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私が安らかに死を迎える日が来ても、君が私よりも生きながらえてくれて、死神という非人が私の骸に土を被せても、ふとした拍子に私が嘗て君をこよなく愛して捧げた詩歌を読み直す時が来たら、それがどれほどに拙くて、粗雑だったとしても、当代を代表する優れた詩人達の大層進歩した技に比べて、仮に誰彼からも追い越されて、打ち負かされていようとも、詩詞そのものの価値からではなくて、私の比類なく大きな愛情の故に廃棄などせずに、取っておいて呉れたまえ。技量や詩想が詩才豊かな者達の影に隠されてしまったとしても、ああ、君よ、我が最愛の恋人よ、こう思いやってくれたなら嬉しいのだが、詰まり、私の愛しい友人の詩心がこの進歩の時代とともに成長してくれていたら、彼の自分への愛情はこれよりも高貴な作品を生み出し、もっと華やかできらびやかな作品と肩を並べて歩んだであろう、と。だが、彼は既になくて、詩人たちは進歩して止まない、彼等の詩は文体を愛でて、彼の詩は愛を愛でて読もう、と。 以上が三十二聯です。シェークスピアのこのへりくだった謙遜の言葉は文字通りには謙遜であって謙遜ではない、非常な自己への確固たる自信が透けて大きく顔をのぞかせている。エセ詩人たちだけが世にはびこっているのは彼の時代だけでははなくて、いつの時代でも大同小異なので、人類史上に傑出した大天才が自己を正当に評価できない筈もなく、ごく一般的で平凡な措辞を使用して、さりげなくさらりと言ってのけているところが、彼らしい言い回しと私には心にくく感じられてならない。 第三十三聯、私はこれまでに何度となく見てきている、光眩い朝が王者に相応しい眼差しを投げ掛けて山脈の峰々を励まし、金色の光の箭を送り緑の牧場に挨拶の接吻を贈り、天空の錬金術を以て鉛色の流れを金色に変えるのを。だが、やがては真っ黒な不吉な雲が湧き上がって、醜悪なちぎれ雲となり、清浄な天の顔を覆い、戸惑っている世間から美々しい玉顔を押し隠すと、その汚辱を濯ぎもせずに、姿を見せる事もなく、こっそりと西への旅路を急ぐのを、私は見てきた。私の太陽たる友人もこれと同じで、ある日の早朝に眩いばかりの光を放って私の顔に輝いた、だが、何としたことであるか、私のものであったのはほんの一時間ほどであった、今は天の雲が彼を私から隠してしまった、だからと言って、私の強い揺るぎない愛情はいささかも彼を蔑むことはない、天の太陽が曇るのならば、この世の太陽だって輝きを失うのは必定なのだ。 批評家などの注釈によれば、詩人とその愛人たる青年との間に何か強い葛藤が生じて、これに続く数聯がその事件を廻っての連作と言う緊密さを有しているものらしい。 第三十四聯、何故に君は、素晴らしい一日が始まると言って、外套も着せずに旅に送り出しておきながら、黒雲を放って道中の半ばで私を捕らえさせて、その美々しい姿を瘴気(しょうき)の中に隠したのか、雲の間からちょいと覗いて、嵐に打たれた私の顔の雨水を乾かすと言うのでは、とても十分とは言えまい。傷は治すけれども、傷痕までは直さないなどとは、誰だってそんな軟膏を褒めるわけにはいかない、また、君の後悔が私の生々しい苦痛の薬になるわけでもない、たとい君が悔いたところで私が大変な損をしたことにはかわりはないさ。人を傷つけてから悲しんだところで、ひどい目に合わされて受難の十字架を負う者には、たいして慰めにはならない。ああ、だが、だが、君の愛が流すこの涙はさながら大粒の真珠だ、これはまさに値打ちもので、どのような非行でも贖(あがな)ってあまりある…。 所で、劇とは、ドラマとは、芝居とは何だろうか? シェークスピアは劇作の大大天才であった。端的に言ってその本質は「人間的である」ことにあるだろう。人間は自然に生きていると同時に、自己の生き方を含めた人間のあり方を自覚して楽しみたいと言う欲求に駆られる存在でもある。人間にとって一番の興味の対象は自己自身なのだ。劇、芝居は一種の儀式として自己を見つめ、自己を分析して、また客観的に自分を眺めて楽しむ娯楽でもあった。劇的とは人間的と同義語である。自分はあんなにも滑稽であり、時にはあれほどまでに正義感に燃え、殺人を犯し、人妻を誘惑し、王位を簒奪もする。賤しくも有り同時に高貴で清浄でもある、何て矛盾に満ちてバカバカしく、時には神にも等しく尊貴なのであろうか。プライドを無闇と気にかけるかと思えば、なんの理由もなく下卑て犬畜生にも劣る下賤な行為にも走る。一体、自分とは、人間とは何者なのであろうか…。詩人は、劇作家は、こうした人間的な好奇心からスタートして途轍もなく切り立った嶮峻なる山の高みへと至る。そこからの眺望がどのようなものであったかは、彼の創作した作品を鑑賞すればある程度までは理解可能だ。 このソネットでは、詩人と愛人兼友人たる美青年と、詩人の愛人と、黒の貴婦人と呼ばれる高級娼婦めいた謎の女性が主たる登場人物であるが、これはさながら下界の世俗社会を象徴する人物グループとも言え、そこに展開するドラマティックな葛藤・心理的衝突は人間界の縮図とも解釈できよう。この長編ソネットで詩人が目論んでいるのはフィクションだけでは描ききれなかった人間劇の発展系を現実の只中に別個に構築しようという、ある種壮大な計画の実践遂行なのであって、シェークスピアは並々ならぬ野望でこの冒険に果敢に挑戦し、見事に成功を収めている。私はいささか先走り過ぎてしまったようですが、これまでに誰もが実現できていない自由翻訳の代替物として、私は素人の立場から自由自在に視点を変えたり、玄人には難しい解釈を持ち込んだり、巨大な建築物に様々な視点からアプローチを試みて、傑作の傑作たる所以を殆ど詩や劇などにも関心を持っていなかった人々にも、改めて注目して頂くきっかけになればと、しかしながら私の関心は自分自身が半歩でも、四分の一歩でも大詩人の傑作世界に近づきたいが為のお気楽な道楽仕事を、心ゆくまで楽しむ所存なのです。世のため人の為を一応は標榜しながらも、元はしっかりと取っている、結構、お人好しだけではない酷暑の格好の消夏法でもあるわけですね、実際のところ。散文でさえ、意味は二の次で、言葉の調子、抑揚、リズム、高低など音の流れ等が主としたものであるわけで、韻律や詩歌は尚の事複雑多岐を極める世界ですから、どうぞ皆様方も悠長に構えて人間の言葉を堪能する一端として、このソネットの下手な解説を斜め読みなりしていただき、詩一般への関心と興味を深めて頂けたなら、これに過ぎる幸せはありません。 第三十五聯ですが、もうこれ以上君が行った事柄を悲しむのはよしたまえ、美しい薔薇には必ず鋭いトゲがあるし、清澄透明な泉にも泥の底が控えている。大空に輝く日や月にさえそれを翳らせる日蝕や月蝕があるのだ。こよなく美しい花のつぼみにも忌まわしい虫が潜んでいる。人は誰でも過ちを犯すもの、この私だってその例外ではいられない、君の罪を他と引き比べては正当な行為なりだなどと認知し、君の軽率な罪を言い繕って、私自信を堕落させている始末、何故なら君の罪を殊更に軽く判定して見過ごそうとするのだからね。その上に、君の官能の罪悪を助けようとてとっときの分別を呼び入れ、この君の敵である者を君の弁護人に仕立て上げ、私自身を相手に法に則って訴訟騒動を起こそうという始末なのだよ、私の大きな愛情と激しい憎しみとはさながらに内乱状態にあるのだからね。私から酷(むご)くも奪い取る優しい盗賊がいれば、私はすぐさまその共犯者にならずにはいられないのだよ。 全体の趣旨は、相手の罪を庇うように見せかけて、その実、痛烈な皮肉、恨み言を述べるもので、こういう屈折したレトリックはこの後でもしばしば使われる。 第三十六聯、私達ふたりの愛が目出度く合体して、一つになったとしても、私達二人はやはり個別の二人で変わりないことを認めよう、だから君、私の身に付きまとっている特有の汚名に関しては、当然に君の手を借りずに私一人が背負わなければいけないのだ、気にしないでいて呉れたまえ、私達の二つの愛には一つきりの目標しかないが、私達の人生には二人を絶対的に裂く忌まわしい距離、高級貴族と一介の座付き作者たる実に賤しい身分の差、がある、この事実はひとつになった愛の働きを変えたりはしないが、愛情の喜びの盃から楽しい時間を掠め取るくらいの悪さはするだろう、私はこれからは二度と君に挨拶などはすまい、この嘆かわしい罪が君に恥をかかせたりしてはいけないのでね、だからお願いする、君も人前では私に優しい素振りを見せないでくれ、君の名誉ある名前に疵をつけたりしてはいけないからね、どうか、そんな真似はやめてくれ、私は心の底から君を愛しているのだから、君自身だけでなくて、君の輝かしい名声も我が物にしたいのだ。 続いて第三十七聯、耄碌して老いさらばえた父親が、活気にあふれる我が子の若々しい振舞いを見て喜びを覚えるように、私も運命の女神に手酷く憎まれて、足萎えになりはしたが、君の優れた人柄と誠実な心に慰めを見出している。美と家柄と、富と知恵と、このいずれかが、又はこの全てが、或いはこれを超えるものが、君の美徳の最高主権者となり王座を占めようとも、この豊饒な徳の宝に私は自分の愛を接木するのだ。そうなればもう、私は足萎え、貧乏人、卑賎の身のどれでもない。こうした幻影が堅固な実体を作り出してくれるから、私は君の豊かさにすっかり堪能してあらゆる栄光に與りながら生きることになる、それゆえに最善の物が全て君に備わることを私は願うのだ、そう望みさえすれば私はもう十倍も幸福になるのだからね。 第三十八聯、私が信奉する詩の女神が題材に事欠くはずもない、何しろモデルとしては最高の君が現に生きていて、君という格好の美しい主題を私の主題に注ぎ込んでくれるのだから、これは、そこらへんのヘボ詩歌の中で、使用させるには勿体なさ過ぎる。ああ、ああ、君よ、私の詩の中で読むにたるものが目に止まったならば、その時は君自身に礼を述べてくれたまえよ、君自身が私の想像力に光明を与えてくれるのに、その君に対して黙りこくって何も書けない者などいるものか、いやしないさ、君は第十番目のムーサイになり、へぼ詩人達が呼びかける昔の九人の詩神達よりも十倍多い御利益を授けてくれ。そうして、君に祈りを授ける者にはこれからも長くこの世に残る不朽の名詩を産ませてやってくれ。私のか弱い詩神が気難しい当世人を楽しませるのなら、苦労したのは私であっても、賞賛を受けるべきなのは、君なのだ、そう、君なのだからね。
2024年07月30日
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悔(くや)しくも 老いにけるかも わが背子が 求むる乳母に 行かましものを(― 残念にも年をとってしまったことだ。若ければわが背子が求める乳母として行こうものを)うらぶれて 離(か)れにし袖を また纏(ま)かば 過ぎにし戀い 亂れ來(こ)むかも(― 恋する心もしおれて、離れ離れになってしまった恋人の袖をまた枕にしたならば、過ぎ去った思いがまた狂い乱れてくるであろうか)おのがしし 人死(しに)すらし 妹(いも)に戀ひ 日にけに 痩(や)せぬ 人に知らえず(― 人それぞれにその人らしい死に方をするものらしい。私は妹を恋して日益しに痩せてしまった、人に知らせることもせずに)夕夕(よひよひ)に わが立ち待つに けだしくも 君來まさずは 苦しかるべし(― 毎日日が暮れると私は門のところに立って待っていますのに、もしもあなたがお見えにならない時には、さぞ苦しいことでしょうね)生(い)ける代に 戀といふものを 相見ねば 戀の中にも われそ苦しき(― 生きているこの世で恋というものの正体が分からないので、恋の只中にいて私は苦しい)思ひつつ をれば苦しも ぬばたまの 夜になりなば われこそ行かめ(― あなたを思いながらお待ちしていると苦しくて耐えられません。夜になったならば私こそあなたのところに参りましょうに)心には 燃(も)えて思へど うつせみの 人目を繁み 妹に逢はぬかも(― 心の中では燃えて思い続けているけれど、世間の人の目が多いので、妹に逢えないことであるよ)相思はず 君はまさめど 片戀に われはそ戀ふる 君が姿に(― あなたは私など思わずにおいででしょうが、私は片思いをして、あなたのお姿をお慕い申しておりまする)味(あぢ)さはふ 目は飽かざらね 携(たづさは)り 言問(ことど)はなくも 苦しかりけり(― 目だけ見合わすことはいつもありながら、手を取り合って言葉を交わすことが出来ない事は苦しいこととつくずく思います)あらたまの 年の緒長く 何時(いつ)までか わが戀ひ居(を)らむ 命知らずて(― 年月長く何時まで私は恋に苦しんでいることであろう、命に限りがあることを知らずに)今は吾(あ)は 死なむとわが背 戀すれば 一夜一日も安けもなし(― 今はもう私は死にそうです、わが背よ、恋い焦がていると一日一夜も安らかな日はありません)白栲(しろたへ)の 袖折り反(かへ)し 戀ふればか 妹が姿の 夢(いめ)にし見ゆる(― 白栲の袖を折り返して寝て、妹が私を恋しているからか、その姿が夢に見えることよ)人言(ひとこと)を 繁みこちたみ わが背子(せこ)を 目には見れども 逢うよしも無し(― 他人の噂がうるさいので、わが背子を目には見るけれども逢う手段がない)戀ふといへば 薄きことなり 然れども われは忘れじ 戀は死ぬとも(― 恋と言えば何でもないことのようであるが、私はあなたを忘れまい。恋焦がれて死んでしまおうとも)なかなかに 死なば安けむ 出づる日の 入る別(わき)知らぬ われし苦しも(― いっそ死んだならば安楽だろう、恋の思いに心みだれて、昇る太陽が何時沈むのかも分からない私は、全く苦しい)思ひ遣る たどきもわれは 今は無し 妹に逢はずて 年の經ぬれば(― 気持を晴らす手段も今はもはやない、妹に逢わずに年が経ってしまったので)わが背子に 戀ふとにし あらし緑児(みどりこ)の 夜泣きをしつつ 寝ねかてなくは(― 小児のような夜泣きをして眠れないのは、わが背子を恋しているということらしい)わが命の 長く欲(ほ)しけく 偽りを 好(よ)くする人を 執(とら)ふばかりを(― 私の生命がどうか長くあって欲しい、当てにならないことを巧みに言う人を、捕まえることが出来るほどに)人言を 繁みと妹に 逢はずして 心の内に 戀ふるこのころ(― 他人の噂があれこれと煩いので、妹に逢わずに、心の中であれこれと思うこの頃である)玉梓(たまづさ)の 君が使を 待ちし夜の 名残(なごり)そ今も 寝(い)ねぬ夜の多き(― あなたの使を待っていた夜の名残で、それが習慣になって、今も眠れない夜が多いことです)玉鉾(たまほこ)の 道に行き合ひて 外目(よそめ)にも 見ればよき子を 何時(いつ)とか待たむ(― 道で行きあったときに、傍から見ても可愛い子だが、何時になったら当てにして待っていようか)思ふにし 餘(あま)りにしかば 爲方(すべ)を無み われは言ひてき 忌(い)むべきものを(― 思い余って、するすべもなく、私は恋人の名を呼んでしまった。口にすべきではなかったものを)明日(あす)の日は 其の門行かむ 出でて見よ 戀ひたる姿 あまた著(しる)けむ(― 明日はあなたの家の門の前を通りましょう、出て御覧なさい、私の恋にやつれた姿がはっきりと分かるでしょう)うたて異(け)に 心いぶせし 事計(ことはかり) よくせよわが背子(せこ) 逢へる時だに(― ますます変に気持が塞ぎます。わが背子よ、せめてお逢いしたいときだけでも事を上手く運んでください)吾妹子(わぎもこ)が 夜戸出(よとで)の姿 見てしより 心空なり 地(つち)は踏めども(―吾妹子が夜、珍しく戸口に出て立った姿を見てから、私の心は上の空です。地は踏んでいるけれども)海石榴(つば)市(いち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも(― 海石榴市のいくつにも道に分かれた辻で地を踏み鳴らして踊って、結びあった紐を、今解くには惜しいことだ)おのが餘の 衰へぬれば 白栲(しろたへ)の 袖のなれにし 君をしそ思ふ(― 私ももはや衰える年齢になったので、昔慣れ親しんでいたあなたのことを思います) 女から男への歌君に戀ひ わが泣く涙 白栲の 袖さへひちて 爲(せ)む爲方(すべ)もなし(― あなたを恋して私が泣く涙は白栲の袖まで濡れてどうにもなりません)今よりは 逢はじとすれや 白栲の わが衣手(ころもで)の 乾(ふ)る時もなし(― もう逢うまいとなさるわけではないでしょうに、白栲の私の袖は涙で乾く時もありません)夢(いめ)かと心はまとふ 月數多(まねく)離(か)れにし 君が言(こと)の通へば(― 夢ではないかと私の心はとまどいます、幾月も打ち絶えていたあなたから手紙をいただきましたから)あらたまの 年月かねて ぬばたまの 夢(いめ)にそ見ゆる 君が姿は(― 長い年月の間、あなたのお姿は私の夢に見えております)今よりは 戀ふとも妹に 逢はめやも 床(とこ)の邉(べ)さらず 夢(いめ)に見えこそ(― 今からは恋しく思っても妹に会うことが出来ようか、どうか床のべを去らずに夢に現れてください)人の見て 言とがめせぬ 夢にだに 止(や)まず見えこそ わが戀息(や)まむ(― 人が見て咎め立てすることもない夢にだけでも絶えず現れて下さい、そうすれば私の恋の心も鎮まるでしょう)現(うつつ)には 言(こと)は絶えたり 夢(いめ)にだに 續(つ)ぎて見えこそ 直(ただ)に逢ふまでに(― 現実には言葉の行き来は絶えてしまいました、せめて夢にだけにでも引き続き現れて下さい、縁あって直接にお逢いするまでは)うつせみの 現(うつ)し心も われは無し 妹も相見ずて 年の經ぬれば(― 人間の理性ある心も私はなくしてしまった。妹に逢わないで年が経ってしまったので)うつせみの 常の言葉と 思へども 繼(つ)ぎてし聞けば 心はまとふ(― あなたの言葉は世間でよく聞くお言葉だとは思いますが、何度もお聞きすると心は本当かと戸惑います)白栲(しろたへ)の 袖並(な)めず寝(ぬ)る ぬばたまの 今夜(こよひ)ははやも あけば明けなむ(― 白栲の袖を並べずに独りで寝る今夜は早く明けるのならば明けてほしい)白栲の 手本(てもと)寛(ゆた)けく 人の寝(ぬ)る 味寝(うまい)は寝(ね)ずや 戀ひわたりなむ(― 白栲の袖のたもとをくつろげて、他の人はぐっすり眠るのだが、私は眠れずにこのまま恋に悩み続けることであろうか)かくのみに ありける君を 衣(きぬ)にあらば 下にも着むと わが思へりける(― こういうお気持であったあなたを、着物なならば一番下に着ようと思っていたのです)橡(つるばみ)の 袷(あはせ)の衣(ころも) 裏にせば われ強(し)ひめやも 君が來(き)まさぬ(― ドングリ色の袷の衣を裏返しに着るように、あなたの気持がこちらに向かないならば、無理にとは申しませんが、あなたのおいでにならないことは、まあ)紅(くれなゐ)の 薄染衣(うすそめころも) 淺らかに 相見し人に 戀ふる頃かも(― 逢って気にも止めなかった人が、妙に恋しいこの頃である)年の經ば 見つつ偲(しの)へと 妹が言ひし 衣の縫目(ぬひめ) 見れば悲しも(― もし今度の旅が長年に渡るようならば、見て私を思い出して下さい、そう言った妹の言葉が衣の縫い目を見ると思い出されて、恋しいことだ)橡の 一重(ひとへ)の衣(ころも) うらもなく あるらむ兒ゆゑ 戀ひわたるかも(― あの子は単純で何の屈託もないのであろうが、私は恋しさにあれこれと悩んでいることであるよ)解衣(とききぬ)の 思ひ亂れて 戀ふれども 何の故そと 問ふひともなし(― 私は解衣が乱れるように思い乱れて恋に苦しんでいるけれども、どうしたのだと尋ねてくれる人もいない)桃花褐(つきそめ)の 淺(あさ)らの衣 淺らかに 思ひて妹に 逢はむものかも(― 浅い気持ちで妹に逢うでしょうか、逢いはしません)大君(おほきみ)の 塩焼く海人(あま)の 藤衣(ふじころも) なれはすれども いやめずらしき(― 大君の塩を焼く海人の藤衣がナレるように、馴れはしても恋しい人にはいよいよ逢いたいものです)赤絹(あかきぬ)の 純裏(ひつら)の衣 長く欲(ほ)り わが思ふ君が 見えぬ頃かも(― 交わりが長くあれと思うあなたがお見えにならないこの頃です)眞玉つく 遠近(をちこち)かねて 結びつる わが下紐(したひも)の 解くる日あらめや(― 今から将来にかけて変わらない事を固く言い交わして、結んだこの下紐が、解けてしまう日があるでしょうか)
2024年07月29日
