今はまってる事 0
散歩 0
教室 0
全193件 (193件中 151-193件目)
Break Time (一休み)前回の最後の審判(まだ続きですが・・)が、下準備ができなかったので、書きながらどう進めるべきか、結構悩んでしまいました。本来ならもう一度読み直すべき本(忘れているから・・)ですが、最近そんな暇もなく、読書もたまに外出する電車の中で少しずつ読み進めているくらいです。たまに時間ができると溜ったコミック(連載で購読しているマンガ)をまとめ読みして、片付けるといった状態ですし、ネットでゆっくり買い物もままならない、毎日時間がキュウキュウした日を送っています。最近ブログ1本が長く重くなっているので、(私のこだわりだから仕方ないですが・・)1本書くのに5時間はざらです。それでも内容的にも、その時間内で毎回まとめきるのは「偉い、偉い」と、自分でほめてあげています。自分も常に向上心を持って毎日勉強して行かないと、「何で人は生きているのか? 」などと疑問を感じてしまいます。何だか良く解らないけれど生まれて、生きて、死ぬの? と考えてしまったらこの世にいる意味がなくなってしまうでしょう・・。人は生まれて、どこまで自分と言う個(魂)を成長させる事ができるのか? と言う事を自分自身に言い聞かせ、成長を目標としながら、とにかく何にでも興味を持って勉強してみようと生きています。自分が生きている間に知れる事は、地球規模で考えたら、微量な事ですが、どこまで知る事ができるか?、自分はどこまで行き着けるか?、は重大な事です。そうしている間に、なぜ自分がここに存在しているか? も、見えてくるかも・・と思ったりしています。それにしても、知と言うのは、知れば知るほど自分が無知な事に気がつくものですね・・。ヴィラ・サンミケーレ(Villa San Michele)いつぞや、カプリ島で紹介できなかったサンミケーレの邸宅を紹介。(写真中心です。)サンミケーレはカプリ島を愛したスウェーデン人、アクセル・ムンテ(1857年~1949年)の邸宅の一つです。スウェーデン宮廷に医師として仕え、1903年~1930年までスウェーデンのヴィクトリア女王の侍医として彼女が死ぬまで仕えたそうです。彼は、パリで開業していたようですが、カプリが気に入り、ローマ時代の遺跡の上に1890年地所を買い、邸宅を建てます。ここがその場所です。ここで、自伝的小説「サンミケーレ物語」を執筆しています。(カプリ島の人と自然について深い愛情をそそがれた内容だそうです。)庭からの眺めはすばらしく、カプリ島の東半分が一望にできます。(景色はカプリの所で見てね。)多くの考古学的遺物の発掘をしており、複製品もまじえて飾られています。中世の建築様式の要素をルネッサンスの伝統と結合した邸宅を自身で設計しています。ムンテは、スウェーデン政府が他のムンテ所有の邸宅とともに管理する事を遺言した為に、イタリアとスウェーデン間の文化交流が盛んになったのだそうです。下、チャペルは、970年大天使ミカエルに捧げられたものを遺跡でみつけられ、ムンテが再建して、図書室と音楽室として使われたものです。彼のコレクションの骨董品が飾られています。ムンテの食堂。家具は、16世紀ボローニャ地方の物で、食器はスウェーデン製なのだそうです。(見るからにアンティック)島には、850種を超える植物と多くの鳥類が生息するので、世界中から研究者が訪れるそうです。ここは、「青の洞窟」に入れなかった方達が代わりに訪れたりする程度で、日本人にはあまり知られていないかもしれません。こんな別荘欲しい!! こんな所でブログ書いて余生を送りたい・・・なんちゃって・・・。まだ早いけど・・・。
2009年07月13日
コメント(0)
帰宅が遅かったので今日も押してます・・・。フイレンツェに行ったら、まず最初に訪ねてみたいのがこの丘の上の広場です。ここからは、ほぼフィレンツェの全景が見渡せるからです。丘の上にはミケランジェロ作・・と、行ってもブロンズのレプリカですが、ダビデ像が飾られていて、その為にミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)と呼ばれています。「ヴァザーリの廻廊 1」で紹介したように、コジモ1世とヴァザーリは、「ヴェッキオ宮殿は本来の姿、ただ一つ。」と、歴史的建造物の外観に手を入れなかったように、この街の整備計画においても、なるべく元の姿を残しながら、元の建築デザインに沿うように心がけて進められたようです。彼らの街作りの基本精神は、依頼脈々と受け継がれ、中世の街のたたずまいを今も存在させているのです。今日私達がフィレンツエに来た時に感じる中世にタイムスリップしたような不思議な感覚は、統一されたかのように同じ古い赤レンガ色した街の屋根と、かび臭そうな石の壁から匂い立つこの街の独特の空気の香りのせいなのかもしれません。下は、ミケランジェロ広場の丘から撮影したフィレンツェの街です。3枚のパノラマになっています。左、ピッティ宮殿のあるボボリ庭園の森からポンテ・ヴェッキオまで。ポンテ・ヴェッキオからヴェッキオ宮殿まで。ヴェッキオ宮殿からこの街のシンボルであるドゥオーモと鐘楼までです。たいがい紹介されるフィレンツェの写真はこの景色です。写真は夏の青さで街がくっきり浮かんで綺麗です。冬の写真は、弱い日差しで街が少しぼやけて見えますが、より中世に戻った気にさせてくれます。それは、薄暗さが私の中世のイメージだからかもしれませんが・・。BC8世紀にエトルリア人が開いた街だったと言う話しは、最初に触れましたが、彼らは、軍事と公衆衛生の立場から丘の上に街を造り、交易の為に一番渡りやすい所に橋を架けました。ボンテ・ヴェッキオです。今日フィレンツェ、ピサ、シェーナを含む地域をトスカーナと呼ぶのは、ローマ人が浸入するまではエトルリア人の住む土地だった事から「エトルスキの土地」と呼ばれ、エトルスキの土地の事を「エトルスカ」と呼ぶのだそうですが、それが後世なまってトスカーナと呼ばれるようになったそうです。BC3世紀にローマ人の勢力が増大してくるると、エトルスカもなし崩しにローマ化され、植民地にされてしまいます。BC59年、退役兵に報奨として土地を与えていたカエサルは、エトルスカも彼らに与え植民都市を造らせます、彼らは、アルノ川のボンテ・ヴェッキオ周辺に街を築いていったようです。(今は無いですが、円形闘技場の跡も道路の形として残っているそうです。)西ローマ帝国が衰え、蛮族が浸入してくると、街は掠奪と破壊の時代を迎えます。「治安が回復すれば、舞い戻って来てはローマの廃屋の街の上に新たな街を再建する。」を繰り返し復興させて行ったようです。(それをうまく整理したのが、コジモ1世とヴァザーリですね。)この街の名が「花咲く」、「繁栄」から来ていると言う話は「ポンテ・ヴェッキオ」の所で紹介したとおり、ローマの退役兵が繁栄を願って、花の女神フローラと言う意味でフロレンティア(Florentia)と名付けたのがフィレンツェ語源で、それが変化してフィレンツェ(Firenze)になったようですが、英語名のフローレンス(Florence)の方がローマ時代の元の名に近いようです。昔からこの街は花の都だったのですね。
2009年07月09日
コメント(0)
カプリ島(Isola di Capri) 最終章カプリ島の玄関マリーナ・グランデ(Marina Grande)アウグストゥス庭園からの展望です。夏場は船が多いようですが、さすがに巨大な船の停泊はできないようです。下は、港からマリア山(Monte Maria)方向を撮影。賑わっている感じです。写真中央桟橋の小屋が青の洞窟(BLUE GROTTO)行きのチケット売り場。その奥に見える船が、ナポリから到着した船です。洞窟に行ける時は、島に1度も足を踏み入れないまま洞窟行きの船に乗り込みます。今日のチケット売り場は、まだまだ繁盛みたいです。こちらはまもなく、乗船して離島です。島にはまだまだ観光スポットはありますが、微妙なので詳しい紹介はパスします。島に住み着いていたセレブな方、アクセル・ムンス(スウェーデン人医師で作家)の残された邸宅(サン・ミケーレ)等は青の洞窟に行けなかった方達のコースとなっていますが、彼の邸宅と景色と彼の集めた古代美術品のコレクションが目玉です。(場所的に屋敷の全景は撮影できません。玄関がとても素敵ですが・・。)もともとローマの遺跡の上に建築されたようで、その当時のレプリカを作ってそれらしく飾っているようです。ここから歩いて少しの所にビーチもあるようです。日帰りが多い観光客には無縁ですが・・。皆これからナポリorソレントに向けて船に乗り、降りたら強行スケジュールのツアーは、ポンペイを「チラッ見」してローマまで帰るそうです。(それは疲れるわ・・・・・。)セレブな船を発見。小型クルーザーとヘリが搭載されています。きっとアラブのお金持ちなんだろうな・・。カプリ(Capri)終了です。
2009年07月04日
コメント(0)
ちょっと長すぎたので切ってしまいました。ついでに構成も変えました。ソラーロ山(Monte Solaro)とチェア・リフト(chairlift)とセイレーンの岩礁SEGGIA MONTE SOLARO下はチェア・リフトの終点駅からの撮影です。方位的には、島の北西方面です。眼下に見えるのはアナカプリの街です。下は、ソラーロ山(Monte Solaro)の山頂からの眺望です。カプリ島の東側で下に見えるのがカプリの街です。マリーナ・グランデは左側(北)で見えません。右の海がマリーナ・ピッコラです。左奥に見えるのはソレント半島です。ファラリオーニ(Faraglioni)カプリ島の南東、トラガラ岬のはずれに、ファラリオーニ(断崖)と呼ばれる岩礁があります。地元ではセイレーンの岩礁と呼ばれているそうです。セイレーン(Seirenpe)ギリシア神話に登場する伝説上の生き物で、ラテン語でシーレーン。イタリア語ではシレーナと呼ばれています。上半身が女性で下半身が鳥の姿を持つと言われ、海の怪物として知られています。海の航路上の岩礁にいて、美しい歌声で航行中の船人を幻惑して死に追いやる妖鳥です。「歌声に気を取られていて、船を岩礁に乗り上げさせて難破」 or 「舵が効かなくなり座礁」させて死んだ船員達の骨で彼女らの島は山をなしている。とされ、ホメロース以降は、怪物視されています。セイレーンは海と空に居て、冥界の女神に仕えていたと言う説があり、彼女たちは死者の魂を迎え、美しい音楽と歌声で死の苦痛を和らげ、安らかで心地よい死を導く役目を持っていた。 とするものです。セイレーンも、トルコのメドゥーサ信仰と同じようにギリシャ支配以前からの土着信仰があったようです。「死の女神に仕える者」 or 「死を司る巫女」の役割があったのではないか? と思われますが、もう少し調べなければいけませんね・・。ホメロースの叙事詩「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスが冒険の帰途セイレーンの歌声に幻惑されますが、彼以外の船員に耳栓をさせていたので船は無事に通過してオデュッセウは無事でした。ギリシャ神話では、イアソン率いる「アルゴー船の探検」の話で、セイレーンに歌合戦を挑み勝ったのが、竪琴の名手オルペウス(オルフェウス)です。因みにオルペウスと言えば亡くなった妻を取り戻そうと冥界まで行ったあのオルペウスです。セイレーンの住む岩礁は、いくつか名乗る所があるようです。ここカプリ島もその一つですが、古代ギリシャ人が移民して住んでいた島ですから、そんな伝説がまことしやかに伝えられたのかもしれません。下はソラーロ山からカプリ島の南東を撮影したものです。島の岩肌は絶壁です。眼下の岩山の向こうの海は、マリーナ・ピッコラで、トラガラ岬に連なる岩礁が前出のセイレーンの岩、ファラリオーニ(断崖)と呼ばれる岩礁です。1晩目の岩(111m)が星or地球の断崖・・島と陸続き2番目の岩(81m)中の断崖・・下に通路がある。3番目の岩(105m)外orスコポロの断崖・・海のように青い青トカゲが生息するようです。下は、アウグストゥス庭園から撮影したファラリオーニです。アウグストゥス庭園からだとトラガラ岬は写らないですね。美しい景観です。
2009年07月03日
コメント(0)
今回の乗り物は、チェア・リフトです。アナカプリ(Anacapri)の街からソラーロ山(Monte Solaro)山頂までチェア・リフトが運行されています。もちろんハイキングで歩いても行けますが、眺めの良いリフトからアナカプリの街が良く見えるので、絶対お奨めです。ソラーロ山はカプリ島で一番高い山(標高589m)なので、山頂からはカプリ島の周囲360度のパノラマが堪能できます。(島の全てが見えるのです。)ソラーロ山(Monte Solaro)とチェア・リフト(chairlift)アナカプリの街の中心ヴィットリア広場(Piazza Vittoria)近く(ショッピングセンターに向かった広場の右手)にソラーロ山行きリフトの駅があります。SEGGIA MONTE SOLARO山頂まで15分足らずで登ってしまいます。冬場は、運休している場合がありますし、夏場でも天候次第で(風に弱い)すぐに運休になります。恐らく、スキー用のリフトだと思います。カプリでスキーはできませんから・・。一人乗り用の椅子型で、足を置くところがないので、宙に浮いた状態の上、安全シートもなく、不安な安全バーのみです。搭乗の規制はなかったと思いますが、小さなお子さんは乗れない(危険)と思います。大人でも少し危険そうですから・・。下が、アナカプリの街です。白い家が海の青に映えますね。眼下に見えるのもアナカプリの街です。下は、島の北西の角を見る眺望です。ティレニア海(MARE TIRRENO)と遠くに見えるのはイスキア島(Ischia)のようです。もうすぐ山頂です。もともとアジアでは1600年代以前から山岳地帯で谷を越えるための手段としてリフトの形体はありましたが、機械式の索道(ロープウエーの法令上の呼び名)は記録上、ベネチアのファウスト・ヴランチッチが1616年に設計したものだそうです。この技術は主にヨーロッパのアルプス地方で発展して広まったようです。(特にイタリアでは、軍事用索道に利用されてきた歴史があるようです。)しかし、機械式の索道で、チェア式リフトとして現れるのは1936年のアメリカ合衆国アイダホ州サンバレーのスキー場に設けられたスキーリフトのようです。(もともとバナナ用の鈎から発想したようです。) (ウキペディア参考)つづく・・。
2009年07月03日
コメント(0)
海抜138m、マリーナ・グランデから一気に650m(5分)を登ると、フニクラーレの終点駅にはカプリ(Capri)の街の中心の広場があります。PZZA UMBERTO 1 (ウンベルト1世広場)公式の名がウンベルト1世広場です。島の住人や観光客の集う小広場です。写真左手の時計塔、市庁舎、ステファノ教会に通じる階段に囲まれています。写真の時計塔の裏手がナポリ湾の方角です。(フニクラーレで登ってきた方角)駅はこの時計塔の左手の方にあります。ショップみたいな入口なのでやめました。ウンベルト1世 (1844年~1900、在位1878年~1900年)1861年、サルデーニャ王国によるイタリア統一でイタリア王国を建国したサウォイア家(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世)の第2代国王です。彼より有名なのが奥様で、以前「ピッツァ」の時紹介したマルゲリータ・ディ・サヴォイア。ピッツア・マルゲリータの名の由来となった王妃です。(広場には、彼と彼の父、つまり初代イタリア国王と、2代目イタリア国王の記念碑板があると言うことですが、気づきませんでした。)ウンベルト1世は、民衆に嫌われて暗殺されています。記念の名前の広場が残っていると言うのは、何だか不思議な気がします。サヴォイア家の紋章がとても素敵なので紹介。ウンベルト1世広場のフニクラーレの駅のある側の時計塔前は、見晴台になっています。ナポリ湾を前に展望台は開けていて、左に見える山はソラーロ山(標高589m)。その麓にはアナカプリの街があります。ここからミニバスで15分くらいです。このウンベルト1世広場の近くに、カプリの街としては一番デラックスなホテルとブランド店が集まる一帯があります。どちらかと言えばアナカプリの方がセレブ向きですが、ブランド店街は島でここだけです。Grand Hotel Quisisana (グランド・ホテル・クィシサーナ)もとは、1845年の創業当時はサナトリウムとしてオープン。(イギリス人医師が作ったサナトリウムらしい。)当時の患者は、たった8セントの治療費で泊まれたと言う事ですが、いつしか、ホテルの立地、素晴らしい景観とその設備に健康な人も泊まるようになり、流れでホテルになったと言う歴史を持ちます。今ではカプリ島のベストホテルとして、著名人や芸能人、スーパーモデル、イタリア名門グループの一族なども顧客に持つ、いわばセレブの集うホテルとなっています。冬の間はクローズらしいです。 ホテルのプールと景観クィシサーナのバーのテラスです。宿泊してなくても、ディナーの後に良いですね。でも、一流ホテルなので、そこそこの衣装で行きましょう。下は、ホテル前のホテルのカフェテラスです。通りの少し先はお馴染みのブラント店が入ったアーケードです。店は小ぶりですが、南国ならではのセレクトされた素敵な商品があるかも・・。ウンベルト1世広場東南に少し歩くと、アウグストゥス庭園に着きます。ドイツの大富豪フリードリッヒ・アウグスト・クルップ( ~ 1902年)の造園した庭園は、市のものとなり、一般公開されています。庭園とここから見える断崖が、カブリ島の魅惑的なポイントの一つだと言います。カプリを愛し、島の土木にも貢献し、海洋生物の研究の為に研究船の造船を寄贈しているそうです。土木で特に有名なのが、クルップ通りの建設です。下は、クルップが建設指示したクルップ通りです。アウグストゥス庭園から断崖下のマリーナ・ピッコロに降りる小道です。1350m、技師エミリオ・メイヤーの設計だそうです。海に落ち込む断崖に刻まれた小道は、一見、「何? 」と思えるスペクタクルな光景です。暇があれば降りてみたいですね。因みに、アウグスト・クルップの名がドイツ名なので、(ドイツ人だから・・。)第一次大戦前1918年、政治的理由により、ローマ皇帝アウグストゥスの名に変更したそうです。次はミニバスでアナカプリ方面です。
