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インターネットで「じじや」を見てほしい。門司港で昭和45年から操業している魚の干物を作っている。思わず買ってみようかという気にさせる。ここはかっては借金に苦しんでいたことがあった。門司は下関と目と鼻の先だが、下関のフグのようなブランド力は何もない。さらに干物は日本一の生産地である静岡県をはじめどこでも作っている。最初から負け犬根性が染みついていたのだ。おいしいといわれる干物を作っているにもかかわらず、自己否定していたのです。つまり自分の強み、自分の長所は何もない。他と差別化できるものは何もないと思っていたというのだ。何をしても他と太刀打ちはできない。細そぼそとやっていくしかない。そんな時経営コンサルタントの人たちと話をしていた時、自分の強みに気づいたそうです。それは魚を開いてつけるときに使う漬け汁でした。「塩汁」というそうです。漬物でいう「ぬか床」のようなものです。「じじや」は、創業昭和45年以来のものを継ぎ足しで使っているそうです。魚のエキスが充分に染み込み、とてもうまみのある干物ができるのです。これは長い伝統を持つ門司地区の水産業者でも、これほどの塩汁を持っているところはないぐらい貴重なものです。これが味の違いを生み出していたのです。これほどの特徴、強みを持っているにもかかわらず、自分では気が付かなかったというのが不思議です。神経質な人も、感受性が強い、粘り強い、分析力がある。用心深いなどの長所があります。この世の中に多大な貢献をしているのは、そうした神経質性格の持ち主なのです。しかし神経症に落ち込むと、そんなことには目もくれず、心配性でちょっとしたことを気にやむ。とらわれやすい。そんな自分の欠点や弱点にしか目が向いていません。森田理論学習では、欠点や弱点があると、その裏にそれに見合うだけの長所や強みがあるといいます。欠点や弱点が大きければ、逆に長所や強みは大きいといいます。欠点や弱点は長所や強みを鍛えたり伸ばしていく中で、次第に目立たなくなっていくものだという考え方です。
2014.06.30
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私はこのたび基準型学習会の講師を務めることになっている。単元は「あるがまま」と「純な心」である。生活の発見会には「新版森田理論学習の要点」というものがあり、それに沿って講義するようになっている。要点の項目は、あるがまま、純な心、感じ、恐怖突入、共感と続いている。さらに補足版で「あるがまま」と「純な心」がある。あるがままと純な心はよいのだが、それ以降の項目との関連づけがとても難しい。かえってこれ以外で大切な項目が抜けているような気がしている。10日ぐらい前から講義内容の準備を進めてきたが要点を基準にするととても難しいと思っている。納得できるような講義内容ができないのである。そこで独自に項目を設定してみた。皆さんのご意見を聞きたいのである。1、「あるがまま」の能動的側面についての説明。この中で不安と欲望との関係。バランス、精神拮抗作用、手段の自己目的化、恐怖突入の話をする。2、「あるがまま」の受動的側面についての説明。このなかで、不安にはコントロールしなければいけないものとしてはいけないものがある。事実を認める。受け入れる。服従するとはどういうことか。あるがままの受動的側面を阻害している3つのものの説明。認識の誤り、「かくあるべし」、他人中心の生き方。次に事実に服従するにあたって注力すべきことの説明。観察する。具体的であること。両面観で見ること。事実は4つに分けて考えること。3、感じの発生、感じを高めるということはどういうことか。4、「純な心」とはどういうことか。トレーニングシートを配布して考えてもらう。5、「私メッセージ」の発信。トレーニングシートを配布して考えてもらう。以上5項目を1時間という時間で説明する。後質疑応答で深めていく予定です。
2014.06.29
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人生60年を生き抜いた人は、国家試験でいえば合格証を発行したい。今年60歳になるかたは1954年、昭和29年生まれである。振り返ってみると、私はある時期いろんな国家資格取得を目指したことがある。立て続けに社会保険労務士、宅地建物取引主任者、行政書士、ファイナンシャルプランナー資産運用部門一級技能士、日本ファイナンシャルプランナー最高峰CFPなどに合格した。合格基準点はだいだい60点であった。医師国家試験。看護師、保健師国家試験はよく知らないがほぼ同程度ではないだろうか。すると、人生60歳を迎えたということは、文句なくこの世に生を受けてまずまずの点数を取ってきたとみなしてよいと思う。人生の荒波をかいくぐって今現在生きているということは、とても尊いことだと思う。ただ実務経験はないのだから、これからも精進を重ねて技や技術を磨き世のため、人のために役立つように努力することが不可欠だと思う。60歳を生き抜いていたことは、気が付かないだけで、人のために役立つものは何かしらのものは持っていられると思う。健康に生きてきたというだけでも価値がある。だから客観的な立場で一旦棚卸をする必要があると思う。人にしてもらってもよいかもしれない。そうはいっても、私には何もないと思われている人もいるかもしれない。棚卸の参考のため、私の経験を披露してみたい。・私は中学から神経症で苦しんできた。30代で森田に出会いもう30年近く学習してきた。この方面で人の役立つノウハウの提供はできる。・アルトサックスで老人ホームの慰問活動を始めて約5年。つたないながらも150曲のレパートリーがある。楽譜の提供。指導は無償でしてあげられる。・曲がりなりにもファイナンシャルプランナーである。今は退職金をもらっても、もっと増やそうとして、株や投資信託に投資して大損を抱えている人がいる。もう少し知識を増やせば、資産を減らさない。安全に管理する方法ぐらいは指導できると思っている。・大学は旅行で富山県、新潟県以外はすべての県に足を踏み入れた。北海道は知床から礼文島までくまなく回った。伊豆七島は大島、三宅島まで行った。九州沖縄は奄美、与論島、沖縄を回った。海外はシンガポールやハワイのオアフ島、マウイ島まで行った。奄美ではサンゴ礁の美しさを体験している。そうした旅行情報は数多く持っている。これも少しは役に立つかもしれない。逆に教えてもらいたいことは、自家用野菜の上手な作り方である。またパワーポイントの使い方、スマートフォンの使い方などに詳しい人に教えてもらいたいことがある。それから写真をブログにアップする方法などがちんぷんかんぷんである。今すぐに思いつくことはそんなところだ。まだまだあると思っている。皆さんもこれを参考にして棚卸してみてほしい。きっと私はこんなことができる。みんなの役に立てるかもしれない。60年近く生きてきた人は自分が気づいていないかもしれませんが、きっとあるはずです。それを現実に役立てれば素晴らしいとは思いませんか。そんな気持ちで行動すれば、自他ともに活かすことができます。
2014.06.29
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初心者がいない時の自己紹介をどう準備していくか。参考のために、自己紹介のための項目をリストアップしておきます。1. 直近1カ月の生活の中で身近に起こったことで皆さんに聞いてほしいこと。うれしかったこと、残念だったこと、悲しかったこと、うまくいったこと、失敗したこと、困っていること、苦しんでいること、感動したことなど。2. 夫婦関係、親との関係、子供や孫との関係、親戚づきあい、仕事のこと、近隣関係、ペットとの付き合い、健康の話など さし障りのない範囲で3. 皆さんにお伝えしたいお得な情報、趣味、旅行、特技など。4. 最近読んだ本、新聞記事、映画、コンサート、音楽、川柳などなど。5. 森田的な観点から学んだこと、気のついたこと、会得したこと。日常生活の中での森田の活用、発見事項、実践課題とその状況これらの項目から日記を見て1か月の生活を振り返ってみる。話す項目を1つか2つに絞って予行演習をしてみる。神経質な人は好奇心の旺盛な人が多い。他人のやっていることに影響受けて、生活の幅が広がっていくことがあるのです。それが神経症の克服に役立つのです。そういう気持ちがあれば、自己紹介に力が入ります。自己紹介のための準備を必ず家でしておくこと。これで自己紹介は意味のあるものとしてすぐに生まれ変わってきます。
2014.06.29
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生活の発見会の集談会という学習会の中で決まって最初に自己紹介がある。慣れない時は何を話してよいかわからない。どこの集談会でも自己紹介カードが回ってきて、それを見て話すことが多い。でも準備なしでそれを見て話すだけでは味気ない。私はその時、一人でも初参加の人がいると、その人だけに焦点を当てて自己紹介している。続けて参加している人から見るとまた同じ話をしていると思われていると思う。その人に向けて神経症で苦しんでいた時の話をするのである。それも具体的に赤裸々に、初回参加者に共感してもらえるように心がけている。私が出席している集談会では、そういう心掛けの人が何人もいる。万人は一人の人のために自己紹介しているのである。そのために苦しかった当時のことは原稿にまとめてある。それを見ながらしゃべっているだけである。初回参加者はきっと同じような悩みを持った人がいると共感しておられると思う。これがもし、初心者の人よりもいつも参加している人に焦点を当てていると、症状についてはほとんどの人はよく知っている人が多いので簡単に済ませてしまうことになる。すると初心者の人はどういう悩みを持っていた人なのかよく分からない。たとえば、私は対人恐怖症です。不安タイプです。強迫行為です。といった自己紹介は初回参加者にとって、共感することはできない。こうなると何のために自己紹介の時間をとっているのか分からなくなってしまう。貴重な時間を費やす必要はない。むしろいきなり理論学習や体験交流に入ったほうがよいということになる。これは学習会がマンネリに陥る原因ではないだろうか。もっと工夫する必要がある。反対に初回参加者がいなくて、継続的に参加している人ばかりの時もある。そういう時は、むしろ症状の話は省くべきだと思う。森田を生活に応用してうまくいっている話、うまくいっていない話。森田理論を使って最近の出来事をこう考えてみました。今月の生活の発見誌で触発されたこと。等々、みんなを刺激するような話をしたほうがよいと思う。そのためには毎日日記をつけて、集談会が始まる前に直前の1か月を振り返ってほしい。その中から一つ二つぐらいをピックアップしてまとめて来てほしいのである。自己紹介は長々とするものではない。少なくとも3分から5分以内には終わらないと時間が無くなる。要するに、集談会の自己紹介は初回参加者がいるときとそうでない時の2種類を用意しておくことが必要だと思う。参加者を見て使い分けることである。いずれにしても事前準備は必要である。臨機応変に変化をつけるということが大切であると思う。
2014.06.29
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以前テレビによく出ていた経済評論家でU早稲田大学大学院教授がいた。田原総一郎氏の番組で、この方のコメントは分析力と言い、説得力と言いピカイチであった。それもそのはず2000年から2003年にかけて日本経済新聞社よりアナリストランキングエコノミスト部門第一位を連続して獲得していた。その先生がエスカレータで女性のスカートをのぞき込むという失態を侵した。その後また電車内で女性のお尻を触るという痴漢騒ぎを起こした。耳を疑うような事件であった。最近はテレビでコメントを聞くことはなくなった。欲望の暴走の結果、仕事や信頼をすべて失ったのである。能力があるだけに、とても残念だ。本人も悔やんでも悔やみきれないことだろう。一方には理知的でスマートでみんながうらやむほどの経済アナリストの顔を持つ。もう一方には、性欲が抑えきれず後先考えず、痴漢行為を繰り返す変質者でどうしようもない人間がいる。Uさんは二重人格の持ち主だったのだろうか。Uさんも自分の性的欲望の処理の方法はよくないと言うことは十分承知していたと思う。でもつい手が出てしまう。制御しなければと思ってもつい手が出てしまう。その結果、過去の栄光はすべて失ってしまう。手の付けようがない自分が、自信に満ちた栄光の自分を裏切ったようなものである。これは実は他人ごとではない。自分の欲望の対応について思い出してもらいたい。ギャンブル依存症、アルコール依存症、薬物依存症、性犯罪、DV、児童虐待を繰り返し起こす人はそこかしこにいる。決して手を付けてはいけないということは、十分理解している。ただ体が言うことをきかないのです。欲望が制御不能に陥っているのです。これは酒を飲んで車を運転しているようなものでとても怖いことです。神経が麻痺しているようなものです。この場合よくいいわけをする人がいる。いいわけをしてはいけない。でも自分の中に別の人間が住んでいて、不祥事を起こしていると思っているのだろうと思う。そんな自分はどうか許してやってほしいという気持ちなのだろう。すべての人間は欲望を前にして無力なのかもしれない。農耕が始まってからの人間の歴史は欲望の暴走そのものだった。そのことを前もって自覚しておくことは極めて大切だと思う。Uさんは、そういう癖があるのだから電車には乗らない。特に飲酒の後は絶対にダメです。気分が高揚してもう一人の自分が前面に出てしまうからです。自転車、車、タクシーの利用などを考えるべきだった。これくらいは大した問題に発展しないだろうと思うこと自体がもう破滅への道に向かっている。絶対にダメなのだ。そう思ったとたんに地獄が待っている。そのことはよく自覚してもらいたいと思う。または、制御機能を持った人に日頃から、アドバイスをしてもらうことだ。幸いにして欲望の暴走は、一人の人間がその多くを持ち合わせているわけではない。ギャンブル依存症、アルコール依存症、薬物依存症、性犯罪、DVのうちのいずれか一つが問題になっている人が多い。その一つに対してだけは、十分に自覚を深めておく。欲望が頭をもたげて来ても、最初から安易に近づかない。そういう場は極力避ける。そのための決め事を自分なりに持っておく。これらのことを、普段から心しておいてもらいたいと思う。欲望の暴走を止めることが、自分の人生を全うできる唯一の道だ。このことを、森田理論学習の中でつかみ取ってほしいものです。
2014.06.28
