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だからといって相手に追随するということではありません。この段階では自分の気持ち、欲望はいったん横に置いておきます。そして相手の言い分を詳しく聞いてみるのです。事実を確かめるということです。私の言い分、あなたの言い分を一枚の用紙を半分にしてそれぞれ書いてみるのもおすすめです。そしてどうしたらお互いに歩み寄れるのか考えてみることです。一回でダメなときは、さらに意見を出し合って突き合わせてみるのです。どういう状況になれば譲り合うことができるのか。お互いに納得できるまで繰り返すことです。すると喧嘩はしても後に残らない喧嘩になります。相手の言うことがいかに理不尽で不合理だと思っても、すぐに反論を展開してはいけません。議論を重ねていけば、相手は次第に自分の非に気が付いて、反省してくるものです。自分の意見を何が何でも押し付けるということは、「かくあるべし」を相手に押し付けることにつながっています。これは反森田の立場です。この話は森田理論学習でいう「精神拮抗作用」「不即不離」の応用です。折衷案、妥協点を模索していくということです。双方が納得できる着地点を探っていくという意志を明確に持って、議論していくということが大事です。そうすれば雨が降って地が固まるということになります。今回は夫が折れて妻の案に合わせるということも考えられます。そして次に意見が衝突したときは、妻が夫に合わせるということでバランスをとることも考えられます。まとめてみると、お互いに言いたいことを言い合う夫婦はいい夫婦だ。お互いに無関係、無関心になるともはや家族とは言えない。家族として一つ屋根の下に住む意味はなくなる。でも言いたいことを言い合った後は、調整作業が欠かせない。調整作業から逃げてはいけないということです。譲ったり、譲られたりする中で夫婦は成長していく。
2014.04.30
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ある若い共働きの夫婦の話です。奥さんは旦那さんに不満があります。夫が家事を分担してくれないのです。炊事、洗濯、掃除はすべて奥さんの仕事になっています。疲れて帰ったうえに、さらに家事の仕事が待っています。ストレスがたまります。ある日妻は「私も仕事を持っているのだから、あなたも家事を手伝ってくださいよ。これからは早く帰ったほうが炊事や掃除をやりましょうよ」と切り出しました。すると夫は「家事をやるために結婚したのではない」といって大喧嘩になりました。夫婦はこのことで何度も話し合いをしました。しかしお互いの主張をまくし立てるだけでした。お互いの主張には聞く耳を持たずに、互いに一歩も譲りませんでした。結局「お互い考え方が違いすぎる」ということで間もなく離婚しました。この夫婦はお互いに自分の意見をしっかりと持っており、それを言葉に出して表明しているということはよいことだと思います。一方が他方を奴隷のように従わせていると、ひずみがたまり将来もっと悲惨な状況に陥ります。だからこれはこれでよいのです。問題はその先です。それぞれ自分の立場を明確に打ち出した後は、お互いの意見を持ち寄り調整する。妥協点を見つけるという作業に移ることが大切です。神経症の人はこれを飛ばしてしまう人が多いように思います。「あなたの言い分をきちんと受け止める心構えができていますよ。どうぞお話しください」そしてじっくりと相手の話に耳を傾けてみるのです。そういう人は懐の深さを感じます。ゆとりを感じさせます。相手を思いやる人だと思います。信頼できる人だと思います。
2014.04.30
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認知療法は森田理論学習とは関係ないという人もいます。私は神経症から解放するためにはどんどん試してみるという立場です。認知療法は次のようなやり方で認知の誤りを正してゆきます。1、 落ち込みの原因となった出来事を具体的に書き出します。2、 落ち込み度を10段階で評価します。3、 落ち込んだときに湧き上がってきた考えを書き出します。4、 認知のゆがみを、2014年1月13日、1月31日、3月19日の投稿をもとにしてどれに該当しているかチェックします。10項目あります。全か無かの思考方法、一般化のしすぎ、心のフィルター、よい出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、○○すべきという思考、レッテル貼、自分のせいにする。5、 認知がゆがんでいた箇所を修正してゆきます。6、 落ち込み度が最初と比べてどう変化してきたのかを評価し直す。4については、分かりにくかったら、次の4つに該当していないか考えてみましょう。1、 考えることが無茶、極端、大げさ、短絡的であり、論理的に飛躍しすぎている。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。抽象的である。推測の域を出ていないかどうか。4、 完全主義、完璧主義、「かくあるべし」思考に陥っている。他人に対して自分の考えを押し付けている。5については次のように考えてみましょう1、 自分の認知を整合性がとれるように、論理的に整然と書き出してみる。原因と結果が論理的に説明できる。論理的に説明できないものは認知の誤りが含まれている。自分で分からなければ森田の先輩に聞いてみる。2、 無理してでも客観的、プラス思考、ポジティブ思考で考えられる対案を考えて書き出してみる。物事には必ず両面性があります。分からなければ森田の先輩に聞いてみる。3、 事実を十分に観察する。事実を確かめる。具体的、赤裸々に出来事を書き出してみる。事実に従った場合の最悪の事態を想定してみる。最悪の事態を受け入れるという覚悟を決める。4、 自分にも他人にも「かくあるべし」を押し付けない。事実をあるがままに受け入れる。第一次感情から行動する。森田でいう「純な心」から出発する。「あなたメッセージ」からの発信を止めて、「私メッセージ」から発言してゆく。
2014.04.29
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自立した子供、自己肯定感の強い子供を育てることについて参考図書があります。「お母さん早く早くといわないで」菅原裕子著 PHPです。一部をそのまま転載します。134ページより。子どもは「ヘルプ」されることで人生を始めます。未成熟な状態で生まれてくる人間の赤ちゃんには「ヘルプ」が必要です。「ヘルプ」する親は、子供ができないことを知っているので、惜しみない「ヘルプ」を与えます。ところが、その「ヘルプ」がその後も同じように与え続けられると、それは子どもの可能性を制限することになります。子どもの可能性が開花するのを邪魔するのです。なぜなら、子どもは「できない」から「できる」へと成長しているからです。「できる」子どもを、「できない」子どもととらえ、「できる」ことをやってあげていたら、子どもは「できる」子どもとしての可能性をつぶされてしまうのです。子育てとは、子どもの日々の成長を見つめ、「できる」を探し、「できたね」と力づけることではないでしょうか。それが本来のしつけではないでしょうか。しつけと称して親がやっていることは、主に子どもがやるべきなのにやっていないことを指摘し、それをやるように命令することです。または、親がやってほしくないことをやっているときに、それを止め、親のやってほしいことをやらせることです。親の言うことを聞かせることです。ほとんどの場合は、子どものやっていることを否定することから始まります。このようにして私たちは子どもの可能性をつぶしていくのです。子どもの仕事は「できる」ことを知ること、親の仕事は子どもの「できる」を確認し、「できたね」と一緒に喜んでやることです。そのためには、子どもの邪魔をしないことです。それこそが、子どもへの最高の贈り物になるのです。これは対子どもだけではなく、対自分、対他人にも応用したいものです。
2014.04.28
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人間はまず自己肯定感が強いか、自己否定感が強いかに分けられる。つぎに認識の誤りが強いか、事実本位・物事本位が強いかに分けられる。以上組み合わせによって4つのタイプに分類される。タイプ1自己否定感が強い。「かくあるべし」を中心とした認識の誤りが強い人。このタイプの人は、もっとも神経症に陥りやすい人です。今神経症で苦しんでいる人は2つとも当てはまります。そして観念の悪循環、行動の悪循環が繰り返されています。タイプ2 自己否定感が強い。人の指示、命令などに服従している人。他人中心の生き方をしている人。自分の感情や自分の気持ちを抑えて他人の思惑ばかりを気にしている人。無気力、無関心になり生の欲望に乏しい。生きることはつらいと思うようになる。タイプ3 自己肯定感が強い。しかし「かくあるべし」を中心とした認識の誤りが強い。自意識過剰、自己中心的な人で他人に迷惑をかけることに罪悪を感じていない人です。行動ができるようになり、神経症のどん底から這い出してきた人の中に、このような人がいる。認識の誤りを克服していないので真に治ったとはいえない。神経症を克服したと有頂天になっていても、ある出来事をきっかけにしてすぐに再発することが多い。タイプ4 自己肯定感が強い。事実本位・物事本位の生活態度である。自分の感情や気持ちを大事にしている人です。自然に服従して境遇に従順な人です。不安というブレーキを有効に活用しながら、生の欲望を発揮している人です。このタイプが真に神経症を克服して、人生を謳歌している人です。「たかが人生、されど人生」という心境に至っている人です。こうしてみると、神経症を克服するためには、自己肯定感を育てること、認識の誤りを打破していくこと。とりわけ「かくあるべし」を打破していくこと。他人中心から自分中心の生き方に切り替えていくことがとても重要だと思われます。森田理論学習を続けることによって身につけることができるものばかりです。森田適応の方は、ぜひとも森田理論学習で手にしていただきたいと思います。
2014.04.27
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韓国のセオール号の沈没はとても痛ましい。これを森田理論の「不安と欲望」の観点から考えてみたい。セオール号の乗組員および会社は、危機管理意識の希薄さがとても際立っている。3.6倍もの超過積載であり、出航時点ですでに船は傾いていたという。沈没1時間前にはデッキを歩いていても傾いているのに気が付く人がいた。普通の航海士であれば船の異常を感知し対策を立てるはずだという。たとえば停船していかりを下ろし救助を要請する。それなのにセオール号の乗員は感知できなかった。感知できたとしても放置したというのは、危険が迫っているということをあまりにも軽く考えていたということだ。そして乗客には船内にとどまるようにアナウンスしておいて、自分たちは一目散に脱出している。これは森田理論でいうと不安がきわめて小さかったということだ。船が航行不能に陥り沈没するかもしれないという不安が沸き起こらなかったのだ。沈没は予期せぬ想定外の出来事だったというのである。これは福島原発のメルトダウン時の対応によく似ている。森田理論では不安が小さいと欲望も小さいという。不安が小さいと大惨事を招く。欲望も不安も大きいほどいいのだ。不安を大きくするためには、欲望も大きくしないとバランスを保てない。ここでいう欲望とは、船を安全に航行し、無事故で目的地に着けることである。利用者に安心感と快適さを提供することである。セオール号の乗員にはそういう気持ちはほとんど感じられない。その原因は何だったのだろうか。一つ分かっていることがある。船会社は乗員の安全教育、危機管理教育はほとんど行っていなかった。安全教育のための支出はほとんどなかったのである。船を運航する体制、任務、役割、心構え、船舶の操縦技術、積み荷の取り扱い方法、積み荷の管理方法、乗員教育、安全対策、危機管理教育は無視していた。そのため船長をはじめ乗員の安全運航、危機管理に関する意識が極めて希薄になってしまったのではないか。森田理論学習でいえば安全、無事故に対する欲望の高揚は望むべくもなかったのである。安全と安心への欲望が高まれば、危機の時の不安、恐怖は予期不安として自然に高まる。欲望と不安はコインの裏表の関係にあるからだ。船の傾きは大災害誘発の前触れとして感知できる。この不安が大きければ大きいほど早く適切な対応をとることができるのである。欲望が小さい人はろくな人がいない。これは森田先生が言っていることである。一言断っておくと、森田理論学習では不安、恐怖、違和感などの8割、9割は受け入れて服従せよという。不安などはやりくりしたり、逃げたりしないで、活用していくものだといっています。しかし、ここで間違ってはいけない。不安の対応として何でもかんでも自然に服従するだけではいけない。指をくわえてみているだけではいけないものもある。残りの1割、2割の部分は不安に学んで、迅速に手を打って危険を回避しないといけない。どんなに気が進まなくても、積極的に不安に立ち向かわなくてはいけないものがある。セオール号の事件はまさにこれに該当するのである。
2014.04.26
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私は森田理論学習にあたっては基礎編と応用編に分けて考えてみること。基礎編は「神経症の成り立ち」「神経質の性格特徴」「感情の法則」「認識の誤り」などを1年ぐらいかけて学習する。基礎編を一通り学習した後で自分の神経症の成り立ちをまとめてみる。基礎的学習が終わった後、初めて本格的に森田理論学習を始める。これが応用編である。応用編を1年ぐらいかけて学習する。3年目は森田理論を本格的に実生活に応用してみる。以上3年を1サイクルとしてきちんと学習すれば、私が20年もかけてやっとつかんだ宝物が、たったの3年間で手に入れることができます。神経症の克服とともに、将来の生き方の指針を明確に持つことができます。私の体験では、短期集中でかなりの成果に結びつくと思っています。この中で、応用編の学習方法と内容がとても大切だと思っています。応用編では「森田理論全体像」の学習と理解をその中心に置いています。これによると森田理論は4つの大きな柱がある。「生の欲望の発揮」「不安の発生と役割」「かくあるべしの発生と苦悩の発生」「事実本位・物事本位の生活態度の獲得」です。応用編の学習は、それぞれを深く深耕していくことと同時に、相互の関係性を学んでいくことが必要です。これについては2013年3月29日に説明しています。最後に森田理論のキーワードの学習で肉付けをしてゆきます。最近この4つの柱を若干修正して整備しました。まず「かくあるべしの発生と苦悩の発生」ですが、「かくあるべし」は10項目に及ぶ認識の誤りの一つとして扱うことにしました。その中で最大の認識の誤りは「かくあるべし」です。これは今までと変わりません。でもここではもっと幅広く認識の誤りを学習することにしました。「かくあるべし」以外の認識の誤りが神経症の成り立ちに絡んでいるからです。さらに他人中心の生き方が多分に神経症の形成に影響を与えているのでこれを付け加えて学習することにしました。これに伴って、「事実本位・物事本位の生活態度の獲得」では、認識の誤りの打破のために「純な心」「私メッセージ」の体得を付け加えました。そして自分中心の生き方を掘り下げて学習することとしました。この修正によって、森田理論体系の中で、もやもやしていたものが一挙に解消してきたようにも思っております。お手元に「森田理論全体像」の資料をお持ちの方は付け加えておいてください。なおこの部分は森田理論学習の核心に迫るところですので、いずれまた冊子にすることを考えております。
