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・3、31、木ニュースではようやくフランスやアメリカの専門家を受け入れ、無人ロボットを導入して調査を行なう意向や、石棺の話が出て来たりしている。しかし昨日今日で報道されている海水や土壌の汚染によって、実際我々の体にどれだけの影響があるのかは、テレビのニュースが信じられない以上国民には計り知れない。今日もふとコンビニでコーヒーに入れるためのミルクを買おうとして、一体どこでこのミルクは搾られたのだろうと考えると、買えなくなってしまいブラックで飲んだ。昼食にレストランに入っても、使用されているほうれん草や葱は何処で栽培されたものだろう、スーパーに並ぶ刺身は何処の海を泳いでいたのだろうなどと考えてしまい、胃に嫌な重みを感じる。そんな僕を見て周りの人間は「異常だ、そんなことを言えば何も食べられなくなるではないか、国では出荷制限を行なっているし、まさか汚染された海の魚を出荷したりはしないだろう」と笑う。何も食べられなくなる、その通り!それが現実に我々に迫る暗黒なのではないか。この国がそこまで信頼のおける相手なら苦労はないのだ。さて、水と野菜がやられれば、我々は実際問題逃げようがない。思い切って外国にでも行って暮らせればいいが、金銭的にもビザの問題としてもそれは難しい話だろう。それでは皆ここでやって行くしかない訳だ。鍼灸医の先生いわく、放射能が体に入れば腎虚が悪化し結果癌などを発病する訳で、我々のできるせめてもの抵抗は、腎気を付けて腎性を弱らせないことだという。それはやはり食事でしか補えない。鶏がらスープ(サンゲタンなど)、それと発酵物、生きた菌のいるちゃんとした味噌(手前味噌など)、この二つだと言う。このところ、小学生と関わることが続いた。昨日も小学校三年生の男の子と腕ずもうを取りながら思った。元気で未来のある彼らを、我々は守ることができるのだろうか。彼らを守るために、我々大人が思い切らねばならない現実が何処まで迫っているか見分けることができるだろうかと。 ●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.31
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・3、30、水読んでいただいた通り、今我々の置かれた状況というのは、極めて追い詰められたものである。広瀬さん本人がユーチューブでも言っているように、彼の予測、見解が間違っていれば幸いなのだ。しかし何が本当なのか想定できない我々にとっては、「大丈夫大丈夫」と言い続ける人たちよりも、より危険を訴える人の意見に耳を傾ける必要があると僕は思う。この広瀬さんの訴えを受けて、何人かの人にその話題を向けてみた。津波の被災地の話題には進んで意見を述べるが、放射能の話に興味を抱いて耳を傾けようとはしないようだ。おそらく怖いことには蓋をして、できるだけそこに目を向けずに暮らそうとする人が多いのではと想像する。もしくは、関西のような福島から遠い場所では、恐れる必要がないとでも思っているのだろうか。ユーチューブの動画で、広瀬隆さんが「ニュースの真相」に3月17日に出演された録画を見た。彼の説明は分りやすく明解で、すごい説得力がある。とにかく今日本に住む我々に何が起こっているかを噛み砕いて説明する。彼が番組の最後に説明した。間もなく静岡、駿河湾にかならず大地震が来ると。そこにはやはり老朽化した原発があるのだ。アメリカで子供たちに放射能汚染の検査がすでに施されたらしい。今回の事故が、日本だけの問題ではないことを世界は知っているのだ。日本だけがマスメディアと国に騙され、陽気に生活し、誰も国に物申す者もなく日常を送っている。そして僕もその一人だ。広瀬さんが記述の中の最後に書いていた。「この先には、まったく報じられない、とてつもなく巨大な暗黒時代が待ち受けているのだ。その正体は、想像したくもないが、人知のおよばない地球の動きがもたらす「原発震災」の恐怖である」と。駿河湾に大地震が来れば、津波ではなく直下型大地震で原発はやられる。そこから放射能が漏れ出れば、チェルノブイリの100倍に相当する量であると。もはや日本だけではなく、世界の危機なのだ。今すぐ国すべての原発を停止し、福島原発は石棺として、火力、水力発電で賄うべきだと彼は言う。我々の生活は火力、水力発電で賄えるのだと彼は主張するのだ。火力はCO2を多く出すとも聞くが、今は致し方ない。是非「ユーチューブ動画、広瀬 隆」で検索して、彼の言うことに耳を傾けていただきたい。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.30
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・3、29、火少し長いが、残りの記事をすべて掲載する。●広瀬 隆(福島原発事故の真相)【冷温停止に至っているのは原子炉11基のうち3基だけ】 昨年のことから理解しておくべきである。昨年3月25日に、1971年3月26日に運転を開始した福島第一原発1号機について、東京電力は、この原発が40年を迎えるというのに、超老朽化原発の運転続行という暴挙を発表し、60年運転も可能だと暴言を吐いて、原子力安全・保安院がそれを認めた。これは福井県の敦賀原発・美浜原発に続くきわめて危険な判断であった。さらに昨年10月26日、営業運転開始から34年が経過した老朽化原発・福島第一原発3号機でプルトニウム燃料を使った危険なプルサーマル営業運転に入った。 福島第一原発は設計用限界地震が、日本の原発で最も低い270ガルで建設された、最も耐震性のない原発である。そこで今、炉心熔融が起こったのだ。福島県内には、70キロを超える双葉断層が横たわり、マグニチュード7.9が予測される。 地震発生時の運転状況は、○福島第一1・2・3号機は運転中→スクラム(緊急自動停止)。4・5・6号機は定検停止中○福島第二1・2・3・4号機はすべて運転中→スクラム。制御棒が挿入され、核分裂反応は、全機が停止した。しかし…… 地震発生後、原発は「止める」「冷やす」「閉じ込める」機能があるので大丈夫だと宣伝してきたが、ほかの原発も含めて、自動停止した11基の原子炉のうち、原子炉内の温度が100℃以下で、圧力も大気圧に近い状態で安定した「冷温停止」に至っているのは、地震4日目の14日現在、福島第二原発3号機と女川原発1・3号機の3基だけであり、残り8基が迷走運転中である。