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http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/mononobe1g.htm物部氏出の武士も結構 居るようですが 源氏の出ともしている家もあるようです。浅井家も 物部氏の出とする見方もあり 領地には 物部氏ゆかりのところも多いです。古代の氏族の武力集団が解体されて 古代国家の軍隊に編入され 古代国家が解体し 崩壊するなかで 武力集団が 貴族や寺社の用心棒になりながらも 徐々に自立していく こんな理解でいいのでしょうか?
2006年03月29日
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義昭の扇動とか いろんな見方も為されますが 琵琶湖の利権を独り占めにしようとした そんな見方はいかがなものかと?だから 普段 仲の悪い連中も 一つにまとまったが 連携が悪かった?http://www2u.biglobe.ne.jp/~shiba/n19.htm武田信玄と天台宗の関係http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/itki/iku2/204.htm比叡山近くの浄土真宗本願寺派門徒たち 比叡山の近くですが 仲も悪かったはずですが 共同の敵には?
2006年03月24日
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http://www.city.gifu.gifu.jp/ky-syakai/bunkazai/syousai/2042.htm信長が 大津に代官を置いた意味http://www.city.gifu.gifu.jp/ky-syakai/bunkazai/syousai/2042.htmアジールということあくまでも 説ですが 信長のアジール潰しの一環という見方もできるのではないかと思いますが さて?
2006年03月24日
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http://www.biwa.ne.jp/~seichi-m/sakamoto2/sakamoto/sakamoto-matinami.htm#tyusei-sakamoto 中世の坂本は、戸数で2~3千軒、人口で万をこえていたとみて、ほぼあやまりなかろう。これは当時の畿内では、京都・奈良につぐ戸数・人口であり、中世の坂本の繁栄ぶりが戸数・人口の面からも裏づけられる。 いうまでもなくこの坂本の繁栄は、延暦寺の隆盛によって支えられていたといっても過言ではない。しかし坂本は時として悲劇をも延暦寺とともにしなければならなかった。永享5年(1433)から同7年にかけておこった永享の山門騒乱の時、延暦寺方にあって、まっさきに幕府軍の攻撃をうけ、兵火にかかったのは坂本の町であった。一面焼け野原となり、「坂本中滅亡」とまでいわれるほどの大打撃をうけたのであった(『看聞御記』)。 延暦寺と幕府との関係が好転するにともない、坂本の町はやがて復興した。坂本の復活ぶりを示すものに、狂言「磁石」に描かれた坂本の市場風景がある。 爰元は皆唐物店ぢゃよ。金欄・緞子(どんす)・綴錦(どんきん)・錦、綾 織物・染物、さてもさても夥(おびただ)しい売物ぢゃ。また是に は馬道具があるよ。鞍(あぶみ)・鎧(きつつけ)・切付、肌付(はだづずけ)・刀皮・四方(しぽう) で手・轡(くつわ)・手綱(たづな)・押掛(おしかけ)・鰍(しりがい)。また爰元は数寄道具、風炉釜・茶碗、茶杓、茶晃・杓(ひさく)、茶入・水差、水こぼし・ 蓋置、瓢(ふくべ)・花入、火箸・灰・焙烙(ほうろく)、いづれも一通り飾ったよ。いや是には小間道具、鏡・紅・白粉、櫛・針・毛抜・鋏、巾着(きんちやく)・ただき・印籠・帯、起上り小法師、 たんほほ、振鼓、さまざまの物がある…………しかし、この坂本の前途は決して容易ではなかった。中世の坂本の終焉は、永享の山門騒乱にまさるともおとらない戦火によっていろどられることとなったからである。山門焼き討ちと坂本築城 元亀元年(1570う9月の信長軍と浅井・朝倉軍の坑争は、やがて両者の間に和議が整うが、信長は延暦寺を強く憎むこととなる。