行できないのか? これも結論から申しましょうか。信仰心が希薄だから、脆弱だから、であります。これも、どうしてそうなのかを考えると、親がそうだから。と、言えそうですよ。 子供は親の背中を見て育つ、と言われますが、親が通常子供に見せたくないネガティブな面も含めて、親の子供に与える影響力は多大なものがある。その最たるものが、超絶者への無意識な信頼としての絶対的な信仰心 でありましょう。これについても、私の書いた言説を御承知の方には注釈の必要も無いのですが、念の為に老婆心ながら申し添えるならば、特定の既成宗教に対する信仰ではなく、「原音としての宗教心」を正しく意味します、はい。 その「原音としての本来の、健全な宗教心」が皆無に近い。それが、子供たちに悪影響を与え続けているし、これからも与え続けるでありましょう、恐らく。 己の信じる目標に向かって真摯なる努力を怠るな。人生にはゴールなどない。プロセスが全てだ。遅疑逡巡することなく粛々と日々前進を続けよ! 全身全霊を傾けて…。 ―― これは現在の私自身に直接に投げかける言葉の直球でありますが、必要なお方がいらっしゃいましたなら、参考になさって下さい、どうぞ。 またまた、老婆心ながら付け加えますと、人生の目的は 人生をエンジョイする こと。この一事に尽きます。が、実行は難事である。何故か? 自分で自分にブレーキをかけてしまうから。真の信仰心を持たないから。もしくは、もてないから。己の愚かさに目覚めないから。それも自らの愚かしさを存分に発揮して…。賢人ソクラテスは言っているではありませんか。己自身を知れと! つまり、蛇足として注釈を施すならば、己の愚かさを徹底して知り、そして同時に、全知全能たる絶対的存在者への然るべき畏怖尊崇の念に覚醒し、絶対的な帰依心・純粋無垢なる信仰心を獲得せよ、と。
2018年05月21日
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第三百五回目 痛快喜劇「世の悪を 叩く」シリーズ ―― その 四 『 ババの事件簿 ・ 意地悪には意地悪で 』 時代:現代 場所:或る広壮な屋敷の応接室 人物:屋敷の当主、その妻、当主の両親、双子の中学生の娘、小学5年生の息子、お手伝いの女性、 ジジとババ ジジが一人で所在なさげに椅子に腰を掛けている。そこへ祖母がしずしずと入って来た。ジジが遠慮がちに声を掛ける。 ジジ「あの、もし」 祖母は素知らぬ顔をして反対側に行って姿を消した。ジジは困ったそぶり。今度は中学生の娘の一人がスキップして、楽し気にやって来た。 ジジ「あの、もしお嬢ちゃん」とジジが声を掛けた。 娘「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」と丁寧にお辞儀をするとそのまま行ってしまう。すると入れ違いにお手伝いの女性が、お盆にのせたコップをうやうやしく捧げ持って登場。 ジジ「ああ、あなた。わしは一寸お手洗いに行きたいのですが、トイレは何処でしょうか?」 女「お待ち遠様でした。どうぞお冷を召し上がれ」とジジの前のテーブルにコップを置いた。 ジジ「それよりも私はお手洗いに先に行きたいのです。トイレは何処ですか?」 女「私は、お冷をお持ちしました。先ず、先に召し上がれ」 ジジ「(瞬時、躊躇していたが、前に置かれたコップを手に取って飲もうとしたが)うわっ、こりゃお酒だ。冷やの酒」 女「(澄ました顔で)最初から お冷 ですと申し上げている筈です。旦那様からお酒が滅法お好きな方とお聞きして居りましたから」 ジジ「とんでもない。私は、吾は生まれながらの下戸でしてな」 主人が奥から出て来て、 主人「これは失礼いたしました。最近はとんと物忘れが多くなりましてな。別の友人と間違えて伝えてしまったのです」と丁寧に詫びた。 ジジ「それは構いませんが、吾はトイレに行きたくてさっきから困っているのです」 主人「(何も聞こえなかったの如くに)今、家内が身だしなみを整えて、御挨拶に出て参りますので、もうしばらくお待ちください」 ジジ「吾は、何度も繰り返しますが、トイレに行きたくて、お手洗いの場所を教えて貰いたいのですが」 主人「ああ、今やっと家内が化粧を終えてやって参りました。奥や、こちらがあの そくら様 で何でも良く御存知の物知りのお方だから…」 ジジ「あの、失礼ですが、御挨拶の前にお手洗いに行きたいので。