全30件 (30件中 1-30件目)
1
人間の脳の働きから意識と無意識について考えてみたい。脳は行動・実践の司令塔である。行動・実践には意識的行動と無意識的行動がある。そのうち無意識的行動には2つある。自律神経よる生命維持と無意識による行動である。自律神経は交感神経と副交感神経がある。呼吸や内臓の働き、血管の収縮、血糖値などを常に調整している。別に意識しなくても問題なく生命維持が行われている優れものだ。無意識的行動とは、車の運転、自転車に乗る。箸で食べ物をつかむ、楽器の演奏をする。歩く。走る。クロールで泳ぐ。スポーツで身体を動かすなどはすべて無意識に行っている。無意識的行動は身につけるまでは多少試行錯誤を繰り返した。そのうち身体が動作を習得して無意識にできるようになった。この場合よく考えると、動作を習得するまでは意識的行動であった。しかしいったん習得してしまえば、頭の中では別なことを考えていても、動作としては問題のない行動ができるようになった。人間の行動の90%までは無意識的行動であるという。それで日常生活はうまく進行している。むしろ無意識だからこそうまくいく。車の運転でも、楽器の演奏でも、ゴルフのパターでも無意識に淡々と体の動きに合わせているときのほうがうまくいく。逆に、ここで意識が出てくると、途端に無意識的行動が乱される。迷いが生じてうまくいかなくなる。そもそも意識化が起きるときは迷いや不安がある時である。無意識的行動にまかせているとうまくいかないのではないかという予期不安がある。そこで意識化が起きる。行動するにあたって、是非善悪の価値判断をしているのである。今まで蓄えられた経験、記憶を総動員して意思決定を行っているのである。そして無意識に割り込んで、意識化された結論を指示命令しているのである。われわれが問題にしている神経症の悩みは、常に意識化された悩みである。是非善悪、価値判断の段階で容易に結論が出ないで迷っている状態である。森田でいう神経症が治るということは、この意識化された状態から、無意識状態に戻すということです。反対にとらわれるということは、坂道を転がる雪だるまのように、意識化に注意を向け続け、継続的に刺激して、大きくしているような状態である。ですから気になることに対して意識化が継続するということはよくないことです。意識化したものは、無意識に転換することが大切なのである。そのためには、気になることに注意を向けて意識化を刺激しない。無意識化するために2つの道がある。一つは、将来の展開がよくなるものと人のためになることには積極的に手を出す。そして不安を解消して無意識化する。もう一つは、不安を抱えたまま次の段階に進むということだ。そうすると次の不安に注意を向けることになるので、以前の不安は次第に薄まり無意識化される。ほとんどの場合この方向で対応すればよいのである。
2014.09.30
コメント(0)
交通違反で面白いデーターがある。2001年から3年間、全く違反切符を切られたことのない人が、その後3年間で1回でも違反切符を切られた割合は22.1%だそうだ。ところが2001年から3年間で、5回以上違反切符を切られたことのある人は、その後3年間でなんと84.3%の人が違反切符を切られている。またそのうち14.3%の人は、また5回以上違反切符を切られている。違反を起こす人は、何度も繰り返し違反を起こしていたのだ。またタクシー会社などで、交通事故を起こす人は特定の人に偏っているという。事故を引き起こす人は、特定の人が何度も起こしているのである。これは事故や違反をたびたび起こす人と、そうでない人は性格、考え方、行動のパターンに大きな違いがあるということが考えられる。自分なりに分析してみた。1、 前をノロノロと進む車がいるとイライラしてすぐに抜きたくなる。交差点で年寄りがもたもた歩いていると怒鳴りつけたくなるような人。拙速で軽はずみ。せっかちですぐにイライラする人である。ゆとりとは無縁の人である。狭い日本そんなに急いでどこへ行く。せっかちな人は短命なのに、かわいそうな人だ。2、 運転に集中していない。携帯がかかるとすぐに出る。オーディオが気になる。おしゃべりに夢中になる。テレビ番組が気になってつい見てしまう。外の景色やバス停に立っている女性に気をとられる。好奇心旺盛なのはいいのだが、移り気である。こういう人には、森田理論学習でいう「今できることはただ一つ。運転に集中することです。二兎を追うものは一兎も得ず」を教訓にしてもらいたい。3、 気になることや心配事を抱えている人。頭の中でいろいろと私生活のことで思い悩んでいる。注意が交通標識や他の車の動向、歩行者や自転車に向いていない。うっかり赤信号を見落とす。進入禁止を見落とす。一方通行を見落とす。高速道路で逆走する。絶えず自己内省的に悩んでいる人である。意識の外向化が起きないと運転は危ない。重度の神経症に陥っていると運転は控えた方が良い。4、 他人を思いやる気持ちを持ち合わせていない人。渋滞時、割り込みが気になり、前との車間距離を詰めて絶対に割り込みをさせない。二車線が一車線になる道路では前の車に接近して自分のところでは合流させないようにしている。意地悪な人である。信号のない交差点では、相手に譲るという気がない。早くいかないと損だと思ってしまう。子供が道を横断したがっていても、飛びださない限り、車優先だと思ってしまう。交差点で出合い頭の衝突事故を起こして、自分が優先だと言い張る。これが発展すると少しぐらい飲酒しても構わないだろうにつながる。こんな気持ちの人が、いくら集談会で相手を「受容して共感」してあげましょうといっても絵に描いた餅である。5、 攻撃的な人。追い抜かれたら必ず追い返してやる。前の車が急ブレーキをかけたらクラクションを鳴らして威嚇してやる。あるいはライトを点滅させて嫌がらせをする。かっとなりやすい人。イライラして怒りっぽい人。こういう人にはかかわりを持たないほうが賢明だ。お先にどうぞと道を譲ってあげよう。6、 今日は雨が降るから車で行くのは控えよう。夜の運転は危険だからなるべく控えようという気が全くない。雪が積もっていてもノーマルタイヤで運転する。タイヤの空気圧、バッテリーの寿命、ランプ切れ、ウォッシャー液切れ、ガス欠、ワイパーの摩耗などは全く無頓着。車の清掃や洗車はほとんどしない。車の中にはごみや空き缶が転がっている中には運転席の下の方にも空き缶がある。この人はまず外相から整えないと運転する資格はない。ゆくゆくは他人に迷惑をかける。
2014.09.29
コメント(0)
認知行動療法に認知再構成法がある。これは森田理論を学習している人も取り入れるべきだと思う。認知再構成法というのは、一方的に無茶で飛躍しすぎた考え、マイナスイメージに偏っている認知の誤りを、反対の客観的で妥当な考え方、プラスの考え方を提示して認知の誤りを正していこうというものです。森田理論学習でも認識の誤りが神経症の発生に大きく影響を与えています。認知再構成法には5つのステップがあります。1、 まず不安や恐怖、不快な感情が沸き起こった「状況」を書き出す。2、 「具体的な気分」(不安、恐怖、違和感、悲しみ、嫉妬、怒り)等を書く。3、 2から発生した「マイナスの自動思考」について書きだす。4、 自動思考に変わる「プラスの適応思考」について考えてみる。5、 それによって生じる「心の変化」について書き出してみる。具体的事例で見てみましょう1、 状況 会社の朝礼中に声が震えて、しどろもどろになり、頭が真っ白になった。2、 気分 不安、悲しみ、落胆、自分に対する怒りなどを%で示す この場合仮に恥ずかしい 80% 情けない 60% 腹立たしい 60%3、 自動思考 不快な感情を経験したときに心に占めている考えやイメージを%で示す。 いつもこんな失敗ばかりする 80% 自分はなんてダメな人間なんだ 70% いつか大変なミスをしてしまうかもしれない 60%4、 適応思考 自動思考に変わるプラス思考を%で示す。 自分でできなければ、集談会などの場で、第3者からアドバイスしてもらう。 誰でも多少は緊張する 70% これからはもっと準備しておけば大丈夫だ 80% 大した失敗ではない 80%5、 心の変化を%で示す。そして2と比べてみる。恥ずかしい 50% 情けない 40% 腹立たしい 30パーセント2に比べてそれぞれダウンしている。認知の歪みが多少なりとも修正されている。ここでポイントになるのは4の「適応思考」です。認知行動療法研究会のホームページには次のように説明してありました。1、「そう考える根拠を考えてみよう」(根拠と反証を探す)気持ちが動揺したときに、自分が考えていたことを丁寧に見返し、そのように考えて現実的な根拠と反対の事実を探していきます。「いったい何を根拠に自分はこのように考えたのだろうか」「それを裏付ける事実はどのようなものがあるのだろうか」「逆の事実はないだろうか」と自分に問いかけることで、思い込みから少しずつ解放され、現実的でバランスの良い考えができるようになり、視野が広がってきます。2、「どんな結果が待っているのかを考えてみよう」(結果について考える)どうしても自分の判断が正しいように思えるときには、第二の呼びかけ、つまり結果についての質問をしてみます。「それが本当だとして、どんなひどいことが起きるんだろう」「それはどの程度重要なのだろう」「違った行動をすれば、何か困ったことが起きるだろうか」と考えてみるのです。このように自分自身に問いかけることで、客観的に考えられるようになりますし、現実的な対処法を見つけやすくなります。
2014.09.28
コメント(0)
