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Break Time (一休み)2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」テンプル教会もあと1回。次はロンドンを離れてベルギーに向かう予定です。いつも同様前回も文字数も写真もオーバーで、どこをカットするか悩んで削って苦労しました。十字軍はマイ・テーマの一つでした。20年前に調べていたレポートを半分参照。20年の間に加わった知識に加え、違うジャンルから覗いて見ると全く見え方が違うし、考え方も修正されたり、思わぬ発見もあったりしました。改めて歴史って面白いなーと感じた所です さて、ちょっと気分転換にロンドンで手に入れたある品を紹介。いつもお馴染みのクイズシリーズからですが・・これは何でしょう? 品物はワイン・オープナーです。つまり正解がそれではありません。それのロゴが問題です。気が付かれた方はすでに解ったのではないでしょうか?ちょっと変わったデザインのワイン・オープナーです。見ようによっては天使が翼を広げているようにも・・。天使か? 武器か? 工具か? これがヒントになるか解りませんが・・。友 ❤ヽ( ^ー^)人(^ー^ )丿❤ 愛ヒントです。回答リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編
2013年09月03日
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Break Time(一休み)2013年1月 ここはどこでしょう? クイズ 1今年は異常気象のようです。しかもあいにくの天気でちょっと見、そこがどこかわからないかもしれません とにかく寒いです。昨日は少し晴れ間が出ましたが、いつもと違います。街を行く人もほとんどすべての人がジャケットをは着て歩いている。・・という驚くべき事態でした。いつもの日中ならあり得ないです。夜は夜で長袖を着て布団をかぶって眠ています。半袖しか持ってこなかった人は今頃コートを着て寝ているかもしれません。それにしてもみなさん短期の滞在がほとんど、こんな日に着いた人たちは気の毒です。せっかく来たからには是が非でも・・と言う事でしょうが、風邪を引くかも・・。昨日は一昨日よりましでしたが・・。いつもと空の色も海の色も違います。夜は部屋の中でも、秋の虫が泣き出しそうな涼しさで、朝はとっても冷え込んでいます。連日あまりにバットしない天気で、せっかくのチャンスが台無しになりました。そういえば雨の中フットボールのイベントがあったようです。実は友人から期限のせまったホテルのチケットをもらったのでお泊りに来ていました。デラックス・ツインで22階オーシャンフロント。超ラッキーだったはずですが・・。ほとんど部屋で寝て終わったような・・。ちょうど公園前で、絶好の機会。この色ではガッカリですが、以前チラッと紹介した公園の追加を次回したいと思います。それにしても (。>_<。) 運が悪かった? "(ノ_・、)"
2013年01月30日
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足の状態にメドが着いたので10月から旅行が決まりました。まだまともには歩けないけどそれまで頑張ってリハビリします。そして、リアルタイム、これ何? でも探してきます。さて、その前にチェコのある所で見つけた凄い物を紹介ですこれはゲゲゲ・・・とするグロイものです。これは何でしょう? クイズ (チェコ編) 1 骨?こんな物をなぜ作ったのか?これはもしや私の家にもあるアレ?これは本物なのか?骨盤で出来た皿の上に髑髏(されこうべ)これは芸術なのか?なるほどね・・と思うこれはスネの骨か?何人分なの?誰が何の目的で作ったのか?疑問は広がる。奇妙・奇怪・醜怪・不調和・不気味・奇抜これぞ本物のグロテスク(Grotesquerie)です。答え・・と言うより続きは次回に。他にもあるから・・。リンク これは何でしょう? クイズ (チェコ編) 2 (セドレツ納骨堂の・・・)リンク セドレツ納骨堂とシュヴァルツェンベルク家
2012年09月04日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました2012年8月 ここはどこ? クイズ 2 (解答編)ヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)川はザンベジ川(Zambezi River)橋の名前はヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)ここは、世界でも有名な三大瀑布の1つジンバブエとザンビアにまたがるヴィクトリアの滝(Victoria Falls)の目前にある国境を結ぶ鉄橋でした。前回写真の橋とは反対側(ザンビア)から撮影この写真では滝が向こう側。水しぶきの為に写真も霞んでしまう。右岸がザンビア共和国(Republic of Zambia)リビングストン左岸がジンバブエ共和国(Republic of Zimbabwe)ビクトリアフォールズ上空からの写真をウィキペディアから借りてきました。撮影者はVberger氏、パブリックドメインで使用許可が出ていたビクトリアフォールズ滝の空撮です。(撮影は2003年9月とあるので乾期の水量が少ない時期です。)上の橋の写真方向と同じ橋の位置です。カイロとケープタウンを鉄道で結ぶ為にザンベジ川に橋が必要となり、ヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)は1905年に竣工。考えたらこの橋は107歳 バンジー・ジャンプ以前にちょっと恐ろしい気がするが・・ところで、世界的にはヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls)が一般的名称ですが、これはジンバブエ側の呼称。ザンビア側の正式名称はモーシ・オワ・トゥーニャ(Mosi-oa-Tunya)(雷鳴のする煙)。もともとこちらが本当の名前だったようです。世界遺産登録名はこの2つの名が併記されていると言う事です。ジンバブエ側国立公園の入り口両国とも入国にはビザ代金が別途かかります。また、ヴィクトリア・フォールズ自体は双方国立公園の中にあるので滝を見るには公園の入場料金を払わなければなりません。橋を歩いて渡る地元の人々。国境の架け橋であるヴィクトリア・フォールズ橋(Victoria Falls Bridge)半分は鉄道。橋の手前に踏切のようなバーがあるだけ。双方橋の手前に出入国管理事務所(Immigration)と税関(customs)がある。橋の中央にある屋根(写真右)がバンジー・ジャンプ(Bungee jumping)台。このバンジーの受付事務所は橋の向こう。ザンビア側にあるので、ジンバブエ側から入る時は、一度橋を渡り、入国してからになるらしい。飛ぶ時はバックは預けるが、パスポートを携帯したまま飛ぶのかは不明。でもこんな所でパスポートを手放すのは超危険。携帯して飛んだほうがいいでしょうね。ザンビア共和国(Republic of Zambia)側の出入国管理事務所(Immigration)本当はこう言う場所の撮影は禁止。だからバスの中からコソっと撮影。ヴィクトリアの滝(Victoria Falls)の由来ヴィクトリアの滝(Victoria Falls)については次回詳しく説明予定ですが、この世界的な大きな滝が世界に知れたのは宣教師で探検家のデイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)のおかげでした。彼は1855年11月16日ザンベジ川上流にあるこの滝を目にする。すでに当時の入植者は聞き知っていたかもしれないが、ヨーロッパにいち早く確認報告をしたのがリヴィングストンなのです。スコットランド人の彼は当時の英国女王(ヴィクトリア女王)にちなんで「ヴィクトリアの滝」と命名して女王に捧げた。滝を保有するジンバブエにもザンビアにも彼の銅像がある。ジンバブエの国立公園にあるデイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)の像デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)(1813年~1873年)スコットランドの探検家、宣教師、医師として紹介されていますが、当初の本業は宣教師だった。宣教師として南アフリカへ渡り(1840年12月)、布教の拠点となる地方を探しながらアフリカ大陸を北上し方々を探検。探検心が先なのか布教先を求めての結果なのかは微妙。1855年その名を女王にささげたヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls)発見。2年6ヶ月かけて、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功を納め探検家としてスコットランドの英雄になった。しかし、当初目的の布教の方は、一ヶ所に定住しての布教活動の実績がなく、ロンドン宣教協会から除名されたようです。クビになった後は完全に探検家。1858年、女王勅命でザンベジ探検隊の隊長に任命。1866年1月王立地理協会からの依頼で3回目のアフリカ探検(ナイル川の水源を探す旅)に出るが果たせず1873年5月1日、マラリアの複合症でアフリカで死亡。1874年4月、遺骸はイギリスに帰還し、ウエストミンスター寺院へ葬られたそうです。ザンビアの国立公園にあるデイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)の像back numberリンク 2012年8月 ここはどこ? クイズ 1 (バンジーの場所は?)次回からヴィクトリアの滝(Victoria Falls)リンク ヴィクトリア・フォールズ(Victoria Falls) 1 (Devil`s Cataract)
2012年08月12日
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ラストに続編とBack numberなどリンク先を追加しました。さて、ネタに迷って今回クイズ形式にしました。実は写真自体は3年前、2009年の10月のものです。たぶん今も全く変わっていないだろう、場所なので問題ないと思います。2012年8月 ここはどこ? クイズ 1 (バンジーの場所は?)バンジー・ジャンプ(Bungee jumping)の発祥は、南太平洋のシェパード諸島にあるバヌアツ共和国。そこで成人として認められる為の儀式ナゴール(Naghol)が起源だそうです。数10mの櫓(やぐら)から足に蔦(ツタ)でできたロープをしばり、地面に向かって飛ぶ。・・と言うもので、ツタによっては切れたり、長すぎて地面に頭をぶつける・・と言った事故もあり、死者も当然でる危険な儀式だったのをビデオで見た事があります。それがニュージーランドの企業家A J Hackettが世界的なスポーツ? にして広まったようです。今回のクイズはどこでバンジーをしているか? が問題です。だいたいのバンジーは鉄橋の真ん中から飛び降ります。ここもそうです。ただ、ここの鉄橋は少し特殊です。実は国境をまたがる鉄橋なので、バンジーをする時はパスポートが必要になります。記録はすぐに塗り替えられるので、今記録はありませんが、高さは111m。バンジージャンプとしては高い方です。参考までに世界のバンジー高度順位です。1. ロイヤル・ゴージ・ブリッジ(321m) 米国コロラド州2.. マカオ・タワー(233m) 中国マカオ3. ヴェルザスカ・ダム(220m) スイス、ロカルノ4. ブルークランズ橋(216m) 南アフリカ、ケープ州5. オイロパ・ブリュッケ(Europabrucke)橋(192m) オーストリア因みに東京タワー(332.6m)、東京スカイ・ツリー(634m)。さすがに東京スカイ・ツリー、クラスからのバンジーはないけど東京タワーの高さから飛び降りて楽しいのだろうか? 飛んだ方のブログとか見ましたが、値段がみなさん違います。インフレの激しい場所ですし、もしかしたら相手を見て値段を変えている場合もあります。また、他のアクティビティも付けて売られたりしています。だいたい100~150ドルくらいでした。しばらく宙づりにされ、係員が回収にきていましたが、早く来てくれないと頭に血が上ってしまいますね。女性が笑顔でした。しかし、彼女は知らない。この2年後、昨年の大晦日(2011年12月31日)にこのロープが切れて女性が川に落ちた事を・・落ちたのはオーストラリアの女性。足が縛られた状態で落下し、川の冷たさで意識を取り戻し、急流の中、何度も岩に絡まったロープを自力ではずしながら無事に岸にたどりついて生還。広範囲の打撲と鎖骨骨折していたそうですが、まさに奇跡的な生還だったそうです。本当に運がよかった因みに運ばれたのはどっちの国?実はどちら側の国の病院でもありません。どちらの国も大きな病院は無いようです。実は上流側は凄い渓谷です。巨大なクレパスのように割れた大地から水がバサバサ。時期により水量が違い、この時は乾季が終わった頃でこれから水量の増える頃です。多い時は上の写真も下の写真も全て滝になります。その距離、全長1702m。 これは大ヒントですよ。バンジーなんかより、この滝を見に来る人が限りなく100%に近いです。次回解答リンク 2012年8月 ここはどこ? クイズ 2 (解答編)
2012年08月10日
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ここはどこ? の予定だった・・ここはどこ? クイズちょっと変なタイトルをつけたのには訳があります。実は今月20日から欧州旅行の予定で、現地より「ここはどこ? クイズ」を発信する予定でした。ところが、非常に不幸な事に私が剥離(はくり)骨折して全治4~6週と診断され、楽しみにしていた旅行が行けなくなってしまったのです 。・°°・(>_<)・°°・。 ウエーンとても残念ですが飛行機とホテルと列車のキャンセルを今している所です ちょっとスイカが食べたいな・・と、スーパーに出かけ、野菜コーナー前ですべって足をへんな形でひねって転び、救急車で運ばれました (;^_^A野菜の切れ端を踏んで滑った・・と言う笑い話のようなお馬鹿な話です。スイカが食べたかったばかりに・・足の固定4週間で当分外にも出られません。(。>_<。) なぜ? "(ノ_・、)" ショックです (×_×;) シュンぶっちゃけ今書いてる気分でもないのですが、少し穴を空けてしまったので今回は行く予定だった所をいちおうクイズ式に写真をのせました。最後に答えはのせておきますが解説はヒント程度です。今年は難しいですが、来年行ければその時改めて詳しく紹介したいです。さて、歴史的にはとても古い国です。11世紀にはすでに超有名で繁栄していた地域です。下に紹介しているのは、この国の一部の街で、運河めぐりが有名な古都です。オランダの運河よりは風情があるかも・・。川や運河は荷物の運搬の為に必須の条件です。中世どこも繁栄した所はそうした川沿いとか運河のある場所が多いです。商業にはやはり物流が大事だったと言う事ですね。そう言えば国によってはちゃっかり通行税を徴収してもうけていた街もありましたね。独特な屋根は写真では見えませんが、破風屋根とよばれているようです。中世にはとても繁栄した街です。運河に土砂が堆積して運搬に支障がきて、その繁栄の地位はアントワープに奪われたのです。ここに来たら是非特集したかったネタがあったのに・・。来年でも行けたらその時にカリオンで有名な市庁舎。この国には至る所にビール・ショップがある。北緯30度から50度がワイン・ベルト。この国は北緯50度を超えるのでワインの造れない国なのです。だから代わりにビール造りに情熱が注がれたと言います。種類は1000種以上あるらしいです。種類がありすぎるから店主お勧めが簡単かも・・。いろいろ試せるほど飲める人はいいけどね この国は亜麻(アマ)の製産が盛んでその為にリンネル(リネン)製品が造られ、中でもボビン編みをする繊細な美しいレース製品は中世から人気があったそうです。亜麻は麻(アサ)よりも柔らかくかつ強靭で上等。通気性や吸湿性にも優れ柔らかいので高級品です。今でも高いので手が出にくいですが、ヨーロッパ各地でこのレースが珍重された時代があったそうです。ソースでも飛んだらシミがついて一発で終わり・・と言う素材ですが・・。この国の特産品です。ワッフル専用の屋台や移動車が多くてあちこちで気楽に食べられるワッフル。本場のワッフルの生地はフンワリして甘く無い。甘い種類(リエージュ)もあるけど、ブリュツセル風は砂糖などのトッピングで楽しめる。中世にはあったと言う古典的なお菓子だそうだ。1619年に誕生したJulien(ジュリアン)君は最も古いこの街の市民だそうです。答えはベルギーでした。最初に紹介した運河はブルージュ。ジュリアン君はブリュッセルの衣装持ちの小便小僧君です。本当はヴィクトール・オルタの建築が見たかったのに・・。 残念(o´д`o)=3
2012年08月06日