2009年07月02日
コメント(0)
せっかくなので、バイブリーにひき続き、イングランド人の心の故郷であるコッツウォルズ地方をもう一つ紹介します。コッツウォルズのベニスと呼ばれるバートン・オン・ザ・ウォーターです。バートン・オン・ザ・ウォーター(Bourton on The Water)別のバートンが存在するので、水辺のバートンと呼ばれます。ロンドンから北西100km程のオックスフォート゜の少し先、コッツウォルズの中央に位置しています。テムズ川の支流の一つウインドラッシュ川が村のほぼ中央を分断するように流れているこの村は、穏やかでやさしい気持ちにさせてくれる癒しの村です。ウインドラッシュ川は川と言っても川幅はありますが、水深10cm程(足のくるぶしくらい)の浅い川です。清流には水草がゆらめき、水鳥(カモ)が泳ぎまわり、時に小はさな子供達が水辺び戯れています。河辺の遊歩道とその沿いには柳などの木立が涼しさをさそい、ウインドラッシュ川に幾つかかかる古めかしい石橋は(馬車こそふさわしい)築200年の石橋もあり、歴史を感じさせる一品です。さらに加えるなら、前回バイブリーで紹介したようにコッツウォルズ地方独特の地元で掘られ、採掘されたウーライトの石で建築された家も景観をUPさせています。ウーライトのクリーム色の外壁と、グレイトウーライトで石葺きされた家々はウインドラッシュ川とその周辺の景観と相まって、独特の風情を醸し出してくれています。コッツウォルズで最も人気のある村と言われるのがとても良くわかる村です。木漏れ日溢れる遊歩道を端から端に散策しても小さな街なのであっと言う間。川沿いのコテージの多くはティールームやレストランになっているので、疲れたらそのガーデンから川を眺めるのも一興です。バイブリーもそうでしたが、本当に野生のカモが多いですね。カワイイ、アイスクリーム屋さんもあります。夏はアイスを食べながら芝生で寝そべるのも良いかも・・。街の散策に飽きたら個性派ぞろいの小さなミュージアムがあるので立ち寄ると良いでしょう。川に平行して走るハイ・ストリート沿いには、ホテルや銀行の他、ミュージアムが点在。モーター・ミュージアム(The Cotswolds Motor Museum)は]昔の水車小屋を改造して造られていて、個人コレクター所有だった数十大のクラッシック・カーとアンティークの子供用自動車が展示されているようです。モデル・ヴィレッジ(The Model Village)は、ウィリアムモリスが提唱してできたもので、村全体を1/9に制作したミニチュア村が、ガリバー村のような気分にしてくれます。川の反対岸ヴィクトリアストリートには香水製造所(Cotswold Perfumery Exhibision)があり制作過程を見たり、香水の歴史を勉強したり、植物園の見学もできます。もちろん買い物も・・。時間が許すならのんびり過ごしたい避暑地のような村がバートン・オン・ザ・ウォーターです。冬のバートン・オン・ザ・ウォーター別の趣があるので写真だけ掲載します。夏の華やぎはないですが、イングランドのおしゃれな田舎を感じさせてくれます。木々の葉がないと村の石造りの建物の様子が浮かび上がって夏とは別の趣がありますね。地元イギリスの人も田舎を感じたくて訪れる村です。是非ロンドンにお立ち寄りの際は、すこし足をのばしてみて下さい。
2009年06月29日
コメント(0)
コッツウォルズ地方の石壁や石の屋根などにせまりつつ、アーリントン・ローを紹介です。ウィリアム・モリスとバイブリー(Bibury)ウィリアム・モリス(WilliamMorris)(1834年~1896年)コッツウォルズの各地をまわり、その山野や建造物(家々の造り)やガーデンの美しさを「地上の楽園(The Earthly Paradise)」と言う長編叙事詩で紹介し、褒め称えたのは1868年~1870年にかけてだそうです。春夏秋冬のイギリスの自然が歌いこまれ、広くイギリスの人にもコッツウォルズの良さを知らしめたそうです。当初は聖職者をめざしてオックスフォード大学に入学したモリスですが、途中で芸術家を志望し、建築家ストリートの事務所に入所します。その経験が彼をインテリアの方向にすぐれた芸術性を発揮させたものと思われます。今日私達が知るモリスは、壁紙のデザインやタペストリー等の作品で有名ですが、コッツウォルズ各地の石造りの家々の保存などに力を入れたのも、やはり建築家の発想から思いついた事なのだと推察できます。また、モリスの学生時代からの友人エドワード・バーン=ジョーンズやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらとの親交がモリスを多方面での活躍に向かわせた事も間違いないでしょう。モリスもエドワード・バーン=ジョーンズも後期参入のラファエル前派の活動家だからです。画家、工芸家、インテリアデザイナーにして詩人であり、社会主義者であり、実業家としても成功したマルチな才能を持ったモリスがイギリスの古い街並みに特別な興味を持っていた事を私は知りませんでした。今日はその石造りの家を建築の視点から見てみようかと思い写真をセレクトしました。モリスが「イギリスで最も美しい村」と讃えたバイブリーの村の石、ウーライトは蜂密色てとてもカワイイ色でした。ラファエル前派は、当初はダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイの3人の美術学校の学生(画家)によって結成されたグループです。ヴィクトリア朝のイギリスで活動し、彼らの芸術の考え方に同調するメンバーが集まり、増え、美術史においては象徴主義美術の先駆と考えられている活動家です。ロマンティックな傾向の主題が多く、一つの芸術的嗜好を共有しているグループだと私は考えています。説明が長くなるので今日はやめますが、ラファエル前派も大好きです。ロンドンのテイト・ギャラリーに作品が多くあるようですが、残念ながらまだ行っていません。アーリントン・ロー(Arlington Row)の石壁と石葺き屋根と石垣と・・ウーライト。昨日紹介したようにアーリントン・ローは、14世紀に羊毛を入れて置く為の倉庫だったようです。それを17世紀に改装され織子の作業場兼住居となった家ですが、今も丁寧に建物は使われています。丘陵地帯を15cmも掘るとウーライトの地層にあたるそうです。ウーライトは割りに柔らかい石で採掘しやすく加工しやすいのでコッツウォルズでは建築資材としてかなり昔から使われていたようです。不思議な事に、この柔らかい石は、外気に触れるほど硬くなるのだそうです。ウーライトは黄色っぽい色した石灰岩です。鉄分が多いと黄褐色になり。鉄分が薄いと明るいオレンジ色になるのだそうです。そして、ここバイブリーで採石されるウーライトは蜂密色(ハニー・カラー)でカワイイのです。モリスはこの色を持ってしてこの街が美しいと言ったのだと思います。ウーライトは微少な生物の遺骸が土砂とともに海底に積み重なってできた水成岩で平たく薄利する性質があるのだそうです。特にグレイト・ウーライトと言う石は採掘して野原にほっておくと、自然と剥離して平たい板状になるので、それをコッツウォルズ地方では屋根を葺く為に使われてきたのだそうです。下は、コッツウォルズ地方のバートン・オンザ・ウオーターの街の屋根です。多少色はちがうかもしれませんし、石の葺いた年代はかなり違うかもしれませんが、石の葺き方は同じだと思います。ウーライトは水分を含みやすいので、雨水をなるべくはじくように、屋根は急勾配に設計されているようです。それでも雨水が残りやすいので、苔や地衣類が生えてくる原因となっていて、メンテナンスがかなり必要なのだと思います。(ほっておいたら草から小木まで生えてしまう・・。)下は、アーリントン・ローではなく一般の民家ですが、石垣とその上のコームに注目です。横に積み上げた石垣の上を、さらに、石やりのような石を縦にならべられていますが、これをコーム(櫛)と言うそうです。ウーライトでも表層に近い部分はラッグストーンと言われて不規則な板状にくずれやすく建築材としては向かないので、牧草地のまわりの囲いなどに使われ、この特徴的な石垣ができたようです。牧草地の場合は、地面に突出して出て来たラッグストーンにより草刈りガマを痛めるので拾って積み上げているうちに囲いになっていったようです。それが今やコッツウォルズ地方の風物になっています。
2009年06月28日
コメント(0)
コッツウォルズ地方(The Cotswolds)穏やかに広がる丘陵地に広がる牧草地と、昔ながらのイギリスの家や街並みが点在する美しい村々があります。18世紀に時間を止めてしまったこの土地は、今再び脚光をあびています。コッツウォルズはイングランド中央部に広がる丘陵地帯の総称です。(グロスターシャー州中心に幾つかの州にまたがった地方。)「羊小屋のある丘」と言うのが古い時代のコッツウォルズの呼び名だそうです。ここは、ローマ時代に暖かいウールを必要とした(防寒の為)兵隊の為に、牧羊業と毛織物の技術がローマにりもたらされたと言われています。寒さに強い羊の品種「コッツウォルズ羊」を開発し、地元にとっても牧羊と織物業の産業ができる事はプラスだった為に多いに栄えたそうです。それはローマ人がいなくなっても続けられ、その最盛期は14~17世紀。イギリス中心に毛織物の輸出が始まると、コッツウォルズの品は品質の良さからプレミアが付いたと言います。今目にする街の光景は、そんな古き良き、(お金のあった) コッツウォルズの最盛期に建てられた家や教会の街並みなのだそうです。なぜ時間が止まってしまったか? それは19世紀に起きたの産業革命に乗れなかった事が原因でした。この地方には産業革命に必要な石炭の採石ができない為に、工業化にも乗り遅れ、また鉄道が敷かれなかった為に外部との交流もあまりなされず・・。結果、時代からとりのこされてしまったようです。加えて、とりたてて他の産業もなく、家を建てる資金もないので古くからある家を手入れして住んでいるのだそうです。バイブリー(Bibury)19世紀イギリスのデザイナーであり、詩人でもあったウィリアム・モリス(1834年~1896年)が、「イギリスで最も美しい村」と讃えたと言われる村がバイブリー村です。下はバイブリー村を流れるコルン川です。コッツウォルズ地方は、石炭こそ採れませんでしたが、家々を形成する石はすべて村の採石場から持って来られるコッツウォルズ(この地方の石灰層)で建設されています。だから村によって石に含まれる鉄分が微妙に異なるので、石壁の色の違いが村の個性を引き出してくれています。コッツウォルズのウーライトはハニーライト(蜂密色)と呼ばれとても美しく、石は壁だけでなく、屋根にも使われます。バイブリーの村はほとんど14世紀に建てられたものだそうです。今遠くに見えているのが、コッツウォルズ地方のシンボルであるこの村一番の見所アーリントン・ロウ(Arlington Row)です。もともとは14世紀に羊毛を入れて置く為の倉庫だったようです。それを17世紀に改装され織子の作業場兼住居となったようです。(当時は、毛織物の卸し商から機械をリースして機織りをするのが常識だったそうです。皆朝から晩まで機織りをしたようです。)今は長屋になっていますが、6百年の時を経ても使われ続けらけている事に感心します。やはり石の家は持ちがちがいますね。屋根もグレイト・ライトと呼ばれる薄利しやすい石が使われているそうです。下はバイブリーのもう一つの村のシンボルの「スワン・ホテル」です。コルン川沿いにあるツタの絡まる建物は、馬車亭として古い歴史があるそうです。(秋は赤く化粧替え。)村で唯一のきちんとした食事の出来る所でもあります。この向かいに1902年創業のバイブリー・トラウト・ファームと言うマスの養殖場があるので、マス料理など食べてはいかがでしょう。下が村で外食できるもう一軒の店です。居酒屋ですが・・。Catherine Wheelとおもしろい名がついています。ここは外壁がハニー色していますね。中には綺麗なお姉さんがいます。絶対寄るベシ。
2009年06月26日
コメント(0)
ナイアガラの滝まで行ったので、必ず立ち寄る近所のカワイイ街を紹介します。ナイアガラの滝から車で30分くらいです。ナイアガラ・オン・ザ・レイク(Niagara on the Lake)カナダのオンタリオ州南西部、五大湖の一つのオンタリオ湖に流れ込むナイアガラ川の河口にある街です。川同様に湖(オンタリオ湖)も国境になっていて、北側はカナダのオンタリオ州に属し、南側はアメリカのニューヨーク州に属しています。(ナイアガラ川の対岸はアメリカのヤングスタウンの街です。)下は、ナイアガラ・オン・ザ・レイクの目抜き通りと、時計塔です。植民地時代は、アッパー・カナダの首都だったそうです。にぎやかな滝周辺に比べ、静かで落ち着きある古き良き時代? のイギリス植民地時代の街並み(19世紀風の街並み)がそのまま残る小さな街です。メイン・ストリートのクィーン通りを中心にレストラン、ブティックや老舗のホテルが並んでいて、あっと言う間に回れてしまいます。街のランドマークでもある時計塔は、レンガ造りで、第一次世界大戦で戦死した地元民の慰霊碑として1922年に建てられたものだそうです。写真上、プリンス・オブ・ウェールズ・ホテルは、1864年創業のヴイクトリア朝様式のホテルです。格調と豪華さがあり、英国皇太子も滞在したという由緒あるホテルだそうです他にも、1869年に開業した薬局など、様々な歴史的建造物が並び、馬車ツアーでクィーン・ストリートから住宅街、公園へと巡るのもお勧めです。また、小さくてカワイイ街には雑貨や小物、ジャムや果物などを売っている店が並んでいるので、見て回るのも楽しいです。カナダ屈指の演劇の街でもあり、毎年4月から11月の間、演劇祭「ショー・フェスティバル(Shaw Festival)」が開催され、シェイクスピア劇の祭典「ストラトフォード・フェスティバル」と並ぶオンタリオ州2大演劇祭の一つなのだそうです。下は、たまたまいた馬車です。観光用の馬車はありますが、この馬車はめずらしいようです。黒服のおにいさんは何者でしょう? フェスティバルに行くのかな?珍しいバスを発見。観光用にナイアガラ・フォールズが導入したバスは、なんと「ルート・マスター」でした・・・。以前紹介したロンドンの2階建てのバスです。本家も、もうすぐ廃棄になるので観光用しかないバスがここにいました。(これはJTBがナイアガラ観光用にチャーターしたバスです。)速度は遅く、冷暖房もなく、廃ガスも酷いのであまりお奨めではないようですが、初めてならちょっと嬉しいですね。2ブロックですぐにレイクのほとりクイーンズ・ロイヤル・パークに出ます。レイク沿いはサイクリングや散歩を楽しめる道が続いていて、1812年の米英戦争のイギリス軍の砦跡のフォート・ジョージ(1799年建造)がありこの街の歴史の古さが判ります。ワイン・ルートオンタリオ湖に面したナイアガラ北部は、ナイアガラ断層と湖がもたらす(寒暖の差と湿潤な)気候が合ったようで、カナダでも指折りのワインの産地となったようです。1811年にこの地に移民したドイツ人が持ち込んだ苗木から始まって、今日ナイアガラ滝からこのナイアガラ・オン・ザ・レイクを抜け、セント・キャサリンまで続くワイン・ルートなるワイナリーの並ぶ道もできました。ナイアガラ・オン・ザ・レイクの街の周りも、ブドウ畑が広がっています。約40カ所以上のワイナリーが点在していて見学ツアーもあります。特に厳冬期まで収穫せずに残しておいたブドウから作る甘くて芳醇なデザート・ワインの「アイス・ワイン」はナイアガラ・ワインの存在を一気に知らしめたそうです。ナイアガラのお土産はこれで決まりですね。こちらはナイアガラの番外でした。back numberリンク ナイアガラ・フォールズ 1 (瀑布の歴史)リンク ナイアガラ・フォールズ 2リンク ナイアガラフォールズ 3 (クルーズ船・目線)リンク ナイアガラフォールズ 4 (ワールプール)リンク ナイアガラのレインボーブリッジリンク ナイアガラ川の国境越 1 (カナダ出国)リンク ナイアガラ川の国境越 2 (橋を渡る)リンク ナイアガラ川の国境越 3 (橋上の国境線)リンク ナイアガラ川の国境越 4 (アメリカ入国審査場)