マンションの近隣トラブルは騒音問題が多い。上の階から大きな音がするとイライラしてくる。これこそ森田理論を活用して問題解決にあたりたいものである。まず騒音トラブルは当事者同士が解決するのが前提である。ここでこじれると管理組合の理事会の検討事項となるがほとんど決め手はない。有効な手はないと思ったほうがよい。管理会社は自分の仕事ではないと及び腰である。まして仲介業者は売ることが目的なので隠すことはあっても決して教えてはくれない。中古のマンションを買う場合は、粗品を持って上下、両隣に行って騒音トラブルが発生していないかよく確認するとよい。以前の住んでいた人がどういう理由で退去したのか教えてもらえればすぐに分かる。あるいは管理人に内緒で教えてもらえれば、分かる場合もある。ただし個人情報保護法があり、容易ではないことは確かだが。次に小さい子が何人もいる場合は要注意である。小さい子に部屋の中を走り回るなといっても無理というものである。その場合は周囲の人の騒音許容度をあらかじめ確認しないとまずい。普通はある程度はお互い様だと許容してもらえるが、これがずっと続くと大問題となる。隣近所も同じような子供がいるとよいがそんな好条件のところはあまりない。そこまで手を打って入居したとしても騒音問題は起きる。普通は被害者が加害者宅に怒鳴り込んでいく。投書等の嫌がらせをする。警察に通報する。玄関を蹴り上げる。周囲に協力者を作る。理事会や管理組合に丸投げをする。などであろう。これは関係悪化に火をつけてしまう。最終的には犬猿の仲となる。怒り狂って爆発すると人間関係は元に戻ることはあまりない。なかには殺人事件にまで発展する。こういう時こそ森田理論学習を応用するとよい。腹が立ってかっとなる前の初一念を思い出すことだ。居ても立っても居られないほどイライラしたその気持ちである。そこから出発すればよいのである。まずは相手に騒音の事実と自分の初一念を伝えるのである。イライラして頭がおかしくなりそうな状況をきちんと説明することだ。もし相手が認めてくれなければどうするか。相手に自分の家に来てもらい騒音実験に付き合ってもらうことである。親に自分の家にいてもらい、上で子供に自由に走り回ってもらう、椅子から飛び降りてもらう。普段どおり暴れてもらうのだ。すると相手にどれほどの苦痛を与えていたのかはすぐに分かる。そこで初めて相手は騒音について対策を打ってくれるのである。子供に言って聞かせたり、防音床にしたり、中には転居を考えてくれる人もいる。これは森田理論でいう初一念から出発しないとこういう展開には持ち込めない。森田理論の純な心のすごさを感じるのである。
2014.09.27
コメント(0)
不安は神経の痛みと同じように嫌なものです。でも長い人類の歴史の中で淘汰されることなく、残ったということは何らかの必要性があったからこそだと思います。不安の役割について考えてみましょう。まず不安は欲望があるからこそ発生するといわれています。人間本来の生き方は、欲望に従って活動していくことだと思います。不安はその欲望を教えてくれています。欲望そのものではなく、逆に不安から自分の欲望を発見することができるのです。不安にとらわれるのではなく、自分の欲望を発見することが大切です。そのために不安を活用してゆきたいものです。次に、無制限に欲望を追い求めることは多くの問題を発生させます。この時不安は、欲望の暴走にブレーキをかける役割を負っています。不安は信号でいえば黄色を点滅させています。それに従って注意しながら慎重に欲望を満たしていくことです。森田理論学習が教えてくれる不安とは何でしょうか。1、 本来不安は、欲望を発揮する時に障害物として目の前に立ちはだかってきたものです。不安と格闘することに力を入れると、生の欲望の発揮はおろそかになります。これはミイラ取りがミイラになったようなものです。このことを手段の自己目的化と言います。そんなことを繰り返していると、精神交互作用により、神経症として固着してしまうのです。これは本末転倒です。大変な苦労を自ら背負い込むことになってしまいます。2、 認識の誤り、その中でも「かくあるべし」という認識の誤りを抱えていると、不安はとてつもなく大きくて強くなります。「かくあるべし」というのは現実を軽視、無視して、観念や理想に近づけようとする態度のことです。そのギャップは埋められることがなく苦しみの原因を作り出してしまいます。もし逆に観念や理想が、現実に苦しんでいる自分に寄り添ってくれれば、矛盾は発生しません。現実から出発すれば葛藤のない生活が始まります。3、 「不安は安心のための用心である」という言葉があります。将来に展望が開ける事と、人のためになることは積極的に行動しなければなりません。不安に学んで十分な備えをするということです。これに手を付けないことは怠慢です。しかし、それ以外のことは、不安の事実を観察して、両面観で正しく認識すること。そして安易に手を出さない。最終的には、不安を受け入れる、不安に服従する態度の養成が必要です。事実本位・物事本位の生活態度の養成のことです。
2014.09.26
コメント(0)
ポイント解説 応用編6 森田理論のキーワード今まで森田理論の全体像と、その中心的考え方の4本柱とその関連性を学習してきました。次は仕上げです。家でいえば骨組ができた後に、壁を塗るようなものです。1、 感じを高める。手をだすことが億劫だと思っても、イヤイヤながら仕方なく手をだしてみる。目の前のことに手をだしてみる。部屋の掃除、風呂の掃除、靴磨きなど。そこに何かの感情が生まれる。しばらく経つとどんな感情も流れてゆく。我々はすでに起きてしまった感情はやりくりすることはできませんが、手をつけることによって新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が次から次へと生まれてくるようになれば、一つのことにだけこだわってはおられなくなります。2、無所住心我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって、注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。2、 純な心「純な心」は、混じりけのない純粋な心のことではありません。物に接して最初に浮かんだ感情、直感、森田では初一念などと言います。3、あるがまま、事実唯真、自然に服従し、境遇に柔順になる生き方森田的な生き方を一言でいうと、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」ということになります。別の言葉に言い直すと「事実唯真」「あるがまま」です。同じことです。森田では核心的な大事な考え方です。4、変化に対応して自然の流れに乗る生き方。森田理論は、自然の変化に対して人間のほうから、自然の変化に合わせていくという考え方です。自然は常に変化流動している。その変化に合わせていくのである。これを推し進めていくと、変化を予測して、仮説をたててあらかじめ準備をする。もし仮説が間違っていたら、自分の行動を修正していく。これが自然と人間のかかわり方です。もっと言えばこれが人間と人間のかかわり方の基本となります。5、精神拮抗作用、不即不離精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。人間関係はその考え方の延長である不即不離を応用するとよい。6、気分本位、理知本位、事実本位不安や恐怖から逃げてしまうのを気分本位といいます。不安や恐怖を無くしてから行動しようとする態度は理知本位といいます。いやな気分のまま必要に応じて手を出していくことを事実本位といいます。7、唯我独尊、物の性を尽くす我々が自分の本生を認めて、これを礼賛し、ますますこれを発揮し、どこまでもこれを向上させていこうとするのを唯我独尊といいます。森田理論は今持っているもの、いわゆる存在価値を高めていく考え方です。今現在の状態を自覚して、そこを土台にしています。そこからどれだけステップアップしてゆけたか。それに磨きをかけて前進していくという考え方です。努力していくその過程が生きがいであるという考え方です。8、努力即幸福生きとし生けるものは、アメーバ―から人間まで、営々刻々とその本能にそなわった最善の方法で機能を発揮している。アメーバ―が動き、白ネズミが篭のなかで車を回す。その機能の発揮を人間にたとえて、「努力」という。機能を発揮することそのものが[幸福]である。努力はすなわち幸福であり、同時に人生の目的でもある。人生の手段も努力であり、人生の実際も努力である。実際を離れた観念のやりくりでは幸福はつくれない。
2014.09.25
コメント(0)
ポイント解説 応用編5 事実本位・物事本位の生活態度を養う神経症を克服するためには、認識の誤りを自覚することが大切です。特に「かくあるべし」を可能な限り小さくすることだと思います。「かくあるべし」を小さくすることができれば、不安、恐怖、不快感は小さくなってきます。「かくあるべし」がなくなり現実・事実中心の生活になると、不安、恐怖、不快感は「生の欲望」の制御機能として正常に役割を果たしてくるものと思います。そのためにどのようなことに取り組んでゆけばよいのか。1、前提として、事実にはコントロールできるものとできないものがある。できるものはコントロールしてもよいが、ほとんどは事実を受け入れ、服従するものが多いということをしっかり認識する。2、次に事実から目をそむけないでよく見る。観察する。事実はできるだけ具体的に、詳細に、赤裸々に取り扱う。3、事実は価値判断しない。事実を事実としてそのままに認識する。安易に実行しない。4、事実は悲観的、否定的な面ばかりでなく、楽観的、肯定的な面も見る。必ず両面観で見るようにする。5、事実を4つに分類してみる。 イ、不安や恐怖などの感情 ロ、自分の素質、容姿、性格、自分の起こしたミスや失敗 ハ、他人の仕打ち、他人の素質、容姿、性格、他人の起こしたミスや失敗 ニ、自然災害、経済危機、紛争など理不尽な事実6、常に直感、第一の感じ、初一念から出発する。森田理論でいう純な心の体得実践。7、私メッセージの体得と実践。