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「2012年7月 ここはどこ? クイズ 1~4」で紹介したものにタイトルを付け替えました。他の人はほぼ行かない結構貴重な写真なので見てもらう為に。ただし形体はそのままクイズのままにしてあります。2012年7月 ここはどこ? クイズ 4 (解答編 2)パンチボール(Punchbowl) 42.パンチボール・クレーター(Punchbowl Crater) 国立太平洋記念墓地(The National Memorial Cemetery of the Pacific) リンカーンの手紙 エリソン・ショージ・オニズカ(Ellison Shoji Onizuka)氏のお墓前回に引き続き、今度は近年のパンチボール史です。1948年2月に、国立太平洋記念墓地(The National Memorial Cemetery of the Pacific)となり、名称もプオワイナからパンチボール・クレーター(Punchbowl Crater)と呼ばれるようになった・・と言うのは前回書きましたが、ここが墓地になる案は1890年代後半からあったそうです。当時は増えるホノルルの人口を収める為の墓地計画だったそうですが、場所が場所であった事などあり否決されたようです。米国政府の独立機関が1923年に議会によって設立した・・とモニュメントには書いてありましたが、実際1943年、Hawaiiの知事が国家墓地として土地を提供。しかしこの時も予算不足で先送りされたと言います。近年は場所がなく、こんなへりまで・・。おそらくミッションごとにお墓はかたまっていると思われる・・。パンチボール・クレーター(Punchbowl Crater)ここは1949年に 国立太平洋記念墓地(The National Memorial Cemetery of the Pacific)となり、1964年にはホノルル記念共同墓地が加えられ45,000人以上のアメリカ軍人が眠る共同墓地です。敷地112 1/2エーカー(455000m2)ここに本格的な墓地建設が始まったのは第二次世界大戦後の事。大戦で戦死した大量の兵士達の埋葬場所として必要に迫られたからだったようです。主に第二次世界大戦、ベトナム戦争、朝鮮戦争で亡くなった兵士の方。そして退役軍人の方もここに埋葬されています。とは言え、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争の34000人の復員軍人全員の分はまかないきれないようで、今他にも軍人さん用の墓地ができています。女神像前の階段の両サイドには幾つかのブースがもうけられている。World War II(第二次世界大戦)のブースブースを囲む大理石には内壁外壁ともにぎっしり部署別、アルファベット順に名前が刻まれている。おそらく第2次世界大戦の間に戦没した行方不明者のリストのようです。「28778人はミッション中になくなり、海葬された者もいるが不明の者も多く、名前で個々に敬意を表している。」・・・旨が下の看板に書いてあったような気がします。リンカーンの手紙最初に女神像の足下の詞をのせましたが、意味がわかりましたそれはリンカーン大統領が南北戦争で5人の息子を亡くしたビクスビー夫人(Mrs Bixby)に宛てた追悼の手紙のラストの一文でした。(超訳)The solemn pride that must be yours☆To Have Laid☆so costly a sacrifice upon the altar of freedom自由の祭壇に捧げられた尊い犠牲、それを貴方の誇りとして下さい。以下に続きます。Yours very sincerely and respectfully,A. Lincoln心より敬意をこめてA. リンカーンリンカーンの言葉を借りてここに参拝に来る、家族や友や知人へのメッセージとしていたのでしょう。さて、ここには日本でもとても有名な方が眠っている。日系アメリカ人エリソン・ショージ・オニズカ氏のお墓は一等地にある。なぜなら彼はハワイ島コナの出身の英雄だからである。エリソン・ショージ・オニズカ(Ellison Shoji Onizuka)氏のお墓(1946年6月24 日~1986年1月28日)日本名 鬼塚 承次ハワイ州ハワイ島コナ出身アメリカ空軍の軍人であり、アメリカ航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士。スペースシャトルには2回搭乗。1985年1月24日ディスカバリー号1986年1月28日チャレンジャー号2回目のスペースシャトル・チャレンジャー号打ち上げ直後にシャトルは爆発して墜落。その映像は世界中継されていたから私も含め全世界の人々が見守る中の事件であり、記憶に残るショッキングな映像だった。特に日系人として初の宇宙飛行士だったので日本人にはとてもなじみ深い宇宙飛行士の一人である。女神像の前からの撮影。遠くに見えるのはパンチボールの入り口ゲート。他に、ここには第二次世界大戦で戦った日系二世だけで編成された部隊の方も眠っている。ハワイと言えば特に日系の方が多く、日本とアメリカが開戦した為にその狭間で移民の方達はかなり苦労をしたそうです。アメリカの中で生きていく為に、アメリカ人として戦い、アメリカに最も貢献し戦果をあげた部隊だったそうですが、それだけに戦いは厳しく、戦死者が最も多かった部隊だったそうです。今となっては敵味方関係ありません。皆さんのご冥福を祈りたいと思います m(_ _)m 追記・・ここに観光でツアーが入れなくなったのは、お墓の中で用を足すバカ者がいたからだそうです。トイレは女神像のある廟(メモリアル教会と地図のギャラリー)の建物の両サイドにありますよ。Back numberリンク パンチボール(Punchbowl) 1リンク パンチボール(Punchbowl) 2リンク パンチボール(Punchbowl) 3 パンチボール(Punchbowl) 4
2012年07月14日
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「2012年7月 ここはどこ? クイズ 1~4」で紹介したものにタイトルを付け替えました。他の人はほぼ行かない結構貴重な写真なので見てもらう為に。ただし形体はそのままクイズのままにしてあります。2012年7月 ここはどこ? クイズ 3 (解答編1)パンチボール(Punchbowl) 3約75000~100000年前に形成されたクレーター跡は、古来ハワイアンの間ではプオワイナ(Puowaina)と呼ばれた宗教上の要所だった場所。そしてそこは1948年2月に、太平洋国家記念墓地(The National Memorial Cemetery of the Pacific)として米軍関係者の墓地となり、それ以降ここはプオワイナからパンチボール・クレーター(Punchbowl Crater)と呼称されるようになりました。今回の解答はパンチボール(Punchbowl)です解説は都合上2回にさせていただきます。1.プオワイナ(Puowaina) ヘイアウ(heiau)について オヒア・レフア('Ohi'a Lehua) オヒア・レフアの伝説2.パンチボール・クレーター(Punchbowl Crater) 国立太平洋記念墓地(The National Memorial Cemetery of the Pacific) エリソン・ショージ・オニズカ(Ellison Shoji Onizuka)タンタラスの丘からの帰り道に下車して撮影したパンチボール・クレーターそこだけ突出した丘になっているのが見えます。フルーツパンチを入れる器の形に見えた事からパンチボールの呼び名が付いたようです。こうして見るとクレーターだと言うのがよくわかりますね。奥の海に浮かぶのはホノルル空港のリーフ滑走路本来はスペース・シャトルの緊急着陸用に整備されたと言う。プオワイナ(Puowaina)ハワイ語の「Puowaina」の最も近い訳語は、「犠牲の丘」ここは、カメハメハ大王の統治以前はカプを犯した者の罰として、神への供物(生け贄)? として火葬される場所だったと伝えられています。このあたりでは、その火葬台となる岩がパンチボールの新展望台のあたりに存在していた・・と言います。先ほどの写真左半分を拡大赤い矢印の下が新展望台で、かつての生け贄台の岩があったと言われている場所。ヘイアウは海が望め、海からの気が通る一等地に存在するパターンが多いので、ここにあっても不思議ではなかったはず。展望台のほぼ真ん中にオヒア・レフア('Ohi'a Lehua)の花があったオヒア・レフア('Ohi'a Lehua)日本名ハワイフトモモオヒア('Ohi'a )は、木を意味し、レファ(Lehua)は花を意味するそうで古代ハワイアンの間では非常に神聖視されてきた植物です。環境に適応してその地に合うよう進化する植物のようです。オヒア・レフアの伝説愛し合っていた恋人達、男性オヒアと女性レフアがいた。そのオヒアに横恋慕した火山の女神ペレが美しい女性に変身してオヒア迫ったものの振られてしまう。怒ったペレは二人を殺してしまったそうだ。嫉妬が治まり後悔したペレは二人を二度と離れる事のないよう木とその花に変えた。だからオヒア・レフアの木と呼ばれるようになったそうです。レフアの花を摘むと、なぜか雨が降ると言う。このあたりに儀式の岩があった? らしい。ヘイアウ(heiau)についてはまだ研究中ですから詳しく書けませんが簡単に言えば古代ポリシアンの人々が崇めていた土着の神々を祀っていた神域です。その神域に入れるのは神官他、限られた男性のみ。カメハメハの統治以前は多数の部族がいたので、その数だけヘイアウあるいはそれに準ずる祈りの場所は存在していたと思われます。そのヘイアウでカプに反した者が処刑されたり、戦いの神に捧げられる生け贄が存在したのは事実なのです。カメハメハ2世の治世にその摂政をしていたクヒナ・ヌイ(副王)のカアフマヌによりハワイアンの伝統的タブーであるカプ(Kapu)は廃止されました。と、同時にハワイの伝統的信仰を彼女は排除しています。(彼女自身はプロテスタントに改宗)2012年3月に「ハワイ王国歴代の君主 1 (カメハメハ朝)」でそのあたり紹介しています。リンク ハワイ王国歴代の君主 1 (カメハメハ朝)以降悪しき風習としてヘイアウの存在もそれに準ずる宗教儀式の場はハワイから消えて行く事になり、生け贄・・と言う行為も消えて行ったのです。(1970年以降に見直され、今はその遺構を探している状態。)今まで私達が見て来たハワイはポリネシアンの加色された陽の部分。ヘイアウのような陰の部分はこれから研究されていく分野なのです。ところでヒーリング・ブームで癒しスポットのように誤解されていますが、ヘイアウはそんな場所ではありません。生け贄を捧げて神と交信していた場所なのですからむやみに近づく事は今でも危険な場所とされ地元の人も近づかない場所なのです。展望台から見下ろすと岩がゴロゴロ。これら岩はヘイアウに積まれていた岩の破片かもしれない。プオワイナ(Puowaina)の名は今もゲートに刻まれていますし、ここに至る道にもPuowaina DR その名が残されていました。先ほどのパンチボールの写真右半分を拡大すると、この墓地の廟が見えました。国立記念墓地は次回につづくBack numberリンク パンチボール(Punchbowl) 1リンク パンチボール(Punchbowl) 2 パンチボール(Punchbowl) 3リンク パンチボール(Punchbowl) 4
2012年07月12日
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「2012年7月 ここはどこ? クイズ 1~4」で紹介したものにタイトルを付け替えました。他の人はほぼ行かない結構貴重な写真なので見てもらう為に。ただし形体はそのままクイズのままにしてあります。2012年7月 ここはどこ? クイズ 2 (第2ヒント)パンチボール(Punchbowl) 2今回は少しマニアックな傾向のヒントです。最もいつもマニアックだけどね女神の立つ建物はシンメトリーに回廊が伸びていて、下のような展示がされている。それはここの創設にかかわる1つのモニュメントの役割になっている。順不動で幾つかセレクトしてみました。operations against the Chinese invaders(中国の侵略者に対する活動)24 novenber 1950 21 april 1951朝鮮戦争朝鮮半島の主権を巡り大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で起きた紛争。今も残る半島を分ける北緯38度線を北朝鮮が越えて進行。米ソの冷たい戦争でもある。Victory in the Pacific(太平洋の勝利)operations in the Pacific(太平洋での活動)1942~1945Battle of Midway(ミッドウェーの戦闘)3~7 june 1942日本では「ミッドウェー海戦」で知られている。昭和17年(1942年)6月5日第二次大戦中のアメリカと日本によるミッドウェー島争奪の戦いで航空母艦によ航空戦の結果、日本海軍が大打撃を受けて敗退。War against Japan(日本との戦い)1 august 19442 september 1945Okinawa(沖縄)26 march~ 22 june 1945昨年ひめゆりの塔記念館行って来ました。War against Germmany(ドイツとの戦い)1 june 19432 august 1944これはノルマンディー上陸の時のかな?これらは戦闘マップです。どのように布陣してどのようなルートで進行したかを示す記録なのです。これらが何を意味しているのか? この場所はThe memorial chapel and Map galleries(記念教会と地図のギャラリー)と呼ばれているようです。ホノルルの町が見渡せる絶好の場所にそれはある。Back numberリンク パンチボール(Punchbowl) 1 パンチボール(Punchbowl) 2リンク パンチボール(Punchbowl) 3リンク パンチボール(Punchbowl) 4
2012年07月08日
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「2012年7月 ここはどこ? クイズ 1~4」で紹介したものにタイトルを付け替えました。他の人はほぼ行かない結構貴重な写真なので見てもらう為に。ただし形体はそのままクイズのままにしてあります。まだ紹介していなかったある場所をクイズにしました。「ここはどこ?」シリーズの2012年版ですそこは昔はチラッと通り過ぎた方はいるかもしれませんが、今はなかなか行けなくなった場所の1つです。ましてそこに行こう・・と思う方はあまりいないかもしれない。あまりヒントは出しませんが解る人には解る場所。2012年7月 ここはどこ? クイズ 1パンチボール(Punchbowl) 1行けなくなった・・と言うのは観光目的では禁止となり、バスでは入れなくなった場所なのです。通常はここに来る必要のある方だけが来るべき場所です。このビジョンから入ると難しいかな?なぜなら、通り過ぎただけの方では見ていないと思うからです。足下の碑文には・・しかし訳が難しいThe solemn pride that must be yours☆To Have Laid☆so costly a sacrifice upon the altar of freedom高さ30フィートの女神像女神像のある廟には祭壇となる礼拝堂がある。ここの正しい名称はThe memorial chapel 。宗教が1つに限定されていないチャペルです。遠方にダイヤモンドヘッド・クレーターが・・。ここも実はクレーターだったそうだ。日立の樹でお馴染みモンキーポッド(monkey pod)の樹今は場所が足りなくなり、隣近所が接近しています。陽のあたるステキな場所です。Back number パンチボール(Punchbowl) 1リンク パンチボール(Punchbowl) 2リンク パンチボール(Punchbowl) 3リンク パンチボール(Punchbowl) 4
2012年07月07日
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またまた大阪で暴走車による事故がありました。最近は確信犯的な犯罪が激増していて、人としての倫理が完全に失われてきているのでは? とさえ思う恐ろしさです。隣近所の人によくわからないままに殺害され、犯人は平然と、他人事(ひとごと)のように暮らしている。良心の呵責とか少しも無い? 感じない?まるで心の無いアンドロイド(android 人造人間)のようである。まさかまさか・・・仮想ゲームの中と現実の区別がつかなくなった・・なんて幼稚な事言わないでしょうねそれにしてもモラルの低下は育てる親や社会の責任でもある。でも自己を確立して善悪の判断できる大人になるのは本当は自分の責任だ。最近自分に責任を持つ事さえ知らない人が多い気がする。クイズ これは何でしょう? (解答編)隠していた所を外すと・・解りますよね?これは今の電卓に相当する物です。くどいようですが、レジスターではありません。さらにくどいようですが、14kgもあります。答え・・・機械式卓上計算機でした 商品名は東芝電動加算機。 BC-4001東芝のサイトから・・「東芝は1951年手動型計算機を開発、1956年に電動型、1961年にわが国最初のテンキー式電動加算機を開発・・」この一文を見ると、これはテンキーがあるのでひょっとすると日本初のテンキー式電動加算機と同系列の可能性がありますね。いろいろ探してみましたが、こんな中途半端な形の電卓は見つかりませんでしたし・・。実にシンプル。左下のつまみは、テンキーを打ったその位(くらい)毎に左に移動して行きます。前回紹介したハンマーの数は12個。数字が0~9、それにアスタリスクとコンマかな?ハンマーの数からケタは9桁までなので最高は9億9999万9999までしか入力できない機械となっています。東芝の・・によれば、電卓開発ではシャープに負けたようで、この電動式加算機はガラッと方向を変えたのかもしれません。ひょっとしたらこれは本家東芝にも無い珍品かも・・。最初の計算機それにしても日本にはソロバンと言う文化があるので、電卓が現れなくても、そんなに計算に困る事は無かったかもしれません。でも欧州では1623年にはすでにヴィルヘルム・シッカート(Wilhelm Schickard)により世界初の機械式計算機が発明されていたようです。そして1645年にはパスカルの定理で有名なブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)により機械式歯車計算機パスカリーヌ(Pascaline)が開発。50台制作して販売したらしいのですが売れたのは、1ダース強だったそうですが・・。計算機は一般の会計で使う・・と言うよりは、桁の多い天文や物理の人にとっては必要な物だったのでしょう。だから開発は続けられた・・。・・・が、やはり生産数が低いから高価すぎて欲しい人も買えなかったのかも・・。今は安いものなら300円もしないで買えますよね。おわり
2012年06月26日
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Break Time(一休み)クイズ これは何でしょう?実は大阪に来ています グエル公園はあと1~2回ですが、集中して思考できる時間がとれないので大阪中は小ネタで失礼します 今回はとっても珍しい物を見つけたのでまずは紹介かねたクイズ式で・・・。実は私もこのような物を見たのは初めてです。へぇー、こんな物が(世の中に)あったの? ものすごーくレトロじゃない? 何年くらい前のかな?当時ものすごく高価だっんじゃない? ・・・が最初の感想です。一部隠して紹介です。左はカバーです。一応当初のカバーも残っていたので・・。左に電源プラグがあります。これは電気製品なのです。・・・一応・・・。参考にメーカー名は Toshiba と明記されていますが、この当時の正式な会社名は東京芝浦電気株式会社でした。恐らく購入時期は1960年代初期。重さが14kg。100V 50/60 c/s 50W重すぎて運ぶのが一苦労。ここまで重いとバラして中を見てみたい・・。構造が見えるようにふたを外して、ズームしてみました。現在は一人一台持っているかもしれない必需品です。しかし、この時代は特定の職業の人しか使わなかったと思いますし、何よりなかなか一般の人が買える値段ではなかったと思います。(推定ですが、数十万していたはず。なぜならもう少し進化したこれの後続機? がやはり数十万したと聞いているので・・。)それにしても値段はともかく、この機械は発展途上も超発展途上の代物で、今の商品と比べてしまうと、商品化した事じたい今では信じられないレベルの不思議な品です。まあ、開発者の方からしたらここまで来るのも大変な事だったのでしょうが・・。ヒント・・使って見ました。出て来たのは数字だけ・・・。並んでいる棒は数字をタイプするハンマーだったのです。印字の原理はタイプライターと同じようです。左右の円がインク・リボンで、赤と黒のテープの2色式です。大ヒント・・・これはレジスターではありません。レシートじゃないのです。こんなアナログな印字ですが、現在の商品ではこの部分、液晶画面となっています。それにしてもこの機械はほぼ新品です。たぶんあまり使われなかったのかもしれません。絶対アレのが早かったハズですからね。ケタも上限9ケタしかないし・・。答えは次回に
2012年06月25日