元亀元年の合戦からちょうど1年を経た元亀2年9月、山門攻めを強行する。信長は先年の合戦後まもなく、坂本の南、宇佐山城に明智光秀を入れて、雄琴・仰木の士豪らを懐柔、山門攻めの下準備を着々と進めていた(『和田穎一家文書』)。周到な計画の下に9月12日暁、山門焼き討ちは決行された。下坂本は先の合戦で焼土と化していたが、いまだ無疵であった上坂本に信長軍は攻めかかった。日吉社も兵火にかかり、坂本は一面の焼野原となった。信長軍は比叡山一山をくまなく掃討し、延暦寺ぱここに滅亡した。古代・中世と延暦寺の隆盛とともに繁栄を極めた坂本の町は、信長によってここに滅びた。 信長は延暦寺滅亡後、それまで宇佐山城にあった明智光秀に命じて、ここ坂本の地に城を築かせた。延暦寺は滅びても、湘南地域における坂本の政治的・経済的な要所としての位置になんら変りはなく、そればかりか軍事的には、これまでにもまして重要な地となりつつあった。 当時、信長は、近江国内はもとより、遠くは武田・毛利・本願寺といった敵対勢力と対決する立場にあった。特に近江国内では、江北の浅井がいまだ信長の隙をつき反攻せんものとねらっており、このような不安定な軍事情況のなかで、坂本のもつ軍事的拠点としての意味は大きなものがあった。 この城はひじょうに立派なものであったとみえ、ルイス・フロイスはその著『日本史』のなかで、坂本城について「明智は都から4里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の25里もあるかの大潮(琵琶湖)のほとりにある坂本とよばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。(第56章)と記している。
2006年03月24日
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民族派とも 新右翼とも称される 方で論客としても有名ですが、この方の兄貴分に 野村秋介という方がおられます。鈴木サンの立場としては 思想家扱いしたいようですが とある方に言わせると(名前は忘れましたが) 元は任侠だし いまでも任侠山口組と 稲川会の大手の組長の兄弟分の企業舎弟で 朝日新聞での自殺騒動も元から ガンなので うんぬんということのようですがこう割り切ると 葬式の時には 政財界から 花束が来たというのもなーんだという気がしますし 野村さんの指示で 銃器を集めていたという変な爺さんが居たというのも 判る気がします。そこで 仮説なんですが この鈴木さん 結構 北のシンパの方とも仲いいです。たとえば 麻薬を流すとします。 北から ヨド号グループに指示が出ます。 それが新左翼グループに連絡がつきます。 鈴木さんがつなぎます。そこから 野村サンが繋ぎ 怖いオニイサンたちが 実行につなげます。北が最終ルートに物を送ります。鈴木サンのご友人たちのなかでも ヤフーを恐喝して 捕まった人もいますし未だに公安のマーク対象になっているのも もっともかな?そんな気がします。
2006年03月23日
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http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5381/1127482890/名前: 巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/02/25(土) 02:09:30 はじめまして。 夏殷交替~楚漢抗争くらいを目安に、地域史みたいなものやってます。 秦末の瑯邪って何かエピソードを聞いたような記憶がないですね~。 徐福はあまりにも有名で、 陳舜臣の『小説十八史略』あたりで徐福は渡航せずに中国に留まり、 反秦の群雄たちに資金援助した説ってのがあったような。 そういえば、項梁が敗死したときくらいの瑯邪って新生の斉領だったかも覚えてません。 瑯邪王氏って長いですよね、歴史が。 >>76巫俊(ふしゅん)さん 徐福については私も昔少しかじったことがありますが、 中国的には実在が裏付けられたとしても、現在の明らかになっている証拠から判断すると、実在は定かではないと考えた方がいいでしょうね。 