2014.09.24
コメント(0)
ポイント解説 応用編4 「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり森田では認識の誤りの最たるものが「かくあるべし」的思考です。長い間森田学習をグループで学んできて、目立った症状はないものの、なにかすっきりしない、マイナス思考から抜け切れていない。自分としては失敗と思われることがあると、そのたびにとことん落ち込み、生活も停滞している人は、「かくあるべし」という認識の誤りが大きく影響しています。これは「なすべきをなす」という行動だけでは解消することができません。「かくあるべし」は、○○してはいけない。○○しなければならないという思考パターンに振り回されている人です。現実、現状、事実を無視して、観念の世界を事実と見なして行動したり、理想を自分や他人に強引に押し付けることです。「かくあるべし」と「現実、事実」が食い違うことによって大きな葛藤が生まれてきます。その葛藤は激しく、かなり手ごわいものです。建設的な悩みなどではありません。それはいつまでも我々に付きまとい、どこまでも続く「苦悩」といったものです。このことを「思想の矛盾」と言います。「思想の矛盾」で苦しむようになった人は、際立った共通の特徴があります。一人の自分の中に二人の自分をかかえていること。すべてを自分のコントロール下におきたいということ。目的・目標至上主義。完全主義、理想主義などです。この単元では、「かくあるべし」はどうして発生するのか。どういう特徴があるのか。いかに神経症の発症に絡んでいるのかについて学んでゆきます。
2014.09.23
コメント(0)
ポイント解説 応用編3 欲望と不安の関係不安、恐怖、不快な感情は欲望の裏返しです。欲望があるからこそ出てくるものです。欲望のない人は不安もありません。神経質性格を持っている人は、もともと強い欲望を持っていますから、当然強い不安も起きるのです。本来は不安は、自分の本当の欲望は何かを探る手がかりにするものとして沸き起こっています。だから不安にとらわれるのではなく、不安を活用することが大切です。自分の欲望が見えてきたら、生の欲望の発揮に向かって邁進したらよいのです。その際、不安は黄色信号を点滅させていますので、これに従って、慎重に行動・実践していくことです。これは欲望と不安の調和を図り、バランスをとるということです。不安は私たちに様々なことを教えてくれています。1、 本来不安は、欲望を発揮する時に障害物として目の前に立ちはだかってきたものです。不安と格闘することに力を入れると、生の欲望の発揮はおろそかになります。それにもかかわらず挑み続けるということは、精神交互作用により、神経症として固着してしまうのです。これは本末転倒です。このことを手段の自己目的化と言います。2、 認識の誤り、特に「かくあるべし」という認識の誤りを抱えていると、不安はとてつもなく大きくて強くなります。考え方の誤りや偏りを、森田理論で学習し、自覚を深めていくことが大事になってきます。3、 不安には、積極的に手を出して行動しなければならないものと、安易に手を出して動いてはいけないものがあります。その見極めが必要です。その割合は松下幸之助によると1対9といわれています。「不安は安心のための用心である」という言葉があります。将来に展望が開ける事と、人のためになることは積極的に行動しなければなりません。それ以外のことは、不安をよく観察して、正しく認識すること。そして最終的には、不安を受け入れる、不安に服従する態度の養成が必要です。事実本位・物事本位の生活態度の養成のことです。
2014.09.22
コメント(2)
ポイント解説 応用編2 生の欲望の発揮生の欲望の発揮は森田理論の土台にあたります。これを抜きにして森田理論は成り立ちません。神経質者の生の欲望は強く、その範囲は幅広いものがあります。1、 生存や安全の欲求 生命を維持したい、安全を確保したい。子孫を残したいという欲求です。生きるために必要な食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲などはすべてこれに入ります。この欲求はいちばん基本的なもので、以下の4つの欲求は、これが満たされてはじめて生じてくるものです。2、 社会的所属の欲求 温かい人間関係を築きたい欲求です。愛し、愛されたいという欲求です。家族の中にいたり、友人と話したりしていると気分がよいのは、この欲求が満たされているからです。これが満たされないと対人恐怖症などの原因となります。3、 向上発展の欲求 自分の能力を高めたいとか、人に認められたいといった欲求です。勉強をしたり、体を鍛えたり、地位の向上を望むのはこの欲求を満たすためです。4、 楽しみたいという欲求 経済的に豊かになると娯楽や趣味、レジャー、旅行、スポーツなどを楽しみたいという欲求を追及するようになります。5、 自由を求める欲求 自分の意志で行動したいという欲求です。人は束縛されることを嫌います。森田先生は、「人間は欲の深いものであり、中でも神経質は欲の上に欲の皮が突っ張っている」といわれています。また「欲のない人は哀れである」といっています。神経症に陥るような人は、この「生の欲望」のすべてにわたって、もともと強い人なのです。森田理論学習は、「生の欲望の発揮」に向けて精進し努力することを目指しています。この単元では、凡事徹底、物そのものになりきる、無所住心、好奇心の発揮、物の性を尽くす、唯我独尊、変化への対応、運命を切り開くなどの学習項目があります。
2014.09.21
コメント(0)
ポイント解説 応用編1 森田理論の全体像全体の森田理論の体系を頭に入れて学習すれば、とても効率がよくなります。また、偏った学習が是正されて、全体をまんべんなく学習することができるようになります。応用編ではまず森田理論の全体像の理解から始めてゆきます。森田理論全体像という略図があります。(テキストをお持ちの方はご覧ください。エクセルで作成しています。残念ながらブログでは表示できません。作り方は2013年3月30日、31日に掲載しています)森田理論は大きな柱が4つあります。1、生の欲望の発揮、2、不安の役割と苦悩の発生、3、「かくあるべし」的思考と現実との葛藤、4、事実本位・物事本位の生活態度を養うことの4つです。これらは矢印で示しているように、お互いに深い関連性を持っています。4つの柱をそれぞれに深めてゆくことと、相互の関係を理解してゆくことが大事になってきます。まず1、の「生の欲望の発揮」は森田理論の土台となります。生の欲望に基づいて、今現在のなすべきこと、やりたいことに取り組んでいくことをいいます。生の欲望の発揮にあたっては、必ず不安や恐怖が発生します。これは2の部分です。不安や恐怖は本来なくてはならないものです。邪魔者扱いすると、精神交互作用によって、最後には神経症として固着してきます。神経症に陥ってもがき苦しんでいる人は、まずこの精神交互作用を断ち切ることが大切です。次に3の「かくあるべし」は、○○してはいけない、○○しなければいけない等であらわされるものです。「かくあるべし」が強い人は、理想と現実のギャツブを抱えて苦しんでいる人です。この傾向の強い人は、独特な特徴を持っています。完全主義、理想主義などに代表されるものです。大きな認識の誤りがあります。「かくあるべし」が強い人は、「思想の矛盾」で苦しむことになります。その葛藤や苦しみはとても強いものになります。その結果、神経症を引き起こしてしまうことになります。「かくあるべし」が小さくなると、神経症の苦しみや葛藤は小さくなってきます。そのためには、現状、現実、事実を素直に認めて受け入れるという生活態度を作り上げることが大切になります。森田理論でいう「事実本位、物事本位」の態度の養成です。これが4です。4の態度を養成していくためには、まず事実をよく観察する。次に事実を正しく認識して、安易に対策を打たない。そして最終的には事実を受け入れ、事実に服従するということになります。
2014.09.20
コメント(0)
ポイント解説 認識の誤り森田理論の認識の誤りは次のようなものがあります。自分にも次のような傾向はないかどうか学習してまず自覚を深めてください。なお「かくあるべし」は神経症に陥る大きな原因となります。これは、「かくあるべし」の発生と苦悩の始まりで見てゆきます。1、部分的弱点の絶対視 自分のわずかな一つの弱点を絶対的のように思い、自分の生活にとって、致命的な障害のように取り扱うこと。2、劣等感的差別感 自分だけが人と比べて特別に刺激に弱いとか、精神的にも身体的にも、劣等感的に他人と差別すること。3、劣等感的投射 自分の心身面に欠点や弱点を意識していると、他人もそのことに重大な関心を持って、自分に対して反感、軽蔑、嫌悪感をもって接してくると思ってしまう。4、防衛単純化 不安や恐怖はいろいろあるが、そのうちの一つに絞ってやりくりしようとすること。5、異物化のからくり 不安や恐怖はあるべきではないとやりくりしたり逃避したりして、異物のように取り扱って不安や恐怖を排斥すること。6、手段自己目的化 本来生の欲望の発揮の中で不安や恐怖が発生してくるが、欲望の発揮を忘れて不安や恐怖を取り除くことを目的としてしまうこと。これ以外にも認知行動療法でいう「認知の誤り」についても学習しましょう。次のようなものがあります。全か無か思考、一般化のしすぎ、心のフィルター、よい出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、すべき思考、レッテル貼り、自分のせいにするなどがあります。これらをまとめると次のような傾向があります。1、 考えることが無茶、極端、大げさ、短絡的であり、論理的に飛躍しすぎている。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。抽象的である。推測の域を出ていないかどうか。4、 完全主義、完璧主義、「かくあるべし」思考に陥っている。他人に対して自分の考えを押し付けている。