2014.04.25
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子どもが朝寝坊をしてなかなか起きてこない。このままだと学校に遅れてしまう。そこで母親が子供を起こしている。そういう家庭が8割ぐらいあるそうです。でも子供はなかなか起きてきません。そしてついに学校へ行くのが遅れると、「お母さんが起こしてくれないから遅れた」と責任を転嫁してきます。自分が起きなかったことを棚に上げて、自分は被害者だという気持ちになっているのです。目覚ましをかけて、時間になったら起きるという生活習慣が身についていません。自分でできる、なすべきことなのに親にすべて依存して生活しているのです。自分では何もしない、人がやってくれるのを待っている人間が出来上がってしまいます。依存して、自分自ら動こうとしない人は、自己肯定感は出てきません。自分で自分を否定する人間になってしまいます。朝寝をして学校に遅れる、仕事に遅れる、友達との待ち合わせに遅れる、電車に間に合わない、大事な得意先との商談に遅れるなどの責任は当の本人が背負うべきです。親は子供ができること、背負うことに安易に手を出してはいけません。じっと見守っていることです。最初は子供が今まで起こしてくれていたのに、どうして起こしてくれないのかと反発してくるかもしれません。ここはじっと我慢のしどころです。子供ができることを親が肩代わりしていては、子供はいつまでたっても自立できません。行動できません。自信がつきません。結果自己嫌悪、自己否定の強い大人になってしまいます。子どもは時として駄々をこねることがあります。これは森田先生が森田全集5巻の中で何度も解説されています。親がどうしたよいかわからないような駄々っ子は、どうしようかとイライラしながら解決策を探っていればよい。すると時間がたてば、子供は自分で解決策を見つけて問題は解決してしまう。兄弟げんかでも親はその場から離れて子供たちに任せる。そして遠くから見守っている。するとそのうち、子供たちのほうで折り合いをつけてけんかは収まっている。要するにこれらの例は親が安易に手を出すことは差し控えるということです。子供に解決策をゆだねるということです。親が手を出す、口を出すことは、親自身のイライラした不快な気分を解消したいが為であって、子供のためを思ってのことではないということです。
2014.04.24
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子どもに様々なことを経験させていく。体験させていく中に自己肯定感は養成されてゆきます。それは子供にとっては自由な行動が許されているということになります。子供を育てるにあたってはこれが最重要事項です。でもここで心しておきたいことがあります。自由には「自己責任」がつきものであるということです。本来自由というのは、自己責任の範囲内でしか許されないものだということです。子供の頃は友達と一緒になって、鉛筆や消しゴムなどをお店から万引きすることがあります。親は子供を観察していると文房具が増えているので分かることがあります。そんな時、「そんな悪いことをしてはダメよ」と注意するだけの親もいるでしょう。でもこれではその子の将来のためにはなりません。こんな時こそ責任を学ばせる大きなチャンスです。ある親は子供について万引きしたお店を回りました。親はお店の外にいて、子供に謝りに行かせました。ここが大事なこところです。親が謝るのでないのです。万引きをした子供が謝るということです。責任を親が肩代わりしてやるということではありません。尻拭いを親がやってしまうと、子どもはこれから先どんな不始末をしても、親が後始末をしてくれるのだと解釈してしまいます。しだいに勝手気ままな子になってしまいます。我慢する、耐えるという力はついてきません。これは自由の暴走です。後でその惨禍は必ず親に降りかかってきます。その責任は、子供に自ら引き受けさせるということです。すぐに許してくれる店もあれば、叱りつけられる店もあるでしょう。好奇心にそって自由に行動することは大切です。これを最優先することです。しかしやりすぎてけがをする。病気になる。気まずい思いをする。お金を失ってじり貧になる。家族や人に迷惑をかける。などの結果については自分自身で責任を負うのだということをしっかりと教え込まないといけない。これは「自由」と「責任」はコインの裏と表の関係になるということです。欲望の満足という自由だけが暴走しては、後で取り返しのつかないことになる。自分のやることなすことは、その結果については自分で責任を負う人間になることが大切です。自由と責任のバランス感覚を身につけると、自由の暴走はなくなります。責任というブレーキを効かせながら、自由を満喫して自己肯定感の強い子供になります。欲望丸出しの行為などをしたくなっても、こんなことをすると母親が悲しむかもしれない。父親ががっかりするかもしれないと歯止めがかかるようになります。自由と責任のバランス感覚を身につけた子供は、社会のルールを守りながら、生の欲望の発揮に邁進するようになります。
2014.04.23
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また「かくあるべし」で子供に指示、命令、強制、脅迫で行動を迫ることは、自己肯定感の獲得には役立ちません。親は子供が自ら手をつけることを、少々危なかっしくても、じっと見守るという態度を堅持する必要があります。子供が自ら手を出して、体験したり経験して、困難を乗り越えていく中で、自己肯定感は獲得されてくるものです。早くしなさい。もたもたしないで。そんなことをしてはダメ。親の言うことを聞きなさい。という言葉を子供に浴びせることは、自己嫌悪、自己否定する子供を育てることにつながります。つぎに不幸にして自己否定感を身につけて大人になってしまっている人はどうすればよいのでしょうか。子供の頃過保護で育てられたり、「かくあるべし」で育てられると自己嫌悪、自己否定が骨身に染みついています。私もそうです。そういう人は、100%自己肯定感を身につけることはできないだろうと思っています。しかし森田理論学習をすることによって、50パーセントぐらいは取り戻せるのではないかと思っています。現在の私の水準はそんなところです。それにはまず、自己嫌悪、自己否定の塊であるという自覚を持つことから始まります。つぎに自己否定感の強い人は、神経質性格特徴のマイナス面ばかりを見ています。その見方は認識の誤りがあります。性格には両面性があります。神経質性格も感受性が強い。生の欲望が強い。粘り強い。自己内省力がある。分析力がある。などのプラス面もあります。自分の性格のプラス面をよく自覚して、実生活に応用していくことが大切です。そのほか、観念的で実践がおろそかになっています。実践なくして自己肯定感は生まれてきません。まず日常茶飯事を丁寧にすること。そして規則正しい生活を心がけることなどに取り組んでみましょう。体を動かして、小さな成功体験を積み重ねることが大切です。成功体験によって、自信がついてくると次第に自己肯定感情が生まれてきます。さらに好奇心を発揮して趣味を拡げてみましょう。目標や夢に向かって努力するようになると自己肯定感がさらに強まってくると思います。森田理論学習では、なすべきをなす。物そのものになりきって一心不乱に取り組むことを勧めています。さらに他人中心の生き方が自分中心の生き方に転換できるようになると、自己肯定感さらに強化されてくると思います。これについては過去の投稿記事を読み返してみてください。
2014.04.22
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自己嫌悪感、自己否定感は神経症の人はほとんど持ち合わせています。その人たちは、身の回りに起きる出来事を、否定の色眼鏡をかけてみています。否定しているから、すべてに悲観的なオーラを発しています。否定という磁場の中に入り込んでいるため、自然にミスや失敗、他人からの非難を引き寄せてしまうのです。そしてそれは坂道を暴走する自動車のようにどんどん加速してゆきます。状況はどんどん悪化してゆきます。自己肯定感を持っている人はその反対です。自分はもともと人から「愛されている」と感じていますから、相手から無視されたり、拒絶されても、好意的にみることができるのです。肯定というオーラを放っていると、物事はプラスに回転してきます。どんどん人が集まってきます。また積極的に行動でき、たとえミスや失敗があっても、これを肥やしにしてさらに強い闘争心が出てきます。そしてついには目標を達成してしまいます。森田理論学習の中で、自己肯定感を育てることはとても大切だと思います。その方法について考えてみましょう。自己肯定感を作るには、まず親が子どもにどう接するかということが最大のポイントとなります。子育ての最中にある人は、そのことをよく認識して、学習して実践することです。子供の成長段階に応じて2つのポイントがあります。乳幼児の場合は、自分では何もできません。動くこと、食べ物をもらう、おしめを替えてもらう、体をきれいにしてもらうなどはすべて親にやってもらわなければなりません。親の全面的な手助けが必要です。親が乳幼児の世話をきめ細かく行うことは、乳幼児にとっては、親から100%愛されているということです。いつも親の後ろ盾を持っていると感じることは、自己肯定感を持つためにはとても大切なことです。自分は存在していてよいのだ、許されているのだという自己肯定感はこうして生まれてきます。ところが子供が成長してきたにもかかわらず、親がいつまでも手助けをしていると、それは却って自己肯定感を奪い取るものだということを認識する必要があります。子供が自分でできるようになると、親は子供に成り代わって済ませてしまうことは慎まなくてはなりません。子供がいくらもたもたしても、不完全であっても子供にやらせなくてはいけません。子供が自ら手を出して体験することが大切です。自己肯定感は自分一人でできるようになり、自信が出てくるその先に獲得できるものだからです。
2014.04.22
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先日の集談会で自己否定ばかりしていて苦しいという方がおられました。今日はこの問題を掘り下げてみたいと思います。まず「自己否定」する人の特徴は次の通りである。自分は他人から愛されていない、自分は存在する価値がないと思う。いつも人から拒否される。無視される。否定される。非難されていると思う。以前はできていたことが、今はできなくなった。何回挑戦してもできない。尻込みするようになった。人と競争してもいつも負けてばかりである。みじめである。やることなすこと失敗やミスばかりしている。そして他人に迷惑をかけていると思っている。くよくよ細かいことで悩む。自信がなく、いつもオドオドしている。自分の欠点や弱点にとらわれている。自分には長所や強みはなにもないと思っている。夢や希望、目標を見失い、人間的な成長が止まった。自分の中にいる二人の自分が対立している。雲の上にいる自分が現実で苦しんでいる自分をいじめている。小さな失敗体験が積み重なり、消極的で悲観的になっている。これに対して「自己肯定」の特徴は次のようなことが考えられる。親から愛されている。人から愛されている。自分には存在価値があると思う。自分の長所、持っている能力を自覚している。それを生活に活かしている。今までできなかったことができるようになった。困難をのり越えて、人間的に一歩成長した。精神的に打たれ強くなった。勝負ごとに勝った。よい演奏ができた。よい演技ができた。自信が持てるようになった。自分のしたことで人の役に立った。喜んでもらえた。評価された。夢や希望、目標の実現に向かって努力している。挑戦している。頭で考えたことは必ず実践に移している。小さな成功体験を積み重ねて、徐々に自信がついてきた。自分の中にいる二人の自分が和解しており、励ましあっている。雲の上の自分が現実で苦しんでいる自分にしっかりと寄り添っている。励ましてくれている。次は自己肯定感情の獲得について考えてみたい。
2014.04.22
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他人中心の人は、いつも他者の顔色や反応をうかがいながら考えたり行動しようとするために、自分の感情や意志を見つめる機会が持てなくなってしまい、自分の意志で考え選択することができなくなってしまっている。その上、人の心や気持ちをうかがいすぎているために、「自分が主張すれば嫌われてしまうのではないか。見捨てられてしまうのではないか」と考えたり、「主張するには、相手と戦わなければならない。相手に勝たなければならない」と考えて、「責められるのが怖い。攻撃されるのが恐ろしい」からと自己主張をするのをあきらめてしまっているのだ。それで結局我慢して、心の中で相手を責めて、相手に振り回されながら不平不満を募らせていくという悪循環に陥っているのである。我慢する、耐えることが習慣になっているために、不満やストレスがどんどん蓄積されていく。それが耐えきれなくなると、最後には爆発する。超新星爆発、ダムの決壊のような現象を起こす。そして修復不可能なほど人間関係は悪化する。(もう他人に振り回されない 石原加受子著 11ページを参照)これに対して自分中心の人は、自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切に、第一に優先して考え、行動しています。そういうことが実践できている人です。自分の気持ちが楽か、自分の体が楽かを重視する。そういう人は自分の中で葛藤がなくなり、楽になります。そのためには自分の気持ち、感情に気づく自分の○○したい。○○したくない、といった欲求に気づく自分の「好き嫌い、快、不快」といった感情を基本にする相手よりも、まず自分の意思を最優先する自分の気持ちを基準にして「断る、引き受ける」を決める。相手の気持ちを思いやることは大切だが、順序が逆になってはならない。まず自分の気持ちを明確にして、その次に相手の気持ちを推し量り妥協点を見出していく。どんなに理想から離れていても、現実の自分を認める。理想としては自分を大好きになる。自己を肯定する。自分のどんな感情、どんな気持ちも受け入れて味わい、実感する。自分の意志を尊重し、それを実感する。自分のために、自分を自由に表現して生きる。