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再び、東京都議会のヤジ問題についてとりあげたい。鈴木章浩都議の声:早く結婚した方がいいんじゃないか別の男性の声:自分が産んでから別の男性の声:がんばれよ(議場で笑いが起きる)塩村都議:今後、妊娠、出産に関して男性の声:動揺しちゃったじゃねえか塩村都議:悩みを抱える女性たちの問題に対し(中略)具体的な取り組みをお願いいたします。男性の声:いやー、先生の努力次第塩村都議:また、不妊の原因は女性だけではなく男性の声:やる気があればできるこれらのヤジが東京都議会の実態であったという。セクハラそのものである。見識を疑わざるを得ない。これらの複数議員は、ほとんど中堅、古参議員であった。声紋分析でほぼ特定された。その中に驚くべき議員が含まれていた。これらの議員は、自信過剰に陥り、慢心、傲慢さが際立っている。それらを制御する機能が全く失われている。欲望が暴走し、自浄能力はもはや期待はできない。森田理論では、そうなってしまうとその場には近寄らない。強制隔離する必要があるという考えだ。つまりこの場合は議員辞職して、今後の暴発を防ぐことが優先課題となる。一度やったことは、また繰り返されるからである。それももっと深刻で、重大事件を引き起こす。都議会の場合はそれに集団の力が加わる。放置すると金の無駄遣い、都議会の混乱に拍車をかけることは必至である。議員辞職は、本人たちが生まれ変わるきっかけにもなる。もし個々人の暴走が止まれば、その時にまた都議会議員として復帰を果たせばよい。こういう人が一方では、女性の味方、女性の就業機会を増やす、子育て支援を政権公約に掲げているのである。全くナンセンスでその資格はない。私生活でもやりたい放題、享楽的生活を満喫していることは容易に想像がつく。東京都議会の中に毒蛇が何尾も動き回っているようである。危険極まりない。なぜこうなるのか。今後3年間の任期を全うさせると、その額一人当たり7500万円にもなるという。私はそんな高額報酬に原因があるとみている。過ぎたるは及ばざるがごとしである。議員1年目のときは、みんな真摯に政策作りに向き合ったはずである。それが高額報酬で目がくらみ、一挙に心変りが起きたのである。今や過ぎたるは及ばざるよりもなお悪しである。これは本人たちのせいばかりではない。制度そのものがそういう人間集団を作り出してしまう仕組みを持っているのである。本人たちもどうしてこんな堕落した議員になってしまったのか。初心に戻って都民のために尽くすことはできないのか。でも堕落してしまった、自分たち自身ではどうすることもできないジレンマを抱えている。この問題は徹底して膿を出すまで追及の手を止めてはならないと思う。そのためには都民の署名活動がカギを握っているかもしれない。都議会自体は自浄能力は機能しなくなっているのだから、世論しか自浄能力は発揮できない。都民の動きに注目している。
2014.06.28
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私は森田理論を学習し始めたころ、「唯我独尊」というのは、かたくなで自己中心的な人のことかなと思っていました。後からそれとはまったく違う意味なのだということを知りました。我々が自分の本性を認めて、これを礼賛し、ますますこれを発揮し、どこまでもこれを向上させていこうとするのを「唯我独尊」といいます。人はそれぞれ強烈な個性を持っています。同じ親から生まれた兄弟姉妹さえも、容姿、性格、能力など共通点もありますが、微妙に違います。なかにはこれが同じ兄弟姉妹なのかと思われるような人もいます。そちらのほうが多いようです。不思議なものです。各々の持って生まれた容姿、性格、能力を活かして生きていく。課題や目標の達成に向かって努力精進してゆけばよい人生を送ることができます。これが唯我独尊という意味です。ところが成長するにつれて、そんなことを忘れて、人と自分を比較して是非善悪の価値判断をするようになります。人を見て優越感や劣等感を持つようになります。優越感を持って他人を否定し、劣等感を持って自分を否定するようになります。否定することからは、将来につながるものは何も生まれてはきません。将来につながる考え方は、現実、現状を肯定していくことです。しかしこれを実践することはとても難しいことです。でも森田理論学習を継続されている方は、常に原点に立ち戻るという姿勢は忘れないようにしてもらいたいと思います。それが神経症に陥らず、自分の人生を実りあるものにするためには欠かせない考え方だからです。具体的には、是非善悪の価値判断を止めること。どんなに不快な感情も受け入れていくことです。次に自分がどんな存在であっても、たとえどんな失敗やミスをしてもそのまま受け入れて、認めていくことです。また他人からどんな仕打ちをされても、まずその事実をしっかりと受け止めていくことです。さらに他人の存在、失敗やミスも許してあげられる包容力を持つ。最後に避けることのできない理不尽な事故や自然災害を受け入れていくことです。こうした生き方を身につけた人を「森田の達人」と呼ばせていただきたいと思います。
2014.06.28
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現代に生きる子供たちには、こういうリアルの体験はあるのでしょうか。リアルの世界はめんどくさい、しんどいし、自分が傷つけられることがたくさんあります。それに比べてバーチャルな仮想世界は、簡単手軽で、気に入らなければすぐにリセットして最初からはじめられます。インターネットが本格的に始まったのはついこのあいだのことですが、今やゲームをはじめ、コミュニケーションも携帯やメール、LINE、ツィッター、フェイスブックのようなのに変わっています。つまり人間関係も顔を突き合わせなくても、世界の人とつながるようになっています。先日テレビを見ていると現代の戦争は、ゲーム感覚というのがありました。リアルな実体験が皆無で、家の中でゲームで敵を倒すという遊びを続けてきた子供が大人になり、軍隊に入る。そして一旦戦争が始まると、今や主力は最前線に行くのではない。近くの自国の軍隊の基地に行き、ステルス戦闘機のような無人の攻撃機をGPS機能を利用して操作する。ピンポイントで正確に攻撃できる。自分の命を懸けて戦っているのではない。ゲームの延長として任務を遂行しているだけのことである。あるいは戦場からは遠く離れた航空母艦や潜水艦の中にいる。中東のイラクだろうとイラン、シリアだろうと遠隔操作できるのだという。まさに子供時代の遊びの延長である。恐ろしいことに、爆破されて人が死ぬという実感が持てない。心が痛まないのである。これを拡大解釈すると、管理の甘いどこかの国で核ミサイルのボタンだって押すかもしれない。一旦ボタンを押すと後戻りはできない。反対攻撃を受けて双方とも全滅だ。ここで実は最も大きな問題は、子供時代にバーチャル世界の体験を積み重ねていると、人の痛みが分かるという健全な感情が育たないということが大きな問題である。そして一旦人の痛みのわからない人間が出来上がると、大人になって取り戻すことはできないということである。そういう人間として一生を生きていくしかないということである。森田で感じから出発するというけれども、その人間らしい人を思いやるという感情が湧いてこないのである。それは最近の脳科学で解明されているという。インターネットが本格的に始まったのは1990年代だといわれている。それ以降の子どもはバーチャル世代、仮想世界に住む人間である。好むと好まざるにかかわらずそういう環境の中に放り込まれている。当たり前の感情が沸き起こらない、人の痛みが分からない、何をしでかすか分からない人間の出現。これはパソコン、携帯端末などが普及すればするほど深刻な心の問題を引き起こす可能性がある。今後議論して修正されなくてはならない大きな問題だ。
2014.06.27
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孫と近くの大型ショッピングセンターに行きました。するとゲームをしたいというのです。ゲームコーナーに行くとカードを使って敵を倒すというゲーム機が何台もありました。また別のところでは2メータ四方でテレビ画面の付いた「魚のいけす」のようなものがありました。魚釣りのゲーム機なのです。画面を海に見立てて、サメやカジキマグロ、タイや太刀魚、カレイや得体のしれない魚が数多く動いています。カラフルで色鮮やかです。何人もの子供たちが小さい竿のようなものを使って魚釣りをしています。糸のようなものを投げ込むと数秒で魚がかかります。するとかなりの衝撃を感じるのでしょう。必死になって手繰り寄せています。見事に手繰り寄せるとコインがもらえます。考えてみると子供たちは家でもゲーム機を持っています。何種類のゲームソフトを持ち、コントローラーを操りながら楽しんでいます。外で魚釣りをするよりも面白いのかもしれません。手がるに楽しめます。何しろ手が汚れません。嫌なにおいもありません。快適そのもののようです。仮に海で魚釣りをしても釣れるとは限りません。朝早くから起きて道具をそろえて、餌も準備しなければなりません。クーラーの中に氷も準備します。昼食や飲み物、日よけ対策も必要です。どこで釣れるのか、情報をつかんでおく必要があります。釣り場につくとまず道具をセットします。針をスジに結びつけるにはコツがあります。次にゴカイなどの餌をハリにつけます。その時ゴカイは暴れます。小さいツノで最後の抵抗を見せます。餌を投げ入れても、汐の流れなどで流されてしまいます。そのうち雨が降ったり、暴風雨で海が荒れることもあります。また海底の状況によって根がかりしてしまうこともあります。しかし運よく魚が釣れるととても満足感があります。でも魚の生臭い匂いに耐えないといけません。それからクロダイなどは血止めをしないといけません。カッターナイフで頭としっぽを切って血を抜くのです。そうしないと身体に血が回っておいしくないのです。さらに食べられるようにするためには、内臓を取り出さないといけません。気持ちの良いものではありません。さらに海は危険な岩場のようなところがたくさんあります。また雷などがなるとすぐに退散しないと大変なことになります。一方穏やかな波を見ていると心が癒されることもあります。
2014.06.27
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「宮大工の人育て」 菊池恭二著 祥伝社という本は森田理論を大工さんという立場から具体的に書いてある本です。目からうろこが落ちるような本です。推薦いたします。宮大工は薬師寺金堂、西塔、池上本門寺五重塔など全国各地の社寺建築の建設や解体修復をする人です。どうしてそのような技術を身につけられたのか。あるいは一癖も二癖もあるような個性的な職人を束ねていくことができるようになったのか、詳細に語られています。菊池さんは宮大工の世界では神様のような人のところで修行できたというのがよかったといわれています。その人は法隆寺大工の西岡常一棟梁です。ここで21歳から6年間毎日お茶出しをされていたのです。これが今に生きているのです。その間ただお茶を出していただけではありません。棟梁の一挙手一動を観察して自分のものにされていったのです。匠の技や人使いの妙などを身につけていかれたのです。上に立つものとして何が必要なのか、ものの考え方はもとより、職人の心構え、図面の描き方、原寸の描き方、仕事の段取り、指図の仕方、職人の使い方などを着実にものにされたのです。私はこの本を読んで森田先生と一緒だと思いました。水谷啓二先生も20代の頃森田先生に6年間つきっきりで身の回りの世話をされていました。その中から森田理論の普及に目覚められて啓心会、啓心寮の開設、そして生活の発見会の礎を作られました。多分この6年間で将来につながる数多くのことを学ばれたのでしょう。今我々にできることは何でしょうか。私が思うことは、森田理論をきわめて、体得している人を一人でも多く発掘することだと思います。全国規模では何人もおられると思います。集談会などで何気なく話をしていると、この人はすごいなと思う人はすぐに分かります。すごいなというのは、森田理論をとうとうとしゃべれる人ではありません。森田理論学習的な生活を実践している人です。そういう人は、雰囲気というか強烈なオーラがあるのです。そういう人に付きまとうことです。たとえば、集談会では近くに座り指導を仰ぐことです。待ちの姿勢ではなく、聞きたいことを整理して準備していくことです。学び取るという積極的な姿勢が欠かせません。すると適切な指導をしてくださると思います。森田は自分一人で学習すると効率が悪いし、横道にそれてしまいます。また森田理論を十分に理解できていない人同士で学習しても癒しにはなるでしょうが、十分な効果は期待薄です。お勧めしたいのは、良き先輩探しです。良き森田理論体得者、いわゆる森田の達人を見つけ出すことです。その人に近づいて、その人の考え方、その技、生活スタイルを学んで、真似ていくことです。模倣して自分のスタイルとして確立していくことです。このように考えると、今の所属集談会にとどまらず、他の集談会への参加、ネットのつながりなどを導入して学習を進めることが効率的だと思っています。
2014.06.27
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宮大工の菊池恭二さんは次のように言われる。大工の仕事は雑用から始まります。掃き掃除や片付けなどです。これは弟子にとっては大事な仕事の一つです。掃除や片付けなどの雑事を丁寧にして道具をきちんと片づけておくことは「安全管理」「品質管理」につながります。散らかしほうだいの現場ときちんと整理された仕事場のどちらが良い仕事ができるでしょうか。それを弟子入りしたときから体に積み込ませるのです。そういう人は道具を大切にするようになるし、使いやすいように常に手入れをするようになります。大工の基本です。さらに言えば、そうした雑用は仕事を教えてもらう棟梁や先輩大工、仕事をいただいたお施主さんへのお礼の気持ちであったり、そうした思いを身を持って示すことでもあります。礼儀作法などの社会人としての基本を一つ一つ覚えて、人間的に成長していくのです。もう一つ、新入りの大工にとって大事な仕事があります。棟梁や先輩大工の手伝いです。この仕事は大工に必要な「段取り」や、材木や部材、道具類などの名前や用途、使い方などの大枠を覚えるのに欠かせない作業です。最初は材木を見ても杉だか松だかわかりません。棟梁や先輩大工の手伝いをしながら、その違いを知り、特徴や用途が分かってくるのです。その際、大切なことがあります。言われたことをイヤイヤしている人は進歩がありません。好奇心を持ってまじめに「どうしてなんだろう」「なぜなんだろう」と学びの心を持って取り組むとすぐに伸びてきます。職人の世界は「教えてくれるのが当たり前」という意識では一人前にはなりません。「教えてもらうのではない。自分から学び取るのだ」と自ら意識を変えないといけません。菊池さんは雑用、雑事を丁寧にすることを大切にされています。これは森田理論の日常茶飯事を丁寧にこなしていくということと同じです。さらに雑事も物そのものになりきってこなしていけば、どんどん成長して一人前になるといわれています。これらは森田理論学習をするものとしては、一番に体得したいところです。(宮大工の人育て 菊池恭二 祥伝社参照)
