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20歳の水谷啓二氏が森田先生のところに入院されていたころのことです。森田先生が、水谷氏に「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」と言われたそうです。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前で頭を下げた。森田先生は苦笑いして言われた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気持ちでぐるぐるまわりをしただろう」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、本当に柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行すると言っても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない」ここで森田先生は「柔順」と「盲従」の違いについて説明されています。その違いについてもう少し詳しくみてみましょう。人間には様々な感情が湧き上がります。怒り、腹立たしさ、恥ずかしさ、嫉妬、心配、不安、恐怖、不快などです。この例では「恥ずかしい」という感情が湧き上がりました。森田理論ではどんな感情も自然現象なのでそのまま味わうしかないと説明されています。「柔順」というのは、その感情の事実に対して反抗的な態度をとらないことだと思います。「君は今恥ずかしいという感情で一杯なんだね」と寄り添うことが柔順ということになります。「盲従」というのは、好ましくない感情が湧き起こったとき、身体に近づいてきた虫を手で追い払うようなことをしているのです。森田先生は好ましくない感情を押しつぶすようなことをしてはいけないと言われています。どんなに好ましくない感情であっても、反旗を翻してはいけない。恥ずかしいという感情を忌み嫌う、取り除こうとする、逃げ出すというのは間違っているということです。台風がきたときに、柳の木は身が引きちぎれるのではないかと思うほど荒れ狂っています。巨大な松の木は少々の台風に対してはびくともしません。でも台風が通り過ぎた後、柳の木は何ごともなかったかのようにたたずんでいます。時々巨大台風が通り過ぎあと、びくともしないと思われた松の木が倒壊して無残な姿をさらしていることがあります。感情の取り扱い方としては自由が効かないわけですから服従するしかありません。松の木は歯を食いしばって抵抗していたわけですが、その限界を超えた時力尽きたのです。私たちは柳の木から感情への対応方法を学ぶ必要があるようです。これを前提として、次に感情と行動はきちんと区別することが必要になります。感情に対しては完全服従、行動はその時その場でもっとも適切な行動を選択する必要があります。お辞儀の例では、森田先生が理不尽なことを指示して、水谷氏がどんな対応をとるか見ようとしておられるわけですから、「先生、そんな恥ずかしいことは勘弁してくださいよ」と言ってかわしていけばよいのではないでしょうか。森田先生も理不尽でばかげきったことに従う必要はないと言われています。
2023.04.30
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森田先生が谷口さんに「症状がよくなったか?」と聞かれたらどう答えるか。まだ実際にはよくならないから、正直に「まだです」と答えるか、あるいは「おかげでだいぶよくなりました」と答えるか。谷口さんは、「先生がせっかく今まで治そうと骨を折られているので、全く治らないというのは気の毒だと思いますから、おかげでよくなりました」と言います。森田先生は「それでよい。それが人情である。その人情の自然から出発すれば、万事がすらすらと流れるようになる」と説明されました。ここで一つの疑問が湧いてきます。実際にまだ治っていないと思っているときに、それを「まだです」と答えることは、事実に素直な態度ではないかということです。反対に「おかげでよくなりました」というのは事実を捻じ曲げてウソをついていることになる。事実を捻じ曲げて偽ることは森田理論の本質から逸脱しているのではないか。そう考えるのも確かに理屈に合っているように思えます。この話で森田先生の言いたいことは何なのでしょうか。この問題を解決するカギは、感情の法則の中にあります。感情の事実は自然現象であり人間の自由にはなりません。この場合でいえば、神経症が治ったような気がしないという気持ちを持っているということです。これは紛れもない感情の事実です。これは反発しようがありません。その気持ちは自然現象なので受け入れるしかありません。感情には良い感情ばかりではありません。憤怒、悲哀、後悔、醜悪、好色、貪欲、悲観的なマイナス感情もあります。これらはどんなに強い不快な感情であっても自然現象ですから、自由に操作することはできません。そのかわり、私たちに責任をとらされることはありません。このエピソードでは、治ったような気がしないという気持ちを価値批判しないで受け入れるようにしなければなりません。問題は、その感情をストレートに行動として外に出すことです。普通はマイナス感情は抱えたままにしていると苦しいので、取り除いてすっきりしたいと考えます。つまり感情に基づいて行動しています。これが問題になるのです。すべての感情はそのまま認めて味わうだけにする。そのままに泳がしておく。次に感情と行動は切り離しにかかることが必要になります。感情を引きづらないように意識して行動することが肝心です。行動はその時、その場にあった最善の道を選んで実行に移すように心がける。人間がとる行動は自由ですが、結果については責任が発生します。責任が取れる範囲内で、自由自在に行動することは可能です。マイナス感情に引きずられて、自分勝手な行動は差し控える必要があります。この例の場合では、目の前に何とか神経症を治してあげようと努力している人がいるわけですから、相手の努力を思いやるような言葉を発する行動が必要になります。森田先生はこのことを人情と言われています。このような心がけが人間関係を良好にしてくれます。感情と行動を連続性のものとは考えないで、きちんと切り離して適切な行動をするというのが感情の法則の中にあります。これは通り一遍の学習では気づかないのがもどかしいところです。せっかく森田理論を学習しても、これを自分の生活の中で活用できていない人が意外に多いように思います。かくいう私もその一人です。実にもったいないことだと思います。人間関係がうまくいっていない人の原因の大半はここにあるように思います。例えば腹が立ったときにすぐに感情を爆発させて、暴言や暴力をふるう人。不平不満があると、すぐにキレて迷惑行為を繰り返す人。暴飲暴食で健康を損なっている人。欲望の暴走で生活破綻を招いている人。本能的な快楽行為で自滅してしまう人。気分本位な態度で仕事をさぼってしまう人。感情と行動を切り離して生活することを目指しているのが森田理論なのです。これを身につけるだけで、人間関係が改善し、生きることが楽しくなります。
2023.04.29
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人間関係では、なんとなく気があう人2割、なんとなく気が合わない人2割、どちらでもない人6割という話を聞きました。対人恐怖症の人は、どちらでもない人を敵に回すことが多いのではないでしょうか。そしてなんとなく気が合わない人の割合を高めているように思われます。その割合が4割、5割と増えていくと、さまざまな弊害が出てきます。悪いうわさは次々に広まり、そのうち孤立していきます。こういう方向には向かわないようにしたいものです。そのためにはとりあえず「やってはいけないこと」をしないように気を付けたいものです。私の失敗の経験から整理してみました。・仕事をさぼらない。与えられた仕事の最低限の責任を果たす。・ルールや習慣や決まりごとを無視しないできちんと守る。・迷惑行為をしないように心がける。・不平や不満をすぐに態度に出さない。しばらく我慢する、耐える。・しかめっ面、ふくれっ面を出さないようにする。・暴言、暴力、喧嘩を控えるようにする。・相手を無視しない。軽視しない。からかわない。・叱責、拒否、脅迫、強制しない。文句を言わないようにする。・自分の「かくあるべし」を相手に押し付けない。・相手にミスや失敗があっても「ドンマイ」と言って許してあげる。・笑顔での挨拶をきちんとする。・約束はきちんと守る。ドタキャンはしない。・気分本位、本能的、自己中心的な行動を抑える。・葬式には必ず参列する。香典をきちんと渡す。・授業参観日、運動会、キャンプなどにはできる限り参加する。・公式行事などに万難を排して参加する。・早合点、先入観、決めつけ、思い込みで判断しない。・相手の話や行動を非難しない、否定しない。・相手の気持ち、考え方をよく聞くようにする。・自分の自慢話、成功談を控える。・傾聴、共感、受容の気持を持つ。・相手に寄り添うようにする。・親切にしてもらったら、「ありがとう」と感謝の言葉を伝える。・困っている人がいたら、援助してあげる。・人のめんどうをみる。協力する。世話をする。・寄付をする。プレゼントをする。お祝いをする。
2023.04.28
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人生には成功と失敗があるのではなく、成功と成長があるだけである。手掛けたことが目標通りにいかない場合、それを失敗と捉えるのか、成功への足掛かりと捉えるのかは大きな違いです。成功への足がかりと捉えると、失敗は貴重な経験であり、成功へ近づくために、失敗はつきものであり、好ましいものということになります。こういう発想ができる人の前途は明るいものになります。エジソンはいつもそういうとらえ方をしていました。エジソンは電球のフィラメントの素材に関する失敗を5000回近く積み重ねたそうです。失敗するたびに、「電球に向かない素材がまた一つ見つかった」と喜んでいたという。「成功とは縁のないやり方がまた一つ見つかった。別の素材を試してみよう」と成功に向けてさらに闘志を燃やしていったという。最後には日本の竹という素材にたどりついて成功することができた。反対に失敗と捉えると後悔と自己否定で苦しむことになります。イソップ物語に葡萄と狐の話があります。ある日狐が道端でたわわに実った葡萄を見つけた。早速飛び上がって取ろうとしたが、何回トライしても手が届かない。手にすることができないと思った狐は次のように自分を欺いた。あの葡萄はきっと酸っぱくてまずいいに違いない。もともと自分は葡萄なんか食べたいと思っていなかった。そして葡萄を獲る能力のない自分を卑下した。こんな自分を生んだ親を憎んだ。さらに発展して、葡萄を欲しがらない狐になろうと考えた。葡萄をすぐに手に入れられる超能力を得たいと空想するようになりました。この狐は葡萄を獲ることができないという自分に対して反抗的な態度になっています。このもどかしい事実を一つの失敗の経験として受け止めることができたらどうなるでしょうか。すると次の新たなステップにつながってきます。・葡萄を獲るために脚立か梯子のようなものを探す。・葡萄を叩き落す棒のようなものを探す。・仲間の智恵を借りる。・仲間の応援を要請する。自分の立てた目標に到達しないときに、それを失敗と捉えると、事態はどんどん悪化し、益々みじめになります。目標に到達するまでに、多くの失敗を積み重ねていくことは、貴重な経験の積み重ねとなり、自分の財産となります。失敗の経験のない人はとても危なくて見てられないということになります。失敗しないで成功だけを手にしたいというのはあまりにも虫がよすぎるのではないでしょうか。集談会で人生は3000回の失敗を重ねて立派な大人へと成長していくと聞きました。そういう意味では、失敗や挫折が予想されるときに、逃げ回ってしまうと、身体は大きくなっても、精神状態は子どものままで大人になってしまうことになります。
2023.04.27