『史記』には「徐フツ」と「徐福」という二通りの呼称が出てきますが、 鶴間和幸先生は「徐フツ」は旧斉での伝説であるのに対して、「徐福」は旧楚での伝説で徐偃王の伝説とも関連性があるとおっしゃっておられまして(「秦始皇帝と徐福伝説」(『西島定生博士追悼論文集 東アジア史の展開と日本』所収))、私も同感です。83 名前: 巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/04(土) 19:40:06 >菅原さん >(『西島定生博士追悼論文集 東アジア史の展開と日本』 それ見逃してました。鶴間先生もそんな分野の人でしたね。 春秋期の徐王国との関係は、少なくとも名前の上はあるはずでして、(無い方が説明つかない) そうしても戦国期の人名の起源は、史料が不足する方向(というか断片的)にあることから、割喰ってますよね。 普通に考えると、徐姓の人は徐文化を扱う人か、徐の地方に植民した他地域人か、それか祖先がその関係だった人、、 という感じでおさまってしまうと思います。 姓って言葉はいつから姓氏と混同されてるんでしたっけ? とりあえず名前(姓氏)と呼んでおきますが。 ついでに、山西にも徐(余)という地名があったりして、こちらは牧畜民のことを指したりします・・・86 名前: 菅原 投稿日: 2006/03/05(日) 23:02:36 >>83巫俊(ふしゅん)さん 鶴間先生は秦史の専門家ですが、徐福伝説は専門外とのことでした。 徐福の子孫だと称する方の家譜には徐福の先祖として徐偃王が書かれているものもあるとのことですが、 『史記』「秦始皇本紀」に見える徐フツの実在ならともかく、徐福の実在すら疑わしいのにその末裔というのはいかがなものかと思うのですが、 ただその家譜自体が中国(と日本の一部の徐福研究者)には徐福実在の証拠にされてしまうので・・・。 私は鶴間先生のおっしゃるように徐福伝説は徐偃王伝説と同じような土壌で生まれた伝説だと思っています。 「姓」の話は私はよくわからないのですが、「姓」は古代は民族集団の名称だったといった話のことでしょうか?87 名前: 巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/06(月) 20:57:59 徐偃王(じょのえんおう)は実際に淮水流域の文化英雄でしたからね。 これも戦国期に下るまでは実情が分からないケースなのですが。 徐は西周のはじめに召公という周軍の司令官が制圧したとされるところで(梁山泊のある梁山の周辺)、 「余土」(じょど)と金文に書かれるのですが、「宋土」と釈字するという説もあります。88 名前: 菅原 投稿日: 2006/03/08(水) 20:09:16 >>87巫俊(ふしゅん)さん 徐偃王といえば卵から生まれたという伝説がすぐに思いつきます。 淮水流域の文化英雄ですね。 ちなみに徐福は『晋書』には出てきませんね。 『晋書』だけに限らず唐代は徐福伝説の記事はあまり残っていないという印象です。
2006年03月21日
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22日NHK総合の『地球に乾杯 三国志街道をつくれ』は、なかなか興味深い内容でした。いろんな意味で。 中国で諸葛亮の子孫たちが住むという「諸葛村」が見付かった、というニュースは周知のことと思います。最近その諸葛村の近くで劉備・曹操・孫権の子孫を自称する村が次々と名乗りをあげたそうで、番組は現地を視察する省観光局の調査団に同行したドキュメンタリーでした。どの村も、この降って湧いたような「三国志街道」に将来を賭けています。諸葛村が観光地として成功したからです。 どうして浙江省の長江南岸に都合良く三国志村が点在してるんだろう、とか、1800年前の先祖なんてどうやって確認するんだろう、とか、ヤボな疑問を視聴者に抱かせながら番組は進みます。 どの村の住人も、自分たちの「先祖」を言葉を尽くして絶賛します。孫権村人が孔明村人に、「アンタの先祖は使用人、ウチの先祖は使う方」なんて自慢すれば、孔明村人も「うちが成功しているのは先祖の人徳のおかげ、おたくはその辺お分かりでない」と切り返します。孫権の子孫てことは、たぶん孫晧の子孫でもあるのね、なんてとても言えません(笑) 調査団の検証作業は簡単なもので、村に残る家譜や、霊廟の柱の文字に名前があるというだけで、あっさり子孫の村と認定されてしまいました。