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開設740日目で、記事件数が138件(少ない!)となった。ほとんどログインできなくなってから久しいが、周囲の友人達も、昨年から、ココログ、Jugem、arekao、so-net、アメブロなどなどと開設し、ちかごろでは随分と検索でヒットするくらいになった。その数人の仲間は、同じ世代で、Sai、a-lei、楓の3人が同い年。その下に30代のkeiやtakuがいる。takuのご家族が病気になり、介護が必要となったのが、2005年の冬のこと。同じ職業であったので、介護にはいった彼の仕事を引き継いだ。通常の仕事の1.5倍の負担が、私に。けれど、「お互いさま」という気持ちで引き継いだ。あとから、あとから、それが私にとって、とても苦しいものとなった。(笑)しかし、takuの場合、介護にはいるということは、職業を捨てるということだ。つまり生活の糧を捨てるということだ。では、病気のご家族とtaku自身の生活は、誰が支えるのか。 その数人の仲間は、同じ世代で、Sai、a-lei、楓の3人が同い年。つまり、takuのご家族は、僕らの家族より、ずっと若いのである。世代的に私をはじめ、Sai、a-lei、楓と、自分達の家族のほうが高齢なのに、元気でいることに安心し、takuを気の毒がり、あれこれと自宅でできる仕事を紹介したり、力になったつもりだった。昨年から、すこしづつ私達の家族にも変化が起きた。 Saiのブログで、妙にセンチメンタルな記事をみた。 2006年10月の記事 MORT by クリスチャン・ボルタンスキー 僕が一番恐れているのが「MORT」なのだ。 それは、まだ壁を越えていないからである。 肉親をつれさる「La Mort」が来ないからだ。 つまり「The Death」を指す。死者と死神だ。なぜ、そんな思いにかられたのか、聞けない。実は、もっと先に楓がいる。ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」の記事を終えての一言。 「死と隣り合わせを認識しながら生きる」という、フーミン(←楓)なりのコンセプト。そんな言葉が書き添えてあった。昨年の春から、私も高齢の家族の様子を気にしている。ところが、そうそう思うようにならないのが人間の世界だ。「家族の様子を気にしている」とあっても、苦しい、痛いを我慢する高齢世代だ。些細で重大な見落としがある。今年、私にとっては、その恐れがやってくるかもしれない。いま、こうやって、記事をかける心のゆとりが、ほんの少し戻って来たのは、おなじ恐れを抱く仲間がいるからかもしれません。740日前は、そんな恐れの欠片ひとつなかったのに。(笑)
Mar 19, 2007
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Z課長の声の大きさが気になりだしたのは、最近のことではない。Z課長は転職組で、40代前半に途中入社。現在は50を迎えようとしている。ここは、地元中小企業のなかで「優良企業」としての評判があり、大学生の企業訪問もさかんである。高卒は、現場「工場勤務」が多く、短大卒は「事務系」、大卒は営業である。問題のあるデザイン系の部署は、上司は大卒、スタッフは専門学校卒が多い。勤務している社員のなかで転職組みは珍しくないが、よほどの実績を上げない限り、「仲間意識」が希薄なのである。「もともとの社員」に対して「転職組みの社員」は、何年過してもどこか控えめである。Z課長は、勤めていた大手企業の倒産が噂される中、ここから引き抜きの声がかかっての入社らしい。大手の誇りと実績がある彼氏。ところが、いままで部下に任せていた仕事も自分でこなさなければならない。大手はひとつの仕事を細分化し分担された仕事の一部が職務であるが、全体を職務遂行する中小の社員。よく、企業風土、企業文化を知るというでしょう。企業によって、集まる人間の種類と評価、システムが違うということ。大手の情報ラインやシステムの設備、人員配置は中小とは異なる。そんな環境の差があって、同じ仕事ぶりを要求するのもおかしな話。