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神経症の人は自己否定に陥っている。これを自己肯定に変えることは重要である。このヒントを得た。その本は、「自分の「うつ」を治した精神科医の方法」である。(宮島賢也、河出書房新社)105ページ参照。ちなみに宮島医師は薬を使わないでうつ病を治しているという。You Tubeでも何回も動画で話をされているので関心のある方はご覧になることをお勧めします。宮島医師はアファーメーション(肯定的自己暗示)を紹介されている。これは肯定的な言葉を何度も唱えることによって潜在意識に働きかけようとするものです。人間には潜在意識と顕在意識があります。このうち私たちの思考や言動にどちらが大きな影響を与えているかというと、潜在意識のほうである。例えば「明日からは、人を批判することはいわない」と誓うのは顕在意識の方ですが、現実にはつい批判的な言葉がでてきます。これは潜在意識が変わっていないからです。人は潜在意識が変わると、本当に変わることができると言われています。どうすればよいのか。難しい事ではありません。朝起きた時、肯定的な言葉を嬉しい言葉で唱えればよいのです。朝目覚めたときには、顕在意識の縛りが外れているため、潜在意識に働きかけやすく、潜在意識に言葉が入りやすくなっています。昼間、うとうとしたときもそうだそうです。こういう時に肯定的な言葉を一人ごとで唱えればよいというのです。潜在意識は3週間で変わります。宮島医師はこれを毎日実践して半年後には、自分大好き人間に変わったと言われていました。さらに自分の思いが潜在意識に刷り込まれて、それが固定化されるまでには100日かかると言われています。3カ月とちょっとですね。これを神経質者は試してみる価値はありそうです。私が考えた自己肯定の言葉は次のようなものです。参考にしてください。これは神経質性格を持っている人は誰にもあります。分からない人は森田理論の「神経質の性格特徴」を学習してみてください。1、私は人に比べて感受性がとても豊かである。人の気持ちもよく分かり、音楽などの芸術もより深く味わうことができる。2、「すっぽん」のように粘り強い。食いついたら絶対にあきらめない。今までも何回もトライアスロンで完走もしたし、難しい国家試験にもいくつも合格を果たした。3、好奇心がとても旺盛だ。そのおかげで退屈することがない。いろんなことに挑戦して人生を楽しめる。ボケになることは考えられない。楽器の演奏、獅子舞、どじょうすくい、浪曲奇術、ものまねなどの芸でみんなを喜ばすことができる。4、細かいことによく気がつく。用心深い。問題点等を細かく分析して事前に手を打てる。分析力やまとめる力があり1時間程度の講話をこなすことができる。また本も2冊ほど執筆した。またこのブログもほぼ毎日続けている。用心深いのでサギに遭わず、大きな病気や自己破産には至らないで済んでいる。5、責任感が強く、コツコツとなんでも真面目に取り組むことができる。宴会の幹事を何回もしてみんなを喜ばしている。大きな催事を何回も企画してほぼ成功させてきた。これを壁に貼って朝一番朝日を浴びながら唱えてみることにしました。果たして自分大好き人間に変身することができるかどうか。検証してみたいと思います。皆さんもそれぞれに肯定的な自分の長所や強みを書き出してみられては如何でしょうか。
2014.12.31
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重篤の神経症に陥ると精神科や心療内科にかかる人が多い。でも医師に全面的に依存するのはどうだろうか。私は、あまり賛成はできない。その理由を説明したい。神経症の発症の原因は2つある。一つは不安や恐怖を取り去ることに、朝から晩まで全神経を集中している事である。そして観念と行動の悪循環が続いている。森田では強い欲望があるから強い不安が発生しているという。不安は取り除いてはいけない相手である。不安を足がかりにして、自分の欲望を自覚すればよいのである。強い欲望の達成のために地道な努力を続けている人は神経症になることはない。次に、普通の人とは違う強い「認識の誤り」を持っている事である。つまりあまりにもマイナス思考、ネガティブ思考に偏っている。考えることが短絡的で無茶でおおげさである。事実を見ないで、悪いように「きめつけ」をする。完全主義が強く「かくあるべし」的思考をする。つまり神経症の発症原因は、主に考え方の誤りと生活の悪循環にあると言えます。それなら森田理論によって、その考え方の誤りをよく学習して、自覚を深めていくことが必要です。さらに森田の考え方を実際に生活に応用するということが大切です。神経症から解放されるためにはこれが一番の近道です。その際一人で学習するのではなく、集団で学習する生活の発見会のような自助グループ活動に参加することが効果を高めます。私の経験からするとこれが神経症の克服に役立ちます。この考え方をしっかりと持っておくことが重要です。精神科や心療内科のお医者さんは、神経症の原因となっている「考え方の誤り」を指摘して修正の方向で治療してくださるでしょうか。残念ながらそれは無理だと思います。お医者さんの仕事は、精神疾患がうつにあたるのか、神経症にあたるのか、あるいはもっと別の精神病にあたるのか判定をする。その診断に基づいて薬などを処方するというのが仕事なのである。それを短時間で数多くこなすというのが専門領域である。あまり話を聞いてもらえなかったというのは普通のことである。保険診療を数多くこなさないと病院はつぶれてしまう。もしカウンセリングが必要ならば、それはお医者さんの仕事ではない。それは臨床心理士の仕事である。それを勘違いして精神科の医師は、「心の治療の専門家」であると勘違いしてはいけない。それを言うなら「対症療法の専門家」である。それ以上の事は望むべくもない。それはヒットを打つのが精一杯の人に、逆転満塁ホームランを期待するようなものである。また薬物療法に頼りきってはいけないと思う。最近SSRIのような副作用が少なく、脳内神経伝達物質のセロトニンを増やすという薬が重宝されている。これも重篤な症状がでている場合はやむをえない。必要である。でも過度な期待は禁物ではなかろうか。いくら副作用が少ないとはいえ、薬なのだから全くないということは考えられない。それでなくても何種類もの薬を飲んでいる人が多いのである。必ず副作用はあると考えたほうがよいと思う。いつかハイジャック犯でレインボウブリッジをくぐってみたいといっていた人は、この薬を服用していたという。副作用に詳しい医師によると、不眠、不安、焦燥感、音などの刺激に敏感になる、衝動的な行動をする、躁状態になる、自殺念慮が高まる、凶暴的になるなどの副作用を指摘している人もいます。足の骨を骨折した人は松葉づえを使います。薬物療法はその程度に考えたほうがよろしいと思います。それらを一生飲み続けるというのはどこかおかしいと思う。私の属している自助グループでは、神経症が重傷化した人に対して、すぐに精神科医にかかるように勧めてきました。その方が我々も安心できるからです。つまり半分は責任を医者に預けて逃げていたのである。確かに重症の場合、他の精神疾患を抱えている場合は医師の協力は欠かせません。でも今まで説明してきたように、神経症の発生原因をよく考えてもらいたいのである。森田理論学習が「主」、医師の診療、薬物療法が「従」という考え方に変えないと、とてもではないが神経症からの解放されることは無理ではないかと思います。最近治療方法がないと病院から見放された「ガン難民」ということがいわれています。人ごとではありません。薬漬けになった「神経症難民」にだけはなりたくないものです。
2014.12.30
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森田先生は「努力即幸福」「煩悩即解脱」「煩悩即菩提」「不安定即安心」等の言葉をしばしば使われている。ここで使われている「即」という言葉について考えてみたい。「即」というのは、一般的には、すぐに、すなわち、いいかえると、イコールという意味である。たとえば、「煩悩即解脱」であるが、悩みや苦悩を抱えているということ、欲望が叶えられないという問題をそのまま抱えている事が、すなわち、悩みや苦悩からの解放につながり、欲望への執着から逃れられることである。だいたいそういう意味であろう。でもこれでは、なんのことかよく分からない。そこで分かりやすくする鍵がある。「即」の前に、「なりきると」という森田の言葉を挿入する。なりきるという言葉は、「ものそのものになりきる」という意味でつかわれることが多い。つまり目の前のなすべきことに一心不乱になってくり組むということである。いわれた事をそのままやるのではなく、一歩踏み込んで一生懸命になることである。これも森田学習では大切なことである。感じを発生させ、高めていくという面では欠かすことができない。でも「なりきる」というのはもう一つ別の重要な意味がある。「なりきる」とは不安や恐怖、違和感、不快な感情をそのまま受け入れて、苦痛から逃れるための「はからい」をしないということです。それらに服従するということです。もう一度、煩悩になりきると、すなわち解脱できるという言葉を考えてみよう。不安や恐怖、違和感、不快な感情を取り去ろうというような「はからい」を止めて、不安や恐怖を抱えたまましておく。そしてなすべきことに手をつけていく。すると不安や恐怖はあっても無きがごときになる。一体になって問題にならなくなる。心安らかに生活できるようになるということである。ここが肝心なところだ。そうなるためには、森田理論でのたゆまぬ修養が大切だ。でもこれは「森田の達人」について学習、実践するだけで手に入れることができる。「努力即幸福」というのもそういうことである。生きとし生けるものは、アメーバ―から人間まで、営々刻々とその本能にそなわった最善の方法で機能を発揮している。アメーバ―が動き、白ネズミが篭のなかで車を回す。その機能の発揮を人間にたとえて、「努力」という。機能を発揮することそのものが「幸福」である。「努力」はすなわち「幸福」であり、同時に人生の目的でもある。人生の手段も努力であり、人生の実際も努力である。実際を離れた観念のやりくりでは幸福はつくれない。森田先生は、「相撲取りはその体力、学者はその智力、詩人芸術家はその感情、宗教家はその意思、みなそれぞれの個性のままに、その機能を発揮してゆくことが幸福である。欲の袋に底がないように、死ぬ間際までも、飽くことを知らない向上的努力、その努力なく幸福はない。」と言われています。苦しくても努力している限りは、幸福である。また、森田先生は、煩悩即解脱、煩悩即菩提についてこんなふうにいっている。「強迫観念の療法は、その精神の葛藤・煩悶を否定したり回避したりするのではない。そのまま苦悩煩悶を受忍しなければならぬ。これを受忍しきった時に、そのまま煩悶・苦悩が消滅する。すなわち煩悩即菩提であり、雑念即無想・不安即安心であるのである。煩悩・強迫観念、その苦痛をそのままでよし、徹底的に苦しめ、そうすればそのままに解脱して安楽になるぞ。火は熱い。水は冷たい、あるがままに見よ、当然のこととせよ、そうすれば火もまた涼しくなるであろうと、私の体験から、このように推察するのである。」ここでのキーワードは「なりきる」ということである。
2014.12.29
