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第 三百十七 回 目 私の俳優論の三回目です。 俳優とはそもそも何者たらんと欲する者なのか? 試みに辞書を引いてみました。手元にあった国語の辞書には、「演劇・映画などで、監督の指図に従って演技する事を職業とする人。役者」とありました。実に平易で、分かりやすい説明だと思います。私の考えている俳優はこれとは全く違う。とも言えるし、殆ど文字の上では同じだとも、言い得る。ただし、監督とは即ち「神」であると、ただし書きが付きますが。その心は、と言いますと、現在ただいまの私の心境からしますと、従来の世人の常識的な俳優観をとりあえず一新して頂きたい思いが、頻りだからなのですね。とにかく、世間に大手を振って通用している「誤った」俳優理解をば「悔い、改めて」欲しい。その願いで一杯なのですよ、とにもかくにも。 何故ならば、これまでの俳優観では私たちがこれから目指さなければならない、理想のセリフ劇が著しく阻害・妨害されてしまう懼れが、大きいからであります、はい。それ以外には他意は全く御座いません。そもそも、何をどう考えようと「まったくの自由」なのでありますから、私たちの生きて在る自由主義社会では。 それはさておき、私・草加の爺が考えている俳優の資格や資質から、述べることに致しましょう。 よりよく生きようと欲する、素直な気立てのお人なら、誰でも俳優を目指す資格があるし、なお且つ努力を継続するならば、名優を目指すことも可能だし、指導の宜しきを得れば、誰もが名優になる資質さえ与えられている。間違いなく。そう主張し、いや、この際ですから、そう強く断言致します、断じて。 さて、結論から申し上げましょう。私の俳優の定義はこうです。「 俳優とは優しく、温かな心を護り育てて、適切な機会に、誰彼となく相手を選ぶことなく、魂の手を翳して患部を癒し、元気付ける能力を身に附けた者 」だと。つまり、こころ・ハート・精神・マインド・ソール・魂の癒し人、真実の意味での 心の救済者 なのだ、と。 それはとりもなおさず、私たち人間だと言う事を、まさしく意味しています。換言すれば、人間の名に値する正真正銘の人間でありさえすれば、誰もが適格者である。なぜなら、この世に生まれたそのこと自体が、選ばれたエリートであることの、紛れもない証明であるのだから。 あとは純粋に技術的なこと、テクニックの問題です。当然ですが生まれながらの天才もいれば、努力で大成する秀才型もいることでしょう。それは私たちの社会の他の分野を一渡り見渡してみれば、直ぐに納得のいくことですから、くどくどと私が今更らしく解説する必要もないことですね。 私が「独創」、「新機軸」として声を大にして申し上げたいことは、志さえ高く持てば、誰にでも有能な俳優としての才能を開花させることが、可能だという事実であります。そして、そういう魂のヒーラーとしての俳優を、そしてその中から名人俳優を志す人が一人でも多く出現する事を、期待したい。待望している、切に。 俳優としての訓練の始まりは、名文や名作を選択して音読をすることによって、自分自身の手で自らを元気付け、激励することからのスタートになります。いま自分が最も必要としているカタルシスを直感的に探り当て、自分に向けて適切な手当を施す。自分と言いましても、様々な状況が考えれれるし、周囲の環境や人々との色々な出会い方によってストレスの種類も、強弱も様々に変化している。その自己に適切に、程よいタイミングで対応する能力の涵養が、周囲の各種多様な悩みや困難を抱え込んだ人々の、心理状態を察知し、理解する準備となるのですから、或る意味では最も重要なヒーラーとしてのトレイニングになる筈。何事においても基礎や基本が大切だと言う、見本のような土台作りに当たります。 その意味で、適切な作品を選んで、程よく自己の精神内部に働き掛けるこの段階に、全ての要素が含まれていると心得て、真剣に、本気で取り組んで頂きたいもの。 自己とは何者か? この素朴な質問が、当初の予想を遥かに上回る難問を孕んでいる事実を知った時、私たちの大半が驚愕し、困惑すること必定なのですが、あなたの場合には如何でありましょうか…。 今は少しく先を急ぎますので、私の学び得た知識の一端を述べるに留めておきますよ。 自己の中には本来の自己と社会化された第二の自己が存在する。そしてまた視点を変えれば、意識出来る自分と無意識の自分とが区分される。つまり端的に言えば、「私」の中には 社会の縮図 が既にして「明瞭に」透けて見えている。もっと掘り下げれば父親からの遺伝子と母親経由のそれとが、複雑に絡み合って完全に一体化して在る。この面からも、私は現実社会を構成している因子から成る全く同等・同質の最小の単位であることが理解できます。 つまり、自己を深く掘り下げて究明することは、そのままで人間社会の解明に道を通じている。自己理解とは、そのままで人間全体を徹底解明する根本である。そういう結論になる、ならざるを得ない。 ところがであります、自分の事なら自分が一番よく知っている。そそっかしい人はとかくその様に勘違いして事を済ませてしまうのですが、さにはあらず。神は、人が自分の顔を直接には見られない様に、意図して作られている。そのように、私たちが直接に自己の本質部分を知り、把握することを拒絶されておられる。どうしたらよいのか? 昔の人は「人のふり見て、我がふり直せ」と心憎い教えを残しておいて下さっている。自分を見る目にはとかく間違いが多いので、他人がする事を我が事と理解して、素直に教訓として学びなさいよ。そう有難くも教え諭して下さった。 自分には、特に自己の欠点や怠惰には甘く、他人のする事には容易に粗(あら)や足りない点、醜い部分が目に飛び込んで来る。そして、ああでもない、こうでもない、などと様々にあげつらう。実に浅ましい限りの根性を持っているのが、自分・自己・吾・私の本体・正体である。心してその根性悪に、警戒の眼を緩めてはならない。そう厳しく戒めた言葉。 これを敷衍して行きますと、社会で起こっている出来事、世界中で行われている人々の様々な行動・行為のどれ一つを取り上げても、私たちと無関係で無縁な事象などは、一つもありませんよ。虐めも、交通事故も、テロも、異常気象さえもとはと言えば「私」から始まっている。少なくとも、心の中ではそう考える必要があり、自我の無意識な暴走を食い止める手段を、あらかじめ講じておきたい。そう念じ、期待するのは私・草加の爺ひとりでは恐らくありますまい。心ある人ならば、ということは誰しもが心底からそう願わずにはいられない。 が、しかし。現実はなるべくして、そうなっている。起こっている痛ましい悲劇は、起こるべくして起こっている。少なくとも、心の中ではそう心得なくてはいけない。短気は損気。安易で、短絡的な思考による「非現実的な」見かけの、或いは、見せかけの解決法に走ってはいけない。実際には、浅はかな考え方から、浅はかな行動・行為に走るケースが、世の中には驚くほどに多い。容易な解決策が見つかったと思った際には、それに直ぐ飛びつくような愚かな真似はやめて、胸に手を当てて熟思黙考する習慣を身に附けて頂きたい。老婆心ながらにそのように愚考致すものでありますね、いらぬお節介とは知りつつも。 そしてこの下り立った地平線、その水平な土壌から生まれたのが、ヒーラーとしての俳優という発想であり、伝統的な基盤に立脚した妙案・名案・名回答であった。 「源氏物語」という古典の名前は知っていても、その素晴らしい内容にまで踏み込んで理解している日本人は、残念ながら微々たる人数を数えるしかない。それが実情であります。宝の持ち腐れとは、実際このことを言うのではないかと、慨嘆されます、頻りに。 千年以上前の貴族社会でのお話です。この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることの なきを思へば(― この現世での私の人生は自分の思うがままに運んでいて、その様子はさながらに夜空に美しく輝いている名月の如くだ。僅かな不足さえもないのだから…)、と詠んだとされる藤原の道長同様、いや、それ以上に人としての栄耀栄華を極め尽くした、男性ヒーローがいました。男性も女性も、この世界に生きている人いう人が全員、例外なく憧れ強い羨望の眼差しを向けていたこの理想の人物の輝かしい人生が、表現仕様も無い深い悲しさの色に、色濃く彩られていた。こういった奇想天外これよりほかはないという、実に驚くべきストーリーなのですから。 柏木の巻で、主人公は自分が信頼し目を掛けていた青年貴公子から、一番若い妻を寝取られてしまう。そしてその事実を知りながら、周囲の手前で不義の子を我が子として胸に抱きかかえる。その瞬間に、自分が父帝に対して犯した大罪の、報いを強く意識させられる。「ああ、父帝は何もかも知って居られたのだ。知っていて今の私と同様に、私と藤壺の宮の不義密通の大罪を、黙って黙認されていたのだ」と気付く。父親と同じ立場に立って初めて、父帝の自分に向けた大きな愛情を改めて、実感すると同時に、若さのなさせた大罪とは言え、自分の犯した罪の大きさ深さに震え慄くヒーローなのだ。 もしこの古今に絶した傑作がなかったならば、誰がこの理想人物の心の地獄を、絶望的な孤独の苦しみをよく窺い知り得たでありましょうか…。 この人物にして、この様な心の苦しみでありますから、われわれ凡人の全てが様々な苦しみに喘ぎ悲鳴を挙げるのは、いわば当たり前なのだと、妙な安堵感に捉えられたりするから、不思議です、実際。 「源氏物語」という古典は何も私の為に、魂のヒーラーとしての「俳優」を創設するに際して、有力な材料として存在しているわけでは全くありませんが、人間存在の根本を考察する上では、非常に参考になる。人間の心の在り方を手に取るようにまざまざと、明瞭明確に、しかも極めてリアルな筆致で描写して示してくれている。( 古今に絶する不朽の名著であります故、いずれは私がセリフ劇の実例としてその触りの部分のエッセンスを、ご紹介することになろうかとも思いますが、いまはこれだけにとどめておきましょう ) 無数の悩み、様々な煩悩、各種のフラストレーション(欲求不満)、無限に近いストレスの数々。人生を生きるということは、時々刻々とこれらの放置しておくと私たちの心身に、悪影響を齎すに相違ない環境と事態に対して、適切な対処法を考案し、善処する必要に常に迫られていることを意味しています。 放置せずに適切に対応すれば事なきを得ることは分かっていても、四六時中のことですから、なかなか思うにまかせないのが実情でありましょう。 病気の場合にも早期の治療が肝要でありますが、ストレス由来の障害にも同様のことが言える。しかし、当然ながら「未病」ですから医師という専門家がいない。各自が、各種の方法で個別に対処するより仕方がない。従って、結果としてはストレスが増え続ける。悪循環の連続であります。 ここに、正統なセリフ劇の確立という発想が成立し、その為の有能な俳優を新たに養成する必然が、生まれるのです。
2018年06月30日