でもね、そんなことだけが理由じゃないよ。自分と協力して仕事をしていく仲間、部下の種類とシステムの違い。つまり、自分が「お願い」できる相手がいないということだ。Z課長の声の大きさは、自分の存在を自分で確認することだった。そして「ひとり言」は、周囲に対しての「お願い=助け」だったわけである。「お願い」とは何か。仕事を補佐、補助してくれる「お手伝い」の役割である。自分のアイディアや計画を聞いてくれる誰かが一人もいない。さて、日増しにつのるモラル・ハラスメントは、大きな声、ひとりごとから、Z課長が取引先とのコミュニケーションを悪化させることになっていく。つまり「いいたいこと」がいえない職場での彼は、取引先に対して「いいたいこと」ばかりを発言するようになる。そして取引先とトラブルを引き起こすことになる。
May 20, 2006
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人間は、「人を傷つけるものである。」という認識も必要なのだと思う。はじめは被害者だったが、いつのまにか加害者になるのも人間。パワー・ハラスメントというのが、上司が部下に対して言葉や態度、不可能な目標設定を与え、執拗な要求で精神的に苦痛を与えることをさすが、最初にこの「職場」でおきたことは、部下が上司に対して言葉や態度、不可能な要求で精神的に苦痛を与えていることだった。とにかく異常な残業が続くようになった4人組み。朝8時半~翌朝4時の勤務状態が半年間。・女性チーフ(N次長と親しい:正社員)・Aさん(女性チーフの紹介で入社:正社員)・Bさん(A専務の紹介で入社:正社員)・熟睡Sさん(女性チーフの紹介で入社:正社員)さて、この「女性チーフ」が、あからさまに態度に出しはじめたのが、窓際に、6人が寄り添うような配置をとる、係長代理・係長・課長ゾーンの「Z課長」であった。もともとの、彼女達のスケジュール、シフト管理をする立場であった、Z課長。彼女達が「助けて」と声を上げたときには、「経験とともに解決するもの」という「経験話」で終わらせたことによる、彼女の復讐心が膨らんだ。完全なる無視状態。そしてその行為に、女性チーフをヒロイン視する残業チームの3人。すぐに、4人は「Z課長」に対して、同じ行為をするようになっていく。・無視 返事をしない。・Z課長から手渡されるものがあると、手洗いにいく。・Z課長に視線を投げかけながら、ひそひそ話し、嘲笑・冷笑を浴びせる。・Z課長から指示や言葉がかかると、黙って聞き、最後にうなづくだけで、すぐに4人が集まりひそひそする。そのうち、そこへN次長も加わるようになった。
Apr 7, 2006
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さて、K部長とN次長が向き合った形の配置で、新しい体制がはじまった。N次長が残業過剰チームのシフト管理を受け持つことで、N次長の明確な仕事が決定したわけである。はっきり申し上げて、潜入中に、一番不思議な存在だったのがN次長である。特別な仕事がないからである。もちろんISO取得には一役買ったらしいが・・・。ところが、チームのシフト管理を担当するようになって、K部長に代わって采配を振るいだした。「目標管理設定」の賜物だろうか。ここで気になるのが、N次長のプライベート作戦である。仕事でのマネジメント能力は、いささかも発揮せず、「内輪話」で親近度を稼いでいるわけだ。スタッフにとれば、理屈を論じ、ちっともかまってくれないK部長よりも、気軽で優しそうなN次長には、「本音」を吐くことができやすい。その「本音」は、単なる愚痴、ちょっとした悪口というより、個人への罵詈雑言。それは、N次長をはじめとする、ある人へのモラルハラスメントに、次期に発展していくことになる。
Mar 29, 2006