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森田先生は治っていく過程を小学校、中学校、大学卒業程度に分けて説明されています。今でいえば、義務教育卒業程度、高校卒業程度、大学卒業程度であろう。義務教育卒業程度とは、気分の悪いままこらえて働くことができる。これである。症状はあるがままに受け入れて、日常生活を規則正しくしていく。症状はどうであれ、横において置く。そして靴磨き、風呂の掃除、部屋の掃除、整理整頓、布団あげなどやるべきことに手をつける。これだけで精神交互作用が断ち切られて蟻地獄から抜け出すことができる。神経症から解放された人はみんな小・中学校を卒業している。次に高校卒業程度とは何か。嫌な事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。「はからい」を止めて、「あるがまま」が体現できている状態である。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。自然にわき起こってくる感情は意志の力でコントロールすることはできない。それは自然現象と同じ。事実から逃避したり、ねじまげないで、事実をそのまま認めなければならない。「かくあるべし」で事実を無視するのではなく、事実本位・物事本位の生活態度が養われることである。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。ここを超えるということが高校卒業程度である。次に大学卒業程度である。ここは今までスッキリと明快に説明された例はないように思う。大学卒業程度について森田先生の説明を見てみよう。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度ということであろうか。これではよく理解できないのも無理はないかもしれない。さらに説明してみよう。私たちは事実を見て、たいていよいとか悪いとか是非善悪の価値判断を下しています。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田理論を学習して高校卒業程度になるとこの点ちょっと違います。人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えるのです。この段階では、思想の矛盾の打破についての重要さはとてもよく分かっているのです。そして曲がりなりにも事実を受け入れて、事実に服従しながら生活しているのです。ところが心の中では依然として、これがいいとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。大学卒業程度というのはここに焦点を当てているのです。ここでは比較対象のない世界だと思います。あるがままの現実を観念の世界、他人、過去と比較しない世界です。事実や自然と同化し、そのものになりきった世界のことです。なりきるとどんなことが起きるのか。例えば、2台の電車が同じスピードで走行しているとします。すると走行しているにもかかわらず、自分の電車は走行していないように見えます。我々の心の中も比較しないで、また是非善悪で価値判断をしないということになるとなりきった世界が広がってきます。生きる上での苦しさはありますが、自然や事実と一体化した、悩みとか苦悩のない世界です。究極の森田理論はそこらあたりに落ち着くものと思われます。ここで森田先生が、「生命の躍動」といっているのは、生の欲望の発揮に邁進している態度のことを言います。我々は高校卒業程度の森田理論は身につけたいものです。
2014.12.28
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シンガーソングライターの植村花菜さんがこんなことを言われています。彼氏ができて恋愛している時は幸せの絶好調にあるのですが、そんな時は歌が作れないのです。彼氏との間に問題が発生したり、家族との関係がぎくしゃくしている時にこそ歌ができるのです。不安を抱えていたり、心の痛みを抱えていたり、多少のストレスが常に存在していないと創作活動はできないと言われているのです。生きる力はそんなところから生まれるのかもしれません。不安というのは生きる力を与えているエネルギー源になっているのかもしれません。水泳の北島康介選手はこんなふうにいっています。プレッシャというのはあともうちょっとでなんとかなるという時にかかってきます。全然だめで箸にも棒にもかからないときはかかりません。「試合って緊張するものだと思います。僕は今でも緊張します。ただ、緊張しないと、120%のレースはできないんですよ」と言います。緊張感はそれに押しつぶされると、いい結果は出ません。でも緊張感がないといい結果が出ることはないといっているのです。だから緊張感があるということはよいことなのです。動物行動学やっているケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。餌とかいろんなものを十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えてゆくそうです。あるところまで増えていくと、そのうちだんだん減ってきて、そして最後には絶滅したそうです。同じような実験はネズミでもおこなわれていて、環境を整えていくと最初は増えるのですが、やがては減ってしまう。どうゆうことが起きるかというと、卵を産んでもかえさないとか、子供ができても餌をやらないとか、子育てをしなくなるのです。その結果としてサギが減ってしまうということです。不安、ストレス、緊張感は我々が生きていく上で大いに役に立っている。これらの事例はそのことを教えてくれています。心配事がなく安全である。経済的に安定して満ち足りている。飽食三昧の生活をしている。不安、ストレス、緊張感にさらされることがなく万々歳のようですがそれは違います。よくお年寄りで、「毎日退屈だ。テレビを見ても面白いものはない。今日はなにをして過ごそうか」という気持ちがでてくると危険信号だと言われています。私はアルトサックスを吹いて老人ホームの慰問、町おこしのイベントに出かけています。演奏前の数日間はとても不安になります。活動を止めてしまえば不安がなくなって楽になれるのにとつい思ってしまいます。でも、これらの事例から学ぶことは、常に緊張感を持って生活できているということは、ありがたいことなのかもしれないと思います。常に生きるエネルギーの補給が行われているのですから。
2014.12.27
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宮本武蔵の「五輪書」には、剣の道の極意が書いてあります。その中に相手と対した時に、注意や目線はどこに向ければよいのかというのがある。相手の目をまっすぐに見るのがよいのか。それとも刀を持つ手元なのか、あるいは剣先なのか。それ以前に、どのような顔つきでいればよいのか。「五輪書」の水之巻で丁寧に述べています。これによると、目をむかず、眼球を動かさないようにして、まばたきをせず、少し目を細めます。顔は仰向けにも、うつむきにもせず、傾けもせず、もちろん額や眉間に皺など寄せません。鼻筋はまっすぐにし、わずかに顎を突き出して、のどかな感じのする表情を推賞します。肝心の心はどうするか。緊張もせず弛緩もせず、まっすぐにする。「心を静かに揺るがせて、その揺るぎの瞬間にも揺るぎやまないようにする」「静かなる時も、心は静かでないように」「いかに早いときでも、心は早くないようにする」ここまで来るとさすがに難しい。なんのことを言っているのか。これは注意をある一点に固定しないで、四方八方あらゆるところにアンテナを張って、注意を多方面に分散させている状態をいいます。いわゆる森田理論でいう「無所住心」のことです。風之巻でも、目のつけ方をとりあげ、相手の太刀、手、顔、足など、特定の部位に固定させないように注意します。一点に注意を集中させずに、まんべんなく相手の全体に注意を払っていく。さらに、心さえもゆったり揺るがせていながらも、全体としては穏やかな状態にしておきます。これを、どこか一点に注意を集中させていると、隙ができてしまう。相手はその隙をついてくる。すると相手の思わぬ攻めに、心も身体も慌ててしまい、とっさの動きができません。出来たとしても遅くなります。剣の道ではそれが勝敗の分かれ道となってしまうのです。我々の生活にもその心意気を応用すればよいと思います。神経症では症状一点に注意を集中させています。一点に注意を向けると感覚が敏感になり、感覚が敏感になるからますますそこに注意を向ける。そしてその悪循環が繰り返されて、どんどん増悪していく。それは蟻地獄の中に引きずり込まれたような状態です。地上に出ようともがけばもがくほど底に落ちて行ってしまうのです。これは森田理論でいう精神交互作用のことですね。注意は一点に集中させてはいけません。内向一辺倒でもいけません。注意は常に外向的に、しかも多方面に向いていないと問題が生じます。今現在の目の前に現れるものすべてにとらわれる。そして、とらわれる対象がどんどん変化流転していくというところでしょうか。(生きる力 森田正馬15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版より一部引用)尚、この本は森田理論学習を深耕するうえでとても役立つ本です。推薦いたします。
2014.12.26
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1970年から80年ごろのニューヨークはとても治安が悪かったという。アメリカで最も危険な都市といわれていた。特に地下鉄は、恐喝や殺人事件が頻発していた。窓ガラスは割れたままだし、椅子はカッターナイフで切られて中身が飛び出している。その上、車両の内も外も落書きだらけであった。この状況をなんとかしようと立ち上がったのが、地下鉄公団の総裁のデビット・ガンという人です。それから、地下鉄専門の警察官のウィリアム・ブラットンという人です。何をしたのか。清掃から始めたのです。車両をきれいにすることから始めたのです。ところが、例えば落書きを一度消しても、またすぐに描かれる。割れたガラスを取り換えれば、またすぐに割られる。根気のいる仕事であった。でも徐々に効果が上がった。そこに注目したのが、ニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニという人です。地下鉄で起きたことを今度は街中でやってみようと実践した。その結果、今ではニューヨークは健全な街に生まれ変わっています。これに関連する理論で、「ブロークン・ウィンドウ理論」というのがあるそうです。これは、一度割れた窓ガラスを放置しておくと、それが「誰もそこに関心を払っていない」というサインになって、犯罪を起こしやすくなる。その建物から無法状態の雰囲気がどんどん伝染してやがて町中が荒んでいってしまう。だから窓ガラス一枚なとどと甘く見てはいけないのです。すぐに修理しないといけません。それが犯罪の抑止につながっているのです。整理整頓、掃除は生活の基本です。それらを全くしないと、部屋は汚くなり、埃だらけになります。布団にはダニが発生して体がかゆくなります。乗用車でもきれいに洗ったり、車内の清掃をしない人がいます。そういう人はどうも無謀運転をしたり、信号無視を平気でするようです。挙句の果てには煙草のポイ捨てなどもします。それに慣れてしまって、制御不能に陥ってしまうのです。神経症の人は頭のなかでいろいろやりくりばかりして、行動が苦手です。それが部屋の掃除、トイレの掃除、風呂の掃除、キッチンの後かたづけ、本棚の整理、庭の掃除、ベランダの掃除、収納箱の整理、観葉植物の手入れなどに目が向いてくるようになるとよいのです。億劫で始めた掃除が、そのうち感情が高まり、いろんな気付き、発見、アイデアなどがでてきて、創意工夫するようになると、やる気に火が付きます。するといくらでも進歩、発展出来るようになるのです。ここが肝心なところです。どうもこれは、部屋や乗用車をきれいにするという事だけではなさそうです。集談会で聞いたのですが、「靴を揃えると、心が揃う。掃除をすると、心が磨かれる」という言葉があるそうです。森田では「外相ととのえば、内相自ずから熟す」と言います。まさにこのことを言うのですね。