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実はこの花を見つけた時にあまりに実のイメージとかけ離れていたので、「え? これがそうなの?」と、私自身が驚いたのです。しかし、ここはハワイ。季節が無いので花や実は同時進行で入り乱れて咲いています。同じ木から花が咲き、実がなっているのですから否定しようがありません。今回は趣向を変えて、その目線で、クイズにしてみました クイズ、これは何の花でしよう? これはあるフルーツの花の蕾です。フルーツとしてはどちらかと言えばポピュラーではありません。でも、最近熱帯産のフルーツとして名前はかなり出回ってきています。原産 アメリカ大陸の亜熱帯地域。日本では南西諸島や鹿児島県、沖縄県で栽培。確かに夏っぽい蕾です。夏野菜に育ちそうな花に見えます。ほぼ原寸サイズで載せましたが、携帯で見ている方ではわからないかな?直径6cm以上あったと思います。この花、「トケイソウに似ているな。」と、思ったら・・。スミレ目、トケイソウ科、トケイソウ属なのだそうです。トケイソウ科500以上の品種のうち実が食用できるものは数10種だそうで、その実が主にジュースやジャムなどにして流通しています。もちろ生でそのままスプーンですくって食べるのもありますが、日本では沖縄以外なかなか生では手に入りにくいフルーツなのです。でも、皆さんたぶん一度は見たことがあるはずで、アレか・・と思うはず。トケイソウ属でフルーツと言えば、知っている方には簡単すぎるかもしれませんね。ヒントは。どちらかというとすっぱいフルーツで皮が固く種がとても多いです。解答リンク クイズ、これは何の花でしょう? (解答編)
2012年01月19日
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こちらの時間で昨夜両親と叔母が日本に帰りました。そろそろ到着かな?これから少しは時間の余裕ができそうですさて、今回両親は羽田発のJAL機を使ったのですが、羽田便はかなり問題がありました。日本を出国する便が深夜と遅く、当然現地に入るのも遅く現地入国は午後になります。そして帰りは帰国便の出発が夕刻になり日本に到着して入国検査をすると深夜10~11時になるのです現地ではホテルを11時にチェックアウトされるので居場所がなくなり、帰国便はもし飛行機が遅延したら家に帰る交通機関が無くなる・・と言う二重苦が発生。結局うちは現地のホテルを1泊、羽田のホテルを1泊と多く取って対処しましたが遠いけど成田発だったらそう言う問題は無かったな・・と思ったのでした。2011秋 ここはどこ? クイズ 1-3(Kalakaua Ave)さて、すでにお解りでしょうが、日本人の大好きな常夏の島です。Kalakaua Ave Waikikiハワイ、ホノルル・シティーのカラカウア通りから入り紹介です。つまり答えはハワイです。モアナ・サーフライダー・ホテル左。見えていませんがプリンセス・カイウラニ・ホテルとハイアットリージェンシー・ワイキキが右の手前に並んでいます。パブリックのワイキキ・ビーチです。たいていのハワイのビーチ写真はここが撮影場所となっています。写真の場所はほぼハイアットリージェンシー・ワイキキの前です。ビーチは日本と違って海の家などないのでシンプルでスッキリして綺麗です。公共のビーチですが、こちらではたいていビーチ・サイドにただのシャワーが設置され、トイレには着替えのスペースがもうけられていて、誰でもそれを利用できるのです。写真には写っていませんが、この林の右に日本の交番をまねて造られたHonolulu Policeの派出所Waikiki Beachがあるので安心です。そう言えばこちらではビーチでお酒を飲む事は禁じられています。罰金です。そう言う所を日本もまねた方がビーチの風紀がよくなるかもしれませんね。昨日撮影したばかりの写真ですから写っている人達はまだハワイにいる人達ですよ・・・・たぶん・・ 正面から撮るとプライバシーがあるので後ろから撮りました。日本の海水浴とは全然遊び方が違うようです。下の写真だけはシェラトン・ワイキキのビーチから。左に見えるのはダイヤモンドヘッド。シェラトンのカタマラン・クルーズのヨットです。海から見るワイキキ・ビーチは素敵だった・・と母が言っていました。かなり水をかぶったようですが・・。しばらくこちらにいるのでこれからいろいろ配信していく予定です
2011年10月07日
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かなり毎日忙しく、写真はちょこちょこ撮っているのですが、整理してブログにのせる時間がありません。早く先に行きたい気持ちはあるのですが疲れてパソコンの前にして毎日果てています( _ _ ).。oOグゥー・・・( ~o~)ハッ・・・( -_-)ネヨウ・・・もう少ししたら落ち着くと思います。さて、前回に引き続き飛行機の窓から着陸までの空撮です2011秋 ここはどこ? クイズ 1-2 (空撮)もうすぐ着陸です二つ見えるラグーンはコオリナ(Ko Olina)です。260万平方mの広大な敷地に、ゴルフクラブや高級リゾートホテル、スパやチャペルなどもあり、マリオット・イヒラニ、ディズニーのリゾートもできていてコオリナ・リゾートと呼ばれています。空からみるとそこだけポツンと街が開発されているのがよくわかりますね。このあたりで沿岸に沿って旋回します。幾つかの規則正しいベッッドタウンを飛び越えると海に続く大きなラグーン? が見えてきます。少し拡大しましたが、遠く船が何隻か停泊しています。船は軍の戦艦で、今は休眠中だそうですが、有事の時には働く事になる備蓄船なのだそうです。と、言う事は・・・そのあたりは軍の基地なのかもしれません。実はこの港は日本人には非常に縁のある湾なのです。「湾」・・と言うより「ハーバー」と言った方がわかりやすいかもしれません空から見ると海の色がとても美しい素敵な入江になっています。かつての不幸な出来事が嘘のようです。機の下は空港です。おやおや? 軍の戦闘機が見えます。ここの空港は軍の基地に隣接しているのです。そう言えば仙台空港が自衛隊と共用している空港でしたね。でもここは敷地も広く滑走路がたくさんあるので共用ではないと思います。まもなくターミナル・ビルです。さてさて、もうわかりましたか?ヒント・・・前回の写真7枚目の写真はニイハウ島(Niihau Is)です。実はこの島は個人所有の島なのです現在の島の所有者の祖先(スコットランド人)が1864年に当時の王族からピアノ1台と 10,000 ドルで、島と島民を買い取った・・と言う事です。(ウィキペディアより)当時の10,000 ドルはそれはそれは大金だったでしょうが今はドルの価値が下がりUSドルの相場は現在対円レート76.660004円(実際の買いは手数料が入るのでもう少し高い)今の10000ドルはたったの766600円ひどい・・。ピアノはピンキリだけど20000ドルくらいしたのかな?とにかくとんでもない買い物をしたエリザベス・シンクレア夫人とやらに感服しますねさて、8枚目の島は・・・・。カウアイ島(Kauai Is)です。この島は英国の海軍士官にして海洋探検家のジェームズ・クックが最初に上陸した島として知られています。もうわかりましたよね次回答えから始めます。
2011年10月05日
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とうとう旅行前に終わらずひっぱってしまう事になってしまいました ごめんね m(_ _;;m今旅行中に何とか「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の残りボタフメイロまで終わらせたいと思っています。今の所そちらをやる時間的余裕はありませんが・・。とりあえず久しぶりの「ここはどこ? クイズ」で行き先当てゲームですとりあえず行った気になれる・・がコンセプトなので成田から出発です。2011秋 ここはどこ? クイズ 1-1 (出国)今回はマイレージが残っていたのでJALでしたが、JALに限らず昔から考えるとかなり「飛行機に乗る」・・と言う事のステータスは下がった気がします。サービスがひどく落ちて普通にバスに乗っている・・と言う感覚です。確かに飛行機はエアバス(Airbus)ですが・・・・。ゲートが離れて行く所です。成田はやはり遠いですね。因みにもっと遅い便になりますが、羽田からも飛んでいます。飛行機の窓から・・・離陸滑走路へ向かう途中暗いけどイメージを伝えたくて載せましたもしかしてここも省エネで滑走路の電気が少ないのかもしれません。さて、機内のサービスは昔に比べるとどんどん落ちていっています。だんだん夜明けが近づいてきた所です。たぶん霞の上が成層圏かもしれない。雲の上を飛ぶ・・と言うのはこんな感じです。すがすがしい感じですが、日差しはかなり強く暑いです。たぶん放射線量の数値もかなり高いのでは?今まで気にした事なかったけど普通の職業の人よりパイロットの方は職業柄多く放射線を浴びる事になるそうですよ。そう言えば羽田発大坂行きの滑走路はその方向から東京湾を北上、千葉を抜けほぼ茨城あたりで旋回して大坂に戻るように向かうのです。かなり福島原発方面に向かうのには驚きました。目的地まではまだ1時間弱ほどかかりますがこの頃あちこちに島が見えてきました。いよいよ目的の地です。下降して高度が落ちて雲の中です。もうかなりの回数来ていますが、こんなにきれいに着陸まで撮影した事は無く、景色もこんなに良く見えた事はなかったような気がします。そんなわけで今回はこんな形で載せてみました。この写真は決めてです。写真の山並みをみればすぐにわかる人もいるのかも。恐竜の出てきたあそこに似ていませんか?さて、目的地はどこでしょう?
2011年10月01日
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またまた大坂行ってきちゃいました。今回は甥と姪を連れて行ったので、京都や奈良にも足を伸ばし、大坂見学、さらに天満の天神祭りと忙しい日々でした。もちろんパソコンは持っていましたが、毎日洗濯3回、夜中も忙しくゆっくり座る暇もなく、やはりパソコン開けるのも無理でしたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は、あとオスピタル・デ・オルビゴ橋を載せてからメインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに入る予定です。橋の写真はチョイスしてあったのですが・・。今回大坂から載せる予定だった旅行恒例の「ここはどこ? クイズ」を先に入れたいと思います。今回も大坂から行ける範囲でめずらしい所に行ってきました2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1日本最古の木造建築大坂ではありません。ここは、その寺の参道です。ここは奈良県の斑鳩(いかるが)です。これだけで解ってしまいましたか?参道を抜けると南大門です。現在の門は1438年に再建されたものだそうです。この参道の両脇が自動車の通れる道となり、南大門前までタクシーやバスも来ています。観光客は非常に多い寺です。なぜなら、この寺は歴史が古く国宝が多くあり、1993年には日本で初めて世界文化遺産に登録された寺でもあるからです。因みにこの年、姫路城も登録されています。正面が西院伽藍西院伽藍は飛鳥時代の姿を伝える世界最古の木造建築物としても良く知られています。西院伽藍の中門日本書紀によれば西院伽藍は670年に消失。現在の物は711年に出来上がったものだそうです。中門はギリシャより伝わるエンタシスの柱で構成され左右に金剛力士像が配置。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重な作品。中門は左右に回廊として続き、奥にある大講堂まで続いています。そして中庭には左に五重の塔、右に金堂が配置。この配置はこの寺独自の名のついた・・・寺式伽藍配置と言うのだそうです。こちらからは全部入りきらないので、写真は分割左手に仏塔(五重の塔)高さ32.5m これは日本最古の五重の塔。五重塔の心柱の用材は年輪年代測定で591年の物と解ったそうですが、西院伽藍自体の完成は711年頃だそうです。下部は四面それぞれに釈迦のエピソード等が三次元彫刻されている。ストゥーパ((梵)stpa)仏寺の塔はストゥーパ((梵)stpa)と呼ばれ、もともと釈迦の遺骨(仏舎利)を納めた塔の事でインドや中国では土や石等を積み重ねて作られた物が多いようです。日本では木造で五重の塔として作られたようです。(ここのが最古なので・・)因みにストゥーパは卒塔婆(そとば)であり、なぜか日本では追善供養の為お墓の後ろや横に立てられている板もそう呼ばれています。一応あの板塔婆は、五輪塔(舎利を入れる容器)を簡略化したものなのだそうで、要するにお骨を納める入れ物が転化したもののようです。相輪屋根の上にあるアンテナのように見えますが、実はこの部分が本来のストゥーパの部分。根本の露盤(ろばん)部分とその上の伏鉢(ふはち)は見えていませんが、そこに仏舎利がいれられるようで、それより上は所謂、蓋(ふた)に相当する飾りのようです。やはり見えませんが受花(うはな)、その上、風鐸(ふうたく)九つのリングの重なる部分、その上に炎のような柄の水煙(すいえん)、竜車(りゅうしゃ)、宝珠(ほうじゅ)と続きます。この寺の五重の塔は、本当に仏舎利が納められている・・と言う事です。と、言う事は実は金堂の本尊より価値がある・・と言う事?右手、金堂・・本尊を納める仏堂です。大ヒントこの寺の本尊は聖徳太子の為に造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代作)です。金銅内部の撮影ができないので本来写真はありませんが、仏像の本から参考に借りてきました。大ヒントなので・・。学校の教科書でお馴染みの釈迦三尊像です。太子父君(用明天皇)の為に造られた金銅藥師如来(飛鳥時代作)太子母君(穴穂部間人皇后)の為に造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代作)白鳳時代に造られた日本最古の四天王の像も安置されています。大講堂仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されたもので、落雷で焼失し、現在の物は990年に再建されたもの。それでも1000年以上前の建物です。西伽藍、大講堂からの景色奥に見えるのが中門で金堂が左もう一つ目玉物件があるのですが、これだけで十分どこか解りますよね。目玉物件は次回解答編に載せる事にしますリンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 解答編の1 リンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 解答編の2
2011年08月02日
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Break Time (一休み)東京と言っても田舎なので、少し歩くと農地がたくさんあり、いろいろな野菜が育っています。季節も頃合い、どこの畑も夏野菜が順調です。昨日は農家の方が畑仕事に出られた時に開設している100円野菜の無人ブースで今年初のトウモロコシを購入。トウモロコシは1本120円でしたが、甘みがあってとてもおいしかったです。さて、今回は暇つぶしクイズです「ここはどこ?」ではなく、「これは何?」の新シリーズです。第1号は畑から高さは1mくらいでしょうか。ここでは畑の際に植えられていました。この分量はたぶん自家用でしょう。他のところでは温室で育てられていました。温室内は撮影できないので、この路地物を撮影。本州中部では4月下旬頃から6月の季節物で、今スーパーでも売られていますが、野菜としては高いほうかもしれません。葉と花が咲いています。ちょっとスギナとかコスモスなどを思わせる仕様です。たぶん見たことの無い人の方が多いと思います。まさかこれがあれ? と思うような植物です。写真良く見ると解るかも・・。和名はオランダキジカクシ、オランダウド、マツバウドと呼ばれています。ユリ目、ユリ科だそうです へぇーという感じです。野菜ですからもちろん食べられます。北海道、福島、長野が産地として知られています。秋から真冬はオーストラリア、メキシコからも輸入されますし、タイやチリなども見たことがあります。3~4月にはアメリカからも・・。季節物ですが、需要は一年中あるからでしょうね。もともと原産は地中海東部。観賞用に日本にはいったのだそうです。確かにオシャレな感じの植物ですね。下の写真はこの植物の茎の部分です。この写真大ヒントです。わかっちゃった? 雄株と雌株があるそうです。答えは次回に・・答えリンク先 クイズ これは何でしょう? 解答編
2011年06月15日
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久しぶりの更新です。被災者ではありませんが、東京も計画停電に振り回されて、落ち着かない日々が続いていました。大型停電を避ける為の東電館内の市民の努力は、関西の方面の方々にはわからないと思いますが、部屋の電気は夜でも極力消して、暖房も夜遅くなるまでじっとガマン・・厚着をして寒さをしのぐ・・・と言う結構きついものなのです。市民の節電努力があってこその大型停電阻止・・なのですが、「今日はする、しない。」が直前まで決まらず、停電なら水くみや食事時間など、それなりの準備がこちらにも必要になります。だから「するのか? しないのか?」はっはりさせてくれないと計画が狂うわけで、そんな苛立ちが新たなストレスを生んでいるのです。それでも被災地の方々の苦労を考えれば、「これくらい・・。」と思うわけで、けなげに堪え忍んでいる・・・のが東電館内の市民の節電状況ですさて、実はそんな大変な東京を後に現在大阪に来ています。避難したわけではなく、これは半年前からの予定だったのですが、図らずもこんな時期なので助かる反面後ろめたさもちょっと感じている大阪入りです。電気の心配がないので、安心して更新できるのですが・・。Break Time(一休み)今回は例年お馴染みのここはどこクイズで行こうかと思います。昨日はネタ取りに行って来たのですが、私としては中学校以来の訪問の場所でしたここはどこクイズ2011年度 春クイズまだダウンコートを着ての訪問でしたが、場所によりサクラの開花がはじまっていました。東北でも関東でも、今年は花見気分にはなれない状況だと思います。知らない間に世間は春になっていた・・。とは言え、関西は電力の心配がないので、東北のような辛さや、東京の人の感じるような危機感は全く感じられません。やっぱり東北は遠いのかな?日本の道、100選に選ばれている「哲学の道」です。日本を代表する哲学者、西田幾多郎が思索しながら散策した琵琶湖疏水沿いの道ですが、この道の先に今回のクイズの答えがあります。この道は大ヒントです。知る人はすぐに解る場所です。エントランスの枯山水固められたようにしっかり形づくられている。向月台造営の歴史ここが造営されたのは応仁の乱の後、1488年。室町幕府足利八代将軍義政公の東山の山荘がルーツで、後に義政公の法号である慈照院から慈照寺と名付けられたそうです。しかし、一般にはその名はほとんど知られず、別の通称名で世間にはよく知られています。それが問題です。観音殿と向月台義政公は東山殿造営にあたり、禅僧、夢窓国師の作庭による西芳寺(苔寺)にならったと言われています。「池泉回遊式庭園」の発祥庭の中心に錦鏡池を置き、四方正面に庭を配置、月待山を背景にどの角度からでも観賞できるような「池泉回遊式庭園」として造られたそうです。実際庭の小道は東山殿をくるりと周り、山を登っています。東山殿の鳳凰の飾り簡単でしたか?
