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「ベてるの家」の活動に参加している加藤木さんが次のような話をされている。自分のいろんなことが許せなかったんですよね、もうぜんぶ罪、罪悪感が大きすぎて。生きてること自体も存在自体も罪で、生きていること自体でいろいろな人に迷惑かけるし・・・いま、それが全然なくてすむのは、許されたって。いままで過去のことも許されたし、いま自分が起こすいろんなことも許されるって、やっぱ、うん、それは大きい。大きな違いはそこですね。許されているというのは、「そのままでいい」ということであり、「問題だらけ」が当然ということであり、失敗しても「それで順調」ということだ。あなたは病気のあなたのままでいい、北海道の浦河に来たといってもかならずまた問題を起こすだろう。しかし問題があるのが「べてるの家」であり、ここではだれもがそれを当たり前だと思っている、問題を起こしていいのだといわれ、そして実際そうなったときはじめて、加藤木さんはこころの奥深くで、ここでは「すべてが許されている」という思いを持つことができた。こんな自分でも、ここで生きていていいのだという思いを抱くことができた。「ベてるの家」の仲間は、だれもが「そのままでいい」という。いや、ことばでいうより、そういう目で、混乱した自分を穏やかな笑いとともに見ている。問題だらけの、失敗してばかりの自分を。理屈ではないその視線、態度、しぐさに「いいんだよ、それで」というオーラがにじみ出ている。そのやさしさ、ありがたさ。とはいえ、どうもそれは仏の慈悲のようなものではなく、「しょうがない、お互いそうなんだから」という、あきらめにも似た許容であるようだ。そんな、決して高尚とはいいがたい「べてるの家」の人々の空気、態度、ふるまいが、自分たちには好ましい。(治りませんように ベてるの家のいま 斉藤道雄 みすず書房 189ページ)「ベてるの家」で活動している人たちは、みんなが許容の心を持っていて、お互いにどんな問題を起こしても寛大な気持ちで対応できているようですね。私たちは自分の価値観で、たえず相手の考え方や行動の是非善悪の判断をしています。自分の価値観に合わなければ、即座に非難、叱責、否定しています。上から下目線で相手を眺めているのです。こんなことを続けていると、人間関係はいつも対立的になります。人間関係が悪化してしまうとつらい人生が待っています。この呪縛から解き放される日はやってこないのでしょうか。この問題に正面から取り組んでいるのが森田理論だと思います。森田理論では、上から下目線の「かくあるべし」を相手に押し付けるのではなく、悪戦苦闘している相手に寄り添うことを提案しています。これが「ベてるの家」でいう許容にあたります。そのためには、相手の言いたいことを素直に聞くことが肝心だと思います。自分の言いたいことがあっても、まず相手の話をよく聞くことです。この順序を間違えてはいけません。この順序を間違えると、例えば東京から大阪方面の新幹線に乗るべきところを、東北新幹線に飛び乗るようなものです。順序を間違えると、相手は心を貝のように閉ざしてしまいます。その心を再び開かせることは容易ではありません。そして再び心を開くことはないかも知れません。これができれば第一段階の関門は通過できます。ここを無難に通過しても、まだ自分の考えを出すのは早すぎます。相手の話に対して、非難、否定、説教、指示をしてはいけません。私メッセージを活用して、「あなたの話を聞いて、私はこう思いました。それで間違いありませんか」と投げかけることです。相手は自分に寄り添ってくれていると感じるようになります。そこから温かい人間関係が持てるようになります。
2023.03.31
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人間関係の問題を抱えている人は次のような特徴があるようです。・相手の話を聞くことがおろそかになっている。相手の気持ちや意見や要望を聞くという態度が希薄である。自分の気持、考え、意見、欲求を一方的にしゃべり始める。・自分を不快にするような言動があった場合、直ちに不平不満を態度に出す。たとえばしかめっ面になっている。不機嫌な態度になる。あるいはすぐに反抗的な態度に出ている。かばってくれる人がいなくて、最後はいつも孤立している。これに当てはまる人は、人が近寄ってこなくなります。逆に考えると、この2点の修正ができれば人間関係はかなり改善できます。自分の気持や要望を相手に伝えることばかり考えていると、相手は自分のことを無視されたと思います。それを避けるためには、優先すべきは相手の気持ちや考え方です。またいくら自分の主張が正しいと思っても、まずは相手の意見や気持ちを聞いてみなければなりません。集談会に初めてやってきた人に、アドバイスしてもあまり効果はありません。逆に相手に寄り添い、悩みや苦しみを吐き出させてあげるようにすると、相手は心を開いてきます。そんなことは分かっているという人が多いと思います。でも、日々実践しているのかといわれると心もとないというのが現実です。私もそうです。周りの人への配慮が不十分になりがちです。絶えず意識して、心掛けないと絵に描いた餅になってしまいます。次に相手に理不尽ことを言われた。無視された。からかわれた。バカにされた、非難された。否定された。だまされた。仲間外れにされた。こういうことも日常多々発生していると思います。森田の「不即不離」という考え方では、そういう時は相手に近づいてはいけない。一旦離れなければ事故につながるという考え方です。しかし問題を抱えた人は対応方法が逆になっています。自分を信頼してくれている人に感謝の気持ちが希薄になっている。逆にケンカになりそうな人に敢えて近づいて問題を起こしている。これでは人間関係がうまくいきません。森田理論で「不即不離」の考え方を理解したのに、応用・活用できていないということになります。腹の中がいくら煮えくり返っていても何も問題はありません。森田では不快な感情は自然現象で意志の自由はないと教えてくれました。抵抗しないで、そのままにしておくしかありません。行動には意思の自由と責任があります。この2つを区別して対応すれば何の問題も起きません。言葉は悪いのですが、上手に演技をしてネガティブ感情を表出しないようにする。そのまま行動に移すというのは幼児と同レベルということです。プロ野球のピッチャーでもあの人は何を考えているのかさっぱり分からない。なかなか癖が見つからないという人は、なかなか攻略法が見つからないといいます。森田理論では、不快な感情と行動をきっちりと分けることができるようになることを目指しています。そういう人は、人間関係で素晴らしい能力を獲得した人だと思います。人間関係の改善では次のようなことをよく聞きます。・相手のよいところを見つけて積極的にほめる。・「ありがとう」と感謝の気持ちを持って生活する。・人の役に立つことをみつけて行動に移す。・笑顔で挨拶をすることを心がける。・名前を忘れないようにする。・相手の関心を掴んで、それに応える。・相手を大事にして丁寧に対応する。これらは確かに良いことです。しかしこれらは、基礎作りをしてから、プラスアルファとして取り組むべき課題だと考えています。基礎がしっかりとできていない段階で取り組んでも、それはテクニックになり、ザルで水を掬うようなことになるのではないかと思っております。今日取り上げた2つの人間関係の基礎はしっかりと身に着けたいものです。
2023.03.30
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水谷啓二先生のお話です。「事実唯真」ということについて、よく誤解されることであるが、森田正馬博士は「客観的事実だけが事実であるといっておられるのではなくて、客観と主観の一致するところに事実唯真がある」といっておられるのである。もし客観的事実だけを・事実であるとするならば、われわれの主観というものを・一切無視することになり、客観偏重のひどく偏ったものの見方しか出来なくなり、退屈きわまる糞リアリズムになってしまうであろう。この主観と客観がひどく食い違ったり、どちらか一方に偏ったりしないで、調和していくところに、健全な精神の働きがあり、健康な生活があるのである。(生活の発見誌 1969年(昭和44年)1月号 水谷啓二 35ページ)この部分は森田理論学習の中でも難しい部分です。しかしここを理解しないと健全な生活が維持できなくなると思われます。この件について、森田先生は次のように説明されています。たとえば、今腹がへっているというのが主観的な事実である。でも、いま私は腹を悪くしているから、食べ過ぎてはならないと我慢しているのが客観的事実である。(森田全集 第5巻 408ページ)これはある欲望が湧き起こったとき、それを抑制する感情も同時に湧きあがるようになっていることにつながります。森田理論では、この働きのことを「精神拮抗作用」といっています。問題はどちらかに偏り、バランスが崩れた場合です。主観的事実を優先して無理して食べると、内臓に負担をかけることになります。逆に客観的事実を優先してしまうと、欲求不満が強まります。この場合は、食べ過ぎに注意しなから、慎重に食べることです。特に飲酒の場合は慎重さが求められます。飲みたいという気持ち一辺倒になると二日酔いになってしまいます。ペースを落としながら飲む。あるいは、お冷と酒を交互に飲む。飲むだけでなく、料理を食べることを忘れないようにする。そうすれば急性アルコール中毒を回避することができます。別の例でいうと、心臓麻痺恐怖の人があるとする。医者が検査をして心臓は大丈夫だという。それは客観的事実である。しかし本人はやはり怖い。これは主観的事実である。このとき患者は、大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がる者であるという主観的事実の両方を認めねばならない。(森田全集 第5巻 159ページ)この場合、主観的事実に偏るとパニックになります。会社を休んで家で静養することになれば、注意や意識が心不全のことばかりに向いて、不安神経症で苦しむことになります。医者から大丈夫だというお墨付きをもらったのであれば、不安を持ちながらも会社に出て、細々と仕事を続けることが大事になります。私たちは、意識していないと主観的事実と客観的事実のどちらかに偏ってしまいます。いずれかに偏ってしまうと、生活が破綻してしまいます。2つの事実のバランスをとる必要があります。バランスを維持することは、サーカスの綱渡りを思い浮かべると分かりやすい。右に傾けば左を下げる。左に傾けば、右を下げる。この調整が必要になりす。絶えずバランスを意識しながら、慎重に前に進むことで、健全な生活が維持されるという側面を忘れないようにしたいものです。
2023.03.29
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公文式教育法は、数学教師の公文公(くもんとおる)氏が、自分の息子のために開発した教育法です。教材(問題用紙)は、算数、数学、英語、国語です。教材には必要な説明や例題などが書かれており、あえて教える必要はないそうです。しかも、その子ができる問題を渡します。そして反復させます。できるようになったらしだいにレベルアップしていきます。ですから子どもたちは自信をもって、次々と答えをゲーム感覚のように書き込んでいきます。それが終わったら先生のところへ持って行き、採点されますが、今その子どもが十分にできる教材を渡しますからほとんど満点です。こうしてその日、自分の可能な時間に、自分の可能なレベルまで進んだら、その子どもは満足感を抱き自分の家に帰ります。いつのまにか数字に強い子ども、国語が大好きな子供になり、しだいに高い基礎学力を身につけることになります。努力するということとは、できないことにしがみついて、悶々と自分をいじめることではなく、やさしいことを反復練習することで、自信を持つことができるようになることです。そうすれば、より力強く過ごすことができるようになります。努力にかけた時間に対して、満足感と充実感を得ることなのです。(こころと遺伝子 村上和雄 実業之日本社 91ページ)目標や課題は、少し努力すれば達成可能なものであることが大切だと言われています。そして完全に自分のものにするためには反復練習が欠かせません。反復練習により長期記憶として脳に定着されます。するとスポーツにしても、楽器の演奏にしても、舞踊にしても、前頭前野で試行錯誤・検討しなくても、脳の運動野や側頭葉から直接指示が出せるようになります。無意識に身体が正しい動きをするようになると、余計なことを考えなくても済みます。前頭葉を休ませることができ、運動野や側頭葉が鍛えられます。一旦流れに乗れば練習の成果を十分に楽しむことができるようになります。このやり方はぜひとも私たちの生活のなかに取り入れたいものです。達成可能な目標や課題は日常生活のなかでいくらでも見つけられます。それらを整理して、毎日のルーティンワークとして確立するのです。毎日この時間帯はこれをしているという習慣を作り上げることです。手先や体が絶えず自然に動いている状態にすることです。頭は、問題点や課題が見つかった時にたまに使うという程度にするのです。飽きることを避けるために土日には、普段できないことに取り組んでみる。気分転換を図り、また新たな気持ちで日常生活に取り組むことが大切になると思います。