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第 三百十六 回 目 私流の俳優論の第二回目になります。私は前に、私たちの行動や思考は、途中で中断され、完結をみないままで次へ、次へと厭応なしで移らされている。その結果のストレスが積もりに積もって無意識の中に滓の如くに堆積し、その堆積物からやがて有害なガスの如きものが、発生して私たちの精神に悪影響をもたらしている。そう指摘致しました。中途半端に終わっているということを言えば、私たちの能力や性格に関しても、類似の事柄が言える。 つまり、私たちは通常「無限の可能性」を秘めていると称されますし、事実そうであろうと首肯できるのですが、私たちはそれを十全に発揮できてはいない。それは、その事実は明々白々でありましょう。しかし、なぜそうなのかを深く追求する人は、断然少数派に属します。これに関しても、何故なのかと疑問を抱かないのが、むしろ不思議なくらいに誰もがこれらの重要事項に、関心が薄いように少なくとも私・草加の爺には感じられて仕方がない。 現実とは次元を異にするフィクション・虚構の世界ではあらゆる事が、全部が全部許されるし、また行動の自由が保障されます。役者は「己の役柄の必要に応じて」、極悪非道を押し通すことが可能であります。であるばかりではなく、とことんまで、厭というほど悪の限りを尽くして、観客に示す「義務」さえも課されている。なんて素晴らしい理想世界ではありませんか。何事にしても、それを徹底的に追及出来て、最後まで行きつくことが許されているなんて。 悲しみにしても同様ですね。悲劇の主人公は、或いは薄倖のヒロインは悲しみの極みまで、自己の負った不幸をたどり、行きつくことが可能なのです。しかし、しかし、現実の次元では決してそれはあり得ない事と、相場は決まっておりますよ。しかも、悪事の限りを尽くし切った悪党は、その極悪非道の限りを尽くした果ての懲罰として、悲惨な最期を遂げるが、幕が下りた瞬間には、何事も無かった如くに、軽やかに幸福そうな笑みさえ浮かべながら、舞台を去ることが出来る。 悲劇のヒロインもまた同様です。愁嘆場の極限まで行き着いて、薄幸の最たる死を迎えたあと、終幕と同時に喜々として健康な現実社会に、幸福そのものの状態で復帰する。それが俳優の特権であると言える。 同時に、名優の最高の名演技によって完璧なカタルシスを体験し終えた観客もまた、自分の心の内部でくすぶり続けていた未消化な滓としてのストレスが、綺麗さっぱりと拭い去られ、すがすがしい気持を取戻して家路を辿ることが出来る。何の憂いもなく。 これが劇・ドラマの得難い効用であります、実に有難く、勿体無い功徳というもの。 所が、実際の芝居やドラマではそれが十分に為されてはいない。未消化であり、中途半端のままでラストを迎えてしまう事が多い。何故か? 色々と考えられるでしょうが、実際に行われた江戸歌舞伎や劇映画の歴史を概観してみると、少なくとも次のような点が原因として挙げられるでしょう。つまりは、ショーであり興行として実施され主として娯楽やパスタイムを目的として演じられましたので、劇的な効果を最大限に狙うと言うよりは、客受け、従って興行収入という金銭勘定がどうしても先に立ってしまう。俗受けでよいからと、兎に角、木戸銭や入場料の多寡に関心が集まってしまう。勢い役者も「銭が多く取れるかどうか」という観点からの評価が、主たるものにならざるを得ない。 映画の歴史でも同様ですよ。監督システム、俳優システムと言われた制度にしても、全部が全部「営業収益」に直結した配慮からの措置にほかならなかった。喰えなくては話にならなかった。 話は突然に飛躍するように感じられるかも知れませんが、例えば現在非常な人気・関心の高まりを見せているサッカーの世界大会を取り上げて、話を進めてみましょうか。野辺地町出身の柴崎 岳選手なども日本代表チームの中でも注目を集めている一人ですが、何といってもサポーターの熱気が異常としか言いようがない程。どうしてこれ程までにブームを呼び起こしているのか? 人によって様々な要因を挙げられるでしょうし、それなりの根拠もあるのでしょう。 私は、次の事を指摘してみたい。劇が本来果たすべき役割が然るべき社会的な広がりの中で、その在るべき位置に居ない。これこそが根本の要因ではないかと愚考致すものでありますね、はい、そう主張したい。俳優・役者の代替者としてプレーヤーが居り、観客の立場にはサポーターと呼ばれる応援グループがいる。そして、サポーターたちは間違いなくカタルシス、大きな感動に伴う心の浄化を期待して、ピッチに立つ選手たちに熱い声援を送り、巨大なエネルギーを消費し尽くしている、のだと。 この現象は何もサッカーだけに限りませんし、人気のスポーツ全般に通用する。それだけでなく、人気のグループやアイドルによるコンサート会場に何万人というファンの群れが、歓喜して集合する現象も同様な解釈や、説明がなし得る、間違いなく。 人々は「飢えている」のでありますよ、強烈な感動を伴う魂の解放と完全なるカタルシス・大いなる癒しの体験とに。本来ならば劇・ドラマ・芝居が果たさなければならない社会的な役目が、すっかり忘れ去られてしまっているので、自己防衛本能が働いて、代替物・偽物(似せもの)に縋り付いてでも健康な生理を取戻したいと願う、切実で本能的な願望を成就しているのだ。これは飽くまでも今の所では、私・草加の爺だけが抱懐している単なる私見にしか、過ぎません、はい、根拠薄弱なる、従いまして学問的な裏打ちのなされた定説などとは類を異にしている。今の段階では、でありますよ。 しかしながら、でありますね、世の中には学者とか立派な学説の如くに通っていても、実に怪しげな人物や迷説が数多くまかり通っている現実を知りますと、私の素人考えは少なくとも実害はありませんので、取り敢えずで結構ですから、頭の隅にでも残しておいて参考にしていただけますなら、幸いと存じます、実際に。 さて今度は同じ現象に対して、違う角度からのアプローチをしてみましょう。対象が何であれ一つの物や事柄に注目が集まり、大勢の人々が一つの場所に集中して集まる。そして心を一つに通わせ合う。この事自体に意味があると考えれば、心・精神面での「手当」・「手の平を翳す行為」と同等であると見做せないかということ。 古代から近世にかけての時代には、各地で神祭りの行事が盛んに、熱心に執り行われていた。現在でもやや形骸化したとは言っても、様々な形での祭りやフェスティバルが実施され、見物する客を含めて支持者の数は相当なものだと思われます、確かに。この色々、様々に実施される祭りという行事が私たちにとって持っている意味とは、一体何なのかを考えてみる時に、人々の無垢な魂が自ずから会い寄る。人々が生活上の必要から営む日常からの解放と、神を失ってしまった現代人が「無目的・無便宜」を敢えて「神輿」として担いで、時には死者まで出して熱狂し、興奮する。その必要性が、その正当な理由が合理的に追及され、研究された際に、妥当性のある回答は限られるでありましょう。限定される、必然的に。 それは一体何でありましょう? 私は次の如くに考えます。現代の個人主義は一種の迷妄にしか過ぎないものだ。所詮は部分であり、断片にしか過ぎない個人は自己の抱えている「生まれながらの絶対的な孤独感」には、到底最後までは耐えきれない存在である。どうしても全体との一体感を完全に体感して、自我の重みに疲れ切った魂に「完全なる休息・慰安・安寧」を与えなければならない。三度の御飯以上に、生存には不可欠な心の癒し。 それを呼び込む強烈な感動と忘我の瞬間。周囲の仲間との直接的でホットな肌の触れ合い、否、心と心、生きた魂と魂、活力・エネルギーに満ちた満ちた生命の核心同士が熱く熱く結ばれ、相擁する体験が何が何でも必要なのだ。求められなければならないのだ! 復活と再生の儀式が、祭祀が、是非とも要請されなければならない、何度でも、繰り返し…。 そしてその中心には、或いは最高の形式として、劇・ドラマがあることを、私たちは強く再認識しなければならない。私たち自身の為に、そして人類全体の繁栄の為に! その大切極まりない神聖な儀式を取り仕切るに相応しい司祭たるべき理想の俳優・役者を、一人でも多く生み出すべく、私たち一人一人が「修行し、鍛錬する」日々がどうしても必要不可欠なのでは、ありますまいか、何よりも私たち自身の為に。そして、同胞や仲間や、子孫や未来の来るべき、愛すべき人々を心底から歓迎し、歓喜して呼び込む準備としても。 うじゃじゃけて、ふしだらに生きるよりも、真剣に、目一杯に、瞬間瞬間に命を懸ける如き生命力の消費の仕方の方を、私たち動物と呼ばれる生命体はより強く、無意識の裡に望んでいる。激しく、完全燃焼するような鮮烈な生き方をこそ、待ち望んでいる存在なのだ、断然。 考えてもみて下さい、私たちが生きて在る全宇宙の時間から見たら、たかだか百年の寿命しか許されていないのでありますよ、たかだか百年。だらだらとふやけた如くに生きても、宇宙時間からすれば一瞬にも満たない瞬時の一生なのでありますから、誰だって瞬間に命の華を美しく咲かせたいではありませんか。劇的に、ドラマティックに生き行動したいのであります、それがフィクション・仮想現実の世界であっても。感激を、生きて在る確かな実感と強烈な感動を、味わい尽くしたいのであります。その熾烈な願望を、いつでも、どこででも、自由自在に叶えてくれる。そんな有難くも貴重な体験を劇・ドラマ・芝居は手軽に、簡便に私たちに提供してくれるのですから、どうしてその理想を、考え得る最高の形を自らの手で、自らの努力で構築しないでいてよいものでしょうか。 世の中は持ちつ、持たれつとは今回の試みのような事を言うのではないでしょうか。私は「野辺地の町興し」という他人の為を言う前に、何よりも先ず自分自身の為になる。つまりは、自己の探し続けて来た生きる目的を完遂するために全力を尽くす。そして町の方々は、御自分たち自身の為に、という前に周辺地域や県の為に、奮励努力を開始するのだ、と。 支えたり、支えられたりは世の中の常。実にお互いさまなのでありましたよ、実際。
2018年06月27日
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第 三百十五 回 目 今回からはしばらくの間、「 俳優 又は 役者としての修行は、正(まさ)しく 人生修行 もしくは人間としての完成を目指す 人間修行 に通じている 」というテーマで書いてみようと思います。 これもまた、私自身の自ずからなる帰結・結論であると同時に、「神による一種の啓示」なのでして、従って「書かされている」といった側面が半分以上あります、確かに。 ですから、どの程度の長さになるのか、どの様な内容にまで及ぶのか、皆目見当もつかない、正直な話が、なのでありますね。しかし、よくよく考えてみますと、これは私のこの世での「見聞記録」であると同時に、これから真剣に人生をエンジョイしたいと志している人々に、なにがしかの参考にはなるのではないかと、少しばかりは自負も致して居りますね。まあ、前書きはこのくらいにしておきましょうか。テーマに書いた如くに、これから 癒しを目指したセリフ劇 に同志・同士として参画して下さるであろう、大勢の方々にも大いに参考になるように、主としてそう想定した人々に向けて語り掛ける。そんな語り口にしてみたいと、考えてもおりますよ。 これは先人の受け売りであると同時に、私の持論ともなっているものですが、私たちは例外なく皆が、生まれながらの俳優・役者である。但し、無自覚な、という形容詞・修飾語が付くのですが。 このように言って直ぐに「成程」と頷かれるお人は、ごくごく限られた少数者でありましょうから、少しばかり説明・解説を加えておきたいと思います。 誰でも結構ですから、身近に居て親しい人を思い浮かべてみて下さい。世界中には何十億という大勢の人々が居るのですが、その身近な親しいお方は、外の方とは違うユニークな特徴や特色を有していて、その身振りから行動のパターンに至るまで、独特であることが分かりますね。どうしてでしょうか?一寸だけご自分で考えてみて下さい……。そうです、そうです、血筋や血統という祖先からのDNAを受け継いで、その様な行動や思考形態をとるべく、いわば、余儀なくされている。 これを私は「神の演出」と呼んでおりますが、正しく私たちは姿なき神の、目には見えない糸によって、操り人形宜しく操作され、演出されている。大半の人が無自覚に、なのでありますが。 ここでもう一つ付け加えておくべきことがあります。私たち人間が、命のない、従って独自の意思を全く持たない木偶の坊・人形と異なる点は、私たちには独自の意思や意欲が植え込まれている。それだけの相違がある。そう主張したい所なのですが、今日では無自覚だけではなく、無気力、無意欲、無信仰といった実に惨憺たる精神内部の荒廃の極に堕ち込んでしまっている。そういう半分ロボット、乃至、機械化してしまった始末に負えない御仁も、決して少数ではあり得ない。 