【炉心溶融(メルトダウン)は2800℃どころか、わずか600℃で起こる】 電気出力100万kW原子炉では、熱出力がその3倍の330万kWある。この原子炉では、原子炉自動停止しても、その後に核分裂生成物が出し続ける崩壊熱は、1日後にも、1万5560kWもある。またその発熱量がどれほど小さくなっても、永遠に熱を出し続けるので、燃料棒が原子炉にある限り、それを除去し続けなければならない。なぜなら、原子炉という閉じ込められた容器内では、熱がどんどんたまってゆくからである。 それを除去できなければ、水は100℃で沸騰するから、水がなくなり、燃料棒がむき出しになる。そうなれば、超危険な放射性物質が溶け出し、燃料棒の集合体が溶け落ちる。それが炉心熔融であり、メルトダウンと呼ばれる。燃料棒の集合体が次々に溶け落ちると、炉の底にたまって、ますます高温になり、灼熱状態になる。やがて原子炉圧力容器の鋼鉄を溶かし、お釜の底が抜けると、すべての放射性物質が、外に出て行く。これが「チャイナ・シンドローム」と呼ばれる現象である。 一方、燃料棒被覆管のジルコニウムが水と反応して酸化されるので、水素ガスを発生する。水素ガスの爆発限界は、最小値が4.2%であるから、この濃度になれば爆発する。 原子炉の正常な運転条件は、福島原発のような沸騰水型では、280~290℃、70気圧である。従来は燃料棒の過熱温度が2800℃で炉心溶融が起こるとされていたが、スリーマイル島原発事故などの解析によって、実際には600℃で起こることが明らかになった(2009年7月6日~7日にNHK・BS1で放映されたフランス製ドキュメント「核の警鐘~問われる原発の安全性」)。NHKなどは、御用学者を動員して「史上空前のマグニチュード9.0」を強調しているが、建物の崩壊状況を見て分る通り、実際の揺れは、兵庫県南部地震(阪神大震災)のほうがはるかに強烈だった。この地震被害の原因は、揺れではなく、ほとんどが津波であった。【地球の動きがもらたす「原発震災」が日本で現実化した】 福島第一原発では、地震から1時間後、15時42分に全交流電源が喪失して、外部からの電気がまったく来なくなった。あとは、所内の電源が動かなければ、何もできない状態である。ところがそこに津波が襲って、15時45分にオイルタンクが流失して、さらに配電盤などの配線系統が水びたしになって、内部はどうにもならなくなった。初めは炉心に水を注入するためのECCS(緊急炉心冷却装置)を作動したが、すぐに注水不能となった。非常用ディーゼル発電機はまったく作動しない。電気回路が大量の水を浴びて、配線系統がどうにもならない。コンピューターも何もかも、電気がなければ何もできない。 このような所内電源と非常用ディーゼル発電機による電力のすべてが失われた事態に備えて、原子炉隔離時冷却系と呼ばれるECCSの一種がある。これは、炉心の崩壊熱による蒸気を利用してタービンを起動させ、ポンプを駆動して注水する装置である。しかし、これも制御機能が失われれば、駄目になる。 そもそも、地震発生当初から、非常用ディーゼル発電機がまったく働かないというのだから、電源車が到着したかどうかに鍵があるのに、その最も重要なことについてさえ、報道されなかった。テレビの報道陣が、いかに原発事故について無知であるかをさらけ出した。 そして1号機の原子炉内の水位がぐんぐん下がり始めた。非常用復水器と原子炉隔離時冷却系によって、何とか水位の復帰につとめたが、格納容器(ドライウェル)内の圧力が、設計上の使用最高圧力4気圧をはるかに上回る8気圧に達している可能性が高く、加えて、除熱ができていないので、水位が下がってゆき、4メートルの燃料棒の頭は、1メートル以上が水の上に顔を出した。 格納容器の圧力が高まると破壊されるので、バルブを開いて、高圧になった気体を放射性物質と共に外部に放出する作業に入ったが、事故の経過を見ると、悲観的にならざるを得ない。しかしもうすでに、事故解析の原稿を書いている段階は過ぎたようだ。15日昼頃には敷地内での放射能が通常の350万倍に達した。テレビでは、コメンテーターも政府もみな、微量、微量と言い続けた。ここまでくれば、みな、おそるべき犯罪者たちである。さらに2号機では、格納容器の破損が起こり、4号機では建屋内の使用済み核燃料のプールが沸騰を始めたという。ここには、原子炉より多くの放射性物質が入っている。作業者が近づけない場所であるから処理はおそらく不能であろうと、15日の午後5時時点で、私は推測するが、この推測が間違ってくれるよう祈っている。福島第一原発の6基のうち、1基がメルトダウンすれば、そこには職員がいられなくなる。すべてを放棄して逃げ出すだろう。あとは連鎖的に事故が起こる。 この発電所には、全部合わせて、事故を起こしたチェルノブイリ原発の10倍を超える放射能があると思われる。あとは、この放射能が無害であると、政府と原子力安全保安院と電力会社とテレビの御用学者たちは言い続けるはずだ。もし日本の国民が愚かであればそれを信じて、汚染野菜を食べることだろう。明日、すぐには死なないからだ。しかしかなりの高い確率で発癌することが分っている。子供たちを守れるのは事実を知っているあなただけである。『原子炉時限爆弾』で、私はこう書いた。--「10年後に、日本という国があるのだろうか」と尋ねられれば、「かなり確率の高い話として、日本はないかも知れない」と、悪い予感を覚える。…(中略)…この先には、まったく報じられない、とてつもなく巨大な暗黒時代が待ち受けているのだ。その正体は、想像したくもないが、人知のおよばない地球の動きがもたらす「原発震災」の恐怖である。--と。その通りになってしまったのだとすれば、悔やんでも悔やみきれない。
2011.03.29