2023.03.28
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毎日の生活を楽しむ方法を考えてみました。1、規則正しい生活を続ける。同じ時間に同じことをするという習慣を作り上げるということです。そうすると気持ちが外向きになります。また生活にリズムが生まれてきます。30分おきにどんどん仕事の内容を変えていくようにすると相当なことができます。一日が終わって日記に書ききれないくらいの内容が出てきます。そんな単調な生活を繰り返していても何も楽しいことはないと思われる方もいらっしゃると思います。果たしてそうでしょうか。退職してエブリディサンデーと大喜びしていた人がこんなことを言っていました。退職して海釣り、ゴルフを中心に趣味三昧の生活を楽しむことにしました。3ヶ月くらいは気分が高揚して楽しかったそうです。しかしそれ以降は飽きてきたのか、急にむさしさを感じるようになりました。仕事の合間にやっていた時のほうが楽しかったというのです。2、好奇心を感じたこと。興味や関心のあることに取り組む。私はチンドン屋に属して老人ホームの慰問活動を続けてきました。よかったことはなんとかアルトサックスをふけるようになったこと。ドジョウ掬い、傘踊り、獅子舞、浪曲奇術などの一人一芸をものにできたこと。多くの慰問仲間と出会い、交際範囲が広がったこと。それと公民館活動に参加しています。男の料理教室などに参加しています。目標を持って取り組むことで、楽しい生活になります。3、家族を持つ。友人を持つ。仲間を持つ。世話をするものを持つ。私は生活の発見会活動を通じて貴重な人間関係を築いてきました。それとマンションの管理人の仕事をしていますので、いまだに仕事関係の人と交流があります。家族では昔は夫婦喧嘩をよくしていましたが、森田を学習して、妻への感謝の気持ちが持てるようになりました。それと孫がすくすくと大きくなるのを見て、とても楽しみになっています。家ではメダカを飼い、草花を育てています。実家では家庭菜園に取り組んでいます。趣味を通じての人間関係は大きく広がっています。カラオケや飲み会なども開いています。4、一人で楽しむことを見つける。本を読むこと。ブログを書くこと。you tubeプレミアムで広告なしの音楽を楽しむこと。サックスや一人一芸の練習をすること。録画したテレビ番組を見ること。一人カラオケをして録音して再生して楽しむ。ワインクラブに入っているのでワインや日本酒をたしなむこと。自分は何もしないで、他から与えられる刺激や感動を追い求めるよりも、自分で行動して小さな楽しみ、感動、喜びを数多く味わいたいという気持ちを持っていると、毎日の生活の中身が濃くなってくるように思います。
2023.03.27
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今日は1か月前に仕込んだ味噌の攪拌をしました。カビの発生もなく、熟成はうまくいっていました。来月もう一回攪拌する予定です。5月末から食べられるようになります。横にあるのは昨年6月に仕込んだ梅酒です。梅の実はつまみに最適です。
2023.03.26
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森田先生は、「煩悩即菩提」「雑念即夢想」「不安即安心」と言われています。煩悩と菩提は同じことだ。雑念と夢想も同じことだ。不安は安心と同じことだ。正反対なことを同じだと言われても納得できる人は少ないのではないでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみたいと思います。森田先生は元々二つは一つであって、同じものを裏から見ているのか表から見ているかの違いに過ぎないと言われています。どういう意味なのでしょうか。私は以前尿管結石で七転八倒したことがあります。とがった石が尿管の神経を刺激して、こんなに痛い思いをするのならば、いっそのこと死んだ方がよいと救急車で搬送中に思ったことがありました。これは痛みの原因が全然分からないことでパニックになったのです。レントゲンを撮って尿管結石が原因だと分かった。この痛みで死ぬことはないと分かったとたん不安はなくなった。医師のすすめる薬を飲んでいると3日くらいして大きな石が出てきて事なきを得た。その件で尿管結石についての関心が高まった。これがきっかけとなって、原因や再発防止策をいろいろと考えた。またこの病気を経験した人とさまざまな情報交換をするようになった。その兆候がある人に対しては、役に立つ情報を提供するようになった。他人ごとではなくなったのである。見て見ぬふりはできなくなった。夏場水分を取るのを極力我慢していたという原因を突き止めたので、夏場の細かな水分補給を心がけなければ危ないというアドバイスをするようになった。これは「激痛即解脱」ということではないかと思うのである。激痛に対して投げやりにならなければ、それを切り抜けることができる場合があります。もし、切り抜けることができれば、その苦しんだ経験は、その後の人生で大きな財産となります。今後の養生に対しても有効に作用します。なによりも他人に対する思いやりの気持ちが出てきます。苦しんでいる人に親身になって寄り添うことができます。苦しんで底を打つとそこから逆転人生が始まるようなものです。これが森田先生のいわれる「煩悩即菩提」「不安即安心」につながるものではないのか。森田先生は苦悩や煩悶は断じて受忍しなければならないと言われる。これを受忍しきったときに、煩悶・苦悩は消滅すると言われている。それはただ消滅するだけではない。その煩悶・苦悩が財産に変わるのである。これは将棋で相手の駒をとると、今度はその駒が自分の持ち駒となるのと似ています。自分の味方になってその後大いに役に立つようになるのです。神経症に陥ったことは親の悪い性格を引き継いだためだ。また親の育て方に問題があって、私の人生は滅茶苦茶になったと親を恨んでいる人は多い。そういう人は「煩悩即菩提」「苦悩即安心」という言葉をかみしめてみるというのはどうでしょうか。神経症を嘆くよりも、神経症のなったおかげで、神経質者としての生き方をより深く考えることできた。災い転じて福となすことができたということです。問題ある親の育て方を受けて、腹を立てていたことがあります。でもそのおかげで親業に参加し、集談会で子育てについてみんなで話し合う機会が持てた。それは親子関係で悩んだおかげで、生きる目的を持つことができたということではないのか。その苦い経験は無駄ではなかったということです。自分の子どもとの関係にはあまり応用できなかったが、今現在子育てで悪戦苦闘している人に対して少しは相談にのってあげることができようになった。また不器用な対人関係も、悩んだおかげでいろいろと学習することができた。今では人間関係で大きく落ち込むことはなくなった。苦悩や不安を否定しないで正しく向き合うと、それがきっかけになって、自分を一回り大きな人間に育ててくれるという側面があります。これが「煩悩即菩提」「不安即安心」という意味ではなかろうか。玉野井幹雄さんは「神経質にありがとう」という本を書いておられますが、災い転じて福となした人だと思います。
2023.03.26
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生活の発見誌2月号の巻頭言にある言葉である。この言葉は精神科医で小説家でもある帚木蓬生氏の本のタイトルである。副題に「答えの出ない事態に耐える力」とある。一般に「能力」とは、才能、才覚・処理や解決などのポジティブ・ケイパビリティを指しますが、ネガティブ・ケイパビリティはその裏返しで、生半可な知識や意味付けで、未解決の問題に拙速に帳尻を合わせずに、宙ぶらりんの状態を持ちこたえる能力のことです。問題点や改善点が見つけると、すぐに解決してすっきりしたいと思ってしまいます。しかし、現実的には、すぐに解決策や妙案が見つからないことも多い。それが事実ならば、イヤイヤ持ちこたえたまま、それでも生きていかなければならないのではありませんかと言われています。神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感は、欲望、欲求、目標、期待を持ったとき、対になって自然発生的に湧き起こってくるものです。不安と欲望はコインの裏表の関係にあると理解すれば分かりやすいと思います。欲望が湧き起こったとき、不安が湧き起こらない人は精神障害を抱えた人です。たとえば、統合失調症で、飛行機でレインボーブリッジの下をくぐってみたいと思いついて飛行機をハイジャックした人がいました。また冬場の寒いとき、トイレに行くのがつらいので、椅子をトイレ付に改造することを思いついて熱心に研究していた入院患者もいたそうです。高良武久先生がそんなことをすると部屋が臭くなるのではないかと言うと、「そこまでは考えていなかった」と返答したという。神経症に陥る人は、本来の目的を追い求めていく途中で障害となって立ちはだかってきた不安を見逃すことができなくなったのです。本来の目的を忘れて、不安を取り除くことが唯一最大の目的となったのです。ミイラ取りがミイラになったのです。森田ではこのことを「手段の自己目的化」と言います。森田理論学習によって、不安と欲望をコインの裏表の関係にあることを理解することは大変重要なことです。さらに大切なことは、それを生活の中で活用していくことです。不安を敵視しないで、不安を抱えたまま、生の欲望に向かって行動することです。イヤイヤ仕方なしの規則正しい生活は、心身ともに健康になります。帚木蓬生氏が指摘されているネガティブ・ケイパビリティはこのことを指摘されているのです。その段階に到達した人は、ひとつの素晴らしい能力を身につけた人と言えます。不安と欲望の取扱主任者という国家資格があれば免許皆伝となります。感情と行動は別物という森田理論の考え方を体得して、日々の生活を大いに楽しみましょう。これは森田理論の学習会に参加して、仲間と切磋琢磨することで身につくものと考えています。
2023.03.25
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北海道浦河のベてるの家の活動は、統合失調症を抱えている人たちの自助組織のような感じです。医療スタッフに支えられながら、絶えず仲間同士で集まり、ミーティングを重ねている。仲間同士で結束して、情報交換を行い、助け合い、仕事を持って自立している珍しいところです。ベてるの家の活動は、1982年浦河赤十字病院に精神科医川村敏明医師が赴任してきたときから始まった。その川村医師曰く。「ちょっと生意気なことをぼくがいうようだけど、(一般的な精神医療が)濃すぎるわけですよ、僕の実感としては、我々が薄い分だけここはいろんな、いわゆる仲間っていわれる人たちとの情報交換、助け合い、ミーティング等が用意されている。本人が自分自身のニーズに気づく、あるいはニーズに応じたものが用意されているんで、わたし、そんなに張り切ったり、そんなに治さなくてもいいわけですよ」精神科医ががんばらなくても、患者はミーティングや当事者同士の多様な人間関係に支えられて病気と向き合うことができる。そういうしくみが、この町には備わっている。精神科医がなにをするのかではなく、なにをしないかが問われ、その分患者や仲間、スタッフがなにをするかかが問われている。みんなが出番があって、みんながひとこと持っている。この、「ひとこと俺にいわせろ」っていう感覚がとってもいいような感じがする。20世紀前半のアメリカで画期的な精神医療をきりひらいたH・S・サリヴァンは、心の問題は「対人関係の障害である」といい、「似たものは似た者によって治される」と繰り返し述べている。その治療の柱は、精神病院に入院してきた患者に「似た者」、つまり患者にできるだけ共感できる資質を持つスタッフを寄り添わせることだった。そうすることで治療は多大な成果をあげたという。「似たものは似た者によって治される」というのは、ベてるの家でいう「仲間のところにいって治す」という言い方とよく重なっている。(治りませんように ベてるの家のいま 斉藤道雄 みすず書房 198ページ)この考え方は、神経症、精神障害、経済苦、心の悩み、依存症などに陥ってもがいている人たちに光明を与えるものです。一般的には問題を抱えると、精神科医、カウンセラー、公的援助機関に頼ることになります。それに加えて、同じような問題を抱えた人たちの自助組織に属して、人間的な交流を持つことがとても大事だということです。自助組織に属していないと、他者によって問題点を解決してもらうということになります。つまり自分の問題として、関わることができなくなります。自助組織に属していると、自分が当事者としてこの問題にどうかかわっていくのかという立場に立つことができるようになります。運営するために、さまざまな役割を分担することで、居場所や活躍の場が与えられる。問題を抱えて自分一人で孤立することを防止してくれる。問題解決に向けて別の方面からの取り組み方があることが分かります。情報や問題解決のヒントを見つけることもできる。問題を抱えたことが、自己洞察を深めて、人生をより深く考えることができるようになります。私は自助組織である生活の発見会活動によって、神経症を克服し、貴重な仲間と交流できるようになり、おまけに神経質者としての生き方まで手にすることができました。