2011年04月03日
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クイズ陶磁器工場 1-2 解答マイセン(Meissen)ドイツのザクセン州マイセンで生まれた硬質磁器(ポーセリン)がマイセンです。創業1710年に王立の工房として誕生した事は前回紹介しましたが、現代も造り続けられている300年の歴史を持つ老舗の陶磁器会社です。そこで生産され印の入った品がマイセン(Meissen)と呼称されるのです。もともと貴族の趣味やたしなみとしての磁器ですから、過去の作品は美術館入り。もしくはアンティークとしてコレクターに絶大な人気を誇っている陶磁器なのです。下の印を見れば答えは簡単だったと思います。二本の交差する剣の印はこの窯のトレードマークとなっています。この印のないものはマイセンとは呼ばないのです。(最も古い時代の、剣の印のないものも多少残っているようですが・・。)1723年に印は剣となり、その印は年代で微妙に異なっている事からこの窯の陶器の製作年代を推定する印としてアンティークの世界では重要視されています。ドイツで自生する草花を題材とする染付食器シリーズコーヒーポッドとミルクピッチャーとシュガーポットのセット 5つ花のブーケコーヒーカップとソーサーと受け皿の3点一組これらの裏には全て剣が焼き込まれて印されています。マイセンでは一見一色でも下絵も入れると最低3回は焼かれています。さらに色一色につき一回の窯焼きをすると言われているので、当然色数の多い品ほど窯に入れる回数が多くなるので、壊れる率も高く、値段も高額になってくるのです。花シリーズもメイン一輪だけの品から上の3つ花、そしてさらに5つ花のブーケとなると値段は同じコーヒーカップ一つに見ても万単位で異なってくるのです。3つ花3つ花ブーケオープンワークの飾り皿18世紀には完成されていたと言われるオープンワークは、鋭利なナイフを使って、焼成前の作品に職人が手作業で切り込みを入れて制作。熟練の職人の技がいる作品だそうです。ブルーオーキッド1977年~78年に発表された新しいシリーズ最近のティーカップのソーサー部分の絵付けをみてもらう為にのせました。こうしたものは色も少ないので案外安いのです。磁器の制作白い金と呼ばれた東洋の磁器。中世ヨーロッパでの磁器の開発はポーランド・リトアニア共和国の国王にしてザクセン公国の選帝侯であったアウグスト2世(1670年~1733年)によって始められます。1705年若い錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(1682年~1719年)は王から命を受け、協力者としてヨーロッパで最も早く磁器の焼成に成功した人物として知られる学者でもあるエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス伯爵と共に磁器の焼成の研究をしたのだそうです。ザクセン近郊で産出されるカオリンを使って1350度から1400度と言う焼成温度を発見し磁器の製造に成功したのが1709年です。アルブレヒトブルク城ザクセン王アウグスト2世は、すぐに王立工房を設置するのですが、同時にこの製造の秘密を門外不出とする為に窯を守る事を決めます。工房自体を鉄壁の要塞の中に閉じ込めたのです。と同時に開発者ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーも秘密をもらさない為に幽閉したと伝えられています。それが現在のドイツ東部、ザクセン州のマイセンの街の旧市街にある城なのです。エルベ川を見下ろす丘の上にある15世紀に建造された後期ゴシック様式のアルブレヒトブルク城。ちょうどアウグスト2世の居城がドレスデンに移った為にザクセンの城があいていた事もあったようです。この写真の城に1710年にマイセンの王立磁器製作所が最初に置かれ、以降150年ここに工房がありました。今この城に当時のものは何もないようですが、アウグスト2世が、ドレスデンに建てたツヴィンガー宮殿は、今までの王の磁器のコレクションを並べたコレクター宮殿として存在しています。日本の古伊万里や柿右衛門の名品もならぶ、マイセン磁器の象徴的な城と呼ばれているそうです。(ツヴィンガー宮殿の写真見つけたら次回のせるかも・・)因みに幽閉されていた錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーはこの城の中で1719年37歳の若さで亡くなっています。マイセンの工房で撮影した花瓶最初の染め付け絵付けは1717年に始まったそうです。プリント式の絵付けが主流になっている今時の陶磁器会社から考えると昔からの手書きをかたくなに守っているマイセンは今も職人の技の賜なのでしょう。だからこそ誕生から今も西洋陶磁器の頂点に君臨していると言えるのです。最後に・・マイセンは王侯貴族の陶磁器なので、調度品としての美術品のようなものが多かったはずです。しかし最近のマイセンは家庭のテーブルウェアとして多く造られているので身近に? ちょっとなってきたのかもしれません。リンク クイズここはどこの陶磁器工場? Part 1 クイズ陶磁器工場 1-2 解答
2011年03月07日
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今回はほぼ答えの出ていた簡単クイズでした2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-4 (パルテノン神殿)パルテノン(Parthenon)エレクティオン(Erechtheion)パルテノン以前海も近く、周辺に幾つもの泉を有し、川の流れる肥沃な平地はBC2800年頃には人が住み始めていたそうです。青銅器時代末期のBC1300年頃には丘に巨石を使用した城壁が作られその後居住地から神域へと変わっていったようです。それはクレタ島のミノア文明が崩壊した後、ミケーネ文明の時代にあたり、当時の古神殿跡やそれらの巨石は今もパルテノンの前に転がっています。この頃からギリシャは民族の流入が続く動乱期に入り「暗黒時代」と言われ、史実もほとんど伝えられていないそうです。私たちの知るイメージのギリシャ文明は、その暗黒時代が過ぎたBC6世紀頃から始まるアルカイック期(archaic)からのものです。丘の上にはまだ古い神殿が残り修復や新築を始めていた頃、今度はペルシャ戦争(BC492年~BC449年)が勃発。ギリシャはアケメネス朝ペルシア帝国との戦いに突入。その最中のBC480年、サラミス島近海で起きたギリシア艦隊とペルシア艦隊との衝突(サラミスの海戦)により戦いに勝利したものの神聖なアクロポリスの丘は再びがれきの山となったのだそうです。パルテノン神殿の建築パルテノン神殿の建設はBC449年アテナイの政治家ペリクレス(BC495年?~BC429年)の治世に始まったと言われています。前回紹介した写真から・・・再びアクロポリスの復元図を参考に今回紹介するのは下の写真の部分右・・・パルテノン(Parthenon)左・・・エレクティオン(Erechtheion)上図のパルテノン神殿の今参道を上ってくると右手にパルテノン神殿が目に入ります。本来この参道は現在のパルテノン神殿の左隣にあったアテーナの古神殿に続いていました。そして、その神殿の前には巨大なアテーナの像が建っていたようです。ガラスケース入りで写真がボケているのですが、唯一あった写真をおまけに紹介します。パルテノン美術館に保管されているこの大理石のアテーナ像はローマ時代に現物を模写したと言われるものです。これの全長12mのサイズのものが紀元前にはアクロポリスの上に立っていたと言う事です。パルテノン(Parthenon)神殿・・・・アテーナ・パルティノス神殿奥行き69.51m。横幅30.86m。正面と背面に8本、両サイドに17本の計46本のドーリア式列柱が神殿を取り囲む形で建てられたドーリア式神殿です。柱の高さは10.43m。着工はヘリクレースによりBC447年に着工。総指揮をペイディアースがとり、組み立てにイクティーノスやカリクラテース。他に彫刻家、建築家、画家などの当代一の名工達が一丸となってこの国家的事業に参加したようです。その為に驚異的なスピードで神殿はBC438年に完成しています。神殿内部に「処女の間(パルテノーン)」があり神殿の名はそこから呼ばれるように・・。処女の間は女神アテナイに仕える女官達の居室と言う建前ですが、実際は奉納品を納める部屋として使用されていたようです。素材はペデリンコン産の白大理石すべての柱は内側に傾斜し台輪を支え、のしかかってくる重量の負担を軽減。柱は上端に行くほど細く、柱の中頃あたりは逆に膨らみ、柱の下部はほとんど同じ大きさでドッシリと安定させているそうです。また、柱は円柱の臼(うす)のような石を10~11ピース重ねてできているそうですが、ブレもなく継ぎ目がしっかり合わさって見えます。後側西側の破風にはアテナイとポセイドンの土地争いのレリーフあり、東側の破風には守護神アテナイの誕生の様子が描かれたレリーフがはめ込まれていたようです。東のレリーフの現物はロンドンの博物館に、その他神殿を囲むように掘られていた現存するきれいな物は大英博物館やルーブル美術館にあります。以前ギリシャの文化大臣になった女優メリナ・メルクーリが「ギリシャの物はギリシャに返せ。」と返還を要求したようですが、ギリシャの遺跡から発掘された文化財であるはずの美術品のほとんどはギリシャにはないのです。度重なる戦争によりメチャクチャにされ、かつ特に完璧な美術品と呼べる物は海外に流出していて国内にはガラクタに近いようなものが残された・・と言うのがギリシャの現状です。建物内にはこんなレリーフがあったようです。アクロポリス博物館 「座せる三神」右からアルテミス、アポローン、ポセイドン・・らしい。横からアクロポリスの丘は、ずっと工事中。遺跡を発掘しつつ、修復工事はギリシャ時間ですすんでいるように見えます。エレクティオン(Erechtheion)・・・エレクティウス神殿複数の神が祀られている複合型の神殿(エレクティウス神、ポセイドン神、アテーナ神、ヘーパイトス神)パルテノン神殿は堅牢さ、重厚なドーリア式の完成形と言われる建物ですが、ドーリア式はそんなに長くは続かなかったようで、BC420年に着工して(内戦や火災で工事を中断しながら)BC395年に完成したこちらのエレクティオンはイオニア式の代表的な神殿としても知られています。この神殿の場所はアクロポリスでも最も古くからの聖域があった場所とされています。以前にも紹介していますが、アテナイの守護神を決める対決で女神アテーナとポセイドンが戦った事は神話の世界の話ですが・・。伝説ポセイドンは三叉の矛で地を突くと「エレクテウスの海」と呼ばれる塩の泉が吹き出した。アテーナは輝く槍で地を突くとオリーブが生え、たわわな実を実らせた・・と言う。この対決は、この土地を領有していた祖王ケクロプスの裁量で女神アテーナが勝利し、この土地は以降アテナイと呼ばれるようになったとされています。現実的には、この伝説がアクロポリスの丘は泉と穀物に恵まれた土地であった事を示している・・とも考えられるそうです。神殿の北には6体の少女像の柱があり、カリュアーティデスと呼ばれています。飾られているのはレプリカで、一部本物はアクロポリス博物館で展示。一体は大英博物館に。高さ2.30m。頭に供物の入ったかごを持つこの柱は珍しいだけでなく極めて芸術性の高いものとして評価されているようです。さて、きりがないのアテネのアクロポリスも今回はこれで終わりにしたいと思います。アテネのアクロポリスは1987年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。ギリシャ共和国でした。問題back numberリンク 011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-1リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-2 (ゼウス神殿)リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-3 (アクロポリス)
2011年01月21日
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さて、お正月クイズもいいかげん終わらなければならない時期ですね今回解答編で最後です。しかし、簡単に終わらせるか少し詳しく載せるかで悩みました。結果解答編を2回にして、次回が最終章にします。2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-3アクロポリス (akropolis of Athens)アクロポリスの丘・・と言えばもちろんここはギリシャです。そして今回の答えはアテネなので、アテネのアクロポリスです。アクロポリスは「小高い丘」をさす言葉で、もともとは諸王の居城や神殿があった場所をさしています。都市国家ポリスが誕生してからは、神殿や集会施設が建設され、有事の際は砦の役割をしたようで、それらはギリシャ各地に多数存在していたようです。しかし、一般にアクロポリスと言えば、アテネにあるアテナイの守護神であるアテナイ神を祀ったパルテノン神殿のあるこの丘を指して呼びます。アテネのアクロポリスを西にあるフィロパポスの丘より撮影アクロポリスの丘全体は半結晶石灰岩で覆われ、海抜は150mだが市街地からは70mの小高い丘です。東西の長さは270mで南北は最大のところで156m。丘の西面以外は絶壁になっています。この位置から昔の復元地図を紹介。照らし合わせて見て下さい。丘の左に手前がヘロデス・アティコス音楽堂右手前が前回紹介しているディオニッソス劇場跡です。右の円柱が連なる神殿がもちろんパルテノン神殿です。写真、丘の左手が入り口となるブーレの門と参道、そして前門(プロピュライア)が残っています。それらの奥にはエレクティオンとアテーナの古神殿があり、わずかに見えています。フィロパポスの丘からアテネの街が見渡せるアクロポリスの丘から、周りを眺めると、不思議な事に平地に小高い丘がい幾つもあるのがわかります。昔は、松明による伝令が丘から丘に伝わった・・と言われていますが、確かにここならそれも可能なのだ・・と思います。なぜ丘がはっきり解るのか? 東京ならビルが建ち並び丘も何も解らなくなっていますが、ここは昔から丘の上に教会や神殿などがあったり、軍事に利用されてきたからでしょうか? 丘はそのまま緑ある丘として今も残っているからです。アクロポリスの悲劇かつてこの地はオスマントルコとベネチアの取り合いの場所。ヴェネチアとオスマントルコの戦争では、ヴエネチア軍はこの丘に大砲を据えてアクロポリスを吹き飛ばしたそうです。1460年からトルコのの領地となっていた時期にはパルテノン神殿はトルコ軍の士官の宿舎となり、エレクセオンはトルコ軍指揮官のハーレムとなっていたそうです。ここを奪還したいベネチアの攻撃による神殿破壊と、砦を築く為に神殿を破壊して回ったオスマントルコは共にとんでもない大馬鹿ものです復元図面図の右下が山門であり参道となっていて現在もそこが登り口です。ブーレの門跡・・上から撮影280年頃にローマ人によって建造された門は発見者であるフランスの考古学者エルネスト・ブーレの名前がつけられている。ブーレの門から参道は階段がジクザクついてたようですが、今はまばら、古代ギリシャの時代もこれとほぼ同じ参道を歩いていたらしいです。左の柱は台座で、アグリッパの記念碑。当然かつてはそこに青銅の戦車に乗ったアグリッパの像が建っていたと言われています。台座のあるあたりは見晴らしが良く、展望台になっています。そして写真右に神殿への前門となるプロピュライアが建てられています。プロピュライアの建築はパルテノン神殿完成後すぐだったBC5世紀頃。建築家は当代一のムネシクレース。中央楼と左右に北翼と南翼がある造りとなっています。写真は中央一部と北翼。ゲート全体を写した写真がないのですが、現在はこれでも大分修復されています。何しろここが先に紹介したトルコとの戦いでベネチアの砲撃を受けて吹き飛ばされたり爆薬庫の爆発があった場所なのです。アグリッパの記念碑の後ろの展望台からつづくリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-4 (パルテノン神殿)back numberリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-1リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-2 (ゼウス神殿)
2011年01月18日
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さて、クイズ続編2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-2 (ゼウス神殿)まず訂正からです。前回最後に紹介した劇場は「ディオニッソス劇場」ではなくて「ヘロデス・アティコス音楽堂」でした。正しいディオニッソス劇場半円のベースのようなのがステージです。そして、木立の向こうには、最近移築されたアクロポリス博物館があります。17000人収容の劇場も今はただの遺跡となってしまいました。ヘロデス・アティコス音楽堂はこの右手の方角にあります。アクロポリスの西に広がる小さな丘アリオス・パゴスからはアゴラが見渡せる。アクロポリスの丘を中心に、アリオス・パゴスと対角の位置にあるのがゼウス神殿。ゼウス神殿を中心とするこの場所は、正しくはオリンピエイオン(Olympieion)と呼ばれるオリンポス山のゼウス神を祀る神域なのだそうです。つまり日本の神社と同じ分室です。因みに前回紹介した初代オリンピックスタジアムはこのすぐお隣さんにあります。ゼウス神はオリンポス12神の一人にして、全ての神々の頂点に立つ全知全能の神様です。その神々の住まいがオリンポス山なのです。因みにオリンポス山は北緯40度05分00秒、東経22度21分00秒テッサリア地方にある標高2917mの実在する山です。現在の神殿はローマの皇帝ハドリアヌスが建てた(BC130年頃)ものだそうですが、それ以前に実在していた神殿は途中中断もあり建築に700年かかったと言われています。4世紀にゴート族の侵入により破壊され直径1.6mで高さが17mの円柱の柱が現在は13本残っているだけ。壊れていなければ規模と壮麗さからエジプトのピラミッドにも匹敵する名所だったようです。比較的、完璧に残っているのはヘファイスティオンヘファイスティオン(Hephaistion)ヘーパイストス(H?phaistos)の神殿の事です。ヘーパイストスと言えばオリンポス12神の1柱で古くは火山の神であり現在は炎と鍛冶の神として知られている神様です。彼自身は容姿が悪く地味な神様ですが、神々の頂点に立つゼウス神と女神ヘラの息子と言う血統。そして彼の妻が愛と美の女神アフロディーテである・・と言う事で驚きと共に良く知られています。建築時期はパルテノン神殿と変わらないらしい。アクロポリスの丘に見えるのがパルテノン神殿。国旗もたなびくこの国は・・。問題つづくリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-3 (アクロポリス)リンク 011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-4 (パルテノン神殿)back numberリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-1
