全42件 (42件中 1-42件目)
1
森田理論は自分にないものを探して、それを補充してゆくという考え方ではありません。お金がない。時間がない。道具がない。仕事がない。運がない。長所がない。能力がない。容姿が悪い。人材がいない。友達がいない。住むところがない。食べるものがない。飲むものがない。楽しみがない。人より優れたものがない。ないない尽くしです。でもこれらは、よく考えてみると全くないというのではない。自分の理想としている状態と比べてみた場合、いずれも不十分であると思っているのである。いつも自分より恵まれた人と比較して、我が身の至らなさを嘆いているのである。こういう考え方をしているといつまでたっても幸せになることはできません。森田理論は今持っているもの、いわゆる存在価値を評価していく考え方です。現在の状態を自覚して、そこを土台にしています。そこからどれだけステップアップしてゆけたか。それに磨きをかけて前進していくという考え方です。努力していくその過程が人生であるという考え方です。また使い捨てという考えではありません。使い捨てになるとその物や、他人に対して愛情のかけらもなくなってしまいます。自己嫌悪、自己否定、他人否定につながります。使用中に問題があっても、修理して最後の最後まで活かしきるという考え方です。自分が選んで買ったものは、その後新製品と比べて、旧式になって機能が劣ったり、見た目が悪くなっても安易に買い替えるのではなく、修理不能になくなるまで大切に使うことです。私がおかしいと思うのは携帯電話である。よく案内が来る。ショップに行ってみると2年たったので、割引がなくなるので、新機種に切り替えたほうがお得ですよ。携帯は大体新しい機能のものが次から次へと出てくるので2年で買い替えるのが普通ですよという。確かに割引はついたが、インターネット無制限接続のため以前より割高になった。最近は家にパソコン。外では多機能携帯。さらにタブレット。街中でも、電車でも携帯とにらめっこしている人がそこら中にいる。そうまでして、ネットやメールをする必要があるのだろうか。商業ペースにすっかりはめられてしまったような気がする。また17年乗った車が動かなくなった。販売店に行き土日しか乗らないので中古車でよいというと、今度税制改正があり13年を超えた車は自動車重量税が増税になり損ですよという。いずれも、大事に使って長持ちさせてくださいという考えではない。太く短く。能力が落ちて、一応の役目を果たしたらさっさと退場しなさいという考えである。こういう考えになると、どんどん森田から離れていく。唯我独尊は絵に描いた餅になってしまう。森田では自分の持ち物、自分自身、他人、時間、お金に至るまで使えるもの、活かせるものはとことんまで活用するという考え方である。社会の仕組みが反森田になっているのである。我々はそのことをよく自覚する必要がある。そして、社会の流れに安易に流されないように強い意志を持つことが大切だと思う。
2014.07.31
コメント(0)
我々神経質者は、過去の自分の行為や失敗を思い出しては後悔し、罪悪感で苦しみます。私もよく昔の自分の行為や失敗を思い出しては、やりきれない思いに襲われることがあります。まずは神経質性格を持ち、対人恐怖症で苦しんだことです。外向的性格に生まれたらよかった。また対人恐怖症さえなければもっと違った人生を送ることができたのではないか。もっと自分に合った仕事を選ぶべきであった。管理職になって部下を育てることができなかった。自分のふがいなさと申し訳ない気持ちがいっぱいだ。小さい頃万引きをして怒られたこと。親にうそをついて家のお金を盗んだこと。親に迷惑ばかりかけたのに、親孝行はほとんどできなかったこと。子供をもっとよく育てればよかった。こういうことが、ふとした時に思い出されて、後悔や罪悪感に襲われ、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまいます。これをよく考えてみると、今の自分が、過去の自分を否定しているのです。「かくあるべし」でもって、過去の自分を是非善悪で判定しているのです。過去の自分を抹殺しようとしているのです。森田で考えてみましょう。森田理論では、「前を謀らず、後ろを慮らず」と言います。過去のことを思い煩ってはいけない。過去の事実は事実です。事実として認めることは必要です。それを価値批判してはいけないといっています。事実は素直に認めることです。そしてそのまま受け入れることです。また諸行無常とも言います。過去ミスや失敗した自分はその時点では、まぎれもない自分ですが、それは変化流転しているのです。次の時点では、もうすでにその時の自分ではありません。常に新しい自分に置き換わっているのです。だからいつまでも過去の自分を思い煩っている時間はないのです。過去の忌まわしい行為や失敗が、今現在まで記憶されているということは、忘れ去ってはいけないと思うから永遠の記憶として残されているのです。本来その記憶は、次に車のブレーキのように制御機能として活かしていくことが大切です。価値判断して罪悪感に苦しむ、自己嫌悪するためのものではありません。それは我々が日本史や世界史を何のために勉強するのかと考えてみればわかります。テストでよい点数をとったり、過去を懺悔するために学習するのではありません。歴史に学び、将来二度と同じような過ちは繰り返さないために学んでいるのではありませんか。忌まわしい過去は、価値批判するためにあるのではなく、自分に与えられた課題、問題点を明確にするためにあるのです。神様が自分に合った課題を投げかけているようなものです。そこを土台にしてどう前進していくのか。過去はそのためにあるのです。自己否定するのは過去の自分を「かくあるべし」で見るからこそ起きることなのです。また過去の自分を否定する人は、現在の自分をも否定して苦しんでいる人なのだということも忘れてはなりません。
2014.07.30
コメント(5)
ところがその反対に、家の中ばかりいて、テレビ、インターネットで情報をとる。その情報を鵜呑みにする。日常会話は携帯のメールやチャット中心。遊びはゲーム機。音楽はダウンロードして聴くという生活をしているとどうなるか。つまり現実に体を使って感じたり、体感していないとどうなるのか。子供時代にYOU TUBE等の映像を見たり、ネットで情報を得たり、ゲーム機でバーチャルな戦いをして遊んでいるとどうなるのか。体験が不足になる、身体感覚がない。相手の顔が見えない、実際に観察したり確かめているわけではない。部屋の中にいて感じているだけである。そうした状況で喜怒哀楽、不安、恐怖、不快な感情が発生しているのである。感じているというよりも、こんな感じだろうと予測しているのである。夏休み子供たちが外で遊ばない。特定の子どもとしか遊ばない。リアルな実体験が不十分である。でも子供はそれがまぎれのない自分の感情であると信じてしまう。すると、感情は実にいびつな現れ方をする。たとえば怒りなどの感情は増幅しやすくなる。相手の顔が見えないので誹謗中傷がエスカレートしやすい。ネットの書き込みなどもそうである。LINEの書き込みによる殺傷事件も起きるようになった。仲間たちへの愛情は、すぐに大きな憎悪に変わる可能性があるのである。子供時代にバーチャル世界、仮想世界に育った人間は冷たい心の持ち主になる。豊かな人間らしい感情はもてないような脳になっているのである。自然への畏怖や愛着、動物への慈しみなど、人間らしい感情を持つことなどはできなくなる。1990年代以降の子どもたちは、多かれ少なかれ、そうした情報化社会の中で育っている。感情については、まともな人間本来の感情は最初から期待薄になってきているのである。ソフトバンクの孫さんは将来どの分野が成長産業となるのか常にそれを探し続けている。その孫さんが、今後はロボット産業が有望だといわれる。それも物を作ったり、物を運んだり、介護などの力仕事をするロボットではない。人間の心の悩みを聞いてくれて癒しを与えてくれる、相談相手としてのロボットが出てきて活躍するようになるといわれる。人間が人間らしい心を失い、ロボットがより人間らしい心を持つようになるのだといわれる。逆転現象である。鉄腕アトムやドラえもんのようなロボットのことだろう。なんか空恐ろしい時代が来るかもしれない。その前に人間は人間らしい感情を失ってはならないと思う。
2014.07.29
コメント(0)
佐世保で同級生の女子生徒を刺殺するという事件が起きた。殺した生徒は反省や謝罪の言葉はないという。さらに犯行時の写真をネットに投稿していたという。これはどうもこの生徒の問題というよりは社会の問題が表面化してきたものだと思う。7月13日に投稿したKの事件と同じ構図である。これから先この手の事件はまだまだ発生することが予想される。戸塚滝登氏は次のように言う。10歳の誕生日を過ぎるまではネットは見せないでください。10歳の誕生日を過ぎるまではパソコン、テレビ、ゲームマシーン、MP3プレーヤー、スマートフォン、レトルトフード、ファーストフード、ヌードルなどは与えないでください。五感と身体感覚の経験を優先させてあげてください。10歳の誕生日を過ぎるまでは、人工より自然に親しむことを優先させてあげてください。その理由として12歳までに、体験として豊かな人間関係を持てているか、自然と触れ合っているか、五感を働かせているか、豊かな体感経験をしていることはとても大切だといわれる。そうした体験や経験が豊富にあると心豊かな、現実感のある人間に成長する。つまりそうした感受性を持った脳のシナプスのネットワークが12歳までには形作られるという。それ以降いくら頑張っても五感の強化、身体感覚を鍛え上げることは不可能であるという。つまりそうしたネットワークは脳が自らシナプスを切断して廃棄してしまうのである。残った脳は人間性に乏しいサイボーグのような人間となってしまう。このことをもっと社会的に認識する必要があると思う。緊急かつ重大な問題である。
2014.07.29
コメント(0)
定年退職すると生活が一変する。生活の中心を占めていた仕事がなくなるからである。でもうまく切り替えて、今までやりたくてもできなかったことに取り組んでいる人もいる。そして充実した日々を過ごしている。そういう人は定年前から定年後の青写真を持っている人である。たとえば、野菜つくりに精を出している人。土つくり、野菜の作り方を一から学んで取り組んでいる。その活動を通じてちゃんと人間関係も作っている。そこから発展して家畜を飼ったり、庭つくりに挑戦している人もいる。加工食品や燻製などを手掛けたり、そば打ちなどに手を拡げている人もいる。そういう人は生活の中で中心の部分がしっかりしている。以前の仕事にあたるコアの部分がしっかりと別なものに置き換えられている。それが別の仕事であったり、野菜つくりであったり、家事であったり、ボランティアであったりする。たまたま気が向いたからするというのではない。生活の中で大きな大黒柱のようなものを持っている人なのである。人間の体でいえば骨組、家でいえば柱がきちんとしているようなものである。これは人間が生きていくうえで案外大切なことかもしれない。そのコアの部分がないとどうなるのか。朝起きても、今日も何もすることがない。退屈だなあ。何か面白いことはないか。何となくイライラする。そういった感情が起きやすい。その感情を紛らわすために行き当たりばったりの生活となる。思いついたらよく考えもしないで衝動的な行動に走りやすい。精神状態がおかしくなり、気が狂いそうになるからだ。テレビを見る。音楽を聴く。奥さんの買い物のお供をする。ネットゲームをする。たまに思いついたように料理を作る。外食に行く。すぐに横になって寝る。パチンコに行く。散歩に出かける。カルチャーセンターで自分に合った習い事を物色する。ボランティア活動に一時的にのめり込む。先にコアの部分を確立して、これらをアクセントとして生活の中に取り込んでいけば、生活はずいぶん活気が出てくるのではなかろうか。コアの部分を持っていると生きがいが出てくる。それは基本的には毎日ある程度の時間をかけて行うものです。気が向いたからする。気が向かないからしない。というようなものではありません。継続性の持てるものです。いくつになっても私の生活の活動の中心部分はこれです。これを持ったうえで、好奇心を発揮して、いろんなことを楽しんでいます。趣味、スポーツ、ボランティア活動にも張り切っています。こういう生活パターンを確立することが大切だと思う。
2014.07.28
コメント(0)
森田先生の言葉に「夢の内の有無は有無ともに無なり、迷いの内の是非は是非ともに非なり」という言葉がある。とても難しいように感じる。森田理論学習は言葉あそびをしてはならないと思う。私なりに考えてみた。森田先生は2つのことを言われていると思う。まず、「夢の内の有無は有無ともに無なり」ですが、これは事実から離れてはいけない。常に事実から出発しなさいということだと思う。事実から離れるということは、「かくあるべし」から発想すること。「かくあるべし」から出発することです。「かくあるべし」の態度は、どうにもならない現実とのギャップに苦しんで神経症を引き起こします。それを小さくしていく考え方、実践や体得をしていくのが森田理論学習です。この体得への道は行きつ戻りつしますが、避けて通ることは、森田理論をあきらめるということです。「迷いの内の是非は是非ともに非なり」は、手っ取り早く、ハウツー式に不安や恐怖、不快な感情を取り去ろうとする療法は邪道であるということだと思います。取ろうとすればするほど、自分を窮地に追い込んでいくのが関の山です。まずは不安と欲望についてよく学習すること。とりわけ不安の特徴や役割をよく学習すること。森田理論学習についても、手あたり次第学習するのでは芸がありません。森田理論の学習、習得の道は3年を目安にして、早期に一定レベルに到達することが大切です。大まかにいうと1年目は基礎的学習を積み重ねる。2年目は森田理論学習全体像の把握。その中の4本柱の深耕と相互の関係性の学習をする。そして3年目は実際に森田理論を生活に応用してみることです。なおこの言葉の原典に当たりたい人は、森田全集5巻の184ページ、544ページ、590ページ、641ページにその言葉が出てきますので確かめてみてください。大切なことは言葉の理解にとどまってはいけないということです。自分の生活に役に立つまで落とし込んでいかないと、絵に描いた餅になってしまいます。