2023.03.24
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北海道浦河の赤十字病院の精神科医川村敏明医師のお話です。私に「先生が治してくれました」、「先生のおかげです」っていう感謝を述べて退院していった患者さんが数多くいます。しかしその人たちはみな、再発して戻ってきました。(では自分は)感謝される医師なのかと。感謝されるような治療をして、全員が再発するっていうことは、・・・自分の仕事っていうのはなんだろうか、こんなに感謝されながら、みんなが悪くなる、これはなにか大事なことがそこにあるんだなっていうふうに考えるようになりました。思いあたることのひとつは、よくなる患者、つまりかんたんに再発することのない患者は、医者と「1対1」の関係のもとで回復しているのではない、ということだった。いろんな人のお世話になってよくなっている。あるいはあれこれの人間関係を作り出し、そのなかで自分を取りもどしていくという過程が、そこには見えてきたのである。そういう患者は退院するとき、いろいろな人に、意外な人にまで、「お世話になりました」と挨拶している。先生にだけお礼を言って退院するのは、だいたい再発して戻ってくる患者だった。そこに大事なことがみえてくる。病気を治すことより、もっとずっとたいせつなことがあるのではないか。ただ働くだけではない、もっともっと視野の広い生き方があるのではないか、そのようなまなざしを、医者や患者という関係を越え、人間に対してたがいに注ぐことができるようになったとき、私たちはそこに「恵みが多い世界」を見出すことになるだろう。そんな川村先生に、北海道浦河町のベてるの家のメンバーは鍛えられている。ちゃんと苦労をするように、悩みを増やすように、「ひとこと俺にいわせろ」といえるように。その期待に応えて、メンバーの松本寛さんは「統合失調症は友達ができる病気です」といった。林園子さんは「もう治さないでください」といった。山本賀代さんは「むなしさを絆に」といい、木村美枝子さんは「病気は宝だ」といっている。そして早坂潔さんは、川村先生と講演に出かけたある日、大勢の聴衆に向かってこういったことがある。「ぼくたちは、先生の失敗作です」治っていないし、治せていない。とはいえ、それがちょうどいいかげん、なのだ。そういう患者を育て、そういう患者に育てられ、治すというよりはつきあいながら、年月を経て先生がたどりついた姿は、「自然体」ということだったかもしれない。それはまた、ベてるの家の人びとが、それぞれに程度の差はあれ、たどりついた姿でもあった。(治りませんように ベてるの家のいま 斉藤道雄 みすず書房 201ページから211ページ要旨引用)「自然体」というのは、森田の世界では「あるがまま」ということではないでしょうか。神経症、統合失調症、命にかかわるような難病、理不尽な出来事、想定外の出来事に次々と巻き込まれてしまうのが人間の偽らざる真実です。それらを目の敵にして戦って取り除こうとするのではなく、イヤイヤ仕方なくでも受け入れていく生き方を目指すべきではないのか。排斥しないで、寄り添って共存する生き方です。そうすればエネルギーの無駄遣いがなくなります。森田の「生の欲望」理解して活用すれば、そのエネルギーの有効活用が可能になります。神経質の性格を活かして、小さなことに取り組むようにすれば、人の役に立つことが相当数できるようになります。さらに自己否定、他人否定をしなくなり、人間関係がよくなります。自分、他人、自然と折り合いが付き、共存共栄ができるようになります。そういう生き方ができるようになれば、人間に生まれてきたことに対して、感謝・感動できるようになります。
2023.03.23
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今日は「ベてるの家」の活動から確認行為について考えてみました。統合失調症の症状の一つに確認行為があります。とにかくなにかを繰り返し確かめずにはいられない。たとえば3時からミーティングがあるとき、ふとそれが気になると「3時ですよね」と周囲に聞いてまわる。何回も何回も確認しないと、いてもたってもいられなくなる。ひどいときにはそれが20回にも30回にもなる。周囲にとってわずらわしいことこの上ない確認行為は、本人にとってもまた、逃げようのないつらさ、苦しさだった。名古屋出身の林さんという女性は、その強迫的な確認行為がなぜ起きるのか、北海道の浦河にきてから仲間の力を借りて解明しようと努めていた。分かったことは、そうするのは「悩んでいる」、「疲れている」、「ひまで」、「さびしい」、「お金がない」か「おなかがすいた」ときに起きることが多い。それぞれの頭文字をとった「な・つ・ひ・さ・お」は、「ベてるの家」の名言としてたちまちメンバーのあいだに定着してしまった。しかも、時を置かずにこの「なつひさお」は疑惑顔をしたキツネのマスコットにキャラクター化され、べてるグッズキーホルダーとして発売された。「なつひさお」ということばがいかに迅速に、また広く浸透したかは、同じような経験をしているメンバーがどれほど多いかを端的に示している。彼らはみな、そういえば「なつひさお」だなと、自らの被害妄想や関係妄想、自傷行為が発生するメカニズムをピタリと言いあてられた思いだったのではないだろうか。林さんは、「ベてるの家」の仲間との交流から「いろんな応援をもらったり手助けをもらったり、いっしょに考えてもらったり」できるようになり、「病気でも、こんないいことがあるんだなと思えるようになっていった」という。彼女は主治医の川村先生にこう言ったという。「先生、こうこれ以上わたしの病気を治さないでくださいね。私は幻聴も聞こえます。ときに被害妄想が頭のなかにいっぱいになったりするときがあります。だけど、もうわたし、これ以上病気をなくしてほしいとは思っていませんと、むしろ病気をなくされたら困ると思っています」真剣な顔でそういわれて、さすがの主治医の川村先生も少し驚いたという。安易に薬を出さないことで有名な川村先生はこう返したそうだ。「これ以上、治したりしない。私は、あなたがあなたのように生きることを邪魔したりはしない」病気が治ったのではなく、病気があっても幸せと思えるようになってきた。林さんは疲れると確認行為に走るだけでなく、被害妄想も出るなど、どこか脆弱性を抱えていて、自分はやっぱり健康人とは違うと、心細くなることもあるという。そんなときはできるだけ、仲間と話すように心がけていたという。「名古屋にいるときは99%は、もうどっぷり病気につかっていたんですよ。それが浦河に来てから・・・(みんなが)あたしを病気の世界から外の世界に連れだしてくれたんですね、誘い出してくれたんです。だから私は今幸せ感があるというか、ほんとに幸せになったと思います」苦しさも楽しさも含めて、林さんにとって精神障害は「味わう」ものになっているのです。(治りませんように ベてるの家のいま 斉藤道雄 みすず書房 27ページ参照)私の確認行為は、今現在やっていることに意識が向いていないときに出てきます。ぼんやりしていた。うわの空になっていた。心ここにあらずで、他の様々な不安などのことを考えていた。林さんが「な・つ・ひ・さ・お」の状態になったときに、確認行為が頻発するというのはよく分かます。今現在に注意を集中しているときは、確認したという記憶が頭に残っていますので確認恐怖は起きません。念のために、2回3回程度の確認を繰り返せば収まります。林さんは、病気はこれ以上治さない。主治医の先生にこれ以上の治療はしないでくださいと言われています。病気を持ったままの状態で生きていくと言われています。そして仲間と助け合いながら生きていければそれで十分だと言われています。こういう心境になると病気のほうが張り合いをなくして逃げていくということになります。神経症に陥った人がそういう気持ちになれば、確認恐怖は軽減できるのではないでしょうか。
2023.03.22
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昨日の続きです。皆様を少しだけ神話の世界にお連れします。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトは姉と弟の関係にあります。天界でのスサノオノミコトの乱暴狼藉ぶりが目に余り、アマテラスオオミカミは天の岩屋戸に神隠れされました。太陽神であるアマテラスオオミカミが姿を消したのでは天界が暗くなります。神々が集まって相談しました。そして岩屋戸の外でどんちゃん騒ぎをして、アマテラスオオミカミを引きずり出しました。この騒動の発端を作ったスサノオノミコトは「高天原」(たかまのはら)という天界から地上界に追放されました。島根県出雲の地上界をさまよっていたスサノオノミコトは八頭八尾のヤマタノ大蛇(おろち)に苦しめられている親娘に出会いました。娘はクシナダ姫と言いました。大蛇を退治すれば、娘との結婚を許すと親から言われました。スサノオノミコトは大蛇と戦うことにしました。大蛇と血みどろの戦いを繰り広げて、見事に勝利を収めたのです。すると不思議なことに、大蛇の体内から太刀が出てきました。後にこの剣は、草薙(くさなぎ)の剣と呼ばれ、天皇家の三種の神器の一つとなりました。そしてスサノオノミコトはクシナダ姫と結婚しました。出雲の地で「妻ごみ」(妻がこもる場所 つまり新婚家庭)にちょうどよい場所を見つけて、新居の造営にとりかかりました。そのときスサノオノミコトが日本最古の和歌を詠まれています、八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を(意味)四方に湧き出る雲もまた、自分がよき妻を得たことを喜んで、二人の新しい住居に八重垣を作ってくれるであろう。すがすがしい歌です。自然を自分の分身、仲間としてとらえています。家を建てた場所は須賀(現在島根県雲南市にその地名があります)というところです。ここで注目すべきことは、人間と自然が対立しているのではなく、共存共栄の関係と捉えていることです。この点については今野華都子氏が次のように説明されています。平穏に見える日々、その中で移り変わる四季に命の無常さを感じ、自然現象の地震も雷も台風も火山の爆発も誰も止められないものであり、その一方で太陽、風、水、土の大いなる力は食べ物という恵みをもたらし、私たちを生かす表裏一体のもので「良し、悪し」は同じである事を体験から知っているのです。(はじめて読む人のための「古事記」 今野華都子 致知出版社 121ページ)これは人間と自然の関係だけではなく、人間と人間の関係にも波及してくる。支配・被支配という縦の関係ではなく、それぞれの独立した意思を持っている人間がお互いをリスペクトし合い、平和な共存共栄を図る横の関係を目指している。「おてんとうさまが見ているから人様の迷惑になるようなことはできない」という気持ちを持っている日本人は多い。人を貶めて自分だけが幸せをつかむという考えは日本人にはむかない。昔の銀行は護送船団方式といって、破綻しそうな銀行が出てくると、つぶれないように他の銀行が経営の立て直しに協力していた。こういう持ちつ持たれつの人間関係で全体が丸く収まっていた。森田理論は観念中心の「かくあるべし」を他人に押し付けることを嫌います。自己中心的観念中心の世界から、事実本位の態度を身につけることを目指しています。こういう視点が古事記の中にあることを森田先生は直感的に見抜かれていたと思われます。それでないと森田先生の著書ではなく古事記を読ませていたという意味がよく分からない。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 98ページ参照)
2023.03.21
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わが家のベランダも花が咲き誇っています。アジサイも緑の葉をいっぱいにつけています。冬眠から覚めてメダカが元気になりました。いよいよ桜が咲いてきました。桜といえば大阪造幣局の八重桜を思い出します。花見が予定されています。春は楽しみで一杯ですね。
2023.03.20