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1991年(平成3年)4月号の生活の発見誌に、「誰でもやればいいなと思うことはいくらでもあります。でも思っただけでは能力ではありません。それは思わなかったのと結果は同じです。小さなことをおろそかにしないで、すぐにかたづける、この能力が、実は非常に大事なのです」とあります。誰でも、仕事や生活のなかで、さまざまなことを思いつきます。高性能のレーダーを標準装備しているといわれる神経質性格者の場合は、普通の人と較べるとその数が少し多いのではないでしょうか。これを宝の山と捉えるか厄介な性格と捉えるかは大きな違いとなります。問題点や課題、気づき、発見、思いつき、興味や関心が湧き上がってきたときに、それをきちんと掴まえることができるかが肝心です。それをきちんと掴まえて、行動に移すことができる人は次の段階に進むことができます。反対にその宝物をつかみ損ねてしまうと、神経質性格を活かすことが難しくなります。活かすことができないと、神経質性格よりも、社交性の豊かな発揚性気質の性格のほうがよいということになります。細かい気づきをどのように活かしていけばよいのでしょうか。分かりやすい例で説明してみたいと思います。私が以前勤めていた営業所に全国500名くらいの営業マンのなかで、常に全国表彰されるような営業マンがいました。その人は典型的な神経質性格者でした。しかし本人は神経症とは無縁でした。その営業マンのやり方は、得意先を訪問すると、会話の中で様々な要望が出されます。それを営業車に戻った時、細大漏らさずメモして行くことを実践していました。会社に戻ってからそれら整理して、次の営業活動のなかで着実に実践していくというものでした。地道な活動でしたが、それで優秀営業マンとしての地位を獲得していったのです。その彼が私に次のように話してくれました。「得意先は10個感動させるようなことをしても、その次にたった一つ機嫌を損なうようなことをすれば、今まで築いてきた信頼関係はすべて崩れてしまう」「自分はどんなに小さなことでも手を抜かないで真剣に取り組むという営業活動で勝負している。これは意外とみんなが見過ごしている営業のコツなんだよ」誰でもできるようなことですが、そこに徹するというのは難しいことです。しかし、その効果は恐ろしいものでした。彼の営業エリアには同業他社もたくさんいたのですが、次第に勝負にならなくなった。つまりそのエリアは彼の独壇場となってしまったのです。彼はボーナスもたくさんもらい、優秀社員表彰の常連となりました。その副賞として、夫婦で世界各地を旅行させてもらっていました。我々は小さなことが気になる性格ですが、それをプラスに捉えて確実にキャッチして、細かいことに丁寧に取り組むようにすれば、気付かないうちに運が向いてくるのではないでしょうか。
2023.04.26
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森田汐生氏のお話です。森田氏は、「アサーティブ」という、対人関係のコミュニケーションスキルとその考え方を教える仕事に携わってこられました。「アサーティブ」とは、「自分が考えること、感じること、希望していることを、自分も相手も尊重したやり方で表現する手法」です。「伝え方」を工夫することで、相手への伝わり方は変わります。アサーティブなテクニックを使うことで、自分の言いたいことが正しく「伝わる」ようになります。でも「伝わる」ようになることが、アサーティブの目的ではありません。コミュニケーションを変えていくことで、手に入れたいもの・・・相手とのより豊かな関係を築くこと、そして自分自身が幸せに生きられること。それが、「アサーティブに伝える」ことの根本にあります。(なぜ、身近な関係ほどこじれやすいのか 森田汐生 青春出版社 4ページ)アサーティブ理論の、自分の考えること、感じること、希望していることをきちんと表現するというのは、森田理論の「純な心」に通じるものがあると思います。人間は成長過程で身につけた観念的な思考や社会的な常識などが、意識しないうちに前面にしゃしゃり出て、大きな存在感を誇示するようになります。その圧倒的な力のもとで、自分の本音、素直な気持ち、感情、意思、欲求、欲望などが抑圧されてしまうことが多くなります。森田理論は、自分の本音、素直な気持ち、感情、意思、欲求、欲望を大切に取り扱う理論です。森田理論では、このことを「純な心」と言っています。アサーティブ理論では、「純な心」を自分も相手も尊重したやり方で表現することが大切になると説明されています。森田氏は相手の依頼を断るような場合、アサーティブな対応をとることを提案されています。アサーティブな「ノー」の伝え方には2つのステップがあるそうです。1つ目のステップは、次のように「自分に問いかけること」です。・自分はどうしたいのか。・「ノー」という理由はどこにあるのか。・代替案はあるのか。2つ目のステップは、「気持ちが伝わる言い方を考える」ことです。・相手の善意やメッセージをきちんと受け止める。・自分の状況を説明して「ノー」の理由を伝える。・代替案・関係をつなぐひとことを添える。たとえば会社員の場合、定時に帰宅しようと思っていたところ、上司から急ぎの仕事を頼まれることがあります。このような場合アサーティブな対応をするとどうなるでしょうか。・自分の意志に反して無理やり引き受ける前に自分の本音、素直な気持ちを大事にする。その気持ちに寄り添うことが大切です。・まず仕事の内容をよく聞いてみる。特にいつまでにやる必要があるのか。時間はどれくらいかかるか。自分一人でできるのか。話を聞く前にいきなり断ると上司と険悪な関係になります。・特段用事がなければ、それを引き受けることも考えられます。体力的、精神的に疲労困憊でエネルギーが枯渇している場合があります。そういう場合は先にエネルギーを補給した方がよいということになります。家族や友人と約束があれば、常識的にはそれを守ることが優先されます。ドタキャンして信頼関係を壊したくない。よほどのことがない限り、その依頼はお受けできないことをしっかりと伝える。・次に代替案・関係をつなぐひとことを添える。自分の代わりにやってくれるような人を探す。疲労困憊しているので少し休ませてほしい。その代わり明日早く出社してやることは可能ですと伝える。すぐにと言われたときは、先約があるので今から断ると先方に失礼になります。どうしてもと言われれば、友人との約束を果たしてから引き返しすことは可能ですが如何でしょうかと聞いてみる。
2023.04.25
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田舎では山ツツジと藤が満開となっています。5月はトマト、ナス、ピーマンなどの夏野菜の植え付けが始まります。これから田んぼの畔草刈りなどで大忙しです。これは以前大阪万博公園で撮ったものです。
2023.04.24
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山本周五郎氏の言葉です。毒草から薬を作り出したように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない、人間は人間なんだ。(山本周五郎のことば 清原康正 新潮社 77ページ)世間にゃあ表と裏がある、どんなきれい事にみえる物だって、裏を返せばいやらしい仕掛けのないものは稀だ、それが世間ていうものだし、その世間で生きてゆく以上、眼をつぶるものには眼をつぶるくらいの、おとなの肚がなくちゃあならねえ。(同書 79ページ)人間は弱いものだ、知らないうちに罪なこともしよう、悲しければ泣き、はらが立てば怒り、不徳と知りながら不徳なことをする、それが人間なんだ。(同書 80ページ)人間である以上、誰でも弱点や欠点を持っている。劣等感も持っていれば、優越感も持っている。成功した人も、過去にミスや失敗もたくさん経験している。他人に役に立つこともしてきたが、思い出すのは、他人に不義理なことをしてきたことばかりである。取り返すものなら取り返したいと思ってもどうにもならない。悪夢にうなされるような後悔もたくさん持っている。過酷な運命に翻弄されて、自暴自棄になったこともある。突然不幸のどん底に落ちたこともあった。命に係わるような病気もした。あわや大惨事という事故に遭遇したこともある。平成5年6月号の生活の発見誌に、前理事長の斉藤光人氏は、どんな人にでも、人格者だといわれる人も、内面には猥雑なもの、醜いもの汚いもの、好色なもの、意外と稚拙なもの、狡猾なものを持っていると言われている。人格の高潔な人はすべからく清廉潔白と考えるのは認識間違いと言えるかもしれない。もしそうならば、ことさら目くじらを立てて責める必要はない。欠点を10個持っていれば、長所も10個持っている。弱みを10個持っていれば、強みも10個持っている。醜い面を10個持っていれば、美しい面を10個持っている。つまり人間はどんな人でも清濁併せ持っているということです。それが生身の人間の実態です。見るからに善意に満ちあふれた人でも、反面見るに堪えない醜悪な面も併せ持っていると思っていたほうが間違いが少ない。そういう人間の真実を理解すれば、自分にも他人にも問題点や悪い点を許すことができるようになるのではなかろうか。目くじらを立てて喧嘩を売るよりも、笑ってお互いを許し合う方が人間関係はうまくいく。問題が表面化したときは、今は悪い面が出てきているが、時と環境が変わればきっとよい面が出てくるはずだと考えることだ。それまでしばらく待ってあげることにしよう。何しろこの自然界はバランスや調和が崩れると、必ずより戻しが起きています。そうしないとすべてのものが存在意義を失って崩壊してしまうのです。森田理論はバランス感覚、調和を身につける理論と言えるかもしれません。集談会では傾聴、共感、受容という話をよく聞きますが、それに加えて許容力も身に着けたいものです。
2023.04.24
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2023年3月号の生活の発見誌に、「人生を豊かに楽しく生きるためのコツ」についての記事がありました。それによると、①自立して生きていくために経済的な裏づけを確保する。②心と身体の健康を保つ。③生きがいを持つ。これに対して私の考え方を投稿してみたい。①の生活資金の確保であるが、65歳になると年金がでる。これで最低限の生活はなんとか維持できるようになります。ところがこれでは不定期に発生する出費には対応できません。たとえは、冠婚葬祭費、家屋の修理費、家電製品の買い替え、車の買い替え、趣味、旅行、車検代、入院医療費、介護費用、固定資産税などの税金、子供や孫への援助など。これらは貯金を取り崩していくしかない。多額の資金が必要になります。しかし蓄えた預貯金がどんどん減少していくことはストレスになります。私はできるだけ長く働いて、減ってくる貯蓄を最小限にとどめたい。今後は毎日4時間くらい無理なく働きたいと考えている。これだけでも経済的に多少余裕が生まれてくる。それと生活にリズムが生まれて、生活に張りが出てくるのがよい。②ですが、心の健康は森田理論学習とその活用と応用を考えている。不安への対応方法、感情の法則、生の欲望の発揮、神経質性格の活かし方、「かくあるべし」を自分にも他人にも押し付けない生き方、人間関係で躓かない生き方などは大変役に立っています。森田と出会うことがなかったら、いまだに葛藤や苦悩の多い人生を送っていたと思われます。脳を活性化するために、読書とブログを書くことはずっと続けていきたい。身体の健康面は、毎日6000歩以上のウォーキングを続けたい。その際3分ゆっくり3分早歩きのインターバルトレーニングを取り入れたい。これは現在マンションの管理人をしているので無理なくできます。そのほかストレッチ、いろいろな一人一芸を継続して心身を鍛えていきたい。③ですが、大きな目標としてはこのブログをできる限り長く続けていくことです。これは長期目標になります。その他、短期目標も大事にしたい。規則正しい生活、凡事徹底のなかで、小さな問題や課題、小さな喜びや楽しみをいっぱい見つけていきたい。家庭菜園、ベランダでの草花の世話、メダカの飼育、カラオケ、ネット麻雀、競馬の研究、you tubeプレミアムの音楽を楽しむ、一人一芸の練習などいくらでも楽しいことがあります。