2014.07.27
コメント(0)
私の住んでいるマンションには公園があります。例年の夏の朝は、蝉のあまりのやかましさに参っていました。ふと気が付きました。今年は全然鳴いていないのです。まだ早いのか。イヤイヤそんなことはありません。不快だけども、鳴かないとこれはこれで心配の種になります。いいような悪いような。インターネットで見ると全国各地同様の現象が起きているようです。地震の前触れとかいろいろ書いてありました。こじつけかどうかは、分かりませんが、そういうことなんですかね。そうだとするとちょっと不気味ですね。
2014.07.27
コメント(0)
森田先生は常に具体的に話さないといけないといわれる。啄木の歌に、次のものがある。かにかくに渋民村は恋しかり 思い出の山 思い出の川渋民村はどんなところか知らないが、なんとなく実感に共鳴するものがある。これを、かにかくに我古里は恋しかりといっては、抽象的で、なんとなしに感じが薄い気がする。落葉掃く男に問えば海安寺という句がある。海安寺がどんな寺か知らないけれども、さてはここがあの紅葉の名所かという感じが深くなる。「紅葉掃く男ありけり山の寺」では面白くない。また森田先生は、子供の教育は具体的に指示しないといけないといわれる。森田先生は電車道を横切る時、子供に対して静かに歩き、決して走ってはいけないということを教える。そしてこれを実行し教える。そうすれば子供は、それ相当に恐怖本能というものがあるから、必ず電車の行きちがいやその周囲の危険に対して、全力を挙げて、心の緊張が働くようになる。これを気をつけよ、気をつけよと追い立てるから、子供はあわてふためき、心の全般の緊張を取り乱し、一つ電車を見つめて、車道を抜けようとして、横から来た自転車につき当たるのである。私たちも、集談会の自己紹介の時、症状の話をするときは、常に具体的でなければならない。対人恐怖症です。人の思惑が気になるタイプです。ではよく分からない。特に初心者には分からない。どういった場面で、どういった症状が出るのか具体的に話さないと、症状は克服できないようだ。
2014.07.27
コメント(0)
桑田真澄氏は巨人に入団当初実にホームランをよく打たれた。このことに対して次のように語っている。「打たれてみないと、なぜ打たれたかがよく分からない。あそこに投げたから打たれた。その経験がないと思い切って勝負はできないのです。ホームランを打たれるのは不快な経験ですが、その貴重な経験を次に生かせればよいのです」つまり打者というのは、このコースに投げると必ず振ってくるというポイントがある。桑田氏はその近辺に投げるのだという。以前にホームランされた球種、コースは自分でもよく覚えている。今度も同じ球種、コースに投げることがある。その時はスピードに変化をつける。1キロ速いか、遅いかによってタイミングはずらせる。また、数センチ球がホップするか沈むか変化をつける。あるいは球一個分ずらす。微妙な変化をつけるのです。打者はヒットゾーンの球は高い確率で打ちに来る。そうすれば打ち取れる確率が強くなるのです。私はそういう勝負を仕掛けているのです。これを仮にカーブを投げるとします。桑田氏は大きく曲がるカーブを持っていた。ところが打者が振ってくれない。また、ギリギリのところを狙っても、審判はそういう球に目が慣れていなくて、ボールと判定されることがある。ストライクともボールとも取れる球をすべてボールと判定されると、審判に腹も立つし、自分の投球にも狂いが生じてくる。フォアボールを連発して自滅することがよくあるのです。これはコントロールのいいピッチャーでないとできないことである。幸い桑田氏はコントロールがよかった。江川投手のように体格的には恵まれていなかったが、クレバーなピッチャーであった。打者と駆け引きができたのである。これは森田理論と関係のある話である。桑田氏は長所の近くに短所がある。短所の裏に長所が隠れているという。だから打たれそうなところにも思い切って勝負できたのである。ピッチャーというのはある意味心理学者のような面がある。それを理解して投球している人が何人いるだろうか。桑田氏は失敗やミスをしても必ず次に活かしている。我々も学びたいところだ。我々は失敗やミスをすぐに隠そうとする。すぐに逃げる。そして自己嫌悪や自己否定に走る傾向がある。失敗やミスは成功のための用心である。失敗やミスの数が多いほど経験が蓄積されてくる。失敗やミスのおかげで精度が高まり、精練されてきて、立派な仕事に結びついていく。自分の欠点、弱点、ミス、失敗をユーモア小話として提供できるようになると神経症から解放されるだろう。
2014.07.26
コメント(0)
安保徹先生のお話です。健康のためと思って始めたヨガにのめり込み、現在は教室を持って教えています。なのに私はガンにかかってしまいました。どうしてでしょうか。ヨガやダンスを習っている生徒さんはどんどん健康になっていく一方で、先生として教える立場にのぼりつめた人には、なぜか病気を抱える人が目につくのです。原因は明らかに体の動かしすぎ、つまり体によいことのやりすぎと考えられます。自律神経の働きで大切なのは交感神経と副交感神経のバランス、すなわち活動と休息のバランスです。ヨガもダンスも適度に行った場合は、心地よい疲れとともに副交感神経の働きが誘導されて、自律神経はバランスをとりやすくなります。ところが、生徒さんに教えるために朝から晩まで体を動かす世界に入ると、今度はそれが重労働になって徐々に交感神経が緊張していき、休息の神経である副交感神経の働きが抑制されます。こうして血流が低下して、免疫力も低下して、病気を呼び込む体調が作り出されていくのです。同様に、毎日ランニングやプールで泳ぐことを日課にしているという中高年にも、やつれ顔の人が少なくありません。中高年にとって走ること、泳ぐことはそもそもかなりの重労働で、睡眠時間を十分に確保してバランスをとっていかないと身体が持ちません。ここでも、森田理論のバランス、調和をとることの大切さが語られています。どちらに偏ってもいけない。片方に偏れば、反対の動きを意識する。サーカスの綱渡りの芸のように長い棒で微妙にバランスをとりながら生活を続けていく。これが最も無理のない自然な生き方だと思います。森田理論では精神拮抗作用と言います。欲望と不安の学習のなかでも出てきました。バランスのとれた考え方、食生活、バランスのとれた運動。両面観、調和と同じ意味です。森田理論学習では避けて通れない学習項目となります。(免疫道場 安保徹 鬼木豊 幻冬舎 56ページより引用)
2014.07.25
コメント(0)
元テニスプレーヤー杉山愛さんのお母さんはテニスの名コーチです。その杉山さんが森田理論に関係のある話をされています。技術的に神奈川県で一番の実力があり、全国レベルでも優勝できる選手が、ある試合の決勝で負けてしまいました。その後も、彼女は断トツの技術を持ちながら、勝てない試合が続きました。そこで彼女とお母さんを呼んで、家での生活の様子を聞くことにしました。朝起きたら挨拶ができているのか、片付けものなど何か決めたことをしっかりできているのか。など細かくチェックしていくと、決めごとも無く毎日が過ぎていっていることが分かりました。そこで、自分で「やるべきことリスト」を作り、簡単なことを列記してもらいました。玄関の靴を揃える。神棚の水を毎朝替えるなど、10項目ほどの簡単なことです。これは森田理論学習でもよくやっている実践課題の設定です。それを1か月に渡ってやってもらいました。こうした簡単なことでも、毎日続けることはとても難しいといっていました。しかし、これを続けた1か月後、彼女は神奈川県の大会で優勝し、関東の大会でも優勝するなど結果が出てきたのです。技術力が1か月でそんなに上達したわけでもない。これはまさに「日常生活の中でやるべきことをきちんとやることによって、自分が何をすべきかの判断力も増し、結果として試合の中でも正しい判断ができるようになった」という顕著な例です。このような例は他にも何人もいました。この事実は、日常生活と試合が別物ではないことを裏付けています。密接に関係しているのです。これは森田理論でいう「無所住心」と同じ考え方です。日常生活を丁寧にすることによって神経が活性化されて、感じが高まってくるということだと思います。するとあたかも昆虫の触覚がピリピリとたゆまなく反応するような状態になるのです。神経が弛緩状態から緊張状態に移行するのです。次から次へとアイデアが湧いてくるようになるのです。ひらめき、気づきの連鎖が始まってくるのです。つまり試合の中で、感じが高まり、工夫や気配りができるようになるのです。トップレベルの選手は力が拮抗しています。最後にはこれらが試合を左右するようになるのです。我々は、これを日常生活に応用しないのはもったいないことです。日常茶飯事に丁寧に取り組む。雑事をきちんと片づける。すると感じが発生して、高めることができるのです。これが森田理論体得の出発点となります。日常茶飯事に取り組むのがめんどうくさいと思ったときは、ぜひこの話を思い出してください。(一流選手の親はどこが違うか 杉山芙紗子 新潮社 160ページより一部転載)
2014.07.24
コメント(3)
最近はお金さえ出せば、ほとんどの身の回りの生活はまかなえます。食べることは外食産業が花盛り。回転すし、中華料理、焼き肉、ファーストフードなんでもあります。また最近は食材をセットして自宅まで配達してくれるサービスもあります。それでも作ることが面倒な人は弁当の宅配サービスもあります。洗濯もボタンを押せば自動洗濯です。掃除も勝手に動いてごみを集めてくれる掃除機も見かけるようになりました。後は物干し竿に干す仕事と風呂掃除、部屋の片づけぐらいでしょうか。手を抜こうと思えばいくらでも手を抜くことができるようになったのです。こうしてみると日常茶飯事にはほとんど手がかからなくなりました。実に楽になったものです。これは喜ぶべきことなのでしょうか。では年金生活で仕事もない人はどうやって一日を過ごしているのでしょうか。主に健康維持と気を紛らわす趣味や習い事ではないでしょうか。病院通い、ドライブやカラオケ、ペットの飼育、映画や観劇、国内外旅行。少し元気のある人はスポーツなどで時間をつぶしながら余生を過ごすことでしょうか。経済的に余裕のある人はこんな生活が60代から90代ぐらいまで続く人が多いのです。そしてボケが始まり、寝たぎりになって5年ぐらいしてあの世に行く。このパターンが多いようです。人生最後の仕上げの時期はこれでよいのでしょうか。なんか悲しい気がします。またこれでは退屈するのではないでしょうか。そしてそんな生活に飽きて、もっと面白いことはないだろうかとさらに強い刺激を求める。それにも飽きて早くお迎えが来たほうがよいと考えるようなお年寄りも多いそうです。何かがおかしい。何かくるっているような気がするのは私だけでしょうか。私はこの問題の解決策は、自分の生活は安易に人任せにしてはいけないということだと思います。自分のできることは自分の手足を動かし、自分の頭を使って処理をする。これが基本なのではないでしょうか。自分のできることも安易に人にやらせる。お金で済ます。人に依存して生きていくようになると、すべての面で他人任せになってしまいます。その時は楽になってほっとすると思います。ところがこれには大きな落とし穴が待っています。次第に生きがいをなくして、生きる屍のような状態になってしまうのです。そうなると、もう以前のように生き生きとした生活に戻ることはできません。足を骨折した年寄りが寝たぎりになると、もう二度と立ち上がることができなくなるのと同じです。森田理論では日常茶飯事、雑事に手を抜かないように真剣に取り組むことを勧めています。手を抜かないということは、いくらお金に余裕があっても、自分のできることややるべきことを安易に人任せにしないということだと思います。このことは心して強い意志を持って取り組みたいものです。そうしないと、すぐに生きることが苦しくなってきます。
2014.07.23
コメント(0)