大きく申せば、人類全体が大きく異常を呈し始めてからでも、長い時間が経過しておりますので、この厄介な趨勢に歯止めが掛からない。絶望的なのかも知れませんが、私・草加の爺めは超楽天家の篤信者ですので、絶望の身振りだけはしても、断じて心底からは絶望など致して居りません。 さて、話を本筋に戻しましょう。人間は誰しも、自分自身を忠実に演じている俳優・役者である。無自覚であろうと、なかろうと、なのでありました。 いま私は自己を忠実に演じていると、表現したのですが、実際には「不器用に」、或いは、「ぎこちなく」と形容すべきだったかも知れない。これは、何も普通の人ばかりとは限らない。所謂プロの役者や俳優、タレントなどと呼ばれている職業人にも当てはまる。考えてみれば、実に不思議なのですが。 分かりやすく実名を出してお話します。三船敏郎、美空ひばり、高倉 健、と言った有名な映画スターがいました。高名な役者さんたちではありますが、この方々が演じた役柄はそれぞれにたった一つ、でありました、現実に。三船さんは終生、三船敏郎だけを演じただけ。美空さんも、高倉さんも全く同様であります。トップスターばかりですから、主役で、観客が憧れるような恰好良い役柄ばかり。どの様な役柄を演じたとしても、観客の期待し憧れるスターのイメージを崩さないキャラクターばかり。 これを称して私は、三船敏郎は「三船敏郎」をしか演じられない、融通の利かない「大根役者」であると決めつけるのです。 そればかりではありませんで、名脇役と呼ばれる役者さんたちにしても、同様でありますね。彼等もまた役の中に飛び込んで、新しい魅力的なキャラクターを作り出すのではなく、彼らが過去の出演作品の中で一定の好い評価を博した持ち味の人間性に、与えられた役柄を引き付けて演じる。良い、悪いを言っているのではありませんで、俳優や役者は様々な役柄を演じ分けるのが、本来の仕事であると思われているのに、実際にはそうはなっていない。それで済んでいるし、問題は何処にもないわけでありますから、文句をつける筋合いもないのです。 しかし、これは少々可笑しくはありませんでしょうかね。役者もまた当たり役一つしか演じることが出来ない「大根」だった。そう、私は事実をありのままに申し上げたに過ぎませんよ。 また、こういう事実もありますよ。或る凶悪な事件が発生する。メディアなどがこの事件を大々的に報道する。やがて容疑者が逮捕されて、警察の手によって犯人と確定する。そして、その時にテレビ報道で犯人を知る近所の人などが、こう証言する。「あの人が、あんな大それた事件を起こしたなんて、とても信じられない」と。 そうです、現実はお芝居やドラマなどと違って、複雑にして怪奇なのが普通ですね。通常、常識的に考えがちな 悪人 や 善人 のタイプやパターンと言うものは、存在してはいない。これが現実社会の言わば常識なのでありました。 にもかかわらず、ヒーロータイプとか悪役とか、三枚目役者とか、見る側に分かりやすい類型分けがなされ、その暗黙の約束事に則って、芝居やドラマが演じられ、又進行する。 よく、写実的とか、リアルとか表現される舞台上の芝居にしても、決して「写実」でも「リアル」でもないわけですよ、結局。例えば、歌舞伎の隈取(くまどり)が分かりやすいので、モデルとして取り上げてみます。誇張された原色の赤や青などの線で表現された化粧法ですが、遠くから見ても直ぐに役柄が理解できるので、歌舞伎では多用されている。これにしても、最初の段階では「写実」や「リアル」に近い表現だったものが、次第にパターン化され、類型化されて、或る時から固定したものと想像されます。 つまり、舞台上で演じられるドラマは、全部が全部、あらかじめ約束された暗黙の決まり事の上に、成り立っている。セリフが主体であろうが、なかろうが、観客のイマジネーション・想像力に最後は全面的に頼り、その構想力や創作エネルギーを如何に最大限に引き出すか、引き出せるかに懸っている。 私が、そして芝居やドラマの真の理解者たちが、台本が全てだと力説するのも、そもそも劇的な葛藤が行われ、そして大団円へと収束する本当のドラマが演じられる舞台は、外でもない私たち自身の心の中に存在していた、からなのでありますね、実は。舞台は、そして其処で進行する劇的な行動の全部が、私たちの心の内部で演じられる劇の、視覚化され、音声化された補助手段にしか過ぎなかった、はい、単なる補助手段。 更に言えば、その劇の振幅の幅が大きければ大きい程、その後にもたらされるカタルシス・心の浄化作用は大きいと、まさしく言えるのであります、間違いなく。 私の今回目指している俳優論は、いわば門外漢の物するそれであって、例えば世阿弥が記した「花伝書」の如くに斯道の名人が後進に与える、奥義の書といった物からは程遠い、似ても似つかない。そういう意味で、門前の小僧が習わぬ経を読む類の、笑止千万なる誹りを免れがたい、どうしても。 しかし今の私は、それでよいのだ! と、堂々と胸を張って申し上げたい。何故なら、これは人類史上で初めて意識的に書かれるヒーラー(魂を癒す者)としての俳優・役者・演技者は如何にあるべきか。そして、どの様に生き、自己を鍛え上げ、練磨して人々によりよく、そして又、より多く貢献出来るようにすべきかを説き、且つ、研究するユニーク極まりない文章なのですから。 そしてもっと言えば、これも私・草加の爺の持論でありますが、「Sacred King 神の力を背景として人々に君臨する支配者」から「War King 武力によって王者になった者」次いで「Pop King 人気、大衆に支持されて支配する者」になった。現代がまさに Pop King の時代でありますが、来るべき次なる時代の王は Art King 創造的な新たな価値を生み出し人々に多大なる貢献をなし得る能力の持主、であろうと予測しているのですが、この人物像の理想形が「ヒーラーとしての名優」と言ってもよい。あるいはそうだと断言しておきましょうか、男らしく。 更に、ここまで申し上げましたからには、最後まで言ってしまいましょう、神様の言う通りに!Pop King から Art King と続いた後は、再び三度 Sacred King へと連なる。ええ、そうです、循環するのが定めのようであります、どうやら。何故ならば、Art King の理想の在り方は其の儘で Sacred KIng なのですから。
2018年06月24日
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第 三百十四 回 目 捕らぬ狸の皮算用ならぬ、心の癒しをメインの目的とした 新機軸のセリフ劇 の未来図、青写真の続きであります。まあ、私が主張する如くに話がトントン拍子に上手く運んで、それこそ地球上の各地から、様々な言語を喋る多種多様な外国人のゲストが、大挙して野辺地の町に押し寄せる事態が、現実に到来したと仮定して、その場合に野辺地の土地の言葉・方言をフューチャーしたドラマ・劇が演じられた時に、そもそも日本語自体を解さない外国の人々に、癒しの効果が実際に期待できるのか? そのような、至極尤もで自然な疑問が、このブログの愛読者の方々から発せられる。ごく自然に…。ドントウォーリー、ノープロブレムだと、即座にお答えいたしましょう、私・草加の爺としては。 そもそも言葉というものは、それが何語であれ、単なる意味を伝える便利なだけの道具・ツールなどではありません。もっと奥深い、人間の本質を体現した霊妙にして不可思議な作用を奥深くに秘め、隠し備えている何物かでありますね、実に実に。 私たち日本人の祖先たちは「言霊(ことだま)信仰」とでも呼ぶべき、実に玄妙なる、そして本当に賢明・聡明なる言語観を有していました、実際に。言語は人間から生まれたには相違ないにしても、既に私達生物とは別個の新しい生命を獲得した、たとえば途轍もなく巨大な大樹の如き一大生命体として、独立し、独自の進歩・発展を遂げつつ成長している。現に、生成と変化とを繰り返しながら、私たち人間に無限の影響力を及ぼしている。 一種の生命体である以上は、そこに魂・心が宿っていると考えるのは、極めて自然でありますし、又当然の事でありましょう。また、言語が折に触れて発揮する偉大なる力・威力を考える時に、一個の聳え立つような絶対的で威風堂々たる魂の在り方を、想像しないわけには行きませんよ、誠に心底から崇敬しないではいられない対象として。 であるとすれば、この言葉の魂と真摯に誠意を以って交流する詩人のハートがあれば、表現する詞句にも絶妙なる力や響きが自ずからに籠り、通常の人間力を遥かに超越した癒しの効果が出現するのは、謂わば理の当然でありましょう、はい、理の当然。原則や基本は今述べた如くでありますが、それだけに頼り寄りかかるずぼらな態度を、決め込もうと言うのでは努々(ゆめゆめ)ありませんよ。同時通訳なり、事前の丁寧な解説なり、説明の努力は必要に応じて、手ぬかりなく行う心算でおります。 ここまで参りますと、もう既に「純粋国産主義?」を脱して、国際色豊かなインターナショナルの匂いが濃厚になりますが、それが自然であり、論理的にも筋の通った帰結でありましょう。 元来が我が日本国は、人種も文化も雑多で雑種故の優秀さを誇る、お国柄なのですからね。 そして、最も根本的な所に立ち帰ってみて下さい。私たちのセリフ劇に於いては主役は飽くまでも舞台の上には居ない。平土間・観客席の 被治癒者こそ が本当の意味の「主役」なのだ。 その真の主役たる観客は、当然に舞台上の役者からのメッセージを受けて、癒しの施術を享受するのでありますが、この演者との交流だけではなく、複数の観客同士による相互の交流・響き合いという、観客席に特有の場が醸し出さずにはおかない、謂わば被治癒者間に於ける、増幅された癒し効果が起こり、それが媒介し、輻輳・倍加してもたらす昇華作用、高度なカタルシス・魂の浄化という最高度の目的が実現されるのです、まさしく。 魂と魂、心と心とが共振・共鳴し合う精神的な協調・ハーモニーが達成されるのであります、間違いなく。通常のレベルで言う「意味」内容を遥かに凌駕する、実に奥深い啓示が到達し、完全なる心の清掃が完了する。この時に、真の意味の平和・平安・安寧が人々の精神に静かに、そして着実に降りて来る。そして又、人々は完全なるゼロ状態に到達し、身も心も透明無色になり切ることが出来る。 つまり、ゼロや無色透明の状態が人間として最高の状態である。何故なら、可能性として何にでもなり得るから。何にでもなり得ることが、最高であり、理想の状態、完璧な在り方なのだから、結局は。 お解り頂けたでしょうか? 少し難しいと感じた方もいらっしゃることでしょう。しかし、完全な理解が及ばないとしても、この事実は心の奥に深く銘記して置いて損のないことですから、どうぞ御記憶下さい。そして、ここでは先を急ぐことになりますよ。 つまりは、「俳優論」イコール「人生論・人間論」に行きつかざるを得ない、事実であります。 私は野辺地での音読活動に始まって、プロの劇団設立に至るプロセス上で、観客が一番に大切であり、役者は二の次であると極力強調しております。そのことに断じて間違いはなく、嘘や偽りは申して居りません、はい、少しも。 それは劇・ドラマ・芝居の果たす役割や目的からすれば、必然としてそういう事になるのでありまして、プロの役者が重要ではない、などと言いたいわけではありませんね。「良い、善い、好い、佳い観客」には誰でも直ぐになれますし、観巧者にもそれほどの修行も練習も必要ではありません。 しかしながら、「名医」としての俳優、つまり名優には選ばれた少数者しかなれない。それなりの素質と厳しい修練やトレーニングが不可欠であり、必須なのですから。そのことは、どの様な分野であれプロフェッショナルの地位や立場が如何に厳しいものであるかを見れば、おのずと知れる事でしょう。何も俳優だけに限ったことではありませんからね。しかし、現在はそうした役割を担うプロが皆無な状態ですから、取り敢えずは名医でなくとも、名優の名に値しない役者でも十分過ぎる程に、必要であり有用なのであります……。 で、もう一度最初から話を整理してみます。予算ゼロから野辺地の町に大変革を起こす。