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・3、28、月●広瀬 隆(原子力の専門家でありジャーナリスト)2011年3月11日、東北地方三陸沖地震が起こって、福島第一原発1号機で格納容器内の圧力が異常に上昇し、そのあと建屋が爆発。続いて3号機も同じく爆発。さらに2号機は、格納容器内にあるサプレッションプール(圧力抑制室)が破損した。破損が進めば絶望的な破局に向かう。これと並行して、日本人の頭の上に大量の放射能放出を始めた。一体、何が起こったのか。【「想定外」の言葉を濫用する電力会社とマスメディアの異常】 津波そのものによる天災は、避けることができない。これは日本の宿命である。しかしこの悲惨な原発事故は人災である。それを起こした責任者は、電力会社だけではなく、これまで何もこの事態を警告をしなかったテレビと、テレビに出てデタラメを解説している専門家と呼ばれる大学教授たちである。 2011年3月11日14時46分頃、北緯38.0度、東経142.9度の三陸沖、牡鹿半島東南東130km付近、震源深さ24kmで、マグニチュード9.0の巨大地震が発生した。マグニチュードが当初8.4→次に8.8→最後に9.0に修正されてきたことが、疑わしい。原発事故が進んだために、「史上最大の地震」にしなければならない人間たちが数値を引き上げたのだと思う。これは四川大地震の時に中国政府のとった態度と同じである。 地震による揺れは、宮城県栗原市築館(つきだて)で2933ガルを観測し、重力加速度の3倍である。しかし2008年の岩手・宮城内陸地震では、マグニチュード7.2で、岩手県一関市内の観測地点で上下動3866ガルを記録している。今回より大きい。津波高さが記録されている。「想定外」の言葉を安っぽく濫用するなとマスメディアに言いたい。被害が出たあとに、被害を解析してくれても困る。事故後に、「想定できなかった」ということは、専門家ではない、ということだ。すべて私のごとき人間に想定でき、昨年8月に発刊した『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社刊)に書いたことばかりが起こったのである。電力 NHKなどは「1000年に1度の巨大地震」と強調するが、この東北地方三陸沖地震の実害と、原発震災を起こした原因は、津波であった。では、津波の脅威は、誰にも予測できなかったものなのか。日本の沿岸地震ではほんの100年前ほどの1896年(明治29年)の明治三陸地震津波で、岩手県沿岸の綾里(りょうり)では8.2m、吉浜(よしはま)24.4m、田老(たろう)14.6mの会社が「故意に想定しなかった」だけであり、想定しなかったその責任は、被曝者に対してきわめて重大である。 つづく
2011.03.28
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・3、27、日鍼灸医の先生は、ベッドの上の僕の顔をじっと見て「茶木さんは東京に親戚がおられますか?」と尋ねる。「いいえ、でも生徒が何人か東京で勉強しています」と答えると「すぐ逃げるようにいいなさい、まもなく東京は住めなくなります」と小さな声で言う。彼の説明によると、飛び散っている炉心は低気圧に吸い込まれるという現象が起こっている。それがたいがい東京の南に集まり、雨を降らせる。雨が止んだ後は一旦数値の収まる放射線も、何度でも繰り返し襲って来る。今のうちに皆を呼び戻さねばならないと彼は訴える。「橋下知事もちらっと言ったけど、そのうち首都が大阪に変わる可能性もあります。現に多くの大使館はすでに大阪に変わって来ているらしいし、天皇だってもう京都御所に引っ越しているんじゃないでしょうか。今のところ関西は何とかセーフです。でもすぐにでも石棺を行なわねばどうなるか分りません。石棺を行なうにもそれなりのことをきちっとやってからしか出来ませんが、その準備を行なっている様子もありませんね。もうここまで来たら石棺しかありません。何とか早く動いて欲しい。マスコミは上からの圧力を受け嘘ばかりを放送しています。まあ実際福島や東京から皆退去しろと言っても、どこで全員を受け入れることができるかと言えば不可能です。でも命に関わる話ですから、正しい情報だけは伝えるべきではとも思いますが。本当のことを知りたければ、広瀬 隆という原子力の専門家、兼ジャーナリストのHPかユーチューブを見て下さい。数少ない本当のことを言っている化学者です」それを受けて広瀬 隆さんのHPを検索してみた。「福島原発事故の真相」と題された記事を読んで、恐怖に身がすくむようなショックを受けた。もしこれが事実なら、いや事実なのだろう。本当に大変なことだ。明日から何度かに分けて、その記事を掲載したいと思う。少々難しいが、根気よく読んでいただきたい。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.27
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・3、25、金昨日の午後辺りからお腹の具合が悪くなり、それから今日に至っては胃が痛み、背中まで痛んで来たので、今日の夜に急遽あべのの鍼灸院に駆け込む。明らかに食あたりだ。考えてみると、一昨日の昼食にかきフライを食べたので、どうやらそれが原因としか思えない。しかし治療室のベッドに横になるやいなや、僕を含む三人の患者、鍼灸医のご夫婦を交えてもっぱら福島原発の話で会話は一色。鍼灸医のご夫婦のご主人の方は元々化学が専門であっただけに、核のこともとても詳しく、その上事件以来様々に勉強をされているようで、訴えは真実味がある。とはいえ彼の説明は聞くに怖ろしい話で、ここに記載するかどうかも迷った。よってあくまでこれは詳しいと言っても素人の意見だし、何が正しいのかは我々には計り知れないので、信じるかどうかは読み手の意思に任せたいと思う。彼が言うところによると、まずテレビで毎日報道されている放射能についての情報は全部嘘ばかりであるという。国民の混乱を避けるためにということだろうが、事実を隠せば後になってどれだけの責任問題になるか、まあとにかくこれがいつもの日本人のいざという時の性質というか、後のことを考えず隠蔽することばかりに気が回ってしまう。事故直後日本では半径20キロ外に退去と発令していたときに、ヨーロッパでは日本在住のヨーロッパ人に半径90キロ以上退去と言っていたし、妊婦や子供を即座に本国に呼び戻している。これはヨーロッパが異常反応であるのではなく、日本が余りにも切迫感に欠け、対応、命令が後手に回りのろまであるということ。彼は核分裂について科学的に説明を始めた。何とか理解しようと思ったのだが、それは余りにややこしい話でついて行けない。僕が理解できたことを要約すると、現在事故の起こった原発からは、今も炉心と呼ばれる胞子のようなものが次々飛び散っていて、そこから核分裂し続けているという。そしてこの核分裂は半永久的に終わることはない。6000年8000年続くことであるらしい。例えばチェルノブイリ原発跡でも、事故後建物はコンクリート詰め(石棺)になっているが、その中ではずっと核分裂が行なわれている訳だ。何かの理由で壁が壊されれば、一挙に放射能は世界に飛び散るだろう。事故から数年後には、ヨーロッパ各地で多くの小児白血病が報告されている。日本の場合は現在核はむき出しであり、結局放射能は駄々漏れのまま。一週間前に福島県民全員県外退去命令が出てしかるべきであったと彼は言う。それほどまでにすでに我々国民の体は放射能の危機にさらされているということ。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.25