2023.04.23
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本多信一さんが2011年9月号の生活の発見誌に投稿された記事です。本多さんが小学校の頃の話です。担任の先生が「実はおれね、学校をやめることになった」と言われたそうです。その先生は超内向的で、生徒の前で話をしているとすぐに顔が赤くなってしまう。それに生徒に見つめられるとうつむいてしまうという視線恐怖を持っていた。父兄からは「赤面恐怖で、子どもの視線に耐えられないのだったら、学校をやめてもらいたい」という要望が出されていたそうなのです。本多さんはその先生に次のように言いました。私のような内気な子は内気な先生を頼りにしています。もし先生が辞めたら、結局自分たちは生きていけないと悟ってしまいます。先生を辞めないで、内気な子、神経質な子、緊張型の子どもの先生として生きたらいいじゃないですか。そうしたら先生の顔に赤みがさして、「そうだな、そういう生き方もあるな」と言われたそうです。この話から学ぶことがあるようです。このブログを読まれている方は神経症の経験者が多いと思います。森田を学習・実践して、乗り越えた人も多数いらっしゃることと思います。神経症になって経験したつらい体験は、今現在その渦中で苦しんでいる人にとっては宝の山です。その苦悩した経験を公開して、他山の石として役立ててもらうことはできないものでしょうか。神経症を克服して「ああ、生きていてよかった」と救われた体験は大変貴重です。森田先生は神経症が治ったら犠牲心を働かせて、その経験を赤裸々に開示することを勧められていました。これが小我から大我に生きることになります。私は森田先生のように多額の寄付をするような社会貢献はできません。私のできる社会貢献は、神経症に陥り森田に出会って得た貴重な体験を包み隠さず開示することです。できれば一人でも多くの人に役立ててもらうことです。後悔のだらけの人生でしたが、今になればそれはとても貴重な体験でした。それを他山の石として開示すれば、自分も今後の生きがいが持てます。現在神経症で苦しんでいる人も解決のヒントが見つかるかもしれません。人の役に立つことができればこんなにうれしいことはありません。今まで苦しんだことを後悔するよりも、その体験を宝の山として、これからに活かせば恥ずかしいことにはなりません。自分を責める必要もありません。素晴らしい人生を全うしたと自分で自分を褒めてあげることができます。
2023.04.22
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石原加受子氏のお話です。最近の人間関係で顕著な傾向として、会話の際に「(相手に)責められている」と受けとる人がとても増えているということがあります。たとえば職場で上司が指示をする、先輩が教える、やり方を説明する。プライベートで友だちが何かについて意見や感想を述べる。こんな場面で、相手は悪意があるわけでもないし、責めているわけでも、攻撃しているわけでもない。にもかかわらず、多くの人が、「責められている、小言を言われている」というふうに過敏に受け止めてしまいます。「責められている」という意識があるために、言われた側はそんなふうに聞こえてしまうのです。(母と娘のしんどい関係を見直す本 石原加受子 学研 142ページ)この話は私のことを言われているようです。人と会話していると無意識のうちに防御態勢、戦闘モードに入ってしまうのです。責められていると思うと、その気持ちは態度に出ます。すぐに顔つきが変わってしまいます。言葉の端々にでます。争いは避けたいので、相手との交渉が必要なこともすぐに逃げてしまいます。その結果、人間関係は益々悪化してきます。これは父親との人間関係が大きく影響していると感じています。父親との関係のなかで、人間関係は信頼関係よりも、敵対関係で成り立っていると考えるようになりました。格下の人とは戦い、格上の人からは逃げ回るという習性が身に付きました。責められているという感性は、取り除くことは難しいと思います。一生背負っていくしかないと思います。最低限の人間関係を維持するために、実践していることは次の3点です。第一に、腹立たしいときや不平不満があるとき、すぐに態度や言葉に出してしまうのはなんとかしたい。感情の法則に「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」とあります。これを応用していこうと考えました。具体的には、不平不満の感情が湧き上がってきたら、とりあえず1分間だけは何もしないでじっとしておこうというものでした。私にとってはかなり高いハードルでしたが、10回のうち3回ぐらいは実践できるようになりました。そのうちなんとかものにしたいと考えています。二番目に、相手の本音、気持、考え方、感情、意思、行動、やり方を聞くことを優先するように心がけています。「あなたはそんな気持ちだったのですか」「あなたはそう考えていたのですね」「そうだね、そうなんだね」「そう考えるのも無理もないよね」自分の気持、考えを主張するのはそのあとにするように意識しています。これは意識すればある程度できます。三番目に、信頼関係ができていないときは、どんなに腹立たしいことがあっても、相手のことを非難・否定することは控えるようにしています。意味がないことがこれまでの経験で骨身に染みて分かっているからです。森田理論の「不即不離」を応用して、基本的には相手から離れるようにする。少し離れたところから相手を観察する。ほとぼりが収まったころに近づいていく。相手の言動をすぐに非難、否定するのは自分の気持をすっきりしたいためだと思っています。そんなことをすれば相手との人間関係はすぐに壊れます。お互いに消耗することは避けるのが賢明だと思います。
2023.04.21
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私が以前勤めていた会社に毎月ノルマが未達の営業マンがいました。その営業マンはうだつの上がらないお荷物社員とみなされていました。何とか退職させようと上司から露骨な嫌がらせがありました。営業会議では叱責のやり玉に挙げられていました。普通ならいたたまれなくなって退職するのではないかと思いますが、よく耐えられたものだと思います。そのうち彼は岡山、松山、東京、大阪、名古屋と転勤させられました。家族を引き連れての度重なる転勤は大変だったと思います。時には「あなたはうちの会社は向いていないから転職されたらどうか」と打診されることあったようです。これに対して彼は「家族がいるので辞めません」と断っていたそうです。彼にはどんな状況に陥っても家族の生活を守るという確固たる意思があったのです。彼の行動は成績のよくない営業マンにとっては励みになりました。彼はそういう人たちからみると希望の星になっていたのです。彼の頑張る姿を見て自分も何とか辞めずに頑張ろうという気持ちになれたのです。やり手の同僚たちの多くが過酷なノルマや管理職の職責を全うできずに、中途退職を余儀なくさせられる中で、肩書のない彼は最後まで生き残ることができました。玉野井幹雄さんは、どんな人にも「ゆきづまったままに生きる」道は残されていると言われています。玉野井さんは対人恐怖症の克服に30年ほどかかったそうです。実際には、浮かぶこともできなければ、沈むこともできないという神経症特有の重苦しい日々の連続でしたが、「どんなに苦しくても仕事だけは休んではいけない」という教えだけは愚直に守り続けました。私にとってはそれはとても辛いことでしたが、私が実践してきたことといえば、ただその「ひとこと」だったと言っても過言ではありません。それ以外のことはかなりいい加減で、いつも失敗や後悔ばかりしておりました。どんなに会社内で孤立していても、神経症の苦しみを抱えながらも、なんとか生活を維持・継続することが大切です。私が神経症で苦しいときに先輩から「月給鳥」で十分ですよとアドバイスしてもらいました。タイムカードを押しに会社に行くだけでOKですよということでした。それだけでずいぶん気が楽になりました。また生活の発見誌からは、「超低空飛行」を心がけましょうとありました。一旦飛行を中断すると、次に飛び立つのに莫大なエネルギーが必要になります。超低空飛行を続けていれば、そのうち上昇気流を掴んで、大きく羽ばたくことが可能になります。ゆきづまったときに、投げやりになって何もしないというのは問題だと思います。
2023.04.20
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高知競馬にハルウララという牝の競走馬がいた。成績は(1998年11月デビュ、2006年10月競走馬登録抹消まで)113戦0勝。2着5回、3着7回。生涯獲得賞金は112万9000円。高知競馬では出走手当てが1レースにつき6万円支給されていた。ハルウララは1年間20回のレースをこなし120万円は得ていた。しかし必要経費の130万円から140万円には及ばなかった。乗馬への転身の道もあったが性格的には向かなかったという。ハルウララは1996年2月27日、北海道日高町の信田牧場で生まれた。競り市では残念ながら買い手がつかなかったという。やむなく高知競馬の宗石大調教師に委ねられた。ハルウララは小柄で臆病な馬だった。しかし気が小さいのにエラそうにふるまう。また小さな音や物に飛びあがって驚くような馬だった。1頭になると寂しがって泣きべそをかいている。気に入らないことがあると、すぐに怒りを爆発させていた。そしてわがままな面が強かった。鞍を装着しようとすると暴れる。腹帯を締めようとすると地面にひっくり返る。さらに気分本位な面があった。たとえば厩舎の周りを2回までは素直に歩くが、3回目は露骨に歩きたくないという態度をとる。発馬機からのスタート練習は1回はするが、2回以上は拒否する。わがままで世話をすることが嫌になるような馬だった。そのうえ人見知りが激しい。なついていたのは新人厩務員の藤原健祐さんだけだった。但しハルウララのよいところは、レースになると一切手を抜くことがなく最後まで一所懸命に走りぬくところだった。競走馬の中には勝てないと思うと急にテンションがさがる馬がいる。雨天や重馬場、荒れた馬場では気力をなくする馬もいる。その点ハルウララは結果が出なくても最後まで全力で走り切る。何度踏みつぶされても、たくましく立ち上がる雑草のような競走馬だった。欠点は多いがなぜか憎めないお転婆な馬だった。ハルウララが有名になったのは、2003年毎日新聞全国版に掲載、フジテレビで放映されたからである。何度負け続けても果敢にレースに挑む珍しい馬として紹介されたのである。これが「負け組の星」として世のサラリーマンの絶大な支持を集めた。ノルマに追われ、人間関係で心身をすり減らしているサラリーマンの心のオアシスのような馬だったのです。2004年3月22日の106戦目に中央競馬の武豊騎手が騎乗した。11頭立ての10着に敗北したが、ハルウララの単勝馬券は1億2175万円を売り上げた。なおそのレースの馬券売り上げは5億1163万円で高知競馬では史上最高だった。入場者は全国各地から集まり、入場制限を行ったという。その武豊騎手が次のようなコメントを残している。「強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の面白さがあると思っています。しかし、高知競馬場にあれだけのファンを呼び、日本全国に狂騒曲を掻き鳴らした彼女は、間違いなく名馬と呼んでもいいと思います。彼女は間違いなく、ファンの心を大きく揺り動かしたスターでした」ハルウララは新聞やテレビで報道されなければ陽の目を見ることはなかったでしょう。きっと市井の競走馬として忘れ去られる存在だったでしょう。でも何が幸いするか分かりません。連戦連敗でも人の心をつかむことができたのです。能力面や性格面で多くの問題点を抱えながらも、黙々とレースに臨むハルウララはなぜだか精一杯応援したくなる馬です。成績なんか関係ないといった感じです。結果は出なくても、腐らずにレースに出続け、懸命に走る姿に多くの人が共感と感動を味わうことができたのではないでしょうか。ハルウララが伝えたいことは、能力や性格に問題を抱えていてもよい。神経症や人間関係に問題を抱えて、不器用な生き方であってもよい。一番大事なのは、そのままの自分で精一杯生き切ることだ。ところで、水谷啓二先生は「平凡に徹して平凡を10年20年と続けていけば、きわめて非凡な人間になれる」と言われています。これはまさにハルウララのような生き方のことを言われていると思います。我々神経質者はハルウララのような凡事徹底の人生を全うしたいものです。
