全37件 (37件中 1-37件目)
1
生活の発見誌2014年8月号の40ページより引用です。茸狩り名人の石黒文一さんの毒キノコの見分け方の話が紹介されている。いろいろ茸についての図鑑があっても実際にはアテにはならないそうです。結局何にも頼らないで、最後には自分自身で体験する。つまり食べてみなければわからないということです。しかし食べても毒キノコだったら、生命にかかわります。そこで石黒さんは、いい匂いだなと思えば持って帰るし、嫌な匂いだったら捨てるのだといわれます。生命にかかわることを、五感の一つである匂いを信頼して決められているわけです。普通の人だったら警戒して食べないキノコでも平気で食べることができるのです。多分匂いという感覚が鋭いのかもしれません。匂うという感覚を鍛え上げて鋭くされたのかもしれません。いわば麻薬犬並の嗅覚を身につけられたのでしょう。こういう例は障害者によく現れます。世界的ピアニストの辻井伸行さんは目が見えませんが、聴力は高度に発達しています。一度聴いた曲は正確に演奏できる能力があります。普通我々人間は見ることが中心で、聞く、匂う、味わう、触れる、直感力などは、ともすると軽視しがちです。そして人間の進化の過程で五感はどんどんと低下しているのかもしれません。この文章を書かれた近藤章久氏は次のように言われています。普通、五感を軽視して、頭の判断で決める場合はたいてい、そこに何らかの不安が残ったり、無理があったりするものです。それというのも、損得の計算があったりするからです。その点、内部感覚は生命と直結していますから、純粋で矛盾がなく、自然で統一されています。ですから、それに従って決めると安心して確信が持てますので、悔いが残りません。その結果、日常生活ものびのびと安心して、しかも生き生きと生きられるようになるのです。この話から学ぶことは、人間にとって大切なのは五感で感じた感じだと思います。五感を信頼する。五感を優先する。そこを出発点にして行動実践すれば間違いがないのです。しかし、ともすれば理性で判断したことを出発点にしてしまいます。理性というのは大脳の前頭前野です。価値判断、思考・思索の中枢です。人間にとって大切なものです。しかし、それがいつも前面に出ることはまずいいことです。森田理論では理知本位といいます。それは思想の矛盾を招いてしまいます。神経症などの葛藤を生み出す大きな原因となっている。まずは森田理論で学習して自覚を深めていくことが大切だと思います。
2014.08.31
コメント(0)
「共依存」という言葉は知っておられる方もおられると思います。共依存は主に親子、夫婦の間に発生します。親子の場合は自分たち夫婦の両親、そして自分たち夫婦の子どもの場合があります。身近にいる家族で自分を困らせたり、心配をかけたりする人がいるとします。そういう人にたいして世話をしたり、面倒をみることを生きがいにしている人が一方の当事者です。アルコール依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症、浪費癖、ひきこもり、不登校、家庭内暴力、摂食障害、受験を控えた子ども、介護の必要な両親などは格好のもう一方の相手となります。かいがいしく世話をしているので、一見すると家族思いの豊かな愛情と間違います。実態はそうではありません。愛情という名を借りて相手を思うように支配しているのです。森田理論でいう「かくあるべし」を押し付けて、相手を意のままに操ろうとしているのです。おせっかいをする人の大きな特徴は、自分の人生を生きていこうとしていないのです。森田でいうところの生の欲望を持っているわけではありません。一方にそういうものを持って、なおかつ思いやりの精神で世話をしているのではない。つまり人生は退屈でつまらないなと思っていたところに、運よく格好の生きがいを見つけたというようなものです。家族の世話をする。とことん面倒を見る。家族を悪から正しい道に導こうとしている。それ自体が唯一の生きがいになっており、それは少なくとも自己犠牲の上に成り立っています。だから将来自己犠牲が相手から感謝されない、充分に報われないということになるとすぐに反撃したり、自由放任で放り投げてしまうのです。一方、依存してしまった人は、もっと悲惨な人生が待っています。つまり自分が自分でなすべきことを、共依存の相手が世話をして、面倒を見てくれることによって、自分の一人で生きていく力がどんどん吸い取られてしまうのです。世話をされる、面倒を見てもらえるというのは、一見こんなに楽なことはありません。甘い蜜のようなものです。しかしそれと引き換えに、苦労したり、失敗を経験したり、能力を獲得したり、成功して自信を得たりする機会は持てなくなってしまいます。そして、いつか依存関係が崩れた時、自立するための心や体力・気力は骨抜きにされていて、自信もなく不安や恐怖に押しつぶされてしまうのです。目も当てなれない悲惨な人生が待っているのです。これは強迫神経症の原因となっています。アダルトチルドレンという言葉があります。親の育て方が悪かったために、今現在自分が世の中に適応できなくなった。親が果たすべき役割を放棄したために、自分は生きづらさを抱えて苦しんでいるのだ。つまり今の苦しみは機能不全に陥った両親の責任であると思っている人のことです。私はアダルトチルドレンの一つの原因は、実はこの「共依存」ではないのかと思っています。共依存は依存する人もされる人も、将来に希望につながるものは何もありません。では共依存関係から抜け出すためにはどうしたらよいのでしょうか。それは世話をしたり、面倒を見ている人が、かかわりを止めることです。苦しいでしょうが、一歩引いて愛情を持って見守ること、相手が自ら立ち上がるのを辛抱強く待ってあげることです。それが相手のためにもなり、自分のためにもなります。実はこれは森田理論学習の主要なテーマとなっています。森田的生き方は共依存的生き方を否定しています。つまり共依存関係にある双方とも、それぞれに自分の生の欲望を見つけて、大切にして一日一日を生きていくことをめざしています。それぞれが運命を切り開いていく生き方を目指しているのです。
2014.08.30
コメント(0)
森田正馬全集5巻676ページより引用します。亀谷氏があるノンダクレの男に、いくら飲むなといっても聞かないので、やり方を変えて「少々飲んだっていいじゃないか。今日は思い切って飲んだらどうだ」と毎日勧めた。すると気がとがめると見えて、一週間ばかり一日も飲みませんでした。自分でも飲んではいけないと思いながら、飲まずにおれないので、飲むなというとなおさら飲みたくなるのですね。大変面白い話です。これに対して森田先生の言葉。酒を飲みたいと思えば、飲んでは悪いと考え、飲んではならないと考えると、ますます飲みたい、飲みたいという心が起きる。この欲望と抑制の反対の心は、我々の心に常に発動するものであって、私はこれを精神拮抗作用となづけている。これは引力と斥力とのようなもので、一方が強ければ、その反対の力も同じ強さで働くようになるものである。この自然の欲望に対して、ことさら反抗しようとするのが、強迫観念の性質であります。全くその通りですね、私はこの精神拮抗作用については、よく学習して生活面の指針として応用していくことは大変重要であると思っています。意識付けとして、机の上に「やじろべい」を置いておくことも提案してきました。しかし老婆心ながら申し上げると、これは基本であり、原則です。法律には原則というと必ず例外規定というものがあります。こういうことも学習しないといけないと思います。たとえばアルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存、性犯罪者の人を見てみてください。そんなことを繰り返してはいけないということは、みんな十分に分かっています。覚せい剤使用のASKA被告のように分かっていても手が出てしまう。自分の意志だけではどうにもならない人たちなのです。その人たちは、そういうことを繰り返すことによって、脳の快楽中枢のA10神経にその時の快感がすっかり刷り込まれているのです。つまり常習者ということです。それなしでは生きていけないのです。自分一人ではどうにもならない。自然に体が反応してしまう。だから、精神拮抗作用でバランスをとる、調整するといっても、自分が苦しんでいるその部分では、制御不能に落ち込んでいるのです。いわばブレーキが故障している状態にあります。アクセルとブレーキのバランスとるということがどだい不可能な状態です。だから、そういう人たちには、強制的にそういうものから遠ざけるということが必要です。あるいは回復のための専門医の治療が必要だと思います。そうした自助グループへの参加が効果的です。やみくもに森田の原則を応用すると、バランス感覚を失っている人にとっては、反発を招くだけになってしまいます。依存症に陥った人も適切な処置を経て回復していくことはできます。この点は是非充分に注意していただきたいと思います。そうでないと、その人たちに私たちの「かくあるべし」を押し付けてしまうのです。
2014.08.29
コメント(0)
横浜国立大学の名誉教授が、妻にマグカップで頭を殴られて殺される事件があった。最近テレビを見ていたら、夫とは同じ墓には入りたくないという人が何人も登場していた。集談会でも夫婦の亀裂が大きくもはや修復不可能ではないかと思われる人が何人かいる。どうもこの世の中夫婦関係がぎくしゃくしている人は案外多いようである。長い間の行き違いが歳を重ねてどんどん大きくなってきたのである。本来心を癒すはずの家庭がこんな状態では、人生味気ないばかりではなかろうか。そうかといって老後の生活費用の関係もあり、簡単には離婚できそうもない。つまり腐れ縁でつながっているだけである。せっかく縁があって知り合ったにもかかわらず、今やお互いに顔を見るのもいや。やることなすことすべてが気に入らない。家庭内別居の状態で実に味気ない生活である。特に老後、このような孤立に追いやられることはとてもさみしいことである。私の知り合いは、定年後夫は田舎で農業をし、奥さんは街中で一人暮らし。ほとんど別れて暮らしている人もいる。そうしないといつも喧嘩ばかりするという。こういう人は、他の人との人間関係はうまくいっているのだろうか。私は問題をたくさん抱えているのではないかと思う。つまりそういう人は、森田でいう「かくあるべし」が強く、相手を自分の思いのままに支配しようとする。支配できないと暴力やありったけの罵詈雑言を繰り返す。これでは夫婦関係は壊れてゆくばかりである。森田では人間関係については、不即不離という。不即不離というのは、引っ付きすぎず離れすぎず適当な距離を保つことを言う。これを発展させて考えると、夫婦はお互いにバランス感覚を磨かなくてはいけないのである。お互いに言いたいことを言い合うのは大変よろしい。これを夫婦喧嘩という人がいるが、私はそうは思わない。お互いに自己主張をしているのである。そしてどこですれ違いを起こしているのか問題点をあぶり出しているのである。これを片方が耐えたり我慢したりしていると、そのうち破綻する。ため込まないうちに、自分の気持ち、意思をしっかりと述べ合うことはよいことだと思う。これにはコツがあり、小さいうちに吐き出してしまうことがお勧めだ。そして非難、指示、脅迫ではなく、「純な心」を応用した私メッセージとして言い合うことだ。現実には、なんとか相手をねじ伏せようとする人が実に多い。自分の言っていることはすべて正しい。相手に有無を言わせず、自分の意見に従わせようとするのである。これは幼児が、その時々の気分のままにわめき散らすのと何ら変わりがない。我々は大人なんですから、相手の意見も聞かなくてはならない。そしてお互いの落としどころを探す努力をするべきである。バランスを意識することです。どちらかに偏りすぎてはいけない。もし今回自分の意見を通すと、次回は相手に花を持たせてあげないといけない。多分人間関係がうまくいっていない人は、この調整作業の手を抜いているのではなかろうか。常に食い違いが存在する。食い違いは、相手の言い分もよく聞いて妥協していかないといけない。必ず調和を求めて付き合わないと、すぐにバランスを崩してしまう。バランスが崩れるということは、自らの存在自体を危うくするものです。気を付けたいものです。