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・3、24、木余りに長く館内での話が盛り上がったので、事務所の女性が下の階から様子を伺いに来て「まだされているんですか?」と訝った。我々三人は決まり悪く階下に降り、少し休憩してから上着を着て館外案内に出かける。西光寺の周りのかつて村があった部分で、坂本、駒井の家があった場所などを示してもらったり、寺の境内にある西光の墓を見たり、その後ろにある丘に登って当時村の若者たちで設置された「燕神社」(どこかからもらって来た古い祠が置いてあるだけの広場)を見たり、また地上に降りて坂本清一郎の家の敷地内であったところに設けられた石碑を見たり、水平社設立にあたって陰ひなたとなって力を注いだ一般村の僧侶(たしか宮田さんといっただろうか)の寺を見たりした。館外ガイドと聞いていたので、当時の民家(本の主人公たちの生活が伺えるような村の一部)が残されているのではと期待したが、それはもはやどこにもないようであった。ガイドの男性がおっしゃった中で注目すべきところは、徳川封建時代各地の特殊部落の人々は、貧困でもなければ惨めでもなかったということ。幕府は彼らに(草葉権)というものを発令した。これは、馬などが死亡するとそれを引き取り、解体して様々な部分を利用して商売を行なう権利であるらしい。膠工場経営もこの一つである。当時これがかなりの収益金を上げており、だからこそ掖上村でも他よりも秀でて立派な西光寺を16年も掛けて建築できたのだ。これは見るからに費用が掛かっており、本堂の天井に施された見事な絵画や、西本願寺から寄贈されたという本尊など当時の財力が伺える。それに西光寺から南西に位置する所に中世から御陵があり、鬼門である北東に穢れを防ぐ能力のある人々が採用されてできた村として掖上村があったという。だからこれは元々差別ではなく、任務のような位置付けであったようだ。他の特殊部落でも、太鼓の皮張り職人や、寺院の庭師などで優れた職人として讃えられた者もいたようで、明治以降の扱いとは違う部分を知る。こういったことがいつの間にか差別へと変わり、それに拍車が掛かって被差別部落として惨酷な職業差別と貧困に追いやられたのは明治新政府の政権へとなってからだという。部落民が権利として行なっていた仕事が儲かると見るや否や、他の者がその職業を奪い、地主は特別に重い小作料を課し、いよいよ貧困へと追いやられて行った。これはクラスのいじめと同じ作用のようで、苛める方が病んでいると言えよう。人は上から権力や義務や宿命などで押さえつけられると荒んでいく。荒めばそのはけ口として他の者を蔑みたくなる。これが身分制度のある社会、戦争の絶えない国、または学歴社会の強い国で生じる形ではないだろうか。結果それがどんどん進めば国自体が荒んで行く。水平社の設立はそのことを伝え、橋のない川はそれでも運命に押し潰されることなく立ち上がる人間の赤い血を伝える。さて、この水平社訪問を期に、半年から続いた僕の橋のない川被れにも終止符を打ちたいと思う。そのために訪問を果たしたとも言える。一時的であったとしてもこの水平社運動において目指された人間の生きる姿勢は、常に今の我々の生きる原点を示している。このような話題をブログに書くこと自体好ましくないとお考えの方もいることだろう。しかし訪問した現在のこの地域も自分たちの歴史を全く隠すことなく、それどころか日本で初めての人権運動を生んだこの土地を誇りに思っているようにさえ感じた。そのような泰然自若な姿勢こそが水平社の理念であった訳だ。元々そのような身分は社会の都合で作られた嘘なのだから。ガイドの男性は、坂本清一郎の家があった敷地内にある石碑に書かれた水平社宣言文を指で辿りながら静かに言う。「今我々の社会では、様々な利害に関わる不祥事、自分本意な犯罪が繰り返されています。でも常に我々はこの宣言文に立ち返り、これに叱咤激励され、自分を見詰める必要があるでしょう」●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.24
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・3、23、水展示物も最後に近付き、短い映画を見せてくれるコーナーがあり我々は椅子に腰掛けた。「さて今から皆さんに第一回水平社創立大会の場面を体験していただきます」とガイドの方は言いスイッチを入れる。場面は大正11年3月3日、京都岡崎公会堂。まず一人が壇上に上がり開会宣言文を朗読。その後駒井喜作が変わって壇上にて西光万吉作の水平社宣言文を涙に詰まりながら朗読。最後の一文「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と読み終わると駒井も2000人からの群集も一時言葉もなく呆然。そしてひとときを置いて地鳴りのような拍手。長い長い間自分たちの生きる権利を剥奪され、存在を否定され続けた人々のそれは最初の歩みであり、それまでの様々な思いに時間が止ったのだ。僕も目頭が熱くなる。これは当時の特殊部落民の立ち上がる姿だけに止まらず、我々すべての人間の根源に必要な精神ではないかとも感じた。しかし残念ながらその後その意識が人々に伝えられ、次世代へと受け継がれて行くことはなかったようだ。小説の中では、水平社設立の中心人物である村上秀昭(西光万吉のモデルとなった人物)は、幸徳秋水の影響を受け、貧困を生み出す最大の原因である天皇帝国主義を批判し、男女平等を唱え、外国の平等までにも心を配り、農民組合でも中心的な活動を展開する時代の英雄、まるでお釈迦様のような存在である。しかし実際の西光万吉はそんな聖人君子のような人ではなく、確かに男前ではあったようだが、あの名文である水平社宣言の原案も遊廓の縁側で書いたと言われている。それに大きなショックだったのは、第二次世界大戦を切っ掛けに水平社は解散の道を選び、西光は戦後赤狩りで5年間留置され、出て来た後は何故か立場を一転したという。そして人権活動には二度と手を出さなかった。そこのところが僕も疑問として尋ねてみたかったところであった。何故水平社の名称が今は存在せず、戦後西光ら三人は組織の再建に踏み出さなかったのか。それは西光、坂本両者の考えの変化、思想の転回にあったのだ。あれほどまでに情熱を傾け全国的な組織にまでした彼らが、活動を断念した本当の理由は今もなおはっきりしない。ガイドの方は言う。「最後にこの事実を展示するかどうかは随分議論されました。皆様初代水平社に夢と憧れを感じて来ていただくのに、ここでそのイメージを壊すようなことをするべきかどうか。でも事実は事実としてやはり伝えるべきだという館長の意向が尊重された訳です」 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.23
