全32件 (32件中 1-32件目)
1
生活の発見誌10月号に「生き生き森田ワークショップ」の学習内容ついて書いてあります。ある方が「今日ゴミ出しをした時に人に合わなかったからよかった」といわれた。たぶんこの方は女性なのかもしれませんね。これを聞いた男性のAさん曰く。私なら「人に合うのは嫌だという感情はそのままにして、ゴミ出しをするという目的を果たせたのが良かった」と答えていたでしょう。これはまさしく森田理論学習をした人の模範解答のようですね。ここから、森田理論を深めておられるのが素晴らしいと思います。さて、ゴミ出しをされた女性の人は多分化粧をされていなかったのでしょう。だからだれにも会いたくない。女性なら当然そうですね。結果として人に合わなかったからうれしかったのです。素直です。この方の良いところは、沸き起こってきた感情に対して、是非善悪の価値判断をされていません。沸き起こってきた感情をそのまま味わっておられます。普通は沸き起こった感情に対して是非善悪の価値判断をしてしまいます。うれしい感情はあってもよいが、不快な感情や醜い感情、自分が感じたくない感情は沸き起こってはいけないなどと。本来感情は自然現象ですから、よいも悪いもないものです。したがってどんな醜悪な感情が沸き起こっても責任を負う必要のないものです。この文章を書かれたAさんは、人に合うのが嫌だという感情をそのままにして放置するといわれています。ということは、感情を是非善悪で選別しているということです。この感情は良い悪いでいうと、どちらかというと悪い感情だけれども、森田理論学習ではそのまま受け入れなさいと言われている。だからセオリー通り受け入れます。感情に対して是非善悪の価値判断はしましたが、そこを押しとどめて森田理論に従いました。何でもないことのようですが、ここが問題です。価値判断をするということが習慣になっているということが問題なのです。感情はそのままにしてゴミ出しという「なすべきをなす」という行動に手を付けました。それこそが神経症を治す正攻法だと教えられているからです。感情はそのままにして、本来の「なすべきをなす」という行動はそれでよいのです。特に森田学習に取り組み始めたばかりの人はそれでよいのです。ところがいつまでも感情に対して良いとか悪いとかの価値判断をしていては困るのです。ここで問題になるのは、感情をいかようにもコントロールしようとしているその態度が問題であるということです。どんな感情でも空に放された風船のように風の向くままに流れていく状態がよいのです。それを強いて抑え込もうとすると、風船は簡単に破裂してしまうことがあるのです。自然現象である感情はあるがままに認めて受け入れる。服従していくという態度が目指すべき方向です。
2014.10.31
コメント(2)
ホスピスの病院で2500人をみとった柏木哲夫医師の話をもとに死について考えてみたい。柏木医師は「人は生きてきたように死んでいく」といわれる。不平不満を言いながら生きてきた人は、我々スタッフに不平不満を言いながら死んでいく。周りに感謝して生きてきた人は、家族や親族、我々スタッフに感謝しながら死んでいく。しっかり生きてきた人はしっかり死んでいく。ベタベタ生きてきた人はベタベタと死んでいく。これまでの生きざまが、死にざまに見事に反映していく。よき死を死するためには、よき生を生きる必要がある。最期になって、駆けつけてくれた人に「今まで世話をしてくれてありがとう」と感謝の気持ちを持てる人。「苦労もたくさんあったが、終わってみれば楽しい人生だった。」「生まれて来て本当によかった。チャンスがあればまた人間に生まれてみたいものだ」「じゃ行ってくるからね」家族から「行ってらっしゃい」と送り出される。そんな心境になれる人がよき生を生きた人ではなかろうか。そんな心穏やかな死を迎えたいものだと思います。どうしたらそんな死を迎えることが出来るのだろう。そういう人は、まず自分のおかれた不満足な状況を受け入れることが出来た人だと思います。大変な時代に生まれた人もいます。貧乏な家に生まれた人もいます。五体不満足に生まれた人もいます。でも過酷な宿命を呪うことなく、すべてを受け入れて、そこを出発点にして生きていった人だと思います。自分の存在価値を見つめて、それに磨きをかけていった人だと思います。生まれたこと、生きていく中で感謝の気持ちを持つことが出来た人だと思います。次に夢、目標、課題を持って常に前向きに挑戦し続けた人だろうと思います。失敗やミスはたくさんありました。でも逃避することはしませんでした。目の前に立ちはだかった問題を正面から受け止めて、乗り越えていった人だろうと思います。例え乗り越えられなくても、そういう姿勢を持ち続けた人だろうと思います。このことを森田では「自然に服従して、境遇に従順になる」と言います。森田的生活というのは、最期の時に「感謝や満足」の言葉が、頭の中を走馬灯のように駆け巡るのだろうと思います。(「死にざま」こそ人生 柏木哲夫 朝日新聞出版参照)
2014.10.30
コメント(0)
現在はガンになっていてもほとんど告知されている。末期がんになると余命も告げられる。「あなたのガンは、ステージいくつですよとか、余命は長くて6か月ですよ」「手術をして抗がん剤治療をすれば3か月程度延びる可能性があります」山崎章郎医師は、まだ自分がガンという病気になったことを受け止める気持ちになっていない時は問題だといわれる。患者さんの方から病気についての質問があれば、少しずつ説明していく。それを病状について最初から伝えると、相談に来た患者さんの中には、絶望感で打ちのめされて、とても傷つく人もいるわけです。この問題を森田理論ではどう考えるのか。森田先生はこういう場合は人情から出発しないといけないといわれる。患者さんはなんとかガンを治したいと思っているだろうな。病状をそのまま伝えると相当落ち込むだろうな。ショックで再起不能になるかもしれない。家族にとってもそんな姿を見ることはつらいだろうな。これらは相手を思いやる暖かい感情です。人間にはミラーニューロンというものがあって、他人の苦しむ姿を見て、同情したり共感したりする感情が沸き起こるようになっています。そこから出発しないといけない。相手がどういう気持ちになるのかを無視して、真実の事実をそのまま機械的に伝えるというのはロボットのやることです。森田理論学習では感じから出発してその後で理知で調整するといいます。この例では理知から出発して、感じは全く無視してしまっているのです。順序が逆になっています。するといろんな葛藤が生まれて、自他ともに苦しむようになるのです。感じから出発して理知で調整するというのは、是非とも身につけたい重要項目です。
2014.10.29
コメント(0)
柏木哲夫医師のお話です。39歳の女性の方が子宮がんの末期で入院してきた。その方には10歳の女の子と4歳の男の子がいた。衰弱が進み、残り時間が少なくなったとき、子供にお母さんの死を伝えるかどうか問題になった。ご本人も、ご主人も、伯母さんも伝えることは反対だという。私立の中学を目指して、塾通いをしながら勉強をしている10歳の子どもにショックを与えたくないということらしい。子供は、お母さんは子宮の病気で入院して治療を受けているが、治療が終われば退院できると説明を受けていた。柏木医師は「心の準備なしに母親の死に直面することは10歳の女の子にとって、あまりにも酷であると思う。死が近いことを告げることはつらいし、それを知ることもつらいけれど、そのつらさよりも、心の準備なしに母親の死を迎えることの方がずっとつらく大変だと思う」と助言した。父親は最後に「私が責任を取ります。娘には知らせないことにします」ときっぱり言った。その後1週間して容態が急変して母親は亡くなった。女の子は「お母さん、お母さん」と大声で叫びながらお母さんに取りすがって泣き出しなかなか泣き止まなかった。それから1か月。女の子はずっと学校を休んでいるという。柏木医師は児童精神科医を紹介した。カウンセリングと箱庭療法で2か月たって学校に行き始めた。柏木医師が言われるには、母親がやがて死を迎えるということを、10歳の女の子に知らせ、家族が揃ってそれに備えるということをしていれば、3か月も学校を休むことはなかったのではないか。死を知らせるというのは確かに残酷です。でも準備もなく突然母の死に直面することは想像以上に残酷なことです。家族全員で悲しみを分かち合うことなく、一人で受けとめなくてはならなくなるのです。森田理論では不安、恐怖、不快な感情から逃げたりしないで、しっかりと認める。そして受け止める。悲しくてやりきれない、理不尽な感情をじっくりと味わってみることを勧めています。逃避したり逃げたりすると、一瞬楽なように思えますが、その後何倍もの後遺症で苦しむことになるのだということはしっかりと自覚しておく必要があります。死にざまこそ人生 柏木哲夫 朝日新聞出版
2014.10.28
コメント(0)
1975年細川たかしの歌に、「心のこり」がありました。私バカよね、おバカさんよねうしろ指、うしろ指さされてもあなた一人に命をかけて耐えてきたのよ今日まで秋風が吹く港の街を船が出ていくように私も旅に出るわ明日の朝早くこの歌が発売された1975年は昭和50年にあたります。ここから日本は驚異の経済成長を見せます。それはバブルがはじける1989年、昭和の終わりである昭和64年まで続きました。この間、日本も自分の国に誇りを持っていました。そして国民一人ひとり物質的に豊かな生活を求めて夢も希望も活力もあり、自信を持っていた時代でした。そんな時代の中にあって、この歌は自分のいたらなさを風刺的に、客観的に見ています。どんなに欠点や弱みがあってもそれが事実なんだからしょうがないわ。人からどうしようもない人と軽蔑されようがそれが事実なんだから仕方ないわ。でも私はそんな自分を否定することはしませんよ。気分一新して、私なりに明日からまた新たに出直しますよ。そんなふうに見えます。つまり自己否定に陥らないで、新たな「生の欲望の発揮」に自然に舵をとることができたのです。これは自分に対する揺るぎのない自信や活力があるからこそ、欠点や弱みを受け入れることができたのだろうと思います。どんな自分でも受け入れる、受け止めるということは、もう片方に自分の存在価値に対する確かな手ごたえがあるからこそなしえるものです。しかしバブルの崩壊後、人々には目標や夢、希望が無くなりました。先行き不安感が日本全土のみならず、すべての人々を飲み込んでゆきました。自信、活力、希望や夢が持てなくなり、自己の存在価値の喪失の時代が到来したのです。こんな時代にはやった歌は、たとえばZARDの「負けないで」です。負けないで、もう少し、最後まで走り抜けて・・・アミンの「夢をあきらめないで」です。あなたの夢をあきらめないで、熱く生きる人が好きだわ、輝いていてね・・・SMAPの「世界に一つだけの花」そうさ、僕らは、世界に一つだけの花、一人ひとり違う種を持つ、その花を咲かせることだけに一生懸命になればいいこれらの歌を聞いてうんざりだ思える人は救いがあります。なぜなら自分の夢や目標や希望を持って挑戦している人だからです。反対に本当にその通りだわ。励まされるという人は自分に対する信頼感が揺らいでいるのかもしれません。
