2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全16件 (16件中 1-16件目)
1
注意して欲しいのは この最初の弥生式土器の肩に 縄紋が飾られている事実である。 縄紋を飾らない縄紋土器が多数ある一方で 縄紋を飾る弥生式土器もたくさんある 東日本の弥生式土器はむしろ 縄紋を飾ることが一般的である 弥生式土器を認識する出発点は 縄紋土器との差異を見出したことにある しかし、研究が進み 縄紋土器にも弥生土器にも年代差 地方差のあることが 判って来た 現在ではそれがひじょうに くわしくなり 前にも記したように 両者の境界の識別は 極めて困難なものなっている 弥生式土器の定義 現代の陶工に欠くことのできない ロクロも 縄紋 弥生土器には まだ使われていない ロクロは回転運動によって 生じる遠心力を 利用して 粘土の塊から 土器のおよその形を作り出すのに 用い 細部の仕上げにも利用する 縄紋 弥生両土器とともに 酸素を十分に供給した 状況下で 600~800度程度で焼き上げてある 粘土の中の鉄分が酸化して明るく 赤っぽく しかも叩いても ボソボソした音しか でない軟質に仕上がっている。 ただし縄紋土器には 焼成の最終段階で 意識的にいぶらせて 炭素やタール分を吸着 させた黒色磨研土器もある しかし ロクロを利用せずにつくり 基本的に赤焼き軟質に 仕上げる窯業技術は 縄紋土器 弥生土器 そして その後身 である古墳時代の 土師器まで 共通する ロクロを利用し 窯を使い 酸素の供給を途中で遮って 1000度以上の高温で焼く古墳時代の 須恵器とは基本的に技術を異にする なお 縄紋土器に比べれば 弥生土器の方が高温で硬く 焼いているという記述もしばしば 目にするが この進化論的説明も空想にすぎない さらに 弥生土器にみられる形や 紋様のほとんど すべては 縄紋土器にもみとめられるものなのである 弥生土器が用いられていた 文化 時代を 弥生文化 弥生時代とよぶ 学史的な定義に対して 私が日本における最初の食料生産段階に属する 初期稲作文化をまず弥生文化として その時代の土器を弥生土器と呼ぶという逆の 定義を提唱しているのは そのためである 日本の歴史1 日本人の誕生 佐原真
2006年04月26日
コメント(0)
三 浦守こと、サンカ小説家の三角寛サンの娘 三浦寛子さんの 父親の回想禄で 写真をみる限りでは、親爺そっくりな方という印象をうけます。 改めて、読む 直すと ホントに 父であり、サンカ小説家ではないという観点からの親爺さんの回想禄です。サンカ小説家の視点で 親爺のことをみていなかったはずはない のだが、やはり この人にとっては、父だから 仕方がないのだろうと思いますが。 サンカ小説家としてのが ほとんど含まれていないのは、ある意味 この本を期待して 読む方には 残念だろうなと 残念でありますが。 しかし いくつか つけるポイントは この本から 読めるのであって。どうして 新聞記者それも ある意 味 契約ライターあがりが、警察の官舎に住めて、軍や 警察とのかなり強力なコネがもてて。徴兵にもいかず(たぶん 何らかの軍にとり 大事な仕事してい たんでしょうか)かなり胡散臭い商売につぎ込めるだけの 資金があり。当時の意外なほどの交友の広さ 影になっているが、意外に幅の広い 協力者(ある意味 密偵筋)がいたとか 資料が、家族の元でなく女関係に残ったということ(最近 古書街に流出したそうですが) 文芸座や人生座を作れたのも その資金と 怖いお兄さんにつてがあったとみるべきでしょうか?だから 義理の息子サンが最近 変な騒ぎに巻き込まれて 逮捕されたということもあったのでしょうか? 赤穂にいたときに サンカ筋と繋ぎがあったとか、そもそも大分の出からしてとか、明治~大正にかけては 流民が反体制であり、被差別部落と 朝鮮人 労働運動は反対制の3番柱でしたから それらのスパイをやっていた のが 彼らしいとか だから妙に協力者がいたのが表にでていないなど いろいろあるのですが、娘の博子さんは、このへんはとぼけた表現をされています。 