2014.12.25
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京都の銀閣寺の近くに「草喰なかひがし」という店があるそうだ。この字は「そうじき」とよむ。名前からして精進料理のような店である。お値段は少し高めのお店だが、今や京都で最も予約が取れにくいお店になっているそうです。それほど超有名な店なのだ。NHKのプロフェッショナルで紹介されていた。店主は中東久雄さんである。この方はその土地にあるものを使って、最高の素材のうまみを引き出すという料理の達人である。この方の料理の材料はその土地でとれた旬の野菜である。ネギなどは根も捨てずに、他のものと合わせて、上手に料理されていた。根菜類などは甘みののった旬の見極めが的確である。またその辺に生えている、のびる、つくし、ふきのとうのような野草や山菜も季節を感じさせる野菜として存分に使用されていた。魚は鯉などの川魚が中心である。琵琶湖の匂いの強い貝なども、辛子大根などと炊き合わせて絶品の料理にされていた。肉はシカやイノシシの肉である。冬に脂の乗った肉がよいそうだ。中東さんは食材を求めて毎日京都市内から大原に通っている。材料は自分の足で調達しておられるのである。普通は一流の料理人が、寒い雪の降る冬の大原などに行くことはない。また雪の中を掘って「つくし」などを掘って探すというようなことを、毎日続けておられるということが大変驚きである。毎日行っていると、今年は春の訪れが早いという感じがしたそうである。それは土が温かいと感じたからである。五感が研ぎ澄まされているのだろう。その感じは春を感じさせる創作料理にすぐに反映されている。中東さんのところは目の前のかまどでご飯を炊いている。3種類の食べ方を用意されていた。2番目はめざしと一緒に食べる。最後はお焦げをお茶漬けにして食べる。中東さんは高級食材を使うという考えは全くない。自然あるもの、旬の材料だけを食材として使うのだ。実に痛快である。それらを絶品の料理に仕上げてお客様に感動を与えるというのが正直な気持ちだ。京都の地の食材について、あるいは料理方法についてはことのほか詳しい。京都の食材の特徴をよくとらえておられる。その素材を活かすにはどうしたらよいか。どういう組み合わせにすると最高の味になるのか。この料理に対する考え方は森田理論の真髄を彷彿させます。多分中東さんは、経営者になっても人を指導して伸ばす力は抜群だろうと思います。それは森田でいう事実本位、物の性を尽くすという最高レベルの境地に達しておられるからです。私としては「名誉森田の達人」の称号を与えてあげたいくらいです。
2014.12.24
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ナルシストという言葉があります。過度な自己愛を持っている人のことです。あまりよい言葉としては使われていません。自己愛性人格障害という言葉もあります。でもあえて、我々は少しそういう人のよい面を取り入れたほうがよいと思います。というのは、私たちは強い「かくあるべし」を持っています。理想や完璧主義でもって現実の自分や身内を常に厳しい目で監視して、是非善悪の判定をしています。現実の自分や身内はいつも被告席に座っています。裁かれる立場にいます。こんなことはありませんか。自分は容姿が悪いので鏡はなるべく見ないようにしている。集合写真を撮ると言われると急に憂鬱な気持ちになる。生活の発見誌の投稿の際、編集部から写真を送ってくれと言われると嫌になる。たわいもないざっくばらんな雑談の場に加わるのは苦痛である。人の集まりには出ないようにしている。奥さんや夫をパーティの場に連れていくということ、思っただけでもしり込みしたくなる。せいぜい冠婚葬祭ぐらいにとどめている。不登校や障害を持った子どもを持っていると、子どもの話題は持ち出さないようにしている。人前に連れていくことははばかられる。認知症、アルツファイマーの親を抱えていると親の事はいつも隠している。他の人に会わせることは絶対にしない。兄弟が薬物依存、アルコール依存、ギャンブル依存症にかかっていると関わりを持とうとしない。そういう兄弟はいないものと思っている。これらは自分や身内を受け入れられない人です。というより嫌っているのです。理想的な自分、身内を頭の中に思い描いていて、その足元にも及ばない現実の自分や身内を認めることができないのです。「かくあるべし」という物差しで、是非善悪の価値判断しているのです。それは完全で非のうちどころのない自分、身内でないと世間の人が受け入れてくれないと思っているからです。受け入れられないと孤立してします。孤立すると社会の荒波の中で生きていくことは困難だ。と思っているのです。現実はその反対なんですね。他人は、欠点や弱点を隠すことなく公表できる人を受け入れてくれます。安心感が持てるからです。そして他人も自分の欠点や弱点を話してくれるようになります。自分も自分の欠点や弱点を隠したり防御しなくなります。要らないところに神経を使わなくてもよいので精神的にとても楽になります。先日ある人たちとカラオケに行きました。ある夫婦がご一緒でした。その夫婦は美女と野獣という言葉がありますが、どうしてあんな人と結婚されたのだろうかと思えるようなご夫婦なんです。旦那さんはとても太っておられるのです。奥さんは女優にしても通用するような人なのです。結婚式でも奥さんの来賓の人が「どうしてあんな人と結婚する気になったのか理解に苦しむ」といっていたというのです。二人でデュエット曲を歌われました。確か二輪草だったと思います。替歌にしてお互いの名前を呼び合うような歌にされているのです。名前を呼び合う時はお互いに顔を見合わせてにっこりとほほ笑んでおられるのです。私はその姿を見て感動しました。こういう人は基本的に自分や相手の存在そのものを認めて生きておられるのだなと思った次第です。つまり森田でいう、「かくあるべし」の世界ではなく、事実の世界にしっかりと足をついて生きておられるのだと思います。
2014.12.23
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私たちは何かにつけて比較しています。何と比較しているのか。3つあると思います。第1に、頭の中で考えた事と現実を比較しています。第2に、他人と自分を比較しています。第3に、過去と現在を比較しています。比較するこ自体は、対象物が事実として見えることですから仕方がありません。比較することは許せる範囲なのです。比較してその違いを認識すればよいのです。でも次に、こちらがよいとか悪いとか、是非善悪で価値判断することは問題だと思います。第1の場合ですが、森田でいう「かくあるべし」「かくあらざるべし」という物差しで、裁判官のように是非善悪の判定をくだしているのです。特に不安や恐怖、違和感、不快感をあってはならないと判断して、やりくりしたり逃避したりしているのです。どんな不快な感情でも自然現象です。事実を事実として受け入れることができれば苦悩や葛藤は発生しません。対人緊張の強い人は、人の思惑が気になるという自分を認めればよいのです。それはいいとか悪いとかの問題ではありません。価値判断するようなものではありません。普通の人は自分のように強く人の思惑を気にしてないようだという事実を観察していればよいのです。つまり比較はしてもよいのです。でもその結果をもとにして、自分勝手に是非善悪の価値判断をすることは余計なことだと自覚できればよいのです。第2の場合ですが、特徴としては、他人のよいところと、自分の悪いところを比較しています。他人の長所、強み、能力と自分の短所、弱点、無能力を比較して価値判断しています。あまりにもかけ離れていると比較する気持ちにもなりません。なんとかなるのではないかと思うと、比較検討して、是非善悪の価値判断をするようになります。そしてどうにもならないと、自己嫌悪、自己否定するようになるのです。比較しないで人は人、自分は自分と思えれば苦悩や葛藤は起こりません。それでも、相手との違いを是非善悪で価値判断したいのなら、相手の短所、弱点などと自分の長所、強みを価値判断しないと片手落ちです。バランスがとれません。もっともこれは邪道ですが。第3の場合も、昔若くて元気で勢いがありなんでも出来ていた自分。昔の羽振りの良かったころの自分。それに引き換え老いてしまった自分。病気になった自分。経済的に苦しくなった現在の自分と比較しているのです。つまりみじめになった現在の自分と華やかだった過去の自分を比較して価値判断しているのです。現在の事実をそのままに認めることができれば何も問題ありません。そこから一歩一歩前進していけばよいのです。比較して是非善悪の価値判断をしているのです。すると途端にすべてが嫌になってしまうのです。こんな話があります。1万円持っている人がいるとします。1000円しか持っていない人から見ると金持ちです。比較して価値判断すると、容易に優越感を持ち、相手をバカにしてしまいます。ところが10万円持っている人と比較すると、途端に劣等感に苦しめられて、相手に嫉妬感を覚えるようになります。比較の基準が変わると途端に苦しみのもとになります。それぐらい比較というのはあやふやなものなのです。時と場所と環境によってコロコロと評価が変わるものなのです。この時大切なことは1万円持っている自分の事実をそのままに認めることです。どう活用していくと一番効果があるのだろうと創意工夫するようになると悩みはなくなります。これが事実を受け入れて事実に服従していくことだと思います。
2014.12.22
