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神経質者が物を見て価値判断しているということは、事実からは大きくかけ離れているということだ。第三者からするととても違和感がある。自分も苦しいが、他人にも無茶を押し付けることになる。もし白と黒の極端な見方しかできない人は、白と黒の間にはグレーという中間色があるという認識を持つ必要がある。集談会などで認識の誤りを自覚する学習が必要である。そしてそのグレーにも様々な濃淡のあるグレーが存在するという認識まで高める必要がある。するとどうなるか。実は白だ、黒だと決めつけていたことは、幾層にもわかれているグレーの層が広がっていただけだったのだと分かってくる。すると柔軟な対応ができる。今まで油の切れた歯車を無理やり回して、傷だらけになっていたものが、潤滑油がたっぷりあってなめらかな回転を取りもどすことができたのだ。現在昔の白黒写真をカラー化する技術が確立しているという。その原理は、グレーにも様々な濃淡があり、その濃淡の差は色彩の差であるということを利用しているそうである。つまりカラー化というのは、グレーを細かく分析して微妙な濃淡の差を色彩に置き換えているということなのである。この技術はグレーの分析なしにはなしえなかったことである。
2014.03.31
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私たちは物を見るとき、白と黒のモノクロ写真のようにしか見えないとなるとどうなるだろう。実際は鮮やかな赤、青、黄色、オレンジ、緑の色をしているのに、モノクロにしか見えないということになると、世の中は実に味気ないものになってしまう。映画は途端に色あせてしまう。信号機は役に立たない。花や景色の美しさは半減してしまう。絵画の素晴らしさも味わうこともできない。テレビ映像はただの動く白黒写真である。昔の白黒写真を見ていると、ものの形は分かるがそれ以上のリアリティは伝わってこない。月の表面のような無味乾燥な世界である。そうなると精神が病んでくるのではなかろうか。月から地球を見ると、青さが目立つカラーの世界である。何となくほっとするのである。ところが神経質者のものの見方は、まさにこのモノクロである。モノクロといっても極端なモノクロである。つまり白黒の濃淡はないのである。神経質者はよくグレー部分がなくて白と黒しかないといわれる。白か黒で世の中の出来事を見ているということである。実際にはグレーもあるのに無視しているのである。例えてみれば、グレーの50%までは白として判定している。そして50%から100%までは黒と見なしているようなものである。そんな写真を想像してみてもらいたい。白と黒しかない。はっきりとコントラストがある。そんな写真を想像するとぞっとする。もはや写真に値しない。抽象画である。
2014.03.31
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元日本マイクロソフト社長の古川亨さんは、社員採用面接のときこんな質問をされたそうだ。「あなたの今までの経験で一番取り組んだことは何か。趣味でも好きだったことなら何でもいい」相手がしゃべり始めたら、どんどん質問していくそうだ。その取り組み具合の深度を探っているのだそうだ。スポーツ、趣味、文学、映画、演劇、ボランティア、お笑いでもなんでもよい。一つのことに寝食を忘れるぐらい組んだ人の話は、具体的であるという。目的、場所、日時、時期、登場人物など細かく話してくれる。主語が必ず「私」になっている。自分からどんどんと話してくれる。そういう人は、仕事に就いた場合、高いパフォーマンスを挙げる人が多い。やる気や意欲をかき立たせて、生産的でクリエイティブな仕事をする人が多い。そういう人はモチベーションを高めるための能力を持っている、能力を獲得しているという評価をしているのである。これを森田理論学習でいうと「物そのもの」なっているのかどうかということです。症状があっても、目の前のやるべきことに一生懸命に取り組んでみる。無我夢中で取り組んでみる。気が付いてみたらこんなに時間がたっていた。後で振り返ってみると症状のことは一時的に忘れていた。その状態の中でいろいろな気付きや工夫するべきところを見つける。さらに弾みがついて集中度が高まる。のんべんだらりと行動するのではなく、一歩進んで行動してみることが大切です。
2014.03.30
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神経症の苦しみですが、これは何といっても森田理論です。森田理論は人生観が変わり生きることが楽しくなります。神経症状を治すのはごく一面的な見方です。認識の誤りを自覚し、他人中心の生き方を自分中心の生き方に修正してゆき、生の欲望の発揮に邁進するようになれば人間に生まれた喜びが出てくると思います。私の場合はそうでした。つぎに歳をとって死ぬということですが、親しい人と別れる別離の寂しさと、自分がこの世から永遠にいなくなってしまうという恐れのことだと思います。いくら親しい家族でも最後は死によって引き離されてしまいます。これに対して私は薄い人間関係を幅広く作っておくことが大切だと思っています。家族はもちろんのこと、生活の発見会で知り合った人、趣味の会で知り合った人、過去や現在の仕事で知り合った人、親せきや昔からの友人などを大切にしてゆきたいと思っています。広く浅い人間関係を数多く築いてゆきたいと思っています。死についてですが、人間は死んだあとは跡形もなく消えてしまうという考えと、魂が体から抜け出てまた新たな道が開けるのだという考え方があります。これはどちらも推測の域を抜けません。でも私は魂が抜け出てまだ次につながるのではないかと勝手に思っています。なぜかというと、そう考えると「今をどう生きるのか」ということにつながるからです。おろそかに生きることはできなくなります。また自分さえよければそれでよいという生き方もできなくなります。少しでも人の役に立ちたい。将来がよりよくなるために少しでも貢献したいという気持ちが出てきます。このような気持ちで生きていけば、仮に死んだあと自分が跡形もなく消えてしまうとしても、それはそれでよいのではないのかと思っているのです。
2014.03.29
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最近の森田理論の講演会などに行くと「生老病死」をテーマにして話されることが多い。最近の北西憲二先生や比嘉千賀先生の講演もそうだった。森田理論で「生老病死」の予期不安や苦しみを考えてみましょうということだ。生まれるというのは不安や苦しみとは違和感があるが、生まれてきて生きていくということそのものが苦しみだということだそうだ。私は「生老病死」を予期不安や苦しみとしてとらえるのではなく、自分の目の前に与えられた課題としてとらえるべきだと思います。課題について深く洞察したり、よりよい方向に認識を新たにしていくほうが将来の展望が開けます。「生老病死」の中で、特に日本人の問題としては、第一に病気になること。第二に歳をとって死ぬことではないかと思います。年齢が高くなるほど予期不安は強くなってきます。病気になることはまずガンや血管障害などの器質的疾患にかかること。つぎに認知症やアルツファイマー、精神疾患にかかること。あるいは神経症にかかって生活に支障をきたしたり、生きづらさが続いて重苦しいことなどがあります。器質的な病気ですが私の場合は、体を温めることと食べ過ぎないことを中心に健康法を指導されている石原結實医師の考え方を取り入れています。また病気は体の免疫力のバランスの崩れから起きるという安保徹医師の考えかたに賛同しています。このお二人の医師の考え方を生活の中に取り入れて日常生活に活かしたいと思っています。
2014.03.29
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不登校、引きこもりについて悩んでいる方に参考図書の紹介をします。社会的引きこもり 斎藤環 PHP新書です。著者は10年で200例のもの引きこもりの相談、治療に当たられた方です。実践編で引きこもりの人と家族の対応、日常生活、家庭内暴力、社会復帰に向けて丁寧に書かれています。治療機関のガイドブックとして全国障害者家族会連合会の資料があるそうです。この本には全国の良心的な精神病院、診療所などが網羅的に紹介されているそうです。今まで読んだ中で、一番役に立つ本でした。
2014.03.29
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子どもにこずかいを欲しいときに欲しいだけ与えているという家庭があるそうです。すると2つの問題点が出てきます。一つは我慢するということがなくなって、ほしいものを際限なく買い求める子になります。そういう子は大人になって借金まみれになり、最悪自己破産への道へと進みます。もう一つはお金を稼ぐという気持ちがなくなることです。お金が欲しいという気持ちの高まりがなくなるのです。親に対して「特に欲しいものがないから、お金はいらない」などという子供がそうです。つまり意欲、気持ち、モチュベーションの高まりなくなってくるのです。人間はいつでも手に入るものに対しては、それをどうこうしようという力がなくなってしまうのです。経済的に恵まれ過ぎているということは、一見安定しているように見えますが、生きる力、生きがいを喪失するものでもあるということです。そしてお金に執着しないということは、学ぶ、仕事をする、子供を生んで育てることにも力が湧いてこないことにつながります。悪い連鎖が続けて起こり骨抜きにされてしまうのです。前に紹介したかもしれませんが、「渡り鳥の悲劇」という逸話を紹介します。オタンダのある地方に毎年渡り鳥が飛来していました。慈悲深い地元の人々は餌付けを始めました。最初のころは用心深かった渡り鳥でしたが、しだいに人間になついてきました。そのうち、飛び立たずにそのまま、その地で1年間を過ごす鳥がでてきました。そして、餌の食べ過ぎでぶくぶく太り飛び立つことさえ出来なくなったということです。自ら餌を獲ることをやめ、飛ぶことをやめた渡り鳥はもはや元の渡り鳥に戻ることは出来ません。生きがいを奪われ、人間のみせものとしてしか生きるすべはなくなってしまいました。これが人間だったら精神疾患を引き起こすかもしれません。人間には適度の不安、ストレスは生きるために欠かせない餌のようなものです。そういう餌がいたるところにあるからこそ、健康に生きていけるのだということも考えてみたいと思います。親は子供から生きるための貴重な餌を、奪い取ってはいけないのだということです。
2014.03.28