2014.10.27
コメント(0)
森田理論学習の目的は何か。神経症を治すためだという人が多いと思う。でもそれは全体からみると20パーセントぐらいだと思う。本当の目的は、神経質性格の持ち主が、性格を活かして確固たる人生観を確立することにある。森田理論学習で症状が治ったというのは、人生観が確立できたために、副次的によくなっていたということである。森田でいう人生観の確立のためには何を学ぶ必要があるのか。これに対する答えは2つある。たった2つである。その1。例外も一部あるが基本的には、事実、現実、現状に対して反抗したりやりくりしないでそのまま受け入れる。服従する。そうした態度で生活できるようになる。その2。神経質者はもともと強い生の欲望を持っている。生の欲望を追い求めていく。常に運命を切り開いて、前進していく生活態度を学ぶ。森田理論をよく考えてみるとこれだけである。実にシンプルな理論である。でもシンプルイズベストなのである。本当にそれだけでいいのかと思われる人がいるかもしれない。そういう人は森田のキーワードを思い出してみてもらいたい。すべてこの二つのうちのどちらかの説明なのである。その1にあたるもの。事実唯真、あるがまま、自然に服従する、「かくあるべし」の打破、思想の矛盾、気分本位、理知本位、事実本位、物事本位、純な心、変化への対応。すべて1の説明である。中身はほぼ同じことを説明している。その2にあたるもの。生の欲望の発揮、物そのものになる、恐怖突入、不安常住、精神交互作用の打破、日常茶飯事を丁寧に、変化に対応しリズム感を作る、努力即幸福、無所住心、物の性を尽くす、唯我独尊、感じから出発する、境遇に従順になる、好奇心の発揮。そして生の欲望が暴走しないために精神拮抗作用、不即不離、両面観という説明がある。これらは全部2の説明である。つまり森田理論は1と2を理解してもらうために、あの手この手を使って説明しているのである。ですから学習にあたっては、まず森田理論学習の目的をはっきりさせることが大切である。その上で各論ともいうべき森田のキーワードを学習していくことである。いきなり各論に入ると、言葉に振り回されるようになる。そして自分の日々の生活とは無関係なところで学習が深まっていくのである。生活に影響を与えない森田理論学習はほとんど意味をなさない。
2014.10.25
コメント(2)
ホスピスの病院で2500人の最期をみとった柏木さんはこんな話をされています。ある方が肝臓がんの末期で入院してきた。47歳の男性だった。この方の父親は会社の社長で、経済的にも恵まれた家庭に育った人だった。学校の成績もよく、一流大学の経済学部を卒業し、父親の会社に就職した。その後結婚し大学生と高校生の息子がいる。もうすぐ父親の後を継いで社長になる予定であった。今までの人生は人がうらやむほど順風満帆だったのです。そんな人が不治の病になってホスピスの病院にやってきた。この方は、「こんなに若くて、こんな状態で、死んでも死に切れません。二人の子どもはまだ学生ですし、仕事もやり残したことが山のようにあります。」とても動揺していた。右往左往して、民間療法の「鮫の軟骨」を飲んだり、無理な化学療法を志願して治療をしたが最後に力尽きた。死を受け入れられないまま亡くなったのです。これをみて柏木医師はこんなことを言われている。人生には多くの喪失体験が存在する。失恋したり、失業したり、最愛の家族と死に別れたり、重篤の病気になったり、交通事故や自然災害に見舞われたりする。これらの喪失体験は「小さな死」かもしれない。手に入れたいものが手に入らなかったことも、「小さな死」と言えるだろう。本来人間は「小さな死」を数多く経験しながら、最後に本当の死を迎えるのではないか。そうなれば死を受け入れやすくなる。「小さな死」を経験しないで、初めて迎える喪失体験が本当の死であったらこの人のように、死は決して受け入れることはできなくなる。小さな喪失体験を数多く経験して、その不快な感情をいかに数多く味わってきたかということはとても意味がある。人間は3000回の失敗を経験して大人になっていくのだと集談会で聞いたことがあります。しかし私は失敗やミスをすると、他人から能力のない奴だと馬鹿にされるのが恐ろしくて逃げてばかりいました。失敗の経験を積んでこなかったので、対人関係は大人になっても幼児の水準のままでした。大人になって葛藤が多く、とても苦しむことになりました。失敗やミスの経験を数多く持つ。不安や恐怖、不快な感情と向き合ってよく味わってみる。このことの意味する重大さは大人になって初めて分かりました。(死にざまこそ人生 柏木哲夫 朝日新聞出版参照)
2014.10.24
コメント(0)
柏木哲夫さんはホスピスの病院で2500人の死と向かい合ってきた。それを「死にざま」こそ人生という本にまとめられている。(朝日新聞出版)その中に安易な励ましは禁物であるというのがある。ホスピスにやってくる患者さんは死をまじかに控えた患者さんばかりである。そういう患者さんは弱音を吐くことが多い。例えば「私はもうダメなんではないでしょうか」柏木医師は反射的に「そんな弱音をはいたらダメですよ。頑張りましょう」と答えることが多かったという。患者さんは「ハア」といって会話が途切れることが多かった。ある臨終の席で患者さんが教えてくれた。「あの時、私は先生に、もっと弱音を吐きたかったのに、先生が励まされたので、二の句が継げずに、黙ってしまいました。そして、その後、とてもやるせない思いが残りました」柏木医師は強いショックを受けた。それまで「弱音を吐きたい人を励ましてどこが悪い。励ますのは医師として当然すべきことだ」と思っていたのです。ところが私が励ましたことが役に立たなかっただけではなく、彼女に「やるせない」というマイナスの感情を残していたのである。それ以来励ますことはやめた。「大変ですね」「つらいなあ、しんどいなあ」「やるせないなあ」に変えていった。これを森田理論を使って分析してみよう。ホスピスに来る人はいろんな病院で様々な治療をして今まで十分に頑張ってきた人である。一時はガンなどの腫瘍が小さくなったこともあったけれども、また再発した。そして目の前に死が近づいてきた。食欲がなくなり、体が痩せて来て、立って歩くこともできなってきた。我慢できないほどの激痛が体を襲っている。もうがんばれない。がんばりようがない。痛みをなんとかとってほしい。軽くしてほしい。つらさを分かってほしい。弱音を吐かせてほしいのである。つまり患者さんが求めていることは、「死ぬのが恐ろしい」という気持ちを分かってほしいということだと思います。死にたくない。生きていたい。痛い。痛みを取ってほしい。というどうにもならないジレンマの中で葛藤しているのである。そういう患者さんの状況が分かれば、安易に「がんばれ、弱音をはくな」と励ますことは患者さんの気持ちを逆なですることである。こうゆうときは森田理論では精神拮抗作用を活用したい。患者さんは猛烈な「死への恐怖」・絶望感が出てくる。しかしその裏にはなんとか生き返れないものか。それにしてもこの痛みは何なんだ。痛みを和らげて欲しい。などの相反する感情が交錯している。その二つの感情で揺れ動いている患者さんにかける言葉は何か。医師としても適当な言葉はなかなかないと思う。そんな時は、患者さんのつらい立場を理解してあげる努力をつづけることしかないような気がする。そんな言葉の一つが「苦しいでしょうね」「つらいでしょうね、しんどいでしょうね」「やるせないでしょうね」ではなかろうか。すると患者さんは思い切り弱音を吐き出すことが出来ます。楽な気持ちになることが出来ます。森田では「共感的受容」といいますね。この気持ちがあれば、相手に自分の「かくあるべし」を押し付けなくなります。
2014.10.23
コメント(0)
森田理論学習は森田先生の言葉にそって忠実に理解しようという方向が強い。森田原著読書会などはその表れであると思う。確かに森田先生の言われたことはなるほどとうなずくことは多い。でも森田先生が森田理論を確立されたといわれてから100年目を迎えようとしている。もうそろそろ、それらを基礎としながら、森田理論を大きく発展させても許してもらえるのではないかと思っていますが如何なものでしょうか。本来森田理論学習の目的は、神経質者の本来の生き方を確立するためのものである。その方面で役に立つものはどんどん取り入れてみてもいいのではないかと思う。私の考えでは、現在のところ内観療法、認知行動療法、親業の考え方は、森田理論をさらに発展させるためには大変に役に立つと思う。内観療法は神経質者の自己中心性の打破に役に立つ。私は内観療法を1日しか受けていないが、7日間の集中内観を受けた人に聞くと自然と「感謝の感情」が湧き出てくるそうである。過去を思い出して自己洞察を深めていく方法である。自然と相手を思いやることが出来るようになり、自己中心的な言動が収まってくるという。神経症の第一段階の治るという意味では精神交互作用の打破が必須である。その際自己内省力が少し弱まり、他人への思いやりがあると、不安を抱えながら「なすべきをなす」に手を付けやすい。認知行動療法は、何といっても10項目に及ぶ認知の誤りを詳しく紹介してくれていることである。これらは神経症に悩む人にとって該当することばかりである。森田理論は「かくあるべし」という認識の誤りを詳しく学習する。それはもちろん大切であるが、その前に認知行動療法でいう認知の誤りもよく学習して自覚を深めていくことが大切であると思う。親業は「能動的な聞き方」「私メッセージの発信」「勝負なし法」の3つが大きな柱である。森田理論でいう「受容と共感」を持った聞き方、純な心、「かくあるべし」の打破、事実本位、精神拮抗作用などの実際の「生活面での応用」ということを具体的に詳しく教えてくれている。きわめて実践的な考え方である。森田理論を基礎において、親業の手法を応用すれば理論と実践が結びついて大きな成果に結びつくと思う。以上の点については、私のブログの中で取り上げているので、興味のある方は検索のところにキーワードを打ち込んで検討してみていただきたい。理論のための森田理論学習から、応用・実践のための森田理論への飛躍のためにはぜひとも取り入れていく必要があると思うのである。