2014.04.21
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先日事実を確認するということで貴重な体験をした。我が家に光電話とネットの割安なサービスの勧誘のセールスマンがやってきた。月額4500円から3150円になるという。1350円も安くなる。飛びつきそうになったが、ちょっと待てよと思った。どこもしのぎを削って獲得競争を繰り広げている。直感的に考えるとそんなに差があるとは思えない。そこでそのセールスマンは結論を急いでいたが、一旦保留にして検討してみることにした。すぐに現在加入している業者に電話してみた。そして分かったことは、固定電話+ネット料金は3500円、光電話基本料500円、ナンバーディスプレー400円、モデムデンタル400円、割引200円だった。現在の支払いは合計4600円だった。セールスマンが持ってきた提案だと、3年目以降、固定電話+ネット料金は3480円、光電話基本料500円、ナンバーディスプレー400円、今までのメールアドレス継続料500円、無線ラン100円だった。合計4980円だった。中身を調べてみると現在のほうが若干安かった。セールスマンは手っ取り早く契約をとるために、1年目の固定電話+ネット料金の2630円、光電話基本料500円のみで説明していたのだ。3150円の根拠はそういうことだった。実際にはナンバーディスプレー、メールアドレス継続料などの金額は別途加算されるのだ。そういう説明は契約上不利になるので省いていたのだ。このような手抜きの説明で、すでに当マンションでは4件の切り替えの契約を結んだと強調していた。こういうのは詐欺まがいの勧誘というのではなかろうか。私が事実に基づいて比較対照すると、いろいろと言い訳をしたが最後には認めた。でもこのセールスマンは捨て台詞を吐かなかったので、まだましなほうだった。森田理論学習では事実を無視して、気分本位や理知本位では問題が起きるという。神経症の苦しみを味わったのもその一つだ。私はいつもそうだった。すぐに飛びついて後で後悔をするのだ。今回は無意識に森田的対応ができたのではないかと思っている。事実を大切にするという貴重な経験ができた。
2014.04.20
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兵庫県にK学園グループという塾があるという。ここでは1日20時間にも及ぶ夏合宿を行っている。始める前に合宿に参加する生徒の親だけを集めて合宿説明会を行っている。必ず参加してもらうようにしている。それはあることをしてもらうためだ。それは夏合宿の中で生徒が心細くなったり、つらくなったりして途中でくじけて家に帰りたくなった時に、わが子に読んでもらう手紙を書いてもらうのだ。その手紙には、まずわが子が生まれてきたときの気持ちを思い出して書いてもらいます。そして命名したいわれを書いてもらいます。そしてねぎらいの言葉を書いてもらいます。あるお母さんはこんなことを書いていました。「この合宿のスケジュールを見て、お母さんは正直驚きました。こんなに勉強して、きっとすごくしんどくて、今は本当につらい状況にあるのかもしれません。しんどかったらやめていいんだよ。帰ってきていいんだよ。お父さんもお母さんもずっと家にいるから。けれど、お母さんはあなたが一人で受験という関門に立ち向かうほど成長していることを、本当にうれしく思います。あなたが生まれてきてよかった」この手紙は体力的にも精神的にも限界がきて「もうダメだ」と生徒たちが思ったとき生徒一人一人に渡すのです。手紙を読んだ生徒たちは大粒の涙がこぼれ、号泣するのだそうです。この話には続きがあります。今度は生徒たちから、お母さんお父さんへ手紙を書いてもらうのです。その手紙には、「生んでくれてありがとう」「育ててくれてありがとう」「ほめてくれてありがとう」「叱ってくれてありがとう」「学校に行かせてくれてありがとう」「一緒にいてくれてありがとう」「お父さんとお母さんの子どもでよかった」「本当にありがとう」などの言葉が並ぶそうです。この手紙は速達便で届けられます。今度はお父さんお母さんが感動の涙を流すのです。合宿後の親子の関係はとても和やかになるそうです。親は子を、子は親をとてもいとおしく思うようになるのです。こんな体験は普段はとてもできません。普段は、「早くしなさい」「ぐずぐすしないで」「親の言うことを聞けないの」などと「かくあるべし」を前面に出して生活しているのです。でもこういう体験を持てたということは、学力の向上以外にとても意義のあることだと思います。森田理論学習はこういう人間関係を目指しているのだと思います。この投稿は「涙の数だけ大きくなれる」 フォレスト出版 木下晴弘著参照しました。
2014.04.19
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私はクラッシック音楽が好きで、神経症の時はずいぶん助けられました。今日はその話をしましょう。まず神経症の深みにはまっているとき。一番のおすすめは、グスターフ・マーラーの「交響曲一番巨人」です。この曲は、マーラーが横にいて悩みを聞いてくれているような気持ちになります。特に始まってから22分、23分ぐらいから始まるところはしびれます。タンタタッタ タッタ タンタタッタタ・・・で始まるところです。ここはテープにも吹き込み何度も聞きました。集談会でいえばアドバイスをされるよりも、ただ自分の悩みを共感的に聞いてもらいたいときの気持ちにぴったりです。この曲はマーラーが24歳から28歳の失恋を経験した後の作品だそうだ。青春交響曲と呼ばれ、愁いのある心に響く旋律で我々に迫ってきます。シューベルトの「未完成」も苦しいときには、助けになる曲です。良かったらyou tubeで聞いてみてください。
2014.04.18
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凹まない人の秘密(アル・シーバート著)によると困難を克服してゆく人は、思考方法に次のような特徴があるという。・独創的でありながら分析的・真面目でありながらふざけている・勤勉でありながら怠け者・繊細でありながら図太い・疑い深いが同時に信じやすい・無私でありながら利己的・自信はあるが自己批判的・衝動的でありながら用意周到・どっしりとしていながら予測不可能・楽観的でいながら悲観的・外向的でありながら内向的これらはお互いに対立するものである。その両方を持ち合わせて、その時々の状況に合わせて使い分けることができる人が、困難を克服して能力を身につけて、人間として成長してゆけるのだといわれています。そうでなく偏っている人には、悲惨な人生が待っている。これは森田でよくいう両面観の考え方です。神経症を克服した人は、一つものを見るときに多面的な見方ができるようになります。これは円錐見るとき、上からも下からも横からも、斜めからも見れるような人間に変化してきたということです。物事や事実を正確に判断できる能力を獲得したということです。行動面でも両面を比較対照して、自分の感じから出発できるようになります。つまり偏りがなくなる。臨機応変な行動となります。この両面観を身につけることが森田理論学習の一つの目標となります。普通は「かくあるべし」で凝り固まり、どちらかに固定して是非善悪を価値判断していることが多いのです。例えば、不真面目ではいけない。怠けてはいけない。繊細な人は傷つきやすいからダメだ。人を疑ってはいけない。利己主義な人間は嫌われる。衝動的な行動は慎まなければいけない。物に動じない人間にならなければいけない。いつも予期不安で手も足も出ない。いつも自分の心身の不安な状態が気になる。どうすれば両面観を獲得できるようになるのか。これは一朝一夕で獲得できるものではありません。でも獲得する意思があれば可能だと思います。森田理論学習の継続が後押ししてくれます。私は森田理論学習のおかげで自己肯定感がだいぶ出てきました。そして今では机の上に「やじろべい」を置いていつも眺めています。「自分は何をやってもダメだ」という感じが起きた時、それはあまりに大げさで、飛躍してはいないか。自分は文章を作ったり、本を読んだり、森田理論を極めたり、楽器を演奏したり、一人一芸を4つも持っているではないか。それなのにちょっとした失敗やミスで自己嫌悪したり自己否定するのは何事か。それは自分を冒涜していることではないのか。失敗や恥ずかしい気持ちになった時、自分の人間性や人格とは切り離すことができるようになりました。我々はとかく柔軟な思考ができなくなっています。どんなに過酷な状況でも、柔軟で変化対応力のある人は生き延びてゆける人です。森田理論は偏らない、変化に素早く対応できるカメレオンのような人間を目指していると思っています。そのためには森田理論学習の継続及び一人ではなく相互学習が大切だと思います。
2014.04.18
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ガンという鳥はV字編隊で飛んでいます。これを横から見ると立体になっているそうです。なぜ立体なっているか。前を飛ぶガンが羽ばたくと上昇気流が起きます。すると後ろのガンは少ないエネルギーで飛ぶことができるのです。そのガンが羽ばたくと後ろのガンはもっと楽に飛ぶことができる。ガンは単独で飛ぶときの71%の力で同じ距離を飛ぶことができる。ところが先頭を飛ぶガンにはそうした効果はない。遠くまで飛ぶと疲れ切ってしまう。すると編隊の後ろに移動する。他のガンは一つずつ前に詰めていく。あまりにも疲れてしまうと、他なガンが鳴いて励ますそうだ。また1羽が編隊から脱落すると、2羽のガンが編隊から外れていってサポートをするという。塾などでは、誰の隣に座るかが自分の成績の伸びに影響を与えるという。時にライバルとして、時には励ましあう関係になれば相乗効果をもたらすという。問題をお互いに出し合い、切磋琢磨するようになるとすぐに効果が表れるという。反対にいじめやいたずらなどを繰り返すようになると、成績の向上は望み薄となる。森田理論学習を一人で行おうとすると大変な時間費やし無駄な努力となることが多い。それはパソコンの操作が分からないで、どうしてよいのかわからず苦労しているときに似ている。パソコンはどこで学習したのだろうと思うほど精通している人がいる。分からない時は謙虚な気持ちになって教えを乞うことだと思う。大勢で相互学習していると、森田理論を早く理解できるようになる。さらに貴重な人間関係ができてくる。お互いに信頼関係も生まれてくる。また尊敬できる人にも出会うことがある。そうして、毎月の森田理論学習の集いを心待ちにできるようになればしめたものである。
2014.04.17
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「涙の数だけ大きくなれる」(木下晴弘著)という本の中に、「レジ打ちの女性」という感動する話があります。その女性は大学卒業後就職しましたがどの仕事も長続きしませんでした。上司や同僚とけんかしたり、仕事内容に不満を感じるとすぐに辞めていたのです。すると、正社員として雇ってくれるところはなくなりました。それで彼女は派遣社員として登録しました。そこでも派遣先でトラブルをおこし長く勤まりませんでした。そしてスーパーのレジ打ちの仕事を紹介されました。以前はバーコードの読み取りではなく、レジの人が直接入力していました。彼女はここでも1週間でレジ打ちに飽きてしまいました。母親が仕事を辞めて田舎に帰ってきなさいというので、荷物を整理していました。その中に小さいころの日記がありました。ピアノの練習に頑張っていたことが書いてありました。夢を追いかけていた自分を思い出して、今の自分が情けなくなりました。そしてふとこんな考えが湧いてきました。「私は昔、ピアノの練習中に何度も何度も引き間違えたけど、くり返し弾いているうちに、どのキーがどこにあるのか指が覚えていた。そうなったら鍵盤を見ずに、楽譜を見るだけで弾けるようになった」彼女は昔を思い出して、心に決めたのです。「そうだ、私流にレジ打ちを極めてみよう」レジには商品ごとに打つボタンがたくさんあります。彼女はまずそれらの配置をすべて頭に叩き込むことにしました。覚え込んだら、あとは打つ練習です。数日のうちに、ものすごいスピードで打つことができるようになりました。すると、これまでレジのボタンばかり見ていた彼女が、お客さんのほうに目が向くようになりました。お客さんの買い物に対する行動パターンや癖などです。それが彼女のひそかな楽しみになってきました。そしてほとんどのお客さんの顔と名前を覚えてしまいました。その人たちとたわいのない言葉を交わすようになりました。またお客さんにお買い得情報なども提供していました。するとこんなことが起こりました。レジは5つあるのに、お客さんが自分のレジにしか並ばないのです。店長が飛んできて、「どうぞ空いているレジにお並びください」といいました。すると並んでいる人が、「今日の特売は他のスーパーでもやっているよ。でも私はあの人と話をするために来ているんだ。だからこのレジでないと嫌なんだ」彼女はうれしくてその場に泣き崩れたということです。これは森田でいうと、今まで軽蔑していたレジの仕事に一生懸命になって取り組むことにした。これは仕事そのものになりきるということです。価値判断を止めて一心不乱に取り組むことによって、見えてきたものがある。一人一人のお客さんの特徴です。その対応に工夫するようになったのです。それがこのような感動に結びついたのだと思います。私たちはこれは価値のある仕事、これはくだらない仕事と価値判断してしまいます。森田先生のように、将棋を指すときは将棋指しに、風呂をたくときは風呂焚きに、飯を炊くときは飯炊きになる。この態度を肝に銘じておきたいと思います。
2014.04.16