ご挨拶はその後にお願い致したい」 主人「(ジジの言葉を全く無視して)奥や、早くこちらに来て、御挨拶を申し上げなさい」 妻「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。家内で御座います。いつもお噂は主人から窺って居ります」と実に鄭重なお辞儀をした。 ジジはもう限界だと言わぬばかりに、部屋からそそくさと出て行く。部屋に残った一同は意味ありげに顔を見合わす。 ― 数分の時間経過 ― 部屋には誰もいない。ジジが再び入って来て椅子に腰を下ろす。小学生の男の子が中学生の姉と何か言い争いをしながら登場。ジジを間に挟むようにして、 弟「だから、女には無理だってさっきから言ってるでしょ」 姉「そんなことを言うのだったら、男の子にも無理だって言えるでしょ。同じことよ」 弟「同じじゃないの。全然分かってないのだから」 姉「分かってないのは君の方でしょう。全く分からずやなんだから」と言い残して部屋を出て行った。入れ違いに、反対側からもう一人の双子の姉が登場。 別の姉「ねえマサル、私のシュシュ知らない?」 弟「知らないよ。何だいそのシュシュって」 別の姉「だから男の子は駄目だって言うの。シュシュぐらい知っておきなさいよ」と言い置いて去る。 弟「ねえ、御客さん、シュシュって何だかわかりますか?」と、突然ジジに話し掛けた。 ジジ「(黙って首を横に振る)」 弟「ですよね。じゃあ、男には出来て、女には出来ない事って何だか分かりますか?」 ジジ「(しばらく考えてから、やはり首を横に振る)」 弟「ですよね。僕だってそんな事分からないもの」と言い残して、急に姿を消した。事情が呑み込めずに唖然としているジジであった。 一週間後。同じ場所の同じ所に、今度はババが座っている。お手伝いの女性がお盆に御銚子と徳利の セットを載せて登場。 女性「お待ち遠様でした。ぬるめの燗をお持ち致しました」 ババ「有難う。ついでにもう二合ほど追加を用意しておいて、直ぐにも持って来て下さいな」 女性「畏まりました。直ぐに御用意致します」と奥に去る。ババは素早く徳利の中身を持参した魔法瓶に空けてしまう。そこに双子の姉妹と弟が登場してババを中に挟んで口喧嘩を始めた。 双子の姉「女に出来て、男には出来ない物は何?」 弟「男には出来て、女には出来ない物はなーんだ」 双子の妹「そんなものあるわけないでしょう」 弟「それじゃあ、さっきの質問だって、有るわけがないでしょうよ」 ババ「それが有るんだな」と突然に口を挟んだ。吃驚している子供三人。 三人「どういう事なんですか?」 ババ「男には出来て、女には出来ないことは、相撲取りになること、シルクハットをかぶること、ひげを蓄えること、胡坐をかくこと、人前で平気でおならをすること、スカートめくりをすること。そして、女には出来て、男には出来ないことは、お産をすること、花嫁衣裳を着ること、お化粧をすること、お婆さんになること、リボンやシュシュなどの飾りを身に附けること、料亭の女将になること」 子供三人はババの発言に圧倒されている。そこに祖母と祖父が連れだって登場。 祖母「あなた様は大分今の時代とはズレた事を仰います」 祖父「そうそう、あなた様の言われた事は、みんな大昔の、今では通用しない事柄ばかり」 ババ「馬鹿も休み休みお言いなさい。今の時代、大昔ですって? 聞いたような事をお言いでないよ。男は男らしく、女は女らしく。時代が変わろうが、御時世が移ろうが男女の在り方に変わりが有る筈が、有るものですか」 祖母「お言葉ですが……」 ババ「お黙りなさい!」と一喝してから、「ほーら、あんたみたいな駄目な母親だから、あんなろくでもない息子が出来てしまった」と、奥から妻と共に部屋に姿を現したこの家の当主を指差した。 主人「これは御挨拶ですな。恐れ入りました」 ババ「何が恐れ入りましただよ。お前さんのような軟弱な主(あるじ)だから、使用人も気が利かない、ほーら今頃になって言いつけて置いたお酒を運んできたよ。ここに早くお酒を置きなさい。そして、出来るだけ早くお酒のつまみを、何か御肴を、お酒の宛てを見繕って持っておいで。早くだよ」と燗の酒を運んで来たお手伝いの女性を叱咤した。女性は大慌てで奥に引っ込む。 すると、上手奥の玄関の辺りで「ピンポーン」という音。