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・3、22、火水平社博物館の最初の展示物は、水平社創立者の一人である坂本清一郎の書き残した記述からだった。テープが流れ、その内容を読んでくれる。尋常科に通うようになり、周りの同級生や先生から嘲りの言葉や嘲笑を受け、家に帰り母に何故自分が差別を受けるのかを問いただす。母は「懸命に勉強をして偉くなれば誰も差別したりはしなくなる。だからとにかく頑張るんだ」と泣きながら答えた。そこから、日本で初めての人権運動と言われている水平社宣言までの様々な資料を見て回る。その間僕はガイドの方に様々な質問を浴びせかけ、ガイドの方も熱心にそれに答えて下さった。普段は団体の見学者を相手にされているようで、個人的な訪問者には特にコンタクトが取りやすいということもあり、我々の会話は異常に盛り上がり、普通1時間の室内ガイド時間は3時間にも及んだ。僕は小説「橋のない川」を読んで、その舞台となった場所が見たくて来たのだ」と最初に彼に伝えていたので、遠慮もなく「小説ではこうなっていたが、実際はどうだったのだろう」という風な質問ばかりしていたら、ガイドの男性は「僕もあの小説は好きですが、あくまであれはフィクションですから」と僕を抑える方に回りだした。執拗に彼は僕の興味に歯止めを掛けるなと思っていたが、その理由は最後に明らかになった。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.22
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・3、21、月先日ようやく奈良県御所市柏原にある、水平社博物館訪問を果たすことができた。車なしで一人で行くのはなかなか困難な場所にあり、訪問したことのある知り合いが同行いただける日をずっと待っていたのだ。到着して車を降り周りを見渡せば、こじんまりした博物館は山と野原の広がるのどかなところにあり、今は田んぼはないにしろ本の舞台をそのまま彷彿させる環境である。博物館の向いには西光寺(本の中での安養寺のモデルとなった寺)が堂々と建ち、その後ろは小高い丘になっている。あの西光万吉(本の中の村上秀昭のモデルとなった人物)が生まれ育った寺が目の前にあると思えば感動もひとしお。その日は館内ガイドと屋外ガイドの両方をお願いしていたが、ガイドの方が来られるまで少し時間があったので、展示されているものを見て回っていた。その中にビデオが設置されており、ボタンを押すと老人となった西光万吉と坂本清一郎(本の中の和一〈わいち〉のモデルとなった人物)が映り、昔の思い出について話し出した。そうこうしているうちにガイドを担当して下さる方(63歳男性)が現れ、我々は挨拶してそのまま彼に導かれてベランダに出た。やはり目の前には西光寺が見え、ガイドの方はそれに照らし合わせるように20年前のその場所の写真を見せてくれる。そこには西光寺の周りに犇くように建ち並ぶ家々30軒ほどが写っている。これが中世のころからそこにあったであろうとされる掖上村である。ここに水平社の創立者である三人、西光万吉・坂本清一郎・駒井喜作が生まれ育った訳だ。(住井すゑの生まれた村は隣の小林村というところであったらしく、本の中ではその小林村と掖上村がごちゃ混ぜとなり、フィクションとなっている)ほんの20年前までその歴史深い村はそのままの形で存在したのだ。ベランダからは博物館の後ろの方向にくっきりと金剛山が見え、本の主人公たちがその山並みを見て様々な思いに駆られた場面が蘇る。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.21
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・3、19、土金子みすヾの大漁という詩は、正直言って僕はあまり好きになれなかった。大漁でわく港で、海の下で仲間を弔う鰯を思うことが、何だか幼稚に思えたからだ。しかし矢崎さんの大漁という作品に対する思いを聞いていると、確かに我々は生かされている立場であり、他者があってこそはかれる自分の存在(自己と客体)と言えるかもしれない。そういった意味では、この作品の裏に潜むみすヾの胸の内を読み落としていたのかもしれない。小さなころに養子に出され、みすヾを実の姉であると20歳まで知らなかった上山雅輔さんは、矢崎さんの依頼を受けて、二人の間に交わされた膨大な手紙を抜粋してノートにまとめようとしていた。みすヾが自殺した後の彼女の部屋から、自分の出した手紙がすべて残されているのを発見し全部持ち帰っていたのだ。でも矢崎さんからの「みすヾさんが貴方に出した手紙は?」という質問に「すべて処分した」と答えたという。これが本当ならば、処分はみすヾを忘れる苦しい努力の一つなのかもしれない。実際、みすヾの死から2ヶ月後に上山さんは結婚している。当時80を越えていた上山さんは、一つずつ日にちを記載し、自分が出した手紙をノートに移す毎日だった。しかしこれは多くの部分を意図的に省いて書き記したのではとも思っている。そしてノートには4月11日の日付で手紙が書き写され、12と書かれたところでそのノートの上に伏せるように亡くなっていたという。心不全だった。警察では4月12日が死亡推定日としたが、矢崎さんは、いや、上山さんは11日に亡くなっているに違いないと信じ、司法解剖によって調べてもらうと、やはり11日であったという。何故なら、4月11日は金子みすヾの誕生日であるのだ。何と強く結び付いた兄弟であろうかと矢崎さんは言う。しかし僕は、何故に彼ら二人は兄弟として生まれて来たのだろうかと悲しい気持ちになる。上山さんが一生を通じて背負った重い苦しみ、結局死を選んだみすヾの本当の胸の内。いやいや、これは僕の妄想だ。矢崎さんはそんなことは一言も言われなかった。でも「露」という短い詩を読む度、みすヾの切ない喜びのようなものを感じる。僕の勝手な妄想を持って彼女の詩に向き合えば、優しい文章に潜む難解な作品たちがするする胸に入って来るから不思議だ。レクチャーが終わって、矢崎さんと少し話すことができた。自分は音楽で以て金子みすヾの詩と向き合っていると自己紹介し、6月11日のNSKファンドレイジングコンサートのチラシをお渡しして部屋を出た。最後に握手した矢崎さんの手には、彼の持って生まれた熱い情熱が感じられた。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.19