2014.10.22
コメント(2)
歳のあまり離れていない二人の男の子供がいたとします。お兄ちゃんはこうちゃんという名前です。弟はゆきちゃんといいます。3歳違いです。こうちゃんが仮面ライダーのテレビ番組を見ています。ゆきちゃんがお母さんの所へ来て、「お兄ちゃんが僕の好きなDVDを見せてくれない。」と言いました。さて親のあなたならどう対応しますか。「こうちゃん、ゆきちゃんにも見せてあげてちょうだい。」と言いますか。それとも、「今お兄ちゃんが見ているんだから、ゆきちゃんは後でね。今は我慢しなさい」と言いますか。どちらもパッとしませんね。子供のけんかに親が口出しているようなものです。森田では、まず弟のゆきちゃんに共感の態度で受け止めてあげるのがよいといいます。まず弟の言い分を理解してやるのです。親としての言いたいことは、一旦抑えて、子供の気持ちを聞き、理解していることを、言葉や身振りで伝えることが大切です。お母さん 「そう、お兄ちゃんがゆきちゃんの見たい番組を見せてくれないんだ。」ゆきちゃん 「そう。だからお母さんからお兄ちゃんに僕に見せるように言って。」ここでゆきちゃんの一歩的な味方になってはいけませんね。お母さん 「うん!でも今お兄ちゃんが見ているからね。」「ゆきちゃんだったらどうしたらよいと思う。」「お母さんにもどうしらよいかよく分からないよ。」といって、しばらくじっとゆきちゃんの出方を見守ることです。しばらくして、ゆきちゃんが言いました。「よし!お兄ちゃんに見せてもらうようにまた頼んでみよう」これはゆきちゃんにとって、一種の自立心の発露です。ところがしばらくして、ゆきちゃんがお母さんの所へもどってきました。「お兄ちゃんやっぱり見せてくれないよ。お母さんからお兄ちゃんに言ってよ」お母さん 「そうか。やっぱり見せてくれないの」「でもねえ、じゃ、ゆきちゃんはどうしたらよいと思う」「うーん」しばらく考えていたが、ゆきちゃんはついにいいことを思いついた。「夕方ある僕の好きな番組はお兄ちゃんに見せてくれるように頼んでみよう。」そういって、お兄ちゃんのところへ、次のチャンネル権確保のために交渉に行ったのである。これは、工夫創意が働いたということです。そして再度の交渉に向かったのです。これはお母さんがゆきちゃんに共感的に接して、しかも結論を子供にゆだねたということで可能となったことです。普通なら子供の言うことを聞いて、すぐにダメだと否定したり、すぐに子どもの要求をのんだりすることが多いのではないでしょうか。過干渉と過保護の繰り返しです。子供の自立心や創意工夫、交渉力の芽を最初から摘んでしまうことになります。子供の要求は理不尽なことも多く、親としてもどう対応したらよいか分からないことが多いと思います。こういう場合は、子供の思いをよく聞いてみる。言い分についてはよく理解してやる。次にどうしてよいか分からない時は、どうしたらよいか親も分かりかねているという態度をみせるしかない。それしか見せようがない。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、子供の方から折り合いをつけてしまうものだと森田先生も言われています。最悪な対応は、親の「かくあるべし」を子供に押し付けることである。これは子どもを自分の分身のように扱うことです。これは神経症を作るもとになります。短絡的な対応はぜひとも避けたいものである。
2014.10.21
コメント(0)
回避性人格障害の状況をどう考えていったらよいのでしょうか。1、 対人恐怖の人は他人から否定的な意見を少しでも聞くと、すべてが台無しになったような気になります。そして新しい試みに挑戦してみようという勇気がなくなり、すっかりやる気を失ってしまいます。さんざん否定的なことを言われ続けてきたので、そういう風に言われると、過去のマイナスのトラウマがどっと出て来て、「やっぱりだめだ」「どうせ自分なんて何にも出来ないんだ」と否定的に考えてしまう。この考え方はあまりにもマイナス思考に偏っています。こんな時「認知行動療法」では、3つのことを試してみなさいと言っています。第一に、そう考える根拠は何ですか。逆の事実はありませんか。第二に、だからどうなるというのだ。それが本当だとしてどんなひどいことが起きというのだ。最悪を受け止める覚悟を決めましょう。第三に、現実的で柔軟な代わりの考え方を探してみよう。マイナス思考一辺倒が改善されることが重要です。2、 パニックになって両面観で考えることが出来なくなっています。今誰かとうまくいかなくなっていても、別の誰かとうまくゆくということも考えられます。学校や職場では人間関係が悪いかもしれないが、趣味や同好会の仲間とはうまくいくかもしれない。今の仕事は能力的にも、体力的にもハードかもしれないが、職業は2万種類ぐらいあるそうだから、自分に合った仕事が見つかる可能性は高い。また今の学校を卒業しなくても大検などで進学できる可能性がある。大学に行かなくても放送大学や専門学校で自分の欲しい資格は手に入れることが出来る。視野狭窄にあると融通が利かなくなる。逃げ場所を作ったり、選択肢を広げることによって、本人の思い込みや追い詰められ感を和らげて、復活できる可能性は強い。動いてみれば、自分を縛っていたのは、実は自分自身の動けないという金縛りにあっていただけということも分かるだろう。3、 対人恐怖の人は自分は神経質でよいところは何もないと思っている。ところが神経質の性格特徴を学習してみればよく分かることだが、性格にはプラス面とマイナス面が同時に存在している。たとえば心配性で嫌になるといっても、裏を返せば実は感受性豊かな人間というわけである。そこに焦点をあてて育てていけば必ず良い結果が出てくるものである。4、 逃避したときは一時的に楽になりますが、それはほんの一瞬です。逃げてしまうと、むなしくなる。退屈になる。そして何事も無気力、無関心、無感動になってしまう。ふがいない自分に注意が向き、自己嫌悪、自己否定するようになる。失敗から学ぶチャンスはなくなり、もっと大きな失敗をするようになる。困難を打開して能力を身につけるということはなくなる。廃用性萎縮が起きて、体力が衰え、抵抗力が弱る。精神疾患、病気や死の危険が近づいてくる。生きがいとは無縁な人生に甘んじるしかなくなる。このことはよく肝に銘じておかなくてはいけない。5、 父親が亡くなって、生活費を自分で稼がなくてはならなくなってはじめて対人恐怖が克服できたという人がいる。対人恐怖は依存できる親、親の遺産等の後ろ盾があるとなかなか良くならない。今の時代、集談会に来て悩みを解決したいという人が減少している。それは生活のために働かないと生きていけない社会的状況にあるからである。自分の生活費は自分で稼ぐという気持ちになれば、対人関係の悩みは相当軽くなると思われる。
2014.10.20
コメント(0)
アメリカの精神疾患の分類に「回避性人格障害」というのがあります。DSM-4-TR精神疾患の分類と診断の手引新訂版から見てみよう。社会的制止、不全感、および否定的評価に対する過敏性の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち4つ(またはそれ以上)によって示される。1、 批判、否認、または拒絶に対する恐怖のために、重要な対人接触のある職業的活動を避ける。2、 好かれていると確信できなければ、人と関係を持ちたいと思わない。3、 恥をかかされること、またはばかにされることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す。4、 社会的な状況では、批判されること、拒絶されることに心がとらわれている。5、 不全感のために、新しい対人関係状況で制止が起こる。6、 自分は社会的に不適切である、人間として長所がない。または他の人より劣っていると思っている。7、 恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動にとりかかることに、異常なほど引っ込み思案である。これは森田理論でいう対人恐怖症である。最近よく言われる社会不安障害に重なる部分もある。対人恐怖の人は、華麗に飛び込み台から飛び込む人を見て、自分もあのように飛び込みたいと思った。そこで5メートルぐらいの飛び込み台に行ってみた。すると目もくらむような恐ろしさを感じた。死を予感させるような戦慄が走った。どうしても後ずさりしてしまう。飛び込むなんてもってのほかだ。そのうち飛び込み台に近づくことさえできなくなってしまった。こんな状態だと思います。バカにされたり、嫌な思いを恐れるあまり身動きが取れなくなり、逃避してしまうようになったのです。それがいつものパターンとして定着してしまっているのです。「どうせダメだ」「うまくいきっこない」「やっぱり思った通りだ」「無理だ」「無駄だ」と先入観で先々の行動をマイナスの思い込みで予測してしまうのです。それで気が晴れるわけではありません。行動しないで、自分のふがいなさ、情けなさで憤懣やるかたない状況に追い込まれているのです。
2014.10.20
コメント(0)
