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リルとリルラは幼なじみで、大人になったら結婚することを約束していた。 リルとリルラにはそれぞれ夢があった。絵を描くのが大好きなリルは学校の美術の先生に、繁殖期の凶暴な月の輪熊をも仕留めたことのある勇敢な祖父と同じマタギになるのがリルラの夢だった。リルとリルラは成長し、やがてそれぞれの夢を叶えた。 銀色に輝く月のある晩、リルとリルラは地元の山酒を酌み交わしながら近況を語り合った。その日リルラは二メートル近い体長のエゾ鹿を一発で仕留めていて、ちょっと興奮気味だった。「なあリルよ、俺は芸術なんて難しいことは苦手だから、おまえの描く絵がうまいのか下手なのかも分からないんだが、今日山の中であの巨大なエゾ鹿を、狙った急所を寸分違わず撃ち抜いて殺したとき、これもちょっとした芸術じゃないかって思ったんだ、そうは思わないか?」「ええ、そうね」「そうか、リルもそう思うか、やっぱり俺たち二人はどこかで繋がってるんだな、・・・それはそうとリルよ、もうそろそろ俺たち結婚しないか?」「ええ、そうね、・・・でもねリルラ、あたしも教員になったばかりだし、いろいろと勉強したいこともあるし、もう少し待って欲しいの」「そうか、おまえがそう言うのならもう少し待つか、まあ、結婚するのは決まっていて、あとは時期の問題だからな、焦ることはないな」 猟銃を肩で支え、汗の匂いを放ちながら、リルラはそう言って度の強い山酒を生で飲むのだった。 山を降りて町の学校に勤め始めるまで、リルは男というのはリルラのような汗臭い山男ばかりだと思っていた。無骨な男が嫌いというのではない。ただ、ずっと山に住む男たちとしか接したことがなかったから、香水をつけ、まるで女のような綺麗な手をした町の男たちにカルチャーショックを覚えたのだった。 教員になってすぐ、町の美術館で開かれた研修会で、リルはリルリルという画家と出会った。リルリルの描く絵はピカソのように抽象的だったが、説明のつかない魅力がリルの心をつかんで離さなかった。「世紀末」と題されたリルリルの絵の前で、リルが動くことが出来ずにいると、作者であるリルリルがやってきて声をかけた。絵を褒めると子供のように喜ぶリルリルに、リルは人としても魅力を感じた。 リルとリルリルは男と女として、急速に接近していった。 厚い雲に月の覆われたある晩、リルとリルリルは、町にあるリルリルの自宅のベッドに入って話していた。「ねえリル、リルはこの世の中でもっとも美しいものは何だと思う? もちろん君は除いてだけどね」「さあ、何かしら、あなたの描く絵じゃなくて?」「僕の絵なんてちっとも美しくないよ、いいかいリル、僕が思う、この世の中でもっとも美しいものというのは、ちょっと物騒だけど、人間の死体なんだよ、それも、どこも傷ついていない綺麗な死体なんだ」「やめてよリルリル、何だか怖いわ」 隠れるように抱きついてくるリルの髪をなでながら、リルリルは笑ってこう続けるのだった。「ちっとも怖くなんかないよ、だって考えてごらん、その死体はどこも傷ついてないから、傍目には眠っているみたいだろ? だけど本当は死んでいるから、もう絶対に歳を取らないんだ。それってすごく神秘的でぞくぞくしないか?」「もうやめてリルリル、そんな話するなんて、今夜のあなたはちょっと変よ」 そのとき突然、ピシンッ、という乾いた音が寝室に響いた。「ねえリルリル、今の何の音? ガラスの割れるような音に似ていたわ」 リルが枕もとの明かりを灯すと、ベランダに通じるガラス戸に一箇所、小さな丸い穴が、まるで掘ったように綺麗に空いているのが見つかった。「ねえリルリル見てあの丸い穴、あんなのさっきまでなかったわ、・・・ねえリルリル、聞いてるの?」 だが、リルリルは目を閉じたまま黙って答えないのだった。顔を覗き込んだリルは、リルリルが眠ってしまったのだと思った。リルは話しかけるのをやめて、リルリルに寄り添うようにしてベッドに潜り込んだ。リルリルの首に手を回したとき、リルの指先がべっとりと濡れた。 月のない闇の夜では、リルがそれを血だと気づくのにしばらく時間が掛かった。
2007.03.17
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何だか無性にイライラしてきてタバコに手を伸ばした。マッチで火をつけ、天井に向かって最初の煙を吐き出す。人魂のような形の紫煙が、天井に吸い込まれるように霧散して消えていく。ふとその現象が寂しく思え、私は消えゆく煙を留めようと、空気をつかむように手を宙にさまよわせていた。 そんな私を、あなたは黙って見詰めていた。酔って少し充血したその眼差しが、哀れみをたたえているように見え、私は思わずカッとなった。「羞恥心がないのかよ、いい歳こいて女子高生の格好してAVなんかに出やがって」「やっと本音が出たな、でも逆にすっきりしたわ」 ガハハ、とあなたは豪快に笑ったが、カッとなった私の言葉に、酔ったあなたの顔色が変わったのを私は見逃さなかった。 自宅に例の写真とビデオテープを送りつけてきたのは、あなたが勤める病院の看護師達だった。どこからかあなたの過去の経歴が同僚のナースらに漏れ、それでなくても嫌われていたあなたをいじめる格好の材料になったというわけだ。そのことを知った私は烈火のごとく怒り、病院に乗り込んで話をつけると息巻いた。「話をつけるって?」 とあなたは冷静に切り返してきた。誰と何をどう話をつけるの。「主犯の女を割り出して、張り手の一発でもお見舞いして、二度とこんな卑怯な真似すんなって話をするんだよ」 あなたは笑った。そんなことしても無駄だよと。「何でだよ?」「だからあなたはいつまで経っても子供なのよ、もういい加減俳優なんて諦めてちゃんと働きなさい、社会に出て生きていくことの厳しさを知るの」 あなたが初めて私の夢を否定した。 翌朝、日勤で病院に出掛けたあなたは夜になっても戻ってこなかった。深夜、病院から連絡があり、霊安室であなたが首を吊って死んでいると告げられた。 それから数週間は、あなたの死んだあとの処理に追われた。警察やら役所やらを回って、ややこしい様々な手続きをさせられた。 あなたの死を通して、私はちょっとだけ社会の煩雑さを知った。 私は今、街の外れの小さなアパートを借りて一人で住んでいる。新しく始めた、ひたすら石材を運ぶハードなアルバイトにも最近ようやく慣れてきた。 時々あなたが夢に出てきて私に忠告する。「もうそろそろ就職してまっとうに働けよ」 その度私はとぼけた振りしてハイハイ、と適当に相槌を打つ。あなたは笑って、嘘つけよ、とげんこつで私の肩を小突く。 私の住むアパートの部屋の窓からは、あなたとの生活の名残で一晩中明かりが漏れている。 相変らず私は、あなたが暗闇を怖がる理由を知らない。
2007.03.04
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私はビデオを停めなかった。停められなかった。見知らぬ男に次々と制服を脱がされていく、ちょっとだけ老けたテレビの中の女子高生に見入り続けた。 あなたは次第に息を荒くし、やがて声を漏らし始める。あなたの出す声は見知らぬ男の手によって粘着性を増し、私の耳の奥でいつまでも残響する。ぐちゃぐちゃにされていくあなたの顔の表情が、柔らかい肢体の反応が、その声が、私の下半身を否応もなく締め付ける。 私はテレビに釘付けにされたまま穿いていたズボンを脱ぎ捨てた。 その晩、仕事で疲れて帰ってきたあなたの目に、私は明らかに不自然に映ったのだ。あなたは私がしまい込んだ複雑な後ろめたさをすぐに見抜いた。「何があったの?」 とあなたは真っ直ぐな目で言った。私はヘラヘラ笑うことしか出来ず、動揺で視線が宙を泳ぎ、無意識のうちにチラチラと押入のほうを見てしまった。あなたは押入の戸を開け放つと、下着やタオルを入れた収納ボックスの裏に隠した例のビデオと封筒をあっという間に見つけ出した。 しばらくの間封筒の中身を確認して、ゆっくりと私を振り返ったあなたの表情は、冬の夜に首まで湯船に浸かったように安心していた。 あなたと私は恋人同士なのに、肝心なところでお互い心を開かない。見えない自分の傷を恋人に曝け出す勇気が持てない。重い荷物も二人で持てばこんなに軽くなるのに。それくらい誰に言われなくたって分かるのに。「絶望した?」 とあなたは尋ねた。「誰が何に対して?」 と私は返した。「あんたがあたしに対して」 私は首を振った。それから、女子高生になったあなたを見て、何度も一人エッチしたことをあなたに告げた。制服姿のあなたが嫌らしくてかわいくて、とてもじゃないけど我慢できなかったのだと。 あなたは下唇をギュッと噛み締め、落ちていた雑誌をつかむと私に向かって投げつけた。雑誌は私の頭上を飛び、キッチンとの境の引き戸に当たって大きな音を立てた。 あなたは昔風俗嬢だった。昔といってもあなたが看護学校に入学する前までの話だから、たかだか数年前のことだ。なぜ風俗嬢だったのか、聞いてもあなたはただ、お金が必要だったからよ、としか教えてくれない。とにかくそうだったのだ。 風俗嬢時代、ある夜あなたは店の常連客から自分で店を出さないかと持ち掛けられる。あなたなら、自分でやれば今の十倍は稼げるようになるとそそのかされ、あなたはその男に出店に必要な準備や手続きの一切を任せた。 一ヵ月後その男から連絡が入り、あなたは空いたばかりだという駅前の雑居ビルの一室に案内される。風俗をやるにはこれ以上ない場所で、あなたは男に勧められるまま貸室の契約書にサインをする。男から矢継ぎ早に店のレイアウトなんかの具体的な話をされると、あなたは心浮かれ、自分の店が成功することしか考えられなくなっていた。「諸々の費用で都合一千万ほど掛かる」 そう男に言われ、あなたは貯金と借金を駆使して全額を支払った。 そう、あなたはまだ若かったのだ。 その翌日から男は行方不明になった。「あとに残ったのは莫大な借金だけで、それを返すためにあたしはアダルトビデオに出たの」 だって、もらえるギャラが大きいから手っ取り早く返せるでしょ、あなたはそう説明した。 その夜、我々は酒を飲んだ。何と言っても恋人がアダルトビデオに出ていたのだ。飲まなければ、恐らくあなたにしても私と面と向かって話をすることが出来なかったはずだ。 酔うとあなたは興奮気味に開き直った。「借金返すために裸になっちゃいけないのかよ、お金もらうんだから立派な仕事じゃねえか、違うのかよ?」「俺はべつに責めてないよ」「責めてない? だったら幻滅したんだろ? エロビデオなんかに出やがってって、あたしを軽蔑するんだろ?」「そんなわけないだろ」「だったら何だよその態度は? いつものあんたと丸っきり違うじゃない」 あなたは私が買い置きしていた焼酎をロックで飲んだ。それも結構なハイペースで。いつもはそんな飲み方はしない。ウーロンハイか何かにしてまったりと飲む。あなたは明らかに急いで酔いを回そうとしていた。まあ、それは私も同じなのだが。「驚いてるんだよ、まだ気持ちの整理がつかないんだ、だってそうだろ? いきなりこんなものが送られてきて、びっくりするじゃないか」「あたしと別れるつもり?」「・・・そんなこと一言も言ってないだろ」「あっ、ちょっと間があった、即答じゃなかった、深層心理は正直だ」「何言ってんだよ、おまえと別れても俺は行く場所がないんだよ、金も仕事もないし、たちまちホームレスだよ、困るんだよ」「ホームレスになるから別れないの?」「そうだよ」 違う、それだけじゃない。私はあなたのことが好きなのだ。好きだから一緒に居たいのだ。だけどなぜかその一言が言えなかった。酒が入っているのだ。照れなどではない。やはり私は心のどこかで、あなたがアダルトビデオに出演したことを根に持っているのだろうか。