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チーフのKさんとN次長は、日中の2時間ほど、ミーティング。N次長が残業過剰チームのシフト管理を受け持つことが決まった日のことである。そのミーティング後の午前11時に、N次長と残業チームから2人が手伝い、いま主が外出している管理者の机を動かしている。皆が仕事に向き合っている時間帯に、机の大移動がはじまった。もともと管理者同士が、顔をつきあわせている不思議な配置は、長方形の部署を、管理者が2人一組が机を向き合う形で、壁に沿ってL字型をなぞう様に配列をはじめた。各セクションのスタッフは、グループことに対向式で、部署の中央に点在している。まず、変わったのは、K部長とN次長が一組で向き合う配置。そして、D係長とE係長の一組の配置が、いままで残業過剰チームに沿った配置が、残業チームとDTPチームの中間に位置するようになったのである。もともと管理者2人一組の対向式に疑問をもったT・Kである。ふつう、「管理者の目が届きやすい」ように、スタッフが対向式に配置をされると、その方向にむけて管理者の机が置かれているのが常である。ところが1Mほどの空間を挟み、スタッフと同じように、管理者同士が対向式。これでは、思考作業を阻害し、明確な作業領域の確保が困難である。スタッフは、管理者の視線が気になることはないが。背面対向式をとり、集中して仕事を行なうDTPチームは、パネルに囲まれ、入り口の一番近くに配置された。クライアントが出入りする受付のカウンターに一番近い。受付のカウンターにはベルのみが配置。ベルが鳴ると、残業チームか、その他のチームの誰かが、「私の仕事ではないのに」という物腰で対応にあたる。つまり、小さな、基本的役割と分担が曖昧であるために、非効率的で、複雑で、業種や仕事内容、人員、組織形態に合致したゾーニングではない。そしてエグゼグティブスペースとなる「マネジメント・コクピット」が存在していないのである。仕事のワークスタイルのための「時間と場所の自由度が増した」わけではなく、仕事中のプライベートスタイルの「時間と場所の自由度が増した」配置になっている。
Dec 7, 2005
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昼休みには、ムクッと起きだす、熟睡Sさん。Sさんに誘われ、昼食に出かける日が続く。皆に無視をされているのかと思えば、昼休みには、皆が声を掛けていくのだが。昼食を共にするにつれ、だんだんとSさんの輪郭がはっきり浮かんでくる。嘘つきであること、自分の都合にあわせ解釈することだ。思い切って、こう切り出した。「Sさん、長期休暇をお願いして、休養したらどう?」「とんでもない。この会社は休暇なんてもらえないんだから」そして、こう続く。「私がいなければ、仕事はまわらない。それに、皆が私のことをいなければ困るって。優しいし、楽しいし、心遣いが上手い人はそういないって。」「そうだよね。」(私は何を云っているんだ・・・)次に続くのは、「大手のD企業から、引き抜きがかかっている」連日、同じ話の繰り返しである。このT・Kも、少々弱っていく。ある日「私、労働基準監督署へ訴えたの。」(えっ!あなたのような勤務ぶりで、訴えた?)「それは、いつ?」「昨日の夕方」「どこから?」「会社のFAXで」労働基準法違反申告書は、申告者・違反の疑いのある会社名・労働基準法に違反している事実・求める処分の内容・添付書類(タイムカード、会話を記録したメモ、給与明細、就業規則、内容証明の謄本等)を記載する。「申告書を書いたの?」「匿名で、会社名と内容だけ」「それなら、訴えたことにはならないよ」「でも、そこまででいいって」「誰が?」「N次長。あっ・・・」T・Kは、後になって、彼女は、わざと漏らしたのではないかと考えた。
Nov 26, 2005
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ログインするたびに拝見させていただいていた、Aさんの抒情詩のようなブログがT・Kは大好きでした。今日、Aさんからのメールを拝見し、閉じたことを知りました。必ず連絡くださるとのことですが、もう一度、T・Kは、Aさんの抒情詩のような日記を拝見したいです。どこかで、いつか、来年でも、3年後でも、5年後でもこっそり開かれたら、T・Kに教えてください。こっそりとうかがいます。どうぞ、これまでどおり、しなやかに。
