全55件 (55件中 51-55件目)
腹が立ったときどうしたらよいかから出発してはならない。腹が立った時は具体的な出来事から出発しなければならない。例えば、自動車を運転しているときに、もう少しで事故を起こしそうになった経験は多くの人が持っている。交差点で自分が直進していた。すると急に対向車が目の前を右折してきた。もう少しで事故を起こすところだった。血の気が引くような怖いという思いをする。でも口をついて出る言葉は、「どこに目をつけてるんだ」という怒りの言葉である。ここで大切なことが分かる。普通は怒りの感情は「純な心」であるとだれもが思っている。最初に直感的に感じた感情だと思っているのである。でも実際に具体的事実にあたってみるとそれは違う。怒りの感情は、二次的感情なのです。この場合一次的感情は、血の気が引くようなぞっとした、怖ろしかったという感情なのである。これがまさに最初に沸き起こった感情なのです。ここから出発すれば間違いはない。怒りの感情はその次に出てきた感情です。ここを見誤ってはいけない。こんな例はいくらでもある。子どもが家に連絡もしないで帰宅が遅くなった。それで腹が立ったというけれども、最初の感情は何だろうか。変な事件に巻き込まれていないだろうか。どうか無事であってほしいという気持ちである。森田理論学習では初一念を大切にして、そこから出発しなさいと教えています。でも怒りの感情が初一念ではなく、初二念、初三念だとすると、そもそも最初から間違った行動をとっていることになります。集談会でも「私は腹が立ちやすいのですがどうしたらよいでしょうか」「腹が立ったのは純な心だからそのまま相手にぶっつけてもよいのではないか」という質問はよく聞く。普通はほとんどの人が、怒りを「純な心」だと勘違いしています。そんな時、腹が立つというのは「純な心」ではない。その前に見落としている初一念が必ずあるはずだ。それこそが宝の山であるという意識を持っていると、その後の展開はぜんぜん違ったものになる。交差点の話では、相手に対して「さっきはとても怖い思いをした」と言えば丸くおさまる。ところが「お前の運転はどうなっているのだ」と怒りをぶっつけると火に油を注ぐような結果となる。そのためには、抽象的、観念的に怒りについて議論するのではなく、具体的事実を詳細に検討していくことが不可欠です。
2014.06.04
コメント(0)
気分本位、理知本位、事実本位という説明は、高良武久先生のプールの飛び込み台の話が分かりやすい。初めてプールの高い飛び込み台から飛び込むとき、不安や恐怖は誰でも感じる。でもその後の対応は3つに分かれる。飛び込むのを止めてしまう人。恐怖心をなくしてから飛び込もうとする人。恐怖心を持ったまま飛び込む人。まず、不安や恐怖に振り回されて飛び込むのを止める人である。こういう人を気分本位の人という。諦めの態度である。気分に振り回される人は、自分の生の欲望に気づかないか無視している人である。逃避すると一時的には楽になる。しかし逃げたという後ろめたい気持ちはその後いつまでも消えずにくずぶりつづけるのである。悶々とした生活を余儀なくされる。また手段の自己目的化が起こり、精神交互作用で神経症へと突き進んでしまう。こういう人は「欲望と不安」の関係の学習に取り組んでもらいたい。次に、この不安や恐怖が邪魔だといって、それを取り除こうとやりくりを始める人である。頭の中でスッキリと整理でき、できると納得できる状態に持っていこうとする態度である。それまで決して行動しようとしない人である。こういう人を理知本位の人という。理知本位の人は不安や恐怖はあってはならないもの、この世の邪魔者、悪と考えている。こういう人は思想の矛盾に陥り、さらに強い神経症を引き起こす。本来、人間にとって不安や恐怖はなくてはならないものです。不安や恐怖があるおかげで慎重になり、準備を整えて前進することができるものです。不安や恐怖と共存する態度。常に不安や恐怖の感じから出発して、その次に理知で調整するという態度に変更しないといけません。最後に、当然沸き起こる不安や恐怖はそのまま受け入れて、びくびくハラハラしながら、本来の欲望に向かって飛び込んでいく態度が事実本位の態度です。あるがままの態度と言えます。不安や恐怖をその都度解決して、しかる後に行動するという態度ではありません。不安や恐怖を抱えたまま、その時々に与えられた課題に前向きに立ち向かっていく態度。これを森田理論は目指しています。
2014.06.03
コメント(0)