宮 武外骨の明治密偵史の中で、黒岩涙香に、政府から金が出ていたとか また大杉栄も、自伝の中で、後藤新平から金をもらっていたといっていますし、本当か どうかわかりませんが 上原勇作元帥相手のスパイをやっていたので 暗殺されたなんていう方もいますが。 たぶん 当 時も今も、文芸春秋や 講談社には 資金がいろんな筋から出ていて、三角寛さんにも その金が なんて考えるのは 下種のかんぐりでしょうか?風の王国の 中でも 五木寛之がそのへんのことをさらっと書いていますが、北神伝綺の中でも、大塚センセイがたぶん 師匠の宮田登あたりからの噺で 柳田國男の後半 の、ある意味 政治的な面を書いております。 ほんとうは こちらのほうが面白いんですが 研究的には どうなんでしょうか? サンカ研究には、写真に出てくる方々は、エキストラだとか、学位論文は金使ったとか、シノガラとは フリーメイソンのパクリじゃないかという気がしますが いかがなものでしょうか? 沖浦センセイの定説にしても そもそもサンカ自体の定義が最初から明確に出来ずに ご自分の運動のほうに むすびつけようとするきらいがあるから どうかなとおもいますし上記に結びつけようと涙ぐましい努力をしたりとか、柳田國男がすでに書いているのに、サンカ文字と てきやの符丁の関係とか、ネッ ト上で書いてみたりとか ご自分の妄想に 定義を合わせてみるとか 多いですね。 よくわからないから 明確に断言なんかできるもんか ネット上の方は お花畑や 香ばしい方が多いな そんな気がしますが。 どこからきたのか よくわからない人たちが 住んできました。 お祭りをやりました。 東南アジアや 雲南の方でよくやるお祭りをします それを道教というか 私は知りません。 太陽信仰や 女神信仰があるかもしれませんが 別に おてんとうさまの恵みがあれば 穀物は良く茂るらしいし オネエチャンは大好きだ 祖霊信仰といっても 死んだオジイチャンを偲ぶこともありますし 豪いさまの祭礼も 本質はいっしょ 最初は 農業なんか しりませんから 狩や採集で 暮らしていましたが 農業を始めて なんだか 土地を勝手にイジクルノデ ケンカが始まる 武器の少ないほうが負け 奴隷となるもの 逃げるものがでてくる そんな歴史が繰り返される そんなものでしょうか? それをサンカと呼ぶなら サンカですがね。
2006年04月26日
コメント(0)
文字を使ったから 思想も入れた?文字がないから 借りるのは あたりまえ当時の日本には土俗しかないという思い込みではないか?
2006年04月25日
コメント(0)
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/nihongo_chosengo.htm これに乗じてか、最近の通俗書では日本の古代史は様々な説にしたがって書かれているが、いずれにも共通するのは自説に都合の悪い資料は頬かむりする傾向、 つまり、他説の引用は極力控えるか、無視することが日常的のようである。自然科学の分野でこんなことをすればたちどころに審査員からクレームがついて訂正 を命じられる。筆者も審査員としてそうしたことがあるし、また審査員からそうするよう指摘されたこともある。藤村由加氏や李寧煕氏、金達寿氏はまさにその 典型であり、自説だけを一方通行的に主張、あるいは双方向的議論を意識的に排する傾向が特に顕著である。その著作はベストセラーになったことでわかるよう に、一般人には歯切れのよさが受けるようだ。自著を売らんかなのためだろうか、このような風潮が一部の学識者にも散見されるようになったのは残念である。 悪貨は良貨を駆逐するというが、最近の歴史本の質の低下は眼を覆いたくなるほどである。著作の審査機能がない現状では、歴史本に書かれた内容は真実という より作品と考えるべきだろう。 あれも 高句麗 これも高句麗?