どうやら調査団の歴史学者も、家系伝説が存在することを証明できればそれで十分、という姿勢だったようです。この辺、日本の「徐福村」や「卑弥呼の里」と同様ですね。(なお、劉備村は系図上でさえ劉備の子孫と確認できず、認定見送りとなりました。「ご先祖」は怪しい家系伝説を活用するのが上手かったのにね) それにしても、「皇帝の子孫」をあっけらかんと自慢し、あまつさえそれで観光誘致を図るなど、一昔前の中国とは隔世の感があります。上の孫権村人の発言なんか、かつてならヤバかったんじゃないでしょうか。平和な珍騒動ではあります。とある掲示板より徐福村にはまいった中国で徐福村が「発見」されてはや十年以上、いちおう主に日本人相手の観光資源としては役立っているようですね。私がその資料を読んでいて面食らったのは、その村で新しく発見されたという家譜の類が、清・民国の考証家の著書にでてくる徐福子孫の系譜とほぼ一致すること。支持者はそれによって、徐福村の伝承の真実が裏付けられたと称していたし・・・当時のNHKの歴史番組では、自称100歳以上の地元の古老の話をスタッフが本当に関心しながら聞いているところが映っていました。当時にくらべると,NHKもずいぶんすれてきたものです。あるいはルナくん騒動の余波かも、いやそれはないか。曹操といえば、中国では大悪人とされているはずですが、最近では際評価されているのでしょうか(文革のときにも曹操再評価はありましたが、その後の反動も大きかったはず)。もっとも大悪人とされていたからこそ、早々ゆかりの村の人もその伝承を忘れていた(伝えられていなかった)ということはあるのかも知れません。祖先は豆腐屋さんだと思っていたというのもほほえましくてよいのですが・・・とある掲示板よりhttp://theta.s20.xrea.com/musou/dabun/other/other_16.htm家譜に好奇心徐福はこれ以前の人物ですからね
2006年03月21日
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http://inoues.net/mystery/jyofuku.htmlそんな中、1982年、一人の中国人学者が偶然「徐福村」(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)を発見した。学者は信憑性 を自問しながらもその重要性に鑑み、研究室の中にプロジェクト・チームを結成して本格的な調査に乗り出した。そして 最終的に、まさしくここが「徐福」の居た村である、という結論を導き出すに至ったのである。この調査結果論文は、日 本外務省・国際交流基金の資金援助によって1985年11月北京で出版された、『中日関係史論文集(第一輯)』(中日関係 史研究会編)の冒頭に「説徐福到黄遵先」として報告された。 (この論文集には、他14名の現代中国を代表する学者・知識人が論文を執筆しており、その内容は「円仁入唐求法巡礼記 録」「阿倍仲麿」「吉備真備」「古事記」「日本書紀」「古今和歌集」「裴世清(はいせいせい)家系」「豊臣秀吉」 「日本中世文学」「刀安仁と宮崎滔天の友情」等々となっている。) この報告は中国内外で大きな反響を呼び、その真偽を巡って論争が巻き起こった。当然この報告に懐疑的な意見もあり、 著者自身もそれは認めている。しかしこの論文をきっかけに、1987年4月「第一回徐福学術討論会」が徐州で開催され、80 人以上の研究者や団体が参加し、50編以上の論文が発表された。その後も数次に渡る討論会が開催され、その結果、徐福の 実在、徐福村の発見、については今日ほぼ事実として認められたと言える。(勿論、反論も依然として存在する。)又、 徐福を先祖とする徐姓一門が名乗り出て、2000年の由緒正しい系図を持つ徐氏一門が、今日なお中国全土に健在である事も 判明した。 (中国における家系と家系図に対する扱いは日本のようにいいかげんなものではない。厳粛な、個人の全存在を賭けたに等 しい扱いなのである。捏造した事がわかれば家系からも社会からもはじきだされ、まともな扱いは受けられなくなる。中国 では大部分の家が、何代にも渡る家系図を保有している。また中国では、同じ姓を持つ者どうしは結婚しない(出来ない)) 中国の歴史学者で、我が国にも著名な「汪向栄(おうこうえい)」氏は次のように述べている。 