2011年01月14日
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クイズ第3暖です。2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-1衛兵・・大統領官邸前からさて、これは冬服ですが、どこの国の兵士の服でしょう衣装にこの国の歴史が感じられますね。ここはこの国の首都ですが、都市と言うにはちょっと田舎っぽいです。この国の歴史は非常に深く、国のあちこちから遺跡が発見されています。もちろんこの街もそうなのです。地下鉄を掘れば遺跡に当たる・・。だからなかなか近代的に建築物を建てるのも難しいのでしょう。他の国よりも一歩遅れてEUに加盟しましたが、もともとそんなに経済の良い国ではありません。ズルして加入したツケが最近発覚してEUは大変な事になっていますね。パナティナイコ・スタジアム(Panathinaiko Stadium)大理石でできた競技場は古代にはパンアテナ大祭の競技場があったと言われる場所だそうです。「パンアテナ大祭」は、アテナイの守護女神であるアテナイ神を讃える祭りだそうで、古代そこでは重要な宗教行事の一つだったそうです。1896年第1回目の近代オリンピックがおこなわれています。しかし、古代オリンピックが行われたのはここが発祥ではなく、ペロポネソス半島西部に位置するオリンピア(Olympia)と呼ばれた古代都市です。実際現在のオリンピックにおいても、その聖火の火だねはもオリンピアのヘラ神殿から運ばれているのです。(火種は太陽から凹面鏡を使って採火。)因みに紀元前8世紀頃にはすでに競技があったと考えられています。大理石でできている競技場は今や遺跡か?今ではここはささやかな競技場の規模です。2004年に2回目のオリンピックが108年ぶりに開催されていますが、もちろんメイン会場はここではありません。しかし、ここに観光で立ち寄る人は多いようです。アクロポリスの丘からの眺めアクロポリスの丘の麓にある演劇の神様に捧げられた劇場跡劇場は「ディオニッソス劇場」ではなくて「ヘロデス・アティコス音楽堂」でした。「ディオニッソス劇場」は次回紹介します。古代劇場跡は今も音楽会に利用されています。なぜなら音の反響が素晴らしい造りになっているからです。似て非なるものですが、競技場と似た造りだと思いませんか?観客の為にどちらもすり鉢のような造りとなっています。古代、競技も舞台も民衆の為の大切な娯楽だったからです。問題は続くリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-2 (ゼウス神殿)リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-3 (アクロポリス)リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-4 (パルテノン神殿)
2011年01月11日
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2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-3 (おまけ)せっかくなのでツェルマット界隈とマッターホルンの眺望を少し・・。マッターホルンについては2009年5月「アルプス山脈 マッターホルン 」のシリーズで紹介していますからそちらも良かったら見てね。ツェルマットからの観光は、ゴルナグラート鉄道に乗って、ゴルナグラードからの景観を眺める観光とトレッキングがありますが、他に前回紹介したように町外れからのロープウェイに乗ってマッターホルンを目指すコースがあり、さらに夏スキーを楽しむコースもあります。ツェルマットの街・・右下ロープウエイ乗り場ロープウエイでは、フーリで左コースをとると、夏場でもスキーのできるマッターホルン・グレーシャー・バラダイスに行けますが、今回写真は右コース、マッターホルンの麓シュバルツゼーの方から。天気が良くないので写真が暗く、少し調整しています。シュバルツゼー(Shwarzsee)標高2583mホテルもあります。たいていの観光客はここで折り返し、マッターホルン登頂を目指す人はさらにヒュッテまで数時間歩くのです。通常は時間も無いので観光ではこちらのコースにはあまり来ないようです。尚更ヒュッテまで散策する時間はないからこの先の写真はありません。シュバルツゼー(Shwarzsee)からのマッターホルン北壁は雲? ガス? がひどくて見えません。この写真は9月初旬の写真です。さて、今度は最初に紹介していたゴルナグラード(Gornergrat)からです。ゴルナグラード終点駅 標高3089m手前が駅、そして天体観測所駅を見下ろす観測所から撮影左・・モンテ・ローザ(Monte Rosa)標高4634m右・・リスカム(Liskamm)標高4527m手前ゴルナー氷河マッターホルンの横からの姿。なかなかない角度です。シュバルツゼーからの下りから北壁が欲見える位置です。北壁を制するにはロック・クライミングの技術よりもアイスクライミングの技術が必要だと言うくらい、夏でも岩の間は凍り付いて鉄板のようだそうですツェルマットとマッターホルンおわりクイズ問題back numberリンク 011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-1リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-2 (解答編) 次回クイズリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-1
2011年01月07日
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「2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-1」の解答編です。2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-2今回はサクサク・・解答編です。マッターホルンのお膝元アルピニストの聖地・・ここはスイス、ツェルマットです。ツェルマット(Zermatt)マッターホルン山麓にあるこの街はスイスの南、ヴァレー州にあります。 ヴァレー州ツェルマットは谷間の街・・・シュルーマッテン・リフトからマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点のツェルマット駅氷河急行・グ レッシャー・エクスプレス(Glacier Express)が停車しています。昨年紹介したスイスアルプスの山岳地帯を走る山岳鉄道である氷河鉄道は、この街ツェルマットからサンモリッツの間で運行されています。前回も紹介したようにこの街はガソリン車の乗り入れ禁止の為に、この街に入る人のたいていは列車になります。日本人の観光客なども前のテーシュの駅から乗り込むのです。その時に荷物は別の電気自動車で運ぶ場合もありますが、自分でカートに乗せてツェルマットまで来るのです。だからめずらしい事に駅には空港のようにカートが並んでいます。駅前には電気自動車が停車。ホテルまでの荷物搬送用や送迎車です。こじんまりした街ですが、小さな田舎の町にしてはさすが観光客が多いので賑わいがあります。マッターホルンをアタックする人のみならず、スキー場やもちろん風光明媚な観光名所がとりそろっている場所だからです。ツェルマットからマッターホルンの頂上を目指す人はツェルマットの北からシュルーマッテン・リフトというロープウエイに乗り、途中フーリで乗り換えシュバルツゼーで降り、さらに登山してマッターホルンの麓のヘルンリ小屋のあるマッターホルン・ヒュッテまで行くのです。登頂する人達は、ヒュッテに宿泊、そこから朝の暗い内にマッターホルンの頂上を目指して出発するのです。ツェルマットの街からの朝焼け左の反っている所が北壁です。のせきれなかったので次回おまけとしてつづく。リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-3 (おまけ)クイズ問題back numberリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-1
2011年01月06日
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今回も以前紹介した事のある中からの出題です。2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-1この街はどこでしょう?ゴルナグラート鉄道終点まで33分ほどですが、この街の観光の目玉となる景色を堪能する為の鉄道です。電車で朝の通勤をしている働くわんちゃんです。この電車の終点ゴルナグラードまで毎日乗車しているのです。この国では救助犬として活躍するワンコたちですが、彼らの職業はモデルなのです。ややこしいですが、山岳救助犬のコスプレをしたモデルのセントバーナード犬なのです。コスプレ? 首に付けたプチ樽は山岳救助犬の必需品で、中には救助者に飲ませるブランデーが入っているのだそうです。要するに、アルプスと山岳救助犬と観光客が収まる記念写真用のモデルさんたちです。実は、2009年5月「仕事で電車通勤するセントバーナード犬 」で紹介しています。氷河このあたりは4000m越えの山が多いです。山頂のゴルナグラード駅から下りはハイキングで途中駅まで下山。リッフェル・ゼー越しのマッターホルンは写真撮影のベスト・ポイントです。欧州の3大名峰(マッターホルン、モンブラン、ユングフラウ)の一つであり、3大北壁(マッターホルン、アイガー、グランド・ジョラス)の一つこれがマッターホルン(標高4478m)です。ここどこ? の街はこの山の麓にあたります。マッターホルン・アタックにはこの駅から始まります。この街はガソリン車禁止のエコな街なので、バスで乗り入れる人も一つ前の駅で電車にのってこの街に入るのです。この駅は昨年紹介した氷河急行(Glacier Express )グレイシャーエクスプレスの停車駅でもあります。次回解答。リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-2 (解答編)リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-3 (おまけ)
2011年01月05日
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問題のback numberリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-1リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-22011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-3 (解答編)マルコポーロの出身地時間を止めたようなロマンティックなこの街は日本人観光客も多く人気が高い所です。大運河にかかるリアルト橋ここはこの街の目抜き通り(運河)で、13~15世紀、この地区はこの街の商業の中心地として栄えた場所です。東(アジア)と西(西欧諸国)を結ぶ商業都市として栄えたこの街は、海上貿易の商人の街であり、国際都市だったのです。かつてマルコ・ポーロはこの街から大航海に出発しましまた。チンギス・ハーンに気に入られ、中国で25年を過ごしこの街に帰国したのは1295年。故国にもどった彼はみんなから忘れ去られた存在だったそうです。帰国後にこの街は敵対していたジェノヴァと交戦。兵士となり出兵し、敵地で捕まった彼はその獄中で著述家のルスティチェッロに会い、彼がマルコの旅を記録して「東方見聞録」として残したのです。(しかしルスティチェッロはかってに余計な事を書き足した為にちょっと怪しい内容になってしまったようです。)1299年マルコは釈放されてこの街に戻り、再び家業の商人に戻ったようですが、その後この街を出る事はなかったといいます。リアルト橋周辺の運河沿いはレストランが多い?ここでは運河は普通に道路なのです。家は完全に水の上に建てられています。鉄柵は玄関だったり自家用の船の車庫だったり・・。本当に水没した家です。かなり細い路地もゴンドラは行く・・。大運河を戻るよりも裏道を抜けた方がサンマルコ側の海に出るのは近い。写真は逆走。リアルト方面に向かっています。この街の形容詞は「水の都」ここはイタリア、ベネチアでした。次回もクイズリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 2-1
2011年01月03日
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「2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-1」引き続き問題です。2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-2この街では、四旬節直前の2月に謝肉祭(カルネヴァーレ)が盛大に催されます。復活祭前の禁欲日・・である 四旬節(レント受難節)に入る前におもいっきり馬鹿騒ぎをする・・のか゜ルーツで、それはこの街の伝統的行事でもあります。このカーニバルは仮面を着けておこなわれるのが特徴です。現在のものは近年再開されたものですが、もとは共和国時代からの習わしで、身分の高い者も仮面を着けてカーニバルに参加する事ができるからです。簡単に言えば、身分を越えた無礼講のお祭りだったのです。共和国時代の貴人の仮面スタイルですね。今は観光化されて、この日の為に海外から旅行者が訪れて大盛況です。ペアでテーマある素敵な衣装を身につける人達。観光協会のひともいるかもしれませんが、たいていは好きでコスプレしているので、写真を気安くとらせてくれます。むしろ、撮られる事が嬉しいようで、決めポーズまで・・。正確に言えば四旬節直前の3日間がカーニバルです。上がサンマルコ広場下がサンマルコ寺院・・・大きなヒントです。大運河に浮かぶゴンドラ・・・と言えば答えはわかりますよね。鐘楼と寺院がこの街の象徴でもあります。答えは次回にリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-3 (解答編)問題のback numberリンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-1
2011年01月01日
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2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-1サグラダファミリアは後1回紹介したいところですが、しばらくお休みして特別プログラムです。昨年のお正月から始めた休暇中の暇つぶしゲーム「クイズここはどこ?」初回は以前紹介した国からの紹介なので、前から見てくださっている方からは簡単かもしれません。昨年のお正月は少し難しかったですね。この建物は初? かもしれません。かつてここは税関でした。今は街になっていますが、かつてここは一つの王国、××共和国として栄えていました。私も大好きな街です。非日常の中にあるこの街は500年もの昔から多くの芸術家が訪れた街なのです。あちらに見えるのはサンジョルジョ島の教会です。この街にはたくさんの教会があります。税関を反対方面から撮影。向こうに見えている建物は・・・バレた?水上バス・・バポレッタ乗り合いのバス代わりの船は市民の足です。この街では船が市民の足です。なぜなら車が無いからです。なぜ無いのか? 車の通れる道が全く無いからです。船は一応ルールにのっとって運航されています。海の中には木の杭が打たれ通り道を示唆しています。不思議な感じです。こんな景色はここにしかありません。いろいろ旅行していて、やはり最も印象の残る・・再び訪ねたい街の一つです。水上バスのバス停です。あの建物はダニエリホテル(DANIELI HOTEL)です。この街でも高級で有名なホテルです。STARWOODS傘下のCIGA系列ホテルです。昔は貴族の館だったようです。リド島の方は同じ系列のエクセシオールとホテル・デュバンがあります。私は島の方が好きなのであちらに宿泊しました。数々の映画の撮影場所となり世界的に有名な街で、もちろん世界遺産登録されています。警察のパトカーも船です。路地この街のシンボルです。前回サグラダファミリアで紹介している4福音書記者のマルコがこの街の守護聖人としてまつられています。問題続きの写真です。リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-2解答編リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 1-3 (解答編)
2010年12月31日