2014.08.28
コメント(0)
脳の働きでもう一つ知っておいてほしいことがあります。意識と無意識についてです。人間は身体を動かす場合、意識して動かしている場合と無意識に動いている場合があります。意識して身体を動かす場合は、大脳新皮質の前頭葉を使っています。無意識で身体を動かす場合は前頭葉を経由していません。だから、これは意識化された行動ではありません。これには2つあります。まずは自律神経系の動きです。自律神経の司令塔は視床下部にあります。呼吸、心臓、消化器、ホルモンの動きなどは、我々の意志とは無関係に、視床下部から指示・命令が出されて、心臓や内臓などが適切に動いています。交感神経と副交感神経という2つの神経がバランスをとって機能しています。このバランスは免疫系にも大きな影響を与えていることはすでに投稿しております。それと、もう一つ無意識に身体を動かしている場合があります。例えば箸を上手に使う。ブレーキを踏んだりアクセルをふかしたり、方向指示器を適切に操作しながら車の運転をする。手の動き、足の動きを気にしなくてもプールの中で上手にクロールができる。倒れないで上手に自転車の運転ができる。指使いを間違わないでピアノなどの楽器の演奏ができる。これらは意識して身体を動かしているわけではありません。うまくできるようになると無意識に体が動いています。つまり前頭葉を経由していないのです。どうなっているのでしょうか。これは技術習得の記憶回路が関係しています。技術習得の記憶には3つの部署が関係しています。大脳基底核、小脳、大脳新皮質の運動野です。大脳基底核は脳が体の筋肉を動かしたり、止めたりするような大まかな動きを担当しています。小脳は筋肉の動きを細かく調整してスムーズに動かすために働いています。これらは連携をとって働いています。そして最終的には大脳新皮質の運動野から、前頭葉を経由しないで指示・命令が出されているのです。大脳新皮質の運動野は脳の上部にあります。前頭前野にはありません。これらが間違いなくスムーズに機能するためには、技術の習得のための努力が必要です。何回も繰り返して技術を磨き、自分のものにすることが必要です。でも一旦自分のものにしてしまうと、めったに忘れることはありません。たとえば自転車を乗りこなすようになった人が、10年経っても忘れることがないは体が覚えているからです。そういう特徴があるのです。ここで注意することがあります。スポーツなどで、練習では完璧にできるのに、本番で思ったような成績を上げることができない人がいます。これは本来無意識で淡々とこなすことができれば問題ないのですが、意識がしゃしゃり出てくるのです。少しでも不安があると、前頭前野がおせっかいをし始めるのです。特に神経質者の場合は心配症ですから、多少の不安があるとすぐに無意識の指示命令の回路に、前頭前野が割り込んでくるのです。おせっかいを始めるのです。それはあたかも過保護の親が、本来子供が自分ですることに口を出したり、手足を出して子供に成り代わってやってしまうようなものなのです。私はアルトサックスをしているのでそのことがよく分かるのです。120%の練習をした後は、思い切って無意識の回路に任せる。これは難しいことですが、とても大切なのです。楽譜を見なくても指がひとりでに間違いなくキーを抑えている。そういう状態に持っていくことが大切なのです。無意識を信頼する。信頼できないうちは観客の前で演奏してはいけない。信頼できるまで何回も練習を繰り返す。これが楽器演奏の極意なのです。絶対に意識、つまり前頭前野が割り込んできてはいけないのです。これはイチロー選手を見ているととてもよく感じることです。この脳の仕組みを知っておくと、とても安心感が持てます。
2014.08.27
コメント(0)
2つ目。では大きな犬が目の前に現れて吠えてきた場合はどうでしょうか。この場合は大脳新皮質の前頭前野が働きます。前頭前野は人間と動物ではその大きさ役割が大きく違います。前頭前野はまず、目の前の出来事に対して、状況の確認、把握をします。そして逃げた方が良いのか、闘ったほうがよいのか、あるいは棒切れで追い払ったほうがよいのか即座に状況判断を行い、比較、検討して結論を出しています。その際この長期記憶を活用します。検討するに際して有力な材料なります。そして総合的に判断します。その場に即した一番良い方法を提示できれば問題は起きません。不安に学び、不安を活かすことになります。ところが神経症の人はここで問題を起こすことが多いのです。それは一つには長期記憶に頼ってしまうことです。事実の把握をしないで、不快な感情である長期記憶だけで対応方法の結論を出してしまうのです。小さい時に犬に噛まれたことがある。あるいは襲われたことがある。そういう恐怖の体験は長期記憶として貯蔵されています。それに全面的に依存しているとどうなるか。現実をじっくりとみることをしなくなります。今は身体も大きくなり、昔の小さかった自分ではない。知恵もついてきている。その自分が目の前の犬に対しているのである。力関係からしてなんとかなりそうだという場合は増えているはずです。それなのに昔蓄えた長期記憶に振り回されているのです。こんな場合怯えて犬を見ないようにしているのです。これは森田理論学習でいう気分本位な態度です。大きな問題は事実を見ていないことです。これでは容易に注意が自己内省的に働き、自己嫌悪、自己否定につながります。2番目の対応としては、長期記憶を無くしようとすることです。長期記憶は嫌なつらい記憶ですから、犬と対決する前に、その長期記憶自体を無くそうと悪戦苦闘するようになるのです。目的外の行動に走ってしまうのです。そうしないと自分が不安に押しつぶされてしまうのではないかと思うのです。手段の自己目的化に陥っています。これは本末転倒です。強迫神経症に陥る人の典型例です。3番目には前頭前野だけで対応しようとするのです。理性だけで対応しようとするのです。せっかくの判断材料を無視するのです。そして観念の世界だけで、対応策を立てるのです。この場合も事実を見ていません。事実と観念は通常大きくかい離しています。森田でいうと思想の矛盾に苦しむことになるのです。この場合はもっとひどい強迫神経症に陥ります。森田理論学習はこうした脳科学の面から解説するとさらに分かりやすくなります。(脳の事典 成美堂出版参照)
2014.08.26
コメント(0)
神経症の人は不安、恐怖、不快な感情にとらわれて、日常生活に悪影響が出ています。それは現代の進化した脳科学ではどう説明されているのかを見てみたいと思います。これは森田先生が生きておられた時代では分からなかったことです。まず、五感で感じた不安、恐怖、不快な感情は大脳新皮質で処理された後、大脳旧皮質にある「扁桃体」に送られます。扁桃体は不安、恐怖、不快な感情、喜び、快感等を扱う司令塔です。それはさながら各省庁が集まっている霞が関を連想させます。伝達はドパミン等の神経伝達物質を使って行われています。喜び、快感は報酬系神経であるA10神経や淡蒼球などに送られます。快を伴うので積極性・やる気が出てきます。やりすぎは依存症に陥ります。薬物依存、アルコール依存、セックス依存症などです。不安、恐怖、不快な感情などは主に「海馬」に送られます。海馬はすべての記憶を司る器官です。しかし海馬自体は、短期記憶は関係していますが、長期記憶にかかわっていません。そういう情報を整理して、長期記憶の対象は大脳新皮質の側頭葉などに送り込んでいるのです。長期記憶は大脳新皮質で貯蔵されているのです。短期記憶は使用後すぐに消去されます。ここで問題となるのは、海馬はどのようにして、不安などの感情を短期記憶、長期記憶として区分しているのかということです。これについては、長期記憶として分類されるものは、まず命にかかわるようなもの、自分の一生に影響を与えるようなインパクトの強い刺激です。また何度も繰り返して刺激を受けると短期記憶から、長期記憶に分類されてしまいます。忘れてもいいような取り越し苦労を継続して刺激していると、短期記憶から長期記憶に格上げされて大脳新皮質に送り込まれるのです。また、わずかな不安に敏感に鋭く反応する神経質傾向のある人も、長期記憶を増やしてしまいます。次に長期記憶として蓄えられた情報が、同じような不安などに直面した場合に、どのように取り出されて利用されているのか。2つのルートがあります。まず一つ目。これには海馬が関係しています。海馬は必要な時に必要な情報を瞬時に取り出し、対応を指示する役目も負っています。たとえば、車を運転しているとき、人が飛び出してきた。とっさにハンドルを操作したり、ブレーキをかけるなどの指示は海馬が行っています。
2014.08.26
コメント(0)
大阪の淀川の病院で、40年で2500人の人の最後をみとった柏木哲夫医師がいる。死が近づいている患者さんが、柏木医師にこんな話をされたという。看護師さんは、検温や点滴、様子を見るために患者さんのところへ行く。その看護師さんでも、二通りいる。一つには、病室に入ってくると本当に傍らにいてほっとして気が安らぐ看護師さんがいる。そういう看護師さんが来るとうれしい。ところがもう一方で、病室に入ってきても、心がそこに入ってきていない人がいる。「おかげんはどうですか」といっても、心は部屋の外にいるままなのである。外見では何も変わったところはないのですが、その人の心がどこにあるのか。人生の最期を迎えて、立ち上がることができない人にとっては、本当によく分かるのだそうです。これは森田理論でいうと、仕事だから生活のために仕方なくやっている人と、相手の立場にたって今一歩踏み込んでいる人の違いです。森田学習をしている者にとって、見過ごすことのできない問題です。森田では、行動・実践は今一歩踏み込むことの大切さを教えてくれています。それは物そのものになりきるということです。最初は気が進まない、やる気が起こらなくたってよい。まず少しだけやってみる。嫌になったらすぐに止めてもよい。そして別のことに目を向けていけばよい。というふうに森田理論学習では言う。しかし仕事ではそうはいかないこともある。生活費を稼ぐために嫌なことでもやらなければいけない。その際、いやだ、いやだ、なんでこんなことをしなければいけないのかと思うと苦痛である。でも不思議なことにイヤイヤやっているうちに、つい夢中になって時間がたつのを忘れていた、という体験は誰にでもある。そしていやいややっている中に、発見したこと、気づいたことが出てきた。さらに改善点、工夫点が出てきた。それらに手を付けてみる。うまくいくとうれしい。次第に小さな成功体験を積み重ねて、自信も出て来て、意欲が高まってきた。さらに積極的、建設的、創造的な行動ができるようになった。これは自分で気が付かないうちに物そのものになりきっているのです。物そのものになりきると行動・実践は喜びへと変わる。物そのものにならないと、指示、命令、強制でやらされている状態となる。自己実現の道は閉ざされて、仕事は苦痛そのものである。それは紙一重のところである。普通の人はよく分からないかもしれない。ところが寝たきりの病気の人にとっては、やさしい人かそうでない人か雲泥の差として認識されていたのである。