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第二十五聯、運命という星のめぐりに恵まれている者達には、その公の栄誉や、華やかな肩書きを自慢させておけばよいさ、彼等はそれが唯一の生きがいなのだからね。私は生憎と運命の回り合わせでそのような栄達や名誉などとは無縁な存在だ、思いがけなくもこの世で最高の光栄に浴し享受し得ている、偉大なる王侯の寵臣達が美しい葉を広げるのは、太陽の日差しを豊かに受けた金盞花(キンセンカ)の様なものにしか過ぎない、いずれはその華やかな姿も隠れ、埋もれてしまう、玉顔が曇れば栄光の最中にいたとしても早晩は没落してしまうのだからね。武勲の誉れ高い百戦錬磨の老練な戦士が、百千の輝かしい勝利を収めた後で、一度でも敗北すれば忽ちに完全に栄誉の序列から外されてしまい、辛苦の挙句に立てた手柄などみんな忘れられてしまう、とすれば、愛し愛されている私などは、幸福そのものではないか、この至福の愛から外れることも、外されることもないのだからね。支配と服従の関係ではなくて、愛する主体と愛される主体が同列の資格を持って並び立っているのだから。 此処で詩人は、支配と服従を事とする君臣の関係の脆弱性と脆さを指摘して、青年との愛情が完全に成就して安定している恋愛関係とを比較して、静謐でさえある相思相愛の仲をさり気なく述べている。この辺の呼吸を読み取らなければこの類稀なる長編詩を味読する壺を外してしまうことになってしまい、山あり谷ありの対比のバランスを、その絶妙さを見失ってしまいかねない。美しい青年と詩人との恋は既に安定期に入っており、その恋愛関係は永遠であるかの如き様相を呈している。そう明瞭には表現されてはいないけれども、一瞬は永遠であり、久遠は束の間なのである。 シェークスピアの傑作十四行詩の連作であることを常に念頭に置いて読み味わうのが肝要なので、それさえ忘れなければ間違いなくこのソネットの精髄を味わい得ないはずのないこと。余計なことは考えないで、真の詩人が巧みに表現している、或いは表現の裏に含みとして暗示している言外の表現されていない 表現 を読み損なわないように丹念に読み進めば、われわれは間違いなく美酒に酔うことが約束されている。詩の醍醐味を心ゆくまで飲み干したいものですね。 第二十六聯、所で、君よ、わが愛の対象である君主様よ、君の人柄が余りにも立派だから、その故に私は自ら進んで臣下としての当然の礼をとり、衷心からの忠誠の誠を捧げている。そして、その君主たる君に向けてこのような書状での口上を進呈するのは、私の二つとはない忠誠の心を示す為であり、持ち前の文才をひけらかそうが為ではないのだよ。私の忠誠心は特別に大きいのだが、あいにく知恵の方が貧弱で、相応しい表現の言葉が出てこない始末、それでご覧の如くにハダカも同然の恰好をしている。君が親切に目をかけてくれて、この丸裸の奴を心に留めていてくれると嬉しいのだがね、どれであるかは知らないのだが、私の人生の幸福な旅を導く星がいずれは吉相を帯びて、この上もなく有難い光を私に注ぎ、今は襤褸をまとっている愛情にまっとうな着物を着せて、君主たる君に見てもらうに相応しい姿にしてくれるに違いない。そうなれば、君を愛していることも公然と、大威張りで口にできる、それまでは君に公認されないような場所には私は顔を出さないでいるつもりなのさ。 第二十七聯、私は急な旅に出て、くたびれ果てて寝床に急ぐ、長い旅路で疲れた肉体を、手足を休めるために、ベッドにつくのだ、所が、それからが大変なことになる、頭の中、脳髄の旅が自然に始まり、肉体の仕事が終わっているのに、心が、精神が活発に働き出し活動を止めないのだよ、詰まり私の魂は今いる場所を勝手に抜け出しては、御熱心にも愛する、敬愛する御主人様たる君の許へと巡礼を始めているだ、イマジネーションの世界での楽しい旅が展開する、私の想像力が垂れ下がってくる目蓋を大きく見開かせ、盲者が見ているであろう様な真の闇を見詰めさせるのだ。ただ、私の魂、意識、心、精神が作り出す架空の視力が、この視力のない眼に君の美しく香しい姿を浮き上がらせてくれるのだ。それは恐ろしい夜の中に宝石のごとく神々しく浮かび、黒い夜を宇宙一の美人に変え、その老いた皺だらけの顔を瑞々しく若返らせる、ねえ、君、こんな風であるから、昼間は旅のために手足が休まらず、夜は君を思って心が、心臓が休まらない私なのだよ。 詩人は書いてはいないのだが、旅で手足を忙しく働かせている昼でも、彼は心を、精神を、魂を働かせて恋人を脳裏に描き、恋焦がれてることに変わりはない、詰まりは、全身全霊を捧げ尽くして美青年を想い、恋焦がれている、当然に命懸けで。私、古屋克征は万葉集の現代語訳をしているが万葉人も恋の想いに心を焦がし、命など失っても構わない、などと、恋の苦しみ、即ち恋情の歓喜を逆説的に表白してやまないのですが、古今東西、人のこの世での想いの大半は恋人をやるせなく思いやる恋心に尽きていると感じる今日この頃です。 恋愛の成就はそのままでハッピーエンドには至らない、そこからが本当の恋の苦しみが、歓喜が始まるわけで、悲恋も得恋も同じ地獄の苦しみを内部に包含しているなどと、知った風な事は言うまいと自戒したのですが、私のような幸福長者を吹聴している者でも、最愛の妻に先立たれて茫然自失して今日に至っているが、今でさえ ただに逢う ことを夢想してやまないのですから、恋は死んでも終わらない、実際の話が。 それにつけても、遊びをせんとや 生まれけん、と歌った言葉が忘れられません、遊びの、人生の遊びの頂点には恋愛があって、人は誰も恋を、愛を夢見て明日を生きるのでありましょう。私の敬愛する能村庸一氏は「仕事を、時代劇をプロデュースすることを、玩具にした」と豪語されましたが、仕事が対象であれ、異性が対象であれ、熱愛しなければ事は始まらないわけで、恋愛は人間であることの一番の証なのでありましょう。子供は自然に遊びを覚え、大人は自ずから恋愛に目覚める。それがどのような喜びや悲しみ、苦痛をもたらそうと私たちは猪突猛進して恋愛と言う激烈な嵐に突き進むしか他に生きるすべを知らないのですね。 恋愛を、恋を熱病の一種として忌み嫌おうと、恋に恋する清純な乙女の如くに神聖視しようとも、その実態は実行者の受け止め方次第で様々、色々に変化してさながら百面相の如き様相を呈するであろうことは想像に難くないのであります。 第二十八聯ですが、かくして遂に休息の恩恵にあずかれぬ私は、どうして元気溌剌として帰還出来ようか、昼の苦しみが夜に癒される健全な状態ではなくて、昼は夜に、夜はまた昼に攻め苛まれる、昼と夜がそれっぞれに互いの統治に敵対しているくせに、私を悩ませる目的の為には仲良く手を握って、昼は労役を課し、夜は嘆きの言葉を吐かせるのだよ、君からは遠ざかる一方の旅なのだが、目的地が何処になるのか、と。私は昼の機嫌をとって愛する君の話をする、彼は光り輝いているから太陽が雲に隠されたとしても、昼よ、お前の面目はたとうよ、と。また同様に黒い顔の夜にもお世辞を使って、煌く夜空の星々が消えたとしても、最愛の彼が夕空を輝かせてくれるさ、と言ってね。だが、しかし、昼は日毎に私の悲しみを長引かせ、夜は夜毎に、悲しみの長さを尚更に辛くする。 第二十九聯では、幸運の女神にも世の人々にも見捨てられて、私はただひとり劇団の座付き作者たる賤しい地位と言う実に惨めな身の上を日頃嘆いているが、益(やく)もない叫び声を上げたりしているのだが、元より聞く耳など持たない天を悩まし、つくずくと我と我が身を眺めては、己の生まれきたった運命を呪いに呪い、先行きの見込みに恵まれたあの人のようになりたいとか、美貌が欲しい、優れた友人に与りたいものだ、果てはあの男の学職を求め、彼の男子の豊かな才能を望み、周囲の誰彼を羨んでは私の一番に秀でた長所さえ、もっとも飽きたりなくなってしまう、まるでこの世での羨望地獄の亡者ではないか、しかしながら、こんな通俗極まりない思いで自分自身に愛想が尽きかけると、幸いなことに私は、恋人よ、世界一の美貌を誇る君の事を思う。するとどうだ、わが暗かった心は、夜明け方に暗黒の大地から舞い上がる、揚雲雀さながらに天上の門口で優雅に讃歌を歌いだすのだ、君の美しい愛を心に思い描くときに、素晴らしい地上の富を授けられるから、たとえ富強を誇る王侯貴族とだってその身分を取り替えるのはお断りだと、忽ちに奢り高ぶり傲岸不遜になってしまうのだよ、君、君。 詩人は強烈な自己嫌悪に駆られながらも、美青年との恋の成就故に辛うじてこの世に命を、希望の光を、生きる勇気を、活力を与えられ、明日へと生命をつなぐかに見える。シェークスピアの豊かな天分を以てしてさえみすぼらしく、貧弱な現実、私などは現実は元来が貧弱なのであり、酸欠状態の不満足極まりない不毛地帯なのだなどと、先走ってしまいそうになるのですが、王侯貴族に勝る素晴らしい地位などは、この俗世界には有り得ない。それが万人の認めるこの世での現実というものである。詩人は天才という翼に乗って広大無辺の天上界を自由気ままに飛翔して、神々にも勝る自由と喜びを恣にする。天界と地上とを存分に行き来して、我が世の春を謳歌する。これ以上の豪華絢爛は想像すら出来ないだろう、これ以上の華麗さも、これ以上の満足も人間としては考えられない、だが…。 第三十聯では、優しさと静寂に囲繞された心の想いという「法廷」に、既に過ぎ去った思い出の数々を召喚してみると、私が求めていた数々の物が欠けているのに嘆息を漏らし、古い悲しみを思い、貴重な人生の時間がただ虚しく徒らに過ぎたのを、新たに嘆く。さらには死の向こうに去った大切この上ない友達を忍び、普段は滅多に泣かぬ眼にも涙を溢れさせる。とうの昔に帳面上から消してしまっていた愛の苦しみを、また思い浮かべて泣き、多くの消えていった貴重な物達の損失を思い浮かべては嘆き、また同時に、私は往にし昔の悲しみを思って悲嘆にくれ、暗澹たる気持で苦痛のひとつひとつを数え上げてみる、既に嘆き終えた悲嘆を淋しく精算して、もう支払いが済んでいるのに、改めて支払いなおす…、しかし、愛する友よ、そんな時に君を憶うと全ての損失は埋め合わされ、悲しみが終わるのだ。 第三十一聯、もう見かけることもなくなり、死んだと思っていた人々の心を全て収めて、君の胸は貴重なものとなった、そこを統治するものは愛、貴重で優しい愛の特性のすべて、そして、墓場に埋められた筈の友人達の全部である、切なくも、敬虔なる愛の心が、この私の眼からどれほどか神聖な哀悼の涙を流させたことだろう、涙は死者が受ける権利なのだから。その彼等が今は、ただ場所を移して君の中に隠れているとしか思えないのだ、君は埋葬された愛の数々が現に生きている墓なのだよ、そこには嘗ての友人達の記念品も飾られいる。死した友人達は私が過去に与えた分を全部、君に与えたのだ、だから、多くの人の取り分が今は君ひとりの物になった、私の愛した人達の姿が君の中に見える、君は彼等の全てだから、私の全てをひっくるめて全部所有しているのだ。
2024年07月26日
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里近く 家や居(を)るべき このわが目 人目をしつつ 戀の繁けく(― 里近くに住むものではありませんね、人目を気にしながら恋心は募るばかりです)何時(いつ)はなも 戀ひずありとは あらねども うたてこのころ 戀し繁しも(― 何時の日何時の時も、恋しく思わないということはないけれども、この頃ますます恋心が激しいのです)ぬばたまの 寝ての夕(ゆうべ)の 物思(ものもひ)に 割(さ)けにし胸は 息(や)む時もなし(― 共に寝た翌日の夕方、またお会いしたくて張り裂けてしまった胸は、、何時までも収まる時がありません)み空行く 名の惜しけくも われは無し 逢はぬ日まねく 年の經ぬれば(― 大空を高く行くような立派な名などは私は惜しくはない。恋人に会わない日が多いままで年が経て行くので)現(うつつ)にも 今も見てしか 夢(いめ)のみに 手本(たもと)纏(ま)き寝(ぬ)と 見れば苦しも(― 現実に今妹に逢いたい、妹と寝ると夢にだけ見るのは苦しい)立ちて居(ゐ)て 為方(すべ)のたどきも 今は無し 妹に逢はずて 月の經ぬれば(― 立っても坐っても、何とも心持を落ち着けようがありません、妹に逢わないで月日が経ってしまったから)逢はずして 戀ひわたるとも 忘れめや いや日にけには 思ひ益(ま)すとも(― お逢いせずに恋しく思っていることはあっても、あなたを忘れることはありません。いよいよ日増しに恋しさは増しますけれども)外目(そとめ)にも 君が姿を 見てばこそ わが戀止(や)まめ 命死なずは(― よそながらでもあなたの姿を見たら、それでこそ私の恋の気持は鎮まるでしょうに、もしそれまでに恋の苦しさで命が絶えることがなければ)戀ひつつも 今日はあらめど 玉匣(たまくしげ) 明(あ)けなむ明日(あす)を いかに暮さむ(― 今日は恋しく思いながらもこのままいられるだろうが、明けての明日をどう暮らそうか)さ夜ふけて 妹(いも)を思ひて出(で) 敷栲(しきたへ)の 枕もそよに 嘆きつるかも(―夜更けて妹を思い出し、枕も動いて音を立てるほどにため息をついてしまった)人言(ひとごと)は まこと言痛(こちた)く なりぬとも 彼處(そこ)に障(さは)らむ われにあらなくに(― 人の噂はあれこれとうるさくなったけれども、そうなってもそれに妨げられる私ではありません)立ちて居(ゐ)て たどきも知らず わが心 天(あま)つ空なり 土は踏めども(― 立っても坐っても物に手がつかず、私の心は上の空です。足は土を踏んでいるのですが)世の中の 人の言葉と 思ほすな まことそ戀ひし 逢はぬ日を多み(― 世の月並みな言葉と思いくださるな、本当に恋しかったのです。お逢いしない日が多くて)いで如何(いか)に ここだく戀ふる 吾妹子(わぎもこ)が 逢はじと言へる こともあらなくに(― どうして私はこんなにひどく恋しいのか、吾妹子が、もう会わないと言ったわけでもないのに)ぬばたまの 夜を長みかも わが背子(せこ)が 夢(いめ)に夢にし 見えかへるらむ(― わが背子が幾度も幾度も夢に繰り返し現れるのは、夜が長いからであろうか)あらたまの 年の緒長く かく戀ひば まことわが命 全(また)からめやも(― 年月長くこう恋に苦しんでいたら、本当に私の命は危ういだろう)思ひ遣(や)る 爲方(すべ)のたどきも われは無し 逢はずてまねく 月の經ぬれば(― 心を慰める何の方法も私にはない、恋しい人に逢わずに多くの月が経過したので)朝(あした)去(ゆ)きて 夕(ゆうべ)は來ます 君ゆゑに ゆゆしくも吾(あ)は 嘆きつるかも(― 朝はお帰りになって、夕方にはおいでになるあなたですのに、ゆゆしくも私はため息をついてしまいました)聞きしより 物を思へば わが胸は 破(わ)れてくだけて 利心(とごころ)もなし(― 恋人の噂を耳にしてから、心配なので私の胸は割れて砕けて、確かな心もすっかり失せてしまった)人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み 吾妹子(わぎもこ)に 去(い)にし月より いまだ逢はぬかも(― 人の噂があれこれとやかましいので、吾妹子に先月から一度も会っていない)うたがたも 言ひつつもあるか われならば 地(つち)には落(ふ)らず 空に消(け)なまし(― きっと、こう言っているのだなあ、私なら地に降りたりせずに空中で消えたでしょうに、と) 状況がよく分からにので、確実な解釈は困難である。如何(いか)ならむ 日の時にかも 吾妹子が 裳引(もびき)の姿 朝に日(け)に見む(― 何時になったら吾妹子の美しい裳を引いて歩く姿を、朝に昼に、見ることが出来るであろうか)獨り居て 戀ふれば苦し 玉襷(たまたすき) かけず忘れむ 事計(ことはかり)もが(― 独りいて恋しく思っているのは苦しい、心に懸けずに忘れてしまう方法がないだろうか)なかなかに 默然(もだ)もあらましを あづきなく 相見始(そ)めても われは戀ふるか(―いっそ何もしないでいれば良かった、逢いそめてしまって私はどうにもならず、恋の虜になっていることだなあ)吾妹子が 笑(ゑま)ひ眉引(まよひき) 面影に かかりてもとな 思ほゆるかも(― 吾妹子の笑顔と眉とが面影に立って、目の前にしきりにちらちらとして仕方がない)あかねさす 日の暮れぬれば 爲方(すべ)を無み 千遍(ちたび)嘆きて 戀つつそ居る(― 日が暮れていくと、するすべもないので、千遍も溜息をついてあなたを恋しく思いこがれています)わが戀は 夜晝(よるひる)別(わ)かず 百重なす 情(こころ)し思へば いたも爲方(すべ)なし(― 私の恋心は夜と昼の区別もなく、しきりに相手を思っているので、何ともするすべがない)いとのきて 薄き眉根(まよね)を いたづらに 掻(か)かしめつつも 逢はぬ人かも(― 特別に薄い眉をいたずらに掻かせておいて逢って下さらないあなたですね)戀ひ戀ひて 後も逢はむと慰(なぐさ)もる 心しなくては 生きてあらめやも(― 恋い続けていつかはお逢い出来ようと自ら慰める心がなかったら、どうして生きていることができましょうか)いくばくも 生(い)けらじ命を 戀ひつつそ われは息(いき)づく 人に知らえず(― この生命はいくらでも生きるものではないだろうに、恋に苦しみながら私は溜息をついている。その人に知らせずに)他國(ひとくに)に 結婚(よばひ)に行きて 大刀(たち)が緒も いまだ解かねば さ夜(よ)そ明けにける(― 遠い部落まで女に会いに行って大刀の緒もまだ解いていないのに、夜が明けてしまった)大夫(ますらを)の 聰(さと)き心も 今は無し 戀の奴(やつこ)に われは死ぬべし(― 大夫たる理性も今はない、恋の奴隷として私は死ぬに相違ない)常斯(か)くし 戀ふれば苦し 暫(しまし)くも 心やすめむ 事計(ことはかり)せよ(― いつもこうして恋しているのは苦しいから、しばらくの間でも心を安んじる方法を講じてください)おぼろかに われし思はば 人妻に ありとふ妹に 戀つつあらめや(― なまなかに私が思っているのなら、既に他人の妻である妹を、私は恋し続けているだろうか)心には 千重に百重に 思へれど 人目を多み 妹に逢はぬかも(― 心の中では千重にも百重にも思っているけれども、人目が多いので妹に逢わずに機会を待っているのです)人目多み 眼こそ忍ぶれ 少くも 心のうちに わが思はなくに(― 人目が多いので、お会いすることは控えておりますが、決して、心の中で少ししか思っていないのではありません)人の見て 言咎(こととが)めせぬ 夢(いめ)にわれ 今夜(こよひ)至らむ 屋戸(やど)閉(さ)すなゆめ(― 人が見ても咎め立てしない夢の中で、今夜あなたの家に行きましょう。必ず家の戸を閉めないでおいて下さい)いつまでに 生(い)かむ命そ おぼろかに 戀ひつつあらずは 死なむ勝(まさ)れり(― 何時まで生きる生命であろうか、なまなかに恋に苦しんでいないで、死んでしまう方がましだ)愛(うつく)しと 思ふ吾妹(わぎも)を 夢(いめ)に見て 起(お)きて探るに 無きがさぶしさ(― 可愛いと思う妹を夢に見て、目覚めて闇を探っても、誰もいないのが寂しい)妹と言はば 無禮(なめ)し恐(かしこ)し しかすがに 懸(か)けまく欲しき 言(こと)にあるかも(― あなたを妹と呼んでは無礼だし、勿体ない。しかし、その言葉は口に出して言いたい言葉ですね)たまかつま 逢はむといふは 誰(たれ)なるか 逢へる時さえ 面隠(おもかく)しする(― 逢いたいと言うのは誰なのですか、せっかく逢っている時までも顔を隠したりして)現(うつつ)にか 妹が來ませる 夢(いめ)にかも われか惑(まと)へる 戀の繁きに(― 現実に妹が来たのであろうか、それとも夢で私が戸惑ったのであろうか。あまりに恋心がしきりなので)大方は 何かも戀ひむ 言擧(ことあげ)せず 妹に寄り寝む 年は近きを(― 普通ならばどうして恋に苦しむことがあろう、あれこれ言わずに妹に寄り添って寝る年は近いのだから)二人して 結びし紐を 一人して われは解き見じ 直(ただ)に逢うまでは(― 二人で結んだ下紐を私は一人では解かないつもりです。あなたに直接に会うまでは)死なむ命 此(ここ)は思はじ ただしくも 妹に逢はざる 事をしそ思ふ(― きっと死ぬ命、このことは心にかけますまい、ただしかし、妹に逢わないことだけが心にかかっています)手弱女(たわやめ)は 同じ情(こころ)に 暫(しまし)くも 止(や)む時も無く 見てむとそ思ふ(― たおやかな女である私は、あなたと同じ気持で、しばらくも止む時もなく、あなたを見たいと思っています)夕さらば 君に逢はむと 思へこそ 日の暮るらくも 嬉しかりけり(― 夕方になったらあなたにお会いできると思うからこそ、日の暮れていくのが嬉しいのに)直(ただ)今日も 君には逢はめど 人言(ひとごと)を 繁み逢はずて 戀ひ渡るかも(― 今日すぐにでもあなたにお逢いしたいけれど、人の噂がうるさいのでお逢いせずに恋しく想い続けておりまする)世のなかに 戀繁けむと 思はねば 君が手本(たもと)を 纏(ま)かぬ夜もありき(― 恋心がこんなに激しいものとは知らなかったので、あなたの袂を枕にしない夜もあったのです)緑児(みどりこ)の 爲こそ乳母(おも)は 求むといへ 乳飲(ちの)めや君が 乳母求むらむ(― 幼児の為にこそ乳母を探し求めると言うけれど、あなたは乳を飲む筈もないのに、どうして乳母を探し求めるのでしょうか)
2024年07月24日