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私はマンションの管理人の仕事をしています。また20名程度の他の管理人の取りまとめのような仕事もしています。その中にこんな女性の方がおられました。管理人の仕事として、管球類の取り換えと在庫管理、そして棚卸表の作成があります。棚卸表はそんなに難しいものではありません。在庫、新規購入本数、使用本数、現在庫を足し算したり、引き算するだけのことです。そして期末には実地棚卸をして帳簿上の在庫と現物が合っているか調べればよいのです。この方はどういうわけか足し算、引き算ができないのです。また実地棚卸を全くされていませんでした。そして数量が合わないのでどうしたらよいかと相談されてきたのです。私の対応は次のように対応しました。まず今の実地棚卸表を過去2年にわたってファクスしてもらいました。棚卸表は半年ごとに別用紙になっています。半期ごとに使用本数、購入本数を書くようになっています。そしてきちんと次の期に繰り越していかないと数字が合いません。さらに1年のまとめとして、年間の使用本数、購入本数、在庫本数を書くようになっています。確かに少し複雑な集計用紙になっています。この方は半期が終わって次の半期に移る時の在庫がうまく理解できていないことが分かりました。そこで次の期に移る時は、前期の在庫本数を表の上に薄く鉛筆で書いておくように提案しました。相手はよく納得してくれました。また実地棚卸は必ず実施するようにお願いしました。それからは問題なく作成できるようになりました。以前の私でしたら、小学生でもできるようなことがなぜできないんだ。相手をバカにして、能力のない人だと非難して、罵倒していたかもしれません。この仕事には向かない人だ。というより、ほとんどの仕事は無理なのではないかと思ったかもしれません。ここで森田理論が役立ちました。私がとり入れたことは、まず相手の今現在の仕事のやり方をよく観察することから始めました。そして状況把握に努めました。届いたファクスを見るとどこで間違いやすいのか分かりました。また彼女の数字に対する苦手意識があることも分かりました。次にはその事実を認めていくということを意識しました。ここで是非善悪の価値判断はしてはならないと思っていました。すれば元の木阿弥です。彼女の現在の状況を認めるということです。彼女のレベルに合わせて指導するしかない。すると喧嘩にならないので、人間関係が壊れることがありません。最後には彼女も棚卸表の作成が自分ひとりでできるようになり、喜んでいました。多少なりとも自信がでてきたようでした。私としては森田でいう、事実をそのまま受け入れて、事実に服従したという体験ができたわけです。難しいですが生活の中で体験してみることが大事だと思いました。事実を観察する。事実をきちんと把握する。事実をありのままに認めていく。事実を受け入れる。事実に服従する。ということは日常生活にいくらでも応用できます。人間関係が良好になり、自分が苦悩や葛藤から解放されることがよく分かりました。
2014.12.21
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シンガーソングライターの植村花菜さんのお話です。将来結婚し、子どもが生まれ、子どもに物心がつき、自分の夢を持つ。パン屋さんになりたい、お花屋さんになりたい、作家になりたい。あるいは私のように歌手になりたいというかもしれない。子どもはいろんな夢を持つだろう。そのときに私は、子どもの夢をちゃんと応援してあげられるお母さんになりたい。そのためには、自分自身がんばっていないと、ちゃんと応援してあげられない。自分ががんばり、よくても悪くても何らかの結果を出すところまでやっていないと、大きな背中を見せてあげられない。「お母さんは、8歳の時歌手になりたいと思って、一生懸命、歌の練習をして頑張ったのよ。そして、夢をかなえることができたのよ」と胸を張って伝えたい。夢を叶えられるか、叶えられないかは、正直、それほど重要なことではないと思う。もちろん、夢はかなっている方が説得力はあるのだけれど、夢を持って、そのためにどれほど努力し、どれほど頑張ることができたか、それによってどんな結果が出せたかが大切だ。たとえよい結果でなかったとしても、がんばったこと、努力したことで得たものはたくさんあったはず。だからとにかく、「あなたの信じた夢を追ってがんばりなさい」と、子どもにちゃんと言えるお母さんになりたいのだ。そんなお母さんになりたいから、これまでも、人に後ろ指をさされないような生活をしようと思ってきたし、幸せな家庭を築くために、もっともっと成長してゆきたい。これは森田理論の生の欲望に沿った素晴らしい生き方だと思い、ここに紹介いたします。(トイレの神様 植村花菜 宝島社 169ページより引用しました)
2014.12.20
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現在バターが不足しているそうである。酪農家が、採算が合わず撤退しているのが問題だと言われている。これを森田で考えてみたい。環太平洋経済連携協定(TPP)交渉で、アメリカが日本にすべての輸入品の関税を撤廃するように迫っている。日本はもともと農産品の米、麦、砂糖、牛・豚肉、乳製品の5品目は関税撤廃の対象外だと主張してきた。日本がなかなか撤廃に応じないのを見て、米通商代表部のフロマン代表は、一部の品目について20年以上の猶予期間を与える代わりに、全輸入品の完全撤廃を求めているという。もともとアメリカは過剰農産品の有利な販売方法を模索してきた。TPP交渉を有利に進めて、農産物を有利に販売したいのである。日本を食料の完全輸入国に変えたくてしようがないのだろう。そうなれば、日本を経済的にも精神的にも完全に支配できると考えているのだろう。経済戦争を仕掛けているのである。食糧戦略でもって日本と日本人を牛耳ろうとしている。日本の農業、農家がどうなったって構うことはない。自国の穀物メジャーが儲かればよい。それが資本主義の世界だ。つまるところ、日本の食糧生産を徹底的に破壊し尽くすことが目的なのである。情け容赦のない弱肉強食の世界である。共存ということは全く考えていない。私は森田理論で考えてみると、この間違いはすぐに見抜ける。ここで一番問題になるのは、日本人が自分たちの食料を自ら作るという、当たり前の生活を根本から破壊してしまうことである。食料を他国に依存するようになると、食糧不足になる。毎日の食べ物に苦労するようになる。世界の人口は現在65億人ぐらいだが、この先90億人以上にもなるという。普通TPPに反対する人はここのところをついている。それは未来の事実だが、真の問題がそこにあるわけではない。真実は日本人から自立心を奪い、生きがいを喪失させて、依存体質の人間にしてしまうことである。つまり心の問題を抱える人々を大量に作り出してしまうことである。森田では自分のなすべきことを安易に人任せにしてはならないという。それは生の欲望と関係がある。生の欲望の基本は日常茶飯事、雑事などを人任せにしないで、自分自ら取り組んでいくことである。その根本は自分たちの食べ物を自分で作ることである。それは日常生活に精魂込めることが、生きることそのものだという考えだからだ。安易にお金を出して左うちわで生活するなかに、生きることの意味は失われる。そして人に依存するという姿勢は、深刻な心の問題を作り出してしまう。お金が有り余っていても、自分の生活は自分で賄っていく。当たり前のことを当たり前にすればよいだけのことである。快適、便利、快楽を求め続ける生活は人間を堕落させてしまう。TPPは日本人が自立して、自らの生活を自ら守り、精神的に独立する道を完全に封じられてしまう。生活を無視して、刹那的享楽的な生活を送るようになると、精神的な疾患はどんどん拡大してしまうだろう。そして生きがいの持てない重苦しい生活を余儀なくされるのである。日本人が精神的打ちのめされてしまうと、もはや立ち直るということはできなくなるだろう。ここが問題なのである。生活を忘れて神経症の治癒ということは考えられない。安易な、あまりにも、もうけ本位の低次元の欲望の暴走は日本人、日本の社会を破滅させてしまう。それどころか現代文明そのものを破壊してしまう。我々人間はそんなに愚かな存在だったのだろうか。自分たちだけの便利、快適、快楽を求めて、欲望のおもむくままに突っ走ってもよいのだろうか。ブレーキの壊れた自動車がアクセル全開で突っ走っているようなものである。欲望は新たな欲望を生み、もはや止めることはできないところにさしかかっている。森田理論を学習した人は、ここでもっともっと発言してもらいたいと思うのである。欲望が暴走したときの弊害をよく見つめてほしいのである。
2014.12.19
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水谷先生が学生で森田先生のところに入院されていた時のこと。何か形外会で、余興に劇をやっていた時のことですが、「私は、このごろ学校の本は読まず、カルタやトランプやっても面白くなく、困った心理状態になっています。歩いていても息苦しくなることもあります。こんな気持ちで余興をやったら、かえって他の人に気まずい感じを与えはしないかと、さまざまに迷ったが、先生がいつも私に「ともかく手を出せ」といわれるので、手をつけたことであり、苦しい、苦しいと思いながら、稽古しました。やってみると案外うまくできました。これは「ともかく手を出した」ということになるのでしょうか。これに対して森田先生は、ずばり、それは「手を出したことにならない」と言われております。「もし、君が学校の本を読めば、これが手を出すことに相当する。君が本を読まないのは、苦しくて興が乗らないからである。その苦しい中から読むことを「ともかく」というのである。君は実際において、「ともかく手を出す」べきことには、少しも手を出していないから、稽古も苦しいので、歩いていて息苦しくなる原因はここにある。もしこれを逆に、ともかく、読書の方に手を出しておれば、おのずから、心が快活になって、勉強のできる上に、その余暇に、劇でも、トランプでも、みな面白くできるようになる」自分のなすべきことが嫌なので、気を紛らわす行為は、ますます苦しくなるといわれています。これは行動、実践することで、神経症を治そうとする野心があるのだと思います。森田を学習し始めたときはその方向でよろしいと思います。ところがいつまでもそういう態度では問題があります。この野心があると、意識や注意は、つねに症状がよくなっているかどうかに向いているので、治癒するどころかますます増悪してしまうのである。集談会である方が言っていました。世話役を引き受けても、自分の症状はまだよくなっていない。でも、自分の症状のことは横に置いて、参加した人に喜んでもらおうと、一生懸命に世話をしていたところ、症状のことは一時忘れていたということがありました。その瞬間がたくさん作れればしだいに治っていくのだと思います。
2014.12.18
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玉野井幹雄さんは欲望と不安の関係をこのように説明されています。人は、「積極的な考え方をする人」と「消極的な考え方をする人」とに分かれます。「積極的な考え方をする人」をする人は、現状をよくするためには、よい部分を増やせばよいと考えて、自分の長所を見つけてそれを活かすように努力します。つまり自分の持っているものや長所を活かして、生の欲望の発揮に邁進している人です。よい部分を増やすために前向きで、自分のことを振り返るよりも、注意や意識が外向きになっています。ところが、「消極的な考え方をする人」は、そのようには考えません。現状をよくするためには悪い部分をなくすればよいと考えるというのです。同じことのようですが全然違います。よい部分を増やそうとはしないで、悪いものを減らすことによって、結果的によい状態になろうとするのです。悪いものを目の敵にして抹殺するためにやりくりします。注意や意識は自然と内向きになってきます。積極的な人は、よいものを手に入れるためにはいくら苦労してもよいと考えるのに対して、消極的な人は、できるだけ苦労しないでよいものを手に入れようとするのです。つまり苦労の出し惜しみをするのであります。そしてよい結果が得られないといって文句を言っているのが消極的な人ではないかと思います。神経症になっている人はたいてい後者に属しています。そういった傾向は、日常生活をおくる上でいろんなところに現われてきて、不安や不快感をなくそうとするのもその現れだと思います。どうしてそういう消極的生き方になってくるのかといいますと、不快感と向き合っていない、不快感を味わっていない、不快感から逃げているからだと思います。それと欲望と不安の関係の理解が不十分であることが考えられます。森田学習でまずその関係をよく理解することが大切です。神経症者は元々「幸せな気持ちになるためには不快感をなくせばよい」「感情は意志の力でコントロールできる、できないのは努力が足りないからだ」「できれば不安を感じないで欲求を実現したい」等といった誤った考え方をしたり、虫のよい願望とかを持っているからだと思います。消極的な考え方をする人は、不快感にできるだけ出会わないように避けています。そして楽な道を選んで生きていくようにしています。その結果体験が不足して、大人になってすぐに適応不安に陥ってしまうのです。認識の誤りを自覚して、事実を受け入れる態度を身につけることが大切だと思います。(いかにして神経症を克服するか 玉野井幹雄 自費出版 253ページ以降参照)