2006年04月25日
コメント(0)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1069070318/土偶とはにわの違いについてだが 現在私たちが「埴輪」と呼んでいる古墳から出土する土製品について、 かつて(近代~戦前頃)は、「埴輪土偶」という名称を冠していた学者もいた。 縄文時代の遺跡から出土する土製品については「縄文土偶」といっていた。 そもそも、「土偶」とは、読んで字のごとく「土で何らかの形を作ったもの」 (「土で作った人形」と言ったほうがわかりやすいだろうが、人形というコトバには語弊があると思う。 ヒトガタとも読めてしまうし、それはいまだ有力な答えの出されていない用途論にいたずらにつながってしまう恐れがある。 また、必ずしもヒトやイキモノを型どったものとは言い切れないからだ) それら全部をカテゴライズする語彙であり、現在の「埴輪」や「土偶」という言い方は、 それぞれ「埴輪土偶」と「縄文土偶」が恣意的に省略されて定着したにすぎない。 長文スマソ。 大きめの考古学辞典や考古学史の本を調べるとふつうに出てくることを長々すまん。 考古学のコトバって、学者自身が曖昧に使い続けた結果、 もとの意味とずれていったり定義が定まっていないものがたくさんあるんだよな。 「帆立貝型古墳」とか、ここで出てきた「埴輪」もそうだけど。 一般によく出される「~時代の○○を××という」、 という定義もどうかと思うけど。 時代区分なんて研究者によりマチマチだし。 今日まで縄文時代、明日から弥生時代、なんて境目はないんだし。 の言葉も含めて 意外に あいまいだということのようです。
2006年04月23日
コメント(1)
http://rkrc5w2q.dyndns.org/cache/korea/kaba.2ch.net/korea/kako/1000/10003/1000311730.html 226 名前: 投稿日: 01/09/15 04:27 ID:JeNhAYUo 「歴史と現代」の創刊号に、朴蒼岩の「日本国民に継ぐ 歴史の掠奪者は誰か」 とかいうそれっぽい記事があるな。 原田榮なる人物の記事は目次からは見当たらんし、 原田榮なる人物の著作もまったくネット検索でも引っかからん。 これは推測だが原田榮はこの雑誌の発行者だったんじゃないか。 前に新国民社の鹿島昇の著作で発行者がこの人だったのは見た事ある。 で実際の記事を書いたのは朴蒼岩もしくは鹿島昇と。 ようするに、マッチポンプか電波。 それに朝鮮史編纂委員会の史料収集の事実と総督府による 独立運動家などの出版物の押収の事実を意図的に混同させて ちょちょいのちょいで捏造の出来あがりだと思われ。 史料がないないと言い立てれば 自分たちの歴史観がさも正しく映る たとえ それが捏造だとしても 古朝鮮しかり 徐福しかり
2006年04月20日
コメント(0)
http://www16.ocn.ne.jp/~nabe/z_donguri.html四国や九州の山の中では でんぷんをこんにゃくみたいにして食べるところもあるようです。
2006年04月18日
コメント(1)
http://hannichi.seesaa.net/article/8720372.html 北京原人の骨は皇居の地下室にある?http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/jud.html三笠宮のユダヤうんぬんの噺はだいたいうそ? http://tanakanews.com/jimbo/238.html布教のためには 嘘でもOK
2006年04月17日
コメント(1)