境界性人格障害で苦しんでおられる人がいる。ある人と親しくなるととことん電話やメールをしてくる。ところが相手が気に食わないことを少しでもいうと、手のひらを返したように攻撃する。極端な破滅的、破壊的な言動を繰り返す。また破れかぶれになって衝動的な行動を繰り返す。浪費、薬物乱用、無謀な運転、過食などである。またリストカットなどの自傷行為に及ぶこともあるという。尾崎豊、太宰治、ダイアナ元妃などがそうであるといわれている。境界性人格障害の人は、時として激しい不安定な生き方とは対照的に、高いエネルギーと創造的な能力が存在している人もいます。先にあげた人たちの残された作品を見れば容易に想像がつく。この人たちは40代ぐらいまで生き延びてくれば、その激しさは次第に沈静化して、穏やかに丸くなっていくそうである。しかしそこまで持ちこたえるのは至難であるという。(普通に生きられない人たち 磯部潮 河出書房新社参照)さて集談会では基本的に来る人拒まずで、どんな人でも受け入れている。だからいろんな人が来られる。来られるのは構わないが、我々がすべてに対応するのはまずいいのではないか。特に境界性人格障害の人に、「受容と共感」で接触することはのちのち取り返しのつかない禍根を残すことも多いという。そもそも集談会はどんな人でも適応できるのではない。集談会に参加する人は、神経質性格を持っていることが必須である。特に指針となるのは、症状をなんとしても治したいという強い意欲があるのかどうか。そして相手に負担や迷惑をかけてはいけないという自己内省性があるのかどうか。この2点であると思う。これで適応者か、不適応者であるかは厳密に区別しないといけない。さて人格障害にはさまざまある。回避性人格障害、自己愛性人格障害、強迫性人格障害、依存性人格障害などである。その他にもまだまだある。上にあげた人は、森田神経症とクロスする部分も相当ある。ただし一緒に森田理論学習をしようとする場合は、森田適応者かどうかを見極めないとならない。ズルズルと受け入れていくことは双方にとって不幸を招く。それこそ協力医と連携していくことを厳守していく必要があると思う。森田理論は残念ながら万人向けではないのである。
2014.10.18
コメント(0)
昨日の新聞によると全国の小学校が2013年度に把握したいじめは前年度より1421件多い11万8805件で過去最高を更新したと報じている。いじめは学校のみならず、会社でも、近隣関係でもどこでも発生する。昨日に引き続きいじめを考えてみたい。「人はなぜいじめるのか」という本ではいじめにとらわれやすい人は、親に愛されたという感覚を持っている人が少ないといっている。自分が存在することを他者から望まれ、共に生きていきたいと求められているという、存在することへの「基本的肯定感」はまず両親から与えられる。これが欠落しているのである。確かにそうであるが、過干渉、過保護、無関心、自由放任で育てられて大人になった人はどうすればいいのか。もはや過去はやり直すことはできない。そういう人は身近な友達、恋人、配偶者、子供、会社関係、学校、集談会の学習仲間、ボランティアの仲間、趣味や同好会の仲間、同級生、親せき、町内会の仲間などの付き合いの中で暖かい人間関係を一つでも持つことが大切なのではなかろうか。私は幸いにも、集談会と老人ホームの慰問活動の仲間との暖かい交流を持つことができた。つらいことがあっても、親身になって聞いてくれる人がいたので、乗り越えることができたと思う。次にこの本では無宗教の人もいじめにとらわれやすいといっている。意外なことのようであるが一理ある。外国では無宗教の人は危険人物とみなされるという。外国人はそれだけ宗教への信仰は深い。さしずめ日本人の多くは、外国では危険人物とみなされることが多いだろう。宗教は心のよりどころとなるものである。欲望の暴走を止めて生きるための指針となるものであろう。宗教を持っている人は心のよりどころを持っている人である。人の思惑に振り回されることは少なくなるだろう。日本人は仏教が宗教という人が多いと思うが、葬式宗教であり生き方とは程遠い。だからといって新興宗教を勧めているわけではない。でもここで大切なことは、宗教の信仰というよりは、心のよりどころとなるものがあるかどうかというのがもっと大切なのではなかろうか。そういう意味では森田理論学習をして、神経質者としての生き方を学び、心のよりどころを得るというのは、外国人が宗教を持っているのと同じような意味合いがあるのではなかろうか。森田理論を体得すると生涯にわたって迷いがなくなる。自信を持って生きていくことができる。これが大事なことだと思う。神経質性格を持っている人は、是非森田理論で心のよりどころを獲得してほしいものである。
2014.10.18
コメント(0)
学校でも会社でもいじめはあります。「人はなぜいじめるのか」(著者生野照子他 シービーアール)から考えてみたいと思います。この本によると、いじめは繋がりが濃すぎる空間を背景にして出てくるという。確かに限られた閉鎖的学校や会社などの人間集団で生活していると、わずかなことでいじめが発生しやすい。視野狭窄になってしまうのである。井の中の蛙のようなものである。そうなるともはや逃げようがない。だから狭い人間集団だけでの生活はまずいいと思う。そういう意味では、様々な人間関係を数多く持っていることが大切だ。たとえば、年賀状を出す人を思い出してほしい。会社関係の人、学校関係の人、集談会の学習仲間、ボランティアの仲間、趣味や同好会の仲間、中学、高校、大学の同級生、親せき、町内会の仲間、資格試験で一緒に学習している仲間、以前勤めていた会社の仲間など誰でも幅広い人間関係があることが分かります。私は以前500人の人に年賀状出すということを実践したことがあった。実践するためには2年ぐらいかけて、いろんな人と交友関係を作る必要があった。300人ぐらいはなんとかなったがそれ以上は私の場合無理であった。年賀状は比較的薄い人間関係ですが、それも人間関係です。その中には集談会の仲間との交流などは比較的安心できる安定した暖かい人間関係だと思う。困った時の支えとして役立っていると思います。そういう人間関係をいくつか持っていると、極端に落ち込むということはなくなると思います。神経質な人は、コップ一杯の人間関係を数人持てば御の字という人が多い。しかしこれは、何かのきっかけで簡単に崩れてしまいやすい。するとたちまち孤立してしまう。人間関係のコツは、少しだけ水が入ったコップを数多く持っていることだと思う。そしてつきあいは、その時々の必要に応じてくっついたり、離れたりする人間関係を築いていくことだ。森田理論ではこのことを「不即不離」という。人間関係作りの定石である。
2014.10.17
コメント(0)
森田では基本的に不安、恐怖などの感情は、自然現象なのだからやりくりしてはいけない。そういう感情は受け入れて、服従していくことを勧めています。80%ぐらいはそうだろうと思います。ところが残り20%の部分は、不安に学び前もって積極的に手を打つ必要があります。例えば最近タイムライン防災ということが言われています。台風や地震などの自然災害への対応方法のことです。タイムライン防災とは、アメリカのハリケーンで被害者を最小限に抑えることを目的として始められました。ハリケーンが発生すると上陸する五日前からきめ細かい防災計画が立てられます。重要なのはハリケーンの進路、強さ、それに伴う被害を予測して、住民の命を守るということです。そのために関係部署が一つの指揮命令系統によって統一的に動きます。気象予報機関、政府や自治体等の行政、交通輸送機関、河川管理者、消防や警察、病院、避難施設などです。これらが災害に対して一つの指揮命令系統のもとで、一致団結して立ち向かうことが、被害を最小限にとどめることになります。今までは、災害に対する計画もなく、関係機関が統一して立ち向かうということはありませんでした。これによりハリケーンサンディが上陸したニュージャージ州では、人的被害を最小限に軽減できました。さて、ラインハート・ニーバンは次のように述べています。1、 変えることができないものについては、それを「受け入れる平静さ」を2、 変えるべきものについては、それを「変える勇気」をもつ3、 変えることのできないものと、変えることのできるものを「区別する知恵」を持ちなさい。タイムライン防災はこのうちの2にあたります。さらに松下幸之助は、「人間万事、天の摂理でできるのが90%、あとの10%だけが、人間のなしうる限度である」といわれています。タイムライン防災はこの10%にあたる部分だと思われます。森田理論では沸き起こってきた感情のすべてにわたって受け入れて、服従しなさいと言っているわけではないのです。「不安は安心のための用心である」というのはまさにこのことを言っているのです。
2014.10.16
コメント(0)
スーパーチャイルドという言葉があります。スーパーチャイルドとは岡本太郎やスティーブ・ジョブズのような人を言うそうです。ごく限られた大人の人です。チャイルドは幼い子どものことです。両者に共通するのは、どちらも好奇心旺盛で活動的なことです。特に新しいもの、珍しいものには目がありません。どんなことにも果敢に挑戦する熱意も意欲も素晴らしいものがあります。ただしチャイルドには、残念ながら成功や失敗の体験があまりありません。反対に豊富な様々な経験をスーパーチャイルドは持ち合わせています。スーパーチャイルドは人生の艱難辛苦を数多く経験しています。それらは記憶として大脳側頭葉にたくさん蓄えられています。この記憶は意志の力で消し去ることはできません。普通の大人とスーパーチャイルドはどこが違うのでしょうか。普通の人も豊富な経験は数多く経験しています。ところがその経験がマイナスに働いているケースが多いのではないでしょうか。世間の常識や思惑、自分の欠点、過去の失敗やミスにとらわれ過ぎて身動きできない状態に陥っているのではないでしょうか。スティーブ・ジョブズはアップルコンピーターの設立者であるにもかかわらず、無情にも仲間から解雇されました。彼にとっては人生最大の危機であったことだろうと思います。しかしその後アップルが経営危機に陥った際、再びアップルの求めに応じて戻ってきました。そしてアップルの驚異の再建を成し遂げたのです。これは音楽事業に参入したこと、iPhoneの発売が大きく寄与しているようです。特にiPhoneは世界中の人に受け入れられ、アップルの総売り上げの50%を占めるまでになった。彼無くしてアップルの再建はなかったと思われます。彼は2011年に膵臓がんで死去している。それが彼の人生にとっては唯一の誤算だった。しかし、彼の生涯はスーパーチャイルドの生き方そのものであった。好奇心を持って人生に立ち向かったこと。また過酷な運命に翻弄され続けたにもかかわらず、常に挑戦の人生を貫き続けることができたこと。これこそは森田理論学習では最高の生き方だと思います。我々神経質者は彼の生き方を参考にして少しで近づきたいと思います。