2014.08.25
コメント(0)
このたびのワールドサッカーブラジル大会で、日本人が試合に負けたにもかかわらずゴミ拾いをしていたというのが話題になりました。しかし国内では空き缶や食べ終わった弁当などのごみを平気で車外に捨てる人がいます。タバコの吸い殻を道端に捨てる人もいます。ガムをかんだあとそのまま吐き捨てる人もいます。テレビや冷蔵庫など電気店に引き取ってもらうとリサイクル料を取られるので山に捨てに行く人がいます。富士山は世界遺産ですがある人に言わせるとゴミの山だといいます。エベレストも日本人登山家の残したごみでいっぱいだそうです。アルピニストの野口健さんは、富士山、エベレストの清掃活動に取り組んでいるそうです。この違いは何でしょうか。私は自己内省力があるのか無いのかの違いだと思います。ごみを捨てることに対して胸が痛む。罪悪感が湧き上がる。そういう気持ちになる人はごみを必ず持ち帰ります。テレビや冷蔵庫はリサイクル料を払って引き取ってもらいます。実は、自己内省力というのは、森田理論が役に立つ人かどうかを見極めるうえで大切な要素となります。生の欲望が強いかどうかとともに、自己内省力が強いというのが森田適応者となります。またこの自己内省力は、後から身に着けようとしても決して身に着けられるものではありません。これが大きな特徴です。自己内省力は両面観でみていく必要があります。本質的には欠点、弱点、ミス、失敗などがあると責任を外部に求めていいわけをする人ではありません。自己分析をして自分に落ち度があったのではないか、何か自分のやり方に問題があったのでないかと納得するまで考えられる人です。他人に責任転嫁をしないで、自らを変革する力を内包しているのです。自己内省力を活かせば、何事も細かく分析して本質に迫ることができるのです。世の中のために大いに役立つ資質です。しかしこれが度を過ぎると、すぐに不快なことから逃避したり、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまうのです。そして無気力になり、人を避けるようになります。これは行き過ぎです。神経質の性格特徴では自己内省というのが出てきます。自己内省というのはそれ自体素晴らしい性格ですが、行き過ぎは自分を苦しめるものだということをしっかり学習していただきたいと思います。
2014.08.24
コメント(0)
東日本大震災後に「絆」(きずな)という言葉がよく聞かれた。「絆」という言葉は、親子の「絆」、地域の「絆」などといわれるように、人と人を離れがたくしている縁、結びつき、つながり、宿命などのことを指している。未曽有の自然災害に見舞われても、「絆」を活かして、みんなで協力して、助け合い、みんな一緒に以前のような生活を取り戻しましょうということです。一人ではたいしたことはできない。みんなの力、知恵を結集しましょうということです。ところがこの「絆」という言葉は、もともと別の意味でした。平安時代には、犬や馬などを通りがかりの木などにつないでおく綱のことを指していました。読み方は「ほだし」でした。その綱は犬や馬の自由を束縛し拘束しています。これを人間にあてはめてみると、親や家族、親せき、近所、国家権力が、自分の気持ち、意思、希望を抑圧して、自由な行動に制限を加えていく。たとえば自分は小説家になりたいと思っても、それをあきらめて家業を継がせていく。自分自身も自分の「絆」にとらわれて、不本意ながら運命に従って進路を決めていく。つまり自由に好き勝手に生きることができない。運命に翻弄されて生きづらいように思えます。これに関係ある話が、森田先生が書かれた「神経衰弱と強迫観念の根治法」に出てくる。212ページから241ページに記載がある。根岸君という20歳の学生である。赤面恐怖症であった。根岸君は房総半島の農家で日常生活(作業療法)しながら、森田先生から通信治療を受けられた。根岸君はもともと文学で身を立てたいと思っていた。これに対して森田先生は、「あなたは芸術品を鑑別する力はありますか」「文学をやったからとて、必ずしも真の詩人にはなれない」といわれている。根岸君は農作業をして、農家の人と付き合う中ではっと気づいた。私は芸術という仮面をかぶって、赤面恐怖の弱い自分をごまかしていたのだ。神経症から逃げることを考えていたのだ。それに気が付いて父親に手紙を書いた。「私の赤面恐怖はすっかり治りました。これからはお父さんの望む通り商業への道に進みます。」森田先生は根岸君を、なぜ芸術の方面に発展させる方向をとられなかったのか。森田先生は赤面恐怖症を治すという意味では、具体的、実際的でなくてはならないといわれています。現実、事実から離れて、観念の世界にどっぷりと浸かってはならないということを言われている。森田理論学習というのは逃避する、観念の世界に遊ぶということを嫌います。反対に境遇に従順になり、運命を切り開いていく。制限され、自由がきかない中で精一杯生きていく。具体的である、実際家であるということを重んじている考え方なのだと思います。
2014.08.23
コメント(0)
中野浩一氏はかって世界自転車選手権のトラックプロスプリント部門で10連覇した。1977年から1986年のことである。22歳から31歳の時である。この中で1986年は最大のピンチに見舞われていた。5月22日に落車して大けがをしたのである。世界選手権開幕まであと99日であった。主治医の寺門氏はいう。「肋骨骨折などという生易しいものではなかった。左第3,4、5、6、7と5本の骨折、しかも第6、第7肋骨は2か所で折れ、そのうち一本が肺に刺さり、心臓のわずか1センチ手前で止まっていた。もし、止まらず心臓をついていたら、死に至っていた可能性もあっただろう。」ところがすさまじい回復力をみせて6月20日にはすでに退院して、練習を再開した。しかし7月29日に再び落車した。競輪選手は常に怪我と隣り合わせなのである。今度は肺には異状がなかったが、第6、第7肋骨は再び外れていた。世界選手権開幕まで31日だった。寺門氏は「もうここであきらめるしかないか。」と思った。しかし中野浩一氏は「やります」といったという。ここから懸命のリハビリが始まった。この時初めてトレーナーの世話になっている。シアトルの大学を出た鈴木祐一トレーナーだった。ここで鈴木トレーナーは驚いたことがある。「普通、世界の頂点に立つような男は、すでに自分のスタイルというものがガチガチに出来上がっているものです。だから、これをやろうとトレーニングを促しても、俺はそれはしないとまず否定から入る。ところが中野選手にはそれがない。すべて肯定から入る。それで自分に向かないと思うと、余分な水をギュッと絞るようにして、合わないものを捨てる。」中野選手は10連覇を達成した。ライバルも多く、体調も75%ぐらいしか回復していない中での快挙であった。中野選手はその時を振り返って、「動かしたときに痛みがあると、まず不安になる。ただ、その痛みがケガが原因なのか、それは心理面でも重大なんだけど、自分じゃ分からない。その痛みについての判断をしてもらえた。そこは多少痛くても動かしたほうがいいといってもらえたことで、自分は安心してウエイトに集中できた。さらに、方向性と角度を的確にチェックしてもらえたから、効率がものすごくよかった。」といっている。これは森田理論学習に対する心構えとしても同じことである。森田理論は疑いながらも素直に取り組んでみる。実践に移してみる。この気持ちが大切になる。森田理論の上っ面だけ学習して、早々に役に立たないときめつける。森田理論に反発ばかりする。そして実行、実践は何もしない。こういう人にとって残念ながら森田理論は無用の長物である。森田先生は、いくら反発をしてもよい。でもだまされたと思って、試しにやってみようと思ってもらいたいといわれている。「森田の達人」といわれる人はたくさんいる。疑いながらでも、そういう人から森田の宝物をぜひ手に入れてもらいたいものである。
2014.08.22
コメント(0)
私の住んでいるところから車で30分ぐらいのところで大災害が起きた。所は広島市安佐北区、安佐南区である。そこでは8月20日夜の2時から4時にかけて雷が鳴り大雨が降った。それまでなんとか持ちこたえていた山のあちこちが崩れた。現在までに40名以上の人が死亡、もしくは行方不明になった。まさか近くでこんな大惨事が起こるとは思わなかった。ショックで憂鬱な気分だ。この地区には知り合いが3人いる。いずれも命は助かっていた。30年住んでいてこんな災害は初めてだという。目は覚めたが、真夜中であり雷が激しくなるので、家にじっとしているしか方法はなかったという。なすすべがなかったようだ。今になってみれば、どうしてこんな山を開発して分譲したのかと腹を立ててみても後の祭りである。森田理論ではこのような自然災害をどうとらえているのだろう。森田ではまず自然災害に対しては、考えられる対策は充分にとっておくことを勧めている。予測される事態に対しては、不安に学び、できうる限りの備えと心構えをしておくことである。たとえばこれから予想される東海、東南海、南海地震に対しては家具をきちんと固定しておく。耐震構造にしておく。避難場所、避難経路はきちんと決めておく。津波に備えて必要なものだけ持ってすぐに逃げる。最悪の場合を想定して、あらゆる備えをしておくのである。自然災害を甘く見てはいけない。自然災害は甘く見ている人のところに確実に甚大な被害を及ぼす。甘く見るとすぐに確実に足元をすくわれる。島原の普賢岳の火砕流にしても、最悪を想定していれば助かった人は多い。私も海で磯釣りをしていたときにその経験をした。150mぐらいの堤防の先でクロダイ(チヌ)釣りをしていた。すると今までなんでもなく穏やかだった海が急に荒れだしたのである。風が吹き出したかと思うと、波が出てきた。次第に波が大きくなってきた。その間約5分ぐらいだった。急いで釣り具を持って陸地に向かった。ところが波が堤防に乗り上げてきたのである。その恐怖は今思い出してもぞっとするのである。もし小型のゴムボートだったら転覆していただろうと思う。海を甘く見ていたら恐ろしいことになる。その時はなんとか踏ん張り難を逃れた。命からがらの脱出であった。田舎道でも棒切れのようなものがあったら、蛇かもしれないと疑ってかかれという。最悪を予想するのである。棒切れだろうと勝手に決めつけて手にしたとき、それがマムシだったらどうするのか。血清がすぐに手に入らなかったら命を落としてしまうことだってありうる。もしそれがハブだったらもっと大変なことになる。自然災害は最悪を想定してできうる限り対策を立てる。これが一番である。つぎに、もしそれ以上の自然災害が襲ってきたらどうするのか。その時は、もう我々には打つ手はないのである。万が一の飛行機の墜落事故と一緒である。耐えがたいことであるが、自然の理不尽な動きに従うしかない。この場合いくら反抗しても全く意味をなさないのである。これも森田理論が教えてくれている。
2014.08.21
コメント(0)