2023.04.19
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緩和ケア医の大津秀一氏のお話です。人間の苦痛には4つの側面があります。1、身体的な痛み・・・ケガや病気をした時にでる痛みです。事故や災害に巻き込まれて体のダメージを受ける。そのほか慢性疼痛などもあります。2、精神的な痛み・・・不安や不快感、恐怖や怒り、悲しみや孤独感など。3、社会的な痛み・・・仕事の悩み、経済的に自立する悩み、子育てや家庭の人間関係の悩み、職場、隣人、友人、親族の人間関係、紛争や戦争、経済変動。4、スピリチュアルペイン・・・人間として存在していることに伴う悩みです。死生観に伴う悩みです。どう生きていけばよいのか、過去の過ちは許されるのか、自分が死ぬということはどういうことなのか。(傾聴力 大津秀一 大和書房 29ページ)これを基にして森田理論で膨らませてみました。1について・・・ケガや病気は防げるものと防ぐことができないものがあると思います。スポーツをしている時、機械や器具を使用している時、自動車を運転する時は集中することが大切です。森田ではものそのものになるといいます。うわの空で取り組んでいると思わぬ事故に巻き込まれます。病気の有無は、自分ではよく分からないわけですから、検査機関で調べてもらうことが大切になります。自分のことは自分が一番よく分かっているというのは認識の誤りになります。慢性疼痛の専門医に聞くと、痛みに絶えず注意を向けていると、精神交互作用のようなことが起きるそうです。そうなると痛みは実際よりも何倍も強く感じられる。痛みをとることもある程度は必要だが、過度にかかわると生活の悪循環を招くということでした。悩みや痛みを抱えながらも日常生活を維持していくことが肝心ということになります。2について・・・これは森田理論を学ぶことをお勧めしたい。まず不安の特徴、不安の役割、不安と欲望の関係を学ぶことです。次に生の欲望を前面に押し出しながら、やりすぎにならないように適宜不安を活用していく。そして感情は自然現象であるので、どんな辛い感情も反発しないできちんと向き合い、素直に受け入れるという態度を養成していく。これらを身に着ければ神経症にはなりませんし、なによりも人生を楽しむことができるようになります。3について・・・これも森田理論を学習すれば大いに役立ちます。特に「物の性を尽くす」「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」という考え方はぜひ自分のものにしたいところです。仕事を面白くする方法、子育て、子どもの教育、人間関係の在り方なども森田理論を学習するとそのコツが自然に分かるようになります。その考え方を深耕していくと、自然との付き合い方、経済変動や紛争や戦争に対して自分の考え方が持てるようになります。4について・・・生老病死という言葉があります。この悩みはこの世に生を受けた人には絶えず付きまとう悩みとなります。その状態は好むと好まざるにかかわらず、受け入れていくしかないのが人間の宿命だと思います。生老病死に素直に向き合い受け入れることができる人は、それだけで幸せな人生を送ることができます。我々の先輩の玉野井幹雄さんは、うつ病や神経症でのたうち回っていても、最後に行き詰ったまま生きていく道が残されているといわれていました。こういう心境に至ったのは、森田を生涯学習として取り組まれた結果です。徳川家康は人生は重い荷物を背負って坂道を登っていくようなものだといったそうですが、同じことを言われているのだと思います。葛藤や苦悩を抱えながらも、前向きに生きている人は、同様の問題を抱えて苦しんでいる人に勇気を与えます。それだけでも立派な社会貢献をされていることになります。このように考えると、森田理論を深耕すると、大津氏が問題提起されている4つの苦悩に対して、問題解決のヒントを与えてくれているように思われます。森田は学校教育や社会教育のなかで、一度は学んでおくべき内容を含んでいます。
2023.04.18
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村上和雄氏のお話です。ネアンデルタール人と我々ホモ・サピエンスは、20万年前は共存していました。両者を比較すると、ネアンデルタール人のほうが強靭な肉体を持ち、脳もホモ・サピエンスよりも大きかったそうです。現代にネアンデルタール人が生き延びていれば、オリンピックでメダルをほぼ独占していたと思われる。また大きな脳を活用して高度な文明社会を築いていたと思われる。ところが、その後ネアンデルタール人は突如絶滅してしまいました。絶えた人たちと、生き残ったホモ・サピエンスの違いはどこにあったのか。考えられることの一つは、ホモ・サピエンスは社会を作っていたのです。150人程度の部族の集団を作り、その中で暮らしていたのです。社会のなかで、他の人たちと分業、融通、助け合う仕組みを作っていた。一方、ネアンデルタール人は20人くらいの家族単位で暮らしていました。個々の能力が高いために、他人と助け合う仕組みは必要としなかったようです。体力があり、頭脳明晰なのでなんでも家族単位で完結していたそうです。家族や親族単位であらゆる問題を解決できると考えていたと思われます。この違いはその後の脳の発達に影響を与えました。ネアンデルタール人は視野や視覚が発達しました。運動野や感覚野が発達し、さらなる個体の能力の向上につながりました。一方ホモ・サピエンスは前頭葉が発達しました。ここは社会性を司る部分です。ここに共感脳が含まれています。つまり、体力や知力で劣っていたホモ・サピエンスは、その不足分を集団の力で乗り越えようとしてきたのです。その結果、共存共栄能力が鍛えられました。この能力の獲得がその後のホモ・サピエンスの繁栄につながったのです。個々の人間の能力向上はいかに素晴らしそうに見えても限界があります。一方その不足分を仲間でカバーしあう仕組みには限界はありません。この進化の違いがその後の両者の盛衰に結びつきました。人類学者の長谷川眞理子氏も、「共生的進化論」として、最終的に生き残るものをシミュレーションすると、単に得ようとするだけではなく与える種が生き残る、つまり「足ることを知る」種が歴史的に長生きしている。人類が進化し、生き残ったのは「協力」と「知足」のおかげだったと言えます。(コロナの暗号 村上和雄 幻冬舎 181ページ参照)「協力」と「知足」というのは、他人を思いやる心と欲望の暴走を制御するということではないでしょうか。しかし現在その進化の歴史に反するようなことが表面化しています。人間は誰でも個体保存欲求を持っています。個体保存欲求がないと命を粗末に扱う可能性があります。しかし人類の繁栄にとって、それは必要条件ではあるが、十分条件にはなりえない。それだけでは、人類の将来の繁栄は大変危ういものになります。欲望の暴走には歯止めをかけて、すべての人が豊かになる共存共栄の社会を目指さないと結局はネアンデルタール人と同じ轍を踏みかねないということになります。現在多くの国が核を保有して外交の駆け引きに使っています。それが暴発する可能性が極めて高くなっています。今やホモ・サピエンスは絶滅の危機に直面しているのです。森田理論に「物の性を尽くす」というのがあります。自分の性を尽くすことと、他人の性を尽くすことがあざなえる縄のように一体となり、バランスを維持して共存共栄の社会を目指すという考え方です。この考え方を推し進めて行くと、支配する人と支配される人の二極分解はなくなるはずです。森田は現代の人間社会に警鐘を鳴らしている理論だと言えると思われます。
2023.04.17
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プロ野球の観戦はストレス発散になりました。
2023.04.16
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根本裕幸氏は、「恐れは、壁に投影された子猫の影を見ておびえているようなもの」といわれています。子猫に光を当てて壁にその影を映します。そうすると壁には大きな化け物のような影が映っているのですが、私たちはその影を見て不安や怖れを感じている。だから、不安や怖れとしっかり向き合うことができれば(壁ではなく、その実態を見つめていれば)、自分が思っているほど怖いものではないことが分かるものです。これは不安や怖れに膨張剤を入れて水増ししているようなものです。他人から見ればたいしたことがないように見えるものを、あたかも自分の一生を左右するような一大事にしているのです。身体がいくつあっても足りないということになります。また予期不安で次からは手も足も出ないということにもなりかねません。不安や怖れに正しく向き合えば、実体以上に膨れ上がることはありません。猫がトラのように見えることはなくなります。慌てふためくことがなくなります。不安や怖れを「そんなこともあるさ」といって手離すこともできます。森田では事実から離れた早合点、先入感、思い込み、決めつけは、事実と相違することが多くなるといいます。事実を誤って捉えて、対策を立てて行動すると後戻りはできなくなります。後悔することが多くなります。事実に正しく向き合うためには、現地に足を運んで自分の目で確かめることです。事実のすべてが分かるわけではありませんが、ある程度事実に近づくことができます。次に事実にきちんと向き合って、湧き上がってきた感情をいったん受け入れることが肝心です。よい感情だとか、悪い感情だとか是非善悪の価値判断をすることはご法度です。森田先生によると、この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになっていくことが大事になると言われています。(森田全集 第5巻 652ページ)次に不安や怖れに振り回されそうになったとき、心掛けたいことを紹介します。・誰かに話しを聴いてもらう。不安や怖れも感情の一つです。それを誰かに聴いてもらうだけで楽になります。頭の中でぐるぐると考えているとどんどん不安や怖れって増幅してしまいます。そういう意味では、月1回の集談会は貴重な場です。集談会は傾聴、受容、共感、許容の気持を持った人が多いのが特徴です。・自分の気持をノートに書く。日記に書くのもお勧めです。書くことによって、自分の辛い気持ちをノートに吐き出すというイメージです。谷あいを勢いよく流れる小川のように、不安や怖れを流すイメージです。感情を頭のなかにとどめておいて、グルグルと回転させていると感情はどんどん悪循環してくるのです。(7日間で自分で決められる人になる 根本裕幸 サンマーク出版 参照)
2023.04.16