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淀川工科高等学校の吹奏楽を指揮している丸谷明夫さんという人がいる。全国大会でゴールド金賞を24回も受賞している。全国最多である。楽器をうまく扱えない生徒を短期間で、地区大会、全国大会へと導くのである。音楽の先生ではない。本職は技術の先生だ。丸谷先生はいつもにこにこしている。でも厳しい言葉も吐く。丸谷先生曰く。「子供たち一人ひとりがその気になって本気でかかってきよったら、少々下手な者同士でもかなりいいところに行きますよ」「指揮棒に合わせて完璧に吹くだけなら型どおりの演奏にしかならない。それぞれの持ち味を生かしながら、結果として合わさった音が生き生きしてくる」「中途半端な苦労している奴でひねくれているのがよくいますが、もうズタズタに、生きるか死ぬかの苦労をした奴は、そんなものをも超越してしまって本当に純粋になるのでしょう。そういう子に育てたいのです。」「子供は喜びや幸せは誰かが運んでくれるような気でいるんですが、そんなはずはないわけで、苦労したものが苦労しただけちゃんと喜べるようになっている。」「我々もとかく効率のいい方法やすぐ、上達する方法を考えがちなんですが、そういうものはなくて、やっぱり変わった手、相撲でいえば猫だましなんかを使わず、がっぷり四つの寄り切り、譜面に書いてあることにきちっと応える王道、それを貫いていくしかないと思うんです。」(致知 2012年11号 特集一念、道を拓くより)高校野球でもそうですが、カリスマ指導者といる人がいる。その人と一緒にいるだけで自分の目標が自然と達成されるのである。そういう指導者はどこが違うのだろうか。目標が明確で共有化できている。教え方がうまい。などいろいろあるだろうが、一番はやる気を掘り起こして火をつけるのである。自分から動き出したくなり、工夫や改善が次から次へと生まれてくるのである。それが他の人に伝播して、その集団がやる気に満ちてくるのである。職場でも営業マン一人一人が、仕事に燃える集団を作るととてつもない力を発揮する。森田理論でいう生の欲望の発揮である。高校生でこうした経験を持つと大人になって生きてくると思う。
2014.03.27
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先日170名の前でアルトサックスのソロ演奏をした。時間は講演前の25分と休憩時間の5分だった。出来としては80点というところだった。緊張して一部手の動きが悪くてミスタッチをしてしまった。でも100%の準備をしても、本番では80から90%の出来に落ちるということが経験上分かっていたので慌てることはなかった。途中自分でもいい音だなと感じるところもあった。曲は「見上げてごらん夜の星を」「瀬戸の花嫁」「北国の春」「夜明けのスキャット」「千の風になって」「涙そうそう」「高校三年生」の7曲だった。実際には10曲以上の曲をエントリーしていた。これらは100曲以上のレパートリーの中でも得意なものばかりだ。これをやるにあたっては、練習を積み重ねた。さらにいつもいっしょに老人ホームの慰問活動をしている5名の仲間の前でリハーサルを行い、仲間の助言を得て曲目変更や演奏内容の一部を修正した。仲間が励ましや気を使って電話をしてくれたりした。今回は一人だったが、実際には仲間たちと一緒に練習して身につけたものであった。演奏していても仲間が近くにいるような錯覚がした。最終的には7曲に絞って、パニック状態でも指がひとりでに動いてくれるまで、指になじませる練習をした。その上での本番であった。考えてみればカラオケは苦手で絶対音感は全くない。オタマジャクシを見ると嫌悪感が湧いてくる。楽器も10年前には触ったことがない。最初に演奏したときは音がひっくり返る失態をした。また人前で演奏すると人の顔が気になるので、後ろ向きで演奏していたこともあった。ミスタッチは限りなく多く経験してきた。老人ホームでの慰問では、間違えて何回も他のメンバーに迷惑をかけた。でもそんな時、「人間のやることだから、間違うことはあるから、心配しなくてもよい」と慰めてもらうことばかりだった。意気消沈しているときは、ありがたい言葉だった。そしていつも暖かく仲間として受け入れてくれた。その私があって、曲がりなりにも170名の大衆の前でなんとか任務を果たすことができた。自分をほめてもよいのではないかと思いました。それにしても数々の失敗にもかかわらず、人前に立って演奏活動を続けてきたこと。助言や励ましてくれる先生に恵まれていたことが今回の喜びにつながりました。この経験を肥やしにしてまた次に進もうと思う。老人ホームの慰問は、老人の方が喜ぶ昔の演歌が中心なので、これからは演奏曲をお客様の年代に合わせて、ジャンル別に増やしていこうと思っています。新たな目標が出てきました。取り合えず「アメージンググレース」「ダニーボーイ」に取り組んでいます。
2014.03.26
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物の性を尽くすという言葉があります。森田先生の水の活用は有名です。風呂のお湯は洗濯、ふき掃除、植木、打ち水など徹底的に利用しつくすというものです。森田先生はそのまま捨てるということは考えられません。この手のエピソードは森田正馬全集5巻に満載です。私は、これは比較的自分の生活に応用できると思いました。こういう気持ちでいると、神経が四方八方に敏感に反応していくようになります。これを徹底して神経症を克服した人を知っています。「急がば回れ」ということわざがあります。直接神経症を治そうとするよりも、かえってこのやり方が早かったという実感があります。私は5点に拡大して取り組んでいます。物、お金、時間、己、他人などです。それぞれ持っている「存在価値」や「潜在能力」を最大限に活かしてゆくことを言います。これは言葉で理解するだけではなく、実際に生活の中で実践して生活してゆくことが大切です。私の物の性を尽くすことで取り組んでいたこと、いる事を紹介します。マイ箸を持ち歩く。買い物袋を持ち歩く。コピー用紙は裏も利用する。服の棚卸をして、有効活用する。無駄なものはバザーに出す。本はリサイクルされたものを利用する。ボールペンやシャープペンシルは限られたものを大切に扱う。水を出しっぱなしにしない。洗面器一杯の水で顔を洗う。パソコンや電燈のスイッチをこまめに切る。テレビはDVDに落としたものを見る。生活の発見誌は切り抜きをして整理する。お金の活用のためこずかい帳をつける。こずかい帳の予算管理をする。時間の活用として細切れ時間の利用自分の活用として、やってみたいこと興味のあることに手を出してみる。他人の活用として適材適所の仕事を見つけてあげる。これ以外にもいろいろとあります。皆さんもそれぞれに考えておられることでしょう。さらに増やして生活の中に取り入れてみてください。
2014.03.25
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吉岡たすくさんは、子供たちの能力を見ていて、学校の成績は氷山の一角だといわれています。氷山というのは全体の1割が海面上に顔を出しています。海の中に9割が沈んでいます。これは大人も同じです。つまり私はこれができるという能力は、実は氷山の一角であって、ほとんどの能力は氷山のかくれている部分にある。ですから、もっともっと自分の能力を発掘しなさいと言われているのです。お宅の子供さんのもらってきた通知表を見て、うちの子供はこの程度かなと早くから、決めつけてしまうというのはいかがなものでしょうか。それは氷山の一角だけを見て判断しています。海面下は計算されていません。これは子供自身も気づいていません。だから発掘する必要があるのです。そうなるためには、感受性の豊かな子、好奇心旺盛な、やる気のある子どもに育てなくてはなりません。教育というのは、そこに一番焦点を当ててやればよいのです。マラソンに例えると、子供時代はスタジアムを出る前か、出ても10キロ付近までではないでしょうか。20キロ付近が折り返しです。人間でいえば40代でしょう。半分ぐらいです。でもマラソンはその時はまだまた誰が抜け出すのかわかりません。35キロあたりでやっと優勝候補が絞られてきます。人間の寿命でいえば70歳から75歳ぐらいでしょうか。時にはスタジアムまでもつれ込むこともあります。だから人間は一生、自分の能力を発掘する必要があるのです。脳細胞も実際使われているのはごくわずかだといいます。森田先生なら何というでしょうか。もっともっと持てる能力を引き出しなさい。十分に活かし切りなさいといわれるのではなかろうか。この投稿は「いきいき子育て」を参照しました。
2014.03.24
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最近児童虐待の悲惨な事件が報道される。この場合は親が子供を虐待して死に至らしめているわけです。神経質者でこれと同じようなことをしている人がいます。それは自己虐待です。自分で自分の存在価値を否定して、自分の人権を痛めつけているのです。元々自己の中には二人の自分がいます。現実でのたうち回っている自分とそれを見ていつも批判している自分です。主導権は批判している自分が握っています。批判している自分は自分の容姿、やることなすことすべてにわたって我慢がならないのです。いつも改善命令を出して、自分を追い込んでいるのです。困っているときに限って激しく責めたてているのです。責められるほうは自分を守ることに四苦八苦しています。守勢に立ちとても前進することはできません。本来は苦しいとき、現実でのたうち回っているとき、もう一人の自分はやさしく寄り添ってあげることが必要です。そしてやさしく語りかけてあげることです。「私はあなたが大好きです」「私はあなたのやることをいつも応援しています」「いつもあなたのみかたです」「どんな状況になっても全力であなたを守り抜きます」こうなれば二人の自分が一つになって、和解して手を携えて前進できます。そうなれば強いと思います。迷いがありません。自分を防御することよりも、目の前の問題に全力でぶつかってゆけます。森田理論学習では、自分で自分の存在価値を自覚すること、存在価値を高めていく方向で認識の誤りを正して、生きていくことを勧めています。そうなれば生まれてきてよかったとしみじみと感じることでできるようになると思います。
2014.03.23
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感動する映画を見た時私たちは涙を流します。普段は泣かない大人でも自然に涙があふれてきます。これは我慢する、耐えるということから見ると反対の行為です。喜怒哀楽を我慢して、耐えたりしないでストレートに反応していることと同じです。この時体の中では何が起きているのか。涙を流しているときは副交感神経が優位になっています。極度に緊張した状態から、泣くことによって、一挙に副交感神経が優位な状態にシフトするのです。それが大きなリラックスの気持ちに切り替わっているのです。感動の涙を流したとき、無理にそれを押さえつけないで、そのまま泣いていると、とてもさわやかなすっきりした気持ちになることは皆さんも経験されていることと思います。ところが大人は、特に男性は人前で涙を見せることはみっともない、恥ずかしいことだと思っています。涙が出そうなときに我慢したり、耐えたり、押さえつけたりしているとどうなるのか。感動する映画を見た時、交感神経が高まったままで映画を観終わることになります。しばらくして、交感神経は収まってきますが、感情のわだかまりは残ったままになるのです。却ってそれがストレスに結びついてしまいます。夫婦や親子で問題を抱えている人、学校や職場での人間関係で悩んでいる人は、長いこと感動の涙を流したことがないのではありませんか。そして嫌な感情はできるだけ拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定して我慢したり耐えたりされていることと思います。その方法はますます自分を窮地に追いやります。そういう方は発想の転換を図ってみてはいかがでしょうか。不快な感情は涙で洗い流してやるという気持ちの切り替えをされたらどうでしょうか。折に触れて感動する映画を見る。感動するテレビドラマを見る。感動する人の伝記を読む。感動する音楽を聴く。感動体験を経験してみる。そしてその時はできるだけ感動の涙を流す。それは嫌な感情をため込まないで吐き出してしまうので、人間関係の好転につながります。