栄陽子さんという人がいる。この方は海外留学の相談業務の事務所を開いておられる。興味のある方はホームページをご覧ください。この方が夫婦げんかのことを書いておられる。結婚した途端夫婦喧嘩が絶えなかったそうです。ところが2年ほどしてピタリとやんだそうです。それは栄さんがあることに気づいたからです。亭主と私では、私のほうが気が短い。だからけんかをふっかけるのは、いつも私です。彼は私がまくし立てるのを我慢して聞いている。私のほうは、我慢できなければ3日でも4日でも平気で続ける。そして私があまりにしつこいと、今度は突如、彼が腹を立てる。それが我が家の夫婦喧嘩の構造だったのです。私は対応を変えました。問題が起こったら、まず私のほうが、爆発して怒りを解放する。そして自分で「しつこいな」と思うところでブレーキをかけて、矛先を弱めればよい。徹底的にけんかをしたおかげで、けんかをしないですむ方法を見つけたのです。前提として、10癪に障ることがあると、我慢したり、ため込まないほうがよい。全部言葉に出して吐き出したほうがよい。肝心なことはその後です。相手のことを少し思いやる。それでその後の展開が全く違ってくるのです。もしそういう気持ちを双方ともに持たないで、各々自己主張を繰り返すと、最後は離婚する道しかなくなる。早く離婚したほうがよい。この話を聞いて3つのことが印象に残りました。1番目。栄さん夫婦はもともと妻が主導権を持ち、夫がそれに従うという形ができていた。これが双方とも主導権を持っていると最初からうまくいかなかっただろうと思う。調和がとれていたのである。森田先生も神経質者同士の結婚はよくないと言っている。磁石でいえばプラスとマイナスがくっつきやすいのと同じような理屈だ。2番目。自分の感情や気持ちは一番に尊重しなければならないということである。自分の怒りや不快な感情を抑え込んだり、相手のために我慢したり、耐えたりしてはいけない。ストレスが溜まっていつか大爆発を起こすからである。出来るだけ早く、その場で吐き出すことが大切である。出来るだけ小さいうちに小出しにして吐き出すことが大切である。その際「私メッセージ」の活用は強力な支援となるだろう。3番目。自分の不快な感情や気持ちを一方的に主張して、相手を自分の意のままに操るなどということは決して良いことではない。相手の主張や気持ちも素直に聞いてみなくてはならない。そして自分と相手の妥協点を探ることだ。これはWIN WINの法則である。あるいは親業では「勝負なし法」ともいう。以上3つの点を自覚して人間関係に活かしてゆけば、良好な関係を築いてゆけるだろう。(「逃げ上手」ほど生き上手 栄陽子 ヴィレッジブックス新書を参照しました。)
2014.07.22
コメント(0)
ここで今一度不安、恐怖、不快な感情の対応方法についてまとめてみたいと思います。まず不安などに学んで早く対策を打たなければならないものがあります。ごくわずかですが、積極的に立ち向かい不安を取り除いておかなければならないものがあります。たとえば地震に備えて予防対策を立てること。一家の大黒柱が不慮の事故に襲われたときのことを考えて生命保険に入っておくというようなことです。こうした不安に対しては、早急に、積極的に対応しなければ将来大変なことになります。まずはそういうものがあることを認識しておきましょう。次に、それ以外の不安や恐怖は基本的態度としては、受け入れていくことです。服従していくことです。森田理論で言っている通りです。これを阻害している最大のものは、「かくあるべし」という認識の誤りです。この「かくあるべし」を小さくしていくのが、森田理論の核心部分となります。学習を深めて、体得していくことが大切です。ここで一つ注意点があります。すべての不快な感情から逃げてはいけないのかということです。私はそうは思いません。不安や恐怖を察知しているのは、脳の組織でいえば扁桃体という部分です。必要だから、進化の過程で、淘汰されることなく生き残ってきたのです。狩猟採集の時代は、不安や恐怖は相手から身を守るためになくてはならない必要不可欠のものだったのです。そのことを忘れてはなりません。ですから、これを活用していくことは大切なのです。つまり自分に危害を与えたり、不愉快にさせる相手には近づかないほうがよいのです。そのほうが精神衛生上理に適っています。たとえば気が合わない人はそこら中にいると思います。挨拶ぐらいはきちんとする必要がありますが、それ以上深入りして付き合う必要はありません。その人を避ける。うまく断って付き合いを少なくする。これで気持ちが楽になるのでしたらその道が正解なのです。神経質の人はここで勘違いしていることがあります。自分の気持ちに反して、無理して付き合おうとするのです。その結果自分が苦しくなるのです。自分の嫌だという感情に反抗しているのです。相手に迷惑をかけないことだったら逃げても大丈夫です。自分のいやだという気持ちに素直に行動してもよいのです。そのほうが正しい選択なのです。不快な気持ちに焦点を当てて、すっきりした気持ちになろうとすると却って深みにはまります。ここは異論のある方があるかもしれません。集談会などで話し合ってみると深まるだろうと思います。
2014.07.21
コメント(0)
生活の発見会の集団体験学習に「いきいきワークショップ」というのがあった。その1泊2日の体験版を受けたことがある。これは主に「純な心」や「あるがまま」を体験する体験学習であった。ここでこんな話を聞いた。ある奥さんが、化粧をしないで、朝ゴミ出しに行った。その時誰にも出会うことがなくてよかった。という話をされたのである。ゴミ出しは一定の時間内に限られているため、近所の人と鉢合せになる確率は高い。すると化粧もしていない「すっぴん」の顔を見られるのは耐えがたいと思っていたのである。その時誰もいなくて、嫌な思いをしないで済んだ。ラッキーだと感じたのである。一緒に体験学習していた人が、それを聞いて、そんな感情を受け入れてもよいのかと不思議に感じたそうです。その方は本来の自然な感情を是非善悪で価値判断していたのです。そして特に不快な感情をいつも否定していたのだそうです。自分にとって心地よい感情はいくら沸き起こってもよいが、不安や恐怖、不快な感情は決して沸き起こってはならないものだったのです。そんな嫌な感情を排斥しないで素直に受け入れられたことに驚いたというのです。その方は自然に湧きおこる感情を選り好みしていたということです。本来不安や恐怖は、欲望が強いために湧き起ってくるようになっています。また不安や恐怖は欲望が暴走しないようにブレーキの役割を果たすようにできているのです。どんないやな感情も起こるべくして起こっているのです。つまりそれこそが自然現象なわけです。自然現象はよいも悪いもないものです。基本的に自然現象に対しては、受け入れていくしかありません。自然現象に立ち向かうことが、苦悩を作り出しているのです。結論としてはどんな不快な感情が沸き起こっても排除してはならない。その感情を価値判断しない。まずは認めるということが大切です。
2014.07.21
コメント(0)
4年に一度のワールドカップはドイツの優勝で終わった。世界各地で予選を行い勝ち残った32チームがブラジル大会で戦った。1次リーグは8グループに分かれて4チームで戦う。1次リーグは総当たりのリーグ戦である。日本はCグループで1分け2敗のグループ最下位だった。グループ上位2チームが決勝トーナメントにコマを進める。ここからは一転16チームによる厳しいトーナメント方式に切り替わる。負けた時点で終わりである。日本の高校野球と同じである。1回戦をみると、ブラジル対チリ、コスタリカ対ギリシャが延長戦を戦っても勝負がつかずPK戦で、ブラジル、コスタリカが準々決勝に進んだ。それ以外でもドイツ対アルジェリア、アルゼンチン対スイス、ベルギー対米国は延長戦で勝負が決まった。紙一重の戦いであった。つまり実力の差はほとんどなかったということである。準々決勝でもオランダ対コスタリカはPK戦でオランダが準決勝に進んだ。そのオランダは準決勝でアルゼンチンにPK戦で敗れた。こうしてみるとその時の運不運が勝敗に色濃く影を落としている。本来なら日本のプロ野球のようにリーグ戦にして総当たりにすればより正確な順位が付けられるかもしれない。でもそういうルールなのだから受け入れるしかない。潔いといえば潔い。でも反対に未練たらたらで、そのルール自体に反発を覚える人もいる。さて人生をリーグ戦かトーナメント戦かと言えば、私はトーナメント方式だと思う。日本に生まれるか、アフリカに生まれるか、東南アジアに生まれるか自分では選べない。次に親を選べない。きちんとした子育てをする親もいれば、虐待や育児放棄をする親もいる。次にどういう先生に出会うか、どんな友人と出会うかも運命任せである。どんな人と結婚するかもそうである。人生の中でどんな仕事につくのか。どんなに困難な状況が待ち構えているのかも運次第である。死ぬ場所、死に方も選ぶことはできない。風の吹くまま気の向くままである。このように人生というのは自分の思い通りになることはほとんどない。出来ることはどんな運命でも潔く受け入れるしかない。その不幸な運命を嘆き悲しみ、現実を否定、自分を否定、周りの物すべてを否定している人が多い。そういう人は、ますます不幸になっていく運命にあるようだ。今の境遇にしっかりと足を踏ん張り、運命を切り開いていく。その態度が大切なのだろう。「自然に服従し、境遇に従順なれ」という森田理論の言うとおりである。運命を切り開くというのは、「生の欲望の発揮」とも深い関係にある。
2014.07.20
コメント(0)
もう一点、松浦氏の話で「人の役に立つ人になる」ということがある。この点に関して森田先生も同様のことを述べられている。「人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいというふうに、大胆になれば、初めて人からも愛され、善人ともなるのである。」さらに、自分が人からよく見られようと努力することは、結果として人から悪く思われるようになるといわれている。つまり事実と願いが逆になるのである。このことを森田理論では「思想の矛盾」と言っている。つまりそういうことを心がけるよりも、今のあなたのままで、いかに「人の役に立つ人間になれるか」そこに意識を持っていきなさいと言われているのです。これは森田理論全体像の中のどこと関係するのでしょうか。これは自分の現実をよく自覚すること。自分の欠点をよく認識して、受け入れる。事実に服従していくということに関係があります。たとえば、自分は対人恐怖である。人の思惑がとても気になる。今までなんとかそれを解消しようとしてやりくりをしてきた。つらい場面からいつも逃げてきた。でも苦しみは解消されないばかりか、どんどん増悪してきた。そんな時に森田理論を学習してきて、不安や恐怖をやりくりしてはならないと学んだ。気にはなるけれども、それを抱えたまま、苦しいままに生きていきなさいと学んできた。そしてついに覚悟を決めた。そして今ではふがいない自分を受け入れて生活している。不安を抱えたまま生きていくという能力を獲得した。どんどん運命を切り開いてゆけるようになった。この態度を維持していることは、同じような苦しみの最中にある人にとってとても役に立っているのです。その人たちは対人恐怖症を持った自分を観察しているのです。そしてそのけなげで前向きな姿に励まされて、相手もなんとか生活を維持しているのです。これ以上「人の役に立つ」という行動はないでしょう。反対に不安、恐怖、不快な感情から逃げ回っていると、やはり対人恐怖症は克服することは無理なのだと悟らせてしまうことになるのです。
2014.07.19
コメント(3)
松浦弥太郎さんがこんな話をされています。(今日もていねいに PHP文庫 183ページ)自分はフライパンなのか、まな板なのか、土鍋なのか・・・。つぶさに観察し、自分のことをできる限り正しく理解しましょう。そのためには、家族、会社、地域、社会、すべての人間とのかかわりの中で、自分という道具はどう役立ち、何に貢献できるかを考えてみるといいのです。フライパンが華やかで格好よさそうに思えても、自分という道具が土鍋であれば、フライパンの役目をしようと思ってはなりません。人から「包丁をやれ」と命じられても、自分という道具が菜箸であれば、包丁になろうとしてはいけません。使い道を間違えた道具は、何の役にも立たないうえ、無理を続けたら道具そのものが壊れてしまいます。道具となった自分が、「これならお役に立てますよ」というものを見つける。これが本当の意味で自己主張だと僕は考えているのです。この話から森田理論を深めてみよう。2点ある。まず自分がどんな仕事に就いて生活していくか。とても重要なことです。「労働省編職業分類」によると、職業は、日本には約2万8000種類あるそうである。つまり無限あるということである。職業を選ぶにはこれは面白そうだ。なんとかやれるかもしれない。と思えるようなものを選ぶことが大切だ。私は大学卒業後希望に燃えて出版社に入った。希望は雑誌の記者である。ところが訪問営業の仕事に回された。すぐに適用不安が起きた。何しろ対人恐怖症である。実際うまくいかなかった。3,4年勤務していると5人ぐらいの部下ができた。これは上から指示されたことであったが、自分には全く不適であった。適用不安を感じながらも引き受けたのである。自分も実績を上げなければいけない。部下の指導もしなければいけなかったのである。次に繊維の会社に入り、営業サポートの仕事に就いた。受注発注、計数管理業務、経理、人事、総務・庶務などの仕事をした。これは以前の仕事の反省の上に立って選んだので多少はましだった。ところが、ここでまた神経症が出てきた。自分の仕事に対してミスや失敗を極端に恐れるようになったのである。人の評価や批判を極端に恐れるようになった。そしてまた中間管理職として部下の人事管理は全くお粗末であった。私の職業生活は苦しいばかりであった。以上の反省から、職業選びはもっと慎重でなくてはならないと思うのである。何しろ2万8000種もあるのである。その人に合った仕事は必ずあるはずである。1年や2年はそのために費やしてもよい。あるいはインターン制度のような感じで、試しにいろんな興味ある職種をたくさん体験してみるのがよいのではないかと思っている。皆さんには、自分の神経質性格の長所と短所を自覚して、自分の適職を見つけてほしいものである。そういう仕事に就ければ、社会に十分役に立ってゆけると思う。