妻が応対に玄関に向かった。 ババ「さっきの続きの件だけれど、吾があんたがたの腐った根性を叩き直して上げるから、ここにお座りなさい」と、テーブルの周りに家族のメンバーを座らせる。 ババ「今時の人は、何かというと自己主張をしたがる。相手の都合などお構いなし。只ただ、自分はこうしたい、ああしたい。何が欲しい、かにが欲しい、そればっかり。相手だって皆おなじ人間だよ。それぞれにしたい事もあれば、欲しい物もある。それを全く無視して、己の言い分ばかりを相手に押し付けようとしてばかりいる。特に、この家の家族のメンバーは少しばかり経済的に恵まれているせいなのか、詳しい理由については分からないが、兎に角暇に任せてしたい放題のはた迷惑…、意地悪のし放題」 と、そこにジジがおずおずと部屋に入って来た。そして後ろには妻の姿。 ババ「お爺さん、よく来てくれました。ここ、吾の横にお座りなさい。そうそう、そうして奥方も旦那の隣に座りなさいな。そうそう、それでよし。これで準備が完了した。それじゃあ、これからあんたがた家族から迷惑行為を受けた被害者の代表として、今日は特別ゲストとして そくら爺さん においでを頂きました。なんでも先日罪もないこのジジをみんなしてさんざんにいたぶり、なぶりものにして可愛がってくれたそうだが。今日は吾が、天に成り代わって 天罰 というものをあんたがたに下すので、そのつもりでいるように、覚悟しなさい。(えへん、と一つ咳ばらいをして)聞くところによると、大昔に何処かの国で、目には目を、歯には歯を、という法律があったそうだが、吾は慈悲心に満ち溢れた現代人なので、そんな残酷な刑罰は行わない。今日は偶々この そくらさん の誕生日です。彼は自分の誕生日を此処の家族全員で祝って貰うつもりで、ささやかな誕生日のケーキを持参しています」 そこにさっきババから注文された酒の肴を持ってお手伝いの女性が姿を現した。 ババ「ああ、それはそれでいいからそこに置いて、ジュースやお茶など飲み物を準備しなさい。それからみんな、全員が台所に行って自分用の飲み物を持参しなさい!」 ババに命じられて全員がはじかれたように席を立ち、奥に向かって姿を消す。 数分後。家族全員とババとジジがテーブルを囲んでいる。手に手に飲み物を持って乾杯の用意をして待機しているのだ。 ババ「それでは御唱和願います。そくら様、お誕生日おめでとうございます。かんぱーい」 全員「かんぱーい」 ジジと顔を見合わせて「してやったり」とばかりに笑顔を見せるババであった。
2018年05月17日
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第 三百三 回 目 痛快喜劇 「 世の悪を ぶった斬る 」シリーズ ―― その 参 『 救いの神を騙(かた)る ペテン師 』 人物:ペテン師、その被害者たち、ババ、その他 とある町の一角。一組の男女が周囲の視聴を憚るように、静かに、そして孤立した状態で会話を交わしている。 男「何も心配することはない。僕に全てを任せておきなさい。メールでもお伝えしたように、僕には貴女を今の孤独地獄から救い出す、大きな力と優しさとがあるのですから…」 女「でも、私やっぱりとても心配なのです。あなたの事を信用しないと言うのでは、決してありませんが」 男「ですから、煩わしい心配事はすべて忘れて、この僕に全面的に依存すればよいのです。この僕はあなたにとって救いのカギになる。溢れるような優しさと、温かい心と、親切と、包容力と、素晴らしいエネルギーとを持っているのです」 女「でも、私、とても心配性で、気が小さくて、自信が無くて…」 男「そうだよね。でも、もう大丈夫。僕に全てを任せて、君はもう何も心配する必要はない」女「(こっくりと頷ている)」 男は会心の笑みを浮かべる。 別の時刻、別の場所。さっきの男が別の中年の女性と話をしている。 男「大丈夫です。この僕が太鼓判を押しますからね」 中年の女「本当でしょうかしら? まるで夢でも見ている気分ですわ」 男「僕を信頼して、気を楽にして下されば、もうそれだけで明るい未来が保証されて、向こうの方から押し掛けてでも来るように、やって来るのですよ。この僕が保証しますから」 中年の女「嬉しい。本当に嬉しくて、天にまでも上りそうな気分です」 男「それでいいのですよ。