2007.02.25
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歩くことは出来たが、右腕の肘から先が熱く痺れて力が入らなかった。また骨が折れたのだと思った。動かせる左手で額を触ると、ぬるっとした感触があった。外灯にかざさなくても鮮血だと知れた。ジンジンしてよく分からないが、恐らく頭のどこかが切れているのだ。傷の程度によっては縫わないといけないかもしれない。やっかいなことだ。 だが、私は確かに生きていた。 診察の結果、腕の打撲だけで入院できなかった私は、知らぬ間にうつ状態に陥っていた。あなたとの会話は以前にも増して簡素になり、外出も避けるようになった。近所のコンビニや、大好きだったパチンコ屋でさえ行くのが億劫になった。 私は昼前に起き出して、あなたが作り置きしている食事を取り、糞をして、寝転んで漫画を読み、飽きるとテレビを観る。毎日そうやって時の流れを無視しようとしていた。それでも出て行けとも働けとも言わないあなたの庇護の下に、現実から逃げていた。それでいて私は、あなたの愛情を憎んでいた。「何で追い出さないんだよ?」 あるとき私はそうあなたに詰め寄った。「はあ?」 と、キッチンで溜まった食器を洗っていたあなたが振り返る。「一人分余計に金が掛かんだろうがッ」「何よ急に大きな声出して、馬鹿じゃないの?」「生活費だよ、食費とか、俺が居るだけで出費がかさむだろって聞いてんだよ」「そんなもん一人も二人も変わるかよ」「変わんねえから追い出さねえのかよ」「そうだよ、文句あるのかよ、あんた何様のつもりだよ」 私はいったい何様なんだろう。考えても分からなかった。 この頃からあなたは、少しずつおかしくなっていった。 それまで寝過ごして仕事に遅刻するようなことはなかったし、まして少々体調が悪いくらいで休んだりはしなかった。あたしじゃなきゃダメな患者がたくさんいるのだとうそぶいて、熱を出し、咳をしながらもマスクをして出かけていた。あなたは自分の責任に対してとても真面目だったのだ。だからあなたが職場を放棄するということは、余程のことだったのだと思う。 あなたは目に見えて痩せた。口数も減り、仕事を休んで一日中布団の中に潜り込んでいることもあった。当然私は心配になる。あなたが変わってしまった原因を突き止めたいと思う。だけどあなたは幾ら私がそのことを問い質しても、べつに、としか答えない。べつに、平気だよ、心配すんな、という壁を周囲に張り巡らせて、自分の殻に恋人を招き入れようとしない。恋人に心配をかけないのが恋愛のルールであるかのように。私はひねくれ者だから、それを曲解して、俺じゃ頼りにならないからか、なんてさえ思う。だから私は、ムッとする。「べつに、平気だよ、心配すんな」「べつにってことはないだろ、理由もないのに何で仕事休むんだよ、看護ってそんないい加減な仕事なのかよ」「あんたに言われたくない」「ひょっとしてあれか、病院でいじめられてんのか?」「あんた何言ってんの? そんなの馬鹿じゃん」「図星だろ? だっておまえ病棟でチョー浮いてたもんな」 私の当てずっぽうは、当たっていた。 ある日の夕方、あなたが留守の間にあなた宛の小包が送られてきた。送り主の名前は私になっていたが、もちろん身に覚えはなかった。 デパートの包装紙に包まれた小包を開くと、中から梱包されたビデオテープと封筒が出てきた。 封筒の中身はあなたを写した十数枚の写真だった。 どの写真に写ったあなたも裸で、いろいろな嫌らしい格好をしていた。指をくわえて足を広げたり、ロープで体を縛られたり、見知らぬ男の上になったり下になったりしていた。あなたは私の見たことのない嫌らしい表情をさらしていた。 いつぐらいに撮った写真だろうか。写っているのは間違いなくあなただけど、今よりちょっとだけ若いような気がした。 今度はビデオを観てみた。映っていたのはやはりあなただった。ホテルの部屋のベッドに腰掛けたあなたは女子高生の格好をしていて、フレームアウトした男の卑猥な質問に答え始めた。初体験はいつどこでとか、おもちゃを使ってどうのこうのとか・・・。 私の胸が、熱く早く波打っていた。あなたの過去を知った衝撃と、それとは無関係に反応する下半身の性の部分がそうさせていた。
2007.02.17
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私はあなたの部屋に居座る疫病神だ。家賃も払わず、タダ飯を喰らい、あなたから金をせびってはパチンコを打つ。勝てば駅前で寿司でも買って帰ってあなたの機嫌を取るが、負ければふて寝してナイターを観、あなたの呼びかけにもいい加減に応じる。そんな殿様みたいな生活が長く続くとは私自身思っていなかった。 だけどあなたは一向に私を追い出そうとしない。小さな喧嘩はしょっちゅうで、時には怒鳴り合うことさえあるのに、この部屋から出て行けという一言だけは、まるで禁句であるかのように口にしない。そう、そうやってあなたは必ず私に逃げ道を残すのだ。それがかえって私を卑屈にする。私は密かにあなたからの最後通告を待っていたのだ。自分では留まる決心も去ることも出来ず、あなたに追い出されるのを待っていたのだ。どうしようもなくなった自分の状況を、あとであなたのせいにも出来るように。 あなたの言う通り、私は卑怯な男だ。「たまにはどこかに連れてけッ」 ある日あなたに強くそう請われ、我々は電車を乗り継いで郊外の動物園に出掛けた。考えてみれば、動物園なんて小学生の遠足のとき以来足を踏み入れたことがなかった。 よく晴れて空気の清々しい日だった。なのに園内で檻の中の動物達を見て回っているうちに、だんだん気持ちが沈んできた。動物達が狭い檻の中に入れられてかわいそうとか、そういうのではない。 私はお金を払って動物の生態を観ている自由な側なのに、逆に檻の中に閉じ込められているような気がしてきたのだった。 なぜだろうか。私は本当は、自由ではないのだろうか。「ソフトクリーム食べるべか?」 さっきからあなたはリスザルがかわいくて仕方がないのだと猿の檻の前で騒いで、挙句売店でソフトクリームを買ってきて勝手に与えようとしている。相手は猿なのだ。ソフトクリームという発想がよく分からない。案の定、あなたはリスザル達から完全に無視されていた。一匹だけ、ほんの一瞬ソフトクリームに興味を示す素振りを見せたが、すぐに仲間の輪に戻っていった。「んッ」 あなたはリスザルに相手にされないと分かると途端にじれて、手に持ったソフトクリームを私の胸の前に突き出した。「何?」「食べなよ」「食べなよ? 猿に食わせようとしてたヤツじゃねえか」「だから?」「猿が食わねえモン、俺が食うのかよ?」「そうよ」「俺は猿と同等か?」「猿以下よ」 私はあなたの手から溶け掛かったソフトクリームを奪うと、リスザルの檻に向かって投げつけた。驚いて散り散りになる猿達を睨みつける私を、園内の客達が遠巻きに観察していた。 その夜私は、駅前で盗んだ自転車にまたがり、街で一番長い坂道の頂上にいた。そこから下に向かって、ある程度スピードが出るまでペダルを漕いだあとは、目をつぶってブレーキもかけない。そうすると決めていた。「あんたほんとは死のうとしたんだろ?」 ふいにあなたの声が耳元で蘇る。そんなことない、私はその声に反論する。本気で死ぬつもりなら自転車など選ばない。ビルの上から飛び降りるとか、もっと確実に死ねる方法を取る。私はただ、入院する程度に怪我をして、またぞろ現実から逃れようとしているだけだ。私は、満足に死ぬことも出来ない。 そう、あなたの言う通りで、私は卑怯者だ。 意識を振り払うように、私は自転車を漕ぎ始めた。引力も手伝って、自転車はどんどんスピードを増していく。 この盗んだ自転車が、手でハンドルの向きを保たなければ右に曲がっていく癖があるのを、駅前から坂の上に来るまでに私は発見していた。このままスピードをつけて手を離せば、すぐに私は右手に延びるガードレールに激突するだろう。体だけ飛ばされて、打ち所が悪ければ、引っ付いたばかりの骨がまた折れるだけでは済まないかも知れない。 そう思った瞬間、体中に恐怖が駆け巡った。とっさにブレーキをかけたが、勢いを得た自転車に体だけアスファルトに投げ出された。肘と顔面に電撃が走り、夜なのに一瞬目の前が真っ赤になった。 ゆらゆら体を起こそうとする私を、坂を上がってきたスカイラインが脱走犯みたくアップライトで照らし出し、クラクションを小刻みに鳴らし、笑い声と共に通り過ぎていった。
2007.02.11
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酒を飲むとあなたは変わった。より饒舌に攻撃的になり、私をダメな男だと傷つくほどヤジった。「仕事もない、才能もないで、これからどうすんだよ三十のおっさんがッ」 私は黙ってイカを口に運ぶ。目尻に涙が滲んだのはわさびが効いたからだ。「バイク事故って、あんたほんとは死のうとしたんだろ?」 あなたはそう言うと私の肩をげんこつで叩きながら、ガハハと笑う。で、中ジョッキをウンウン煽り、また中トロを頼む。ゲパッとげっぷを出す。どっちがおっさんだよ、私はあなたに酒を勧めたことを後悔しつつ、心の中で文句を言う。 私は、本当に死のうとしたんだろうか。 ・・・分からなかった。あのとき私は友人から譲り受けた中型のバイクを、ただひたすらに真っ直ぐ走らせようようと決めたのだった。もう何があってもブレーキをかけないでおこうと。 死のうとは思わなかった。急に停滞するのが嫌になったのだ。笑われるかも知れないが、恐らくそうやって、自分が世の中から取り残されていくような焦りや敗北感を吹っ切ろうとしたのだ。でも言い換えればそれはあなたの言う通り、死のうとしたのと一緒なのかも知れない。 私がそのことを告げると、あなたは自分で言ったくせに、んにゃそりゃ違うと首を横に振った。「違うね、あんたみたいなダメな男に死ぬことなんか出来っこないわ、あんたは単純に逃げてみただけよ、現実から逃避したの、自殺ってそんな簡単に出来るんもんじゃないんだから」 寿司屋を出たあと、私は酔っ払いのあなたを落ち着かせるため喫茶店に誘ったが、あなたは公園に行くのだと聞かなかった。モアモアと黒い緑に囲まれた園内は不思議なほどしんとしていて、入り口のずっと先の、中央にある切れ掛かった外灯の明滅音がくっきりと耳に届いた。ちょっぴり眠そうなあなたの表情に、明滅する外灯が微妙な変化を与える。光の加減であなたの顔が不機嫌そうになったり寂しそうになったりする。そっとあなたの手を握ると、私はもう何も考えることが出来なくなる。あなたの柔らかい手を取ったまま、私は無意識に立ち止まっている。 夜の公園で、私はあなたにキスをした。 同棲を始めてすぐ、私はあなたの意外な一面を知る。あなたは小さな子供のように暗闇を恐れた。重苦しさに夜中ふと目覚めると、あなたが全身で私の腕にしがみついている、ということが何度も起きた。「大丈夫?」 と尋ねても、あなたは返事も身じろぎもしない。寝ているのかと思って顔を覗き込むと、うっすらとまぶたを開ける。その目が、怯えている。「怖い夢でも見ちゃった?」 と私。ちょっと間を置いて、「・・・チゲえよ」 と掠れた声であなたは否定する。チゲえよ、何でもねえよと。でもその返事とは裏腹に、私の腕をつかむあなたの手は熱く汗ばんでいる。ヘンだなとは感じつつも、その矛盾を突き止められぬまま私は再び夢の世界に引き戻されていく。眠いから。そんなことを幾度となく繰り返した。 結局あなたは自分の口から電気を点けたまま寝て欲しいとは言わなかった。震えるほど暗闇が苦手なのに、そのことに私が気づくまで黙ってじっと耐えていたのだ。 あなたは素直じゃない。ほとんど頑固だ。だけどそれはあなたが居候の身の私に、ものすごく気を遣っているのだとも取れなくはない。そう考えると、私は何だかむず痒くなる。 我々の住むマンションの部屋の窓からは、一晩中白い明かりが漏れている。いつあなたが帰ってきても大丈夫なように、誰も部屋に居なくても夜は電気を点けてある。朝が来るまで、あなたから暗闇を奪うために。 私は、あなたが暗闇を怖がる理由を知らない。 始めて一ヶ月も経たないうちに、私はパン屋のアルバイトを辞めた。ある日突然、何時間も立ち通しでパンを袋に詰める作業が馬鹿馬鹿しくなったのだ。あんな単調な作業は俺のやる仕事じゃない。 私は日中、部屋で映画を観たり外でパチンコをするようになった。その間、籍を置いている事務所から撮影の話が何本か入ったが、全部断った。エキストラで、浜辺に三日間拘束されてギャラが五千円とか、そういうやつだからだ。以前はそんなちゃちな仕事でも結構喜んでやってたなと、パチンコをジャンジャカ鳴らしながらふと思う。だけど思うだけで、店内のうるさい音楽や立ち込めるタバコの煙と一緒ですぐに気にならなくなる。