2014.06.26
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宮大工の菊池恭二さんは弟子をとる時は採用面接を行う。決め手は、一に真面目さ、二にやる気と覚悟だという。あとは宮大工という特殊な職人の世界でやっていけるかどうか、その適性だ。それでも一人前になる5年間辛抱する人は半分しかいないという。5年間頑張る人は宮大工として独り立ちする。10年も頑張る人は棟梁として采配を振るうことができるようになる。残る弟子と辞めていく弟子。道を分けるものは何かといわれれば「自分で学ぶ気持ち」があるかどうかである。弟子入りするには「教えてもらうんじゃない。勉強しに行くんだ。覚えに行くんだ」という強い意志が必要です。入門さえすれば自然に専門知識、技術、人の使い方が身につき一人前になると思ったら大間違いだといわれる。貪欲に仕事に取り組む姿勢が、その後の明暗をはっきりと分ける。これは新入団した野球の選手にも言えることです。二軍で毎日寝食を忘れるぐらい練習をして、一軍選手に追いつくために体力や技術を磨く。対戦相手の研究をする。サインや連係プレーの練習をする。食事や体の手入れ、道具の手入れの仕方を学ぶ。チームメイトとの付き合い方を学ぶ。一時期、そういう貪欲さやがむしゃらさが必要です。するといつの間にか、力がついて階段を飛び越えるようにレベルアップする。それは一軍で通用する体力、気力、技術を身に着けたことになります。一旦体が覚えた感覚はなくなるものではない。自転車に乗れるようになる。車の運転ができるようになる。クロールができるようになる。その感覚は死ぬまで忘れることがないのと一緒です。そこからさらに加速して努力を重ねた選手が一軍でレギュラー張れるようになる。そうなるまでは、何としても貪欲に精進を重ねる時期を過ごすことが必要である。これは森田理論を自分のものにするためにも当てはまります。基礎編、応用編、体得への道はたかだか3年間です。その間これはと思う先輩会員について、寝食を忘れて森田理論学習に取り組む。森田理論をしっかりと体にしみこませていく。一旦身に付いた森田的生活は、その後生きている限り一生涯役に立つものです。だらだらと10年、20年と何年も森田理論学習にかかわっていたというだけでは、ほとんど効果はありません。私の30年間の学習経験からはっきりと言えることです。そのうちマンネリに陥り、意欲もわかなくなり、森田理論学習に見切りをつける。症状をとるために、他の療法をさ迷い歩き、思ったほどの改善が見られず愚痴をこぼすようになります。これは人生観が変わっていないので、苦しさから抜け出ていないのです。それは森田理論そのものに原因があるのではなく、学習に取り組むその人に問題があるのです。森田理論学習は、短期集中の意気込みで取り組んでいただきたいと思っています。最後に森田先生の言葉をご紹介しましょう。「森田の修養は長年やってもいけない。1年ぐらいでは、少し足りない。2、3年ぐらいがちょうどよいかもしれない。強迫観念で20年も30年も治らないで死んでいく人をぼつぼつ知っています。」これは私の森田理論学習3年サイクルというのと合致しています。(宮大工の人育て 菊池恭二 祥伝社新書参照)
2014.06.25
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東京都議会議員S氏の都議会でのヤジが社会問題となっている。多分この人は議員辞職に追い込まれるだろう。都議会議員報酬は約2500万円といわれているが、一言のヤジが命取りとなる可能性が強い。S氏は都議会では7年目、中堅議員である。東京都の自民党の政務調査会会長代行を務めている。S議員は元々大田区議会議員の時から選挙民には人気があり、常にトップ当選を重ねていた。都議会議員になっても2013年トップ当選である。そんな彼の中で一体何が起きていたのだろうか。私が思うには、飛ぶ鳥を落とすかのような順風満帆の議員生活の中で、だんだんと自信が芽ばえ、次第に自信が膨らみ、その自信が慢心になり、そして傲慢さを身に着けていったのではないかと思う。傲慢で制御不能な一人の人間が、都議会議員のバッチをつけていたのである。ヤジの是非が問われているときに、建設的なヤジは必要なものだといっていたのが印象的であった。ことの重大さに気が付かないほど、鈍感になっているのだ。大田区議に初当選したのは1999年のことだが、その区議時代に、公費でヨーロッパ視察、アメリカ視察を行っている。その後提出された報告書は他人の文書を丸写ししたものだったという。もちろん文献の出どころの記載はない。これがばれて追及されると、視察を今後に政策に活かすことが大事であると弁明していたという。何かおかしい。通常の神経の持ち主では後ろめたいと思うのだが、そんなことはみじんも感じられない。今回も謝罪するまでは嘘八百を繰り返していた。誠意とかは無縁の人である。とても女性の味方、女性の人権を守る、女性の就業機会を増やすことを政権公約にしていた議員とは思えない。これはS氏だけの過ちとは思えない。欲望と不安のバランスの大切さを知らない人は誰でも陥りやすいことだ。たとえば、思いがけない幸運が舞い込んだとき、私たちはこの世は自分を中心に回っているのだという錯覚に陥る。そして欲望は次の欲望を生んで、どんどんと拡大してゆく。森田理論で言う欲望の暴走は自分の破滅を招くというのはどこ吹く風となってしまう。権力を持つ、大きな成功をつかむ、大金が入る、日本や世界中の人から称賛とあこがれの的になる。こんな人はよほど注意しないといけない。森田理論でいう欲望の暴走には、歯止めを利かす抑止力が必要なことを。その暴走に待ったをかけてくれる人を身近に持っていることが大切であることを。S氏はその調和を図ることをすっかり忘れてしまったから、みんなの党の塩村文夏議員に、心無い言葉を平気で言い放つことができたのではないのか。どこで歯車が狂ったのか。すでに大田区議の時代からあったように思う。
2014.06.24
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宮大工の菊池恭二さんという人がいる。菊池さんは、木はそれぞれ強烈な個性をもっているという。檜は丈夫で癖がなく木肌はつやがあり美しい。香りもいい。何より耐久性に優れ、腐りにくく長持ちする。害虫にも強い。このため柱や梁や桁、土台など構造材には最適です。ただ成長が遅く、用材しては高価になります。欅(けやき)は、固くて強い木です。檜よりも堅い。それだけに加工するのがとても難しい木です。狂いも少なく、耐久性、耐水性、耐汚性に優れている。植林できないのでとても高価です。樫も非常に硬い木ですが、建築用材としてはあまり使いません。加工がしにくく、乾燥しにくいためです。カンナの台にするにはもってこいの木です。檜葉(ひば)は、殺菌効果の高いヒノキチオールを多く含むため、木を腐らせる腐朽菌に強い。ヒバ普請の家は蚊が寄り付かない。白アリに強いなどの特徴があります。強度も檜なみ、耐水性は檜以上です。杉は檜ほどの強度はないが、それなりに水にも強く、木目がまっすぐにとおっていて加工しやすい。大量に植林されているため安く手に入ります。松は、固くて曲げる力に対して強く、耐久性もあるので梁などに使われてきた。マツヤニをだし、腐りにくい。耐久性、耐汚性に優れ、線路の枕木などに利用されてきた。このように木は、それぞれ強烈な特徴を持ち合わせています。その上で、同じ木でも育った場所によってそれぞれ違う個性を発揮する。山の南側、北側、谷、峰などどの場所に育ったのか。成育環境の違いによって、右にねじれたり左にねじれたり、節が多かったり少なかったり、柔らかかったり硬かったりする。宮大工の大切な仕事の一つに、その癖を見極め、建物のどの部分にどう使うか決めていくことがあります。温度や湿度の変化によって木は曲がったり割れたりします。木は暴れるのです。これを木癖と言います。木癖を無視して、たとえば、右にねじれる木ばかりを組み合わせたりすれば、建物は右にねじれてしまいます。これを防ぐには右にねじれる木と左にねじれる木をうまい具合に組み合わせて、ねじれの力を相殺してやる必要があります。木癖を読み切り、適材適所にあてがうことで、建物の歪みを防ぐとともに、長年の風雪に耐ええる堅牢な社寺建築を実現するわけです。それが宮大工の技です。これは人間にも同じようなことが言えると思います。同じ親から生まれ、同じ親に育てられても、兄弟姉妹それぞれに顔かたちも違うし、独特な個性を持っています。ましてや違う親から生まれた他人は、気質など大きく違うのが当然です。森田先生は全集5巻で人間の気質を7つに分類されていました。神経質性格の人とそれ以外の人とは水と油のようなようなもので、決して混ざり合うことはありません。我々は、自分の持って生まれた独特の特徴や個性を早く自覚する。森田理論の神経質の性格特徴を学習すればそのことはよく認識できます。そしてその特徴や個性を磨いていく。最終的には自分自身をを活かし尽くす。高め尽くす。またそれぞれに違う他者の特徴や個性を認める。互いに受け入れて互いに活かしあう。そういう人間関係を目指していく。宮大工の菊池さんは、ないものを求めるのではない。あるものを見つけ出して、活かしつくすことの大切さを教えてくれています。これは森田でいう唯我独尊の考え方と同じです。(宮大工の人育て 菊池恭二 祥伝社文庫参照)
2014.06.24
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「形外先生言行録」より、林要一郎氏の話。ある日庭で働いている私を、二階の居間におられた先生が「林君、林君」と呼ばれた。早速二階に上がって、居間に伺うと、先生は床の間にかけられた掛け軸を指さして、これを巻いてしまいなさいとのことである。お指図のままにその幅を巻いて箱に収めた。「それでよろしい」といわれるかと思うとそうではない。「君はあれは誰の筆かみたか」とのお尋ねに私はハッと詰まって黙ってしまった。「だから君は駄目だ、掛け軸を巻けといえば、いわれるままに機械的に巻くだけだ。なぜ巻きながら筆者を見たり絵を見たりしないのか」という先生の言葉がつづいた。指示されたことをきちんとしたのだからそれでいいではないか。どうしてくどくどと文句を言われなければいけないのか。林さんはきっとそういう気持ちだろう。こういうのをお使い根性という。うがった見方をすれば、本当はやりたくはないのだけれども、森田先生の頼みだから断るわけにはいかない。言われたことだけをきちんとやっておこうという気持ちである。あるいは、森田先生から「よくやってくれた」とねぎらいの言葉を期待していたのかもしれない。これは森田的発想方法ではない。そこから発展して得るものは何もない。森田の修養の目的は、感じを発生させ、その感じを高めることである。掛け軸を巻きながら感じを発生させ、感じを高めることが最も肝心なことである。そのためには、掛け軸をよく見ることである。見つめていると、つまらない絵だとか、自分も掛け軸が欲しいとかいろんな感情が沸き起こる。今で言えばこれは円山応挙の落款が押してあるが果たして本物だろうか。応挙の作品は偽物が多いと聞く。でも森田先生が持っている掛け軸だから本物かもしれない。「なんでも鑑定団」の安河内さんに鑑定してもらえればすぐ分かるのだが。でも表装は立派だ。後でやり直したものだろうか。それにしても見ごたえのある掛け軸をかけると部屋が引き立つ。等々。そういうふうに一旦感情が湧き出ると、その感情は次から次へと流転してくる。するとさらに探求心が出てきてくることもある。応挙の作品集を見たりするようにでもなればいくらでも進歩がある。行動の範囲が広がる。森田では「物そのものになりきる」「一歩踏み込む」などと言います。どんな小さなことにも興味と好奇心を発揮させることが大切です。神経質者はもともと強い感受性と強い生の欲望を持っています。その特徴のままに行動することが大切です。
2014.06.23
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欲望が暴走して失敗する人は多い。それは端で見ているととても面白い。ということは自分もそんな経験があるからである。イッセイ尾形の一人芝居はそこをコントに仕立てている。今一度DVDを借りてみることをお勧めする。「スケベ教師」という女生徒にセクハラを働いた先生が、職員会議で問題になる場面。「根が淫行好きなものですから、多分遺伝でしょうね。親父が満州で戦争をしないでスケベをしてたといいますから。でもまー本人も反省していることですし。あ、すみません。本人て私なんですけど」セクハラは、自分の中にいる別人格の人間がやったことでして、本来の自分ではないんですと言い訳をしています。自分の中にいる別人格の人間はどうしようもないやつでして、私も手を焼いているんですよ。どうにかなりませんでしょうか。本来の自分は子どもを教える能力もあるし、生徒からも信頼が厚い。親御さんからもよい先生だと評価されているんですよ。自分でいうのもなんなんですが、教師の鏡のような人間なんですよ。そういうところはきちんと評価をしていただきたいんですよ。そんな自分勝手なと普通は思います。でもイッセイ尾形の一人芝居を見て、笑い転げる人は、自分にも欲望が暴走して失敗した経験を思い出しているのだと思います。こんな話もあります。「スーパー前」は地下足袋を履いた労務者が、元女房のパート先に現れるネタだ。「としえっ!」と通用口で叫ぶ声は乱暴そのもの。離婚の原因が妻に対する暴力で、警察にも届が出ているというDVの筋立て。「たまには一緒にメシ食おうや」「別れた亭主が訪ねてくるのも悪い気がしないだろう」元女房を慕う気持ちは純粋なのだ。だから客は暴力亭主にあきれながら、その心情にもっとあきれる。嫌われている事実を真心でくつがえそうとして滑稽さと恐ろしさは、笑うしかない。欲望の暴走は、自分の破滅と、他人へ多大なご迷惑をおかけしているというのは百も承知している。でも暴走は止まらないのが現実だ。それが人間の実態だ。森田理論では生の欲望の発揮は一番大切なものとしている。でもその暴走は抑制されなければならない。元々人間には欲望とその制御機能はセットとして人間に備わっているものだという考え方である。サーカスの綱渡りのパーフォーマンスのように、バランスをとる長い棒が必要なのである。それがあるからといって必ずしもバランスが取れるとは限らない。でもバランスが取れやすいことは確かである。森田理論学習で自覚を深め、行動として表現できるようになりたいものです。(間の取れる人間抜けな人 森雄三 祥伝社新書参照)