2014.09.19
コメント(0)
以前私は、森田理論の学習テキスト「新版 これで納得!実践的森田理論学習」と「すぐに役立つ!実践的森田理論活用法」を作りました。これは多くの集談会で森田理論学習がマンネリに陥っていたからです。また学習の要点にもっと具体例を取り入れて説明してほしいという声もありました。また森田理論の概要を分かりやすく説明してほしいという声もありました。これらに答えるつもりでテキストを作りました。出来たものはA4サイズで99ページと67ページありました。普通の本にすると300ページぐらいのものかと思います。その後読んだ人から大きな反響がありました。おおむね好感を持っておられるようでした。集談会でもテキストとして使用して学習されているところが何か所かありました。でも反対にページ数が多すぎる。全部はプリントアウトしていない。読んでいないという意見も何名かいただいております。つまり長すぎて利用価値が半減していたのです。最初から見向きもされていなかったのです。電気製品を買うと詳しい取扱説明書のほかに、とりあえず簡単に操作できるようにポイント解説書があります。A4サイズ1枚かあっても数ページほどです。私のテキストにもこれと同じようなものが必要なのかなと感じています。そこで「新版 これで納得!実践的森田理論学習」は、生活の発見会の「理論学習の要点」にあたるものを作ることにしました。これは基礎編と応用編に分けています。まず基礎編ですが、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動原則(私のテキストでは今苦しみのどん底にある人へ)は、おおむね生活の発見会が出している「森田理論学習の要点」に準拠していますのでそれを参照してください。ただ基礎編の中に「認識の誤り」があります。これについてはポイントについて説明します。応用編については、すべての単元にわたりポイント解説をします。応用編については、森田理論全体像の説明。生の欲望の発揮、欲望と不安の関係、「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり、事実本位・物事本位の生活態度を養う。森田理論のキーワードです。ポイントのみですから、これだけでは森田理論を深めることはできないと思います。あくまでこのテキストのポイントを早くつかんでもらうだけの目的です。明日から順次ご紹介します。
2014.09.18
コメント(0)
建築家安藤忠雄さんは自分の事務所のスタッフを育てるために、時々事務所内で所内コンペを開くそうだ。そのコンペに安藤さん自身もチャレンジャーとして対等な立場で参加する。でも最後にはたいてい安藤さんの案が通るそうだ。それは彼には他のスタッフにはない決定的な有利な点があるからだという。「それは、どのような形で始まるプロジェクトにせよ、私は事務所の代表として必ずそのクライアントと顔を合わせているということ、そしてあらかじめ敷地を訪れていることの2点です。・・・・敷地を実際に訪れ、周辺を含めた場の空気を身体で感じ取ってきた分、スケッチの1本1本の線にも否応なしにリアリティがこもってきます。結局、発想する力、構想力とは、建築にリアリティを持って臨めるか否か、この一点に大きく関わってくるのだと思います。」森田理論学習で参考になる話です。森田では現地と地図は全く違うといいます。このことは三重野悌次郎氏が「森田理論という人間学」で詳しく書かれていました。そういえば、三重野さんは「事実唯真」の大家でしたね。現地行かないと分からないことが多い。現地に行かないで、先入観だけで決めつけてはいけない。実際に確かめもしないで、他人の話を鵜呑みにすることは間違いが起きる。百聞は一見にしかずと言います。現物にあたる。実際に足を運んで確かめる。事実を確認するという態度は、事実受け入れ、事実に服従して生きるために、前提として身につけておかないといけないことです。森田先生は幽霊屋敷の探検、熱湯に手を入れる実験、占い師の占いが当たるかどうかなど、たくさんのこうしたエピソードがあります。(段取り力 齋藤孝 ちくま文庫参照)
2014.09.17
コメント(0)
最近は料理を自分で作らなくても生きていける。外食産業、ファーストフード、スーパーなどのお惣菜、弁当、夕食の宅配などのおかげである。でもできるのにしないとすると、この生活には大きな落とし穴が待っています。例えば動物園の動物を思い出してみてほしい。動物園の動物の自由は檻の中に限定されている。檻の外に出ることは許されない。でも自由が制限されてはいるが、安全や基本的な生存権は保障されている。動物園をあげて守ってくれているのである。けがや病気をしたときも手厚い治療を受けることができる。一番のメリットは食べるもの、飲むものは無条件に与えられていることだろう。最低限の遊び道具もある。繁殖相手もあてがわれている。場合によっては冷暖房完備の部屋もあるという。三食昼寝つきである。仕事としては、子供たちの前を歩き回ったり、おもちゃで遊ぶ姿を見せればよい。至れり尽くせりだ。実に楽な仕事である。でもこの動物が、こんな檻の中の生活は嫌だ。自分はもっと生きがいのある生き方をしたい。今後は本来の動物として生きていきたい。自由の身でありたい。檻から出してアフリカのサバンナに戻してもらいたいと言ったらどうだろう。仮にアフリカに戻されたシマウマはその日のうちに肉食獣の餌食となるだろう。ライオンは獲物を捕らえることができずに餓死するだろう。つまり必死になってその日の食料を探して動き回っている動物と、それを免除された動物の差がはっきりと現れる。人に依存して生きるというのは、とても楽だ。今の若い人で、ほとんど親の経済的援助のもとで、自由気ままに好きなことをして生きている人もいる。でもそんな生活は一生涯保障されるのであろうか。親が亡くなれば親の年金はあてにできなくなる。親の遺産があるから大丈夫ですという人もいる。その人の代は大丈夫かもしれない。でもそんな生き方は、仮に考え方を変えて、自立して自分の力で生きていきたいと思ってもすでに手遅れである。ただ生物として生きながらえるだけの人が、味わいのある人生を送りたいと思っても、それは贅沢な願いというものだ。つまり味わい深い森田的生き方ができないということなのだ。日常生活を丁寧に規則正しく、手を抜かないでこなしていくということは、生きがい作りの土台となる行為なのです。日常茶飯事に精魂を込めないで、森田理論学習を続けている人がいるとすると、徒労に終わる可能性が高い。
2014.09.16
コメント(0)
マクドナルドなどでは作業のマニュアル本があるという。本に書いてあるように手順を踏めば間違いがないという。接客にしろ、複雑な仕事にしろマニュアルを見て一つずつチェックしながら進んでいけば最短で間違いのない仕事ができる。ただこのマニュアルは、作った人とそれをただ利用する人では、意識の持ち方に雲泥の差が生じる。マニュアルを作った人は仕事がうまくいかない。完成するのに時間がかかる。等の問題を抱えて試行錯誤していたのである。なんとか間違いのないようにしたい。早くできるようになりたい。と思って創意工夫を重ねてきたのだと思う。その間多くの失敗やミスを重ねてきたことだろう。マニュアルはその果てにたどり着いた貴重な体験の集大成である。作った本人にとってはとても役に立つものだ。一方マニュアルを与えられて利用する人はどうか。そのマニュアル通りやれば間違いない。自分で考えるよりまずこの通りやってみろと言われてやっているのである。最初はそれでもいい。早く一定レベルの仕事ができるようになる。でもいつまでもマニュアルに頼っているとどうなるか。マニュアルに似たものでハウツー本がある。困った時はこの本を参考にして、その通りに実行すればうまくゆきますよという本だ。でも利用するだけの人は問題がある。それはなぜかというと、やる気、意欲の高まり、自主性、積極性、創造性とは無縁だからである。そもそも意欲ややる気というのは、目の前の物事に遭遇して、なんらかの感情が沸き起こる。そして感情が高まる。次第に行動・実践の意欲が高まる。手を付ければまた新たな感情が発動して、ますます緊張感が高まる。そしていてもたってもいられなくなる。その結果として行動・実践に移れるのである。その反復繰り返しで自主的、積極的、創造的な生き方につながる。マニュアル、ハウツー本というのはそういった感情の高まりなしに、いきなり他人から行動を要請されるようなものだ。行動を強制されるということなのである。それは人から「かくあるべし」を押し付けられるのと変わりはない。人から指示、命令、強制、脅迫されて行動することは苦痛以外の何物でもない。感じを高めるというプロセスを踏むことはとても大切なことなのだ。だから既存のマニュアルをさらに改善して、自分なりのマニュアルを作るということになると、感じが出てくる。途端にやる気や意欲は出てくる。それには森田理論でいう「物そのものになる」という姿勢は欠かせない。行動・実践は今一歩踏み込んでいく態度のことである。
2014.09.15
コメント(0)