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確認行為で悩んでいる人は、鍵がしまったかどうかということは最初だけで、その後意識から飛んでしまっている。事実は蚊帳の外になっている。そして不安と格闘しているのである。そういう人は不安が頭の中をよぎるということが嫌なのだと思う。不安をいつも目の敵にしている。不安が全くない状態。事実がどうかというよりも気分が爽快であるかどうかに価値を置いている。不安があれば、すぐに取り去ろうとする。取れなければ逃げるようになる。これを森田理論学習では気分本位の態度あるという。このタイプの人は、不安を抱えたまま行動するということができない。また不安は欲望の裏返しであり、欲望がある限り不安は必ず出てくるものだということが理解できていない。さらに生の欲望の発揮には、不安がブレーキとして機能しないと、生の欲望の暴走につながるのだということにも気が付いていない。森田で「欲望と不安」の関係をよく学習してもらいたいものだ。それと確認恐怖の人は完全主義、完璧主義の人が多いように思う。空でいえば一点の雲もないすがすがしい真っ青な日本晴れをイメージしている。そんな状態の空にお目にかかることはめったにない。あったとしても、すぐになくなってしまうことが多い。現実には全くあり得ないことだが、観念の世界では作り上げることができるように思えてしまう。理想に向かって努力をすれば可能であると信じて疑わないのである。こういう人は頭の中で実現可能、成功間違いなしと確信できないと行動することができない。観念でああでもない、こうでもないとやりくりするばかりで混乱してくるのである。確信できなくて、やりたい気持ちはあっても、結局手も足も出ないという情けないことになってしまう。そしてできない自分を否定するようになるのである。この人たちも森田理論適応者である。森田では自信がなくてもまず引き受ける。引き受けたからには一生懸命に取り組んでみる。ミスも失敗もするだろうし、打開策が見つからなくて停滞することもあるだろう。それを乗り越える先に成功はあるし、能力を獲得して人間的成長もあるという考えです。順風満帆に事が運ぶということはめったにないし、仮にそれでうまくいってもちょっとしたトラブルですべてが無に帰すということはよくあることです。自動車のセールスの人の話ですが、訪問営業を500件重ねてやっと1件の成約に結び付く。だから499件の断りは1件の成約のために必要なものなのです。集談会では、人生3000回の失敗を重ねて大きくなった人が、逆境に立ち向かう大人として生きていけるという話を聞いたことがあります。国家試験でも合格基準はおおむね6割だそうです。完全をめざしていくのは意気込みだけにして、妥協することも必要でしょう。完全主義からの脱却を目指して、ぜひ森田理論学習を続けてほしいものです。
2014.04.16
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玄関などの鍵をきちんと閉めたかどうか異常に気になる人がいる。普通の人でも何かほかのことを考えていて、後からどうだったかと気になることはある。引き返してまた確かめて安心する。そして安心して外出できる。ところが強迫行為で悩んでいる人は、意識して、閉めたという音を聞く。ノブを持って確かめて一旦はしまっていると納得する。でもしばらくすると、あれは錯覚ではないのかという考えが頭の中に広がってくる。不安でいっぱいになるのである。そしてその不安がどんどん昂進してパニックになるのである。その後鍵だけではなく、ガスの元栓、手の汚れなどにも波及してくることが多い。そういう人は、五感は信用できないと思っている。見る、音を聞く、触れる、味わう、匂うという感じを信用していないのである。私は確認恐怖の人を見て思うのだが、たとえば音を聞いて閉まったかかどうか確認していますという人がいる。音だけに頼っているのである。五感というのは他にまだ4つもある。見る、触れるということも動員して、3つの五感で感じることにしてみてはどうだろうか。たとえば、ドアにはわずかな隙間が空いていることがある。その隙間に金具が見えることがある。また、ノブをガチャガチャと動かしてみると閉まっているかはよくわかる。一つの五感は信用できないのなら、別の五感で感じる。あるいは五感を総動員するということも有効ではないだろうか。でも根本的にはそれで解決するとは思えない。もっと考えてみる必要がある。
2014.04.16
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先日の集談会に参加していて「治る」ということで思わぬ発見をした。その方は70代で元気いっぱいの人である。とても70代には見えない。どう見ても60代だ。野鳥の観察などの趣味を持っておられる。その方は何かにつけてとらわれやすい人である。「神仏恐怖」「加害者恐怖」「不潔恐怖」「確認行為」などがある。「神仏恐怖」では祖父の位牌の7文字が頭に浮かび、それが何回も頭に浮かんでくる。今では位牌の文字数7という数字は避けるようになった。7という数字になると3を足して10にしているといわれる。「加害者恐怖」というのは、自動車などに乗っていて、ガチャと音などがすると何かを壊したのではないか。自分の行為で誰かが不利益をこおむったり、けがをしたり、命を落とすことがあるのではないか。などと悩むのである。そして引き返して確認することがあるという。奥さんにいつも「そんなことがあるわけがない」いつもたしなめられているという。「不潔恐怖」というのは何回も手を洗わないと気がすまない。また戸締りも何回も確認しないと気がすまない。また集談会に来ようとするといつも腹の調子が悪くなる。だから多少時間に間に合わなくなる。こんなとらわれについては、集談会と家族以外では全く話したことがない。集談会で安心して話すことができる。内に溜めこまないで、集談会の場で吐き出すようにしている。奥さんも集談会に快く送り出してくれているという。この方は多くのことにとらわれている。多少生活に影響を与えてはいる。でもそれを話されるときは、それをどうにかして改善したいという話は全くされない。自分はいかに多くのことが気になり、森田でいう神経質性格を多分に持った人間であるかをはなされるだけである。だから自己嫌悪、自己否定ということは全く感じられない。とらわれやすい自分をユーモアのネタにして笑いを振りまいておられるのである。話を聞いていると思わず苦笑してしまう。私はこれまでこの方は、とらわれからいかに脱却するかを求めて毎回集談会に参加されているのだという先入観があった。今回これは大きな間違いだということに気が付いた。この方は自分が、いろんなことにとらわれやすい人間であるということをよく分析され認識されていたのである。つまり自覚がすすんでいるということだ。その上で、神経症というものを治そうなどとは一切考えておられない。生活には多少の不便さは残っているが、神経症の克服への道をよく理解して、実践している人だったのだ。そのとらわれを集談会の場で吐き出して流してしまうとよいというのがよく分かった人だったのだ。つまり立派な完治者であったのだ。素晴らしい克服者が近くにおられたことに改めて驚いた次第です。これからはこの方に教えを乞うてゆこうと思っている。
2014.04.15
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板村真民さんに「冬がきたら」という詩がある。冬がきたら冬のことだけ思おう冬を遠ざけようとしたりしないでむしろすすんで冬のたましいにふれ冬のいのちにふれよう冬がきたら冬だけが持つ深さときびしさと 静けさを知ろう・・・・人間を季節にたとえると、私は晩秋に差し掛かったところだろうか。何もわからないが希望があった春。やることなすことすべてに自信が持てなく、神経症で苦しかった夏。そして神経症を克服して、人生の楽しみを味わうことができるようになった秋。振り返ればあっという間の出来事であった。この先には冬が待っている。冬は過酷である。第一寒い。寒いと風邪をひいたりして体調を崩す。また体が縮こまってしまい、心もそれにひきつられてしまいそうだ。外に出ることが億劫になる。自然に家の中にこもるようになる。何も楽しいことは一つもないような悲観論に陥ってしまう。そうして体や心が徐々に衰退して枯れていくのか。そしていずれ死んでしまうのか。その進行スピードを少し遅らせることが私にできる精一杯のことなのか。しかしよく考えるとこれはあまりにも一面的だ。両面観で見る必要があると思う。冬には冬のよさ、楽しさがある。札幌では雪まつり、東北ではかまくら、雪合戦。スキーやスケート、温泉に浸かる、鍋物のおいしい季節は冬である。こたつに入ってゆっくりと団欒の時間が持てるのは冬ならではの楽しみだ。嫌な季節であるという前に、冬という季節の意義、存在価値を見つけることが大切なのではなかろうか。板村さんはその冬に向き合おうといわれる。心身の衰えてきた自分に向き合おうといわれる。その自分を自己嫌悪したり、自己否定しないで、その事実に向き合おうといわれている。そういう衰えてきた自分を自覚して、認めることができることは大切だと思う。そこを土台にして生きてゆけるからである。集談会でも「もう私は歳だから、勉強会には参加しない」という人がいる。足が動く、ボケたりしていなのに自分で限界を設けて、縮小再生産の道へと自分を追いやっているのである。そういう生き方だけは避けたいものである。そういう人は森田理論学習が不十分だったのではなかろうか。生涯一捕手ではないが、生涯一人間として生きていくことを教えているのが森田理論であると思う。
2014.04.14
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「思考の継続」というのは、自ら創意工夫、向上心を持ち、努力を継続して進化していくことを言います。最終的には現役である限り、日々考えて精進する人でないと選手として成功はしません。仁志氏のこの考え方は森田理論学習でもほぼ同じことが言えます。この考えをもとにして検討してみましょう。森田理論で結果を出すということは、神経症を克服して、神経質者としての生き方を確立し味わい深い人生をおくれるようになることだと思います。そのために、個性の発揮、発想の転換、思考の継続が不可欠だということです。「個性の発揮」とは、神経質の性格特徴をよく学習して自分の特徴、長所、持っているものをよく自覚することだと思います。それらを現在の境遇の中で活かしていくことだと思います。不足しているものやないものを求めるのではなくて、あるものをいかんなく活かしていくということです。現在の存在価値を高めていくという発想になります。「発想の転換」とは、神経症で苦しむ人は「かくあるべし」をはじめとする多くの認識の誤りを持っています。また他人中心の生き方をしています。そのために精神的に苦しい生活を余儀なくされています。この誤りは自分一人では見つけることが困難です。乗り越えることはさらに高いハードルとなります。これは森田理論に精通した人の力を借りることが必要です。森田理論に詳しい専門医、臨床心理士などの力を借りることです。その他信頼できる森田理論を体得した人の意見を聞いてみることです。また生活の発見会などの自助グループなどに入って森田理論学習をすることが大切です。まずは認識の誤りを自覚することです。そして認識の誤りから脱却する方法を身につけていくことです。ここで大切なヒントを仁志さんは教えてくれています。先輩会員は初心者に最初からやたらにアドバイスしてはいけないということです。そばに付き添って話を聞いてあげるだけで十分です。それだけでも、初心者は癒されているのだという気持ちで接することが大事です。そして藁おも掴む思いになっているときに、適切に対応してあげることです。また森田理論学習にあたっては、森田理論のキーワードをそれぞれに分解して学習するというのは、あまり役立たないということです。森田理論には、「純な心」「自然に服従」「事実唯真」「あるがまま」「精神拮抗作用」「感じから出発する」「無所住心」「物の性を尽くす」「唯我独尊」など様々なキーワードがあります。それらを個々に学習していては観念的になってしまうということです。森田理論は深耕するためには、まず森田理論の全体像をしっかりと学習することが大切だということです。私は森田理論の大きな柱は4つあると思っています。その4つの幹の部分をよく理解するとともに、相互の関連を学習することから始めるべきだと思います。4つの柱とは大まかにいうと、「生の欲望の発揮」「不安の特徴と役割」「かくあるべしをはじめとする認識の誤り」「事実本位・物事本位・自分中心の生き方の理解と実践」です。最後に「思考の継続」とは、森田理論を自分のものにするためには、自分の頭で考え行動実践することが大切です。人から与えられるものだけでは不十分です。自分の神経症の成り立ちをはじめとして、学習で学んだことを自分に当てはめて整理し直したり、深耕してゆくことが大切です。これらのステップを踏んでゆけば、必ず所記の成果に結びつけることが可能だと思っております。
2014.04.13
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巨人と横浜ベイスターズで活躍した仁志敏久氏は、将来素晴らしいコーチになるだろうと思っています。仁志氏の著書「プロフェッショナル」から、その考え方を紹介しましょう。プロ野球の選手は数字で結果を出さないと、選手生命は絶たれてしまう。結果を出すためには、3つの大切な視点がある。一つは「個性の発揮」。二つ目は「発想の転換」。三つ目は「思考の継続」である。「個性の発揮」というのは、自分がどういう特徴を持っているのか。どんな面で優れているのか。自分の一番の売りは何かをしっかり見極めて、努力していくことだといわれています。その際、短所を直していこうとすると、長所が少しずつ失われてゆきます。まず長所を自覚させ、短所を消すための方法を多方面から見直し、慎重かつ地道に進めていくべきです。否定から入るよりも、肯定から入ることが大切です。長所を磨いていく中で、短所が目立たなくなるというのが理想でしょう。さらに自分の理想や目標に届かない時は畑を変えるということを言われています。内野から外野に行ってバッティングまでよくなる例はたくさんあるし、欠点ばかり追いかけないで、生きる方法、活かす方法も考えることが重要ではないかと思います。「発想の転換」というのは、守備にしても、バッティングにしても理にかなったセオリーというものがあります。それが不十分で、分かっていない選手がいます。いつも自己流で無駄な動きや間違った体の使い方をしている場合です。そのために良い結果が出ない。これを自覚して、修正していく必要があります。たとえばスイングをさせると、腰の回転が充分でないとか、重心の移動がうまくできていない。それによって振り出しの鋭さがないということがあります。実績を残した選手は、そういう無駄な動きというものはすぐに分かるものです。ところが、間違った考えや体の使い方というのは自分ではなかなか分かりにくい。そのために野球ではコーチがいます。でもどのようにそれを選手に分からせるのかというのは、とても難しい。まずコーチはめたらやったアドバイスをしてはいけない。そういうアドバイスをすることは、コーチが自己満足しているだけで、選手には伝わることが少ない。さらに一番の問題点は選手が自分自ら考える力がつかないことです。選手が答えに詰まって、四苦八苦してアドバイスを求めてきたときがグッドタイミングです。そこまで待つという姿勢が大事です。馬を水飲み場まで連れていくことはできるが、水を飲むかどうかは馬次第です。さらに技術を一つ一つ形で教えるというのは、よいやり方ではないといわれます。コマ送りの動きを、コマごとに説明するようなもので、実践では意外と役に立たないものなのです。たとえば守備いうと、腰を落として、右利きの人は左足の前で捕れと指導すると、形にとらわれていつもその形を作って捕ろうとします。言葉にとらわれてしまうのです。本来は打球を追いかける、捕球する、送球するという流れの中で教えないとうまく伝わらないといわれているのです。