2014.03.22
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幸田文さんの父は、文さんを育てるとき「おまえは赤貧洗うがごときうちへ嫁にやるつもりだ」と言っていたという。茶の湯や生け花などの稽古はさせずに、まき割り、米とぎ、箒の持ち方から、雑巾のしぼりかた、魚のおろし方まで自ら細かく教えたという。ただし論語の素読だけは家庭教師を付けた。近所の老人だった。その爺さんが変わっていた。文さんと弟を浅草に連れ出す。社会見学だ。雷おこしの原料を知っているかとか、この凧の職人細工の見事さを見ろとか、寿司の食べ方はこうじゃないといけないとか、あの豆腐屋の姉さんの給料はいくらだと思うかとか聞くのだ。講釈も聞きに行く。また安来節のおどりなども見に連れていく。露伴は老人が子供たちをそんなところに連れていくのを面白がっていたという。文さんには、論語は忘れたが、浅草で教えられたことは心に深く残っているという。雑多な経験がその後の人生に大きな影響を与えていたのである。幸田露伴は見事な子育てをしている。参考になった。この親にしてこの子ありという気がする。
2014.03.21
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幸田文さんの残した言葉を紹介します。いずれも味わい深い言葉ばかりです。森田理論学習を積み重ねているものとして、心しておきたい言葉ばかりです。ちなみに幸田文さんの父親は有名な幸田露伴です。和服をきるのには、上前下前(うわまえしたまえ)をかき合わせて着ます。あれは自分を大事にして、いとおしむ形だとおもいます。いつも、着物が私を大事にしてくれるな、といった感じがして私は着ているんです。(「振り袖を買う」より)心の中にはもの種がぎっしりと詰っていると、私は思っているのである。一生芽をださず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種もあろう。(中略)何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起き上がる時のちからは、土を押し破るほど強い無い、と有体に正直に早くいってしまえば、たちどころにその一言の“無い”が味方になってくれるのです。金がない、物がない、なんにもないの場合に、役立つものといえば心と、心から出る言葉しかないのです。なにもないということを素直に認識して、正直にそれをいえば、気もらくになるし、解決の道もひらけようというものです。(「ございません」より)心の凍てつくとき、目を閉じて、身は伊豆のいで湯の中、と思ってごらん。 湯を思えば、湯はきっと答える。(「こわれた時計」より)晩年の祖母(文さん)はあちこちに木々を訪ね、その先に山の崩れを見た。普通なら家で孫に囲まれて気楽に過ごしたらよさそうな歳になって、なぜ滅多に人も行かないような奥地へ、ときには他人様の背中を拝借してまで行こうとしたか、疑問に思う方は多いかもしれない。 それでも身内にとってはなんの不思議もない祖母の姿である。興味をひかれることに出会ったら、その心の発芽をおろそかにせず、自ら行動をおこして知ろうとする姿勢は生涯を通じ一貫している。
2014.03.21
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同じ嫌な出来事に対してネガティブ思考が癖になっている人は、ポジティブ思考に修正できると生き方が全く変わってくると思います。森田理論では認識の誤り、認知療法では認知の誤りを自覚して、反対の見方、考え方を身につけていくことになります。これはいつも言っているように自分一人で取り組むよりも、生活の発見会の集談会などで相互に学習することがより効果があります。人から認識の誤りを教えてもらうほうがより確実で早いと思います。ここではそのヒントを掲載いたします。1、 あなたの受け止め方、考え方は柔軟性がありますか。それとも硬直化していますか。こうであると決めしけてしまい、先入観で思い込んでしまうと、全く融通が利かなくなります。修正しようという気持ちすら沸き起こらなくなります。会話の中に、「絶対に間違いない」「いつもこんなことになる」「必ずそうなります」「みんながそういっています」「けっして間違いありません」などという言葉は要注意です。つまりこういう言葉を発していることは硬直化していることの証明です。お互いに謙虚になって検討してみることが大切です。2、 あなたの受け止め方、考え方は論理的ですか。筋が通っていますか。短絡的、極端、大げさ、事実確認なし、推測の域の話ではありませんか。たとえば仕事で失敗をすると、自己否定して、すぐに会社を辞めることを考えたり、死んでしまおうなどと考えることはあまりにも飛躍しすぎています。3、 現実の目の前の問題と向き合っていますか。観念の堂々巡りになってはいませんか。実際の解決すべき問題には目もくれないで、自分の不快な感情をスッキリさせることばかりに気を取られていませんか。4、 あなたのネガティブな受け止め方、考え方は、得になることがありますか。よいことが一つでもありますか。将来に明るい展望が開けてくるものが含まれていますか。自己嫌悪、自己否定、他人否定は将来が先細りになるばかりです。自分の今現在気になっている問題について、集談会の場で具体的に分かりやすく話してみることが先決です。それを聞いた人は、今挙げた4つの視点から客観的にみて意見を述べてゆくのです。決して個人攻撃をするのではありません。その人の受け止め方、考え方の中にネガティブで否定的なものがあるのかないのかを話し合ってみるのです。アドバイスをしてもらう人は個人攻撃をされて、さらに不快になってしまう人がいるかもしれません。学習の意味を共通認識として持ってもらいたいものです。そういう意味では信頼関係が構築されていないと難しいかもしれません。ゆくゆくはこれが自分一人で分析できて、受け止め方、考え方がポジティブにも対応できるようになると最高です。
2014.03.20
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2、いろんな出来事に対して、たとえば「もうおしまいだ」というふうに、すぐに悲観的なものの考え方をしてしまいます。「もうだめだ」「世も終わりだ」「どうにもならない」「どうしようもない」「なにもできない」「どうせうまくいかないに決まっている」「最低だ」「最悪だ」「どん底だ」などです。「どうせだめだ」と思って行動するのと、「ダメかもしれないが、うまくいく可能性もある」と思って行動することは、仮に失敗しても後に残るダメージは全く違います。前者の場合はますます自己否定に陥ります。3、不安、恐怖、痛み、ストレスに対する耐性が低い。すぐに「もう耐えられない」「もうやっていけない」「もう我慢できない」「○○なんて無理だ」とあきらめてしまう。逃避してしまいやすい。たとえば、「私は学校でみんなから好かれなければならない」という考え方をしていて、友達ができないと、「もう耐えられない」となってしまう。ところが「友達が多いほうがよいが、友達が一人もいないからといって、すぐに死ぬわけではない」と考えられれば、耐えやすくなります。4、自己嫌悪、自己否定に陥ったり、他人や社会を非難するようになる。たとえば上司がほめてくれない、昇進がない、役職をはずされることが起きると、「上司に見放された私は何をやってもダメ人間だ」などと卑下したり、傷ついたり、落ち込んだりしてしまう。ところが、「私は上司に公平に評価してほしいと思う。でも、公平に評価してくれなくても、私には私独自の価値がある。」と考えられれば、認められない場合でも、「とても残念だけれども、それで私の値打ちがなくなるわけではない。これはこれで受け入れよう」と思うこともできます。岡野氏は、ネガティブな考え方や受け止め方で、本人にとって長らく苦痛が続いているもの、日常生活に支障が出ているもの、人に迷惑をかけているような考え方は修正したほうがよいといわれています。明日はこの修正の方法について考えてみたいと思います。
2014.03.19
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否定的な感情が起きた時、健康的な否定的感情が湧いてくる人と不健康な否定的感情に支配されてしまう人がいる。これを岡野守也氏の「嫌な気分の整理学」から説明してみよう。岡野氏は健康な否定的感情は健康的なのですから、いくら否定的であっても構わない。あるのが自然だといいます。ところが不健康な感情は、自分にとっても気持ちよくないし、しばしば周りの人にも迷惑をかけるし、まさに不健康、病的であるので治したほうがよいといわれています。例えば人前で失敗をしてしまう。人との勝負に負けてしまう。こういう場合「しまった。くやしい」と思う人は健康的です。それをバネにして、失敗の原因を調査して、次の機会に活したり、ライバルを追い越すための努力をするようになるからです。ところが、失敗や敗北によって屈辱感、挫折感、劣等感、敗北感を味わうような人は、自己嫌悪、自己否定で自分を苦しめるようになります。このように同じ出来事であっても、ネガティブに受け取ってしまう人もいれば、ポジティブに受け取ってしまう人もいるわけです。確かにその通りです。問題になるのは、いつもネガティブに受け取ったり、考えてしまう人の場合です。同じ出来事に対して、ネガティブに受けとる人は、次のような際立った4つの特徴があります。1、森田理論でいうところの「かくあるべし」が関係している。「失敗してはならない」「すべての人に受け入れられなければならない」「間違い、失敗、ミスはなってはならない」などという考え方をしていると、現実との食い違いがあると、悩みや苦悩が発生する。これらを「失敗しないほうがいいが、人間だから失敗することもある。失敗から学んでいくことが大切だ」「人に愛されなくても自分の価値が変わるわけではない。自分の意志で生きていくことが大切だ」「○○であるにこしたことはない」「○○でなければならないというわけではない」というように変えていくことができれば楽な生き方ができる。
2014.03.19