2014.06.22
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森田雄三氏の次の話は森田理論の「純な心」の説明としてよく理解できる。信じていた恋人から、別れ話を切り出された瞬間を想像してもらいたい。「裏切られたとか」「悲しかった」「腹が立った」などの感情は、実は後処理で、その瞬間は相手の「申し訳なさそうな表情」や「盗み見る目つき」がクローズアップされ、「意味のない音(喫茶店なら有線のポップスとか、外なら商店街のアナウンスや風の音)が飛び込んでくる。よく聞くではないか、別れ話を切り出されても「意外と自分は冷静だった」と。どうしていいかわからず、ただぼんやりしているわけだから。そして、後から「ああ言えばよかった」「その場を去るべきだった」と悩むのが「感情」なのだ。部屋に戻って、一人泣いたとはよく聞く。気持ちを麻痺させるブレーキをかけずに、その場で取り乱したほうが自然ではなかろうか。初一念という前に、想定外のことにあっけにとられた。開いた口が塞がらない瞬間。力が抜けて、頭が真っ白になる体験。これこそが一番大切なのかもしれない。そのあとで「悲しかった」「ショックだった」さらにそのあとで、「今まで私をもてあそんだのは何だったのよ。私は結婚を考えていたのに」という怒りの気持ちが出てくるのではなかろうか。こう考えると初一念というのはほんとに微妙なところをついている。そこを見極めることができるのかどうかは、その後の展開を大きく左右する。森田理論を学び、その微妙な頃合いを体得してゆくしかない。(間の取れる人間抜けな人 森田雄三 祥伝社新書 55ページより)
2014.06.22
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森田正馬生誕100周年の事業として「形外先生言行録」「森田正馬評伝」「森田正馬全集」刊行された。「森田正馬全集」は今でも買ってきて読める。特にその5巻は圧巻である。ところが、「形外先生言行録」「森田正馬評伝」は絶版である。「形外先生言行録」は元入院生、親しく交流のあった人たちの追悼集である。そうそうたる人たちが名を連ねておられる。森田先生の日常生活のなかでの指導内容がとてもよく分かる。全集第5巻の次に衝撃を受けた本であった。この本からの引用はとても多い。いつでも買える状態にしてほしいものである。「森田正馬評伝」は野村章恒先生の書かれた本である。これは森田先生の伝記である。これほどまで調査をして克明に描かれた本はない。ちなみに野村章恒先生は高知の出身である。野村先生のお父さんと森田先生は、高知中学の同級生であった。野村先生のお父さんは優秀で、確か京都帝国大学に行かれたように記憶している。森田先生は高知中学時代は最下位の成績だったこともあるようだ。成績の席次が公開されていた。ともあれ、森田先生の人となりがとてもよく分かる。私はこれを見て森田家の家系図を作り上げた。森田先生の墓参りに行ったとき、墓に刻んである名前はほとんど理解できた。わたしはかねてからこれらの本をぜひとも読みたいと思っていた。長い間かなわない夢であった。古くからの会員に相談したところ、その会員はすべて購入して持っておられるという。よかったら貸してあげてもよいという。夢がかなった瞬間であった。早速借りて、「形外先生言行録」はすべてコピーさせてもらった。とてもありがたかった。森田正馬評伝は、分厚い本であったが全部読ませてもらいました。それ以来森田先生がより身近に感じられるようになりました。多分古い会員の中には持っておられる方がおられると思う。関心のある方は一度あたって見られたらどうだろうか。
2014.06.22
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このことは重要なことを我々に教えてくれている。森田理論は経済的にゆとりが出て来て、生活が豊かになり、余暇や趣味などを楽しみたいという余裕が出てきて初めて必要になるという事実である。そういわれれば、集談会に参加する人を見ていると生活保護を受け入るというような人はまれな人である。人もうらやむような職業につき、あるいはたっぷりの年金や親の加護、遺産で生活は安定している。お金で苦労しているという人はあまりいない。経済的には困っていないが、「何もすることがない。毎日退屈だ。人間関係がうまくいかない。なんとかそういう生活を打開したい。生きていて楽しいという気持ちになれない、充実感がない」という人は数多い。ある意味、森田にお世話になる人は、そういう恵まれた人である。今中国は経済発展の最中にある。これはまだまだ加速されるだろう。日本でいうと1960代半ばから1970年代に似ている。折しも、森田理論は中国で爆発的に増えている。これは日本の時代背景と重ねてみると一目瞭然である。こうした状況の中で、日本の自助グループが、生き残り、存続していくことは並大抵のことではない。それを分かったうえで、言いたいことがある。森田理論は神経質性格を持っていて、こだわりやすいという人にとっては、とても役に立つ。森田的生き方を学習すれば、自分の一生を左右してしまうほどの価値あるものを得ることができる。これに気が付かないというのはもったいない。我々学習を積み重ねて来て、恩恵を受けてきた先輩としては、なんとしても思いを1000万人はいるといわれる神経質者に伝えていく使命があると思う。
2014.06.21
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生活の発見会の会員数はその時代の影響を強く受けていると思う。水谷啓二先生が1970年3月19日58歳という若さで急逝された後、長谷川洋三氏などによって再発足することとなった。1970年代は、試行錯誤を重ねながらもどんどん成長していった。1972年朝日新聞日曜版に生活の発見会の紹介記事が載り認知度が急に高まった。発見会はたくましく全国に集談会を増やし、会員が増えていった。くしくも、この時代は日本が経済成長を謳歌して、物質的に急に豊になった時代であった。そして1980年代に入る。生活の発見会は依然として成長発展期が続いた。各地で頻繁に学習会が開催されるようになった。組織的にもしっかりとしてきた。社会的認知度も高まった。1988年にはメンタルヘルス岡本記念財団が発足している。この時期、日本経済は株価高騰、土地バブルの時代であった。一億総中流家庭の出現であった。そして激動の時代へ突入していく。1990年代は社会的にはバブルがはじけて、失われた10年といわれる時代である。失われた10年ののちは長らく停滞が続いて、今に至っているのである。さて1990年代の生活の発見会は激動の時代を迎えた。まずは高揚期を迎える。1994年(平成6年)生活の発見会の会員は6220名に達した。発見会は自画自賛して、我が世の春を満喫していた。自助グループでこれだけの会員が、全国各地に分散していたことは驚きである。私の参加していた集談会では年間月平均参加者が27名を超えるに至った。参加者が多すぎて自己紹介だけで相当の時間がとられ、本来の森田理論学習と体験談の時間が無くなった。そこで集談会は3つに分割された。ところがこれが裏目に出た。先見の明がなかった。その時代が生活の発見会にどういう影響を与えるかは考えもしなかった。もし分かっていれば、気を引き締めて新たな試みを提示できたはずである。結果としては、どんどん参加者が減少してきたのである。そのスピードは驚くほど早く、加速度を増してきた。こうなっては誰もが食い止めることはできなかった。そしてついに開催が危ぶまれるまでに落ち込んでいったのである。全国的にどこの集談会もそうした問題を抱えていた。対策はいろいろと議論されたが決め手はなかった。そして今や会をどうして残していくのかという問題を突きつけられている。難しい問題だ。これを社会的時代背景と対比させてみよう。バブルがはじけて深刻な影響が出始めたのは1994年ごろからである。1996年には株価低迷に加えて、不良債権問題が表面化してきた。巨大企業の倒産、業績の悪化が相次いだ。信じられないような新聞報道が相次いだ。個人的には正規労働がなくなり、派遣社員、アルバイト、パートで働く人が多くなった。低賃金で将来への希望を持てない人が増えてきた。つまり心の悩みを抱えて神経症に陥っているような余裕が少しずつ減少してきたのである。とにかく生きるために必死で働かなくてはいけない時代になってきたのである。
2014.06.21
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現役で仕事をされている人へ質問です。あなたは仕事を追っていくタイプですか。それとも仕事に追われるタイプですか。私はかっては仕事に追われるタイプでしたが、途中から基本的には仕事を追うタイプに変身しました。これは森田理論学習のおかげです。森田の雑仕事を丁寧にする。一枚の伝票をお金のように扱う。整理整頓を心がける。などきわめて単純なことをおろそかにしないだけのことです。そのコツを教えてあげましょう。まず仕事に追われて青色吐息の人の特徴はこんなところです。・細かい仕事を溜めこんでいる。・行き当たりばったりで、気の向いた仕事をしている。急ぎの仕事は上司や関係者から催促されてやっと手をつけている。・仕事が残っても、別に何もしない。出来る範囲の仕事をこなせば十分だと思っている。・今日やるべき仕事、今月やるべき仕事を平気で放置してしまう。・無駄話や仕事以外のことを考えていることが多い。・朝遅くから取りかかり、夜遅くまでかかる。残業続きで心身ともに疲れている。・伝票や書類の扱いが雑である。必要な伝票や書類を探し出すのが一苦労である。・机の中が整理されていない。使えないボールペンなどがてんこ盛りである。仕事に必要のないものが入っている。・うまくいかないのを人のせいにしている。・まとめてやろうとするので、間違いが多く、またその発見に手間取る。結果としてやらなくてもよい仕事をたくさん作りだしている。次に仕事を追う人の特徴は次のようなものです。・細かい仕事を丁寧に確実にこなしている。・予定表や手帳にやるべきことをよくまとめている。・期限や納期を意識している。・仕事の優先順位をはっきりさせている。・小さな時間の使い方が上手である。・朝早くから取りかかり、夕方早く終わっている。・仕事にメリハリがありリズム感がある。・小さな伝票をお金のように丁寧に扱う。・机の中がきちんと整理されている。必要なものはすぐに取り出せる。不足するものは前もって補充している。・複雑な仕事をよく工夫している。自分なりのチェックリストやマニュアルをいくつも作っている。・無駄で余計な仕事を作らないように、仕事を終えると見直しをしている。・間違いやミスを早期に発見する能力がある。発見するとすぐに手を打っている。・終わった仕事はすぐに関係部署に回している。
2014.06.21
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横浜市西区の60戸のマンションで、建物を支える杭が強固な地盤に達しておらず、建物が沈下して傾いていることが分かった。このマンションを販売した住友不動産では「売り主としての責任を痛感している。修繕や建て替え、買い取りなどあらゆる手段を検討するといっている」とりあえず住民には仮住居への転居を要請したという。当然の対応である。施工はKという建設会社であった。K会社は、「現時点ではコメントできない」と言っている。なるほど。どうしてそのようなことが起きたのか、詳細な原因を追究しないと、今の段階では早計に判断できない。でも現実問題としてなんらかの過失があることは確かなようだ。K会社は大手建設会社である。問題はK会社が基礎を打ち込むとき、安易に仕事をしていたのではないかという疑念がぬぐいきれない。基礎がしっかり決まらないと、砂上の楼閣を立てるようなものだ。これは素人でもわかる。K会社はその基本を軽視ないしは無視していたと考えるのが妥当だろう。K会社は建物が傾いたときに、構造物にずれが生じるが、すべて応急処置で済ませていたという。どうして本格的な調査をしなかったのだろうか。ここで否を認めればまだ救いがあった。少なくとも信頼が地に落ちるということはなかった。住民からの要請で、住友不動産がボーリングを実施して初めて欠陥が明るみに出た。こうなった時点でK会社の信頼は地に落ちる。建設会社の姿勢を問われる。他の物件すべてを調査する必要が出てくる。会社の損害は計り知れない。何十億という純損失が発生する可能性がある。それは最終的には会社の存続を脅かすようになるかもしれない。我々神経質者も決して他山の石ではない。他人の評価を恐れて、自分の欠点、ミスや失敗を人に見つからないようにごまかしたり隠したりすることがある。でも安心感は得ることはできない。一時の気休めに過ぎない。すると、その後、いつかばれるかもしれないと思い、針の筵に座らされた状態になる。そうならないためには「まな板の鯉」になって、ミスをしたという事実を認める。事実を受け入れる。嫌な事実に服従するという森田理論の教える通り行動したいものだ。ミスや失敗から目をそらさない。やりくりもしない。逃げるでもない。事実とともに行動する。それが我々にとっての恐怖突入だ。認める瞬間は注射針を刺されるような痛みがある。でもこれが一番安楽な道なのだ。
2014.06.21
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近所に変則交差点があります。交差点は普通十字になっています。ところがこの交差点は違います。対向車線が10Mほどずれているのです。対向車は交差点に入ると10Mほど左折してから右折して直進してくるのです。私は最初まさか、そんなふうにして直進してくるとは夢にも思いませんでした。右折しようと思っていたので、思わずぶっつかりそうになりました。なんて乱暴な運転をするのだろうと腹が立ちました。こっちが優先ではないのかと。隣に座っていた友人が言いました。「ここは変則交差点だよ。交差点は普通直進車優先よ」冷静になって、よく考えれば、ムカつくけれども、こじつければそういうことか。この時最初に感じたことは「危ない。ぶつかってしまう」間一髪間に合って、「ああよかった」でした。問題はそのあとです。猛スピードで左折して右折して直進してきた相手に腹が立ったのは。これは初二念です。この怒りを相手にぶちまけたとしたら、大喧嘩になったでしょう。どう見ても自分には分がない話です。でもあまりにも腹が立ったので、あとで近くの交番に行き、怒りをぶちまけました。警察官が言いました。「確かに、あなたの言われるように危ない交差点です」私は言ってやりました。「そう思うのだったら、一方通行にしてしまえばいいのでないですか」すると、警察官が言うには、「そうすると大きく迂回しなくてはならないので、おいそれと変更はできないんですよ」しぶしぶ引き下がりました。そういえば、昨日テレビで危ない交差点の話をしていました。そこは交通量がとても多い交差点です。ところが信号がありません。そのためしょっちゅう事故があります。なぜ信号機がないのか。それは交差点の手前の一か所に踏切があるのです。ここを頻繁に列車が通ります。そのために信号を取り付けると、スムーズに車が流れなくなるのです。だったら踏切連動の信号機を取り付けたらよいのではないでしょうか。また事故が多いのでしたら迂回路をつくる。レールの高架や、車のトンネルを作ることだって考えられます。予算がないのでしょうか。事故よりもまだ優先することがあるのでしょうか。こういうことは、陳情するのは大切ですが、一市民の立場では取り合ってもらえません。町内会を通じて市会議員、県会議員にお願いして行政に働きかけてもらうのがよいかもしれませんね。それにしても世の中におかしなことはたくさんあるものです。とりとめのない話になってしまいました。