2009年06月25日
コメント(0)
ナイアガラ・フォールズのアトラクションをもう一つ紹介します。ナイアガラフォールズ 4 (ワールプール)Whirlpool Aero Car (ワール・プール・エアロ・カー)別名「ナイアガラ・スパニッシュ・エアロ・カー」ナイアガラ川を横断するロープウエイです。滝から下流に4.5km、ナイアガラ川が90度近く流れを変える場所があり、大きな水たまり場の中で方向を変えて行きます。このカーブ地点は膨大な量の水が一気に壁ににぶつかり、崖を浸食しながら濁流の渦が出来は、水たまりが年々広がって行く場所。つまり水の勢いが凄すぎるポイントなのです。決して、川下りなど出来ない場所ですが、そのすごさを眼下にに見るツアーなのです。つまり真上から覗いて見学するスペクタクルなアトラクションがこのワール・プール・エアロ・カーです。下が川の流れの変わる水たまりの地点です。ワール・プール(渦巻き)が見えている上をワイヤー・ロープが貼られています。1916年にスペイン人のエンジニアが造った物で、1800フィートのケーブルを張っています。往復するので、3600フィート(約1080m)往復10分程です。(94年も前ですね。)下がスパニッシュ・エアロ・カーのロープウェイの乗り場です。(駅は全てカナダ側を撮影しています。)何しろ歴史も古いので赤と黄色のゴンドラは超レトロですが、40人乗りだそうです。運行は4~11月で冬場は休業だそうです。(寒そうですものね。)カナダ側からの乗車(カナダ側のアトラクション)なので、ゴンドラは対岸のアメリカ側に到着すると、折り返しをして戻ってきます。(国境上なので対岸に着いても入国する事ができません・・)水面からの高さは76mだそうです。落ちたら怖い、と言う意味でスリリングな体験のようです。(そんなに怖い事はないようです。)下が真下の映像です。落ちたらほぼ絶命でしょうね・・。本当に色々アトラクションを考えますね。偉い!これでナイアガラ・フォールズは終わりですが、国境越えリンクも載せました。back numberリンク ナイアガラ・フォールズ 1 (瀑布の歴史)リンク ナイアガラ・フォールズ 2リンク ナイアガラのレインボーブリッジリンク ナイアガラフォールズ 3 (クルーズ船・目線)ナイアガラフォールズ 4 (ワールプール)リンク ナイアガラ川の国境越 1 (カナダ出国)リンク ナイアガラ川の国境越 2 (橋を渡る)リンク ナイアガラ川の国境越 3 (橋上の国境線)リンク ナイアガラ川の国境越 4 (アメリカ入国審査場)
2009年06月25日
コメント(0)
ナイアガラフォールズ 3 (クルーズ船・目線)ナイアガラ・フォールズは自然のテーマパークです。アメリカ側もカナダ側もいかに滝を楽しんで見てもらうか、いかに自国にたくさん観光客を呼び込めるか? を考えて、いろいろなビュー・ポイントを造ったり、アトラクション? アドベンチャー? を用意しています。ただ滝を見るだけの時代は終わり、今は滝を体験するテーマパークとして変わったのです。そんなわけで、今回はナイアガラをクルーズ船、霧の乙女号(Maid of the Mist)に乗船したような目線で滝を紹介します。下はカナダ側の霧の乙女号(Maid of the Mist)の乗船場所です。1846年以来の人気アトラクションだそうです。船は300人乗りと600人乗りのタイプがあり所要時間は30分くらい。滝壺の前で5分程停止。※ いつも行列です。アメリカ側はレインボーブリッジの近くにあり、そちらの方が空いていると言う事です。恐らく同じアメリカの経営者だと思います。青いカッパはもらえます。(ほぼ使い捨て? )夏のみの運行。下は霧の乙女号の乗り場に降りる入り口近くから撮影。ゲートに入ってから少し下ってエレベーターで乗り場まで降りるようになっています。下はアメリカ滝の前を通過中です。奥に見える滝が、ブライダル・ベール滝のようです。船は15分毎に運行しているようですが、それでも満員ですね。下は、アメリカ滝の横のブライダル・ベール滝下にあるアメリカ側の「風の洞窟ツアー」の人達です。アメリカ滝の下は岩場が多いですが、落下の美しさはひけをとらないそうです。特に凍り付いた時は氷の宮殿のようだと言われているので船に乗れない冬場には良いかも。私も未体験ですが、このツアーは、上のゴート島からエレベーターで下まで下降して、さらに岩の上に造られた木組のルート・コースを歩いて滝下まで行き、水しぶきを浴びるものだそうです。全身ずぶ濡れのツアーになりますが、まさに滝を体感できる演出がアメリカっぽいですね。下はカナダ滝の方をタワーから撮影ですが、客観的に壮大さが見えます。上で見ている方が船が沈みそうで怖いかも・・。この近くのホテルからなら宿泊しながら見えるようです。(滝壺の見える部屋はお高いでしょうね・・きっと。)日本と違ってスケールも大きいけどアトラクションとして楽しむ所など、観光の概念がそもそも異なるのかもしれませんね。滝は遠くで見るだけの物だと思っていましたから・・。下は滝壺に着いた船から全身ずぶ濡れになっての撮影です。水しぶきが細かい霧となり、蒸発していきます。下から画面を見上げてもらった方が少し良く見えるかも・・。水って青いんだ! と思うくらい綺麗です。空と滝と水面のディテールの違いが面白いですが、実際見た映像と写真ではやはり違うものです。滝の横から見るよりも、やはり体感してスケールを感じてもらわないと、ちょっと遠目に見ただけでは、「ナイアガラってこんなものか? 」で案外終ってしまうものです。(時間とお金をけちったらせっかく行っても損になります。)ヘリで観光するコースもあるようです。高いかもしれないげど、ヘリから見たら、絶対期待以上の感動があると思います。(まさに絶景でょう。)ナイアガラつづくリンク ナイアガラフォールズ 4 (ワールプール)
2009年06月25日
コメント(0)
ナイアガラのレインボーブリッジ元祖レインボーブリッジ 国境をまたぐ橋1941年、アメリカ滝の近くに建設された3番目の橋「レインボー・ブリッジ」は、橋の真中が国境になっていて歩いてor車両でアメリカに渡ることができまる国境の橋です。それ故、橋の両側に税関があり、入国審査場があるのです。ベトナム戦争の折には「アメリカの若者が兵役を逃れる為に、この橋を渡り、国外逃亡した。」とも言われている国境です。滝の観光用でUターンする人もいて出入国のチェックが甘かったからかも知れません。カナダ側にあるスカイロン・タワーより撮影したナイアガラ川とレインボー・ブリッジです。左岸がカナダ、オンタリオ州右岸がアメリカ、ニューヨーク。橋を渡って双方から観光するのがおすすめではありますが、国境を越える橋なので、渡るのは容易ではありません。(アメリカ入国が厄介)パスポートだけでは駄目です。アメリカからカナダに渡り戻ってくるのは、(アメリカに1度入国しているので)たやすいですが、カナダからのアメリカ入国が厳しいかもしれません。昨年からアメリカの入国チェックが厳しくなったので、以前と違ってこの橋を渡るのも、より面倒になったのではないかと思います。(アメリカ入国前2~3日前までに事前に入国の打診をアメリカに入れて確認をとらなければならなくなった)以前カナダからアメリカに行くには、パスポート、入国カード、税関申告書とアメリカ入国税と橋の通行料が必要でした。今はそれプラスかな?(カナダの友人に問い合わせているので判ったらお知らせします。)国境渡りは別の回に書きました。2009年の情報なので今は変わっているかもしれません。リンク ナイアガラ川の国境越 1 (カナダ出国)リンク ナイアガラ川の国境越 2 (橋を渡る)リンク ナイアガラ川の国境越 3 (橋上の国境線)リンク ナイアガラ川の国境越 4 (アメリカ入国審査場)カナダ側より撮影アメリカ側から橋の向こう側、アメリカ(ニューヨーク州)の観光はナイアガラ州立公園から数ヵ所のビュー・ポイントがある。プロスペクト・ポイント公園の歩道沿いやプロスペクト・ポイント展望タワー(この橋の少し右側で霧で見えにくい)霧の乙女号のアメリカ乗り場の波止場からはアメリカ滝が至近距離で望めます。特にゴート島(川の中州)から見るアメリカ滝は、風の洞窟を通してブライダルベール滝の真下まで降りることができ圧巻です。カナダ側クイーンビクトリア公園の遊歩道よりレインボーブリッジとアメリカ滝を見る。カナダ側からカナダ側のクイーンビクトリア公園には手入れされた花壇があり、カナダ滝とアメリカ滝の眺めが最高です。滝付近には展望タワーが二つ滝付近では最も高い地点からの全景が望めるスカイロンタワーと、カナダ滝を見下ろすコニカ・ミノルタ・タワー(現在は名前が違うかも。)※ 滝の見学としては上からの眺望も押さえたい所です。ダイナミックです。カナダ滝のすぐ脇に展望スペース「テーブルロック」があり、真下で滝が落ちていく様子を見ることができます。かつてテーブル状に突き出ていた岩を現在の展望スペースとしたようです。ジャーニー・ビハインド・ザ・フォールズは(前回も紹介)カナダ滝裏側のトンネルに行くことができ、展望デッキからはカナダ滝のすぐ脇下から滝が見えます。滝から少し離れた地点には1916年にスペイン人技師レオナルド・トーレス・ケベードによってデザインされたケーブルカーがワールプールにあり凄いです。ちょっと紹介・・と思ったのですが、写真がたくさんあり、どれも捨てがたいのでもう少し「イオン」たっぷりの写真を紹介します。ナイアガラのback numberですが、以前は写真が4枚程度しかのせられなかったので細切れとなっています。再編集したい所ですが、今は他で忙しいのでそのうちに。リンク ナイアガラ・フォールズ 1 (瀑布の歴史)リンク ナイアガラ・フォールズ 2リンク ナイアガラフォールズ 3 (クルーズ船・目線)リンク ナイアガラフォールズ 4 (ワールプール)リンク ナイアガラ・オン・ザ・レイク(Niagara on the Lake)
2009年06月24日
コメント(0)
ナイアガラ・フォールズ 2ナイアガラを訪れたチャールズ・ディケンズ (1812年~1870年イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家)。滝の迫力と美しい色に感動し、「私は地上から引き上げられ。天国を覗き見たようだった。」と書きのこしている。ディケンズも訪れた頃からナイアガラは観光客目当ての行商人がばっかりで、土産物を売りつけて俗悪な客引き合戦も起こり、オンタリオ州(カナダ)とニューヨーク州(アメリカ)は周りの土地を買収して景観保護にのりだしたそうです。高台から見て割とシンプルなのはそのような理由だそうです。テーブル・ロック(カナダ側)の無料見学コーナーより撮影。写真で見ても引き込まれそうな・・飲み込まれそうな感じですね。冒険野郎は偉いです。良く飛び込めたものです。ナイアガラが一番美しいのは、真冬に滝が凍りつく時。クリスタルのように凍った滝は幻想的で、一瞬に凍りついた霧は宝石のダストのようにきらめくのだそうです。(12月は凍っていなかったです。)滝の裏側ツアーから本当に滝の真下まで行ってますが、(下段の真ん中の人は大丈夫らしい)無理しなくても滝を近くで見える方法はまだあります。ジャーニー・ビハインド・ザ・フォールズはエレベーターで下に下り滝壺の真横や滝の裏側を覗れるようになっています。下の写真の滝の右横に小屋がみえますが、あそこから見学できまます。(有料です)滝の裏はここから見えませんが、一見何もない岩壁ですが、中にエレベーターや通路がのびて滝の裏までの通路があります。滝の裏側ですが、感動があったかどうかも覚えていないので、きっとガッカリしたのかもしれません。下は滝を横から撮影したものです。私がナイアガラ見学に行ったのは12月。NYからの日帰りツアーでした。ラガーディアからのバッファロー行きでナイアガラに入ったのですが、帰りの便で忘れられない経験を2つしました。NYのラガーティア空港が大雪で閉鎖されて戻れなくなり、何とかチケットをJFKに振り替えてもらい搭乗口に行くとすでにゲートは閉じられていた後でした。これに乗れないといつ帰れるかメドがたたない状況です。背に腹ではありませんが、閉まったゲートを乗り越え、閉じた飛行機の扉をドンドン叩いて開けさせました。一応連絡は送ってくれていたので何とか乗せてもらいましたが、飛行機の扉を叩いて開けてもらったなんて経験はもうないのではないかと思います。向こうも驚いたと思いますが、今はテロの問題から絶対ないでしょうね。さて、やっと乗った飛行機ですが、空港が混雑して着陸できず、上空で旋回をはじめました。そう言う時ってシートベルト着用になるのでトイレも行けなくなるのです。旋回して2時間未だ着陸のメドもたたないのでキャビンアテンダントにトイレに行きたいと要求。「イマージェンシー(緊急事態)」何度が連呼したら仕方なくOKしてくれたのですが、私って本当に魔が悪い人です。トイレに入ってから突然着陸態勢に入り、トイレの窓から滑走路が・・・今、まさに逆噴射かけるのが見えてビックリでした。トイレを出るとキャビンアテンダントに腕を引っ張られ、キャビンアテンダン用の業務シートに並んで腰掛けさせられましたが座った時は、ほぼ着陸してました。忘れられない、とんでも珍道中の思い出です。ところでラガーディア空港の名だけは忘れていましたが、久しぶりに今年1月ハワイでその名を聞きました。ハドソン川に落ちた飛行機がラガーディア発だったとか・・。(テレビで連呼していました。)ホテルのテレビ全てどのチャンネルもそのニュースしか流れていなかったので・・。ナイアガラつづリンク ナイアガラフォールズ 3 (クルーズ船・目線)
2009年06月24日
コメント(0)
ナイアガラ・フォールズ 1 (瀑布の歴史)ナイアガラ・フォールズ(Niagara Falls)アメリカの五大湖のエリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にあり、滝の位置がカナダのオンタリオ州とアメリカのニューヨーク州とを分ける国境に存在している。青がオンタリオ湖、下がエリー湖原住民の言葉で、「雷鳴が轟く水」と呼ばれ、1678年にフランスの宣教師ルイ・エヌパンが、フランス人探検家と共に同行した時「ナイアガラ旅行記」を書きヨーロッパの人にセンセーションを起きたそうです。18世紀には観光が盛んになるとナポレオン・ボナパルトの弟も、欧州からハネムーンで訪れている。昔からハネムーンの観光地らしい。アメリカでも南北戦争(1861年~1865年)後、ニューヨーク・セントラル鉄道が、ナイアガラの滝を余暇と新婚旅行先として力を入れて宣伝している。今も、観光くらいしかないし・・。スカイロンタワーより撮影。絶景ポイントは手前カナダ側にたくさんあります。今は色々タワーも増えたので、このように高い所から全景を見ることもできます。スカイロンタワーは回転式レストランになっていて(1時間1周)食事をする人の展望はタダですが、しない人は展望料金が必要。今見えているのはカナダ滝で、馬蹄形をしたポピュラーな方の滝壺です。写真には見えませんが左がゴート島でそのさらに左にアメリカ滝があります。カナダ滝(落差53m、幅670m、滝壺の深さ56m)滝壺近くを船(霧の乙女号)で見に行くツアーもあり、ずぶ濡れになりますがとても人気です。もの凄い水しぶきで蒸発していく水蒸気で見えなくなっていますが、昔に比べると水量は75パーセント水抜きされ、下流の発電所にまわされているそうです。ですから昔は、音ももっと響いていたのかもしれません。下がアルリカ滝です。これもすごいですが、カナダ滝がすごすぎるので見劣りしてしまいます。(落差21mから34m、幅260m) ナイアガラの滝が形成されたのは第四氷河期が終わる12000年頃と言われ、断層が水で1年1m浸食されできた滝は、今も浸食を続け(水量が減ったので1年0.3mくらい)ています。上は、テーブル・ロックの見学所より撮影下はテーブル・ロックより船を撮影。酔いそうな船の揺れです。船は、Maid of Mist 霧の乙女号と呼ばれているそうですが、霧と言うより土砂降りですね。カメラは使い捨て水中カメラが良いです。また冬は(11月頃?)にクローズするので注意です。※ 12月に行った時に、滝の裏側ツアーには入れました。昔からここでは冒険野郎が何人も生死をかけて綱渡りだ滝壺落ちをしたと言います言います。綱渡りが14人。樽やボートで滝に飛び込んだし人が15人。(10人成功)63才の女性教師は愛ネコと樽に入り落ちたとか、パラシュートが開かず落ちて死亡などいろいろあり、現在そんな事をしたらは60万円の罰金だそうですよ。つづくリンク ナイアガラ・フォールズ 2リンク ナイアガラのレインボーブリッジリンク ナイアガラフォールズ 3 (クルーズ船・目線)リンク ナイアガラフォールズ 4 (ワールプール)リンク ナイアガラ・オン・ザ・レイク(Niagara on the Lake)リンク メイプル・シロップリンク ナイアガラ川の国境越 1 (カナダ出国)リンク ナイアガラ川の国境越 2 (橋を渡る)リンク ナイアガラ川の国境越 3 (橋上の国境線)リンク ナイアガラ川(Niagara River)国境越え Part 4