2007.02.04
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あなたが夜勤のとき、私はうまく寝付くことが出来ない。深夜あなたが巡回で病室にやってくるまで大抵起きている。 患者の寝息を確認するように、あなたはゆっくりと病室を往復する。懐中電灯の遠慮がちな白い光が、あなたが今注目している場所を教えてくれる。あなたが病室を出て行くまでの間、私は私も注目されるだろうかと気が気じゃない。 私は薄闇に流れるあなたの気配を、薄目を開けて感じ取ろうとする。消灯後、こんな時間まで私が起きていることを知ったら、あなたはどうするだろうか。考えるだけで私の胸はドキドキする。その感じがたまらなかった。 ある日の夕方、病室で、あなたと二人きりになった。私はベッドに上体を起こした格好で、白衣のあなたが目の前に立っていた。静かで、カーテンの開いた窓から西日が注がれ、真っ白なベッドのシーツを染めていた。私は沈黙を埋めるように、聞かれてもいない私の個人情報を一方的にあなたにしゃべった。あなたに私を知ってもらうために。 私は三十歳で、独身で、無職だった。映画俳優を目指していたが、鳴かず飛ばずだった。当然あなたの好きな貯金もない。恋人もいない。普通に考えれば将来性もない。そんな私の自己紹介を最後まで黙って聞いて、あなたは一言、ダメじゃんと笑った。 退院のメドが立ったある日、我々だけの喫煙場所で、私はあなたにあなたの連絡先を尋ねた。退院してからもあなたに会うために。「会ってどうするのよ?」 とあなたは言った。お金もないくせにと。もっともっとあなたと話がしたいんだと、正直に私は答えた。あなたのことが好きで、あなたのことを深く知りたいのだと。 あなたは私の目をジッと覗き込んだあと、私の手を取って甲の部分に携帯の番号を素早く書き込んだ。まるで毎朝の患者の体温を記録するように。 退院するとすぐ、私は菓子パンを包装するアルバイトを始めた。シフトが週ごとに自由に組めるのが、このバイトを選んだ一番の理由だった。撮影で何日間も拘束されることがあるので、勤務に融通の利くバイトじゃないと長く続かないのだった。仕事の帰り、パートのおばちゃんが形の悪いパンをこっそり持たせてくれるのもありがたかった。形は悪くてもパンはパンだ。パンだ! 退院してまともに生活が出来るようになってから、私は初めてあなたに電話をかけた。看護師と患者という関係じゃなく、男と女の関係として。 電話に出たあなたの声はなぜか遠くてすぐに切れてしまったが、あなたは私の誘いを断らなかった。 一週間後の夜、我々は初めてのデートをした。くすぐったいような緊張に包まれながら、私は約束した駅前のオブジェの傍であなたを待った。 ところが、待ち合わせの時間を過ぎてもあなたは現れない。周りにいる待ち人の顔触れがどんどん変わっていく。それに応じて私の不安もどんどん募っていくのだが、それでもあなたにメールを打つことも電話をすることも出来ない。怖いのは、ちゃんとあなたを好きだからだ。 持っていたタバコを吸い尽くし、さすがに諦めかけた頃、あなたは何かのついでのようにふらっと私の前に姿を現した。「お待た」 とぶっきらぼうに笑う。「べつに、そんなに待ってないよ」 言いながら私はスニーカーの先で足元の吸殻を蹴散らす。ずっと立ちっ放しで、その足が少し痺れていた。「何よジロジロ見て、文句でもあるの?」「・・・いや、そうじゃなくて」 初めて目にするあなたの私服のコーディネートを私が褒めると、あなたはさっと頬を赤らめ、死ね、と吐き捨てた。だけど、あっさりしたベージュのニットと花柄のスカートの組み合わせは本当にあなたに似合っていたし、看護師のときには塗らなかった口紅の色が私をドギマギさせたのも事実なのだ。あなたはやっぱり素敵だった。 私は無理をしてあなたを寿司屋に誘った。入院中、病院の外階段の踊り場で、好きなだけうまい寿司が食べたいよと、溜め息交じりにあなたが呟いたのを覚えていたから。
2007.01.27
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あなたと私の恋愛が芽生えたのは、丘の上に建つ総合病院の外科病棟でだった。 あなたはその病院に勤める新米看護師で、私はバイク事故で手足を折って収容された入院患者だった。 手足をギブスで固められた私は、あなたが病室に入ってくるとベッドの上でいつもハラハラした。あなたが単純なミスを何度も繰り返すからだ。入院間もない患者でさえ覚えているような段取りを、あなたは平気で間違える。毎朝の検温をすっぽかすとか、そんな初歩的なミスも多い。 ミスを指摘されるとあなたは、そんなの知ってるわよと言わんばかりに露骨に嫌な顔をする。素直じゃない、と見ていて思う。注意する側はあきれるか輪をかけて怒るかのどちらかだった。 あなたは自分の失敗を決して認めない。頑として謝らない。まるで何があっても人に謝ってはいけませんと学校で教え込まれたかのようだ。あなたにとってあなたの失敗の原因は、いつだってあなた自身にはないのだった。 点滴の針を四回も刺し直されて私が文句をつけたときも、あなたは私の血管が人より細いからだと開き直った。決してあなたの技術のせいではないのだと。もちろん私は反論した。「そんなことないと思うけどな、だってこの前の看護師さんは一度でちゃんと刺さりましたよ」「あの人は勘がいいのよ、だけど看護は勘でやっちゃダメなの、何でもそう、勘に頼ってちゃロクなことがないわ」 あなたが車椅子のおじいさんを立たせようとして失敗して、一緒に転んで骨折させたという話を偶然耳にした。考えらないわ、ナース達の立ち話で、あなたはそう笑い者にされていた。でも私は笑わなかった。というか、笑えなかったのだ。確かにあなたは雑なところがあるし、自分の非を指摘されるとすぐに機嫌が悪くなるけど、仕事に対しては一生懸命なのを知っていたから。 それが証拠に、あなたにアバラを折られた車椅子のおじいさんとその話になったとき、彼はあなたを一切責めなかった。逆にあなたを褒めていた。病院の規則を破ってまで夜の街に連れ出してくれたのはあなたが初めてだと。あれは若いのにあっぱれなオナゴだと。「食いっぱぐれがないからよ」 いつかあなたは看護師になった理由をそう私に教えてくれた。「看護師って慢性的に不足してるのよ、だから仕事にあぶれることがないの」 確かにそうかも知れない。でもひょっとしたらあなたは、選んだ仕事を間違えたかも知れない。余計なお世話かもしれないけど、一生懸命さを履き違えてしまう性格には、人様の命を預かる看護という仕事はとても危険な気がする。きっと人にはそれぞれ向き不向きの仕事があるのだ。 それはさておき、私はあなたのどこに惹かれたんだろう。 病院で、あなたはしょっちゅう不機嫌そうな顔をしていた。何がそんなに気に食わないのか。あなたにとってこの世の中はそれほど生き難いものなのか。しゃべると結構気さくなのに、結果的にそれであなたは周りの人間を遠ざけていた。あなたはいつも一人ぼっちだった。 病棟で唯一の喫煙場所が患者で一杯のとき、私は松葉杖をついて外階段へと向かう。病室から遠いので時間と体力を使うが、街並を一望に見下ろせる外階段の踊り場が私は好きだった。眼下に広がるジオラマのような街を眺めていると、不思議と心が満たされるのだった。 関係者以外立ち入り禁止のその場所で私がタバコを吸っていると、ときどきあなたはやってきた。でも他の看護師と違って、あなたは私を注意しなかった。「ストレスって、溜まるんだよねぇ・・・」 しみじみそう言うと、私からタバコを取り上げて一緒に吸い始める。「お金はなかなか溜まんないのにねぇ・・・」 そんなときあなたは、普段病院では見せない穏やかな表情を浮かべた。「貯金してるんだ?」 私はその表情の緩みを担保に、あなたのプライベートに踏み込もうとする。「当たり前じゃない、いざってときのためよ」「いざって?」 あなたは晴れた空を眺めてしばらく考えて、さあ、と煙と一緒に吐き出す。「・・・さあ、分からないけど、でもいざってときのためよ」 そう言って、短くなったタバコを指で空に弾く。その瞬間私は、急降下していくタバコの火がまだ消えてないんじゃないかと焦って下を覗き込む。風に吹かれ、役目を果たしたタバコがものすごい勢いで回転しながら音もなくアスファルトに吸い込まれていく。 バタンと音がして、振り返るとあなたはもう居ない。
2007.01.21
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酒を飲んで眠っていると部屋のチャイムが鳴った。面倒だったが一応出てみると、お化けが立っていた。遠慮がちな俯き加減で、何だか訳ありである。「どうしたの? こんな時間に」 優しさ一杯の私の問い掛けに、・・・エエ実は、とお化けは静かに語り始めた。要約すると、ざっと次のようなことである。 お化けは、お化けのくせに人間の女に恋をしてしまった。お化けと人間だから、絶対に実らない恋である。だけどお化けはマジでその子に惚れてるから、そう簡単に諦められない。仲間のお化けに相談しても、くだらないとまともに相手にされない。思い余って人間である私のところに相談に来たというのである。「でもさ、何で俺なの? べつに俺は女慣れしてるわけじゃないし、恋愛経験だって乏しいほうだから、たいしたアドバイスなんて出来ないよ」 それでもいいと言うので、眠かったが、とりあえず私はお化けを家に上げた。「何か飲む?」 熱いコーヒーが欲しいとお化けは言った。意外に遠慮がないやつである。 私とお化けは小さなテーブルを挟んで向かい合って座った。「で、結局どうすんの? その子に告白するの?」「・・・エエ、まあ、出来たらそうしたいのですが」「だったらそうしなよ、悩んでたってしょうがないじゃん」「そりゃ確かにそうなんですけど、でもボクはお化けですよ」「見りゃ分かるよ、でも好きなんだろ?」「好きです、即答できるくらい好きです、でもお化けだから相手にされないんじゃないかと・・・」「そんなの今から心配してどうすんの? 告白みたいなものはさ、ダメでもともとって覚悟で、思い切ってするんだよ、そうすりゃ案外うまくいくんだよ」「お化けは物事をポジティブに考えられないのです」 煮え切らないお化けの態度にさすがの私も苛立ちを覚え、タバコに手を伸ばした。「あっ、ちょっと、タバコはやめてもらっていいですか」「何でだよ?」「複流煙は体に悪いので」「おまえお化けだろ? 何で健康に気を遣うんだよ」「・・・すみません、ちょっと人間っぽく振舞ってみたかったのです」「・・・おまえさ、ここに何しに来たんだよ?」 明日は取締役を交えた営業会議で、私は早起きをしてプレゼンの準備をするつもりでいた。お化けに付き合っている時間などないのである。「悪いけどもう帰ってくれよ」 私は急き立てるようにお化けを部屋の外に出した。去る寸前、お化けは振り返リ、うらめしそうに私に言うのだった。「あなたもいつかお化けになったら分かりますよ、お化けの気持ちは、お化けにならないと分からないのです」 近所の犬に吠え立てられながら、お化けは夜空に消えていった。