2014.07.19
コメント(0)
「心の旅」「生きがいについて」という本を書かれた精神科医の神谷美恵子さんは「生きがい」について次のように語られている。1、 審美的観照(自然芸術その他)、あそび、スポーツ、趣味的活動、日常生活のささやかなよろこび。この中には、生きがいと本人すら意識しないものもあろう。毎日生活していることが楽しい。生きていること自体が生きがいである。これは森田的な考えだと思う。別に生きがいとか考えていなくても、ほんの小さな日常の生活の中に、気づきや感じが発生する。それをもとにして創意工夫が生まれて、次から次へと行動実践が拡がっていく。2、 学問、旅行、登山、冒険などに取り組んでいること。知識欲、経験拡張欲、征服欲、闘争欲などに従って行動していること。また所有物を増やすことや種々の物の収集などに一生懸命になっていること。3、 種々な生活目標、夢、野心を追い求めていること。その内容も卑近なものから社会的、政治的、宗教的、宗教的理想や実践運動の計画までいくらでもありうる。目標を持っていることは大切である。4、 人との暖かい共感、友情、愛の交流があること。人から尊敬や名誉や服従を受けること。人から必要とされること。マズローの社会的所属の欲求、人からの承認の欲求を満たすことである。5、 自由を謳歌していること。自由に自分の世界を拡げられる境遇にあること。6、 自己実現の欲求を持っていること。独自性の発揮は生きがいとなる。それまでになかったものを作り出すことは、とりもなおさず自分の生きている証である。7、 自分の存在意義が感じられるような仕事や使命を持っていること。生きがいというものは、人間が生きていくためには、空気と同じようになくてはならないものである。しかし、私たちの生きがいは損なわれやすく、うばい去られやすい。人間の根底そのものに、生きがいをおびやかすものが、まつわりついているためであろう。生きがいというものは、森田先生の生の欲望の発揮に邁進しているとき、あるいはマズローやグラッサーが欲求論で述べているように、欲求の実現に向かって努力しているときに感じられるものである。前進する努力を止めた時、生きがいはすぐに失われてゆく。森田理論では努力即幸福という。努力する中に生きがい自体はあるのかもしれない。
2014.07.19
コメント(0)
森田をものにしたいと思うなら、森田を生活に応用している人を見つけてその人の物まねをしていくのが一番の早道である。ではどんなところに目をつけてそんな人を見つけたらよいのだろうか。・日常茶飯事を丁寧にこなしている人。・雑事を丁寧にこなしている人。・規則正しく生活をこなしている人。・好奇心旺盛でいろんなことに挑戦している人。・一人一芸を持っている人。・なんでも今一歩踏み込んで行動している人。・あるがままの自分、他人、時間、お金、所有物を丁寧に大事に扱っている人。・現在の境遇や環境を受け入れて、将来に向かって努力している人。・いろんなことに目配りできる人。・状況の変化に素早く対応できる人。その他「純な心」を体得している人、欲望の暴走を抑えることができる人、リズム感のある生活をしている人、自分の欠点、ミス、失敗を隠さない人、他人の理不尽な行為を笑って許せる人。全部最初から真似なくてもよい。全部を真似ようとすると徹底できない。一つか、二つに絞ることが肝心である。自分なりにできやすいところから始めたらよいと思う。これだけで、神経症を克服して、森田の達人に近づくことができます。私は一人一芸から真似ていった。おかげで、楽器の演奏、獅子舞、浪曲奇術、ドジョウ掬い、しば天おどりなどを身につけた。老人ホームの慰問では30分ぐらいはみんなを楽しませることができるようになった。自信も生きがいもできた。神経症の悩みよりも、芸事の上達への悩みが多くなった。とらわれやすいのは昔のままだが、対人的な苦しみはほとんどなくなった。集談会では、物そのものになりきって日常生活を丁寧にこなしている人。あるがままの自分、他人、時間、お金、自分の身の回りの物を丁寧に大事に扱っている人がいる。集談会では具体的な話をよくされる。ビールをおいしく飲む方法。かぶと煮の作り方。自然との付き合い方。雑草取りのささやかな楽しみ。などである。愚直に取り組まれているのがよく分かる人である。そういう人は、生活の充実ぶりがよく分かる。後輩たちに計り知れない大きな好影響を与えておられる。注意点を一つ上げるとすると、森田関連の本をよく読んで学者のような人がいる。でも夜更かしをして、部屋の整理整頓はできていない。日常生活もいい加減で気分本位の人もいる。生活はズボラにしておいて、趣味ばかりに力を入れている人もいる。自分の意見を他人に押し付けていても意に介しない人もいる。理論的に立派な人だが、生活と連動していないという人に惑わされてはならない。そういう人から森田理論を学んで体得することは一害あって一利なしである。森田理論学習は「理論という車輪」と「行動・実践という車輪」が同じ大きさでないとまっすぐ前には進まないのです。車輪は小さいときは小さくてもよいのです。ただし同じ大きさでないと困ります。仮に「行動・実践の車輪」が小さいとすると、その周りを「理論という大きな車輪」がぐるぐるといつまでもまわりつづけます。前進しないで同じところにとどまったままです。観念的になり、却って自分を苦しめる原因となります。むしろ森田を知らなければよかったという状態になります。そんな状態にならないように、くれぐれもご注意ください。
2014.07.18
コメント(0)
森田の学習をしている人の中にアナフィラキシー症候群の人がいた。小麦アレルギーで体に湿疹ができて炎症などの障害が出るそうだ。いつ発作が起きるか恐ろしくて遠出ができないで困っておられた。ひどい発作が起きた時、119番に電話して、救急車を呼ぶとともに、緊急の注射を打つ必要があるという。この病気の原因は詳しく解明されているという。小麦などが体に入ると本来は体にとって大切な栄養物なのに、それを異物とみなすのだそうです。つまり小麦を抗原と見なして過剰に抗体反応を引き起こすのです。抗原に対して適切な攻撃であれば「生体防御」の当然の働きです。ところが、体に入ったものすべてを攻撃してしまい、生体防御の働きを逸脱しているのが病気の原因だというのです。人間の体はとてもよくできているのにもかかわらず、どうしてそのようなことが起きるのか。安保徹医師の「免疫道場」「免疫革命」という本によってその仕組みが分かりました。血液の中の白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。これは血液検査によってすぐに分かるそうです。この微妙なバランスを支えているのは自律神経だそうです。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。これは昼間と夜、夏と冬によっても常に変動しています。また大事なことは、自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。するとガンなどの病気にかかりやすくなります。逆にそういうストレスがほとんどないということになるとリンパ球が優位になります。一般的にリンパ球優位になると病気にはかかりにくくなります。しかしリンパ球優位になると、花粉症などのアレルギー症状が発生するそうです。アナフィラキシー症候群のようにリンパ球が増えて本来攻撃しなくてもよいものを抗原と見なして、抗体をつくり無毛な闘争を繰り広げるということになるそうです。ですから、ストレスが大きくなるとそれを軽減する、また生活が単調になり退屈を感じるようになると刺激を与えて意欲を持たせる。つまり森田理論学習でいう精神拮抗作用と一緒でバランスを回復させる。調和を図るということが健康の維持という面から見てもとても大切であるということが分かります。
2014.07.17
コメント(0)
現在5万円とか、10万円とかのお金をとって森田理論を前面に打ち出して相談にあたっているサイトがあります。こういう団体はすべて悪いということは言えないかもしれません。自分に合えばよいのですが、申し込まれる方はくれぐれも最低次の点は注意しておいたほうがよいと思います。1、 主催者は誰なのか。その人の顔写真、経歴の確認。どんな資格を持っているのか。医師か臨床心理士か。あるいはカウンセラーなのか。森田理論をどこで学習したのか。何年学習したのか。どんな学習をしたのか。著作はどんなものがあるのか。事務所はどこにあるのか。内部組織はどうなっているのか。どんな場所でどんな活動を行っているのか。2、 その団体の歴史はどの程度なのか。3、 どの程度の経済的負担があるのか。高額の金品を要求されるものは要注意です。4、 うつ等の合併症に対してどう考えているのか。その団体と医療機関の連携はどうなっているのか。5、 治療で失敗しているケースも必ずあるはずです。すべてうまくいっているというのはウソです。どういうケースで治療に失敗したのか、知らせてくれるサイトはある程度信頼できます。6、 神経症を治すとうたっているが、神経症を治すということをどうとらえているのか。たとえば、ただ単に対人恐怖やパニック障害を克服した人の例をやたら持ち出して、夢のような治療方法であることを前面に押し出しているのは問題があります。不安や恐怖、不快な感情を、すぐに取り除いてあげられますというのはほぼ100%ウソです。症状が治るとはどういうイメージを持っておられますかと聞いてみてください。私が思うには治るというのは3段階あります。第1は症状がありながらも普段の生活がなんとかできるような段階。多分ここに焦点を当てているのだと思いますが、これは初歩的段階です。第2は、神経症のもとになっている不安や恐怖を認めて、受け入れ、自然に服従できるような人間になる段階。第3に森田理論の学習によって人生観が変わり、「生の欲望の発揮」の意味が分かる段階。このどこの段階に焦点を当てているのかが問題です。もし神経症で生活の悪循環が起きているときは、慈恵会医科大学第3病院、京都三聖病院、その他外来森田療法を行っている病院が全国各地にありますから、そちらのほうをまずは推薦したいと思います。
2014.07.16
コメント(0)
私は40代の頃十二指腸潰瘍になった。長い間緑のどろどろした飲み薬を飲んでいた。会社での人間関係のストレスが大きかったのだ。今考えると、ストレスで活性酸素が大量に発生して胃や腸を傷つけていたのだと思う。私たちは酸素を使ってエネルギーを作り出しています。その酸素が活性化したものは、元気になる源のように勘違いしています。それはとんでもない間違いです。活性酸素は老化やがんなどの原因になっています。活性酸素はいくつかありますが、代表的なものは「スーパーオキシド」と「過酸化水素」です。いかに活性酸素が恐ろしいものであるのか。知っておくと生活の仕方が変わると思います。「パラコート」という強力な除草剤があります。濃度の薄いものであっても植物に噴霧すれば枯れてしまいます。これはこの農薬が「スーパーオキシド」という活性酸素を発生させるからです。人間がもし微量でも飲んでしまうと、呼吸困難に陥り死んでしまいます。次に皆さんご存知の「オキシドール」という消毒液があります。この中には「過酸化水素」という活性酸素が3%含まれています。これだけの量なのに傷口の細菌は死に絶え、消毒されるのです。強い薬です。一般的に紫外線に当たるとこの活性酸素が作られます。また、放射線照射も活性酸素を作り出します。ところが我々神経質者が最も気を付けないといけないのは、過度の不安やストレスを与え続けるということの弊害です。過度の不安やストレスを受けると自律神経失調症になります。つまり交感神経が常に優位になります。副交感神経とのバランスが崩れてくるのです。交感神経の優位な状態は白血球の中の顆粒球を増やします。相対的にリンパ球は少なくなります。この顆粒球というのは、危険な細菌が体内に入った場合、その異物を飲み込んで殺してしまいます。その時、顆粒球が使うのがリゾチームなどの分解酵素と強力な殺菌力を持つ活性酸素なのです。顆粒球は細菌が多いときはとても役に立ちます。なくてはならないものです。ところが細菌が少ないにもかかわらず、不安やストレス過多で顆粒球がたくさんあり過ぎるという状態はとても危険なことなのです。なぜなら、その状態では、顆粒球は、普通の正常細胞を攻撃してしまうのです。活性酸素が胃や腸を痛めつけてしまうのです。胃潰瘍や十二指腸潰瘍、腸炎を引き起こします。適度のストレスは人間の活性化に欠かせません。しかし、大きなストレスを長期にわたって抱え込むということはとても危険なことです。ストレスは溜めこまないことが大切です。上手に吐き出すことが大切です。森田理論学習はまさにそこに切り込んでいく理論だと思うのです。森田理論の精神拮抗作用というは、人間の体の免疫のしくみにも貫徹されているのです。(免疫革命 安保徹 講談社インターナショナルを参照しました。)
2014.07.16
コメント(0)