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水谷啓二先生のお話です。森田先生の入院療法を受けておられたころのことです。起床を許されてから、作業の時のほかは、毎日日記をつけていたこと、それから朝起きた時と夜寝る前に、5分間くらいずつ古事記を音読する習わしになっていたことを、今でも記憶しております。「意味はわからなくなくても、ただ棒読みするだけでよい」とのことでありましたが、それならば論語とか、お経とか、聖書とかいうものを読ませないで、古事記を読まされるのか、ということが私にとっては一つの疑問でありました。意味が分からないまま、仕方なく古事記を音読しておりました。その後だいぶ年月が経ってから、私には古事記を読まされたわけが、ふと分かってきました。どうわかったかといいますと、古事記にいうところの神々とは、いわゆる多神論的な神々ということではなく、純なる人間、かねて先生のいわれる「真人間」のことである、と全身心をもって納得できたのであります。先生は、その晩年の著書である「神経質療法への道」第一巻のはじめに、次のように書いておられます。「神経質が、自ら劣等感に駆られ、あるいは種々の強迫観念に苦しんで、我と我が身をかこつのは、単に劣等感のために自暴自棄となるのではない。この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたいとの憧れに対する・やるせない苦悩であるのである」この真人間、つまり純なる心に生きる人間こそ、古事記にいうところの神々でありました。(生活の発見誌 1970年(昭和45年)5月号 7ページ)ここで「真人間」「純なる心」ということばが出てきました。自分の気持や感情に素直に生きるということだと思います。自分の置かれた境遇、運命、事実、現状をあるがままに受け入れる。観念で素直や気持ちや感情を押さえつけてはいけないということです。観念優先ではなく、あくまでも事実優先の立場で生きていくということです。そして自分の持っている能力を活かして生の欲望に邁進していく。森田先生は、ある地方で開かれた座談会で、「先生は神を信じられますか?」と質問されたのに対し、「古事記の神を信じます」と答えられたことがある。古事記の神というのは、むかしそういう神がいたかどうかという・歴史的事実を問題にしているのではないのであって、古事記の神々に現れているところの、生き生きとした人間性を神とするならば、「それを信じる」ということなのである。たとえば、古事記によると、スサノオノミコトは、その母イザナミが亡くなられたとき、その泣く様は「青山を枯山なす泣き枯し、河海は悉く泣き乾しき」とある。母の死を悲しんで、長いあごひげが胸もとにかかるほど伸びるまでに、号泣に号泣したということであるが、なんと壮大にして純情な泣き方であろう。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 98ページ)森田先生も一人息子の正一郎君が亡くなって出棺というとき、非情に悲しまれ、はらわたを断つように慟哭されました。これは古事記のスサノオノミコトのすさまじい感情表出とよく似ています。森田先生は古事記のなかに「純な心」を見通されていたのだと思われます。さらに古事記を読んでいると、天孫降臨によってスサノオノミコトが出雲の地に舞い降りたところから始まっている。普通外国の歴史を見ると、もともと住んでいた原住民を武力で侵略して、その人たちが貯えた冨や財産や人を略奪して自分のものとする。そして原住民を奴隷として奉仕させるという悲惨な歴史の繰り返しです。古事記を見ると、日本の為政者は、私利私欲を追求するために日本国を作ったわけではないのです。国民を幸せにすることを第一に考えていたのです。さまざまな天災や紛争に翻弄されながらも、すべての人が平和で豊かに楽しく暮らしていける国を作ろうとしていたわけです。それは国民の象徴と言われる天皇の和歌に表われています。仁徳天皇高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎわいにけり明治天皇罪あらば 吾をとがめよ 天つ神 民はあが身の 生みし子なれば日本では大震災が起きた時、社会の秩序を乱す行為や略奪行為は基本的には見られません。それは日本人のDNAのなかに、諸外国とは違う別の遺伝子が入っているからだと思います。森田先生は、古事記のなかに本来の人間の進むべき道を洞察されていたのだと思われます。これについては、明日の投稿とします。
2023.03.20
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北海道の浦河町にある「べてるの家」のお話です。統合失調症の患者の6、7割にあらわれるという幻聴は、とても一筋縄ではいかない厄介な相手だ。頭のなかに、現実にはありえない人の声や音が聞こえ、しかも多くは「死ね」とか「バカ」といった否定的なことばで人を傷つけ混乱させる。朝から晩まで1年365日こんなことをいわれていたら、ほんとうに頭がおかしくなってしまう。そういう人は、病院で大量の強い薬が処方されるのが一般的です。その薬物治療は、考えることも、動くこともできなくなってしまいます。一時的に症状を抑えられたとしても、またすぐに再現されてしまう。「べてるの家」では、そんな無理はやめて、幻聴がどうせなくならないのなら、いっそ仲よく暮らすことはできないだろうかと考えたという。そして1990年代、「死ねバカ」系の幻聴に、「幻聴さん、きょうはどうかおとなしくしていてくださいね」とていねいに対応したところ、「そうか、それじゃあ」と、おとなしくなる幻聴の例が次々に報告されたのである。もちろん、それで幻聴がなくなるわけではなく、せいぜいおとなしくなる程度で、しかもそれがどのメンバーにも起こるわけではないのだが、それでもこれは当事者にとって瞠目すべき対処法だった。もうひとつ、浦河弁で有名なのが「お客さん」だ。お客さんというのは、頭のなかに浮かぶネガティブな思考全般のことである。たとえばミーティングに出ようとしたとき、「仲間はみんな、自分のことを嫌っているのではないか」というネガティブ思いが頭に浮かび、尻ごみするようだったら、それは「お客さんがきた」、あるいは「お客さんが入ってきた」という。きらわれているだけではなく、自分はダメな人間だ、他人が自分の悪口を言っているのではないかという疑念、なんでもない仲間のひとことが自分を非難しているのではないかという思い込みもまた「お客さん」である。幻聴と似ているが、幻聴が音やことばであるのに対し、お客さんは想念であるところがちがう。そしてまたこれがじつに便利な用語で、浦河の日常生活では挨拶のように使われている。お客さんがなぜ便利な言葉かというと、メンバーはそれで自分のいまの心理状態をリアルタイムで周囲に伝えることができるからだ。「いまお客さんだらけになっています」「その話されると、お客さんくるんだよね」といいながら、自分の心のなかを開示し、ほとんど裸の自分を伝えていく。さらに、頻繁に使われることばとして、「誤作動」がある。「仲間に無視されている」「きらわれている」といったお客さんや、「攻撃されている」といった被害妄想があり、自分が過剰な反応をしているとき、また意図しない反応をしているような場合、それは誤作動だという。旧来の概念でいえば「妄想だ」と決めつけられるような場合であっても、「誤作動だ」と言い換えるとメンバーは納得しやすい。誤作動が言葉として定着しているのは、語感の新鮮さもさることながら、言葉が実際に当事者の感覚にあっているからだろう。べてるの家では症状と敵対しないで、「さん」づけで丁重に取り扱っている。症状で苦しいときは、お客さんが来ていて対応しなければならないので、他のことに手が回らなくなると周りに伝える。症状に振り回されて、支離滅裂な言動をしてしまうのは、ブレーキとアクセルを踏み間違えるような誤作動が起きているとみなす。「べテルの家」では、統合失調症などの精神疾患を抱えている人たちが、力を合わせてお互いに助け合いながら仕事や生活をしています。幻聴や病気が出てきたとき、まるで第三者が外から症状を観察するような感じになっている。それがミーティングを通じて仲間同士共通認識として定着しているのです。自分も許されるし、相手も許すことができているのです。(なおりませんように 斉藤道雄 みすず書房 18ページ)この話は神経症との付き合い方に応用できるかもしれません。神経症を「さん」づけで呼ぶ。対人さん、確認さん、パニックさんなどと呼ぶ。痛めつけようと思っている神経症のほうは居心地が悪くなるのではないか。神経症でパニックになっとき、頭のなかにお客様がきたと考える。お客様がきたときはそれなりに対応しなければならないので、それ以外のことには手が回らない。手がすくまで、ちょっと待ってください。神経症で逃避してしまうときは「誤作動」を起こしている。誤作動を修正するので多少時間をいただきますので、ご了承願います。集談会は神経症で悩んでいる人や以前に悩んでいた人の集まりです。このようなやり取りができると、神経症の見方が変わってくるのではないでしょうか。
2023.03.19
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田原綾さんのお話です。田原綾さんは、森田先生のご親戚にあたり、娘時代に20年以上も森田先生のそばに居られ、先生が亡くなられるまで身の回りの世話をなさったのです。先生が立ってお話をしていらっしゃる時に、気をきかせたつもりで椅子を出すと、「お前さん、わしが坐ると思ったのか。わしゃこの通り坐らん」と言われ、そうかといって、椅子を出さないと、「お前さんわしが疲れているのに、なんで椅子を出さないのか。わしゃ坐りたい」と催促されました。私は少々横着者でしたし、先生のあまのじゃくが嫌になって、「今度から知らぬ顔をしてやりましょう」と思い、気付かないふりをしておりますと、「椅子!椅子!」と大きな声で言われました。このような先生のあまのじゃくも、いろいろと考えられた上でのことだったでしょうに、あまり身近であるがゆえの甘えから・横着にしてしまったことを、今ではたいへん申し訳なく思っております。水谷千賀氏注=先生が立って話をされているとき、一がいに決めるわけにはいかない。ちょっとした立ち話なら出さない方がよいし、立ったままの話が長びくときには、疲労されるから出した方がよい。それは先生のご様子を見ながらお話を聞いていると、自然にわかることである。椅子を出すか出さないかを観念的に決めるのではなく、先生のご様子を見ているうちに・自然に出てくる行動が本ものであり、事実唯真である。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 68ページ)この話は行動する時は、観念的にあらかじめ決めてしまうのではなく、その時の状況をよく見極めて、その場にぴったりと適合するような方法を選択する必要があるということだろうと思います。森田先生は、「変化に臨機応変に対応する」という森田の理論の重要なポイントをこのような身近な例を取り上げながら具体的に説明されていたのです。気ままで自分勝手な行動のように見えますが、その奥に感動の涙が出てくるような思いが詰まった行動だったということです。森田先生は人の上げ足をとることが多かったと聞いておりますが、それにもかかわらず、たくさんの人が集まってきた。不思議なことです。また入院料は自由診療とはいえ法外に高額だった。裕福な人でない限り、入院森田療法を受けることはできなかった。にもかかわらず、「形外先生言行録」を読んでみると、先生のご恩に対して感謝感激して慕っている人たちばかりです。それは神経症克服の確かな理論を持っておられたこともあるでしょう。でも一番は人間愛がとてつもなく深かったことにあるように思います。たとえ自分が悪者とみなされても、一人でも多くの神経症者を真人間に変えたいという強い信念をお持ちだったようです。そういう理論を学ばせていただいている私たちは幸せ者です。
2023.03.18