2014.04.13
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「一病息災」という言葉があります。人間は持病が一つぐらいあったほうが、健康に気を配るので長生きができるようになるという意味です。子供の時おたふくかぜになっておくと大人になってかかることはありません。抗体ができるからです。ところが大人になって発症する人は重症化します。抗体がないからです。私はかって痔の手術をしました。また尿道結石。痛風発作を起こしました。さらに最近は五十肩、帯状疱疹をやりました。それぞれにつらい症状ではありましたが、そのおかげでその病気の学習をしましたし、何より再発防止策をとれるようになりました。ところが世の中には元気いっぱいで、医者にはかかったことがない。生活習慣病検診なんて受診しなくても大丈夫だというような人がいます。私はどうかと思います。たまにそんな人が倒れてそのまま帰らぬ人となる人がいるからです。人それぞれの考え方があるので強制はしませんが、私は10年以上乗った車を、少しずつ部品を替えたり、メンテナンスや修理して長く大切に乗るというのが好きです。そのほうが車に対しても愛着がわいてきます。そうすれば20年以上ももたせることが可能になります。車も大切にしてくれて喜んでいることでしょう。神経症になって苦しい思いもたくさんしてきました。今になって思うと、これがあったおかげで、森田理論に出会い、得難い人たちとの交流が始まり、人生の課題を持つことができるようになりました。そしてついに人生の処し方について望外の宝物を手にすることができました。さらに今ではそれを皆さんにおすそ分けするという目標もできました。神経症よ、ありがとうという気持ちです。人生で困難な問題、理不尽な出来事というのは、それを乗り越えられるからこそ、自分に降りかかってきたのだと聞きました。神経症で長く苦しんだというのはまさにそういうことだと思います。神経症の克服の道は、今や理路整然と確立しております。安心して生涯学習として取り組んでいただきたいと切に願っております。
2014.04.12
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どうしてこんなにもめているのだろうか。私は2つの問題があると思う。一つは小保方晴子さんの論文の件である。画像取り替え、切り貼りの件である。これは小保方さんの問題でもあるが、小保方さんはまだ30歳である。これは理化学研究所の指導、管理の問題も見逃してはならないと思う。いづれにしても、論文の体をなしていないのであるから、一旦は取り下げるべきであると思う。もう一つは、STAP細胞の作製が事実なのかどうかということである。小保方さんはもう200回以上も成功しているという。それを実証してみることが大切であると思う。これは小保方さん本人がノウハウを証明してみることだと思う。これが真実だとすると、ノーベル賞ものの快挙であるだけに、早く証明してほしいものである。もし事実でないとすると、早く告白してもらいたいものである。
2014.04.11
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つぎに変化流転の中には2つの法則がある。これも押さえておきたい法則である。一つは変化流転は「リズム」の中で行われているということである。もう一つには「恒常性」を求めているということである。リズムについての説明から始めよう。リズムについては音楽の二拍子、三拍子、四拍子のことを思い浮かばれる人が多いと思う。音楽では強弱である。またはそのバリエーションのことを言う。そしてそのリズムは繰り返えされている。さらにリズムは繰り返しながら、元へと戻っているということだ。心臓の動きなどはその通りである。あるいは血圧なども昼間は高く、夜は低いこともそうだ。体温も日中は高く、夜は低い。交感神経は昼間優位で、夜は副交感神経が優位になる。ホルモンも昼間はアドレナリン優位だが、夜になるとセロトニン優位となる。森田先生は全集第5巻の131ページで、守田宝丹の「身家盛衰循環之図」を説明されている。つまり家系にも自然の波の中に身を任せていると、浮き沈みが繰りかえされているといわれているのだ。人生はよく波に例えられる。波はうねりである。船が波の上に打ち上げられると、次には必ず波の下に打ち付けられる。荒れた海では、大きなしぶきが甲板をさらう。難破するのかと思うと、次には波の上に出てくる。そういうリズムを繰り返しながら少しずつ前進しているのである。このリズムがないとどうなるか。実に味気ないものになる。蒸し暑いときの自然の風は気持ちがよいが、クーラーや扇風機の人工の風は嫌がる人が多い。これはリズムがなく、変化がない強制的な風だからだ。変化があるということは、人間にそれに対応する精神の活動を促すのである。リズムというのは自然のゆらぎととらえてもよいものである。ゆらぎは人間の心に安心感をもたらしているといわれる。つぎに恒常性について考えてみよう。人間の体にはある一定の範囲内で、微妙に変化し続けている。しかし変化が大きくなると、常にもとへと戻ってバランスをとろうとする。正常であり続けようとする力が働いてくることを言う。行き過ぎると揺り戻しが起きるというのが自然の法則である。森田理論学習でいう精神拮抗作用のことである。これはみなさんよく学習されてご存じのことだろう。変化流転という自然現象はバランス、調和を求めた動きのことである。地震は嫌なものだが、人間を陥れてやろうという気持ちはない。自然のバランスを取り戻す法則の通り動いているだけのものである。これらの法則を踏まえると、原則として変化を止めるということは無謀なことである。それよりも、変化に素早く対応できる生活態度を養成することが肝心である。
2014.04.11
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祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり(祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある)これは平家物語の冒頭の部分である。今日はこの「諸行無常」について考えてみたい。字面からすると、世の中のすべてのことは固定しているものは何もないということだ。宇宙の営み、自然、世の中の動き、我々の身体、自然に湧きあがってくる感情などは、常に動き回っている。変化流転しているというのだ。さらに大事なことは、変化流転している中にこそ、安定があるということも暗に示している。それはたとえば独楽を見ればすぐに分かる。遠心力と引力という動きの中で微妙なバランスをとっている。自転車もじっとしていては倒れてしまう。前進という動きの中で安定感が生まれている。太陽系、銀河の動きもそうである。諸行無常の流動変化の中にこそ安定感が存在している。これは心身の安定に関しても同じことだ。それなのに神経症の人はその流れを止めようとしているドン・キホーテのようなものだ。自分の悩みを固定化したがる。固定化しておいて、心身の安定を図ろうとするのである。自然の法則を無視した傲慢なやり方である。
2014.04.11
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山野井房一郎さんは神経症で苦しくて会社を辞めて田舎に帰ろうとされていた。その時、森田先生は、会社を辞めると神経症は治らないといわれた。辞めた時は少し楽になるが、その後生活費に困るようになり、また意識が内向きになり、精神交互作用で神経症はどんどん増悪してゆくのです。月給泥棒といわれても、「月給鳥」になって必死になって餌をとってくることが尊いのです。会社からは非難されるかもしれませんが、苦しいながらも頑張っている他の人は、その人の後姿を見て生きる力を得ているのです。人の役に立っているのです。これを簡単にやめてしまっては、「やっぱりだめか」と周りの人たちの生きる力を奪ってしまうのです。愛媛県で警察官だった仙波敏郎さんはまさにそれを実践された人でした。仙波さんが警察の中で四面楚歌の状態になったのは、上司から「ニセ領収書」にサインを頼まれたことでした。仙波さんはそれをきっぱりと拒みました。警察では自分たちの飲み食いなどのために、そうした裏金作りが横行していたのです。警察が取り締まるべき業務上横領、詐欺が日常茶飯事化していたのです。2005年1月20日、仙波さんは記者会見を開き内部告発しました。するとどんなことが起きたか。拳銃を取り上げられました。昇進はなくなりました。あちこちの交番にたらいまわしされるようになりました。みんなが口をきいてくれなくなりました。最後には県警本部内の通信指令室配属となりました。ここは110番の電話を受ける忙しい部署ですが、仙波さんには何の仕事もありません。牢屋に入れたようなものでした。そんな日が500日も続いたそうです。そんな中就職していた長男が、勤務先の上司とけんかをして刺し殺すという事件に巻き込まれました。警察官の子どもが殺人事件を犯すという前代未聞の出来事でした。一時は自分も死のうと思われていたそうです。また奥さんがなくなり、自分も脳梗塞で生死をさまよう大病をしました。それでも最終的には、42年間の警察官人生を勤め上げて定年退職されました。とても壮絶な人生です。でも安易に楽な道を選ばなかったというのに感動しました。神経症の人は退職して楽になりたいと思っておられる人がたくさんおられると思います。そんな時は仙波さんの生きざまを思い出してみてください。
2014.04.10
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松澤大樹さんという医師がいる。この方は放射線科医で、X線コンピュータ断層撮影、MRI撮影、ポジトロン断層撮影を専門としている。この方が「うつ病」「統合失調症」「認知症」は脳の同じ部署の損傷によって引き起こされているという。症状の違いはその損傷個所の違いであるという。その部署とは扁桃体、海馬、側坐核であるという。特に扁桃体の損傷はすべての精神疾患に絡んでいるようです。これらはほぼ同じ場所にあります。扁桃体は不安や恐怖などを感じる部署です。ここは性質や働きによって3つに分類されます。「皮質内側核群」「中心核」「基底外側核群」の3つである。うつ病の人は「基底外側核群」に損傷があるという。統合失調症の人は「皮質内側核群」に損傷があるそうだ。また同時に両方が損傷を受けている例もたくさんあるそうです。それを「混合型精神病」といわれています。海馬は記憶中枢といわれています。記憶の一時保管と記憶の管理をしている場所です。その後記憶は大脳新皮質に保管されています。認知症は海馬に損傷があるといわれています。アルツハイマー病は海馬と扁桃体の損傷があるそうです。側坐核は意志や行動をつかさどる細胞群があります。扁桃体の破壊が進むと、側坐核に影響を及ぼし、奇抜な行動が出てきます。徘徊行動などです。またやる気を失い、楽しくない気分を招き、ひきこもり、不登校などにつながるそうです。松澤氏によると精神病は、ドーパミン系とセロトニン系のバランスの崩れからくるといわれています。ドーパミンには脳を活性化し、気持ちを高揚させる働きがあります。セロトニンには気持ちを穏やかにする作用があり、セロトニンは夜には睡眠促進物質のメラトニンに変わります。両方のバランスが取れていれば「心は正常」といわれています。特にうつ病、認知症、統合失調症ではセロトニンが基準値を大きく下回り、ドーパミンは逆に基準値を大きく上回りバランスが崩れています。バランスが崩れるとドーパミンが毒素を出して扁桃体が損傷されるようです。バランスをとるためにはセロトニンを増やすことです。セロトニンの前駆物質はトリプトファンです。トリプトファンを多く含むバナナ、大豆、赤身の魚などを勧められています。そのほか太陽によくあたること、毎日の運動は欠かせないようです。「心の病は脳の傷」西村書店参照しております。
2014.04.09
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2014年4月号「生活の発見誌」の体験談より転載です。治るということは、要するに世間一般の人がしている、普通の生活をすることである。毎日の平凡な生活をつまらないものと考え、こんなことに自分の人生を費やすのは間違っているとか、自分はもっとレベルの高い仕事をなすべきであるなどとは考えず、ひたすら日常生活を一つ一つていねいに、工夫しながらこなしていくのです。たとえ、人から称賛されるような仕事であっても、実は平凡な日常生活の努力の積み重ねであることが少なくありません。そういう心構えでいますと、毎日が忙しくなってきます。注意が活発になって、あれにもこれにも気がつくようになります。やらなければならないことがたくさん出てきます。時間を有効に使うため、計画性が生まれ、ぼやっとしている暇がなくなります。そして気が付くと、いつの間にか劣等感や視線恐怖などに悩んでいたことを忘れている自分を発見することになります。これが治るということではないでしょうか。私も同感です。この文章を読んでいると実にすがすがしくなります。治るということはこれが土台となります。これを別の言葉でいうと「凡事徹底」ということです。私の座右の銘です。この土台部分は、プロ野球の打者の打率と同じようなものです。油断するとすぐに打率は下降してきます。その時に慌てて立て直そうとしてもうまくゆきません。我々は弱い地盤の上に家を建てているようなものですから、いつも土台部分に問題がないか注意を払う必要があります。土台を安定させることに取り組むことは極めて大切なことです。土台が安定すれば本格的に森田理論学習を始めても大丈夫です。認識の誤り、「かくあるべし」思考の間違い、他人本位の生き方の間違いなどを学習して、修正してゆくのが次の段階となります。最終的には自然に服従して、生の欲望の発揮、自己実現の欲求に邁進できるようになることを目指してゆくことが、森田理論学習の本道だと思っております。