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第十九聯、あらゆる物を喰らい尽くす獰猛極まりない時間よ、その獅子の如き牙をすり減らしてしまえ、大地に彼自身の愛しい子供達を食らわせてしまえ、獰猛な虎の顎(あぎと)からその鋭い牙を抜き取ってしまえ。永遠の命を忝くする不死鳥を生きたままで焼いて料理してしまえ、俊足で駆け過ぎながら四季を楽しくも悲しくも変幻自在に変化させるがよかろう、足の速い時間よ、この広大な世界や様々な儚い美にすき放題に片端から手をつけてもよいが、ただ一つ注文があるだ。この世で最も忌まわしい罪悪だけは犯してはいけない、そう、この世で最も美しい、愛する者の涼やかな額にお前の忌まわしい醜悪な刻印を刻んではだめだ、その奇っ怪至極なペンで以て線を書き付けるなどはもってのほかだ。あの美青年だけは、後世の人々に残す美の規範だと考えてくれたまえよ、頼む。酷薄な時よ、お前が瞬時に過ぎ去る際にも手をつけないでおいてくれ。しかしながら、時よ、暴虐非道の暴君よ、私の声になど耳をかさないだろう、私にも考えがある、老いさらばえた醜い時よ、時間よ、お前がどのような勝手し放題を続けようとも、私は私の美の偶像を最後まで守り通して見せよう、わが恋人は、美の青年たる彼は私の詩の中では永遠に若さを保ち続けるのだよ、お前がどのような事を仕掛けようとも。 第二十聯、君の美しい顔は自然という女神が彼女自身で描き上げた美しい女の顔だが、私の詩的な情念を司る、男の恋人なのだよ、君は、確かに。女性の特性である優しい心根はあるが、不実な女どもの習いでもある軽薄な移り気などは、ついぞ預かり知らない。ああ、君の眼は太陽同様に明るく健康な光を放ち、女達などよりもずっと魅惑に満ちた光を投げかけ、見詰める相手を忽ちに金色に染めて魅惑してしまう、絶対にあちこちに不実で淫らな流し目などはくれたりしない。見た目の姿かたちはさながらに男なのだが、全ての美々しく香しい形を内側に蔵している。それ故に、その容貌が男達の眼を奪い、女達の魂を蕩(とろ)かし迷わせる、実際、君は最初は女神自身の似姿として女として創られた、しかし自然は君を創造している最中(さなか)に恋に落ちてしまい、余計な物をくっつけて、私から君を奪ってしまったのだ、私には零(ゼロ)でしかない一物をくっつけて。だが、自然という女神は女性としての楽しみの為に君を造ったので、私としての楽しみは君の愛情なのだよ、君、ああ、君、君、そして愛の実践と実習こそが女達の宝物となるのだよ。 詩人は、シェークスピアは美青年を独り占めになどするつもりはない、恋のライバルは美の女神のヴィーナスその人なのだ、現実に俗界の女性達との通常の結婚を最初から推奨してもいた。しかし、何たる奢り高ぶり、であろうか。人間の身でありながら、神を、女神を相手にしようとするなどとは……。彼は、自分を神の一族であると認定しているのである。彼が熾烈な情欲に身を焦がしていても、彼の詩想の中で表現され描かれる青年像は飽くまでも清浄であり天上の美に近い。清浄無垢な愛情の交換こそ、詩人の狙っている真の プラトニックラブ なのでありました。彼は、詩人は、彼の描く青年像こそ男女の生別を超越した真実の愛情の理想像であることをソネットを創作する以前に確信していた、私にはそうとしか思われない。 私はシェークスピアの戯曲を通じてその天才を窺い知り、ソネットの魅力を十分に理解したいものと様々に努力したけれども、隔靴掻痒どころか、二階から目薬を挿すかの如き歯がゆさで足踏みしていた時期がありました。今回も、不十分で、満足な成果を挙げられる見通しなどたってはいなかったのですが、兎に角、シェークスピアのソネットへのオマージュとして拙いながらも原文へのアプローチとして、意味だけではなくて、雰囲気だけでも嗅ぎ分けようと悪戦苦闘してみているわけですが、私としてはベストの消夏法とも考えて実行している次第です。どうぞ、応援していただけたら、これに勝る幸せはありません。 第二十一聯、私の流儀は世間一般でもてはやされている詩人達とは相違している、彼等のは実に醜悪で俗っぽい厚塗りの所謂「美人」をモデルにして絵を描いているし、大仰にも天空全体を文章の彩として使用しては、自己の鑽仰する俗悪な恋人を語るに際して、全世界にある美の数々を比喩として引き合いに出し、太陽と月、大地や海洋から採掘される宝石類や、四月の早咲きの花、更にはこの巨大な天球と言う空間が抱えているあらゆる珍奇な品々を用いては、ド派手な比喩を組み立てて、無理矢理にもこじつけて見せるのだからね。ああ、私に言わせれば、真実の愛を捧げて、書くときも真実のみを言わせてもらおうか。つまり、こうなるのだが、私の恋人たる美青年は夜空にかかる、あの黄金の星々ほどには明るく輝きはしないが、兎に角、どのような人にも負けない美しさは持っている、実態とかけ離れた誇張法が好きな者には自由に振舞わせるにしくはない、私は愛する恋人を故意に売り立てる意図はないので、有りもしない能書きも並べ立てたりはしない。 第二十二聯、花ざかりの青春が君と一体である限りは、私の見る自惚れ鏡がどう言おうとも、私は老人だとは思わない、しかし、君の顔にもしも時間が刻む無残な皺を見る時が到来したならば、私は観念するつもりではいる、死に神が私の一生に決着をつける時も近いと。即ち、君を衣装のように美しく包み込んでいる美麗さは、そのままで私の心、精神、魂を覆い込む見事な衣装そのものなのだ、何しろ美の精髄は君の胸に生々しく生きているのだからね、あたかも君の心が僕の心臓が、若々しく鼓動をし続ける胸の中で確実に生きているのだから、と言う事は、私だけが先に老いるなどという馬鹿な現象が起きるはずもないのだ。ああ、君よ、愛する、敬愛する恋人よ、よくよく自身の身体をいたわってやって呉れ給え、私自身も勿論、自分のためにではなくて心から愛する君の為にこそ十分に気をつけよう、私の心はしっかりと君の大切な心を抱いて離さないのだから渾身の力を以て、気をつけて世話をしようよ。優しく老練な乳母が大切にして預かっている乳飲み子を愛育するが如くに、君がもし、私を刺殺して君の心を取り戻そうとしたって手遅れなのだ、言うまでもないことだね、我々が愛をちぎった際に君の心の全部を余すところもなく全部を僕にくれてしまった以上は、返還する条件等は金輪際ないのだからね、君、君…。 此処で、恋人と互の心を交換するという表現は当時の詩的な慣習であり、詩人はそれに従って表現しているに過ぎないのだが、相手の青年が一時の激情に駆られて軽はずみな行為をしてしまったことを後悔して、刃傷沙汰を起こすのではないかと懸念する心根は、不安に常に苛まれている得恋者特有の心情を有りの侭に吐露しているだけで、極ありふれた心境である。私には身丈にあった得恋は素直に理解できても、神とも仰ぐ対象を無事に獲得し得た恋の一時的な勝利者の、その後での心の揺らめき動揺、不安、猜疑心などなど、地獄の如き心のざわめきは想像するだけで精神に異常を来たしそうで、実際にはそんな勇気も、敢闘精神も持ち得ない。恋の勝利者になどなりようもない事で、フィクションですら十分すぎるほどに衝撃が大きすぎる。 屁理屈を述べれば、私などは自分の心でさえ十分に理解できていないし、まして恋人の不可解な心理などとんと理解が及ばない、混乱に動揺を加えてノミの心臓に好んで大打撃を加えるなどという暴挙を敢えてする勇気などは持ち合わせていない。しかし、恋愛などという異常心理にはそれが特別に必要であり、そう言う道具立てがなくては成立しない特別な、精神世界なのでありましょう。私には生来、恋に恋する等といった小粋に見える世界は無縁の無粋ものでありまして、素敵だなとと感じた瞬間に本能的にその女性から距離を置こうとする傾向があって、前世ではさぞかし無謀なドン・キホーテ的な恋の冒険で大怪我をした無意識下の恐怖感がそうさせていたのか、最愛の妻悦子との出会いに至るまでに、それこそ大過なく過ごせたのは神仏のご加護の賜物と後から気づいては、遅まきながらも感謝しているような次第でして、大詩人のソネットの世界で擬似的に相思相愛の恋人を体験して、稀有な大恋愛を追体験するのもまた一興であろうと、例年にない酷暑の時期を比較的にしのぎやすく過ごそうと目論んでいて、目下のところそれが成功している感じなので、誠に有り難い事と心の中で感謝をしながらこのように拙い文章を綴っている次第なのでした。 扨、二十三聯ですが、こう始まる、素人丸出しの未熟な演技者が舞台上に出現すると、恐怖心に煽られてしまって自分の役柄をすっかり忘れてしまうものだ、熱しやすいヘボ役者がむやみやたらに興奮すると、勢いだけが先走ってしまい、気持が負けてしまう、私はそんなウブで舞台慣れしていない素人の役者そのものなので、自分に自信が持てないものだから、恋人を脳裏に思い浮かべると愛の儀式の口上を型どおりに述べたてるのを失念してしまう。自分の愛情の力という重圧に押しししがれて、自己の愛の重さに心が自然に萎えてしまうらしい、そうであるからこそ、わが創作する詩は自ずから語らんとする胸の内を、言葉巧みに伝える無言の使者であってほしい、そうすれば、より多くを巧みに言いなす多弁な舌よりも、更に見事に私の愛情を過不足なく訴え、愛の報いをもとめるだろうからね。さあ、君よ、私の沈黙の愛が書いたものを存分に読み取って呉れたまえ、耳ではなくて、目で聴くことこそ愛の世界が生んだ素晴らしい知恵なのだ。 第二十四聯、例えば私の眼が画家を演じて、君の素晴らしい容姿を我が画布の中に描くとしようか、私の肉体全体がこの傑作を枠組みとして支えている、この絵は特殊な遠近画法を使用したもので、史上最高の画家の手になる作品なのだ。君の真の肖像の真価を伺い知るには、この画家を通して彼の技法を知らなくてはいけない、このこの世の至宝とも称すべき絵は常に私の心の画房に掲げられており、その窓には君の眼と言うガラスが嵌っている、其処では目と目がどんなに互を支えあっているか、点検してもらいたい。私の目が君の姿を描き、君の目は私のために私の胸の明かり取りの窓となり、その窓を通して大空の太陽が楽しげに覗き込み、室内に居る君を見つめると言う次第なのさ。だが残念ながら目には芸術の芸を引き立てる肝心な技術が欠如している、と言う事は、見たものだけを描くだけで、対象の心が読めないのだよ。
2024年07月23日
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倭(やまと)の室原(むろふ)の 毛桃本(もと)繁(しげ)く 言ひてしものを 成らずは止(や)まじ(― 大和の室原の毛桃の幹の繁く立つように、繁く言葉をかけたのだから、きっと実がならずに終わることはないでしょう)眞葛(まくず)延(は)ふ 小野の淺茅(あさぢ)を 心ゆも 人引かめやも わが無(な)けなくに(― クズの這っている野の浅茅を人が引き抜くように、他人が心の底からあなたの気持を引いてしまうということがあるでしょうか)三島菅(みしますげ) いまだ苗なれ 時待たば 着ずやなりなむ 三島菅笠(すががさ)(― 三島の菅はまだ苗ですが、伸びるまで待っていたら、私が着ることができなくなるでしょうか。三島菅の笠を。あの子はまだ子供だが、成人するまで待っていたら、あの子を手に入れることが出来なくなるだろうか)み吉野(よしの)の 水隈(みぐま)が菅(すげ)を 編まなくに 刈りのみ刈りて 亂りてむとや(― 吉野の川の流れの曲がり入った所の菅を笠に編んだりしないのに、刈るだけ刈って、菅を乱そうというのでしょうか。私を妻としては下さらないのに私の気持だけをさらって、後は乱したままになさろうというのでしょうか)川上(かはかみ)に 洗ふ若菜の 流れ來て 妹(いも)があたりの 瀬にこそよらめ(― 川上で洗う若菜のように流れてきて、妹のいるあたりの瀬に流れ寄りたいのだけれど)斯(か)くしてや なほや守らむ 大荒木(おほあらき)の 浮田(うきた)の社(もり)の 標(しめ)にあらなくに(― こうして逢えないあの女をなお見守っていかなければならないのであろうか、私はあの大荒木の浮田の社の標でもないのに)幾多(いくばく)も 降らぬ雨ゆゑ わが背子(せこ)が 御名(みな)の幾許(ここだく) 瀧(たぎ)もとどろに(― たいして降りもしない雨だのに、私達はたいして逢いもしないのに、わが背子の評判はまるで激流がどうどうと流れていくように、大きく広まってしまった)わが背子(せこ)が 朝明(あさけ)の姿 よく見ずて 今日の間(あひだ)を 戀ひ暮らすかも(― わが背子が朝お帰りになる姿をよく見ずに、今日一日恋しく思い暮らしています)わが心 乏(とも)しみ思へば 新夜(あらたよ)の 一夜(ひとよ)もおちず 夢(いめ)に見えこそ(― お逢いできないで満ち足りずにいるのですから、どうか来る夜毎に、一晩も欠かさず夢に現れて下さい)愛(いつく)しみ わが思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手に巻かずして(― 可愛いと私が思う妹を抱くこともせずに、行きずりの人が見るように、見ていることが出来ようか。そんなことは出来ない)このころの 眠(い)の寝(ね)らえぬは 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 寝まく欲(ほ)れこそ(― この頃眠れないのは、あなたの手を枕にして寝たいからです)忘るやと 物語(ものがた)りして 心やり 過(す)ぐせど過ぎず なほ戀ひにけり(― 苦しい恋を忘れるかと人と物語をして気持を紛らわし、時を過ごそうとするけれども、恋の気持は消え去らず、一層恋しいことです)夜(よる)も寝(ね)ず 安くもあらず 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)も脱(ぬ)かじ 直(ただ)に逢うまでに(― 夜も眠れず心の安らぎもない。白栲の衣も脱ぐまい、直にお逢いするまでは)後も逢はむ 吾(わ)にな戀ひそと 妹は言へど 戀ふる間(あひだ)に 年は經(へ)につつ(― 後にでも逢いましょう、私への恋に苦しみなさいますなと妹は言うけれども、恋しく思っている間に年は経ってしまう)直(ただ)に逢はず あるは諾(うべ)なり 夢(いめ)にだに 何しか人の 言(こと)の繁けむ(― 直接逢わずにいるのは、もっともなことですが、せめてゆったりと逢いたいと思う夢の中でさえ、どうして人がうるさく噂するのでしょう)ぬばたまの その夢(いめ)にだに 見え繼ぐや 袖乾(ふ)る日無く われは戀ふるを(― せめてその夢にだけでも現れるでしょうか、涙で濡れる袖が乾く日もなく私は恋い慕っているのに)現(うつつ)には 直(ただ)には逢はぬ 夢(いめ)にだに 逢ふと見えこそ わが戀ふらくに((― 現実には直に逢えないけれど、せめて夢で逢えるように現れて下さい。私が恋に苦しむ時に)人に見ゆる 表(うへ)は結びて 人の見ぬ 裏紐(したひも)あけて 戀ふる日そ多き(― 人に見える表面の紐は結んで、人の見ない下紐はほどいて、あなたを恋しく思う日が多うございます)人言(ひとごと)の 繁(しげ)かる時は 吾妹子(わぎもこ)し 衣(きぬ)にありせば 下に着ましを(― 人の噂のあれこれとうるさい時は、吾妹子が衣であったら肌につけて人の目につかずに着ようものを)眞珠(またま)つく 遠(をち)をしかねて 思へこそ 一重衣(ひとへころも)を 一人着て寝(ぬ)れ(― 将来のことを考えるからこそ、今は辛抱して、一重衣を私は着て寝ているのに)白栲(しろたへ)の わが紐の緒の 絶えぬ間に 戀結びせむ 逢はむ日までに(― 白栲の私の下紐の緒が切れないうちに、それで恋結びをしよう、再び逢う日まで恋を結び止めておくために)新墾(にひばり)の 今作る路(みち) さやかにも 聞きてけるかも 妹が上のこと(― 新しく土地を切り開いて今作っている路がくっきりと見えるように、はっきりと妹の噂を聞いて心をときめかしたことである)山代(やましろ)の 石田(いはた)の社(もり)に 心おそく 手向(たむけ)したれや 妹に逢い難き(― 山代の石田の社に、気持を込めずに弊を奉ったからであろうか、妹に逢いたいと思っても逢えないことよ)菅(すが)の根の ねもごろに 照る日にも 乾(ひ)めやわが袖 妹に逢はずして(― すみずみまでも照る陽の光によってさえ、涙に濡れた袖は乾きはしない。妹に逢わずには)妹に戀ひ 寝(い)ねぬ朝(あした)に 吹く風は 妹にし觸(ふ)れば われさへに觸れ(― 妹を思って眠れなかった夜明けに吹く風よ、もし妹に触れてきたのなら、私にも触れておくれ)飛鳥川(あすかがは) 高川(たかかは)避(よ)かし 越え來しを まこと今夜(こよひ)は 明けずも行かぬか(― 飛鳥川の水かさが増しているので、それを避けて遠回りをして来たのだから、本当に今夜は夜が明けないでいないものかなあ)八釣川(やつりがは) 水底(みなそこ)絶えず 行く水の 續(つ)ぎてそ戀ふる この年頃(としころ)を(― 八釣川の水底を絶えることなく流れる水のように、いつもいつも恋しく思う、この幾年かを)磯の上に 生(お)ふる小松の 名を惜しみ 人に知られえず 戀ひ渡るかも(― お名前の傷つくことを惜しんで、人に知らせず恋しく想い続けています)山川(やまがは)の 水陰(みかげ)に生(お)ふる山菅(やますげ)の 止(や)まずも妹(いも)は思ほゆるかも(― 止むことがなく、妹の事が思われる)淺葉野(あさはの)に 立ち神(かむ)さぶる 菅(すが)の根の ねもころ誰(たれ)ゆゑ わが戀ひなくに(― 浅葉野に立ってものさびている菅の根のようにこまやかに、あなた以外の誰かに恋心を抱いたりは、私は致しませんのに)わが背子(せこ)を 今か今かと 待ち居(を)るに 夜の更けぬれば 嘆きつるかも(― わが背子が今見えるか今見えるかとお待ちしているうちに夜も更けてしまったので、嘆いております)玉くしろ 纏(ま)き寝(ぬ)る妹も あらばこそ 夜の長きも 嬉しかるべき(― 手を枕にして共に寝る妹がいてこそ、はじめて夜の長いのも嬉しいのでしょうが。妹がいないので嬉しくない)人妻に 言ふは誰(た)が言(こと) さ衣(ごろも)の この紐解(と)けと 言ふは誰が言(― 人妻である私にあれこれ言うのはどなたのお言葉、この紐を解けとあれこれ言うのはどなたのお言葉)斯(か)くばかり 戀ひむものそと 知らませば その夜は寛(ゆた)に あらましものを(― これほど恋しく思うものだと知っていたら、あの夜は、もっとゆっくりしているのだった)戀ひつつも 後も逢はむと 思へこそ 己(おの)が命を 長く欲(ほ)りすれ(― 今は恋に苦しんでいても後には逢えるだろうと思えばこそ、自分の命も長くあれと思うものを)今は吾(わ)は 死なむよ吾妹(わぎも) 逢はずして 思ひ渡れば 安けくもなし(― もう私は死にそうです、吾妹子よ。お逢いせずに思い続けていると、全く何の安らぎもありません)わが背子(せこ)が 來(こ)むと語りし 夜は過ぎぬ しゑやさらさら しこり來(こ)めやも(― わが背子が来ようと語った夜は過ぎてしまった、ああ、今更、間違っても訪ねては来ないでしょうね)人言(ひとこと)の 讒(よこ)すを聞きて 玉鉾(たまほこ)の 道にも逢はじと 言ひてし吾妹(― 人の枉げた噂を聞いて、道でさえ私に逢うまいと言った吾妹よ)逢はなくも 憂しと思うへば いや益(ま)しに 人言繁く 聞え來(く)るかも(― お見えがないので辛いと思っている折に、いよいよ何かとあなたについての人の噂が聞こえてくることです)里人も 語り繼ぐがね よしゑやし 戀ひても死なむ 誰(た)が名ならめや(― 里人も語り継ぐでしょうが、ええままよ、焦がれ死に死んでしまいましょう。もし私の評判が立っても構いません、大切なのはあなたの評判だけなのですから)たしかなる 使を無みと 情(こころ)をそ 使に遣(や)りし 夢(いめ)に見えきや(― 確かな使いがいないからと私の気持を使としてそちらへやりました。それがあなたの夢に見えたでしょうか)天地(あめつち)に 少し至らぬ 大夫(ますらを)と 思ひしわれや 雄心も無き(― 天地の広大さには少しだけ及ばないほどの大夫と思っていた私も、今は男らしい強い心もないことだ)
2024年07月20日
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第十聯です、君よ、恥を知り給え、恥を。青年貴族として、恥を知っていると言うのなら、君が君以外の誰かを熱愛しているなどと出鱈目を言うのはよしたまえよ、事実でない言葉を潔く撤回するべきなのだ、自分自身に対してさえこんなにも向う見ずで破廉恥な君よ。周囲の誰彼となくみんなから愛されているのだと主張したければ、最後までそう言い張ればいいさ、しかし私は明言しておこう、君と言う非情で極め付きのエゴイストのナルキッサスは自己以外のだれも愛していないのは明々白々なのだよ、君は何か凄まじい憎悪と怨念に取り付かれてでもいるいるかのごとくに、誰もかつて試みたことのない残虐非道な謀反を自分自身に企んでいる始末。その本当に華麗で美々しい肉体と言う家屋を破壊し尽くそうと実行中なのだ、本来なら、その肉体に対して手入れをし更なる完成を目論まなくてはいけない筈なのにだよ。ああ、ああ、君よ、壮麗なる肉体美とそれにふさわしい内実とを兼ね備えた見事な造形の極みよ、どうかお願いだから、その蕪雑な不似合いな態度を改めてはくれないだろうか、どうだろう、私も自らの態度を改もしよう、どうかお願いなのだよ、優しく優美な愛情でなくて、醜悪な憎悪が美しい肉体に宿ってよいわけがないのだ、君は生来の外見通りのこの上もなく優しく、温和で、誠実な魂で、精神で、心でいてほしい、それが無理だと言うのなら、せめては自分自身に対しては素直で、親切な優しさを示して欲しいのだよ、君、君、ああ、君、本当に私を心から尊敬して敬ってくれているのなら、どうかお願いなのだ、もうひとりの君を作るように努力して呉れ給え、君の子供達や君自身の中でその輝かしい美が何時までも生き続けて、光彩を放ち続けるように、お願いなのだよ。 これは美の女神ヴィーナス以上の素晴らしい対象に最大級の賛辞を捧げているわけで、決して誇張なのではない、美辞麗句をいくら連ねたところで人類史上に類例をみない造化の極みの人間美に言葉の錬金術師である詩人が自己の言葉の貧弱さに嘆く暇もあらばこそ、言外に対象の青年の言語を絶した素晴らしさをほのめかすことで、そのトータルな美の高みを示唆して見せてくれている。現実には、誰にもそのように見えているわけではなくて、詩人にだけは誰にも見通すことが出来ないこの世ならぬ真実の美を見極めて、表現しようと言語の、ボキャブラリーの限界まで行き尽くしてしまっている。その只ならない様相が、言外ににじみ出てきている有様を、私は辛うじて読み取ることで、シェークスピアの天才を改めて仰ぎ見る思いなのです。 次は第十一聯、青年よ、君は、老いさらばえるのと同じ速度で成長を遂げている、君が頒ち与えるであろう種から、君の子供を儲けてね。そして若い時に与えた若々しい新鮮な血を、青春から決然と決別する際に我が子と呼びうるのです。そうなってこそ、智慧と美と、子孫とが本当の意味で生きるのだ、そうしなければ、愚かしい行為と老齢と、冷たい破滅しかないのだ。この世の人々がその気になってしまえば、人類は死に絶えてしまうだろう、六十年もしないうちに全世界は滅んでしまうに相違ない。自然造化が繁殖用に作ったのではない者達、おぞましく、醜悪で、粗野そのものの奴らなどは勝手に死なせてしまえばよい。自然と言う造化の匠は最上の資質を授けた者に同時に強壮この上ない力も与えるものだ。だからこそ、青年よ、君は、君こそはその持てる豊かな力を惜しみなく他に与え、恵み、育てなくてはいけないのだよ。神が、自然が君をして 刻印用 に作ったのは沢山の複製が欲しかったからだ、原型のままで死なせる為ではないのだ。此処で詩人が口を極めて美をたたえ、醜悪を唾棄する言辞を弄しているのは、己の恋の成就を願うあまりの勇み足的な表現だった。極めて限定的な文脈の中での表現ですから、シェークスピアは人間を差別的に見て、美的な人をよしとして、逆に醜悪な人を排除しようというような人間観を固定的に持っているわけではないのです、念の為に彼の代わりに言い訳をしておきます。 それで第十二聯です、時を告げる時計の音をひとつひとつ数え、輝かしく勇壮な太陽が醜くて暗い闇の中に没する時に、我々は盛りを過ぎた菫の花を眺め、その黒い巻き毛がすべて白銀で覆われるのを見るとき、かつては家畜の群れを暑熱から遮り守ってやった大樹が、哀れにも緑の葉を剥ぎ取られて裸になってしまうのを見る時に、夏に収穫された大麦が各所で束ねられて、紐で括られ、白い剛いヒゲを晒して手押し車で運ばれて行く。