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黒丸尊治医師のお話です。パニック障害の患者さんは、発作に対する不安感や恐怖感のこだわりが強い。その根底には「発作が起きたらどうしょう」といった発作に対するネガティブな認識が存在している。そのため自然と発作を避けようとする気持ちがわきあがってくるが、これではかえって発作へのこだわりの気持ちを強めてしまう結果となる。黒丸氏の治療は、「発作を起こしたほうがよい」という逆説的な指示を出していくことから始まる。患者さんの発作に対する認識が肯定的なものに変われば、不安感へのこだわりがはずれてくる。以前のように、不安の増強、症状の悪化、パニックといった悪循環に陥ることなく、短時間で症状が軽くなる。発作が乗り越えられるようになると、患者さんは自信を持つようになり、その結果さらに安心を得ることになり、最終的な治療へと到達するようになる。(人は自分を癒す力を持っている198ページ)これは森田先生が不眠の患者さんに、一睡もしないで一晩中起きておくようにと指示されて治療されたことと同じことです。このメカニズムは、「神経質の本態と療法」(267ページ)の解説に分かりやすく書かれている。不安神経症の患者さんの意識はこれを忘れよう、意識しないようにしようとしている。つまり意識の中心より、周囲に押しやろう押し込めようとしている。そうすればするほど、それは意識の中心を占領する。これを意識がやや遠ざかっているときに、意識的に無理やりこれを中心に持ってくるように患者さんに努力させる。つまり発作を起こさせるようにさせる。するとここに意外なことに、中心に持っていこうとする努力とは逆に、周囲に退くのである。これは対人恐怖の人にも応用できる。対人タイプの人は自分のミスや身体的な欠陥は隠そうと必死になっている。それが積み重なって対人恐怖症を作り上げているのである。これを応用すると自分のミスや失敗、身体的な欠陥を具体的に面白おかしく脚色してみんなに公表していくのである。これは普段のやり方の逆である。森田先生や黒丸先生の理論の応用、実践である。すると不安や恐怖が意外にも、小さくなることを実感してもらえるはずである。すべてのケースで取り組まなくてもよい。10のうち1つでも試験的に試してみれば、効果の大きさに驚くはずである。
2014.03.18
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指揮者の佐渡裕さんの話です。コーラスを指揮するとき「みんなができるだけ同じものをもって作っていくもの」というメンバーが持っている既成概念を壊すことから始めるのです。私にとって素晴らしい声というのはみんな統一された同じ音色の同じような声になっていくことではない。ガラガラ声でもそれはそれですごく魅力的だし、そういう違ったものを持った人たちが集まって一つのものを作っていきましょうと言っているのです。既成概念を取り払ってあげるとそれぞれが自由に音楽の楽しみを追及していくようになります。これはプロのオーケストラでもアマチュアのコーラスでも一緒です。一番やりにくいのは「音楽はこういうものでなければいけない」と思っている中途半端な人たちです。既成概念にがんじがらめになっている人には音楽の面白さは伝えにくいのです。この話は森田理論を学習しているものにとって大変貴重な話です。まずコーラスの中ではガラガラ声でもいいということです。普通に考えると、ガラガラ声は音楽には向いていないと考えます。佐渡さんはそうは考えません。ガラガラ声はそれなりに魅力があると認めてくれているのです。存在価値を認めてくれています。それを矯正して、普通の声にしなくてもよい。その声のままで音程やリズムを合わせてほしい。このように言われると、自然にコーラスをやってみたくなります。歌うことが楽しくなると思います。考えてみれば、ガラガラ声の歌手はそれなりに貴重で存在感があります。人生の悲哀、悲しみを歌い上げるにはぴったりです。ガラガラ声はダメと決めつけて、否定してしまうことは百害あって一利なしです。つぎに既成概念の弊害を述べておられます。森田理論でいうと「かくあるべし」です。音楽とはこうでなくてはならない。コーラスはこうあるべきだと型にはめていると、歌うことは苦行になります。特に指揮者がそういう考え方をしていると致命的となります。本来声を出してみんなと合唱することは自己表現であり、みんなと協力し合って一つの作品を作り上げることは楽しいはずです。「かくあるべし」は、そのすべてをぶち壊してしまいます。自分も苦しみ、相手も苦しませてしまうのです。「かくあるべし」を前面に出す前に、「かくある」事実を優先できるようになることが大切です。これは森田理論学習で目指しているところです。皆さんは耳にタコができるほど聞いておられることでしょう。次は実践に落とし込むことに手を付けてもらいたいものです。
2014.03.17
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このたび「心の健康セミナー」でBGMとして演奏を頼まれた。私一人で始まる前30分と途中休憩時間約10分ぐらいぶっ続けでの演奏だ。こんなに長い時間演奏した経験はない。でも引き受けたのでできるだけ準備をしておきたい。曲目は「北国の春」「高校3年生」「栄冠は君に輝く」「安里屋ユンタ」「青春時代」「千の風になって」「夜明けのスキャット」「ロンドンデリーの歌」「家路」を選んだ。これらを徹底的に練習して100%の出来に仕上げたい。あと問題は、会場は100名ぐらいは参加者がおられるので、緊張して震えがこないかどうか。ここで「うまくいくかどうか」などという意識が出てくると間違いが起きる可能性が大きい。意識が出てこなくて無意識に指が動いてくれると、たぶんうまくいくと思う。また間違えても、命まで狙われることはない。森田理論の実践の場として楽しんでみたいと思う。
2014.03.16
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マレーシア航空機はどこに消えたのだろうか。今のところすぐに墜落したのではないらしいことは分かっている。謎の多い事件だ。航空機事故といえばこんな事件があった。2009年1月15日アメリカニューヨーク市マンハッタン区の、真冬のハドソン川に乗員乗客155人を乗せたエアバスA320が不時着した。なんとか全員が助かった。ハドソン川の奇跡といわれている。原因は空港離陸直後の両エンジンのバードストライクであったそうだ。多くの鳥がエンジンに吸い込まれて、両エンジンが停止して飛行不能になった。この機の機長はチェズレイ・サレンバーガー氏57歳であった。この機長のとっさの判断でマンハッタンの市街地に墜落することもなく、一人の死者も出さなかったことに驚きを隠せない。事件はバードストライクが起きてから3分半の出来事だった。高度は900メートルで空港に引き返すには高度が低すぎての判断だった。この機長は40年以上のキャリアを持ち、通算飛行時間は19000時間以上であった。あわやの大惨事を回避できたのは、機長のいち早い気づきだった。機長は鳥がエンジンに入る音やにおい、振動を敏感に感じ取っている。直感力ととっさの判断力、今までに培われてきた高度な操縦技術が後部を少し損傷するだけで着水することができたのである。直観力、判断力、操作技術のどれが欠けても残念な結果に終わったことだろう。機長インタビューに答えて、「これまでの人生は、すべてこの3分30秒を乗りきるための準備であったように思う」と語ったそうである。私が思うには直感力というのは、いろいろな経験や失敗の積み重ねの中で獲得された、次の行動につながる「直感」が大切なのではないだろうか。それは「直感」というよりも「直観」という言葉がふさわしい。我々は実践行動、ミスや失敗をたくさん経験することによって、「直感」は「直観」へと昇華され、直観力はさらに磨きがかかることを心しておきたい。
2014.03.16
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人間関係でいつも苦しんでいる人は、小さい感情は無視している。我慢している。耐えていることが多い。でも嫌な感情はそれで消えてしまうのではない。仮に顕在意識では気にしないようにと思っていても、潜在意識の中にはしっかりとマイナスの感情として残ってしまうのです。フロイトはそこに焦点を当てて研究して、精神医学の基礎を作ったのです。それは蓄積されてひずみとしてため込んでいく。ため込んでいく過程は、巨大地震の発生のメカニズムと同じことです。小さい地震が時どきは起きているほうがまだよい。被害が軽微で済むことが多い。東京の友人がこのたびの伊予灘地震の被害について被害確認の電話をしてくれた。ありがたいことである。中国地方は地震があまり起こらなかったので、震度4でもびっくりした。地震後トイレに行くと、身体か揺れて目が回っているようだった。でも喉元過ぎれば熱さ忘れるで、みんな何事もなかったかのように生活している。小さい地震でひずみを解放しているとこんな感じだと思う。ところがそれをため込んでいると大変な惨事が起きてしまう。東京では最近比較的地震が少なく、これは巨大地震に結びつくのではないかと噂されているという。確率としてはかなり高いのだろう。一般的には起きた時の対策がテレビで何回も放映されている。地震の場合はそれしか方法はないが、感情のひずみは対応方法がある。小さい感情をきちんと感知して、小さい不快で嫌な感情をため込まないで解放させていくことです。こういう場合は、感情の法則1を適応させてはいけない。これは単発の感情の場合である。同じ人に同じような感情が沸き起こる場合は、我慢したり耐えたりしていては却って苦悩が増悪してくる。感情の法則3を重視する必要がある。感情の法則3は、「感情は、その刺激が継続して起こる時、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるのである」それを解放する道がある。私がたびたび紹介している自分中心の生き方を踏襲することである。この場合、小さいうちにどんどんと吐き出してひずみとしてため込まないということです。その方法については過去の投稿を参考にしてください。
2014.03.15
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私たちはみんな頭の中にものさしを持っています。そのものさしで他人と比べる。平均点と比べる。理想と比べる、昔の良かった時と比べる。自分自身を価値判断しているのです。それはすぐれている、劣っている。正しい、間違っている。それはよい、悪いと是非善悪の判定を下しているのです。劣っているもの、間違っているもの、悪いと判定されたものはすぐに改善命令を出しています。自分の現実を受け入れることはしません。現状を拒否、無視、抑圧、否定しているのです。自分の存在価値というものは見向きもされません。ものさしで測りなおして、優秀判定に変わるまで叱咤激励が続きます。どうあがいても改善できない時は自己否定、自己嫌悪に陥り、最後はあきらめに変わってきます。こうした態度は自分自身に向けられるだけではなく、他人にも向けられています。他人をも自分の物差しで厳しく判定しているのです。基準以下の人に対しては批難、叱責、説教、強制、脅迫などで追い込んでゆきます。森田理論でいう「かくあるべし」の押し付けです。また他人はそれぞれに違う物差しを持っています。そのものさしで他人を測っています。つまり自分のしていることと同じことを他人もしています。製図で使う三角スケールは100分の1、200分の1、300分の1というように違う縮小倍率の物差しになっています。自分の価値観を押し通すことは、それぞれの違うものさしを振り回して、チャンバラをしているようなものです。かみ合わないので人間関係が悪くなります。物差しを使わない。事実や現実、現状を先入観や価値判断しないでありのままに見る。こういう方向に切り替えることができると神経症の悩みは解消されるのではないでしょうか。人間関係も途端に好転してくると思います。森田理論は事実をよく観察する、事実を受け入れる、事実に従うことを目指しています。自分や他人の「存在価値」を大切にして、生の欲望を発揮することを目指しています。
2014.03.15