私は現在マンションの管理人をしています。60棟ぐらいのマンションです。いろんな人がいます。5年もこの仕事をしているとほとんどの人の顔は分かります。それとともに日常茶飯事を丁寧に取り組んでいる人はすぐに分かるようになりました。一番の決め手は、共用廊下にあります。共用廊下に各戸の窓サッシがあります。窓サッシには窓台があります。ここは管理人が週に1回は拭き掃除をすることになっています。ところが私の勤務棟では、3戸の居住者の方は、毎日ピカピカに磨いておられるのです。とてもきれいです。さらに共用廊下にウレタン塗装されている部分があります。ねずみ色をしている共用廊下より少し高い部分です。ここには主にエアコンの室外機を置いてあります。ここは管理人の仕事の範囲外です。ここは埃がたまりやすい部分です。雑巾で拭くとピカピカになってとてもきれいになり気持ちの良いものです。この3戸の居住者の方はここもいつもピカピカに磨いておられるのです。さぞかし家の中も整理整頓され、掃除も行き届いているのだろうなと思っておりました。ある時そのうちの1戸の居住者の人が受付に来られました。80代のおばあちゃんです。私にベランダの網戸が外れたのではめてほしいとのことでした。本当は居住者の家に入ってはいけないことになっているのです。でもそのままにしておくと息子に怒られるのではめてほしいとのことでした。訪問してきちんとはめて、上にあるストッパーをセットしてあげました。その時驚いたのは、ホテルの部屋かと思うぐらいきれいに掃除をされ、整理整頓されていることでした。また熱帯魚の水槽があり、魚が元気に泳いでいました。ベランダにはたくさんの鉢物があり、それは見事に手入れをしてありました。「おばあちゃん、きれいに掃除されていますね」というと、朝から昼まで毎日掃除をしているのだそうです。小さい時に親からしつけられたのだそうです。特に玄関はその家の顔だといわれて一番気を付けて掃除するのだそうです。毎日の家の中の整理整頓、片付け、掃除、洗濯、冷蔵庫の片づけ、観葉植物の水やりや管理、熱帯魚の世話、食事の準備、買い物はおばあちゃんの生きがいなのだなと思いました。足が少し不自由ですが、いつも頭をフルに使って生活されているので、ボケることはないだろうなと思いました。
2014.08.20
コメント(0)
兄弟が2人以上いると、よく兄弟げんかをします。歳の離れていない男同士の兄弟の場合は、すぐに大声でわめいたり叫んだり、物を投げつけたり、殴り合いのけんかに発展しやすい。兄弟げんかは親が近くにいると、親の仲介を期待して激しくなりやすいものです。本来はその場から離れるのがよいかもしれません。でも時々観察していると、だいたいは自然に収まるパターンが多いのではないでしょうか。親が介入する場合はよほどの時です。今回はその時のことです。トマス・ゴードン氏の話を引用します。(親業 サイマル出版会 234ページ)ジミーとトミーはおもちゃのトラックの前と後ろを持って引っ張り合っています。ジミー トラックが欲しい。トラックをちょうだい。放してよ、放してよ。親 ジミー、本当にトラックがほしいのね。トミー 僕がはじめにもっていたんだ。ジミーがあとからきて取ったんだ。返してよ。親 トミーは、自分が最初に持っていたから、自分がトラックを使うべきだと思うの。ジミーが途中で取ったから怒っているのね。この問題を解くのになにかいい方法はない。考えてみて。トミー 僕に渡すべきだ。親 トミー、トミーはそう解決しようといってるわ。ジミー そうさ。そうしたら自分の思いどおりになるもん。親 トミー、ジミーはその解決策だと、あなたが勝ってジミーが負けるから嫌だって。トミー それだったら、僕がトラックで遊び終わるまで僕の自動車で遊んでてもいいよ。親 ジミー、トミーは他の案を出したわ。トミーがトラックで遊んでいる間、あなたはトミーの自動車で遊んでてもいいって。ジミー ねえママ。トミーがトラックで遊ぶのが終わったら、僕はトラックで遊べるの。親 トミー。ジミーはあなたがトラックで遊ぶのが終わったら、トラックをジミーに本当に渡すのか確かめたいって。トミー いいよ。すぐやめるから。親 ジミー。トミーはそれでいいって。ジミー じゃ。いいよ。親 それじゃ、これで解決したのね。ふつうは、こんなけんかを始めると、親が勝手に判断して、「お兄ちゃんだから我慢しなさい」「一緒に仲良く一緒に遊びなさい」「そんなにけんかをするのだったらトラックを取り上げますよ」などという対応に陥りがちです。ここで大切なのは、善悪の価値を判断することではありません。まず双方の言い分をよく聞くこと。次に双方が折り合える点を探っていくという視点を持つことが大切だと思います。親業ではこれを「勝負なし法」と言います。意見が対立するときは双方が歩み寄れる妥協点を探るという態度が欠かせません。これは人間関係でいくらでも応用がきくのです。「かくあるべし」を相手に押し付けることが少なくなりますので、是非生活に取り入れてみてください。
2014.08.19
コメント(0)
身体の不自由な田島隆宏さんは不登校の女子高生を治してしまった。知り合いの美容師の学校の先生が不登校の女子高生を連れて来たんです。彼女は先生の陰に隠れるように、少しうつむき加減で立っていて、暗い、寂しそうな顔をしていた。しばらく一緒に遊んだあと、彼女に「また遊びにおいで」と誘ったんです。そうしたら何日かしてきてくれたんですね。どんな話をしたらよいのかわからないので、僕の撮った写真を見せたりしていたのですが、あんまりのってこなかった。ちょっと困りました。そこでべつに無理して励まさなくてもいいかと思って。僕ががんばっている姿を見てもらえれば、何か感じてくれるかもしれないと思ったのです。そこで、ちょうどその時に僕は詩集「小さな声で」の出版準備に追われていた。そこで彼女に本に挿入するカットを手伝ってもらったり、習字を手伝ってもらったんです。最初は憮然とした顔をしてイヤイヤ手伝ってくれているという感じだったんだけど、意外なことにそれでも彼女は毎日のように僕のところに来るようになった。一緒にいる時間が長くなって、お互いに慣れてくるにつれて、彼女は積極的に動いて、かけ足で半紙をとってくれたり、「次は何色」と僕に聞いて絵具をパレットに出してくれるようになった。表情も生き生きとして明るくなったんですよ。あとでお母さんから電話がありました。娘さんは「田島さんがあんな不自由なからだでいろんなことにチャレンジしたり、頑張っている。それを思えば私は甘えているのかな。いじめられたって、負けずに学校にいってみるよ」と話したというのです。田島さんはその話を聞いてうれしかった。僕の生き方を見て、感じる人がいた。僕にも人にいい影響を与えられる力があるんだなと思い、張り合いがでてきた。例え障害者であっても、対人恐怖であっても自分のなすべきことに取り組む姿は、同じような境遇の人に大きな影響を与えるのだと思います。反対に私は障害者だからダメだ。対人恐怖症だからダメだ。といって仕事やつきあいから逃げていると、同様の人に、やっぱりだめかと失望を与えてしまうのです。(ぼくはここにいるよ 田島隆宏 学研 245ページより引用)
2014.08.18
コメント(4)
小さい子どもは思いついたことをすぐに口にする。ほしいものがあればタダをこねる。泣きわめく。本能のままに行動する動物のようである。これをそのままかなえてやればわがままな子供になるのは目に見えている。そうかといっていつもダメですと言って叱るのもどうかと思う。森田先生はこんな時どう対応されているのか。子どもが無理な駄々っ子をいって泣くときに、どうすれば、これをやめさせることができるかと、判断ができず、見込みが立たないで、迷いながら見つめていると、いつの間にか子供が泣き止む。こちらで解決のできぬうちに、子どものほうで自然に解決がつき、泣くときに対する最も正しき手段も、自ら分かってくるのである。教育のない親、さては教育のあり過ぎる母など、でたらめに誉めたり、叱ったりする。子供は決して、思う通りにならぬ。あまり自分の考え通りにしようとするから、少しも子供の心理を観察することができないのである。(森田正馬全集第5巻 323ページより)森田先生は、どうしたらわからない時は子どものいうことをかなえてやろうか、ダメだと言おうか、どちらにしようかと迷っているほうがよいといわれている。こういう時は、早計に子供の機嫌をとっておこうと過保護にするのもダメ。そうかといってわがまま言うのはダメよと叱りつけるのもダメだといわれているのです。こんな時は右に行ったり左に行ったりして迷っていればよいのである。「やじろべい」がバランスをとるために右に揺れたり左に揺れたりしているのをイメージするとよいのです。森田理論でいう精神拮抗作用の応用ですね。我々はそれを無視して、性急にどちらかに態度を決めようとしますが、その態度は修正しないといけません。その態度は「かくあるべし」の押しつけとなります。それと買い物などに子供を連れてくときは、子供と話をして今日はあなたの欲しいものは買わない。100円までだったら好きなものを買ってもよい。これが約束できるのなら買い物についてきてもよいけど、守れないなら家で留守番をしていてほしい。などと話しておくことが大切なのではないかと思うのです。これは親業でいう勝負なし法の応用です。これも生活の中で大いに応用できると思います。
2014.08.17
コメント(0)
夏はめったに風邪などひかないものであるが、冷房で風邪をひく人がいる。私はクーラーを使うときはドライにする。それも2時間か3時間のタイマーをかけるようにしている。風邪をひくということを森田先生が説明している。風邪をひくというのは、必ず常に気のゆるんだときで、周囲の事情とこれに対する自分の反応が適応性を失った時に起きる。周囲と自分との釣り合いが取れていれば、そんなシクジリは起きない。暖かいところではゆったりし、寒いところでは気が引き締まっておればよいけれども、暖かいところから急に寒いところに入り、寒いところから暖かいところへ入る時に、これに対する心の変化が適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。ゆえにうたたねのようなことがよくない。しかし精神が自然になれば、うたたねでも風邪をひかないようになる。(森田正馬全集5巻59ページ)ここで森田先生が言わんとしていることはなんであるか。これは周囲の状況に合わせて生活することを言われているのだと思う。寒いところから、こたつに入ると急に手足が暖かくなる。するとぶるぶる震えていた体が緩みほっとしてくる。収縮してきた血管が拡がり緊張状態が取れてくる。ふつうはここで心身ともにリラックスしてくる。ついうたたねもしなくなる。つまり心身の緊張状態が、急に弛緩状態に変化しているのである。こたつに入ったのだから、それでいいのではないかと思う人が多いのではないかと思う。それは自分のいるところはそうかもしれない。でも外は寒い。トイレに立つときも寒い。風呂に入る時も服を脱ぐと寒くてたまらないのである。そういう周囲の事情はお構いなしに、全くの弛緩状態に入り込み、リラックスしすぎてはいけないといっているのである。武士が轡の音にもすぐに目を覚ますのは、自分の置かれた周囲の状況に敏感になり対応しているからである。そんな時はうたたねをしても決して風邪をひくようなことはないといわれている。その状態は森田理論学習では「無所住心」という。「変化に対応する」ともいう。いずれも大切な考え方である。
2014.08.17
コメント(0)