そんな風景を眺めながら私は君の事を脳裏に思い描くのだ、そしてこんな風に考える、君も時という非情な荒廃をもたらす魔手を逃れる事はできない、優しいもの、美しいものも時と共にやがては衰退して、他の美が代わって峙つのを横目に見ながら、同じ速さで死に向かうのだ、と。無情の時の神が君をこの世からひっさらって駆け去るときに彼の魔の大釜を防ぎ、立ち向かうのは子孫しかいないのだ、と。 そして第十三聯です、ああ、君よ、君、君が今のままでいられたなら、どんなによいだろうか、だが、愛する者よ、君に向かって当たり前の理屈を説き聞かせて何になろうか、この世で束の間の儚い生を終えれば、君は私の愛する、また周囲の誰もが無条件で信奉する素晴らしい君ではなくなってしまうのだ、ああ、君はかけがえのない君自身を永遠に失うのだ、ああ、君よ、君は程なく訪れるこの終焉に備えて、その美を誰かに頒ち与えておくべきなのだ、絶対に、そうすれば、そうするだけで、今は期限付きで借りているその美しさを期限なしで、何時までも手中にしておくことが可能なのだ。君の美しい子供達がその美質を継承すれば、君は死後でさえ今のままの君でいられるのだからね。こんなにも壮麗な建築物を朽ちるのに任せる莫迦がいようか、一家の主としてしっかりと経営すれば、冬の厳しい日に激しい嵐が吹きすさんでも、死の神という恐ろしい魔性の物の怪が永遠の寒気を送り込んで猛威を振るおうとも、万物を非情に枯らせてしまっても、この家は立派に維持管理していくことが出来るというのに。ああ、愛する者よ、現にいるのは無邪気な浪費家だけだ、君には、父親がいたのだから、息子にもそう言わせておあげなさいよ。 次は第十四聯ですが、私は星を見て吉凶を判断する占星術師の真似はしない、それでも私は一応、占星術の心得はあるのです、ただしそれは、吉兆や凶兆を告げるとか、疫病や飢饉、季節の塩梅を予言するものではない、又、一分刻みに運勢を占い、何時何分には雷が鳴り、雨が降り、風が吹くのを言い当てるのは不得手だし、しばしば天に現れる予兆を見て、国王の運勢はつつがなし、などと言うことも出来ない。ただ出来ることはと言えば、青年よ、君の眼を見て運勢を占うだけなのだ、私は君の両目と言う二つの恒星にこんな予言を読み取るのだよ、つまり、君が今の意固地な態度を捨てて子孫の繁栄を思うのであれば、真実と美とは共に栄えるであろうと言うこと、そうしないのなら君についてはこう予言しておこう、君の死は真実と美の破滅であり、終焉である、と。 第十六聯、所で、君は何故更に有効な手段を用いて、時間という最も残虐な暴君と矛を交え、私の不毛で拙い詩歌などよりももっともっと気のきいたやり方で、無様な衰退に向かうに相違ない自分の身を守ろうとはしないのだろうか、これは私が解せないだけではなくて君の周囲の誰もが不審に感じている所だ、何度も言うが、君は幸福この上もない日々の頂点に立っている、それは紛れようもない事実なのだが、君の周辺にはまだ種を蒔かれていない多くの処女の庭園が、君の血の通う美しい花を咲かせたいものと、慎ましく願っているのだよ。天才の描く君の肖像画などよりもずっと君に似ている活きた花をだ、彼女と結婚すれば子供等という血の通った肖像が君の生命を蘇らせてくれるだろうに、当代切っての画筆とか、私の拙いペンなどは、内面の豊富な価値にしろ、外見の豊饒な美にしろ、到底、生きてあるがままの君の真実の姿を人の目に伝えることが出来はしない。早く結婚して、相手に君自身を与えるのが、その麗しの真実を永遠に保つ秘訣であり、最上の道なのだからね。君は、自分の技で自己を描いて、生きねばいけないのだよ、君…。詩人は、シェークスピアは謙遜しているのではない、結婚による聖なる生殖以外では青年の現に生きてある美のあり方を後世に伝える術はないので、それを有りの侭に表現しているわけで、人工的な表現の極致は造化の神の自然な営みには遠く及ばない事を、熟知しているだけなのであります。 第十八聯に進みましょう、君を我々にとって最も望ましい夏の一日に比べてみようか、勿論、君はイギリスの夏よりももっと美しく、もっと穏やかで好ましいのだが、五月の季節が愛おしむ花のいじらしい蕾を時に荒々しい風が揺さぶり、夏という短期契約の期待する時期はあっという間に過ぎ去ってしまう、天空の日輪も時には灼熱の眩しすぎる光を放つけれどの、その黄金の顔ばせが邪魔な雲に隠れる事だって珍しくはないのだ。全ての美しいものはやがて、美を失って朽ちてしまう、偶然や自然の推移が美しい飾りを無残にも剥ぎ取ってしまう。しかし、君が古来から詩人達が誇らかに自賛している 不滅の詩 の詩歌の中で時と合体するならば、君と言う永遠の素晴らしい夏は移ろったり、消滅したりはしないのだ。今、君が手にしているその誇らしい美しさを失うことはない。醜悪な死に神が、奴は俺様の影を踏んで歩いているのだ、などとうそぶくこともないのだよ、人が息をして、眼が物を見得る限りは、私のこの詩は生きつづけるのだ、敢えて言おう、永遠に。更にはこの詩が君に貴重な命を与え続けるのだよ。 シェークスピアはとうとう本音を漏らした。彼は本当は絶対的な自信を己の表現に抱いていた。結婚による子供だって、俯瞰すれば、ほんの束の間の出来事にしか過ぎない。詩は、文章表現は永遠不滅なんだ、彼は古代ギリシャ以来の詩人達の伝統を受けて、そう高らかに宣言する。詩人は神にも等しい存在なのだが、それはその素晴らしく美しい作品によって担保される。
2024年07月19日
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今度は第五聯です、誰しもが注視している君の容貌と姿形を繊細にして超絶した技で作り上げた時間と言う名の匠は、同じ超絶技巧を駆使して同じ対象に暴虐非道の振る舞いに及び、至宝と称すべき逸物を容赦なく木っ端微塵に粉砕してしまう。挙句に、休むことを知らない時間と言う業師は酷暑の夏を誘って極寒の死の冬へと追い込み、死滅させてしまう。樹液は苛烈な霜に凍りつき、瑞々しかった緑の葉も全部落としてしまう、美しい物はすべて雪に覆われ、見渡す限り地獄の様相を呈するに至る、その時までに真夏の美しく芳しい花から蒸留した香水を獲得しておかなければ、言ってみればガラスの瓶の中に液体の囚人を多数留めておかないと、美が作り成す物も美そのものも、全てが略奪され尽くしてしまうわけなのだよ、実のところ、その後では荒涼とした無味乾燥な風景だけが剥き出しにされ、美的な要素はかけらさえ残されはしないのだ。しかし、そうなる前に花を蒸留しておけば、仮に冬に直面しても失うのは表面の物だけで、実態は永遠に美々しく芳(かぐわ)しく生き続ける事が可能なのだ。こんな理屈を私が今更に口を酸っぱくして述べるのも野暮なのだがね。 そして第六聯は、冬というざらざらとした無骨な手が君の馥郁として緑豊かな夏を醜く変形させてしまう前に、御自分の美を蒸留してしまうのです、何処かにあるガラスの瓶に香しい馥郁たる香水を注入しておやりなさいな、デリケートな美の形質が腐らないうちに、どのような手段であっても取り敢えず美質を仕込んでおくのが賢いのですよ。高額な利息をせしめても、支払い人の女性が喜び幸福を感じるなら、そのような高利の商売は神も国も禁じてはいないのですよ。つまりは君一人の為になるだけではなくて、公共の福利に裨益することは間違いのないところなのです、私の言わんとすることは明々白々、もうひとり君を増やすことを奨めているのです、真心を込めて当然過ぎる行為を、男子たるものの本分を果たすべきと理の当然の理屈にもならない道理を懇切に諭しているわけなのですね。この商売で、阿漕にも十倍の利益を獲得したとしたとしても君は誰からも責められたりはせずに、逆に称賛される筈のことなのですね。十倍の利息とは十倍の幸せを意味するだけ、仮に君に子供が十人できて君の姿を十倍に増やすなら、君は今よりも十倍は幸福になる、間違いなく。そうであれば、たとえ死ぬ時が来たとしても死神には何も出来ない道理さ、何故って、君は子孫の中に貴重な遺産を全部残しているのだから、泰然自若としていられるではないか。どうか莫迦な意地を張るのはよして、周囲の常識的な忠言に素直に従うのです。いずれにしても君は余りにも美し過ぎるので、死の獲物にしてしまうのは、蛆虫を後継にするのは惜しい。 続いて、第七聯ですが、見てごらんなさいな、東の空に壮麗偉大なる日輪が赤々と燃える頭をもたげると、下界に住まうひとりひとりの眼が、今日また新しく姿を現したその偉容に敬意を払い、神聖この上ない天の王者にじっと視線を向けて、礼儀を尽くすのです。更には、峻険な丘陵を上り詰めて、中年期に達した時にもなお、屈強な若者の面影を失わぬ勇姿を見れば、下界の俗世に住む人々の眼差しはやはりその美しさを讃美して、黄金の光を放つ旅の姿を見守るのですが、然るに、天空の頂上を経て疲労した手で火の車を操作して弱々しい老人の如くに、眩い昼の世界からよろめくように降りてくると、それまでは恭しげであったのが人々は老いさらばえた王者の惨めな姿から目をそらし、そっぽを向いてしまう。君だって同じことさ、絶頂の昼の時期を過ぎてしまえば結婚して子供を持たぬ限りは、見とる人もなく哀れに死ぬ事になる定めなのだよ。光、太陽、息子、キリストなどの連想の中で若者は神たるキリストに準えられて崇高な尊崇の対象として祭り上げられる。年配者の詩人はこの明眸皓歯の美青年を最高級に賛美してやまないのだ。しかし情欲のほとばしりは隠しようもなく、女性との結婚の勧めは、自分を恋愛の相手にしても構わないとの暗黙の了解を前提ともしている。清濁併せ呑む現実主義者でありながら、同時に無類の理想主義者でもある詩人。シェークスピアの面目躍如たるものを感じさせてあまりあるものがある。彼は、醜いは美しい、正しいは悪である、と喝破している稀に見る合理精神の権化のような極めて醒めた、物事の裏面まで見透してしまう情熱家だったことを忘れないようにしよう。その彼が自己の性欲を表面にこそ出さないが美青年を間接的に口説き自分の愛人に仕立て上げようとラブレターの代わりにモノしているのがこのソネットなのだ。これは写し書きされて友人知人の間に読み継がれて忽ち評判となった。まるで紫式部の源氏物語が宮廷サロンでたちまちにして大評判になり大勢の読者に読まれた現象に酷似している。 第八聯です、聴くに心地よい音楽を、若者よ、君は何故にそのように憂い顔で聞くのであろうか、甘美さは元来が甘美とは争わぬもの、歓楽はおしなべて歓楽を飲み尽くしてやまないもの、訊ねようか、そもそも心の底から楽しめない対象を君は何ゆえに熱愛するのでしょうか。そしてまた何ゆえに君は厭わしい物を欣快のごとくに自身に承知させるのでしょう。結びつき、睦みあい、絶妙な階調を調べる完璧この上ない協和音が君の耳には不快と響くならば、その音達は妙なるトレモロを伴いながら君を叱っているのだろう、君は例外的に一人だけで自分が演じなければならない重要な役柄を無視して顧みないのだからね。一つの弦がもう一つの弦の優しい夫となりお互いに調和しながら各自が玄妙な音階を奏で合う様子を見てごらんなさい。それはさながら幸福この上ない家族のようだ、父親と子供と、幸せこの上ない母親が期せずして一体融合して、見事なひとつの調べを歌い上げているようではないか。多くの響きでありながらも渾然一体となり一つにしか聞こえない、この無言の歌が君に告げるのだよ、独り身は零に帰してしまうのだ、と。成人した者は異性と結婚して子供を産み、家族を構成してこそ意味を持つ。単身でいるのは神の摂理に反する行為である。背徳的な存在なのだ。このごくごく平凡にしてまっとうな主張を年配の男は青年に力説して倦まない。何故か、彼を熱愛しているから。愛が結婚を促すのは男女間の自然な姿であるが、これは同性間の関係性の中で主張されている。青年はあたかも光源氏ででもあるかのように、全てにおいて優秀な美質だけの完璧な若者なのだ。音楽はもとより、全ての教養において欠ける点もなく、異性には勿論、同性からも全面的に讃美される。一点の非の打ち所もない。彼は当然に物質的にも非常に恵まれている、現在の生活にも、将来の展望においても悲観する要素など欠片もないのだ。この点は、私が殊更に持ち出している光源氏と同様でありながら決定的に相違している所だ。源氏は世界中で一番恵まれていながら、人類史上で稀にみる不幸な人間だった。このソネットで描かれる若者は一点の翳りをも見せない。ただ、詩人が、年配者が人間であれば免れない運命的な「不幸の可能性」を指摘しているだけなのだ。彼は成人に達して性欲の捌け口を自慰行為と同性愛に耽ることで解決している模様なのだが、異性との肉体的な接触にしても、その気になりさえすれば売春婦であれ、身近な例えば小間使との接触で容易に得られるのであるから、何の不便も感じないで済むわけである。結婚などは煩わしいだけで何らの便宜ももたらさない、そう自然に考えてもむしろ当然であろう。シェークスピアの強引な説得は初めから無理筋なのであって、この世間智や人間知に長けた人物が忘れている筈もないない事。むしろ、美青年に向けた己の熾烈極まりない性欲の為に一時的に盲目になっている醜い自己を強調する手段として利用しているのでありましょう。彼は己の性欲の強さに戸惑っているように見せて、冷静沈着なのだ。劇の作者も人生上では一個のヘボ役者であることを百も承知なのだ。人生を生きる上では人間知などは糞の役にも立たないことを弁えている。そこが逆に面白い。ソネットを書く動因であり、周囲の友人知己がこのソネットに異常な関心を示した要因でもあろうか。 さてさて、第九聯です、年配者はなおも青年を説き伏せようと力説する、君が独身を通して一生を終えようと図るのは、君の将来の妻を未亡人にして泣かせるのが怖いからなのだろうか、ああ、ああ、君がもしも子供を作らずに死んでしまうならば、世間中が夫に死なれた妻のように嘆き悲しむに相違ないよ。世間が君の未亡人になり、君がその類まれな美質を引き継いだ似姿を後に残してくれなかったと言って、泣き暮すことになるだろう。世間にありふれた未亡人ならば夫が残してくれた子供の目を見て、在りし日の夫の姿を偲ぶことが可能なのにね。いいかい、よく聞き給えよ、世に言う金銭の浪費家が現世でいくら浪費したとしても、金は所有者を換えるだけで人々はいつでもその金を使うことができる。しかし人間に備わった美はわけが違う、浪費された美質は完全にこの世から消えてしまうのだ。また、美を使わずに取っておいてもやはり世間は美を滅して喪失してしまうのだ。自分自身に対してこんな恥知らずの殺人を犯す人間が、他人を優しく愛する気持など心に持っているわけがないのだよ、君、そうじゃないかね。 私、古屋克征の場合には、自分の子供をこの世に残すというか、この世に呼び出すことに関して躊躇する気持が強かった。生まれてしまったので死にきれずにこの世に留まり、神のご加護でよき配偶者に恵まれたのではありましたが、十分に満足してはいたとは言え、この世は八苦の娑婆であります、生まれる前から可愛いに間違いないない我が子を、わざわざ呼び出さなくてもよいのではないか、正直、そんな気持でいましたので、そのまま妻に伝えたのですが、妻は悦子は、直ぐには私の考えを理解できなかったようです。そう言われてみれば、成る程、そうかも知れませんが今幸せなのですから、子供だって幸せにならないはずもなく、云々かんぬん、結局彼女に押し切られる形で男の子を二人儲けたわけですが、成人してから息子に尋ねたところ、生まれてきて「本当によかった」と笑顔で答えられた時には本当にほっとしたものです。
2024年07月17日
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水潜(くく)る 玉にまじれる 磯貝の 片戀のみに 年は經につつ(― 水の底の玉に混じっている一枚貝の磯貝ように、片恋のみしているうちに年は経っていく)住吉(すみのえ)の 磯に寄るとふ うつせ貝(かひ) 實なき言(こと)以(も)ち われ戀ひめやも(― あなたの実のない、真実のない言葉によって、あなたを恋したりは致しません)伊勢の白水郎(あま)の 朝(あさ)な夕(ゆう)なに 潜(かづ)くとふ 鰒(あはび)の貝の 片思(かたもひ)にして(― 私の恋は伊勢の海人が朝夕に水に潜って取るというアワビの一枚貝のように片思いなのです)人言(ひとごと)を 繁みと君を 鶉(うづら)鳴く 人の古家(ふるへ)に 語らひて遣(や)りつ(― 人の噂が喧しいからとて、あなたを鶉の鳴くような人目に立たない古びた家でお逢いしてお帰ししました)暁(あかとき)と 鶏(かけ)は鳴くなり よしゑやし 獨り寝(ぬ)る夜は 明けば明けぬとも(― もう暁だと鶏は鳴くのが聞こえる。君は来まさず、私一人寝る夜は、ええ、明けるなら明けようとも構わない)大海(おほうみ)の 荒磯(ありそ)の渚鳥(すどり) 朝な朝な 見まく欲(ほ)しきを 見えぬ君かも(― 大海の荒磯の渚の鳥を毎朝見るように、朝な朝なお顔を見たいと思うのに、お出でにならないわが君ですこと)思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を(― 恋しいあなたのことを思っていたけれども、心が乱れて、じっと思い続けていることが出来ませんでした、長い、長いこの一晩中) 或る本の歌=あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長長(ながなが)し夜を獨りかも寝む(― 山鳥の尾の、しだり尾の様に長い、長い夜を一人で寝るのであろうか)里中に 鳴くなる鶏(かけ)の 呼び立てて いたくは鳴かぬ 隠妻(こもりづま)はも(― 里の中で鳴く鶏のように声を立ててひどくは泣かず、こらえている愛しい隠妻、ああ)高山に たかべさ渡り 高高(たかたか)に わが待つ君を 待ち出(で)てむかも(― 高山にコガモ・我が国にいる鴨類のうちで最小のもの、猟鳥として知られている、背中に模様がある が渡って高々と飛ぶように、高々と背伸びをしてあなたをお待ちしていると、現れてくださるでしょうか)伊勢の海ゆ 鳴き來(く)る鶴(たづ)の 音(おと)どろも 君が聞(きこ)さば われ戀ひめやも(― 伊勢の海から鳴いて飛んで来る鶴の鳴き立てる声のように、はっきりしたお声をあなたが聞かせて下さるなら、私は何で恋しく思うことがありましょうか)吾妹子(わぎもこ)に 戀ふれにかあらむ 沖に住む 鴨の浮寝(うきね)の 安けくもなき(― 吾妹子を思い慕っているからであろうか、沖に住む鴨の浮寝の落ち着かないように、私は安らかな思いがしない)明けぬべく 千鳥數(しば)鳴く 白栲(しろたへ)の 君が手枕(たまくら) いまだ飽(あ)かなくに(― 夜が明けてしまいそうだと千鳥がしきりに鳴いている。わが君の手枕にまだ、すっかり満足したというわけでもないのに) ( これからは問答体の形式で、二首でひと組である )眉根(まよね)掻き 鼻(はな)ひ紐解け 待てりやも 何時(いつ)かも見むと 戀ひ來(こ)しわれを(― 眉を掻き、くしゃみをし、紐も解けて待っていましたか、何時逢えるかしら、早く逢いたいと恋しくて来た私を)今日なれば 鼻(はな)ひ鼻(はな)ひし 眉痒(かゆ)み 思ひしことは 君にしありけり(― くしゃみをしたり、眉が痒かったのは今日になってみると、あなたのせいだったと分かりました)音のみを 聞きてや戀ひむ 眞澄鏡(まそかがみ) 直目(ただめ)に逢ひて 戀ひまくもいたく(― 評判だけを聞いて恋しく思うでしょうか、それなのに私はこんなにも恋しい。だから、直接逢えばひどく恋しく思うことでしょう)この言(こと)を 聞かむとならし 眞澄鏡 照れる月夜(つくよ)も 闇のみに見つ(― あなたのこの嬉しい明るいお言葉を聞きたいというわけでしょうか、夜空に皓々と照る月さえ闇と見えたのです)吾妹子(わぎもこ)に 戀ひて為方(すべ)なみ 白栲(しろたへ)の 袖反(かへ)ししは 夢(いめ)に見えきや(― 吾妹子が恋しくて仕方がないので、袖を折り返して寝たのは夢に見えたでしょうか)わが背子(せこ)が 袖反す夜の 夢ならし まことも君に 逢へりし如し(― わが背子が袖を折り返してお寝になった夜の夢でしょう。真実にあなたにお逢いしたように思われました)わが戀は 慰めかねつ ま日(け)長く 夢(いめ)に見えずて 年の經ぬれば(― 私の恋は慰め鎮めることが出来ません。ずーっとあなたが夢に見えずに長く年を経ましたから)ま日(け)長く 夢にも見えず 絶えぬとも わが片戀は 止(や)む時もあらじ(― ずっと長らく夢にも見えず絶えてしまっても、私の片思いは止む時もありますまい)うらぶれて 物な思ほし 天雲(あまくも)の たゆたふ心 わが思はなくに(― 憂いしおれて物思いなどなさいますな、私は断じて揺らいだ気持など持ってはおりませんので)うらぶれて 物は思はじ 水無瀬川(みなせがは) ありても水は ゆくといふものを(― 私はうらぶれて物思いなど致しますまい。水無瀬川にも時が経てば水が流れると言うことですからね)杜若(かきつばた) 咲く沼(ぬ)の菅(すげ)を 笠に縫ひ 着む日を待つに 年そ經にける(―カキツバタが咲く沼の菅を笠に縫ってかぶる日を待っているうちに、年が経ってしまった。結婚できないで徒らに年月が経過してしまったよ)おし照(て)る 難波菅笠(なにはすがかさ) 置き古(ふる)し 後は誰(た)が着む 笠ならなくに(― 置き古したならば、後で誰かがかぶるような、そんな菅笠では私はないのです)斯(か)くだにも 妹(いも)を待ちなむ さ夜更(ふ)けて 出で來(こ)し月の 傾(かたぶ)くまでに(― せめてこうしてでも妹を待ちましょう、夜更けてやっとさし登ってきた月が傾くまでも)木の間(ま)より 移ろふ月の 影を惜しみ 徘徊(たちもとほ)るに さ夜更けにける(― 木の間を移っていく月が惜しくって歩き回っているうちに、気が付くと夜が更けていたのでした)栲領巾(たくひれ)の 白濱波の 寄りも肯(あ)へず 荒(あら)ぶる妹に 戀ひつつそ居(を)る(― 近寄ることもできない程に私を疎んじている妹を、恋しく思っています)かへらまに 君こそわれに 栲領巾の 白濱波の 寄る時も無き(― 何を仰言いますか、逆にあなたこそ私にちっとも近寄って来る時もないではありませんか)思ふ人 來(こ)むと知りせば 八重葎(やへむぐら) おほへる庭に 珠敷(し)かましを(― あなたさまがおいでにならろうと知ってしましたならば、八重葎の茂った庭に玉を敷きましたものを)玉敷ける 家を何せむ 八重葎 おほへる小屋(をや)も 妹とし居(を)らば(― 玉を敷いた家も何にしよう、八重葎の覆い繁った小屋でも、妹といれば何もいらない)斯(か)くしつつ あり慰めて 玉の緒の 絶えて別れば 為方(すべ)なかるべし(― こうしていつも自分の心を慰めていますが、あなたと絶えて別れてしまったならばどうしようもないでしょう)紅(くれなゐ)の 花にしあらば 衣手(ころもで)に 染めつけ持ちて 行くべく思ほゆ(― もしあなたが紅の花であったなら袖に染付けて持って行きたく思われます)紅(くれなゐ)の 濃染(こそめ)の衣(きぬ)を 下に着ば 人の見らくに にほい出でむかも(― 紅の濃染の衣を下に着たならば人が見た時に、色が表に透けてほのかに見えるだろうか。美しいあの人・女に逢ったならば隠してもやがて人に知られてしまうだろうか)衣(ころも)しも 多くあらなむ 取り易(か)へて 着なばや君が 面(おも)忘れてあらむ(― 衣だけは沢山欲しいもので、取り替えて着たならば、気がまぎれてあなたの顔を忘れていられるでしょうか)梓弓(あづさゆみ) 弓束(ゆつか)巻きかへ 中見さし 更に引くとも 君がまにまに(― 梓弓の弓束を巻きかえ中途で引くことを止めて、更に引くように、一旦中途で絶えながら、改めて私の心を引いたりなさっても、それでも私はあなたの思いのままにいたします)みさご居(ゐ)る 渚(す)に坐(ゐ)る船の 夕潮を 待つらむよりは われこそ益(まさ)れ(― ミサゴのいる渚に擱坐・カクザ、浅瀬に乗り上げる している船は夕潮がさして来るのを今頃は待っているのだろう、その待ち遠しさよりも一層切実にあなたをお待ちしておりますのに)山川(やまがは)に 筌(うへ)をして 伏(ふ)せて守(も)りあへず 年の八歳(やとせ)を わが竊(ぬす)まひし(― 山川に筌・魚を捕らえる竹であんだ筒、流れに仕掛けて魚がその中に入るのを捕らえる を伏せておいても番をしきれないで、私は八年もの間、ひそかに娘と逢っていた)葦鴨(あしがも)の 多集(すだ)く池水 溢(あふ)るとも 儲溝(まけみぞ)の方(へ)に われ越えめやも(― 葦鴨が多く集まって騒いでいる池の水が溢れると、かねて用意の溝の方に流れていくけれども、私はそのようには別の人に心を移したりはしないつもりです)