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「森田理論学習の要点」に「神経質の性格特徴」という単元があります。これを集談会の学習テーマとして取り上げることがあります。すすめ方としては、全員で読み合わせをして自分の経験と照らし合わせて感想を述べあうことが多いと思います。突然指名されても、ここに書いてある性格特徴が自分にも当てはまるというくらいの話しか出てきません。もっと学習効果の上がる学習方法を考えてみました。これを学習テーマとして取り上げた人が、話のテーマを膨らませることが大切だと思います。まず参加者が神経質性格をどのように捉えているのかを確認する。1、これはよくない性格だからできれば修正したいと考えているのか。2、あるいは神経質性格は細かいことによく気が付くし感性が豊かな性格なので、取り換える必要はない。むしろこの性格を大いに評価して活かしていくことを考えているのか。1の場合は、性格には悪い面ばかりではなく、裏から見るとよい面が隠れている。性格は両面から見ないと正しく見たことにはなりません。苦しんでいるときは、ことさら悪い面だけを取り上げて問題視しています。神経質性格の主な特徴は、「心配性である」「注意や意識が内向きになりやすい」「執着性が強くとらわれが継続しやすい」「よりよく生きたいという気持ちを持っている」と言われています。神経質の性格特徴を学習テーマとして取り上げた人は、自分の経験と照らし合わせて、神経質特徴に対して、今までどのような考え方の誤りをしていたのか具体的に説明する必要があると思います。・細かいことに不安を感じてしまう自分をいかに問題視していたのか。・注意や意識が内に向いてしまう傾向があることをいかに問題視していたか。・いつまでも不安が付きまとうことに苦しんでいたか。・いかに生きる目標と無縁な生活をしていたのか。その他、神経質性格者は、「観念的である、自己中心的で思いやりに欠ける、幼児や子供のような幼弱性を抱えている」と言われます。学習テーマとして取り上げる前に、これ等について具体的に自分の体験のまとめをする。現状認識がきちんとできれば、次にではどうしたらよいのかという話になってきます。その時役に立つのは森田理論です。特に性格の両面性の考え方です。性格の両面観の活用や応用で生活面がいかに変化してきたのか。私の場合でいうと、心配性というのは感性が鋭いということと裏腹の関係にあるということを体験しました。鋭い感性を仕事や趣味や人間関係への活用について説明する。さて、2の場合は、性格特徴を改めて学習する必要はないと思います。それよりは、神経質性格の考え方、活用例や応用例を披露して、参加者に刺激を与えるというのは如何でしょうか。他人の活用例に刺激されて、自分の生活に応用できるヒントが見つかればこんなにうれしいことはありません。森田理論学習は通り一遍の学習を繰り返しているとマンネリになります。マンネリになると集談会に行くことが苦痛になります。これは要警戒です。逆に学習にふくらみが出てくると、こんなに役に立つ学習会はないと思えるようになります。森田の豊かな鉱脈は、もう少し掘り下げたところに眠っているというのが私の実感です。通り一遍の学習を活性化させるためには、常に自分の生活と照らし合わせていくことです。学習した後に、自分の場合はどうなのだろうという考察は不可欠です。ひと手間かけた家での準備が肝心ということではないでしょうか。
2023.04.15
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和田秀樹氏のお話です。適応障害とは、生活の様々な場面で生じる日常的なストレスにうまく対処することができずに精神状態や行動面において支障をきたす病気のことを言います。(適応障害の真実 宝島社新書 14ページ)適応障害は適応不安が悪化したものです。適応障害になると生活に支障をきたし、精神障害をもたらします。そうならないためには、適応不安への対応が大事になります。長谷川洋三氏は生活の発見誌の2月号でこの適応不安について説明されています。困難な事態に直面したとき感じる不安を適応不安と言います。はじめてのことに取り組むとき誰でも適応不安を感じます。みんなが適応不安を感じるのに、神経症になる人とならない人がいます。それは性格の問題というよりも、人間性に対する無知からきている。例えば、卒業して仕事を始めるとき、社会の荒波の中でうまく溶け込んでやっていけるだろうかと誰でも不安になります。自分だけがことさら強く感じるというわけではありません。自分だけが不安になって苦しいというのは認識の誤りになります。このことを高良武久先生は「劣等感的差別観」と言われています。劣等感的差別観とは、自分だけが外界からの刺激に対して、特別に抵抗性が弱いとか、一般人と異なって自分が精神的に、あるいは身体的に弱点を持っていると、劣等感的に他人と自分を差別することです。これにとらわれると、心身の弱点や欠点、心配事、劣等感、ミスや失敗を受け入れることができなくなります。適応不安の身近な例では、土曜、日曜日の休み明けの仕事のことを考えると、気が重くなり、仕事に行くことが辛いので、仮病を使って休んでしまう人がいます。しかし気分本位になってホッとできるのは最初だけです。会社に行っても、普段の仕事モードになるまでにしばらくかかります。だいたい昼くらいまではかかるのではないでしょうか。それを我慢して仕事をしていると、そのうち調子が出てきます。仮に仮病を使って休むと、次の日にそのような状況を体験することになります。周りの人がすでにフル回転している時に、自分はまだ始動状態にあるのです。気おくれした気持ちになり、下手をすると自己嫌悪に陥ります。森田理論の学習の要点には、「初めての行動には不安はつきもの」とあります。森田では「不安は安心のための用心である」であるといいます。はじめての行動で、不安を感じるのは当然であり、不安があるからこそ、慎重に行動して、それを乗り越えれば成功体験を味わうことができます。
2023.04.14
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カウンセラーの根本裕幸氏によると、人間には顕在意識のほかに潜在意識がある。これは、氷山でいうと海面に出た意識が顕在意識、海面下の意識を潜在意識と理解すると分かりやすい。顕在意識は意識全体からいうと小さいものです。それに対して潜在意識はとてつもなく大きい。その潜在意識はさらに浅い潜在意識と深い潜在意識に分かれるという。顕在意識は今現在頭で考えている意識のことです。潜在意識は心の中にある無意識の感情のようなものです。意識はしていなくても人間の行動に大きな影響力を持っている。その無意識の感情は、それが認識しやすい浅い領域の感情と認識しにくい深い領域の感情に分かれている。浅い領域の潜在意識は、不安、恐怖、違和感、不快感などの感情です。深い領域の潜在意識は、分かりやすくいうと、好きか嫌いか、やりたいかやりたくないかという本音の部分の感情です。深い領域の潜在意識を軽視・無視して行動すると、いずれ問題が出てくる。深い領域の潜在意識が頭で考えた顕在意識に抵抗するようになります。(7日間で自分で決められる人になる 根本裕幸 サンマーク出版 参照)この話に関連して、森田先生は次のような話をされている。ここで最も大事なことは、感じから出発することである。例えば、酒が好きか嫌いかから出発する。酒が嫌いな人は、酒をすすめるとき「どうしてこんなものが飲めるのだろう」という気持ちでつぐと、無理がゆかないで、酒好きもうまく飲まれるが、「あの人は酒が好きだから」と自分の嫌いということを離れて考えると、加減なしにやたら追いかけ追いかけ酒をつぐので、いくら酒好きでもたまらなくなる。自分の好き嫌いという感じから出発すると、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて、思いやりということができる。相手と気持ちが通じる。同情心が出てくる。(森田全集第5巻 696ページ)私もこの点に関して苦い経験がある。大学を卒業して農家の意識変革を目指して、ある大手の文化運動をやっているところに就職した。配属されたのは、訪問営業の仕事だった。対人恐怖症の私には過酷な仕事だった。自尊心を傷つけられるようなみじめな気持ちを数多く味わった。よく考えて見れば、就職する時に、営業や訪問販売の仕事は性格的に向かないだろうという気持ちを持っていた。それを無視して正義感や使命感で乗り越えようとしていた。好きか嫌いか、やりたいかやりたくないかでいうと、訪問販売の仕事はもっとも嫌いでやりたくない仕事だったのだ。深い領域の潜在意識を、軽視・無視して就職した結果はみじめなものだった。顕在意識に対して、圧倒的な力で抵抗してきたのだ。9年間は何とか持ったが、もっと早く転職した方がよかったと後悔することになった。好き嫌いという本音の部分の感情を無視すると、取り返しのつかない後悔をすることになるということを身をもって体験した。
2023.04.13
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不安、恐怖、違和感、不快感への対応策は人ぞれぞれです。大別すると次の3つに分かれるように思います。また、時と場合によって、対応方法が分かれる場合もあります。1、すぐに取り除こうとする人。このような対応がとれる人はエネルギーが旺盛で行動的です。現実的な不安への対処法としては申し分はありません。ところが神経症的な不安に対してこのやり方をとると問題が起きます。森田では感情は自然現象であり手出し無用と説明されています。言葉では理解できても、潜在意識では現実的な不安と同様に自由にコントロールできるはずだと思っている節があります。自然に立ち向かっても、ほとんど無駄な努力になります。労多くして、結果ははかばかしくない。一番問題なのは、そちらに力を入れていうちに、目の前のやるべきことがおろそかになることです。こういう人は森田理論の不安の特徴や役割、不安と欲望の関係を学習して、生活の指針にすれば生き方が変わる可能性があります。2、不安や不快な感情を認めようとしない。無視・抑圧しようとする人。快の感情と不快な感情に分けて、是非善悪の判定を下している。快感情は貪欲に追い求めて、不快感情は悪者扱いしているのです。天気でいえば、晴れの日はあってもよいが、雨の日はダメだと言っているようなものです。自然現象である感情に対して、選り好みをしているのです。潜在意識の中では、ネガティブな感情を否定しようとしているのです。価値判定を止めて、ネガティブな感情に素直に向き合う、味わうことが抜け落ちているのです。感情の事実を素直に認めることができないで、不快な感情を忌避していると、思想の矛盾に陥ります。頭で思い描いていることと現実が食い違い、そのために葛藤や苦悩をおびき寄せることになります。観念主導で感情の事実を軽視・無視していると、エネルギーの無駄遣いが起きます。こういう人は、森田理論の「かくあるべし」の弊害と葛藤や苦悩の始まりを学習する。そして事実をそのまま認める態度を身につけるように心がける。そこを出発点にして生の欲望の発揮に進むことを考えた方がよいと思われます。3、不快な状況から目をそむけてすぐに逃げだす人。不快な気分に振り回される人です。少々のことは我慢する、耐えながら取り組むことが苦手な人です。重大な危険が予想される場合は、もちろん一目散に逃げなければなりません。ところが当然やるべきことでも、その時、その場の気分に左右されて、イヤだと思えばすぐに回れ右をしてしまうような人です。不安を感じるとすぐに回避策をとり、逃げ回ることが習慣化している人です。その時はほっとしても、社会体験不足になります。小さな失敗体験、成功体験を積み重ねることで、人間としての器が大きくなりますが、こういう人は子どものまま大人になってしまうことになります。身体が大きくなっても、心がついていけてないのです。たとえば対人関係では気に入らない人には一切近づかない。約束した事でも、気分に振り回されて、簡単に破棄してしまう。困難な問題や仕事などは、いつも逃げ腰になってしまう。思い切って手を付けたことでも、障害物に出会うとすぐに撤退してしまう。その心の隙間を埋めるために、享楽的、快楽的、刺激的、本能的、瞬間的な快楽を追い求めるようになります。気分本位が習慣化している人は、残念な人生で幕引きということになります。気分に振り回される人は、自分の力を過信しないことです。気分本位の態度をとりやすい人間であることが自覚できれば、信頼できる人に協力を仰ぐことが有効です。たとえば配偶者、友人、心の師、集談会の仲間などです。仕事では単独営業をするとどうしてもさぼるようになります。こういう場合同行営業に切り替えれば防止できます。浪費癖、アルコール依存、ギャンブル依存、性依存の人は、それを抑制してくれる人と一緒に行動することで防止できます。自分の心身の安全と家族の生活を守るために、気分本位は乗り越えるべき課題となります。