2014.06.20
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鈴木秀子さんは、1日3分間でいいので、子供が話すことを聞く訓練を毎日すると、子どもは大きく伸びていきますといわれています。「穏やかな和やかな、安心した心を作る雰囲気にするためにはまず比較しないこと、お説教しないこと、過度な同情をしないことから始まります。そして一個の人間であることを尊重しながら、その人がどんな気持ちを味わってもいいんだ、自分はその気持ちにできるだけ共感を持ってついていくのだという態度が必要になります。大人はすぐに教えたがります。批判したり、判断を下したりすることも、避ける必要があります。それは悪いことだと判断を下すのも、それはいいことだと誉めたりすることも、子供が心を開こうとしている段階ではしないで、ただひたすら共感を持って聞いていきます。」「叱られることもなく、判断を下されることもなく、批判されることもなく、比較されることもなく、自分は自分であっていいという雰囲気の中で、自分を表現し続ければ、人は誰でも自分の中の深い知恵に行きつきます。人は誰でも、人から押し付けられたり、決めつけられたりしたことではなく、自分の中から沸き起こってきて、それに基づいて行動するときに、生き生きとしたものを感じます。」(子供を傷つける親癒す親 鈴木秀子 海竜社)受容と共感の態度で人と接するということは、なにも親子関係だけに限りません。すべての人間関係に通じることです。自分の感情や意志を大切にすることは重要ですが、次に大切なことは他人の感情や意志を尊重するということです。生活の発見会の学習グループである集談会でも受容と共感の態度は欠かせません。そのために実行してほしいことがあります。私は集談会が終わったあと、家に帰って、参加者が自己紹介で話された内容を振り返ってみるようにしています。現在症状で苦しんでもがいている人もいます。生活はなんとか持ちこたえておられますが、まだスッキリとしないという人もおられます。日常生活の中で人間関係に悩んでいる人、健康面で不安のある人、生きがいが持てない人もいます。また経済的に苦しんでいる人もおられます。仕事や学習、スポーツや趣味、ボランティアなどで充実した生活を送られている人もおられます。様々な人の立場の参加者を整理して、今度会ったときに聞いてみたいこと、共感できることをまとめておくのです。自分は長い間神経症に苦しんだ経験があります。その経験があるからこそ、人の痛みが分かると人にやさしくなれるのだと思います。集談会では共感できたこと受容できたことを中心に話すことを心がけてゆきたいと思っています。
2014.06.20
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森田先生は精神拮抗作用とバランスについてしばしばコメントされています。精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。例えば、時間がたてば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。これが純な心である。その時、今日は下痢をしているから人前で行儀を悪くすると笑われると考えるのが理知である。この純な心と理知の調整によって人はその行いが正されて、初めて理想にもかなうようになる。 これはあくまでも原則です。現実にはうまく調和がとれていない人もたくさんいます。たとえば、躁うつ病、アルコール中毒、薬物中毒、ギャンブル依存症、発達障害、うつ病、心身症の人などである。これらは基本的には専門医の治療を優先することが大切です。治療によってバランスが取り戻せる場合があります。あるいは自助のグループに参加して、協力し合って乗り越えることが必要だと思います。次に親の育て方が「過保護」であるとバランス機能は、生育の過程で失われてきます。欲望が野放しになり、手が付けられなくなります。私の場合はこれに当てはまります。過保護というのは2つあります。第一に子供ができることを親が先回りしてやることです。子供に自立心が育ってきません。第二に物質的、金銭的欲望を、親が無制限にかなえてあげることです。我慢する、耐えるという力がつきません。欲望を制御して、人に迷惑をかける行為、自分を破滅させる行為に対してセーブ機能が働かなくなります。ブレーキの壊れた車のようなものです。欲望の暴走が起きるのです。欲望がエスカレートすると、突然キレたり、社会的に破壊的、破滅的行動をとるようになります。あるいは暴走した後で、罪悪感、自己嫌悪、自己否定で苦しむようになります。欲望の暴走はなんとしても食い止めらければなりません。こういうことを自覚していると、子育てが変化してくると思います。子育てを学習するようになります。特に幼児教育が決め手です。しかし、不幸にして、バランス機能が機能不全に陥っていると思われる人は、どうすればよいのでしょうか。せめて欲望が暴走するようなことはしない。そういう場には近寄らない。そういう関係の人とは付き合わないということを心がける必要があります。自分で自制することはある程度できます。そういう意志を持って生活する態度が大切です。暴走が止まらない人が、権力を行使したり、お金を持つと自分も他人も不幸になると思います。そういう人は、妻や友人、先輩、師などにお願いして制御機能の役割を担ってもらうということも必要です。そういう意味では、自分と正反対の性格、考え方をする人のほうがよいと思います。一時的にはその人たちの助言に対して腹を立てることがあっても、最終的には自分のためになると思います。
2014.06.19
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初一念については具体的な事例で考えてみるのが一番だと思います。例えば、30キロ制限の標識のあるところで40キロ超えて運転していると警察の検問に引っかかりました。こんな時、素直にすみませんでした。私がスピード違反しました。申し訳ありませんという人が果たしているでしょうか。警察も予算をもって検問をしているのかもしれませんが、(警察官に聞いてみたところ検挙予算はありませんとは言っています)あんまりではありませんか。人を貶めるようなことをしてそんなにうれしいんですか。などと腹を立ててしまうことがあります。なかには調書を丸めて投げ捨てたりする人もいます。だいたい凶悪犯を捕まえるような、停止させるあの態度はとても腹が立ちます。私は森田理論学習をしています。こんな時、腹が立つというのはもともと初一念ではないと思っています。初二念だと思っているのです。だったら初一念は何なんだろうと考えるようにしています。しまった。うかつだった。捕まってショックだ。これが初一念です。ここから出発するのです。森田理論のセオリーに従います。すると、運転していると、よく一時停止の標識があります。そこでは必ず止まるようになりました。ひょっとしたら警察官が隠れていて検問しているかもしれないと思うようになりました。また踏切などは必ず一旦停止します。こんなところでもよく警官が隠れていることがあるのです。上り坂、下り坂、そしてまさかという坂。そのまさかが、警察のねらい目です。初一念から出発すると、同じ間違いは極力抑えることができます。腹が立つのを初一念だととらえると、その怒りを警察官にぶっつけることがあります。怒りはどんどんエスカレートしてきます。すると警察官は、調書を切るのを止めて、言い分は警察署に出頭して思う存分ぶちまけてくださいといいます。自分の手に負えないものは次の段取りが組んであるのです。そんなことにかかわりあっていると時間の無駄になるばかりだと思います。ここで大切なことは、腹が立つことを初一念だと見誤ることです。「純な心」というのは、初一念を正しく見極めるということがとても大切です。
2014.06.18
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会社の中でも、親子の間でも意見の対立は常に存在します。その前提に立って、その事実を自覚しながら生きていくことはストレスを軽減する意味でもとても大切なことです。そうした自覚を持つことができれば、自分勝手の考えで相手を抑え込むということがなくなります。また相手にすべて合わせて盲従するということもなくなります。またその時々の気分に応じて、ある時は自分の意地を押し通そうとしたり、またある時は他人の主張にイヤイヤながら追随するといった優柔不断な態度が改められると思います。そのためには、まず自分の気持ちや意思をしっかりと持つことです。そして自分の気持ちや意思を分かりやすく相手に説明する。相手に自分のことを分かってもらうように最善を尽くす。それから自分の気持ちや意思は横において、相手の言いたいことに素直に耳を傾けてみる。理解するように努力してみる。最後に自分と相手の言い分の違いを整理してみる。相手と自分の双方にとって一番よいと思われる道を自分なりに考えてみる。妥協点を探っていくのです。これで自分の意見を一方的に通してしまおうという考えは少なくなってくると思う。反対に、相手に無条件に屈服するということもなくなってくると思う。これがストレスにさらされない対人関係のコツとなります。これは森田でいう精神拮抗作用の考え方です。どちらにも偏らない、どちらにもきめつけない考え方です。バランスのとれた考え、調和のとれた考えということになります。これは親業でいうと「勝負なし法」の考え方です。この世の出来事は常に流動変化しています。その中身は常に相対関係にあり、互いに影響を与えたり、与えられたりしています。人間関係も例外ではありません。バランスを無視すると、自らを破壊して、存在することすらできなくなります。
2014.06.18
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2014/06月号の生活の発見誌53ページより、認識の誤りについて。一着の素敵なコートがあるとしてある部分が少しほころんでいるとします。もしも完全欲が高いならば、ほころんだ部分に強く執着してしまい、そこにしか目がゆかなくなり、そのコートに全く価値が見いだせなくなってしまうかもしれません。このことを森田理論学習では「部分的弱点の絶対視」と言います。一つの弱点に神経を集中させています。これさえ取り除くことができれば、人生バラ色になると思っているのです。取り除こうとすればするほど、しつこく付きまとい、どうにもならなくなります。観念の悪循環、行動の悪循環が引き起こされます。次第にとらわれが強くなり蟻地獄に落ちて行ってしまいます。これは神経症に陥る人の大きな認識の誤りです。神経症状から解放されると、どうしてあんなことに右往左往していたのだろうと思うようになります。認識の誤りの学習はとても重要です。学習して自覚を深めていくことです。「劣等感的差別感」「劣等感的投射」「防衛単純化」「手段の自己目的化」そのほか、認知行動療法の10項目に及ぶ認知の誤りも併せて学習してみるとよいでしょう。そして本丸の認識の誤りである「かくあるべし」の学習へと進んでいってください。過去に何回も投稿していますので、興味のある人は検索にキーワードを打ち込んでみてください。
2014.06.17
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生活の発見誌2014/6月号で野中剛氏が藤田千尋先生の話を紹介されています。たとえば机を思い切りたたいてみます。すると痛いです。その痛さが症状です。強くたたくから痛いのです。そのことをよりよく生きると考えてみてください。よりよく生きようとするから痛いのです。苦しいのです。でも、それはよりよく生きようとすることから起きることですから、自分のこととして受け止めなければいけません。それが嫌だったら、よりよく生きるのを捨てなければなりません。ヒポコンドリー性基調の裏に欲望があるというのはそういうことなのです。森田理論で言う多くの「症状」はよりよく生きようとする反映です。ですから、逃げないで直面していく。そして、できた事実を認め、それを踏み台にして次に進む。それなしでは変革も向上もないのです。
2014.06.17