2024年07月16日
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中世のイタリアに発するソネット(十四行詩)の詩法で書かれた甘美豊麗な詩篇。154篇から成り英国文学中で最高のソネット文学と評されるものですが、私は例によって原文への橋渡し役を務めるわけですが、今回はそれ以前に、私自身が原作を骨の髄まで味わい尽くしてみたい欲求に駆られて専門家が様々な翻訳を試みておられることを承知で、無謀にも兎に角トライしてみようとのお遊びでもあるわけです。上手く遊べるかどうかはともかくも、私は乗りかかった船ですので、存分にエンジョイしてみたいと考えています。その結果で、原詩に直接当たってみようと思われるお方が一人でも出たならば、それに過ぎる幸福はありません。 最も麗しい人から、それが男であれ女であれ、子孫が増大し、繁栄することを我々は望むものです、そうすれば美の頂点に象徴的に君臨している薔薇が枯れることはないはずです。年配者から順に死に絶えて時は過ぎゆくもの、それがこの世の慣いであるが、素晴らしい後継者はその父母の記憶を明瞭に留めるもの、しかし君はその流麗極まりない美貌を無意に帰そうとしているかのように、豊饒潤沢の庭に貧窮をもたらそうとしているかのように無軌道に振舞っている、無頼の敵は君自身なので、君は自分自身に対して余りにも過酷非情すぎる暴君なのだ、ああ、どうしてそうも情なしでいられるのか、君が例えば東洋の光源氏を彷彿とさせる貴公子然して振る舞えば世間はこぞって称賛の的と褒めたたえずにはおかないでしょうに、正に到来する青春の只中に驕れる勝利者の中の誉、まだ蕾ではあっても輝かしい未来を全て包含して余りある存在。自覚のない若い欲張り屋ではあっても、出し惜しみながらも浪費して顧みない君よ、どうかこの世を憐れんでくれたまえよ、さもないと、大食漢との影口を言われるやもしれないよ、世間の人々の当然の分け前を一人占めして墓場まで持って行ってしまう勢いなんだからね。 ざっと、こんな風に意味的には第一聯は構成されている。年配の男性が年下の男に強烈な愛情の告白をする前触れの様な言辞は詩としては異例中の異例なのですね、シェークスピア自身がフィクションだけではなくて自己の赤裸々な情欲を曝け出す告白文学でもあった。私、古屋克征には同性愛の趣味はなくて誇張にもせよ同性に性欲を感じた経験がないので、これから展開される同性愛的な部分に関しては理解が行き届かなくても、想像でそれを補い、詩人の極めて劇的な構成を十分に堪能してみるつもりでおります。 次は第二聯です、四十年の厳しい歳月が君の今は美々しい容貌に見るも無残な塹壕を掘り出してしまうことは必定、例えばかぐや姫伝説の絶世の美女であっても、下界では男達からもてはやされて尊重されても、天上界では一介の罪人にしか過ぎない。それと同様に、老醜を晒す晩年には襤褸にも劣る無価値なものとして唾棄され、打ち打擲さえされる時期を迎えざるを得ないのだよ、聡明この上もない君の事だからこのような年配者の諭しなど無論必要とはしないことを私は、百も承知している。しかもなお耄碌爺いさながらに繰り言めいて更に言い募り、君からの強い拒絶を回避できないでいるのは、その類まれな美と知と魂との魅惑に私の心は痺れに痺れ、腰も立たないほどに行かれてしまっているから…、それはともあれ、嘗てのあの美貌は知的武装は何処へ行ってしまったのだと聞かれた時に、君は君らしく何と答えるつもりなのだろうか。この醜く落ち窪んだ眼窩の中に、皺だらけ染みだらけの顔の中に消えてしまったなどと、通常人が老いさらばえた際に答えるような愚かな言葉は聞きたくもない。しかし、この聡明な子供が自分の後継者なのだ、私の輝かしい遺産の全てを引き継いでいてくれる、御覧なさいな、よく御理解頂けますでしょう、そう君は誇らしく答えて欲しいのですよ、老いた君自身の身内には冷たい血液が回遊しているけれども、暖かく快適な血液が体内を駆け巡っていると自他共に納得出来るようになってもらいたいのですよ。或る注釈によれば若者は男色や自瀆行為に耽っていて通常の結婚を回避する様な日常を送っていて、両親達に苦労の種を与え続けていたのではあるまいか、と説明している。この辺は私などには直ぐに解り易く納得できる事柄ではないのですが、そう言うケースも場合によってはあろうかと、今は軽く受け止めておこうと思うのです。私などは女性、特に年上の女性に対する憧れが強く働いていましたので、それに若年の頃には特別に肉体的な魅惑にチャームされて異性と肉体的な接触を強く持とうなどとは特別には考えたこともなかった。プラトニック・ラブを殊更に賛美賞賛する嗜好も持ち合わせてはいなかった。世に言うロリータ・コンプレックスもなかった。セーラー服を着た美少女に殊更にチャームされることもなかった。年上の女性への無条件の憧れは誰もが抱くマザコンの一種だと私などは思っていました。社会に出て仕事のパートナーに好意と尊敬の念を抱いて「プラトニック・ラブ」めいた感情を抱いたし、人から嫉妬混じりの揶揄でホモ関係なのではないかなどと陰口を叩かれた経験もありましたが、概して人間関係には恵まれていて、妻には夢にも思っていなかった「素晴らしい美人」を得ることになった。それも彼女の方から一方的に惚れ込んできて。この辺の経緯に関しては幾度となく私のブログで書いてきていますので、諄くは申しませんが、私は古風と言うか、女性を口説くことが出来ない「不能者」でして、それにも関わらずに女性関係でも他者との比較は出来ませんが、比較的に恵まれている方と自分では感じています。私は母親とも、妹とも、そして関係性が薄かった姉とも、非常に良好な人間関係を維持できておりまして、その上に、信じられないような配偶者の出現で完璧な女性関係を成立させられて、ただただ只管、神に感謝するだけなのです。つまり女性関係で苦労した経験は皆無なのですが、言ってみれば、女性は必ずしも美的な男性をのみ求めてはいないのだと首肯させられます。私は自分では努力して生きて来たと考えるのですが、それはとりわけ私が努力家だったからではなく、努力しなければ生きられなかったからなので、努力とは私にとっては極めて自然に振舞うことを意味していたわけですね。 扨、第三聯ですが、鏡を御覧なさいな、その鏡に映った顔に語るのです、さあ、今こそ新しい美しい顔を製造する時が来たのだ、その類まれな瑞々しい美貌を今再生しておかなければ、君は世間を欺き、誰か可憐なる乙女が母親になる幸福を奪い不幸にしてしまうでしょう。まだ処女であって君を夫して不満に感じる美女が何処に一体いるだろうか、自己愛が異常に強くて子孫を残すことに乗り気ではなくて、自分を愛情の墓場にしてしまう、そんな愚かな青年がこの世にいて良いものだろうか、君は母上の自惚れ鏡であり、彼女は君の麗しい鏡なのだ、彼女の素晴らしかった美の四月を呼び戻して差し上げなさい、その如くに君は老年のしわくちゃの眼という霞んだ窓を通して過去の絶頂期を振り返ることも許されている。しかし世間から忘れ去られる老齡期を望むのであれば、たった一人で生き、姿を永遠に消してしまうがよいでしょうよ…。年上の男、詩人のシェークスピアは美青年に結婚を勧める。自分の熾烈な愛欲は胸に秘めて、年長者らしく諄々と諭し子孫を後世に残すことの大切さを説く。この辺は私には余り興味を感じないところであり、創造主の神ではないのだから後世の事は後世が自ずからに解決する問題ではないかと、思うだけです。私には固定した美人の観念がありません。ある時に強くチャームされた女性が出現して、その人を改めて見直して見た時に「美しい」と感じるわけであって、あらかじめ美の観念が掲げられていてそれに合わせるように美なる人を探す、或いは求める。そういう順序にはなりようもない。例えば、妻悦子を「美人」だなどと形容したのですが、初めから彼女は美人として私の前にいたわけではない。結婚して、改めて彼女の素晴らしさに惚れ込んで、彼女を愛する妻として眺めた際に美人だと判定した。そういう次第なのです。つまりは、路傍の人は美人であっても敢えて美人とは判定しないのですね。 第四聯です、生来の浪費家である好男子君、どう言う積りで君は自分自身のためにのみ美的な遺産を使い果たそうとしているのだろうか、自然と言う女神は遺産をただでくれるのではなくて、貸し付けるのだ。そんなことは私が言うまでもなく君だって先刻承知していることさ、だがね、美の女神は自分が気前がいいので貸し手には気前のいい人間を選別するわけさ、ところが君という白皙の黒眸子の吝嗇青年は、他者に与えよとて頒かたれた豊かな財産を抱え込んで、自分だけと取引して他所に目を向けようとはしないのだろうか…、実際呆れるほどに利殖が下手な高利貸しと君を悪罵しなければいけないらしい、そもそも君には豊富な美という財産を殖やそうなどと言う気持は最初から露ほどもないらしい、私は自分の形容が見当違いであることを自ら認めないわけにはいかない、けれども、暗喩的に君を非難すれば、莫大な大金を湯水の如くに投入しているのに利益は皆無のようだとしか表現のしようが見つからない。君はディーラーとしては極めて視野が狭く、自分自身としか商売をしようとしないらしい、短期的にはそれも許される事だが、長期で人生を俯瞰すれば君の極端な個人主義的商法(?)は実に割に合わない莫迦げた行為だと知れる、やがて時が経過して自然がこの世から去れと命令を下した時に、君はどのようにして君自身の人生の総決算を締めくくるつもりなのだろうか、言うまでもなく君の美質は他に投資しなければ君と一緒に墓場に消えるしかない宿命、繰り返し言っているように投資しておけばそれが遺産の執行人となるのだけれどね。自慰や男色行為は子孫を遺す正当な行為ではない事は君も百も承知しているわけだけれど、正規の結婚をして子供を産んでおけば周囲の大勢を安心させ、幸福にさせる道であるのに、君は好んでその通常人の進む道を選ぼうとはしないのだ。私が何故にこんなにも執拗に当たり前の結婚を君に進めるのは、自分の過去を深く悔いている為でもあるのだが、それはいずれ詳しく語る日も来るでありましょうよ。 ウイリアム・シェークスピア(1564ー1616)はイングランドの劇作家であり詩人、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により最も優れているとされる英文学の作家です。
2024年07月15日
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吾妹子(わぎもこ)に 逢はなく久し うまし物(もの) 安倍橘(あべたちばな)の 蘿(こけ)生(む)すまでに(― 妹に逢わず時がたった。安倍橘に苔がはえる程までに)あぢの住む 渚沙(すさ)の入江の 荒磯松(ありそまつ) 吾(あ)を待つ兒らは ただひとりのみ(― アジガモの住む渚沙の入江の荒磯の一本松のように、私を待つ少女はあなただけです)吾妹子を 聞き都賀野邊(つがのべ)の しなひ合歡木(ねぶ) 吾(あ)は隠(しの)び得ず 間(ま)無(な)くし思へば(― 私は絶え間なく恋しく思っているので、気持を人に隠すことができない)波の間ゆ 見ゆる小島の 濱(はま)久木(ひさき) 久しくなりぬ 君に逢はずして(― あなたにお逢いせずに久しくなりました)朝柏(あさかしは) 閏八川邊(うるはかはべ)の 小竹(しの)の芽(め)の 偲(しの)ひて寝(ぬ)れば 夢(いめ)に見えけり(― 恋人を心に思って寝たので夢にその姿が見えた)淺茅原(あさぢはら) 刈り標(しめ)さして 空言(むなこと)も 寄さえし君が 言(こと)をし待たむ(― 根も葉もない噂にでも、深い仲だと言い立てられたあなたからのお言葉を待ちましょう)鴨頭草(つきくさ)の 假れる命に ある人を いかにか知りてか 後も逢はむとふ(― ツキクサのように仮りの命の人間であるのに、その命をどう考えて、後で逢おうなどと言っているのだろう) 大君の 御笠に縫へる 有馬菅(ありますげ) ありつつ見れど 事なき吾妹(わぎも)(― ずっと見ていても何の非の打ちどころもない吾妹よ)菅(すが)の根の ねもころ妹(いも)に 戀ふるにし 大夫心(ますらをこころ) 思ほえぬかも(― ねんごろに妹を恋しているので、男子たるしっかりした心もなくなってしまった)わが屋戸(やど)の 穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)採(つ)み生(おほ)し 實になるまでに 君をし待たむ(― わが家の穂タデの古い幹を摘んで、新しいのをはやし、それが実になるまでも、あなたをお待ちします)あしひきの 山澤(やまさは)惠具(えぐ)を 採(つ)みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責むとも(― せめて、山の沢のエグを採みに行く日だけでも逢って下さい。母はたとい責めましょうとも)奥山の 石本菅(いはもとすげ)の 根深くも 思ほゆるかも わが思妻(おもひづま)は(― 奥山の石のもとの菅の根のように深く、心にしみて思われることである、私の心を寄せる妻は)蘆垣(あしかき)の 中(なか)の似兒草(にこぐさ) にこよかに われと笑(ゑ)まして 人に知らゆな(― にこやかに私とお笑いになって、人に知られなさいますな)紅(くれなゐ)の 淺葉(あさは)の野らに 刈る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も 吾(わ)を忘らすな(― 束の間も私をお忘れなさいますな)妹がため 命遺(のこ)せり 刈薦(かりこも)の 思ひ亂れて 死ぬべきものを(― 妹の為に命を残しておきました、刈り薦の乱れるように、心が乱れて死にそうでしたのに)吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつあらずは 刈薦の 思ひ亂れて しぬべきものを(― 吾妹子を恋しく思っていずに、ああ、刈薦のように心みだれて死ぬべきであるのに…)三島江の 入江の薦(こも)を かりにこそ われをば君は 思ひたりけれ(― あなたは私を真実の愛ではない、かりそめの心で思っておいでだったのに、私は本当に愛されていたと思っていたのでした)あしひきの 山橘の色に出て わが戀ひなむを 人目(ひとめ)難(かた)みすな(― 私は藪コウジが色づくように恋の気持を顔色に出してしまうでしょうから、あなたも人目などをはばかったりなさいますな)蘆鶴(あしたづ)の さわく入江の 白菅(しらすげ)の 知らせむためと言痛(こちた)かるかも(― 世間の人に知らせようとて、ひどく噂を立てることだなあ)わが背子に わが戀ふらくは 夏草の 刈り除(そ)くれども 生(お)ひ及(し)く如し(― わが背子と私の恋することは、あたかも夏草が刈りとっても次々と伸びてくるようなものです)道の邊の いつしば原の いつもいつも 人の許さば 言(こと)をし待たむ(― 何時でも、あなたが許すと言う言葉をお待ちします)吾妹子(わぎもこ)が 袖をたのみて 眞野の浦の 小菅(こすげ)の笠を 着ずて來にけり(― 吾妹子の着物の袖で隠してもらうことを頼みにして真野の浦の小菅で編んだ笠をかぶらずに来てしまった)さす竹の 節隠(よごも)りてあれ わが背子が 吾許(わがり)し來(こ)ずは われ戀ひめやも(― どうか家に籠っていてください。あなたが私のところにいらっしゃらなかったら、私はこんなに恋に苦しみはしないのです)神名火(かむなび)の 淺小竹原(あさじのはら)の うつくしみ わが思う君が 聲の著(しる)けく(― 神名火の浅小竹原のように私が愛しく思う方のお声がはっきりと聞こえます)山高み 谷邊にはへる 玉葛(たまかづら)絶(た)ゆる時なく 見むよしもがな(― 山が高いので谷辺を這っている玉葛が絶えないように、絶えるときなくあなたにお逢いする手立てが欲しい)道の邊の 草を冬野に 履(ふ)み枯らし われ立ち待つと 妹に告げこそ(― 道の辺の草を冬の野のように踏み枯らすほどに長い間、私は立って待っているとどうか妹に告げてください)畳薦(たたみこも) へだて編む數 通(かよ)はさば 道のしば草 生(お)ひざらましを(― 畳こもを、隔てをおいて繰り返し繰り返し編んで行くように、しばしばお通いになれば道の芝草は生えなかったでしょうに)水底(まなそこ)に 生(お)ふる玉藻の 生ひ出でず よしこのころは 斯(か)くて通はむ(― 水底に生える玉藻が水の上には伸びないように、表面には出ずに人目にはつかないで、ままよ、自分はこのまま忍んで通うことにしよう)海原(うなはら)の 沖つ縄苔(なはのり) うち靡き 心もしのに 思ほゆるかも(― 海原の沖に生えている縄苔のように、心もなよやかにうち靡いて、あなたが恋しく思われることよ)紫(むらさき)の 名高の浦の 靡き藻(も)の 心は妹(いも)に 寄りにしものを(― 名高の浦の靡き藻のように私の心はすっかり妹になびきよってしまったものを)海(わた)の底 沖を深めて 生(お)ふる藻の もとも今こそ 戀はすべなき(― 今こそ私の恋の心は最も激しく燃えて、何とも止める術がない)さ寝(ぬ)がには 誰(たれ)とも寝(ね)めど 沖つ藻の 靡きし君が 言(こと)待つわれを(―一緒に寝ると言うだけなら誰とでも寝るのでしょうが、沖の藻のように靡き寄ったあなたのお言葉をお待ちしている私なのです)吾妹子(わぎもこ)が 如何(いか)にとも吾(わ)を 思はねば 含(ふふ)める花の 穂に咲きぬべし(― 吾妹子が私を何とも思っていないのに、私は花の蕾が開くように、私の恋心をあらわしてしまいそうである)隠(こも)りには 戀ひて死ぬとも 御苑生(みそのふ)の 韓藍(からあゐ)の花の 色に出(い)でめやも(― 人知れずに焦がれ死にしようとも、お庭の鶏冠草の花のように色にあらわすことは致しません)咲く花は 過(す)ぐる時あれど わが戀ふる 心のうちは 止(や)む時もなし(― 美しく咲く花には盛りの時があってやがては枯れてしまうけれど、私の恋心にはそれがなくて、止むときがないのです)山吹の にほへる妹が 朱華色(はねずいろ)の 赤裳の姿 夢(いめ)に見えつつ(― 山吹のように美しい妹のハネズ色の赤裳の姿が夢に見えて)天地(あめつち)の 寄り合ひの極(きはみ) 玉の緒の 絶えじと思ふ 妹があたり見つ(― 天地が寄り合う時まで、永久に仲を絶つまいと思う妹の家のあたりを眺めたことである)生(いき)の緒に 思へば苦し 玉の緒の 絶えて亂れな 知らば知るとも(― 命を懸けて恋しているので苦しい。いっそ玉の緒が切れて乱れるように、心乱れてしまいたい。人が知るなら知ろうとも)玉の緒の 絶えたる戀の 亂れなば 死なまくのみそ またも逢はずして(― 仲の絶えた恋に心が乱れて収まらないならば、もはや死のうと思うばかりです。もう逢ったりはしないで)玉の緒の くくり寄せつつ 末終(つひ)に ゆきは分れず 同じ緒にあらじ(― 今はたやすく逢えないけれども、玉の緒を括り寄せれば、玉はついには離れ離れにならずに同じ緒に並ぶように私達も、末は一緒になりましょう)片絲みち 貫(ぬ)きたる 玉の緒を弱み 亂れやしなむ 人の知るべく(― 片糸で貫いた玉は緒が弱いので、切れて乱れるが、そのように私は心乱れるであろうか、人が気づくほどに)玉の緒の うつし心や年月の 行き易(かは)るまで 妹に逢はざらむ(― 正気でいて、年月の移りかわるまで妹に逢わずにいられるだろうか、いられないだろ)玉の緒の 間(あいだ)も置かず 見まく欲(ほ)り わが思う妹は 家遠くして「― 絶えず逢いたいと思う妹は、家が遠くて)隠處(こもりづ)の 澤たづみにある 石根(いはね)ゆも 通して思ふ 君に逢はまく(― 人目につかない沢タズミ・沢に湧く水にある大きい岩ですら、一筋に貫くほどにひたすらあなたにお逢いしたいとひたすら思っています)紀の國の 飽等の濱の 忘れ貝 われは忘れじ 年は經ぬとも(― あなたを忘れまい。たとい年は経とうとも)