その起爆剤として「心の癒し」と言う新規格の「劇団の設立」を期して、私・草加の爺の提案による音読運動を推奨し、働きかけをする。音読には土地の人で、比較的に時間と諸事情に余裕があり、興味・関心を示して頂けるお方を探す。当初は土地の人なら誰でもが方言を日常的に話すと考えた私でしたが、五十嵐勝弘氏のアドバイスもあって、それには固執せずにスタートを切る。次には、比較的に強い関心と意欲とを感じて将来、町おこし・地域活性化の役に立つのならプロの劇団に参加してもよい、と強い意欲を燃やして下さる人々をなるべく多数者募集したい。この段階では町の住人だけではなく、周辺や日本全国から、いやいや、外国人であっても一向に構わない。参加の資格は、善意と強い意欲だけ。その他の一切の条件を設けません。燃えるが如き人類愛が有れば、尚更に可でありますよ、尚更に。 念の為に付け加えますが、能力の有無、老若男女、学歴、運動能力の優劣、などなどの一切の制限を加えずに面接試問に応じます。ですから、参加自体は自由ですが、しばらくは経済的な保証は無いと覚悟して下さい。後は、その方と私・古屋を加えた劇団員グループの活動如何で、その後の生活は激変するでありましょうが……。 ここで肝腎要の御話を致しましょう。台本の事であります。シナリオ、脚本などとも呼びますが、単に本と言う場合もありますね。 どのようなケース・場合でも土台や基礎ほど大切で重要なものはありませんが、ドラマ・劇・芝居の場合にはこの台本の良し悪しが、全てであると言っても過言ではない程に、極めて重要であります、何と言いましても。それは、私が長年にわたって携わって参ったテレビドラマに関しても、実によく当て嵌まることでした、実際。不出来な台本では、どの様な人気俳優達が総がかりで取り組んだとしても、少なくとも視聴率の数字は多くを期待できませんし、結果もその通りになってしまう。 私たちの今度の場合でも、同様の事が言える。いや、今度の場合にこそ台本の善し悪しが、決定的な役割を果たすことになる、目に見えて。たとえ音読の段階でも、本音を言えば、本質的には同様な事が言え、結果の善悪に直接的に影響を与えるわけであります、はい、決定的に。 そして目下の所、この目的に合致する良質な台本を創作する可能性のある人間は、地球上に私・草加の爺めひとりしか、居ないのであります、実情として。追々、諸情勢が許せば、私の寿命が一番の足枷になる可能性が大なのでありますが、新人ライター・新たな台本創作者の発掘と育成にも精力を注ぐ所存で居りますが、これがなかなかの難事業でありまして、観客や役者の育成・教育程のた易さでは、こなす事が出来ない。この事業で一番の 難所 と言えそうです。が、乗りかかった船で、最後まで力の及ぶ限りは努力する覚悟を、しっかりと固めてはおります。 とは申せ、現状では、そしてしばらくの間は、私が浅学菲才を顧みずに、孤軍奮闘致す所存であります。以上、プロデューサー、演出、シナリオライター、広報宣伝兼務の制作担当業務遂行者、等の幾つもの役割を全て私・古屋が一手に引き受けて猪突猛進する、ドン・キホーテさながらの形振り構ってなどは居られない、一種悲愴な雰囲気さえ感じる人には、感じさせる孤軍奮闘ぶりなのでしょうが、本人はいたって暢気に事態を歓迎し、いつもの伝でエンジョイしつつありますので、僭越ながらお気遣いなきよう序でながら申し添えて置きましょうか。
2018年06月21日
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第 三百十三 回 目 今回は “捕らぬ狸の皮算用” とも言われかねない、今回のプロジェクト、乃至、ミッションのゴール・目標・理想形に至る「青写真」について述べることに致します。 現段階で今回の試みの全体像を朧げながらでも把握出来ている人間は、草加の爺・私一人なのですし、「セリフ劇」という言葉の表現し意味している所を、アバウトな形にしろ大体にした所で、理解したり説明できるのは世の中広しと言えども、やはり私だけなのですから、どうしても大略や大体の掴みだけでも先ず、出来るだけ分かりやすい言葉、表現で解説しておく義務が、私には課せられている。かように自覚致しましたので、その必要にして不可欠の責務を果たそうと思うのです。 先ず第一に最終的なステージに達した理想の演劇都市としての野辺地の町をイメージしてみましょう。 外観については私には正直、殆どイメージが湧かない。と言うよりは関心が薄い。と、申しますのもそれに関しては土地の御方、町民自身に精一杯夢を膨らませて、様々に思い描いて頂くのが筋というものと、謙虚に御譲りしたいと愚考致して居ります、実の所は。 私の責任と言いますか、任務の最大の関心事は謂わば町の内面、土地のスピリット・魂の在り方に全部が全部注がれている、それだけで手一杯と言った状況でありますね。ですから、それに関しては目一杯に夢なりイメージは膨らむ。膨らんで膨らんで際限がない程。 つまり、町に住む方々の活気・活力に溢れた旺盛な生命力と活力・エネルギーに関して、ほとんど無限大に発展・進展を遂げて頂きたいと、心底から念願して止まないからでありますよ。 更には、町の外、国の内外から訪れて来る客人・ゲストたちの姿が、にこやかな笑顔と共にやって来て、更なる幸福感に包まれては一杯の笑顔で去っていく客人たちの、何とも楽し気な満面の笑みが、次から次へと浮かんで参ります、はい。その素敵この上ないイメージが。 狂人の戯言などと、どうか笑わないで下さい。この様な愉快で楽しいイメージが湧くこと自体が、既にして恵まれた非常にハッピーな事ではありませんか…。それにこれは言ってみれば、論理的な必然に基づいた本当に手堅い、堅実極まりない確信と呼ぶべきもの、なのでありますからして。 もてなし・ホスピタリティーとエンターテインメント・演劇、人類初の本格セリフ劇の町、野辺地。心と身体のリラクゼーションを全部の訪問者に間違いなく齎す、海と山と川、そして人々が調和して生き、旅人を満足させ、十全な癒しを提供する奇跡の土地。 演劇や芝居と言えば劇場という既成概念が牢固として、抜き難く存在します。私・草加の爺が提唱するそれには必ずしも大劇場の施設や、大掛かりな舞台装置などは必要としません。ただ最小限必要なのは、観客と手当てする側としての役者・俳優だけであります。極めてシンプルそのもの、舞台などは何処でも構わない。民家の居間であっても、商店の店内や店先、オフィスの応接間や会議室、神社や寺院の広間、幼稚園や学校の教室、老人ホームなどのホール、病院の待合室、町役場や公民館のオープンスペース、等など場所の候補は無限であります。更に、天候や気温条件さえ整えば道路上、空き地、野原、海岸や山の中、船の上なども利用可ですから、舞台として成立する諸条件さえOKであれば、場所的には十分に可能でありますね、実際上は。 そして、特別な劇場が要らないだけではありませんで、此処に来るのは心の治療や癒しでありますから、手ぶらで心と身体だけを運んで来ればよい。必要な物はそれだけですよ。一人でも結構ですし、仲間や家族連れであれば尚さら結構。一回きりでもよいし、リピーターになって常連客として訪問するのも大歓迎。素晴らしい自然と、ホスピタリティー精神の塊のような人々が町ぐるみで大歓迎してくれること請け合いですよ、間違いない。 単に見たり、聞いたり、眺めたりするのではなく、みずから親しく 体験 する場であり、チャンスであり、時間を共有するモメント・契機。一緒に、信頼し合って…。 それに加えて、目的が営業利益・マンモン・金銭ではなくて、純粋に世の為他人の為なので、出張公演ならぬ出張治療としてのハートウォーミングなパフォーマンスを、何時でも、何処ででも行う用意が常に出来ている。無論、原則は無料奉仕ですが、寄付や活動の拡張や発展を支援する資金カンパは、どの様な形であっても大歓迎ですよ、衷心より感謝いたしますね。 円やかで、柔和で、優しくて、それでいて元気溌剌にして旺盛・活発な人々で溢れかえるような活況を呈しておりますので、例えば「誰でもよいから、殺してやりたかった」などと言う、不心得者は断じて金輪際、出て来はしない。誰もが自然に笑顔が零れ、晴れやかな表情に覆われる。平和で、静かで、自ずから身内に生きてエンジョイしようという意欲が満ち満ちて、お互いにハグしたり、肩を抱き合ったり、信頼の目で見つめ合ったり、黙って黙礼したりしながら、誰もが一人残らず生命の賛歌を知らず知らずに口ずさんでいる。そうした心の、魂の桃源郷・ユートピアが巧まずして到来している。その様な図をイメージしてみて下さい。 ぎすぎすして、怖い程にとげとげしい今の現実とは真逆な世の中。どうですか、信じられませんか?体験主体の科白劇が将来する未来は、言葉の真の意味の革新であり、革命でありました。 非常に地味で、堅実で手固いひとつ一つの好意・善意を内包した小さな行為が、途轍もなく壮大な夢に満ち溢れた未来を手繰り寄せ、確実に構築する。それは、あなたの今日の音読から、あなたの明日のセリフ発声から生まれる。誕生が約束される、間違いなく…。 本当に、心の底から「生きていてよかった!」と私たちの誰もが実感できる。そういう意味での地上での理想の社会の実現・到来。それが野辺地の町から、野辺地の町の住人によって、野辺地の町の善良なる人々の手によって、スタートが、記念すべき第一歩が切られる。着手され、奨励され、拡大する。大きく輪を描くように周囲に広がる。平安と幸福の輪・和が実を結ぶ。胸がわくわくし、期待が膨らむではありませんか。 どこかの国で、地球上の普通の基準とは異なる尺度で、世界一幸福度の高い国、と言った表現を使用して、独自の文化的な価値を主張する生き方が奨励されていると、仄聞します。 戦後の日本国は確かに、奇跡の復興を遂げ、世界に冠たる大経済大国に発展した。現在も色々と困難極まる諸懸案を抱えては居りますものの、経済的な豊かさを唯一の特色とする国柄である事実に、変わりはありません。政治家や著名な識者たちの言動を見聞きしていますと、無果てぬ夢を飽くまでも追及するのが我が国に残された、ただ一つの道であるかの如き錯覚に陥ります。 果たして、それだけでよいのでしょうか? 私たち一人一人が胸に手をしっかりと置いて、とことん考えてみなければならない、非常に重要で大切な問題でありますよ。 昨今の修正資本主義も致命的な欠陥を、グロテスクなくらいに衆目にさらしつつあります。これからは、隠れた文化立国の真のトップランナーとして、「神国、日本」がその確かなプレゼンスを地球上の全世界に向けて、その底力を遺憾なく発揮すべき時なのであります、間違いなく! 私たち日本人は、観念的には「民主主義」という思想なり制度を理解してはいるのですが、いまだにこれを日常的な行動で示し、表現出来る程には自家薬籠中のものとは、出来ていないようであります。上意下達と言いますか、兎角、政府とか地方行政機関とかの意向を受けての、極めて受動的で消極的な姿勢を取ることが多いようであります。 率先して自らの問題に取り組み、主体的にこれを解決して行く意志や気構えにおいて、欠ける所が大であるようです。が、根は祖父・祖母伝来の極めて優秀な素質を例外なく受け継いで居りますので、ここぞと言うときには意想外の大きな力を遺憾なく発揮する、潜在力・ポテンシャルの持主ばかりである筈。 ほんの少しだけ、いつもより頑張りをみせて、町の為、地域の振興に向けて持てる力の全てを、発揮しようではありませんか。不肖わたくしも、善意の協力者として最大限のお力添えを致したいと、本心から考えて居ります故、どうぞ存分に活用・利用して頂けるならば、これに過ぎる倖せは御座居ません。 尚、蛇足めいて聞こえるかも知れませんが、このプロジェクトに掛かる必要経費は、無限にゼロに近いと言ってよい。大半が町民の善意に基づく手弁当・無料奉仕から始まるから。無論のことですが、言い出しっぺの私の方も最初から同様です。そして、或る段階から、それは音読の励行活動期を経て、或る程度読み聞かせのパフォーマンスが野辺地の町起こしに有効であるとの認知が、人々の間に浸透した時には、一回のパフォーマンスにつき活動応援金の名目で、参加者おひとり様当たりで一口一円を頂戴する仕組みを、あらかじめ組み込んで置くことを活動の永続性を保証するものとして、最初から提案しておきたいと考えます。 いくらこのプロジェクトが収益や金銭獲得が目的ではないと申しましても、いつまでも活動主体者の善意と努力だけに頼りっきりにするのは、現行の資本主義経済体制のもとでは成立しないからであります。一種の独立採算制度をどうしても取り入れて、事業の永続性を図らねばなりません。 もう少し活動の質が高まって、更に娯楽やエンターテインメントの一種としての認知度がグレイドアップすれば、入場料ならぬ公演参加費としてなにがしかの料金を徴収する事に、なるでしょうが、極力廉価・低料金に抑えて置く必要もあるでしょう。この頃からは経費や活動の一部を町役場から補助して頂くことも、視野に置いておくことも考えたい。 そして、いよいよユニークな特色を持つ「セリフ劇のプロ集団」の設立、立ち上げを目指す段階を迎えた際には( 人々の努力と工夫如何では、これは意外と早い時期に到来するかも知れません )、町だけでは無くて県や、それこそ国からの協力・支援を仰ぐことも視野に入れておきたいもの。 但しこの措置は、世間一般の関心や注目を集める広報・宣伝効果を狙う手段であって、それらが無くては活動が存続できないと言うのでは、断じてありません。ゲストとして迎える( 患者? = ストレスを抱えた被治癒対象者、乃至は候補 )は数えきれないほど世の中にはいますので、効果が抜群の「治療者・癒しのプロ」集団が確実に居ると分かれれば、町は活況を呈することは間違いないのですからね。 ( 次回に、続きます )