2014.10.15
コメント(0)
2014年のノーベル物理学賞は青色発光ダイオードを(LED)を開発した赤崎勇・名城大学終身教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授に決まった。赤崎教授は記者会見で若い人に、「好きなことをやりなさい」と言われていた。成功するとか偉くなるとか、金儲けになるとかいうことではなく、自分の好きなことをやっていれば、失敗してもめげないといわれていた。自分の好きなことに情熱を燃やすということは、森田では「生の欲望の発揮」と言います。天野教授は窒化ガリウムという物になるのかもわからない物質に目をつけて、難しくて他人が研究から手を引く中、長期間、粘り強く基礎研究を続けられた。試行錯誤、暗中模索の研究の過程で、失敗の数は3000回以上に上ったという。そのあとでの、たった1回の成功であったといわれている。森田でいう執着性がいかんなく発揮された例である。途中で投げてしまえば、永遠に失敗という結果だけが残る。あきらめなければ失敗ということはない。挑戦しているという状態が続く。その状態は努力即幸福である。そして最後に成功すれば、すべての失敗は消去される。それはオセロゲームで劣勢な状況なのに、最後に大逆転で勝利を掴むようなものである。自動車の飛び込みセールスでも確率的には100分の1ぐらいと聞いたことがある。その30倍の報われない研究にもかかわらず、情熱と努力を積み重ねることができたということが驚きである。森田理論の「生の欲望」との関連でいえば、目標に向かって努力している限り神経症に陥ることはない。ところが途中で苦しいからといってあきらめてしまうと、自分のふがいなさを責めるようになり、注意が自己内省に向かうので神経症に突き進んでしまう。中村教授は若い人へのメッセージとして、何が自分は一番好きなのかを見つけることが大事といわれていました。そのためにはいろんなことにアンテナをはり、好奇心を持って対応すること。尻軽に手を出して挑戦してみることが大切だと思います。そのうちに、自分の好きなことを見つけることができるのではないでしょうか。またその際、「ものそのものになりきる」という姿勢で丁寧に取り組むことも大切だと思います。すると気づき、アイデア、ひらめきが発生して、創意工夫や楽しみにつながり、行動に弾みがつくことになります。これを継続することによって、後で振り返ると自分にとって天職に巡り合ったということになるのではなかろうか。森田理論学習で見ても参考となる快挙であった。
2014.10.14
コメント(0)
山田洋次監督の作品に「遥かなる山の呼び声」という作品があります。北海道の農村のある夫婦の物語です。その中にこんなシーンがあります。子供をつれてささやかな田舎の祭りに出かけた夫婦。その時お父さんが子供に「おい武志!」といって、ひょいと肩車に載せるんです。ちなみに父親役は高倉健です。武志は「わー、高い高い」なんて喜んでいるの。それを見上げて母親役の倍賞千恵子さんが、「武志、いいね!」って微笑むんです。山田監督はそのクローズアップ。そのカットをとりながら、ああ、今この彼女は幸せなんだなと思ったんです。カメラの横で。人間にとっての幸せというのはそういうことか。つまり、幸せだという瞬間がときどきふと訪れる。絵にかいたような、一日中、一年中幸せだってゆうことはあり得ない。だいたいそんなに楽しいことなんてない。だけどね、ときたま訪れる。それは一瞬、胸が膨らんで、思わず心から「いいね!」って言いたくなる。「ああ、今俺は生きているぞという充実感をもつ。それは短い瞬間じゃないんかな。」幸せについてはそんなことを考えている。このお父さんは実はおたずねもので、刑事につかまって去っていくという結末が来るんだ。だけども、今はそんなことも忘れて息子の喜ぶ姿をうれしがっている。もしかして人間の幸せとは、そういう瞬間がいくつあるかっていうことなんじゃないかと思うんですね。生きていると楽しいことばかりではない。苦しいことが多い中で、たまにささやかな幸せがやってくる。苦しみが大きくて強ければ強いほど、小さな幸せはとてつもなくありがたく感じる。神経質者は感受性が強いので、小さい幸せでも大きな喜びを感じることができるのではないかと思う。(山田洋次を観る 吉村英夫 リベルタ出版)
2014.10.13
コメント(2)
昨日の続きです。シャロン伴野さんは、二つの選択肢を与えて「どっちがいい」「どっちにする」と子供に聞くことの利点を次のように指摘されています。1、 親が子供に一方的に押し付けずに、自分の行動について子供自身に選ばせることによって、子供の自立心が育ちます。つまり森田でいう「かくあるべし」を子供に押し付けることを回避できる。2つの選択肢を与えることで、目の前の出来事に集中できる。比較検討することによって感じが高まります。2、 どちらを選ぶかについては、当然、自分自身の頭で考えなければなりませんから、思考力も養われます。3、 自分自身で考え、それに基づいて下した結論によって行動するので、子供自身のやる気が出てきます。モチュベーションが高まってきます。4、 親にとって、子供がぐずったり、すねたりしなくなるので、子育てからくるストレスがなくなります。「ダメです」「早くしなさい」「親の言うことが聞けないの」という言葉は、子供が反発しやすく、親子げんかの原因になります。5、 子供は自分に選択肢を与えてくれる親を尊敬し、親は子供が自分で選んだ行動に責任をもつのを見て頼もしく思いますので「信頼関係」が深まります。森田先生は子どもがぐずり始めた時、機嫌をとって短絡的な行動をとってはいけないといいます。イライラしながら、ああでもない、こうでもないと考えながらじっと子供を見つめておればよい。そのうち子供は自然に泣き止むものだといわれています。よくありがちなのは、大人は自分のイライラした感情をなんとか無くしてしまいたいということです。しかし、自分の思いとは反対に事態は悪化してゆきます。そして最後には、自分の思うようにならなくて「お前の好きなようにしろ」と放任して突き放してしまいます。その時子供は、親の後ろ盾を無くしてしまいます。親の後ろ盾を無くした子供は他人が自分をどう扱ってくれたかに神経を使うようになります。これがゆくゆくは対人恐怖症に発展してゆくことがあります。暖かい人間関係の枠外に出されることは身体的および社会的な「死の恐怖」と直結するからです。そうならないために、シャロン伴野さんの「どっちがいい」「どっちにする」という接し方は応用してみる価値があると思うのです。
2014.10.12
コメント(0)
シャロン伴野さんは「子供を伸ばす魔法の言葉」(文園社)でおもろいことを言われています。「かくあるべし」を他人に押し付けるということと関係があります。ちなみにシャロン伴野さんはハワイで生まれ育ち、日本人と結婚されて、現在日本に住んでおられます。日本人は繊細でやさしくとてもいいところを持っています。けれども、一つだけ私から見て首をかしげたくなるのは、何も自分で判断しようとしない自主性のなさです。日常の些細なことから自分の人生にかかわる大事まで、周囲の顔色をうかがったり、誰かの同意を求めたりして、自分では決断できない人が、あまりにも多い気がします。その結果、自信が持てなくなり、「いったい自分の人生は何だったのだろう」と後悔するようになったら、あまりにも悲しいことではありませんか。ところが自分で考えて、選択した人生なら、たとえ失敗することがあっても、誰にも文句は言えません。何とか自分で立ち直ろうと努力しますし、常に前向きな姿勢で困難に立ち向かうことができます。こうして手に入れた人生は、かけがえのないものに違いありません。我々にはとても耳の痛い言葉です。その上で伴野さんは、子育てに、「どっちいいですか?」の活用を提案されています。これは、子供に二つの選択肢を示し、そのうちのどちらかを選ばせるというものです。例えば、大切なお客さんが来ているのに、子供がぐずって泣き出したとします。私は子どもにこう言います。「お母さんは今、お客様と大事なお話をしているの。もし、泣きたいのなら、玄関のところにいって泣きなさい。もし、お母さんたちと一緒にいたいのだったら、泣き止みなさい。どっちがいいですか?」子どもはしばらく考えて、どちらかを選びます。泣きたいと思えば玄関のところに行きます。玄関のところにいって泣いても誰も相手にしてくれませんから、つまらなくてすぐに泣き止みます。この場合自分で選んだことですので、小さな子供でも誇りを持って、再度泣き出すようなことはありません。子供は自分でどちらがいいかを判断して選び、そして自分が下した決定を守る能力と自尊心が育ちます。選択肢は2つにすることです。何でもかんでも自由にしなさいというと、子どもたちは右往左往します。また3つや4つでは多すぎます。集中できないのでダメです。また選択肢の中に脅しを入れてはいけません。こうしないと、ぶちますよとか、なにかをしてあげない、勝ってあげない、という形の選択だと、それは強制になって子供の自由意志を尊重することにならない。子供に対して叱責、強制、脅迫、指示、命令が日常茶飯事になっている人は、ぜひ応用して見られたらいかがでしょうか。これは子どもに「かくあるべし」を押し付けることをやめて、自分で考え、自主的に行動できる子育てに変わることができます。
2014.10.11
コメント(2)