2024年07月11日
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(へスターのセリフの続き)私がしますわ、ねえ、フレディー、最後にひとつだけ私のためにして欲しい事があるのです。ここへ来て、あなた自身でこのカバンを持って行ってください。さよならを言うだけ、それだけなの。誓って何も害はありませんよ、いいえ、誓います、誓いますよ。約束もしましょうよ、最も聖なる言葉で名誉にかけて…、あなたを引き止めたりは致しません、話だってしないでしょう、それをあなたが望まないならば、あなたはただ、カバンを持っていけば良いのです、もう一度お会いしたい、それだけなの、フレディー、信用してよ、信じて、お願いですから、フレディー、電話を切らないで…、どうか…、(彼女は呆然として受話器を見てから、元に戻す。一瞬それを見詰めてから明瞭に、もう一度ダイアルし直そうかと迷い、それが役に立たないことを悟る。彼女はゆっくりとドアーの所に行き、錠に鍵を差し、もう一度開錠する、身振りでフィリップに自由にお行きなさいと示す)フィリップ (もじもじして)貴女はツウィードコートについた何か言いましたが…。ヘスター そうでしたか、ああ、そうです。それはあそこのドアーに吊るしてあります。(フィリップは寝室に入る、スーツケースを持って。へスターは、一人残されて、暖炉の方へよろめくように進む、彼女はガスの点火栓を見下ろす、フィリップがコートを腕に載せて再び姿を現した)フィリップ (ドアーに向かいながら)それでは、お休みなさい。ヘスター お休みなさい、ウエルチさん。ああ、所で、あなたの奥さんがとても御心配なさっていらっしゃるでしょうから、一度顔をお見せになってから外出なさるほうが宜しいでしょうよ。フィリップ はい、そうします。(真心を込めて)独りで、大丈夫でしょうかね、つまり、今夜は馬鹿な真似はしないでしょうかね。昨夜の事から学習したはずですよね。ヘスター はい、私はちゃんと学習しましたわ。フィリップ 大変お気の毒に思いますよ、実際の話が…。ヘスター 有難う。フィリップ 思うに、彼は自分で荷物を取りに来るべきでしたね。ヘスター そうですね。フィリップ 仮に当然、彼は此処へやってきて貴女が彼を行かせまいと制止するのを嫌ったのを僕は理解しています。でも、それでも、貴女があの神聖な、真心込めた名誉の言葉を彼に与えたのですから…。(へスターはそれまでフィリップを見てはいなかったが、ゆっくりと彼の方を向いた)ヘスター あなたの精神的な価値への理解にいくらかの貢献をしたのでしょうか、ウエルチさん、私は先ほどの神聖で厳粛な名誉の言葉をほんの少しも守ろうなどとは思ってはいなかったんです。もしフレディーが今夜此処へ来たら、私は彼を留めたはずなのです、彼はその事を完全に理解しているのです、だから彼は来なかったのですよ。(フィリップは衝撃を受けて、黙って彼女を見詰めている。ヘスターは彼を見上げる)ヘスター 貴方は今、私が今の言葉を父親に言ったらそんな表情をするだろう様な、そんな顔つきをなさっていらっしゃるわ。父は精神的な価値を信じていて、しかも、肉体的な価値を少しも認めようとしない。(間)バッグを今フレディーに届けて上げてくださいな。あなたはタクシー代を持っているでしょうか。フィリップ はい、有難う。(ドアーの所で)ひょっとして、何か貴女からのメッセージの様な類のものはありますか…。(間)ヘスター (静かに)私の愛情を。(フィリップは頷き、行く。ヘスターはその後でドアーを閉め、一瞬の沈黙の後で彼女は静かに窓の所に動き、窓を閉めた。それから彼女はバッグを探って硬貨を見つけようとした。見つからなかったので、彼女はテーブルの方を向き、そこにフレディーが投げ出してあったシリング硬貨を見た。それを手にして、彼女はガスメーターに歩き、コインを挿入した音を観客は聞く。彼女は表のドアーの方を向き、鍵を閉めた。それから彼女は敷物を注意深くドアーの床に立てかけた。振り向いて、空のアスピリンの瓶を拾い、それを見て、それを下に置いた。それから彼女はポケットからミラーから受け取った錠剤を取り出してテーブルからコップを取り、台所へ行き、再び姿を現した、コップには水が一杯に入っている。彼女の呼吸は今は切れ切れになって切迫しており、まるで身体的な拷問でも受けているかのように。彼女の動きは今は緩慢である。ドアーでノックの音がする。彼女が錠剤を口に入れようとした瞬間を捉えたように) (性急に)はい…、何方ですか?ミラー (外で)ミラーです。ヘスター どんな用事でしょうか、私はこれから寝るところなのです。ミラー (外で)お目にかかりたいのです。ヘスター 朝ではいけないのですか…。ミラー (外で)はい、そうです。(ヘスターは我慢できないようにドアーの所に行く。敷物を引っ張ってソファーの場所に投げ出した。彼女が鍵を開けるとミラーが入ってきた) (鍵を指で指し示して)邪魔されないように決意したのですね。ヘスター 私は通常、夜には鍵を閉めています。ミラー 昨夜、そうしなかったのは幸運でした。ヘスター (コップの水を示して)頂いた錠剤を飲もうとしていたのです。ミラー そのようですな。ヘスター これは十分に効き目があるのでしょうか、ドクター。効き目がなかった場合にはもう二三錠頂けますでしょうか。(ミラーは答えないで、敷物をソファの上に置き直した。それから、ヘスターに見詰められながら、ゆっくりとガスストーブへと足を運び、ふと足を軽く蹴って栓を回した。シュッというガス漏れの音、彼は栓を蹴って閉めた)私は、頂けないかと…。ミラー 聞こえましたよ。答えは、いいえ、です。ヘスター 何故でしょうか。ミラー 私は過去に警察に十分捜査を受けた経験があるのです、自殺未遂者に眠り薬を与えたと今非難されたくはないのですよ。(彼は手を差し伸べる)ヘスター 貴方は想像力を逞しくなさり過ぎではないでしょうか、ドクター。ミラー いいえ、その薬を返してください。ヘスター 何故ですか。ミラー 表玄関に敷物を立てかけるならば、明かりを消してからにしたほうが賢明でしょう。ヘスター (ヒステリックになって)何故、貴方は私を見張っていたりするのでしょうか、何故、私をほっておいて下さらないのですか。ミラー 私は貴女に生きるか死ぬかの決断を迫ったりはしません。その選択は貴女のものです、それを決定するに足る十分な勇気をお持ちとお見受けいたしております。ヘスター (絶望的な叫びで)勇気、ですって。ミラー ああ、そうです。死へ自分を貶めるには勇気が必要です。殆どの自殺は死への逃亡です。貴女は生きるのは無意味だと考えて死のうとしているのです。それは本当でしょうかね。ヘスター (凶暴に)何が真実かなど、私には分かりません。私の分かるのはただ、今日以後人生と向き合うことなど出来ないという事だけですわ。ミラー 人生と直面するのはそんなにも困難なことなのでしょうかね、ほとんどの人がそれを上手くやっているように見えますが…。ヘスター 希望もなくて誰が生きられるでしょうか。ミラー 全く簡単なことです、希望を持たずに生きるとは、絶望せずに生きることを意味していますよ。ヘスター それは単なる言葉です。ミラー 言葉は、貴女の精神がしっかりとつかみさえすれば、手助けしてくれるのです。(彼は乱暴に彼女を自分に振り向かせて、厳しい調子で)貴女のフレディーはあなたを捨てたのです、彼は決して戻っては来ないでしょう。この世では決して、決して…。(一語一語で彼女は肉体的に殴られでもしたように意気消沈する)ヘスター (乱暴に)解っています、分かって…。それにまともに向き合えないのです。ミラー (残酷な力で)いいえ、出来ますよ。この言葉は、断じてダメです、それと直面して、人生と向き合うことは出来るのです。希望を乗り越えなさい、それが、あなたのただ一つの生きるチャンスなのです。ヘスター 希望の向こうには、何があるのですか。ミラー 人生です、それを信じなくてはいけませんよ。本当なのです、分かっているのです。 (ヘスターの嵐の涙が次第に収まっていく、彼女は頭を上げてミラーを見た)ヘスター (とうとう言う)貴方はまだ生きる事に何かの目的を見つけられているのですね。ミラー どんな目的でしょうか。ヘスター 病院で仕事を持っていらっしゃる。ミラー 私にとっての唯一の生きる目的は、ただそれを生きることなのです。病院での私の仕事はそれを手助けしてくれている。それで全てです。もしも貴女が見れば、貴女自身に手助けとなる何かを見つけるかもしれませんよ。ヘスター どんな手助けでしょうか。ミラー 貴女もお仕事を持たれていたのではありませんか、(身振りで絵画を示す)ヘスター ああ、あれね。(疲れたように)絵画を通じての逃げ道はありませんわ。ミラー あれでは駄目なら、こちらでは…。(別の絵を示す身振りをする)多分、あれを通してでは…、(初期の絵画を指さした)私は芸術の玄人ではありませんが、ここには才能のヒラメキが在る。一瞬の輝きではあっても、それに息を吹きかければ、炎となるかもしれない。大きな炎ではなくても世界を明るく照らすかも知れませんよ、ああ、そうではない、私はそんな事を言いたいのではなかった、が、この世界は暗すぎるので、ちょっとした輝きですら、歓迎すべきなのですよ。(彼は彼女にコップの水を渡した。彼女はそれを飲む。それから彼は絵の方を向いて)私はあの絵を買いたいのです。(へスターはその絵を取り留めもなく一瞬見詰めて、力なく立ち上がると絵のところへ行き、その絵を彼に手渡した。彼は微笑む)幾らですか。ヘスター 贈り物ですわ。(ミラーは頭を振る、依然として微笑みながら。彼は財布を取り出すと二ポンド紙幣を取り出した。ヘスターは頭を振った。ミラーはそれをテーブルの上に置いた)ミラー さてと、私はこれをテーブルの上に置いて、おいとましましょう。これは私に支払える金額であって、この絵の価値ではありません。貴女はそれを売らないと決めてしまっておられるが、領収書を封筒に入れて私宛に送ってください。私は了解して、感謝します。お休みなさい。ヘスター お休みなさい、ドクター。ミラー (振り返って)ドクターは止めてくださいな、お願いです。ヘスター お休みなさい、友よ。ミラー 私は貴女がそう言ってくださるのを願っていました。ヘスター (静かに)どうして、そんな風にお思いになられたのでしょうかしら。ミラー (も、静かに)私は貴女の確証を得たいと望んでいるのですよ、明日の朝までには…。ヘスター あなたを助けるために、私に何か選択をさせようと望んでおられるのでしょうか。ミラー (微笑みながら)私は、確かに新しく発見した友人を失うとすれば、悲しみを感じる権利を獲得してしまったのです、殊更に、貴女のごとく好感が持てて尊敬すべき人であれば、格別ですからね。ヘスター (厳しく)尊敬ですか…。ミラー そうです、尊敬です。ヘスター どうか、そんなにも私に対して親切になさらないで下さいな。(彼は彼女に急いで近づくとその肩を抱いた)ミラー 聴いてくださいな、世界が貴女を見るように貴女が自身を見ることは、とても勇気のいることかも知れない、それは同時に、非常に馬鹿げたことでもある。何故に貴女は神経症患者の様に世間が貴女を見ている見解をそんなにも簡単に受け入れてしまうのでしょうか。変に生きるよりは死んだほうが増しなのです。世間にどんな権利があって判断するのでしょう…。貴女を判断するとは、貴女と同等の感受性を持たなくてはいけないはずですね。そして、誰にそんな能力があると言うのですか、千人に一人もいないでしょう。貴女お一人がどう感じるかを知っているのです。しかも貴女だけが、その戦いが不平等であることを承知されている、その意志がこれからも戦うことを止めないでしょう。ヘスター 私は努力したが失敗した、それが、全罪人の言い訳なのですね。ミラー 正しくそれをした時に、単なる口実になるのです。ヘスター それは人々に判決を免れさせるでしょうか。ミラー はい、もし判事の判断が公平であれば、犯罪者への憎しみで盲目になっていなければ。貴女は自分への憎悪で盲目になっているのですが。ヘスター もしあなたが一つの情状酌量するべき状況を見つけて下されば、たった一つの理由を、何故私が自分をほんの少しでも、尊敬すべきだと考える手掛かりでも…。 (ドアーが突然に開けられて、フレディーが敷居の所に姿をあらわした)フレディー 今日は。ヘスター 今日は。(間)ミラー (へスターに)その理由を、貴女自身で見つけるべきです。(彼はへスターの手に触れて、フレディーに頷くと、部屋を出た)フレディー 僕は何か、邪魔をしてしまったのかな。ヘスター いいえ、全然。フレディー 彼は見たところ全くいい男だ、老ミラー。ヘスター そう、いい人だわ。バックを取りに来たのね。フレディー そう。ヘスター あの青年がカバンを持っていったわ・フレディー ああ、彼はエンジェルに置いていくだろう。大丈夫、受け取れるよ。ヘスター お入りなさいな、フレディー。ドアーの所で立っていないで。(彼はのろのろと中に入る)気分はどんななの、今は。フレディー 大丈夫だよ。ヘスター 来てくれて有難う。フレディー あの青年を使いに出すべきではなかったよ。ヘスター 食べ物は、宜しいの。フレディー うん、ベルベデーレで少し食べたのだ。君はどうなの。ヘスター ああ、私は後で何か食べるわ。(少し間がある。フレディーはまだ不安そうに彼女を見守っている)正確には、何時リオに出発するのですか。フレディー 木曜だ、話したはずだが。ヘスター ええ、そうね、勿論。船でなの。フレディー いや、飛行機だ。ヘスター ああ、そうですね、当然ね。アゾレス航空ですね。フレディー いや、ロンドンだ、ウエスト・アフリカからナタル経由で。ヘスター ワクワクするわね。フレディー ああ、分からないよ。ああ、ところで借用料なのだが、僕のゴルフクラブその他の、それの世話は老エルトン夫人にまかせているのだ。ヘスター それを必要なんですか。フレディー いいや、必要ない。ヘスター 今夜、残りの荷物をまとめるつもりよ。そして朝にチェアリング・クロスへ送るつもり。フレディー 急がないで。(間)これから何をするつもりなのだい、ヘス。ヘスター まだ決めていないのよ、フレディー。少し此処に座っていようと思うの。フレディー 僕はビルの家に手紙を投函したよ。彼は多分やってくるだろう。ヘスター もう、やって来たわ。フレディー それで、君は…。ヘスター 何でもなかった。フレディー 済まなかったよ。ヘスター 大丈夫よ、何でもないことよ。フレディー うん、そうだろうね。僕には分からないよ。君は絵の方は続けるつもりでいるのかなあ。ヘスター はい、そのつもりです。実際に私は美術学校に通うつもりでさえいるの。又、最初から始めるつもりなの。フレディー いい考えだね、再開するのに遅すぎることはないよ。人はそう言っているね。ヘスター ええ、そうね。(長い間がある、フレディーはヘスターが何かを言うのを待っている感じだ。が、彼女は依然として立って彼を見ている)フレディー (遂に)あのね…。ヘスター (明瞭で、穏やかな声で)さよなら、フレディー。(間)フレディー (口ごもりながら)さよなら、ヘス。(彼はドアーの方へ動く。彼女はまだ動かない。彼は振り向いて、彼女が何か言うのを待っている。彼女は無言だ。彼は突然彼女に歩み寄った)全てのことを感謝するよ。ヘスター 私もよ。(彼は彼女にキスする。彼女は彼の抱擁を無反応で受け止める)フレディー 僕は君を失って寂しく感じるだろうよ、ヘス。(直ぐに彼は彼女を手放し、ドアーの所に行く。そして振り向くと、かすかに狼狽えた訴えの素振りである)ヘスター (高らかに、明瞭に)さようなら。 (フレディーは振り向くと、のろのろと外へ出た。ドアーが閉まる。へスターは身動きせずに立っている、彼女の顔は無表情である。それから彼女は素早く部屋を横切り、スーツケースに到着した。それは寝室のドアーの棚に置かれていた。F.T.ペイジと表示されたスーツケースを椅子の上に置き、表面のドアーの横に釘に掛けてある衣類を掻き集めに行く。彼女はこれらの品物を一つ一つ片付けながら彼女の固まっていた表情が次第に崩れていく。彼女は彼の雨外套に顔を埋めて、そのままで暫く居る。それから、それらをソファに投げ出す。光が彼女の目を痛めるようだ。彼女は読書灯以外は消して、暖炉に行き、ガスを点火した。しばらくそこに立っていて、火がオレンジから赤に変化するのを見詰めている。彼女はソファに戻り、彼のスカーフ類を折りたたんでいる。静かに幕が降りる。
2024年07月09日
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しなが鳥 猪名山響(とよ)に 行く水の 名のみ縁(よ)さえし 隠妻(こもりづま)はも(― 猪名山を響かせて流れていく水のように、評判ばかり高く立てられて恋しく思い続けていることであろうか)吾妹子(わぎもこ)に わが戀ふらくは 水ならば しがらみ越えて 行くべく思ほゆ(― 吾妹子に対する私の恋は、川の水なら柵すらも越えていく程です)犬上(いぬかみ)の 鳥籠(とこ)の山にある 不知也(いあや)川(がは) 不知(いさ)とを聞((き)こせ わが名告(の)らすな(― さあ、知らないと仰言い、決して私の名を仰っしゃいますな)奥山の 木の葉(は)隠(かく)れる 行く水の 音聞きしより 常忘らえず(― 奥山の木の隠れに流れる水の音を聞くように、あなたの評判を聞いてから、いつも忘れることができません)言(こと)とくは 中は淀ませ 水無(みな)し川(がは) 絶ゆといふことを 有りこすなゆめ(― 人の噂が激しいなら今のところはちょっと行き来をお止めなさいませ。しかし、水無し川の水が絶えるように、仲が決して絶えることはなさらないでください)明日香川(あすかがは) 行く瀬を速み 早けむと 待つらむ妹を この日暮らしつ(― 早く来るだろうと妹が待っているだろうに、行けずにこの日を暮らしてしまった)もののふの 八十氏川(やそうぢがは)の 早き瀬に 立ち得ぬ戀も われはするかも(― 宇治川の早瀬で立っていようとしても流されるように、私は恋心に押し流されそうです) 別解:宇治川の激流の中に立っていても、私はあなたを忘れることができない。神名火(かむなび)の 打廻(うちみ)の崎の 石淵(いはふち)の 隠(こも)りてのみや わが戀ひ居(を)らむ(― 神が下りてくる社・神名火の打廻の崎の岩で囲まれた淵のように、私は人目を忍んで恋しつづけることでありましょう)高山ゆ 出で來る水の 岩に触れ 破(わ)れてそ思ふ 妹に逢はぬ夜は(― 高山から流れて来る水が岩に触れて砕けるように、心も砕けて恋しく思う、妹に逢わない夜は)朝東風(あさこち)に 井堤(ゐで)越(こ)す波の 外目(よそめ)にも 逢はぬものゆゑ 瀧(たぎ)もとどろに(― 外目にもひと目も逢いはしないのに、滝の水が落ちるほどに噂が立って)高山の 石本(いはもと)激(たぎ)ち ゆく水の 音には立てじ 戀ひて死ぬとも(― 高山の岩のもとを激しく流れていく水が音を立てるように、はっきりあらわして噂を立てられることはすまい。たとい恋の苦しさに死のうとも)隠沼(こもりぬ)の 下(した)に戀ふれば 飽(あ)き足(た)らず 人に語りつ 忌(い)むべきものを(― 心の中で思っているだけでは飽き足らずに、人に私の恋を話してしまった。忌み憚ることであるのに)水鳥の 鴨の住む池の 下樋無み いぶせき君を 今日見つるかも(― 鴨の住む池に下樋がなくて水が滞るように、逢いたい心が鬱屈していたけれども、あなたに今日お逢いしてすっかり胸が晴れました)玉藻刈る 井出(ゐで)のしがらみ 薄みかも 戀の淀める わが心かも(― 私の恋がスラスラと進まないのは、相手の情が薄いからだろうか、それとも私の心柄なのであろうか)吾妹子(わぎもこ)が 笠の借手(かりて)の 和蹔野(わざみの)に われは入りぬと 妹に告げこそ(― わざみ野に私は入ったと、妹に告げてください)數多(あまた)あらぬ 名をしも惜しみ 埋木(うもれぎ)の 下(した)ゆそ戀ふる 行方(ゆくへ)知らずて(― 二つも三つもあるわけではない自分の名を失うのを惜しんで、私は埋れ木のように人知れず恋しく思っています。成り行きは分からないままに)秋風の 千江の浦廻(うらみ)の 木積(こつみ)なす 心は依りぬ 後(にち)は知らねど(― 秋風の吹く千江の浦廻の木屑が岸に寄るように、私の心はあなたによってしまいました)白細砂(しらさなご) 三津の黄土(はぬふ)の 色に出(い)でて いはなくのみそ わが戀ふらくは(― 表だって言わないだけです、私の恋していることは)風吹吹かぬ 浦に波立つ 無き名をも われは負へるか 逢ふとはなしに(― 風の吹かない浦で波が立つように、何もないのに私は噂を立てられた。恋人に逢うというのではなく。 別解:私は女だから仕方がないと思って)菅島(すがしま)の 夏身の浦に 寄する波 間(あいだ)も置きて わが思わなくに(― 私はあなたを始終思っているのに)淡海(あふみ)の海 奥(おき)つ島山 奥まへて わが思ふ妹(いも)が 言(こと)の繁けく(―行末かけて私が大切に思っている妹に対して、人の噂があれこれと多くて心配である)霰(あられ)降り 遠つ大浦に 寄する波 よしも寄すとも 憎からなくに(― たとい、あの人と噂を立てられても私はあの人を憎くはないのだから、かまいはしない)紀の海の 名高(なたか)の浦に 寄せる波 音高きかも 逢はぬ子故に(― 人の噂の高いことだなあ、逢いもしないあの子なのに)牛窓(うしまど)の 波の潮騒(しおさゐ) 島響(とよ)み 寄さえし君は 逢はずかもあらむ(― 大きな噂を立てられたわが君は、私に逢ってくださらないのであろうか)沖つ波 邊波(へなみ)の 來(き)寄(よ)る 左太(さだ)の浦の この時(さだ)過ぎて 後戀ひむかも(― この良い時期が過ぎてしまって、後で恋しく思うだろうか)白波の 來寄(きよ)する島の 荒磯(あらそ)にも あらましものを 戀ひつつあらずは(― 白波の寄せてくる島の荒磯ででもあればよかった。