あなたはこれまで不運の連続で、暗い気持に落ち込んでばかりいた。本当にお気の毒としか言いようも無かった。でも、もうこれからはバラ色の未来が、楽しいだけの明日が、手招きしてあなたを出迎えてくれるのです、この僕を信じさえすれば」 中年の女「(にっこりとして)嬉しい、とても幸せな気分です」 男「(も、同様に莞爾として)それでいいのです。何もかもが好転して、全てが思い通りに運びますよ、あなたが心から僕を信じさえすれば」 別の日の同じ場所。ハイティーンの少女がそわそわと落ち着きなく、誰かを待っているような様子で道路脇に立っている。そこに例の男が小走りに姿を現した。 男「あっ、ごめんごめん、急用が出来てしまって…」と、少女に丁寧に詫びた。 少女「いいえ、わたしもついさっき来たばかりですから」 男「で、れいの約束の物は用意出来ているかな?」 少女「それが…、今日は駄目だったの」 男「駄目だった。どうしてか、その理由を説明してくれないかな」 少女「わたし、家の御母さんに信用がないから、この前にも御話したように、時間がかかるのです」 男「そう。で、どのくらいの時間がかかるのかな?」 少女「それが分からないのです。でも私、出来るだけの事はしてみるつもりですから、もう少し時間を下さい。お願いです」 男「分かった。仕方がないので、あと一回だけチャンスを君にあげよう。でも、これが最後のチャンスだからね。絶対にあとは無いと思ってくれないと」 少女「分かりました。全力で頑張ってみます」 男「頼もしいね。大いに期待して待っているからね」と言い残して、足早にその場を後にした。少女はその場に釘付けになった如くに、茫然として立ち竦んでいる。それまで物陰からこの様子を見守っていたババが少女に声を掛けた。 ババ「お嬢ちゃん。何かお困りのようだけど、どうしたのかな? よかったらこのババにその訳を聞かせてくれないかな、どう…」 数日後の同じ場所。例の男がイライラした様子で人を待っている。そこへババが息咳を切らしながら駆け付けて来た。 ババ「超親切なお方と言うのは貴男ですね? 大変にお待たせして申訳も御座いません」 男「何か勘違いをしているのではないですか。俺は、別の若い人と待ち合わせているので」 ババ「ですから、その若いお嬢ちゃんの代理で、その子に代わってあんたさんに会いに来たのですよ、吾は」 男「そう、それなら頼まれた物を早くこっちに渡してくれよ」 ババ「えっ、何ですって? 頼まれた物?」 男「そうだよ、あの子から俺に渡してくれって、預かり物があった筈なんだが」 ババ「さあー、一体何のことやら」 男「やっぱり。最初からなんかおかしいとは思ったんだ。やっぱり頭の可笑しな婆さんだったのか」 ババ「えっ、何ですって? あんたさんの仰っていることが、吾にはさっぱり分からないのですよ、吾には」 男「もういいよ、分かったからさっさとどっかに消えてくれないか。こっちは忙しい体なのだから」 ババ「えっ、何だって。黙って温和しく聞いてやっていれば、いい気になってつけあがり。えっ、何だって、さっさと消えろ! 忙しい体だって。バカも休み休み言えよ、このド阿呆」 男「このクタバリ損ないが」と物凄い剣幕でババに掴み掛ろうとする。 ババ「これが目に入らないかい」と左の掌に持った小さな物を相手に示した。 男「何だ、それは…」 ババ「防犯ブザーだよ。吾がこのボタンを押せば大きな音が出て、みんなが助けに駆け付けてくれるよ」 男は厭な顔をしてプイと横を向いてしまった。ババは勝ち誇った如くに言葉を叩きつけた。 ババ「いいかい、お前みたいな悪党は豆腐の角に頭をぶつけて、死んでしまえ!」 男「(苦々し気に)随分と口の悪い婆さんだな」 ババ「聞いたような口をお利きでないよ。お前の様な奴は地獄の閻魔様でさえ、そんな奴は相手に出来ないって、締め出しを喰わせるに違いないよ」 男「俺が一体どんな悪い事をしたって言うのだ」 ババ「いけ図々しいったらありゃしないよ。いいかい、それじゃ少しばかりお前の悪事の数々を並べ立てて、聞かせてやるから、耳の穴をかっぽじって聴くんだ、いいかい。A子さんの場合。その孤独で淋しい境遇に付け入って、何もかもを騙し盗ってしまった。B子さんの場合、孤独で身寄りのない中年の独身女性を、言葉巧みに操って有り金全部絞り上げてしまった。そして今度の安奈の場合。