2014.12.17
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テレビでジャングルの中で暮らしている人を日本に呼んで日本の生活を体験するという番組がある。これはどうかと思う。彼らは着るものもないような生活をしている人もいる。温かいからほとんど服もいらないのである。靴もいらない。家はバナナの葉っぱのようなもので作っている。食べ物はほぼ自給自足である。タロイモやココナツなどを食べている。そして罠や弓のようなものを使って、魚や小動物をとって、みんなで分け合って生活していた人である。貧富の差がないので、人を殺し合うような争いは起きない。これは比較ない世界に住んでいるから可能なのです。ところが彼らがいったん日本の生活を体験すると、自分たちの生活と比較するようになる。日本人はこの人たちが、日本の暮らしぶりに驚くのを見てゲラゲラと笑っている。これは自分たちの娯楽のためである。決してその人たちのためにはならない。世界一長寿といわれるコーカサス地方の人たちは、険しい山岳地帯に住んでいる。山を切り開いた猫の額ほどの畑を耕して生活している。そしてヤクのような小動物を飼っている。つつましい生活である。100歳を超えている人がたくさんいる。80代はまだまだ若手の部類だという。でもあまり病気にならず、畑仕事中にぽっくりと往くそうである。まして心の病というのは何のことだという。日の出とともに畑に出て、日が沈むと家に帰る。毎日の生活の糧を得ることが一番の仕事である。そしてみんなで集まって宴会を楽しむのだという。この人たちも文明の発達した国の人たちのことは知らない。だから比較のない世界に住んでいる。比較することはなぜ悪いのか。2つを比べて是非善悪の価値判断をするようになるからである。先進国と自分たちの生活を比較して、優劣をつけるようになると途端に苦しみや葛藤がでてくるのです。吉幾三の歌に「おら東京さいぐだ」という歌がある。象徴的な言葉を連発している。テレビも、ラジオもない、電気もない、信号もない、自動車もない、電車もない、電話もない、ガスもない、水洗トイレもない、バスもない、新聞も雑誌もない、ギターもステレオも、喫茶店もない、レストランもない、ネオンもない、映画もない、新聞もない、カラオケもない。おらこんな村イヤだ。おら東京へ出るさ。東京に出てお金貯めて豊かな生活をめざすのだ。というような歌である。吉幾三は風の便りか何かで、東京の快適で便利で楽しいことばかりのような生活を知ったのです。それだけならいいのです。それと自分の田舎の生活を比較し検討してみたのです。これが不幸の始まりでした。どう見ても自分の田舎の生活が劣っているように見える。ダメだ。こんな夢も希望もないような生活は。もう嫌だ、こんな町出て行こう。そう決心したのです。自分の田舎の良さをすっかり忘れて、完全否定してしまうようになったのです。自分の浅はかな考えで、人間の豊かな生活は物質文明の発展にあると、大きな勘違いをしてしまったのです。神経症で苦しんでいる人は、頭で考えた事と現実を比較する。自分と人と比較する。昔のよかった時と今の悪い状態とを比較しているのです。それが運のつきです。苦悩や葛藤のいばらの道に踏み迷ってしまったのです。でも、自分以外の情報が入ってくれば自然に比較するように人間の頭はできています。どうしたら人は人、自分は自分。比較しないで自分の存在、持っているもの、生き方に自信を持って生きていくことができるのでしょうか。これは、そういう事実に遭遇したときに、森田理論を活用することです。森田では物事をよく観察する。事態をよく把握する。是非善悪の価値判断をしないで事実を素直に認める。さらに事実を受け入れる。事実に完全に服従していくという考え方です。こういう信念を持って、そうとう努力しないと、すぐに流されてしまいます。すぐに「かくあるべし」がでてきて流されてしまいます。そして自己嫌悪、自己否定の泥沼に落ち込んでしまうのです。森田で修養を積んで、そのあたりのことが自覚できている人は、踏みとどまることができます。これは森田でいう唯我独尊の世界観なのです。
2014.12.16
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天才バカボンの口癖は、「これでいいのだ」です。野口法蔵さんも「これでいいのだ」と言っています。これでいいのだといっていると愚痴をいわなくなり不満がたまらないだからこれでいいのだ!これでいいのだといっていると求めなくなるのだだからこれでいいのだ!これでいいのだといっているといらいらしなくなりおこらなくなるのだだからこれでいいのだ!これでいいのだといっているとこの世に嫌なことはなくなり嫌な人もいなくなるだからこれでいいのだ!
2014.12.15
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北西憲二先生は、神経症からの「回復の物語」という本の中で、次のように述べられている。(212ページ 岸見勇美著 白揚社)社会不安障害(人前での恐怖)、全般性不安障害(過度の心配性)、PTSD(人生のつらい出来事と結びついた反応)などは・・・・とくに薬物療法の対象とすること、つまり医療化することは危惧の念を抱いている。この問題は、病あるいは私たちが生きていくにあたっての苦悩を脳機能不全に還元し、矮小化してしまう危険性をはらんでいる。さらにその苦悩、病を私たちの人生の経験に組み入れ、そこから新しい生き方を模索するという回復の作業が困難となるだろう。現在神経症にかかり、薬物療法を併用しておられる方も多いと思う。重症の患者、うつなどの他の精神疾患を抱えておられる方は、医師の指示のもとで回復を模索することは当然のことである。しかし森田療法の専門医が、このような警告を発しておられることは十分に考慮されなければならないと思う。森田先生も言われているように、神経症は器質的な病気ではない。本当の病気ではないのである。病気ではないのに、本当の病気以上の様相を呈して、日常生活や精神的苦痛にのたうちまわっているのである。抑鬱状態が強いときは、抗不安薬などの薬を併用することは効果がある。しかし神経症からの解放という意味では根本的な治療法ではない。ここのところを間違えてはいけない。一旦小康状態になっても、困難な場面があるとすぐに落ち込む。つまり容易に再発する。さらにとらわれやすく、悶々とした生きづらさは全く解消することはない。これは誤った考え方、誤った行動が改善されないので元の木阿弥になるのである。森田理論は神経質性格を持った人で神経症に陥った人、また悶々とした生きづらさを抱えた人に有効である。特に生の欲望の発揮、不安と欲望の関係、かくあるべしという思考方法の誤り、事実本位の生き方をよく学習して、考え方を修正して、生活面に応用できるようになれば、神経症の克服ばかりではなく、以後とても生きることが楽になる。一生の宝ものを手にすることになる。その際セルフヘルプグループへの参加は欠かせないと思う。自分ひとりで森田理論を体得できるということはほぼ不可能であろう。NPO法人生活の発見会の各地集談会への参加が、今のところは一番有効であろうと思われます。それは神経症苦しんだことのある人の学習グループであるからである。回復の物語を持っている人が多数存在しているからである。
2014.12.14
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長所は見方を変えると短所ということです。短所は長所に早変わりします。私の以前の職場に石原軍団の俳優さんのような人がいました。髪型がほれぼれするように格好いいのです。また性格も柔らかく、やさしくて誰からも好かれるような人なのです。特に女性によくもてる人です。すぐに深い仲になるのです。どうして次から次へと彼女ができるのだろうと思っていました。でも反面、結婚していても愛憎劇を繰り返していました。そのせいか彼は3度離婚していました。最初の人とはスナックで知り合ったそうです。1人子どもがいます。3度目は2人子どもがいます。どうも今は別の人と同棲しているようです。うらやましい限りです。でも最近連絡をとってみると生活保護を受けて生活しているというのです。アトピーと喘息で働くことができないというのです。また彼はパチンコ好きで、女性とお金にだらしないところがあるので、昔の男性仲間からのお誘いがなくなったようです。私も今度また飲もうねといってそれきりです。私は彼とは反対に、そういう気持ちはかなり強いところがあるのですが、容姿が悪いのと、社交性がないのでからきしだめです。でもそのおかげで、否応なしににセーブがかかり、無難な老後を迎えることができたのではないかと思っています。今になって思えば、短所が幸いしたなと思っています。要するに短所と長所は見方を変えれば容易に入れ替わるのです。話は変わりますがデルというパソコン販売の会社があります。格安パソコンを販売しています。格安で販売できるのはインターネットを使って消費者に直接販売しているからです。大手電機店は販売チャネルを確立しており、そのための経費は莫大なものをかけています。従業員を簡単に解雇することもできず、インターネット販売の時代になると価格面で大きな足かせとなっています。昔の強みは、いまや弱みになっているのです。逆に販売チャネルを持っていなかったデルは大きな強みを発揮しているのです。また最近店舗や行員を持たないネット銀行というのがあります。貯金をした時、金利が多少高くなっています。また保険業界でも、通販の生命保険や自動車保険を手掛けている会社があります。自動車保険など車両保険をつけてもかなりの格安となっています。これらも店舗を持たない、勧誘員を置かないのが逆に強みとなっているのです。特に外資系保険会社は攻勢にでています。我々は心配性であると悲観しますが、逆な面で見ると豊かな感性の持ち主である言えます。それを仕事や人づきあいなどに活かしてゆけば、他の人と差別化できる長所に早変わりするということはしっかりと認識しておきたいものです。
2014.12.13