「もしわれわれが真剣に中日関係交流史を、とくに日本の古代における発展過程を縄文時代から弥生時代までたどり、慎重 な観察と検討を加えようとするならば、この徐福伝説を軽率に否定することはできない。徐福が東渡して日本にとどまり、 再び中国へ帰ることはなかったという『史記』の記述についても、そこにはなにか深い原因と理由が存在したのではなかろ うか。現在の徐阜(じょふ)村の人々が悠久の歴史の流れと人の世の激しい変動のなかで、二千有余年にわたって消すこと なく絶やすことなくその地名を残し、徐福という人物についての先祖からの伝承を今日まで伝えているという事実はなまや さしいものではなく、単なる偶然として片づけるべきものではない。」「説徐福到黄遵先」の概要【徐副村発見】 1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の「羅其湘」氏は、江蘇 (こうそ)省・かん楡(ゆ)県「かん」いう字は日本の当用漢字にはない。従ってWordproでは表示出来ないので地図で参照されたし。 の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見した。「ふと注意と関心を誘」い調査したところ、この村がかっ ては「徐福村」と呼ばれ、現地にかの「徐福伝説」の伝承が残っている事をつきとめた。 調査班は実際に現地に入り、「徐阜村」が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐副村」と呼ばれていた事を確認し、 村に残る「徐副廟」を調査した。そして村の古老達の語る「徐副」伝承を採録するのである。教授の調査で明らかになった 事の中に、「徐阜村」に現在「徐」姓を名乗る者が一人も居ない、という驚くべき事実がある。そして古老の語る次の伝承 を紹介している。 『徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、 もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、 もう「徐」姓は名乗ってはならない。」「それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」』
2006年03月21日
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後年の内閣総理大臣 原敬は政府の密偵として 郵便報知新聞記者と成る尾崎行雄が大正2年の45月頃 大坂毎日新聞に連載せしめた学堂回顧禄の一節に怪しい原敬君と号して左の如き珍談がある。原敬という名は これまで報知新聞の論説欄に時々現れ私も新潟に居る頃それを読んで感心な人であると思った、その議論や書き方などに感心してその名を記憶して居たから私は報知新聞に入ると供に如何な人であるか、見たいと思っていた、ところが我々の仲間には原敬君はいない、当時報知新聞は、上局と下局の二つに分れて役所風に出来ていた、上局は論説記者が居り下局は我々の命を受けて翻訳その他のことを働く人がいった、その下局の方に原敬君は雇われて翻訳をしていたが 翻訳だけでは暇で 退屈であるから、論説を手伝って書いていた即ち 社説記者でなく 翻訳記者であった。私は原君とは直接に応対はしないが原は感心な有望なものであるから上局に引き上げて 我々の仲間にしようじゃないかと提議したところが 上局の連中はいや彼はいけない政府の方に通じている 怪しい奴だから放逐しようと思っているところだといって反対したなんとか救う道はないかというといやそれはいかぬ 渡邊洪基などと方々歩いていった、とにかく 政府党であって 我々の仲間に置けぬ男であると非難された。私は争ってみたけれど あえてひきとめるほどの力もない その内に 原君は報知社を去った放逐されたのか 自ら退社したのか知らぬがとにかく我々の入社して間もなく去っていった。さると同時に大坂に行って 大東日報という帝政党の機関新聞の記者となり 幾何もなくして 政府の役人となった明治密偵史 宮武外骨よりとりようですが この方が元密偵あがりということは 原敬の評価や 暗殺の見方についも 多大な影響を与えるはずなんですが あまりネット上では言う人いないかな?一般的な研究では どうなんでしょうか?