2023.04.12
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心理療法家の矢野惣一氏のお話です。次の2つの実験をしてみてください。・「ありがとう、ありがとう」って唱えながら、怒ってみて下さい。さあ、どうぞ。どうですか。怒れましたか。・「ツイテル。ツイテル」って唱えながら、落ち込んでみてください。さあどうぞ。どうですか。落ち込めましたか。この実験で分かることは「ありがとう」と言いながら、怒ることはできません。「ツイテル」と言いながら、気分を落ち込ませることはできないということです。なぜでしょうか。それは、言葉と感情はリンクしているからです。ある言葉を言うと、それとリンクしている感情が自然にわきあがってきます。たとえば「ありがとう」という言葉を口にすると、最初は感謝の気持ち→「ありがとう」という、一方通行だった反応が、感謝の気持ち⇔「ありがとう」という、相互通行になります。つまり、「ありがとう」ということで、感謝の気持ちが湧き上がってくるようになるのです。心理療法では、ある特定の感情を呼び出すためのスイッチとなる言葉や仕草を、アンカーと言います。「ありがとう」は、感謝の気持ちを呼び出すアンカーになっているのです。また、なにに関心を向けるかで、入ってくる情報の量は大きく変わります。「ありがとう」と言うことで、感謝の気持に関心が向きます。すると、いつもなら見逃してしまうような、小さな親切や、何気ない思いやりにも気づくことができるようになるのです。その結果、周りの状況は何も変化していないにもかかわらず、あなたは「ありがとう」といったおかげで、幸せになれたと思うのです。「ありがとう」という言葉で引き出された「感謝」の気持が、脳(潜在意識)の検索エンジンにかかって、感謝されるような出来事を引き寄せるのです。(問題解決セラピー 矢野惣一 総合法令出版 210ページ)この話は否定語を使うことが多い人にはとても参考になります。たとえば、イヤだ、何をしてもうまくいかない、恥をかいた、後悔したことを思い出すとイヤになる、楽しい事なんかなにもない、毎日退屈だ、などという言葉が口ぐせになっている人です。これ等の口癖をそのまま放置していると、ネガティブな感情がネガティブな出来事を引き寄せてくるということになります。そうならないために、「でも、しかし、そうだ、そうは言っても・・・」という言葉で、否定的な言葉を取り消す作業に取り組むことが有効になるのです。具体的には次のように取り消していきます。イヤだ➡でも、イヤイヤやっているうちに面白くなることもあるよね。何をしてもうまくいかない➡しかし、10回に1回うまくいくとしたら、挑戦してみる価値があるかもしれない。全部うまくいかなくても、1回成功すればもうけものだ。恥をかいた➡でも、そのおかげでみんなを喜ばすことで出来た。後悔することを思い出すと憂うつになる➡でも、後悔が多い人ほど人間としての器が大きくなるといいますよ。また他人に後悔しないように助言することもできるようになります。楽しい事なんか何もない➡そうだ、過去に時間を忘れて楽しめたことを書き出してみよう。退屈だ➡そうだ、明日取り組むことを書き出しておこう。ネガティブな感情は誰でも毎日たくさん湧き上がってくるでしょう。人それぞれ違うと思います。それを「でも、しかし、そうだ、そうはいっても・・・」という言葉で取り消すようにしていけば明るく前向きな気持ちになれます。ぜひ、自分の場合に置き換えて、対策を立ててみててみるというのは如何でしょうか。
2023.04.11
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この言葉はリンカーンの言葉だそうです。生まれながらに美男美女の人がいます。表題の言葉は、美醜の顔立ちのことを言っているのではありません。顔つきはその人の履歴書であるといいます。長年の生き方や人生観が顔や姿に出てくるというのです。うまく隠してもすぐに正体がわかってしまう。人に好印象を与える顔立ちは、長い年月をかけて、自分で作り上げていく必要があります。自分の生き方の反映であるという意識を持っておくことが大事になります。森田的な生き方をしている人は、とにかく目が輝いている。また活気があり、包容力のある顔立ちに変わるという印象があります。(好感の持てる顔立ち)好奇心に満ちた顔つき。意欲に満ちた顔立ち。意欲的で挑戦的な顔立ち。知性や自信にあふれる顔つき。優しさや慈愛を感じる顔立ち。いつも笑顔で人生を楽しんでいるような顔立ち。謙虚で柔順な顔立ち。あらゆることに超然とした顔つき。正直で正義感のある顔立ち。(嫌悪感をもたらす顔立ち)不安でオドオドした顔つき。不平不満に満ちた顔立ち。嫌悪感に満ちた疑い深い顔つき。傲慢で攻撃的な顔立ち。物欲や名誉欲に満ちた顔立ち。自己中心的な顔立ち。投げやりでふてくされた顔立ち。自信がなく否定的な顔立ち。困難なことからすぐに逃げてしまう顔立ち。顔の表情筋は33ほどあるそうです。それを鍛えるには、机の前に鏡をおいて、口角を上げてにっこりと笑顔で微笑みかけるのです。心はどんなに荒んでいても形から入るようにするのです。それを心がけていると、人前で出来るようになります。笑顔を心がけていると、笑顔の表情筋が鍛えられます。笑顔にあふれた孫や犬や猫などの写真を飾ると、いつの間にか笑顔が似合う人になります。笑顔の素敵な人は、利他的な人が多いようです。ちなみに、内面が外面に出る8つのポイントというものがあります。・性格は顔に出る。・生活は体型に出る。・本音は仕草に出る。・感情は声に出る。・センスは服に出る。・美意識は爪に出る。・清潔感は髪に出る。・落ち着きのなさは足に出る。これらを意識するようになると、身なりやしぐさが整います。習慣化すると、心が内向きから外向きに変わっていきます。
2023.04.10
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稲盛和夫氏は京セラのほか、第二電々を立ち上げられました。いずれも日本を代表する企業に成長させました。その他、JALの再建を託され、見事に東証一部に再上場させました。まさに経営の神様のような仕事ぶりでした。普通会社を立ち上げるときは、会社の売り上げをどんどん伸ばす。従業員を増やして規模が大きくなることを目指します。稲盛和夫氏は、ゆるぎない企業理念を持っておられますが、そこが少し違っています。まず手掛ける事業が世の中に必要とされているかどうかを見極められている。第二電電(KDDI)を立ち上げるときは、日本ではアメリカに比べると通信料金がべらぼうに高かった。それは電々公社(NTT)が通信事業を独占していたからです。NTTが独占してしまうと、利用料金が高くなる。サービスの質が落ちてくる。その結果国民は不利益を被る。JALの再建を引き受けたときは、JALがなくなると大手航空会社は、全日空だけになってしまう。航空業界が一社独占というのは、国民の利益につながらない。またJALは多くの従業員を抱えており、清算するとすべての社員を解雇することになる。雇用を守ることが社会的使命と考えられた。次に会社の存在意義は、社員の物心両面の幸せをもたらすためにあるといわれる。決して会社は株主だけのためにあるのではないと言われている。その理念を忘れないために、京セラフィロソフィーというのを大切にされている。これを全従業に携帯させているという。・心をベースとして経営する・原理原則に従う・ベクトルを合わせる・感謝の気持ちを持つ・利他の心を判断基準にする・人間の可能性を追求するこれを参考にして、JALの当時の社長や幹部たちに経営哲学、存在意義などをまとめてもらった。そしてJALフィロソフィーとしてまとめた。最終的にまとまったものは、JALグループは、全社員の物心両面の幸福を追求し、1、お客様に最高のサービスを提供します。2、企業価値を高め、社会の進歩発展に貢献します。このJALフィロソフィーをみた公認会計士、弁護士、管財人の人たちから、「もっと何か格調高い目的や理念があってもよいと思いますが、たったそれだけですか」と言われました。稲盛さんは、「それだけでいいんです。働く従業員が、心から幸せだと思わなかったら、会社はうまくいくはずはありません。目的やきれいごとをいっぱい並べたてたものがありますが、空事みたいで、自分には関係のないことが書かれていたりします。一番大事なことは、社員がこの会社で働けてよかったと思ってくれることです。そうすれば企業価値は上がり、株価もそれを反映していく。すべての原点は、社員が幸福だと思える状態を作ることであり、それ以外ないはずです」とお答えしました。稲盛和夫氏の経営哲学には、森田理論の「物の性を尽くす」がしっかりと貫徹されているように思われます。この場合は「人の性を尽くす」ということです。全社員に居場所や活躍の場を提供して、存在価値や能力を存分に発揮してもらうという考え方は、経営の神様といわれる稲盛和夫氏の組織運営のコツだったようです。
2023.04.09
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昨日の続きです。手足の機能の衰えを補うために、周囲から優しい援助の手が伸べられる。それは、元気な時にはなかったものである。病気にならなければ、知り合うこともなかったであろう医師、看護婦さん、保健婦さん、ヘルパーさんの優しい温もりと手厚い介護は、失ったものを補って余りあるものに思われる。私が長年味わってきた孤独とは対照的な世界に身を置くことになった。優しさは大きな癒しの力を持っている。私の苦しみをいっしょにわけもとうと手を差し伸べてくれる人がいるということは、人間のもっとも大きな喜びではなかろうか。そのような温かい気持ちにまもられて、たいせつに思われている毎日は、たとえ肉体的に苦しくとも心は満たされている。心は癒され、安らいでいる。(癒されて生きる 女性生命科学者の心の旅路 柳澤桂子 岩波書店 21ページ)発病後14年くらいたったころに、私は神秘体験をしている。今振り返ってみると、この体験は私の生涯のなかで、重要な意味を持っていたように思える。いよいよ休職期間も切れ、私が大切にしていた研究職を解雇されるという知らせを受けた晩にそれは起こった。寝たきりの生活を余儀なくされ、仕事とのかかわりを完全に断たれたことで、それまで持っていた執着から自由に解き放された。神秘体験によって、私の足は地にしっかりついたように思われる。この時以来私の心は揺らぐことはなかった。私の得たものを成長させて、世の中に返す義務があると思いました。一睡もしませんでしたが、前の晩のみじめな私はもうそこにはいませんでした。私の脳のなかでは、既存の価値観を与える神経回路が崩壊し、新たな回路が形成されたのかもしれない。新たな神経回路が強い信念を醸し出すことによって私を支えてくれているのかもしれない。他人の思惑を気にすることなく、自分が自分であることを思い切り楽しめるようになった。サケは太平洋で数年過ごしたのち、再び生まれ故郷の川に戻ってくる。目的がはっきりと見えなくても、それに向かって突き進んでいく本能のようなものがサケの体のなかに宿っているのではなかろうか。乗り越えることが困難なものを抱えた人間が、命のある限り生き抜くということはどういうことなのか。それを体験したものとして、後世の人に伝えたいことが泉のように湧き出てきたのである。(同書 28ページ参照)神経症を経験した人がある程度解放されたとき、このような心境になれば生きる目的が持てるように思います。私は対人恐怖症で辛くて不器用で苦しい人生を送ってきました。今考えるとその苦しみは無駄ではありませんでした。失敗やミス、後悔や懺悔の蓄積は全て貴重な財産になっていたことがよく分かります。人生の途中でどんなに辛い落ち込みを経験したかは問題ではないと思います。その後、それらをきちんと受け入れて、逆転人生に変化したかどうかが問われているのだと思います。大きな落ち込みを乗り越えた方は人を感動させます。その切り替えに成功した人は、人生の勝者だと思います。私はその財産を活用して、私と同様な苦しみでのたうち回っている人に、ブログを通じて一人でも多くの力になりたいという目標を持つことができたのです。人生の目標が明確になると迷いがなくなり、生きることが味わい深くなります。