「森田理論を生活に活かす」について考えてみたいと思います。1、 不安を抱えたまま、実践力、行動力をアップさせること。凡事徹底。日常茶飯事を丁寧にする。雑事に丁寧に取り組む。イヤイヤ、仕方なく、超低空飛行でもよいので体を動かす。迷ったときはなるべく引き受ける。不安は安心のための用心である。将来に展望が開けるもの、人のために役立つことは不安に学んで積極的に対応する。趣味を棚卸して、一人一芸に挑戦する。2、 「無所住心」の態度を身につけること。四方八方にアンテナを張る。マンネリ、退屈は禁物。緊張感を刺激して、張りのある生活を目指す。休息は仕事の中止ではなく転換にあり。時間切れになったら、次の課題、新しい目標に取り組んでいく。3、 生活にリズム感を作る。メリハリの効いた規則正しい生活を目指す。基本的に、起床、食事、仕事、勉強、家事、育児、休憩、運動、就寝などを毎日規則正しく繰り返す。4、 バランス感覚を磨く。調和、両面観を生活に取り入れる。人生はサーカスの綱渡り、平均台の上を歩くがごとし。心に「やじろべい」感覚を持つ。極端にどちらかに偏ってバランスを崩してはいけない。人間関係は、くっつきすぎず離れすぎずの「不即不離」を心がける。5、 変化対応力を磨く。他人や世の中の変化に対して、自らが素早く対応していく。不快な感情を無くしてすっきりするのではない。相手を自分の思い通りに変えるのではない。不安を抱えたまま、自分の方を相手に合わせたり、状況に応じて変えていく。6、 生の欲望の発揮。他人の思惑を気にするよりも、自分の意思を大切にする。目標、夢、課題を設定して、果敢に挑戦していく。不遇を嘆き悲しむのではなく、命尽きるまで、粘り強く自分の運命を切り開いていく。失敗やミスはそのための糧とする。途中であきらめることは、ロッククライミングでは死を意味する。これは森田理論の土台部分である。7、 自分、他人、物、時間、お金の能力を引き出して最大限活用する。自分にないものや不足しているものを追い求める前に、自分に備わっているもの、持っているものの存在価値を見出して活用していく。8、 「純な心」の体得。直感、初一念から出発する。初二念、初三念はできる限り無視するようにする。その見極めが大切です。たとえば腹が立つのが初一念か、初二念かよく見極めてみてください。「かくあるべし」から出発するのは少なくする。さらに、相手に対するメッセージの発信は、「私メッセージ」を学習して活用しましょう。9、 事実、現状、現実をよく観察する。そして正しく認める。最終的には受け入れて、事実に服従する。やりくりしたり、逃避したり、反抗したりしない。事実は次の4つに分けて考える。不安、恐怖、不快な感情。自分のおかれた状況や事実。ミスや失敗。他人の仕打ち。他人の犯したミスや失敗。他人のおかれた状況や事実。自然災害や経済変動などの事実。ポイントはこの中からこれだと思うものを一つか二つ選択することです。それ以上はやりすぎになると思います。中途半端になり成果が上がりにくくなります。次に選択したことは徹底することです。最低3か月。そして6か月。1年と続けられれば、後で振り返ってみた時、自分が大きく変化していることに気が付くでしょう。すると不思議なことに、森田理論の重要なポイントが、芋づる式に理解できるようになるのです。それは仮に、富士登山をするのに登山口が9つあるようなものです。どこから登り始めても、最終的には同じ富士山頂に登頂しているようなものです。学習するには仲間がいます。刺激し合って学習してゆきたいものです。これが体得への一番の近道です。そして森田理論を自分の人生に役立てていただきたいと思います。
2014.09.14
コメント(0)
セブンイレブンの「変化対応力」は、ぜひとも我々神経質者として学習して体得する必要があると思う。今日はその具体的変化対応例を見てみたい。まず仕入れ商品はすべて買い取りである。売れると予想してたくさん仕入れた場合メーカーに対して返品はできない。たとえば弁当をたくさん仕入れて売れずに残れば自分の店の負担となる。単品管理が行き届いているにもかかわらず、たくさん売れ残るというのは発注精度が悪すぎる。つまりお客様の立場に立っていないということだ。さらに売れ残るよりも、在庫切れを起こすことは売れ残るよりもさらに悪い。最もお客様に迷惑をかけているというふうにとらえている。これを販売の機会ロスという。同じ店であっても、平日と土日、祝日では並べる商品が違う。給料日の前と後でも品揃えを変えている。雨が降りそうならビニール傘、寒い夏ならおでんというふうに即座に対応している。セブンイレブンは1店として同じ品ぞろえをしている店舗はない。立地、商圏、客層特性、他店との競合状態によって当然違うものにならざるを得ない。セブイレブンは1988年8月に夏季の道路渋滞地区である三浦半島および南房総地区の米飯配達において、初めてヘリコプターを使ったという。配送コストは60倍であった。また2004年新潟を襲った中越地震の際、ヘリコプターで大量のおにぎりを運んだ。現在ではコストの安いバイク便部隊が専門業者への委託という形で作られ、威力を発揮している。これはいかに費用がかかろうと、状況の変化の中でお客の需要があるかぎり、セブンイレブンはそれに応える責任と義務があると認識しているからである。もしそれに妥協して楽な道を選択すれば、自らの存在理由はなくなる。セブンイレブンの発注システムのイノベーションは変化対応の歴史そのものであった。最初は手書きであった。その後ターミナルセブンというコンピューターによる発注システムになった。その後グラフィック・オーダー・ターミナルに変化してきているという。システムの更新には莫大な経費がかかる。償却期間内であっても新しいものに切り替えていくという。時代の変化が生み出す様々な環境与件の変化の前には、過去の強者、覇者といえども明日は保障されない。変化対応こそが生き残るすべてである。世の中は変化こそが常態である。であるならば、自己革新は我々人間の生き方として常態とならなければならないのである。(「創造的破壊」経営 緒方知行 小学館文庫参照)
2014.09.13
コメント(0)
日本には「シャッター通り」という商店街が多数ある。お客様が来ない。商売が成り立たない。店をたたんでしまうのである。たまに通るのは老人と猫や犬である。それはどこの家にも乗用車がある。5キロ以上でもすぐに移動できるようになった。また郊外型大型ショッピングモールがそこら中にできた。そこに行けば何でもそろう。旧商店街にしてみれば、お客を大型ショッピングセンターにとられた。大が小を駆逐した。我々の商売の邪魔をした。我々は被害者だという考え方である。この考えに真っ向から反対する人がいる。セブンイレブンの設立者、鈴木敏文氏である。鈴木氏はイトーヨーカ堂で、出店のために地域小売業者と渉外の仕事をしていた。出店の了解を取り付ける仕事であるが、地場商店街は死活問題だと感情で対応する。灰皿まで飛んでくる修羅場であったという。鈴木氏が「大規模小売店と中小小売店は機能や役割が違います。互いに競争関係を超えて共存が図れるはずだ」といくら建前で説得しても聞く耳を持たない。鈴木氏は「中小小売店は大規模店舗にはできない、地域に密着して人々の日常生活の利便性や便宜性を満たすという機能を持っているのだから、大規模と共存できるはずなのに、なぜそれが難しいのか。それは、世の中の変化に対応できずに、自らの本来の機能を十分に果たせていないのではないか。中小小売店が本来の機能を果たすようになれば、地域の人々の生活にとって便利な店が出現し、生活のニーズにも応えることになるはずだ。」これを証明するために、当時イトーヨーカ堂内部の反対にもかかわらずセブンイレブンを始められたのである。そのため当初は資金もなく、苦労も多かった。しかし現在のコンビニの盛況を見れば、大規模小売店と中小小売店とが、棲み分けができることを、鈴木氏は完璧に証明して見せたのである。成功の理由を考えてみると、中小小売店の役割、存在理由を明確にしたこと。これが何といっても大きい。つまりお客様の日常生活における、現時点において求められる利便性、便宜性のニーズの遂行にフォーカスしたことである。それ以外のことはいくら儲かりそうなことがあっても手を出さない。自らの役割をわき目もふらず愚直に追い求めていったことである。お客様の変化、社会の変化を見極め、予測して、自らの有様をお客様の立場に立って、常に変えてゆく姿勢を貫き通したのである。その努力の結果として、お客さんの絶大な支持を獲得したとみるべきであろう。森田理論の「変化への対応」についてとても参考になる話である。森田理論にアレンジし直してテキストにしたいぐらいである。
2014.09.12
コメント(0)
生活の発見誌の2014年9月号に元麻酔科の先生の記事がある。この先生が帯状疱疹に続いて起こる神経痛や原因がはっきりしない腰痛などの慢性痛に対して、神経ブロック注射を行っても、手術の傷の痛みのような急性の痛みのようには効果はないといわれる。慢性の痛みは、時がたてば自然に改善したり、鎮痛剤を内服すると痛みが和らぐこともあれば、鍼治療や腰痛体操といったもので治る人もいます。慢性痛の原因は痛覚神経の刺激によりますが、それ以外にも情緒や認知の在り方、恐怖や不安などの中枢である扁桃体の働きなども影響します。慢性痛はこれらの心理的原因が複雑に絡み合っており、原因を厳密に区分することは治療の役には立たない。ただ、痛みを過剰に恐れ、痛みにとらわれてしまうことが、痛みをこじらせる重大な原因の一つだと考えるに至ったといわれております。これは神経症の発症とよく似ています。不安や恐怖、不快な感情、違和感などに対して、過剰にとらわれて、取り除くことに悪戦苦闘することがかえって症状を固着させてしまうのです。不安などは欲望があるから発生している。生の欲望の発揮が本来の目的なのです。その前に立ちはだかった不安などを取り除こうというのは本末転倒です。不安などは生の欲望が暴走しないように目の前に立ち現れているだけなのです。だから不安はなくすることではありません。生の欲望が暴走しないように活用することが大切なのです。不安を邪魔者にしてはいけません。躁病の人が常識外の行動をするのは、この制御機能が全く働かなくなった結果であります。生の欲望と不安や恐怖などのバランスをとることを意識する。調和をとりながら前を向いて、日々の生活を紡いでいくこと。それだけで森田の達人になることができます。