2006年03月16日
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1 故井上鋭夫氏の弟子筋にあたる方という理解で 問題ありませんか?2 雑兵たちの戦場については 読まれましたか?また玄人筋の評価はいかがな ものでしょうか?3 兵農分離についてですが 上記の本を読むと あぶれ者たちの組織化以外の 何者でもないという印象を受けますが?兵農というより 暴力集団の組織化 という印象を受けますが?これについてはいかがお考えですか?4 楽市楽座については 本願寺の寺内町潰し(叡山 根来 高野山 なども含 む)という氏の持論(これは網野善彦の論にも通じますが)をいかがお考え ですか
2006年03月11日
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http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/100/100sandounin.htm大韓民国在郷軍人会日本支部
2006年03月10日
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http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/page012.htmlhttp://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q297C100.HTM
2006年03月05日
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平成元年(1989)11月7日、私は静岡県在住の南朝史研究家に同行して、山口県のとある駅に降り立った。目的地は地元の有名人の家だ。私たちはハイヤーに乗ると、さっそく目的地を告げた。「大室近祐さんのお宅までお願いします」しかし、運転手は首を傾げるばかりだ。その時、私は気づいた。「すみません、大室天皇の家まで――」かくしてハイヤーは走り出した。とか349-351の方が「大室天皇」のご親族なら、あの膨大な書き物をきちんと保管しておられるのでしょうか。鹿島さんの受け売りよりも、「大室天皇」ご宸筆の歴史論・宇宙論の方がはるかに面白いような気もします(もっとも常人には理解不能かも知れませんが)。というところから 実際には 大室天皇は どう見えていたかが推察できます。なお、熊沢天皇が有名になった頃には、「我が家にくらべれば養子の寛道どころか、養父の大然さえ傍系にすぎない」という同姓の人物が4人も名乗り出ており、彼らと寛道とがお互い相手をニセモノ呼ばわりする騒ぎも生じている。こんなところも面白いな(元ネタだから?)まあ はっきりいえば 下記のような感じかな例えば「自分は天皇陛下の隠し子である」という考えが頭の中にこびりついてしまうことを「血統妄想」と言います。「血統妄想」が出てくると、自分の本当の両親を「親」と思うことができずに、言うことを聞くのが馬鹿らしくなってきます。何度も皇居に行こう試みては家族に止められ、その度にイザコザが増えていきます。お金もいくらでも使えるような気がして、クレジットカードやサラ金を利用してどんどん買い物をしてしまいます。「天皇陛下の子供である」という考えが、その人の生活全般、家庭そのものに影響を与えていきます。しかし、一方で「妄想」の不思議なところは「天皇陛下の隠し子である」というこの点をとり除いてみれば、日常の生活には問題がなく、全くごく普通の人になってしまうことにあります。一般には誤解されがちですが、「妄想」と知能に直接的な関連性はありません。「妄想」があるからといって、すぐに生活機能が落ちたり、思考力が鈍るわけではないのです。同じような「血統妄想」を持っていても自分を「育ててくれた両親」に感謝して親孝行しようとする人もいますし、「隠し子」としてお迎えが来るまでひっそりと堪え忍んで暮らしている人もいます。わかりやすく極端な例にしましたが、妄想による影響が少なければ、個性の強い人間として(あるいは普通の人として)、仕事をして、家庭をもって暮らすことができます。妄想はどちらにしてもこの考えが非常に修正しがたい点で共通していて、修正しようとすればするほど事態がこじれる場合が多いようです。とは とあるページからの収録ですが、ご家族 ご親戚ともに 大変な日々が継続していますが ご愁傷さまです。大学中退ですか 大変ですね
2006年03月05日
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http://www.infact-j.com/komento.htmこんなことを描いてますがhttp://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=phoenix&dd=30&p=1こういう問題は、そろそろハッキリさせた方がいいと思い、カキコミ致しました。ご本人の反論をお待ちしております。中丸薫(なかまるかおる)さんについて。中丸薫が明治天皇の血は引いていないとのではないかという噂は以前からありました。しかし、あらゆるメディが報道を避けており、真相は闇の中という状況が長年続いておりました。しかし、最近、副島隆彦さんによって明かにされました。これで、長年、喉に刺さった小骨がようやく取れたっていう感じがしました。