2014.04.09
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人間は生まれた時はみんな自己肯定感を持っています。それなのに歳を重ねるにしたがって、だんだんと自分に自信が持てなくなり、自分を前面に出して好きなように生きることができなくなります。これはなぜなんでしょうか。最初は、幼稚園などの集団生活の中で、「ありのままの自分が受け入れられなかった」という体験をすることです。さらに親や先生たちから、これはダメ、あれはダメと社会のルールを徹底的に仕込まれてきます。すると子供たちは次第に自分のやりたいことを、ストレートに出してはいけないのだと悟ってきます。自己肯定感が少しずつ歪んでいくのです。この時小さな子度たちは小さな傷を負うことになります。そしてその傷がいえないうちに、また次の「否定された」という体験を重ねて、どんどん自己肯定感が低くなってしまうのです。人間社会の中で安全に暮らしてゆくためには、最低限の社会のルールに従うことは必要不可欠だと思います。しかし、自分の感情、気持ち、思い、欲求、意志、希望、夢を封印してまで社会のルールに従う人間をつくりあげてしまうというのはどうでしょう。最初に生まれた時は自己肯定感が100%でした。それを社会に適応させるために削られてきました。それが50%ぐらいで止まり、自己肯定感との調和がとれた人間に育つという感覚が大切なのではないでしょうか。そのために優先することは、いつも自分の感情、気持ち、思い、欲求、意志、希望、夢を大切に育むことだと思います。親は子育てするにあたって、それらを優先していくことです。社会のルールは必要最低限に抑えていくという視点を持つ必要があります。これらは学習し意識しないと流されてしまいます。そうしないと他人の目にいつも怯えてしまう、神経症に陥る人間を作ってしまいます。不幸にしてそうなった人はどうすればよいのでしょうか。自己肯定感をはぐくんでいくことだと思います。自己嫌悪、自己否定感が100%の人はまず10パーセントを目標に自己肯定感を取り戻しましょう。私は森田理論学習の「神経質の性格特徴」の学習が役立ちました。性格には両面性があるという学習です。何事にも過剰に反応して心配してしまうという反面は、鋭い感受性を持っているのだということには驚きました。芸術の分野で活躍できるのも、人の気持ちを細かく思いやることができるのも神経質性格を持っている人だからこそできることだ、という視点に励まされました。そして次にはトライアスロンに挑戦しました。それから宅建、社会保険労務士、行政書士、ファイナンシャルプランナーなどの国家資格取得に挑戦しました。私には瞬発力はありませんが粘り強く、コツコツと努力を重ねるということは得意です。さらに森田先生に学んで一人一芸を4つほど持てるようになりました。これらの挑戦は、やればできるという自信が湧いてきて、自己肯定感の養成に役立ってきたように思います。皆さんも神経質性格を活かすということで、自己肯定感を少しずつ取り戻してみませんか。
2014.04.08
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17、 迷ったときは、まずイエスと答えよ。それを逃すとチャンスはすぐに逃げていく。パソナの南部靖之氏の座右の銘は「迷ったらやる」「迷うということはどこかにやりたいという気持ちがあるからだ。それならば短い人生、やらないで後悔するより、やって後悔したい。だから判断に迷ったときは、やると決めているのです」マイクロソフトの発想は、「不完全なまま出荷してユーザーが使用して発生した不具合に逐次対応しながら最適なシステムを作り上げる」というものです。うまくいかないことは素早く対処すればよいという発想でとりあえず見切り発車していくのです。こう考えれば、ユーザーからはクレームが来ることもあるでしょうが、行動はしやすくなります。最終的には大きな目標の達成に結びついているのです。18、 マイナス思考の人は考えてばかりで行動できていません。将棋の羽生善治氏は「勝負哲学」という本の中で、「スランプの時は何でもいい、小さなことでいいから、何かを変えてみるといいと思います。早起きするとか、服装を変えるとか、新しい趣味を変えるとか。生活の中に、そんな小さな変化やメリハリをつけることで心の停滞が防げることが分かりました。」といわれています。19、 過去の出来事に罪悪感を抱いて後悔したり、将来の不安を心配するよりも、今現在に集中する。最初はイヤイヤ始めたとしても、次第に気持ちが入ってきて、物そのものになりきった経験は誰にでもあります。そうなれば気づきや工夫が次から次へと湧いてきて、弾みがつき、積極的になり、楽しめている自分を発見できるでしょう。20、 不満足で理不尽であっても、与えられた境遇、環境の中でまずは精一杯生きてみる。五体不満足の乙武さんの生き方がそうです。また徳川家康は豊臣秀吉からそれまで統治していた駿河、遠江、甲斐、信濃を取り上げられ、当時湿地帯で洪水が多発していた関東八州に鞍替えさせられてしまいました。家康はこの理不尽とも思える処遇をそのまま受け入れました。家康はこの土地を黙々と改良してゆきます。湿地には川や運河を掘って水が流れやすいようにして、遠浅の海を利用して海を埋め立てました。そして見事な田園や町に変えてゆきました。それが今の日本の中心都市東京につながっています。もし家康が処遇の受け入れに反発していたら、日本の首都は京都か大阪になっていたかもしれません。
2014.04.07
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11、 尊敬する人になりきって考える。今までの森田理論学習を駆使して考えてみるのです。たとえば雑談の場に加われない自分がいるとする。こんな時森田先生ならどう考えるのだろう。水谷先生や長谷川先生はどうアドバイスされるのだろうと考えてみる。12、 マイナス思考に陥った時は、自分より大変な状況にいる人たちのことを考える。森田先生のお母さんは、森田先生が少年の頃、わがままを言うと、もっと下の人を考えるように常日頃言われていたそうです。世界には約60億人の人がいますが、日本人のように食べるものに困らない、住むところ、着るものに不足がない人たちは10億人程度しかいないそうです。後の50億人の人たちはその日食べてゆくのがやっとという状況にあります。そういった人たちの状況を知ったり、考えてみるということです。13、 マイナス思考の人は、つらい状況が永遠に続いてしまうときめつけています。永遠に続くと考えると、そのつらさ、苦しみは2倍、3倍と膨れ上がります。嵐のやまない台風は来ない、朝のこない夜はない。マイナス思考に陥った時は一分後、一時間後、一か月後、一年後にも思いをはせてみる。どんなに腹立たしいこと、悲しみも時間が解決のお手伝いをしてくれているということを忘れてはいけません。これは森田理論学習の感情の法則1に関係があります。14、 マイナス思考に陥った時は、最悪の状態を想定してみる。そしてその最悪を受け入れる覚悟を決める。さらに覚悟を決めたらその最悪を打開するためのプランを練っておく。15、 結果に固執するよりも、プロセスを重視する。たとえ失敗しても次につながる何かをつかむことが大切である。失敗に学んで次に活かそうという発想が大切です。失敗よ、どんと来いという気持ちになればしめたものです。迷いながら、試行錯誤して、二歩前進一歩後退で目標に到達することが、一番の近道だという前提に立って行動しよう。ミスや失敗がなく物事が順調に進むことは、一見して良いことに見えるが、将来大きな落とし穴が待っていると考えよう。16、 コントロールできることとコントロールできないことをはっきり区別しよう。不安に学んで手を打っておけば将来につながること、人のためになることには積極的に手を出そう。それ以外のことは基本的にコントロールできないことです。コントロールしてはいけないものです。事実を受け入れて、事実に服従するという態度で臨もう。不安や恐怖を抱えたまま生きることができるというのは、一つの能力です。森田理論はその能力獲得のための理論です。
2014.04.07
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5、 他人に感謝する。また命があることに感謝する。これには「内観療法」が効果があります。一人で内観ができるようになるとよい。「人からしてもらったこと」「人にしてあげたこと」「人に迷惑をかけたこと」を身近な人から検討してゆくことです。またこんな詩があります。今日という日。あなたがくだらないと思っている今日は、昨日亡くなった人がなんとかして生きたかった、なんとしても生きたかった今日なんです。今日はそんな日なんです。今日命があることを感謝できる。そんな人になりたいと思います。6、 私に沸き起こってきた感情、私の思いや気持ちをそのまま相手に伝えてみる。解釈したり、「かくあるべし」が入り込む前の感情です。森田理論学習では「純な心」から発言するということです。親業では「私メッセージ」発言です。言えない時は、文章にしてみる。とにかく我慢したり、耐えたりしてため込まないようにすることが大切です。7、 マイナス思考を具体的な現実問題として考えてみる。出来るだけ詳しく書いてみる。一般化したり、抽象的に考えているとどんどん問題がこじれてくる。大体不安や恐怖はその実態が見えていない時に疑心暗鬼で大きくなるものです。事実やそう考える根拠が分かれば、マイナス思考から抜けやすい。8、 マイナス思考をそうなる確率を数値化してみる。たとえば飛行機が落ちることが怖くて飛行機に乗ることができない人がいます。でも米運輸安全委員会の調査では100万回に9回の割合でしか事故は起きていないのです。日常感覚でいうと、毎日飛行機に乗るとして304年に1度事故に遭うという確率になるそうです。9、 自分には無理だ。出来ない。難しすぎる。と考える前に、とりかかるための足掛かりを探そう。目標を達成するためにはどうしたらよいのだろうという発想から出発しよう。出来ないのは自分の力、能力不足。時間的な問題。時期的な問題。距離的な問題。資金、道具、機械などが不足している。などいろんな理由があります。それぞれの原因を具体的に見極めて準備を整えてゆくようにしましょう。10、 マイナス思考でパニックに陥った時は、客観的にみるようにしましょう。第三者に客観的な考え方を聞いて助言してもらうことも有効です。イチローはヒットが打てない時、客観的になることで冷静な自分を作るといいます。アナウンサーのように自分のことを実況中継してみるのです。自ら第三者になって、冷静に判断しているのです。
2014.04.07
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マイナス思考、ネガティブ思考は一方的で、バランスを逸している。バランスをとるためにはプラス思考、ポジティブ思考も取り入れないといけない。神経質者の場合はプラス思考に注力することでやっとバランス感覚を取り戻すことができる。その方法を「マイナス思考からすぐに抜け出す9つの習慣」古川武士著を参考にして紹介してみたい。最初から全部取り組む必要はない、これはと思うことを一つでも二つでも自分の生活に取り入れてみてください。1、 人と比べて自己嫌悪、自己否定に陥りやすい人は「世界に一つだけの花」の歌詞を紙に書いて部屋に貼っておく。そうさ、僕らは世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ。その花を咲かせることだけに一生懸命になればよい。小さい花や大きな花、一つとして同じものはないから、ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。自分の長所、存在価値を見つけ出すと生きる勇気が湧いてきます。2、 「かくあるべし」は自分や他人をきびしく価値判断して、責め続ける。「かくあるべし」を「かくある」という事実を認めて、事実を受け入れ、事実に服従してゆけるように修正していく。とりあえずは「かくあるべし」を少し緩めてゆく。「○○であるべきだ」を「○○であったほうがよい」「○○になるために努力してゆこう」などに変えてゆく。3、 マイナス思考の強い人は完全主義、完璧主義の人である。それは観念の世界でのみあり得ることで、現実的ではありません。完全主義の強い人は「成功か失敗か」「よいか悪いか」「上手か下手か」「0点か100点か」と白と黒で判断したがります。白黒思考が問題なのは、すべてのことに100点を求めるため、無駄な努力を続けてエネルギーを使い果たしてしまうこと。1つでもうまくいかないことがあると0点と判断して自己嫌悪に陥ることです。さらに問題なのは「失敗」と判断してしまうと、その中にあった良い点が見えなくなることです。白黒思考からグレー思考、ファジー思考に緩めることが必要です。また不完全な自分、物足りない他人を許す必要があります。4、 「他人中心の生き方」を「自分中心の生き方」に変える。他人の思惑を気にすることよりもまず、自分の気持ち、思い、欲求、やりたいこと、夢や希望をはっきりさせる。一日レベル、一か月レベル、年間レベル、人生レベルで目標をしっかりさせる。紙に書いてまとめる。日記に書いたり壁に貼っておく。
2014.04.07