森田療法と森田理論学習は、言葉はよく似ていますが役割は大きく違います。神経症の克服を目指しているのは同じですが、アプローチの仕方が全く違います。これを混同することは、大工と左官さんは同じような仕事だから、一緒に考えるようなものです。大工さんは壁を塗る左官の仕事は素人と同じです。左官さんもプロの大工のような仕事はできません。また、たまに内装業でクロスを貼る仕事と床を貼る仕事の二刀流の人がいます。しかしこれは例外です。本来はクロスの職人、床の職人ははっきり別れています。だからクロスの職人さんに、ついでに床も貼ってくれというような訳にはゆかないのです。プロ野球では日ハムの大谷投手が二刀流でいずれも素晴らしい成績を収めています。これはきわめて珍しいケースです。解説者の張本氏は、これはいずれ無理がいくといっています。森田もこれと同じです。これを混同して考えるからおかしな現象が起きてくるのです。医療としての森田療法は、精神科医や臨床心理士によって行われます。主に重症患者に対して治療を目的としています。その対象者は、第1に神経症のために家から出られない。苦しくて仕事、勉強、家事などが手につかない。社会生活が困難になった人です。第2に、神経症とともに他の精神疾患を抱えて苦しんでいる人です。代表的な病気はうつ、統合失調症、心身症などです。治療方法として、カウンセリングなどの心理療法、入院、外来森田療法があります。ほとんど薬物治療を取り入れています。それに対して森田理論学習は、対象者、アプローチ、目的のすべてが違います。対象者は神経質性格を持った人です。でもなんとか日常生活を送れている人です。あるいは神経症の蟻地獄から這い出してきた人です。アプローチとしては集団学習です。自助グループによるピアカウンセリングです。神経症とは何か、神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、偏ったり、間違っている考え方のくせや誤り、不安と欲望の関係、神経質者の本来の生き方について学習します。それによって人生観を作り変えていく。その考えを自分の生活に取り入れていく。そして社会に適応させていく。つまり当面の神経症を治すことだけを目的としていない。末永く活き活きと活動できるための学習しているのです。こうしてみると森田療法と森田理論学習は競合することはほとんどない。ところが森田理論学習によって神経症を治すということに焦点を当ててしまうと、途端に競合してきます。競合すると力関係が強いのは、医療としての森田療法の方である。そのほうが即効的、効果的である。森田理論学習が競合するようなことを最大の目的とすると、その役目は早晩終えてしまうであろう。本来はそれぞれの役割をきちんと認識して、自分の役割に特化していく。自分の役割の範囲外のところは相互に補完していくことが大切だと思います。大型ショッピングセンターとコンビニは普通に考えると大が小を駆逐するように思えます。でも実際には競合していません。それはそれぞれの役割を明確にして、その役割を果たすことにフォーカスしているからです。そのことが社会に受け入れられているということをよく考えてみなければなりません。
2014.10.10
コメント(0)
ついにやってきたという感じです。投稿回数1111回です。一般的には1は縁起がよいと思っている人が多いようです。私は一番嫌いな数字です。本を読んでいてもどうしても111ページは気になります。注意を向けているから、そのページに近づくとますます気になります。だからそのページになると急いで読みます。途中中断するときはページ数を確かめて111ページでないということを確認してから中断しています。これは肉親の不幸が1月、11月、11日に重なっていることから始まりました。さらに追い打ちをかけたのが、世界貿易センタービルで起きたテロです。9月11日でした。さらに東日本大震災です。3月11日でした。好きな数字は7です。ところが集談会で、この7という数字が一番嫌いだという人がいました。人それぞれです。位牌の文字数が7文字だといわれるのです。その人は神仏恐怖の方でした。私はその方の話を詳しく聞きましたが、それにとらわれることは全くありませんでした。今でも7という数字は、ラッキーセブンです。その他4219、3396、4989なども嫌いです。暗証番号には敬遠したいです。「死に行く」、「散々苦労する」、「四苦八苦」と重なるからです。この数字は人に教えてもらうまで意識しませんでした。ある人が言うには4219というナンバーを付けた車には不幸が起きるというのです。それからは車を買い替えるときは、あらかじめ4219、3396、4989の番号でないものをつけてくださいとお願いするようになりました。もっとも4219という車番を出すことはないと販売会社は言っていました。そういうわけで、1111回投稿は、この原稿をもってクリアさせていただきたいと思います。笑ってやってください。
2014.10.09
コメント(2)
神経症の治療ということでは、現在、薬物療法と認知行動療法が主力である。森田療法は実施している病院も少なく、医師も少ない。割合とすれば数パーセントではなかろうか。コンマ数パーセントかもしれない。認知行動療法は保険点数の対象となっている。保険が効くのである。それは不安階層表のような工夫がなされており、回復度が客観的に判定できるからである。認知行動療法には4つの柱がある。認知修正法、エクスポージャ(暴露)、ソーシャル・スキル・トレーニング(SST)、不安への対処法である。ソーシャル・スキル・トレーニング(SST)とは、人間関係を円滑なものとするための社交術(ソーシャル・スキル)を学ぶことで、対人不安の軽減を図る方法である。不安への対処法は、呼吸法や筋肉を弛緩させる方法など、身体面からの心のリラックスをはかる。また、不安への対応力を高めるために生活習慣全体を見直すこともある。さて、認知行動療法のメインは、何といっても認知修正法、エクスポージャ(暴露)である。認知修正法は、思い込みや誤った考え方の癖をまず自覚させる。認知の誤りとしては、全か無か、「たまたま」とは思えない、プラス面の過小評価、マイナス面の過大評価、否定的な結論づけ、否定的な予測、「○○すべき」思考、過大な自意識などがある。これを次のように考える。1、 自分の考えに、確たる根拠はあるのだろうか。2、 違う見方はできないだろうか。3、 恐れている事態が実際に起きたからといって、なにか大きな影響があるだろうか。そして、徐々に客観的な別の考えに置き換えていくのである。次にエクスポージャ(暴露)である。言葉はむずかしいが、森田理論学習でいう「恐怖突入」である。但し、認知行動療法の方が具体的であり、段階を踏んで徐々に行動できるようにプログラムされている。その際決して無理はしない。一度で慣れるという期待はしない。短い間隔で何回も繰り返す。クリアーできた自分を褒める。森田理論の比較でいえば、認知修正法は幅広く認知の誤りを列挙している。森田では「○○すべき」思考、いわゆる「かくあるべし」が神経症を作り出す大きな原因と見なしている。認識の誤りについて、幅広く取り扱っているわけではない。次に恐怖突入であるが、森田理論は不安や恐怖が増悪してきた原因、そのプロセスを明快に説明している。例えばテレビを見るときに、どうしてテレビが見えるようになっているのかをフタを開けて、そのしくみを説明しているようなものです。ただ、仕組みが分かったからといって、必ずしもテレビを自由に操作できるかと言えばそうではない。認知行動療法では、不安の役割や特徴、不安と欲望の関係について詳しく解説してくれるわけではない。テレビを見るための方法をいろいろと教えてくれている。これによってとりあえず、地上デジタル、BS、CSの切り替えはできるようになる。録画もできるようになる。このように両者には実践的か学問的かの違いがあるようです。私は神経症の泥沼から抜け出るためには、薬物療法、認知行動療法、森田療法、内観療法のどれでもよいと思う。とりあえず蟻地獄から抜け出さないことには始まらない。でも将来的には、森田理論の学習で神経質性格の特徴や活かし方を体得しないと、依然として心のもやもやはとれるものではないと確信している。森田理論は神経質者としての生き方、考え方、行動の仕方をより深く教えてくれるものである。そのことを、社会不安障害などで悩んでいるといわれる300万の日本人に広報してゆきたいのである。
2014.10.09
コメント(0)
私は以前、得意先から電話やFAXで注文を受けて、それを端末に打ち込むような仕事をしていました。時間に追われて、高速で処理する仕事が毎日山のようにありました。100ぐらいの注文の処理をすれば2、3回ぐらいの割合で間違いが発生しました。私のミスによって何十万単位で会社に損害を与えたこともあります。これは純損失ですから大きいのです。また、後の始末を考えると、自分にも営業にも大変な負荷がかかるのです。始末書を書かされたり、上司から叱責を受けたり、担当営業マンからあからさまに嫌みを言われます。そして得意先からは納期が遅れるため、無能力者扱いされます。私はミスのたびに落ち込みました。次第に、とんでもない間違いを犯して、上司や担当営業マンに見つかって、ひどく自分のことを悪くののしられる。能力のないやつだと軽蔑されるのではないか。解雇されるのではないかということにとりつかれてゆきました。いつも怯えた状態で、びくびくしながら仕事をしていました。そういうことばかりに注意を向けていると、仕事が苦痛で、苦痛でたまらないのです。また、そういうことにとらわれていると、目の前の仕事に集中できなくなりました。簡単なところで思わぬミスを重ねるという状態でした。私はきちんと間違いのない仕事を積み重ねて、仕事のできる人になりたいという強い欲求がありました。でもそのうち、当初の欲求を忘れて、不安との格闘に明け暮れるようになったのです。蟻地獄の中にいるようで、もがけばもがくほど深みにはまってしまい、パニック状態になってしまいました。このようにして私の症状は固着してしまったのです。1つのミスもしてはならないという背景には、社会的に認められたい。会社で人よりもよい評価を得て注目されたいという強い欲求がありました。そんな人間にならないと、生きている価値がないと思っていたのです。価値観の多くが、人から賞賛を浴び、尊敬され、羨望のまなざしでみられる人間になりたいというところに集約されていたのです。そのためには例え一つのミスも許すことができなかったのです。すべての面で完全無欠でなくてはなりません。人に劣る部分や弱い部分、頼りない部分は目の敵にして取り繕ってきました。人に弱みを見せないようにと最大限の努力を払ってきたのです。自分に劣等な部分があると人から嫌われると思い、何とか隠そうとしてきたのです。そんなことが続くと仕事どころではなくなりました。そんなことに悶々として生きていくことが嫌になってしまったのです。家族があったので、なんとか踏みとどまっていたという状況です。今考えると、私の神経症の成り立ちには2つのことが絡んでいました。一つは不安、恐怖、不快感はイヤなものですから、それを取り去ろうとしていた。そのうち、注意が不安、恐怖、不快感の方にばかり向き、注意を向けば向けるほどさらに嫌な感覚が強まりました。それをくりかえしているうちに、精神交互作用で悪循環に陥り、症状として固着してきたのです。もう一つは、人から批判されるような人間であってはならない、などという強い「かくあるべし」を持っていたのです。すると、現実の自分の存在自体、また欠点やミスや失敗は我慢がならなくなるのです。小さなミスが、すぐに大きな人生を左右するような問題に発展するのです。会社をクビになるとか、会社を辞めなければいけないというような大げさな問題にすり替わってしまうのです。そして理想と現実のギャップで苦しむことになりました。そして自己嫌悪、自己否定するようになったのです。そのギャップをうめようとやりくりしたり逃げたりしているうちに、ついに苦悩や葛藤が強まり対人恐怖症へと陥ってしまいました。神経症を克服という意味では、神経症の成り立ちが分かったということが出発点になっています。