2009年06月23日
コメント(0)
湖水地方を愛した作家をもう一人紹介します。ヘレン・ベアトリックス・ポター(HelenBeatrix Potter)( 1866年~1943年)ロンドンの富裕な家に生まれ、家族で過ごす夏の休暇で湖水地帯を知り、魅せられた1人です。挿絵付きの童話作家として成功すると念願の湖水地帯に移り住み、熱心なナショナル・トラスト(自然環境保護運動)の推進者となります。「ピーター・ラビットのおはなし」を書いた作家が彼女です。富裕な家に生まれた彼女は当時の風習で(子女は家庭教師に習うのが一般的)、学校へは行かず家庭教師からいろいろな事を学び、動物が大好きで、いろいろ飼っては挿絵付きの観察日記を残したそうです。(彼女が飼育していた動物はウサギ、モルモット、ネズミ、コウモリ、ヘビ、カメ、イモリ、カエル、ガマガエル、等から昆虫、幼虫、鳥にまで及んでいます。)かつて彼女の家庭教師をしていたムーア夫人の病気の息子さんの為に、慰問に送った絵物語が後のピーター・ラビットのベースとなります。(ピーター・ラビットは、もともと彼女がロンドン時代から飼っていたウサギの名前です。)彼女が最初に書いた作品は墨一色の挿絵童話だったそうで、1901年自費出版で250部制作した後、カラーに書き換えて出版すると言う条件の下、世に出、世界的なベストセラーとなりました。下は、彼女の作品の世界観「ベアトリックスの世界」をミュージアムにしたもので、湖畔のボウネスの街にあります。彼女はその印税で湖水地帯の売買に出された土地を次々に購入して、湖水地帯の景観を守る為に努力したそうです。下は、カンブリア州の湖水地方のエスウェイト(Esthwaite Water)湖畔にある小さなニア・ソーリ村にある彼女の愛した住まいHill Top(ヒル・トップ)です。ヒル・トプは農場です。農場は農場でなければいけないと言う信念から、従来から管理していたジョン・キャノンに引き続き農場部分はまかせ、農場の一部を仕事場にし、ここでピーター・ラビットなどに出てくる挿絵を描き続けました。見覚えのある場所がたくさん出てくる庭です。晩年の彼女は牧場の動物たち、とりわけ牧羊業にのめり込み、挿絵付きの童話は書かなくなってしまったそうです。(1920年頃から視力が低下しはじめたのも要因の一つかも)もともと動物が好きだった彼女は第一次大戦で牧場の男手がなくなると自ら農場の動物の飼育をし、いつしか牧羊のプロフェッショナルになってしまいます。(彼女の育てた羊が品評会で優勝するくらい・・。)下は、彼女が愛したヒルトップ村の近郊の自然です。彼女はこの景観を保護する為に土地を買って行きます。1943年愛する夫に見送られて77才で他界。彼女の遺言で、例外を除きすべての財産を夫のものとし、夫亡き後はナショナル・トラストに寄贈する事を決めて事細かな遺言をしたためたそうです。その遺産は土地だけでも4200エーカー(1680ヘクタール)5140000坪、他に農場と民家など多数。現在彼女の遺言通り、湖水地帯で彼女が買い取った多くの土地がナショナル・トラストにより管理されています。ベアトリックス・ポターは多くの童話と、湖水地方の景観と言う素晴らしい財産を未来を含む全世界の人に残してくれたように思います。ナショナル・トラスト(National Trust)(National Trust for Places of Histric Interest or National Beauty)イギリスで、歴史的建築物の保護を目的として設立されたボランティア団体だそうです。ベアトリックス・ポターの父がナショナル・トラスト終身会員の第1号だそうです。
2009年06月22日
コメント(0)
Break Time (一休み)ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)(1770年~1850年)は、イギリスのロマン派詩人、湖水地方を愛して世に広めた詩人ウィリアム・ワーズワースは、湖水地方で生まれ育ち、若き日の遍歴の後に再び湖水地方に住み着いて、比類無い自然の美しさに霊感を得て詩作にはげんだそうです。19世紀初頭、彼の詩に啓発された詩人や文人達も多く湖畔地方に移り(湖畔詩人)住んだと言われています。そもそも湖水地方のウインダーミアは氷河の浸食でできた多数の深い谷がきざまれた中に湖が形成されたもので、イングランドで最も景色が美しい所と賞賛されている所です。A彼の故郷の、執筆時代に居をかまえていたグラスミアの家、ダヴ・コテージと彼と彼の家族が眠る教会を彼の詩の一部と共に紹介します。(以前「ジンジャーブレッド」で紹介した街です。)B幼年時代を追想して不死を知る(抜粋)2.虹は現れては消えゆき。薔薇は愛らしく、空は雲なく晴れ渡れば、月は喜びに充ちてあたりを照らす。星づく夜の水は、いとも美しく清らかなり。太陽は赫々(かくかく)としてのぼる。されど、今我いずくに行くとも、栄光は地上より消え失せしことを知る。C3.小鳥はかく楽しき歌を唄い。子羊は鼓の音に、合わすもののごとくに跳び廻れど、一人我が胸には悲しみの思い湧く。時しも、我が思いを口ずさめば悲しみ和らぎて、再び強き心となる。滝は断崖にラッパのごとくとどろく。悲しみの心もてこの美しの季節を汚すまじ。並び立つ山々はこだま聞こえ、風は静寂の暁の野より吹き来たり、大地はなべて晴れやかなり。陸も海も、喜びに湧き立ち、五月の心もて、獣らは静かに憩う。汝、よろこびの子よ、我がまわりにて叫び、叫びを聞かせよ、幸福なる牧童よ。D5.我らの誕生はただ眠りと前生の忘却とに過ぎず。我らとともに昇りし魂、生命の星は、かつて何処にか沈みて、遙かより来れり。過ぎ去りし昔を忘れしにはあらず、また赤裸にて来たりしにもあらず、栄光の雲を曳(ひ)きつつ、我らの故郷なる神のもとより来りぬ。我らの幼(いと)けなき時、天国は我らのめぐりにありき。やがて牢獄の影は、おいたち行く少年の上に蔽(おお)いかかる。されど少年は光明を見つめ、その源を知り、よろこびもて見まもる。若人は日々に東方の空より遠く旅すれど、なお自然の祭司にて、美しき幻影に道すがら伴わる。ついに大人となれば、幻影は消えて、やがて尋常の日の光の中にとけ込む。E9.我らが生命の燃えさしの中に、なお活けるもの存し、自然がかくもうつろい易きものを、忘れるざることは嬉し。過ぎし日の思いでは、我が心に絶えぬ感謝の想いをかもす。そは最も祝福さるべきものへの感謝にはあらず。喜びと自由と・・寸暇なき時も、憩いの時も、胸に羽ばたきしつつ新しく羽生えし希望を抱く、おさな時のあどけなき信条・・・我はこれらの為に感謝と賞賛の歌を捧ぐるに非ず。・・・・(以下略)Aは、ウインダーミア湖です。見えるのはボウネスの街。典型的な氷河湖です。長さ17km、深さ67m、幅500m~2km。これでもイングランドでは最大の湖だそうです。湖畔から山々の中腹にかけて牧草地や森が広がっていて、19世紀に鉄道が通るまでは小さな村だったそうです。グラスミアはこの湖より北方にある街です。Bは、グラスミアのダヴ・コテージです。1799年に湖水地帯に戻ってきたワーズワース(28才)が妹と住み着いた家で、彼の詩作の傑作のほとんどが、この家から生まれているそうです。ざっくりしたスレート(水成岩)の割石を積み上げた石壁、薄いスレートでできた屋根は湖水地帯の伝統的な建築だそうです。ワーズワース兄妹はこの土地が大変気に入ったそうです。現在はダヴ・コテージ財団法人が復元保存しているようです。C.Dはグラスミアにあるオズワルド教会です。Eがオズワルド教会裏手にあるウィリアム・ワーズワースと彼の妻メアリーと妹ドロシーが眠る墓地です。以前紹介した「セイラ・ネルソン夫人のジンジャーブレッドのお店」は教会の隣にあります。イギリスの田舎の小さな村の昔ながらの地味な教会が私達には逆に目新しく見えます。古き素朴な教会はワーズワースの詩の一編のような感慨を覚えます。
2009年06月22日
コメント(0)
Break Time (一休み)死海(The Dead Sea)以前から、添乗員の仕事をしていた友達と「死海に行こう。」と言う約束がありました。死海の周りはエステや療養施設などあり、皮膚病になりやすい彼女には「とても環境が良いい所だった。」からなのだそうで、何日間か滞在して療養する予定で考えていました。それなのに、そんな矢先に、死海あたりは再び危険地帯になり、私達の旅行は延期状態になっています。(イスラエルと言うより、行きたい所はヨルダン側にある?)現在死海を訪れるイスラエルのツアーはあります。死海には是非一度行ってみたいですが、何事にも「縁」と言うものがあり、「どうしても行けない場所。」という所が私には他にもあります。きっと縁がない場所なのか? あるいは行ってはいけないと言う信号なのか? 実は、「香港に行っていない。」のです。計画は今までたくさんありましたが、出発1週間前にツアーを決めて、2日前にキャンセルになった事も・・。まあ、そんなに行きたいと言う場所でもないので、縁がやって来るのを待っている所ですが・・。下は死海の写真です。 The Dead Seaは、アラビア半島北西部にあり、西側にイスラエル、東側をヨルダンに接する塩分濃度の非常に高い塩湖です。湖面の海抜は -418mと、最も低い土地の湖で、北から南まで全長78km。年々干上がって、小さくなっているようです。東アフリカを分断する大地溝帯の北端にあるそうで、死海を含むヨルダン渓谷は、白亜紀以前にはまだ海の中だったと言う土地です。一般の海水の塩分濃度が約3.5%程度であるのに対し、死海は30%を超えているそうで、その為に浮力が大きく、人も軽く浮くのだそうです。(一度体験してみたいです。)当然生物の住めるような環境ではないので、死の海なのです。皆楽しそうに浮いていますが、一度に20分程度が限度のようです。死海の周囲の砂浜から採れる死海の塩分と他ミネラルを多量に含んだ泥は、お肌に良いらしく、エステに使われ、私も件の彼女から袋詰めされた死海の泥をお土産にもらった事があります。加工されているせいか、とてもなめらかで、海藻パックのような錯覚をおこす泥パックでした。(重いのにありがとうございます。)道路標識です。右がエルサレムです。死海文書死海のイスラエル側の北にクムランがあります。取りたてて、普通の観光客には何の関係も興味も無い所でしょうが、知っている人には非常に興味のある土地です。1947年2月に発見された、「クムラン文書」、俗に「死海文書」と呼ばれる文書は世界に? いえ、キリスト教徒には非常にセンセーショナルな問題を投げかけました。見つかったのは聖書に関連する巻物でした。特に、福音書の中の「イザヤ書」の写本は今まで現存するものより1000年も古いものだったからです。旧約聖書に関するものは現在伝承されているものと、さしたる相違はなかったようです。問題があったのは、聖書の諸書ではない内容の部分です。クムラン文書が書かれたのは、BC140年~AD40年の間で、キリスト教の発生はその中にすっぽり収まっています。そこに書かれているクムラン宗団は非常にイエス・キリストの初期信奉者に似ている。ほぼ同時期に同じ場所に住み、同じような習慣を有する・・。クムラン宗団のメンバーはエッセネ派であったようです。(エッセネ派はユダヤ人の3つの偉大な分派の一つ。そして、成功したキリスト教徒=エッセネ派と後世言われています。)果たして、イエス・キリストはクムラン宗団のメンバーであったか?クムラン宗団とは全く別の宗団であったか? もし、イエス・キリストがクムランの宗団にいて、そこに書かれている事がイエス・キリストを指す真実であるならば、カトリックの根幹を揺るがすかもしれない問題となるかもしれない?ダン・ブラウンの書いた小説「ダ・ヴインチ・コード」でイエス・キリストの妻の事が書かれていますが、死海文書の研究者によれば、彼の母や、父のほか弟の事も分析されています。因みに、それによけば、イエス・キリストはベッレヘムでなく、クムランの南1kmのあたりの建物の中で生まれた。と判明?いずれにせよ「死海分書」の解明に、バチカンは複雑な思いで見守っている事でしょう。死海文書については、新に解った事実を加えて、2019年10月「クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)」で詳しく書いています。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
2009年06月16日
コメント(0)
昨晩、深夜2時頃、疲れが溜まっているようで・・写真のセレクト中に意識がなくなりかけました。「少し仮眠してから・・」と2時間で目覚まし時計をかけたのに、起きたらお昼になっていました。「ひぇー!!」10時間近く熟睡、いや爆睡でした。実は「ベルサイユ宮殿の写真の選択」のストレスがあります。もともと予定して撮影したものではないので、写真枚数はたくさんあるのに、以外と使える写真がありません。天井ばっかりで部屋の全体がないとか・・。建物の全景がなくて、部屋も一部だけとか・・。さらにどこの宮殿の部屋か? わからない・・。足りない分を雑誌から持ってくるか? それなりに企画を変えるか? と、頭を使いすぎて疲れすぎてしまったようです。普通に希望の写真が全てそろっていたらこんな苦はなかったのでしょうが・・。嫌、まいりました・・。何とかある写真で形を整える予定ですが、自分が当初意図していた形にはなりそうもないので残念です。そこで、今回は、私の為のBreak Time企画です。唐突ですが、トルコの奇岩を紹介です。トルコ共和国、アナトリア高原、カッパドキア、ギョレメスリー・シスター(3美人の山)シメジに見えるこれは、りっぱな岩山です。トルコのカッパドキア地方のギョレメ国立公園にある奇岩の一つで、スリー・シスター(3美人の山)と呼ばれています。アンカラ(トルコの首都)の南東にあるアナトリア高原は、2000万年前に起きたカッパドキアの3つの山、(エルジイェス、ハサン、ギュルル)火山の噴火によって火山灰(凝灰岩)が降り積もり形成された大地です。特に水に溶解しやすい岩石で構成された大地の上に、さらに比重の大きい溶岩(玄武岩)が降り注ぎ、固まり、さらに長い年月に石灰岩などの水に溶解しやすい岩石のみ雨水などによって溶食され、岩が少しずつ水に溶けて特異な地形を形成したカルスト地形です。古来より小アジア(現代のトルコ)の内陸地域にあたるギョレメ地方は、通称Cappadocia(美しい馬の地)と呼び、ヘロドトス (BC485年頃~BC420年頃)の時代には、「カッパドキア人」がこの地域を支配していたようです。カッパドキアはいくつかの地下都市を有し、住居としての使用だけでなく、キリスト教徒の隠れ場所としても使用されています。BC!7年にカッパドキアがローマの属州に組み込まれてから後、この地には熱心なキリスト教徒が数多く住み着いたそうです。それは7~9世紀にイスラム教徒の攻撃を受けても変わらず、奇岩の岩盤に穴を掘り、内部に教会や礼拝堂を造り暮らしたと言われています。特に14世紀の迫害は厳しく、廃墟となった所もあるそうです。1923年のローザンヌ講和条約により、ギリシャとトルコの住民の相互交換が行われ、ギリシャ系キリスト教徒はギリシャへ強制送還させられ、その後にトルコ人が入り、未だに一部居住者がいるようです。全て同じ岩です。(季節の違いがありますが・・。)このような奇岩は色々なタイプがあり、カッパドキア地方の観光スポットです。
2009年06月14日
コメント(0)