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藤原正彦氏は「国家の品格」の中で面白いエピソードを紹介している。イギリスのサムソン夫人の話です。イギリスの庭師の場合、「楓を庭のあそこに植えてくれ」と注文すると、言われたところに穴ぼこを掘って、楓をポンと植えて、お金をもらって帰ってしまう。ところが日本の庭師の場合、まず家主の言うことを聞かないという。あそこに植えた方が良い、などと逆に提案してくる。そして1本の木をあらゆる角度から眺め、庭師自身もあっちこっちに立ち位置を変え、目を丸くしたり目を細めたりして、散々見た後、もっとも美しく、もっとも調和のとれたところに、弟子たちに身振り手振りで指示を与えて植えさせる。日本の庭師というのはオーケストラの指揮者のようだ。「みていてわくわくする」日本人の繊細な美的感受性に感動しているのはサンソム夫人だけではありません。藤原氏もイギリスの大学の教授を家に招いて食事をしていた時にこんな経験をされています。時期は秋で、網戸の向こうから虫の音が聞こえてきました。するとその人が言うには、「あのノイズはなんだ」というのです。我々にとっては心地よい虫の音ですが、外国の人にとっては雑音なのです。日本人のように移ろいゆく季節に、無常なはかなさを感じるという感覚は持ち合わせていないのです。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句があります。日本人なら森閑としたどこかの境内の古池に、蛙が1匹飛び込む光景をイメージすることができます。そこに人生のはかなさなどを連想することができます。ところが日本以外の多くの国では、古い池の中に多くの蛙がドバドバと飛び込む光景を想像するという。風流な感覚を楽しむという気持ちはさらさら持ち合わせていないのである。この句を聞いて、それでどうした、その続きの話をしてくれというのだそうだ。この話から考えられることは、日本人はもともと鋭い感受性を持った人間なのだということです。そういうDNAを受け継いでいる。鋭い感受性というのは神経質者の大きな特徴です。神経質者は日本人の豊かな感受性を持ち合わせているその頂点にいるようなものです。芸術や文学、人の気持ちを思いやる素晴らしい感性を持ち合わせているということです。これは生まれながらの天性の物であり、あとから獲得できるものではありません。私たちはそのことをよく自覚する必要があります。そしてその特徴を活かしていく。それを生活の中に取り入れて、生活を楽しむ。豊かにしていく。さらに磨きをかけていく必要があります。これが神経質性格を活かすということなのです。そこにこそ力を入れる必要があるのです。
2014.12.12
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全国にトイレ掃除運動を巻き起こしたカー用品販売会社イエローハットの創業者の鍵山秀三郎氏は、「ゴミを捨てることは、自分の良心を捨てることだ」と言われています。私もまったく同感です。考えてみれば国道の側溝や中央分離帯には空き缶や弁当ガラなどが捨て放題です。ヒマラヤに行くと日本人が捨てたゴミがそこら中にあるそうです。富士山は世界遺産ですがゴミが多くて、取り消しになるかもしれないという話を聞きました。産業廃棄物、収集料金のかかるテレビ、冷蔵庫などを山に捨てに行く人もいます。これはまさに自分の良心を捨てている人です。ゴミを捨てて心が痛まないということは、物を大切にしない考え方をする人だと思います。消費は美徳、使い捨て大いに歓迎の人です。世の中の風潮にまんまと乗せられている人です。そういう人は、車でも4年ぐらいで次から次へと買い変える人です。ギャンブルなどでお金を失くしてしまう人です。大事に使いこんで、愛着を感じるなどということとは無縁の人です。この考え方の恐ろしいことは、人もそのように見てしまうことです。その人の存在価値というものは頭に入っていません。あるのは利用価値、経済価値のようなものです。ですから、そうした価値がなくなれば簡単に見切りをつけて捨ててしまうのです。見切りをつけられた人はたまったものではありません。すぐに人間不信に陥ってしまいます。これが親子関係、夫婦関係、会社での上司と部下の関係などに及んでしまうのです。私はこの話を聞くと、森田先生のところに入院されていた片岡さんの「古下駄の話」を思い出します。「縁の下をもぐって掃除していたら、きたない古下駄が一個出てきたので、ゴミを捨てる穴に持っていって、ポイと投げ入れた。その途端書斎におられた先生に、ちらりと見られてしまった。今何を捨てたのか。はい下駄を捨てました。燃えないか。はい燃えます。早々に梯子を持って来て、穴に入り、拾い出してきた。」高口医師という方は、これを読まれて、「森田先生は古下駄にどんな情緒を抱かれたのだろう。奥山の杉の種が必死に生き抜いて年月を経て大木になり、木こりが汗を流して切り倒す。筏師が命がけで杉の丸太を運び、材木商の手を経て下駄職人へ。杉の命は、商人の手を経て私の下駄になる機縁があった。すり減って捨てられるまで私の役に立ってくれた。使えなくなったからといって、どうして粗末にできようか、と考えられたのではなかろうか。」このことを森田では「物の性をつくす」という。この気持ちは、ありのままの自分の存在価値を見つけ出して、最後まで活かし続けるということに繋がっていくのです。
2014.12.11
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森田理論の「事実唯真」に近いことを言っている人について書いてみたい。まずは良寛さんである。良寛さんが詠んだ句に「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」がある。私はこの句が最も良寛さんの心情をあらわしているように思う。これを人間に例えると、誰しも欠点や弱点もある。自己中心で人には見せられない醜さ、好色さも持っている。それらを隠したり、取り繕ったりすることなく、そのままあけっぴろげに開示して生きるということであろうか。ありのままの自分で生きていくということであろう。今でいえば大脳辺縁系を中心にして生きていくことであろう。欲望は極限までそぎ落とされていたので、豊かな感性が泉のようにほとばしり出ていたのだと思う。また良寛さんは、三条地方を大きな地震が襲った時に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候」という手紙を出している。普通自然災害は遭難の「遭」を使う。逢うという字は懐かしい人に逢う時に使うのが常識である。良寛さんの頭には、自然災害は、最終的には受け入れていくしかないのだよと言われているようである。究極の「事実唯真」の世界観である。良寛さんのすごいところは、まず欲望を極限まで抑制して、湧き起ってくる感性を十分に引き出し、豊かな精神生活を楽しんでいることがあげられる。それも確かにすごいが、私は一番すごいのは、一生にわたって「事実に完全服従」の態度を貫いたことだと思う。良寛さんの周りには子どもたちを始め、支援者たちがたくさん集まった。貞心尼とは40歳ぐらい歳の差があったが交流を深めることができたのは、なんともいえない人を引き付ける力があったのだと思う。良寛さんは寡黙な人として知られている。そんな人がなぜ人を引き付ける力があったのだろう。私は自分を飾ることのない、魂のままに生きるという姿勢の中に、その謎が隠されているのではないかと考えている。森田でいえば事実を受け入れて生きていく世界である。良寛さんは荘子の本を愛読し、道元の「正法眼蔵」を研究されていたようである。「正法眼蔵」を一言でいえば、「身心脱落」である。これは「かくあるべし」をすてて、自然と一体化して生きていくことをいう。つまり事実に服従して生きていく世界のことである。つぎに中国では「無為自然」を説いた老子がいる。言葉からして、自然に対して絶対服従の立場に立っている。ここでいう自然とは事実のことである。老子は行き過ぎた知恵、知識、学問、文明、文化、権力や武力などは贅肉だといっている。これら行きすぎた贅肉が人間を不幸に追いやっていると断じている。つまり観念の世界から、事実に基づいた生き方を説いているのである。そして荘子がいる。荘子の言葉に「化に乗ずる」という言葉がある。諸行無常、流動変化の世の中にあって、変化にのって生きていくという意味である。さらに変化を予測して、結果を検討するという意味もある。これも森田の世界観と完全に一致している。素晴らしい考え方であるが、現在の中国では、一般には「老荘思想」というのはあまり知られていないようである。森田先生は禅の中からいろいろと引用して森田理論の説明をされている。禅には曹洞宗、臨済宗がある。これらは体で感じたままに生きていくことを教えてくれている。頭で考えたことを指針にして行動してはならないといっている。五感で感じたままに生きていけば間違いないといっている。私はこれらの人や書物から事実に服従するとはどういうことかを学んでいくと、森田理論をさらに深めていくことができると考えています。
2014.12.10
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森田全集第5巻113ページより今度、私の3月の病気の時も、自分は心臓性の喘息であるから命が危ないと思い、古賀君か佐藤君か、よく覚えていないが、死んだら解剖の事を頼み、また井上君や山野井君や修養のできた人には、危篤の電報を打ち、香取君には電話で来てもらった。それは私が死ぬる「今は」の実際の状況を見せて、参考に供したいと考えたからである。つまり肉体的解剖でも、臨終の心理的状況でも、これをむだにしないで、有効な実験物として提供したいので、あるいはこれを功利主義と言えるかもしれないと思うのである。また形外先生言行録の中にこんな話がある。中川医師が森田先生の病室にいた時のこと。そこに主治医と看護婦がきて洗腸をするという。慌てて病室を出ようとすると、森田先生曰く。「中川君、洗腸とはどういうようにやるものか、よく見て勉強しなさい」普通は自分の恥部は隠したいものである。驚くべき話である。私はここに森田先生の「物の性を尽くす」という真髄を見る思いがする。最後の最後まで、これでもかこれでもかと自分の活用方法、活かし方を追求する生活態度が見て取れるのである。この態度が入院生に向けられた時、なんともいえない温かい人間教育になってくる。神経質性格を持ち症状で苦しんでいる人に、神経質性格のプラス面を充分に自覚して、それを生活の中に活かしてみなさいと厳しく教えられているような気がする。だから退院後も森田先生を慈父のように慕う人が多いいのだろうと思う。普通は自分に備わっているもの、能力や特徴には目もくれないで、自分にないものばかりを得ようとしている人があまりにも多いような気がする。まずは足元から見直すことが大切だ。
2014.12.09