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心療内科医の黒丸医師の話です。慢性の腹痛に苦しむ中年の女性。ここ10年ばかりはしばしばはげしい痛みに襲われるため、働くこともままならず、いくつもの病院で入退院を繰り返してきました。入院した病院では、原因追及のためあらゆる検査が行われました。ところが不思議なことに、そんな激しい症状にもかかわらず、胆嚢内に小さな石が1つある以外異常は発見されなかった。原因を発見するためには、もはや実際に腹を開けてみるしかないという医師の判断と、手術をしてでも治したいという患者さんの希望が一致して開腹手術が行われた。ところが異常が見つからない。仕方なく胆石症による腹痛の可能性もあるということで胆嚢摘出手術が行われた。ところがその後も相変わらず激しい腹痛が続いた。その後、腸閉塞や腹膜炎を引き起こし、合計6回もの開腹手術を行っている。これは腹が痛いということは何らかの原因があるから起こることだ。その原因を探りあてて、その原因を無くすれば腹が痛いのは治ると考えているのです。器質的な原因があれば当然そうなります。ところが何回検査をしても原因が見つからない。こういう場合が問題です。どうしても原因を追究して特定したがるのです。患者も医師も納得できないということではないでしょうか。特に患者さんの場合はその傾向が強いです。徹底して原因追及しているうちにどんどん事態は深刻になってゆきます。神経症の場合もよくそんなことがあります。神経症になったのは親の育て方にあったとして、親を恨んだりしてしまいます。親の神経質性格を受け継ぎ、子育ての能力もない人が子供をもうけたので、今の自分が神経症で苦しんでいると考えているのです。親に対する憎しみや恨みでいっぱいになっています。原因は理解しているつもりなのですが、どうすることもできない状態です。これは2つの問題点があります。まず認識の誤りがあります。一方的な見方をしていることです。神経質性格はマイナス面ばかりではありません。コインの裏表のようにプラス面も隠れています。また子育てというものは100%完全というものはありません。実際には試行錯誤の連続です。つぎに原因探しばかりしていると、精神交互作用によって神経症は悪化してゆきます。ある程度のところで見切りをつけて、苦しみを抱えたまま、苦しみと共存して日常生活をこなしてゆく、自分のやりたいことに手を付けていく態度が大切です。そういうことができるようになると、一つの能力の獲得したことになります。素晴らしい能力を獲得するのだという意志を持つことが大切です。
2014.03.14
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平成26年3月7日のNHKスペシャルは「まどみちお」さんだった。童謡「ぞうさん」や「一年生になったら」の作品がある。104歳で亡くなられたが、認知症とは無縁だった。ぞうさんぞうさんおはなが ながいのね そうよかあさんも ながいのよぞうさんぞうさんだあれが すきなのあのねかあさんが すきなのよこの童謡には、まどさんの解説がある。ぞうの子は、鼻が長いねと悪口を言われた時に、しょげたり腹を立てたりする代わりに、一番好きな母さんも長いのよと、誇りを持って答えた。それは、ぞうがぞうとして生かされていることが、すばらしいと思っているからです。だからこの歌は、ぞうに生まれてうれしいぞうの歌、と思われたがっているでしょう目の色が違うから、肌の色が違うから、すばらしい。違うから、仲良くしようということです。まどさんは「幸せとは」と聞かれて、現在を肯定して生きること。感謝して生きることといわれています。そして、亡くなるまで好奇心旺盛な人でした。
2014.03.13
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人の言うことが気になってしかたがない。人から何かを言われると傷つけられた、責められたと感じてしまう。一生懸命、人に合わせようとして、へとへとに疲れてしまう。自分を批判されているようで相手が恐ろしくなってしまう。みんなと一緒でなければ、取り残されたような気持ちになって落ち込んでしまう。自分が人と違うことをやったり考えたりすると、悪いことのように感じてしまう。反対に、相手の悪口を言わないではいられない。不平不満が募って、それを考えるとつらくなる。人に何か言われると腹が立ってしかたがない。自分ではそのつもりがないのに、なぜか人と衝突してしまう。自分では怒っているつもりはないのに、何恐ろしい顔をしているんだといわれたことがある。他人の言動にとらわれていると、自分の容姿、欠点、ミス、失敗などが気になるようになります。するとすぐに自分を否定してしまいます。すぐに飛躍して、自分の人格や人間性を否定してしまい、もう自分は生きていく価値はない。そんな自分は死んだほうがよいのではないかと短絡的に考えるようになります。たとえば自分がハゲだとすると、自分は価値のないつまらない人間だ。きっとみんなもそのような目で見ているに違いないと思ってしまうのです。ハゲていることは、自分の人間性や人格とは関係のないものです。ハゲは遺伝で自分の責任ではありません。出来ないことにくよくよ悩むよりも、あっさりとその現実を認めてしまえば楽に生きられます。その悩みに向かうエネルギーを生の欲望の発揮に使うことが大切です。また料理の苦手な主婦の方がいます。料理が下手だから結婚できない。自分はダメな人間だと考える必要はありません。料理が下手なことはあなたの人間性や人格とは関係ありません。料理が下手な自分をあっさりと認めてしまうと、料理が上手になりたいと具体的に行動することができます。自己否定してしまうと生きることがつらくなると思います。(もう他人に振り回されない 石原加受子著参照)
2014.03.13
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自己中心な人は自分勝手な人です。自分の利益になることなら、いくら他人に迷惑をかけても構わないという人。人から何を言われても平気、身勝手、わがまま、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人のこと。自分中心、自分本位というのは、自分の感情を否定しない、無視しない、抑圧しないで感じとしっかり向き合い、正面から受け止めること。そして自分のやりたいこと、自分のやりたくないことにはっきりと自分の意思を示せることです。自分中心、自分本位の生き方のできる人は、他人を責めたり、無視したりしません。他人の気持ち、感情を尊重します。他人の○○したい。○○したくない、といった欲求を尊重します。他人の「好き嫌い、快、不快、苦楽」といった感情を尊重します。他人の意思を尊重します。他人の「断る、取り組む姿勢」を心から認めます。つまり自分の「かくあるべし」を相手に押し付けることはありません。だから他人と調和しています。相手の気持ち、感情、言動の自由な動きを「あるがまま」に認めて尊重します。無意識の感情や気持ちと意識している感情や気持ちが寄り添っているので葛藤や悩みがありません。森田理論は今まで認識の誤りの是正を中心に学習してきましたが、これからはそれに加えて他人中心の生き方を自分中心の生き方に変更することも付け加えたいと思っています。森田理論学習はそのように変化していくべきものだと考えています。
2014.03.12
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会社を休みたいときに、みんなが忙しくても平気で休む人がいます。やりたくない仕事は拒否するので、仕方がなく、他の人で手分けをして仕事をしている。上司の指示にいつも逆らって、自分勝手な人がいます。思い付きで、自分の好き勝手なことをして、他人に迷惑をかける人です。そんな人は他人の思惑に左右されることはありません。自分の気持ちや意志を大切にしています。自分中心的な生き方ができるので、悩みがなく活き活きと生きてゆけるように錯覚します。でもこれは人間関係がすぐに破たんすると思います。これは自分中心ではなく、自己中心主義の考え方です。本能のままに行動するようなものです。普通の人がそんなことをすると、罪悪感が湧いてくるはずです。人間の心には精神拮抗作用といって、あることを考えれば、それに反対する考えも自然に沸き起こってくるようになっています。自分の気持ち、意志を持つことは大変大事ですが、そのあとは周囲の状況をよく見て自分の気持ちや欲望と調和を図ることが大切です。そして中庸を心得て生活することです。
2014.03.12
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我々神経質者はマイナス思考が強い。そしてあまりにも極端な考えに陥りやすい。そうした考えをしていると生きていくのがとてもつらくなる。たとえば、会社や学校などで数人の人が談笑していると、何か自分のことを馬鹿にして面白おかしく話しているように感じる人がいる。対人恐怖で悩んでいるときは、特にその思いは強いと思う。でも事実はどうだろう。常識的に考えると、100%自分のことを話していることはまずあり得ない。遊びの話で盛り上がっているのかもしれない。あるいは自分の行為をほめてくれていることだってあるかもしれない。それなのに何を根拠にそのように判断しているのだろう。それをマイナス思考で自分にとって不利なように考えてしまう。それはあくまでも推測の域をでない。推測でマイナスに判断して自己嫌悪、自己否定に走って益々暗い表情に拍車をかけているのである。それで自分を責めて苦しんでいるなんて実にばかばかしいとは思いませんか。今までの森田理論学習では「かくあるべし」の弊害については、みなさんよく学習をしておられる。それはそれでよいのですが、マイナス思考に陥り、あまりにも短絡的に極端な考え方で、すぐに生きるか死ぬかと切羽詰まったように自分を追い込んでいるのはどう考えておられるのでしょうか。そういう人は「かくあるべし」の弊害をうんぬんする前に、マイナス思考、それも極端なマイナス思考を改善することが先だと思う。どうすればいいのか。そういう思考パターンが身についている人は自分でその間違いに気づくことはできない。蟻地獄の罠にはまっているようなもので、もがけばもがくほど深みにはまってしまう。そういう時は謙虚になって人の助けを得ることだ。人に教えてもらうことが一番良いと思う。第三者は客観的に事実を見れるので、認識の誤りについて教えてもらうことだ。でも普段の生活の中では親切に教えてくれる人はいないであろう。誰だって自分が悪役になることは好まないものだ。でも生活の発見会の集談会などで、症状を克服した先輩は違う。学習の場なので教えてもらえるはずだ。謙虚になって教えを乞いさえすればよい。その際大切なことは、我々はいろんな認識の間違いを抱えているので、自分の苦しみを具体的に話してみることだ。それを何回も何回も繰り返すこと。先輩はいろいろと経験して立ち直っているので、第三者的に客観的に見れることが多い。素直に耳を傾けてみるのが早い。そしてゆくゆくはマイナス面ばかりでなくプラスの面も見れるように自分を変えていく。半々ぐらいになるとよいのだが、1割でもプラス思考ができるようになると楽になる。バランス感覚の意識付けとして「やじろべい」を目の前に置いておくことをお勧めする。
2014.03.11