文選』は遣隋使や遣唐使によって、日本にももたらされている。その伝来を窺わせる最古の例は、推古天皇の一二年(六○四)に定められたとされる「憲法十七 條」である。その第五条に「絶餮棄欲、明弁訴訟。…頃治訟者、得利為常、見賄聴?。便有財之訟、如石投水、乏者之訴、似水投石」(貪欲を絶ち、公明正大に 裁きを行え。…近頃の裁判官は、私腹を肥やすのを普通と考え、賄賂を見てから訴えを聴く。だから富者の訴えは、石を水に投げるようだが、貧者の訴えは、水 を石に注ぐのに似る)とあり、これについて岡田正之『日本漢文学史 増訂版』(吉川弘文館、一九五四)一七一頁が次のように記している。「即ち聖徳太子の 憲法十七條に、/有財之訟如石投水。乏者訴似水投石。/とあるは、魏の李康の『運命論』の文に、/其言也、如以水投石、莫之受也。…其言也、如以石投水、 莫之逆也。/とあるに取らせ給ひたるものなれば、明に文選の伝来を証するものなり」。李康「運命論」は、三○巻『文選』では巻二七に収め られる。所引部分の水と石の比喩については、李善や他の学者も基づく所を注記しておらず、「運命論」の独創であった可能性が高い。さらに「運命論」が、現 存の古籍では『文選』と『芸文類聚』にしか収められておらず、後者の『芸文類聚』の上奏が『唐会要』巻三六の記すように唐の武徳七年(六二四)で、「憲法 十七條」より二○年も後であることを考え併せれば、「憲法十七條」第五条の比喩の出処を『文選』所収の「運命論」とする岡田説は、かなりの妥当性を持ち得 る。
2006年04月12日
コメント(0)
『日本書紀』--「(推古二十八年)・・・皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す。」これが西暦620年とすれば 西暦720年成立?の書紀より ずいぶん 前になります。これが白河本?という説がありますが さて?文選』は遣隋使や遣唐使によって、日本にももたらされている。その伝来を窺わせる最古の例は、推古天皇の一二年(六○四)に定められたとされる「憲法十七條」である。その第五条に「絶餮棄欲、明弁訴訟。…頃治訟者、得利為常、見賄聴?。 便有財之訟、如石投水、乏者之訴、似水投石」(貪欲を絶ち、公明正大に裁きを行え。…近頃の裁判官は、私腹を肥やすのを普通と考え、賄賂を見てから訴えを 聴く。だから富者の訴えは、石を水に投げるようだが、貧者の訴えは、水を石に注ぐのに似る)とあり、これについて岡田正之『日本漢文学史 増訂版』(吉川 弘文館、一九五四)一七一頁が次のように記している。「即ち聖徳太子の憲法十七條に、/有財之訟如石投水。乏者訴似水投石。/とあるは、魏の李康の『運命 論』の文に、/其言也、如以水投石、莫之受也。…其言也、如以石投水、莫之逆也。/とあるに取らせ給ひたるものなれば、明に文選の伝来を証するものな り」。 李康「運命論」は、三○巻『文選』では巻二七に収められる。所引部分の水と石の比喩については、李善や他の学者も基づく所を注記しておらず、「運命論」の独創であった可能性が高い。さらに「運命論」が、現存の古籍では『文選』と『芸文類聚』にしか収められておらず、後者の『芸文類聚』の上奏が『唐会要』巻三六の記すように唐の武徳七年(六二四)で、「憲法十七條」より二○年も後であることを考え併せれば、「憲法十七條」第五条の比喩の出処を『文選』所収の「運命論」とする岡田説は、かなりの妥当性を持ち得る。 とあるページよりの引用す 上の記事を除く「記録」「記文」の内容には,天武・持統朝の官府の記録・個人の日記類はもちろん,寺院の縁起・百済関係の史書(百済からの帰化人らの秦上した『百済記』 『百済新撰』『百済本記』)そのほかを用い,そのでき上った総量は『古事記』の記述量の数倍に達する。しかし神代に関しては記よりはるかに簡単で,記述量 はその1/3,一書群を加えても2/3に過ぎない。これは記の神話性・非現実性に対して,上記のような儒家的配慮による,その忌避・排除を示すもの,また 史書らしき体裁をより重んじたことを示す。記の和文よみに対する漢文体も民族主義退潮の時代性を語る。しかし,その潤色には朝鮮の史書のほか,類書・文例 集たる『芸文類聚』や『文選』が用いられ,また上記の仏教経典などの借用もあって,『古事記』に物語のある顕宗・仁賢巻に対応する巻十五あたりまではもち ろん以後巻末に近いところにまで虚構の記事や文飾が及んでいる,これらのなかには『日本書紀』編者の責には必ずしも帰せられないものもあるが,いずれにせ よ,その記述内容が史実か否かを認定するには,一々の記述について厳密な批判が必要である。 『藝文類聚』百卷、歐陽脩等奉勅撰。 