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「2010年夏クイズここはどこ? シリーズ」のスイス編のBack numberをラストに入れました。ずいぶん長いグイズシリーズをしていたようで、改めて驚きです。本当はスイスでまとめたいですけどね。休み前の宿題です。2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 1 (宿題)やっぱり涼しい所にしました車窓から・・とは言え、電車に乗っているほとんどの時間はトンネル内です。欧州一、高台にある駅に向かいます。頂上は冬並みの寒さ。駅の上にはスフィンクス展望台。展望台の眼下にはアルプス山脈最大のアレッチ氷河。アレッチ氷河を取り囲む9つの山頂はいずれも4000m級。ヒント載せすぎましたか・・・。考えてから解答を見てね。リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 2 (戻ってきました)Back numberリンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-1 (車窓から)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-2 (ディセンティス駅)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-3 (解答)グレンシャー・エクスプレス(Glacier Express)氷河急行リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-4 (オーバーアルプ峠界隈) 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 1 (宿題)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 2 (戻ってきました)ヴェンゲルンアルプ鉄道(WAB・・・・ WengernAlpBahn)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 3 (クライネシャイデック)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 4 (ユングフラウ鉄道 1)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 5 (ユングフラウの四季)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 6 (アイガーグレッチャー界隈)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 7 (アイガーグレッチャーと駅)ユングフラウ鉄道(JB・・・Jungfraubahn)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 8 (アイガーヴァンドから)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 9 (ユングフラウヨッホ駅)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 10 (グロッサー・アレッチ氷河)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 11 (ユングフラウ)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 12 (スフィンクス展望台)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 13 (ユングフラウ終章)リンク スイス・カートレイン 1 (レッチェベルク線)リンク スイス・カートレイン 2 (レッチュベルクトンネル)
2010年08月22日
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「2010年夏クイズここはどこ? シリーズ」のスイス編のBack numberをラストに入れました。ずいぶん長いグイズシリーズをしていたようで、改めて驚きです。本当はスイスでまとめたいですけどね。欧州は、昔はそんなに暑くなかたのか? クーラーも入れていないホテルがけっこうあるようです。2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-1 (車窓から)一般的にその国のイメージは、「涼しそう」。何しろヨーロッパ中央部を東西に横切るアルプス山脈が横切っているからです。それ故に標高により気候はかなり異なり、標高の高い地帯の冬は厳しく、逆に南部は地中海の影響で熱帯の植物もはえていたりと、かなり温暖らしい。今回は写真の景色で推測してみて下さいたぶんライン川です。この先から支流のフォルダーライン川に移ります。造山運動の跡が見える山の岩肌・・・。恐竜の背中みたい・・。他のラインから来た鉄道と合流する駅です。この国は意外に鉄道が発達しているのですが、その4割は私鉄なのだそうです。ただ相互乗り入れも多く、時刻表でも国鉄と区別無く扱われているので、ちょっと見区別が付きにくい。しかも、私鉄同士も相互乗り入れ、あるいは共同運行をしている。今回の鉄道ラインは全長280kmなのに3社の会社の共同運行です。知っている人なら、これを見ればすぐ解っちゃうか・・この共同運航便は特別な名称を持っている。この鉄道区間の中ではこのあたりはまだ標高の低い方です。おそらく800mくらい。この鉄道路線は、最大標高は2033mまで行く。列車は景色を見せる為にとてもゆっくり走行してくれる。つづくリンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-2 back number 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-1 (車窓から)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-2 (ディセンティス駅)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-3 (解答)グレンシャー・エクスプレス(Glacier Express)氷河急行リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ3-4 (オーバーアルプ峠界隈)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 1 (宿題)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 2 (戻ってきました)ヴェンゲルンアルプ鉄道(WAB・・・・ WengernAlpBahn)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 3 (クライネシャイデック)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 4 (ユングフラウ鉄道 1)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 5 (ユングフラウの四季)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 6 (アイガーグレッチャー界隈)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 7 (アイガーグレッチャーと駅)ユングフラウ鉄道(JB・・・Jungfraubahn)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 8 (アイガーヴァンドから)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 9 (ユングフラウヨッホ駅)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 10 (グロッサー・アレッチ氷河)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 11 (ユングフラウ)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 12 (スフィンクス展望台)リンク 2010年夏クイズここはどこ? シリーズ 4 - 13 (ユングフラウ終章)リンク スイス・カートレイン 1 (レッチェベルク線)リンク スイス・カートレイン 2 (レッチュベルクトンネル)
2010年08月18日
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今年の2月から3月にかなり詳しく取り上げています。実は例の祭りがもうすぐなので思い出したのです。今年は9月6日らしいですよ2010年夏クイズここはどこ? シリーズ2-3 (ゴジェスカ)この階段はある所の階段です。今回もこの街のイメージから・・。景色よりもこちらの方が有名なのです。スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州マラガ(Málaga)県ロンダ(Ronda)ここはスペイン闘牛を芸術の域にまで高めたスペインの生んだ英雄的闘牛士、ロメロ・ファミリーの発祥の地。ロンダ(Ronda)です。答えはマラガのロンダです。ロンダの闘牛場・・橋のたもと、パラドール・デ・ロンダの近くの新市街にあります。そしてここはスペイン最古の闘牛場であり、スペインで一番大きいアリーナ(闘技場)を持つ闘牛場なのです。観客数5000人。直径66m。ここは騎馬闘牛もできる広さです。砂はアレーナではなく、セビリアの黄色い砂でアルベーロです。ソンブラ(Sombra)・・・日陰席(闘牛士に近くj眩しさを防いで観戦ができるので一番高額)写真下が気品席なのは言うまでもない。「闘牛場の座席」、「闘牛の起源」、「ロメロ・ファミリー」、「スペイン闘牛」など・・・2月、3月に「スペイン・ロンダ」シリーズの中で細かくかいているので見てね。ここでは簡単に・・・闘牛の起源スペイン闘牛の原点は、野生の牛を槍で突く貴族の狩猟の風習にあったと考えられます。その牛がひょっとするとかつてイベリア半島にも生息していた原牛のオーロックス(Aurochs)だったのでは? 何て事も書いていますが・・。もともと馬に乗った騎馬闘牛が始まりだったようです。18世紀になってフランスから来て即位したフェリペ5世( 1683年~1746年)によって、宮廷での闘牛のスポーツは無くなっていきます。しかし、騎馬闘牛は、庶民の娯楽の中で生きて文化として残り、祭りの時に興業されていたのです。現在の闘牛・・・闘牛の様式美・・・ロメロ・ファミリーの貢献最初に馬から降りて地上でムレータ(ヒラヒラ布)をかざして牛と対等に戦ったのがロンダに登場したフランシスコ・ロメロ(1698年~1793年)です。その息子ファン・ロメロはそれを継承してチームで戦う現在の闘牛のスタイルを確立。さらに孫のペドロ・ロメロ(1754年~1839年)は、闘牛のルール、スタイルを様式美として組み込み、芸術性を高めた崇高なスポーツに仕上げたのです。街では、肉屋が解体する前の牛を捕えて、殺す所を、お金を取って見せ物にした者がいます。それが闘牛のショー化になったとも考えられています。闘牛士が祈りを献げる競技場内の礼拝堂ロメロ家に並ぶ、2大名闘牛士一族の1つがオルドニアス家。下はアントニオ・オルドニアス(Antonio Ordonez)(1932年~1998年)闘牛場の入口の記念碑?このアリーナにはアントニオ・オルドニアスが埋葬されているらしい。因みに彼の死因は肝がんだそうです。「ゴジェスカ」は、ゴヤの絵の中の時代の服・・・と言う意味でそう呼ばれ、この日はゴジェスカを着用して闘牛が行われる為にゴジェスカ闘牛と呼ばれます。3日だけの興業で、伝統的な闘牛の一つです。闘牛士だけでなく、観客もゴジェスカのコスプレでかけつける所も面白い所なのです。ゴジェスカの衣装は白地に黒の刺繍です。(写真は前のを見てね。)今年は9月6日開催のロンダのゴジェスカ闘牛(Corrida Goyesca)。今年、闘牛士カエタノ・リヴェラ・オルドニアス(Cayetano Rivera Ordonez)(1977年~)の為の衣装デザインを担当したのはジョルジョ・アルマーニ。(闘牛士カエタノ・リヴェラ・オルドニアスはアントニオ・オルドニアスの孫です。)2008年にもジルジョ・アルマーニはゴジェスカの衣装をデザインしていますからここのところずっとかな?過去にはバブロ・ピカソもデザイン。頼まれるデザイナーにとっても本来は栄誉な事のようでが、動物愛護団体の攻撃が、今や衣装デザイナーのアルマーニにも向けられていると言います。ロンダの街のゴジェスカ闘牛はスペインで最も熱い祭りかも・・・。「シリーズ 2」おわりです。
2010年08月17日
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最近・・と、あるサイトで、サイト内の多数の方と日記のようなミニ・メールをしています。文章からして、おそらく若い人が多いのですが、驚いたのは盆の入りに家族とお墓参りに行く・・と言う方が案外多かった事です。皆さんどこの出身かはわかりませんし、どこからアクセスしているのかも解りませんが、若者もちゃんと盆をしているのだ・・と言う・・何だか日本の未来に安堵を感じました。(私自身が先祖参りをしていないのですが・・・)さて、第二弾のクイズのつづき・・今日もヒントです。2010年夏クイズここはどこ? シリーズ2-2 (岩山にある街)意外な話ではありますが、紀元621年頃、この土地は西ゴート王国(415年~711年)が治めていたそうです。その西ゴート王国は、ウマイヤ朝(イスラーム王朝)との戦いで王が戦死し、王国もそこで消滅。今やその王国の存在自体が伝説のようになっています。その後はイスラムの支配を受けて最終的にこの国はカトリック支配の政体に変わり。今に続きます。この街はイスラムの支配時代に、都市としての外観の大部分が建築されたそうです。そして、この街の一番の観光ポイントがあの橋・・・いえ、あの橋からの絶景です。撮影場所と橋の間には渓谷があります。前回紹介したローマ橋に次いで建設された為にプエンテ・ヌエーボ(Puente Nuevo)「新しい橋」と名がついたようです。1788年に完成した橋は、岩山の間、グァダレピン川に架かる長さ200m、深さが90mもあり、驚異的な高さの橋脚を持った橋なのです。橋の下層は刑務所になっていました。簡単には逃げられない高さです。左手に見えるのが、由緒あるホテルで、あちらが新市街になります。橋の右手に見えるのはカフェ・レストランです。この街は絶景を活かして、絶壁にいくつものカフェが点在しています。橋からの絶景最初の2枚の写真は下の写真左端に見える公園からの撮影です。公園のある左が新市街で右手の建物は旧市街です。つまりここは岩山の上に乗っかった旧街と新街があり、それをローマ橋と新しい橋によって繋いでいる・・・と言う街なのです。名前に地名が入っているので今回伏せますが・・・岩山の絶景ポイントに建っているのはパラドール(Parador)系列の四つ星ホテルで、もと市庁舎でした。ここには歴史的な著名人が多数宿泊しています。ここの絶景にインスピレーションを受けながら書いた詩人もいます。「カルメン」のドン・ホセがイギリスの貴族を殺して逃げ込んだのもここです。前回のヒント暑い、熱い街。下はパブロ・ピカソが、ここの為に描いた絵です。これはもちろんレプリカですが、この街のある場所に飾られています。絵がヒントピカソはこれが大好きでした。ピカソだけでなく、オーソン・ウェルズも有名です。ここは、この国にしかないある競技の発祥の地なのです。それが解ればここがどこか検索できるはず。もう一つサービス・カット生ハムをこの国ではハモン・セラーノ(Jamon Serrano)と呼びます。次回正解
2010年08月16日
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次回の場所を提示しておきます。今回ちょっと難しいかも・・・街そのものを知らない人のが多いからね・・。でも常連さんなら・・解るかな?2010年夏クイズここはどこ? シリーズ2-1 (熱い街)旧市街シウダー(Ciudad)から新市街に入るゲート見えるのは新市街メルカディーヨ(Mercadillo)写真は新市街から旧市街方面のゲート方面を撮影プエンテ・ロマーノ(Puente Romano)ローマ橋最初の橋の橋脚はローマ時代(1616年に改築)・・このあたりでもっとも古い橋。橋の全景・・・実は下は渓谷橋はこんな所にかかっています。これはヒントです。前回これより遠方から撮影した写真を使っています。街を取り巻く環境はとてものどか・・。新市街から撮影。ヒント実はここも以前紹介した街です。しかし、新しい写真が手に入ったので今回のヒント写真は、前回全く紹介していない場所となっています。(内容では触れていますが・・・。)ローマ橋に見られるようにローマ遺跡も周りから出土しています。ローマ時代から地形的な問題で取り合いになった要塞都市だったのです。しかし、ある時伝染病が蔓延して、一次的にこの町は廃墟となったそうです。その後ここに住み着いたのは盗賊や密輸業者などの社会的なアウトロー達と宗教的異端児達です。そう言えば、橋の名前を公表しましたが・・・プエンテ・ロマーノ(Puente Romano)ローマ橋・・・ヤフーで検索しても出てこないですね。私も調べるのに苦労しましたから・・。この街はどこよりも暑い、熱い、街だと言っておきましょう
2010年08月15日