Nov 21, 2005
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外部の受注を受けるために、交渉・企画・プレゼンテーションを独自にこなす。彼が、どのような『仕事』を受注してくるのかは、スタッフは知り得ないことなのだ。通常の業務のほかに、仕事が増えるのは、K部長の受注したクライエントや行政の委託事業である。本来は、プロジェクトチームを編成しなければならない業務を、スタッフの仕事の隙間を利用しようとする。つまり、通常の業務のリーダーシップを取るのではなく、K部長の手腕が発揮された行政からの委託事業が、スタッフの仕事を増量する。この委託事業によって、K部長の部署は、会社全体の利益に貢献する。さらに、K部長の実績がつくられるわけである。K部長の委託業務は外部へ委託するのだが、修正や校正は、社内のスタッフへマル投げである。つまり、あの残業で参っている4人への支援は、まるっきりなく、委託事業に、かかりきりになるのである。さらに、2Fの営業部次長は、営業部ではないはずのK部長の営業活動が気に入らない。しかし、A専務は、営業部を飛び越えた活動をするK部長がお気に入りである。部署、通常の業務を超えた業務は、スタッフだけではなく、上層部までも、歯車が噛み合わなくなっていく。さて、この先どうなるか。
Nov 21, 2005
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そのクリエイティブな部署は、3つのチームが存在している。問題の4人のチームに、一般広告のチームと、雑誌編集チームである。さらに、各チームのコーディネーションをビジュアル化するDTPが8名ほど。ここのTOPは、K部長である。その下に、コーディネーションの3つのチームを管理する係長、DTPを管理する係長、その他に本の出版を担当する2人がいる。ここに、部署にはまったく関係がないN次長が存在しているのである。N次長は、この1年間、ISO取得が業務となっていた。「彼の居場所」を何処につくろうか。つまり、机が置ける場所である。業務関係より、机が置ける場所で選択したのが、ここ3階の部署であった。もともとA県の出張所の所長であったN次長。本社に戻って来たのが昨年の春である。なるほど。女性とのトラブルがあったんだな。T・Kの直感は、はずれない。
Nov 19, 2005
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さて初日の翌日になる。いったい、彼・彼女らの最後のタイムカードは誰だろう。それは、熟睡のSさんと向き合うデスクの配置にある「Kさん」であった。20代なかごろのKさんは物静かであるが、鬱積したものを感じた。声は静かで小さいが、これはKさんが「鬱積している怒り・感情」を殺しているからである。熟睡のSさん、鬱積のKさんを含めたスタッフは、どちらかといえば、仲のよい関係であるらしい。チーフのKさんの指示・命令を適確にこなそうという姿勢もある。しかし、責任者というと「チーフのKさん」ではない。Kさんは、チームのチーフでありながら権限はなく、代表でクライエントの交渉を行っているぐらいだ。入社年数は、まだ数年であるが、30になろうとしている「チーフのKさん」。そこに、部署外のN次長が入り込んでくる。さて「鬱積のKさん」は、相当に「チーフのKさん」に気遣いしながら、仕事をしている。コミュニケーションとは、隙間時間の無駄話や、プライベートの飲み食いではない。仕事上の”やりとり”である。そういった無駄話やプライベートの交流があるはずだが、なぜ「仕事のやりとり」が伝わらないのか。本来の上司は20時で退社。20代前半のOさんは、午前1時で退社。熟睡のSさんは、午前3時で退社。(夕方17:00~翌午前3時までは、よく働く。)チーフのKさんは、特に慕っている気配のN次長と共に、午前2時で退社。鬱積のKさんは、午前4時で退社。チーフのKさんは、鬱積のKさんに、こういって帰宅していった。「修正が当たり前。修正がないものを、時間をかけて完璧に作るより、クライエントから校正が来たときに、クライエントの要望どうりに修正できるかどうかだよ。」どうやら「鬱積のKさん」は、自分の仕事を修正されるのが嫌なようである。チーフのKさんは、早急にクライエントに仕上げを送りたいようなのだが・・・。
