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「外堀」『菅谷城』まで、途中休憩も混ぜて、約3時間半。 なんとかたどりついた。 埼玉県も、広いんだな。 とくに今回行った、比企郡嵐山町は、中心部から離れたとこにあっかんな。 遠~いど~。 ま、今回は、ほとんど迷うこともなく、目的地近くまで到着したんだけんど。 ここで、いつものや~な癖が出た。 そう。入口さ通りすぎちゃったんだ。『菅谷城』の北側にゃ、254号線っつう4車線の道路がある。 城跡は、この道路沿いにあってな。 道路から直接、入れるようになってんだ。 案内板も、何か所かあってな。 絶対見逃さないようになってたのに。 ・・・なんで、通りすぎたんだべなw。 きっと、これのせいだな。 これは、『菅谷城』の角っこから撮った写真。 よ~くみっと、真ん中辺に、道がめ~る。 あの辺が、『菅谷城』の入口だど。 で、切株が残ってる平なとこ。ここが『堀跡』なんだよ。 うむうむ。そばでみっと、でっけ~な~。 こんな感じでな。 『菅谷城』の北側にゃ、『でっかい土塁と堀』がある。 この『土塁』部分が、道路からもはっきりめ~てな。 わ~、すげ~な~! なんて見惚れてたもんだから、止まれなかったんだべな。 でも、大丈夫。 目的地さ通り過ぎちまうのは、いつものことだもんな。 ちゃんと、策は練ってあんだ。『菅谷城』にゃもう一個、出入り口がある。 そっから入れば、いいんだど。 入口すぎてすぐの信号を、左折する。 そんでもって、すぐに左折・・・左折? どこ? 事前に調べたところでは、信号曲がってすぐんとこに、 細い脇道があったんだ。 でも、道がない。 あ、いや。あった。 お~い! これって、車で入っていいんけ~? 両脇は生垣で、幅は車だとぎりぎり、なんだけど・・・ と、迷っているうちに、通りすぎましたw。 側にゃ、こんな『堀跡』もあってな。 道にゃ目がいってませんでしたw。 でも。今回に限っては、通り過ぎてよかったど。 っつうのもな。道沿いに、進んでいくと、 しばらく『菅谷城』の外側に沿って、 進んでいく状態になっててな。 外から『三の郭を囲む土塁』が、ばっちりめ~るんだ。『堀』もめ~たよ。 運転中なんで、じっくりみていられなかったのは 残念だったけど。『2メートルはありそうな土塁の壁』さ延々と見ちまったら、 も~、どきどき。わくわく、だよ。 中はいったいどうなってんだ? という期待に、ちょっと運転さ荒くなる。 はやく、中さ、いきたいな~。 さて。2か所ある入口を、どっちも素通りしちまうなんて、 普通ないと思うけど。 それをやっちまうのが、私ですw。 だもんでこの先の道も、ちゃんと調べておきました。 城跡をぐるっとまわりこんで、254号線まで戻ればいいんだよ。 たぶん、こんな感じのとこを、通りました。 だいたい10分くらい、寄り道になったかな。 でも、いいや。『素敵な土塁と堀』さみれたから。 外からの眺めも、いいもんだよ。 さてさて。 今度は『土塁と堀』に惑わされることもなく、 城内に侵入・・・成功! や~。いかった~。 ************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村**************************************
2015.02.26
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「菅谷城(菅谷館跡)」 2月21日(土)に、『菅谷城』さ行ってきたど。 場所は、埼玉県比企郡嵐山町菅谷。 埼玉県は初めてだな。どきどきするど。 あ、『嵐山』は『らんざん』と読みます。 『あらしやま』じゃないどW。 埼玉県に『本多静六』っつう博士がいてな。 京都の嵐山と菅谷周辺の地形が似てるので、つけた名前なんだと。 ツイッターの、フォロワーさんから教えてもらいました。 ありがとうございます。 ウィキペディアによると、『本多静六(ほんだ せいろく)』 慶応2年7月2日(1866年8月11日) ~昭和27年(1952)1月29日。 