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高校野球では、選手をこうゆう選手だと決めつける行為(レッテル貼)は指導者が絶対にやってはいけない行為だ。「あいつは守備が下手だ。センスがない」とレッテルを貼ってしまうと、本質が見えにくくなる。なぜその選手がエラーを繰り返すのか考えることなく、先入観で判断してしまう。するとその原因を考えることをしなくなる。何か心に悩みでもあったのではないか。たまたまその日は調子が悪かっただけかもしれないと考えるゆとりがなくなってしまう。指導者が選手にレッテルを貼っていては信頼関係は生まれない。選手は「どうせオレは守備が下手だと思われているんだ」と素直に努力する気がなくなってしまうであろう。それがチームの士気を低下させて成長をストップさせてしまう。選手にレッテルを貼りそれを公言してしまうのはもっともよくない。気の強い選手なら反発を招くだろうし、気の弱い選手なら不必要に悩んでしまうかもしれない。森田理論学習ではレッテル貼は認識の誤りの一つである。我々は、自分で自分にレッテルを貼ってしまうことがある。対人恐怖の人は、自分は人とうまく会話ができない。上手に立ち回れない。その結果いつも傷ついてしまう。そういう先入観を持っていると、ミスや弱点を隠すことに神経を集中させて、他人との付き合いはけんかを売るような態度になってしまう。その結果相手にますます無視されたり、拒否されるようになる。またレッテルを貼ると、意識は自分の不安な心の状態や体の違和感に向かうようになる。本来はその時の自分の感情、自分の気持ち、自分の意向を見つめることが大切である。レッテルを貼って決めつけてしまうと、感じから出発しないで、「かくあるべし」で自分を価値判断することばかりである。レッテル貼は自分を苦しめるだけで、よくないことだということを自覚しておきたいものです。若者との接し方 渡辺元智 角川書店参照
2014.03.10
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私は森田理論学習でマンネリに陥った時取り組んだことは、森田先生のまねをして生活するということでした。参考図書は「森田正馬全集」の第5巻です。この本を作ってくださった方に感謝しています。この本の担当は青木先生でした。真似をするにあたって、森田先生の趣味の多さ、一人一芸に注目してきました。全集5巻にはレクリェーションの話が11回もあります。余興では寸劇をしたり、おそろいの浴衣を作って盆踊りをしたり、落語家を呼んで落語を聞いたり、旅行したりしています。熱海に森田旅館を設けて慰安旅行もされていました。森田先生は大変好奇心旺盛で、柔道、居合、三味線、踊り、弓、囲碁、将棋、釣り、和歌、俳句、ダンス、なぎなた、テニス、ピンポン、オルガン、禅、神道、岡田式正座法、奇術、占いなどに手をだしておられました。また即座に披露できる芸も豊富に持っておられました。鶯の綱渡りは大変上手だったということです。一人一芸を目指すことも神経症の陶冶に役立ちます。生きる目標が持てますし、人に喜んでもらえます。私はこの方面でエンターテナーをめざしてきました。まず町のチンドン屋として老人ホームの慰問活動をしています。古い演歌や軍歌を中心に4人から5人で活動しています。お客さんは大体70代とか80代ぐらいの人です。いつも泣いて喜ばれています。私はアルトサックスを吹いています。年間20ステージ以上あります。その時、ドジョウ掬い、獅子舞、浪曲奇術、しば天おどりなどを披露することもあります。浪曲奇術というのは、浪曲の名調子に合わせて、手品の裏と表を披露していくものです。しば天おどりは高知県で伝わっている河童のおどりです。専用の手ぬぐいをかぶって踊ります。とても滑稽で腹を抱えてお笑いの渦が起こります。これらは毎日1時間は練習しています。練習しないと腕がすぐに鈍るからです。こういうことに目をつけて生活していると、次第に類は友を呼んで知り合いの輪が広がってくるのです。
2014.03.09
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2014年3月号の体験談にこんな話がある。64歳女性の話である。姑との軋轢で苦しんだ人である。姑は大正生まれの気の強い人で、私が言い返すと何倍にもなって返ってくるので、そのうちだんだん、私は自分の言うことを抑えるようになってきました。母と祖母の確執を見ていたので、自分が我慢しさえすれば、この場が丸くおさまるのであればそうしようと思いました。姑は私が主人に何か家事を頼もうとすると、あまり良い顔をしませんでしたから、ことを荒立てたくない私は、いい嫁を装うために自分のできることは自分でやろうと思いました。私が言わないものだから、主人もそれでいいと思ったのでしょう。主人はどんどんわがままになっていき、私は一人で歯を食いしばるように、姑や子供の世話をしてきました。これは他人中心の生き方です。このような話は家庭だけではなく、職場でも、親せき関係でもよくあることです。他人中心の生き方は自分の感情や気持ちを拒否、無視、抑圧、否定するので、ストレスがどんどん積み重なってゆきます。最後に大爆発をしては後の祭りになる可能性が大です。自分の感情やこうしたいという気持ちを我慢したり耐えたりするのは問題の先送りです。問題が小さいうちに解放してやるということが必要です。しかしこの方の体験談を読んでいると、自分中心の生きた方に変えられています。長野から東京への森田理論学習の会に参加されたのです。姑に事情を話して了承を取り付けられました。そして片道3時間もかけて参加されたというのです。その後は毎月集談会にも参加するようになりました。代表幹事も引き受けられました。弾みがついたのだと思います。現在は退職されて、カルチャーと集談会、ボランティア、時々登山の日々だそうです。この方は、他人中心の生き方を自分中心の生き方に転換されています。不安や怒り、イライラした感情なども自分が耐えるだけではなく、自分が楽なるためにどうやって解放していこうかと考えるようになるとさらに良い方向へと向かいます。
2014.03.09
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最近はカルチャー教室などでも、健康麻雀がはやっている。健康麻雀は、たばこは吸わない、アルコールは飲まない、かけ事はしないという約束のもとに行われる。麻雀は難しいと思われているかもしれないが、そんなことはない。まず2枚同じ形のパイを集めて頭を作る。後は3枚同じパイを集めるか、同じ種類のパイで続き番号を集める。123とか456とかである。それを4組作れば上がりである。それだけのことである。これは頭の体操になる。私はネット麻雀で毎日半チャンだけしている。時間でいうと長くても20分である。私のやり方はとにかく人よりも早く上がれるように集中している。たとえ1000点でも上がる。人によるとそんな点数では、上がった気がしないという人もいる。でも、早く上がらないと危険な目に合う。大体上手な人は間違いなく最短で上がる手を仕上げてくるので、他の人にツキが移ってしまうのである。また自分が振り込む確率が確実に増えてくる。また無理はしない。相手がリーチ(相手が振り込むと上がりになる)というと、戦略をすぐに切り替えていく。つまり捨て配をみて振込みを回避するのである。これで振込みの危険を回避する確率が高い。つまりすべての局面で勝とうとは思っていない。リスク回避をすることが勝つための第一条件だと思っている。でも時には、譲れない時もある。自分の手がいいときである。そういう時は、勝負の行方があらかた決しているときは別だが、そうでない時は勝負に打って出る。勝つ確率は少なくなる。いちかばちかの勝負だ。勝つときもあれば、負けてしまうこともある。でも、こういう時の負けは自分で納得しているので、後には残らない。積極果敢に挑戦した自分を誇らしくさえ思える。それから相手の捨配を観察していると、たまに直感が湧いてくることがある。捨配が偏っているのである。相手の手が自然に分かってくるのである。そういう時は相手の手はいいのである。そう直感が湧いてくると、その相手をすぐマークしていく。その相手に振り込まないように細心の注意を払う。ゲーム終盤になると振り込まないように降りる。勝つのは負けを少なくすることが一番大切だからだ。こんなことを言う人がいる。「麻雀で勝つためには、自分の手ばかりではなく、相手の動向を読み、牌の流れを見定め、場の空気を感じながら、変化していく情勢に合わせて、柔らかく動いていかなければなりません」私はネット麻雀しかやらないので、1位、2位、3位、4位になる確率はそれぞれ25パーセントぐらいになる。多少4位になる確率は少ないと思っている。でもおおむねそうなる。しかし4人がその場に集まってゲームをすると、話は全く異なるのだろうと思う。この人の言うように、他の3人の相手の動作や仕草、言葉がある。上手下手は動作ですぐに分かる。その変化を加味して対戦すると、上手な人は勝ち続けて、負ける人はいつも負けるという事態が起きるのだろうと思う。それが麻雀の醍醐味かもしれない。麻雀に対する姿勢は、人生に対する姿勢に通じると最近つくづくと感じるのである。
2014.03.08
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神経質な人は完全主義、理想主義の人が多い。子供に完全主義を強要していると子供も完全主義になってしまう。夏合宿で、ある小学生の女の子がベットのそばから離れずにシーツを見守っていたそうです。それは他の子がきて布団の上に足形をつけるので、そのたびにしわをのばしていたのです。その子のお母さんはお父さんが新聞を広げてトイレに行って戻ってくると、きちんとたたんで整理していたというのです。そういうお母さんは子供のやることなすことが見ていられなくなるのです。口をついて出るのは「早くしなさい」「そんなことしてはダメ」「ふざけてはいけない」などです。そしてついに「かしてごらんなさい」といって自分でさっさと済ましてしまうのです。自分のイライラを解消してしまうのです。その結果子供は社会習慣の自立が遅れ、自立心が育ちません。依存的な子どもになってしまいます。会社などで完全主義の強い人は自分仕事を何回もチェックして仕事離れが悪い人がいます。また人に仕事を任せるということができなくて、自分が多くの仕事を抱え込み四苦八苦しています。頑張っているうちはよいのですが、そのうちプツリとキレてしまったり、すべてを投げ出したりします。また完全主義の人は不完全でいい加減な人を許すことができません。いつも不満をぶつけていますので当然人間関係がよくありません。そうした「かくあるべし」は自分を追いこみしんどいことです。他人も迷惑しています。早く森田理論でその弊害に気づいてもらいたいと思います。そうした自覚を持つということが出発点となります。
2014.03.08
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森田理論は分かりにくいという人がいる。私はそうは思っていない。すっきりしている。分かりにくいのは、やみくもに手あたり次第の学習をしているからである。これは皆さんの責任ではない。過去森田理論学習をしてきた先輩たちが体系化の努力を怠ってきたつけが回ってきたのである。このブログでは体系化の試みはすでに投稿してきた。もう一回簡単におさらいしてみたい。森田理論学習でまず大切なことは、「生の欲望」の理解と実践である。つぎに「欲望と不安」の関係を学ぶ。神経症で苦しんでいる人は、不安と格闘しているので、精神交互作用の打破が決め手となる。最悪の状態を抜け出した後に、本格的に学習が始まる。ここで大切なのは2点ある。まず認識の誤りの自覚である。認識の誤りの中でも森田理論学習では、「かくあるべし」的思考が一番の問題だといわれている。ただそれだけではない。神経質者特有の否定的で極端な思考パターンはほかにもたくさんある。認知行動療法でいわれているような認知の誤りは10項目もある。ここの学習と自覚は大切である。つぎに「他人中心の生き方」の弊害の学習である。これは石原加受子さんが分かりやすく解説されている。このブログでも何回も取り上げた。まだまだ折に触れて取り上げたいと思う。それぐらい重要な考え方である。これらが自覚できたら、その次の段階は実践である。認識の誤りを正してバランス感覚を取り戻すこと、「自分中心の生き方」をしてゆくことである。これらは自分一人ではまず難しいだろうと思う。生活の発見会の集談会のような学習グループの中で学ぶことが必要だと思う。こうゆう方向性をもって学習してゆけば、症状克服だけではなく、人生観が変わり神経質に生まれてよかったと感謝できるようになり、人生を楽しむことができるようになるのである。