森田理論学習には2つの大切なことがあると思う。一つは森田理論学習の中身や学習方法は、時代に合わせてどんどん変更し進化させることだと思う。森田先生の作り上げられた森田理論はそれなりに良いものがあった。1919年に完成した言われる森田理論はすでに100年目を迎えようとしている。森田理論はその理論の中に「変化への素早い対応力」の重要性をうたっている。その理論や学習方法が一向に進化しないというのは如何なものであろうか。企業ではいったん自己変革の手を休めるとその寿命は30年で終わるといわれてきた。現代のように変化の激しい時代はその寿命はどんどん縮まっている。森田理論も例外ではないと思う。それをセブンイレブンの鈴木敏文氏のように、強力なリーダーシップで引っ張る人が必要だ。元々森田理論をはじめられた森田先生はそういう人だったのである。森田先生の強引とも思えるリーダーシップにより森田理論は産声をあげ、そして完成した。また森田理論学習が全国的に知られるようになったのは、長谷川洋三氏の強力なリーダーシップがあったからである。それが無かったらこのように知られることはなかっただろう。真のリーダーのいない組織は残念ながら滅んでしまうと思う。もう一つ森田理論学習には大切な点がある。森田理論学習の目標の明確化だ。これがどうもあいまいであり、誤解されているように思う。森田理論学習は神経質性格を持ちながら、世の中に十分に適応しきれていない人たちに役立つ理論である。生き方、人生観の確立のための理論であるということだ。したがって症状克服が最終目的ではない点である。森田先生の時代は神経症を治療するというのが目的であった。ところが森田理論の集団学習運動として活動を始めた時点で目標は変わっている。森田理論学習は医療行為ではない。生き方の学習をすることが目的なのである。ここを取り違えているととんでもない道に迷い込んでしまうことになる。今でも森田理論は神経症の克服だけの理論であると勘違いしている人が大変に多いように思われる。そう考えると、森田理論の全体像、鳥瞰図にあたるものを指し示すことは非常に重要だ。森田理論の概要をまとめたものが必要だ。やみくもに森田先生のしゃべられたキーワードを奉るだけでは、却って理論に振り回されるだけになってしまう。このブログで森田理論は大きく4本柱から成り立っていることを示してきた。その4本の柱が相互に関連していることを説明してきた。これを取りまとめて議論して理論として提示することが必要だ。この森田理論の全体のスキーム、しくみを理解すると学習が格段に効率的になる。私はこれを作り上げてから、やっと森田理論がよく分かるようになった。その間悶々としながら学習を続けてきたのである。その期間は約20年も費やしてしまった。今では誰でも森田理論は3年でものにすることができると思っている。一旦ものにしてしまえば、一生涯に渡って役立つものを手にすることができる。早期に一定レベルに到達することが必要だと思っている。それ以上かかるとすると、初心者は森田理論学習から離れていってしまうと思う。
2014.08.16
コメント(0)
我々人間は、束縛やしがらみから解放されて、何でも自由自在にできる存在でありたいいう気持ち強い。しかし、束縛や制限が全くなくて、何をしてもやりたい放題という自由な状態は、理想ではあるが現実にはあり得ない。また仮にそういう自由あったとしても、何が自分のやりたいことなのか見極めることが非常に難しい。選択肢が無限あって、選び出す自由が無限にある状況は、結局は自分のやりたい課題や目標を見つけ出すことを困難にしてしまっているのである。幸いに現実問題として、多くの人間は自由が制限された中で、問題点や課題が数多く存在し、それに積極的にかかわりあわざるを得ない状況に置かれている。以前「料理の鉄人」というテレビ番組があった。2人の「料理の鉄人」がどちらの料理がおいしいか対決する番組であった。この番組はそれぞれ自分の得意料理を作って争うのではない。必ず材料が指定されていた。つまりその指定された材料を使っておいしい料理を作らなければならない。たとえば、今日の素材は豚のばら肉、あるいは牛スジ、ピーマン、ジャガイモなどと指定されるのである。自分の不本意な材料、苦手な材料もあるだろう。そういう意味では得意な材料を自由に選べない。自由が制限された中で、いかに素材のうまみを引き出して、創意工夫しておいしい料理に仕上げることができるのか。課題に対して自分の持てる力の限りを尽くしたものが勝利者となる。人の人生もこれによく似たようなものである。自分がどんな時代に生まれるのか。理不尽な戦争に巻き込まれてしまう人もいる。先進国に生まれるのか、後進国に生まれるのか。どんな親の元に生まれて、どんな育て方をされるのか。五体満足に生まれてこない人もいる。住むところもない、食うものもろくにない貧困家庭に生まれる人もいる。我々のように心に痛手を負っている人もいる。それらの現実は自分で選択する自由はない。好むと好まざるにかかわらず、現実を受け入れるしかない。その与えられた条件や境遇の中で、目の前の問題点や課題に対して努力を積み重ねてきたのか。その姿勢をいかに長く持ち続けることができたかどうかがその人の価値を決めるのではなかろうか。それ以外の生き方は悔いの残る人生になるような気がする。森田理論でいうと理想主義に陥るのではなく、現実の状況にしっかりと足をついて、一歩先を見て生きていくということだと思う。
2014.08.15
コメント(0)
私は森田理論学習は3か年計画で臨むべきだと思っている。1年目は基礎的学習。2年目は森田理論全体像を中心とした応用編の学習。3年目は森田理論の生活への応用である。何度も投稿してきたことである。3年目の森田理論の生活への応用について思いつくまま書いてみたい。主に以下のことが考えられる。1、 不安を抱えたまま、実践力、行動力をアップさせること。2、 「無所住心」の態度を身につけること。緊張感を持った生活を目指す。3、 生活にリズム感を作る。メリハリの効いた規則正しい生活を目指す。4、 バランス感覚を磨く。調和、両面観、不即不離を生活に活かす。5、 変化対応力を磨く。他人や世の中の変化に対して、自ら素早く対応していく。6、 生の欲望の発揮。他人の思惑を気にするよりも、自分の意思を大切にする。7、 自分、他人、物、時間、お金の能力を引き出して最大限活用する。8、 「純な心」の体得。直感、初一念から出発する。私メッセージの活用。9、 事実を受け入れて、事実に服従する。不快な感情に反抗しない。これらのすべてに取り組むのは力が分散してしまうと思う。「森田の達人」という人を見ていると、全部に取り組むのではなく、まず1つか2つの重点項目を決めて深化しているようである。例えば1の中に、「物そのものになりきる」というのがある。「一人一芸の習得」というのもある。2では、30分おきになすべき仕事を変えていくというのがある。趣味の棚卸をするというのがある。7では家計簿をつけてお金の予算管理を徹底するというのがある。生活の発見誌の切り抜きをして自分なりにまとめるというのがある。8は腹が立った時への応用というのがある。具体的にはこのブログでいろいろと紹介してきた。それらの中から自分がこれだと思ったものを取り上げて生活に応用していくのだ。まずは一つでもよい。愚直に徹することである。応用なくして森田なし。森田理論を理解しただけでは自分は変わることはできない。応用して身につけた時に自分が変化してくるのだ。すると不思議なことが起きる。富士登山の登山口はいくつもあるが最終的には、みんな同じ頂に立っているのである。一つの森田理論のコツの習得は、ジャガイモやサツマイモのように、芋ずる式に森田のキーワードの意味するところがしだいに理解できるようになるのである。ぜひ挑戦してみてください。
2014.08.14
コメント(0)
従来うつ病は「メランコリー親和型」といって、真面目である、責任感が強い人がかかりやすいといわれてきた。つまり神経質性格を持った人が人間関係の悪化、転居、仕事の失敗、就職、進学、子どもの出産、昇進、昇格、親族の死や病気などをきっかけとして発病する例が多かったのである。これに対して「新型うつ病」になる人がいる。「新型うつ病」の場合は、自己内省性がなく、他責の人であるというのが特徴だ。例えば名門大学を卒業し、有名企業に就職した人が開発部門から営業部門に配置転換された。それをきっかけにしてうつ病になった。欠勤が続き、退職にまで追い込まれるような人もいる。こういう人たちは、主治医に「私が病気になったのは、私を飛ばした会社のせいだ。前の職場に戻らないと病気は治らない」「配置転換しないと病気が治らないと診断書に書いてください」と訴えることがある。公務員は2年から3年おき、普通の会社でも配置転換や転勤はよくあることである。このような処遇や些細な言動を、自分に対する批判や非難、場合によっては無視や拒否のように受け取って反撃するのである。こうした人たちも「かくあるべし」はかなり強いものを持っている。それは我々と一緒である。しかしもう一つ忘れてはならないことがある。「自己内省力」がない点である。ここを見極めないといけない。うまくいかない原因を他人に求めているのか、自分に求めているのか。原因を他人に求めて、相手を一方的に非難したり、強要したりするのは、もともと神経質性格の人ではない。「自己内省力」を持っているのかいないのかは、森田理論が役に立つかどうかの分かれ道である。うつ病の人で森田理論学習をされている人が多い。その中でも「自己内省力」を持っている人が森田理論学習適応者なのである。
2014.08.13
コメント(0)
昨日は「純な心」でいい体験をした。私は今マンションの管理人をしている。それ以外に17名の管理人の取りまとめをしている。新しく管理人になった人の教育、困った時の相談相手、みんなの意見をまとめて会社との交渉、年3回の会議や懇親会の幹事などの仕事である。今日は次の会議の会場を決める日である。今回は17名のメンバーの中間あたりに会場を決めようと思っていた。先日下見をして区民文化センターに手ごろな会場があった。引き続いての懇親会の会場も飲み放題で料理がいい居酒屋がある。準備万端整えたので、管理会社の担当者にその旨を伝えた。するとその管理会社の担当者が言うには、会議の会場を勝手に変更してもらっては困る。その理由は、中間点というが今まで近かった人が遠くなるので、その人たちの了解をとってからにしてくれという。私は一瞬腹が立った。私はリーダーとして会議の会場設定、会議の召集、会議の検討内容設定、会議の進め方、司会を全部任されているのである。会議の内容の報告については、責任はあるが、会場の場所までは指定されていないはずだ。そんなことまでどうして口をはさむのか。これが私の言い分である。イライラとして頭に血が上った。でも実際にはここで森田理論の「純な心」が役立った。それはなぜか。腹が立つというのは初一念ではないんだよ。腹が立つのは森田理論学習でいつも勉強しているように初二念なんだよ。初二念に振り回されてはいけないんだよ。という意識があったからでした。腹立たしさをすっきりと解放しようとして、けんかを売るようなことをしてはいけない。これは私が森田理論学習の「純な心」でつかんで、生活の中に応用していることなのです。では、この場合の初一念は何か。「え、予想外の返答だ。当然いいですよと言うと思っていた。予想外の返答でショックだ。動揺してしまった。意気消沈した。でも確かに今までより遠くなる人は6人はいるよな。その人たちの意向を聞いてみようか。その上で決定すれば問題は起きないか」口をついて出たのは、「分かりました。至急確認をとってその上で決定します。結果はまたお知らせします。」でした。今まででしたら口ごたえをしていたような気がします。口ごたえをするときは「かくあるべし」を前面に押し出しているのです。森田理論の「純な心」は、もう何回も応用して、うまく事が運ぶのは実証済みです。森田理論学習を続けている人はみんな「純な心」を素晴らしさを体験してみてほしいと思っています。もちろん最初からうまくはいかないかもしれません。二歩前進一歩後退の連続です。でも少しでも前に進んでいるからOKです。
2014.08.12
コメント(2)