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すっかりメンテの事を忘れてました・・災厄は忘れた頃やってくる・・・昨晩終わらせるつもりが・・・今回おまけ写真は12枚載せました。観光ガイドブックでのモナコの扱いは小さく情報も写真もあまりないので・・。2010年夏クイズここはどこ? シリーズ1-4 (おまけ)モナコ大公宮殿とモナコ大聖堂とグレース・ケリーの墓所海抜60mの岩山(ロシェ地区)・・・モナコ・ヒルには旧市街や王宮、モナコ大聖堂、国会議事堂、熱帯庭園、海洋博物館などがあります。写真左の丘がモナコ・ヒルモナコ王宮(Palais du Prince)ジェノバ人の建てた要塞の上に築城された王宮は13世紀から現代までの建築様式がいろいろ混ざり合っています。初期の要塞の面影があるのは時計塔のあたり・・。縦に細い隙間は中世の銃眼です。現在モナコの防衛はフランスが領土防衛の責任を持っているそうです。今はお飾りとなっていますが、あちこちに今も大砲と砲弾がオブジェとなっています。かつてはジエノバ、フランス、スペインなどから戦略的な要所として狙われる土地の為にモナコ王家グリマルディ家は戦い、防衛してきた歴史の跡です。像は誰だかわかりませんが、大砲と砲弾はルイ14世から贈られたものだそうです。古い城で実際に大砲が飾られているのを見るのは初めてです。王宮正面王宮は6月~10月まで一部一般公開されています。モナコ王家グリマルディ(Grimaldi)家の誕生モナコ王家の始祖は13世紀ジェノヴァ出身のフランソワ・グリマルディ(François Grimaldi)(生没不明)にさかのぼります。ギベリン(皇帝派)に占領されていたこの要塞をゲルフ(教皇派)のフランソワが修道士に化けてまんまとのっとった(1297年)・・と言う所から・・だそうです。実際にこの土地の支配が始まるのは彼の従兄弟にして義理の息子カーニュ領主, レーニエ1世(1297年~1301年)からです。ざっと見ても700年続くグリマルディ家の支配です。(すんなり・めと言うわけではありませんが・・)現在も政体はグリマルディ家が世襲し、大公を元首とする立憲君主国です。中央門は1690年ルイ1世により建造。衛兵の服は夏服です。モナコ大聖堂モナコ・ヒルの上に建つ教会は宮殿から歩いて5分程度、もともとは要塞化した王宮内の一部と言える教会である。教会建設に使用した石材は時計塔と同じテュルビー産の白い石。1875年着工1884年完成され、1887年からヴァチカン直属の司教区になっていますが、内部はモナコ王家グリマルディ家の歴代諸王の墓所としてあり、王家の礼拝堂の役割を持っています。レーニエ3世(Rainier Louis Henri Maxence Bertrand Grimaldi)(1949年~2005年)とグレース・ケリーの結婚式(1956年4月18日)も、ここで行われています。祭壇はカラールの大理石。スペインのルネッサンス様式・・・とか・・。3つの礼拝堂と奥が王家の墓所となっていて、ここにハリウッドの女優からモナコの王妃となったグレース・ケリーの亡骸もおさめられています。割と近年に建てられた教会わりには、ゴシックの様式を持つ威厳のある教会です。天井のモザイク、ルイ・ブレアのピエタ、16世紀の絵画など一見の価値あり。床に何気にある王家の墓所は意外とシンプル。グレース・ケリーの墓所には花が絶えません。(手前)グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly)(1929年~1982年)ペンシルベニア州フィラデルフィア出身のアイルランド系カトリックだそうです。家族の反対を押し切り舞台女優を目指してニューヨークへ、1951年、22歳でハリウッドから声がかかり映画デビュー映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優としてヒロインで「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」「泥棒成金」に出演。モナコ大公レーニエ3世との出会いは1955年のカンヌ国際映画祭といわれていますが、実はレーニエ3世は「泥棒成金」のニース・ロケの現場にモナコからこっそり彼女を見に来ていた・・・と言うファンだったようです。レーニエ3世との結婚が決まり、スクリーンの最後の作品はミュージカル映画「上流社会」。ハリウッド女優としてはクール・ビューティー路線。その気品は、もともと大富豪のお嬢様だったからのようです。1956年4月に結婚して3人の子供の母に。カロリーヌ王女(1957年~)アルベール皇太子(2005年即位してアルベール2世)(1958年~)ステファニー王女(1965年~)次女ステファニー公女が運転した車に同乗していて崖から落ちて亡くなった時は世界中のニュースに。事故は母親と口論になったステファニー公女の暴走運転が原因だったと思ったが・・。スキャンダルなので事実は隠蔽(いんぺい)されています。ヒッチコックもグレース・ケリーも好きだったから残念でした現国王のアルベール2世は2011年7月に結婚の予定ですが現在独身。隠し子認知騒動など、父親のレーニエ3世もそうでしたが女ぐせが悪い血統かもしれない。さて、次回はどこに・・。 (メンテですっとんだのでやり直しでした)
2010年08月14日
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連日戴き物のフルーツが届いています。ありがたい事ですが、よりによって集中してしまった為に冷蔵庫の中はフルーツでいっぱい・・・他の食材がいっさい入るすき間がありません2010年夏クイズここはどこ? シリーズ1-3 (解答編)まずはこの国のイメージから・・何と言ってもこれ・・これはフォーミュラー1(F1)の目線のつもり道路はこんなものです。ここで市街戦をするのですから驚きです。これはF1モナコGPのモンテカルロ市街地コースの一部です。この国のイメージはやはりF1モナコGPでしょう。つまり正解はモナコ公国(Principality of Monaco)でした世界3大レースの一つです。(伝統的に・・・)インディ500・・・・・・・・・・・・・・・・第1回開催は1911年ル・マン24時間(耐久)レース・・第1回開催は1923年F1モナコGP・・・・・・・・・・・・・・・第1回開催は1929年GPとしてはイギリスやイタリアGPより古いです。湾岸を走る道で、レースカーはマンションの下もくぐり抜けています。写真右端のマンションがそうです。ここにはデューク更家氏が以前居住してましたが・・。王宮下のハーバーの湾岸(アルベール1世通り)はフォーミュラー1(F1)のスタートやピットガレージとなります。ハーバーのコーナーから中ほどが観覧席です。土地のない街なのに街の公道でレースなんて大胆ですね。下の写真は2006年6月2日2006年のモナコグランプリは5月28日に行われたので、写真はすぐ直後、観覧席やステージ、ピット等の解体作業中。モンテカルロの街はこれから静けさを取り戻す所です。F1モナコGP 市街コース(3340m)の図・・これを約78周走るのです。上の写真は図の左部分内側右部分は全てハーバー側左がピット・ガレージですね。F1モナコGP(Formule 1 Monaco Grand Prix)第1回モナコグランプリは1929年4月、モナコ自動車クラブの運営で16台でカーレースが行われたと言います。その時のグランプリはウィリアム(Bugatti)で平均時速80kmだったそうです。現在レースは2時間以内で収まるように100周から78周に減らされているので、平均時速130km~140kmは出ているのではと思います。(技術革新ですね)市街地コースの中でもコースの幅が狭く、カーブばかりなのでエンジンパワーよりもマシンのトータルバランスが重要だと言います。もちろんドライバーの技術力と集中力は絶対です。追い抜き困難なコースである為に予選タイムによるポールポジションの獲得が優勝のカギとなるのです。今年の2010年5月のF1モナコGPで68回目となります。モナコ公国(Principality of Monaco)国土をすっぽりフランスに囲まれた特殊な国ですが、歴史は古いのです。かつてヘラクレスの神殿があった・・と伝承されていたこの港は「Hercules(ヘールクレース、エルキュール、ハーキュリー)」と呼ばれ、古代フェニキアやカルタゴ時代の船乗りがよく利用していたそうです。ハーバーのすぐ目の前の崖の上に王宮が見えます1215年、戦略拠点としてジェノバが港の上に要塞を建設。その跡地に王宮(モナコ大公宮殿)が造られました。(まだ一部に当時の要塞が残っています)せっかくなので次回王宮とグレース・ケリーのお墓を紹介。それから次のクイズに進む予定です
2010年08月13日
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ちょっと経済の話から・・・。ブログを休んだ休暇中? に、面倒でほっておいた株式のトレーダー画面の再構築をしてました。リーマン・ショック以来塩漬けにした株・・・放置して見向きもしなかった株式・・。久しぶりに開けたら、今までのセッティングが全部初期化されていて、またフタをしていたのです時間がまとまってできたので、今がやり時か? と登録や画面の配置の変更、その他トレーダーズ画面を自分仕様に戻すのに・・・すごーく苦労しました。しばらくやらないうちに同意書のサインがものすごく増えて、取引画面を開くのさえ大変だったのですリーマン・ショックの教訓か? リスク確認の内容が増えたのかもしれません。さて、新聞の折り込み広告に見る私の景気感は、「折り込み数がかなり増えている・・」事から世間の景気はかなり回復してきたのでは? と見受けられます。しかし、株式の価格は、依然ふざけた数字で、全然元にもどる気配がありませんこれはやはり「信用売りして儲ける輩(やから)が市場を荒らしている。しかもその数が多いからだと思います。つまり、日本の株価が下がるほど自分が儲かるので喜ぶヤツが多い・・と言う事です「株が高くなり、企業も世間も株主もラッキーだ・・。」と言う本来のあり方に戻さないと、日本経済は駄目になってしまう・・・と素人の私でも思うのです。なぜ日本政府は何もしないのか? 今、時代は変わっています。「市場は市場にまかせる・・」時代ではないのです。お金を持っている人間が、市場を操作できる時代なのです。政府としての規制の介入なくして、この下落システムは収まらない・・と思うのです2010年夏クイズここはどこ? シリーズ1-2今回もヒント続きです・・・ ♪~(^^~) (~^^)~♪♪以前紹介したのは昨年の4月、2回扱っていますが、あの頃は写真の容量を大きくいれていたので写真が少なかったようです。この街・・いえ、この国のほぼ70%はこの下の写真画面に写っている・・と言っても過言ではない。 画面右端の建物の裏手あたりが、この街の中心的な広場のある所です。要するに規模が小さい国なので、首都であるこの街がそのまま全国土なのですヒント・・世界で2番目に小さい国で、国連加盟国としては世界最小。カジノ広場・・グラン・カジノとオテル・ドゥ・パリ正面がグラン・カジノ(Grand Casino)で写真右に五つ星のオテル・ドゥ・パリ(Hôtel de Paris)があります。共にこの国を代表するカジノであり、ホテルです。この国は個人居住者に対して所得税がない国・・つまり税金のいらないタックス・ヘイヴンとされる国です。しかし、居住者は富裕な人達に限られています。その多くは実業家ですが、F1ドライバーの居住地としても有名です。グラン・カジノ(Grand Casino)1856年、シャルル3世により創設。建物はシャルル・ガルニエ(Charles Garnier)(1825年~1898年)の傑作です。彼は、フランスの建築家で、彼の代表作はパリ・オペラ座(ガルニエ宮)と、このグラン・カジノのなのです。パリのオペラ座の再現と言われるのはそれ故ですね。昼間から黒塗りの高級車がいます。中にレストランもありますが、そもそもこの建物に入るのに入場料がいります。夜のグラン・カジノ(Grand Casino)夜こそがカジノの本番。金持ちは、昼間は寝ていて夜活動するそうですよオテル・ドゥ・パリ(Hôtel de Paris)1864年の創業のこの国を代表する五つ星のクラッシックホテルは世界の王侯貴族に愛されてきたそうです。オテル・ドゥ・パリには年を通 して一室を借り切っている人もいるといいます。(カジノは目の前だし・・。)ホテル1階にはレストラン「ルイ・キャーンズ(Le Louis XV)」がある。ルイ・キャーンズ(Le Louis XV)・・・ルイ15世?ミシュラン3つ星シェフ、アラン・デュカス(Alain Ducasse)(1956年~)が監修する文化と料理の関係を追求した美食グルメ・・ガストロノミー・レストラン(gastronomy restaurant)である。ランチなら一万円くらいで食べられるらしい・・・。特に海側のスイートはデラックスグラン・カジノはこの写真の右手カジノとホテルとソシエテ・デ・バン・ド・メール(S.B.M.)社この国の経済的方針でカジノは国営として多数建設されていました。19世紀の一時期はカジノ収益は国家収入の9割を占めていたそうですが、現在は5%以下だそうです。経営は、国営から半官半民の企業「ソシエテ・デ・バン・ド・メール(S.B.M.)社」へ移管され、企業としての現在はレジャー、ビジネス、カジノ、美食、健康、文化、スポーツといった産業分野にまで展開。さらにホテルやレジャー施設を国外にも展開して手広い企業経営をするに至っています。所有するのはグランド・カジノを含む5つのカジノ。世界で最も洗練されたホテルとされるオテル・ド・パリ、オテル・エルミタージュ、モンテカルロ・ビーチ、モンテカルロ・ベイホテル&リゾートの4 つのホテル。32 の主要レストランと美しいスパ等です。もともと国営・・この国は小さなロイヤル(王室)の国です。つまり、国営企業は王家の企業なのです。「ソシエテ・デ・バン・ド・メール(S.B.M.)社」について誰も書いていませんが、ロイヤル・ファミリーの経営する企業なのは間違いありません。(通称. Monte-Carlo S.B.M. 代表取締役社長 ベルナール・ロンベール)グラン・カジノ前から夜のオテル・ドゥ・パリ方面・・・にぎやかです。1年のうち300日以上が晴れという気候、一人で歩いても安全と言われる国です。さて、次回解答編。
2010年08月12日
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帰ってきましたちょっと手抜きな「ここはどこでしょう? クイズ」2010年夏シリーズです今年は正月と5月の連休と3度目になりますね。手抜きにしたい・・・とはいえ場所の選定や写真の選定はやっぱりちょっと大変です。もうちょっと休みたい気持ちはあるのですが、覗きに来てくれる方もいるのでお盆の最中もお休み仕様で軽ーく入れていきますね2010年夏クイズここはどこ? シリーズ1-1まず一弾目は地味に始まってます。ここは一応欧州です。街路樹が南洋ぽい所もヒントかな? 要するに暖かい? 方に入る ? 地形的には、熱海・・ぽい所ですね。全然似て非なるところですが・・。なぜこんな写真か・・と言いますと、これから国境越えなのです実は以前簡単に紹介した事のある街です。その時は電車で入国して駅の紹介をしたような・・・。 前から見てくれている人にはわかっちゃった?写真下の右のポールが国境の標識です。沿岸まで山がせまっているので、湾岸にはほとんど道はなく、山の中をクネクネ? ジグザクに近いかもしれません。かなり急勾配です。ここがメインの入江? です。クルーザーがたくさん係留されていますが、たいていは他から遊びに来ている人かも・・。ここは税金は安いけど家賃はバカ高いのです。土地がないですから・・。高台からハーバーを撮影。何かとよくテレビに写っているハーバーですよ。実はこの写真は王宮前広場からの撮影です。王宮・・そうロイヤルな国なのです。下のヘアピンカーブ・・・これが大きなヒントです世界で最も有名なヘアピンカーブだと思いますよ。みんな一度はテレビで見てるでしょ・・。ハーバーには入れないけどこんな大きな豪華客船も停泊しにくる所です。セレブがランチに来そうなレストランのテラス。眼前に見える海は地中海。大ヒントです。つまり、地中海性気候で緯度の割には温暖な土地なのです。最近海外での事故が続いていて心配ですね。小さなトラブルは年中あるけど大きなトラブルはそうそう無い・・はずなのですが・・・。確立的には、それだけ数多くの日本人が外国に行っている・・と言う事なのでしょう。国内だって油断出来ないですよ、お盆休みの海や川・・気を付けてくださいね。台風近づいているようだし・・。答えは次回か? もう一回小さなヒントを入れるかも・・。
2010年08月11日
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嵐山の写真を同行した姉達に写真提供を頼んでいたのが、今頃手に入りましたが、すでに終わってしまっているのでお蔵入りとなりました良い写真があるので、残念ですが・・。(どこかでまた使えるかな???)ここはどこでしょう? クイズ (海外編)久しぶりの海外編、まずは「ここはどこでしょう? クイズ」から入らないとね写真はある特派員から入手したばかりの生々しい? 直近のものです。いつもなら晴れ渡った青い空が出迎えてくれるはずなのに・・・。ヒント ガスが出ているので曇っているようです。最近ちょっと活発で・・。ここは、どちらかと言うと危険な場所なので土地は安いのだそうです。でも、危険やリスクを考えるとたいていの人は、わざわざ好んでここに住もうとは思わないと言います。とは言え、観光では自慢の見せ場があります。このあたりは人も住まない不毛の台地。最近は行ける範囲に規制がかかっていると言います。原因はもちんガスに関係しています。ヒント ところでここ・・・はコーヒー豆の生産に適した「コーヒーベルト」地帯に含まれています。(南北両回帰線の間・・北緯25度、南緯25度間)現在コーヒー豆を生産している国は60数か国あるそうです。1825年ブラジルから最初の木が持ち込まれ、今やここの地名の付いたコーヒー豆は一つのブランドとなっています。この農園は、フアラライ山の中腹(標高500~800m)で、日本人経営の農場です。(皆知っているコーヒー会社の持ち物です。)春には、ほんの数日だけ可憐な白い花が咲く。コーヒー豆はアカネ科コフィア属(常緑樹植物)の実の種子です。飲用目的で栽培され流通しているのは「アラビカ種」「カネフォーラ種ロブスタ(通称ロブスタ)」の2品種。アラビカ種・・・エチオピア原産。主に高地で栽培され、香味が優れて豊か。 産地ごとの土壌や気候の違いによる個性があるそうですが、 全体の75%~80%を占めるそうです。ロブスタ種・・・・コンゴ原産。比較的低高度の高温多湿の土地でも栽培可能。 安価なので、主に缶コーヒーやインスタントコーヒーに使われるらしい。1本の木からはコーヒー50~60杯分の豆しか採れないらしい。ヒント・・ダイレクト便が飛んでます。ガスは火山ガスの事です。最近ちょっと活発化してガスを噴出。国際空港なのに・・歩くのね・・・。
2010年05月20日