BreakTime (一休み)今回はローマの休日にあやかりましょう・・。王女と新聞記者との切ない1日の恋を描いたロマンティックな映画である。トレヴィの泉や真実の口、スペイン広場と言ったローマの観光スポットをベスパに乗って巡るアン王女の初デートのコースです。トレヴイの泉は前回紹介しているので、今回は真実の口とスペイン階段にGOしましょう。真実の口(Bocca della Verita)はローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁に飾られています。直径1メートル以上厚さ15センチ以上ある1枚の円形石に2本の角を持った(恐らく)ネプチューンの顔が掘られている。元々はローマ時代の大きな建造物の床に取り付けられていた排水溝の蓋だという。その排水溝の口の部分に手を入れると、偽りの心がある者はその手首を切り落とされると言う伝説がいつの頃が生まれた。映画ローマの休日では、グレゴリー・ペック扮するジョー(新聞記者)が真実の口に手を入れてオードリー・ヘップバーン扮するアン王女をおびえさせる・・。壁の後ろ側が教会です。この教会はローマ時代に小麦の供給を司っていた役所の建物を利用して造られたもので、堂内のあちこちの石柱は古代遺跡すら移してきたもので床は大理石モザイクで飾られている。シンプルな古い地元の教会といった雰囲気の教会で元々ギリシャ居留民の為に建てられていたと言う事で、ギリシャ正教の方式による礼拝が行われているそうです。(写真はありますが、容量の関係で今日はupできまん。)次はスペイン広場(Piazza di Spagna)です。17世紀中期にスペインの教皇庁付き大使館が建てられた事でこう呼ばれるようになった。(現在はバティカン市国駐在スペイン大使館)でもこれは外国人の呼び名で、イタリア人は山々の三位一体教会(トリニタ・ディ・モンティ)の大階段(スカリナータ・デッラ)と呼ぶそうです。18世紀になるとこの大使館周辺一帯がスペインの治外法権下に置かれ、教皇庁さえも権威が及べない場所となったそうです。それにより自由奔放な気風が残り、ボヘミアン的で、外国人のたまり場のようになっている。映画の中でアン王女は階段にすわりアイスクリームを食べていたが、これを真似する人々で階段が汚されたのが原因か? 今は階段はアイスクリーム含む全ての飲食は禁止とされている。昔は階段横に花壇が置かれて花の季節は絵になってきれいだったが、今はそれも取りやめられた。いつも暇な人達が座り込んでいるので、人のいない写真をとるなら朝一番で撮影に来なければ無理のようだ。階段頂上にみえるのがトリニタ・ディ・モンティ(山々の三位一体)教会とオベリスクである。階段下手前には広場とバルカッチヤの噴水がある。トリニタ・ディ・モンティ(山々の三位一体)教会とオベリスク教会(フランス)がお金を出してこの階段を造らせたようです。1728年完成。階段がより高く、より壮大に見えるように階段の配置も計算され、美しく描く曲線の手すりの付いたテラスはバロックの流れを受けた都市景観作造りの好例だそうです。(本当は階段途中のテラスにルイ14世の騎馬像を置く予定だったそうです。もしそうなっていたらフランス階段とかルイの階段とか呼ばれていたのでしようね。)15世紀にフランス王がフランス人の為に造らせた教会と言われていますが、正確な年代はわかりません。2本の塔を持つ教会はフランスのゴシック建築だそうです。オベリスクは18世紀の模造品でエジプトの本物ではない。(なぜ?オベリスかわからないが、オベリスク礼賛の傾向が色々な国にあるな・・・。)下は教会側から見たスペイン階段下のスペイン広場とバルカッチャの噴水周辺の街並みである。階段下のスペイン広場にあるバルカッチャの噴水を紹介したがったが、写真がもう今日はUPできないのであきらめた。
2009年05月31日
コメント(0)
写真1枚追加Break Time (一休み) になりませんでした・・。せっかくなのでアクロポリスにあるパルテノン神殿(主殿)以外の建造物も紹介。アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、古代ギリシアのポリスのシンボルとなった小高い丘に防壁で固めらた神殿や砦が築かれたものだそうです。(標高は156m。市街地からは70m高い。)ミケーネ時代のアクロポリスはまさに王城(城塞)で、諸王の居城であったと伝えられています。ポリス成立後は、神殿としての宗教行事以外に、裁判など、集会所として使われたりと民主主義的公共の場となっていったようですが、それも古代ギリシャの話です。ローマ期にはキリスト教の神殿となり、トルコ支配のもとではイスラム教会、兵舎、ハーレムになった事もあったとか・・。今のような廃墟になったのは1687年と言われています。なぜ年代がはっきりしているかと言えば、原因は当時トルコがここを火薬庫として使用していた事と、ベネチアの砲弾がパルテノン神殿に直撃して大爆発を起こして屋根や壁が吹き飛び壊滅的被害を受けたからです。(2000年の歴史が一夜で吹き飛んでしまったんですね・・。もったいない・・。)下はエレクティオン。パルテノン神殿の一部の宮で、北側に位置(BC406~)ラコニア地方のカリアの女性と言われ、カリアティデスと呼ばれているイオニア風の6人の少女像の柱がある。(手前中央神殿角)この像はオリジナルはアクロポリス博物館に5体。1体はイギリス人に盗まれて現在は大英博物館にある。下中央に見えるオリーブの木はアテナイとポセイドンがアテネの守護神の座を競って争そったと言われる伝説の木だ。ポセイドン神は「三又の鉾」で岩に穴をあけたて塩水を噴き出させて見せる。アテナイ神は同じ鉾で大地を刺してオリーブの木を生やした。軍配はアテナイ神に上がり、彼女がアテナイの守護神となったとされる逸話に基づく。神殿の中は撮影禁止である。近づく事も文化財保護の為に禁止。今やかろうじて残っている神殿維持は常に工事期間のまま進んでいない。神殿前も荒廃していて、結局カメラを向ける位置も限られてくる。ずるしない限り中は写せない。下はアクロポリスから南を見下ろした所にあるディオニソス劇場である。半円型をしたBC6世紀頃の古代劇場である。毎年、アテナイの国家的神事として、酒と演劇の神であるディオニソスの祭礼が行われたと言われ、劇場には15000人の市民が集まったそうです。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス、等の著名な劇作家も、ここで競演し、名声を得たとされています。BC5世紀はアテナイが最も輝いていた時代だったそうです。(現在の姿はBC1に改築された物だそうです。今はこんなですけど・・。)パルテノンの南西側にはもう一つ劇場があります。イロド・アティコス音楽堂です。ローマ期の161年に建造されています。アッティカの大富豪イロド・アティコスがアテネ市に寄贈したものです。6000程ある客席は最近修復されたそうですが、現在も現役の音楽堂です。毎年夏には演劇、コンサート、オペラ、ギリシャ古典劇のイペントが催されるようです。(素敵ですね、ここで演じる人もロマンを感じる事でしょう。)ギリシャの遺跡は歴史があるだけに野山に神殿の柱が転がっていたりと(何本かは建っている)想像していた神殿の跡はほとんどなく、まとめて神殿見物をしてカメラで撮っていると、どこだかわからなくなる事もしばしば。ディオニソス劇場のような劇場もあちこちの神殿に付随してあるので、「ここは、もういいや・・。」と言う気持ちについなってしまいます。せめてもう少し形があれば想像力で妄想できるのでしょうが、何も無い原っぱの石柱を元に頭の中で神殿を構築するのは幾ら想像力豊かな私でも無理でした。遺跡をupする時は復元図でも載せる事にします。
2009年05月27日
コメント(0)
キュ-ケンホフ(Keukenhof) 国立公園(1949年~)タイムリーな話題なので紹介です。キューケンホフ公園は今が見所です。開演は大体3月末から5月中旬。花の咲き具合で毎年異なるそうです。もともとチュ-リップ等の春の花々を楽しんでもらおうと造られたのが、花の公園「キュ-ケンホフ」公園なのだそうです。チュ-リップをはじめヒヤシンス、ムスカリなどおよそ4000種の球根花で総数700万株に及ぶと言うことです。(日本では見たこともない種類、の花も多い)32ヘクタールの園は庭園家の作品で、白鳥など水鳥の泳ぐ池や川、林、小径、多くの彩りの花壇があり、風車もある癒しの庭園です。(5月中旬になるとチュ-リップの刈り取りがあるので9月まで閉鎖。)キュ-ケンホフの名の由来は台所(KictchenK)はオランダ語でキュ-ケン(Keuken)、庭はホフ(Hof)と言う意味から来ています。15世紀頃の所有者、ヤコバ・ファン・バイエルン城の領地の一部(狩の館)であり、城のキッチン・ガーデンでは野菜やハ-ブが栽培され調理に使われたそうです。1857年頃、ゾッハーというランドスケープ・デザイナー(庭の景観デザイナー)が庭園の設計を任されました。英国風のランドスケープに着目したゾッハーは現在のキューケンホフ公園の原型を作り上げたと言う事です。(当時ランドスケープ・デザイナーは貴族に人気だった。多くの絵画にそのアルカディア的デザインの庭が描かれている。)オランダ政府観光局のコメントより「キューケンホフのあるリッセの町の市長、球根花の生産業者と輸出業者が発起人となり、オランダの球根のショールームとして、屋外の花の展示会が1949年に初めて開催されました。その後、毎年開催されるようになり、オランダで一番人気のある観光地として、既に4500万人以上の来場者を迎えています。93もの権威のある一流の専門業者が、最高の品質、世界一美しい球根を提供しています。世界最大規模のこの球根花の公園は、2009年、開園60年を迎えます。」園内はゆっくり回ると90分。売店も所々にあります。今すぐ飛行機に乗れば間に合うかも・・。
2009年05月22日
コメント(0)
倒れそうで倒れない、斜めにかしいだ塔で有名なピサです。ピサはイタリアのトスカーナ州でも西のリグーリア海に面した街である。教会自体のある広場は市内から少しはずれていて、アルノ川河口から10キロ程さか登った所に位置しているので、海に近いと言う感覚はありません。アクセスは、フィレンツェから電車で50分くらいで、斜塔へは駅からさらにバスで10分弱? フィレンツェからの日帰り旅行で行けます。ピサと言えばロマネスク建築の斜塔のイメージから中世の街に思われがちですが、歴史は古く、古代ギリシャの植民都市として開かれたのが起源ではないかと言われる海洋国家だったそうです。以来海港として、ローマ時代には海軍基地となり、中世にはジェノバやベネチアと並んで地中海に勢力を伸ばし、パレルモ沖の海戦(サラセン帝国との戦)で勝利すると、1162年に神聖ローマ皇帝より広大な領地と特権を与えられ、ピサの最盛期を迎えます。(その12~13世紀に街のモニュメントのほとんとが作られたと言われています。)その後ジェノバとのリグリア海の利権争いで敗北し、サルディニア島、コルシカ島の利権を失ったのをかわきりに衰退し、1405年フィレンツェの支配に落ちると歴史から消えていきます。ピサの街は大聖堂(ドゥオモ)、鐘塔、洗礼堂、共同墓地(カンポサント)の複合体を一体とみて、「カンポ・デ・ミラーコリ(奇跡の広場)」と呼ぶそうです。(生まれて、洗礼し、教会に通い、死んだら墓に・・と言う一連の流れがそこにある都市計画は、古代ローマの典型だと言うことです。)世界遺産に登録されています。写真左大聖堂(ドゥオモ)で右に鐘楼が配置され、写真手前左に洗礼堂があります。大聖堂の建築はパレルモ海戦の勝利を記念して建設されます。(1063年に着工1118年に献堂)建築家ブスケートの作で、ロマネスク・ピサ様式の代表作です。装飾的なファサード部分(正面)は40年後にライナルドによって増築されています。聖堂内部は、5身廊式で古代ローマのバシリカを思わせます。写真中央に下がっているのがガリレオ・ガリレイが、振り子の法則を発見したと言われているブロンズ・ランプです。下が洗礼堂。3つの層からなり。上部と中間がゴシク様式で、下部がロマネスク様式、高さ55m。どこにも書いていないが、ガリレオもここで洗礼を受けたのではないかと思われる。下がピサの斜塔。本当ならただ美しいだけの鐘塔である。斜めになったからこそ世界にその名が知れた・。大聖堂の鐘塔として建てられた6層の回廊を持つ塔(1173~1350)は、ボナンノ・ピサーノの設計。3層まで建築したところから地盤が沈下し、(このあたりはアルノ川の運んだ砂地らしい)4層目から角度の修正を加えて建築を続行し地上55m、階段は297段あり、重量は14,453t、。着工から180年近くかかり、ズレは4.5mとか・・。今は、これ以上倒れないようにされていると言う事です。(昔、熊谷組が工事していたような・・)上に登る程、傾斜がきつく、落ちそうで端には寄れません。ちょっと危険でしたね。ぜったい今まで誰か落ちていると思います。さて、ここは、ガリレオ・ガリレイが小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を、斜塔の上から落として実験した事で有名でもあります。ここ、ピサを出身に持つ素晴らしい学者が二人います。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)(1564~1642)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者です。もともとガリレイ家はフィレンツェ出身の小貴族でしたが、父の仕事で彼はピサで生まれます。17才(1581年)の時にビサ大学に入学し、医学を志しますが、在学中にピサ大聖堂のランプの揺れを見て「振り子の等時性」を発見。その後に数学・物理学に転向します。25才頃ピサの斜塔から「鉄球落下の実験」を行っています。(これは当時の物理学で最高権威のアリストテレスの著作に反していたため認められなかった。)28才から46才までの18年間、パドヴァ大学の数学の教授となりますが、趣味か? オランダで発明された望遠鏡を改良して惑星の自転を見ていて「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見してしまいます。(コペルニクスの地動説を証明したわけです。)天動説(神主体の・・)を主張する教会とは正反対であるので、ローマの異端審問所の宗教裁判にかけられる事2度。判決の際「それでも地球は動く」と言った言葉は有名ですね。彼のそんな業績から天文学の父と呼ばれていますが、一方カトリック教会の敵と見なされた事で、カトリックとしてのお葬式も墓にも当初入れさせてもらえなかったそうです。現在墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれています。(正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日に行われたそうです。)裁判の誤りを認めた。法王によりガリレオの破門がとかれたのはなんと、その死から350年もたった1992年のことです。 (ニュースで見て、今頃? と思った。)下はガリレオの眠るフィレンツェのサンタ・クローチェ教会です。この聖堂は、ガリレオだけでなくミケランジェロ、マキャベリ、ジョヴアンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった著名なイタリア人の埋葬場所でもあり、そのことから(イタリアの栄光のパンテオン)としても知られているそうです。ピサにはもう一人の偉人がいます。レオナルド・フィリオ・ボナッチ(1170頃~1250頃)またはレオナルド・フィボナッチ(ボナッチの息子レオナルドの意)「インドの方法」(modus Indorum)としてアラビア数字(私達が現在使っている算用数字)を紹介し、ヨーロッパに導入したイタリアの数学者です。(まだローマ数字を使っていた。)彼の「算盤の書」は簿記にもてきしていて、知識人に広く受け入れられたと言う事です。同時にもたらした「フイボナッチ数列」は有名です。 フィボナッチ数列の各項を一辺とする正方形彼の名だったんですね・・。(インドの数学書にはもともとあったらしい。)彼もピサで生まれた人です。すごい発見ですが、一般にはあまりかかわりがないので知られていないのかも・・。ビサは学者を生む素養があった街だったようですね。ピサ大学は1343年に創設された歴史の古い大学です。(今ももちろんあります。)それも地中海貿易で繁栄して、財力があったからなのでしょうか・・。
2009年05月20日
コメント(0)