元兵庫県県議の野々村氏の号泣会見が話題になっている。本来の高額報酬以外に、政務調査費、政務活動費としてそれぞれ600万円ずつを前受金で受け取っていたようだ。これは事後清算である。余ったら返すのものなのです。返すぐらいなら何が何でも全部使ったことにして消化しようと思ったのが野々村議員だ。案の定5万円以下は、領収書は不要であるという。大量の切手、文房具、図書券、乗車券、高額な家電を購入していた。金券ショップやリサイクルショップで売りさばいて換金していたのであろう。そして自分の懐に入れていたのであろう。そうしないと返還しなければならないからだ。せっかくもらえるものを返すのは、いかにもばかばかしいと考えたのだ。政務調査費、政務活動費を有効活用して、議員としての職務の質を高めてゆきたいという気持ちは毛頭存在しない。他の兵庫県の県議で、2011年、2012年に10人の議員が切手の大量購入をしていたという。野々村議員を追求すれば我が身の安全が脅かされる恐れがある。追求すれば被害が我が身に及ぶので、県議会としての調査を早々と切り上げた。本来なら議会で徹底的に膿を出すべきであろう。ところで、国会議員は月100万円の文書・交通費が支給されている。この場合領収書は不要である。不正処理の温床となりやすいのは当然のことである。これは地方議会でも同じことであり、限りなく返還訴訟が起こされて、議員が敗訴している。どうして事後清算しないのだろうか。会社では出張仮払い制度はあるが、ほとんどは領収書と引き換えに精算である。これは当たり前のことだ。議員だからといって特別扱いは許されるものではない。ばかばかしくて話にならない。制度が悪いのだが、条例は議員たちで作っているのである。お金の使い方について、森田先生は、「100円のものは1000円に、1000円のものは1万円に、というふうに、その額面金額よりもっと活かして使いなさい」とよく言われました。野々村議員は1000円のものは100円に、100円のものは10円に粗末に扱っている。兵庫県民は腹が立って仕方ないだろう。森田理論で「物の性を尽くす」という言葉がある。水の使い方が有名である。風呂の水は、洗濯に使い、掃除に使い、植木や盆栽に使い、庭の打ち水に使う。洗面器いっぱいの水でもとことん最後まで使い切るということである。これはそのものの持っている存在価値を見出して、最大限に評価して、活かしきるという考え方である。この考え方を身につけると、方々に応用できるようになる。自分の身の回りの物、自分自身、他人、時間、お金などに波及してくる。一事は万事に通じるのである。つまりこの考え方は連鎖しているのである。反対にお金を粗末に扱うものは、身の回りの物、自分自身、他人、時間など、すべてを粗末に扱うようになる。常に不平不満が多くなり、あくなき欲望のとりこになってしまうのである。そうして、どんどん森田的生き方から離れていってしまう。神経質性格の持ち主が、森田的思考、森田的生活から離れると、砂を噛むような虚しい人生しか待っていない。野々村議員は、「私は西宮市民のために頑張りたいと思っているのです。政務調査費の300万円は全額利子をつけて返還しますので、それで許してください。今後も県民のために誠心誠意頑張ります。」と公言していたのである。それは無茶というものである。
2014.07.15
コメント(0)
これから梅雨が明けると暑い夏が待っている。クーラーをつける人が多い。出歩くことを控えて一日中クーラーのお世話になっている人も多いことだろう。そうしないと熱中症にかかってしまう。救急車で病院に搬送されてしまう。なかには亡くなる人も出てくる時代である。この問題を森田理論で考えてみたい。森田理論は、自然の変化に対して人間のほうから、自然の変化に合わせていくという考え方である。自然は常に変化流動している。その変化に合わせていくのである。これを推し進めていくと、変化を予測して、仮説をたててあらかじめ準備を怠らない。もし仮説が間違っていたら、自分の行動を修正していく。これが自然と人間のかかわり方である。もっと言えばこれが人間と人間のかかわり方の基本でもある。間違っても、自然を自分たち人間の都合に合わせて変えていこうという考え方ではない。この考え方を森田理論で学習して、生活の中に応用して実践できるようになることは大切である。まず暑いときは涼しくなるように工夫することである。うちわや扇子。部屋では風の流れを作る。そのために扇風機を利用する手もある。打ち水をする。おしぼりを用意しておく。冷たいおしぼりは意外に役立つ。シャワーを浴びたり、たらいの水に足を入れてみる。食べ物はスイカやキューリ、トマト。ソーメンやざるそば、冷麺がおいしい。もちろんビールも最高だ。桃、ブドウ、ナシなども夏の食べ物である。水ようかん、かき氷やアイスクリームもよい。海やプールで泳ぐのもよい。夏は浴衣がよい。花火大会や夏祭りに出かけてみる。ビルの屋上から夜景を見るのもよいだろう。渓谷の水の流れを聞くだけでも癒される。蛍狩りなどもよい。変わったところではサウナで汗をかくとすっきりするという人もいる。まだまだあるだろう。自分なりに工夫してみてください。要するに、暑さに対して自分を適応させていくことである。完全な暑さ対策にはならないかもしれないが、ある程度の効果はある。かえってクーラーで完全な暑さ対策をしている人が夏風邪をひいたり、冷え性で体調が悪いという人もいる。過ぎたるは及ばざるがごとしである。また電気代もかさんでしまう。つまり、暑さ対策が自然を思いのままに変えてゆけばよいというのがあだとなっているのである。森田理論というのは実践のための理論である。言葉や観念で理解するのがまず第一歩である。自覚を深めるのである。その次にはそれを生活に応用する。いわゆる生活森田、応用森田のステップに進むことが不可欠である。理論研究でとどまっている人が実に多い。もったいないことだと思う。
2014.07.14
コメント(0)
2008年3月土浦連続殺傷事件が起きた。アルバイトもせずに実家に引きこもっていたKは殺人を決意する。自宅近くで偶然出会った72歳の老人を殺害し、秋葉原へ逃亡。そして2日後、再び、自宅近くのJR常磐線荒川沖駅に姿を現すと、警察官を含む8人を殺傷し、うち1人が死亡した。公判の中でのKの言葉を聞いてほしい。弁護人「ファンタジーの世界をゲームや映画で知った。行ったことはないけど見ているから分かるというんですか」K被告「はい」弁護人「現実の楽しみを経験したことはありますか」K被告「別に」弁護人「悲しくて泣いた経験は?」K被告「ないです」弁護人「人が亡くなったのを見て、悲しんでいるという人を見たことはありますか」K被告「テレビとかで」弁護人「殺すことは悪いことですか」K被告「常識的に考えて、悪いことです」弁護人「常識を取り外せばどうなるのか」K被告「善悪自体存在しません」弁護人「人を殺すことはどういうことだと考えていますか?」K被告「蚊を殺すことと同じことです」弁護人「蚊? 蚊とは虫のあの蚊ですか」K被告「はい。蚊を殺すのも、この机を壊すのも同じです」《K被告は右手で『ドン』と大きく証言台を叩いた》弁護人「同じことですか?」K被告「同じことです」弁護人「殺される側の気持ちは分かりますか?」K被告「常識を通して考えれば分かります」弁護人「(殺される人の)苦しみは感じますか?」K被告「常識を通して考えれば分かります」弁護人「なぜ殺される人は嫌だと感じるのでしょうか?」K被告「自分に都合が悪いから感じるのでしょう。拒絶したくなると思います」弁護人「殺された人の周りの人。家族とか友人はどう考えるかな」K被告「まあ悲しくなるでしょう」弁護人「それは理解できるの?」K被告「常識を考えれば」弁護人「あなたは常識とさっきから話しているが、常識を取っ払えば、罪の意識とかは感じるの」K被告「感じません。ライオンがシマウマを食べるとき、シマウマに悪いと感じるのでしょうか」弁護人「ライオンと同じ?」K被告「そうです」弁護人「殺される人はシマウマ?」K被告「そうです」弁護人「私はシマウマにはなったことはありませんが…たとえばシマウマの子供が食べられたら、その親は悲しむんじゃないですか?」K被告「動物でも悲しくなると思います」弁護人「それは本当にそう感じている?」K被告「そうです」弁護人「『蚊を殺すのと同じ』とあなたはさっき言いましたが、蚊を殺すことに抵抗は感じないのですか?」K被告「感じません」弁護人「『常識で考えれば』などと言っているが、犯行のときには常識を取っ払ったのですか?」K被告「取っ払いました」弁護人「取っ払えば蚊を殺すことと同じと思うの?」K被告「はい」弁護人「ホントにそう?」K被告「はい」弁護人「家族が苦しむとか周りが苦しむとか、そのことについてはどう思うの?」K被告「どうでもいいことです」弁護人「常識を取っ払っての犯行だから、ことの善し悪しは存在しないということ?」K被告「はい」弁護人「常識的に考えて、自分が間違っているとは思わない?」K被告「思いません」弁護人「本当に?」K被告「はい」弁護人「殺すことはいいことではない?」K被告「当然そうです」これは弁護人と、人間の心を持たないロボットの会話のように思いませんか。特に人を殺すのは蚊を殺すようなもの。人を殺すのはライオンがシマウマを食べるようなもの。本気でそのように思っているのです。彼は確か1983年か4年の生まれである。小学生時代は1990代である。1990年代はバブルがはじけて、失われた10年といわれている。子供たちにとっても大きな転換期となった時代の幕開けであった。1990年代は日本でバーチャルゲームがはやりだした。家にこもりゲームに熱中し始める子供が出現した時代である。彼はゲームソフトを100本あまり持ち、2003年にはゲーム大会で、関東地区で準優勝している。特に格闘ゲームに凝っていた。剣や刀を振り回し、手裏剣を飛ばして敵を倒すゲームを好んでいたという。人の痛みを感じる、人間として、していいこととしてはいけないことを見分ける脳は10歳から12歳ごろに出来上がるという。その時期に、友達との交流を持たないで、家でテレビ、マンガ、ゲームを中心とした生活をしているとどうなるのか。このような人間らしい感情が持てない人間ができてくるのである。親の教育が放任でありそこに原因を求める人が多い。私は社会環境がこの事件と深い関係があると思う。この先この手の事件は繰り返されるだろう。この事件は、ネットサーフィン、ネットゲームやチャット、携帯メールを10歳から12歳までは与えてはならない。そのためには親がそれにはまり込んではいけない。このことを教訓として教えてくれているのだと思う。
2014.07.13
コメント(0)
サマージャンボが発売されている。売りに出されるのは1000万枚を1ユニットとして、26ユニット発売される。1ユニット30億円の売り上げになり、26ユニットで780億円の売り上げとなる。当選金として支払われる額は以下のとおりである。一等4億円は26本。104億円である。一等の前後賞一億円は52本の52億円。この二つをテレビで大きく宣伝している。一等前後賞合わせて6億円である。しかし一等が当たる確率は、1ユニットあたりたったの一枚。確率は1000万分の1である。天文学的数字である。東京都の全人口あたりたったの一枚なのである。でも買うときは自分にあたるかもしれないと思わせてしまう。こういう宣伝を詐欺まがいというのではなかろうか。1等の組違い賞10万円で2574本、2億5740万円。2等の1000万は52本の5億2000万円である。3等の100万円は2600本の26億円である。4等の1万円は、26万本で26億円。5等の3000円は260万本で78億円。6等の300円は2600万本で78億円。以上当選金合計として支払われる金額は371億7740万円である。売上に対しての支払金額は約47%である。全部売り切れると約408億円の粗利益となる。全部売り切れなくても支払金額がなくなるので、十分に採算は合う。必ず儲かるようになっている。これから必要経費を差し引いても純利益は莫大なものとなる。企業でいえば東証一部上場の超優良企業と同列である。これがグリーンジャンボ、ドリームジャンボ、サマージャンボ、オータムジャンボ、年末ジャンボと組まれているのである。でもわずかな金額で、でっかい夢を見させてもらうのだからよいのではないのかと血眼になっている人が多い。私がジャンボの一番問題だと思うのはまさにその点である。企画を立てている人は、一等前後賞6億が当選した人の、その後の人生を考えてあげているのだろうか。到底そのようには思えない。高額当選金を前面に出して、有名な芸能人を使って、ひっきりなしに宣伝をしている。消費意欲を高めているのである。では企画者にお尋ねしますが、もし仮にあなたが6億を手にしたとするとどうしますか。あそこにいくら、ここにいくら寄付しようと考えるのは、当選する前のことだ。仮に当選すると、そんなことはすぐ忘れるだろう。当選すると多分真っ先に今の仕事はすぐに辞めるだろう。そして高級住宅を買う。高級乗用車を買う。なかには離婚する人も出るかもしれない。今の煩わしい人間関係から逃れる。クルーザーを買う。ギャンブル、グルメ三昧。高級クラブに出入りして、ゴルフ、釣り、海外旅行、飛鳥で世界一周旅行。思いつく贅沢の限りを尽くすだろう。森田を勉強した人は、そんな人生はとても味気ないということをよく知っている。でも、もしそんな状況に置かれたら人間はすぐに弱さを露呈する。とても森田理論で言っているような、日常生活を丁寧に規則正しく、雑事に精魂込めて取り組むなどということができるだろうか。たぶんできないだろうと思う。こうして人間は堕落してしまうのである。私の知り合いに100万円当選した人がいる。だれも祝福こそすれ、ねたむ人はいない。その人は当選金で大型テレビを買い替えた。そして家族で旅行に行って楽しい思いをしたという。それぐらいの思いもかけないラッキーな出来事は、人生のアクセントになると思う。もちろん仕事を辞めるようなことはしていない。6億円の高額当選金は人生そのものに悪影響を及ぼすと思う。人生を破滅させる可能性が出てくると思う。宝くじでなくても、莫大な遺産が転がり込んできた。土地や家屋が道路や公共用地に収容されることになった。街中の土地が売れた。航空機事故や交通事故などで莫大な死亡補償金が入ってきた。こういうケースで以後の生活がガラッと変わった人の話はよく耳にする。そして相続争い、家族の内輪もめ。周囲の妬みをかうのである。私は当選金は100万円から500万円ぐらいまでに上限を設けたらよいと思う。そうなれば、当たる確率も相当高くなる。かなりの人がささやかな幸せを感じることができる。生活をまるっきり破壊することもなくなる。そうなったときは、私もジャンボ宝くじを買ってみたいと思うのだが。