2018年06月19日
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第 三百十二 回 目 今回は 治療 や 癒し に効果的な言葉の内容に関して、少し説明をしてみたいと思います。 前回に「手当て」という言葉を持ち出して、心の患部に「手当て」して有効な言葉や文章というものがあるというお話を致しました。 音読を始めるに際して、具体的にどのような本を選んだらよいのか、という実際的な問題が生じますが、答えはいたって簡単です。何でもよいから、身近にある活字の本を手に取って声に出して読んでみる。手ごろな物がなかったら、新聞でも、子供の教科書でも構いません。内容も、ジャンルも一切気にしないで、兎に角音読してみる。それで結構なのです。音読の楽しさを実感して頂くのが最大の眼目ですから。第一に、音読それ自体に大いに意義があるのです。 楽しくて、しかも健康に良い。これだけでも実行する価値があると、思っていただけませんか。 効果が実感出来たら、次にはより効果的な方法は無いかという、次のステップに無理なく移行できますから、それについては具体的にアドバイス・助言が可能です。 気軽に、いつでも都合のよい空き時間に、どこででも各自の都合のよい場所で、その時の自分に合った時間だけ、楽しく、好きなように、フリーに、一人ででも、相手が居ても、エンジョイ出来る。 しかも、それが町おこしへの貴重な第一歩となり得る。こんな、良い事ずくめな素晴らしい事は滅多にない事ですね、実際の話が。 それでは、一人での音読に適した対象・作品は何かという問題になりますが、答えは至極簡単です。何でもよい。自作の詩歌でも、作文でも、友人から届いた手紙でも、家族のメッセージ、その他手当たり次第に自由に楽しめば良いのでありますね。 すると自然に次なるステップに進みたくなる。それが「読み聞かせ」です。身近に居る誰かに読んで聴かせたいという気持ちが自ずからに湧く。それでも、しばらくはそれまでの延長線上の 音読行為 で一向に構いませんよ、その儘で。 北上夜曲 歌詞 匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想いだすのは 北上河原の月の夜 / 宵の灯 点すころ 心ほのかな 初恋を 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の せせらぎよ / 銀河の流れ 仰ぎつつ 星を数えた 君と僕 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 星の夜 / 雪のちらちら 降る夜に 君は召されて 天国へ 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 雪の夜 / 僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影 胸に秘め 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 初恋よ ―― この詞章を歌うのではなく、あなた流に音読して楽しんでも良いのですよ、例えば。そして、興が乗ったならば誰かに読み聞かせても勿論、一向にかまいません。 それからチョット飛躍して「セリフ劇」への展望をほんの少しだけ、述べておきましょうか。 基本形は 言葉の、或いは、言葉によるキャッチボール と考えて頂いて、間違いありません。その効果が最大である物が傑作たる資格を有する、というだけであり、その素朴な原始型はキャッチボールする当事者が遊んだり、楽しんだりできれば、それで目的が達成出来た、と言える。最初のうちは効果や効用に関しては全くの不問に付して構わない。と言うよりも、最初の最初には先ず楽しい事、遊びとしてエンジョイできることが全てである。文句なく楽しくなければ、何も始まらないからですね。 例えば、A夫(天の邪鬼的な言動の目立つ男性)とB子(相手の考えている先、先を読もうとする癖のある女性)との或る日の会話を試みに作ってお目にかけたいと存じます。 A「やあ、今日はとても良いお天気ですね」(実は、大雨に大風の吹く、悪天候であった) B「私は今、非常に気分が滅入って、仕方がなかったのです…」 A「そうですか、それはそれはオメデトウ。どうやら天も、あなたの健気な心掛けに感じて、こんな素晴らしい天候を与えて下さったのでしょう、きっと」 B「有難うございます。あなたのように優しくて、性格の善い御方には、滅多な事ではお目に掛かれません。今日は本当に運の好い日ですわ!」 A「僕はですね、ガキの時分から何故か、周囲の人達から滅法好意を持たれましてねェ。例えばこんな事がありました。大勢で友達が遊んでいたので仲間に入れてもらおうとして行くと、何故かその場が急に静かになってしまう。どうしてかって一人に訊くと、君が来るとお盆と正月が一緒に来たみたいな気分になるので、気分を静めているのさって」 B「そうですか。それであなたは何て答えたのですか?」 A「そうかあ、そんなに喜んで僕を歓迎してくれているんだって」 B「そうですか、それで分かりましたよ。あなたは大昔から相当にお目出度い御方だったんだ、という事がね、よーく分かりました…」 傑作などとは決して言えませんが、ダジャレぐらいなレベルの物を提示しました。どうぞ皆様方もこれに勇気付けられて、即興で構いませんから色々と楽しみながら、試してみて下さい。何事であっても持続して物事を行うコツは、楽しんで、受け身ではなく主体的に対象にのめり込む姿勢が重要ですから。 さて、次なる段階に話を進めます。効果・効用・癒しという目的を強く押し出して、読み聞かせなりコント・寸劇の様なセリフ劇を実施したりする際に、その目的に適した内容の台本が必要となります。 これに関しては、初めのうちは専ら不肖・私が担当して御教授致す所存でありますが、良き観客を育て、良き読み手や演者の育成と共に、本物の芝居・ドラマ・劇というものを正しく理解した上で、今回のプロジェクトに最適な脚本・台本を創作出来る、有能なライターの育成も言い出しっぺの私が一手に引き受けて、担当しなければこのミッションの永続性は担保出来ません。 そういう訣で、私・草加の爺が現在ただ今一番に気を付けている事柄は、自分の健康に留意して元気溌剌と生活すること。これが目下の重大な仕事と心得て、専心に頑張っている事柄でありますよ、正直の話が。 さて、話を再び音読やセリフ劇で治療効果の期待できる台本作りの方に、戻しましょう。 大体において、私たちの日常生活での行動と言うものは、完結・完遂するという事が極めて稀であります。最後までやり遂げたという実感を伴う行動が数少ない。有る行動は、偶然の別の行動によって中断を余儀なくされ、そしてその別の行動も中途半端なところで、外の事情による行動や事情に邪魔されて、と言った具合に首尾よく最後までやり切れた。満足したという実感が希薄であることが、圧倒的に多数を占める。 それらが知らず知らずの裡にストレスとして、心の中に蓄積され、滓の様に無意識の底に沈殿して、あたかもどぶ泥の如くに腐敗して有害なガスを発散するに至る。これを放置せずに昇華発散しないで置くと、人体に深刻な悪さをする最悪な状況を来たしてしまう。 癌のストレス引き金説は、いまだに実証はされていませんが、色々な生活上のストレスが私たちに様々な弊害を齎している事実は、紛れもない本当のことでありましょう。 そればかりではありませんね。正義は勝つ、どころではありませんで、勝ったものが「正義」であり、実際には何が正義であり、何が本当・本物の悪であるのかが、誰にも解りません。 全てが曖昧模糊とした状態のままで、その場その場の力関係だけで「勝負の決着がつき」、事態が次へと推移して行くだけ。それが私たちの生きて行く現実というものの「実相」でありますよ。 曖昧なものが曖昧な、あやふやなままで移り変わって行く事に、私たちは厭でも耐え忍ばなくては、生きて行けないのでありますから、潔癖この上ない私たちの「良心」は悲鳴を上げ、ため息を吐き続けなければなりません、生きてこの世にある限りは。 ですから、どうしても「手軽な手当・治療、揉み療治」が必要なのであります。心の中に「ストレスの山」が築かれない先に、何としても防御策を講じて置くことが、大切な仕事になるわけです。 このような雑駁な短文ではすべてを尽くすことは不可能ですが、少なくとも日頃から私たちの心理とか心の働き等に関心をお持ちの御方なら、容易に納得が頂ける事柄であります、はい。 そこで最新の医療技術や医学とは別個のアプローチとして要請されるのが、カタルシスを齎す良質なドラマ・芝居であるわけですね、最良の方策として。 そして、この有難い仕組みシステムは、人類と共に古く、そしてまた、時代や場所、人種を問わない普遍的な事実・真実なのでありますから、私たちがこの便利にして有難い恩恵を有効利用しないでいる手は、実際ないのであります、ないので。 そして、日本国の野辺地における私たちの実にささやかな試みに思えるチャレンジは、目覚ましい進歩・発展を示している医療や医学に並んで、いや、それ以上に大切な恩恵をもたらす契機となる、グレイトチャレンジに変貌する、実に大きな、意義深い、少なく見積もっても可能性を蔵していると、主張してよいものなのでした、実は。
2018年06月15日