2014.09.11
コメント(0)
生の欲望の発揮においては、意欲とかやる気、モチュベーションの高まりは不可欠である。神経症やうつに陥るとこれらがほとんど機能しなくなる。これを最近の脳科学の立場から説明してみたい。脳科学者の池谷裕二さんによると、その決め手は「淡蒼球」であるという。大脳基底核にあります。青い色をしている器官であるという。これが電気信号によって活性化すれば、意欲が高まり、やる気につながるのである。しかし淡蒼球は残念ながら意思の力で活性化することはない。外部から刺激することが必要なのだ。池谷氏によると淡蒼球を活性化するために4つの方法があるという。まず体を動かすことです。面白い実験があります。ペンを口にくわえてマンガを読みます。くわえ方に2つあります。一つはストローのように口をすぼめてくわえる。もう一つはペンを噛んで加える。これは有名な実験だそうです。噛んで加えると歯が見えて笑ったような状態になる。口をすぼめてくわえるとしょんぼりした状態になります。マンガにもよりますが、顔が笑った状態で読むほうがより面白く感じるというのです。だから不快なことがあっても、笑い顔を無理して作ることは意味があります。顔さえ笑えば、脳の淡蒼球も後からついてきて活性化する。意欲もやる気も出てくるのだ。笑う門には福来る。やる気もチャンスもじっと待っているだけではだめです。とにかく体を動かすことが大切です。特に森田理論では、凡事徹底といって、日常茶飯事を丁寧にこなしていくことを勧めています。2番目。いつもと違うことをすることだそうです。マンネリを打破するということです。スピードスケートの清水宏保さんは、「筋肉は結構賢いのです。それにずるいところがある。何度も負荷を与えていると、筋繊維に組み込まれた知覚神経が学習してしまって、それほど変化しなくなってしまう。だから毎年、トレーニングの内容は変えています。スポーツ選手が間違いを起こしやすいのは、自分に満足してしまって同じメニューを何年もずっとやってしまうとか、昔調子がよかったころのものをやってしまおうとするから、スランプに陥ってしまうのだと思う。常に新しいことに挑戦してゆくと、それが自信にもなる。」と言っています。マンネリ化する、退屈で手持無沙汰であるというのは、やる気や意欲が減退してきます。マンネリで意欲が衰えてきたら、新しいことに挑戦することです。森田では目の前のやるべきことは30分から1時間経過すると、別なものに取り組むというのがあります。3番目。目標を達成したときはご褒美を用意する。多いのは食べ物。飲物。欲しいものを自分にプレゼントする。その他では、人から評価されること。ほめられること。あるいは自分で目標を持って達成感を味わうこと。小刻みにゴール地点を設定して、そのたびごとにご褒美を用意しておくことです。わざと自分を苦しい状態に追い込んで、そこから抜け出すというのはとても良いことです。人から評価されたり、褒美があれば、弾みがついてますますやる気に火がついてきます。4番目。形から入ってなりきること。スキーでも服装を決めて、道具もきちんと決めるとやる気がみなぎってきます。魚釣りでも、帽子、サングラス、服装、靴、釣り道具などをきめて海に行くと、それなりに意欲がみなぎり、なんとなく釣れるような気がします。動作そのものがきびきびとして、様になってきます。森田では、「外相ととのえば内相自ずから熟す」といいます。靴が整理されてくると、心も整理されてくるというのも同じことです。淡蒼球は、それ自身は活性化しませんが、身体の動きに応じて次第に活性化してきます。意欲が出ない、やる気がわいてこないというときは、以上の4点を試してみてください。きっと良い結果がついてくると思います。(のうだま 上大岡トメ&池谷裕二 幻冬舎参照)
2014.09.10
コメント(0)
最近通信手段としてLINEが盛んである。いつも携帯をチェックして、即返事を書かないと仲間外れにされる可能性がある。便利な通信手段のようだが、多くの子どもたちは毎日LINEに振り回されている。気が休まる時がない。今やたくさんの友達がいて、表面的には仲良く、密接につながった状態にしていないと生きていけないのである。親や教師が規則や勉強などでやかましくいっても軽く受け流す子供たちも、友達の関係についてはそうはいかない。死活問題なのである。一日中仲間の動向を気にして右往左往しているのである。我々対人恐怖症の者も、寝ても覚めても人の思惑を気にしている。対人恐怖症の心の状態は、天気でいえば、晴れ間のない曇天か雨模様である。それが一年中続いていると、いつも逃避的で、びくびくして恐怖で怯えた生活となる。ライオンに追い詰められた小動物のようである。本来会社に行くのは、仕事で会社に貢献して収入を得ることである。学校に行くのは勉強をするために行くのである。それぞれの集団の中で人間関係を良好に保つというのは、そのための手段である。今や本来の目的を忘れ、手段の自己目的化が起きているのである。これは本末転倒である。こんなことで苦しんでいるなんてもったいない。これは森田理論の「欲望と不安」の単元で学習したように、不安にのみとらわれた状態である。対人不安から少しでも抜け出る方法がある。自分自身の本来の欲望に目を向けることである。つまり、今何をやるべきなのか、自分は何をやろうとしているのか、何をやりたいのか。なすべきこと、課題、目的、目標、夢を明確にしていくこと。それに向かって集中し努力すること。その際対人的な悩みは一旦横に置いておく。不安と欲望のバランスをいかにとっていくのかに注意を払う必要がある。これは言葉を変えれば、他人中心の生き方から、自分中心の生き方へ転換するということです。私は以前曽野綾子さんの次のような話を紹介した。寿司屋の大将でカラオケもへたくそ。麻雀もカモになる。ゴルフの腕前も最低。経済観念は全くない。教養というものもない。その点では、奥さんをはじめ仲間からどうしようもない奴と笑いものにされている。でも寿司屋の大将は、それらを笑いの種にされても悠然としている。それはなぜか。確固たるプライドがあるからである。自分は寿司を握らせたらだれにも負けないという自信を持っているからだ。その自信に支えられて生きているのだ。もしその自信がなかったとしたら、人の思惑に翻弄されるようになる。守勢一辺倒になり、どんどんと蟻地獄の中に落ち込んでいくばかりである。高良武久先生も、10年一つのことに取り組んでいれば、その道ではエキスパートになれる。そうなれば、人間関係に振り回されることはなくなるといわれています。対人恐怖の人は、これを応用しない手はない。自分の思い、気持ち、意思、欲求、希望に目を向けて生きていくことだ。まずは身近なところから実践していこうではありませんか。
2014.09.09
コメント(0)
脳科学者の茂木健一郎さんがある企業で講演をした時のことです。「あなたの人生には、これから先もいろいろと不確実なことが起こります。あなたはそれを楽しみたいと思いますか、それとも不安に思いますか」その時ほとんどの人は不安だと答えました。これは脳が不健康な状態だといわれるのです。これを突き詰めていくと、「あなたはもし20代に戻れるとしたら、もう一度人生をやり直したいと思いますか。あるいは生まれ変われるとしたら、再びこの地球に生まれてきたいと思いますか」という質問にもなると思います。いやもう決して20代に戻りたいとは思いません。ましてや生まれ変わるなんてとんでもないことです。このまま歳をとって早く死にたい。もう生きていくのはこりごりです。あの世に行ったら、もう生まれ変わらずにそのまま暮らしたい。茂木さんは、日本人全体が不確実を避けようとしており、不確実性に希望を抱くことができなくなっているということです。何が起きるか分からない不確実な状況が、楽しみであるというよりも、不安や恐怖であるというのが今の日本人の姿だとすれば、日本人の脳は、大変不健康であるといわざるをえません。こういうふうに考える人は、自分の理想がこの世で実現しなかった人かもしれません。努力の途中で夢を早々とあきらめてしまったのかもしれません。そしてリスク、不安、恐怖を避けて、いつも安定した安全な道を歩もうとしたのかもしれません。将棋でいえば防御一辺倒で負けないことばかりを考えていたのでしょう。将棋の目的は相手の王将をとることです。その気持ちがないと何のための将棋なのか。目標をすっかり忘れて、迷路に迷い込んで抜け出すことが困難になってしまったようなものです。ただ生命維持が唯一の目的のようなものです。守勢一辺倒の人生は苦しいばかりであり、将来への希望は見いだせないと思います。生きていれば楽しいことうれしいことも起きます。反対に苦しいこと、悲しいことも数多くあります。いいことばかりの人生、悪いことばかりの人生はあり得ません。喜怒哀楽は誰にもバランスを持って訪れます。要はこれらに対してどう立ち向かっていくのか。その向かい方が人生を楽しめるのか、不安になるのかの境目になると思います。これから将来起こるであろう様々な出来事に対してスリルを持って楽しむ希望やゆとりを持てるかどうか。あるいは失敗やミスに対して、それを将来に活かしてみたいという意欲が持てるかどうか。また好奇心を持って、いろんなことに果敢に挑戦してみたいという情熱を持てるかどうか。森田理論学習でいう生の欲望の発揮に向かってどれだけ真剣になれるかどうか。ここが肝心なところとなります。そしていつも運命を切り開いていく姿勢が問われているのだと思います。生の欲望の発揮とはどういうことなのか、森田理論学習の中で深めていただきたいと思います。(脳と心の整理術 茂木健一郎 PHP参照)