口から出まかせのウソにウソを重ねて、同様の手口で親の貯金から大金を騙し盗ろうと企んでいる」 男「何処にその証拠が有るって言うのだい」 ババ「証拠。証拠なら大ありだよ、A子、B子、安奈のことはユーも知っているだろう。知らないとは言わさないよ」 男「知っているよ。お金も預かっているよ、確かに。でも、預かっているだけで、何も騙し取るつもりなどは、全くない。俺は悪党なんかではないからな」 ババ「へん、聞いた風な事をお言いだね。大体いくらぐらいずつかすめ取ったのだい」 男「婆さん、人聞きの悪い事は言わないでくれよ。一時的に預かっているだけなの。分かったかい」 ババ「金額はいくらずつなのだい、一体」 男「それぞれに一千万円と少しかな」 ババ「それで、安奈からはどのくらい騙し取る予定でいるのかな?」 男「預かると言ってくれ、一時的に預かると」 ババ「予定の金額を言いなさいよ、お前さんの胸算用でいいからさ」 男「俺は大体、最低でも一千万円は見込めるカモ、いや、なに、預金者しか相手にしない主義だから」 ババ「成程、あの子の両親は評判のお金持ちだからね。やっぱりお前は極悪人だ。いや人でなしの蛆虫、げじげじ、ムカデ、ごく潰しのゴキブリ野郎、表六玉のろくでなし、鼻つまみのウンコの腐ったような奴だ」 男「随分と悪態を並べ立てやがったな、この死にぞこないの糞たれが!」 ババ「おや、随分と立派な口をお利きだこと。お前が今言ったことはこの吾の持っている無線機で全部警察の方に送信されて、裁判の時の立派な有罪の証拠になる手筈なのだよ」と、最前 防犯ブザー と偽って男に示した物を、再度相手に見せる。 男「ゲッ、図られたのか、しまった。糞忌々しいったらありゃしない」 ババ「弱い女の、そのまた弱みに付け込むような下衆野郎は、裁判で正当な刑罰が下されるだろうけれど、それだけではこのババの胸の内が収まらないから、ここで吾が天の神様に成り代わって、思う存分に制裁を加えてやるから、そう思いなさい!」 男「(急に態度を変えて)ねえねえ、優しいおばあ様。何でも言う事を聞くから、今度の件はなにとぞ穏便に、御手や柔らかにお願いいたします」 ババ「何でも言う事を聞くってか。怪しいもんだね」 男「いえ、本当の本当です。ためしに何か命じてみて下さい。直ぐに言葉通りを実行しますから」 ババ「三回回って、ワンと言え」 男「えっ、それじゃあ犬じゃありませんか…」 ババ「お前が頼むから命令したのに、出来ないと言うのは改心してない何よりの証拠。吾にも考えが有るから覚えておきなさいよ」 男「いえいえ、やります、やります」と、犬の様に四つん這いになると、三回回ってワンと言った。 ババ「よし、今度はゴキブリになれ。ゴキブリの様にその辺を這いずりまわって、最後に逆立ちをして見せなさい。そして御免なさい、もう悪い事は致しませんと言え」 男「えっ、ゴキブリですか? 勘弁して下さいな、優しいお婆さん」 ババ「(腕まくりして凄みながら)こっちには考えがあるよ」 男「分かりました、やります、やります。こうなったら毒皿だ。何でもやりますよ」と言いながらゴキブリの真似を始めた。途中から男は泣いている。ババは心の底から愉快そうに笑う。
2018年05月08日
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第 三百二 回 目 私は先日、以下の様なお願いのメールを青森県上北郡野辺地町の五十嵐 勝弘氏に送付しました。ここ数か月というものは「町おこし」のきっかけ作りとしての、「読み聞かせ会」を立ち上げる前提となる 音読の勧め運動 を草の根で、野辺地町に根付かせる為の活動に腐心しています。そのまた予備的な土台を作る作業として、方言というものが潜在的に蔵している想像を超えた巨大なエネルギーについての、地元の方々の御理解を得たいと考えており、その最初の深い理解者を探す目的です。 方言には普通私たちが想像する以上に巨大で豊かな資源性があります。化石燃料の代表格は石炭と石油ですが、御承知の如く許容範囲をはるかに凌駕した人類の乱費によって、地球環境が破壊され甚大な悪影響を、大気に対して与えつつあります。しかし、その点で言葉、とりわけローカル色豊かな地方語の方言には、そうした有害な副産物を産む恐れは皆無であります。