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・3,18、木狭いサロンの中は満員電車よろしく、ぎゅうぎゅう詰めの皆立ったままの状態の中、矢崎節夫さんが現れた。彼は60代前半ぐらいの紳士で、僕はもっと年配の方と思っていたので驚いた。この方がいなければ、金子みすヾは現在も全く無名な詩人なのだ。彼が大学生だった時(その時すでに矢崎さんは童謡詩人を目指していた)、偶然みすヾの大漁という作品に出会い、言い表せない大きな衝撃を受けたという。それは鰯の大漁で浮き立つ港で、海の中の鰯の立場に立つことができるというショックであった。みすヾの全作品を通じて一本通った姿勢は、私と貴方ではなく、貴方と私であるという。それは仏教の教えにも通じる自分は生きているのではなく、生かされているという考えから来る視点。例えば「土」や「お魚」「こだま」「さびしいとき」などという作品にはくっきりとその視点が表されている。矢崎さんが大漁に出会ってから16年かかって、山口県で資料集めに奮闘していた最中ようやくみすヾの実の弟、上山雅輔さんに辿り着き東京に電話して事情を話した時「みすヾは私の姉です」と彼は答えたという。しかし上山さんがみすヾの名を口にし、しかも自分の姉だと言えるまでには何十年の歳月が必要だったという。みすヾの自殺は、それほどまでに上山さんの心に重い何かを落としていたということだろう。そして上山さんの手から500編以上の作品(みすヾは西條八十と上山雅輔ただ二人だけに自分の作品をまとめたノートを預けていた)を手にした矢崎さんは、このような素晴らしいものを独り占めしていてはいけない、必ず世界中の人々に読んでもらわなくては、そのような思いで今まで活動されて来た。その結果今や様々な国で翻訳されて出版されている。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.17
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・3、16、水今日の午後に時間を作り、京都の大丸6階 ミュージアムKYOTOで行なわれる金子みすヾ展に足を運んだ。童謡詩人金子みすヾを半世紀を経て発掘し、今のブレイクを引き起こした張本人である矢崎節夫さんが東京から見え、14:00からレクチャー下さるとのことだったので、少し前に到着して、入り口で音声ガイドのヘッドホンを受け取ってミュージアム内を散策。みすヾさんの幼少期から自殺するまでの歴史とエピソードなどを聞きながら、彼女の残した衣服や写真、ノートなどの展示を見て回る。尋常科から女学校まで成績はすべて甲であり、ずっと級長を務める。しかし偉ぶるところは全くなく、部屋の中よりは友達と山や野を駆け回って遊ぶことを好んだ。そこから自然の草木や空、風に対しての優しい詩的な表現に繋がったのではと思われる。20歳までみすヾを実の姉とは知らず育った上山雅輔との膨大な量の手紙のやり取りがあり、金子みすヾにとっても彼が唯一の心の拠り所であり、また雅輔にとってもみすヾの影響から、後に劇団若草を立ち上げるいきさつとなったのではと僕には感じられた。しかし父の勧めでした結婚を機に彼女の不幸が始る。夫に移された性病の悪化。(今日の展覧会では病名は伏せていた)夫に執筆を禁止され、師と仰いだ西條八十のフランス留学。八十が居なくなったことで、誰も当時としては進み過ぎたみすヾの作品を評価してくれる人がいなくなった。それから離婚。愛する一人娘の親権を夫に奪われ、抗議のため26歳の若さで自殺となる。そこで14時となり、サロンに矢崎節夫さんが現れる。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.16
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・3、14、月午後のレッスンに来られていた一人の生徒さんが、震災の最中に親戚のおばあちゃんを訪ねて東京に行っておられた話を聞く。「東京駅について改札を出た瞬間にグラっと揺れて、割れる恐れのあるガラスのない所に座り込みました。その揺れはものすごく、周りの人たちもこれは普通じゃないと言っていました。そうこうしているうちに皆駅から出され、外の高いビルを見ると何度も来る余震にユッサユッサしなりながら揺れているじゃありませんか。それは怖ろしかったけど、しなることで壊れないように造られているんですよね。それからホテルまでのタクシーを2時間半待って、10分ぐらいの距離を2時間掛かって到着しました。でもそれはましな方で、新幹線が東京駅に着く手前で止り、4時間そのまま閉じ込められた人たちもいたようです。町の中は目的地まで歩く人たちでごったがえしていて、異様な光景でした」夜は混声合唱団の指導。ドイツの友人からメールが来ていて「生きているのなら返事が欲しい」と書いてある。もちろんドイツでも今回の日本の状況は報道されていることだろうが、東北と関西がどれぐらいの距離かなど彼らには知る由もなく、悲壮な思いでメールをよこしたようだ。努めて明るく返事を書いて送信した。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.14