2014.07.12
コメント(0)
夏目漱石は作家志望の若者と話をしていた時、「あなたはウィンドー・ショッピングは好きですか」と聞いたという。その人は、「外を出歩くよりも、家で本を読むのが好きです」といった。すると漱石は、「あなたは作家には向いていませんね。別の仕事を探したほうがよいでしょう」といったという。「坊ちゃん」は愛媛県の松山中学が舞台だが、漱石は松山中学に1年間勤めていた。町中を散策し、正岡子規などと頻繁に会っていた。そして、人々の暮らし、人となり、方言や衣装、住居、松山という街、電車、職業など貪欲に観察して吸収していった。だからあれだけのリアリティ十分な小説を書くことができた。成井豊さんという舞台演出家は、早稲田大学の卒論に小説を書いたそうだ。書き始めて唖然としたのは、風景描写ができないということだった。小説の冒頭は、4年間通った大学のキャンパスの場面だった。それでも書けない。頭の中に、だいたいの絵は浮かんでくるものの、書こうとすると途端に自信がなくなる。そこで、成井さんは、小説の主人公が行くすべての場所に実際に行って写真を撮ってきた。そのとき思ったのは「作家は、何でも知っている人でないとできない仕事なんだな」ということだった。家で本を読む暇があったら街に出て、好奇心のままにいろいろと散策したほうがよい。世の中をよく観察して、世の中のことをよく知っている。そういう人が作家になれるのですといわれています。森田理論では、事実をよく観察する。そのためには人の話をうのみにしない。決して先入観で話してはいけない。出かけて行って、実際に自分の目で確かめてくる。事実として確かめたことだけを大切にする。それをもとにして具体的に赤裸々に話すことが重要だといいます。そこから出発しないと、事実を受け入れる、事実に服従するということは足元にも及ばないことである。いくら「事実唯真」を言葉で唱えてみても、絵に描いた餅である。決して役に立つことはない。(成井豊のワークショップ 演劇ブック社参照)
2014.07.11
コメント(0)
このたび7月としては最大級の台風が日本を襲っている。この台風は速度が遅い。そのため長雨が続く。戦々恐々である。自然災害に対しては森田理論では態度は明確である。まず、迎え撃つためには準備万端、できる限りの対策を立てることである。マンションに住んでいる人は、ベランダの物を家の中にブルーシートを敷く。鉢物、収納ボックス、洗濯用品を片付ける。解放廊下に置いてある傘立て、台車を家の中にしまい込む。窓ガラスには飛散防止のフィルムを貼っておく。窓ガラスが壊れないように目張りをする。戸建てに住んでいる人はさらに周到な準備をする必要があるだろう。また、最接近時は車の運転はしない。一番は避難所、自宅、会社や学校の建物内にじっとしておく。飛散物、落下物が落ちてくるからである。これぐらいができることだろうか。いづれにしても7月10日夜から11日が山だろう。これ以上の自然災害となると我々では打つ手がない。なるようになれである。柳の木のように、枝を振り乱して動揺しているしかない。今回も沖縄あたりでは、大きな木が、台風に毅然としてぶつかっていったが、根こそぎ倒されていた。受け入れるも受け入れないも、自然のなすがままになるしかない。最悪死をも受け入れざるを得なくなる。災害時の惨事は突如として襲ってくるのでとても怖い。特に地震はとても怖い。最近東大の村井俊治先生の、GPSを利用した、土地の隆起や沈下の観察による地震予知がよくあたっているようだ。その他の予知方法と合わせて、日頃からいつ起きても避難の心構えを持っておくことが大切となる。そういう前提の上で、どうにもならない地震は我々の力の及ぶところではないと思う。2013年2月2日の投稿で、良寛さんが地震にあった時の心境を書いている。今一度思い出してみよう。良寛さんの晩年、三条地方を襲った大地震があった。死者1600人、倒壊家屋1万3000軒、焼失家屋1200軒という記録が残っている。この時良寛さんが山田さんという友人にあてた手紙が残っている。「地震は誠に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死者もなく、めでたく存じ候。しかし、災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」と書いてあったという。この手紙に「逢う」という言葉を使っているが、これは人に逢う、懐かしい人に逢うという場合に使う言葉である。普通自然災害などは損害を被るという意味の「遭う」という言葉を使うはずである。良寛さんは、事実を受け入れる、自然に服従するという意味をよくわきまえている人だと思う。「裏を見せ表を見せて散る紅葉」これはあるがままに、隠し事をしないで、自然に身をまかせて生きていくという決意を示している。そういう意味で良寛さんは、真の「森田の達人」の域に達している人であると思う。
2014.07.10
コメント(3)
森田理論でいう「生の欲望の発揮」は無制限に追い求めてゆけばよいというものではありません。不安というブレーキを効かせて調整しないといけない。例えばオレオレ詐欺でお年寄りをだますようなこと。薬物使用で危険な運転をすること。電車内で性欲を満たすために痴漢行為をすること。金儲けのために健康の害になるようなものを売りつけること。自分たちの欲望を満たすために自然破壊を繰り返すこと。などは決して許されないと思います。これらを制御しているのは、ずばり前頭葉の中にあります。前頭葉の中でも「前頭葉腹内側部皮質」という部分である。情動を抑え、道徳的な判断をつかさどっている部位である。仮にこの部分が損傷したり、脳卒中などで機能不全に陥ると、論理的、理性的判断はできても、道徳的な判断はできなくなる。深い愛情を伴った思考や、倫理的な判断はできなくなってしまう。私たちが感情を伴った意思を決定するときや、モラル判断するときに支障が出てくるのである。でもこれは特殊な例だ。心配はいらない。普通の生活をしていれば、自然に身についてくるものである。但し、1990年以降に生まれた「情報化社会」の子どもたちの場合は要注意である。元小学校教師の戸塚滝登氏の本にこんな話がある。ロンドン大学のメル・スレーター氏がバーチャル拷問実験をしました。教師役の人はパソコンの前に座り、バーチャル生徒と対話しながら、記憶力テストを行うというものです。バーチャル生徒は2種類います。これは3Dで作られた仮想人物です。一方は顔も姿も見えません。ちょうどあたかもネットでチャットやメールをしているかのように、文字だけで対話します。もう一方は顔も姿も見えます。バーチャル生徒が間違えると電気ショックを与えるようにしてあります。顔が見えるほうは、しだいに苦痛にゆがむバーチャル生徒を見て動揺が始まったそうです。つまり教師役の人がバーチャル生徒に電気ショックを与えるのをためらい始めたそうです。ついには途中棄権するものが現れたそうです。ところが、生徒の表情も見えず、ネット環境のように文字だけで対話していたほうは、最後の20回まできちんと電気ショックを与え続けたそうです。相手の顔が見えない。声が聞こえない、息遣いがない。対話がない。気配がない。まなざしがない。しぐさがない。つまり現実感覚がない、五感がないという状況では、平気で人を傷つけてしまうということが起きるのです。「だって、この生徒ってバーチャルでほんものではないんだろ」生徒が気絶して、もはや反応しなくなっても、彼らはゲーム感覚で電気ショックを与え続けたのでした。教師役の人は「ごくおとなしい普通の人」だったそうです。最近の子供は、まさにこのようなネットやゲーム、テレビや携帯端末に取り囲まれている。外に出かけて実際に自分の五感で感じとったり、体感する経験がないのである。家の中でパソコン、ゲームで仮想社会、バーチャル世界に愛着を持ち、リアルの体験は哀れなほど乏しいのである。そしてバーチャル世界を本物世界と見間違えてしまうのである。体制感覚、皮膚感覚、生理感覚などの身体感覚も同じく乏しいのである。悪いことに、小さいころからそういう生活を続けていると、同情し、共感し、感情移入し、道徳的な判断を行う「前頭葉腹内側部皮質」の神経細胞、シナプスのネットワークは形作られることがないのである。このきちんとした脳が形作られるのは10歳から12歳のごくわずかな期間であるという。それ以降は、いくら頑張っても手遅れとなる。つまり、人間らしい感情を持った人間に育つことがなくなるのである。いわばロボットのような人間が出来上がってしまうのである。考えてみるとそんな人間が大量に現れてくると恐ろしいことになる。詳しく知りたい人は戸塚滝登氏の次の本を勉強してみてください。「子どもの脳と仮想世界」 岩波書店「コンピーターが連れてきた子どもたち」 小学館
2014.07.09
コメント(0)
元小学校教師の戸塚滝登氏の「コンピーターが連れてきた子供たち」の290ページより転載です。赴任した小学校でウサギを飼っていました。放課後の飼育当番がうっかり柵の戸を閉め忘れ、ウサギたちが外へ逃げ出したことがあるそうです。幸い、ウサギたちはすぐに見つかりました。何しろ生まれた時から人間慣れしているウサギたちです。遊び疲れるとやがて小屋のほうに自分から戻ってきたのです。しかし、一羽だけは見つかりません。このウサギは野生の本能が強く残っているらしく、なかなか人間になつかず、すばっしこく走り回るので、子供たちは手を焼いていたのです。2日たち、3日経ってもポムと名付けられたウサギは帰ってきません。ところが4日目の夕方です。草むらから「カサッ、カサッ」という音がしたという情報がありました。翌日熱心にウサギの世話をしていたあゆちゃんという子が、ポムを探してみることにしました。すると草むらから「カサッ、カサッ」という音がしたそうです。あゆちゃんが歩くと、ポムがあゆちゃんの後を追いかけているのだそうです。やがてあゆちゃんは草むらにしゃがみ込みました。するとウサギがそっと少女の足下にすり寄るように近づいてくるのが見えました。それを見ていた先生は気が付きました。ウサギは何十メートルも離れた場所からでも、あゆちゃんの足音を聞き分けることができていたのです。自分を世話してくれているあゆちゃんの足跡を聞き分けていたのです。このウサギは、あゆちゃんをお母さんのように慕っていたのです。雨が降ろうと風が吹こうと、あゆちゃんは飼育小屋に通い詰めウサギの世話をし続けました。餌を与え、散歩をさせ、小屋内を清掃します。しかし1月の寒い日ポムは極寒に耐えられずに死んでしまいました。あゆちゃんはポムを抱きしめてポロポロ涙をこぼしました。そうして、卒業式の前日までウサギの世話をして中学校に巣立ってゆきました。先生は言います。あゆちゃんは同じ世代の子供たちがもはや知ることも、感じることもできない、秘密のような感覚、命のはかなさ、そして、いのちの足音のひそやかさを、体ごと理解していたに違いありません。あゆちゃんは、学校教育もさることながら、素晴らしい経験をすることができました。現代に生きる子供たちは、本来自然から受け取る知覚刺激は、薄まり、弱まり、現実感は希薄化しています。12歳ぐらいで完成されるという子供たちの幼い脳は、実際の五感や体感の機会が持てないうちに形作られてしまう。一旦人工の感覚に置き換えられてしまったら、恐ろしいことが起きる。脳はもはや本来の自然を感じたり、理解することができなくなってしまうのです。子供たちの脳は、人工の感覚を基準として作られてしまう。人工の五感こそ標準だと思ってしまう。人工の五感は、実に薄っぺらいものです。その辺の山とヒマラヤの山ぐらいな差があります。直接体験を避けて、五感をそぎ落とし、身体感覚をはぎとり、現実感覚を失ってしまう。すると薄っぺらい偽の感情が発生し、その一つの感情のみが増幅される。豊かな感受性の欠落した、ロボットのような人間の出現である。末恐ろしい時代が静かに進行している。我々森田理論学習をしたものは、人間らしい豊かな感情とは何か。身体感覚の体験が感情の発生にいかに大きな影響を与えているのか。こうした問題にも、考えを及ばさなくてはならない時代に突入してきていると思う。
2014.07.08
コメント(2)