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今日は素晴らしい映画の話をしてみたい。「ショーシャンクの空に」というアメリカ映画です。ツタヤで貸し出ししています。簡単なあらすじはこうです。銀行員のアンディという主人公は妻を殺したという冤罪で投獄されます。実際には無実だったのです。投獄された刑務所で刑務官や囚人たちから次から次へと理不尽な仕打ちを受け続けます。その間、冤罪を晴らすチャンスがありましたが刑務所の所長の手で摘み取られてしまいました。これは相当のショックです。しかしアンディは希望を失うことはありませんでした。無実の罪が晴れないので仕方なく脱獄を企てたのです。19年もの間少しずつ、監視に気づかれないようにしてトンネルを掘り続けていたのです。そして外に通じる穴を掘ったのです。そして19年たってやっと脱獄し、所長の悪事を世間に公開し、自分はアメリカを離れてメキシコに逃げるというものでした。どんなに苦しい状況の中でも、決して希望を失ってはいけないということを教えてくれる映画でした。この映画の中で仮釈放された人がいましたが、刑務所から出た後の希望を持てない人は、せっかく仮釈放されても自殺してしまったのです。希望が諦めに変わってしまうと、刑務所の中で最低限の食料で糊口をしのぐことに甘んじてしまうのです。希望や夢をあきらめて、その日の刹那的な楽しみを追い求めている人の末路を見た思いがしました。これは人間本来の生き方ではありません。植物人間かペットに近い生き方だなと思いました。この映画を観終わった時とっさに思い浮かんだことは、フランクルの「夜と霧」という本のことでした。ナチスの強制収容所のアウシュビッツの出来事を描いたものです。ここのガス室で250万人ものユダヤ人が殺されたそうです。フランクルは自分の将来の仕事のことを思い、愛する妻のことを支えにして生き抜いたということです。また、他の収容された人たちにも首を長くして待っている家族のことを支えにして生き抜こうと励ましていたようです。これはシベリアに抑留されていた、元メンタルヘルス岡本記念財団会長の岡本常男さんも同じようなことを語っておられました。将来への希望や夢を持つということが、命をつなぐという面でとても重要であるということです。私たちは将来の夢や希望、自分のやりたいことをしっかりと持つということの大切さを心しておきたいと思います。
2014.04.06
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近鉄沿線に住むおばちゃん2人が、夏の暑い日、通天閣で有名な新世界に生活必需品のジャージィを買いに行くことになりました。最寄りの駅まではそろってママチャリ。二人ともハンドルに傘立てを取り付け日傘をさしています。駅につきまして飴を法張りながら整列して近鉄電車を待っていました。ところが電車が入ってくるなり、列を抜け出し一番前に割り込みます。ドアが開き、まだ下りる人がいるのに乗り込んでゆきます。そして一人が自分の席を確保し、隣の空席に自分の荷物をドンと置いて、「花ちゃん、ここ空いてるで」と大きな声で友達を呼ぶんであります。こうなるともはやだれもそこには座れません。ちなみに大阪の川柳に、「5センチの幅でもおばちゃんすわりよる」というのがあります。同じ料金を払って電車に乗っているのに座らないと損やないのという考えなのです。もしこれが一人座れなかったらどうするか。一芝居打つのであります。あうんの呼吸で座ったおばちゃんが、座れなかったおばちゃんの荷物を引っ張って持とうとするのです。「花ちゃん、荷物持ってあげるわ」「軽いからよろしいわ」「重いやろ、持ってあげるがな、遠慮しいな。」「よろしいて、ほんま」「そんなこといわんと、貸しなはれ。」車内で荷物を取り合ってのドタバタ劇が展開されるのです。たまらないのは隣に座っていたおじさん。イライラしてついに「おばちゃん、ここすわりーな。」と席を立ちます。すると、「そんなこと、よろしいのに。」と言いながら、もう腰をかけているのです。天王寺につきエスカレーターに乗りますと、見るからに田舎から出てきたような兄さんが立っています。するとおばちゃんいわく、「ちょっと、兄ちゃんどこ立ってますンや。大阪では、エスカレーターで立つのは右やで。急いでるんやからどいてんか。」とにかく大阪のおばちゃんは、前に人がいると追い越さないと気が済まないのであります。そうこうしている間に、新世界に到着です。さあこれから値切り倒しの芝居の始まり始まり。若い店員さんに向かって「兄ちゃんどこから来てはるの」「え、九州」「九州男児はハンサムやなあ。よーもてはるやろ。」連れのおばちゃんもすかさず、「そらそうや、女の子がほっとかへんで」それを受けて、「テレビに出てもええんとちゃう。」おばちゃん一人でも強力だが、二人がタッグを組むと向かうところ敵なし。極めつけが、「兄ちゃん男前やから、わて好きやで」その後店内を物色し2300円の紺のジャージィに目をつけました。「兄ちゃん、これ1000円にしとき」値札無視、かってに売値を決めているのです。それも半値以下。「今日は財布に1000円しかあらへんのよ。まけといて」店員が渋ると、「じゃ、2枚買うから一枚1000円にならへん」店員がうんと言わないと見るや、「そんな堅いこと言うたら、大阪では商売でけへんで。今度友達仰山連れてくるよって。今日はわてらに花もたして。だから今日は1000円にしとこう。な。」「な」を強調して念を押すのです。さらに店員が渋ると、「じゃ、わても清水の舞台から飛び降りたつもりで200万円色つけたろ。1200円でいいやろ。お互い痛み分けやからよろしいやろ。な。」目的を達成し、どさくさにまぎれて、さらに靴下を1足サービスさせ、「ありがとう。また近いうちにくるよって。」といって意気揚々と引き上げてゆくのであります。帰ってくるとすぐに近所のおばちゃんを集め、自慢するのです。「これなんぼすると思う。品はええもんやで。」この誇張したユーモア小話は「どや 大阪のおばちゃん学」草思社 前垣和義著を参照しております。腹を抱えて笑える本です。大阪のお母さんは実に交渉力が旺盛です。
2014.04.05
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私は単身赴任をしていて大阪という街が好きになった。最初、大阪はごみごみした街で、人がずけずけと干渉してくるイヤな街というイメージあったが、実際に住んでみると実態はまるで違っていた。私は転勤族で日本全国いたるところに行ったり、住んだりもしたが大阪が一番だと今でも思っている。第一にフレンドリーな人が多い。第二に吹奏楽などの音楽が盛んである。第三に劇場、コンサートホールなどの文化施設が多い。第四に巨大な公園が多い。私の好きなものばかりである。今日は公園について書いてみたい。北から千里万博公園、服部緑地公園、鶴見緑地公園、大阪城公園、長居運動公園、浜寺公園、大泉緑地公園などである。私はすべての公園に何度も出かけて散策を楽しんだ。大きな池を持った巨大な公園がいたるところにあるのに正直驚いたものである。千里万博公園は、万国博覧会跡地である。太陽の塔が出迎えてくれる。日本民俗資料館などがある。私のお気に入りは日本庭園である。服部緑地公園には、日本の古民家がいたるところに建てられている。鶴見緑地公園は見晴らしの良い展望台があった。日曜日になるといたるところでギターなどを奏でながら、歌声サークルが開かれている。大阪城公園はみなさんよくご存じだろう。1万人の第九で有名な大阪城ホールもある。長居運動公園はサッカースタジアムがある。浜寺公園はバラと松林の公園である。このような憩いの場がいたるところにある都市を他には知らない。
2014.04.05
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続けて蟹江敬三氏曰く。「それから、あまり怖そうに演じない方がいいと思います。『俺は怖いんだぞ』ではなくて『私は普通ですよ』という人の方が怖いっていう気がします。実際に人を殺した人って、一見すると普通の人に見えることが多い。ところが、どこか目がイッている。そういうところに恐怖を感じるんだと思うんです。」これも森田理論に通じるところがある。見るからに恐ろしい人はある意味安心できる。逃げる、近づかないなどの対策が取れるからである。ところが普通の人で突発的に危害を加えるような人は、危険回避が遅れる。その人の持つ凶暴性がちょっと見ただけでは分からないと、何をしでかすのかという疑心暗鬼の塊になり、不安や恐怖が増すのである。私は以前夜明け方尿道結石の痛みで七転八倒したことがある。あまりの痛みのためこのまま死んでしまうのかと思った。救急搬送された病院で痛みの原因が分かった途端、痛みは続いたがすっかり落ち着きを取り戻していた。命に係わる病気ではないと分かったからである。これは森田先生のいう夜道を歩いているとき枯れすすきの音に、幽霊や暴漢の出現を連想して慌てふためくのとよく似ている。つまり神経質者の不安、恐怖というのは、事実を見ていない。事実が分からなくて勝手に想像しているときに、発生して増悪してくるということです。森田理論では、そんな時はまず事実をよく観察しなさいといいます。抽象化、一般化しないで具体的に赤裸々によく見ることです。正確に把握することです。すると不安は急に小さくなったり、なくなったりします。また対策のほうに目を向けることができるようになります。次によく観察したことをありありと再現することが大切です。たとえば、大人でしたら、新聞紙に水が滲みたとき、特別詳しく表現しません。ところが5歳ぐらいの子供はこんなふうに表現します。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた。」できれば、この子のように観察したことを事実に即してありありと表現してほしいのです。9割方の、事実を受け入れ、事実に従うということは、自然な生き方の出発点となります。
2014.04.05
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蟹江敬三さんという役者がなくなった。蟹江さんの紹介記事が面白い。1970年代、蟹江さんは数多くの刑事ドラマや時代劇で悪役を演じてきた。しかも、そのほとんどは『Gメン75』に何度も登場した殺人鬼・望月源治のような、容赦ない凶悪犯である。当時の彼の目からは狂気ともいえる冷たさが宿っており、お茶の間の視聴者を震撼させていた。 蟹江さん曰く。「役者にとって、悪は魅力的ですよ。普段の自分にはできない非日常なことをしているわけですから。もしかしたら、悪っていうのは自分にありえたかもしれない人生だと考えると、役に入りやすい。どんな人でも、そういう悪の芽をいっぱい持っているんじゃないでしょうか。」どんな人でも悪の芽をいっぱい持っているというのに同感だ。殺人事件を起こした人は、その人格、人間性は許せないという人がいる。でもそういうのなら、別の人格、人間性も持ち合わせているということを見逃してはならない。両面観で見る必要がある。一面で人を人とも思わない凶悪事件を起こしてもそれはその人の一部分であり、それが突出して表面化してきたということである。それは毒蛇が道端をはい回っているようなもので、危険極まりない。だから隔離する必要はある。釈放してはならない。再犯率が高いからである。でもその人は別の人格、人間性を持っていると考えると、簡単に罪を償わせるために死刑にまでする必要があるのかどうか。以前生活の発見会の理事長をされていた斎藤光人さんは、「どんな人にでも、人格者だといわれる人でも、内面には猥雑なもの、醜いもの、汚いもの、好色なもの、意外と稚拙なもの、狡猾なものなどを持っている」といわれていた。人間は誰でもその両面を持っているのだ。そういう存在だということである。明と暗が同居していて、その割合はバランスが取れていると考えるほうがよい。だからそういう暗い部分が表面化したときはその人のマイナス面が露呈したときである。でもそれでその人の人格、人間性を決めつけるということは、双方にとって禍根を招いてしまう。何も近づくことはないが、そうした見方をするということは大切であると思う。
2014.04.05
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2014年4月号の生活の発見誌60ページに「整理整頓」の記事が載っている。整理とは要不要の選別をして、不要なものは廃棄していくことだといわれている。1年以上も使わないものは、全部捨てているという。とにかく貯めない。この考え方に感動した。私はとっておくと後で役に立つかもしれないと思ってとっておくことが多い。でもそうして後で役にたつことは、100に1つか2つぐらいしかない。つまり不要不急なもので家の中があふれかえっているのである。体でいえば食べ過ぎ、飲み過ぎのために不要老廃物で血管がつまりや内臓の周りに脂肪をため込んでいるようなものである。食べ過ぎても、不要なものは体の外へ吐き出せばよいのだが、どうしてもため込んでしまうようである。意識していないとその流れにのみ込まれてしまう。そして重篤な病気に陥ってしまう。何か新しいものを買うと、それに見合う古いものを処分するという考えがないとため込んでしまう。最近はリサイクルショップに行くと、古本や古着、リサイクル品がたくさんある。またバザーやフリーマーケットなどもある。そういうところへ持ち込んで、とにかく身軽にすることが必要なのかもしれない。そして自分のよく使うものを大切に手入れして、できるだけ長く使うというような生活に変えていくことが大切だと思う。シンプルイズベストということばがある。本当に必要なものだけに囲まれて暮らしたい。不要不急なものは、それを役立ててくれる人に役に立ててもらいたいと思う。わたしは森田関連の本をたくさん持っている。集談会で貸し出しをしたことがある。希望者がいなくて途中でとん挫した。でも今でもそうした活動は続けてゆきたいのである。そしてゆくゆくは新しいものが欲しくなったら、それに代わるものは持っていないのかどうか。それを改良して使うことはできないのか。買うというのは最後の最後にまで引き延ばす。どうしても欲しいときは、それに見合うものを処分する勇気があるのか。これを実践できるようになりたい。これは森田理論の物の性を尽くすということにつながる。
2014.04.05