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森田理論は頭の中でスッキリ整理されても、それだけでつらい神経症を克服することはできません。つまり体得ができて初めて乗り越えられるのです。例えば、初心者が自動車を運転したいと思う。自動車の構造、運転方法を机上で理解しても、その日から自動車を運転することはできません。やはり実際に自動車に乗り、練習をして初めて運転できるようになります。それが体得ということなのです。水泳もそうですね。畳の上でいくらクロールの練習をしても決して泳げるようにはなりません。プールの中で練習して初めて泳げるようになります。では当面どのようなことを体得していくとよいのでしょうか。私は次の3点をご紹介します。まず、不安を持ちながらも、目の前のなすべきことに手を付けることができるようになることです。不安を抱えたまま、なすべきことができるというのは一つの能力です。不安というのは、不安に学んで積極的に準備をしておくことが必要なものもあります。しかしながら、不安の大半は、不安を受け入れて不安と共存していくのが基本になります。受け入れながらも本来の「生の欲望の発揮」に舵を取っていく態度を身に着けたいものです。次に第一に湧き起った感情から出発するということ。初一念から行動できるようになることです。森田理論学習では「純な心」の体得といいます。決して初二念、初三念から行動を起こしてはいけません。あるがままの感情、ありのままの自分や他人の現実を受け入れて、現状に素直に従うということです。常に自分の感情、自分の気持ち、欲望、希望から出発するということです。言い換えれば、自分中心の生き方ができるようになることです。老婆心ながら言いますと、怒りや腹が立つ感情は初一念ではありません。初二念、初三念の感情です。ここは間違いやすいところです。学習でそのことが理解できるとすっきりすると思います。理解できると、普段の生活にすぐに活かすことができます。過去の投稿を参照してください。次に目指す体得は、他人との意思のずれを調整していくということです。他人の気持ちや意思とかみ合わない部分が出てきますので、調整をしていくことです。そのためには相手の気持ちや意思をよく観察する。相手の言い分をよく聞くことです。そして自分と相手の要望とのすり合わせを行うことです。そして双方が納得できるまで話し合うことです。ここで親業のいう、共感的受容、「私メッセージ」の発信、勝負なし法は強力な武器になると思います。体得とは、大まかにいうとこの3つのステップを確実に踏んでいくことをいいます。このことは自分も他人もそれぞれ活かすということになります。森田理論学習でいう「自他ともに活かす」ということです。自分も楽な生き方ができるようになり、人間関係も当然好転してきます。
2014.06.16
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森田理論は不快感、不安、恐怖、違和感などの感情に対して、基本的にはやりくりしてはいけませんよ、気分本位になって逃げてはいけませんよと言います。では次のようなケースではどう対応されていますか。今日サッカー日本代表がコートジボワールに負けました。負けたシーンが何度もテレビ放映されます。見たくありません。森田理論ではそれは不快な感情から逃げたことになるのでしょうか。プロ野球でもひいきのチームが負けると、テレビは見たくありません。翌日の新聞も見たくありません。それって森田理論では、気分本位の行動っていうんでしょうか。集談会でも嫌な人がいると参加したくありません。それって負け犬なんでしょうか。同窓会の案内が来ても、昔いじめられたりしていると参加したくありません。会社のOB会の案内が来ても、嫌だった上司や同僚がいると、欠席のはがきを出します。成人式の案内が来ても、自分は不登校の経験がある、まともな仕事にもついていないから行きたくありません。不快な思いをすることが目に見えているから行きたくないのです。これって悪いことなのでしょうか。森田は不快な感情から決して気分本位になって逃げてはいけない。不快な感情は受け入れて、自然に服従しなさいと言ってますよね。でもどうしても足が向きません。すると心の中では葛藤が起こります。正々堂々となすべきことから逃げている自分を自己嫌悪してしまいます。自分はどうしようもない人間だ。生きていても仕方ない人間だと自己否定することはないでしょうか。もし森田理論でそのように考えているとしたら、森田理論なんか知らないほうが良かったかもしれません。森田なんか一つも自分の味方ではありません。私はこの問題に対してこう考えています。こういう場合、嫌だったらいくら逃げてもいいんですよ。人に迷惑をかけているわけではない。自分の感情に正直に行動したあなたが方が正しいのです。この場合逃げて逃げまくったあなたの行動が正解だったのです。そんな自分をほめたたえてほしいと思います。そしたら逃げてはいけないというのはどう理解したらいいのですかという質問を受けそうですね。嫌な感情から逃げてはいけないというのは、相手がいる場合です。私でいうと訪問営業で、相手から冷たい断り文句を浴びせられ、不快な気分になるから仕事をしませんというのは気分本位の態度です。そういう仕事をしている限り、予期不安に翻弄されて逃げてしまうことは決して許されません。また相手といったん約束したにもかかわらず、気が進まないという気持ちが出てきて、直前にドタキャンをする人がいます。これらは相手に多大な迷惑をかけることになります。よほどの事情がない限り、万難を排して約束は果たさなければなりません。こういう態度は気分本位の態度です。気分はどうであろうと逃げることは許されません。これは家が火事で燃えているときに、私は逃げるのは嫌だから家の中にいますというようなものです。自分は焼け死んでしまいます。これと同じことです。これと反対に、他人に何も迷惑をかけるわけでもないのに、逃げるということ自体に後ろめたさを感じて、自己嫌悪、自己否定することは本末転倒です。自分の気持ちに正直に行動してけっこうです。どんどんと逃げまくってください。それが自分の感情、気持ち、意志に正直になるということだと思います。「逃げてはいけない」にとらわれてしまうと自分を窮地に追いやってしまいます。ちょっとした違いですが、自分の生き方を大きく左右してしてしまいます。
2014.06.15
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森田正馬全集5巻の251ページにのこぎりの目立ての話がある。「今日、患者が、鋸で木を切っているところを見たが、個々の患者は、鋸の種類を選ばないうえに、いくら鋸が切れなくても、平気でひいている。鋸の切れ味などは全く無頓着である。素人は、その研ぐ時間で少しでも木をひいた方が、その時間に、余計能率が上がると思っている。それは大きな思い違いである。」全くその通りである。しかし、大工さんでもない限りそんなことは思いもよらないことである。ましてや神経症で苦しんでいる人は、そちらに大半の注意が向けられているので無理からぬことである。そこに注意を向けている大工さんはどのようにしているのか見てみよう。まず新しいノミやカンナはすぐには使えません。一回砥石で研いでやっと使い物になる。ノミは角を鋭くし、カンナは両端の角を落とすように研ぐ。砥石の上で刃物を真っ平らにするというのは何年も経験を積まないと上手にはなりません。一人前に研ぐことができるのに3年。納得の研ぎができるのに10年かかかるそうです。天然砥石を選ぶときは、コツがある。宮大工の菊池氏は、「指に唾をつけて乾いた砥石をそっとなぜる。すると水分が引いていくのは軟らかい砥石で、なかなか引かないのは硬い砥石です。」「研ぎ汁が白いほど柔らかく、黒いほど硬い」砥石は硬すぎても軟らかすぎてもダメです。砥石が硬すぎると研ぐのが難しい。軟らかいと砥石の減りが大きい。また自分の研ぎ癖の兼ね合いもあります。研ぎは仕事の始まる前には済ませておかねばなりません。職人としては当たり前のことです。ノミなら12、3枚、カンナなら5、6枚、始業10分前には済ませておく。始業前に済ませておくべき研ぎを、仕事中にするというのはさぼりだといいます。始業10分前にはきちんと研ぎを済ませ、その日の仕事の段取りを頭に叩き込み、いざ仕事が始まれば、神経を集中して黙々とノミをふるい、カンナをかける。これが職人としては当たり前のことです。これはイチローのグラブの手入れと同じです。イチローは言っています。「毎日、グラブの手入れをして大事に使うように心がけることで、はじめてグラブは自分の体の一部となり、一つのプレーも大切にするようになる。」大工も、ノミやカンナを自分の手のようにして、思いのままに操れるようにならないといけない。奥の深い話だと思います。参考になります。(宮大工の人育て 菊池恭二 祥伝社参照)
2014.06.15
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2014年6月号の生活の発見誌の35ページ。「さとり」という鳥の話です。こんなたとえ話があるそうだ。昔々、あるお百姓さんが畑仕事をしていると、目の前の木に美しい鳥がとまりました。お百姓さんは、一目見てその鳥を欲しくなりました。しかし、鳥は捕まえようとするとすぐに逃げてしまいます。いろいろ手を尽くして捕まえようとするけれども、やっぱり逃げてしまいます。ふと気が付くと、もう夕方になりそうな空になっていました。このままでは今日の仕事が終わりません。お百姓さんは、仕方がないから仕事に専念します。そして、ようやく今日の仕事を終えて、汗を拭こうと胸元に手を入れると、そこには、捕まえようと悪戦苦闘していた鳥が入っていました。それは「さとり」という鳥だったというのです。この話は、日常茶飯事、日々の仕事をおろそかにしていては、幸せは決してやってこないという教訓のことではないだろうか。我々はみんなそれぞれ境遇が違う。境遇が違ってもそれぞれに課題や問題点は与えられている。課題や問題点は基本的に自分にとって適切なものである。自分にとって荒唐無稽な課題や問題点はまず与えられることはない。これに対して逃げてしまうのか。最初はイヤイヤでも取り組んでみるのか。ここが運命の分かれ道だ。逃げてしまえば、明るい将来がやってくることはないだろう。反対に課題や問題点を一つ一つクリヤーしていくと、能力を獲得して自信がついてくる。するといつの間にか次の課題や難問が用意されている。また自主的、積極的にかかわっていく。その繰り返し。これが人間にとって幸せに生きるということではなかろうか。こうしてみると、普段みんながあこがれている経済的に豊かな生活、贅沢三昧な生活、悩みも一つもない生活、他人に依存して、なすべき仕事や役割が何もない、というのは人間にとって幸せとは言えないのではないか。自分の能力の範囲以内で、持てるものを工夫してフル活用する。日常茶飯事に丁寧に取り組む。目の前に立ちふさがってくる困難に立ち向かっていく。不安というブレーキを効かせながら、生の欲望の発揮に邁進している。そういう人生を送ってみたいものだとつくづく思う。
2014.06.15
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NHKで55歳からのハローライフ「人生の再出発・村上龍原作ドラマ」が始まった。定年を迎えてその後の人生をどう生きていったらよいのか。家族との人間関係をどう築いてゆけばよいのか。その問題に切り込んでいる番組である。今回の番組では定年後キャンピングカーを買って、妻と2人気ままな旅に出て余生を楽しく暮らそうと考えた人の話である。妻や娘に反対されて、やむなく昔のつてをたどって再就職先を探し始めるがうまくいかない。そのうち精神的に落ち込み心療内科にかかるようになる。たくさんの退職金や親の遺産が転がり込んだ人が陥りやすい生活パターンである。むしろ働かないと生活に支障があるという人のほうが、精神的な落ち込みはないのかもしれない。第2の人生を始めるにあたって、今まで仕事で苦労してきたのだから、もう働かなくてもいいだろう。趣味で生活を充実させたい。のんびりと生活を楽しみたい。グルメ三昧、観劇、コンサート、ドライブ、旅行、ゴルフ、釣り三昧、囲碁や麻雀などを存分に楽しみたい。海外旅行にもゆきたい、出来れば世界一周旅行。できれば海外のコンドミニアム暮らしも体験したい、豪華クルーズ旅行にも行ってみたい。経済的に余裕のある人の考えそうなことである。高級マンションや監視カメラの付いた豪華な一戸建てに住んでいる。高級車に乗って、最新の家電製品に囲まれて何不自由なく暮らしている。これ以上ないぜいたくな生活のようだが、精神的には何か物足りないものを感じる。いつも心の中を冷たい隙間風が吹き抜けているような気がする。森田理論を学習している人は、なぜそんなことになってしまうのかすぐに分かると思う。人間が生き生きと生活するためになくてはならないものがあります。それは自分に与えられた課題、達成したいと思う目標、希望、夢です。乗り越えることが可能な、自分に与えられた問題点、不安、恐怖、ストレスの存在です。それがあるのかないのか、持っているのか持っていないのかが決定的な差となります。それに向かって対象に働きかける永遠の努力、実践、行動こそが生きがいとなります。それが全くない。他人に依存して消費するだけの人間には、生きる喜びはありません。経済的にはうらやましく思われるかもしれませんが、本人にとっては精神的にとても悲惨な状況となります。仮によって立つ財産を失うようなことがあった場合、もう一から立ち直って生きていくことはできないでしょう。この番組はまだ続きます。そんなことを考えさせてくれる番組です。
2014.06.14
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フロイデ シェーネルゲッテル フンケン トホテル アウス エリーズィウム ヴィール ベ トレーテン フォイエル トルンケン ヒム リッヒ シェダイン ハイ リッヒトゥム ダイネ ツァウベル ビンデンビーデル ヴァスディー モーデ シュトレング ゲタイルト アーレ メンシェン・・・・ご存じ年末の恒例行事で歌われる曲です。これはドイツ語です。人類はみな兄弟というような内容です。今年もベートーベンの第九交響曲 第四楽章「歓喜の歌」の練習がいよいよはじまる。近年忙しくて参加できていないが、いずれまた参加したいと思う。今まで年末の合唱に三回参加して来た。いずれも大きな感動を味わってきた。腹の底から声を出して、1000人以上の人と共感しあえます。これはカラオケの苦手な人でも、感動を味わえる曲です。また有名なオーケストラの演奏を後ろから見れます。指揮者の表情豊かな指揮ぶりも真正面から見れます。歌うときは多分指揮者が口パクでアシストしてくれるはずです。たまには有名なソリストが国内外からきます。共演できます。1回参加すれば、歌詞を覚えてしまいますので、2回目からはすんなりと参加できます。隣近所騒音問題のない人は、普段からカラオケに合わせてストレス解消になります。初めての人は7月から、経験者は11月からの練習になります。ソプラノ、アルトは女性。テノール、バスは男性。それぞれのパートは違う歌を歌う。それがハーモニーになって、掛け合いのようになる。どこでも有名な合唱の先生が何人もついて教えてくれる。半年も練習するとドイツ語の歌を暗記してしまう。本番では楽譜を見ることはできない。でも数年かけて完全に歌えるようになればよいという先生もいる。参加費は私の場合は5000円だった。男性は黒い蝶ネクタイ、黒の服装。女性は白いブラウスに、黒いスカートで統一されている。私の参加しているのは合唱団は、1500人から2000人はいる。年齢も小学生から80代までと多彩である。親子で参加している人、兄弟姉妹で参加している人も多い。多くの人の迫力に圧倒される。最後フィナーレを終えると大きな感動に包まれる。終わるとみんなで、ビールで乾杯する。15分から20分の合唱ですが、強烈なインパクトがあります。音楽に興味のある方には、ぜひ参加されることをお勧めいたします。
2014.06.14