2007.01.14
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夢の中だけに現れていた連中が、あるとき突然現実の世界にやってきて、僕の体を押さえつけた。連中は、僕が動けないのをいいことに、わきの下や足の裏をこちょばしたり、ゴム鉄砲を作ってふとももの内側に当てたりしていたが、やがて顔つきを変え、メスで僕の頭を切り始めた。「いったい何をする気なんだ!!」 そう叫んだ僕の目の前に、連中のうちの一人が梅干くらいの大きさの種をつまんで見せてきた。「・・・そ、それをどうする気なんだ?」 不安がる僕を楽しむように、連中は終始無言でその種を僕の頭の中に埋め込むのだった。 ・・・気がつくと僕はベッドの上で仰向けになっていた。やはりすべては夢の中の出来事だったのかと安心したのもつかの間、すぐにそうではないのだと知れた。枕に、僕の頭を切ったときに出た血がべっとりとついていたのだ。連中は間違いなく現実にやってきたのだ。 次の瞬間、僕を底知れぬ恐怖が襲った。僕の頭の中に埋め込んだあの種が何を意味するのか、連中は一言も教えてはくれなかった。ひょっとして僕の体から栄養を吸収して、種が芽を出してやがて花を咲かすんじゃないだろうか。仮にそうだとして、花はどこから咲くのだろう。 僕は自分の耳や鼻や口からつぼみをつけた茎が伸び出てきて、得体の知れない色の花を咲かせる様子を想像して、思わず叫び声を上げそうになった。そんなのは絶対にごめんだ。そんなことになったら100パー彼女が出来ない。死んだほうがまだマシだ。「マモルちゃん、お夕飯出来たから降りてらっしゃい」「メシどころじゃねえんだよ糞ババア!!」 普段はとても温厚な僕が絶叫したものだから、びっくりした母親が二階に上がってきた。母親に見つかると面倒だから、とりあえずこの血のついた枕を隠さなくてはならない。 僕は部屋の鍵を閉め、血の枕を抱えて押入れの中に入った。気を落ち着けるためにも、しばらく狭くて暗いところに居ようと思ったのだ。 押入れの中で枕を胸に抱いて座り、目を閉じて深呼吸を繰り返していると、ふと気配を感じた。目を開けると、連中の一人が鼻の先が触れ合うほどの近くまで顔を寄せていて、こう言った。「マモルちゃん、お夕飯が出来たみたいだから早く降りたほうがいいよ」
2007.01.14
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せっかく魔法使いと友達になったのに、喧嘩をして食パンにされてしまった。食パンは、はっきり言って辛い。何が辛いって、全然動くことが出来ないのだ。メチャクチャ暇なのである。だったら空想にでもふければいいじゃん、って思うかもしれないけど、空想にふけるったって限度がある。第一、空想にふける食パンなんて聞いたことがない。困ったものである。 ところで、目下片想い中の理奈ちゃんは今何をしているだろう。理奈ちゃんのことを考えると、胸が勝手にドキドキする。シャワーを浴びているところなんかを想像すると、体がヘンな感じになる。つまり僕は、理奈ちゃんにぞっこんなのだ。・・・でもちょっと待てよ、食パンになったってことは、理奈ちゃんと付き合える可能性はほとんどゼロに近いんじゃないだろうか。いや、そんなことはない。それはちょっとネガティブに過ぎる。食パンだって、チャンスはあるかも知れない。諦めないことが重要だってジーコも言ってたもん。「誰、こんなところに食パン置いたの?」 そ、そ、その声は我が愛しの理奈ちゃん!! ということはここは、理奈ちゃんの家なのか? 目が見えないから分からなかったけど、魔法使いの野郎、なかなか憎い演出するじゃないか。食パンにされたこと、全部じゃないけど一部許してやってもいいぜ。「お腹空いたから、あたし食べちゃお」
2006.11.19
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ある日突然、ママが猫になった。猫になったってママはママだから、ボクは普段通りの甘えん坊でママに接してみる。「ママあのさ、ムシキングのフィギアのやつがあってさ、学校でさ、みんな持ってるから、ボクも欲しいんだけど」「ミャアー」「ママあのさ、ボクね、やっくんが鉄棒できないの手伝ってあげたら、先生にエライって言われたよ」「ミャアー」 猫になったママはミャアミャア言うだけで、ちっともボクと話してくれない。抱きつこうとするとびっくりしたみたいな動きでボクの手からすり抜けて、振り返ってしばらくボクを見詰めたあと、コタツの中に入って出てこなくなった。ボクは腹が立ったので、ママがコタツから出られないようにコタツ布団の上に図鑑とかを置いて塞ぐと、温度設定を最高値にしてやった。これでママも少しは反省するんじゃないかと思った。 ところがママは十分経っても十五分経ってもコタツから出てこようとする気配をみせず、そのうち逆にだんだん心配になってきて、ボクはそっとコタツ布団をめくってみた。するとすぐ目の前にママがいて、いきなり顔面を引っかかれた。 自然に熱い涙があふれてきた。ママはもうボクを嫌いになったのだろうか。もう僕を忘れてしまったのだろうか。「ママ!!」 大声で呼んでみたが、何の反応もない。恐る恐るコタツの中を覗いてみたけど、もうもぬけの殻だった。部屋を見回しても、やっぱりママの姿はない。どこに消えたのか、気配すらない。来週の参観日、ママはちゃんと来てくれるだろうか。来てくれたとしても、ママが猫だと知ったらみんなどんな顔をするだろう。やっくんあたりに笑われちゃうんじゃないだろうか・・・。 いろいろ考えてたら水泳のあとみたいに急に眠くなってきた。ボクは熱くなりすぎたコタツの中に入ると、吸い込まれるように深い眠りに堕ちた。
2006.11.18
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転勤が決まった夜、残業で一人残ったオフィスで、窓の外を眺めていた。いつになく老けて映るガラスの中の自分の姿に透けて、ランドタワーのじんわりした赤いネオンが明滅している。ふいにそのネオンが二重にぼやけて見えて、思わず目頭を押さえた。疲れが、重く深く体に染み込んでいた。ふと、学生の頃の恋人のことが頭に浮かんだ。どういう会話の流れだったかもう忘れたが、彼女と過労死について話したことがあって、その記憶が今の自分の状態とリンクして彼女の思い出を喚起したのだろう。「あなたは素直じゃないのよ、無理なことは無理だって断るのは、全然カッコ悪いことじゃないよ」「べつにカッコなんかつけてないよ」「それがもうカッコつけてんの、いつかがんじがらめになって死んじゃうんだよ」 ・・・冗談じゃなく、私は当時の彼女の予言した通りになろうとしていた。明らかにオーバーワークなのに、頼まれれば断れず、能力を超えた仕事量を引き受けていた。それで出世に繋がればいいのだが、てんで評価の対象にはならず、挙句の果てが地方への左遷だった。 目を開けると、窓の外にハラハラと雪が舞っていた。そういえば今夜は初雪が降るかもしれないとニュースで言っていた。クリスマスの夜、学生身分で無理をしてホテルのフレンチレストランで彼女と食事をしたことを思い出す。高いワインと雰囲気に酔ってベッドに入り、彼女を抱き締めた。ずっと一緒にいようね、私の胸の中で、彼女はそう囁いた。 私の軽はずみな行動が原因で、結局彼女とは別れてしまったが、思い返してみれば、心から愛した女は彼女だけのような気がした。 彼女は今どこで、何をしているだろうか。 僅かの間に雪は激しくなり、夜の闇を埋め尽くしつつあった。このまま何もかも雪に埋もれてしまえばいいのに、一瞬そんなバカな考えが脳裏を過ぎった。 私は深い溜息を一つつき、現実と向き合うように、再びパソコンに向き直った。
2006.11.12
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雨が降り始めた。雷を伴うような激しい雨だった。雨はやまなかった。やまない雨だった。そのことを知ると、街の人々は恐怖した。雨で海面の上がった海に街が飲み込まれるのも時間の問題だからだ。オリンピック候補にもなった元スイマーが、だったらみんなで魚になるか? と冗談を言ったが、誰も笑わなかった。 死の雨の降りしきるなか、街はパニックに陥った。外国に発つ客船のチケットが高騰し、アウトドアショップから小型ボートが消えた。やまない雨はないとテレビで絶叫した気象予報士が袋叩きにあい、名曲『雨に唄えば』は廃盤に追い込まれた。 そんななか僕は、残された時間をあなたと過ごすために傘を広げて街に出た。道中あなたに電話をして、お腹減ってない? 何か買ってこうか? と質問する。仕事を放棄しつつある携帯電話会社のせいで電波が悪く、あなたの声をはっきり聞き取ることが出来ない。肉まん、とも、いらない、とも聞こえる。僕は携帯を切り、近くのコンビニに入って肉まんを買う。仮にあなたにいらないと言われても自分で食べればいいだけの話だ。「人間っておかしいですよね」 店長の名札をつけた中年の店員がレジで声を掛けてきた。「何がですか?」と僕。「だって、遅かれ早かれ僕らは死んじゃうんですよ、なのに、こんなふうに働いて・・・働くってことは、それは、つまり収入を得るためで、生きていくための行為ですよ、矛盾してるとは思いませんか?」 僕は肉まんを受け取ると店長を無視して外に出た。早くあなたに会って話がしたかった。出迎える玄関で、たぶんあなたは濡れた僕の肩口をタオルでやさしく拭いてくれるだろう。そしたらきっと僕はあなたの唇にキスをする。そんなことを考えながら、ふと空を見る。 雨は、降り続いている。
2006.11.11
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いろいろあって、二ヶ月ほど中国に滞在した。二度目の中国の印象は、国民に広がる激しい貧富の差だった。一度目に訪れたのはまだ北京空港が新しくなる前で、そのときは共産圏の暗さばかりが目立った。十年ほどの間に、中国はめまぐるしく変わった。報道などで中国国民の所得格差の問題は耳にしていたが、現状は私の想像を超えていた。共産主義と資本主義経済の同居する中国社会の、今後の大きな課題だろう。 中国滞在中、宿泊していたホテルの近くで一人の女と知り合った。彼女の名はリン。漢字で凛と書き、二十歳で、売春婦だった。外国の宿泊客をターゲットにした売春婦たちは、黒塗りのベンツに何度クラクションを鳴らされてもめげなかった。 私は金持ちではないので、ベンツのハイヤーで街に繰り出すようなことはしなかった。ホテルを出るたび、リンは待っていたように私に声を掛けてきた。最初は相手にしなかった私も、彼女の情熱に、ある日ついに足をとめた。「こんなことをしないと生活出来ないのか?」 通じるはずのない日本語で、私は尋ねた。リンは私のジャケットの袖口を引っ張り、イチマンエン、イチマンエンと繰り返した。やりきれなかった。胸のうちに、怒りに近い感情が生まれていた。 リンと言葉を交わしたのは、彼女の情熱のせいなどではなかった。私はリンと寝たかったのだ。リンは、昔私が愛した女に似ていた。私は、昔の恋人に売春婦をだぶらせ、せつない恋の思い出に金の力で浸ろうとしていたのだ。 結局私はリンを買った。大人の良識を捨て、自分のエゴだけを満たした。そして自己嫌悪にも陥らず、シャワーを浴びれば全部洗い流せるとでもいうように、今日ものうのうと生きている。