日本の林学博士で、造園家。 日本の『公園の父』、と言われてる人なんだそうな。 経歴は、紹介しきれないけんど。 日本全国の、公園の設計や改良に、携わった人なんだとか。 すごい人なんだな。 ここだけの話。埼玉県は、謎の県、なんだよね。 栃木県と、お隣さんなんだけんど。あんまし馴染さないんだよ。 県境に迷い込んだことは、あっけどなw。 埼玉県ってどんなとこ? って聞かれたら、 う~ん。どんなとこ? って、聞き返しちまうだろうな~。 そんぐらい、なんも知んない。 ということで。 埼玉県のお城さみながら、ちっとづつ勉強していきたいと思います。 埼玉県のかた。 もし間違いさあったら、やんわりとご指導お願いします。 さて、『菅谷城』の話。 ここは『菅谷館跡』って名前のほうが有名だな。 だども最近の城好きさんたちは、『菅谷城』って読んでるらしいど。 だもんで、ここからは『菅谷城』って書くど。 うん。『城』ってついてるとなんだか、かっこいいな。 こっちの名前変更は、いい感じだべ。 たぶん苦情も、少ないんじゃないかな。 実際に散策してみると、『でっかい土塁や堀にかこまれた本丸』や、『縄張』などが しっかり残ってる。立派な城だど。『曲輪』が林になってんで、ちと全体像が掴みづらいとこもあったけど、 初心者でもおや? とわかる、謎も豊富でな。 たのしい城跡だと。 さてさて。 埼玉県のお城はどんな風に、向えてくれんのかな。 たのしみだな。************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村**************************************
2015.02.23
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「まとめ」 そういえば。『二子山古墳』の全景写真、載っけてなかったな。 こんな感じだど。 写真の右側が、前方。 左側が、後方 だど。 手前の丸いやつが『中島』。 そんで、写真さ撮ってるとこが、『堤』だな。『二子山古墳』の『墳丘』は、 長さ 約108メートル 幅 約70メートル あんだって。 藪になってっとこが、『内堀』だよ。 なんかな~。広すぎて、よくわかんないや。 実はこの外にもう一週、『堀』があんだよ。 もう、携帯のカメラじゃ、収まりません。 パノラマ写真さ撮れるカメラが必要だな。『堀』を含めた総長は 約213メートル 総幅は 約172メートル あるそうな。 200メートルを超える『前方後円墳』は、全国でもめずらしくてな。 だいたい機内地方に多いんだって。 当時の中心地が、あの辺だったからだべな。 でもな。群馬県にも、150メートル級の『前方後円墳』が、 ごろごろあんだって。 すげ~な~。 これは、当時の群馬県周辺が、東国の中心部だったから、って説があんだって。 当時の都・大和とも深い関係があってな。 大きな権力を持った豪族が、『保度田古墳群』周辺を 納めていたらしい、って話だど。 その証拠になりそうな遺跡が、近くにあんだ。『三ツ寺1遺跡』っつってな。『保度田古墳群』からみると、南の方向にあんだけど。 当時の豪族の館の跡じゃないか、って言われてる場所なんだ。 ここに住んでいた豪族が『保度田古墳群』に 埋葬されたんじゃないか、っていわれてるらしいど。 資料に載ってる写真でみっと、 四角に柵で囲まれた敷地。 周辺さ囲む、深い水堀。 そして、四角い敷地の角っこに作られたでっぱり。 なんか、お城の虎口みたいにめ~るよ。 堀の縁は、丸石がびっしり積み上げてあって、 石垣みたいにめ~るし・・・ なんか、城館みたい。 これが進化して、お城や城館になったんだべか? ぜひ、写真さ見てもらいたいんだけど、著作権とかあっかんな。 ブログにゃ載せられません。残念。 でも、『かみつけの里博物館』にいけば、詳しい説明と写真と 復元模型もみられるど。 ぜひ、よってみとこれね。 そうそう。ほかにも公園内にゃ、こんなのもあったんだっけ。 時間がなかったんで、遠くから写真だけ撮ったんだけど、 なんだべな? 