舞台俳優の演技とは、観客の前に立ったら、自分の心を真っ白にする。「いい演技をしよう」とか「このセリフはこの言い方で」とか余計なことは考えない。極力、他の役者の顔を見て、他の役者のセリフを聞く。そして、その時感じたことを、どんどん表現していく。稽古で決めたことに、どんどん上乗せしていく。しかし「自分の心を真っ白にする」というのがとても難しいのだ。不安、羞恥心、過剰なプライド、功名心、優越感、劣等感などの雑念が自然に湧いてくるのだ。これらを一つにまとめれば、「演技しようとする心」だと思う。演技しようと思ってやった演技はウソだ。どんなにうまくても、それは単にフリにすぎない。自分の心を真っ白にして、他の役者の顔、他の役者のセリフをしっかりと受け取る。その結果、出てくる感情、出てくる表情、出てくるセリフ回しこそが、本物なのだ。この「自分の心を真っ白にする」ということが、感情解放なのだ。演技しようと思っている自分を壊すこと。不安、羞恥心、過剰なプライド、功名心、優越感、劣等感などでがんじがらめに縛られた心を自由に解き放つこと。他の役者に対して、観客に対して、そして自分自身に対して心を開くこと。そして、そしてフリでなく、本当に心を動かすこと。これこそが感情解放なのだ。そのためには、まず恥を捨てることだ。バカになることだ。「失敗してもいいんだ」と腹をすえることだ。渥美清の寅さん、金八先生の武田鉄矢さん、西田敏行の浜ちゃん。決してカッコいい人ではない。この人たちは「カッコよくやろう」などと思わず、ただひたすら自分の心を動かしている。その潔いまでの徹し方が、僕らに「カッコいい」と思わせるのだ。演技というのは魔法だ。内面の輝きによって、いくらでもカッコよく、いくらでも美しくなれる。そのためには、意思と覚悟が必要だ。自分自身のカッコ悪い部分をさらけ出す。(成井豊のワークショップ 感情解放のためのレッスン 演劇ブック社 7ページ)これは森田でいうと2つのことに関係している。まず、自分の不安、恐怖、不快感、劣等感、欠点やミス、失敗をいつも白日の下にさらす勇気を持つ。人によく見られるために取り繕う、ウソをつく、見つからないように隠すということとは全く正反対です。そういえば寅さんや浜ちゃんは、そのものずばりです。事実を認めて、事実に従っています。失敗をネタにしてみんなを楽しませています。だからこそみんなに安心感を与え、周りに人が集まってきます。次に、最初の感じをとても大事にして、そこから出発していることです。森田理論学習でいう「純な心」から出発するということです。すると「かくあるべし」が入り込む余地が少なくなります。自由にのびのびと生きていくことができます。寅さんや浜ちゃんが心の病にかかるということは考えられません。我々の目指すことは、寅さんや浜ちゃんのように、まず自分の感情や気持ちを大事にする。そして次に相手の気持ちも大事にする。最終的には双方が譲り合って納得してともに楽しく生きていく。こういう方向だと思います。
2014.07.07
コメント(0)
大阪市立科学館に行ってきました。北区中之島にあります。梅田から近くです。ここのブラネタリュームは迫力満点でした。お勧めします。私が見たのは12時からのHAYABUSA(ハヤブサ)でした。小惑星イトカワの岩石を採取して地球に戻ってくるというものでした。 物語風に作ってあり、地球を前にして燃え尽きてしまうというのが悲しみを誘いました。それ以外にもいろんな展示物、実験施設があります。子供さんのおられる方は是非行って見られたらいかがでしょうか。
2014.07.06
コメント(2)
先日バイクで走行中、目の前に犬が飛び出てきました。危うくぶつかりそうになりました。とっさにハンドルを右に切って難は逃れたのですが、そこに道路の窪みがあり、もう少しで転倒しそうになりました。それを見て犬の飼い主はドジな人と思ってか、笑っているのです。私はそれを見て腹が立ってきました。そこで飼い主に、犬を連れて道路に出たときはしっかり手綱を持っていてくれませかと言いました。飼い主は、この人何言っているのだろうという感じで無視して歩いて行きました。私はその態度に益々腹が立ちました。でも後で考えてみると、これは「純な心」ではありませんでした。いわゆる初二念だと思いました。犬が急に飛びでて来てびっくりした。肝を冷やした。でもぶつからなくてよかった。またバイクで転倒して怪我をしなくてほんとによかったこれですよね。初一念は。ここから出発して、初二念は無視しないといけませんね。反省して次に活かしていきたいと思いました。
2014.07.06
コメント(0)
北京五輪では、日本のシンクロはさんざんの成績だった。1984年のロサンゼルス大会から6大会連続で全種目のメダルを獲得してきた。北京ではデュエットこそ鈴木・原田組が銅メダルを死守したが、チームは5位に終わった。優勝はロシア、2位スペイン、3位中国であった。井村雅代ヘッドコーチが率いる3位中国には大差をつけられ、カナダにも抜かれ5位に終わった。ここで注目すべきは、日本で優秀な指導者として知られていた井村氏が、中国のコーチであったことだ。本来は日本選手団のコーチとしてメタル獲得のために努力してしかるべき人が、中国のメタル獲得のために精力を注いでいたのだ。井村コーチの指導は中国の団体の銅メタル獲得に大いに貢献したことは間違いない。中国はもともと日本に対しては敵対心が強い。すべての面で日本に勝ちたいのだ。銅メタルをとって、「してやったり」という思いだろう。日本恐れるに足らず。我々のほうがもともと素質も技術も能力も上なのだという気持ちだろう。日本を応援している我々からしてみると釈然としない。嫌悪感を持つ。井村コーチは日本人なのになぜ中国のために尽くすのか。日本で培った高い技術や指導方法をなぜ勝手に持ち出すのか。そして日本人を不愉快にさせるのはけしからんというのである。これは個人の利益のために、日本の技術を海外の国に流失させて、日本企業を倒産や衰退に追いやっている裏切り者の技術者と同じではないか。裏切った人も、相手国が日本の技術、トレーニングや指導方法などのノウハウをものにしてしまうと即刻お払い箱になるのは目に見えていると思う。その結果我々日本人はみじめな気持ちになるだけではないのか。こんなことはプロ野球でもよくある。無名の選手だったのに、頭角を現すとフリーエージェントで他球団に移籍する、大リーグに挑戦する選手は後を絶たない。すると元の所属チームでは超一流選手なので、戦力低下が避けられない。すると負ける確率が高くなって、自分が不愉快な気持ちにさせられる。負けが込むとこんな感情を抱く。お前はもともと無名な選手だったのに私たちファンが応援してきた。我が球団に一から育てられた。そして超一流選手になったのだ。その恩を忘れたのか。けしからんやつだ。育ててもらった選手は一生一つの球団で骨をうずめるのが礼儀というものではないのか。それを目先の金に釣られて勝手に移籍するとはどういう了見だ。これらの事例は、自分たちや日本に不利益を与えて、不愉快にさせるので気にくわないのである。これは勝ちたい、勝って優越感を味わいたいという気持ちが強いからこそ出てくるものである。つまり負けず嫌いなのである。そういう生の欲望が強いからこそ、達成されない時に強い不安や不快感が出てくるのである。森田理論に立ち返って考えてみよう。森田理論の「欲望と不安」の相互関係を思い出してほしい。森田理論ではライバルがいるからこそ、自分が成長できるという。ライバルがいないと勝ちたいという気持ちがなくなり、積極的な意欲はわかない。自分の成長は止まり、現状に甘んじてしまう。その結果生きがいは持てなくなってしまうのだ。だから相手がどんどん強くなる。相対的に自分が弱くなる。これは生の欲望の強い人にとってはとても良いことなのだと思う。フィギアスケートの浅田真央もキムヨナも、お互いを意識して切磋琢磨したからこそ頂点に立てたのではないだろうか。だから相手に対して劣等感を持って、相手を批判してこき下ろす前にすることがある。劣等感を糧にして、生の欲望の2段ロケットに点火する。さらに努力、精進していくという態度が必要なのではなかろうか。森田先生は言われている。少々人からまぬけな奴だと思われてもいい。それでも他の人たちに役に立てる人間になる。そんな気持ちがなくなると自分がみじめになるだけである。
2014.07.05
コメント(0)
読者の皆さんがおられるおかげで、励みになり今日1000回の節目を迎えることができました。内容としては、不十分、間違っているものもあったかもしれません。どうぞご容赦ください。また、ブログの内容、レイアウト、投稿頻度、感想、訂正箇所など個人的にたくさんご指導していただいた皆さんに対して、とても感謝しています。ありがとうございました。批難、誹謗中傷は全くありませんでした。ありがたかったです。投稿にあたっては、きっかけとなるネタが必要です。自分の生活、他人の生活、世の中の出来事などを注意深く見てきました。また、ジャンルを問わず多くの本から、森田理論を深化させるヒントをもらいました。出どころを明記していないものもありましたが、改めてお詫びとお礼を申し上げます。今まで森田理論学習をしてきて約30年。20年目ぐらいまではよく分からなかった。それでも森田理論学習にかかわってきたのは、生活の発見会で世話活動という役割をしていたからだ。20年目ぐらいの時、「森田理論全体像」としてまとめ上げてから、森田理論がスッキリとしてきた。これを森田理論習得3か年計画としてテキストにまとめた。改定をして現在3冊作成している。これは知り合いの人には無償で配布した。さらに多くの神経症で悩んでおられる方に、そのエッセンスを伝えたいと思っていたが、方法は全く分からなかった。ところが、ある時参加している集談会でブログをやっている人がいた。人気のあるブログで毎日100人、多いときは1000人の閲覧者があるという。瞬間的にこれだと、閃いた。それが去年の1月5日だった。まだ1年6か月しかたっていないひよこなのである。でも反応は閲覧者数で敏感に感じることができた。森田を広めていく手ごたえを感じたのである。初めてみると、思わぬ副産物があった。自分が森田理論を深化できたのである。予想外だった。気がついていなかったことが、次から次へと学習できた。森田理論は掘れば掘るほど、さらに豊かな鉱脈が横たわっていることが分かった。5年間 2500投稿。10万アクセスを目標にしてゆきたいと思う。予定は半年前倒しで進んでいる。まあ、無理をしないで続けたい。多くの森田理論を知らない人に、学習のきっかけを与えることが念願である。今後ともよろしくお願いいたします。
2014.07.04
コメント(6)
マンションではよく騒音問題が起きる。小さい子どもが上の階にいると下には相当音が聞こえる。私が管理人をしているマンションでもある特定の人がいつも問題を起こしている。その人は年配の奥さんなのだが、外にほとんど出ることはない人である。上の階には5歳ぐらいを頭に3人の子どもがいる。多分部屋の中を走り回っていることだろう。うるさいとその奥さんは、長い箒の柄のようなもので、天井をコツコツと叩くのだそうだ。昼間だけではなく、夜も頻繁にコツコツと音を出す。するとその音は上の階だけではなく、下の階や隣近所にも響く。自分が騒音を出すことによって、多くの人がその奥さんに対して腹を立てるようになった。先日は警察官が出動する騒ぎになった。こうなると収束はとても難しい。双方が犬猿の仲になっているし、上の階の人は近所の人の支援を受けて対決姿勢を鮮明にしている。下の階の人は当初被害者だったのに、今は加害者として近隣の人に認知されている。孤立無援の状態である。今や管理会社、管理組合に対して上の階の騒音を止めさせてくれと毎日のように要請がある。上の階の人は味方をたくさん従えて聞く耳は持たない。先日は開放廊下で大喧嘩をしていたそうである。この先テレビでよくあるような殺傷事件に発展しないことを祈っている。これは最初のイライラした時が肝心だったと思う。その時、上の階に行って冷静に事情を話すのが基本だったと思う。騒音を出しているほうは、最初はどの程度の騒音が発生しているのか、あるいはどの程度迷惑をかけているのか気が付いていないのである。今まで一回もクレームの話がないと、この程度の音は許されているのだと誤解してしまう。だから自分の気持ちは相手に伝えなければならないのである。話すことによって相手が初めて気が付くことがある。耳障りなことを聞くことは誰でも嫌なものではあるが、長い目で見るとそれは自分を救ってくれている。その後相手が子供に注意する。部屋の防音対策を立てる。場合によっては、これはまずいと思って引っ越すことだって考えられる。まずは解決の第一歩を踏み出せるのだ。今回の場合は、年配の奥さんは長らくイライラしながらも我慢して、耐えていたのである。最初はマンションというのはお互い様だし、少々のことは大目にみようと考えていたのだろう。ところが、毎日のように騒音が繰り返されて、精神交互作用で怒りは最高潮に達した。そして相手がそういう態度なら仕返しをしてやろう。そうしないと腹の虫が収まらないという状態に発展してきた。これを森田理論で説明すると、最初にイライラしたという気持ちから出発すればよかったのである。その気持ちを相手に直接話す。この場合は私メッセージを活用してみる。相手に話すのが嫌なら家族でどうしたらよいか相談してみる。管理会社に相談してみる。理事会に議題として取り上げてもらう。マンションのトラブル解決窓口に相談してみる。などいろんな解決方法があったはずである。ところがこの奥さんは、我慢に我慢を重ねた末に大爆発を起こしたのである。最悪である。小さな怒りでも蓄積されれば、ダムの決壊を招く。私も人間関係で大爆発を起こしたことは過去に何回もある。その後の修復はほとんどの場合不可能であった。その人とは疎遠になり、さらにそれを見ていた人とも疎遠になってしまった。それでもよいという気持ちならばよいかもしれないが、そこから得るものは何もない。