2006.11.11
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地球最後の朝、私はいつものように犬の散歩に出かけた。 今日が地球の最後だからといって、ジタバタしても始まらない。普段と変わらず、今日という日を淡々と生きるだけだ。 地球最後の日が確定してからというもの、一部の芸能人や政治家、企業経営者などが次々と宇宙に脱出していった。「人類の種を絶やしてはならん!!」 彼らは一様にそんな理屈をぶって大義名分を作ろうとしたが、金にモノをいわせて自分だけ死から逃れようとする様は、テレビで見ていて吐き気がした。 今の宇宙ステーションには人が繁栄していくだけの資源も食料もないのだ。地球に残る我々庶民より長生き出来たとしても、せいぜい数ヶ月か、長くて一年。それが分からないほど彼らはバカじゃないはずなのに、人間は何と悲しい生き物だろう。 犬が電柱の脇で止まり、脚を上げておしっこをかけた。ほら見ろ、と私は思う。犬でさえいつもの決まった場所で、決まった行為をしている。今日が地球最後の日でも、ちっとも動じてないじゃないか。 私は胸ポケットからタバコを取り出して火をつける。朝靄に、紫煙が混じる。あと十数時間で、人類を滅亡させる巨大隕石が地球に激突する。空を見上げ、今更のように人生を振り返ってみる。私は今日まで、精一杯生きただろうかと。このまま死んで、後悔しないだろうかと。 明日が、未来が保障されていたときはそんなこと考えもしなかったのに、人間なんて本当に勝手なものだ。 地球最後の晩飯はおでんにしよう。ふと、そう思った。理由なんかない。そもそもメシを食うのに理由などいらないのだ。そのとき食べたいと思ったものを食べればいい。いつもと同じように。
2006.09.17
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近所のオンボロアパートにピーちゃんとピーちゃんのお母さんが引っ越してきたのは三ヶ月前のことなんだ。ピーちゃんのお母さんはいつも疲れた顔をしていて、周りの人にペコペコ頭ばかり下げてるけど、ピーちゃんは男の子みたいに元気一杯で、その辺で蛙や猫を捕まえては、頼んでもいないのに僕のところに持ってきて自慢する。自慢されてもどう反応していいか分からないから黙っていると、ピーちゃんは四つも年上の僕のお尻を木の棒で平気で叩いたりするんだ。やめなよピーちゃんって言っても、おもしろがってなかなかやめてくれないんだ。 ピーちゃんは極端に目が悪くって、しょっちゅう転んで体中痣だらけど、泣いてるとこなんか見たことない。太陽みたいにいつも笑ってるんだ。「おい、おまえ、ピーちゃんなんかな、今日アイスクリーム食べるんだぞ」 僕は毎日食べてるよ、そう思うだけで、口にはしない。何となくだけど、言っちゃいけない気がするから。「すごいね、何味のアイス食べるの?」 そう言葉を返すと、ピーちゃんの笑顔が見られるから。 先週、ピーちゃんのお母さんが自殺した。お葬式のあと、キツネみたいな目をした知らない大人の人が、ピーちゃんを自分の車に乗せた。お別れなんだなって思った。涙が、びっくりするくらい出てきた。目の前の色んな物が、夢の中みたいににじんでぼやけた。走り去っていく車に向かって、僕は必死に手を振ったんだ。何か言いたかったけど、喉が詰まって言葉が出てこないんだもん。 車の後ろのガラスに顔をへばりつかせて僕を見ていたピーちゃんは、やっぱり泣かなかった。最後まで笑って、あっかんベーして、指で鼻を押して豚みたいにしたりした。 あれからひと月が経つけど、ピーちゃんが住んでたアパートには、まだ誰も引っ越してこない。
2006.09.03
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十年ぶりに故郷の町の土を踏んだ。 来年こそはと思いながら、盆も正月もない仕事に忙殺され、生まれ育った故郷をずっと省みなかった。 ここのところ、仕事に行き詰っていた。才能という壁にぶち当たり、それを超える術が見つからなかった。悩んでいた。苦しかった。気がつくと私は、故郷に帰る深夜バスのチケットを手にしていた。 町は、生きている。十年前の記憶とシンクロしない建物が町のあちこちに建っていて、私を戸惑わせた。町はまるで、長年帰省しなかった私を責めるように変貌を遂げていた。 長年の不義理を思うと実家にはなかなか足が向かず、私は迷子のように夕方の故郷の町を歩いていた。道ですれ違う見知らぬ顔の数々が、時の流れと疎外感を私に感じさせた。 ふいに遠くのほうで、記憶をさかのぼる懐かしいメロディーが流れ始めた。立ち止まって、耳をすませた。間違いない。小学校の下校時間を報せる音楽だった。十年経った今でも、それは変わっていなかったのだ。 懐かしいメロディーに浸りながら、私は実家に向かって歩き出していた。歩きながら、腕時計を外してポケットにねじ込んだ。時間など気にしたこともなかったあの頃のように。
2006.09.03
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結婚を考えている彼女がいて、こないだついにプロポーズした。 彼女は泣いて喜んで、二つ返事でOKしてくれた。 彼女は商社に勤める超キャリアウーマンで、英語もペラペラで、年俸だって僕の三倍はあって、おまけに振り返るくらいの美人だ。 そんな彼女が何で僕なんかを選んだのか、いまだに本気で分からない。 昨日、ピッツバーグから帰国した彼女をデートに誘った。僕は昔からデートのプランを考えるのが苦手で、昨日も思いつきで行動した。 午前中、上野の駅で彼女と待ち合わせをして、動物園で檻から出れない猿をさんざんバカにしてから、その辺の定食屋でランチを食べる。それから偶然立ち寄った神社の境内で、偶然知り合った小学生の女の子二人と話し込み、転校で二人がもうすぐ離れ離れになることを知る。「人生なんてそんなもんだよ、まるで試すように、次から次へと過酷な現実を突きつけてくる。でも、冬があるから春の素晴らしさが分かるように、そういう試練を一つ一つ乗り越えていくたびに、人生の素晴らしさを知るんだよ」 僕は小学生相手にやわな人生哲学を述べ、二人にアイスクリームをおごってやる。それから彼女と手をつないで、知らない街の知らない道を歩き、やがて、夕暮れに染まり始めた空を背に、知らない橋の上でキスを交わす。彼女の柔らかい髪の匂いをかぎながら、僕はふと、これからこの女を幸せに出来るだろうかと考える。でも、そんな答えはどこにもなく、僕と彼女はあてどもなく再び歩き始める。「ねえ、あたし達今どこにいて、どこに行こうとしてるの?」 まるで人生の行路を尋ねるように、彼女が聞いてくる。僕は、考える。「・・・さあ、でもとりあえず、夕日に向かって歩こうか」 そんな感じで、僕と彼女のデートは終わっていく。
2006.08.20
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稲妻に打たれてからというもの、人の心の中が見えるようになった。 僕の彼女は、いつまでも夢ばかり口にして才能のない僕に見切りをつけ、最近知り合った取引先の営業マンに乗り換えようとしている。その営業マンは顔はイマイチだがおもしろくて仕事は出来るし、第一あたしはもう来年二十八なんだからそろそろ現実を考えなきゃいけなくて、贅沢なんか言ってらんないの、そんなふうに僕の彼女は思っている。 僕はすっかりしらけてしまった。彼女はまだ僕に別れ話をしてこないが、近々フラれることは分かっているのだ。一緒に居ても楽しいわけがない。つれない僕の態度に、彼女が眉をひそめる。「・・・どうしたの? 最近ちょっと変だよ」 よく言うよ、と僕は思う。だけど、おまえの腹の中は分かってるんだ、なんて言えないから、べつに、稲妻に打たれてから、ちょっと疲れやすいんだ、そう言って誤魔化す。「病院行きなよ、稲妻に打たれたんでしょ?」「いいよべつに、疲れなんて寝りゃ取れるんだから」「そういう問題じゃないでしょ、何考えてんの?」「うるせえな、俺は音楽だけ出来りゃそれでいいんだよ」「音楽だけって何よ、だったらバイト辞めて音楽だけで食べてきなよ」「うるさんいんだよおまえは、俺の人生に口出しするな」 喧嘩を始めた僕と彼女の遥か西方の空で、雨雲が発達していた。稲妻に打たれて以降気になってしょうがない天気予報がそう告げていた。 気象予報士の言葉を信じれば、雨雲は更に発達を続け、やがて僕の住む街の空を覆うだろう。 激しい雨に交じって、またあの空を裂くような稲妻が街に落ちるだろうか。 そう考えると興奮して居ても立っても居られず、僕は彼女との口論をやめてエレキギターを手にし、部屋を飛び出していた。稲妻の電気を利用してギターを弾くと、とんでもないメロディーが生まれるに違いない。曇りつつある西の空に向かって、僕は走り続けた。
2006.08.20
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とうとう犬は約束の場所に現れなかった。 その犬との出会いは十年ほど前にさかのぼる。当時私はまだ子供で、ある日、川に入って遊んでいると、いつの間にか急流に流されていた。おぼれている私のTシャツの襟を、ふいに何か強い力が引っ張った。強い力は、そのまま私の体を川岸まで運んだ。 ゲボゲボ水を吐き出しながら、私は強い力の正体を見た。それは見事な毛並みの一匹の犬だった。犬はしばらく黙って私の様子を見ていたが、やがて一言、大丈夫そうだな、そう言い置くと去ろうとした。私は子供心に、カッコ良過ぎだと思った。去っていく犬に向かって、必死に言葉を探した。「ねぇ犬さん、またいつか犬さんに会えるかな?」 犬は振り返らずに、おまえが大人になったらな、と言った。「大人っていつ? 何年後? どうやったらなれるの?」 犬はやはり振り返らず、こう言った。「見返りを求めることなく、誰かのために自分を犠牲に出来たときだ」 犬は大きく尻尾を振ると、それがサヨナラの合図かのように去っていった。 あれから十年、私は今、大人になった。結局彼女は死んでしまったが、愛する彼女の看病に、私は大学生活のほとんどを費やしていた。 子供の頃おぼれた川のほとりで、私はひたすら犬を待った。 だが、犬は現れない。もう大人になったはずなのにな、と私は思い、タバコに火をつける。 初夏の光を受けた川面がキラキラと輝き、子供の頃に見た光景と全然変わっておらず、私は一瞬、ここだけ十年前から時間が止まっているのではないかと、バカなことを思った。
2006.08.07
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ある日突然、あなたは透明人間になった。あなたは最初驚くが、自分の姿や声が絶対に誰にも認知されないことを知ると、狂喜した。 あなたはまず、恋心を寄せている相手の家に上がり込み、同棲生活を始める。恋心を寄せている相手が使っているベッドの上で思う存分飛び跳ねたり、付けている日記を遠慮なく見たり、戸棚の上の置物のレイアウトを勝手に変えたりして、あなたは楽しむ。昔だったら高くて絶対に入れないようなレストランの厨房に堂々と入って何万円もするスペアリブを平気で食べたり、ものすごく緊迫した上場企業の営業会議の場でひょっとこ踊りを披露したりもする。だが、やがてあなたはあることに気づく。どんなに派手に騒ぎ立てても、世間から完全に疎外されていることを。 世間のルールを無視して生きられる透明人間になって初めて、その代償として強いられる孤独をあなたは知る。それまでは、貧乏でも恋人が出来なくてもダイエットに失敗しても、愚痴を聞いてくれる相手がいた。だが、透明人間になった今、あなたの話を聞いてくれる人はどこにもいない。 結局あなたは孤独に耐えられなくなって頭が変になって電車に飛び込んで死んでしまう。だが、当たり前だがあなたは透明人間だから、死んでも誰も気づかない。 これを読んでいるあなたのすぐ後ろにも、あなたに気づいて欲しい透明人間が、必死になって訴えかけている。