2014.09.08
コメント(0)
子どもはどんな風にしてネットゲームに夢中になっていくのか。「親は知らない」読売新聞社会部、中央公論新社より見てみよう。ある少年が中学生のころからネットゲームに夢中になった。マイク付ヘッドフォンをつけて、聞こえてくるのはゲーム音だけ。「このやろう」「死ね」「うぜ」という声に深夜家族が目を覚ますこともあるという。画面の向こうには「仲間」がいる。知らない相手とインターネット経由で言葉を交わす。ゲーム用語を連発している。自らやゲーム上の友人のことを「ネトゲ廃人」と呼ぶ。ネトゲとはネットワークゲームの略だそうだ。技術の高いプレーヤーをたたえて「廃神」と呼ぶそうだ。今19歳だが、夕方から翌日昼すぎまでゲームに明け暮れる。昼過ぎから夕方までは寝ている。昼夜逆転の生活が続いている。親は息子をネットゲームから引き離そうと何度も試みた。そのたびに親子の溝は深まるばかりで、今や全く口出しできずに放任している。ゲームの最中は自宅に訪ねてくる友達にも合わない。中学の卒業アルバムは同級生が届けてくれたが、卒業式には出なかった。単位制高校も入学手続きをしただけですぐに辞めた。ネットゲームについて本人は、「リアルの世界では失敗できないけど、ゲームでは名前を変えたり、データを削除できるから」という。つまり今や完全に仮想社会、ネット社会の住人になってしまい、現実社会から背を向けて逃避しているのである。ゲームでは何度もやり直しはきくが、現実社会はリセットして新たに再出発することはできない。また将来の生活、自立して生きていくということは全く考えていない。親の加護のもとで生きていくのだろうか。私の住んでいるマンションでも夏休み外で遊ぶ子供はあまりいなかった。我々が子供の頃と比べてみれば一目瞭然だ。友達とは外で遊ばない。家でゲームなどをしている子供も相当いるのではないか。私が一番心配なのは、脳が正常な働きをしなくなることだ。脳のシナプスのネットワークは、不必要なものはどんどん刈り込んでいく。その時期は生まれて1年以内と10歳から12歳の間の2回行われているという。刈り込まれたシナプスはその後再生されることはない。刈り込まれた脳は機能不全に陥る。つまりネットゲームにはまり込んでしまうと、自分を大切にする、他人を思いやる、物を大切に使う、時間やお金を大事にするなどという気持ちは持てなくなってしまうということなのだ。こういう子供たちが増えることは、末恐ろしい社会がすぐそこまで来ているということである。最近の猟奇事件は、すでに多くの警告シグナルを発しているのである。現在ネットゲーム、パソコン、携帯端末機器の拡大は野放しである。むしろ世の中の自然の流れとして社会に容認されている。歓迎されている。また将来、パソコンが駆逐されて、携帯端末による情報化社会に突入することはほぼ間違いないところである。それらは便利で役に立つ反面、人間の体や脳に与える悪影響について十分注意を払う必要があるのではないか。1990年代以降に生まれた人は、出生以来その枠内で生活してきた人である。その子どもたちがこれから先社会に出てゆき、社会、経済をけん引してゆくようになる。それが吉と出るか凶と出るか、すぐに結論が出るのではなかろうか。
2014.09.07
コメント(0)
森田正馬全集第5巻の中にハイキングや余興で皆が楽しんだ様子が10回にわたって紹介されている。私は5巻を読むにあたって、この部分から読み始めた。一服の清涼剤のようなものである。13回形外会 東村山貯水池へのピクニック16回形外会 湯河原旅行21回形外会 森田邸新築落成記念兼春期大会23回形外会 熱海旅行27回形外会 多摩御陵・高尾山ピクニック29回形外会 昭和8年新年会34回形外会 熱海旅行37回形外会 秋季大会 高島平三郎先生にお話を聴く会と余興大会38回形外会 奥多摩ピクニック44回形外会 豊島園ピクニック形外会は66回開かれているが、そのなかにこんなに多くのレクリェーションが取り入れられていた。落語家、漫才師、手品師も出てくる。何より面白いのは自分たちで芝居を作ったり、民謡を歌ったり、一人一芸を披露しているのである。森田先生も鶯の谷渡りの芸や高知の民謡を披露している。また近くの寺での盆踊りには、お揃いの浴衣まで作るという凝りようであった。特に第29回形外会では森田先生が自ら鶯の綱渡り芸をされた。その後水谷先生など5名が滑稽劇の「三方一両損」がくわしく紹介されている。また熱海の温泉旅館開業の話もおもしろい。このあたりを自分の生活に取り入れることになると、かなりの森田通とみてよろしい。昔の剣術道場では、剣術をすぐには練習させないで、2年、3年と雑巾かけなどばかりをやらせていたそうです。その過程で、「早く剣の練習がしたいなあ」と思わせ、あこがれをこめたまなざしで練習風景を見続けさせるわけです。そうしてよく見させておいてから、稽古を始めると、いきなりけっこうできてしまう。これから何を学ぶかということですが、森田理論はよくなった人、あるいは森田的生活を体得実践している人をよく観察して真似てみるということだと思います。森田先生の指導内容を整理したり、森田先生の日常生活や芸事などをそのまま真似てみることが有効だと思います。昔から、子供は親の言うことはしないが、親がやっていることをするといいますが、森田をものにするには物まねから入るのがよいと思います。私の手作りの名刺には、アルトサックス演奏、ドジョウ掬い、浪曲奇術、獅子舞をうたっている。今日も今から特別養護老人ホームで、獅子舞をおどり、アルトサックスを吹きに行く。明日は市の身体障害者のイベントに出かける。だから毎日30分から1時間の練習は欠かせない。別にお金をかけなくても十分に楽しむことができる。毎日が楽しい。演芸をすると食事が出たり、お土産をもらったり、寸志もでる。一石二鳥である。また人を喜ばせるのは実に楽しい。人前に立つので今では自信もついてきた。これが対人恐怖症の克服に役立っていたことは後から気がついた。
2014.09.06
コメント(3)
朝令暮改という言葉がある。あまり良い意味では使われない。命令や法律などが頻繁に変更されてあてにならないことを言う。友達でも会社でもこういう優柔不断な人は嫌われる。方針や目標が変更されると、今までの努力が水の泡になり一からやり直すことになりかねないからである。莫大な資金が無駄になることもある。だから念には念を入れて長期目標をしっかりと作る。それに向かってまっしぐらに突き進むことを好むのである。目標を持って日々努力することは大切である。これが生きがいにつながる。しかしこれにあまりにも固執すると、突発的な状況の変化に対しては全く対応できない。臨機応変な対応ができなくなる。このことを考えないといけない。森田理論では「変化への対応」を優先する。森田では、目標に向かって努力することは、生の欲望の発揮といってとても重視している。しかし、努力の過程では、常に周囲の変化を観察して、自分をその変化に対応させていくという考え方である。自然や相手を自分の意のままに変化させるのではない。自分の立場を相手に合わせて変化させていくという考えである。セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏は、「顧客は移ろいやすく、飽きやすい集団と化している。加えて、好況、不況、産業構造、人口動向などのマクロ的変化、天候、気温、地域性などのミクロ的な変化によって、顧客のニーズは日々刻々と変化している。こうしたいかなる変化にも素早く対応することが大切である。」といわれる。昔イノベーションしない会社の寿命は30年といわれた。一事の成功に浮かれて、変化対応を忘れて、現状に甘んじていると衰退の一途をたどっていく。カメレオンのように周囲の状況に合わせて、自らを変えていくことが生き延びる唯一の道となる。変化の激しい今の時代は、企業の寿命は5年程度に縮まっていることを認識すべきである。我々森田理論学習者としても、「変化への対応」を意識して体得するべきだと思う。森田を生活の中に取り入れるという意味では、避けて通れない項目である。
2014.09.05
コメント(0)
集談会などでも老人介護の話はよく出てきます。介護のために仕事を辞めた。毎日つきっきりで、食事の準備、入浴、体を拭いてあげたり、下の世話、散歩に連れて行ったり、病院などの送り迎えなどをしている。それも自分の両親ではなく、夫の両親を何年も世話している人がいます。介護する人にとっては、大変な重労働であり、心身のストレスは想像を絶するものがあります。でも放っても置けないし、誰もが通る道なので仕方ないのです。これは子どもの当然果たすべき義務です。私たち日本人はそのことを疑うことなく自然に受け入れているようです。アメリカなどでは、アルツファイマーや下の世話をしなくてはならなくなると家族の手から離して、専門家に任せたり、専門施設に入れるのが一般的なようです。私が要介護状態になった時もそのようにしてもらうことが希望です。娘や妻に負担をかけるというのはどうも気が引けます。というより絶対に嫌だと思うのです。老人介護について森田理論ではどのように言っているのでしょうか。寝たぎりになったり、痴呆になった親の介護をするというのは、憂鬱な気持ちになるのは当然です。いやだいやだと思いながらも仕方なしに、食事の準備をしたり、世話をすることを勧めています。するとしだいに行動に弾みがつき、憂鬱な感情は流れて、親の気持ちが分かるようになります。つまり思いやりの心が出て来て、やさしくなれるものだといっているのです。私は、これは感情の法則を説明しているのだと思います。確かに感情は諸行無常、変化流動しています。一つの不快な感情、憂鬱な感情にこだわっていることはできません。どうにもならない感情はそのままにして、目の前の介護の仕事に目を向けていくことは何より大切なことです。