2014.10.08
コメント(0)
相手を受容するということについて考えてみました。よくカウンセリングで相手をどこまでも受容していくということを言われます。でも、何でもかんでも「うん!そうか」「そうですね」「あなたの言うことはよく分かります」「その気持ちよく分かる」といって、相手の全部を受け入れて共感するというのはよいことなのでしょうか。私は、これは考えものだと思っています。例えば、私の例ですが、4、5名で、週一ペースで楽器の練習をやっています。リーダーのような人がいてその人が、そのグループを取り仕切っています。その人はものすごく短気な人で、少しでも間違えたり、もたもたしたりすると年上の人でもすぐに平気で怒りを爆発します。そのためメンバーはいつも怯えてびくびくしています。面白くありません。私はある人に相談しました。その人は共感を大切にしている人でした。「彼を殴り飛ばしてやりたい。そうしないと腹の虫がおさまらない」その人は言いました。その気持ちは分かります。しきりに共感してくれました。でもだからどうしたらよいとかは言いません。まさに、ここでいうどこまでも受容一辺倒の態度です。私は思いました。私が「その人が気持ちは分かったといって承認してくれたから、思い切ってリーダーに殴りかかった」とします。少なくともその人は共感してくれたので、少なからず責任は取ってくれると思ったのです。でもそのあと傷害罪で訴えられるようなことがあっとき、その人は責任をとってくれるのでしょうか。たぶん、普通は無理でしょう。だったら、本心を偽って「共感と受容」の姿勢を見せるというのは偽善ではないのでしょうか。私は思いました。自分には、腹が立って相手を殴り飛ばしてやりたいという気持ちがあります。その反面、そんなことをすると人間関係が壊れて取り返しがつかなくなるということは、自分自身でも薄々分かっているのです。これは森田でいう精神拮抗作用です。これは基本的に人間の自然な心理現象です。受容と共感というからには、このことを踏まえて対応しないといけないのではないか。「殴りかかりたい」という気持ちもさることながら、「そんなことをすると大変なことになる」という反対の気持ちも汲んでやる必要があると思うのです。この例の場合、「殴りたいという気持ちはよく分かる」だのに、「爆発すると後が恐ろしい事態を招くかもしれない」という反対の気持ちがあなたに湧き起っているしねと察してあげる。つまり、あなたがその人を殴り飛ばしてすっきりしたい気持ちはよく分かる。でもストレートにそうできないということは、あなた自身が一番よく分かっているのだ。私はそういうあなたの揺れ動く気持ちを、ある程度は理解しているのだよ。あなたはそういう状況の中で苦しんでいるんだよね。と話してあげるというのが肝心なことだと思う。これが本当の受容と共感いうことではなかろうか。そういう風に受容して共感してもらうとうれしい。最初に受容のふりをしても、最終的に「しかし」「でも」「だけど」等という逆説の接続詞で、反転して否定されると余計に反発心が強まる。相手の「受容と共感」は口先だけだったのだとすぐにばれてしまうからである。すると、相手は素直に自分自身に向きあうことは難しくなってくると思う。(家庭の中の対話 中公新書 伊藤友宣著 参照)
2014.10.07
コメント(0)
自分の欲望は分かったが、不安な気持ちを抱えたまま、どうしても一歩を踏み出せない。そう感じている人も多いようです。欲望があるから不安がある。不安は横に置いて、欲望にそって行動する。そんなことは森田理論学習でよく分かっている。でも不安が大きすぎて、どうしても行動・実践できないんです。そんな時はどうするんですか。理論はよく分かっているが、その通りできないという悩みです。でも考えてみてください。何十年もかけて作られた癖です。体に染みついた癖です。それはワイシャツについたしみのようなものです。薄くなることはあっても簡単に除去できません。まずそのことを理解してください。また不安を抱えたまま行動できるというのは、そういう能力を獲得したということです。野球の選手や卓球の石川選手。テニスの錦織選手を見てください。今までできなかった能力の獲得は、何回も試行錯誤を重ねてやっと身につくものです。そのことも頭に入れておいてください。その上で私の提案です。体が動かないといっても自分の好きなことややりたいことは手足が出やすいと思います。自分の好きなことやってみたいことを書き出してみてください。何もないといわれる人がいます。でも無理にでも書いてみてください。音楽が好き、スポーツが好き、釣りが好き、絵が好き、動物が好き、家庭菜園が好き、花が好き、講演が好き、アウトドアが好き、ハイキングが好き、登山が好き、工場見学が好き、温泉が好き、本が好き、エッセイを書くのが好き、カメラやビデオ撮影が好き、映画が好き、お祭りが好き、パソコンが好き、お笑いが好き、宇宙が好き、料理が好き、加工食品作りが好き、アルコールが好き、食べることが好き、旅行が好き、麻雀、囲碁、将棋が好き等々。その他いっぱいあると思います。私はジャンル別に分けて棚卸しています。いろんなところに興味が拡がってきました。好きなことに手を出しているうちに、弾みがついてきました。趣味を通じての人間関係の幅も広がってきました。すると体を動かすということが次第に苦ではなくなり、日常生活や雑事にすっと手が出るようになりました。森田では行動の基本はそこにあるといいます。凡事徹底。物そのものになりきって生活を丁寧にこなしていく。これは比較的取り組みやすいことです。すると症状そのものは依然としてありますが、悩みの比重はぐんと小さくなり、目の向いている方向が内向きではなく、外向きに転換できているという状況が生まれてきました。注意点があります。神経質な人はやりだすまでは時間がかかりますが、やり始めるといつまでもやり続けるという特徴があります。これは森田的ではありません。森田では極端に言えば30分おきに取り組む課題を切り替えていくというのが基本です。
2014.10.06
コメント(2)
月刊誌「生活の発見」の27ページにこう書いてあります。不安の裏側には欲望がある。だから、不安はそのままにして、欲望にそって行動しましょう。「生活の発見会」では耳にタコができるほど言われます。でも、自分の欲望が何なのかよく分からない。欲望というと、何か立派な価値のあることでないと欲望と言えないのではないか、と構えてしまう人もいるようです。なるほど。森田先生の言われている欲望は次のようなものです。1、病気になりたくない。死にたくない。長生きしたい。2、よりよく生きたい。ひとに軽蔑されたくない。人に認められたい。人に褒められたい。3、いろんな知識を広めたい。勉強したい。4、偉くなりたい。幸福になりたい。5、向上発展したい。つぎに生活の発見会相談役の山中先生は、欲望について次のように指摘されています。「われわれが欲望と呼んでいるものの中には、世間から押し付けられたいろいろなものが、入ってきている。森田先生は、人並みに自動車が欲しいとか、世間的にもっともらしい配偶者を得たいなどというのは、かならずしもその人のほんとうの欲望ではない、といわれます。いわゆる神経症的な欲求なのか、ほんとうの自分の欲求なのかを見極めるよう心がけて、あまり世間常識にふりまわされないことが大事です。」普通世間では欲望というと、食欲、物欲、性欲、睡眠、安全欲などのことを指しているのではないでしょうか。これらは人間の基本的・生理的な欲求であると思う。山中先生はこういうものは森田でいう本来の欲望ではないといわれているのです。たしかに物欲、所有欲の果てしない追及は、我々の長所である豊かな感受性がどんどん削られていくことになります。少々のことでは感動、喜びを感じることができなくなります。また低次の欲望にしがみついていては、高次の欲求である「自己実現」「向上発展」等の本来の欲望の発揮に向かうことはありません。山中先生は、そうしたところに森田の言う「生の欲望」はあるのではないかと指摘されているのです。自分の持っている物、備わっている能力を活かして、一歩高い夢や希望、目標を設定して、命あるかぎり前を見つめて挑戦していくこと。こういうことではないでしょうか。自分にないものを求めるのではなく、今現在の状況の中から出発することが大切です。森田でいう努力即幸福ということです。たとえば凡事徹底という言葉があります。自分のできる日常茶飯事や雑事は、なるべく人任せにしないで自分が手足を出して処理する。物そのものになりきって丁寧にこなしていく。そんな小さい欲望なんてと思われるかもしれません。神経質者はともすれば、大きな夢、希望、目標を設定しがちです。クリエイティブな創作活動、大勢の人から注目を浴びるようなことばかりに目が向きがちです。でもそれらはどこから手を付けたらよいのかわからない。反対に小さなことは馬鹿にして最初から無視してしまう、という人が多いのではないでしょうか。神経質な人はホームランバッターよりも、バントやシングルヒットを打つことが向いているように思います。それは感受性が強く、いろんなことによく気が付くという特徴があるからです。その特徴を活かさない手はありません。そのためにはちょっとした気づきやアイデアをきちんと捕まえなければなりません。メモやボイスレコーダに記録しておかないとすぐに忘れ去ってしまいます。結果として自分の長所は活かされないことになってしまいます。大きな夢や希望、目標は、小さいハードルを一つ一つ超えていくうちにしだいに見えてくるものです。とりあえず、欲望は常に自分の身の回りに存在するということを忘れてはならないと思います。