Nov 14, 2005
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かるてーかさんの日記よりイメージバトンとは1 バトンを回してきた人のキーワード2 その人が回してきたキーワードから連想するものをひとつ挙る3 最後にバトンを回して来た人に一言4 次にバトンを回す人3人を挙げます因みにこんな感じでバトンが回って来ました。海→ブルー→サッカー日本代表チーム→ドイツ→ソーセージ→バーベキュー→カニ→白砂→砂丘 →海→太陽→ひまわり→種→スイカ→うめぼし→和歌山→みかん→ あたしんち→猿山→赤ちゃ ん→フレンチブルドッグ→おばあちゃん→ボーリング→ハイタッチ→アメリカ→カジノ→ドラクエ→ス ライム→キング→トランプ→マギー審司→ジュエリーマキ→後藤真希ちゃん→モーニング娘→テレ ビ東京→ 旅→駅弁→牛タン→カルビ→脂肪→カプサイシン→カタカナ→ひらがな→日本→アン ジャッシュ→おぎやはぎ→メガネっこ→のび太くん →夢→寝坊→二日酔い→ウコン→サプリメント →美容→ヨガ→マドンナ→注射→ワクチン→ラクチン→温泉旅行→会席料理→日本酒→芸者さん →ジャパニース→ジャニーズ→光GENJI→短パン→ぴちっぴちっ→Gパン→普段着→Tシャツ→ 無芸大食→自分→ぐーたら→なまけもの(動物)→木の上→秘密基地→仮面ライダー→変身→女 優→ハリウッド→プリティ・ウーマン→最高の笑顔→サザエさん→サザエさん症候群→月曜日→ 月9→森山未来→B’Z→クリスマス→哀愁158号さんからいただいたものをコピペさせていただきました。158号さん「哀愁」ですかあ。うわ、なんだろ、哀愁、哀愁、あいしゅう、アイシュウ…あ、「アイスクりーム」……って、駄洒落かい!←自分突っ込み。でも、思いついちゃったので「アイスクリーム」ってことで…。ちなみにバニラのラクトアイスに粒あんのっけて食べると美味しいっス。決してダッツとかでやってはいけません158号さん、ご指名ありがとうございました。いつかあなたの作ったベーグルを食してみたいです。次の三人ですが……友達少ないからなあ(笑)では、tei.kさん shunsokuさん(うちのだんなだ!) 猿吉の母さんご迷惑でなければお願いしたいのですが…。他ならぬ、かるてーかさんのお願いごと。哀愁→アイスクリームときたのですが・・・海から始まっていますね。これからは、雪の季節だから「雪の結晶」といこうか。海→ブルー→サッカー日本代表チーム→ドイツ→ソーセージ→バーベキュー→カニ→白砂→砂丘 →海→太陽→ひまわり→種→スイカ→うめぼし→和歌山→みかん→ あたしんち→猿山→赤ちゃ ん→フレンチブルドッグ→おばあちゃん→ボーリング→ハイタッチ→アメリカ→カジノ→ドラクエ→ス ライム→キング→トランプ→マギー審司→ジュエリーマキ→後藤真希ちゃん→モーニング娘→テレ ビ東京→ 旅→駅弁→牛タン→カルビ→脂肪→カプサイシン→カタカナ→ひらがな→日本→アン ジャッシュ→おぎやはぎ→メガネっこ→のび太くん →夢→寝坊→二日酔い→ウコン→サプリメント →美容→ヨガ→マドンナ→注射→ワクチン→ラクチン→温泉旅行→会席料理→日本酒→芸者さん →ジャパニース→ジャニーズ→光GENJI→短パン→ぴちっぴちっ→Gパン→普段着→Tシャツ→ 無芸大食→自分→ぐーたら→なまけもの(動物)→木の上→秘密基地→仮面ライダー→変身→女 優→ハリウッド→プリティ・ウーマン→最高の笑顔→サザエさん→サザエさん症候群→月曜日→ 月9→森山未来→B’Z→クリスマス→哀愁→アイスクリーム(かるてーかさん)→雪の結晶(tei.K)となりました。それで、JOCOSOの川嶋氏でもいいのかなー・・・。三上やフーミンはダメだろうなー・・・。楽天の中がいいのかなー・・・。次のバトンは、あとで追記します!