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森田寮に入院した人のなかに河原宗次郎氏という方がおられました。この方は額縁商として成功されて25人くらいの社員がいたそうです。その方のお話です。商店組合の幹部に選ばれたりしたとき、履歴書を書くのですが、どうも「小学校卒」とは書きたくないのですね。何とか多少の学歴はあるかのように、てらって書きたいのですね。私は広島の生まれなんですが、広島に明道中学という、すでに廃校になった中学がありますので、「明道中学卒」と書いたりしました。これなら、ウソであることが人にはわかりませんからね。また、あなたの生家のご商売は何ですか」と聞かれると、ほんとうは「うどん屋」だったんですけれども、「食料品販売業です」とか答えていました。こういう、表と裏の食いちがったような生活をしながら、ごまかしをやっていますと、神経症にひっかかります。それはあるがままではなく、ごまかしでありインチキですから、いつも人から真相を見破られはしないかという不安がつきまとい、日常生活が防衛的にならざるを得ませんからね。水谷先生が私の一生を「草土記」という本にまとめてくださいました。よく売れた本です。それで隠しようがなくなりました。今ではさっぱりしたといいますか、ありのままを話せばいいわけですから、非常に気持ちがいいです。また、「私は小学校卒だ、うどん屋のせがれだ」とありのままをいっても、人びとからバカにもされないで、むしろ「その割には成功しやがったな」ということでほめてくださいます。水谷先生に「草土記」を書いていただいたおかげで、私の気持ちがきれいに洗われたといいますか、表面的な見せかけをかなぐり捨てて、自己本来のあるがままの姿にしていただいた、ということが言えるんじゃないでしょうか。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)9月号 37ページ)誰にも人にはとても話せないような、秘密にしておきたいようなことはあります。ことさら取り上げて公開する必要はありませんが、これを隠す、ごまかすことにエネルギーを投入することになりますと問題が起きます。うまく隠したとしても、どこかにほころびが見え隠れしています。そのほころびが気になり、さらにそれを隠すために、多量の時間やお金をかけて隠蔽工作をしなければ今までの努力が水の泡になってしまう。すべてがみんなの知るところになりますと、信用は地に落ちてしまいます。自分の恥部はできる限り隠さないと、みんなから仲間外れにされて孤立してしまうという強迫観念があるからだと思います。事実は反対です。事実を勝手に誤認しているのです。自分の恥部を隠さないで、さらけ出す人ほど人が近づいてきます。たとえば学校のテストで平均点が60点くらいの時、30点くらいの答案をみんなに公開できるような人は、「こんなところで間違えたのか」とからかわれながらも、人との距離はぐっと縮まります。集談会でも体験発表で感極まりながら、自分をさらけ出す人はほとんどよくなっています。反対にあたりさわりのない、自分の都合のよいところばかりの体験発表は、いま一つというところがあります。ただしこれは別に問題があるということではありません。さて、私たちは森田で「事実唯真」ということを学びました。この言葉は森田理論の中でも重要なキーワードです。これは自分の恥部を隠さすための工夫をやめると、エネルギーの無駄使いがなくなる。その貴重なエネルギーの温存が可能になる。問題のある事実にしっかりと足場を固めると、今度はそこを出発点にして「生の欲望」の発揮に向かって切り替えることが可能になる。つまり逆転人生の幕が切って落とされるということになります。すぐにはできなくても、そういう方向に向いていることが大事になります。集談会などで切磋琢磨していると、次第に身についてきます。
2023.03.17
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水谷啓二先生が19歳で森田寮に入院されていた時のことです。森田先生が話の途中で「どうだ、水谷君、わしの話がわかるか?」と聞かれました。そのとき私は心のなかで、「わからないことは分からないと答えるべきだ」と思い、「わかりません」と答えました。話はさらに続きましたが、しばらくしてまた私に、「どうだ、わかるか?」と聞かれました。それに対し、私はやはり「わかりません」と答えました。先生は話を続けられましたが、さらに三度目に、「少しはわかるか?」と聞かれました。それに対して私は、強情にも「少しも分かりません」と答えたのであります。すると、森田先生は激しい剣幕で叱責されました。わしの話を聞きたくて集まっているほかの人たちに、少なからず迷惑をかけたという事実が分からんのか。君のような強情なやつは治らんから、即刻退院し給えと叱られた。(生活の発見誌 1970年(昭和45年)5月号 8ページ)この話は人間関係の持ち方に大変参考になる話です。自分の素直な気持ち、感情、過去の経験からこれは間違いない、絶対に正しいと思っているようなことを安易に口に出してはまずいということだと思います。これに関して、私の集談会でも苦い経験があります。若い女性の方でお化粧に力を入れておられる方がおられました。私もちょっと化粧が濃すぎるのではないかと内心思っていました。ある男性の方が、その気持ちをストレートに口にされました。その女性の顔つきがとたんに変わりました。1年くらい熱心に勉強されていた方でしたが、それ以降、幹事・世話人が入れ代わり立ち代わり、参加を促す働きかけをしましたが願いは叶いませんでした。正直で間違いのない事実を安易に口にしたことが命取りになりました。これは彼女にとっても私たちにとっても不幸な出来事でした。高良武久先生も同様のことを言われています。顔色の悪い人に、「あなた何かガンのような大きな病気を抱えているのではないの。その調子では長くは生きられないよ。きっと早死にするよ」実際にそれが事実であっても、安易に口にしてはいけないと言われています。では自分の素直な気持ちや感情、これは間違いない、絶対に正しいと思っているようなことを口にすることは抑制しなければならないのか。自分の正直な気持ちをごまかしてウソをつけということなのか。そういう反発を持たれる方もおられるでしょう。酷なことを言うようですが、結論からいうとそういうことです。観念優先の態度の人は承服しがたいことかもしれません。そのような理不尽な話は聞きたくないかもしれません。ましてや事実を正直に伝えるほうが、その人のためになると思っている人は、とても納得できる話ではないでしょう。また神経質性格の人は、不快感を取り除いて早くすっきりしたいという気持ちが強いために、相手を思いやることには気が回らない傾向があります。自分の正直な気持ちを口外したくなっても、あるいはゆるぎない確信に近い事実を掴んでいたとしても、相手の気分を害するようなことは決して口外しないという気持ちをしっかりと持っておくことが重要になります。相手に対して自分の気持や感情、欲求や欲望を口外したくなった時、相手はどんな気持ちになるだろう。自分に言われたらきっと不快な気持ちになる。腹が立つ、バカにされたと思う。相手を憎むようになる。仕返しをしたくなる。そういう気持ちになるようなことは、相手も同様な気持ちになるということです。そういうときは、感情と行動は切り分けないといけません。ストレートに口にしてはいけないのです。口外するにしても、その前に相手の気持ちや感情を聞いてみる。分からなければ、自分の言いたいことは先延ばしするしかない。あるいは、相手のことを思いやったやさしい言葉を投げかける。それをウソというのなら、ウソでもいいのではないか。森田でいえば自己主張する前に、相手の気持ちや感情を優先的に考えるということだと思います。そのことを人情から出発すると言われています。自分の正直な気持ちのままに言いたいことを言う人は、遊びのない車のハンドルを操作しているようなものです。遊びのないハンドルは、ちょっとしたハンドル操作にタイヤが敏感に反応しますので、大変危険ということになります。そのために遊びという緩衝帯を設けているのです。これは人間関係の場合はもっと深刻な事態を引き起こします。
2023.03.16
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平澤興氏のお話です。今の時代は欲しいものは何でもすぐに手に入る。これは一面ありがたいことだが、しかし反面では、知らぬ間にいろいろの弊害、たとえば物への感謝を忘れたり、がまん心を弱くしたりするマイナスの面もある。子どものおもちゃにしても、物の少なかった昔のこどものようながまん心はなく、欲しいものは何でもすぐ買ってもらい、それにもすぐ飽きて、また新しいものを求める。それを拒めば買ってもらうまでうるさくつきまとい、ついに親が根負けして、また新しいものを買うことになる。こども自身はそれで満足しているかというと、どうも必ずしもそうではない。たえず新しいものへの欲望が強く、満足感よりもむしろ欠乏感のほうが強いようだ。がまんということは、わがままな動物的欲望を捨てて自己を抑えることだが、これは、人が動物的自己を捨てて高い精神的自己を伸ばすには絶対に必要なことである。がまんには大別して消極的がまんと積極的がまんがある。消極的がまんというのは、たとえばほしいものがあっても、それなしに我慢することである。積極的がまんとは、あまり勉強に気の向かない子が、勉強の時間が来たので予定に従って勉強するような事である。(夢と人生 平澤興 PHP 112ページ)今日は消極的な我慢についてみていきたい。新製品、高付加価値の商品などが出た場合、どんどん買い替えることが多くなっています。パソコンやスマートフォンなどは、個人データーが含まれており、消去して処分しようとすると費用が掛かります。そのまま自宅で保管しているという人も多いのではないでしょうか。大型テレビ、冷蔵庫、クーラーなどはリサイクル料がかかります。家の中にそのまま放置したり、山奥に投棄する人があとを絶ちません。欲望にまかせてすぐに手に入れることのデメリット・お金がかかります。あくせく働かないと、支払いに支障が出ます。・以前使っていたものが粗大ごみに変わります。・存在価値がなくなります。活躍の場がなくなります。・使わなくなったものが、家の中にあふれて、保管場所に困るようになります。・まだ使えるものを平気で捨てるようになります。・あるもの、持っているもので我慢する力が衰えます。・どんな悪い手段を使ってでも欲しいものをすぐに手に入れようとします。・親や祖父母の援助を期待するようになります。依存的になります。・欲しいものを手に入れるために他人と対立するようになります。・欲望が欲望を生み出して、際限がなくなります。・一時的な喜びや感動はありますが、すぐに飽きてしまいます。・あることが当たり前になり、無いと精神的にイライラするようらなります。・持っていることの有難さ、感謝の気持ちが希薄になります。・生きている喜びは刺激的、刹那的、快楽的になります。欲しいものを我慢することのメリット・今持っているものを大切に取り扱うようになります。・すぐに飛びつかないので、お金の無駄使いがなくなります。・寄付ができる余裕が出てきます。・森田のものの性を尽くす実践になります。それは己の性を尽くす、他人の性を尽くす、時間の性を尽くす、お金の性を尽くす方面に波及してきます。・自他ともに存在価値を高め、さらに活躍の場を提供できるようになります。・自然破壊がなくなり、自然と共生できるようになります。・大切なもの、必要なものに囲まれて愛にあふれた生活が送れるようになります。・無駄なものが少ないので、家の中がすっきりと整理整頓できるようになります。・自分の持っている能力を高めることができるようになります。・親や祖父母に依存しなくても生活できるようになります。・人と対立することが少なくなり、友好的な関係に入れるようになります。・現状に満足できて、精神的に安心感、安定感が生まれます。・小さなことに喜べるようになり、生きる楽しみが増えてきます。欲しいものが出てきたとき、すぐに飛びつくのは如何なものでしょうか。一旦立ち止まって、それに代わるものを持っていないか。どうしても手に入れないと生活に大きな支障があるものなのか。少しだけ不便を我慢することはできないものか。今持っているものを改良して使いやすくできないか。欲望が暴走すると、それを制御することはできなくなります。欲望に振り回されると、生きがいを失い、後で後悔することになります。それよりも、縁あって自分に関わりあるものを、最後まで大切に取り扱って、感謝されるような生き方のほうが森田的な生き方に近いように感じる。
2023.03.15
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一昨日の集談会で怒りの感情にどう対応すればよいのかという話し合いがありました。怒りの感情は自然現象であってどうすることもできないというのはみんなよく知っています。問題は、怒りの感情が湧き上がった時に、つい売り言葉に買い言葉の対応をとってしまうということです。ではどのような対応をとればよいのか。森田では感情は自由にならないが、行動には意思の自由があるという。相手を殺したいほどの激しい感情が湧き出たとしてもそれは自分の責任ではない。感情のままに行動することを抑えることができれば満点の対応となります。感情と行動はきちんと区分けして対応すればよいのです。ただ言うは易く実行は難しい。森田理論では、どんな激しい感情も一山登れば、ひと降りしてついには消滅する運命にあるという。この理論を自分のものにしている人は、ネガティブ感情はそのままにして一山登らせる。その途中で抑圧することはしない。感情を押さえつけるのは逆効果です。湧き起こってきたネガティブな感情にきちんと向き合っています。そのままにして見守ることができる。そして頂上に到達するまでしばし待つことができる。我慢することができる。あるいは間をとるのが上手な人です。行きつくところまで行けば、下り坂に向かうことが予測できて、その通りに行動できるのです。それはたくさんの失敗を重ねて自分のものにしているのです。次に森田理論では人間関係は「不即不離」にあるという。これは森田理論のなかで出てくるものですが、知らなかったという人もいます。これは人間関係の適切な距離感をどのように作り出すかを教えてくれている。この理論によれば、対立的な人間関係になりそうなときは、緊急避難的にすぐに離れることが大切だと教えてくれている。危険を回避する。逃げるというのは相手に負けたような気持になります。でも逃げることによって人間関係にひびが入ることを防止してくれている。逃げるというのは大いに評価されてよいものだと思います。勇気ある積極的な撤退ということになります。必要ならば、いったん逃げて、態勢を整えて再度出直すというのが普通の人のやり方です。怒りにまかせて暴言を吐いてしまうのは、手出し無用な時に、あえて火中の栗を拾うようなことになります。無理をして敢えて近づいているのです。これは最悪の対応となります。その結果犬猿の仲になっているのです。周りから人が離れていきます。時には修復できない大やけどをしているのです。あとでもう少し待てばよかったと後悔するようになります。この場合は火の勢いが弱まった時に、火鉢で取りだして冷めるまで待てば問題にはなりません。不即不離の関係を自由に使いこなすことができれば、無理をしないので人間関係が壊れることはなくなります。せっかく森田理論で不即不離の人間関係のコツを理解したのにそれを活用しないのはもったいないことです。また、このブログの「人間関係」のカテゴリーには425の投稿記事があります。私は人間関係で困った時はこれを取りだして読んでいます。自分が書いたものながら、これが大いに役に立っています。人間関係に問題を抱えている方は、このカテゴリーの中から自分に合った対応方法を見つけて活用していただければ、人間関係は大いに改善できると思っています。森田の「不即不離」を応用して、必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係作りを心がければ、孤立することはなくなります。むしろ人との付き合いは自分の人生を豊かに彩ってくれます。