マンションの大規模修繕の受注合戦は熾烈だ。普通7社8社での入札となる。その時にわが社はこの物件は絶対に受注しなければならないなどと思っていると大変なことになる。無理をするのである。受注金額を利益がないぐらいまでに落とす。あるいはそのマンションの修繕委員の人にリベートや贈答品をおくることを考える。マンション管理会社や設計・管理監督業者にリベートを渡すことを考える。そうまでしても受注できなかった時の落胆は大きい。その腹いせにそのマンションのありもしない悪い風評を流したりする。元々マンションの修繕工事にあたっては、管理組合は独自に概算見積もりを持っているのである。その金額を大幅に下回っていると、手抜きをされるのではないか、粗悪な材料を使うのではないか、安全管理が杜撰ではないのか。下請け業者に安い金額で押し付けるのでないかと警戒されるのである。あまりにも安い入札金額は最初から選定対象から外されている。それを勘違いして、もうけもないぐらいに安い見積もりなのに、相手は誠意に答えなくてけしからんと言っているのである。これを柔軟に考えて対応していると、思わぬ福の神が舞い降りることがある。大手の受注会社でも何棟も一斉に修繕工事をこなすことは難しい。修繕工事は台風の時期を避けているので春先に集中する傾向がある。またそういう会社は大型新規物件を持っていることが多い。全部を受注すると現場監督が何人もいる。そんなゆとりはなかなかない。またさまざまな下請け業者、職人、足場材料などを一挙に手配しないとならない。でも何棟も引き受けていると、系列下請け業者はほぼ決まっているので、段取りが難しくなるのである。また雨などが降り続くと工期は大幅にずれ込む。どこの現場も一斉に火を噴いてくるのである。受け渡しが遅れるとその会社の信用問題へと発展することがある。そこで、そのおこぼれが回ってくることがある。自分の希望の受注額が通り、自分の能力の範囲内の物件が回ってくるのである。無理をしないで数件、数十件の見積もりで1件の受注獲得でよいというゆとりのある仕事のほうが、うまく回転しているのである。いつもこの図式のようにはゆかないだろうが、せめて視野狭窄にならない。恣意的決めつけは避けないといけない。神経症の人はこの決めつけで、自分を窮地に追い込んでいることが多いのである。
2014.06.02
コメント(0)
あなた おまえ呼んで呼ばれて 寄り添ってやさしくわたしを いたわって……好きで一緒に なった仲喧嘩したって背中あわせの ぬくもりがかようふたりは ふたりは二輪草おまえ あなた春がそこまで 来たようだよかった一緒に ついて来て……雨よ降れ降れ 風も吹けつらいときにも生きる力を くれるひとどこに咲いても ふたりは二輪草カラオケでよく聞く曲である。軽快な曲なので私も好きな曲である。でも40代以降でも、こんなに一心同体のような夫婦があるのだろうか。どうも信じがたい。森田理論学習をしてきて思う。もしあるとすれば、夫婦どちらも自己主張が強い夫婦。ことあるごとに、派手な夫婦喧嘩を繰り返す。今度こそは離婚してやると双方が真剣に思う。気が付けば妻が子供を連れて実家に帰っている。でも何日かするとまた舞い戻っている。反発するけれども、どちらも相手の言い分はよく聞く夫婦。近所ではどうしようがない夫と言いながらも、夫自慢もしている。そして時には相手に無理難題を押し付けて自分の意見を押し通す。時には相手の意見を受け入れて引き下がる。それの繰り返し。そんな夫婦が固いきずなで離れがたい夫婦になるのかもしれないと思う。そういう人は、生まれ変わってもまた夫婦になるのかもしれない。でも、生まれ変わったら別の人と結婚したいという人が多いというのはどういうことだろうか。残念だが、私もそんな感じになってしまった。
2014.06.01
コメント(0)
ヨーゼフ・キルシュナーという人は「人にふりまわされずに生きる13の法則」の中で次のように言われている。重大な決断をするときは選択肢を2つ以上用意しておくことが大切である。具体的に片思いの例で説明されている。ある男性が女性を好きになったとする。その女性がいない生活なんて考えられない。もしふられたら、絶望して死んでしまいたいと思う。女性は、この男性の一方的でしつこい誘いにうんざりしてしまう。そして男性は気を引くために女性の言いなりになる。気持ちの余裕を失うだろうし、やたら嫉妬するようになるかもしれない。女性はいろいろ口実を作っては、男性からの誘いから逃げようとする。逆に男性は必死になって、女性を引き付けようとする。そのうち、男性はふられたことに気づく。絶望だ、自殺さえ考えるようになる。そしてこんなことになったのは相手の女性のせいだと考える。あるいは「ぼくはそういう運命なのだ」と思い込むようになる。だがこの男性がこんなふうに思い込むようになったのは、そもそも「付き合いたい女性」「好きな女性」が一人しかいなかったせいだ。もし2つ以上の選択肢を持っていたらどうだろう。無意味に絶望しないですんだだろう。幸せな人生をおくりたいなら、あまり一つのことを思いつめないことである。
2014.06.01
コメント(0)
全55件 (55件中 51-55件目)