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連休振り返れば、あちこち無計画に回っていたので、全然合理的ではなかったけれど、新しい発見は結構あったので、次回に行きたい所がある程度見えて来た気がします。日本もなかなかいいんじゃないですか? 若い時には気付かない寂び(さび)を奈良では特に感じました。ただ、平等院ではさすがに劣化が激しくて、もう少し修復したらいいのに・・・と感じてしまいました。奈良時代の物は時代が古い分、難しいのかもしれません。老朽化がイコール寂びになるわけではないと言うのも解りましたし・・。さて、そろそろ海外ネタに戻るか迷ったけれど・・・連休中に撮影した分をやはり今、この季節に紹介しておきたいのでラストもう一つ挟みたいと思います。「ここはどこでしょう? クイズ 7 (連休編)」 としておきます。今回は、いきなりでは解らないと思うので、ある程度名前を出して、地域の場所の特定クイズにしておきます。ヒント 今度は、意識的な侘び(わび)の本場です。ヒント 場所は京都の西方面、阪急で行ったので、川の南(西京区)に駅があり、JRは川の反対側(右京区)に駅があります。京都は流れる場所で、川の名前が異なります。今は統一された表記があるのだそうですが、それでも昔からの呼び名で呼ぶ人がほとんどです。写真は中之島公園からの景色です。ヒント 淀川水系の一級河川が係わる水系で、「桂川」が正式名ですが、この地点は大堰川(おおいがわ)と呼ばれています。ヒント この橋が有名な渡月橋(とげつきょう)です。仁明天皇の治世(834年~848年)に架橋されたと言う、ここも1160年近い歴史を持つ場所です。現在の橋は1934年(昭和9年)に架橋されたもので、橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製で、欄干部分のみ木造。川上側の景色・・ボートのいる地帯に着目ヒント 堰(せき)の先、川上に行くと保津川となります。ヒント トロッコ&川下り。ヒント 映画やテレビドラマの撮影でよく映る場所です。特にサスペンスの殺し物系で・・。船越さんはいるかな? 行きはのんびり「よいよい」でしたが、帰りは・・電車の時刻がせまり、ものすごい勢いで走って戻ったので心臓が超バクバクで死にそうでした結局改札入った所まで行って乗り遅れましたが・・・(阪急は発車が1分早いぞ)橋を渡って川下側・・この信号左方面がメインストリート橋を渡って川上側 その先に貸しボート屋がある。観光地は今や人力車が多いようです。(エコ・ブームだから?)昔は牛車でした。もちろん御所車は貴族だけですが・・・。この御所車は斉宮行列で使われる牛車だそうです。そう言えば、タイムリーですが、今日(15日)は京都の三大祭りの一つ、葵祭の日だそうです。御所車を牛が引く姿が見られるようです。しかも時代衣装を着た平安絵巻が見られるので、「今から京都に行こう! 」なーんてね5月15日の葵祭は、ここではありませんが、5月第3日曜日は三船祭りがここで行われます。4枚目の写真に戻って「ボートのいる地帯」が船遊びの場所です。これも平安時代の船遊びの再現なのだそうです。「やっぱり京都に行こう! 」ですね竹林の向こうに上の斉宮のいた神社がありますが、その答えは次回に・・。筍(たけのこ)がたくさん出てきています。掘りたかった・・・次回答え
2010年05月14日
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ついに疲労から? 喉から炎症発生風邪をひいてしまいました。かなり辛いです。保険証を持ってきていないので、市販薬で何とかしていますが・・・。とりあえず答えだけ出して、具合次第で明日はお休みかも・・です連休、ここはどこでしょう? クイズ6 (第3段目の答え)寺の本尊を祀る所を金堂と言うそうですが、ここには盧舎那仏の大きな座像が安置されています。それが、いわゆる奈良の大仏です。奈良、華厳宗大本山、東大寺大仏殿(金堂) 盧舎那仏(大仏)次回他の写真も紹介です。説明付けます。
2010年05月07日
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いよいよ今日で連休も終わりですね私の旅行はもう少し続きますが、毎日出歩きとブログ更新でちょっとグロッキーです昨日は途中で手を抜いてしまいました・・・。今日は2回目の前身マッサージに行ってきましたが、ブログのせいで猫背になり、それが凝り固まって1度ではほぐせないくらいのタ゜メージなのだそうです。旅行が終わったら休もうかと思っていますが、とりあえず今回もクイズです。連休、ここはどこでしょう? クイズ5 (第3段目のクイズ)これは、何だと思いますか?ある意味日本とは思えませんが・・・。実は駅です。行った事のある方や近所の方は一発でわかるかと思いますが、私はビックリでした。さて、ここはどこの駅でしょうね。駅からここまで本当ならバスで10分程度の所を渋滞がひどくて40分もかかってしまいましたもちろん帰りは歩いて帰りましたが・・。写真を見てもらってもわかるように恐ろしい人の出でした。でも、ぶっちゃけ東京原宿の「竹下通り」の方がいつもこれ以上に混んでますが・・・。ところで、前回の平等院に比べると外国人が多かったですね・・ここは・・・。表札には「大華厳寺」・・。ここは華厳宗の大本山です。この門の別称は、英語で「Great South Gate」と呼ばれています。現存する門では日本一なのだそうです。幅29m、高さ25m。創建されたのは756年~762年と推定。しかし風や火災で2度倒壊して現在の門は1199年に上棟された中国、南宋の建築様式なのだそうです。左右には一対の巨大な金剛力士像が立っています。次のゲートが下です。これは「中門」と呼ばれていますがこの門のゲートをこぐる事はできません。なぜなら入場口は脇にあり、もちろん有料なのです。ここも1998年に「古都の文化財」の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されています。チケットの為の行列です。入場口は脇にあり、チケット購入の為の行列です。今回の名所旧跡は全て行列でしたいよいよ本殿が見えてきました。さて、ヒント1です。そしてヒント2です。ヒント1の正体はこれでした。ヒント3 野放しの鹿のいる所と言えば金華山とここくらいでしょうね。駅から本殿までにいた鹿達はおせんべを豊富にもらっていて、すでにお腹いっぱいで見向きもしませんでした。しかし、ここの鹿はお腹を空かせていました。なぜならあれだけ人がいるのに裏にはほとんど人が来ないのです。因みにここは本殿裏手になります。改めて建物を見てここがどこで、何があるのか判る人は地元の人か行ったばかりの人だと思いますが、あの本殿に納められた物は、日本人なら99%知っていると思います。簡単すぎたかな?ではおやすみなさい
2010年05月05日
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今日もたくさん歩いて来ました暑いし、人は多いし、列ばなければならないし、距離も歩いているのでメチャ疲れましたでも思った以上に早く戻れたので、持ち越していた2夜目の解答です。連休、ここはどこでしょう? クイズ4 (2夜目の答と次のクイズ)正解は10円玉にありですこの建物に行ってきました。宇治の平等院、鳳凰堂です平安時代中期、王朝文化が花開き、高い美意識が生まれた時代に浄土の楼閣をイメージして建設されたようです。池は、極楽の宝池を模した阿字池です。正面14.2m、側面11.8m 思っていたより小降りでした。コインのような正面の写真は木が邪魔で無理でした。平等院平等院は永承7年(1052年)俗に言われる末法初年に時の関白、藤原頼通によって父、藤原道長の別荘を寺院に改装したものなのだそうです。1053年、阿字池周辺に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂を建立。それが鳳凰堂なのだそうです。江戸の始め頃、建物が鳥の羽ばたく姿に似ている(左右対称だから・・)事と、中堂の屋根飾りから鳳凰堂と呼ばれるようになったとか・・・。平等院の地図写真右上が駅からの表門。表門でチケットを買うまで、30分以上列びました。写真の撮影場所を撮影・・・庭園の中の池の向こうです。空中供養菩薩像鳳凰堂の内部に52体の雲に乗った仏様がありますが、おそらく音聖菩薩であろうと思います。サイズは87cmの立像で、一部鳳翔館に展示。これも夢の極楽浄土を現したもののようです。京都府宇治市の宇治川宇治橋の近くの地図駅に置かれているMAPです。眠いです。クイズは続く
2010年05月04日
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今日は遠出はしなかったもののスケジュールが密で、大分疲れが・・・。簡単に行きたいと思います。連休、ここはどこでしょう? クイズ3 2夜目のクイズ一部解答と継続してクイズ写真の川は京都を流れる宇治川です。宇治川の宇治橋から上流の中之島を撮影しています。琵琶湖を水源とするこの川は、滋賀県大津の洗堰(あらいぜき)から宇治川と名を変えて桂川、木津川と合流して淀川となります。(前回紹介した鴨川が途中で名を変えて桂川となっています。)つまり京都盆地、大阪平野北半部を流れてこの川は淀川と名を変えて大阪湾に繋がっているのです。中之島の上流川で有名な鵜飼いが行われているそうです。下の写真の鵜は脱走した鵜ではないかと思います。なぜなら鵜飼いの鵜はウミウなので、海で捕まえきてトレーニングするからです。鵜飼い鵜飼いの歴史は「日本書紀」(奈良時代に成立した日本の歴史書)神武天皇の条ですでに存在が示されているほど古い伝統漁法のようです。日本では全国12箇所。長良川の鵜飼いが特に有名ですが、京都ではこの宇治川と嵐山で行われているそうです。これも季節の風物詩で、宇治川では6月下旬から9月下旬まで行われているそうです。(宇治では2人の女性鵜匠が活躍しているとか・・。)お茶の産地でもあります。日本茶の高級ブランド、「宇治茶」は、鎌倉時代にはあったそうです。そして室町時代には将軍家や、室町幕府の有力武将により茶園が設けられた茶所となり、江戸時代には幕府に献上するお茶壺道中がここから始まり江戸まで向かったそうです。参道はお茶屋さんとか茶店が多く、茶団子、抹茶ソフトクリームの他、白玉や茶団子、あずき、栗、クリームの乗った豪華抹茶パフェの看板がたくさん出ていました。ところで宇治川の宇治橋の袂にある女性像は・・・もちろん紫式部です。紫式部の書いた源氏物語の「宇治十帖」物語で有名です。物語の後ろの部分の十帖は、宇治を主要な舞台としている事と系統が異なる事から他と分けられてこう呼ばれるようです。最後の答えは次回に少し引っ張ります。入り口から、庭園を抜けて最初に見える例の建物です。実は、別料金で中を参拝できるようになっていて、その渡る橋がこれです。建物を正面から撮影するとバレでしまうのでほぼ横から撮影。向こうの人だかり方面が入り口です。大ヒント・・・池の名前は阿字池です。中にはこのような小さな菩薩がたくさん飾られていたようです。音聖菩薩のようです。この時代の彩色の特徴を現したカラーです。次回解答ですが、明日は遠出をする予定なので、疲れていたら載せられないかもしれません・・。今日も限界です
2010年05月03日
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写真追加今日は、とても暖かく、行楽日和だったせいもあり、ものすごい人の混みようと暑さで、すっかりまいってしまいました。連休って、やっぱり特別混むものなのですね・・・久しく体験していなかったので驚きました。さて、今夜は「連休、ここはどこでしょうクイズ 1」の答えと次の問題です。連休、ここはどこでしょう? クイズ2 解答と2夜目のクイズ1枚目と2枚目の写真の川は・・・・京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川の「鴨川」です。しかし、高野川(加茂大橋手前)の合流点より上流は賀茂川or加茂川と表記されるそうです。写真の撮影は、京都四条大橋からの撮影です。二条大橋~五条大橋にかけ鴨川西岸の料理店では納涼床と言う張り出したやぐらで、飲食を出す風習があり、昨日それが始まったようです。(9月までの期間限定)鴨川源流は桟敷ヶ岳付近とされ、祖父谷川と雲ヶ畑岩屋川が合流して雲ヶ畑川になり、雲ヶ畑川は中津川と合流して「鴨川」とされているようです。しかし、日本神話的には違うのだそうです。貴船神社社伝において、玉依姫命(神武天皇の母)が、淀川、鴨川の源流を遡上した際にたどりついたのが貴船の地とされているからで、確かに、鴨川を遡ると、鞍馬川に繋がり、さらに遡上すると貴船川に繋がるそうですが・・。写真の3枚目は・・・音羽の滝です。京都清水寺の奥の院の建つ崖の下にある古来から「黄金水」「延命水」とよばれる 「清め」の水・・霊水とか聖水とか呼ばれる水です。絶対修学旅行で1度は来て撮影しているはず・・・の場所です。見覚えありませんか?友人の為にシャッターを切っているはずです。清水寺本堂境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に・・。清水寺京都の清水にある音羽山にある千手観音を本尊とする寺院は、。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所だそうです。平安京遷都以前からの歴史を持つ日本でも有数の観音霊場で、1994年、古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されたそうです。清水の舞台から・・・。「清水の舞台から飛び降りる気で・・・」なぜか解らないが、思い切った物事の決断時にそう言う言い方がされている。ウキペディアに寄れば、1694年~1864年の間実際に飛び降りた物は234件で、その85.4%が助かっているらいしい。困った政府が飛び降り禁止令を出したのが明治5年(1872年)なのだそうです修学旅行の生徒の登る参道(清水道)を登ると現れる山門。京都と言えば、絶対外せない場所なのは確かである。今回清水寺にはあまり触れないでおきます。また写真が豊富な時に・・・・。2夜目のクイズそれより今日はものすごく大量の写真を撮りました。クイズの為に? 行ったのは1箇所なのですが・・・行きの電車は空いていたので、山門で入場の為のチケットを購入する為の列に30分近く並んだのには本当にです。(いつもは、こんなに人は来ないのでしょう。はっきり言って要領も悪いのですが・・・。)ここも、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。一度は見ておきたかった場所でした。クイズは、ここも川から始まりです。ここにも有名な一級河川が流れています。大ヒント・・・・ここの名産は茶です。中ヒント・・・・平安時代に生まれたこの方が、この地に由来する物語を書かれています。この物語の名前も考えてください。小ヒント・・・・鎌倉時代初期の建築だそうで。誰もが、このシルエットを見たことがあります。でも、行った事のある人は極めて少ないでしょう。(ちょっと遠いので・・・)だから行った人は解るだろうけど、そうでない人はこの部分だけではちょっと気がつきにくいかな実物を見て、案外規模の小さいのに本当に驚きました。そして、とてもボロイ。まあ1000年も存在しているようなので当然ではありますが・・・。中ヒント・・・・この鳳凰は1万円札に描かれていました。お札を見ても書いてないですよこれもヒントです。今が6分咲きさてさて、今日もとても疲れたのでこれでヒントおわりです。明日のスケジュールも夜までいっぱいです
2010年05月02日
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今日の羽田はメチャ込みでした。ベビー連れの方が多くて、空港のターンテーブルはベビー・カーがたくさん回っていました連休、ここはどこでしょう? クイズ1さて旅行はまだこれからですが・・川です。一級河川なのだそうです。上流には特別天然記念物のオオサンショウウオが生息しているようです。源流は桟敷ヶ岳のようですが、そこでの呼び名は違います。いろいろな聞き知った名の川と合流しながら昔(平安時代)は、流れる場所で川の漢字表記がちがったそうです。おや? やぐらが・・。 あれは川床(かわゆかorかわどこ)とか納涼床と呼ばれるものです。季節の風物詩ですが、今日から始まったようです。(まだ寒いのに・・。)料理店や茶屋、最近はスターバックスも出しているらしいですよ因みに古来この川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られていたそうです。ちょっと山に登って、の滝。 有名な寺にあります。たいていの人は一度は行ってると思いますが・・・。今日は飛行機疲れなので簡単に終わります。これからあちこち写真を撮ってクイズをしていければ・・と思っています。今日は写真がないのでさわりだけ・・。こちらは東京より少し暖かいです正解はそれぞれに考えてね答えは次回に・・。
2010年05月01日
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アイスランドの火山噴火は、私のスケジュールにも大きく影響を及ぼしたのでした・・皆1週間くらいスケジュールを押しての帰国になりそうです。コンサートやレースなども中止になっているようですし、輸入品も停滞して大変な損害ですね。母の日の花も届かないと言っていますが、これからまだ予期しない物が品切れで私たちの生活にも支障がもっと来る事でしょう・・・さて、久しぶりのどこでしょうクイズです。行った事のある方にはすぐに解るかと思います。あまりこんな所を紹介しないので、どんな所か是非参考にしてください。天窓のような物で、地下の明かり取りにもなっています。逆さピラミッド? 実は地上部もでているので正確には正八面体です。その下にはまたピラミッドが・・・。光のプリズムのラインが模様のように出ていますが、これはもともと計算されていたものなのでしょうかね・・・。と、ある小説でここが最後に紹介されていました。それによれば、このピラミッドのさらに地下に・・・ある者の棺が隠されている・・・と。(実際はそんなものはあり得ませんが・・。)実はガラスのピラミッドは他にもあります。ここが、一番大きなピラミッドで、ここに入る為の地上からの入り口が写真に見えるエスカレーターです。因みに最初の正八面体は、メトロからアクセスしてきた人がたどり着く入り口ホールです。やっぱり広いですね。答えは次回ですリンク ここはどこでしょうクイズ 2 (解答)
2010年04月20日
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