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第 三百十一 回 目 音読 の 勧め ―― 言葉の効用について 嘗て日本全国に「ラジオ体操 運動」と言ったものが大流行したことがあります。そのルーツは米国にあり、日本では昭和26年頃から始まったようです。 ご存じのように、アメリカ合衆国との戦争に敗戦して疲弊や貧困が激しかった日本で、手軽に誰もが健康な体を確保出来るというので、一気に全国に広まったもの。 野辺地の町起こしへ向けた私の提案である「音読を楽しもう」の会の設立の趣旨は、心や精神面での「ラジオ体操の勧め」と受け止めて頂いて、間違いありません。 日常生活で蓄積されている心のストレスを発散し、メンタル面での健康増進に役立てる、お年寄りから小さな子供までが気軽に楽しめ、存分にエンジョイ出来る、魂のエクササイズ。 個人が自分一人でも出来ることですから、勿論、会やグループに参加せずに一人だけの趣味や楽しみの一種として音読を励行することは可能です。それはそれで、一つのやり方として大いに奨励されて良いのです。ここで会をわざわざ開設して複数人での実施をお勧めするには、それなりの理由がありますので、それについて少し解説を致しましょう。 一人二役での音読には、二人分の役割が含まれています。つまり、音読する役割と、それを耳で聞いて心のカタルシスを経験する役割とですね。 すなわち、芝居に置き換えて考えれば、舞台の上で演じる「役者」の役割と、観客席で芝居を見物してエンジョイする観客の役割と、でありますよ。ここが、普通に考えるよりも遥かに奥深い、非常に大きな意味合いを持つところですので、しっかりと受け止めて頂きたい、どうぞ。 劇場という芝居が行われる娯楽の場で、通常は一番大切と誰もが考えている役者の役割なのですが、これは飛んだ誤解であり、誤りであります。これまでにも私・草加の爺は次の如くに力説して参りました。芝居で、劇場でもっとも重要なのは、観客であると。 意表を突かれた方もいらっしゃるでしょうが、極論を申せば、役者などはどうでも宜しい。観客さえ本物の観巧者でありさえすればの話ですがね。 日常生活から解放されて、芝居小屋までわざわざ足を運び、木戸銭(入場料)を支払って平土間や桟敷席に納まった見物客が、いの一番に期待している事は、無論、無意識の場合が多いのですが、憂き世の憂さを晴らす事、日々の辛く困難な生活で溜りに溜まったストレス、心の垢を綺麗さっぱりと洗い流してしまうこと。心の中を一旦ゼロの状態に戻してやること。私の言葉を使うならば、魂の浄化・カタルシスこそが真の目的なのでありますね、実に。その為のドラマであり、劇場というものが私たちに有している意味合いがあるのですよ、実際は。 ですから、大分先の話になるかも知れませんが、役者作りよりも、理想的な観客を育てる事の方が、数等倍重要であり、真っ先に解決して置かなければならない、最重要課題であるわけです。これまでの常識を根本から覆すこの基本の発想が、今回の何気ないプロジェクトの革新的である所以なのです。 通常は芝居や劇と言えば、役者や名優の存在が必須と考えられますが、私が今回構想しているセリフ劇では、何よりも「理想の観客」、「観巧者の見物」が何物にも増して大切であり、必要なのであります。この一見へそ曲がりで天の邪鬼な発想と見えるところにこそ、今回のプロジェクトが目指している真実に新しく、そしてまた本当にスタンダードで正統なドラマの本道を行く、真の姿が秘められているわけです。その辺の所を、少々解説し不審を解明しておきましょうか。 普通、世間で行われている芝居、演劇、ドラマなどは形はどうあろうとも、営利が目的であります。つまり商売であり、興行として行われます。人気のスターがいたりして、高額な入場料などが必要であります。映画やテレビドラマなどもその例外ではありません。テレビドラマの場合には、視聴者は直接に料金を支払いませんが、テレビを見た視聴者がコマーシャルを通じてスポンサーの商品を買い、間接的に観覧料金を支払う仕組みですね。NHKでは、御案内の如く聴取料金を一括で支払うシステムが取られている。 所が、今回の野辺地でのプロジェクトである「セリフ劇」では、「 心の治療 や 癒し 」が主要の目的であって、商売や興行として黒字の経営が可能かどうかという問題は、少なくとも初期の段階では全くの不問に付される。 「手当て」という表現があります。病気やケガなどの治療や処置を言いますが、古代において患部に手を翳したり、実際に手を当てる行為が医療行為として行われていた。その名残が言葉の表現として今でも残っている。その様に考えられますが、心の手である言葉を、心の患部に翳し、あてがう。その意識的な行動の理想形と言うか、究極の形としての「セリフ劇」と言うものを、頭に描いている。それが今回のプロジェクトの骨子であると理解していただくのが、好都合かと思っております。 そういう意味において、役者は専門家でなくてよい。というよりも、はっきりと素人の方がベターだ、と言える。真心の籠った、思いやりのある、温かな気持ちが伝わりやすい、という点において。 それ故に、観客、観巧者のよりよいお客を育成することが、何にも増して重要だと分かりますね。 ですから、音読で大切なのは「心の温もりを受け手」に伝達する「心の手」に相当する「言葉・文章・詞句」の選択が最も大切であり、重要であることが、お分かり頂けると存じます。 そして読み手は、上手であったり、巧みであったりする必然性がない。むしろ悪上手であるよりも心の籠ったド下手がよい。読み手は、それぞれの資質や個性に応じて、素直に、つまり変な技巧を弄さずに、有りの儘の気持ちを込めればよい。たどたどしくても誠実で、真っ正直な魂の訴えをストレートに音声に託せば十分なのです。 取って付けたような、如何にも相応しくない人真似などではなく、自然に流露する固有の人柄を、読み上げる声音に率直果敢に伴うように努力すること。音読の極意はこの一事に尽きます。 実人生という舞台の上では、誰もが生まれながらの「名優」であり、現実に見事なまでにその人自身を演じきっている。そう、申し上げたならば皆さま方は吃驚仰天なさるでしょうか。 誰でもいいですから、あなたの身近に居る誰かを、頭の中で思い描いてみて下さい。どうでしょうか、くっきりと鮮明に、その人らしさ、その人にしかない人間性が感じ取れるでありましょう。それでは、その名優達を演出している演出家は、一体誰か? ここでは通常「神」と呼んでいる超越的な存在を、それだと仮定しておきましょう。神と言う名演出家は私たち一人一人を物の見事に、演出し、生かし切っている。しかし、私たち人間は単なる操り人形ではありません。自分自身の意欲・意思というものを持って人生という舞台に臨んでいる。ただし無自覚の儘、自覚的に役者としての自己を自覚出来ていない人が、大半ですね、実際には。 私が今申し上げたい事は、他人の猿真似をしさえしなければ、私たちは誰でも皆が、人生の上での名優揃いだということ。役者・俳優としての基本の素質は、生まれながらにして十分に備えている。ですから、あとは銘々の持って生まれた役者としての個性に磨きを掛ければ、それでよい。自覚して、意識的に俳優としての魅力を開花させれば、それで済むのでありました、実に、はい。 動機や目的が違うだけで、「芝居」一つ取り上げても非常な違いが、大きな相違点が出て来る、現実に。営利や利益が目標であれば、大きな劇場や、大スター、その他様々な道具建てで、莫大な資金や予算の投入が必要となりますが。私たちの場合には全く異なります。 意欲とやる気だけがあればよい。一人だけでも、二人でも、勿論三人でも、複数人でも大群衆になっても、そこに人が居てくれさえすれば、楽しいエンターテインメントの輪が無限に広がる。私たちに生まれながらに備わっている豊かな想像力が、豊富で素晴らしいクリエイティブな世界を構築して、私たちを際限もなく楽しませ、元気付けてくれるのだから。 周囲一メートル四方の狭い空間であっても、数千数万を収容する大劇場にも劣らない、立派で、輝かしい空間と変わる。私たちに夢と希望がある限りは…。
2018年06月10日
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第 三百十 回 目 青森県上北郡野辺地町の中央公民館の館長になられた五十嵐勝弘氏と電話でお話しできました。 以前、私がメールで協力をお願いした、「音読を楽しむ会(仮称)」の中心になって頂けるお方を御紹介頂けないでしょうか、と言う件に関することででありました。 五十嵐氏はお仕事の御忙しい中で、色々と御声を掛けて下った模様。小学校で読み聞かせを定期的に行っているグループの責任者の方。そして、嘗て劇団活動をしていたお方など。 近いうちに五十嵐氏に取り敢えず御挨拶だけでもしたいと考えていますが、電話のやり取りの際に、方言は今では死語となってしまっている、という御指摘でした。前に、野辺地小学校を訪問した折に、事務の女性の方が「私はよそからこの土地に御嫁に来たので、方言は話せませんが…」と、仰って居られたことが、私の記憶に甦ります。読み聞かせの会の女性の責任者の方も、よそからお嫁に来た旨をお話されたとか。 私の普段着としての土地の言葉・野辺地弁というのは、もしかしたら私の自分勝手な幻想に近いものだったのかも知れない。ふと、そう反省も致しました、正直。 それにつけても野辺地町の現状認識を、有りの儘の現実をしっかりと把握する事の大切さを、改めて自戒したものです。 さて、方言によるセリフ劇の目標は目標として、最初の一歩たる「音読を楽しむ会」に関しては、方言に熟達しているか否かは条件から外して、スタートしたいと思います。私の浅はかな思い込みが災いした軽率な資格者の設定でしたので、お詫びの上で、訂正しておきたい。 音読を楽しむ会への入会の資格は、野辺地の町に愛情と、関心を寄せて下さる方ならどなたでも結構です。フリー入会制で、その方の自由になる空き時間での、不定期の参加も含み、全ての縛りは設けません。音読をエンジョイし、健康増進、気晴らしや余暇活用の娯楽など、個々人の自由な発想で気軽に楽しんで頂く。それがこの会の唯一の目的であり、設立の理由でもありますから。無論、会費などは無料です。 音読の効果・効用は、大きく申せば、魂の浄化・清掃、心のクリーニング、精神の明澄度の推進、命の洗濯、小さく言っても、気晴らし、余暇の活用、軽い遊び、精神のダンス、などなど人さまざま色々な効用を見つけていただいて結構ですし、実際に多様なエンジョイの仕方が考えられる。 言葉には非常に有難い多様な働き・作用がありますが、生活の実用に役立つ外にも、「心の癒し」という有難く、また不可思議千万な効能が秘められてもいる。それを最大限に活用する理想形が「セリフ主体の劇・芝居・ドラマ」なのですが、それを最終的には野辺地に根付かせようと目指すのです。が、当面はその事は忘れていただいて、大いに言葉、文章を楽しもう、というのが目標であり、ゴールと心得て下さい。エンジョイ、エンジョイ、またエンジョイ。言葉、文章と言う「お神輿」を一人でも大勢の方がワッショイ、ワッショイとお祭り気分で目一杯楽しみ抜いて頂きたい。それだけ。 ここで思う事がありますよ。私・草加の爺は御承知の如くに十余年の長きにわたり、さる大手の学習塾の講師をしております。講師の大半は当然に現役の大学生であり、大学院生であります。私が優秀な現役の大学生達と肩を並べて高校生、中学生、小学生たちに勉強の指導が出来ているのは、何故でしょうか。それは、私が「学びの達人」であり、常に、不断に担当の生徒たちから学んでいるから。生徒達の言葉や身振りを超えたメッセージをまっ正面から受け止めて、その詳細にして真摯な言葉無き言葉を、指導・教えの上で役立てる努力を怠らないからであります。彼等、生徒たちは例外なく自分はこの様に教えて貰いたい、指導して欲しいと訴え続けている、実に。 その生徒たちの声なき声に、こちらも真摯に耳を、否、全身全霊を傾けて聴く。これは決してテクニックなどではなく、人間性の問題ではないかと、私は心密かに愚考致しておりますよ、本当の所。 つまり、教育と言いますと教師から生徒に、親から子供に、年長者から年少者に教え導くものと、相場が決まっている。乃至は、あたかもそうであるかの如くに人々は見做して、行動している。ところが、さにあらず、と私は体験上思うのです。教育も相互のキャッチボールが大切な、真剣そのもののコミュニケーションなのだ、と。 いや、いや、教育こそが真摯なコミュニケーションの質が、内容が問われる真剣勝負の場にほかならないのだ、と考える者でありますね。互いが一人の良心ある人間として、お互いを尊敬しあって相手を高め合う理想の関係を構築する、非常に大切この上ない契機となるもの、それが、それこそ 教育 の名に真に値するものなのではないでしょうか…。 ともかく、私・草加の爺は少なくともその様に心得て学習塾の生徒たちと対して、自分でも驚くような大成果を挙げて居りますね、現実に。