すると今までの不快な感情、憂鬱な感情は流れて行ってしまうのです。この感情の動きと流れを体験することは極めて大切なことです。ある意味森田の根幹をなす考え方です。これは感情の法則で何度も学習したことです。これが実践できるようになることはとても意味のあることです。でもここで私があえて言いたいのは、自分の嫌だという意思、自分の素直な気持ちを大切にしましょうということです。いやだという気持ちを無視したり、抑圧したり、否定していると、いずれはその反動が来るのではないかと思うのです。それが自己犠牲の上に成り立っているとすると、とても大きなストレスになりますし、心身に多大な悪影響を与えてしまいます。この場合まず自分の気持ち、思い、意思を第一番にたてることだと思います。これが出発点です。これは森田理論でいう「生の欲望」をはっきりとさせるということです。自分中心の生き方を出発点にするということです。これがない状態で、不快な感情を受け入れるというのは本末転倒です。我慢して、耐えるというのと何ら変わりがありません。まず自分の意思がはっきりしている。でも現実に突き付けられた問題によって、自分の意思が捻じ曲げられてしまう可能性がある。そこに不安、恐怖、不快な感情が沸き起こってくるのです。こういう時は、あらゆる選択肢を列挙して、比較検討する必要があります。その上で最善の策を決定し実行する必要があるのです。この手順を踏む必要があります。すると、親の意思を確かめる。自分が介護する。兄弟姉妹で協力して介護にあたる。デイケアなどのサービスを利用する。老人ホームに入る。特別養護老人ホームに入る。グループホームに入所する。ヘルパーさんを頼む。などなどいろんな選択肢が出てくると思います。不安や不快な感情はすべて受け入れるのではないのです。不安に学び、前もって手を打たなければならないものがごく一部分あるということです。そのためには、普段から自分の気持ちや意思をいかに育てて行くのかということが大切なのです。普段から自分の気持ちや欲求について意識を持たないと、しだいに分からなくなってしまうのです。森田理論の土台というのは、生の欲望の発揮ということです。これを抜きすると森田理論は成り立たないということです。ここは微妙なところですが、きちんと整理しておく必要があるように思います。
2014.09.03
コメント(0)
月刊誌「生活の発見」の2014年9月号に「なおる」とはどういうことかについての説明がある。治るとは「精神交互作用の打破」と「思想の矛盾の打破」であると説明されている。私も同感だ。森田独特の言葉なので、初めての人は面食らうかもしれない。でも少し、森田理論を学習すると容易に理解できると思う。少し説明しましょう。まず精神交互作用の打破とは何か。神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。思想の矛盾の打破とは何か。神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。先入観が強く、偏っており、思い込みが激しいということです。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、沸き起こった感情、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。それはまずいことです。事実に従う態度では何ら問題は発生しません。そうゆうことを自覚する。そういう態度を身につけることが大切です。ところが神経症に陥るような人は、無理やり「かくあるべし」に合わせようとします。すぐに強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症に陥り、苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。森田理論学習ではその手法を学びます。そして最後に「生の欲望」に沿った生き方ができるようになるとよいのです。「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。医師や臨床心理士の森田療法というのは、神経症を克服するためのものです。現実生活が全く滞ってしまっている。あるいはうつなどを抱えている場合は有効です。私たちが学習している森田理論というものは、それとはだいぶ違います。神経質性格を持っている人で、生きづらさを抱えている人が、生きづらさを解消するためのものです。自覚を深めて、自分の生活に取り入れて、心身ともに生まれ変わるためのものなのです。つまり人生観の確立にかかわるものなのです。この点ははっきりと区別することが大切です。仮に森田理論学習で神経症を治すということは、人生観が確立した結果、副次的に治るということです。治療としての森田療法はそこまで踏み込んで治療しているわけではありません。
2014.09.03
コメント(0)
生活の発見誌2014年8月号に、比嘉千賀先生がアルコール依存症の人のことを書いておられる。AAにはアルコール依存症回復12のステップというのがある。その第一ステップは「われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」というものです。これは「無力のステップ」と言います。自分の無力を認めないと次に進めないのです。神経症に対しても、森田先生は、「神経症の症状は治らない。神経質であることは治せない。治そうとすればするほど思想の矛盾でぐるぐると悪循環に巻き込まれていってしまう。神経症の症状に対しては無力であってそれを受け入れるしかない。症状を持ちながらも、今必要なこと、目の前のことをやっていきなさい」といわれています。このことと関連したことを、玉野井幹雄さんも言われていました。玉野井さんは症状をとるために、いろんなことに手を出されたがよくならなかった。最終的にたどり着いたのは、「自分の救いを断念する」ということに到達された。「地獄に家を建てて住む」という有名な言葉があります。その覚悟を決められた。それから楽になったといわれています。森田理論学習とは、「救いを断念する度合いを高める」ことにつきます。「救いを断念」できれば、どんな方法でもよいのですが、経験的に言えることは、「森田」を勉強して間もない人は「断念」の度合いが小さく、長くなるに従って経験を積んだ人ほどその度合いが高くなってくるような気がします。玉野井さんはこのように言われています。不安を抱えたまま行動できるようになることは、そういう能力を獲得したということです。森田理論はその能力獲得のための理論です。まずは十分学習して理解すること。そして自分にあてはめて自覚を深めていくこと。そして生活の中に取り込んでいくことが大切です。反対に、症状はとろうとすればするほど強まっていくものだということを、しっかり学習することが大切だと思います。
2014.09.02
コメント(0)
人に嫌われる人は、相手と相談するという気持ちを持ち合わせていない。例えば夫婦でレストランに行って夕食をしていたとする。ウエイトレスが「ワインなど如何でしょうか」と聞いてくる。すると妻が、自分に相談しないで、すぐに「いりません」と返事をする。すると夫はどういう気持ちになると思いますか。少し腹立たしい気持ちになると思います。「どうして、僕の気持ちを聞いてくれないのだろうか。妻はいらないかもしれない。でも僕は食前酒として飲んでみたいと思っていたのに」仮にそう思っていたとすると気分がよいはずはありません。「僕は注文するよ」と言えば険悪な雰囲気になることが予想されるので、普通は我慢します。すると余計にストレスが溜まります。こういうことが日常茶飯事で繰り返されることによって、夫婦の人間関係は次第に破たんしてくるのだと思います。でも妻はそのことに全く気が付いていない。相手は優柔不断で自分の意思など持っていないと判断しているのです。小さいことだけれども、妻は夫のことなど眼中にないのだと思います。極端に言えば、自分の気持ちは相手の気持ちだ。相手は私の決定、指示・命令に従えばすべて丸くおさまるのだという気持ちなのでしょう。私も苦い経験がある。家族で食事に行った時のことだ。私はメニューを見て早速オムライスを注文した。すると娘がお父さんはいつも自分勝手だというのだ。私は自分が好きなものを食べて何が悪いのだと思っていた。すると娘が言うには、家族のみんなで意見を出して相談したほうがいいというのだ。ああでもない、こうでもないと話し合いをするのがいいのだというのだ。またせめて子供たちの意見を聞いて、子供が決めた後に親が決めるようなゆとりを持つべきだというのだ。また、そういうお父さんはなんでも自分勝手に決めてしまう。車を買う時でも、マンションを買う時でも、私の勉強机を決めるとき、家族旅行の行先も、レジャーの行先もなんでも自分で決めてしまう。自己中心で、家族を思いやる気持ちがない。相談して家族の気持ちや意向を聞こうという態度がない。本人はいいかもしれないが、家族には大きな不満がある。ストレスが溜まるというのだ。私は娘の言葉ではっとした。長らく森田理論学習をしたのは何だったのだろうか。森田理論では自分の意思、気持ち、希望をしっかり持つことはとても大切だ。これが基本だ。ところがもう一つとても大切なことがある。相手の意思、気持ち、希望を聞いて確かめるということだ。最終的には自分の意向も反映させ、相手の意向も反映させて、双方にとって譲ったり譲られたりする関係を作り上げていくこと。自分のやりたいことをそのまま実行するのではなく、この過程をきちんと踏んでいくこと。人間関係づくりには欠かせないことだと思い知らされたのでした。
2014.09.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1