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●3、13、日昨日日記に書き添えました節電の内容のことです。どうやら回って来たメール内容が流言飛語である可能性があります。僕も夕べはコンセントをすべて抜いて眠りに付きましたが、今朝になって下記のようなメールが再び回って来ました。これはどちらを信じていいのか分りませんが、とりあえずお知らせいたします。しかしちょっとした一つのメールが瞬く間に次々伝えられて、おそらく多くの方がコンセントを抜いたことと思いますが、これは皆が少しでも被災地の援助に力を注ぎたいという思いからでしょう。節電がべつに悪いことでなし、また正しい援助方法が見付かった場合は掲載させていただきます。【平松市長のTweetより】関西→関東への送電は変電が必要。現状、関西で節電しても、節電したの電力は関東に送電できない。ので、関西の節電は今のところ不要。関東は節電必須。とのこと。 お読み下さった方、真摯な対応をして下さった方、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。
2011.03.13
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・3、12、土午後のグループレッスンでは、風邪引きが続出で多数お休みとなった。その分世間話の時間が増えて、いろんな話が聞けた。夜はNSK大阪練習会場一回目の練習。視覚、知的障害を持つ小学生二人と、高校生一人を含むメンバー。「いつの日か」の音取りと、後半に第九。高校生の女の子とそのお母さんは、第九は全くの初めて。ドイツ語の発音と音取りをじっくりゆっくり練習。軽い知的障害、視覚障害を持つ女の子にとって、初めての第九はさぞかし訳が分からず、困難を極めるものだろうと途方に暮れての練習開始だったが、何と一回発音して音をピアノで弾いただけで、すでに暗譜で大声で歌い始めている。おまけにかなり高いソプラノパートを、張りのあるすばらしい声で歌唱。何という音感と集中力であろうか。僕とピアニストは驚きの溜息。子供たちも二時間、集中の途切れることのない練習であった。帰るころになって、携帯に下記のような内容のメールが送られて来た。関西電力の関係者からのお願いということだ。関西地区にお住まいのみなさん。東北三陸沖大地震に伴い、関西電力が東北電力への電力提供を始めました。少しの節電でも立派な支援になります。電子レンジや炊飯器など、普段さしっぱなしのコンセントを今日だけでも抜き、一人一人が出来る節電のご協力をお願い致します。このメールをできる限り広め、節電による送電の支援が出来ればと思いますのでご協力よろしくお願い致します。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.12
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・3、11、金昨日は東京芸大在学中の生徒さん(23歳男性)が見え、昼食を共にしてから午後のグループレッスンに参加された。その後、夜のCAC混声合唱団の練習にも参加。現在京都芸大在学中の生徒さん(19歳男性)も見え、にぎやかな練習となる。彼らは6月11日のNSKファンドレイジングコンサートで演奏する、ベートーヴェン第九抜粋編のソロをお願いしているのだ。東京から見えている生徒さんは今日の午後にバスで戻られるとのことで、5月の連休にでも時間があれば会おうと言って別れた。今日朝の女声合唱団の後、午後に奈良クラスのグループレッスン。レッスン中に公民館の部屋が大きく横揺れし、かなり長い間地震は続いた。結構大きな地震に感じたので、レッスンを中断して一人が持っていたテレビ付き携帯でニュースを観ると「間もなく津波が襲って来るので、早く逃げて下さい!」とアナウンサーが叫んでいる。どうやら岩手県の方だ。震度6、マグネチュード7.9というからかなりのものだ。一通りニュースを観察してからレッスン再開。帰宅してからテレビニュースを観ると思っていたより被害は大きく、被災地の混乱が画面からも伺い知れる。このような大変な事態は、おそらく遠からず我々の住む関西にも襲って来ると言われているが、今日の実況を見る限りどうにも防ぎようも逃げようもないように感じられた。大地震の際にはただただ何かにしがみついているしかないし、津波はジェット機ほどの速さで襲って来る。危ないのは阿波座だ。あそこはその昔港であったとも聞くし、軟弱地盤である可能性も高い。今や世界中が大きな地震にみまわれているが、これも温暖化と関係があるのだろうか。まさかあるまい。となると、地球に一体何が起こっているのだろうか。今日の午後にバスで東京に向かわれた生徒さんが気掛かりで携帯に電話してみると、滋賀県の辺りまで行ったところで地震が起こり、関東の情況からその場でバスは引き返したとのこと。「また大阪に戻って来ました」と苦笑いされていた。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.11
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・3、9、水昨日は帰宅するべく難波に到着し、いつもの電車に乗り込んで座席に着くと「人身事故のために、しばらく運転を見合わせます」とアナウンスが入る。やれやれと思ったが、いつ事故が発生したかという説明がないので、いつ運転再開かが予測できず、仕方なくそのまま座っていた。そうこうするうちに車内は満員となり、皆立ったままの人も含め、結局1時間半そのまま停止していた。大体事故発生から警察が来て現場検証が始り、事故現場の整理が終わり運転開始まで約1時間掛るようなのが今までの経験上分っていたので、いつ事故発生かをアナウンスしてくれれば、阿倍野に回って近鉄で帰ることもできるのだ。結局途中またのろのろ運転もあり、河内長野に到着したのが11時半過ぎ、タクシーで家に到着が12時前となり、2時の就寝。それで今日朝が早かったので、睡眠不足で一日ボーっト眠く、いたるところで居眠り。それでも午後と夜のレッスンの合間に西梅田の楽譜屋に行き、金子みすヾの詩によるまた違う合唱曲の譜面を探しに出かける。いつもの僕の癖で、一度取り付いたらしばらく一人の人物に集中的に入り込み、そればかりになってしまう。自分でもよく分っているのだが、別に悪い癖ではないかと自分では思っているので、やはり自分勝手な選曲となる。今年は金子みすヾ没後80年に当たり、来週も京都で金子みすヾ展が行なわれ、金子みすヾを発掘し、今のブレイクを引き起こした張本人(矢崎節夫)がレクチャーを行なわれるとのことなので、是非出かけてみようと思っている。今日も芸術とはという話になったが、金子さんの詩を読んでいると、明らかに自分のためだけに作品を書いている。誰かに向けてではなく、自分自身のためのもの、それこそが芸術ではないのだろうかと僕は思う。だから読み手にしてみれば何のことだかさっぱり分らないということも多い。でも分っている限りの中で彼女の短い人生に寄り添ってみようとすることで、少し読み取れる部分も出て来るように思える。もちろん本人だけが知りうる内面の告白である訳だが、今80年の歳月を超えて目を凝らして彼女の心の透き間を見て見ようとすることが、今の我々にとってまた魅力なのかもしれない。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.09