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森田理論学習を効果的に行う方法がある。学習したことを自らまとめてみるということである。これは集談会などで体験発表としてみんなに聞いてもらう。生活の発見誌に体験発表として掲載してもらう。その前提でまとめるとよい。また1年に一回ぐらいはまとめなおすと自分の成長が分かるようになります。まとめるにあたっては、大まかに次のような項目でまとめるとよいと思います。1、あなたはどんなことに「とらわれ」ましたか。 その「とらわれ」が、精神交互作用によって、症状として固着してきた経過を振り返ってみましょう。 そして、精神交互作用を断ち切るために、どんなことをしたらよかったと思いますか。2、あなたの本来の「生の欲望」はどんなものですか。 「生の欲望」を達成するために、あなたはどんな努力をすればよかったかと思われますか。3、あなたの「かくあるべし」(○○しなければいけない。○○してはいけない)は、どんなものがありましたか。その他認識の誤りはどんなものがありましたか。4、「かくあるべし」で対応しても、「現実、現状、事実」は必ずしも理想通りにはなりません。これを森田では思想の矛盾と言います。 「現実、現状、事実」を軽視すると、神経症の苦しみや苦悩が生まれます。 あなたはどんな苦悩と格闘してきましたか。5、「思想の矛盾」を解消するために、どうすればよいと思われますか。書くという行為、声を出して語るという行為は大きな効果があります。今まで苦しみを抱えていたのが、外へ出すということで楽になる。書くことで自分の症状を客観的に見れるようになる。などです。私は最初の頃は書くということを全くしていなかった。単行本、森田正馬全集4巻、5巻、7巻、生活の発見誌も棒読みであった。その後はほったらかしであった。その後、発見誌の記事で参考になったところを、項目別に分けて、掲載日付と要旨を簡単に3行ぐらいにまとめることにした。1冊の発見誌で1つか2つぐらいを目標としていた。単行本も項目別に気に入ったところを抜き書きしていった。すると集談会で今月の記事で印象に残ったことというコーナーの時すぐに出てくるようになった。また理論学習の担当になった時に、このまとめが大変役に立ちました。現在は毎日このブログで毎日森田関連の原稿を書いている。すると今まで気づかなかったことが次から次へと出てくる。人のためではない。自分のためになっているのである。弾みがついて、どんどん森田理論が深まっていく。これを5年間で2500の投稿を目指している。達成した暁にはとても大きな森田理論を手にしているのではないかと思っている。
2014.04.04
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森田理論でいう認識の誤り、認知行動療法でいう認知のゆがみの自覚は森田理論学習ではとても重要です。そもそも症状に陥った原因は、不安や恐怖に対する認識の誤りがありました。不安、恐怖は生の欲望の発揮が起きるときは、多かれ少なかれ必ず付きまとうものです。それは生の欲望が暴走しないように制御をかけているのです。そういう仕組みが分からずに、不安、恐怖を取り去ろうとして、できもしないことに無毛な挑戦を続けているのが症状の実態でした。不安と欲望に対する認識の誤りは、最初に学習してほしいところです。つぎに森田理論学習では、完全主義、「かくあるべし」という認識の誤りを学習します。私はこの部分はもう少し整理して学習するべきだと思っています。つまり認識の誤りはそれだけではないということです。これは認知行動療法の学習をしているときに気が付きました。認知行動療法では、認知の誤りについて、全か無かの思考方法、一般化のしすぎ、心のフィルター、よい出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、○○すべきという思考、レッテル貼、自分のせいにするということを挙げています。これらの説明は、1月13日、1月31日でもしていますのでご覧ください。これらを取りまとめてみると、4つの認識の誤りに集約できます。1、 考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。2、 マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。3、 事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。4、 完全主義、「かくあるべし」思考に陥っている。こうした思考パターンの人は苦悩を抱え、常に葛藤を繰り返している人です。ですから不安や恐怖が発生したとき、以上4つの視点から検討することが必要です。他人に怒りを感じて、その怒りをぶちまける前にこのフィルターにかけて認識の誤りを起こしていないか、考えてみることです。自分で考えられない時は、集談会の場などでその事象を詳しく話して、他の人の意見を聞いてみることです。1、 そう考える根拠はどこにあるのか。逆の事実はないのか。そのことを考えることによって、少しずつ思い込みから解放されて考えが現実的なものになる。2、 結果について考える。だからどうなるというのだ。それが本当だとして、どんなひどいことが起きるのだろう。最悪を予想して、覚悟を決める。3、 代わりの考えを探す。現実的で柔軟な考え方を見つける。まずは自覚すること、そして認識の誤りを徐々に訂正していくことを森田理論学習で学んでゆきましょう。
2014.04.04
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イチローに面白いエピソードが残っている。プロ入りしてすぐに結果が出せたわけではない。バッティングフォームが悪いということで、2軍で矯正させられている。コーチはこういった。「これが最後のチャンスだ。俺の言うことを聞くのであれば教えてやる。聞かないのであれば、後は勝手にやれ」これは最後通告のようなものです。こんなコーチについていくと最悪の結果を招く。しかし、これを受けてイチローは涙を浮かべてこういった。「自分のやり方でやりたい」普通の人は言えない言葉である。イチローは、「自分の好きなスタイルを失いたくない。コーチに合わせていたら、自分が結局どんな選手かわからなくなってつぶれていく。プロとしては最悪のパターンなんですよ」という。自分の道をはっきりと見つめている人は、他者とのかかわり方が違ってくる。いつも自分が中心になっているのである。自分中心の生き方は石原加受子さんが提唱されていることですが、森田理論学習を進めている我々こそが身につけないといけない考え方である。感情も自分のやりたいことも自分の無意識にほとばしる気持ちを最優先していく考え方である。
2014.04.03
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イチロー選手は小学校の時から野球選手になりたいと周囲の人に話していたという。小学校3年生からはお父さん相手に本格的な練習を開始している。そして愛工大名電ではピッチャーとして甲子園のマウンドに立っている。早くから自分の将来進むべき道を持っていたというのはうらやましい限りである。人間は自分の体力、能力、境遇などに応じて、それぞれの道を早期に確定していくのが、最重要課題の一つではなかろうか。早くからいろんなことにチャレンジして、将来につながる一つの道を見つけ出すことはとても大切だと今になって思う。一つの道を選ぶということは、他の可能性は捨てるということだと思う。未練はあっても捨ててしまうのだ。一本に絞った道を愚直に歩んでいく。それが生きがいのある人生へとつながっていく。私は大学に入っても将来の本当に取り組む道を見つけることはできなかった。気分で就職先を決めて失敗した苦い経験がある。以前紹介した京都の堀川高校が群を抜く進学率を誇っていたというのも、多くの生徒が高校時代に自分たちの将来進むべき道を見出せたというのがその原動力となっていた。そのために学校の授業にの中に、自分たちのやる気を喚起させる自由研究のようなものが組み込まれていた。モチュベーションが高まってきて、その目標をクリヤーするためには、どこの大学で何を学ぶかという選択をしているのである。一般的な大学の選び方とはちょっと違う。自分のこれをやりたいというものを見つけた人は、迷いがない。人に忠告されても、意見として聞くが、自分に合わないと思うと、また自分に立ち戻ることができる。
2014.04.03
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今月号の生活の発見誌には、自助グループ「生活の発見会」の学習の在り方についての意見が多かった。「巻頭言」、「発見会の若者会員が集談会に期待するもの」「発見会を活かすひとこと」などがそうである。それだけ混迷の時代のさなかにあるということだろう。でもこうして、意見を寄せて次の時代に森田理論学習のたいまつを引き継ごうとしている人たちがいることは確かである。その中で私が気の付いたことを記してみたい。Mさんという方が、「発見会の存在意義としての森田理論の学習という点は重要です」といわれている。最近は初心者への傾聴やおもてなしが中心になり、学習内容の取り組みが希薄になっているとも言われている。私もこの意見に同感です。傾聴や初心者対応はどうでもよいということではありません。もちろん大切なことです。でも根底には森田理論の学習グループであるという点を忘れてはならない。学習内容をどのように集談会の中に取り入れてゆくのがよいのか。この議論を今まさに全国展開すべき時期であると思っています。森田理論学習の要点の話も出ていましたが、これはレジメのようなものです。レジメをいくら学習しても森田理論の深耕はできません。いまどきこの要点を使って森田理論学習が深められていくということは考えられません。それは多くの集談会の学習がマンネリに陥っていることからも一目瞭然です。これは森田理論に詳しいベテランが体験談を織り込んで解説するときは役に立ちます。それ以外ではかえって学習のマンネリ化を招き、マイナスになることも考えておかないといけません。私はいつも言っているのですが、森田理論の全体像を含めた森田理論学習の副読本が必要だと思っています。2名、3名の参加者であってもそのテキストを読み合わせていくことで、立派に森田理論学習が深まっていくというような副読本です。森田理論を深めた10名ぐらいの人が、それぞれ森田理論を展開して、それらを集約してゆけば役に立つものが出来上がるのではないでしょうか。多くの集談会は、今まさにそれを待ち望んでいると思っているのです。
2014.04.02
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プロ野球が開幕した。多くの解説者が順位予想をしていた。セリーグは多くの解説者が巨人を一位にあげている。それ以外は順不同のようである。私は広島カープの熱烈なファンなので、苦々しく思っている。解説者に対してではない。巨人のやり方に対してである。金に糸目をつけずに有望選手の多くを集めてゆくからである。これは巨人だけではない。数年前、広島出身の有望選手を次々に引き抜いていった阪神にも憤りを感じていた。もっともこれは、年俸の高い阪神に自ら希望して移っていったのだが。アメリカ大リーグなどはこれに輪をかけて高額の契約金、年俸で引き抜いていく。一人の選手に何十億と出して大丈夫なのかと思ってしまう。これを認識の誤りで考えてみたい。広島は球団経営としては珍しく黒字であるそうだ。それは選手の年俸を抑えているからだ。ほとんどの選手は1億以下である。2億、3億の選手になると、放出して、年俸の安い若手の有望選手と入れ替えたほうがよいというような考えのような気がする。外国人選手も例外ではない。だから活躍しすぎるとすぐに退団になってしまう。これは一つの球団経営のやり方である。良い点もあるが、戦力的には他球団とは年俸総額で大きく見劣りがするし、本当に球団首脳部は勝つためのサポートをする気があるのかと疑ってしまう。それだけの熱意を持った人が経営にあたっているのか、疑問である。それに対して、巨人、阪神、大リーグの各球団の補強は見事である。金は二の次にして、弱点の補強をしてくる。それも二重、三重もガードをかけて補強をしている。そして毎年各球団の中で一番の成果を上げている。球団首脳陣がはっきりと優勝という目標に対して、真摯に向き合っているのが、誰の目にもよく分かる。どのように対策を立てたらよいのか、試行錯誤を長年積み重ねてきた。そういう歴史がある。それが今花開いているのだ。それが実力のあるスーパースター選手たちにとっては一番魅力ある球団として認知されているのだと思う。また毎年のように優勝争いに絡むからこそファンの層も厚い。好循環を生んでいるのである。だから巨人のやり方が汚いというのは、一方的であまりに偏った考え方である。巨人の球団経営や運営の姿勢をじっくりとみて判断しないと、はっきりと見たことにはならない。よい面悪い面の両方を観察して初めて見たということになる。神経質者は一方的なものの見方が得意である。勝手に自分が思い込んで苦しみや葛藤を引き起こしているのである。自分のものの考え方は偏っていないか、絶えず検討することが森田理論の考えである。
2014.04.02
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子育ては「こんなに楽しいものだったのか」「子育てがこんなに楽でいいんでしょうか」という人がいます。そういう子供は親に信頼されています。自分をかけがいのない人間だと認めています。そして安心して自分のやりたいことに精一杯挑戦してゆくようになります。それは後ろ盾として親がしっかりと見守ってくれているという安心感があるからです。最後に親の元から巣立って、一人で人生を切り開いていけるようになります。そういう子供になってほしいという願いはすべての親が持っていると思います。でも現実はうまくいっていないことが多いようです。子どもを自分の所有物として、意のままに操ろうとしているからです。うまくいっている親は、自分の期待を自分の子供に課すのではなく、子供の行動を好奇心をもって見ておられるようです。そして子供を積極的で前向き、好奇心いっぱい、自立させるという大きな目標を持っておられます。子どもの自立を促すことを目標にして子育てをしていると次のようになります。子供の自立を目標に子育てをしていると、目先の行動に振り回されることがありません。子供の自立を目標に子育てをしていると、誰が責任をとる問題なのかを考えるので、親は忙しい思いをしなくてすみます。子供の自立を目標に子育てをしていると、子供の失敗は、子供が成長するチャンスと考えるので、冷静に対応できます。子供の自立を目標に子育てをしていると、子供を勇気づけることが自立への近道だと分かるので、子供とけんかをすることが無意味であると分かり、トラブルを避けるようになります。子供の自立を目標に子育てをしていると、協力することの楽しさを子供に伝える工夫を考えるので、親自身が生き生きするようになります。「かくあるべし」という理想を前面に出して子育てをするのではなく、「どんな子供に育つのだろう」と親自身が子供に興味と関心を示して子供に接したとしたら、子育てはとても楽しく、ワクワクできるものとなり、それは子供にとって何物にも代えがたい贈り物となることでしょう。この投稿は「ぼくお母さんの子どもでよかった」PHP研究所を参照しています。
2014.04.02
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