2023.03.14
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横田南嶺氏のお話です。沢庵宗彭の「不動智神妙録」という本に「急水上に毬子を打す。念念不停留」とある。これは、流れる水の上に毬を投げれば、決してとどまることはありません。つかまえようとすればするほど逃げてしまいます。人の心もこれと同じで、常に固定しないで動き続けている、という意味です。状況は変わるものです。昨日はこれでいいと思っても、今日はそれが通じるわけではありません。不動の心は動かないのではなく、つねに動きながら対応できるものだと思います。これと似た意味の言葉に「悟りとは永遠の運動である」があります。悟りというのは、「あっ、これで終わった」という到達点ではありません。流れる水の上でとどまらない毬のように、ずっと動き続けていくものです。ですから私たちは、安定して止まってはいけません。安閑としていたら、どんどん流されてしまうだけです。「これでいいのだ」と止まったとたん、流れる急水に押し出され、翻弄されてしまうでしょう。つねに状況を読み、成長していくことが激流を乗り越える智恵ではないでしょうか。(二度とない人生を生きるために 横田南嶺 PHP 130ページ)「変化に対応する」という説明は、岩田真理氏の「流れと動きの森田療法」という本の中で分かりやすく説明されています。これによると人生はサーフィンのようなものだと言われています。サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはなりません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば、素晴らしいスピード感が体験できます。自分だけの力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。(64ページから65ページに詳しく書いてありますのでご参照ください)神経症は、不安、恐怖、違和感、不快感をなくしようと悪戦苦闘しているうちに、精神交互作用で蟻地獄の底に落ちていくのです。神経症的な不安は、欲望の反面として発生しているものですから、不安を抱えたまま、生の欲望の発揮にエネルギーを投入した方が万事うまく収まります。後ろ髪を引かれるような気持を抱えることになりますが、あえて目の前の変化読み、その変化に飛び乗っていくという態度になると神経症で苦しむことはなくなります。宇宙で起きている出来事は常に流動変化しています。私たちの精神活動も、宇宙の法則に合わせることが大事になります。
2023.03.13
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鍵山秀三郎氏のお話です。10年偉大なり、20年畏るべし、30年歴史なる。何ごともあきらめなければ、必ず報われる。(二度とない人生を生きるために PHP 39ページ)この言葉は、目標を持って挑戦している人にとって勇気が出る言葉です。鍵山氏は、掃除道を究めることで、自分磨きをされていました。掃除は難しいことではなく、誰でもやろうと思えばできることです。ただそれを愚直にていねいに継続してきただけです。東証一部の会社の社長さんが掃除、それもトイレ掃除に精魂を傾けてきたというのが好感が持てます。まさに「凡事徹底」です。この座右の銘は下村胡人の本から得たものだと言われている。生活の発見会のルーツをたどれば、下村胡人の煙仲間の社会運動にあることを考えると、実に感慨深い。10年経過したころ、同調する人、共感する人、賛同する人が現れた。20年経った頃、掃除の効用を訴えて全国を講演して回るようになった。30年経った頃、「日本を美しくする会」を発足して、全国展開するようになった。まさに掃除道を通じて歴史を作ってきた人です。アルトゥール・ショーペンハウアーは次のように言っている。①正しいことをやれば、最初は人から嘲笑される。②あえて愚直に取り組んでいると、激しい抵抗と反対を受ける。③①と②が過ぎると、そんなことは最初から分かっていたと、みんながやるようになる。(同書 42ページ)鍵山氏は掃除道に愚直に取り組んでいった人です。その道は決して平たんな道ではありませんでした。その歩みを振り返ってみると、山あり谷あり苦難の連続でした。最初は周囲の人は冷ややかに見ていた。そのうち嫌がらせを受けるようになった。社長がそんなことをしているから、我々社員は卑屈になる。掃除をする時間があるのなら、会社経営のほうに力を入れるべきである。お前は会社をつぶすつもりか。などなど。そのうち自分のことを批判していた効率重視の同業他社がつぶれていった。自分の会社はしだいにお客様から支持される会社になった。そして東証一部上場会社になった。掃除で周りがきれいに変わった。すると自分の心も変わってきた。続いて社員や取引先の人の心が変わってきた。この運動に賛同する人が次々に現れて盛り上がりを見せるようになった、凡事徹底の持つ意味を多くの人に再認識させることができた。私たちの大先輩である三重野悌次郎氏は、「雑事を無視して私たちの人生はない。雑事に丁寧に取り組むことによって、私たちの人生は活性化する」と言われていました。西川きよし氏の「大きなことはできませんが、小さなことからコツコツと」という言葉をスローガンにして、凡事徹底に取り組みたいものです。
2023.03.12
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ディグニティセラピーは、カナダのハーヴェイ・チョチノフによって開発されました。これは森田理論でいうと「まとめ」にあたるものです。森田のまとめは、一通り学習が終わった後に行うものです。症状の成り立ち、生の欲望、誤った認識などを森田理論に沿って整理します。まとめをして体験発表を行い、参加者からアドバイスをもらいます。すると今後取り組むべき課題がさらにはっきりしてきます。生活の発見会が出している「改訂版 森田理論学習の要点」の項目に沿ってまとめればよいのです。難しいことではありません。まとめをしない森田理論学習は、ワサビのない刺身を食べるようなものです。ディグニティセラピーは、自分の人生を振り返って考えをまとめるものです。あるいは家族や仲間に対しての気持や要望を整理するのです。これに取り組むと人生のまとめができて精神的に安定します。ディグニティセラピーは、次のような人に取り入れられています。・治る見込みのない病気を抱えた人。・歳をとって意気消沈している人。・人生に絶望して、抑うつ状態にある人。・生きる意味を見失い、苦悩している人。・投げやりな気持ちになっている人。次のような質問が用意されています。1、あなたの人生において、特に記憶に残っていることや最も大切だと考えていることは、どんなことでしょう?あなたが一番生き生きしていたのは、いつ頃ですか?2、あなた自身について、大切な人に知っておいてほしいこととか、覚えておいてもらいたいこととか、何か特別にありますか?3、(家族、職業、地域活動などにおいて)あなたが人生において果たした役割のうち、最も大切なものは、何でしょう?なぜそれはあなたにとって重要なのでしょう?あなたはなぜそれを成し遂げたのだと思いますか?4、あなたにとって、最も重要な達成は何でしょうか?何に一番誇りを感じていますか?5、大切な人に言っておかなければならないと未だに感じていることとか、もう一度話しておきたいことが、ありますか?6、大切な人に対するあなたの希望や夢は、どんなことでしょう?7、あなたが人生から学んだことで、他の人たちに伝えておきたいことは、どんなことですか?残しておきたいアドバイスないし導きの言葉は、どんなものでしょう?8、将来、大切な人の役に立つように、残しておきたい言葉ないし指示などはありますか?9、この永久記録を作るにあたって、含めておきたいものが他にありますか?集談会ではエンディングノートの話を聞くことがあります。自分の財産、不動産、借金、加入している団体、加入している医療保険、損害保険、火災保険、自動車保険、先祖様の墓、菩提寺、暗証番号のリスト、年金関係の書類、鍵の保管場所、実印、マイナンバーカード、免許証、クレジットカード、ペット、大切にしていた持ち物、友人、親戚、かかりつけの医者、持病、世話になっている人、趣味でつながっている人、電話番号などを整理しておくことです。それらに加えて、ディグニティセラピーの項目を参考にして、自分の足跡をまとめておくことは人間として生を受けたものとしての務めになるのではないでしょうか。当然幸せな人生を送った人の話は役に立ちます。それ以上に役に立つのは、後悔の多い人生を送った人の体験です。自分の後悔の多かった人生をまとめて、人様の人生の参考に供すれば、それは恥ではありません。大いなる社会貢献をしたことになります。すべての後悔は許容されるのではないでしょうか。私も後悔の多い人生をこのブログで包み隠さず公開していきたいと思っています。まさに俎板の鯉のような気持ちです。
2023.03.11
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3月号の生活の発見誌に次のような記事がありました。10年ほど前に本部の基準型学習会に参加して、思想の矛盾というのを初めて教わりました。その後になり、私は長い間「かくあるべし」に縛られていることに気が付きました。症状は対人恐怖で、人としらけてはいけない、話は続かなければいけない、失敗してはいけないなどということです。この思想の矛盾はどうしたらなくすることができるのでしょうか。この方は森田理論学習によって「思想の矛盾」が、人間関係の葛藤や苦悩の原因の一つになっていることに気付かれました。それだけでも森田理論を学習したかいがありましたね。森田理論学習に出会わなかったら、辛い人生で終わった可能性が高いです。「思想の矛盾」は、自分の立ち位置を雲の上に置いて、地上にいる自分を非難・否定しているようなものです。自分という一人の人間のなかに、理想主義や完全主義に凝り固まった人間とさまざまな問題を抱えて悪戦苦闘している二人の人間が同居しているのです。解決策は雲の上にいる自分が、地上に降りてきて、さまざまな問題を抱えた自分に寄り添うことです。つまり観念優先から事実本位に軸足を移すことで問題は解決します。私はその方法は9つあると思っています。1、「かくあるべし」の弊害と事実本位の利点について理解を深める。2、自分の中にいる二人の自分を一つに統一する。3、事実観察を徹底する。事実を具体的、赤裸々に取り扱う。4、早合点、先入観、決めつけ、思い込みを封印する。5、物の性を尽くすことに専念する。自分の性を尽くすことです。6、「あなたメッセージ」を「私メッセージ」に切り替える。7、両面観、多面観のものの見方を身につける。8、純な心の実践をする。直観、第一の感情、初一念の感情から出発する。9、否定語は封印して、肯定語を意識して使うようにする。2021年7月11日~22日まで具体的に詳しく紹介しています。「思想の矛盾」は理論学習で理解しただけでは何も変わりません。これらのうちから、一つか二つを取り上げて、真摯に取り組むことが肝心です。また思想の矛盾の打破は、野球でいえば打率のようなものです。油断をすればどんどん低下してくるのです。成長の過程で身にまとってきた「かくあるべし」はかなりの難敵です。一歩前進2歩後退というようなことは絶えず起こります。私はこの部分を忘備録として持ち歩いています。時々取りだして読んでいます。意識づけしているのです。それでも、いつも「かくあるべし」が出てきて自分を苦しめているのです。でも進むべき方向性がはっきりしているのは安心感があります。なお観念優先から事実優先の態度を身につける方法は他にもあるかもしれません。それらは付け加えてさらに理論を進化させてください。