私たちの真摯で直向きな取り組みさえあれば、百利あって一害もない、隠された豊富な恩恵を無尽蔵に秘めた、先祖からの偉大なるプレゼントに他なりません。 野辺地町立 図書館長 に宛てた依頼の文章 土地の言葉(方言)の持つ無尽蔵な 資源(リソース)性 について 言葉、とりわけローカル色豊かな方言の持つ魅力とその効能に関しては、近年頓に再発見、再認識がなされていることは喜ばしい限りですが、ここで私・古屋克征(ふるや かついく)は本来の土地の言葉が人々に持つ無尽蔵な秘められたパワー・魅力・生命力増進、活力倍増の底力に焦点を当て、将来的には地域活性化及び町起こしへの切り札として有効活用を図ることを視野に置いて居ります。そこで、 フレッシュでダイナミックな活動の提案 町を挙げての希望を呼び込む運動として 草の根の活動 を開始することを、声を大にして御提案致したい。謂わば普段着の言葉を土地の人同士で楽しみ、交流の場を広げるチャンスの創出として、朗読・音読を推進する「同好会」を立ち上げたいと希望する者であります。 そしてその真の狙いは、その発展形としての「セリフ劇同好クラブ」、更には本格的なプロを目指す人材の育成事業を軌道に乗せ、ユニークな野辺地の方言をフィーチャーした劇団の設立へと、最終的には目標を定めて居ります。 が、しかし何事にせよ、基本の 第一歩に全て が有ります。 普段着の土地言葉・野辺地弁の持つ限りない魅力の真価を、その 癒しの効果の有り様 を町民の方々が実感し、体感し、エンジョイしていただくことが必須であります。 高邁な使命感や義務意識だけでは、行動の永続性は担保できず、楽しいこと、その行為自体が当事者自身にとって役に立ち、有益であることが大切です。その為に 音読・朗読を楽しもうサークル(仮称) の設立と発足を期したいと、切に念願する次第であります。そこで、その中核・コアとなって旗振り役を勤めていただける可能性のある人々を、勿論御一人でも結構ですが、ご紹介願えたら非常に幸いと存じます。出来るだけ大勢の方々に、自由に、そして気軽に、日常の隙間の時間、余暇を利用して、無料のカラオケルームを利用するような感覚、もしくは社交の場、心の健康増進の目的での参加も歓迎という「フリー参加方式」を取りたいと考えます。 候補者の資格は、野辺地の方言が話せて、音読に興味と関心を持っていただけるお方なら、誰でも結構です。年齢、性別、その他の資格を一切問いません。不肖・私古屋がヴォランティア奉仕として、懇切丁寧にご指導・ご案内申し上げる所存で居ります。 ここで私、古屋克征(ふるや かついく)の簡単な自己紹介をさせて頂きます。1943年、東京都の生まれで現在74歳。慶応義塾大学卒業後、テレビドラマのプロデューサーとして在京キー局の主として大型企画を中心に多数の作品をプロデュースする。60歳からは学校教師、学習塾講師、キャリアカウンセラーとして社会貢献に心掛けている。目下、「源氏物語の現代語訳」、「神慮に依る野辺地ものがたり」、「草加の爺・自作の創作公開」の三つのブログをウエブ上で連載中、好評を博している。 埼玉県草加市に在住。尚、二年前に病死した妻の出身地が野辺地の馬門であったことから、私の御地への愛着と強い関心がスタートしています。 ( 以上 ) 現在、五十嵐氏からの御返事を首を長くして待っているところです。長く私のブログを御愛読の方々なら説明をする必要もないことですが、簡単に見える私の所謂「準備作業」「整地のプロセス」が非常に難しい。実に、筆舌に尽くしがたい困難を伴っている。 目には見えない厚い厚い壁が、文字通りに行く手に立ち塞がっている。しかし、これは決して泣き言やボヤキなどでは断じてありません。有りの儘の途中経過を 実況中継 する覚悟を固めた瞬間から全て織り込み済みの事項ですから。 いよいよもって試練が、神が与えられた「踏み絵」が現前している証。私は更に襟を正し、身を潔白にして難事業を エンジョイする 決意であります。そうです、神は困難を楽しみに変えて見せろ、と仰っておられるのですよ、本当のはなし。 そして皆様方の声なき御声援を衷心より期待申し上げております。併せて今後とも、よろしく御指導御鞭撻のほど重ねてお願い申し上げる次第であります。
2018年05月03日
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