セブンイレブン本社は面白い会社である。直営店舗はほとんど持たない。惣菜や弁当を作る会社を一切持たない。倉庫や運搬車両などの物流システムは一切持たない。店舗で働く人を一切持たない。つまり土地や建物、人に至るまでセブンイレブンのものではないのである。最初に事業を立ち上げた時は資金もなかった。だから早く上場して資金さえも人様のものを活用しようと考えてやってきた。持っているのは常に自己変革を続ける頭脳のみである。つまりセブンイレブン本社は所有することよりも、他人の持っている物を活用することのみを考えてきたのである。これはP.F.ドラッカーが「未来への決断」で述べたポスト資本主義社会の実現そのものであると思う。本来会社が大きくなると自社ビルを建て、土地を買い集め、M&Aで子会社を増やし、社員を増やしていく傾向にある。これに対してセブンイレブンは真っ向から反対の経営を貫いてきた。セブンイレブンは自らの事業目的を達成するために、それらの経営資源を持っている人にお願いして協力してもらっているのである。自分はアイデアだけを出す。そして粘り強く、それらの経営資源を持っている人を説得してきたのである。つまり単独では意味のないものを、一つの経営理念の下で効果的、有機的に結びつけてきたのである。かたくなに所有ではなく、活用という立場に立脚しているのである。所有は限界があるが、活用は無限に広がる。これを鈴木敏文氏は次のように説明される。「なぜみんなは、自分のものを持つことにこだわるのだろうか。それなら会社が大きくなってきて、社員の出張が増えたからといって、はたして飛行機を持つであろうか。いや仮に飛行機を持つことだけなら持てるかもしれない。しかし、それなら、その整備はどうするのか。また飛行場は自分で持てるのか。管制はどうするのか。こう考えていったら、何でも自分の所有にこだわることがいかにナンセンスかわかってくる。世の中には専門、専門がある。その専門に生命をかけているものがいる。その専門機能を活かして用いればよいではないか。何から何まで自分でやる必要なんかない。」これは森田理論の「物の性を尽くす」を会社経営に取り入れた例である。自分の性をつくす、他人の性を尽くす、物の性を尽くす、お金の性を尽くすなどとても参考になります。自分のやりたいことや目標をしっかりと持つ。それを達成するために、自分のできることは最善を尽くす。しかし、何でもかんでも自分一人でやろうとしないこと。人に依頼すれば短時間に安価によりよいものが手に入ることが多い。そういうものは思い切って専門家に協力依頼する。自分はコーディネーターになったつもりで、うまくまとめて活用していく。そして大きな目標に近づいていく。このスタンスが一番うまくいく。すると自分も活かされ、他人も物もともに活かされることになるのである。(創造的破壊経営 緒方知行 小学館文庫参照)
2014.08.11
コメント(0)
セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏の「変化への対応」についての話である。「我々の競争する相手は同業、異業を含めて他者、他店などでは決してない。最大の競争相手は時代の変化であり、またその中で変化するお客さんのニーズやウォンツである。この変化についていけず、対応できなくなったときに企業はダメになる。大切なことは変化に合わせて自分を変えることができるかどうかである。世の中は常に変化しており、お客さんの求めるものもどんどん変わってきている。ということは、常に、変化対応に向けた自己革新の手を休めることも緩めることもできないということである。であるならば、ともすれば過去の経験にとらわれ、現状に安住しがちな自己自身こそが戦うべき競争相手だということになる。つまり、真の戦いは自己自身との間にある。」(「創造的破壊」経営 緒方知行 小学館文庫参照)森田先生は、「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先で鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固着することがないからだ。」と言われている。ディトレーダーという株の売り買いで儲けようとする人がいる。9割以上の人は自分の大切な財産をなくしている。それほど未来は予測することは難しい。鈴木氏は長期計画を立てないという。途中でお客さんの要求やニーズがすぐに変化するからである。また経済変動などの外部要因も刻々と変化している。我々にできることは変化を予測して変化に即座に対応できることだけである。これ以外のことはできないし、してはならない。常に変化に対応する態度を堅持すれば、一つのことにとらわれて悩むことはできない。これは森田理論学習をするうえで避けて通ることのできない大切な考え方である。
2014.08.10
コメント(0)
台風11号が北上している。四国、中国地方直撃である。昨晩から風も強くなってきた。今からベランダのあとかたづけをしておこうと思う。余談だか私はこの11という数字がどうも苦手だ。何か重大な事件によくからんでいる。父親が亡くなったのも、義理の母が死んだのも、11日だった。思えば東日本大震災は3月11日。世界貿易センターでテロがあったのも9月11日だった。これは理屈ではないんですね。体が受けつけないのです。さて台風で思い出すのは柳の木だ。以前台風の時のことが忘れられません。そこには柳の木が何本もありました。全部の柳の木が取り乱していたのです。葉っぱが引きちぎれないばかりに荒れ狂っていたのです。苦しさになりきっていたのです。私はそれを見て森田理論と同じだと思いました。苦しさになりきって、通り過ぎるのを待っているのだな。これだよ。これでいいんだよと思わずつぶやいていました。台風一過の翌朝は透き通るような青天でした。柳の木は何事もなかったかのように頭を垂れています。心に迫るものがありました。よく頑張ったねと声をかけてやりました。新聞を見ると松の大木などが根こそぎ倒されたとのこと。松の大木はきっとこんな台風なんてどうってことはないと思っていたのでしょう。そしてある程度までは、実際に踏ん張って強かったのだろうと思います。柳の木はそんな松を見てなんと強い人なんだろうと思ったかもしれません。でもある一定の限界を超えると、もろくも折れて命を落としてしまったのです。感情には逆らってはいけない。いやな感情も抵抗しなければ、必ず時が解決してくれる。貴重な経験をしたことを思い出します。
2014.08.09
コメント(0)
テレビや映画を見て感じることと現実の出来事に直接遭遇して感じることは大きく違います。皆さんもプロ野球やサッカーを球場やスタジアムから見たことがあるでしょう。そこではとてつもない球場の大きさ。緑鮮やかな芝生、あこがれの選手がすぐそこにいる。選手たちのプレー。ボールが飛び込んでくる。鉦や太鼓を使った応援。メガフォンを打ち鳴らす。球団の応援歌が高らかに流れる。電光掲示板の鮮やかさ。球団旗のはためき。チャンスでの盛り上がり。風船飛ばし。ビールのおいしさ。応援しているチームが活躍すればうれしい。打ち込まれれば悔しい。気持ちの良いことばかりではありません。時には雨が降ってくる。ぶるぶる震えるような寒い時もある。時には観客同士でけんかになることもある。見る、聞く、匂う、味わう、触れるなどの五感、自分の体を全身で使っていろいろと体感しています。テレビで見ているだけではこうはいきません。いくら3Dテレビで見ても、ボリームを上げても球場に足を運んで五感で体感する感情には遠く及びません。テレビでは自分の応援しているチームが勝ったからうれしい、負けたからクヤシイという感情は起きてきます。でもそれだけです。負ければすぐにチャンネルを切り替えたりします。いわばリセットしてしまうのです。つまりテレビを見て発生する感情は実に味気ないものです。実に薄っぺらなものです。でも私たちはこれこそがリアルな感情だと信じて疑いません。人間は見る、聞く、におい、味わう、触れるという五感、身体感覚が不足すると、脳はその不足分を補おうとします。その無意識の作用がありもしない心や感情の幻影を生み出します。感情移入を行いやすい心的状態に陥りやすくなります。愛情、憎しみ、不安、恐怖、幻想などの反応を覚えやすい。これがとても怖いことなのです。特に怒り、憎しみ、恨み、暴力などの感情は普段では考えられないほど異常に暴走してしまうのです。現在ネットやチャット、メールなどを使った犯罪が多発しています。フェイストウフェイスで対話すればたいしたことがなくても、相手の顔や表情が見えないと何でもありになってしまうのです。特に子どもの場合は要注意です。子どもの1日は、50歳の人間の10倍にあたるそうです。1時間ネットをするということは、大人でいうと10時間パソコンと向き合っていたことになります。子供たちが毎日ネットやテレビ漬け、メールやチャット漬けにすると大変なことになります。子供たちには自然に触れさせる。実際に体験させる。人と実際に合ってコミュニケーションをとることが必要です。特に小学生までは注意する必要があります。メール、プロフ、チャット、ネットの閲覧、ネットのゲームなどの子どもに対する悪影響はよく親がよく学習する。子供に十分に理解させる。使用にあたっては使用方法など放任にしない。出来れば小学生のうちはさせない、制限をする。実体験に基づいて発生する感情が本物なのだと自覚することが大切です。自ら足を運んで、五感で感じる、体を使って感じる感情こそが本物なのだという意識を持つことです。これらは森田理論の「感情の法則」「感じを発生させて、感じを高める」という体得のために心してかかることです。森田理論はそういう面で社会に警告を発していく役割があると思うのです。「コンピーターが連れてきた子供たち」 戸塚滝登 小学館を参照いたしました。
2014.08.09
コメント(0)
スポーツでコーチといわれる人がいる。コーチは自分が主役というわけではない。当然選手が主役であり、陽の目を見る立場にある。コーチは裏方である。いわば黒子である。一流選手には一流のコーチがいる。コーチ無しには選手の活躍はほとんど保障されない。杉山さんは、「選手の資質、才能の全部、もしくはそれ以上に引き出すことができたコーチが一流なコーチです」といわれる。選手は一人ひとり、資質、才能、能力は違うので画一的な指導はできない。自分の成功体験を押し付けても選手は伸びてこない。コーチの指導はオーダーメイドなのです。コーチの役割は、技術力、身体体力、精神体力、人間力をあげることである。これらすべてにわたってサポートできるコーチはなかなかいない。一人でできない場合はテクニカルコーチ、トレーニングコーチ、メンタルコーチ、生活や人間関係の基本を教えるコーチを組み合わせる必要がある。偏るといつか行き詰まりを起こす。総合的にコーチできないと選手は成長してこないのである。スポーツではよく心、技、体といわれる。それに思いやりを加えて4つをバランスよく成長させることだ。体を鍛える。技術を磨く。というのはすぐに分かる。心を鍛えるというのは、試合で緊張したときどうするのか。スランプに陥った時どう立て直すのか。あるいはモチベーションを高めるにはどうするのか。モチュベーションを維持するにはどうするのか。などがある。人間力を高めるには基本的な挨拶やコミュニケーションの取り方。日常生活の過ごし方、人間関係の築き方、欲望との付き合い方。人を思いやる心の育て方。などがあるのだろう。これを森田理論に応用するとどうなるのだろうか。先輩会員が初心者をコーチする機会はたくさんある。まずは受容と共感の気持ちを持つ。相手に信頼されないとかかわりすら持つことはできない。ここでつまずいてはいけない。次に森田理論学習を十分に積んでいく。理論体系をしっかり学習している。詳しい。すると、初心者の問題点がすぐに分かる。それを正確に理論立てて説明できないといけない。素早く指摘できる技を持つことが必要だ。その伝え方のスキルも身につけないといけない。次に、森田理論体得者として常に生活に応用し、実践・行動していることが大切である。模範となって生活していることが必要である。次にそれらを伝える技術が必要である。そして初心者にあの人のようになって見たいという気持ちを抱かせることである。初心者が森田理論学習の素晴らしさを認識して、自ら学習するようになること。さらに生涯学習として取り組むようになること。森田理論を生活の中に取り入れて、味わいのある人生へと船出していくこと。これができるようになることが、名コーチへの道であると思う。(一流選手の親はどこが違うか 杉山芙紗子 新潮社参照)