―― これも私のブログを継続してお読みいただいている方には、お馴染みの事柄で、以前に「小さな奇跡」がそれこそ毎日の様に継続して、継起し続けている。と、表現していた事を思い起こして頂ければ済むことでありまして、その際に申し上げていた通りに、決して私の手柄ではなく、私と言う媒介・触媒を介して超越的な 力 が作用した。その様に、少なくとも私自身は理解いたして居ります、正直のところで。 野辺地でのプロジェクトの場合にも、私の態度は学習塾の生徒との体験で得られた貴重な教訓を、遺憾なく生かし、更に発展させた形で役立てたいと心密かに、念願している、はい、確かに。 野辺地町の方々との交流、コミュニケーションを深める過程で、多くの事を学ばなければいけない。一方的な押し付けや、独りよがりの独断専行は厳に慎まなければいけない。そう固く自戒もして居ります、固く。 それにつけても思い出すのは、妻悦子との新婚時代初期の事。これももう既に何度となく、ブログ上で書いてしまっているので秘密でも何でもないのですが、私たちは謂わば出会いがしらに同棲を始めて、結婚に至っている。どちらもお互いの事を殆ど知らない状態で結婚状態に突入してしまった。 当時の私にとって形式的な挙式など、正直どうでもよかった。と言うよりは虚飾に満ち満ちた所謂盛大な結婚式なる物に大きな嫌悪感すら感じていた。所が、悦子、つまり新妻である家内は「正式な結婚式」という外見に非常な拘りを示した。後になれば笑い話で済ます事も出来たのですが、当時の二人は粗末なボロアパートの一室で、時には夜明けまで言い争いを続けた。相互がそれぞれに相手の本心を理解し兼ねていたので、何の誤解も、悪感情も無いのにそれぞれの思いをぶつけ合った。真剣そのもので。 そういう仕儀に立ち至ったのもある意味で当然だったのですが、若い二人は、と言っても主として風変わりな考えを抱懐して、一歩も譲らなかった私の頑固さが、後にして思えば全ての原因だった。仕事の上では妥協に妥協を止む無く重ねざるを得ない立場のプロデューサーという職種にあったことも、大いに災いして、妻となった愛するベターハーフにだけは、肝心のところで安易な妥協を断じてしたくなかった。実に単純な男の、単純な動機でしたが、悦子の方では大いに困ってしまった事でしょう。その外のことでは何でも優しく、二つ返事で O K してくれるとても優しい夫が、常識からすればある意味で当然の、女性としての希望を、何か分からない事を根拠に頑なに拒絶しようとするのですから。 理解とか相互理解というまことに口当たりのよい言葉が安易に使用されているのが現状ですが、同じ言葉を発していても同床異夢、銘々が全く別個の考えを抱いている。それが現実の実相です。 生まれも育ちも、育った環境も、土地の風習も全く異なった男女が、恋愛感情によって強く惹かれ合い結ばれたからと言って、相互理解がスムースに行くとは限らない。むしろ大いなる齟齬を来たすケースの方が遥かに多いのではないでしょうか。直ぐに分かった事ですが、お互いに人並み外れて自己主張の強い男女だったのですから、猶更に厄介だった。 しかし結局は強く大きな愛情が困難を解決する決め手になった。そうですね、愛情が本物であれば、障害や困難も忽ちに吹っ飛んでしまう。 それと、情けは他人の為ならず、という諺ですが、真心から他人の為になると信じて行った親切な行為であるが、世間を回りまわってその親切行為が、別の人から別の形をとって、自分に還って来る。だから、情けを掛ける行為は、結局は自分自身の為になるのだ。そういう教えでありますが、私の場合には、他人の為、人様の為と思ってした無償の行為が、廻りまわったりせずに、直接に自分自身に跳ね返って、私の有難い恩恵と化している。ええ、不思議な事のようですが、他人や社会の為にと念じて働き掛けたつもりが、直接的と言うか、ダイレクトに私自身の利益・得となって、すぐさま還元されている、実際の話がですよ、正直。これも、不思議と言えば不思議です。 こうした不思議の類が60歳を過ぎて「宗旨替え」をした私には、実に数多くある。これから類推すると、野辺地の町起こしプロジェクト遂行に際しても、これに類した現象が多々発生するものと予想される。ですから、このミッションの実行は何よりも私自身の為になると、揺るぎない確信が既に私の内部では完成している、確かに。 私は町の方々に色々と啓蒙やら、啓発、指導、育成などの重要な任務を果たさなければなりませんが、何よりも私自身の人間的な完成を目指して努力する。その為の活力やエネルギーを早くも毎日の生活の中で、日々教えられ、導かれ、手厳しい警告を受けたりもして居りますよ、もう早くもですね。実に、本当に、有難い事だと改めて亡き妻・悦子に多大な感謝の念を抱いて居ります、感謝、感謝であります、実際。
2018年06月08日
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第 三百九 回 目 前回にテレビドラマのプロデューサーとしての総決算を致しました。その序でと申しては恐縮ですが、私が大学を卒業して入社した頃の思い出話を、少しばかりさせて頂きます。その理由は読者が文章をお読み下されば、多分御納得頂けるものと愚考致しておりますので、いま暫らくの御辛抱をお願いし、お付き合いを再度お願い申し上げる次第です。 日本映画を代表する黒沢 明監督演出による「七人の侍」が制作されたのが1954年(昭和29年)ですが、その画期的な名作が制作された映画会社の東宝から分裂して、新東宝が誕生しました。が、映画産業の斜陽化と共に倒産して、国産のテレビ映画製作専門の会社として再生した国際放映という会社があります。私はそこに企画部員として入社しました。1960年代の後半の事です。 広大な敷地とその上に建てられた老朽化したステージ群と時代劇のオープンセット。それらを利用して生き永らえるしか生きる道がなかった。それらを活用して、電気紙芝居と侮蔑的に呼んでいたテレビドラマの外注を、テレビ局から下請けしての再生。それは、覚悟していた事とは言え、非常に苦渋に満ちた茨の道でもあった。タコが自分の足を齧りながら空腹を満たすのに似た、自転車操業。とは言えそれ以外に選択の余地はなかった。 それでも最初は昼メロと呼ばれた昼間の30分や15分の帯ドラマが大量に受注され、撮影所としては大活況を呈する時期もあった。しかし、低予算に見合う 粗製乱造 の報いを受ける形で、その後の反動がやって来た。 私が入社した直後に、「来年、うちの会社は赤字で倒産するかも知れない」と誰かから、聞かされた。流石に世間知らずの私も、内心で強いショックを受けた。しかし、先輩から「会社の将来を心配するより、自分の才能に磨きをかけて置け。そうすれば、ヘッドハントされてキャリアアップのチャンスにつながるから」と、アドバイスされました。 会社の状況は大変厳しいものでしたが、私は幸い面倒見のよい上司と先輩に恵まれ、会社の中での超エリートコースを一直線に進むことが許されました。数か月の現場での研修を終えると同時に、肩書はプロデューサー補でしたが、実質は一人前のプロデューサーとしての活躍が出来る環境が、幸運と呼ぶよりは大僥倖と称するに値する巡りあわせで、与えれれる結果となった。そうです、私は不思議な事に、悪運が相当に強いのであります。 当時のテレビ業界は没落期にあった映画界とは対照的に、新しいメディアとしての勃興期にあり、国民の夢と期待を一身に受けた形で実に華々しい成長を遂げつつはあった。しかし、ドラマを制作する現場からすると制作費が余りにもコンパクトに過ぎた。はっきり申せば少なすぎた。それにはそれなりの様々な要因があったのですが、兎に角テレビドラマの制作予算が現実とはかけ離れて、低予算に過ぎた。 厳密な原価計算がなされて成立する社会一般の商品としての売値を、最初から度外視しての予算がキー局から降りて来る。力関係で金額が不足でも何でも、仕事が来れば喜んでやらざるを得ない仕組みが、最初から出来上がっていた。 その状況下で、国産のテレビドラマの最初の新人プロデューサーとしての、輝かしいスタートを切った私ですが、私が現場で一番に力を発揮したのは、絶対的に不足して足りない予算を、如何にして補い補填するかという金銭面の工夫でした。 所謂タイアップと称する手法です。テレビ放映での宣伝効果と直接の金銭援助ではなく、現物での制作協力とをやり取りする方法です。旅館とかホテルなどとのタイアップがよく知られていますが、私はこの方面で実に「天才的な」敏腕ぶりを発揮したのです。その代表的な実例は、大きな造船所でのロケーション撮影を実現させたこと。家城巳代治という社会派として有名な映画監督が演出に当たった昼帯ドラマに携わった際の事で、現場からは造船所を使ってのロケーション撮影が不可能だとの、悲鳴の声が上がった。それを聞いた私が即座に動いて、僅か一日でOKを取った。まるでマジックそのもの。 自慢話ではなく、真実のみの持つ迫真性をお伝えする目的で、皆様方にタネ明かしを致しましょうか。撮影所のベテラン制作担当者は大きな造船所の所長の許可を得ようとして、危険だからという理由で断られていました。私は電話でその造船所を傘下に収める財閥系の会長に面談を申し込んだ。いまだに忘れませんが、先方の会長さんは私と会うなり、私の顔と渡した名刺とを交互に見交わしながら言ったものです。「古屋さんと仰る。あなた本当にプロデューサーさんなのですか?」と。 その御方の常識からすれば、プロデューサーとは少なくとも50歳は過ぎた堂々たる貫禄の年配者、である筈なのですからね。こちらは当時弱冠25歳の白面の青二才でした。話が長くなるといけませんから描写を端折りますが、私は真剣そのもの。撮影所での撮影が危険だと言われるが、危険は当方こそ大切なスタッフや出演者の生命を守らなければならない重い責任があり、絶対に避けなければならないこと。撮影は安全第一で行うのが絶対的な条件であるからして、安全は厳守される旨を力説しましたよ。更に、一般庶民からは縁遠い造船所がテレビ撮影に協力したとなれば、社会的な御社に対する信用と信頼は飛躍的に大きなものとなりましょう。これからは映画ではなくテレビの時代なのですから、と。 とにもかくにも鶴の一声、総帥たる老会長の電話一本で「開かずの扉」が開いた。私の撮影所での評判は一気に上がった、というような次第でありました。 このほかにも私ならではのこれに類似の事例を二、三上げておきましょうか。鈴鹿サーキット場を借りきっての撮影、大阪万博会場での大アクションシーンの撮影。それからこれは一本立ちしてからのエピソードですが大分県竹田市での大名行列の撮影など、常人には不可能な事を金銭ではなく、他の手段、つまり知恵と努力で可能にした私の「手柄話」であります。 テレビドラマの制作に限りません。お金が有れば、予算さえあれば大抵の事は実現可能ですが、その制作費がコンパクトに過ぎて窮屈もいいところ。身動きが取れない。作品を受注して制作すればするほど赤字が増える。しかし、自転車操業でも何でもキー局からの発注が有って、制作できれば撮影所は兎に角活況を呈する。銀行からの信用は担保される…。 まあ、色々とありましたが結局私が60歳の定年を迎えるまで、倒産という憂き目にだけは遭わなかった。 賢明なこのブログの読者ですから、既に御想像なさっていらっしゃいますでしょう。そうです、その通りです。金銭万能の世の中にあっても、知恵と努力さえ傾注すれば、大抵の不可能事も、可能に転ずることがある。いや、不退転の決意と覚悟があれば、不毛の土地にも緑の繁茂する豊かな森が出現する。 私の経験の実感からすれば、テレビドラマのプロデューサーこそ「現代の錬金術師」である。何故ならば、何も無い所からそれこそ巨万の富を生み出すのだから。 私は原作ものも多く手掛けましたが、オリジナル作品を数多くプロデュースして居りますので、その感が特に強いのかもしれませんね。企画して、局に売り込んで、受注して、スタッフ編成して、キャスティングして、撮影して、仕上げをして、納品してオンエアーを待つ。視聴率が出る。まあまあの数字なら再びチャンスが与えられる。そして準備した企画を売りに出す。この繰り返しです、まさに私のプロデューサーとしての人生は。 つまりは商品としての現物は何もなく、紙に書かれた文字・企画書だけです。私は一本立ちして活躍を始めて直ぐに局の担当者からよく言われたものです。「これは会社に発注するのではなく、あなた個人にお願いするのですからね」と。つまり私は「信用」という商品を商売していた。この信用だけはお金では買えない。実に有難く、感謝、感謝の一言でありますよ、実際の話が。 そこで、今回の町おこしのプロジェクトに関して、目下の所、私に不足しているのは現地での「信用」でありましょう。これは時間をかけて辛抱強く、根気よく働き掛ける以外に手はないでしょう。しかし目には見えない「神」の助力がバックアップして下さっています、間違いなく。 私は私なりにベストを尽くすのみ、これまでやって来た如くに…。