広場か祭殿の、再現かな? これは、当時の家? かな? 手前にあるくぼみも、気になったんだけど、 寒さが限界にきてたもんで、素通り。 じっくりみたかった~。 そして道のあちこちに配置された、『盾を持った埴輪』 遺跡にいたずらされないように、見張ってんだべか? 他にも、『薬師塚古墳』や『土屋文明記念文学館』など、 みどころさ、いっぱいあったんだけど。 今回の散歩は、ここでお終い。 天気さ悪かったのは、残念だったけんど、 たのしかったど~。 でもな。『保度田古墳群』のすごさは、これだけじゃないんだ。 っつうか、群馬県の古墳時代は、ひとことじゃ言えないぐらい、 規模がでかいんだど。 たとえば、さっき書いた『三つ寺1遺跡』。 ほぼまるごと、当時の生活がわかるような状態で発見された遺跡でな。 全国の、研究者の注目を集めてるらしいど。 それに、日本のポンペイっていわれてる遺跡群も、ある。 榛名山の東にある『黒井峰遺跡』や『中筋遺跡』は、 5~6世紀ごろにあった、榛名山の噴火で埋まった 古墳時代のムラ跡なんだ。 当時のまんま、そっくり灰に埋まってたもんだかんな。 これらが発見されたことによって当時の生活様式が、 かなり詳しくわかってきたんだと。 ほかにも『水田の跡』とか、『渡来人の墓』っていわれてる史跡もある。 すごいぞ~、群馬県。『保度田古墳群』周辺だけでも、こんだけあんだよ。 全県規模でみたら、どんだけあんだろ~! 群馬県、好きになっちゃったな♪ 《参考》 「よみがえる5世紀の謎 ~かみつけの里博物館・常設展示解説書~」 かみつけの里博物館の案内パンフレット************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村**************************************
2015.02.17
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「古墳の前後と名づけ親」 今日は古墳の後円部分からくだって、 くびれの部分さ下りてみた。 後方部分は、登り坂になってるど。 そういや『八幡塚古墳の前方』も、 こったら風に先があがってたな。 これってなんか意味さあんのかな? どこの『前方後円墳』でも、 こったは感じに前があがってんだべか? 不思議だな。 そういえは、『前方後円墳』っと呼び名も変。 なんで四角い部分が前で、丸い部分が後なんだべな。 これにゃちゃんと、理由があんだよ。 江戸時代の話なんだともな。 宇都宮藩に『蒲生君平』って学者がいてな。 この人が『古墳』って呼び名をつけたんだ。 それまでは『天皇陵』とか『山陵』とか『陵墓』って呼ばれてたらしい。 天皇のお墓って意味だな。『蒲生君平』は近畿地方にあった『陵墓』を見て、 余りにも荒れ果てた姿に、愕然としちまってな。 本格的に整備・研究をはじめた、って話だど。 で、その後。『山陵誌』って本を書いたんだと。 もしかして、日本で初めての、古墳専門本だべか。 ちょっと、見てみたいね。 で、『前方後円墳』の前後の由来だけんど。 古墳の形が、車に似てるからなんだって。 車っつうのは、現代の自動車のことじゃ~ないど。 江戸時代の話だから……そだな、 人力車みたいなもんを、想像すっといいかな。 あ、平安時代の貴族が使ってた、牛車でもいいな。 で、引っ張る部分を、古墳の四角い部分に。 人を乗せる箱の部分を、古墳の丸い部分に当てはめたらしいんた。 そうすっと、引っ張る棒があるほうが、車の前になっから、 古墳も四角いほうが前、って話に決ったんだね。 っつ~ことは。 発掘の結果で決ったわけじゃ、ないんかな。 んじゃ~もしかしたら、実際は、 丸いほうが前だったかも、しんないんじゃないけ? 古墳時代の人たちは、どう考えていたんだべな? おお~っと~。 そったら悠長なこと、考えてる場合じゃなくなってきたど。 風っこ、強くなってきた。も~、前さ進めない。 いんや、そったらことよりも、転げ落ちる可能性のほうが高くなってきたど。 き、危険だ!降りよう。 