2014.03.07
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NHKが全国の振込み詐欺にあった人たちにアンケートをしたところ、3分の2の人が最初に「ちょっとおかしいな」と思っていたそうだ。息子だとか孫だとか名乗っても声が違うのでそう思うのが普通だろう。ところがその最初の直感を無視して、相手と対応していると相手の術中にはまってしまう。さらに被害にあった人は、自分は騙されにくい人だと思っていたという。銀行の人が「詐欺にかかっているのではありませんか」というと、「私に限って間違いありません」といっていたという。犯人は、家族の一大事というパニック状態を作り上げて、被害者に考える余地を与えない。即行動に移させる。するとなんとか子供や孫を救いたいという気持ちになり振り込んでしまう。そこには最初の「ちょっとおかしいな」という気持ちが入り込む余地がなくなっている。「間違った思い込み」で凝り固まってしまうのである。後で後悔することになる。そして被害に遭ったことが分かっても、恥ずかしくて子供や孫に正直に打ち明けることができなくなる。馬鹿にされるからである。さて、2009年2月、G7後に当時の日本の財務省兼金融担当相の酩酊会見があった。これは世界に配信されて失笑を招いた。ところがその時大臣の横には日銀総裁、そうそうたる財務省の官僚がいたのだ。二日酔いで舌が回っていないのはすぐ分かったはずである。これはまずいという直観力は働かなかったのだろうか。いずれも働いたに違いない。でもその人たちは直観力を無視したのだ。会見前や会見途中でも「大臣は体調が悪いので、私が代わりに応待します」ととっさの機転をきかすことは誰もしなかった。白々しい目をして見つめていたのである。これでこの大臣は更迭だと思っていたのかもしれない。あってはならない会見が行われているという貴重なシグナルは出ていたのに、無視したり、抑圧したり、否定するために国益を損ねた事件であった。これらは極端な例だが、これに近いことはいくらでもある。直観力、最初に気づいた感情を無視しているとこんなことが起きる。森田理論学習でいう「純な心」「初一念」は大事にしないといけないという教訓だ。
2014.03.07
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ところが不安や恐怖などの悲観的、否定的感情や気持ちに左右されている人は、その反対の悪循環の連鎖が繰り返されるのである。こんな話がある。老人が風呂に入った。いつまでたっても出てこないので見に行ったら、風呂の中で多分居眠りをして、お湯を飲んで死んでいたのである。後で聞くと、故人は子供の頃、池でおぼれて死んでしまった友達がいて、池や川や海で泳いで溺れることをとても恐れていたという。湖でボートに乗るのも嫌がり、魚釣りで海に行くのも嫌がっていた人なのである。その人が風呂で亡くなったのである。マーフィーによると、「私たちの潜在意識に刻み込まれた考えは、必ず心のスクリーンに投影され、やがて現実の形として、結果として、出来事として、私たちの身の上に降りかかってきます」風呂で亡くなった老人がまさに当てはまると思う。私たちはミスや失敗をすれば、もう自分はみんなからつまはじきにされる。左遷されたり、リストラに遭うかもしれない。などと一方的に悪いように悪いように考える傾向がある。つまりバランスが悪いのである。悲観的、否定的、ネガティブに考えてしまうのは仕方ないとしても、それはあまりにも偏っているし、バランスが悪い。無理にでも肯定的、楽観的にも考えてみるようにしないとダメなのではなかろうか。その前に、まずは一方的な見方をしているという自覚を持つことが大事だと思う。森田では両面観の学習である。自分には認識の誤りが強すぎるということに気が付けば、修正はできるだろう。悲観的な気持ちの持ち方が100%だった人が、20パーセントぐらい肯定的、楽観的な見方もできるようになると視界が全く変わってくるのである。
2014.03.06
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森田理論は最初に感じた感情を大切にする。これを初一念という。続いて沸き起こる初二念、初三念は「かくあるべし」を含むものであるから、これは二の次に考えているのである。普通はこれが反対になっている人が多い。「かくあるべし」、理性、常識、しきたりなどで自分の感情や気持ちを押さえつけてしまうのである。これが神経症を発症させているのである。ここはよく押さえてもらいたい重要な点である。今日は、ここはよく分かっているという前提で、話を少し進めてみようと思う。初一念というのは何かを見つめていると、自然に発生してくる感情である。うれしいとか、こうしたいとか、不安とか恐怖などの感情である。自然現象であるから人間の意志の自由はない。しかしながら人によって楽観的、肯定的、ポジティブな感情が自然にたくさん湧いてくる人がいる。反対に不安や恐怖などの否定的、ネガティブな感情ばかりがたくさん湧き上がってくる人がいる。神経質な人は、どちらかというと否定的、ネガティブな感情に支配されているように思う。そういう傾向があるのだから、仕方ないように思う人がいるかもしれないが、その後の展開がまるっきり違ってくる。そうなるとまずいことになる。例えはよくないが、桃太郎の話がある。人々を困らせている鬼ヶ島に住む鬼退治に桃太郎が出かける話である。桃太郎はしっかりした目的をもって鬼退治に出かけたのである。すると道中、サル、キジ、犬たちが私たちもお供をしますとたくさんの協力者が現れた。前向きで、肯定的、プラス思考の感情から出発すると、次から次へとプラスの出来事が坂道を転がる雪だるまのように増えてくるということだ。
2014.03.06
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今月号に山野井房一郎氏の記事があった。森田正馬全集第5巻にたびたび登場する人である。この方は赤面恐怖、視線恐怖、対人緊張の悩みであった。症状がきついときは仕事を辞めて田舎に帰りたいといわれていた。森田先生が仕事を辞めたら症状は治らないといわれて、思いとどまられたそうです。元々日清製粉に勤めておられたが、症状を克服されてからの「生の欲望」に沿った活躍は目を見張るものがある。のちに公認会計士となられた。またありがたいことに各地集談会に精力的に参加されていた。今月号では経歴の紹介とともに、森田先生の能率を挙げるという方法を紹介されていた。1、 処理する仕事が2つ以上あって、自由に選択することができる場合は、まずやさしい仕事から手を付けること。2、 考えてばかりいないで、まず着手すること。3、 一つのことを長時間継続しないで、仕事の転換をはかること。「休息は仕事の転換に在り」とは、先生の名言であります。4、 仕掛けている仕事は、しまい込んでしまわないで、目に付くところに出しておくこと。そして山野井さんは「物の性をつくす」話をされています。これらは森田先生が実際に日常生活で実践されていたことばかりです。一つ一つは簡単なことばかりです。理屈を考えるよりもまず実践してみる。私は、森田先生にあやかって真似をするようになれば神経症は克服できると思っています。森田旅館で番頭をされていた井上常七さんは、森田先生の猫背なところも真似ていたという。それぐらいの気持ちで取り組んでほしいものです。
2014.03.06
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廣戸聡一さんは人間の体は4つのタイプに分かれるという。自然に立った時に重心がどこにあるのかでタイプが変わってくるという。重心がつま先にあるのか、かかとにあるのか。さらにそれらの外側なのか内側なのかによって4つに分かれる。私の場合はエスカレーターに乗る時は常につま先に力を入れないと後ろに倒れそうになる。また革靴はいつも外側などが減るので外側である。つまりつま先と外側に重心があることになる。廣戸さんが面白いのは、スポーツの監督やコーチが人それぞれのタイプを無視して「こうしなさい」「こう動かすべき」「このやり方が正しい」と押し付けても能力は伸びないという。しかし、その人独自のタイプにあったトレーニングをすれば、見違えるほど記録が伸びたり、できなかった動きがスムーズにできるようになるという。また故障にも強くなるという。それはトレーナーとして1998年、2002年米大リーグ、2001年ソルトレイク五輪などでも実証されている。私は中学生の時体育の先生が逆上がりをするように言われたときできなかった。するとその体育の先生は逆上がりのできなかった私たちに、「こんなこともできないのか」と悪態をついた。今でも心の傷として残っている。今考えるとこんな指導をしてもらえればできた可能性がある。先日テレビを見ていたら、カンニング竹山さんにまず自分なりの逆上がりをさせた。案の定最初はできなかった。廣戸さんは、足を鉄棒の前に持ってきて、膝から上げていくように指導していた。また足は鉄棒の近くに持ってくるように指示していた。すると30年ぶりになんとか逆上がりができた。本人は大変喜んでいた。これがカンニング竹山さんのタイプにあったやり方だといっていた。でもタイプの違う人はこれではうまく逆上がりはできない。手を逆手に持ってうまくいく人、腰から持ち上げてうまくいく人、人それぞれだといっていた。廣戸さんの話を聞いていると、指導者は自分で成功体験を持っているとどうしてもそれを選手に伝えようとするのではなかろうか。自分と同じタイプの人には肩、腕、ひじ、腰、ひざの使い方は指導してもよい。ところがタイプの違う他の3つのタイプの人に自分のやり方を指導することは百害あって一利なしである。それが野球選手の場合は故障につながるし、成果も出ない。死活問題につながる。たとえばイチロー選手は前足に重心を持ってきてミートしている。松井選手は後ろ足で踏ん張って打っている。タイプが違うのである。これが仮に逆に指導されてその通りに強制、修正を迫られていたら、素晴らしい活躍はできなかったであろう。森田でも自分のやり方は、他の人にそのまま通用するとは考えないほうがよい。強制しないほうがよいと思う。まずは「受容と共感」の姿勢で傾聴することに注力したい。そして森田理論学習をした後は自分のスタイルを見つけてもらうように手助けをするぐらいにしたい。
2014.03.05