2006.08.06
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メチャクチャ悩んでへこんでどうしようもなくて死のうと思って、近所の河原でぼんやりタバコを吸っていると、猫が話しかけてきた。尻尾に特徴のある三毛猫で、まだ若かったが落ち着いていて、何となく信用できる気がした。仕事がちっともうまくいかないこと、結婚を考えていた彼女に突然フラれたこと、隣の部屋に住む中国人の女にイタズラ電話をされることなど、諸々の悩みをその三毛君に打ち明けた。三毛君は私の悩みを目を閉じて黙って聞いていたが、私が話し終えると、バカかおまえ、とはき捨てるように言った。「すべてにおいて甘いんだよ、そんなことくらいで死のうとしてんのかよ、いいよ、じゃあ死ねよ、おまえみたいな甘い人間いらないよ、役に立たないよ」 私は三毛君にボロカスに言われ、ますます落ち込み、タバコの味さえ分からなくなった。ぐったりと落ち込んだ私の背中に三毛君は飛び乗り、更に頭の上に移動した。 西の空に太陽が沈み、頭の上に三毛君を載せた私の影が地面に細長く伸びていた。私は深い溜息をつき、三毛君は大きなあくびをする。遥か彼方の空で、西日を浴びた飛行機の機体が赤く染まって見えた。
2006.08.06
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今日はトマト合戦の日だ。去年の雪辱を晴らすため、この一年間、私は今日の日を待ち続けた。だからこそ仕事が山ほど残っていても定時にタイムカードを押して、会社を飛び出してきたのだ。 コンビを組む次女とは自宅近くの公園で待ち合わせをしている。次女はこの日のために迷彩服を購入するほどの気の入れようだった。そう、我々は妻と長女のコンビに二年続けて負けるわけにはいかないのだ。 公園で次女と合流すると、我々は予定通り八百屋に向かった。そこで注文していたダンボール一杯分のトマトを受け取り、合戦の場である自宅マンションへと向かった。 マンションの玄関ドアの前まで来ると、トマトのダンボールを下に置き、大き目のトマトを一つ手に取った。ドアを開けると、いよいよトマト合戦が始まる。「パパ、準備はいい?」 真剣な目つきで、次女が私に囁く。次女にうなずくと、私はドアノブに手をかけ一気に中に突っ込んだ。「チクショー、今年こそトマトまみれにしてやるぞ!!」 興奮して私は叫んだ。だが、私の気合とは裏腹に家の中はしんとしてもぬけの殻だった。まさか妻と長女は、今日がトマト合戦だということを忘れたのだろうか。そんなバカな。トマト合戦の日を忘れるなんて絶対にあり得ない。これは罠だ・・・ 不穏な気配に気づいて振り返った瞬間、迷彩服に身を包んだ次女が私に向かってトマトを投げつけるのが見えた。・・・ 信じられなかった。次女が裏切るなんて・・・ 顔面トマトまみれで視界を奪われ、ひざまずいた私の耳に、妻と長女と次女の笑い声が響いた。
2006.08.05
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博士は悩んでいた。不老不死の薬を発明するまでは良かったのだ。だが、それを販売してしまうと、世界が滅んでしまうかも知れないというところまでは頭が回らなかった。 絶対に死なないと分かれば、人は向上心を失うだろう。限られた人生だからこそ、人は努力するのだ。永遠の命を手に入れた人類は、衰退の一途をたどるはずだ。私に人類を滅ぼす権利はない。 博士はそう判断すると、七十年近い人生のほとんどの時間をつぎ込んで発明した不老不死の薬をトイレに流した。流れていく薬を見ていると、自分の人生がまるで無駄だったように思えて悲しくなったが、同時にこうも思えた。・・・いや待てよ、寿命があったからこそ、私は不老不死の薬を発明できたのではないか。そうだ、人生の時間が限られているからこそ、私は不老不死の研究に没頭できたのだ。そんな皮肉な現実が博士には妙に痛快だった。 トイレの水が止まると、まるで暗い気持ちまで一緒に流してしまったように開き直った博士は、残りの限られた人生をタイムマシーンの開発にそそぎ込むことに決めていた。
2006.07.29
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街全体が、停電した。厚い雲に月が覆われた夜で、街は一瞬で深い闇に包まれた。 街はその機能を失い、途方に暮れたように静まり返った。街の人々はなすすべを失い、人質に取られたようにおとなしくなった。 街の人々は、普段当たり前のように使っている電気のありがたさを思った。ある人はシャワーを浴びている最中に停電になり、慌てて浴室から出ようとして石鹸で滑って頭を痛打し、ロウソクの明かりを頼りに後頭部を氷で冷やしながら光の大切さを思ったし、ある人はデスクトップの前で、その日の深夜が締め切りの原稿と格闘している最中に停電になり、真っ黒になったディスプレイに絶望し、言い訳を許さない編集者の顔を思い浮かべて更に絶望し、開き直って封印していたウイスキーを懐中電灯で探して飲みながら電気の偉大さを思った。 まるで早送りのように流れていく電車の外の風景を眺めながら、私はふと、思う。私は、あるいは我々は、日常の忙しさにかまけて、何か大切なものを見過ごしてはいないだろうか。あるいはそれに気づいているのに、まるでこの国の白痴化が目的のように氾濫する陳腐なバラエティー番組に笑ってごまかされるように、知らない振りをしているのではいか。 結論の出ないまま、今夜もいつもの駅に電車が停まる。私はホームに降り、疲れ果てた人々に交じって改札に向かって歩く。家に帰っても、笑えるくらい膨大な仕事が待っている。極限まで体を酷使して、何のために働くのか。地位か? 金か? プライドか? 女か? 馬鹿馬鹿しくて、私はすれ違う見ず知らずの男を殴りたくなる。だが、見当違いの怒りは、すぐに深い溜息に取って代わる。次の瞬間、私の住む街の光が消える。突然放り込まれた闇の中で、私は永遠に何が失われたのかに気づかない。
2006.07.23
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私はあなたを愛しています。あなたのことを愛しているんです。あなたのことを想うと、胸をかきむしりたくなリます。あなたは私のすべてだ。あなたにとっても、私は運命の男なんです。なのにあなたは、私ではない男と婚姻関係にある。でも考えてみてください。結婚なんて、しょせん紙切れ一枚の関係なんです。紙切れには、何の拘束力もありません。だから安心してください。安心して私の元に来ていいんです。私の住む広尾のマンションには、あなたと生活するためのすべてがそろっています。イタリアから取り寄せた100万円のソファーベッドも、あなたに座り心地を確かめてもらいたがっていますよ。これを読んだら、必ず私に電話をください。必ずですよ。今私は、あなたの住むマンションの部屋を眺めながら、車の中でこれを書いています。今からメールボックスにこの手紙を投函します。あなたの今晩の夕食は何ですか。私はあなたのことを愛しています。あなたも本当は私のことを愛しています。やせ我慢なんてしないでください。体に悪いですからね。やせ我慢なんてしないで、早く私の元に来てください。必ず来いよ。絶対に来い。あなたはお洒落な人だから、食卓にはワインが並んでいるのでしょうね。今夜の夕食はチキン南蛮かな。根拠はないです。ただの勘です。あなたを愛しています。絶対に逃がさんぞ。あなたはお洒落な人です。これを読んだら必ず電話をください。今私は、あなたの住むマンションの真下に居ます。
2006.07.20
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最近郊外にオープンした話題の近未来水族館に出かけた。近未来水族館の最大の目玉は、何と言っても館内の魚とフリートークを楽しめる点だ。私はイルカが大好きなので、彼らのショーを観たあと、フリートークが出来るチケットを買った。 私の話し相手はチロロという名の若いオスのイルカだった。チロロはイルカ達の中で一番高くジャンプすることが出来、その華麗さが人気を呼び、近未来水族館のアイドル的存在だった。 私は初恋のようにドキドキしながら、透明のプレート一枚隔てた向こうにいるチロロと対面した。水の中のチロロは芸術作品のように美しく、思わず息を呑んだ。「・・・あげん空高くジャンプしちょるときって、どげん気持ちですか?」 ずっと聞いてみたかったことを、私は尋ねた。 「べつに、普通だよ」「・・・普通?」「そうだよ、だって仕事だもん、毎日やってんだよ、毎日ジャンプしてんだよ、ルーチンワークだよ、そりゃあやっつけになるでしょ」 私は涙が込み上げてきた。何だか裏切られたような気がして、無性に悔しかった。「おまえなんか、こげんしてやる」 私はフリートークルームに備えてあるパイプ椅子を持ち上げると、透明のプレートに向かって思い切り投げつけた。椅子は大きな音を立てて跳ね返った。「何やってんだよバカ、割れたらどうすんだよ、しょうがねえ田舎者だな」 チロロに殴りかかろうとした私を、駆けつけた係員数名が床に押さえつけた。身動きを奪われた私は、悔しくて悔しくて、あふれてくる涙に視界がぼやけ、一瞬、水の中に居るのは自分のほうではないかと錯覚するほどだった。
2006.07.16
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妹が語尾にアザラシを付け始めた。何でも学校ではやっているのだという。こんにちアザラシ、どこに行くアザラシ、早くしてアザラシ・・・聞いていると、だんだん腹が立ってくる。「おまえもう、アザラシ付けるのやめろよ」 私は怒って妹に言う。だが、妹はちょうど反抗期で、聞く耳など持たない。「嫌だアザラシ、黙れアザラシ、兄アザラシ」 私は怒りで拳を握り締めるが、殴られないのは妹が一番よく知っている。私はふと、妹がアザラシになればいいのにと思った。そうなればもう、語尾にアザラシを付けないのではないかという気がしたのだ。 すると、不思議なことに妹がアザラシになっていくではないか。私は大変驚き、アザラシになった妹に声を掛けることが出来ない。アザラシになった妹は、手をバシバシ叩きながら言った。「いわしくれアザラシ、いわしくれアザラシ、早く持ってこいアザラシ」 ミドルシュートを打つように、私はアザラシの顔面を蹴る。
2006.07.13