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親業のトマス・ゴードン氏の話です。子どもがなんらかの活動をしているときに邪魔しないで見ていられるというのは、子どもを受容しているという強力な非言語的なコミュニケーションの方法である。ほとんどの親は、単に口をはさむ、仲間に入る、干渉するということで、自分がいかに否受容を伝えているか認識していない。子どもを放っておくという行為があまりにも少なすぎる。子供部屋のプライバシーを侵し、子供個人のプライベートな考えの中に押し入り、自分と別人であることを許そうとしない。これは親の側の恐れ、心配、不安感のもたらす結果ではないか。例えば、海の砂場でお城を作っている子供に対してのお母さんの対応。母親は子どもに教えたいし、子供に学んでほしいと思っている。お城ってほんとはこんな形をしてるんだよ。子どもが間違えるといい気がしない。お城の壁が波で崩れないようにもっと遠くに作りなさい。子どものやり遂げたことを誇りたい。ほら、ジニーの作った素敵なお城を見てごらん。子どもに対して大人の、善悪、是非の考えを押し付ける。お城にはお濠がなくてはいけないだろう。子どもについて内心高い望みを抱いている。そんなことでは何も覚えないよ。一日中そんなものばかり作って。他人が自分の子どもに対してどう思うかを気にする。お前は本当はもっと上手にお城を作れるんだろう。これよりもっといいやつを。子どもが自分を必要としていると思いたい。これらの言葉が子供を依存体質にして、子供から自主性を奪ってしまっていることを自覚する必要がある。(親業 トマス・ゴードン サイマル出版会)
2014.06.14
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このブログのデザイン、レイアウトを変更しました。今まで過去の記事を読むときに、右端に検索バーが出てきて、投稿記事が読みづらいという意見があったためです。またカテゴリー別にまとめて読みたいという人のために、カテゴリー分類も付け加えました。カテゴリー検索は、「全○○○件新着記事一覧を見る」をクリックしていただくと出てきます。カテゴリーは大きく分けて3つあります。森田理論基礎編、森田理論応用編、その他補足テーマです。基礎編には、「森田理論の適応者」「森田神経症のタイプ」「神経症の成り立ち」「私の森田理論との出会い」「神経質の性格特徴」「感情の法則」「治るとはどういうことか」「なすべきことやりたいことに手をだす」が含まれます。応用編には、「生の欲望の発揮」「欲望と不安」「かくあるべしの発生と苦悩の始まり」「事実本位・物事本位」の森田理論の4本柱。それを補充する「認識の誤り」「人間関係」「自分本位・他人本位」「森田理論のキーワード」です。私が一番力を入れている部分です。その他補足テーマとして、「森田関連図書」「生活の発見会・集談会」「森田理論学習の方法」「森田療法と他の療法について」「森田先生のエピソード」「森田番外編」などがあります。当日の投稿記事に戻るには、「森田理論学習のすすめ」のタイトルをクリックしてください。なお、老婆心ながら、字が小さくて読みづらいという方は、「表示」の中の「拡大」を125%以上に変更すると読みやすくなります。少しでも効率の良い学習になりますようにと願っております。
2014.06.14
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このたび大阪市の教育委員会は、問題行動を起こす児童や生徒を現在通学している小中学校から引き離して、「個別指導教室」に集めて指導するという。そこに集められるのは、激しい暴力を振るったり、恐喝、危険物を持ち歩くなどの児童や生徒であるという。学校現場が抱えた混乱した状況が浮き彫りになっている。こうした児童生徒がいると授業どころではないのだろう。でもこうした扱いは、児童や生徒を少年院に隔離するようなものだ。反発されて、ますます行動がエスカレートするばかりで、将来さらに重大事件を引き起こすようになるかもしれない。こういう児童や生徒の家庭はどうなのだろうか。我々のように無気力、無関心、無感動とは違い、エネルギーが有り余ってはけ口がどこにもない子どもたちだと思う。多分親は子供にどう接して良いのか分からず、今や放任状態になっているのではなかろうか。もとはと言えば幼いころから、親が「かくあるべし」を子供に押し付けて育ててきたつけが回ってきたのだと思う。つまり子供たちは加害者のように見えるが、被害者でもあるということだ。親がいつも指示、命令、強制、脅迫で子どもに対応していると、思春期になって大きな問題を起こすのです。「かくあるべし」を押し付けられた子供は、反抗、恨む、仕返しをする、嘘をつく、告げ口をする、非難する、弱い者いじめをするなどに走るようになる。それが今になって大爆発してきたのだ。ここまで来ると親の手には負えない。専門家の手にゆだねるしかない。それにしても子供たちが今後どうやって生きてゆけばよいのだろう。森田理論学習をして分かったことは、「かくあるべし」を自分に押し付けていると神経症になる。他人に押し付けていると、子どもの人生をめちゃくちゃにしてしまう。子どもの育て方にぜひとも森田理論の考え方を取り入れることはできないものだろうか。いやぜひとも取り入れる必要がある。それも幼児教育に取り入れる必要がある。森田は子育てに役立つ強力な味方になると思う。一人でも多くの子どもを、「かくあるべし」の押し付け、過保護、自由放任から守ってあげたい。
2014.06.13
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アメリカのディズニーランドではお客さんのことをゲストと呼ぶ。従業員はキャストというそうだ。キャストは45000人もおり、一人一人がゲストに感動を与えるように行動している。その一例を「ディズニー7つの法則」よりご紹介しよう。小さな男の子がディズニーランドへ来てサインを集めていました。ところがサイン帳をなくしてがっかりしていました。お母さんはなんとか探してもらえないかと一人のキャストに頼みました。そのキャストはあらゆるところへ電話しました。紛失物取扱い窓口、今まで行ったアトラクション、駐車場などです。でも見つかりませんでした。普通はここでお詫びをして済ましてしまうことが多いと思います。でもここで終わると感動するということはありません。このキャストはいつまでディズニーランドに滞在するか聞きました。アメリカのディズニーランドは4泊5日ぐらいの滞在が普通です。この親子は後2日滞在するということでした。そのキャストは、誰のサインが入っているのか、どんなサイン帳だったのか詳しく聞きました。そして2日後また来てみてくださいといいました。その後このキャストは聞いた通りのサイン帳を買ってきて、サインがしてあると聞いた人のサイン、キャラクターのサインをすべて集めて回ったのです。それを2日後にやってきた子供に手渡したのです。子どもは大喜びだったそうです。アメリカのディズニーランドはアトラクションの数、規模、内容ともに素晴らしいものがあるそうです。決して妥協はありません。本物そっくりです。子どもだけではなく大人も楽しめるようになっているそうです。その上すべてのキャストが、ゲストに対してどんな感動を与えられるかという意気込みで仕事にあたっているのです。普通テーマパークはリピート客を獲得するというのはとても大変なことです。アメリカのディズニーランドは、そのリピート客が多いのです。一度入館した人は2度、3度とやってきます。ゲストは帰って行ったあと、身の回りの人にその素晴らしさを宣伝してくれるのでアメリカ中から、あるいは海外からもお客が押し寄せているのです。この話から何を学びますか。言われた仕事や家事を普通にこなすだけでは少しもったいないと思います。森田理論学習では「物そのものになりきる」と言います。ごく当たり前のサービスを、もう一歩踏み込んでみるということで、相手が感動する。それを見て自分も感動するという好循環が生まれてくるのだと思います。そういう行動には、工夫や改善点に気が付いてきます。そして弾みがついて、どんどん行動に広がりがついてきます。ぜひ生活の中に取り入れてみたいことです。
2014.06.12
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これは森田理論で言えば、不安や恐怖に取りつかれて、なんとか払拭しようと努力をしてみるものの、どうすることもできずにうなだれて意気消沈しているようなものです。手段の自己目的化を起こして、神経症にまっさかさまのパターンです。そうなると本来の目的である生の欲望の発揮は置いてきぼりになります。過去に悩み将来に取り越し苦労していると、今現在がおろそかになります。エネルギーがそちらのほうに浪費されるからです。今現在をおろそかにして、どうにもならないことに精力をつぎ込むことはいかにもばかばかしいことです。また、人間はもともと完全、完璧という存在ではありません。ミスや失敗をしないような人はいません。自分の生存欲求を満たすために、ある意味では自己中心的です。また、生の欲望が強いということは、それだけ強いエネルギーを持ち意欲的であるということです。その結果として、間違った行動は必ず発生します。これはあなただけではなく、すべての人が経験していることなのです。いつまでも記憶に残ったその強烈な不快感をなんとか取り除きたいと思うことは、生の欲望の発揮を忘れて不安と格闘して神経症になるようなものです。我々が心がけたいことは、その多くの忌まわしい記憶を反省材料として、今に活かすことだと思います。どこがよくなかったのか、どうすればよかったのかと原因を分析して、失敗を今後のために役立てることです。今現在の子どもとの関係、親との関係、夫婦の関係、会社や学校での人間関係、目標への取り組み方、職業の選び方、金銭の使い方、時間の使い方、自分の所有物の活かし方、欲望の制御方法などに活かしてやればよいのです。忌まわしい過去を現在に活かすことができれば、過去の忌まわしい出来事はそれによって相殺されるようになります。本来、記憶の機能が人間に備わっているというのは、その記憶を活かして現実をよりよいものに変革していくためのものです。文化や文明の発達というのはそういう歴史の繰り返しのことを言います。ですから過去の忌まわしい、消し去りたい記憶は、それらに学び今現在の自分の生活に活かすという態度で臨みたいものです。自己否定、自己嫌悪、罪悪感から解き放されるためには、そうした生活態度が欠かせません。
2014.06.11
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森田先生は「前に謀らず、後ろに慮らず」といわれている。「前にはからず、うしろにおもんばからず」と読む。昔の失敗やミスを思い悩まず、また将来のことをあまり取り越し苦労しないようにして、現在の生活に打ち込むことをいっている。「たとえば、私が自分がこんな病気がなかったらよかろうに、あの大正10年に、流感をおして、講演をやらなかったのに、さては一昨年、あの夜、活動写真を見に行かなかったら、肺炎にもかからなかったろうに、とか既往の失策の繰り言を言わないのを「前に謀らず」と言います。「後に慮らず」とは、自分は旅行の途中で、つい大患にかかったら、九州で死ぬようなことがあっては、というふうに未来の取り越し苦労をしないことである。結局は自分が欲望に乗り切るために、その現在現在において、戦々恐々、注意に注意をして、間違いのないようにし、そのうえもしいけないことがあれば、それは天命であって、倒れて後やむのである、というふうに、その時々の現在になるのである。」私も子育てのこと、親不幸な行動、弟妹への仕打ち、上司として部下に対しての不謹慎な言動や仕打ち、先物取引で大失敗をしたこと、安易な職業の選び方、自己中心で他人に迷惑をかけたことなどが折に触れて思い出され、いたたまれない気持ちに追い込まれる。私たちは自己内省性が強く、心配性であるので特にその傾向が強い。自分の過去の行動を否定して、自己嫌悪に陥るのである。今更反省したところで、過去を塗り替えることなどできないのはよく分かっているのだが、つい思い出しては後悔している。
2014.06.11
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マズローの欲求5段階説を自分に当てはめて考えるとどうだろう。まず人間には性欲、食欲、睡眠欲などの本能的欲望がある。ほぼ満たされている。これが満たされると、自分の身の安全を求めるようになります。今の日本ではほぼ達成されている。すると家族を持ちたい、仲間とつながっていたい。集団に帰属して群れることを求めるようになります。暖かい集団に属していると安心感がある。これもその気になれば達成可能だ。次に自分が人よりもすぐれていることへの自信、能力への確信、達成への実績、自立の確認。こういったものによって自尊心を満足させたいという欲求。さらに、そういったことを他者からも認めてもらいたいという欲求です。相手が非難されたり、拒否されたり、無視されたり、否定されることは耐えられない。この欲求の充足は不満が残る。自分に自信が持てない。他者からいつも非難されているような気がする。対人恐怖の人は特に当てはまる。そして最後に自己実現の欲求です。これは「自分のなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望をもつ」ということです。自分の課題や目標などを持って取り組んでいるとなんとか達成されている。こうしてみると自尊心を満足させて、人から重要視されたいという欲求はまだまだだ。これは逆に言うと、自分が他者を評価したり、重要視していないといえないだろうか。他者がミスをしたり失敗をすると、馬鹿な奴だと陰で笑っている。利害関係がある時は相手を非難したり叱責する。三度三度の食事を用意してくれたり、毎日の掃除や洗濯をしてくれている妻に対しては当たり前のことをしているだけだと思い、感謝の気持ちはぜんぜん湧いてこない。言葉に出して「ありがとう」といったことはない。母の日や誕生日にプレゼントしたこともない。ねぎらいの言葉や感謝の言葉がない。評価や称賛の気持ちが全く湧いてこない。完全に依存しており、熟年離婚に追い込まれるかもしれない。これは夫婦の間柄だけではありません。会社や学校の人間関係にも言えることです。いつも他人を批判したり、無視したり、否定していると、他人にとっても自尊と評価されたいという欲求はいつまでも満たされないことになります。それが相手だけではなく、回りまわって自分の欲求も阻害されているような気がする。「ありがとう」という感謝の言葉をかける。他人の立場にたって、相手の話に謙虚に耳を傾けることを実践するようにしたい。
2014.06.10