2014.08.08
コメント(0)
あなたは森田理論学習に何を求めておられますか。それは当然神経症を治すためでしょう。いまさら何を言い出すんですかという声が聞こえてきそうです。でも私は最近つくづく思うんですよ。いまどき森田理論学習で神経症を治そうだなんて時代錯誤も甚だしいと。最近の医療は進んでいますよ。慈恵医科大学第3病院や京都三聖病院の専門医師による入院森田療法。その他全国各地にある外来森田療法。そして精神科医による薬物療法。信頼できる臨床心理士によるカウンセリング。精神分析、催眠療法、認知行動療法、内観療法など選択肢は無限に広がっているではありませんか。これらを利用しない手はありません。短期に的確な治療が受けられます。反対に森田理論学習だけで治そうとすると時間もかかり、思ったような効果は期待できないと思います。時間も無駄です。また誰も治療に対して責任を持つ人はいないのですから。すると森田理論学習は意味ないのですかといわれそうです。ところが神経質性格を持った人で、何かととらわれやすく、いつもびくびくしながら生きている人にとって森田は宝の山なのです。それはなぜか。それは神経質性格を持った人が、味わいのある人生を送るためには、その基礎となる考え方を森田理論が教えてくれているからなのです。森田理論を学習して、実践・応用の仕方を身につけることは自分の一生を大きく左右します。森田理論学習は、これが最大にして唯一の目的だと思います。私は神経症に陥った人を蟻地獄から這い出させるというのは、この際医療機関に任せたらどうかと思っています。森田理論学習は、主に蟻地獄から這い出た人を対象とするべきだと思うのです。蟻地獄から這い出たといっても、「かくあるべし」をはじめとする認識の誤りは抱えたままです。そういう状態では社会にうまく適応することはできません。生きていくことは依然として苦しいばかりです。放置すれば、自分の人生がみじめになり、慙愧の念で後悔することになります。この分野は幸いにして医療機関では手におえない部分です。なぜかといえば人生観の確立にかかわる部分だからです。医療として成り立つものではありません。でも神経質者にとっては必要不可欠なものなのです。神経症の治療は信頼のおける医療機関に任す。その代り、我々学習グループとしては神経質者の人生観の確立のための学習内容、学習方法、学習ツールの開発、会の運営方法はマンネリに陥らないように絶えず自己革新していく。その態度がいまあまたの神経質者から、厳しく問われているのだと思っています。
2014.08.07
コメント(0)
田島隆宏さんは電動車椅子の生活だ。それも常に横たわった車椅子なのである。普通は親を恨んだり、自分の不遇を嘆いたりするものだ。田島さんは言う。「身障者の一番悪い点は、何でもしてもらっているうちに、だんだん自立心がなくなってくることだ。すると心まで障害者になってしまうことだ」田島さんは、自分が持っているもの、自分のできることを最大限に活かそうとされている。つまり頭脳と口と舌である。この3つを最大限生かすことだけを考えて生きている人なのです。そして写真家として活躍されている。人の胸を打つ詩をたくさん作っておられる。その詩をひとつ紹介しよう。春風がぼくにそっと教えてくれた道の向こうにきれいな水仙が咲いているよぼくはバッファローに乗って行ってみた本当にきれいな水仙が咲いていた水仙が小さな声で言った「私に命があるかぎりあそびに来てね」ぼくは来る日も来る日も遊びに行ったいく日か経って水仙はかれていたぼくは小さなお墓を作ってあげた実に感性豊かな心温まる詩だと思います。体が自由に動かないがゆえに感性が鋭くなったのだと思います。人と比較して自分の持っていないものを嘆くことよりも、自分の持っているものの価値を見つけて磨いていくこと。それで勝負していく。これを活かして生きていくこと。人間が生きるにあたって大切なことを教えてくれています。
2014.08.07
コメント(0)
最近は学校でも会社でもいじめが多い。いじめは基本的には家庭での親の子どもへのかかわり方に関係がある。家庭で親が子供に対して、批難、叱責、脅迫、説教、拒否、無視、抑圧、否定する。馬鹿にする。など「かくあるべし」を押し付けていると、子供にはどんどんストレスが溜まっていく。ストレスはどこかで解放させてゆかないと、自己崩壊を起こす。いじめはそのはけ口なのである。自分より弱い相手。いつもドジなことをする人。やることが人より遅い人。体が弱かったり、障害のある人。自己主張の強い人。そんな人が格好の相手である。そういう人をいじめることによって、自分のストレスを軽減させようとしているのである。学校でいじめを止めさせようと思ってもいたちごっこである。いじめの原因をなくそうとしないからである。昨日紹介した田島隆宏さんは生まれながらの障害者である。口と舌しか動かすことができない。格好のいじめ対象者である。その田島さんがこんなことを言う。人と違ってどこが悪いのかな。その違いをどうして受け入れられないのかな。僕なんかまさにそうじゃない。外に出れば人と違って見える。でも僕はこれも一つの個性だと思うわけ。僕が写真を撮ろうと思っても、地上50センチの視点でしか撮れない。でも、だからこそ僕なりのスタイルが確立できたんだよね。自分の個性は何だろうなと考えた時、やはりこの視点しかないと思ったわけ。これが僕の世界なんだと。世の中のみんな、一人ひとりかけがいのない存在として生きている。たとえハンデを背負っていても、その人ならではのいいところ、他の人にはない個性というのが絶対あるんだよ。森田理論学習では、自分の個性を見つけ出して伸ばしていくことを「唯我独尊」と言います。そこに焦点を当てて生きていくことを目指しています。田島さんは自分の境遇に服従して、運命を切り開きながら生きています。森田理論のお手本になるような人です。
2014.08.06
コメント(0)
田島隆宏さんという人がいる。出産時、頭頂部に内出血があり、生後20日に脳性小児マヒによる四肢障害となる。口と舌しか使えない。にもかかわらず、バッファロー号という電動移動車に横たわって元気に活動されている。プロのカメラマンである。「地上50センチ見た世界」からという写真展で有名になった人だ。今では花や虫を撮っておられる。その田島さんがこんなことを言われている。ぼくはわがままですから、人に迷惑をかけてもやりたいことをやる。障害を持った人の中には、それを負担に思っている人がいる。それはダメだよ。たとえば施設に入って1日中テレビを見たり、パソコンをやっている人がいる。自分が好きでやっているのならいい。でも手が使えないから、我慢してそうしている。外に出たくても、我慢しようとか、もっとパソコンでいろんなことをやりたいけど手伝ってもらわないとできない。じゃ我慢しようか。そういう人がほとんどだと思うんですよ。生きていくうえでは、みんな何かしら迷惑をかけて生きているわけですよ。そういう関係の中で、友情が育まれたり、愛情が生まれたりするわけですよ。時には利害関係で衝突したりもするけど。だからこれをやりたいと思ったら、やる。出来ない部分は人に頼んでもやる。やらないで後悔しても遅いですよ。そうやって生きれば、人生に悔いることはないと思うわけ。やっぱり一生懸命生きていることは、何かに夢中になって、それこそまわりのことも目に入らずやっちゃうことだと思う。ぼくは単刀直入に頼む。頼んで悪いなと思うと、逆に中途半端な他の味方になっちゃうでしょ。これはいつも他人の思惑を気にして、自分の気持ちや意思を抑え込んで生きている人にとってはショックな発言です。自分のできることは自分でする。出来ないことは遠慮なく人に頼む。そして希望や夢に向かって前進する意思を持つことが大切なのだなと思いました。森田理論でも自分の「生の欲望の発揮」が一番重要です。そのあとで、相手の気持ちを思いやって調整をしていく。その生き方で間違いないのだと思います。田島隆宏さんのホームページがあります。ぜひご覧ください。この投稿は「ぼくはここにいるよ」学研を参照しました。
2014.08.05
コメント(0)
生活の発見会で世話活動をしていると、他人に体験発表を依頼したり、世話活動をお願いしたり、幹事になることを了解してもらう交渉をしなければならないことがあります。これは会社や家庭、同好会などでも発生します。対人恐怖の人はこれがとても苦手です。依頼して、なんとか見え見えの理由をつけられて断られるのではないかと勘繰るからです。人から自分を受け入れてもらえないで、拒否される、無視される、否定されることを極端に恐れているのです。そんな不快な思いをするのだったら交渉しないでおこう。自分が一人で背負い込むほうがよっぽど気が楽だ。そして少々キャパオーバーになっても、自分一人でやろうとしてしまう。そして過労で心身ともに行き詰まってしまう。仲間と分担してやれば自分の負担が減って楽になり、相手も貴重な経験ができるのに頭では分かっているのに、体がついてゆかないのです。これは森田理論学習でいう気分本位の態度です。普通の人はどうしているのか。だめでもともと。うまくまとまらないだろう。だけど交渉してみなければ話にならない。なにも行動しないのはストレスが溜まるという考えです。話すだけ話してみよう。仮に話がまとまればもうけもの。断られることもあります。どちらに転ぶか全く予測不可能です。でも交渉の過程で、相手の表情や態度、言動から将来を予測することができます。今はまだ早い、話にならない人だ、別な人を探そう。また今は話すタイミングが悪かった、時期をずらしてまた頼んでみよう。今度は話の仕方を変えてみよう。自分よりも彼に交渉してもらおう。などということが分かります。つまり観察によって、次の行動の手がかりを得ることができます。これは思い切って話すことによって弾みがついたということでもあります。このようにして自分が素直に引き下がるか、時を変え、戦法を変えてリベンジの機会をうかがっているのです。面白い話があります。電話セールスでは、1回目ではほとんど断られます。ここでもう二度とその顧客と関係を持とうとしないセールスマンが多いそうです。あの人は一回断ったからもう絶対にダメだと先入観で判断してしまうのです。成果を上げるセールスマンは2回目の電話ができます。また断られます。手を変え品を変えて3回、4回と電話をしますが断られ続けます。時には「お宅はしつこすぎる。」などと罵声を浴びせられます。でもくじけずに5回目の電話をします。ここで相手がセールスマンの熱意に根負けして成約に結び付くということがあるそうです。この時点でついに成果をつかんだのです。普通の人は、断られるというのは織り込み済みなのです。断られる時が出発点という考え方です。その理由をよく聞き、自分の気持ちと妥協点を探して、もし折り合いがつけば御の字という考え方なのです。我々対人タイプの人は、結婚したいような人がいても、自分から積極的に接近するということが苦手です。相手がどうしてもというのなら、仕方ないから付き合ってあげようかというような傲慢なところがあります。それでみすみすチャンスを逃して後で後悔するのが関の山です。「ダメでもともと、うまくゆけばもうけもの」というキャッチフレーズを明確にして臨みたいものです。森田理論学習で、最悪の結果を受け入れることができる能力を獲得しましょう。