2018年06月05日
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第 三百八 回 目 閑話休題という言葉がありますが、今日では殆ど死語と化した感がありますね、実際の話が。意味はと申しますと、横道にそれた話を本筋に戻す、という意味です。「扨て(さて)」くらいの軽い感じでここでは用いたいと思います。 さて、私は最近まで気がせいていて、先ばかり急いでいたきらいが大有りでした、確かに。 そこで、急がば廻れと言う、古人の尊い教えに素直に従いまして、もう一度初心に帰ってみたいと考えました。次に掲げるのは、私がテレビドラマのプロデューサーから足を洗って、いわば百八十度の方向転換をした時に、自分の半生を振り返って「棚卸」をした際の、自己紹介であります。良くも悪くも私のリソースと言える物を、簡潔に表現していると思いますので、読者の参考に供したいと存じます。恐縮ですが、お付き合いをお願いいたします、どうぞ。 「 古屋 克征 (ふるや かついく)を 述べる 」 ――― 自己 P R と 職務経歴書を 兼ねる 何事であれ、真正面から対象と向き合って、全力で事に当たる。その時におけるベストを尽くす―― をモットーに生きて参りました。 特徴を申し述べますと、旺盛な 好奇心の持主 であり、研究熱心な 勉強家、そして忍耐強い 努力家。特に、人間に関する興味と関心が大であります。 従いまして、人間好きの 負けず嫌い な性格が、私の長所であり、短所ともなるものと自覚しております。 以下に、思いつくままに、大掴みに人物像を叙述致しますと ――、 1、テレビドラマのプロデューサーとして30年以上のキャリアを持つ。(作品リストを参照して頂きたいと希望します) 2、実体験で培った 実践能力 と、応用の利く 高いポテンシャル が武器 プロデューサーとしての実践で培った、積極的な営業のセンス、ジャーナリスティックな現代感覚や行動力などは、創造性の開発や、人材育成、等の一般的な教育の分野でも、応用範囲は広く、様々な局面での 柔軟な対応能力 のポテンシャルが有ると自負して居ります。 3、英語に 強い 語学力では、十数か国語を齧りまくった 語学オタク ですが、特に英語は 原書での読解力 は高度です。英語の古典は勿論のこと、例えば、セルバンテスのドン・キホーテ、ボッカチオのデカメロン等の外に、トルストイやドストエフスキーの傑作など 世界的な名作も英訳で読破 しました。また同時に、源氏物語の原文理解も 専門の研究者並みの実力 を備えています。 4、哲学・宗教学 への 深い造詣 哲学は、主としてソクラテス、プラトン、孔子。そして、宗教学は、仏教、キリスト教への 深い関心と理解・知識を有しております。 5、書道は 自慢の趣味 典型的なディレッタントながら、漢字、かな、現代書のジャンルを問わずに、長年にわたり有名古典の臨書を中心に研鑽を積み、プロの域に近い ―― と、密かに己惚れてもいます。 実力あるプロデューサーは、自身の持つ 魅力ある強力な個性の発揮 と共に、いや、それにもまして重大な場面では、聞き上手に徹し切れる懐の深い人物であり、優秀な職能と、強烈で癖の強いプロ集団を束ねる為の 良き触媒・カタリスト たることが真っ先に要請されます。 つまり、本人に高い能力と強い個性が要求されますが、その最大の特徴は、監督又は演出家、脚本家、スタッフ、出演者、等々の個性や能力が最大限に発揮されるように、よりよい環境や雰囲気作りに腐心して、自分自身の感情や要求をナマの形で相手に押し付けたりしない配慮が、何よりも肝要なのです。 時に、自分自身を殺してでも、周囲の働きや能力が、フルに発揮されるように心を砕く、いわば様々な職能で構成される集団の、最善の触媒であることが、プロデューサーの役割の中心と言えます。 そこで、“ キャリアコンサルタント ” としての私の「セールスポイント」は ―― そもそもドラマのプロデューサーという職種・地位・立場は、通常の会社のポストで言うなら、課長の上、部長の次ぐらいに相当する役職、すなわち、最低でも部次長以上の肩書に匹敵すると言われます。 現に、シリーズものドラマを担当する現場プロデューサーは、2クール(半年、六か月)で数億から十億を超える予算をテレビ局から預かり、番組制作の為に使用し、その全責任を一身に負う事になります。 ですから、外部からプロデューサーを評価する見方は、会社経営者の立派な一員ということになり、担当番組上での諸権限は絶大ですし、広告代理店や局サイドから付託された信用と、それに伴う社会的な責任は重く、所属するプロダクションの社長や重役達と言えども、プロデューサーの意向に添わない業務命令や指示は、その番組作りに関する限り、完全な越権行為とみなされ、口出しを許されないのが大原則です。 弱冠27歳で一本立ち(作品の冒頭などに名前がタイトルされる)プロデューサーに昇格してから、30年以上の年月を、常に現役として活躍して来た私は、経営者、プロジェクトチームのリーダー、人材育成の教育者、実力あるセールスマン、営業責任者、有能なるクリエーター、そして、実社会のあらゆる職種・職業のプロフェッショナル達と対等以上に渡り合える、腕利きのネゴシエーター、等々の様々な能力と資質を、現実に生きて、激しく動いている社会の中で、磨き上げて来たことになります。この豊富で、多岐にわたる経験を、有意義に活かし得る職場は他にないと、確信して、応募させて頂きます。 古屋 克征 プロデュース・作品リスト( 自 1970年・昭和45年 ―― 至 2001年・平成13年 ) 自薦プロデュース作品 ベスト 51、西海道談綺 三時間の単発・フジテレビ時代劇スペシャル特番・松本清張原作 松平 健 主演・昭和57年放送2、運命峠 時代劇3時間スペシャル・C X・柴田錬三郎原作・松平 健 主演・平成5年放送3、鹿鳴館の貴婦人 テレビ朝日開局記念番組・二時間の単発・名取裕子 紺野美沙子 檀 ふみ 共演4、仕掛け人・藤枝梅安 二時間の単発・C X・池波正太郎原作・渡辺 謙 橋爪 功 余 貴美子ほ かの出演5、告別 90分の単発・平成13年度民放連賞受賞・BS-Ⅰ・赤川次郎原作・大林宣彦監督 「一時間枠 シリーズ・現代劇」(順番に、タイトル・原作・脚本・監督・出演・放送局・放送年度) 動物通り夢ランド・オリジナル・長坂秀佳・山本廸夫・古谷一行 三田村邦彦・テレビ朝日・昭和61年 フジ三太郎・サトウ サンペイ・田村 隆・河野和平・堺 正章 丘 みつこ 小堺一機 時任三郎・テレビ朝日・昭和61年 市民の判決 佐野 洋・林 誠人 石松愛弘 水谷龍二・三村晴彦・渡瀬恒彦 渡辺 徹・テレビ東京・平成10年(第一話は90分) 「一時間枠シリーズ・時代劇」 一心太助・御存知もの・国弘威雄 押川国秋 服部一久・下村尭ニ 高橋繁夫・杉 良太郎 志村 喬・フジテレビ・昭和45年 仕掛人藤枝梅安 池波正太郎・安倍徹郎 野上龍雄・杉村六郎 三村晴彦・渡辺 謙 橋爪 功 阿部 寛 田中邦衛・フジテレビ・平成2年(第一話は90分) 「三十分枠のシリーズ」 若い!先生・本人のオリジナル・長坂秀佳・枝川 弘・篠田三郎 坂口良子・東京放送・昭和50年 変身!ポンポコ玉・児童小説・長野 洋 ジェームス三木・坪島 孝・安東結子 小林千登勢・東京放送・昭和51年 それ行け!カッチン・オリジナル・佐々木 守・山際永三・斎藤こずえ 真野響子・東京放送・昭和52年 おてんば宇宙人・オリジナル・佐々木 守・山際永三・高見千佳・日本テレビ・昭和55年 「オリジナル企画 原作の作品」 美しきチャレンジャー・30分シリーズ・高久 進・長谷部安春・新藤恵美・東京放送・昭和48年 「単発 3時間もの」 西海道談綺・松本清張・古田 求・児玉 進・松平 健 古手川裕子 中村敦夫・フジテレビ・昭和57年 運命峠・柴田錬三郎・古田 求・斎藤光正・松平 健・フジテレビ・平成5年 「単発90分もの」 告別・赤川次郎・大林宣彦・大林宣彦・峰岸 徹・BS-Ⅰ・平成13年 「単発2時間もの・現代劇」 闇からの呼び声・オリジナル・長坂秀佳・吉田啓一郎・宮崎淑子・フジテレビ・昭和57年 結婚前夜・S モーム・阿井文瓶・杉村六郎・大場久美子・フジテレビ・昭和58年 記憶の中の時間・オリジナル・酒井あきよし・吉田啓一郎・多岐川裕美・フジテレビ・昭和59年 なんか妖かい!・劇画・阿井文瓶・吉田啓一郎・柏原芳恵・フジテレビ・昭和60年 追い詰める・生島治郎・広井由美子・吉田啓一郎・杉 良太郎・フジテレビ・昭和61年 傷痕の街・生島治郎・阿井文瓶・吉田啓一郎・杉 良太郎・フジテレビ・昭和61年 鹿鳴館の貴婦人・西野明子・中島丈博・池広一夫・名取裕子 紺野美沙子 檀 ふみ・テレビ朝日・昭和62年 車椅子からウインク・小山内美智子・原 教子・山本邦彦・黒木 瞳・テレビ朝日・昭和63年 先生はロックンローラー・オリジナル・古田 求・杉村六郎・荻野目洋子・テレビ朝日・平成元年 長崎五島福江行・石沢英太郎・三村晴彦・三村晴彦・渡瀬恒彦・東京放送・平成3年 居酒屋兆治・山口 瞳・安倍徹郎・三村晴彦・渡辺 謙・フジテレビ・平成5年 野呂盆六・オリジナル・長坂秀佳・長尾啓司・橋爪 功 小川知子・東京放送・平成6年(シリーズ化される) 車椅子の弁護士・宮川一郎・宮川一郎・山本邦彦・宇津井 健・テレビ朝日・平成7年(シリーズ化される) 雨ノ森家の事件簿・阿久 悠・鹿水晶子・三村晴彦・野際陽子・フジテレビ・平成9年 パートタイマー刑事・香取俊介・長坂秀佳・鈴木一平・中村梅雀・東京放送・平成9年(シリーズ化される) 「オリジナル作品の原作 作品」 天を走れ!愛馬マックス・古屋克征・山根優一郎・新津左兵・藤田まこと・テレビ朝日・昭和54年 「単発2時間もの・時代劇」(CX・フジテレビ放送) 彫り師伊之助・藤沢周平・保利吉紀・小野田嘉幹・中村梅之助・昭和56年 音なし源・笹沢佐保・下飯坂菊馬・小野田嘉幹・中村梅之助・昭和56年 追放者九鬼三十郎・笹沢佐保・古田 求・小野田嘉幹・露口 茂・昭和56年 怪盗夢𠮷忍び控・オリジナル・馬場 当・井上和男・堺 正章・昭和56年 仇討選手・小林 正・鈴木尚之・小山幹夫・堺 正章・昭和57年 奉行暗殺始末・山本周五郎・古田 求・高瀬昌弘・林 与一・昭和57年 河内山宗俊・ご存じもの・押川国秋・原田雄一・丹波哲郎・昭和58年 二人の武蔵・五味康祐・長坂秀佳・新津佐兵・藤岡 弘 江守 徹・昭和58年 怪談津ノ国屋・岡本綺堂・古田 求・新津左兵・露口 茂・昭和59年 仕掛人藤枝梅安・池波正太郎・安倍徹郎・吉田啓一郎・渡辺 謙・平成2年 影狩り・さいとうたかお・古田 求・吉田啓一郎・村上弘明・平成3年(めんこいテレビ開局記念番組) 金山大爆破・竹内勇太郎・古田 求・小笠原佳文・高橋英樹・平成4年 清水次郎長物語・村上元三・古田 求・富永卓二・松平 健 若村麻由美・平成7年 鞍馬天狗・大仏次郎・田村 恵・斎藤光正・松平 健・平成11年(大仏次郎生誕百年記念企画)
2018年06月03日
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