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国民総生産GDPの大半は消費であるという。消費が増えていかないと経済は停滞する。なんとしても消費を拡大しないと日本という国は成り立たないという。今回消費が回復していないので、消費税10%への引き上げは見送られた。そもそも安倍政権の政策は緩やかなインフレ基調に持っていくという。これは消費の拡大によって安定経済を築こうとしているのである。そのために政府はいろいろと施策を打っている。例えば住宅減税。減税によって住宅産業を支えようとしているのである。乗用車は13年を超えて所有していると税金がアップする。大事に使えば20年でも使用に耐えるものを、早く買い変えさせようとしているのである。パソコンもなぜか不具合が多く早めの買い替えが必要になっているようだ。私などは2台ないと支障が出ている。また外部ハードディスクにデータを保存しておかないと、突然のトラブルで全データの喪失という危機に見舞われる。政府は年寄りがお金をため込んでいるので、それを早く子どもが使えるように相続時精算課税制度を拡充している。お年寄りから早く蓄えを子どもに移転して、消費意欲の高い子どもに使わせようとしているのである。これらは消費が国民の生活を豊かにするのだという暗黙の了解がある。これらはすべて使い捨ての思想である。経済学者が消費は押さえていきましょうという話を聞いたことがない。つまり消費の拡大は善であるという前提に立っているのである。これらの考え方は森田理論の考え方とは真っ向から対立する。森田では人間も物もそれぞれ存在価値を持っている。その存在価値を認識して、最後の最後まで活かしきろうという考え方である。存在価値はそれぞれに特徴を持っており、多様性がある。それぞれに存在価値があるのだから、それぞれの立場に立って活かしていけばよいのである。ところが大量消費、使い捨て奨励の考えに立つと、存在価値などいうものには目もくれなくなる。利用価値がなくなればもう用がない。経済価値がなくなれば切り捨てられる。それはものだけではなく、人間だって例外ではないのである。その行き着き先は欲望の暴走である。将来我々の子孫が困難な生活環境、環境破壊、資源の枯渇などに見舞われても意に介しない。今の自分たちの物質文明が栄えて、便利で楽ができ、楽しく快適で安全、飽食三昧の生活が確保されればよいのである。でも欲望が暴走を始め、ある基準点を超えてくるともう暴走を止めることはできない。制御不能に陥ってしまうのである。つまり人間社会の自己崩壊である。森田でいう欲望と不安の調和はもはや望むべくもない。以前四代文明が栄えたことがあった。しかし豊かな文明を築きあげたにもかかわらず、すべての文明は衰退して跡かたもなくなってしまった。それはなぜそうなったのか、反省してみる必要がありそうだ。森田理論の欲望と不安の拮抗作用で考えてみる時に、もうすでに取り返しのつかない時代に突入しているようで仕方がないのである。
2014.12.08
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最近しつけと称して子供を虐待して殺してしまうという事件がある。こういう親は子供の成長のことを考えているとは思えない。自分のイライラを子供にぶっつけて自分がすっきりしたいだけだと思う。自分の「かくあるべし」を弱者である子供にぶっつけているのである。結果として親も逮捕されるし、子供もかわいそうである。でも最低限のしつけは必要だと思う。音楽会に来て演奏の最中私語で話す。レストランに来て食事中席を離れて走り回る。マンション内で走ったり暴れて大きな音を出す。これらはきちんとルールを教え込ませないといけない。本来しつけとは、大人が、自分の子供に対して、危険を回避したり、健康を増進させたり、人間社会にうまく適応させるために、生活習慣、社会の規範、規律、礼儀作法などを教えていくことである。社会で生きていくための基本的必要事項を教えて、身に着けさせることである。そういう意味では、しつけは親から子供へ一方的な指示、命令であるという側面を内包している。強制力がある。でも、子供の将来にとっては必要なことである。ではしつけはどのように行われるべきなのだろうか。まずしつけをするにあたっては、親子の信頼関係は欠かせない。親は子供を無条件に愛している。子供は親の宝物である。常に子供の味方である。この前提に立って初めてしつけが成り立つと思う。この前提が崩れると、反発するようになる。その上で必要最低限のしつけをしていく。しつけとは子供の言動の間違いを本人に気づかせ、本人自らの意志でその行動を改めたり、行動指針を身に着けていくことである。森田先生は子どもの正一郎君に交通ルールを教えるときこんなふうに言っている。道路では決して走ってはいけない。常に歩くこと。特に道路を横切って電車に乗る時は、ゆっくりと歩いて電停に行くこと。急いで走って乗ろうとするときに事故に巻き込まれる。その結果正一郎君は決して道路では走らなかったそうである。森田先生のしつけは極めて具体的である。そしてこうするとこうなるという経験に基づいた事実を話している。あとどう行動するかは子供に任せている。これは森田理論でいうとしつけは具体的に対応すること。「かくあるべし」を押し付けるのではなく、こうすればこうなるという過去の事実を伝えることの大切さ。この2点を教えてくれている。
2014.12.07
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森田理論は、「かくあるべし」をやめて、事実そのものになって生きていくことを教えてくれています。何度も何度も学習しているのですがどうもしっくりときません。なぜなのでしょうか。現在私がこのことで注意している事は2つです。一つ目は、事実に服従するというのは、そこにストレートに行きつくわけではないということです。次のような過程を踏んで行かなければ到達できないのではないかと思っています。まず事実はよく観察する。そして事実をよく把握する。次に価値判断しないで事実を認めること。次にようやく事実を受け入れる。このプロセスを経て最終的に事実に服従していく。この段階をきちんと踏んでいかないと、絵に描いた餅になってしまうのではないか。実際には役に立たないのではないのかと思っています。普通は事実を見ようともしない人が多いように思います。特に不安、恐怖、違和感、不快な感情を起こすと予想される事実から逃げてしまう。事実は具体的に、ありのままに話すのがよいといっても十分に観察していないのでよく分からない。そこで先入観や今までの経験をもとにして決めつけてしまうことが多い。森田先生は、よく観察して、なんでも現地に足を運んで自分の目で確かめておられました。次に事実を把握するということですが、事実はなるべく詳細、ありのままに確かめるということが大切です。観察する、把握するというのは同じことのようですが、この2つは重複していてもよいのです。それぐらい重要なことなのです。そして事実は把握するだけにとどめて価値判断しないことも大切です。するとそのままに認めるということに繋がっていきます。ここまでくれば事実を受け入れる、事実に服従するという態度に自然になりやすいと思うのです。2つ目です。事実は4つの事実に分けてみていくととても理解しやすいのです。今までの森田理論ではこの4つがごじゃ混ぜになっている事が多かったと思います。これでは理解に苦しみますし、混乱を招くと思います。私の考える4つの事実は次のようなものです。1、 自然にわき起こってくる感情の事実です。森田理論学習では主としてこれを扱っていると思います。2、 自分の存在そのもの、境遇、素質、能力、容姿、性格、弱点、自分の犯したミスや失敗などの事実3、 他人の自分への仕打ち、他人の存在そのもの、他人の境遇、素質、能力、容姿、性格、弱点、他人の犯したミスや失敗などの事実4、 自然災害や伝染病、戦争、経済の変動、食料やエネルギー不足、世の中の理不尽な出来事自分が認めたくないと思っている事実は、この4つの中に含まれているとは思われませんでしょうか。実生活の中で今の不快な事実、受け入れることのできない事実は何番目の事実なのか、検討してみましょう。ほとんどは対策を打ったり、逃げたりしないで、事実を受け入れて、事実に従うことがよいものばかりです。この態度で生活できれば、生きることがとても楽になります。別人のような生き方に変わってくるはずです。
2014.12.06
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町田宗鳳氏のお話です。人間は大なり小なり、八方塞がりの中で生きているのです。でもその現実はどうしようもありません。1センチたりとも動かせないのです。運命という警察官から手錠をはめられているようなものです。となれば、制約は制約のままで、どれだけ屈託なく、自由に気分晴れ晴れと生きていくか、それで人間の値打ちが定まります。自由を得るか得ないか、自分の心の持ち方次第ということになります。親が悪い、学校が悪い、社会が悪い、政治が悪いと、自分の自由を奪う制約を人のせいにしているうちは、子どもです。あれが悪い、これが悪いといっているうちに、自分自身から悪い余波がどんどん発信されることになり、今よりももっと悪い現象が起き始めます。法然聖人は75歳という高齢で四国に流罪となっています。それで法然聖人は少しも悲観していなかったのです。こんな歌を詠んでいます。露の身は ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ「肉体は草葉の露のようなものだから、どこで消えるか分かりません。だけども、心はいつも極楽浄土の蓮の台(うてな)にあるのですから、旅先で亡くなったとしても、またすぐに再会できますよ」流罪という深刻な事件にも、まったく制約されぬ自分を楽しんでいるところがすばらしいのです。職場で左遷されたといって悲観し、わが身を殺める人間がいますが、愚かなことをしようとする前に、この法然の歌を噛みしめてほしいものです。この世にいる限り、重い制約の中で、幸せを見つけるよりほかにないのですから。これは森田理論では、「境遇に柔順になり、運命を切り開いていく」という考えと同じことだと思います。(生きているだけでいいんだよ 町田宗鳳 集英社 54から56ページ引用)
2014.12.05
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先日生活の発見会の支部研修会に参加した。その中でセルフヘルプグループへ参加することの意義と問題点がとても参考になった。現在心の問題を抱えた人、アルコール依存、薬物依存、引きこもり、不登校、発達障害などの問題を抱えた人はセルフヘルプと言われる自助組織に参加することが多い。生活の発見会の森田理論学習としての集談会の参加も、同じセルフヘルプグループである。参加することで、同じ悩みを共有化して精神的に落ち着きを得ることができる。さらに問題解決の糸口をみいだして、生き方を学ぶことができる。等メリットは言うまでもなく数多い。そこでは受容と共感の場を作ることは極めて大切である。ところがこれを組織としてみるととても脆弱である。集談会でも気が向けば行く。気が向かなければいかない。強制力はない。生活の発見会の会員も入るのも自由。1年で止めるのも自由である。出入り自由なのである。良いようであるがセルフヘルプグループの発展、継続という意味ではとても弱弱しい。私は生活の発見会会員として約30年である。森田理論学習の有効性については身にしみるほど感じている。これは私が恩恵を受けただけではなく、多くの先輩会員が感じている事だと思う。だから組織が強固なものになり、永続性のあるものであってほしい。でも現実は実に心もとない。この研修でその一端がよく分かった。それはセルフヘルプグループの宿命であったのだ。問題を抱えたり、生きづらさを抱えた人たちが仲間の力を借りて、少しでも楽になりたいと思って集まって会合を持っているに過ぎない団体であるということである。そういう意味ではみんな平等である。悪くいえば同じ悩みを持った人が傷をなめ合っているともいえる。これはセルフヘルプグループすべてにいえることだと思う。会社のように利潤をあげて、株主に利益を還元し、社員生活を維持するなどという確固たる目的があるわけではない。組織としては、会社のように基本的には責任者、リーダーという人はいるわけではない。また、積極的に人の世話をしたいという人はいない。セルフヘルプグループというのは、もともとリーダーの人材に乏しいというのが大きな特徴であったのだ。我々はこのことを考えてみることがなかった。考えたとしても、どう手を打つべきかについて省みることはなかった。私は学習テキストや学習方法が悪いから人がいつかないと信じ込んでいた。参加している方は、役割は受けたくない。負担は受け入れたくない。自分にとってメリットがあれば参加するけれども、けっしてすすんで会を盛り上げるということは考えたこともない。会の運営方法が悪いと口にする事はあるが、自分がそのために自ら動くということはない。そして会の運営はマンネリになる。停滞していても誰も手を打とうとしない。苦痛になれば退会してしまうだけのことだ。自助組織とはそういう特徴を宿命的に抱えているのだということを、役員、支部委員、幹事、世話人などは自覚することが大切であったのだ。自覚できれば次に進める。自助組織はワイワイだけのなかよしグループだけではすぐにゆきづまることに気が付く。ではどうするか。会員でない人で集談会に参加する人がいる。せめて3回以上参加する人は、基本的に会員になって経済的に支えてもらわないといけない。その点今までは曖昧であった。会員になることのメリットがいくつかある。それを初心者に積極的に伝えていかないといけない。また同じように世話役を引き受けてもらうように話してみることである。集談会の会場づくり、運営会議、会の司会、記録係、会場予約、図書の販売、初心者対応、会計、お菓子係、お茶係、BGM、講師対応、リクリェーションなどたくさんの役割がある。6か月以上続けてきている人は是非とも役割を持ってもらわないといけないと思う。これを集談会で経験すれば社会でも役立つ。またつい退会したくなった時の歯止めにもなる。結果として集談会にとどまることになり、自分の人生観の確立に役立つ。会は仲間意識だけでなく、会員意識も必要である。自助組織というのは、その2つが車の両輪として回ることによって前進できるのである。前進できることで会の存続と発展が見込める。そのことが自分とっても、これからお世話になるであろう新人にとってもかけがいのないメリットとなるものであると思います。