でも、どうやって? キョロキョロしてたら、北の斜面になんか展示物を発見した。 坂の途中だし、いってみっかな。 と思ったら、強烈な向かい風! い、息ができないど! ほ、ほんとに危ない。はやく退避しないと、だみだ! 撤退~。撤退~。 風さ避けて南側の斜面を下りることにした。 あ、後で知ったんけと。 斜面にあった展示物は、古墳の周りさ囲んでた埴輪と それを修理した跡なんだって。 古墳の埴輪はな。飾った後もきちんと管理されて 破損したら取り替えたり、修理されてたらしいんた。 その痕跡が、北の斜面にあったらしいど。 …それは、みたかったな~。残念。 くねくねした坂道を下る。 ここはちょうど前と後の境目。くびれの部分的だな。 顔さあげると『中島』もめ~たよ。 そういや近畿地方にある『前方後円墳』の中には、 くびれの部分に広場のような出っ張りが くっついてる古墳があんだって。『蒲生君平』は、そのでっぱりを、車の車輪部分に見立てたらしいど。 なるほど。それだと上からみたときに、車と古墳の形が似て見えるね。 今の時代だと、なんにめ~るかな? 《参考》宇都宮城物語 / 福田三男 【単行本】価格:1,620円(税込、送料別)************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村**************************************
2015.02.12
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「石棺」『二子山古墳』の頂上には、パネルが展示してあった。 どうやら足元に埋まってる、石室の写真らしいど。 あ、写真さ失敗した。 これは頂上から『八幡塚古墳』を撮ろうとしたとこ、だと思う。 端っこにちょこっと写ってんのが、『石室』の写真だど。 前にちょこっと書いたけど。 この日は風が強くてな。『二子山古墳』の上さ登ったときは、 も~! 強風吹きまくりだったんだよ。 で、急いで写真だけ撮りまくって降りたから、 あとで見返したら、 どこさ狙って撮ったんだ? って、首っこ傾げちゃう写真さば~りになってたw。 ちゃんと撮ったはずだったんだけどな~。 で、どんなんなってたか、っつうと。 長方形に掘った空間に、石を並べて 床と壁を、こしゃったんだな。 で、こんなかに、豪族の遺体さいれた『石棺』を、埋葬する。『竪穴式』っていう埋葬方法だったみたいだど。 最後は蓋の替わりに、大きな岩を乗っけて、 さらに土を盛り上げ、形を整えたら、出来上がり。『二子山古墳』で使われていた『石棺』も、『八幡塚古墳』と同じ『舟形石棺』っつってな。 岩を舟形にくり抜いて、作ったもんなんだと。 あ。『石棺』の写真、あった! こんなやつ。 これが、パネルの下に埋まってんだね。 め~るはずは、ないんだけんど。 埋まってるっていわれっと、 ついつい、足元さ気になって・・・覗き込んじゃったw。 豪族の頭さ、ふんづけてるような気分さしてきちゃった。 なんか、複雑だね。 この時代。 ほかに木でつくられた、『木棺』もあったんだけど。 特別な権力を持った豪族たちは、『大きな石棺』に納められていたそうだど。『保度田古墳群』にある3基の『前方後円墳』。『二子山古墳』『八幡塚古墳』『薬師塚古墳』は、全部『石棺』だった。 ということは。 この辺さ納めていた豪族は、 巨大な権力を持ってた・・・ってことなんかな。 古墳は外見だけじゃなく、内部の『石棺』にも 権力の差を見せつける工夫が、してあったんだね。 内部というと、壁の装飾とか、刀や装飾品など 一緒に埋葬された装飾品に、目がいっちまうけんど。『棺』に注目してみんのも、おもしろそうだね。 なんかね。いろんな形があるらしいんだ。 調べてみよっと。 また一つ。古墳さ見るたのしみが、増えたね。************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村**************************************
2015.02.08