2014.07.04
コメント(0)
2014年7月号の生活の発見誌に近藤章久先生の記事がある。近藤先生は久しぶりにスキーを始めた時、教習書を買ってきて一生懸命に読んだ。その中に外向外傾の説明があった。ところが実際にはなかなかできない。頭の中で本に書いてあることを思い浮かべ、ここではこういうふうに体を傾けると考えるのだが、途端にひっくり返るか、相も変わらず昔のやり方で強引に回ってしまうのである。次の年は先生についた。先生は理屈のことは言わずに形を教えてくれた。するといつの間にか外向外傾ができるようになった。同様のことは自分の専門である医学にもある。医学校では私たちは長い時間をかけて生理学とか、病理学とかの医学の理論を学ぶ。しかしそれで治療ができるかというと、そう簡単にはいかない。いざ患者に面して、診断しさらに治療方法を、ということになるとなかなか難しいのである。やはり経験ということが重要になってくる。自分を担当してくれている教授の診断や治療を見たり、自分自身でいろんな経験を積んでいく。するとしだいに、正しい診断でできて、治療方法も適切になるのである。私は森田理論を身に着けるために、森田理論習得3年計画をお勧めしている。1年、2年目は理論の学習である。1年目は基礎的学習である。神経症の成り立ち、性格特徴、感情の法則、行動の原則、認識の誤りなどの学習である。2年目は森田理論応用編の学習である。森田理論には4本の柱がある。生の欲望の発揮、不安の役割、認識の誤り、その中でも特に「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり、事実本位・物事本位である。それぞれを深く学習していく。次にその相互の関係を学習していく。そして3年目に入ると森田理論を生活に応用してみる。行動の原則、バランスのとり方、「純な心」などここに書ききれないほど生活に取り入れたいことは無限ある。その中から自分が取り組みやすいものを1つか2つ選ぶ。それを徹底していくことだ。私は一人一芸から入った。物そのものになりきる。物の性を尽くす。ということから入っていった人もいる。1つ2つを極めていくと、富士登山と一緒で登山口は違っても気がついたらみんな同じ頂上に立っていたという現象が起きる。するとうれしくなって山頂で祝杯をあげる。苦労してきた人同士すぐに打ち解けて話が弾むのである。
2014.07.03
コメント(0)
元オリンピック女子マラソンランナーの有森裕子さんの、「初めて自分で自分を褒めたいと思います」という言葉は2013年4月23日に投稿しました。この言葉を森田理論で再度検証してみたいと思います。自分で自分をほめるということは、自分の中に二人の自分がいるということです。一人は理想や目標を持っている自分がいる。もう一方は理想像からはかなりかけ離れた自分です。現実の自分です。二人の自分の間にはかなりのギャップがあります。有森さんはオリンピックでメタルをとりたいという目標に向かって、一歩一歩努力をかさねて階段を上りました。その結果としてアトランタ大会では銅メタルを獲得しました。その努力に対して「よくぞ幾多の困難を克服して目標に到達した。途中くじけることなく、生の欲望のままに努力で来た自分は、称賛してあげてもよいと思う。」目標を達成した今は、何とも言えない幸福と感動を味わっているという気持ちになっておられたことだろうと思う。この場合は目標を持った一人の自分が、現実で苦労しているもう一方の自分にいつも寄り添い、励ましてサポートをしている状態にあります。生の欲望の発揮に合致している関係です。理想的な関係にあります。ところが、往々にして二人の自分という場合、一人が「かくあるべし」を持つ人間で、もう一方が現実でのたうち回っているという関係に陥ります。この場合は大きな問題が起こります。もし有森さんがそういう二人の自分を抱えていたとしたら、メタルを獲得することはできなかったのではないかと思います。常に「かくあるべし」を持った自分が、現実で物足りない、成績の伸びない自分を叱責しているからです。オリンピックでメタルを逃すような自分であってはいけない。メタルを逃すと世間に顔向けできない。生きて日本に帰ることはできない。などと自分を追い込んでいくと、自己嫌悪、自己否定感が出てきます。そうなると自己内省化が起こり、相手と戦う前に自分との戦いに終始するようになります。ほとんど勝ち目がなくなってしまいます。一般の社会でも、「必ず○○大学に合格しなければならない」「今月の売り上げ目標は100%必達させなくてはならない」「新規事業は必ず成功させなければならない」などという目標を掲げることがあります。でも現実に有名大学に合格する人はごく一部です。また、会社でもノルマを常にクリアーしていく営業マンはごく一部です。まして新規事業ともなれば成功率はかなり落ちます。大部分の人は目標が達成できずに悶々とした人生を生きているのです。その時批判の刃が自分に向けられると大変なことになります。戦争のとき、命を危険にさらして、最前線で相手と戦っているとします。それなのに後ろにいる上官が、もっと前に出て攻撃しろと拳銃で脅しているようなものです。二人の自分の関係は現実の自分に寄り添うのか、突き放してしまうのか。その後の展開は全く違ってきます。森田理論学習の過程で、その関係がスッキリと理解されてきます。ここはしっかりと理解したいところです。
2014.07.03
コメント(0)
2014年7月号の生活の発見誌より雑感を投稿します。明治大学の三好真人氏が「若者アンケート」の取りまとめを載せておられる。いろいろと考えさせられることが多かった。・集談会に若い同年代の人が少ない。これが、一番気がかりなところです。若い方に支持されないと森田の将来はありません。私はブログで森田の素晴らしさを紹介し続ける活動をしてゆきたいと思っております。・ベテラン会員は指導やアドバイスをするよりも、もっと苦しかった体験談をしゃべってほしい。森田理論は基本的には参加した人が自らつかみ取っていくものです。ベテラン会員は居心地の良い学習空間、環境を整えるぐらいでよいのかもしれません。若い方のリピート参加を高めることに注力したいものです。・生活の発見会は外から見れば「宗教団体」「病んでいる人の集まり」のようにマイナスイメージがある。そういえば私もこんな体験がありました。参加した人が「生活の発見」というのは日常の生活にすぐに応用できる生活の知恵、工夫例をいろいろと教えてくれるところかと思いました。拍子ぬけしました。会場入り口の案内に「生活の発見会」と書いていますが、「森田理論学習の集いです」などの副題が必要かもしれません。・会計、組織活動が明確でない。会費が確か1万円以上はかかります。これは生活の発見誌の発行、事務所経費、運営経費、広報、各種学習会などに使われています。集談会で徴収される500円から1000円の参加費は、会場代、茶菓子代、派遣講師の交通費代、イベント開催費用、集談会の運営費用に使われています。・支部やブロックは何のために必要か。集談会は固定メンバーで運営していますのでマンネリになったり、会自体が硬直化してきます。ブロック活動や支部活動は集談会を横に広げていく活動です。この活動で集談会が活性化してくると思っています。また人的交流の意味も大いにあります。支部活動は10から15以上の集談会が集まっての活動です。年に1回の一泊しての支部研修会はとても良い交流になります。また派遣講師はこの支部委員の中から調達しています。ブロック活動、支部活動がないと集談会の学習活動は衰退してくると思います。・増やすことを考えるより、ベテラン会員が減らない方法を考えるべきでは。若い方でも森田に感謝して、なんとか生活の発見会が生き残ってほしいという強い熱意を感じました。私の考えは、神経質者1000万人、社会不安障害300万人といわれています。ということは魚釣りに行って、そこら中に大きな魚がうようよ泳いでいる社会の状況にあります。きちんとしたやり方で、森田理論学習の素晴らしさを伝えられれば3万人から10万人の会になる可能性は十分あります。仮に最悪6000人から1万人の会員としても、森田理論学習のたいまつは後世に脈々と伝えていくことでできます。既成の概念を打ち破って、新しい発想で森田理論の効用を広報していく必要があると思っています。そのためには我々が森田理論学習の方法を確立して、森田理論を応用して生活しているということが必要だと思います。森田理論学習が役に立つという認識を持ってもらうことが先決だと思います。
2014.07.02
コメント(4)
不安、恐怖、不快な感情の対応について考えてみました。まず不安、恐怖、不快感は、我慢を続けているとどんどんたまり続けてきます。自然に消えてなくなるというよりは、蓄積され大きく育っていくケースが多いのです。ごみや便秘でもそうですが、有害物の蓄積は心身ともによくありません。どこかで解放させて楽にしてあげることが必要です。よく腹の立つことがあって、我慢に我慢を重ねていたのに、堪忍袋の緒が切れて大爆発することがあります。これは、大爆発することによって、一時的にたまっていたひずみが解放されるので楽になるのです。しかし、そのようなやり方では後々まで遺恨を残してしまいます。だから不満は、できるだけ小さいうちに、その都度処理することが大切です。親業でいう受容と共感的聞き方、私メッセージ、勝負なし法を学ぶのは、このことと関連しています。イッセー尾形の一人芝居を演出している森田雄三氏は、こんな面白い提案をしています。深刻な声で相手の悪口をいうのはいただけません。これを誇張して、うそを交えて話すようにすると、注意が話の工夫のほうに少し向きます。ユーモアも加わってきます。これは言葉を変えれば無責任に話すということです。この頃合いを会得すると、人間関係がスムーズになります。たとえば、「うちの課長は怒ると頭から湯気を出すんですよ」「彼が笑うと唾が飛んできて、吸ってたタバコの火が消えました」「近所のおばちゃんが笑うと、口の中は金銀パールの詰まった宝石箱のようなんですよ」「ねちねちと怒る部長の大きなくちびるを見ていると、激辛の明太子を食べたくなるんですよ」怒りをネタにして、みんなの喜ぶようなユーモアに変える。そうして、怒りを解放させてやるというのはとても素晴らしいと思います。怒りに向いていた注意が話の構成に移りますし、周りの人も喜んでくれます。川柳やユーモア小話のよいところは、意識が創作意欲を刺激して、怒りの解放にとても役立つことです。森田理論学習でも取り上げて作品を披露しあうことはよいことです。それともう一つ、吐き出す相手を間違えてはいけません。本人を前にして吐き出すのは芸がない。田舎のお母さんや、たまにしか合わない同級生、以前勤めていた会社の同僚。酒場のマスター、おでん屋のおばちゃんなどなど。要は話を聞き流してくれる人だ。つまり受容して共感してくれる人に話すことだ。それも真剣になって聞かずに、何かをしながら軽く受け流してくれる人がいいのだ。横綱格は、居酒屋を切り盛りしているおかみさん。藤原紀香のCMにありました。「ふん、ふん、それでどうしたん」と軽く聞き流してくれるような人が一番です。くれぐれも相手と勝負をするのではなく、怒りを吐き出すことが目的なのだということをお忘れなく。
2014.07.02
コメント(0)
フロイトは「理性によって本能、欲求、感情などを抑え、我慢して生きることによってストレスが蓄積され、それがノイローゼやヒステリーをつくる。さらに深く進行すると、精神分裂的な症状となって現れる」と言っています。フロイトは、感じの発生を意志の力で抑圧し、否定し、我慢して耐える生き方に警鐘を鳴らしています。これは森田理論で言っていることと同じです。間違っても大脳新皮質の理性から出発してはならない。常に大脳旧皮質の感情、五感の感覚、自分の気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意思、望みを優先させる。間違いのない自然な生き方をするためには欠かすことができません。まずこのことをしっかりと理解することが重要です。その次に理性を使って行き過ぎを制御していくのです。森田理論で言う精神拮抗作用の活用です。人間にはある欲望が起きると、反対の考えが沸き起こってくるようにできているのです。もともとすべての人間に備わった機能です。ところが、これが機能不全に陥っている人がいます。多かれ少なかれ、多くの人がそうかもしれません。一旦機能不全に陥ると、元に戻すことはとても困難です。そうなる原因としては、子どもの育て方、習慣、気質などいろいろあります。そういう人は、できることというと自覚を深めるしかありません。自覚を深めて、せめて社会生活に支障のない程度に手を打つのです。用心しながら生きていくのです。これはバランスはとれない自分を十分に自覚することによって、結果的にはバランスのとれた生き方をしていることになるのです。これで十分に社会に適応することができます。自己破滅、自己崩壊を防ぐことができます。ですから生の欲望の暴走が止まらない人。あるいは、反対に不安や恐怖に押しつぶされてしまっている人。森田理論の精神拮抗作用、バランス感覚、調和のとれた生き方、両面観の学習を深める必要があります。そして、さらに意識付けとして、「やじろべい」を目につくところにおいてみてください。きっと自覚が深まり、本来人間に備わっているバランス感覚が体で表現できるようになるでしょう。
2014.07.01
コメント(0)
全42件 (42件中 1-42件目)
1