2023.03.10
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風呂のタイルにつく黒いカビ、皮膚につくカビ、味噌作りのときにつくカビ、餅やパンなどにつくカビなどはイヤなものです。不潔さ、食品の変質、真菌中毒症、アレルギー症、感染症などを引き起こして、人間の生活に多大な悪影響を及ぼす悪いカビはたくさんあります。その他、カビの中には、発がん、嘔吐、下痢、悪心、造血機能障害、肝臓や腎臓の機能障害を起こすものもあります。その反面、私たちの生活を豊かに彩ってくれているカビもたくさんあります。コウジカビは、清酒、焼酎、味噌、醤油、鰹節などの製造に使われています。酵母は、パン、ビール、ワイン、清酒の製造に使われています。青カビは、チーズの製造だけではなく、抗生物質である「ペニシリン」の生産に役立っています。これらのカビがいなければ、人間の生活は味気ないものになっていたかもしれません。カビは気持ちが悪いもの、取り除く相手だと一方的に決めつけていると、生活を豊かに彩ってくれている側面に気づかなります。森田でいう両面観のものの見方、考え方が大切になります。両面観については、生活の発見誌平成5年6月号にそのヒントがありました。1、見方を変えてみる。2、他人のアイディアを借用する。3、意味、形、色、動作、音、匂いなどを新しいものに変えてみる。4、大きく、多く、長くしてみる。ほかの成分を加えてみる。5、もっと小さく減らして、低く短くしてみる。6、構成分子を入れ替えてみる。7、反対にしてみる。逆にしてみる。8、結合してみる。混ぜてみる。私は両面観を意識するためにいくつか写真を持っています。たとえば、2019年11月30日投稿の写真です。この写真は見方によっては若い女性に見えます。でも視点を変えるとおばあさんに見えます。どこに目をつけるかで物の見え方はまるっきり変わってきます。田原総一朗氏の「朝までテレビ」では、まったく見解の違う論客に喧々諤々の議論をしてもらっています。それを見ていた視聴者は、客観的で妥当な考え方を持つことができます。両面観の考え方をとらないと、間違った方向に流されてしまいます。
2023.03.09
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昨日の続きです。3、人をよく見て知ろうとする教師時代、小学校5年生の担任をしていた時、算数の時間になると落ち着きがなくなる男の子がおったの。様子を見ていたら、どうも九九でつまずいていることに気付いてね。「九九が分からんのじゃね」って声を掛けたら、その子が泣きだしたん。情けない気持ちと、助かったっていう思いが入り混じったような泣き声で。その子に九九を教えると夢中で勉強するようになりました。うれしかったなあ。相手のことを知ろうとする、観察するいうのは教師時代からの癖ですかなあ。元気がないとか、少し瘦せちゃったかねとか、ちょっとした変化に気付くことは大人同士の付き合いでも大事なことじゃと思います。声掛けの内容によって相手の反応も変わる。この人、私のことをよう見てくれてるなあと思うたら、安心して自分をさらけ出してくれるようになるんです。集談会では寄り添ってくれるだけで楽になると言われたことがあります。気の利いたアドバイスはそんなに多くは必要ないのかもしれません。反対に「小さな親切、大きなお世話」になることもあります。アドバイスに力を入れるよりも、相手に寄り添い、相手の気持ちや感情、不安や問題点、欲望や欲求をよく聞いてあげる方がよほど感謝されるように思われます。4、マイナス感情 笑いに変換食べるものが「ない」とか、お金が「ない」とかの否定の言葉を使う時、語尾に「ナイチンゲール」を付けます。「お金がナイチンゲールでございます」ってな感じです。そうしたら皆さん、クスッと笑うてくれる。同じ「ない」でも笑いに変えると気持ちがええの。「ないない」ばかりじゃ気分が沈むから言いたくないんです。心の落ち込みは魔物です。落ち込みそうになったら早めに自分を助けてあげんといけんのです。ダジャレは、その場を和ます効果があることがよく分かりました。ダジャレを心がけている人は、心が外向きになっています。自身の心の悩みに関わり合うことが少ないようです。みんなに「またバカなことをいって」と言われてもあまり気にならない。それよりもみんなが喜んでくれる方がよほどやりがいがあるし楽しい。結果として他人への細やかな配慮ができる人だと思います。5、手本になる先輩を見つける知らず知らずのうちに、しゅうとめさんのまねをしている自分がおります。暇を見つけては庭や畑の草を取り、いつもきれいにしとっちゃった。毎晩、仏さんに大きな声でお経をあげるのも、しゅうとめさんから引き継いだことです。26歳でお嫁に来ました。その頃、しゅうとめさんは薪を背負って町へ売りに出よっちゃった。売ったお金で、まだ珍しかったソーセージを買うてきてくれてね。学校勤めをする私ら夫婦の弁当のおかずにって、陽気で働き者のところも、ちょっとした心遣いも、いつもやって見せてくれました。皆さんも、手本になるような先輩を探してみたらええです。まねをしながら、体に染み込ませていけたらもうけものです。私は集談会の先輩の中から「人生の師」ともいえる人に出会いました。困難な問題に直面した時、「あの人だったらどう考えて行動されるだろう」と考えるようになりました。そういう人が自分のバックについていると思えれば、思い切って行動できます。人生で師ともいうべき人に出会えた人はそれだけで十分幸せなことです。(102歳、一人暮らし 石井哲代 文藝春秋 54ページ参照)
2023.03.08
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引き続いて、102歳の元気なおばあちゃんの紹介です。広島県府中市上下町に住んでおられます。この方は20年前に夫を亡くし、子供もいなかったので一人暮らしです。でも孤独ではありません。元教師で教え子がよく訪ねてくるそうです。教え子が訪ねてくるというのは、先生冥利に尽きますね。今日は生き方が上手になる5つの心得の紹介です。1、物事は表裏一体。良いほうに考える。私の手を見てごらんなさい。手の甲はしわしわですが、ひっくり返せばつるつるです。一方向から見るだけでは分かりません。例えば受験に失敗して本命じゃない学校に行ったとしても、そこで生涯の友に出会えるかもしれんでしょう。失敗してもひっくり返して、良いほうに考えるんです。失敗にとらわれてばかりじゃ劣等感に包まれて人生が曲がってしまう。人間が小さくなってしまいます。失敗は通過点で、いくらでもやり直せる。あれは成功じゃったと思える日がきっときます。これは森田理論でいうと両面観の考え方ですね。失敗はよい経験をしたと思えば将来の糧になります。思い通りにならないからこそ、人の心の痛みに共感できるようになります。2、喜びの表現は大きく。私は、うれしいな、ありがとうという気持ちを相手に伝えようと思えば自然にオーバーアクションになります。普段、姪の直ちゃんがおかずを差し入れてくれたり、ご近所さんがお掃除を手伝ってくれたりすることも多いんです。一人暮らしの寂しさを知っているからなんでしょうかなあ。本当にありがたい。いつも「わぉわぉ」って大喜びしています。年寄りが機嫌を悪くして怒りっぽくなるのはいけんと思います。年寄りは若い人の見本にならんといけん。ああ、老いても楽しそうだなって思ってもらえるよう、にこやかに。社会のムードメーカーっていうんでしょうか。なんでもない小さなことをオーバーに喜ぶことができる人は魅力があります。小説家の宇野千代さんは、「小さな幸せのかけらはそこら中に落ちている。ただその幸せのかけらを見つけることが上手な人と下手な人がいる」と言われました。森田を学習していると、路傍の草花にも感動できるように変わりました。人間は苦しむために生まれてきたのではない。人生を楽しむために生まれてきたのだ。感謝と感動の日々を積み重ねていきたいものです。この本には、おばあちゃんの笑顔の写真ばかりです。3、人をよく見て知ろうとする。4、マイナス感情 笑いに変換。5、手本になる先輩を見つける。この3つについては、明日ご紹介します。(102歳、ひとり暮らし 石井哲代 文藝春秋 52ページ)
2023.03.07
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今日から3回にわたり、102歳の石井哲代さんの健康法を紹介したい。元教師で、現在は田舎で一人暮らしをされています。中国新聞社が生活ぶりを紹介して地元ではすっかり有名人になりました。健康で長生きするために心掛けておられることは次の通りです。1、朝起きたら布団の上げ下ろし。わざわざジムに行かなくても運動できます。2、いりこの味噌汁を飲む。うちにある動物性食品です。3、なんでもおいしくいただく。ご飯の量は1回2膳が基本。一人の食卓でも「いただきます」「ごちそうさま」は欠かしません。4、お天気の日はせっせと草取り。雑草で荒れると家や畑がかわいそうな気がします。5、生ごみは土に還す。みかんの皮や野菜くずを肥料袋にためて堆肥を作ります。6、こつこつ脳トレに励む。7、良英さんと会話をする。20年前に見送った夫の良英さんの写真を枕元に置いています。8、柔軟体操をする。思いついた時に柔軟体操をします。体のあちこちを延ばすと気持ちがええです。(「102歳 一人暮らし。哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方」 石井哲代 文藝春秋)次の言葉は石井哲代さんの信条です。できなくなったことは追わずに、くよくよしない。できることをいとおしんで、自分を褒めて、まだまだやれると自信に変える。この本にはよく作って食べている料理のレシピが紹介されていました。凡事徹底の生活が、心身の健康に役立っているようです。毎日感謝の気持ちを持って、笑顔いっぱいで暮らしておられるのが、長生きの秘訣のように感じました。ぜひとも見習いたいものです。この本は知り合いの2名の方からの推薦図書でした。
2023.03.06
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70歳以上になると高齢者運転講習を受けることが義務付けられている。この講習を受けていないと免許の更新はできない。これは昨今の高齢ドライバーによる重大事故の多発が影響しているのだろう。この講習は2時間あります。最近の高齢者による事故例の解説、動体視力などの検査、実車を使っての走行試験などです。人によってはその前に認知の試験があるそうです。認知試験は最初に果物の絵を見せておいて、しばらく経ってからさっき見た果物は何だったでしょうと聞かれる。人によっては、今日は何年何月何日でしょうかと聞かれる。頭が真っ白になって答えられない人には、あなたの生年月日を教えてくださいと聞かれる。これに答えられないと免許返納ということになります。歳を重ねると誰でも物忘れはありますがそれは許容範囲です。頭を使わなくなって、廃用性萎縮現象が起きると脳の働きが悪くなります。高齢者運転の講習を受けて参考になったことがいくつかありました。1、一時停止ですが、停止線の前できちんと停止することが大事です。停止線を越えていると、停止違反として切符を切られます。そんな馬鹿なと思っても、それが道交法に書いてあるそうです。せっかく停止したのに、パトカーや白バイに追いかけられてはたまったものではありません。またそういうところに警官が立っています。2、狭い道を走行中に菱形のマークが道路上にある時は、この先信号機のない交差点があるということだそうです。この印がある交差点に入るときは、いつでも停止できるスピード、つまり10キロ以下で走行しなさいということだそうだ。ついうっかりとスピードを出していると思わぬ衝突事故に巻き込まれることがある。3、原付バイクに乗る人は2段階右折を確実に実行する必要があります。3車線道路は直接右折すると、間違いなく切符を切られます。2車線道路が交差点の手前で急に3車線になっている場合がある。そういうところにも、警察官が立って見張っています。なお原付バイクの空気圧が低下すると、コブの上に乗りあげた時ホイールが変形しやすくなる。変形すると修理ではなく交換する必要があるそうです。4、実車試験は誰でも緊張する。県の運転免許試験場の教官は厳しいので、一般の教習所で受ける人もいる。ここではハンドルさばきをよく見ている。逆手でハンドル操作をしていると叱責される。S字道路で、もたもたしたハンドル操作も注意される。直線道路では、ノロノロ、モタモタ運転は厳禁です。他の車に合わせた走行が必要になるそうです。そして車線変更が問題なくできているかを見ている。さらに車庫入れの試験もある。次に段差の乗り上げ試験がある。これは10cmくらいの段差にタイヤをつけて一旦停止し、アクセルを踏んで段差に乗り上げる。乗り上げた途端ブレーキを踏んですぐに停止できるかどうかを見ている。ブレーキとアクセル操作がきちんと行われているかどうか。昨今高齢者の踏み間違いによる重大事故が発生している。ブレーキとアクセスを間違えることはないはずだという決めつけが危ないということです。また高齢者は、うす暗くなる時間帯、夜間運転、雨降りの時の運転はなるべく控えるようにした方がよいそうです。雨降りの夜間運転は特に危険です。事故は一瞬の気のゆるみから、後始末は何年もかかると肝に命じておくことです。