2023.04.08
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生命科学者の柳澤桂子氏のお話です。この方は、三菱化成生命科学研究所主任研究員をされていました。仕事にも子供にも恵まれて順風満帆の生活を楽しんでいた32歳の時突然病が襲ってきた。その時、この病気とは一生涯付き合うことになるとは思ってもみなかったそうです。原因不明の病気である。膠原病に似たような激しい痛みがある。そして最後は起き上がることもできなくなり、寝たきりになられました。普通は自分の運命を呪い自暴自棄になるのではないでしょうか。柳澤氏は病気を得たことで、人生とは何かについて深く洞察できるようになりました。今日からその一端をご紹介します。参考図書は、癒されて生きる 女性生命科学者の心の旅路 岩波書店です。柳澤氏は、1年のうちの半分近くを病院で過ごすこともあった。もし、病気であることがはっきりしていたら、いくらか耐えやすかったのではないかとも思うが、病気であることさえ認められないために、私は自分自身を責めた。それは、自分が妻の座、母の座に居座ることへの叱責ともなった。疑問と責め苦のなかで、家庭を壊さないようにしていくことは並大抵ではなかった。また、何かの間違いではないかと思ったり、もうすぐよくなるのではないかと思ったり、揺れる気持ちで何年かを過ごした。しかし、すべての期待は裏切られ、苦しいからだの状態は繰り返し訪れた。病気の進行につれて、生活は束縛され、身体的な苦痛も増してきた。数か月に一度ずつ、ちょうど火事が燃え広がるように症状が悪化していく。ステロイドが効くことがわかってからは、かなり楽になったが、それでも病気の進行を止めることはできない。徐々に失われていく能力、徐々に増していく苦痛を見つめていたのでは、そればかりが拡大されて感じられる。失われたものではなく、残されている能力に目を向けることによって、気持ちは救われるのです。生きているということは、かならず残された能力があるということです。そのようにして、自分を眺めなおしてみると、私にいかにたくさんのものが残されているかということが分かりました。機能が衰えても、どの臓器もまだ生きるに十分なだけの働きをしている。残されているものに目を向けると、おのずと感謝の気持ちが湧く。そして、ほんのささやかなことにも喜びを見いだせるようになる。そのうち私はいろんな本を読み始めた。宗教書、哲学書、文学書などを乱読するうちに、次第に何かが見えてくるように思えた。何かから解き放たれていく自分を感じた。人間であることの悲しみが薄らいだわけではない。本を読むことによって、むしろその悲しみは動かしがたいものになっていった。しかし、本当の悲しみを知ってしまったのは、私だけではないということに気づいたのである。それらの感銘深い本の著者たちは、みなその悲しみを知っていた。その悲しみを受け入れて、しかも立派に生き抜いた人たちである。私はもはや孤独ではなかった。たとえ書物を通してでも、共感できる人々にめぐり合えたのである。この続きは明日ご紹介します。
2023.04.07
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エステティシャンの今野華都子氏の話です。この方の経歴が素晴らしい。まず、世界のエステティシャンの大会で優勝されている。「美しさは優しさを作る」をモットーに、人としての美しさと優しさの創造に邁進されています。さらに驚くことに、経営不振で倒産の寸前だった「タラサ志摩ホテル&リゾート」の再建を成し遂げられている。今野氏は、次の3つの習慣を身につけるだけで、周りの環境ががらりと変わっていくと指摘されている。①笑顔②肯定的なハイ③相手の話にうなずく①仲のよい友達の前でニコニコしているのは当たり前です。笑顔が本物かどうか。チェックポイントは次の通りです。・会社の廊下を歩いている時にどういう顔をしているか。・夫の前ではどういう顔をしているのか。・子どもの前ではどういう顔をしているのか。・誰も見ていない時にどんな顔をしているのか。顔には30以上の表情筋がありますが、それらは普段の生活の中でどういう顔をしているのかで鍛えられます。日頃からニコニコしている人は、いま、笑っていなくても、「あの人って明るそう。優しそう」と感じられます。例えば、電車の中などで幸せそうなお婆ちゃんを見たり、さわやかな女の子を見たりすることがあります。そういう人たちは、その時たまたまそういう顔をしているのではなくて、常々そういう顔をしているから、自然とそういう雰囲気になっているのです。毎日の結果が顔に表われているだけです。笑顔の印象でいるというのは、そういう自分自身のしつけのひとつなのです。②肯定的なハイ好きな仕事につけることは稀です。それならば、まずは自分の前に来たことを喜んでやらせていただくのが手っ取り早いのではないでしょうか。出来なくてもいいのです。私は「失敗」と書いて「経験」と呼んでいます。人はみんな、いろいろな体験を積んで成長していくものです。失敗か成功かは問題ではありません。人の一生は「あの時があったから、いまがある」ということの連続。そうした貴重な体験を毎日積ませていただいていると考えればいいのです。自分がどんな可能性を持っているのかは、自分ですら気づいていないものです。実はその可能性をひらくのが「ハイと肯定的な返事をする」ことなのです。それによって、自分が持っている可能性の扉が次々と開いていくと私は思っています。③相手の話を聞く時は、うなずきながら聞くことです。「この人は何を考えているのだろうか」「私の意見に賛成なのだろうか、反対なのだろうか」相手をこういう気持ちにさせると、大きな誤解を招いたり、難しい人だと評価されたりしてしまうことになります。これではコミュニケーションが取れません。ここで注意しておきたいことがあります。相手の話はあまり聞かないで、自己主張を優先する人がいます。これでは相手の信頼感は得られません。最初に相手の気持や考えを吐き出させることが大事だと思います。この気持ちをしっかりとも持っておくことです。そのときにうなずきながら聞くようにする。また、相手と信頼関係ができていないときに、いくら相手のためになることでも、相手の存在や発言内容を非難、否定することは厳に控える必要があります。
2023.04.06
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イェール大学心理学部のポール・ブルーム教授は、2015年、赤ちゃんを被験者としてある実験をしました。月齢6か月、10ヶ月の赤ちゃんに、赤い丸が丘を登ろうとしているアニメーション映像を見せる。続けて、①その背後から黄色い四角がやってきて、赤い丸をやさしく丘の上に押し上げて助ける場面。②前方から緑の三角がやってきて、赤い丸を下へ押し戻して邪魔をする場面。赤ちゃんたちにそれらの図形のどれに手を伸ばすのかを調べたところ、ほぼ全員が①の図形に手を伸ばした。こうした実験から、ポール・ブルーム教授は、その著書「ジャスト・ベイビー 赤ちゃんが教えてくれた善悪の起源」 (竹田円訳 NTT出版)の中で、私たちの天性の資質として次の4つの項目があると指摘されています。・道徳観・・・親切な行為と残忍な行為を識別する能力・共感と思いやり・・・周囲の人の苦しみに胸を痛め、その苦しみを消し去りたいと願う気持ち・初歩の公平感・・・資源の平等な分配を好む成功・初歩の正義感・・・よい行動が報われ、悪い行動が罰せられるのを見たいという欲望同じような実験は、大阪大学大学院の鹿子木康弘准教授も行っている。生後2、3ヶ月の乳児に、①乳幼児がお菓子をもらったとき②実験者が偶然見つけたお菓子を他者(人形)にあげる場面を観察したとき③乳児自身が偶然見つけたお菓子を他者(人形)にあげたとき④乳児が自分に与えられたお菓子を他者(人形)にあげたときという4パターンの働きかけをしたところ、④の自分のお菓子を他者にあげるという最もコストの高い行為の際に、最も嬉しそうな表情を示したそうです。(コロナの暗号 村上和雄 幻冬舎 171ページ)これ等の実験から、「利他の心」は全ての人間のDNAのなかに存在しているものと判断できます。「利他の心」が発動すれば、思いやりの心で満ち溢れた社会になるはずです。ではどうして自己中心的、利己的な人が多いのでしょうか。いろんな原因が考えられますが、その一つとして、人間には「利他の心」のほか、「自己保存欲求」というものがあります。この身体をできる限り生き延びさせることが、最大のミッションとなっています。この欲求がない人はすぐに命を落としてしまいます。現実の社会では、「自己保存欲求」が優先されやすい。それは与えられた命を大切にすることであり大事なことです。しかしそれ一辺倒では、他人と対立して衝突するようになります。その結果、元々持っていた「利他の心」は宝の持ち腐れになってしまいます。この二つの調和を意識して維持する方向を目指すことが大切になります。バランスや調和をとるという考え方は、森田理論の「精神拮抗作用」「両面観」の考え方につながるものと考えています。私はサーカスの綱渡りをイメージして、天秤、ヤジロベイをそばにおいて、バランス感覚を忘れないように心がけています。
2023.04.05
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セイバンという有名なランドセルメーカーがあります。昔はランドセルの色は黒か赤というのが定番でしたが、今やその色は30種類くらいあるそうです。価格は4万円から8万円くらいの幅があります。ランドセル選びは楽しいことですが、選択肢が多すぎるというのは、時間がかかり混乱することにもなります。そこでセイバンは一つの実験をしました。色とりどり、価格の違うランドセルを一堂に展示して、子供ひとりで選んでもらう。親は子どもが選ぶのを別室のモニターで見てもらう。最初に案内係が「お父さんお母さんはどんなランドセルを選ぶと思いますか」と子供に聞いてから選ばせる。すると子供が選んだものは、ほとんど親の許容範囲に収まったという。4歳5歳の子供ですが、親の好きそうな色を見極める能力を持っているということです。次に、「君の大好きなランドセルを自由に選んでください」と伝える。すると面白いことが起きる。すぐに直観力を働かせて、これがいいと笑顔で選ぶ。選んだものが最初の商品とは違うという結果がでたそうです。実際には、女の子が黒や青のランドセルを選ぶ。男の子がピンクや赤のランドセルを選択する。これにはさすがに親が戸惑う。動揺する。今はそれでよいかもしれないが、これから6年間という長期間使うことになる。途中でこの色はイヤになったと気が変わることも十分考えられる。高価なものなのでそのときに簡単に買い替えることはできない。そうかといって我が子の選択に批判的な対応はしたくない。このジレンマをどうするか。1、子どもの気持ちを尊重して親は口をはさまない。その代わり後から買い替えたいといっても同意はしない。それを子どもに伝える。2、世間の常識とは違う色のランドセルは、後からきっと後悔することになる。こういう場合、子どもはまだ正しい判断ができないのだから、親が主導権を持って、無難な色のものを選択して子どもに与える。この問題を森田理論で考えてみました。親がモニター室にいて、子どもに自由に選ばせるということは大変良いことだと思います。親は子どもにべったりくっついているとつい口をはさみたくなるという習性があります。子どもも親がそばにいると無意識のうちに親に気を遣うことになります。この実験では、全部のラインナップをすべて見せて、この中から自由に選択しなさいという設定になっています。このやり方は問題なのではなかろうか。ランドセルには、色彩的に男の子向き、女の子向きというのがあります。子どもがその時は正しい選択だと思っていても、数年後に後悔することはいくらでもあります。たとえば男の子でピンクのランドセルを選んだ場合、高学年になったとき違和感なく使いつづけることができるでしょうか。この場合は、お店の人が男の子向け、女の子向けにある程度区分して別々に展示するというのはどうでしょうか。そのブースに案内するのです。あるいは、あらかじめ親が区分けして、その中から自由に選択させるというのは如何でしょうか。たとえば男の子ならピンク系や赤系統のものを避けて、15種類から20種くらいに絞っておく。その範囲内で子供に自由に選ばせる。これなら子供もある程度自分の意志が尊重されたと思えます。親もその範囲なら喜んで同意できるのではないでしょうか。親子でよい買い物をしたと喜び合うことができます。すべての面で自由に選択するというのは、あまり現実的ではありません。たとえば1000万円を超えるような高級な乗用車に乗りたいと思っても、ほとんど不可能です。自分の経済力の範囲内で選択するしかありません。スポーツでも自由に相手と戦ってもよいのですが、それは明確なルールの範囲内でのみ可能ということになります。ルールなしの競技は大変危険です。自由に行動してもよいというのは、ほとんどの場合、ある程度の枠のなかで初めて許されるということではないでしょうか。このことを子育てで応用しようと思えば、親や先生はあらかじめある程度のルールや範囲を設定する。その範囲では子どもたちに自由に選択し行動させる。親はいちいち口をはさまないで、遠くから子供を暖かく見ているだけにする。制限されたなかで自由に行動させると、窮屈なように感じますが、その方が現実的であり、実際には丸く収まることが多いように思われます。