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仕事でベトナムのホーチミンに出かけた。戦争でアメリカに勝った過去を持つベトナムの国民を、私は尊敬している。ベトナム人もまた、戦後驚異の復興を遂げた日本人に敬意を払ってくれる。日本の電化製品と自動車は世界一なのに、どうしてアメリカにへいこらするんだ? と彼らは不思議がる。アメリカなんか相手にしなくても生きていけるよと。 だが、ベトナムはベトナムなりに、社会主義国としての悲しい側面を持っている。 夜、ホーチミンの郊外を歩いているとき、アオザイを着た少女にシャツの裾を引っ張られた。 少女は十三歳で、ミンと名乗った。日本円にして三千円でどう? とミンは交渉してくる。外国人相手の売春である。日本と違うのは、ミンが遊ぶためではなく、生活のために体を売っている点だろう。 私は悲しくなり、首を振って歩き始めたが、ミンはしつこかった。 ミンが二千円まで自分の値段を下げたとき、私は立ち止まって提示額を彼女に支払った。行為が目的ではなく、ミンから開放されるためである。そのことを察すると、ミンはかなり驚いていた。「あなたみたいな日本人は初めてだ、みんなお金を払ったら必ず体を求めてくる」 英語と日本語とベトナム語で、ミンは言う。私は何も言えず、苦笑いを浮かべる。ミンは更に言葉を継いだ。「あなたは大変珍しい、だから、特別に呪わないであげる」
2006.07.12
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家に帰ると、知らない女が餃子を焼いていた。驚く私を見ても、女に動じる様子はない。それどころか、勝手に人の冷蔵庫を開けて缶ビールを出して飲み始める。私の存在など完全に無視している。 餃子を焼く、ジュッーという食欲をそそる音と匂いに私は生唾を飲む。女は出来上がった餃子を皿に盛ると、黙って一人で食べ始める。ひょっとしたら一つくらい勧めてくれるのではないかと期待したが、甘かった。「タレはつけないんですか?」 女はちらっと私を見、つけなくてもおいしいから、ぶっきらぼうにそう言った。それきり女はまた、私が居ないかのように、餃子をつまみにビールを飲む。失礼な態度に腹を立てた私が口を開こうとしたとき、それを制するように女がしゃべり始めた。「全部夢だと思えばいいのよ、現実の出来事じゃなくて、夢の中で起こったこと」 そうすれば、大抵のことは我慢できるでしょ? 女は私の返事も聞かずに新しい餃子を焼き始める。
2006.07.11
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三年前に死んだ彼女に会いに近所の公園に出かけた。蚊に刺されないように、携帯用の蚊取り線香と、彼女の好きだったきな粉味のアイスクリームを持って行く。 蒸し暑い夏の夜なので、アイスクリームはどんどん溶けていく。もったいないので、仕方なく僕はそれを食べる。緩やかな風が吹き、蚊取り線香の匂いが鼻孔をくすぐる。近くの草むらで、鈴虫が鳴く。 僕は木のベンチに座って、誰もいない公園で煙草に火をつける。見上げると、星は数えるほどしか出ていない。見上げたままでいるのは、涙を我慢しているからではない。そう自分に言い聞かせる。遠くで、間延びした車のクラクションの音が響く。僕は煙草を吸う。夜空に向かって、ゆっくりと煙を吐く。
2006.07.10
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仕事の疲れが溜まってくると、朝がなかなか起きられない。ちゃんと目覚まし時計をセットしていても、無意識のうちにアラーム音を消して、知らんぷりで眠っている。 それではダメだということで、解決策を求めて近所の量販店に出かけた。 いろいろ物色していると、ちょっと値段は張るが面白い目覚まし時計を見つけた。好きな曲とアラームをセットしておくだけで、その時刻になると生のロックバンドが目覚まし時計から飛び出してきて、インプットした曲を演奏してくれるという代物だ。これなら絶対起きられると思い、有り金をはたいた。 その夜、さっそくこの目覚まし時計をセットして眠ったのだが、翌朝私は大幅に寝過ごしてしまった。ふと見ると部屋の隅に髪の赤いヴォーカルとギターがいて、私がなじると、彼らは言い訳をした。ドラムとベースが寝坊して、セットした時刻に演奏が出来なかったのだという。お話にならないので、私はでたらめな目覚まし時計を返品する意思を彼らに伝えた。それだけはやめてくれ、彼らは慌てて私の足にすがりついた。「頼むよ、返品だけはやめてくれ、あんた確かクラッシュの曲だったよな、明日の朝はばっちり決めてやるからさ、だから頼むよ」 考えてみればヴォーカルとギターは悪くないのだし、とりあえず明日の朝まで様子を見るか。そう思って私は彼らを許した。
2006.07.09
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窓の外から子供の笑い声が聞こえた。屈託のない笑い声に誘われるように、窓に寄って外をのぞいた。隣の家の駐車場で、親子三人が花火をしている。若いお母さんと、お姉ちゃんと弟。確かまだ幼稚園児の男の子が、次々と色の変わる花火を手に持ってはしゃいでいる。お姉ちゃんが、弟の消えた花火を水を張ったバケツにつける。男の子はもう次の花火を手にして、お母さんに火をつけてもらっている。 そういえば、ここしばらくお隣さんを見なかったなと私は思う。それからすぐ、花火を囲む輪に父親の姿のないことにも気づく。 お姉ちゃんが線香花火に火をつける。小さなオレンジの点が薄闇に浮かび、やがて音もなく消えた。お姉ちゃんは、消えた線香花火を持ったまま動かなかった。お姉ちゃんは、泣いていた。小さな肩を震わせていた。お母さんが傍に寄って、その小さな肩を抱き寄せる。私はカーテンを閉め、デスクトップの前に座り、仕事の続きを始めた。
2006.07.08
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黒人の男は丸太のように太い腕を突き出し、拳を作ってみせた。「ヘイこの野郎、その大口をきけないようにしてやろうか?」 こんな腕で殴られたらマジで死ぬかも知れないと俺は思う。だが、俺はプロだから恐怖を顔に出さない。逆に落ち着き払った態度で、決めゼリフを口にする。「分かった、ユーがそこまで言うなら、もうひと勝負やってもいい、ただし・・・」 と、ここでひと呼吸置いて、相手の目を見て俺は続ける。「ただし、中途半端はなしだ、ゼロか百、つまり互いに命を賭ける、ユーが負ければ人買いの契約書にこの場でサインしてもらう、俺が負けても同じようにする、この条件でどうだ?} 人買いと聞いて、黒人の男は一瞬ひるむ。だが、こういうタイプの男は絶対にのってくる。俺は経験的にそれが分かる。「ヘイ上等じゃねえか、やってやるよ、あとでほえ面かくなよ」 案の定、黒人の男は俺の挑発に引っかかる。テーブルの上に、五十三枚のトランプが広がる。黒人の男の目が一段と鋭くなる。だが、俺はプロだからカードでは絶対に負けない。今夜も一人、屈強な男の命が俺の手で奪われる。
2006.07.07
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自宅からオフィスのある新宿まで、毎朝一時間かけて通勤する。池袋で乗り換える山手線の満員の車内で、ここ一週間だけで三度も同じ女性と乗り合わせた。ただ乗り合わせただけではない。何度も目が合って、互いに異性として相手を意識している。ある程度大人になれば、それくらいは分かる。 東京の人口を考えても、短期間に同じ相手と同じ車両で何度も乗り合わせる確率は、恐らく限りなくゼロに近いだろう。私は彼女との出会いに、運命めいたものを感じていた。 今度乗り合わせるようなことがあったら、思い切って話しかけてみようか。そんなふうに考えていたところ、今朝、山手線の同じ車両で、再び彼女と乗り合わせた。彼女はアジサイ色のカーディガンを着ていて、カラーコンタクトだろうか、茶色っぽい瞳で私を見つけた。 車内はひどく混んでいて、実際に声をかけることは出来なかったが、それでも私は友人に対してのように、ごく自然に彼女に微笑みかけていた。自然に表情が緩んだのは、もう彼女を赤の他人とは思えなくなっていたからかも知れない。だが、私の微笑みに対して、彼女は小さく首を振った。表情を変えず、ただ小さく首を横に振った。それが何を意味するのか私にはよく理解できなかったが、根拠もなく、この先もう二度と彼女と乗り合わせることはないだろうと思った。
2006.07.06
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海外旅行中、高熱を出して入院した。収容されたのはペンシルヴァニア州の郊外にある大学病院だった。適切な治療のおかげで三日後には快復したが、私にとって重要だったのは、治療にあたってくれたドクターとの出会いだった。彼は日本人の母親を持つハーフで、まだ一度も日本を訪れたことがないのに、ほぼ完璧な日本語を話した。日本の味噌汁を癌の特効薬として広めようと考えています、彼はよく冗談を言った。笑うと、小さなえくぼが唇の端に出来た。 彼になら、自分の苦しみを打ち明けてもいいのではないか。入院中、彼の人柄を知るにつれ、私はそんなふうに思うようになっていた。 退院後、治療のお礼という名目で、ドクターを食事に誘った。忙しい仕事をやりくりして、彼は時間を作ってくれた。メインディッシュを食べ終えると、私は口火を切った。「ドクター、実は・・・」 私は宇宙人だった。地球の調査のために送り込まれた宇宙人だった。だが、私は調査員として精神的に限界に達していた。六十年前の愚かな戦争が嘘のように、地球人は本当に優しい。そんな優しい地球人の住む星を、侵略を目的に調査しているのだ。地球人の笑顔を見るたび、私の胸は鋭く痛んだ。私はもう、調査を辞めたかった。辞めて宇宙に帰りたかった。だが、任期が終わるまでそれは許されない。「・・・本当につらいんです、いったいどうすればいいのか」 うなだれる私を、ドクターは笑い飛ばした。「おまえは調査員としてまだまだだな、任期をあと五年延ばす、心を入れ替えて調査に専念しろ」 ドクターは調査員を監督するため宇宙から送り込まれていたのだった。
2006.07.05
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夏の日の午後、ジューシーなパッションフルーツを食べた。パッションとは情熱のことである。情熱の果物! 何て魅惑的な響きなんだろう。私はこの魅惑的な果物を、バニラアイスの上に載せて一緒に頂く。これが声が出るほどうまいのだ。ふと視線を感じて振り返ると、妹が私を見ていた。「お兄ちゃん、パッションフルーツのパッションって、どういう意味なの?」「おまえ中二にもなってそんなことも知らねえのかよ? 情熱だよ情熱、決まってんだろ」「ばぶー、嘘ですー、パッションフルーツのパッションは、キリストの受難って意味なんですー」 私の拳が飛び、妹が泣いた。
2006.07.04
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表参道の駅のホームで彼女と待ち合わせた。待ち合わせの時間は午後の四時。三時に目的の駅で降り、七時まで待ったが、彼女は現れなかった。 帰りの電車の中で、携帯に記憶された彼女の番号を何度も眺めた。だが、僕は発信ボタンを押さなかった。ぎりぎりのところで思いとどまった。明日からも生きていくために、ほんの少しでもプライドを残しておかなければならないからだ。 自宅に戻って、そうめんを食べた。食欲などなかったが、何か口にしないと元気が出ない。だから、つるつるして食べやすいそうめんを、失恋した夜に食べた。
2006.07.03