2014.12.04
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シンガーソングライターに植村花菜さん言う人がいる。「トイレの神様」という曲で有名である。この曲は花菜さんとおばちゃんとのふれあいを歌ったものである。花菜さんは「ザストリート・ミュージシャンオーディション02」でグランプリを獲得し、2005年キングレコードからデビューされている。ところが鳴かず飛ばずで、5年が経過し契約解除寸前であったという。それまでは恋の歌を中心に書いていたが、家族の歌に替えた途端にブレイクした。その時彼女が思ったことは、「私が書きたかったのは恋ではなかった。人であり、家族であり、絆なのだ。それが、私が一番書きたかったテーマだったのだ」宝島社から出版された手記をみてその心情がよく分かった。花菜さんの家族は様々な葛藤を抱えていたのだ。おばあちゃんは台湾の人と結婚されたがその後離婚。そして再婚して魔法ビンの会社で繁盛して裕福な生活をするようになった。小学校3年でおじいちゃんが亡くなるまでは。また花菜さんたちは再婚相手がおじいちゃんだと思っていたが、離婚前の台湾の人が本当のおじいちゃんだったそうだ。お母さんは花菜さん1歳3か月の時に離婚されている。お父さんはウツを発症して会社に出社できなくなったようだ。その果ての離婚だったようだ。一度群馬に住んでいるお父さんとあったことがあるが今でも恨んでいるという。花菜さんの兄弟は、9歳年上の姉、6歳年上の兄、4歳年上の姉との4人兄姉であった。花菜さんはなぜだか兄姉とは離れておばあちゃんと生活をされていたという。6歳上の兄はおじいちゃんが亡くなったころから、家庭でイザコザを起こすようになり、花菜さんが高校3年生の時、母はついに家出してしまったという。4歳上の姉は一時不登校に陥っている。楽しいこともあったようですが、複雑な家族で経済的にも苦しくイザコザが絶えなかったようです。しかし植村さんが偉いと思うのは、人の心をうつ歌が作れたのはこの家に生まれて育ったからだと思うといわれていることです。子供の頃は本当につらく、なんでこんな家に生まれたのだろう。もっと幸せな家に生まれたかったと思ったという。でも人はやっぱり傷ついたりつらかったりするところから学ぶのだ。私が今歌っているのは、家があんなふうだったからだ。つらいのは確かだけど、でもつらいなと思う反面、本当に面白いと思う。こんないろんな経験をさせてもらえるのも、あの家だからだ。私は、家族のために、家族が一つになるために歌を歌ってゆきたい。そういう苦しい体験をしているのだから、これからの私の使命のような気がする。最期にこんな言葉で結ばれている。「家族で、どうしても腑に落ちないことは、相手に伝え、相談し、解決を見つけるけれど、それでもしようがないことは、忘れるのが一番。そしてこれも自分の運命だと受け止めること。」森田の苦悩を抱えたまま、生活を充実させていく生き方そのものだと思います。(トイレの神様 植村花菜 宝島社参照)
2014.12.03
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森田の研修会でこんな話を聞きました。集談会の世話をしている人たち数名で、郵便物の発送業務をしていた時の話です。封をして閉じたところにセロテープでフタをしていました。ある人がセロテープをくしゃくしゃな状態で張り付けたそうです。今回お話をしてくださった方は集談会の代表の方でした。その方にもう少しきちんと貼ろうよ。と注意をされたそうです。するとしばらくして相手の方は仲間2名を引き連れて集談会に出てこなくなったというのです。他にも病気になったりして8名いた世話人が2名にまでに減ってきたそうです。お話をしてくださった方も大変ショックを受けられたようでした。今日はこの問題を森田理論で考えてみましょう。これは純な心と関係があります。誰でもセロテープを扱っているとき、張る前にセロテープがくっついてしまって困ってしまうことがあります。そんな時はそれを捨ててしまう。しわを伸ばしてから張る。そのまま無理やりに貼ってしまう。その方はそのまま無理やり張ってしまったのです。見た感じはたいへん見苦しいです。見えない所ならまだしも、郵便物の場合は相手に不快感を与えてしまうことが多いと思います。その作業を第3者が見た時、「ああいやだな、森田理論を学習している人がそんないい加減な張り方をするのかな」と思うのも無理はありません。もっと丁寧に作業をしてもらわなければいけない。これからのこともあるし、きちんと注意しないといけないと思われたのだと思います。そうでなかったら何のために森田理論学習をしているんですか。そういう気持ちがわいてきたのかもしれません。当然の感情です。でも普通、相手の非を否定すると、相手が気を悪くするかもしれないという別の感じも同時に起こってくるのではないでしょうか。2つの相反する感情が同時に湧き起ってくるのだと思います。その2つの感情を取り扱うときは、性急にどちらかに決めつけて行動に移してはならないということだと思います。ここが肝心なところだと思います。嫌な不快な感情が沸き起こってきたという事実。まずここから出発することが大切です。この感情は悪い感情だと、是非善悪で価値判断してはいけません。感情にはいいも悪いもありません。沸き起こってきた事実だけを認めてゆけばよいのです。その上で2つの感情の落としどころを試行錯誤すればよいと思います。普通はその中間あたりの所に妥協点はあるはずだと思います。その考えにこそバランスのとれたWINWINの世界が広がります。自分が我慢したり耐えたりするのではない。そうかといって相手を攻撃して痛めつけるのとはちょっと違います。痛み分けといったところでしょうか。神経症はそれがとても我慢できないのだと思います。この場合いろいろな考えが浮かびます。相手にすぐに注意する。何も言わない。相手を心の中で認めない。もうその人には依頼しない。仕方ないのであとで自分一人で張り替える。テープがくっついちゃって大変だったねと相手にいう。ここではいろいろと考えて、相対立する感情が出てくるということが大切なのです。我々はいつも不安、恐怖、不快な感情をやりくりしたり、逃げたりします。それらを価値批判しないでありのままに認める。ここが出発点です。次に対策としては相対立する2つの考えが出てくるようになっているのです。これが人間心理の自然な感情の事実なのです。それにそって偏らず、揺れ動く状態というのが実は一番安定しているということではないかと思います。不安定な状態、諸行無常、変化流転の状態が、即安定状態というのは森田理論が言っている通りです。
2014.12.02
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大平健氏のお話です。最近、他人から傷つけられるということを気にする人が多い。自分のプライバシー、プライベートな部分に土足で入り込んでくる人を敬遠する。そして、人を傷つけるようなことをしないように気を付けている。そういう当たり障りのない人間関係作りが普通の状態となっている。例えば電車でお年寄りに席を譲ろうとしても、相手が年寄り扱いされて気分を害するかもしれないと考える。やさしくするつもりが、かえってやさしくないことになりかねないということに悩むのです。もしその好意を拒否されると、自分の自尊心が非常に傷つくのです。席を譲ることにも慎重になっています。だから狸寝入りしたり、降りるふりをして隣の車両に移動してしまうこともあります。他人に親切の押し売りをして、仮に断られると自分が傷つくことを恐れているのです。最初からそういう関係は避けているのです。あたらずさわらずの人間関係が一番心安らぐのです。こうなると相手の出方に神経を使い気が休まることがありません。夫婦、親子、上司と部下、同僚、友達との付き合い方、すべてに及んでいます。相手と喧々諤々議論をするということはしなくなります。安易に話しかけるということもしなくなります。本音を出すこと自体がタブーとなるのです。ツカズハナレズの希薄な人間関係を好むようになります。相手が愚痴を言うのも戸惑います。涙を流して悲しみや悔しさを表現されると動揺します。ベタベタした付き合いは好まないのです。相手も自分の苦しみや葛藤を打ち明けることは相手を傷つけることになるので愚痴を言ったり告白することはなくなります。これらの原因はすべて自分が傷つくことを回避することからきているのです。このような人の特徴は、人生の節目で重要な決断をすることが出来ません。失敗して後で後悔をすることが恐ろしいのです。失敗をするとあとで自分がみじめになり、立ち直れないほど落ち込んでしまう。だからズルズルと放置して引き延ばしてしまうのです。モラトリアム人間になってしまうのです。そういう人が増えています。またこういう人は、「いちおう」「とりあえず」という言葉をよく使う人です。「とりあえず」というのは、失敗したときに急場しのぎだったので仕方がないと言い訳をするためにあるのです。これをよく考えてみると、自分自身に確信が持てない。自分の存在価値、判断、行動、実践に自信が持てないのです。今の自分は「かりそめ」の存在であって、今この瞬間を一生懸命に生きているとはいいがたい。現在は自分の生き方探しをしているのだという甘えがあるのです。私もそういう言葉をよく使います。これは神経症で苦しんでいる我々神経質者の特徴とよく合致しています。その心理について、森田理論は、解決の糸口を示してくれていると思います。特にこの心理は、自己内省力が肥大して、生の欲望とのバランスがとれていません。その2つの関係を学習して、生活に応用できるようになったとき、バランス感覚が戻ってくると思われます。(やさしさの精神病理 大平健 岩波新書参照)
2014.12.01
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