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今年のプロ野球の交流戦。私の応援している広島カープは断トツの最下位である。現在4勝11敗である。始まる前はセリーグで2位に4.5ゲーム差つけて首位であった。当然解説者の予想もよかった。今年の交流戦は、14勝10敗ぐらいはいけるのではないか。ましてやファンは快進撃を続けることを信じて疑わなかった。それだけに、落胆は大きい。しかし、私は格好の森田理論学習の材料となったと思う。「純な心」を深めていく学習材料となった。交流戦でカープが負けるたびに、カープファンは落胆する。意気消沈する。不快な気分になる。ショックを受ける。憂鬱になる。肩の力が抜けてうなだれる。プロ野球のニュースなども見たくなくなる。思い入れが強ければ強いほどその気持ちは大きくなる。これが第一次的な感情です。この気持ちが湧き出たことを認識することは極めて大切である。これは肉親が亡くなった時などと一緒である。親兄弟、子供などが亡くなれば、憤懣やるかたない気持ちになって落ち込んでいく。どこにはけ口を求めてゆけばよいのかわからなくなる。森田先生も長男正一郎君、妻の久亥さんを亡くされたときは人目をはばからず嘆き悲しまれた。その限りでは、自然の流れであり何の問題も起きない。ここで肝心なことは、この第一次的な感情にひき続いて沸き起こってくる感情である。自分に不快な感情を与えた首脳陣や選手に対して、怒りが収まらなくなってくるのである。これを二次的感情という。監督やコーチの選手起用方法、ミスをした選手、打てない選手、打たれたピッチャーを非難する。以前は罵声を浴びせて、生卵を投げつける人もいた。かわいさ余って憎さ100倍なのである。この感情は無視しないといけない感情なのです。森田理論学習でいう通り、第一次的感情を重視して行動しないといけない。森田先生は長男正一郎君を20歳の若さで亡くされたとき、出棺の時慟哭されたが、しばらく経つと何事もなかったかのようにふるまわれていたという。それでも、何かの折に思い出すたびに悲しみが襲ってきたという。第一次的感情に浸っていると、どんどん不快感が増していって頭が混乱してパニックになるような気がする。だからそれをやりくりしようとするのだ。でもそれは認識の誤りです。感情の法則1が示している通り、感情は一山登って必ず下降してくる。ただし、刺激を与え続けるとその感情は、どんどん強化されてくるのである。二次的感情を相手にするということはまさにそういうことです。基本はつらい感情になりきってしまう。逃避したりやりくりしないことです。その上で目の前のなすべきことに、イヤイヤ仕方なしに手を出していくと感情は流れていくのである。森田先生は我慢して耐えているだけでは感情は流れない。感情が変化流転してゆかないとダメだといわれています。もうすぐブラジルでサッカーが始まります。日本が予選敗退ということは、考えられないと思っている人が多いと思います。もし仮にそんな事態に陥った時は、この話を思い出していただきたいと思います。
2014.06.09
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2003年は冷夏であった。7月のコンビニの売り上げは軒並み前年割れを起こした。しかし翌8月は明暗がはっきりと分かれた。同業他社が引き続いて苦戦する中で、セブンイレブンは早くも立ち直りを見せた。それはなぜか。セブンイレブンは8月の天候に対応できたのである。冷夏が続くという予報に、自分たちが変化して対応したのである。つまり猛暑によく売れる冷麺やアイスクリーム、清涼飲料水を控えて、おでんや温麺、パスタ類などを増やしたのである。先入観念で夏は夏向きの商材しか売れないという固定観念があると変化対応はできない。それどころか、売れないのは異常気象のせいだから仕方ないとあきらめてしまう。またここまでお客のことを考えて商品を提供しているのに、買わないのはけしからんとお客を非難するようになる。悪循環の連鎖が引き起こされてしまうのである。何度も言うように、森田理論学習では「変化対応力」を重視しています。自分が予測していたことと現実が違う。自分が考えていたことと事実が違うというときは、対象を変えようとするのではなく、常に自分をその事実に合わせる。事実そのものは受け入れる対象でしかない。事実を受け入れて、自分がその変化に対応していく。この世の中は「諸行無常」です。常に変化流動しています。その波に決して逆らってはならない。出来ることはその波をうまくとらえて乗っていくことだけです。サーフィンやハングライダーを見ていてそう思う。
2014.06.08
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最近スーパーに行くと、この時期ならではの商品が並んでいます。たくさんのもぎたての梅と土の付いたラッキョウです。梅は南紀紀州産が多いですね。大きな梅ですね。びっくりです。梅と一緒に梅干し、梅酒、梅ジャム、梅ジュース、梅サワーなどの作り方の説明書や広口瓶や粗塩、焼酎やリキュール酒なども並んでいます。昔はどこの家庭でも作っていたのですが、今は出来合いのものを買うことが多いようです。私も以前、ワイン、梅干し、梅酒、ラッキョウ漬け、キュウリ、ナス、ニンジン、ダイコンなどのぬかみそ漬けに挑戦していましたが、今はしていませんでした。今年は梅干つくりに挑戦してみたいと思っています。梅干しにする梅は青みが薄くなり、黄色ぽくなった梅がよいそうですね。以前作っていた時のことを思い出しました。いつ出来上がるのか、味はどうだろうかと出来上がるのを楽しみに待っていたものです。特にワインはブクブク泡が出てきて、何回もサラシ布で濾していました。出来上がったものは、買って飲むワインとは少し味が違いました。でも自分のワインができたということは大変うれしかったです。また、ワインの発酵が進んだものが酢になるというのは初めて知りました。さて、森田では日常茶飯事を丁寧にするということをよく言います。でも言葉よりも、具体的にその時期、その時期でなすべきことを淡々となしていくという姿勢が大切なのではないでしょうか。野菜つくり、加工食品など少し手を出せば、森田理論は観念の世界から解き放たれ、実践、体得の世界へと羽ばたいてゆきます。本当はそこが肝心なところなんですがね。
2014.06.07
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私の好きな演奏家3人紹介します。ユーチューブで試しに聞いてみてください。きっと気分がよくなることと思います。まずはクスコガラパゴス、ヴァージンアイランド、アンデスを聞いてみてください。クスコのイメージは、南国のリゾート、熱帯魚、サンゴですね。モルディブがよく似合います。テンポがよいです。運転しながら聞くと、ついついスピードが出てしまいます。次にジョージ・ウィンストンあこがれ愛、オータムを聞いてみてください。ピアノの演奏ですが、連打を聞くととてもピアノとは思えません。イメージはどこまでも澄み切った秋の青空です。透明感あふれた演奏がたまりません。私はこの人のコンサートは実際に聴きにいきました。一週間は気分が高揚していました。最後にケニー・Gです。甘いソプラノサックスの音色です。コンサートはカップルでいっぱいになるそうです。息継ぎを鼻でして、途切れることなく演奏ができるそうです。どの曲も素晴らしいです。きっとソプラノサックスに魅了されることと思います。
2014.06.07
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鈴木敏文氏は、人は「手段が目的化」すると、必要以上のものを作りたがるという。いろんな企業を見ていると、本社移転する場合、移転プロジェクトを組み、お金と時間をかけて取り組むケースがあります。本来は今の事務所より広い、立地条件がよい、交通アクセスが良い、家賃が安い、駐車場が確保されている、耐震構造になっているなどのメリットがあって決断することです。ところが手段の自己目的化が起きると、たくさんの人員を投入し、長い時間をとって行われる。それなりのまとまった予算をとり、備品の廃棄と購入、内部のレイアウトに伴う改造も当然のように行う。こうなると本末転倒になる。鈴木氏は移転の際、必要以上のコストをかけてはならないと、設備や備品等は一切新しいものは買わなかったそうです。またセブンイレブンの店舗にATMを導入する際にも、銀行並みのATMを導入すればコストがかかりすぎることが分かっていた。顧客に現金出し入れの利便性を図るという目的がしっかりしていたため、手段の自己目的化は起こらなかった。最低限の機能を備えた安価なATMを独自に開発できた。神経症に陥る人は、ほとんど手段の自己目的化を起こしています。例えば、対人恐怖の人は、仕事や勉強のできる人になって、人から評価されたい、どんどん成長してゆきたいという強い欲望を持っています。ところがそこに立ちはだかってくるのが、もしうまくゆかなかったらどうしよう。ミスや失敗をしたら批判されるかもしれないという不安です。ここで自己目的化が起きると、不安に圧倒されて逃げたり、不安と格闘することになってしまいます。本来の欲望は蚊帳の外です。寝ても覚めても不安の解消との戦いに明け暮れています。精神交互作用で神経症の固着への道へと突き進んでしまいます。鈴木氏の話は、欲望を見失なってはいけないこと。欲望をしっかりと見据えておくこと。不安と必要以上にかかわらないことを教えてくれています。森田理論の「欲望と不安」の関係の学習は、森田理論応用編の4つの柱の一つを占めています。十分に学習していただきたいと思います。
2014.06.07
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セブンイレブンは変化対応企業である。変化対応力を磨くことは、森田理論の目指すところである。鈴木敏文氏は次のように言われる。「売れなければ値段を下げて安くするというのは物不足の時代の発想です。特にバブル期まではインフレ基調でしたから、安くすれば客ウケするという考え方が通用しました。そのころの成功体験を引きずっていて、安さで通すという問題解決法が今も通用すると錯覚している。物余りの買い手市場の時代には、新しくて価値のあるものを次々と提案しないと変化にとり残されていくことが自覚できていないのです。」例えば「おいしい」という価値も決して不変なものではない。時間がたてば、顧客にとっては、どんなにおいしくて珍しいものでも「飽きる」ようになる。おいしければおいしいほど飽きる。顧客が飽きないようにするためには、次から次へと新しい「おいしいもの」への開発にとりかかる。変化に対応するという気持ちが失われると「マンネリ化」に陥る。「マンネリ化」はイノベーションの意欲がなくなることである。周囲への関心がなくなり、現状に胡坐をかいて、変化対応力が失われてしまうことである。すると森田先生の言われるように、精神は弛緩状態となり、意欲が失われて、新しいアイデアは湧いてこなくなる。大脳が廃用性萎縮を起こしてくるのである。それは温められている鍋の中に飛び込んだカエルが、気持ちがよいなと思っているうちに、茹で上がって命を落とすというエピソードを思い出させる。コンビニのオーナーや従業員たちの仕事ぶりが、マンネリ化した途端客が離れ始める。それは即コンビニの死活問題となるのです。今日の顧客のニーズは、明日の顧客のニーズではない。そうかといって顧客に「あなたのニーズは何ですか」といっても教えてくれるわけでもない。だからオーナーや従業員たちが、次の天気予報、地域のイベント情報、雑誌の発売日などの情報をもとにして、顧客のニーズを予測して、商品として顧客に提案し、売れ行きの結果を分析して、次に活かすというサイクルを回し続けないといけないのである。森田理論学習でも無所住心で同じことを言っています。常に周囲にアンテナを張り、変化を予測して、変化の兆しがあれば即座に変化に合わせて動いていく。精神を緊張状態にしておくことが大切なのです。
2014.06.06
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シドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した高橋尚子さん。この快挙は小出義雄監督の力が大きくかかわっている。これは森田理論の「生の欲望の発揮」を学習するときの参考になる。小出監督はオリンピックで優勝するためには、まず選手個々の特徴や体調を知り管理することを重視されている。選手の体調管理、精神の安定、バイオリズムなどである。そのためには選手一人一人をよく観察してよく知ることだ。高橋選手はオリンピックで最高の状態に持っていくためには、最低でも1年半はかかるそうだ。また高橋選手のすぐれた特徴は筋肉の質にあるそうだ。彼女の筋肉は普通の人に比べて大きくて太い。だからレース直前でも、普通の選手のように一旦練習量を落とすことは命取りになる。本番前でもガンガン行ったほうがよい選手であるという。次にコースを知るということ。コースに合わせた練習をする。高橋選手は現地で練習をする中でコースの中の1キロごとに目標物を頭の中に叩き込んでいたという。とりわけシドニーはアップダウンの多いコースであった。特に勝負どころの後半はアップダウンの連続である。ここで勝負がつくと見ていた。十分な下見の結果、練習は標高3600mのアップダウンの多い高地トレーニングを行った。そのためにアメリカのボーダーに家を買い、専用の調理師を用意したという。現地を下見して、小出監督は本番以上に条件の悪いところを練習場所として選んだのである。最後に他の選手との駆け引きをシュミレーションする。シドニーオリンピックで勝つためにはハイペースにはならないと考えていた。スピードをつける練習ではなく、14マイル(約22キロ)で4分遅く走れるような練習を意識して組んだ。そしてその余力は後に残し、最後のアップダウンで勝負できる持久力強化の練習を繰り返した。そして最終的には、17キロ付近では5人くらいの先頭集団に入る。28キロ付近では3人の先頭集団に入る。マークする選手はロルーペ選手。あと10キロで彼女についてこられたら負ける。そう踏んでいた。テレビを見て応援している人は、そこまでの努力は分からない。氷山の一角を見ているようなものだ。しかし困難に挑戦して、それなりの成果を上げる人は並々ならぬ努力をしている。森田理論でいう「生の欲望の発揮」には、まず目標を明確にする。そして、達成のための自己分析、対象や障害物、ライバルの分析と、あくなき創意工夫と実践が大切なのである。それが生きがいを持って生きるということにつながっているのである。
2014.06.05
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