2014.10.05
コメント(0)
10月号の月刊機関誌「生活の発見」より。医師の平林氏が慢性痛で面白いことを話されている。膝が痛い、肩が痛い、腰が痛い、手や足がしびれるなどの慢性痛で悩んでいる人は、日本では約2300万人にのぼる。国民の約5人に一人である。平林医師は、痛みが痛みを増悪している事実があると指摘されている。「痛みがあってはならないものと考え、痛みに注意が向くと感覚が研ぎ澄まされ痛みが増し、さらに注意が向きやすくなるといった悪循環が生じます。続いてこの精神の緊張した状態が、筋肉の緊張も強め、心身の悪循環も加わります。こうなるともう痛みは体の傷が原因で生じる一つの症状ではなく、あたかも痛みに支配されるような痛みそのものが病となってしまいます。」これは神経症の固着と同じことですね。神経症も慢性痛も注意と感覚の悪循環によって増悪していくのですね。固着してしまうと治すのが厄介です。またそれなりの治療期間が必要となります。また慢性痛に対して、平林医師は、痛みは刻々と変化するといわれています。朝痛みが強くて病院に行くこともできないような人が、午後になって痛みが和らぐということがよくあります。痛みに応じて臨機応変に行動することを勧められています。これも神経症と同じです。いつもは症状にとらわれていますが、別なことに取り組んでいると、つい症状を忘れていたということがよくあります。治るとは、その部分を増やしてやるとよいといわれています。さらに、身近にある小さな幸せ探しに励むことを勧められています。おいしいものを食べた時の味わい。掃除をした時の清々しさ。顔を洗ったときのさっぱり感。体を温めた時のぬくもり。新しいシーツに換えた時の肌触り。散歩をした時の小さな発見。このような小さな心地よさを探していくこと。今日は痛みが強かったかどうかで1日を評価するのを止めて、手近な目的を設定し、ていねいに行動できたかどうかで1日を評価するようにしましょうといわれています。これらは神経症の克服のことを考えるときとても参考になりました。
2014.10.04
コメント(0)
不安、恐怖、不快な感情の対処法について考えてみました。例えば訪問営業の仕事をしている人を例にとってみます。私のかつての仕事です。訪問営業は労多くして、契約がなかなかとれない。またお客さんは血も涙もない断り文句をぶっつけてくる。仕事に行くのが嫌だなあ。休みたいなあ。宝くじでも当たればすぐにでも辞めたいなあ。こんな感情がしょっちゅう沸き起こってきます。ポイント1、この嫌だという感情を大切に扱うこと。外国の要人を接待するように、最優遇待遇をすること。その嫌だという感情を決して無視したり、抑圧したり、否定してはいけません。その感情をとことん味わってください。どんな醜い感情でも宝物のように扱ってください。それ以上のことをしてはいけません。たとえば、感情はどうであれ、絶対に仕事に行かなければならないなどと自分を叱咤激励してはいけませんよ。これは「かくあるべし」を自分に押し付けていることです。思想の矛盾で神経症に陥ります。どこまでも、我が身に湧き起った感情は宝物のように扱ってください。ここが一番肝心なところです。ポイント2、次に自分にこう問いかけてください。どうして仕事に行くのが嫌なんですか。だって、なかなか注文はとれないし、セールスは苦労ばかりで、無駄が多いんですよ。人によってはセールスマンの自分のことを、虫けらみたいに追い返すんです。すると私の自尊心はズタズタに切り裂かれるんですよ。それがつらいんですよ。ポイント3、なるほど。よく分かりました。ところで森田では不安や恐怖の裏には欲望があるといいますよね。ちなみに、あなたの「生の欲望」ははたしてなんなんですか。そうですね。人から一目置かれたい。よい評価を得たいですかね。いや、それよりも、今は人から非難されたり、拒否されたり、無視されたり、否定されたくないということですかね。そうだ、それですよ。はい、よく分かりました。ポイント4、ではもし仕事に行かなかったら、生活に困るとか、将来がジリ貧になるとか、あるいは人に迷惑をかけるようなことはありますか。そりゃ、最悪営業成績が悪くてクビになったら、たちまち生活費に事欠くようになります。子供もいますし、家のローンもまだだいぶ残っています。会社も私のような扶養家族を抱えていては利益が上がらず困ると思います。ポイント5、なるほど。それでしたら必要に応じて、いやいや仕方なく仕事に出かけるしかありませんね。いやいや仕方なく仕事をしているうちに興味が出て来て、弾みがついてくることをお祈りします。老婆心ながら付け加えておきます。生活に困るとか、将来がジリ貧になるとか、あるいは人に迷惑をかけるようなことがなければイヤイヤ仕事に出かける必要は全くありませんよ。何をしてもあなたの自由です。家で寝ていても、魚釣りやゴルフ三昧でも全く問題はありません。でもそんな人はめったにいませんがね。以上を参考にして、あなたの不安な感情を考えてみてください。仕事に行くのが嫌になったというのを、あなたの不安、恐怖、不快な感情に置き換えて考えてみてください。例えば会社でミスや失敗をして不安になった。挨拶をしたのに無視されて腹が立った。会社の人に飲み会に自分だけ誘われなかった。等々。この質問項目に従って考えてみてください。これは森田理論学習でいう沸き起こった感情を受け入れる、服従するというステップです。
2014.10.03
コメント(0)
忠臣蔵が今でも人気があるのは、怒りを表現するのが困難であった時代に、2つの対照的対処の方法で実行したからです。一つは、浅野内匠頭が侮辱されたときに、殿中松の廊下で、それも勅使を迎える直前に吉良上野介に斬りかかるというストレートな怒りを噴出させたこと。それがいかに無謀なことであるか知りながら、我慢しなかったこと。姑息な手段で相手を打ち負かすのではなく、最も自己犠牲的な仕方で怒りを表現したことに同情が集まったのです。そして、もう一つは、この事件でお家断絶となった赤穂の浪士たちが大石内蔵助の指揮のもと、主君とは全く逆のやり方で、怒りを短絡的に発散させることなく、あくまでも「いきいきとした怒り」を保持しながら、その効果的放出の機会を持ち続けたからです。主君の仇をうつために、彼らはありとあらゆることを犠牲にした。親子の関係までも、妻子までも、恋人までも、世間の評判までも犠牲にしたのです。怒りを短絡的に噴出させずに、腐敗もさせずに、鮮度を保ったまま備蓄すること、そして忍耐強く機会を持って、効果的に放出することは、それほど困難であるからこそ、当時の人々は感動したのであり、今なお人々は感動するのです。(怒る技術 中島義道 PHP引用)怒りというのは、大人になると我慢したり、耐えたりするのが普通です。でも中島氏は、基本的には、ため込まないで吐き出してやるというのが正しい対処法なのだといわれています。そういえば私もこういうの経験をしました。駅の中のレストランに入り食事をしました。昼の定食だったと思います。代金は1000円以下だったと思います。あいにく1000円札がなく1万円札で払いました。すると丸々太ったウエイトレスのおばちゃんが、「うちは両替商ではないんだ。安くしてあげているんだから小銭ぐらい用意してから来い」と罵倒するのです。当然私はムカッとしました。ところがこれは日本では珍しい光景ですが、外国では普通のことだそうです。言いたいことや自分の意見があれば、双方が自分の主張を言い合う。自分を抑える。我慢する。引き下がる。というような考えはないのだと思います。これは確かに精神衛生上悪いことではありません。自分の怒りの感情を口に出して発散するので、後に残りません。ストレスが溜まり、根に持つということがありません。ただ問題なのはその後の人間関係に悪影響を及ぼすことです。でも最初から相手の機嫌を取っていると自分の頭のほうがどうにかなってしまいます。私は感情は口に出して吐き出す。その際森田理論学習で学んだ純な心と私メッセージをいかんなく活用する。出来ない時は日記などに相手の理不尽極まりない態度を書くことです。怒りを溜めないで、上手に吐き出す。これができるようになることは、「森田の達人」に近づいたということだと思います。
2014.10.02
コメント(0)
森田正馬全集第5巻765ページより佐野氏 「私は本年、医大の本科生になりましたが、どうも医科に入ったのは間違っていたのではないかと思います。私の頭が向かないためか、難しくて分からない。いっそやめて郷里に帰り、家の商売でもしたほうが、自分に向いていると思いますが、どうでしょう。」佐野氏はせっかく医大に入ったものの、授業についていけなくなり、しだいに勉強する意欲がなくなってきたのである。医師国家試験に合格して、立派な医師になるための努力がつらすぎてできないというのである。だから、学校をやめてとりあえず家の商売でもして、ガツガツ苦しまないで安楽に暮らしてゆきたい。こういう方向でも構わないでしょうかと質問しているのである。これに答えて森田先生 「こんな考えの起こるのは、誰でもありがちのことで、そのままでよい。ただ迷いながら、かじりついていればよい。これは正しい人生観のできない・幼稚な思想から起こることで、この形外会でも今まで時々説明してきたことであります。「自分の頭に向くか・向かないか」とか考えるのが、そもそもの考え違いであって、それはたとえば、自分は暑さ寒さが向かないとか・苦労することが不適任である・とかいうようなものである。ともかく我々は、おのおのその境遇に応じて、従順にこれに適応し、あるいはその運命を切り開いていくということが、第一の着眼点でなければならない。」森田先生は単位をとる。解剖などの実技をこなす。学校を卒業する。医師免許を取得する。いずれもそれなりの努力をしないといけない。目標に向かって小さな実践を積み重ねていくというその過程が大切なのである。生の欲望を簡単にあきらめて、楽をするということは自己嫌悪に陥り、思想の矛盾で苦しむようなことになる。そして容易に神経症を発症する。気が乗らない時は、超低空飛行で墜落しない程度にぼつぼつと生活することです。それを続けると、また必ずまた調子が出てくるものです。迷いながら、しがみついておくことが大切だといわれています。
2014.10.01
コメント(0)
全32件 (32件中 1-32件目)
1