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・3、5、土朝 南海電車の駅のホームにいると、アナウンスで「4月より駅構内の灰皿をすべて撤去し、完全禁煙を実施します」と聞こえる。これは全国に先がけての実施ということで、大阪の南の端っこを走る南海電車としてはデカした思い切りである。たとえホームの一番端に喫煙コーナーがあっても、やはり臭いは充満する。この完全禁煙が、これからすべての鉄道会社に広がることを願って止まない。朝の女性合唱団の後、奈良でNSK混声合唱団。僕が到着するまで2時間、他の指導者の先生によるパート練習が行なわれ、その後5分の休憩後僕の練習に入る。団員の皆様は長時間の練習にも関わらず元気な歌唱。練習の途中朝日新聞の記者さんが見え、我々の取り組みを取材下さる。組織の立ち上がった経緯や、推進理念についてなど結構長い時間インタビューを受けた。ファンドレイジングコンサートのチラシが皆さんに配られ、これから一丸となってのPR活動。「これから6月11日の本番までに暗譜練習計画を立てて行きます」と僕が通達すると、皆さんから「えー!」と驚嘆の声が沸く。何故なら、本番は楽譜を持っての演奏となっていたからだ。先日僕からの全曲暗譜演奏の提案を運営委員会で却下されたが、やはり僕としては足をお運び下さるお客様に対しての誠意ある演奏として、楽譜を手に持つとしても暗譜している状態を目指すぐらいの意気込みがなければ良い舞台になるはずがないというのが僕の感じるところであるからだ。もちろん年配者の方々にとっては全曲暗譜は並大抵なことではないだろうが、努力する才能を常に失わず取り組むことが、この世を存分に生きるということではないだろうか。本日もまたまた練習計画を全部こなすことができず終了。その後慌てて阿波座に向かい、夜のグループレッスン。今日はゆっくり食事する休憩もない慌ただしさだった。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.05
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・3、3、木いよいよ花粉の影響が濃くなって来た。先日も昼食を取りにさくら咲くに行くと、マスターがまっ赤な顔。話を聞くと、アレルギーの影響で顔が赤く腫れあがるということ。これは全く気の毒なことだが、アレルギー防止の注射などは怖ろしくてしたくないという。「生駒山に放火と新聞に載ったら僕だと思って下さい」と冗談で笑い飛ばす。彼は東大阪に住んでいるのだ。昨日突然阿波座教室にお客様が見える。高校生の全盲の女性とそのお母さん。二人で是非NSKの演奏会に参加したいという申込み。これは僕としては心から嬉しいことだ。このようにして少しずつ輪が広がって行くことは、何にも増しての喜びである。今日は奈良クラスの後に阿波座にてCAC混声合唱団。6月11日のファンドレイジングコンサートのチラシも出来上がって来た。金子みすヾの故郷の海をイメージしたイラストでデザインされていて、そのかわいさは女性に大好評のようだ。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.03
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今日朝早くから出かけ、伊丹で行なわれた中川保子さん(享年57歳)の葬儀に参列した。中川さんとの出会いは、僕がドイツから帰ってしばらくしてリサイタルを企画した際、プログラムに萩 京子さん(東京のオペラシアターこんにゃく座のピアニストであり、林 光さんの影響を強く受けた作曲家)の作品を取上げたかったのだが、楽譜が出版されておらず困っていると、関西に一人林 光、萩 京子の手書き楽譜を多く管理している人がいると聞き連絡してみた。それが中川保子さんだった。それを切っ掛けに彼女が企画する演奏会に出演するようになり、何度も舞台を共にした。世の中には様々な歌い手がいるが、中川さんはほとんど林 光の曲にしか興味を抱かず、ヨーロッパオペラも、ドイツ歌曲や日本歌曲も歌っているのを聴いたことがない。林 光さんの作品にはそういう力がある。もちろんそのチャンネルに合ったアンテナを持ち合わせる人にしか作用しないが、一旦我がのアンテナで電波をキャッチしてしまうと、どうにもこうにもドップリなのだ。だからこそ「こんにゃく座」というような、林 光の作品しか演奏しないという歌劇団が存在する訳だ。当時はそんな中川さんの音楽活動のスタンスが偏りすぎたものと僕は感じていたが、そこまで一つの人物、一つの分野に情熱を傾けることができるというのもすばらしいことだったと今は思っている。今一番に思い出されるのは、やはり林 光さんの70歳バースデーコンサートを関西でも中川さんが中心となって企画され、「バナナン」というグループを我々で結成して演奏会を開催した。林光さん本人も招いて大いに盛り上がったすばらしい演奏会となった。その後も何度も演奏会を開催し、すべてとても楽しい思い出である。今日は葬儀の終わりに、林 光さんの弔辞を代理として東京から萩 京子さんが来られて涙に詰まりながら読み上げられた。その文章の最後に林さんは述べられていた。「中川保子さんは歌に生きて、慌ただしく溌剌と、真っ直ぐに生きてこられた。あちらに行ってもきっと彼女は、皆を集めて演奏会を企画して歌い続けているだろう。いや、彼女はそうしなくてはいけない。なぜなら、我々は皆一本の根っこで繋がった野の草なのだから」●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2011.03.01
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