こんなに恋しく思っていずに。荒磯には波だけでも寄せてくるが、私には何も寄せてこない)潮満(み)てば 水沫(みなわ)に浮かぶ 細砂(まなご)にも われは生(い)けるか 戀は死なずて(― 潮が満ちてくると水の沫に浮かぶ細砂のように、はかなく私は生きていることだ。恋に苦しんで死にもしないで)住吉(すみのえ)の 岸の浦廻(うらみ)に しく波の しばしば妹を 見む縁(よし)もがも(―住吉の岸の浦廻に次から次へと押し寄せてくる波のように、しばしばあの子に逢う手段が欲しい)風をいたみ 甚振(いたぶ)る波の 間(あひだ)無く わが思ふ君は 相思ふらむか(― 風が激しいのでひどく立つ波の間がないように、間無く私が心を寄せているわが君は、今頃私を思っていて下さるだろうか)大伴の 三津の白波 間(あひだ)無(な)く わが戀ふらくを 人の知らなく(― 大伴の三津の白波のように絶え間なく私が恋い慕っているのを、あの人は知らないことよ)大船の たゆたふ海に 碇下(いかりおろ)し 如何(いか)にせばかも わが戀止(や)まむ(― 大船の揺れるのを錨を下ろして鎮めるけれど、どうすれば私の恋心は収まるだろうか)みさご居(ゐ)る 沖の荒磯(ありそ)に 寄する波 行方(ゆくへ)も知らず わが戀ふらくは(― みさごのいる沖の荒磯に寄せる波のように、私の恋は行方も分からないことであるよ)大船の艫(とも)にも 舳(へ)にも 寄する波 寄すとわれは 君がまにまに(― 私達の噂を立てようとも私は、わが君の思いのままにいたします)大海に 立つらむ波は 間(あいだ)あらめ 君に戀ふらく 止(や)む時も無し(― 大海に立つという波は間があるでしょうが、わが君に対する恋は止むときがありません)志賀(しか)の海人(あま)の 火氣(けぶり)焼き立てて 焼く塩の 辛(から)き戀をも われはするかも(― 志賀の海人が煙を立てて焼く塩のように辛い恋、つらい恋をしています)なかなかに 君に戀ひずは 比良(ひら)の浦の 白水郎(あま)ならましを 玉藻刈りつつ(―なまじっか君に恋せずに、いっそ比良の浦の海人になればよかった)鱸(すずき)取る 海人の燈火(ともしび) 外(よそ)にだに 見ぬ人ゆゑに 戀ふるこのころ(― スズキを釣る海人の灯火のように、外目にすらも見ない人だのに、私はその人を恋しく思うこの頃である)湊入(みなといり)の 葦分小舟(あしわけをぶね) 障(さはり)多み わが戀ふ君に 逢はぬ頃かも(― 港に入る葦分け小舟が障りが多いように、障害が多くて、恋しいわが君に御逢いできないこの頃です)には清(きよ)み 沖へ漕(こ)ぎ出(づ)る 海人舟(あまぶね)の 楫(かじ)取る間(ま)無き 戀もするかな(― 海面が綺麗なので、沖へ漕ぎ出す海人舟が櫓を暇なく漕ぐように、絶え間なく恋心が湧いてくることである)あぢかまの 塩津(しほつ)を指して 漕ぐ船の 名は告(の)りてしを 逢はざらめやも(― あなたに私の名を申しましたのに、どうしてお逢いせずにいられましょうか)大船に 葦荷(あしに)刈り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも(― 大船に葦荷を刈って積んでいっぱいになっているように、妹は私の心いっぱいになっていることだ)驛路(はゆまぢ)に 引舟渡し 直乗(ただのり)に 妹は心に 乗りにけるかも(― 駅に通じる道で曳舟を引っ張って真っ直ぐに渡っていくように、妹は私の心に一筋に乗っていることだ)
2024年07月08日
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コリアー 私はただ次の事を理解しているだけなのだよ、結婚式の時よりももっと君を愛しているのだよ。ヘスター (静かに)あなたは結婚式の時は私を愛してなどはいなかったわ、ビル。そして今も私を愛してなどはいないし、これからだってそうでしょうよ。コリアー ヘスター…。ヘスター 私は単なる名誉の所有物でしかなかったし、今は更に一回盗まれたから更に価値が上がった所有物と化したのよ。それだけのことよ。コリアー (傷付いて)君は何を言っているのだろうか。ヘスター (仰天してしまい)あなたが私を無理に強いてそう言わせたのよ、ビル。私があなたを傷つけて楽しんでいると思うでしょうね、よりによってあなたを選んで。多分、あなたはもう行ったほうがいいわ、そして別の機会にお話をしましょうよ、お互いがもっと冷静になれた時に。コリアー いや、今、もっと話し合う必要があるよ。君は言ったよ、私が結婚した時に君を愛していなかったと。ヘスター 私には解っていたことです。コリアー それでは何故、僕は君と結婚したと思うのかね、何故、君は結婚を申し出たのだろうか。ヘスター (途中で遮って)分かります、ビル、分かりますわ。私に最悪の伴侶だったなどと思い出させる必要はないのですよ、私は常にその事を意識していたのです。ああ、私はあなたが私を愛していたから私と結婚した事を否定したりはしませんよ。あなたの考えている愛情でね。そして私の方も、私の考える愛情で以てね。問題なのは、その両者が食い違っている事なのよ、分かるでしょう、ビル。私にはもっとあなたに与えられる物があるのですよ、もっとたくさんの物、あなたが望みさえすればの話ですがね。コリアー どうして君はそんな事を言うのだろうか。私は君の愛情を、分かっているはずなのだが…。ヘスター いいえ、ビル。あなたは単に愛情ある妻を望んでいただけなのよ。世界がまるで違っているのですよ。 (間)コリアー 君に想像できるのだろうか、君のスタディオと仕事との哀切な物語を私に信じろとでも言うのだろうかね。私には君が将来をどのように視覚化しているのか、正確には理解できない。(ヘスターは黙っている)君はフレディーを決して手放さないだろう、ヘスター。君には出来ないのさ、(ヘスターはまだ黙っている、懇願するように)ヘスター、君よ、君の言う私と私の君への感情は正しいようだが、私は君の唯一の人生のチャンスを提案したいのだよ。何故受け取ることが出来ないのだろうか、結局は、兎に角上手く幸福に運んでいたじゃあないかね、かつては。ヘスター はい、そうでしたわ。とても幸福にね。コリアー それで、どうなるのかな…。(ヘスターは答えない。コリアーはへスターを抱いてキスした。彼女は彼を邪魔しない、が、無反応である。しばらくしてから、彼は彼女を手放した)ヘスター お分かりでしょうが、私は違う人間になっているの。(間) もう、行ったほうがいいでしょう、(コリアーは彼女から視線をはずし、部屋の中を見回す) (堪えきれずに)私は、大丈夫ですわ。(コリアーは頷いて、ドアーの所に行く)コリアー 君は依然として離婚を欲しているのだろうかね。ヘスター はい、ビル。それが最善だと思うの。コリアー 話し合うべきことが沢山にある、事務的な事柄だが。ヘスター はい、そうでしょうね。コリアー 当面のお金は必要ないのだろうかね。ヘスター お願いよ、ビル。コリアー さようなら、それでは…。ヘスター さようなら。(彼は彼女を困惑した面持ちで、酷く面倒そうに見た。彼は最後の訴えをしようと考慮するように見える。ヘスターは彼の視線を避ける。コリアーは肩をすくめてから去る。ヘスターは独りで取り残された。ワインをひとすすりする。彼女が腰を下ろそうと動き始めた時に、ドアの鍵が回される音がした。彼女は急いで振り向いた。彼女は急いで台所と仕切られた場所に移動して、表面のドアーから見えないようにした。ドアーが開いてフィリップ・ウエルチがこっそりと姿を現した。彼女は奥まった場所を離れて出てきた)ヘスター フレディーなの…。(フィリップは急に向きを変えた。彼は非常に狼狽している)フィリップ ああ。ヘスター どうやって入ったのですか。フィリップ フレディーなんですよ、彼が鍵を貸してくれて、彼は自分のスーツケースを持ってきてくれと、彼はその中に全部の洗顔道具を入れているのだそうで、明瞭に、今夜それが必要だと言うのですよ。ヘスター 彼は今夜何処に行くつもりなのでしょうか。フィリップ (工合が悪そうに)知りません。ヘスター 彼は今、何処なんです。フィリップ あのォ、あの場所は何というのか…。ヘスター 何処ですか。フィリップ ウエストエンドの何処かです。ヘスター ギリシャ通りですか。フィリップ 分かりません。 (間)ヘスター 分かりました、彼とはどのくらい一緒にいたのですか。フィリップ 九時からです。ヘスター そして、三時間あれば随分と色々の事を話したでしょうね、特に彼が酔っている時には。フィリップ 彼は酔っていませんでしたよ。少なくとも彼の言うことはまともでした。ヘスター (厳しく)本当ですか…。フィリップ (少しばかり年配めいた口調で)コリアー夫人、少し申し上げても宜しいでしょうか。ペイジはとても僕に対して率直でした。実に率直そのもので、彼の打明話を誘ったわけではないのですがね、それで僕は全体の事情を把握したわけです、お分かりですか、それで僕はこの瞬間にあなたが感じているに相違ない事を理解できるのですよ。ヘスター そうなのですか、ウエルチさん。フィリップ 僕は恋愛をしていましたよ、ご承知でしょうが。事実、一年前には結婚で破局を迎える寸前でした、僕がある娘に夢中になってしまいましてね、実際ひどいタイプの相手だった、全く破滅的でしたね、自分が愛している誰かを諦めるのはどんなことなのかを知ったと言う訳ですよ。それで、これは実に僭越至極なことなおですが…。ヘスター いいえ。フィリップ (勇気づけられて)さて、こう思うわけなんです、ある種、あなたが努めて鉄で武装してあなた方お二人にとって最善の道を進まれる事を希望するのです。大変だ、それは厳しい道でしょう、でも僕はよく覚えているのです、その娘は、女優でしたが、彼女は有名だったりはしませんでしたが、僕は一人きりである日、座って考えたのです、自分に言ったのですよ、ご覧よ、肉体的には彼女は君が望んでいる世界で全てであろう、他方では、彼女は何なのだ。何でもないぞ、そこで僕にできたことは彼女に手紙を書く事だった。そしてそれから僕は二週間ほど一人きりで旅に出た、そして勿論、地獄を味わいましたが、次第に精神状態が鮮明になってきた。そして戻った時には僕は森を抜け出していたのです。ヘスター 喜ばしいことですわ。どちらに行かれたのですか。フィリップ ライム・レジスです。ヘスター とても綺麗な場所ですね。私も知っています。フィリップ 勿論、あなたのためにはイタリアとか南フランスとか言った場所の方がより良いでしょうがね。ヘスター 何故にライム・レジスより良いのでしょうかね。フィリップ 完全に雰囲気を変える為です、よい気候、誰もあなたを知らない、多くの時間を使って考え尽くす、そして、僕が思うに、あなたは正直に考えをまとめれば、全てが実に些細な事柄だったと容易に気付くはずですよ。釣り合いの取れた考え方をする時にです。詰まりは、お説教好きとか何とかになろうとしないで、この人生で勘定に入れなければいけないのは精神的な価値なのですよね、肉体的な側面は実際には大して重要ではないわけですね。客観的に言って、そう御思いになりませんか。ヘスター (重々しく)客感的言えばですね。(退室を指示するのを諦めて)さて、とてもご親切にウエルチさん、こうした助言を下さって、とても感謝しています。フィリップ いいえ、どう致しまして。その事で僕を叱りつけたりなさらなかったので嬉しいのです。分かりますか、ペイジは僕に全部の事情をすっかり話して、僕は非常に興味を掻き立てられたのです、何故ならば、こういった事柄は人間性に光を当てることになりますからね。ヘスター はい、そう思います。フィリップ カバンを受け取っても宜しいでしょうか。ヘスター ドアの向こう側に置いてあります。(フィリップは寝室に入る。そしてスーツケースを手にして直ぐ姿を現した)何処へ、フレディーはあなたにそのカバンを持ってきてほしいと依頼したのですか。駅とかその他の場所でしょうか、それとも、ホワイト・エンジェル迄でしょうか。フィリップ ホワイト・エンジェルまで…、(突然に言いやめた) (間) (大人しく)ホワイト・エンジェルに彼は来るのです。ヘスター (静かに)そのカバンを下に置いてくださらない、そして、行ってくださいな。フィリップ それは出来かねます、彼に私が持っていくと約束したのですから。分かりました、お休みなさい。(彼はドアに向かう。ヘスターがその前に立って、急いで鍵を回した。彼女は鍵を取り外してポケットにいれた。次に電話に向かっていき、そこで電話帳をめくる)ヘスター 私はこのメロドラマティックな身振りをお詫びいたします。でも、少しだけあなたを足止めしなければならないのです。(彼女は電話番号を回し始めた)長くはお留めしませんよ、クラレット瓶に残りがありますので、良かったらどうぞ。フィリップ (体を固くして)ねえ、僕は実際の所…。ヘスター どうぞお座りくださいな。あなたは今人間性の素晴らしい研究を再開できるのです。(彼女は番号を回し続ける。フィリップは立って彼女を見守っている) もしもし、ホワイト・エンジェルですか、ペイジ氏はいますでしょうか、(声を高めて)ペイジ氏です、そうです、ああ、彼は…、ジャクソン夫人、いいえ、ジャクソン、はい、(フィリップに)向こうでは音がとてもうるさいのです、(間)もしもし…、あなた、ヘスターです、電話を切らないで、口喧嘩はしないわ、約束します、約束するわよ。私はただ仕事のことを知りたいだけよ、それだけ。(声を高めて)その仕事…、相手の人には会ったのですか。ああ、それは良かったわ、分かります、良かったです、どのくらい直ぐにですか、それの後直ぐになの…、ああ、フレディー、いいえ、ごめんなさいね、そんな風に言うのを聞いているだけよ、それだけよ。(声を高めて)そう言うのを聞いているだけよ…、ねえ、あなたのカバンのお使いは此処に居るわ、あなたが三日間欲しかった物の半分も入ってはいない、出発するまで何処にいるのですか…、いいえ、それで結構よ、言わなくてもいいの、言いたくないのなら、私はただ、地方なのか、町なのかを言いたかっただけよ、さあ、思ってみてよ、フランネルのシャツはカバンに入っている、それで、次はツイード製の服が必要なのね、分かります、残りの品についてはどうしましょうかね、ああ、何時それを郵送したのですか…、私が明日受け取ればいいわけね、それで……、チャーリング・クロスの衣類室…、分かりました、はい。
2024年07月05日
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ちはやぶる 神の齊垣(いかき)も 超えぬべし 今はわが名の 惜しけくも無し(― 神社の神聖な齊垣でさえも超えてしまいそうです、恋心の苦しさで。私はもう名も何も、惜しくはありません)夕月夜(ゆふづくよ) 暁闇(あかときやみ)の 朝影に わが身はなりぬ 汝(な)を思ひかねに(― 朝影のようにやせ細ってしまったよ、お前を思うに耐えかねて)月しあれば 明(あ)くらむ別(わき)も 知らずして 寝(ね)てわが來(こ)しを 人見けむかも(― 月が出ていたので、外では夜も明けたかどうかも分からずに、寝過ごして帰ってきた私を、人が見ただろうか)妹(いも)が目の 見まく欲(ほ)しけく 夕闇の 木(こ)の葉(は)隠(ごも)れる 月待つ如し(― 妹の顔を見たいのは、ちょうど夕闇の木の葉に隠れて出て来ない月を待つようなものです)眞袖もち 床(とこ)うち拂ひ 君待つと 居(を)りし間(あひだ)に 月かたぶきぬ(― 両袖で床を打ち払って、わが君をお待ちする積りで坐っておりますうちに、月が傾いてしまいました)二上(ふたがみ)に 隠らふ月の 惜しけども 妹が手本(てもと)を 離(か)るるこのころ(― 二上山に隠れる月のように惜しいけれども、妹の袂を離れているこのころです)わが背子が ふり放(さ)け見つつ 嘆くらむ 清き月夜(つくよ)に 雲なたなびき(― わが背子が振り仰いで見遣りながら今でも嘆いているであろうこの清い月に、雲よ、かからないでおくれ)眞澄鏡(まそかがみ) 清き月夜(つくよ)の 移(うつ)りなば 思ひは止(や)まず 戀こそ益(ま)さめ(― 清く照る月が空を渡っていったなら、恋しい人に対する我が思いはやまず、恋しさは一層勝るであろうに)今夜(こよひ)の有明の 月夜(つくよ)ありつつも 君をおきては 待つ人もなし(― 私にとってあなた以外には誰もお待ちする人はなかったし、これからもないのです)この山の 嶺に近しと わが見つる 月の空(そら)なる 戀もするかも(― この山の嶺に近いなあと私が見たあの月が手に取れないように、憧れるだけの中空な恋をすることだ)ぬばたまの 夜渡る月の 移(ゆつ)りなば さらにや妹(いも)にわが恋ひ居(を)らむ(― 夜空を渡っていく月が移って行ったら、今よりも一層激しく妹を恋しく想い続けるでしょうね)朽網山(くたみやま) 夕居(ゐ)る雲の 薄れ行かば われは戀ひむな 君が目を欲(ほ)り(―たくみ山に夕方かかっている雲が薄れていったならば、私は恋しく思うであろう。わが君の顔を見たくて)君が着る 三笠の山に 居(ゐ)る雲の 立てば纘(つ)がるる 戀もするかな(― 三笠の山にかかっている雲が消え失せると直ぐ、かかって絶えないように、止むときもない恋をすることであるよ)ひさかたの 天(あめ)飛ぶ雲に ありてしか 君を相見む おつる日なしに(― 天を飛ぶ雲であったならばなあ、あなたをかかさずに見ることができるように)佐保の内ゆ 嵐の風の 吹きぬれば 還(かへ)るさ知らに 嘆く夜そ多き(― 佐保の地内を嵐の風が激しく吹くので、いつ帰ったらよいのかわからなくて、嘆く夜が多いことです)愛(は)しきやし 吹かぬ風ゆゑ 玉匣(たまくしげ) 開(あ)けてさ寝にし われそ悔(くや)しき(― ああ、心を寄せて下さるのではなかったのに。おいでを待って、戸を開けて寝た私の愚かさが後悔される)窓越しに 月おし照りて あしひきの 嵐吹く夜は 君をしそ思ふ(― 窓越しに月が照って山の嵐の吹く夜は、わが君の事を思う)川千鳥 住む澤の上(へ)に 立つ霧の いちしろけむな 相言ひ始(そ)めたば(― 川千鳥の住む沢の上に立つ白い霧がはっきりと見えるように、人目に立つことだろうな。互いに逢い始めたならば)わが背子(せこ)が 使を待つと 笠も着ず 出でつつそ見し 雨の降らくに(― わが背子の使を待つとて、笠もかぶらずに戸外に出てみたことである。雨の降るのに)韓衣(からころも) 君に打ち着せ 見まく欲り 戀ひそ暮らしし 雨の降る日を(― 外国風の洒落た着物をわが君に着せてみたいと思い、雨の降る一日を、君を恋いつつ暮らしたことである)彼方(をちかた)の 赤土(はにふ)の小屋(をや)に こさめ降り 床(とこ)さへ濡れぬ 身に副(そ)へ吾妹(わぎも)(― あっちの赤土の所の小屋は、小雨が降って床までが濡れてしまった。私の身に寄り添いなさい吾妹よ)笠無(な)みと 人には言ひて 雨障(あまつつ)み 留(とま)りし君が 姿し思ほゆ(― 笠がないからと人には言って雨に降込められて帰らずにいたわが君の姿が、今も目の前に見える)妹(いも)が門(かど) 行き過ぎかねつ ひさかたの 雨の降らぬか 其(そ)を因(よし)にせむ(― 妹の家の門の前を通り過ぎることができない。雨でも降らないかなあ。それを口実にして立ち寄ろうものを)夕占(ゆうけ)問(と)ふ わが袖に置く 白露を 君に見せむと 取れば消(け)につつ(― 夕占をする私の袖に置く白露をあなたに見せようと手に取れば消えてしまった)櫻麻(さくらを)の 苧原(をふ)の下草 露しあれば 明(あか)してい行け 母は知るとも(―桜麻の麻原の下草は露に濡れていますから、私の家で夜を明かしておいでなさいな、母が気づこうとも)待ちかねて 内には入らじ 白栲(しろたへ)の わが衣手(ころもで)に 露は置きぬとも(― あなたのおいでを待ちきれずに内に入ることは致しますまい。白栲の私の袖にたとい露は置こうとも)朝露の 消(け)やすき わが身老いぬとも また若(を)ちかへり 君をし待たむ(― 朝露のように消えやすいわが身は、たとい年老いようとも、再び若返ってわが君をお待ちしましょう)白栲の わが衣手に 露は置き 妹は逢はさず たゆたひにして(― 私の袖に露は置くけれども妹は逢ってくれない、気持が揺れていて)かにかくに 物は思はじ 朝露の わが身一つは 君がまにまに(― あれこれと物思いは致しますまい。朝露のように儚い私の身一つは、どうぞあなたのお心のままに)夕凝(ゆふこ)りの 霜置きにけり 朝戸(あさと)出(で)に はなはだ践(ふ)みて 人に知らゆな(― 夕方凝った霜が庭に置いています。朝家を出る時にひどく踏み乱して、あなたのおいでを人に知られなさいますな)斯(か)くばかり 戀ひつつあらずは 朝に日(け)に 妹(いも)が履(ふ)むらむ 地(つち)にあらましを(― こんなに恋の思いに苦しんでいずに、いっそ朝に昼に妹が踏んでいる土になればよかったのに)あしひきの 山鳥の尾の 一峯(ひとを)越え 一目見し兒に 戀ふべきものか(― たった一目見ただけの児を、こんなにも恋しく思うべきであろうか)吾妹子(わぎもこ)に 逢う縁(よし)を無み 駿河(するが)なる 不盡(ふじ)の高嶺(たかね)の 燃えつつかあらむ(― 吾妹子に逢うきっかけがないので、駿河の国の不尽の高嶺のように心の中で燃え続けていくことであろうか)荒熊の 住むといふ山の 師歯迫山(しはせやま) 責(せ)めて問ふとも 汝(な)が名(な)は告(の)らじ(― 人が責め立てて訊きただしても、決してあなたの名は申しますまい)妹が名も わが名も立たば 惜しみこそ 布士(ふじ)の高嶺(たかね)の 燃えつつ渡れ(― 妹も私も、名を汚しては惜しいと思うからこそ、心の中では不尽の高嶺のように燃えつつも外には現さずに焦がれ続けているのに、私に誠意が無いように責めるとは)行きて見て 來(く)れば戀しき 朝香潟(あさかがた) 山越(ご)しに置きて 寝(い)ねかてぬるかも(― 恋しい人のいる朝香潟を山越しにおいて、私は眠れない)安太人(あだひと)の 魚梁(やな)うち 渡す瀬を速み 心は思うへど 直(ただ)に逢はぬかも(― 安太人が魚梁を打つ瀬の流れが激しいように、周囲の状況が厳しいので心では思っているが直接逢えないことである)玉かぎる 石垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りには 伏して死ぬとも 汝(な)が名は告らじ(― 家にこもったまま人知れず倒れふして死のうとも、あなたの名は人に打ち明けはしません)飛鳥川(あすかがは) 水行き増(まさ)り いや日けに 戀の増(まさ)らば ありかつましじ(― 飛鳥川の水が増して行くように日増しに恋心が募ったなら、とてもいられないことであろう)眞薦(まこも)刈る 大野川原(おほのかはら)の 水隠(みこも)りに 戀ひ來(こ)し妹(いも)が紐解くわれは(― 密かに慕い続けてきた妹の紐を今解くことである、私は)あしひきの 山下響(とよ)みゆく水の 時ともなくも 戀ひ渡るかも(― 山下を響かせて流れていく水の時を定めないように、いつも恋しく想い続けております)愛(は)しきやし 逢はぬ君ゆゑ 徒(いたづら)に 此の川の瀬に 玉裳ぬらしつ(― ああ、逢ってくださらないあなたですのに、虚しく私はこの川の瀬で玉裳を濡らしてしまいました)泊瀬川(はつせかは) 速み早瀬を 掬(むす)び上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも(― 泊瀬川の流れが速いので、私に代わって早瀬の水を手に結んで、もっと欲しいかと私に優しく訊ねたわが君、ああ、今はもういないのだ)青山の 石垣沼(いはかきぬま)の 水隠(みこも)りに 戀ひや渡らむ 逢ふ縁(よし)を無み(― 青山の石で囲われた沼が水で隠れるように、隠れ忍んで想い続けることであろうか。逢う手立てがなくて)