唐 の高祖の武徳五年(622)に作られた現存最古の完本類書です。天部以下災異部に至る四十八部門に分け、更にそれが七百二十七目に細分されています。先ず 事実(経・史・子に属する文献)を引用し、次いで詩文(集に属する書籍)を採取しています。引用古典籍は九百種以上、引用詩文は五千種以上で、六朝時代の 詩文を多く残しています。 この書が、夙に 日本に伝わっていたことは、寛平年間(889~897)に勅を奉じて藤原佐世が編した『日本国見在書目録』雑家の部に、「藝文類聚百卷」と言う記載が有 り、それが日本の古典文学に多大な影響を与え、特に『日本書紀』編纂時の工具書として使用されている、と言われています。この書の引用文献の下限は隋朝ま でで、唐朝人の作品を採取することは、本来有り得ませんが、現行本の『藝文類聚』には、唐朝人の詩文十六種を含んでいます。 それは、蘇味道・李?・沈?期・宋之問・崔液・楊炯・李崇嗣・牛鳳及・董思恭・太宗の十人です。彼等は武徳五年以後の人々であれば、その詩文は後人の手に 因る竄入ですが、採録部門や採取内容が一致すれば、恐らく後発類書である『初學記』から、取り込んだのであろうと思われます。
2006年04月10日
コメント(0)
http://www.d7.dion.ne.jp/~gyoun/niga.htm 仏教の教えの一つにこんなことがあります。
2006年04月09日
コメント(2)
http://www2.cosmo-oil.co.jp/dagian/39/25.html縄文時代から小豆は食われていたとのことのようですが http://www.gozasoro.co.jp/main/azuki-banasi/htmls/azuki096.htm 親鸞の命日に小豆を食べるのはこういう意味があるようです http://www.chiba-muse.or.jp/digital_museum/special/yama/kurashi/shishikiri/report1.htm小豆を肉とすれば 諏訪神社のお祭りなど とても興味深いものがあります。
2006年04月07日
コメント(0)
http://www10.plala.or.jp/wai2club/daitchi/oitatchi/38/oitatchi38_5.html栽培されていたか どうかは?の部分もありますが あく抜きをしないで食えるもので 一番 美味しいのはこれのようです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%BA%A6%E6%A0%97術で 3度栗が取れるようにしてくれるのは いま私たちが考えるより ありがたいことだったのかもしれませんこれらの地域は あまり稲作はさかんでなかったところが多いようです。http://www.tabiken.com/history/doc/O/O283L100.HTM三度栗を含めた伝説はあまり これらを真面目に検討されている方はいないようですが栗を薬で使うとかの効用うんぬんという方もいますが空海や親鸞は 収穫祭にやってくる神様のような気が私にはしてきます。浄土真宗は神祇不拝といいますがhttp://homepage3.nifty.com/creole/taro.htm縄文を こんな形で見始めたのが この人が一番最初のようです。
2006年04月04日
コメント(0)
岩槻を例にとり これが如何に変貌したのか?土偶http://sde.jp/travel/saitama/sinpukuji%20kaiduka.htmおしらさまこけし雛人形
2006年04月02日
コメント(1)
1 この二人の死後 いわゆる在家出家の武家が 江戸時代になると いなくなるような気がしますが なぜなんでしょうか? 関が原の安国寺恵慶師匠以降はいないような気がしますが2 上杉謙信にしても 武田信玄にしても 漫画やテレビでは 近年、僧体での描き方と 俗人としての描き方に分かれていますが 信玄の肖像画で 有名な物が 信玄ではないといわれてからですか?3 1にも関係していますが 武家の在家出家というのは ほとんど コスプレみたいなものと私は解釈しているのですが いかがでしょうか?