2023.04.04
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宇野千代さんの言葉です。頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである。私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。手を動かすことによって、考えるのである。手を素早く動かすことが、そのまま、頭を素早く動かすことになる。どんなことをするのでも、先ず頭が、その、することを伝達する。その伝達が、間、髪を入れないほど、素早いのは、手が、頭の伝達を、神業のように素早く受け取るからである。私たちは、先ず、手を動かすのかと思うほど頭の伝達を素早く受け取る。頭の動きというものは省略されているのかと思うほど、手が、手だけが素早く動くのである。小説を書くのも、手が動くのである。どんな大傑作を書くのでも、手が動くのである。手が動かないものは何もない。私もときどき、頭の中だけで、大傑作を思いつくことがあるが、それは手が考えたのではないので、さて、書こうと思うと、何であったか、まるで思い出せない。(行動することが生きることである 宇野千代 海竜社 10ページ)私たちは不安、恐怖、違和感、不快感を持ったまま行動すると、ミスや失敗を誘発して取り返しがつかないと考えやすい。それが事実でないことは倉田百三氏が証明されています。倉田百三氏は、観照障害などの神経症で苦悩されました。その状態ではとても仕事にはならないと思っておられました。小説を書くことは神経症が治ってからにしようと思っておられました。森田先生は、神経症を持ったまま書きなさいと助言されました。倉田氏は森田先生の助言に従って仕方なく書くことにしました。その時にできた小説が「冬鶯」という作品です。あとから読んでみると非常によくできている。自分でもそれなりに納得できるし、森田先生も高く評価された。症状を持っていても、目の前の必要な日常茶飯事や仕事に手を出していくことが大事なことがよく分かります。手掛けたことが出鱈目になるというのは、思い込みや先入観や決めつけが強いだけで、事実ではないということになります。宇野千代さんの指摘されていることは、頭で考えているだけでは、次の展開は望むべくもない。行動することによって、次の展開が見えてくるということだと思います。
2023.04.03
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今日は人間と自然の付き合い方について考えてみました。養鶏場では、雌鶏を狭いゲージのなかに押し込めて、卵を産む機械として取り扱っています。休みなく多くの卵を産ませるために、強制換羽ということが行われます。雌鶏は、1年間卵を産んだ後、産卵を止めるようになっています。その間に羽が生まれ変わるのです。体調を整えるようにしているのです。そのときに、人間がえさと光を与えないで閉じ込めると、ショックで産卵が早まるのです。これは雌鶏にとっては大きなストレスになり寿命を縮めます。雄鶏は光のあたらないところで、運動を抑えて食事を与えています。回転率重視のプロイラーとして飼育されています。いずれにしろ、鶏たちは自由を奪われた効率重視の状態で飼育されています。濃厚飼料、成長ホルモン、抗生物質が大量に投与されて飼育されているのです。そこには生き物というイメージはありません。鶏は物として扱われています。豚も狭いところに何頭も押し込められて飼育されています。たいへんなストレスにさらされています。そのストレスを解消するために、他の豚の尻尾をかじります。それを防止するために、最初から尻尾を切っているという光景を目にしたことがあります。なんだか切なくてかわいそうな気がしました。以前頭牛病が発生しましたが、元々草食動物である牛に、肉骨粉を餌として与えていたのが原因だと言われています。肉骨粉を餌にしたことが、牛の脳に悪影響を与えていたのだそうです。イチゴは露地で育てると5月ごろ実を付けます。イチゴが大量に出回る時期になると安くなります。その反面クリスマスの頃には需要が高まり価格が高騰します。それに目を付けた人間は、夏に人工的に冬を経験させればよいと考えました。夏に高冷地で冬の寒さを経験させる。そして冬場に温室に持ち込む。重油を焚いて春先の陽気を作れば、冬でもイチゴが育つと考えました。イチゴにしてみればだまし討ちに合ったようなものです。夏野菜であるキュウリ、トマト、ナスが冬場に出回っているのはすべてハウス栽培です。自然の仕組みを無視して、無理をして野菜を作っているのです。野菜の生理に合っていなくても、人間が儲かればよいという考え方です。これらは人間の都合に合わせて、自然を自由自在にコントロールしているということになります。人間が上で自然が下という関係が出来上がっています。こういう関係が永遠と繰り返されても問題は発生しないのでしょうか。地球温暖化、気候変動、オゾン層破壊、森林破壊、海水面の上昇、CO2問題、砂漠化、酸性雨などの問題は、人間と自然の関わり方の矛盾の現れではないでしょうか。智恵の付いた人間が、自分たちの生活をさらに豊かにするために、なりふり構わず自然破壊を繰り返しているということになります。これは人間と自然だけの関係にとどまりません。一番の問題は人間と人間の関係に波及していることです。人間関係も、支配、被支配の関係に陥っていることです。経済力のある人や頭のよい一部の人が、その他大勢の人を自由にコントロールしています。その人たちの欲望が暴走する社会になっています。もはや抑制力が効かない状態に陥っています。森田では自分の「かくあるべし」を自然や他人に押し付けてはいけないといいます。また、森田理論には、「物の性を尽くす」という考え方もあります。この考え方は、生きとし生けるものはすべて存在価値を持っているという考え方です。すべてのものに居場所や活躍の場を与えて、命のある限り、生き尽くしてもらおうという考え方です。自然や人間同士の関係に「物の性を尽くす」という考え方を取り入れないと、人類の歴史は遠からず終焉を迎えるような気がします。特に核兵器の暴発は待ったなしのところに来ています。森田理論の「欲望の暴走は不安の活用によって制御する」「物の性を尽くす」などをみんなで学習して、人間本来の生き方に立ち返ることが求められている時代に入っているように思います。
2023.04.02
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森田先生のところに入院されていた山野井房一郎氏の主訴は書痙である。森田先生から次のように言われた。1、不自然なペンの持ち方をやめること。そのために手が震えても、あくまで普通の持ち方をすること。2、上手に書こうとしないで、他人にわかるように書くこと。それには活字をまねて書くのが一番である。3、字の練習はやめて、むしろ震え字を稽古すること。ところが、これ等のことがなかなか実行できなかった。その理由は、次のとおりである。1、書けなくては困るので、不自然でも、書けるような持ち方をしてしまい、そのため普通の持ち方はなかなかできない。2、自分の意識では、上手に書こうなどとは最初から考えてはいない。下手でもよいと思っているのに、書くことができない。3、震え字のけいこということは、手や腕の自然の震えにまかせ、それにさからわないで運筆をする練習を指すと思うが、これもなかなかうまくゆかず、こうやってもうまくゆかぬ、ああやってもうまくゆかぬで、結局まだか、まだかと、上手に書けることを期待し、かえって反対の効果をもたらすようになった。さて、全治した今日になって、先生から教えられた3か条は、実に書痙治療の根本義であって、余すところがない。理解のよい患者で、忠実にこの3か条を実行することができれば、その時から一瞬にして全治すると確信する。ペンの持ち方は、普通にするのが書痙治療に一番の捷径であって、また、このほかに治療法がない。私のように、書けないからといって不自然の持ち方をしたのでは、いつまでも書けるようになりはしない。書きにくいけれども、ちょっとがまんして普通の持ち方にすれば、間もなく慣れるものであるのに、実に私は、遠い遠い道を経てきたものである。ちょうど歯の金冠と同様で、最初の2日、3日はそぐわない感じがするけれども、これはやむをえないので、数日にして少しも気にかからなくなるようなものである。震える、書きにくい、なんとなくそぐわない普通の持ち方も、少し辛抱していれば、やがて何ともなくなる。金冠の具合が面白くないからとて、2日、3日で取りさり、またもや入れかえるというふうでは、いつまでたっても解決がつかない。私の経験がまったくこれで、今考えると、ばかばかしい限りであった。(生活の発見誌 1969年(昭和44年)1月号 44ページ)山野井さんの話を基にして私のことを振り返ってみた。神経症に陥ると、普通の人と自分を比較して、これではいけないと慌てふためいてしまう。何としても人並み程度にはしなければ、社会の落ちこぼれとなってしまうというところから始まるように感じる。私の対人恐怖症を考えた場合、人から後ろ指をさされるような人間になっては生きていけなくなる。他人から非難される、否定されるような人間になってはいけないというところから始まった。そして観念と行動の悪循環の罠にはまってしまった。全治した今でもその気持ちは完全になくなってはいない。コアの部分にしっかりと残っている。私はこれを自分の個性と捉えている。個性をなくすると自分のアイデンティティもなくなってしまう。それはまずいことだと考えています。治ったというのは、対人恐怖と関わっている時間が、どんどん減ってきているというところにあると思っている。症状でのたうち回っていた時は、ほぼ100%他人の思惑に神経を張り巡らせていた。治るにつれて、症状以外のことを考えることができるようになった。それが90%、80%、70%、60%、50%という具合に比重が下がってきた。現実的な生活面のことで悩むことが多くなってきたということです。症状のことを気にしている時間帯が半分くらいになれば、別にむきになって症状を治そうなどとは考えなくなってくるものだと思っています。それよりもルーティンワークをこなしていくことが忙しくなってくる。ふと気がつくと症状のことは忘れていた。そういう時間が増えてくる。そして生活の中での楽しみや感動を数多く味わえるようになる。対人恐怖症の治り方は実はこんなものではないかと思っています。
2023.04.01
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