2014.08.04
コメント(0)
ベネッセの情報漏えい事件は大きな社会問題になった。現代では個人情報の保護は大変重要視されている。それは個人情報を悪用する人がいるからである。情報化社会が高度に発展すればするほど、個人情報の保護は大切になる。しかし、残念ながら子供たちの間では無防備に放置されている。今子供たちの間でプロフがはやっているという。ブログではない。プロフである。自分の名前、顔写真、年齢、住所、学校、趣味、好きな食べ物を社会に向かって公開し、友達のプロフのリンクを貼っている。ニックネームのようなものでも見る人が見れば、本人が特定されてしまう。またこれは一度書いたらそれで終わりというものではなく、日記風にどんどん更新していくものであるという。このプロフには他人からの書き込みがある。ネットを通じて友達の輪が広がるのである。登録している人は、学校で友人がいなくても全国に友達ができると思ってしまう。現実に顔と顔を突き合わせて作る友達と、ネットを通じで作る友達は異質なものである。ネットを通じた友達は手っ取り早いし、嫌になればすぐにリセットできると思ってしまう。煩わしくないのである。書き込みは常時気になり、目が離されなくなる。つまり携帯に振り回されるようになる。また、関係がこじれた場合は、極端な誹謗中傷が展開される。多くの猟奇事件が多発しているのはその前触れであろう。今後はそうした事件は急速に多発していくことは十分に予想される。プロフは自らの隠しておくべき個人情報を、自ら漏らしていることにならないだろうか。三鷹のストーカーによる女子高生殺人事件ももとはと言えば、ネットの交際が発展したものである。情報社会は便利なものだが、一歩間違えばとんでもない方向へと向かう。悪く悪用する人はどんどん悪用するのである。それに特化して、悪用の更新を積み重ねているのである。特に小学生、中学生、高校生にとっては要注意である。全くの無防備なのである。とくに女の子の場合は慎重であるべきだ。そういう子供たちが大人の餌食にされてしまうのは悲しいことだ。これは大人の責任である。社会の責任である。いまや小学生の段階から携帯、メール、ネット、チャット、ネットゲームのかかわり方については教えていく必要がある。またせめて小学生の間は電話機能のみの利用にとどめるべきだ。その前提として親がよく理解することが必要である。学習していく必要がある。それも社会をあげて取り組まないといけない。もう一刻も猶予のできない時代に来ているのである。
2014.08.03
コメント(0)
安保徹医師は湿布を貼るだけでも免疫力は低下する。腰痛、ひざ痛にはカイロを使えと言われる。痛みに対して鎮痛剤を使うことは、一時的にはよい。長期に使うと深刻な健康被害を招くといわれています。あらゆる体の痛みは、自律神経の交感神経の緊張が引き金となって起こります。交感神経が緊張すると血管の収縮から血流障害が引き起こされ、かつ顆粒球の増加によって活性酸素による組織破壊が進みます。痛みが起こってくるのは、自律神経が血流を増やして傷ついた組織を修復しようと、反射的に副交感神経の働きを高めた時です。副交感神経による組織の修復は、プロスタグランジンと呼ばれるホルモンを使って行われる。プロスタグランジンには血液を拡張させて血流を増やすと同時に、知覚神経を過敏にする作用があります。これが痛みの原因です。ですから痛みというのは、傷や痛みが治る過程で必ず発生するものなのです。決して悪者ではありません。これは只今道路工事をしていますので、車の通行はスピードを落とし注意して走行してくださいと警告しているようなものです。その指示に従ってスピードを緩めるか、場合によっては停止して係員の誘導に従えばよいのです。ところが現実には治療薬として消炎鎮痛剤が当然のように使われています。アスピリン、インドメタシン、ケトプロフェンなどです。これらは、このプロスタグランジンの産出の抑制を行います。痛みの物質が減少すれば、痛みは和らぎますが、それはせっかくの自然治癒力をストップさせることになります。薬を止めると痛みがぶり返します。痛みがあるたびに薬で痛みを取っていると、症状は慢性化してきます。そして悪化してきます。他の二次障害も出てきます。つまり活性酸素による組織破壊が進んでくるのです。するとまた薬で抑えようとする。症状が強くなる。さらに強力な薬を使って痛みを取ろうとする。いたちごっこが続く。(免疫道場 安保徹 幻冬舎 80ページ参照)これは森田理論学習をしている者にとってとても興味深い話です。この話は直接的には「感情の法則1」に該当します。どんな不快な感情でも一山登れば、自然に一山下がってついには消失するのであるという法則です。どんな不快な感情も薄まり、気にならなくなるというのです。ただし、一つ条件があります。不快な感情をそのままにしておくことです。取り去ろうとやりくりしないということです。やりくりすれば、その感情は刺激を受けてますます過敏になり増悪してきます。最後には神経症として固着してきます。神経症に陥る人はもともと欲望の強い人です。反面、強い不安や恐怖、耐えられないような不快な感情が自動的に発生します。自然の摂理です。神経症に陥る人はその原理を無視して、それらを取り除くことが最大の目的になってきます。生の欲望の発揮を忘れて、症状を取り除くことばかりに精力をつぎ込みます。観念と行動の悪循環の罠に陥ってしまいます。すると訳が分からなくなり、自分一人では抜け出すのが困難になります。自ら大きな苦の種を作り出しているのです。そうならないためには、基本的に不安、恐怖、不快感はやりくりしないで受け入れることです。自然に服従することです。そして生の欲望の発揮という目的を見失わないようにすることです。でも実際に我が身に降りかかってくるとパニックになって混乱してくるのです。森田理論学習を深め、自分の体で体得していくことが大切です。
2014.08.03
コメント(0)
私は本を読むことが好きである。本を読むといろんな先人の話を聞くことができる。またこのブログを書くヒントをもらえるのである。ところで本を読むとき困ることがある。本を開いてパソコンを打てないことである。すぐに本が閉じてしまう。今までは文鎮のような「重し」を本の上に置いて、本がめくれないようにしていた。ところが困ったことにその「重し」が、すぐにずれて安定しないのである。そこでいくつも「重し」を使う。それでも安定しない。いままで「重し」が足の上に落ちて痛い思いをしたこともあった。これが一挙に解決した。100均のダイソウに行くと、鉄でできた巨大な、と言っても15センチぐらいなものだが、洗濯ばさみのようなものがあったのである。それを該当のページのところに挟むと、「重し」も効いて、とても安定して、そのページが開いたままになるのである。小さな発見だが私にとっては、大変役に立つ発見だった。森田先生は、自転車屋を通りかかった時はっと思いつかれた。ちびて使わなくなったタイヤの利用方法である。これを分けてもらってきて、机の脚の底に取り付けたことがあった。多分普段の生活の中で、机や椅子で床が痛むことを気にかけておられたのであろう。このように役に立つ気づきというのは、日常生活に真剣に取り組んでいる中で、突如として閃いてくるものなのである。洗濯ばさみのようなものを何かに役立てたい。古タイヤが捨てられるのは忍びないから、何かに利用しなければと発想していくとダメなのである。常に日常生活、雑事に真剣に取り組む中で、気づきや発見は出てくるものであることを再認識したい。生活に密着していない気づきや発見は絵に描いた餅である。
2014.08.02
コメント(0)
山本五十六の言葉に、「やって見せ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かず」というのがあります。「やって見せ、言って聞かせて、やらせてみて」というのは、まず好奇心を刺激する、興味を持たせるということだと思います。この場合は親や教師がその役割を果たすというのが前提としてあるようです。森田理論学習では人から興味を持たせるということはあまり言いません。自分で好奇心を発揮して見つめる。観察する。するとなんらかの感じが沸き起こってくる。すると感じが高まり意欲が刺激される。行動実践したくなる。自主的、積極的、創造的行動につながる。弾みがついていくらでも発展してくるといいます。ついには生きがいを見つけることになります。ここで親や教師として大事なことは、好奇心を刺激する体験の機会をたくさん提供してあげることだと思います。その後は子どもに任せることだと思います。手を出したくなっても、命に係わること以外はじっと見守っていることです。だから自由放任とは違います。少々の怪我や友達とけんかを経験することは貴重な体験です。先日2歳と5歳の孫を公園に連れてゆきました。そこはブランコ、鉄棒、滑り台などいろんな遊戯があります。また車の往来の激しい道路に面しているのです。そのため小さい子どもには母親がついています。親を見ていて気が付いたことがあります。道路へ勝手に出ることはどの親も目を見張っています。公園の中で遊んでいるときは、付きっきりで面倒を見ている親と自由に遊ばせている親がいます。付きっきりの親は倒れれば起こしてやる。ブランコに乗りたいといえば、後ろから押してやる。揺れ具合を加減してやる。鉄棒にぶら下がれば、頭から落ちるのを心配しているのでしょう。体をおさえてつけています。また金網のフェンスを登り始めれば下で待機している。そしてあまり上に登らないようにと注意している。靴が脱げれば履かせてやる。手が汚れれば水で洗ってやる。鼻が出ればテッシュでとってやる。友達とけんかを始めれば、すぐに引き離す。至れり尽くせりなのです。まだ小さくて慣れていないのかもしれません。でもこれは少し過保護ではないでしょうか。過保護、過干渉、放任は子供の成長に悪影響を与えるといいます。私はベンチに座ってみていました。見ているというのもハラハラドキドキするものです。もし大怪我でもさせると、この子たちの親である私の娘に怒られるからです。でもそこをぐっと我慢して子どもと付き合うのが森田理論学習で学んだことだと思った次第です。
2014.08.02
コメント(0)
生活の発見誌2014年7月号29ページより引用します。毛虫を見て、我々がそれを不快に感じ、嫌悪し恐れるのは感情の事実である。けれども、それが毒を吐くものでなく、人に飛びつくのではないということは、我々が知識によって知ることである。毛虫を見て、たちまち目を閉じて逃げ出すのは感情に支配されるものである。(これを気分本位という。気分本位は自己嫌悪、自己否定に陥る。気分本位は容易に神経症に陥る。)必要に応じてこれに近寄り、駆除することができるのは、理知の力である。即ち、不快なままに毛虫に近づくことができるのは感情と知識の両立であって、「あるがまま」の当然の行動であり、正しい精神的態度である。(これを事実本位の態度という。森田理論の自然に服従し境遇に従順ということである。)これに反し、もし毛虫に対し、まず嫌悪の感情を排除し、好感を起こしてその上で毛虫に近づこうと努力するものがいたら、それが「思想の矛盾」である。(これが理知本位という。理知本位は思想の矛盾に陥る。思想の矛盾とは「かくあるべし」であると考えることと、現実の事実がかい離していることを言う。「かくあるべし」に現実を近づけようとすると深刻な神経症を発症させる。逆に「かくあるべし」をできるだけ小さくしていくと、事実本位の生活に近づいていく。)
2014.08.01
コメント(0)
全37件 (37件中 1-37件目)
1