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先日定年退職し、その後3年間公務員として働いてきたという友人と飲む機会があった。今後、仕事はしないでのんびりと暮らすらしい。その友人はよく酒をのむ。そこで私が大阪に単身赴任をしていた時のストレス解消の話をしたところ以外にうけた。私は休日になるとよくJRで京都方面の「山崎」に行った。サントリー山崎工場に行くのである。ここでは工場見学の後、サントリーピアモルトウィスキー「山崎」が飲み放題である。普段、ウィスキーはあまり飲まないが、このウィスキーのうまさは格別である。つまみもある。いい気持にやったところで、次にJRで近くの「長岡京」に行くのだ。するとそこにはサントリービール京都工場がある。専用バスが巡回しており、「長岡京」の駅前まで迎えに来てくれる。そこでは工場見学の後、あの最高金賞のプレミアムビールが飲み放題だ。この出来立てのプレミアムの味は最高である。つぎに近くに京阪電車の「淀」という駅がある。ここは京都競馬場がある。寝っ転がって競走馬をみる。ほっとする。ただし、土日のみである。競馬を見た後は、京阪電車で大阪市内へと帰り、天満天神商店街へと繰り出す。落語の好きな人は天満天神繁盛亭に行くとよい。ここは日本一長い商店街として有名だ。パチンコ屋だけでもその商店街の中に10店舗ぐらいある。私は「春駒」という寿司屋へ行くのだ。ここはネタが大きい、新鮮、安いので有名だ。いつも客が数名外で順番待ちをしている。食事の後は絵画を扱っている店に行き、心行くまで絵の鑑賞をしたり、ペットショップに行って子犬や猫を見て回るのだ。これはお金もかからず、ストレス発散できる楽しみであった。その友人は早速奥さんと出かけることにしたようであった。
2014.03.04
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「それから先生、私は以前体重が67キロあったのに今は53キロです。食欲がなくて痩せていくばっかりなんです。この体重が増えれば、病気がよくなるような気がするんですがどうでしょうか」「それはたしかにそうだと思いますよ。だから好きなものでいいですから、少しずつでも食べるようにしてください。」二週間後診察では、ちょっとは楽になったらしい。「いったいどうやってそんなに痛みを和らげることができたのかぜひ教えてください」「天気がいい日はちょっと散歩をして銭湯に行くようにしていただけだ」黒丸先生が「どうやって、どうやって」と質問している。すると患者さんは、勝手にいろいろと良くなった理由を考えてくれるそうだ。それを「素晴らしいですね」とほめるだけでは、心の治癒力を十分に引き出すことはできず、治療としては不十分なものになってしまうどころか、かえって治療者に不信感を抱かせ、症状を悪化させてしまうことすらある。つぎに、「ではもし7の状態が6になったとしたらどんなことができるようになるでしょうかね」「そうですね、もう少し散歩が長くできるようになるかな」「ほかには」「碁を打ちに出かけたり。もう少し食事が食べられるようになるかな」もう少しよくなった時点で、何が違ってくるか、どんなことができるようになるか、といった質問をすることで、患者自身で「こんなことをしたらいいのかもしれないな」という思いを引き出すわけだ。すると、その思いは「こんなこともできるんだ」という自信を引き出してくれることになる。その積み重ねの好循環が、さらなる症状の軽減を招く。この患者は食欲が出てきて、今までお粥のようなものしか食べられなかったのに、ご飯を食べられるようになった。以前好きだった碁も打ち始めた。黒丸先生は言った。「あなたの体の状態では、今これだけのことができれば十分でしょう。今は、これ以上やろうなんて思わないで結構ですよ。あとは、このままの状態を続けてくだされば結構ですから」「ああ、今の状態でいいんだな」と思えば安心する。そうなれば人間は不思議なもので、「もう少しやってみようかな」と思うものなのです。3回目の受診では背中の痛みは80%とれたそうだ。4回目の受診では背中の痛みはすっかりなくなり治療は終わったそうだ。これは悩みのさなかに、集談会にやっとの思いで参加した人への、対応のヒントを与えている。まず症状には直接触れていないことである。これは森田理論も同じである。症状はとりあえず横に置いておく。つぎに集談会にやってくるような人は、症状で苦しみながらでも、なんとか生活をしているということである。苦しみながらでもなんとか行動しているということである。苦しい中でも苦しみを和らげている、ちょっとした実践や行動に注目するのである。ここが最大のポイントである。それを意識させて、さらに行動への意欲が高まるように、「どうしたら症状を持ちながら、行動できるのか」そのコツを教えてもらうのである。すると参加した人が、「自分でこうしてみようかな」と自身で思いついてくるのである。そして行動の弾みがついてくるということである。この方法は、行動しなさいと行動の重要性を訴えかけるレベルのはるか上をいっている。心療内科というのは、心身症の患者が多い。体の不調の奥には心の問題、ストレスなどを抱えている。内科医のように体の欠陥を治せばよいというものではない。黒丸医師のやり方は多くの面で森田の相互学習に取り入れてゆきたいものであった。
2014.03.03
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症状の真っ只中の人が学習会に来られた時、自分の体験から「なすべきをなす」ことをアドバイスすることは多いと思います。しかし、それをストレートにアドバイスすることは「かくあるべし」の押し付けになることがあります。また相手にはどの程度伝わっているのかは疑問です。対応の仕方について、心療内科医の黒丸尊治氏の「人は自分を癒す力を持っている」からヒントを得ました。紹介します。68歳の男性。2年前に奥さんが胃がんで亡くなっている。半年前から背中の痛みが始まった。黒丸先生のところに来る前は整形外科や神経内科、麻酔科で治療を受け、薬も飲んできたが一向に治らない。症状はますますひどくなり、食欲もほとんどなくなってしまった。ひどい痛みのため一日中家の中で寝て過ごしている。心の問題かもしれないと黒丸先生のところを受診された。初診では患者さんの話をひとまずじっくりと聞いた。そして次のような話をした。「奥さんを亡くされて、2年たったとしても、忘れられるものではないでしょう。奥さんへの思いが強ければ、余計に忘れられるものではありません。だから今は、悲しんだり、くよくよしていても全くかまいません。いや、むしろそうしていないといけない時期なのかもしれません。そうすることで、たまっているものを吐き出し、それでうまくバランスをとっているのでしょうね。だから、今のような状態をしばらく続けておいてください。」次に直接症状を治すことにはかかわらないで治療を進めていった。「背中の痛みは、随分いろいろと治療されたけれどもよくならなかったんですね。こんなつらい症状を持ちながらどうやって毎日を過ごしてこられたんですか。」「どんなふうにといわれても、取り立ててないですけどね」「しかし、こんなにしんどい症状を持ちながら、今までやってこれたというのは紛れもない事実ですよね。ということは、そこには何か症状をうまくコントロールするコツみたいなものがあるはずなんですが、それをぜひ教えていただきたいんですが」「そんなこといわれてもねえ」「たとえば、こんなことをすると症状が楽になるとか」「いや一日中痛いですよ。まあ銭湯に行くぐらいですかね。多少ましなのは」「ほかには」「まあ、散歩しているときも、多少はましですかね。気がまぎれるせいかもしれません。」「それだけ痛みがあって、自分から銭湯に行ったり、散歩したりするというのは、かなりのもんですね。それができるだけでも十分です。これからもそれはぜひ続けてください。」
2014.03.03
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東京下町で小さな町工場を営む岡野雅行さん。小さい会社でも、世界一細い「刺してもいたくない注射針」の量産化に成功している。考え方やチャレンジ精神旺盛なのに感心するが、子育てや孫との接し方にも驚く。岡野さんの次女は高校生の頃、リックを背負って南米旅行に行きたいと言い出したそうだ。普通は南米旅行というと、いつ命を落とすかもわからない危険なところというイメージがある。ましてや20歳前の女の子である。ほとんど反対する親が多いのではなかろうか。ところが岡野さんは積極的に後押ししたという。若いころに海外に出かけると、考え方が変わる。イエスかノーかはっきり言えるようになる。現地の人に影響されて自己主張ができるようになる。条件はホテルだけは一流ホテルに泊まることを提案した。当時は日本人が珍しく、どこへ行っても日本人が珍しく大騒ぎになったそうだ。そして貴重な友人をたくさん作って帰ってきた。その後娘は航空会社に就職して世界中を飛び回るようになった。長女は東南アジアを回っていたそうだ。自身は社員旅行では開発途上国に行くそうだ。ボルネオとかスリランカなどである。開発途上国の人は生き生きしている。その人たちに接していると社員みんなのやる気が高まってくるという。孫は小学校5年生の時、NHKのドジョウすくいコンクールで1位になったそうだ。その孫は小学校低学年のころから、夏休みになると島根県出雲地方の民宿にどじょうすくいの合宿に行っていた。ドジョウすくいのおかげで、うちの孫はどこへ行っても人気者。いろんな人が話しかけてくれるし、親切にしてもらえる。ドジョウすくいが視野を拡げてくれているという。親は子供にいろいろなことを経験させてやるということが大切なんですね。その前に親自身が好奇心旺盛であることが前提になると感じました。
2014.03.02
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配偶者、両親、子供、部下の話をよく聞くということは難しいことです。「いま忙しい」「そんなことは分かっている」「何回も言わないで」「しつこい、くどい、うるさい」「またですか」「後で聞くから」といって相手の話を無視したり、拒否したり、否定することはありませんか。仕事をしながら、新聞を読みながら、テレビを見ながら相手の話をいい加減に聞いていることはありませんか。これは相手には興味がない、関心がないといっているのと同じです。マザー・テレサは愛の反対言葉は「無関心」であるといっています。「無関心」は相手をないがしろにしている究極の言葉だそうです。せめて集談会では相手の話をよく聞いてあげてほしいものです。生活の発見会では「受容と共感」を重視しています。受容とは相手のありのままを受け入れることです。共感とは相手の身になって考えることです。相手を受容ができるようになると、自分の不安、恐怖も受容できるようになります。つまり神経症の克服につながるのです。関東地区の森田理論学習の研修から傾聴のポイントをあげておきます。1、 聞く人は相手に寄り添うように、相手の話をよく聴き、途中で割り込んだり、先回りしたり、結論を出さないようにする。2、 聴いているという態度を明確に示す。声のトーン、相づち、うなずき、オウム返し、確認、わからないところは質問する。3、 沈黙があっても待ってあげる。十分に相手に考える時間を与える。4、 しゃべりすぎない。特に自分の先入観や価値観で、相手を評価したり、判断したり、批評したり、説教したりしない。5、 自分の気持ちや感じたことを伝えるときは、私メッセージで伝える。私はあなたの話を聞いてこう感じました。
2014.03.01
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