2024年07月04日
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ヘスター 彼がその事をあなたに話したのですか。エルトン夫人 いいえ、あなた。彼が此処に移り住んでだ後で、彼宛の手紙が来たのですよ、カルト・ミラー医学博士と書かれた。そして、それからその事件を覚えています、それについてとても多くの記事が書かれていましたよ。勿論、私は彼にその事を私が知っている事は言いませんでしたが彼は推測していたみたいでして、私が、彼がいつも部屋を小奇麗に保っていると話している時に、彼がこう言ったのですよ、そうですね、エルトン夫人、部屋を小奇麗にする習慣は私は刑務所で覚えたのですよ。そう言った事を。その時だけですね、彼が事件について触れたのは。その後直ぐに彼は私の夫を診察してくれるようになったのでっす。人々が彼をどんなに酷く扱ったかは言語に絶しますよ。ああゆうお人が競馬の予想屋をしていることを想像してくださいな、あなたには面白くもない無駄話でしょうがね。ヘスター 彼は何故あんな仕事を引き受けたのでしょうか。エルトン夫人 乞食には選択の余地は与えられていませんよ。もしも彼の患者の一人が彼を可哀想と情けを掛けた、それが予想屋だった。そう、彼は食わなければいけなかった。とにもかくにも、彼のあのカバンに何が入っているかお教えしますよ、もし本当にあなたが知りたいと望むのでしたらね。彼は毎夜、小児麻痺の病院に行って働いているのです、無料奉仕です、当然に。彼の以前の専門だった、明らかにその種の施設で働いていた…。ヘスター 医療関係簿への登録は出来ないのでしょね。エルトン夫人 ええ、ダメでしょうね。望みはありませんよ。そう言わざると得ないでしょうね。あなたは人というものがどんな物か、そして、彼がした事は、そうですね、人々が容易に許す種類の事柄ではないのよ。そう思うわ。ヘスター でも、貴女はそれを許した、そうでしょう、エルトン夫人。エルトン夫人 ああ、そうね。私はこの場所で余りにも多くの事柄に遭遇して、肝を潰したりさせられた。一つの世界を形成するくらいの種類の体験、結局ね。十一号室にあるひと組の男女が以前に住んでいたの、(彼女は突然に止める)彼が階段の上にいるのが聞こえるわ。(彼女はドアーを開ける。ミラーが階段を下りてくる)下に降りて、夫を準備させましょうか。ミラー お願いします。エルトン夫人 申し訳ありませんが、ペイジ夫人に眠り薬を差し上げて頂けませんか。ミラー 私もそう考えていました。エルトン夫人 結構ですわ、(ヘスターに)それでは、お休みなさい。もし何か用件がありましたら電話してくださいね、私はいずれにしても夫と一緒に明け方まで起きていますので。(彼女は去る。ミラーは部屋に入ってきて、ポケットからビンを取り出した。二錠の錠剤を取り出して、へスターに渡した)ヘスター 有難う、ドクター。(彼女は錠剤をテーブルの上に置いた)ミラー 私はそう呼ばないようにお願いしましたよ。ヘスター 忘れておりました、御免なさい。ミラー 直ぐにお休みになられますか。ヘスター もうじきに…。ミラー (行こうとして向きを変えた)あまり、時間を伸ばさないようにしてください。ヘスター 誰もが今夜は私を気遣って下さいますわ。ミラー びっくりなさいましたか。声が階段を伝って聞こえるのです、この家では。ヘスター フレディーと私ですか。(ミラーが頷いた)皆が我々の声を聞いた、と思います。尊敬すべき住人の全てが肘を付き合って相手の注意を促し、言うのです、あの呑んだくれのボーイフレンドは彼女を見捨ててしまった。良くしてやればいいものを。ミラー 私はそうは言いませんでした。しかも、私は尊敬すべき住人でもありませんし。ヘスター (単純に)私はどうしたらよいのでしょうか。ミラー 私があなたにお教え出来るなどと、どうして思われるのですか。ヘスター かつてあなたはガスストーブにどのくらいまで近づきましたか。(間、ミラーは突然に彼女から離れた)ミラー エルトン夫人、は…。(彼はへスターの方に向き直った。唐突に)ミラー あなたは私の助言を求めましたね。この錠剤を飲んで、今夜は眠りなさい。朝には、生き続けるのです。 (ドアーの所でノックの音がする。へスターが開ける。コリアーが外に立っている。彼は晩餐用の服装である)ヘスター ビル。コリアー 私はお詫びをするつもりはない。私は君に会う必要があった。(彼は室内に入って来ながらミラーを見た)ミラー (へスターに)はい、これが私があなたに与えうる最良の特別な助言です。お休みなさい。 (彼はコリアーに頷くと、外に出た。コリアーはヘスターに手に持っていた開封した手紙を手渡す、ヘスターはその封筒の筆跡を見て息を鋭く吸い込んだ。彼女はそれを急いで読みきった)ヘスター 何時届いたのですか。コリアー 分からない。二十分程前に発見されたのだ。推測するに、彼はベルを鳴らさずに投函したものらしい。(ヘスターは呆然として手紙を再読した)ヘスター (疲れたように)はい、そのようですね。(彼女は手紙を返す)コリアー 何時なんだね。ヘスター 今日の午後、あなたが帰ったあとです。コリアー 理由は何なのかね。ヘスター 昨夜起きた事ですわ、それで彼は今日の午後へべれけに酩酊して。彼は言ったのです、私たちはお互いにとって死だって。コリアー 酒に真実有り、だね。ヘスター そう言った時彼はひどく酔っていたわ。コリアー 私が思っていた以上に彼の理解力は優れていたわけだね。彼はこれから何をするつもりなのだろうか。ヘスター 彼は南米でテスト・パイロットの仕事を引き受けていたのです。コリアー 成程、(手紙を見て)このフレイズが好きなのだが、御迷惑をおかけして申し訳もありません。そこには帝国空軍の控えめに言う素敵な響きがあるね。(彼は手紙を破りクズ籠に投げ入れた) (暫く間があって)非常に気の毒だと思うよ、ヘスター。ヘスター (彼に背を見せて)大丈夫ですわ、思うに、何時かは起こるべきことだったんです。コリアー 君がこの瞬間に感じているべき感情について微かな暗示を、私は得ているのだがね。ヘスター (振り向いて、強く、明るく)ああ、私はそれを克服してしまうわよ、想像するに。あなたはとても素敵だわ、何処にいらしてたんですか。コリアー 自宅だよ、何人か客を呼んで夕食をしていたのだ。ヘスター 何方を、ですか…。コリアー オリーブとプレストン夫妻、アメリカ人の判事とその妻。ヘスター オリーブはスタイルは良いのですか。コリアー 素敵だよ、彼女は一つとても面白い事を言った。ヘスター 何と言ったのかしらね。コリアー いいや、忘れたよ。ああ、思い出した、今思い出すと、そんなには面白くもないね。彼女一流の言い方なのだが、アメリカ人の判事は怒っているキューピッドの顔をしているって。ヘスター 怒っているキューピッドですって。私、彼女がそう言っているのが目に見える…、(笑い始めて、その冗談がもたらす必然以上に長く笑い続けた)怒ったキューピッドですって…。(笑いが急にすすり泣きに変わり、ソファのクッションに顔を埋めた、絶望的に、自分の感情を抑制できないで。コリアーは彼女の横に腰を下ろした)コリアー ヘスター、頼む。私に何か君を手助けできる何かを言えれば良いのだがね。(彼は彼女の頭を撫でる) (ヘスターは次第に自己を取り戻すのに成功しつつある)私はこの瞬間に些細な慰めでしかないと承知しているのだが、これが最善なんだよ、君自身が悪い相性について語っていた。(ヘスターは目を拭って、返事をしない。コリアーは部屋を見回した)ヘスター それを言ったことは謝ります、そう言わざるを得なかったんです…。コリアー 実際、君はこの部屋に独りで取り残されてはいけないよ。ヘスター 私は、大丈夫ですわ。コリアー 私には、そうは思えないが。今夜此処を離れるべきだと思うのだがね。ヘスター 今夜ですか…。コリアー 君は昨夜此処に独りでいたのだよね、確か。ヘスター 私、何処に行ったらよいのかしら。コリアー そうだね、私には非常に仮説的な提案しか出来ないのだけれども、実際、彼が手紙で提案していた事なのだが…。ヘスター いいえ、ビル。それは不可能だわ。コリアー 君は今日の午後に私が君に話したことをこんなにも早く忘れてしまうのだね。ヘスター (声が次第に上ずる)止めてよ、ビル、お願いよ、(彼は彼女の声の緊張の調子で鎮められた。彼女は立ち上がり、少し不安定に、食器棚の所に行く)少し、お酒を召し上がりませんか。コリアー いいね。ヘスター おや、まあ、フレディーがウイスキーを全部飲んでしまっことをすっかり忘れてしまったわ。コリアー 構わないさ。ヘスター ちょっと待ってくださいな、此処にあります。(彼女はワインの瓶を持ってくる)クラレット・ワインです。昨夜はコルクを開けなかったんです。地方の酒屋から取り寄せたのです。あなたの厳しい舌に合うか分かりませんがね。コリアー 美味しいと思うがね。(彼は栓を開ける) (彼女は彼に二つのグラスを渡した。彼は両方にワインを注いだ)さてと、何に乾杯しようかね。ヘスター 将来に、しましょうよ。コリアー 我々の未来に幸あれと。ヘスター (重々しく)いいえ、ビル。単に、未来に。(二人は黙って飲む)これで、大丈夫よ。コリアー 非常に良いね。(もう一間あって)それで、未来はどんなだろうね。ヘスター まだ考えていないわ。コリアー どうあるべきだと思うのかね。ヘスター 他の場所を探せるまでは此処に居続けようと思うの。私努力してスタディオを持ちたいのです…、そして一生懸命に働きたい。私の絵を売れれば、職を得られるし。コリアー どんな種類の職かね。ヘスター 私に出来る何かがあるに違いないと思う。コリアー (静かに)それで、君は残りの人生を独りで生活していく考えなのだろうかね。ヘスター 私はまだ何も熟慮してはいないのよ、ビル。私はまだ熟考出来るような気分ではないの。コリアー それならばだが、私は君に全く限定した未来を思い描いてもらいたいのだがね。ヘスター (怒って)ビル、お願いよ、私はお願いしたのよ…。コリアー (同様に怒って)ヘスター、神に誓ってお願いだよ、君に提案していることを自覚してはくれないだろうか。ヘスター そして、私がその申し出をどんなにか拒絶しづらいかを思ってくださいな。コリアー それでは、何故拒絶する必要があるのだろうか。ヘスター そうする必要があるからです。あなたの妻としてあなたの所に戻るなんて、出来ない事ですわ、もうあなたの妻ではないのですからね。
2024年07月02日
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紅(くれなゐ)の 八塩(やしほ)の衣(ころも) 朝な朝な 馴(な)れはしれでも いやめづらしも(― 紅で幾度も染めた衣に、毎朝毎朝、馴れてはいるが、いよいよ身につけたいと思われる)紅の 濃染(こそめ)の衣(ころも) 色深く 染(し)みにしかばか 忘れるかねつる(― 紅の濃染めの衣が色濃く染まっているように、思う人に深く馴染んだからであろうか、私は忘れかねている)逢はなくに 夕占(ゆうけ)を問ふと 幣(ぬさ)に置く わが衣手(ころもで)は 又そ續(つ)ぐべき(― 恋しい人に会うことができないから夕占、夕方に道を通る人の言葉などから吉凶を占う をするというので、袖を切って幣に置くために、私は一旦切った衣の袖をまた、継合わせなければならない)古衣(ふるころも) 打棄(うちつ)る人(ひと)は秋風の 立ち來る時に もの思ふものそ(― 着馴れた古い着物を棄てる人は秋風の立って来る時に物思いをするものですよ。慣れ親しんだ妻を捨てるような人は、若い盛りを過ぎてから苦労をするものですよ)はね蘰(かづら) 今する妹がうら若み 笑(ゑ)みみ いかりみ着(つ)けし紐解く(― 鳥の羽を蘰にしたものをつけたばかりの妹は、まだ年がいかないので、微笑んだり怒ったりして、着物の紐を解くことだ)古(いにしへ)の 倭文機織(しつはたおび)を 結び垂れ 誰(たれ)とふ人も 君には益(ま)さじ(― 古来の文織りの帯を結び垂らす、それではないが、誰であっても、どの様な人であったとしてもあなたに勝る人はいないと思います)逢はずとも われは怨みじ この枕 われと思ひて 枕(ま)きてさ寝ませ(― お逢いしなくとも私は恨みますまい。この枕を私と思って、枕にしてお休みなさいまし)結(ゆ)へる紐 解(と)かむ日遠み 敷栲(しきたへ)の わが木枕(きまくら)は 蘿(こけ)生(む)しにけり(― 結んだ紐を解いて共に寝る日が遠い先なので、私の木の枕には苔が生えてしまった)ぬばたまの 黒髪敷きて 長き夜を 手枕(たまくら)の上(へ)に 妹待つらむか(― この長い夜を黒髪を敷き、手枕をして妹は私を待っているであろうか)眞澄鏡(まそかがみ) 直(ただ)にし妹を 相見ずば わが戀止(や)まじ 年は經ぬとも(― じかに妹に逢わずには、私の恋の苦しさは止まないであろう。年は過ぎようとも)眞澄鏡 手に取り持ちて 朝な朝な 見る時さえや 戀の繁けむ(― 真澄の鏡を手に持って毎朝見るように、あなたと毎朝顔を合わせてさえも恋心は中々鎮まらないでしょう)里遠み 戀ひわびにけり 眞澄鏡 面影去らず 夢(いめ)に見えこそ(― 里が遠いので久しく逢えず、恋に悩んで気力もなくなってしまいました。どうか面影がいつも夢に見えますように)劔刀(つるぎたち) 身に佩(は)き副(そ)ふる 大夫(ますらを)や 戀とふものを 忍びけねてむ(― 剣刀を身につけている男子たるものが、恋というものを堪えることができないのであろうか)劔刀 諸刃(もろは)の上に 行き觸れて 死にかも死なむ 戀つつあらずは(― 剣刀の諸刃にぶつかってひと思いに死のうか。こんなに恋に苦しんでいずに)うち鼻ひ 鼻をそひつる 剱刀 身に副ふ妹し 思ひけらしも(― 突然くしゃみをした、いつも私の身に添う妹が私を思っているらしい)梓弓(あづさゆみ) 末の原野(はらの)に 鷹狩(とがり)する 君が弓弦(ゆづる)の 絶えむと思へや(― 末の原や野で鷹狩りをするあなたの弓弦のように、あなたと私の仲が切れようなどは思いましょうか)葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞弓 荒木にも 憑(たの)めや君が わが名告(の)りけむ(― 葛城のそつひこ・仁徳天皇の皇后の磐之媛の父親で、武内宿禰の子供 の使う有名な強い新木の真弓のように、私を妻として頼りにしておいでなので、私の名を人におもらしになられたのでしょうか)梓弓 引きみ弛(ゆる)へみ 來(こ)ずは來(こ)ばそ 其(そ)を何(な)ど來(こ)ずは 來(こ)ば其(そ)を(― 梓弓を引いたり緩めたりするように、気を揉ませて、来ないなら来ないのだし、来るなら来るのだ。それをどうしてやきもきしているのだろうか)時守(ときもり)の 打ち鳴(な)す鼓 數(よ)みみれば 時にはなりぬ 逢はなくも怪し(― 時守の打ち鳴らす鼓の数を数えてみると、逢う時になった。それなのに逢わないのはおかしい) 時守(ときもり)とは時刻を知らせる役人のこと。陰陽寮に属し、漏刻師に率いられ時刻によって鐘楼を打ち鳴らす役。燈(ともしび)の 影にかがよふ うつせみの 妹(いも)が笑(ゑ)まひし 面影に見ゆ(― 灯火の影にちらちらとする現実の妹の微笑みが、今、面影に浮かんで見える)玉鉾(たまほこ)の 道行き疲れ 稲筵(いなむしろ) しきても君を 見むよしもがも(― 繰り返して、あなたに逢う手立てが欲しい)小墾田(をはりだ)の 板田の橋の 壊(こぼ)れなば 桁(けた)より行かむ な戀そ吾妹(わぎも)(― 小墾田の橋が壊れたならば、その橋桁を渡っていきましょう、あんまり胸を痛めなさるな、吾妹よ)宮材(みやき)引く 泉の杣(そま)に 立つ民の 息(いこ)ふ時無く 戀ひわたるかも(― 宮殿造営の用材を取る山城の泉の地の、杣に立つ民が休む時が無いように、休む時もなく恋し続けることである)住吉(すみのえ)の 津守(つもり)網引(あびき)の 泛子(うけ)の緒(を)の 浮(うか)れて行かむ 戀つつあらずは(― 住吉の津の番人がする網引きのウキの緒のように、浮いて漂っていこうか、恋に苦しんでいずに)東細布を 空ゆ延(ひ)き越(こ)し 遠みこそ 目言(めこと)離(か)るらめ 絶(た)ゆと隔てや(― 遠くにいるからこそ逢わないでいるけれど、仲を絶とうとて長く逢わずにいるのではない) *東細布は不明。布を遠くまで引き伸ばして、の意の序で逢う事も語る事もないだろうが…、と続く。かにかくに 物は思はじ 飛騨人(ひだひと)の 打つ墨縄の ただ一道(ひとみち)に(― あれこれと物思いはすまい、飛騨の工匠の打つ墨縄のように、ただ一途に信じよう)あしひきの 山田守る翁(をぢ)が 置く蚊火(かひ)の 下焦(したこが)れのみ わが戀ひ居る(を)らく(― 山田を守る老翁の置く蚊火が下の方でいぶっているように、私は人知れずに心の中で燃えて、恋に苦しんでいることだ)そぎ板以(も)ち 葺(ふ)ける板目の 合はざらば 如何にせむとか わが寝始(そ)めけむ(―私はあなたと共寝を始めてしまったが、もしあなたが将来私に逢ってくださらないばあいにはどうする積りだったのだろう)難波人(なにはひと) 葦火(あしひ)焚(た)く屋の 煤(す)にしてあれど 己(おの)が妻こそ常めづらしき(― 難波の人が葦で火を焚く家のように、すすけてはいるけれど、自分の妻こそはいつも珍しく、いいものだ)妹が髪 上竹葉野(あげたけはの)の 放(はな)ち駒(こま) 荒びにけらし 逢はなく思へば(― あの人の気持がすさんで離れてしまったらしい。こんなに逢わずにいることから考えると)馬の音の とどともすれば 松蔭に 出でてそ見るつる けだし君かと(― 馬の足音がドドと聞こえたので松の陰に出て見たことです。もしやわが君かと思って)君に戀ひ 寝(い)ねぬ朝明(あさけ)に 誰(た)が乗れる 馬の足音(あのと)そ われに聞かする(― わが君を恋うて眠れなかった朝なのに、誰の乗った馬の足音なのだ、私に聞かせて思いを募らせるのは)紅(くれなゐ)の 裾引く道を 中に置きて われや通はむ 君や來まさねむ(― 紅の裾を引いて歩く道を中にして、私が通っていこうかしら、それともわが君がおいでになられるかしら)天(あま)飛ぶや 輕の社(やしろ)の 齊槻(いはひつき) 幾世まであらむ 隠妻(こもりづま)そも(― いつまでこうして人目を憚っている妻なのであろうか) 第三句までは四句にかかる序で、意味には直接関係ないのであるが、韻文では意味は二の次で、全体の調べ、どのように恋の感情を表白するのか、作者の腕、技巧の見せ所なのだ。仇や疎かには愛妻を思ってはいない作者の真摯な気持が、天飛ぶ……、と発声させる、この辺の呼吸を読み取ることが歌を理解するポイントとなる。神名火(かむなひ)に 神籬(ひもろき)立てて 齊(いは)へども 人の心は 守(まも)り敢(あ)へぬもの(― 神域にヒモロキ・上代に神の降下するのを待つ場所として作るもの を立てて守っているように、どんな潔斎をしても人間の心は守り遂せるものではない)天雲(あまくも)の 八重雲隠(かく)れ 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ(― 天雲の八重雲に隠れて鳴る神の音だけが聞こえるように、あの方の評判だけを聞いて、お会いできずにいるのだろうか)爭へば 神も悪(にく)まず よしゑやし よそふる君が 悪(にく)からなくに(― 言い争ったりすると神様もお憎みになる。いいさ、噂の立てられているあのお方が憎いわけでもないのだから)夜並(よなら)べて 君を來ませと ちはやぶる 神の社(やしろ)を 祈(の)まぬ日はなし(―毎夜君が来てくださいますようにと神の社に祈らない日はありません)靈(たま)ぢはふ 神もわれをば打棄(うつ)てこそ しゑや命の 惜しけくも無し(― いつも私を御護り下さる神様も、今は私を打ち捨てて下さい、えい、命なんか惜しくもありません)吾妹子(わぎもこ)に またも逢はむと ちはやぶる 神の社を祈まぬ 日は無し(― 吾妹子にまたも逢いたいと、神の社に祈らない日はありません)
2024年07月01日
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