2006年04月02日
コメント(0)
http://72.14.203.104/search?ie=EUC-JP&lr=lang_ja&hl=ja&q=cache%3AmpM3LupS7eoJ%3Ahttp%3A//www.geocities.jp/pingyanzi/Xuanan.HTM+%B3%D4%CB%F7%BC%E3+%BB%CF%B9%C4%C4%EB73年7月4日、毛沢東は王洪文、張春橋らと会談する際、「郭先生は『十批判書』の中で人本主義者と自称している。人本主義とは人民本位主義のことだ。孔子もまた人本主義者だ。郭先生と同じだ。郭先生は孔子を尊ぶだけでなく、法家に反対する。尊孔反法なら国民党も同じではないか。奴隷制は春秋戦国の間を境とする郭先生の歴史区分方にはわたしは賛成するが、始皇帝を罵倒してはならん」と郭沫若を名指して非難したこの場合は始皇帝とは 毛沢東を指すので なんだこの野郎ということになります。http://page.freett.com/dittopopo/num15.htm始皇帝の評価と孔子批判 私はかねがね不思議に思っていたことは、当時の中国政府が始皇帝を評価していたことである。1973年以来、中国は孔子批判という怪物が横行し、当時一キャンペーンを張られていた。孔子が創始した儒教は、古代奴隷を支配し搾取するための反動思想というものであるが、他方、始皇帝に関しては、奴隷制を封建地主制に変革し、焚書坑儒を断行したため、英雄的な行動であるという。 そして、劉少奇、林彪などは、これらの思想に毒されていたという。 確かに、マルクス主義史観では、奴隷制度よりも封建制は一定の進歩と言えるものであるが、始皇帝は、一貫して農民に対して弾圧していたりしたのも事実なのだが、それでも始皇帝を評価するのであろうか。正直、実は、始皇帝の評価と孔子批判というのは、僕にとってはいまだに分からないことで、これでは古くなればなるほど、評価されず、新しい人が登場すれば評価されるのかということになる。 いや 話はもっと単純で、孔子を批判するのは、単に、周恩来を打倒しようとした四人組の策謀で、それほど深い意味はないという意見もある。つまり、孔子が理想とした人物は、周の時代の周公で、周公と周恩来は、名前が似ているので皮肉ったというものだ。そして儒教を打倒した始皇帝を評価したのは、そういう意味合いがあるとのことだ。 実は、毛沢東の著書や訓話に儒教的な意味合いが含まれていることは周知の事実であり、さらに、孔子批判が飛び出す前までは毛沢東自身が孔子を高く評価していた。そして毛沢東自身が少年時代 四書五経を学習していたことを考えると、やはり単に周恩来を攻撃するための孔子批判と考えるのが相当であった。 そして、周恩来は国民的に大変人気が高かったため、四人組が策謀を凝らしたということなのだ。マルクス主義うんぬんということでの始皇帝という意味ではなく 最近出たマオなんて本を読むと 毛沢東自身が自分のことを始皇帝と思っていたようですが また周恩来も そこではいわゆる風見鶏のような人物に描かれています。 本当は 日本でもそうであるべきなんですが 特に 中国は ある歴史的事件が問題になる場合は それは 過去そのものではなく 現在のことが問題になります。今回もめた義和団にあたるものが 近年の反日暴動になります。中国政府はこのことをよくわかってますから、それが今回 義和団の評価でいろいろあった理由です。それが 中国人の歴史観というものです。先日 テレビで 中国の田舎では ホテルなどのリゾート開発で 土地の収用が行われる場合には 問答無用で ただ同然で そこの住民を追い出すのでそこの住民が北京に駆け込んでくるということを取り上げていました。こういうのが 反日暴動の背景にはあるという見方があるようで、一方ではあのときの中心にいたのは ほとんどエリートだよという反論もあるようですが、エリートは社会の木鐸だよという化石のような見方をつけくわえてきましょうか?北京オリンピックまで あとわずかですが 中国は間違いなく揺れております。
2006年04月01日
コメント(172)
全16件 (16件中 1-16件目)
1

![]()
![]()