スウェーデン、ストックホルムの市庁舎 Part 2です。ノーベル賞受賞の晩餐会で、ダンスパーティーの会場となる黄金の間を紹介。ビザンチン様式? 黄金のモザイクで装飾された内装が必見です。下写真。1900万枚の金箔のモザイクがはめ込まれていると言う事です。まぶしくてクラクラです。写真奥の壁の中央の絵が下の写真です。メーラレンの女王と言われているモザイク壁画です。メーラレン湖に因んで想像されたのでしょう。この部屋は1000年に渡るスウェーデンの歴史が描かれていると言う事ですが、どこを探しても作者の名がでてきません。なぜ? 名の無いタイル職人の作品なのでしょうか? 女神は古代ローマ人の衣装を着ていますが、なぜか私には曼荼羅の釈迦とかぶります。それは台座下(蓮華座に見える)と雲の描き方(唐絵に出てくる瑞雲みたい)のせいだと思います。台座下は湖の水ですね、よく見れば・・。(ステンドグラスをしていた時、先生に頼まれて長崎県県庁の建物のステンドグラスの下絵のデザインをした事があります。(制作も手伝ったが・・)「椿の花」と「おしどり」ですが、県庁では誰が制作したか知らないと思います。)下も黄金の間のモザイク画です。ローマ時代の戦いの女神にも見えます。右手には契約書でも持っているのでしようか? 以前特集したモザイクから見るとこれはやはりネオ・モザイクですね。ちょっと未来的な感も受けますね。ラグナル・エストベリ(この建物の建築家)はこの市庁舎の建築において、いろいろな形で空間に光の魔術を施したようです。光を大切にする北欧だからなのかもしれません。ところで、ここが「黄金の間」なのは言わずと判りますが、ブルーホール(青の間)は青くないのに? と思いませんか? エストベリ自身が語った所によれば、当初はストックホルムのイメージである水の印象を与えようと小さな貝殻が散りばめ光の乱反射を予定していたようです。その為に青い漆喰を赤いレンガの上に塗り一つの幻想世界を作り出そうとしたと言う事です。でも、実際にはそうしなかった。それはレンガの実在感に心が動いたからのようです。それが青の間が、赤の間になった理由だそうです。
2009年05月16日
コメント(0)
ノーベル賞の晩餐会が開かれるスウェーデン、ストックホルムの市庁舎は、ナショナル・ロマンティシズム(ナショナル・ロマン様式)の傑作と言われている。スウェーデン建築家、ラグナル・エストベリの設計で、1909-1923年にかけて建設された。建物はロマネスクやゴシック様式の要素が入りつつ、ヴェネチアのドゥカーレ宮殿(元首宮)を意識しているようなルネッサンス様式の要素が入りつつ、室内はビザンティン様式のきらびやかなモザイクがありつつ、北欧独特の伝統技法も盛り込まれていて、民族主義もかいま見られる。(民族的ロマン主義とか、国民的ロマン主義)ヨーロッパ各地の名建築からインスピレーションを受けた折衷的なネオ・デザイン? である。でもそれが、ある意味「北欧的だな。」と私は思った。下はストツクホルム市庁舎の外装で、メーラレン湖側の庭からの撮影(全景は二つ前のプログにあり。)下は中庭の階段モダンなルネッサンス様式といった感じである。下は内部ブルーホール。ノーベル賞のディナーの部屋?中世イタリアの広場を思わせる広間であるが、もはや何時代かわからない様式のパラレルワールド。下は、ストックホルム市議会の議事場。近く固まっていて、マイクなしでも声が届く議事場ですね。厳粛な作りではありますが・・あの天外は何 ? なぜ ?下は会議室天井。この天井が、ヴァイキング・ルネッサンス様式とか言う、この建物のナショナルの部分(北欧的な部分)の一つです。ここは必見です。ロマンティシズム(Romanticism)は、ヨーロッパの18.9世紀に流行した芸術運動の根幹にある思想? である。文学、美術や音楽、建築など広範囲の芸術領域に波及した。(簡単に言えば、古代ギリシャ・ローマがベースにあるが、幻想的な夢やおとぎ話等のロマンチックなものを好む考え方。)それに対して、ナショナル・ロマンティシズム(National Romanticism)は、ヨーロッパ主体のロマンティシズムではなく、民族や文化、国家をも含むアイデンティティを主張したロマン主義である。(簡単に言うとヨーロッパ芸術の根幹は借りているが、これはウチの国のオリジナルだ! 的主張。)だから、ヨーロッパ文化の中心をなす国よりも、北欧・東欧・南欧などの周辺地域の国にに多いらしい。唯我独尊的なヨーロッパ人(イギリス・フランス・イタリア等)に対抗して自国のアイデンティティを主張するあたりは、日本人も真似をするべきだと思うが・・。次に晩餐の黄金の間を紹介。
2009年05月15日
コメント(0)
Break Time (一休み)スフィンクスの定義は、頭は人間、胴体はライオン(場合によって有翼)の神話的存在。下はエジプト ギザにある大スフィンクスである。古代エジプト古王国時代に作られたと言われている。全長73.5m、全高20m、全幅6m。一枚岩からの彫り出しとしては世界最大の像である。話は変わるが、古代ギリシャの詩人ソフォクレス(BC496~BC406)の戯曲の中にギリシャ悲劇の最高傑作と言われる「オディプス王」の話がある。エディプス・コンプレックスの語源になった王様の話である。ストーリー:テーバイ王ラーイオス(エディプスの実父)はデルフォイの神託により、「我が子によって殺される。」とお告げを受ける。恐れたラーイオスは我が子を捨てた。実父(テーバイ王)に捨てられたエディプスは、コリント王に拾われ、幸せに暮らしていたが、ある日彼もデルフォイの神託を受ける事になる。神託は彼が「父を殺し母と結婚する。」と告げるのだ。彼はコリント王を本当の両親と信じていたし、愛していたのでその神託にショックを受け、両親の前から消える覚悟をして旅立つ。その旅の最中彼はそれとは知らず偶然にテーバイ王(彼の実父)を予言通り殺してしまう事になる。その頃テーバイ郊外のビキオン山では怪物が市民を苦しめていた。彼は怪物に謎かけをされる。「朝は4本、昼は2本、夕べには3本で歩く生き物は?」答えは「人」である。謎を解けなかった者は怪物に食われたが、オディプスは謎を解き明かし、勝利する。その怪物が女神ヘラによって送られたスピンクスであった。(スピンクスは負けたショツクで崖から身を投げる。)皮肉な事にエディプスはこれで英雄となり、王不在のテーバイの王として迎えられ実母と知らずに結婚させられるのである。(ストーリーはエディプスが神託により死ぬまでつづく)スピンクスの名は古代ギリシャのヘロドトス(BC485~BC420)がギザのこの像を表現するのに使った名前らしい。名だけが逆輸入され、英語読みでスフィンクスと呼ばれるようになった。(本来の名は不明)エジプトのスフィンクスは王家のシンボルで、王の偉大さを現す神聖な聖獣であるが、ギリシャやメソポタミアのスピンクスは怪物とされた。下はギリシャのアテネの考古学博物館の所蔵のスピンクス?どこからの出土品かわからないが、多分スピンクス?と思われる。顔からしてアルカイック期のものかな? アルカイック・スマイルだもの・・。
2009年05月15日
コメント(0)
Part 6 マッターホルン最終章です。マッターホルンはアルプスの3大北壁(困難度の高い3大ルート)の一つです。アイガー(標高3975m)は高さ1800mの巨大な岩壁。グランドジョラス(標高4208m)はロック・クライミングの難易度の高さ。マッターホルン(標高4478m)は標高の高さと自然条件の厳しさ。が、特徴と言われています。マッターホルンの標高はアイガーよりも高く、高い分、気温も低く、風や氷風などの自然条件がより厳しくなり、心臓への負担も大きくなると言います。標高1100mの巨大な岩壁にはテラス(岩壁)はなく、ビバーク(露営)できる場所がないそうです。下はマッターホルンをローテンボーデンあたりから望遠で撮影したものです。ツェルマットからは東壁と、北壁がみえます。影になっている部分が北壁の厳しいルートになります。マッターホルン北壁を制するにはロック・クライミングの技術よりもアイスクライミングの技術が必要だと言うくらい、夏でも岩の間は凍り付いて鉄板のようだそうです。ロッククライミングでは、1日で登頂出来ない時には途中ビバークするのですが、北壁では当然1日での登頂は無理なので、クライマーはテラスのない所でのビバークを余儀なくされるそうです。垂直に金具を打ち込みハンモックを吊して眠るか、ザイルで体を岩場に固定して眠るかしなければならないそうです。足を垂直に置く所もほとんどない上、氷や雪(降雪が多い)、時には岩が落ちてくる中のかなりつらい姿勢をメンバーがそれぞれ別々の位置でビバークせざるおえないと言う事です。(登山のプロから見ても「考えていた以上に難しかしかった。」と言う場所だったそうです。)あるパーテイーは、夜中の2時にヘルンリ小屋を出発して、翌日の10時(32時間目)に登頂(ビバーク1回)、下山して小屋に着いたのが夕刻4時(38時間目)で行って帰って来ています。(夏場ですが、それは早いほうなのでは? と思いつつ、そんなにかかるのか・・と驚きました。冬場ならどれだけかかるのでしょう・・。)あるクライマーは20年越しの思いを遂げて、山頂を見て泣いたそうです。なぜそんなにつらいコースに挑むのでしょうか? でも、凄い人だと思います。何かを成し遂げる為に思い続けると言う事でさえ、なかなかできないのに、完結させてしまうと言う事はその根性が凄いです!! 賞賛です!!(マッターホルン登頂はもともと生半可な気持ちではとうてい無理な構想ですが・・。)マッターホルンは下山での滑落事故が多いといいます。北壁から滑落したクライマーが山麓のツムット氷河に今も眠っていると言う事です。(氷河に落ちたら回収不可能です。)下は朝焼けのマッターホルンです。北壁が光っていますね。下はもっと変わり種の朝焼けです。まるで、炉の中で鉱石が焼けているような色ですね。これは時間と共に下に広がって行きます。(周りが明るくなるまで)デジカメ画像ですが何も調整はしていません。ナチュラルです。モンブランとマッターホルンで、まるで登ってきたかのように疲れてしまいました。何しろ写真が1000枚を越えていたので、そこからベストをセレクトするのに時間をとられました。(ユングフラウは当分先にします。)行った気になれるように構成してみました。
2009年05月14日
コメント(0)
Part 5になってしまいました・・。(短く終わらせたかったのですが、絞り込めなくて・・。)ゴルナグラート展望台からのアルプスの山と氷河のパノラマ展望と、ローテンボーデンからのハイキングコースです。4000m越えのアルプスの山々と氷河群です。左奥からモンテ・ローザ(Monte Rosa)標高4634mグレンツ氷河リスカム(Liskamm)標高4527m手前ゴルナー氷河中央よの少し左に池のようなのがあるが、その右手岩山あたりにモンテローザ・ヒュッテがある。ゴルナグラートからヒュッテまで氷河をトレッキングして行くコースがあるようだ。もちろん一般観光客は簡単には行けない。防寒具を着て、食料、水、アイゼン、ザイル、ストツク等の装備をしっかりして、ガイドに先導してもらわないと駄目だろう。氷河の上は危険地帯。クレパスをまたいだりと危険がたくさんだからだ。左奥からリスカム(Lyskamm)標高4527m中央奥 カストール(Castor)標高4226m、ポリュックス(Pollux)標高4091m中央大岩の後ろツヴィリングス氷河中央大岩前ゴルナー氷河中央大岩右ツヴェルツェ氷河中央奥ポリュックス右隣ロッキア・ネーラ(Roccia Nera)標高4075m右端ブライトホルン氷河奥左ポリュックス(Pollux)標高4091mポリュツクスから下にツヴェルツェ氷河ツヴェルツェ氷河右の氷河がブライトホルン氷河ブライトホルン氷河の右上小高い山がブライトホルン(Breithorn)標高4159mブライトホルンより下がって小高い山がクライン・マッターホルン(Kl.Matterhorn)標高3834mゴルナグラート鉄道をローテンボーデンで下車し、次の駅リッフェルベルクまでのハイキングコースがあります。下はその景色です。リッフェルゼー逆さマッターホルンもコースです。ブライトホルンを見ながらハイキング。景色が良いので写真撮りまくりです。次回まとめの最終章・・。
2009年05月13日
コメント(0)
写真追加今回はゴルナグラート鉄道からのアルプス紹介です。ゴルナグラート鉄道はツェルマットからの観光の目玉です。(ロープウエイで、シュバルツゼー方面に行かなくても、こちらには行った方が良い。)ツェルマットの駅から終点ゴルナグラート駅まで走るゴルナグラート鉄道は、33分程で走り切ってしまう登山電車です。途中下車しながらマッターホルンの絶景を撮影したり、氷河を見たり、ハイキングも楽しめる盛りだくさんコースです。もちろんマッターホルンの絶景をも堪能できます。下は出発駅ツェルマットのゴルナグラート鉄道の駅です。駅には見えませんね。何かのショップみたい・・。ゴルナグラート鉄道の車両車窓から撮影。見える車両は引き込み線内にある古い車両です。動力の関係で、普通2両編成で1セット。乗客の多いときは2~3セット同時に出ます。途中の駅、ローテンボーデン駅(標高2815m)で下車し、一つ前のディッフェルベルグ駅(標高2582m)まで歩く途中にリッフェル・ゼーと言う湖があります。(「ゼー」は、湖と言う意味ですが、せこい池か水たまりのようなものです。)でも、そこのスポットに観光客は必ず立ち寄ります。なぜなら下の写真をご覧下さい。有名な逆さマッターホルンが撮影できるスポットだからです。いつも撮影できるわけではありません。マッターホルンに雲がかかっていたり、池の水が少なかったり、池に藻が発生して綺麗に写らない事もしばしばだからです。下はゴルナグラード鉄道の終点ゴルナグラート駅(標高3090m)と駅上のホテルです。並んでいるのは、駅の改札口です。(これは出口専用です。)下はゴルナグラート駅上にある「クルム・ホテル・ゴルナグラート」(標高3135m)と展望テラスです。次回ここからの氷河の絶景をUPします。
2009年05月13日
コメント(0)
マッターホルン・シリーズ書き換え中です。初期の初期の作で・・。写真も入れ替えられるものは徐々に行います。そんな訳で、Back numberもまだ未完です。アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトシュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)シュバルツゼー(Schwarzsee)からツェルマットの街からマッターホルンの山麓に向かうコースの紹介です。その前に動物映像です。ツェルマットの街でヤギのパレード? 移動を目撃しました。気になるのはヤギの種類です。判りません・・でも変わったヤギですね。なぜ半分だけ色が違うのでしょう? 意味があるからこんな進化をとげたのだと思うのですが・・・。ちょっとケンタウロスっぽいですシュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)ツェルマットの北にロープウエイがあります。シュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)です。駅から歩いて20分くらい? の所です。上はツェルマットから出発した所です。途中フーリ(Furi)で左右方面別に乗り換えがあり、左コース方面はスキー場で右コース方面がマッターホルン・ヒュッテ(Matterhorn Hutte)となります。左コース方面はスキー場方面途中トロッケナー・シュテークでさらに乗り換えてマッターホルン・グレンシャー・パラダイス(Matterhorn Glacier Paradice)にたどり着くとそこはスキー場です。ゲレンデリフトがさらにあちらこちらに出ていると言う事です。(行ってないので写真はありません。)右コース方面がマッターホルン・ヒュッテ(Matterhorn Hutte)前回紹介しましたが、ロープウエイはシュバルツゼー(Schwarzsee)までしか行きません。あとは歩きでヒュッテまで行くのです。下はシュバルツゼーに到着まぎわの写真です。眼下に見えるのはツェルマット(Zermatt)の街です。ツェルマットが高峰に囲まれているのが良く判りますね。シュバルツゼー(Schwarzsee)からさて、シュバルツゼー(Schwarzsee)からマッターホルン(Matterhorn)へアタックする人達は歩いて? 軽く登山して(子供や年配の方にはちょっと無理)。ヘルンリヒュッテ(Hornlihutte)のあるマッターホルン・ヒュッテ(Matterhorn Hutte)まで向かいます。所用時間は行き2.5時間くらいで、帰り1.5時間くらいだそうです。(足下が大小の石ころの道なので厳しい感じ?)下は写真プリントをスキャナーで読み込み、色調調整したヒュッテからの眺望。(デジ画像が無く、写真は古く焼けて色が変色していたので・・)標高3360mのマッターホルン・ヒュテ(Matterhorn Hutte)界隈は「美しい眺め」と言う意味で、ベルベデーレ(Belvedere)と名が付いています。ヒュッテではマッターホルンにアタックするアルピニスト達の簡易宿泊所やレストランがあります。(写真はありません。)マッターホルン・ヒュッテまで往復4時間以上かかるので、時間のない観光ツアーの場合は、マッターホルン・ヒュッテには行かず、シュバルツゼーから何本かあるハイキングコースに向かうのが一般です。下はシュバルツゼーからツムット(Zmutt)へ降りるコースのツムットの集落です。ツムット(Zmutt)はスイスのヴァレー州ツェルマット市にある小さな村。ツェルマット(Zermatt)の西、標高1936mのツムート渓谷(Zmutt Valley)にあります。ツェルマットへ戻るのにはさらにハイキングする事になります。所用時間はツムットから1時間くらいかかるのでしょうか?次回はゴルナグラート鉄道です。back numberリンク アルプス山脈 マッターホルン 1 テーシュ(Tasch)駅リンク アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルン アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトリンク
2009年05月13日
コメント(0)
マッターホルン・シリーズ書き換え中です。初期の初期の作で・・。写真も入れ替えられるものは徐々に行います。そんな訳で、Back numberもまだ未完です。アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルンツェルマットからマッターホルン・ヒュッテへ他のマッターホルンの楽しみ方ツェルマット(Zermatt)の街アレキサンダー・ザイラー(Alexander Seiler)マッターホルン(Matterhorn)へのアクセスはツェルマット(Zermatt)の街(標高1620m)から始まります。ツェルネマット周辺とマッターホルンへの位置関係を例によって地図で紹介。m&mチョコを印に置いてあります。黄 テーシュ(Tasch)橙 ツェルマット(Zermatt)赤 シュバルツゼー(Schwarzsee)(ツェルマツトから来るロープウエイの終点)緑 マッターホルン(Matterhorn)・ヒュッテ(マッターホルンをアタックする人達の登頂口)青 ゴルナグラート(Gornergrat)(ゴルナグラート鉄道の終点の氷河地帯)ツェルマットからマッターホルン・ヒュッテへ前回(黄)のテーシュから(橙)のツェルマットまで乗車するマッターホルン・ゴッタルド鉄道を紹介しましたが、マッターホルンへ行くには、まだたくさん行程があります。1.ツェルマット(Zermatt)の北シュルーマッテン (Schlumatten)からロープウエイに乗車。※ シュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)2.さらに途中フーリ(Furi)でロープウエイを乗り換え、(赤)シュバルツゼー(Schwarzsee)で下車。3.そこから登山。つまり、シュバルツゼー(Schwarzsee)からマッターホルンの麓(緑)マッターホルン・ヒュッテまで自力で登るのです。※ 観光客は、マッターホルン・ヒュッテが終点。ここで折り返します。4.さらに登頂する登山客は、ヒュッテに宿泊。ここからマッターホルンの頂上を目指す事になります。他のマッターホルンの楽しみ方他にツェルマットの街からゴルナグラート鉄道(Gornergratbah)で、(青)の 標高3089mのゴルナグラード(Gornergrat)終点駅まで行くと、違う角度のマッターホルンの絶景が楽しめます。そこでは、氷河のトレッキング・ツアーもあります。あるいは先ほどのシュルー・マッテン・リフト(Schlumatten Lift)というロープウエイをフーリで降りた時に、左コースをとると、夏場でもスキーのできるマッターホルン・グレーシャー・バラダイス(Matterhorn Glacier Paradice)に行きます。(赤)左上の氷河のさらに左。ツェルマット(Zermatt)の街地理を簡単に紹介したところで、ツェルマットの街の紹介から行きます。ツェルマット(Zermatt)は世界でも有数な山岳リゾートのメッカ。アルピニストの聖地です。アルプスの谷奥にあるこの街がこんなに有名になれたのは、ヴァリス州には4,000m越えの山々、モンテロ-ザ(4634m)、ドーム( 4545m)、ヴァイスホルン(4505m)、マッターホルン(4478m)等の高峰が30を越える程あるからだそうです。(それが街を取り囲んでいる。)近年では、峰のアタックはもとより、夏スキー、氷上トレッキング、ハイキング等、この街を拠点に老若男女が楽しめるリゾート地となり、小さい街なのに世界中から観光客が集まる街になっています。写真下は駅前広場です。中央下は、ツェルマットの駅。駅前は、送迎用電気自動車と送迎用馬車が待機しています。前回も触れましたが、街はガソリン車の乗り入れが禁じられているので、街で見かけるのは電車、電気自動車、馬車、ロープウエイくらいです。街のメインストリートのバーンホフ通りです。(マクドナルドもあります。)この街からでもマッターホルンは良く見える。朝焼けのマッターホルンは凄い。(後で紹介)アレキサンダー・ザイラー(Alexander Seiler)19世紀、ヴァリスの山々の初登頂をめざした人の多くはイギリス人だった。彼らアルピニストはこの谷の屈強な山男達を案内人やポーターとして雇った事からこの街に人が集まり始め、アルピニストを迎える民宿ができはじめたと言う。特に1855年アレキサンダー・ザイラー(Alexander Seiler)(1819年~1891年)が6つのベッドで始めた宿はモンテ・ローザ・ホテル(Monte Rosa Hotel)となり、毎年夏にイギリスの登山家達が集合し、英国山岳会クラブと化したようです。back numberリンク アルプス山脈 マッターホルン 1 テーシュ(Tasch)駅 アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルンリンク アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトリンク
2009年05月12日
コメント(0)
モン・ブラン最終章です。シャモニーよりロープウエイでエギーユ・デュ・ミディ(ミディ針峰の北壁)に到着。そこの展望台から望遠で撮影した写真を紹介。エギーユはフランス語で「針」、デュ・ミディは「お昼」。岩でとがった山頂がシャモニーから見て正午に太陽が来る事から名付けられたそうです。1911年に工事が始まり、第一次大戦で中断。1923年に再び工事再開し、1924年の第一回冬期オリンピック開催より運行し、1954年まで営業。駅の位置が移動して同年今の場所で運行再開し、エギーユ・デュ・ミディ山頂まで開通。1990~1991年に大幅改修して、最新設備に新調されたと言う事です。シャモニーからエギーユ・デュ・ミディ山頂駅までのロープウエイの料金は往復40ユーロ(140円として5600円位)片道36ユーロ(5040円位)。シャモニーからエルプロネ(イタリア側の展望台)まで、往復60ユーロ(8400円位)片道50ユーロ(7000円位)。遠く乗るほどお得ですが、イタリア側まで乗ると一日がかりになる可能性があります。この山脈下に走るモン・ブラン・トンネルも、もちろん有料です。下は、エギーユ・デュ・ミディのテラス・シャモニーから望遠で撮影。グランド・ジョラスを登る一行。天気が良いので、思った以上の登山隊が見えます。右の山は石のダン・デュ・ジュアン(巨人の歯)あちこちに氷河が見えます。下はバレ・ブランシュを登る一行。上は、シャモニ針峰群を登る一行。先頭の山岳ガイドがザイルを引いているのが見えます。山岳パーティの場合、一人に一人のガイドが必要だそうです。客が落ちた時、ささえて助ける為には一人以上は無理だから・・。こんな所だから落ちる人だって結構いるのでは? ガイド料は命がかかっているのでかなり高いそうです。スイスとイタリアでも違うそうです。モン・ブランを望む。右からモン・ブラン(標高4807m)モン・モーデイ(標高4465m)モン・ブラン・デュ・タキュール(標高4248m)お菓子のモン・ブランとはかなり違いますね。
2009年05月11日
コメント(0)
今回はフランス側の展望デッキからの紹介です。シャモニー(フランス側)から到着したエギーユ・デュ・ミディ駅(標高3812m)の展望台です。ラジオアンテナのある頂上テラスより撮影。A今見えている建物の下にロープウエイの駅があります。眼下にシャモニーの街も見えますがあそこの街からここまで20分程で上がって来たとは考えられない距離ですね。観光客の大半は、ここで折り返しをします。ゴンドラの定員人数が第1区間と第2区間で異なる為にここでの滞在時間を含めて、通常は最低1時間30分程かかります。(ハイシーズンには人でごった返しさらに時間がかかる。)行きのシャモニーの駅で整理券が配られ順番に乗りますが、日本人ツアーの場合はあらかじめ予約がされているので整理券の融通がきくらしいです。(時間通りにツアーを進める為に・・)一般客の予約は基本できないそうです。とにかく急激に登山する為に高山病になる人が多いそうです。(頭痛、発熱、他、)地図です。位置関係を把握してもらうと判りやすいです。B右の岩山にロープウエイが到着して(1)、橋を渡りイタリア方面に行くロープウエイの乗り場(左端15)とラジオ塔の頂上テラス(有料10)に行けます。(二つは別々の巨大な岩山です。)下は岩山をつなぐ橋です。下は深い谷です。こんな所に橋を架ける事を考えた人と工事をした人偉いですね。Cまさに絶景!! 高所恐怖症の人は無理ですね。(そもそもここまで来れないですね。)橋を渡って行く人は、右の岩山の中のギャラリー(11.12)に行くか、岩山の上のラジオ塔のある展望デッキに出るか、イタリア方面に向かう別のロープウエイ乗り場(15)に向かうかのいずれかです。岩山の上の展望デッキに行くのは有料で、この岩山の中にあるエレベーター(8)に乗って向かいます。(Bの地図を見てね) Aはそこ(10)からの撮影です。イタリア方面のローブウエイに乗るのはスキー客の他、シャモニーに戻らないでイタリアに抜けるコースを取る観光客です。(この山脈下に掘られているモン・ブラン・トンネルを抜けてイタリア側にバスを回しているツアー)下は、折り返す人は乗らないイタリア方面行きのロープウエイで、パノラミック・モンブラン小さなゴンドラ3基が一緒に動くテレ・キャビンと言われています。ルビュッファの歩道橋(18)より撮影。岩から出てくるようです。建設大変だったでしょうね。ポワント・エルプロネの空中散歩いきなり谷底です。眺めは超絶景ですね。下はモンブラン観光のロープウエイの地図をデジ撮りしました。綺麗ではないですが、参考にして下さい。右の青いラインがシャモニーからのロープウエイです。赤のライン右がフランス側の展望デッキで、左がイタリア側の展望デッキです。左の緑のラインはイタリアのラ・パルド(クール・マイユ方面に行く人)に向かうロープウエイですが、あちらはイタリア経営でロープウエイの会社も違います。Part 4でここから見える景色の写真をupさせるつもりですが、フォトの上限にひっかかりそうなので、一度にのせられるかどうか・・。
2009年05月10日
コメント(0)
モンブラン観光に向かうロープウエイを紹介。第1区間のシャモニー駅(標高1036m)からプラン・ド・エギーユ駅(標高2317m)行きのロープウエイは鉄製の骨組み3本の柱のみでささえられているようです。(大丈夫?なの?)この乗っていても凄いと思うロープウエイの建設は、まさしく人と自然との闘いだったそうです。シャモニーのガイド達により、直径14ミリ、長さ1700mのケーブルを分割せずに山頂までかついで引き上げたと言います。1人30キロのリュックを背負い30人の山男の一隊が2日かけて・・・。(下りも石や氷の落ちる北の岩壁を降りるのに命がけ。)いざ、ケーブルを張る時になると、今度はケーブルが岩壁の間に挟まったり、動かなくなったりし、それをガイド達が大変な離れ業ではずし、引っ張り上げたそうです。Part 1の最後の写真を見るといかに急斜面(絶壁に近い)なのかわかると思います。極地の気象条件の中、2人の死者を出し、ロープウエイが完成。現在そのロープウエイはスキー客や登山客、観光客にはなくてはならない交通手段になっています。下は中間地点プラン・ド・エギーユを出発したロープウエイです。シャモニー駅(標高1036m)よりプラン・ド・エギーユ(標高2317m)まで、一気に1281mを8分で登った後は乗り換えて、プラン・ド・エギーユ駅より山頂のエギーユ・デュ・ミディ駅(標高3812m)までの1495mをまた8分で登りきります。(本当に凄いぞ・・。)下の左が駅の下の骨組みで、かすかに見える糸みたいなのがケーブル。ゴンドラは山で見えにくくなっていますが、右の山の山頂の駅に向かって進んでいます。柱は全くないようです。(日本じゃ考えられないと思う・・。)写真ロープウエイの下にみえるのがペルラン氷河。ロープウエイより右手にボストン氷河とクレパスが見える。水が下に下るように雪の固まりが落ちて行っているように見えますね。写真は水平で撮影しています。傾斜角は45度以上ありそうです。さて、次はいよいよモンブランの見える展望デッキのあるエギーユ・デュ・ミディ駅(標高3812m)に到着です。
2009年05月10日
コメント(0)
スイスがらみで、今回はアルプス3大名峰を紹介します。欧州のアルプス山脈は主にスイスを中心にまたがっています。その中でもマッターホルン、ユングフラウ、モンブランは3大名峰として、世界に名の知れた山です。(スイスの山の観光ツアーには(スイスだけのツアー)たいてい組み込まれているツアーです。)地理を把握してもらう為に今回も地図を読み込みました。参考まで・・。下から a モンブラン (フランスとイタリアにまたがる) b マッターホルン (スイスとイタリアにまたがる) c ユングフラウ (スイス)今回はモンブラン(Mont Blanc)から紹介です。中央上のちょこっと出た白いのがモンブランです。手前はモンブランにつながる山脈で、マッターホルンのように単独で撮影できる山ではありません。(周りの山がじゃまになる。)スイーツのモンブラン(栗のペーストから作るケーキ)の語源ともなっているこの山は、標高4810.9m西欧州では一番高い山で、モン「山」、ブラン「白」から「白い山」or「白い婦人」と呼ばれています。フランスとイタリアにまたがっている為に、山頂がどちらの国に属するか常に論議され、国境線は山頂を通る(半々)で合意したようです。(仏の地図では自国の領土になっている事も・・)フランス側ではオート=サヴォワ県のシャモニーイタリア側ではヴァッレ・ダオスタ州のクール・マイユが近いとされていますが、実際にツアーはスイスのジュネーブの空港(クワントラン)からバスで75分、国境越えしてシャモニーの街に入るコースが取られています。(一番早い)(注: 国境越えなので、パスポート検査があります。)シャモニーの街からはロープウエイに乗り、途中プラン・ド・エギーユで乗り換えてエギーユ・デュ・ミデイ駅に到着(標高3842m)。駅の上の展望レストランのデッキからモンブランの絶景を堪能します。下はロープウエイの途中駅プラン・ド・エギーユからのシャモニーの街です。左にローブウエイがかすかに見えますが、シャモニー(標高1036m)よりプラン・ド・エギーユ(標高2317m)まで、一気に1281mを8分で登ります。(当然具合も悪くなります。)それにしても柱がほとんどありません。驚異ですね。通称シャモニー(Chamonix)の正式名は、シャモニー・モンブラン(Chamonix mont Blanc)です。モンブランの山麓の渓谷の街で、標高1036mに位置する登山とスキーヤーで賑わう街です。(世界でも有数のスキーリゾート地)下はプラン・ド・エギーユ駅とそこから見える山々です。スイスのイメージに合う景色ですね。素敵な所ですが、ここは通過するだけの駅です。
2009年05月10日
コメント(0)
ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防中世に活躍したスイス人の傭兵スイスのルツェルンの街、ルツェルン湖の近くの氷河公園に異国で亡くなったスイス傭兵の為の慰霊碑があります。前回バチカンの傭兵でもふれましたが、1789年のフランス革命で、ルイ16世と王妃マリーアントワネットを守る為に革命軍と戦って786名のスイス人兵士が命を落としました。リンク バチカンのスイスガード(衛兵) .あまり知られていませんが、フランス革命の時にフランス王やフランス王妃らを守るために最後まで忠征を誓い守ったのはフランス人ではなく、王家と契約していたスイス人の兵隊たちだったのです。※ とりたてて、特産物もないスイスでは、外貨を稼ぐ為のすべは人自身。つまり人を輸出していたわけで、それが兵隊として他国と契約して駆り出されていくと言う傭兵のシステムです。.それまで傭兵で国の経済をささえてきたスイスですが、この悲劇を契機に全ての契約期限がすぎると傭兵を一切禁じたそうです。※ それまで、諸外国に出征したスイス兵は延べ200万人にのぼるらしい。.ライオン慰霊碑は、ロイス氷河にえぐり取られた岩石(2000万年前の地層)を彫り込んで作られています。矢が刺さって瀕死のライオンを兵士にみたて、スイスの国旗と百合の紋章(フランスのブルポン王家の紋章)を抱えて横たわっているのです。.負け戦が見えていたにも関わらず、彼らは最後まで契約を全う。命をかけてフランス王家の為に戦って死んだスイス人の兵士の忠誠心と武勇をたたえられ、1821年にデンマークの彫刻家トーバルセンが制作したものだそうです。フランス革命だけでなく、18世紀初頭のスペイン継承戦争では、フランス軍とオランダ軍双方にスイス傭兵がおり、前線で互いに戦い双方全滅したと言う悲劇もあったそうです。国土の3/4がアルプスとジュラの山脈で占められた美しく壮大なスイスの国は、今でこそ観光収入(精密機器、武器の輸出もあるが、保険が一番の収入源)がありますが、その昔外貨をかせぐ為にどれだけの犠牲を払ってきたのかと考えると、とても悲しくなります。このライオンがとても哀れに思えてなりません。.現在傭兵はありませんが、永世中立国スイスである為には自国を守る為の軍隊が必要です。だから成人に達した男子には兵役の義務がありますし、兵役後も自動的に民兵扱いになり、いざと言う時の役目が決まっているそうです。そればかりか、志願兵の女性兵士も数千人いるとか…。各家にはいざと言う時の動員の為に小銃等武器の他、食料等必需品を最低2ヶ月分備蓄する事が義務づけられているし、ルツェルン郊外の山麓には世界最大のトンネルが掘られ、市民(シェルターを持たない市民)が最高2ヶ月生活出来る設備が整っているそうです。(新たにビルやアパートを建てる時は地下室を作る事が義務づけられている。)国民の国防意識と危機管理はおそらく世界一でしょう。それはこんなスイス人の悲しい過去が導いた結果なのかも・・。下はルツェルンの街と湖です。四つの森林の州の湖(フィアワルトシュテッターゼー)と言われています。ルツェルンは18世紀から19世紀にかけて、文学者ゲーテ、シラー、バイロン、シェリーの他、ワグナー等の作曲家も滞在し、ヨーロッパの芸術家の聖地のような場所だったそうです。
2009年05月09日
コメント(0)
バチカンのスイスガード(衛兵)バチカンを守衛する兵隊はスイス人のみミケランジェロはデザイナーもやっていました。イタリアのバチカン市国のサン・ピエトロ寺院を警護するバチカンの衛兵(スイスガード)の衣装です。冬場の衣装です。今もデザインは当時のままです。もちろん機能的には替えられているのでしょうが・・・。バチカンを守衛する兵隊はスイス人のみ一見派手なお飾りに見えるバチカンの衛兵ですが、実はスイスから来ている兵隊さんです。バチカンでは、法王の身辺と法王室はスイス人の衛兵が警護についています。1505年に教皇ユリウス2世によって創設され、1527年に神聖ローマ帝国のカール5世に攻められた際、スイス人の傭兵達が、教皇クレメンス7世を命を呈して助けたため、(イタリア人は逃げた)スイス人の傭兵と代々契約が結ばれる事になりました。現在はスイス国内でカトリック教会からの推薦を受けたカトリック信徒の男子のみが選ばれていると言う事です。平和になってお飾り化されていましたが、1981年に法王襲撃事件以来、再び武装化をしているようです。ところで、スイス人の傭兵ですが、なかなか壮絶な過去がありました。現在のように観光や精密機器の輸出など何も産業のなかったスイスでは、何百年も前から人間(スイス兵)が貴重な輸出品でした。(「血の輸出」と言われたようです。)特に、その優秀さには各国から引き合いがあったのでしょう。17世紀のフランス王ルイ14世は、スイスから多くの傭兵を得る為の権利を締結し、以来フランスとの雇用契約によりそれはフランス革命まで続きます。王家との契約通り、民衆からルイ16世とマリー・アントワネットを守ろうとして786名のスイスの兵隊が命を落としたと言われていますま。(ベルバラのオスカル(実在じゃないけど)が戦っていたのはスイス人達だったのね・・)傭兵契約に基づいて忠実に任務を遂行する彼らは時には、スイス人同士で戦わなければならなかったと言います。1848年スイスの憲法では外国との傭兵契約の締結はいっさい禁止されました。しかし、このバチカンの警護だけは今も特別に存在しています。次回に傭兵の慰霊碑をUPします。リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防
2009年05月09日
コメント(0)
Break Time (一休み)ベネチアの大運河(カナラッツォ)より船上撮影・・雰囲気をお楽しみ下さい。ポンデ・リアルト(リアルト橋)商業都市ベネチアの中心地マルコ・ポーロはベネチアから旅立ちました。おそらくこのあたりからの出港ではないでしょうか。サンタマリア・デラ・サルーテ教会を越えると大運河の出口です。運河を出るとすぐ左にサンマルコ広場があります。まもなく日が落ちる所ですが、日が落ちると船も減り、両岸に小さな明かりしかないので、闇に包まれいきなり寂しくなります。昼にベネチア共和国の繁栄を夜にはベネチア共和国の終焉を感じるような光景です。昨日本屋でコミックを4冊買い込んで来ました。シャンパンを飲みながらコミックを読みつつテレビを見つつ洗濯しつつ、今日はだらだらと1日が終わっていきます。連休のラッシュに巻き込まれるよりはましか・・と思いますが・・。アバターの衣装を替えました。
2009年05月04日
コメント(0)
復活祭に関するキリスト教の行事の解説です。ベネチアの謝肉祭とキリスト教の儀式 2 聖週間(Holy Week)復活祭(イースター)四旬節(レント受難節謝肉祭(カルネヴァーレ)4月 復活祭(イースター)・・・・・・春分後の最初の満月の次の日曜日(主日)。 十字架にかけられ死んだイエス・キリストが三日目に 蘇ったことを記念する復活の日。3月 聖週間(Holy Week)・・・・・復活祭前の1週間。 聖土曜日・・・・・・・・・・・・キリストが墓に葬られた後の安息日 聖金曜日・・・・・・・・・・・・キリストの受難を思い出す長い祈りと崇拝の1日 聖木曜日・・・・・・・・・・・・キリストの最後の食事とキリストがどのように 弟子の足を洗ってやったかを思い出させる日。 しゅろの日曜日・・・・・・・・聖週間の最初の日(復活祭の1週間前の日) キリストがエルサレムに入ったことを記念した日。3月 四旬節(レント受難節)・・・・復活祭前の主日を除く40日間 キリストが食べ物も飲み水もなしに、悪魔の誘惑を受け ながら荒野で過ごした40日間の苦しみを分かち合う日。 この期間は断食を含む禁欲的な生活に従い苦行し、主の 為に祈る期間。 四旬節では伝統的に食事の節制と祝宴の自粛が行われ 償いの業が奨励。祈り、断食、慈善の3点を通じた悔い改 めの日となる。 聖灰の水曜日・・・・・・・・・・四旬節最初の日 カトリツク教徒は教会に行きミサに出席。 「あなたは灰であり、また灰に戻るのだ!」と言う事を 思い出させる日。 1日中ほとんど何も食べないで過ごします。 主日(日曜日)・・・・・・・・・・日曜日以外は断食は義務 金曜日・・・・・・・・・・・・・・・・肉は食べない。代わりに魚を食べる。 四旬節中の金曜日には特別の意味があり、ほとんどの 教会でミサが行われる。2月 謝肉祭(カルネヴァーレ)・・四旬節直前の3日間 禁欲的に過ごさなければならない四旬節の直前3日は 「肉に感謝して別れる祭り」で、 もともとの意味は「肉よさらば」 聖灰の水曜日前に美味しい食事をとり祝う祭り。 ベネチアでは共和国奨励の祭り(カルネヴァーレ)として 身分も越えた全ておとがめ無しの無礼講の祭りだった。 身分を隠して仮面を付けたところから、仮面職人の職業 も確立される。 仮面はベネチアのカルネヴァーレの象徴である。 マルディ・グラ(肥沃な火曜日) ・・聖灰の水曜日前日 美味しい食事のとれる最後の日 シュロブ・チューズデー(告悔火曜日)とも呼ばれる。 灰の水曜日前日に告悔を行う習慣があったことに由来。 参考文献(キリスト教文化の常識)ベネチアのカルネヴァーレの美しい方々です。美しい御婦人方色使いが華やか。派手な貴族風のお兄さん? 伊達男風? 共和国の元首(ドージェ)のお忍び?怪しい感じの御婦人。魔術師か? 錬金術師か? 謎の男のイメージですね。白黒に見えるけどカラーです。現代風の仮装をしている方もたくさんいますが、彼は素敵だったので・・。皆仮面をしているのでハンサムに見えますが、実際どうなんでしょうね、でもイタリアの男性は美形が多いです。アリタリア航空のスチュアードは皆ハンサムでした。(今は知らないけど・・)因みに女性の美しいのはオーストリアですね。
2009年05月01日
コメント(0)
ベネチアのサンマルコ広場で毎年行われるイベントがあります。イタリア語ではカルネヴァーレと呼ばれ、四旬節の断食の前に行われる仮面の祭りです。(カーニバルの語源は、ラテン語のcarne vale(肉よ、さらば)に由来すると言われていいます。)現在のカルネヴァーレはただのイベント化していますが、本来はカトリックの式典に深く関係したお祭りです。同じカーニバルでもリオ・デ・ジャネイロのカーニバルとは全く次元の違うお祭りなのです。だから、ベネチアのカルネヴァーレを知ってもらう為にはキリスト教の式典について知ってもらわねばなりません。キリスト教では毎日が誰か「聖人の日」にあたるべくカレンダーを見るとびっしり埋まっています。その中で、クリスマスと並んで大きな意味を持つものに復活祭(イースター)があります。「春分後の最初の満月の次の日曜日」と言う事で、年によって日付の変わる移動祝祭日です。この復活祭を基準に復活祭までの式典が数々行われ、その中にカルナヴーレも含まれます。つまり、カルナヴァーレの日取りはその年の復活祭の日にちで決まるのです。Part 2 につづく友人同士でおそろい衣装。本来は共和国の認めた公式ばかさわぎでしたが、今は1980年代に復活した街おこしのイベントですね。サンマルコ広場はもはやベネチアっ子ではなく、世界中から旅行者が衣装を携えて集まります。はしゃぐおじさん・・・。はっきり言って、豪奢な衣装を着ているのはお金持ちのおじさんとおばさんばかりです。カフェで休む御婦人方。仮面がとても艶っぽいですね。仮面は必需品です。写真がこれ以上upできないので、Part 2で追加をupします。キリストの式典も簡単に整理して載せますね。(12時過ぎに・・明け方かも・・)
2009年05月01日
コメント(0)
箱根強羅温泉 季の湯 雪月花 (当選しました!!)昨日ヘア・サロンに行く話をしたが、ヘア・サロンでの会計レシートでデパートのくじ引きに参加できた。三角くじで、5000円以上の買い物で1回、その場で当たる昨日限定のくじのようだった。よくデパートでやっているイベントだが、私には縁のないものに思えて、行くのをためらったが、サロンのすぐ上の階なので。一応くじを引いてから母の日のプレゼントを探すつもりの寄り道だった。ところが、何年に一回起きるかの奇跡が起きた! 当たったのは3等。「箱根強羅温泉ペア一泊夕朝食付き」のチケットだ。えーっ!!!!!! そんな当選の仕方は人生初! 戸惑いつつ「やった! 母の日のプレゼントができた!」と思った。大きな当選と言えば過去に着物があるが、宝くじのナンバーズで1万円を最高に私はくじ運がない。本当に行って良かった-。ところで、旅館は箱根強羅温泉の雪月花と言う宿だが、結構高級な宿のようだ。露天風呂含む温泉がたくさんあり、能や音楽イベントがあり、着物貸し出しをしてくれるらしい。母は喜び妹(叔母)も誘い、結局1人追加で3人で行く事になった。そして旅行社にロマンスカーの予約を含み追加38000円を払って帰ってきたのだ。仕方がないので、と言うか私は実質お金を出していないので、母の日として1万円だけ追加費用の支払いを申し出た。(全部払った方が良かったかな・・)母はすぐ下の妹と仲が良い。叔父が亡くなるまで、4人はいつも共に旅行に行っていた。お墓も4人で一緒に入るのだそうだ。(先に叔父が入って待っている。)だから、3人は一緒に行動する。私が困るのは、叔母が母に連絡をとれない時、「自分だけ置いて行かれて旅行に行ったのでは?」と勘ぐられ、私の所に確認の電話が来る事だ・・。ちょっとうざいよ・・。
2009年04月30日
コメント(0)
いつか沈んで消えてしまう、かもしれない儚い街ベネチア。毎年10月から4月までの間に(時々)ベネチアのサンマルコ広場は水没する。アクア・アルタ(acqua alta、高水の意)と呼ばれサンマルコ広場の水位は50~60センチ程上がるそうだ。(過去最大規模は1966年の125センチの水没。)下水道が全て繋がっている為。大運河の水が下水溝を通って広場に浸入するようだ。それはかなり深刻な問題だ。原因は、高潮と気圧の変動、風圧(シロッコと呼ばれるアドリア海に南から吹く風)の3つの自然現象が重なって起こるのだろう? と言われている。つまり、ベネチアの地理的要因が起因している。簡単に言うと、「アドリア海が閉鎖された海なので、入り込んだ水が逃げにくい。」と言う事だ。現在は、堤防を設けて防ぐべく努力はされているようだが、それでも「年々水没の回数は増えて行っている。」と言う。もう一つ、水没の原因はベネチアの地盤沈下にもある。これはすでに何百年も前から危惧されていた事だが、もともと杭を打って建築した要塞のような都市であるから、毎年少しずつ沈下していると言われている。(15,16世紀、ドレスの下に竹馬のような高下駄を履いて歩いている紳士、淑女の描かれた絵画を見たことがある。)現在はアクア・アルタの時期だけ広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保している。写真は時計塔前である。左手にサンマルコ大広場があり、右手にサンマルコ寺院がある。通常は男性の膝上くらいの水位らしいが、街ではお腹まであるゴム長靴? ズボン? も売られているらしい。必需品なのね・・。こういう時に来た観光客って、良いんだか悪いんだか・・。右建物が、サンマルコ寺院。水がない時はサンマルコ広場はイスとテーブルが出てカフェになる。
2009年04月28日
コメント(0)
ビジネス食(欧州路線)機内食の紹介ついでにもう一つビジネス食です。エア・フランス? ルフト?のような気もしてきました。これはドイツのフランクフルト空港からフランスのニースに向かう飛行機で出されたものです。食材は確かに高価かもしれませんが・・。メロンと生ハムですくわれてますね。右はシュリンプとアスパラガスのサラダ。上の左端はプディングだったと思います。味は悪くなかったと思います(すごくおいしかったら記憶に残るし・・。)ワインももらえたと思いますが、飲みたくなかったのかも・・。生ハムは中の上クラス? もちろん日本の生ハムとは違い、しっとりしています。フランスでも、生ハムの良い物はイタリアから来ているようです。(今回の欧州旅行では行く先々で生ハム買って食べてましたから・・)欧州路線はファーストクラスがなかったので、自動的にビジネスになります。しかも、ビジネスと言ってもエコノミーの座席3席の真ん中を潰しているだけで。席のサイズもイスも全くエコノミー席と同じでした。だから前後は狭いです。最も飛行機も巾が3席3席のサイズしかなかったと思います。サービスもせかせかして義務的で、良いイメージはありません。キャビンアテンダントはやっつけ仕事をしていた感じです。確かに時間制約はあったけど、日本ならもっと丁寧、親切な接客だと思います。せっかくなので、機内から撮影した上空写真です。飛行機の下はすでに夜だと思います。この高度で遠くに太陽が沈んでいるのですから・・。おそらくフランスのアルザス地方からスイスの上空へ入ったあたりだと思います。所要時間は一時間半くらいだったか・・。だから食事も簡易版だったんですね。(エコノミーは出なかったのかも・・。)飛んでる時間より、乗り継ぎに時間がかかりました。それより、テロ以来の手荷物チェック強化で、出国に(国内線でも)大渋滞です。30分くらいは平気で並ばされます。はっきり言ってX線の機械が遅れています。(古い)しかも、日本にはドリンク・チェッカーがあるけど外国にはありません。だから全て(国内線でも)没収になります。日本も外国にならって海外路線のドリンク持ち込み禁止にしましたが、本当は日本は進んでいるので、他の国もドリンク・チェッカーを導入すれば没収されないですむのに・・。手荷物チェック後にドリンク買うとぼったくられます。日本以外は水も非常に高いです。(空港内)もう一つ怒りが・・。フランスの国内線の手荷物チェックでチーズをとられました。x線で真っ黒にしか写らないから駄目だと言うのです。(チーズだけ通した。)「そっちの機械が古いからだ!」と言いたかったです。おまけにブーツ脱がされました。「かかとに何か入っているかも・・。」と言う理由で・・。アメリカでもやっていますが、フランスは外国人に対して特に感じが悪かったです。(外国人に対する差別がすごくある国)たかが国内線なのに・・・。テロ以来旅行しにくい世の中になったと思います。
2009年04月26日
コメント(0)
全193件 (193件中 151-193件目)