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熱で寝込んでいる飼い猫の頭に冷やし枕を敷いてやった。飼い猫は閉じていたまぶたを開き、非難がましい眼差しを私に向けてきた。いかにも寝込んでいるのはおまえのせいだと言わんばかりに。「冗談だろ?」 昨日の夜、家業を継ぐため実家に帰る決心をしたことを告げると、飼い猫は驚きの声を上げた。「しょうがないんだよ、親父ももう歳だしさ、最近ちょくちょくクレームが入るっておふくろも言ってたし、俺が帰んなきゃ、もう回んないんだよ」「・・・決心、固いのかよ?」 私が頷くと、飼い猫は猫とは思えないような深い溜息をついた。その深さのわけを私は知っている。飼い猫には、この町で知り合った恋人がいるのだ。実家に越すことになれば、その恋人ともう会えなくなる。遠距離恋愛なんて便利な選択肢は、猫の世界にはない。つまり私は飼い猫に対して、遠回しに恋人と別れろと言っているのだ。「心配すんなよ、おまえはほら、雑種のわりには毛並みもいいんだし、すぐに新しい彼女が見つかるさ」 口にしてから私は後悔した。飼い猫は黙り込み、背中を見せて丸くなった。しばらくして飼い猫は発熱し、私は一晩中看病した。 冷やし枕に気持ち良さそうに頭をごろごろさせている飼い猫に向かって、私は言った。「もしあれだったらさ、おまえはこの町に残ってもいいんだぜ、そうすっと、新しい飼い主が見つかるまでは、ノラ猫になっちゃうわけだけどさ」 飼い猫は頭を動かすのをやめ、熱っぽい目で私を見た。「ノラ猫なんてやめてくれよ、モテなくなるじゃねえか」
2006.07.02
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うだるような夏の暑さを、涼しげな風鈴の音色がなぐざめる。彼女はほとんど裸に近い格好で、二階の部屋の窓枠に背中を預け、すぐ下の外の通りをぼんやりと眺めている。彼女の使ううちわの音が、大きな虫の羽音を連想させなくもない。 彼女は一週間前に恋人を失ったばかりだった。バイク好きの彼氏で、以前にも仕事だと彼女に嘘をついて、ツーリングに出かけたことがあった。雨でスリップしてバイクごと崖から転落した、突然電話がかかってきて、休日出勤しているはずの恋人の死を、彼女は告げられた。 今朝目が覚めてからずっと、下の通りを彼氏が歩いてくるような気がしてならなかった。そのうちいつものように、柔らか過ぎる髪に寝癖をつけてひょっこり現れ、人懐っこい笑顔を見せてくれるのではないかと。そんなイメージが、彼女の頭から離れなかった。暑さを紛らわせる風鈴の音色のように、それがただの思い込みだと分かっていても、どうしても窓から離れることが出来ないのだった。
2006.07.02
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朝起きると、体が親指くらいの大きさになっていた。途方に暮れても仕方がないので、子供の頃の夢だった、カブトムシの背中に乗って大冒険に出ることを実行することにした。 私はまず、ジャングルのように広くなった実家の庭に飛び出した。注意深く庭を見回し、やがて樫の木にとまる一匹のカブトムシを発見した。やつの背中に飛び乗って、大冒険に出るのだと私は思った。期待に胸を弾ませながら、急いで樫の木に登った。「おい、カブトムシ、大冒険に出るぞ、おまえはどこに行きたいんだ? 北極か? それとも赤道直下か?」 ややあってカブトムシはめんどくさそうに振り返り、フンッと鼻で笑った。予想外の態度に私は戸惑い、次の言葉を失った。だが、黙っていても始まらないので、とりあえず私はカブトムシの背中に乗った。「何勝手に乗ってんだよ、降りろよ」「嫌だ、俺は大冒険に出るんだ」「おまえバカだろ?」「俺はバカなんかじゃない、いいから黙って早く北極目指して飛べ!」 次の瞬間、私は目がぐるぐる回って池に落ちた。カブトムシの角で弾き飛ばされたのだ。だが、そんなことでめげるほど私の夢はやわじゃない。私は再び樫の木に登るため、大海原のような池を平泳ぎで泳ぎ始めた。その直後、池の底のほうから黒い影がぬっと現れ、気づいたときには、ぱっくりと開いた鯉の口が間近に迫っていた。
2006.06.30
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中学三年のとき、父親の転勤で引っ越しを余儀なくされた。私にとって初めての引っ越しで、聞き慣れない言葉の飛び交う街での生活が不安だった。 転校初日、その不安は的中する。誰が命名したのか知らないが、私はあだ名を水ようかんにされてしまったのだ。それまでずっと本名で呼ばれていたので、水ようかんと呼ばれることにかなりの抵抗があった。だが、恐ろしいもので、人はあらゆる環境に慣れようとする。事実ひと月も経たないうちに、私は水ようかんという呼び名に違和感を覚えなくなっていた。「水ようかんのとんちんかん」 などどからかわれても、笑顔を返せるようになっていたのである。 ある日、誰も居なくなったはずの放課後の教室で、私はあるクラスメートに声を掛けられた。クラスでの彼の存在は空気に等しく、露骨にイジメられているわけではないのだが、みんなから完全に無視されていた。転校して半年あまり経っていたが、実際私が彼と言葉を交わすのはこれが初めてだった。彼が自分から誰かに話し掛けることなど、考えられなかった。 私は驚きながらも、何? と返事をした。彼は少し口籠もったあと、こう聞いてきた。「水ようかんってさ、水ようかんが好きなの?」
2006.06.29
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リッセという女性からメールが届いた。他愛ない内容だったが、私は何度も読み返した。 リッセという女性を、私は知らない。彼女がどこで生まれたのか、忙しくても朝食は必ず取るのか、流れ星を見ると得した気持ちになるのか、私は知らない。同じように彼女も、私のことを知らない。何も知らない同士が、インターネットを介して小さなつながりを持つ。いつ切れてもおかしくない、そんな弱々しい関係が、私は嫌いじゃない。 例えば、満員電車でふと見上げた中吊り広告に載る知らない女優に、例えば、花火の匂いに喚起された遠い夏の記憶の中の赤い浴衣のどこかのOLに、私はリッセのイメージを重ねてみる。そんなちょっとした空想が日々の生活に彩りを添えることを、私と、たぶんリッセも知っている。
2006.06.28
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クリーニング屋に寄った帰り道、河童に話しかけられた。河童に出会ったのは初めてだったので大変驚いたが、落ち着いて用件を尋ねると、ただ暇だから声をかけたのだという。河童の暇つぶしに付き合うほど私は暇ではないので、当たり障りなく振る舞って先を急いだ。しばらくして、過ぎ去る私の背中に向かって河童が叫んだ。「今から雨を降らすぞ!」 それは困る、と私は思った。今から雨を降らされると、午後の納期の予定が狂ってしまう。デリケートな精密機械だから、メーカーの担当者とも今日が晴れるという前提で納期の予定を立てたのだ。河童はそのことを知っていて、私を困らせようとしているのだろうか。振り返ると河童がニヤニヤと笑っていて、私は午前の貴重な休みを河童との会話に費やさなければならないことを悟った。
2006.06.27
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ぽつぽつと雨が降ってきて、私は傘を開いた。雨は次第に強くなり、前を歩く女の子の髪や肩を濡らしていく。急いでいるのか、女の子は立ち止まって雨宿りをしようとしない。小さな体で、一生懸命歩いていく。駆け出していって、女の子の頭上に傘を差す勇気があれば、と私は思う。それが切っ掛けになって、知り合いになれればと。だが、私にそんな勇気はない。雨に降られ、気のせいか微かに縮んだように見える女の子の背中を黙って見詰めながら、私は歩く。名前すら知らない女の子のことを想い、マンションに帰リ、明日になればすべてを忘れているのだろうと私は思った。
2006.06.26
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「だから食べ過ぎるなって言っただろ!」 私は女を怒鳴りつけた。女はベッドの隅で小さくなって、泣きべその顔で私を見ている。女の額にはヤギのように角が二本生えている。あれほど釘をさしておいたのに、ひまわりの種を食べ過ぎたからだ。「・・・だって、おいしいんだもん」 女は泣き声で言い訳をする。だが、もうどうしようもない。一度生えた角は、もう抜くことも折ることも出来ないのだ。角の生えた若い女など、マスコミのさらし者にされるだけだ。 私はベッドの下に置いてある金属バットを手にした。護身用に備えていたのだが、まさか自分の彼女に使うとは思わなかった。泣き叫ぶ女の頭をボールに見立て、私はフルスイングした。
2006.06.25
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隣の部屋に越してきたのは中国人の若い女だった。女はたどたどしい日本語で挨拶をし、お近づきの印にと故郷の置物をくれた。手の平サイズの置物はドレスを着た中国娘で、私はそれを何気なく本棚に飾った。 体調の変化は、その日の夜から始まった。次第に気分が悪くなり、翌朝私は発熱した。仕事を休んで病院に行ったが薬を飲んでも症状は良くならず、むしろ日を追うごとに酷くなっていった。一週間後、とうとう私は体を起こすことさえ困難になった。朦朧とした意識の中で、強い視線を感じた。見ると、置物の中国娘が私を見て笑った。
2006.06.25
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今夜は奥道後に住むある古狸の話をしたい。この古狸、古くは聖徳太子も騙したことがあるという化け上手で、狸界ではちょっとした権威だった。騙される人間どもが悪いのだと豪語するこの古狸の容赦ないやり方は、時に他の狸から非難されるほどだった。 ある日、桃の入った籠を胸に抱えて歩いてくる少女が古狸の目に留まった。桃が大好物だった古狸は、少女をおどかしてぶんどってやろうと考えた。熊に化けた古狸は、少女が近づいてきたのを見計らって物陰から飛び出した。だが、少女はちっとも驚かず、熊の前で静かに立ち止るのだった。面食らった古狸は、少女に問うた。「おい、俺は熊なんだぞ、怖くないのか?」 少女は落ち着いた口調で答えた。「怖くなんかないわ、だってあたしはあなたの心の中が見えるもの、あなたはほんとは寂しいの、寂しいから、誰かにかまって欲しいから、だから人を騙すの、あなたはほんとは、誰も騙したりなんかしたくないはずよ」 少女は盲目だった。熊の姿など見えていなかったのだ。 本当に大切なことは目には見えないんだよ、あるフランスの作家の書いた言葉を、キーボードを叩きながら私は思い出した。
2006.06.24
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通販で買った石鹸で手を洗うと、両手が消えてしまった。どんな汚れでも落とす! というのが歌い文句の石鹸だが、私の手はそんなに汚れているのだろうか。キッチンでは今朝から機嫌の悪いルームメイトがぶつぶつと同僚の悪口をこぼしていて、ストレス発散のための話を私に聞いてもらいたがっている。目の前の鏡を見ると、可哀想なくらい疲れた顔が見詰め返してきた。習慣でタオルをつかもうとしたが手がないのでどうすることも出来ず、私は深い溜息をついた。だが、現実から逃げるわけにはいかない。手が消えても、最低のルームメイトがいても、顔色が変わるほどの残業をしても、それが現実である限り、受け入れなければならないのだ。
2006.06.23
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