以下は、彼の意見です。『中丸さんの父は韓景堂(かんけいどう)と言って、450年続いた満州の旧家の長男で豪農の出身であり、理工系の大学を出て当時は京奉鉄道の技師でした。 母は中島成子(なかじましげこ)、栃木県小山市出身で、これまた豪農の家の7人兄弟の3番目に生まれ、日赤の看護婦さんとして満州に渡り、帝国陸軍から張学良(ちょうがくりょう)邸に派遣されそこで韓景堂さんと恋愛結婚、姉一人、弟一人の三人兄弟です。当時の中国の風俗習慣をご理解戴きたいと思いますが、韓景堂さんには何人も奥さんがいたのです。 しかし皆正式に結婚した夫婦です。イスラムには4人までと言う宗教的な限度がありますが、当時の中国には正夫人が何人もいたのです。従って中丸薫さんは正式な韓景堂の子供です。韓景堂さんは国共内戦の時には戦禍を逃れて、最後には台湾に行き、大学教授で晩節を全うしました。従って大陸、台湾共に腹違いの人脈があります。生後すぐ中島成子さんの弟夫婦にあずけられ、実父母との縁薄く育ちました。 明治天皇との血縁は有りません。昭和31年にアメリカのコロンビア大学に入学しております。サッチーと異なりチャント卒業しております。中丸さんは昭和12年生まれなのでこんな事を言うのですが、昭和31年、又は昭和32年頃に日本の高等学校を卒業して、アメリカの大学に進学出来ると言う制度はありませんでした。昭和32年に母中島成子は中共の監獄から無罪として釈放されて日本に帰ってきておりますが、其の時は中丸薫さんはコロンビア大学の2年生で、アメリカにいました。 母子が何処かで出会ってはいるでしょうが、親子の縁は薄い方です。中丸さんの本をよく読んでも、明治天皇の孫とは断定していません。口の中から細胞を取り出してD.N.A.鑑定をした……そこまでです。 中丸さんを米子市にこれまで3回迎えて、講演会を開催しました。私はその主催者ではなく、サブの位置につきました。彼女が明治天皇の血を継承していない事を、幹事会の席上で、私が発言しましたので、何かこう気まずい空気となり、2年半前に米子で開催されて以来当地では開催されていません。』以上です。いかがですか?本の表紙や帯び(通称腰巻)などに、「明治天皇の孫」と印刷されている彼女の本が出版され、今も本屋で売っているということは、大問題ではないでしょうか?この問題について、どなたか詳細な情報をお寄せ下さい。 4.彼女のことはよく噂になるみたいです!名前:党首 日付:5月6日(木) 0時53分 私がいままで関わってきた人から彼女のこと聞いてます。あるときは広島の有名な岩田組の事務所に亀井静香先生を紹介してくれと言ってきたり、ナニワ金融道のモデルになったおじさんの持っている日本の国旗の元だとか言う”赤い玉”をずっと握って何時間も離さないでいたり、よくわかりません。人脈の列記のしかたも、芸能人の横に王様を持って来てたりして。。。インタビューした人たちがなんか彼女と特別の関係であるかのように宣伝してますが、多分ウソでしょう。 彼女は頭もよくて才能があるかもしれませんが、いったい何をしたいのかよくわからないのです。”太陽の会”とかいうのもただの金集めみたいにみえます。北朝鮮にたいして非常に友好的です。韓国や朝鮮系の人たちは日本の皇室コンプレックスが多いようです。彼女は中国系とのことですが、多分皇室コンプレックスでしょう。ギリシャ語では彼女のようなタイプを”メガロマニア”(誇大妄想)と言います。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E8%BE%B0%E5%90%89%E9%83%8Eこちらが 彼女が親爺としている方の経歴です。この方の経歴をみても 親子関係があるか ないかすら 確定できるもんじゃないようです。
2006年03月05日
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GB71-E113 タイトル 国史正義 : 日本建国史・日本同和史 タイトルよみ コクシ セイギ 責任表示 鹿島昇著 出版地 東京 出版者 日本同和史研究会 出版年 1994.5 形態 641p ; 31cm 注記 付:参考文献目録 ISBN 4-915157-80-6 入手条件・定価 38000円 全国書誌番号 94071552 個人著者標目 鹿島, 昇 (1926-2001) ∥カシマ,ノボル 普通件名 日本 -- 歴史 ∥ニホン -- レキシ NDLC GB71 NDC(8) 210.1 本文の言語コード jpn: 日本語 発行形態コード 0101: 図書 資料形式コード A: 書誌 出版国コード JP: 日本国 西暦年 1994 校了日 19941130 最終更新 20031106235959 書誌ID 000002349874 http://www3.alpha-net.ne.jp/users/tkyjnken/esedouwa_shoutai.htmこの本の出版者と似たような団体が この中にも見えますが 出版された日が1994年というのは 面白いなという気がします。新国民社が まだ活動していた時期ですから この本の出版形態はいかがなものだったのでしょうか?だれか 読まれた方いますか?歴史本作りながら いわゆるエセ同和ですか?真実追求でも食わないといけませんから さて
2006年03月05日
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