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「堀と濠」 今日は『二子山古墳』の上さ登ってみるど。 ちゃんと登れるように、階段があんだ。 だども手すりはない。 ん~登れっかな? 前回登った『八幡塚古墳』よりも、傾斜があるよ。 そりゃそうだ。『八幡塚古墳』のときは、わきっちょから登ったけど、 今回は、『後円部分』からだもんな。 古墳じゃ一番傾斜があっとこじゃないかな~。 ま、ゆっくり登ればだいじだべw。 うんしょ。うんしょ。うんしょ。 や~っと、到着! お~。『榛名山』がめ~る~。 そして、2本の線みたいなのは、『堤』だな~。 は~、くたびれた~。 しかし、まっつぐに伸びた『堤』と間の『堀』。 ほんと、みごとだよね~。 同じ感覚で、ず~っと続いてんだもの。 後方部分と中島。 やっぱり、『堤』も『堀』も、狂いなくまっつぐ。 古墳時代の人の技術って、相当高かったんだな。 ところで、古墳の周りを囲む『堀』だけんど。『周濠』っていいかたもあんだ。『濠』は、堀の中に水が張ってあるもの。 お城風にいうと、水堀になってる状態だな。『堀』は、中に水がないもの。 お城風にいうと、空掘りの状態 を、指すらしい。 たとえば、学校の教科書に載ってた『仁徳陵』。 今は、ほんとに仁徳天皇の墓かどうかわからないって理由で『大山古墳』って呼ばれてるらしいんだけど。 日本一でっかい『前方後円墳』として、有名だな。 ここは周りを『水掘=濠』で囲まれてる。 こういう時に『周濠』っていうらしいど。 そうすっと、『二子山古墳』や『八幡塚古墳』は 水がないから『堀(内堀・外堀)』って言い方になんだね。 でも、今は水さないけんど、昔はどうか・・・わがんねよね? 水に囲まれた『二子山古墳』・・・素敵だな。 この辺、発掘調査だと、どうなってんだべな。 やっぱし、水のない空掘り、って結果がでてんだべか。 どっちにしても、古墳のすごさは、かわんないけんど。 関東にも、水堀古墳。ほしいな。『保度田古墳群』の古墳なら、ぴったりだと思うんだけんど、 空掘だった、って調査結果が出てるなら、 歴史をかえちゃ、いけないね。 空想だけに、しときますw。************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村**************************************
2015.02.04
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「二子山古墳」『二子山古墳』は『保渡田古墳群』の西に位置する『前方後円墳』だど。『八幡塚古墳』と違って、なるべく自然な形で保存してあんだって。 これは『後円』の部分だな。 表面を笹で覆われた姿は、よく見る古墳の姿。『保渡田古墳群』の中で、一番最初に造られた古墳なんだと。 お、かわいい古墳♪『二子山古墳』の模型だな。 これで、全体の形がよくわかるど。 ちゃんと『中島』もあんだな。 実際の『中島』は、こんな感じ。 なんか『八幡塚古墳の中島』より、でっかくめ~るな。 平らにならしてあるせいかな? 『墳丘部分』も『八幡塚古墳』より、ちっこくめ~るけど。 これは長い年月の間に、 崩れっちまった部分もあんのかもしんないね。 だども、『墳丘』の周りを囲む『堤』と『堀』は どでかいど! ・・・なんか、土星の輪っかみたい・・・ あ、別に『二子山古墳』が、惑星をイメージしてる、ってわけじゃないよ。 なんか、頭に浮かんだイメージが、土星の輪っかだった、ってだけ。 スケールのでかさと迫力が、似てるのかな?************************************* 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村**************************************
2015.02.01
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