2023.03.05
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「意志力の科学」という本は、健康や生活の破綻をもたらす欲望の暴走、ネガティブな感情の暴走、他人に迷惑をかける本能の暴走を防止するための方法を様々な視点から説明されている。その一つとして、よい習慣を身につけている人は抑止力が有効に機能しているという。にわかには信じがたいことですが、この本を読んで納得できました。今日はこれをご紹介します。多くの仲間たちが命を落とすという過酷な熱帯雨林での飢餓キャンプで生き残った人の話が紹介されている。名前をスタンリーという。「彼はよく、どんな探検旅行でも必ず念入りにひげを剃るのだと話してくれました。うっそうとした密林、飢餓キャンプ、戦闘の朝、どんなときでもこの習慣をやめる事はありませんでした。たとえどんな困難な状況でも、冷たい水だけで、なまくらなかみそりで剃ったこともあると言っていました」過酷な状況に置かれている時に、なぜひげ剃りにそこまで固執するのだろうか。「スタンリーは常に外見に気をつけていた。服装を含めて、読みやすい字を書くこと、日記や本の並べ方、箱の整理などを重く考えていた」ひげ剃りにかけるエネルギーを、食べ物を探すのに使えばいいのにと思われるかもしれない。そのような自己コントロールを実践すると、消耗が大きくなって重要なことに意志力を発揮できなくなるのではないか。しかし実はスタンリーのような規律を重んじる習慣は、自己コントロール能力を高め、脳の自動操縦装置にスイッチが入るようになってエネルギーをあまり必要としなくなる。きちんとした外見は内なる自制心と結びついているというスタンリーの信念は、最近素晴らしい実験により確かめられた。一つのグループの被験者にはきちんと片づいた実験室で、もう一つのグループには、親が思わず「部屋を片付けなさい」と怒鳴りつけたくなりそうな場所で質問に答えてもらう。散らかった部屋でテストを受けた被験者は、多くの尺度で自己コントロールについての得点が低かった。たとえば1週間待てば多額の報酬がもらえるのに、すぐにもらえる少額の報酬に飛びついてしまう。きれいな実験室にいた人はりんごと牛乳を選ぶことが多く、汚い部屋にいる人はキャンディとコーラを選んだ。よい習慣を作り上げるときは意識的に大きな意志力が必要だが、一旦習慣となると無意識的な行動となる。つまりエネルギーの温存ができるということです。欲望の暴走が引き起こされそうなとき、そのエネルギーを使って欲望の暴走を抑制することができる。悪い習慣が身についている人は、その悪い習慣を制御しようとエネルギーを浪費している。そのためにエネルギーが消耗状態に陥り、肝心かなめのときに欲望の制御が効かなくなり、欲望の暴走に火がついてしまうのである。(意志力の科学 ロイ・バウマイスター ジョン・ティアニー インターシフト 198~201ページ要旨引用)本能的な欲望の暴走は、良い生活習慣が身についていなことが原因の一つと考えられるという指摘は案外当たっているかもしれない。本能的な欲望が暴走してしまう人は、ぜひこの考え方を参考にして、よい習慣を作り上げることに取り組んでほしいものです。規則正しい生活を心がける。着替えを済ませて、身支度を丁寧に行う。バランスのとれた食事を心がける。ウォーキングなど、適度な運動を毎日続ける。観葉植物、ペットの世話をする。毎日読書する習慣をつくる。日記や文章を書く習慣をつくる。こまめに清掃、整理整頓を行う。料理や加工食品作り、後片付けをする。凡事徹底の中で、小さな楽しみを見つける。他人の役に立つことを見つけて実行する。あるものを大事にして、それを活かすことを心がける。不即不離の人間関係を心がける。自己主張する前に相手の気持ちや考え方をよく聞く。信頼関係のないときに相手を非難・否定しない。相手のよいとこ探しをする。おかげさまという感謝の気持ちを持つ。
2023.03.04
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東海大学の有賀誠司氏の話です。筋肉の量は歳をとるごとに減ります。これは「サルコペニア」という現象です。日本人の場合、何もしなければ20代から80代にかけて半減する。荷物運び、階段の上り下りといった日常動作さえつらくなる。健康寿命を延ばすため、どの年代でも筋トレの習慣を身につけることが大切です。どんなことに取り組めばよいのか。腕立て伏せ、スクワット、シットアップ(腹筋運動)が自宅でできる3大種目です。腕立て伏せ・・・横から見て耳、肩、腰、ひざ、くるぶしが一直線なるようにする。腕を曲げてゆっくり体を下す。3秒間で下し、3秒間で上げる。きつい場合は、膝を床について、無理なくできる範囲で行う。スクワット・・・膝を曲げたり伸ばしたりする運動です。舞台女優の森光子さんは毎日朝晩100回ずつこなされていたそうです。しんどいと思えば、机などに手をついて行う。無理をしないように心がけましょう。回数はそれぞれ10回が目安です。それを2~3セット行う。各セット間には1分程度の休憩をとる。例えば腕立て伏せ2セットなら1分間で10回やって1分間休憩をし、さらに1分間やって計3分。3種目やっても10分で済みます。これを週2回行えば大丈夫です。筋トレで鍛えた筋肉の回復には2~3日かかるので、しっかり休ませましょう。注意点・・・たくさんこなすよりもていねいに行うことが大切です。回数が増えると筋力より持久力の鍛錬になってしまうので、ていねいに行うことを心がけてください。(中国新聞 2022年11月25日朝刊より)私も最近急に筋肉の衰えを感じるようになりました。この方法は簡単で続けられそうです。「継続こそ力なり」と心得て取り入れてみることにしました。その他ネットで検索してみると、「サルコペニア」の詳しい説明がありました。筋肉を鍛えるには、いろんな方法がありました。ダンベル体操、椅子に座って足を伸ばして一定時間我慢するなど。特に気に入っているのはダンベル体操です。1キロのダンベルを2個100均で買いそろえました。これで腕や肩の筋肉を鍛えています。この部分は筋肉が弱っています。横に持ち上げると肩甲骨から音が聞こえます。趣味でドジョウ掬い、傘踊り、しば天踊りを毎日練習していますが、体全体を動かすのでよい運動になります。それからマンションの管理人の仕事で、無理なく毎日6000歩から1万歩は歩いています。これでふくらはぎはパンパンに筋肉がつきました。
2023.03.03
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鍵山秀三郎氏のお話です。普通のことでもどんどん極めていくと、あるところから普通ではなくなる時点があります。これは、スポーツでも言えることで、実はプロ選手がやっていることも全部普通のことなのです。アマチュアとプロの違いは、アマチュアは普通のことを普通のままやっているだけですが、プロは普通のことを極めていって、ある時点から普通ではなくなるのです。それともう一つの差は、アマチュアの中には普通のことを普通ではなくなるところまで極める人もいますが、それはごく限られた1つか2つなのです。ところがプロは、その極めたものをいくつも持っているのです。それがいざとなったときに、瞬時にして組み合わさって、大変な力になって出てくるのです。(大きな努力で小さな成果を 鍵山秀三郎 育鵬社 24ページ)この話を基にして森田理論の活用・応用について考えてみたいと思います。森田理論がある程度理解できると、それらを生活や仕事のなかにいかに活用していくかという段階に入ります。森田理論学習と行動実践は車の両輪と言われます。車輪が同じ大きさで回転しないと前進しないで空回りします。活用と応用については人によってさまざまだと思います。思いつくままにあげてみましょう。・凡事徹底、平凡道を非凡に歩む。雑事、雑仕事を大切にする。・生活のリズムを大切にする。規則正しい生活を心がける。・取り組むときは一心不乱に取り組むようにする。森田では、ものそのものになりきるといいます。・不安、恐怖、違和感、不快感を抱えたまま、必要なことに手を出していく。すっきりしなくても、見切り発車することです。その際、気分に振り回されないように十分気を付ける。・目標や課題、夢や希望を持って生活をする。生の欲望の発揮のことです。・不安と欲望のバランスを意識する。神経症的な不安は欲望の裏返しとしてとらえる。生の欲望の発揮に際しては、不安を活用して、欲望が暴走しないように心がける。・物事を見るときは両面観を活用する。一面的な見方で行動すると、後悔することが多くなると心得る。早合点、先入観、思い込み、決めつけには特に注意する。・物の性を尽くす、己の性を尽くす、他人の性を尽くす、時間の性を尽くす、お金の性を尽くす。あらゆるものに居場所や活躍の場を与えてとことん生き尽くしてもらうように心がける。・直観、第一の感情、初一念を大事にする。潜在意識、本音、素直な感情、意思、行動、欲求、希望、生き方などのことです。森田でいう「純な心」の活用を身につける。・「かくあるべし」を自分にも他人にも自然にも押し付けない。事実を受け入れて、そこに足場を築くことを第一優先順位とする。理性、観念、知識などは補助的に使うようにする。第2優先順位という位置づけを忘れないようにする。・対人関係では相手の話をよく聞くようにする。信頼関係がないときは、安易に他人を非難、否定しないように心がける。人間関係には、森田でいう不即不離を応用していく。人間関係は必要な時に、必要に応じて、必要なだけを心がける。これ以外にもあるかもしれません。適宜付け加えてください。そして、これらから、1つだけを実践課題として選択する。それをものにできるまで真剣に取り組んでいく。習慣化できたら、もうひとつを選び同じように深耕していく。それくらいにした方がよいと思います。すべてのことに取り組むと、多くのエネルギーが必要になります。森田理論はそこまでしなくても身につけることができます。富士登山は吉田口、御殿場口、富士宮口、砂走ルートがあるそうですが、どこから登っても最後は同じ頂に到着します。森田理論を活用・応用して、人生観を確立する場合も同じことが言えます。切り口が違っても、いずれの道でも森田の達人の域に到達できるはずです。自己信頼感、自己肯定感を身につけると、その後の人生は楽しくなります。
2023.03.02
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お金を有効活用するために面白い話を聞きました。1から365までの数字が書かれたくじ引きのような紙を用意します。これはエクセルを使えばすぐにできます。それをハサミで切り離します。それをごちゃ混ぜにします。用意出来たら毎日1個だけくじ引きをします。出てきた数字のお金を毎日貯金するというものです。これを毎日続けていくと、1年では66795円の貯金ができるそうです。結構な金額になります。クイズ感覚で取り組めば楽しみ倍増です。私もさっそく取り掛かりました。まずエクセルで表を作りました。その表には左から日付、くじで出た数字、入金、預り金、貯金と並んでいます。例えば2月27日 くじ50円 入金50円、預り金0円 貯金50円2月28日 くじ320円 入金1000円 預り金680円 貯金370円3月1日 くじ92円 入金0円 預り金588円 貯金462円今年1月1日から運用開始しました。2月28日現在で9143円ほど貯金できました。毎日くじで当たった金額を貯金していくのがよいのでしょうが、これだと小銭がないときイライラします。そこで不足したらまとまった金額を入金して、余ったお金は預り金としてプールする方法をとっています。ただ溜めるのではなく、1年先を見越してこれをどんなことに使うのか、自分なりに決めておくと励みになります。普段はもったいないこと思うような事でも、思い切って使うことができます。例えば、・一泊二日の小旅行を企画する。・普段は手が出なかった欲しかったものを買う。・家族や親に豪華なプレゼントをする。・海や庭園を眺めながら豪華なランチを楽しむ。・S席を予約してオーケストラ音楽を楽しむ。・特等席でマツダスタジアムのプロ野球観戦を楽しむ。その際娘夫婦と孫を招待する。気に入ったらみなさんもぜひ挑戦してみてください。きっとお金も喜んでくれると思います。
2023.03.01
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