Nov 10, 2005
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5~8人ほどの小集団に別れ、総勢50人ほどが出入りしている。企業規模は、全体で850人ほどである。私は、4人編成のチームに配属された。マックを使用し、カタログや雑誌のコーディネーション(配置)、文章のリライト、ラフの作成などを担当するチームである。7月から、大手のS企業専門に、4人チームは編成された。つまり、新しいプロジェクトチームである。彼・彼女らの慣れは、「クライアントの新しい要望」を、より完璧に満たすために、「手間ひま」をかけていたらしい。はじめは。その7月から9月末までの4人の勤務状況は、朝8時半~翌朝4時である。ところが、部署全体での「協力」が得られず、ついに4人の肉体・精神状態が限界にきたわけである。初日から、驚く光景を目の当たりにする。4人チームのSさん。就業開始とともに、机に突っ伏して熟睡。終業とともに起きだし、仕事をはじめる。さらに、誰もこの光景を見ないのだ。見ないようにしているのだ。無関心なのだ。起こしも注意もしない。あの熟睡ぶりを間近にみて、尊敬してしまった。それは部外者でもあり、外部のものであるからだろうが、もしも私のスタッフが、そういった勤務態度であるなら、事情や説明を聞き、対処するであろう。それが続くなら、回復するまで、休暇をとってもらうだろう。上司は何処に行ったのか。はい。窓際に、6人が寄り添うように、おりました。4人の視界に入らないだけではなく、50人ほどの社員の視界に映らないように。
Nov 10, 2005
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この1ヶ月間は、貴重な体験をすることができた。ある企業から、社員の残業時間についての相談である。実は、3年ほど経過しているが、同じ例を扱った。つまり、”複数の社員の異常な残業時間”である。T・Kは以前と同じ様に、「契約社員」という”ふれこみ”で、潜入させていただいた。調査期間は9月末から10月末である。週はじめの月・火の2日間を、この企業に出向する。職種は、リライトである。不思議な話であるが、以前の例を持つ企業も、同じ業種であった。T・Kは、複数の企業と契約しているが、この調整も「死ぬ思い」であった。朝8時半に、調査企業に出勤する。17時が退社時間であるが、21時まで退席し、その間、他の企業研修へ赴いた。現在、この企業の人事と調整中であるが、「T・Kのディキャリア」では、コンサルタントでもなく、企業研修の講師の立場でもなく、キャリアカウンセラーとしてでもなく、「実際にあったことと、T・Kの個人的な価値観」で記録していきたいと思う。・ワークタイム・ライフスタイルとワークスタイル・コミュニケーション・モラルハラスメント・睡眠障害・ストレス・チーム編成・リーダーシップこういったカテゴリーで記録していきたい。
Nov 7, 2005
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2005.10/29(土)─11/11(金)の期間に、吉祥寺バウスシアターで、初夏に公開された「エレニの旅」の公開記念として、監督テオ・アンゲロブロスの特集上映がある。監督自身は、「地に降る涙のように」と語る。「見方」によって、主人公という特定の誰かではなく、不特定の男女、おそらく20世紀前半を生き、戦乱で愛する者を失った全ての人間の物語が、映画随所で覗うことができる。「見方」であるが、学術・芸術という領域には、忍耐が必要である。「受ける・見る側」は、深く問題を追求し、それを堀りおこす。映画という作品においては、登場人物や映像の中から、なにを再現されたかとう気づきは、個人の価値観や感情で、多種多様である。しかし、作り手が再現から気づいてほしかったことは何であろうか。それが、熟考するという必要性である。観終わった後の熟考を要するものは、何も映画作品だけではない。日々の自分の日常シーンがある。 たとえば生涯にわたり、同じことを繰り返し、同じことを”し続ける”そのことは、たとえば退屈であったり、過ちや因果のようなものであることもあり、反対に、伝統・伝承や、流儀などのように”繰り返し、し続けることに意義があるものもある。自分という人間の生き方を見据えることは、他人や社会のあり方を問う力もう生まれて来るわけである。さて、選挙のから時期が経過しているが、過ぎたものではない。選挙が終わったということは、次の政策がはじまったのだということである。選挙が終わって、勝ち・負けの評を唱えるだけではない。いま、熟考を要する時期である。映画を見て、傑作だ、駄作だと終わらせないで、熟考を要するものと同じである。エレニの旅http://jocoso.jp/Renaissance/364160http://jocoso.jp/Renaissance/364084
Oct 18, 2005
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来年9月までの任期で、前原誠司氏(43)が選出された。今回の民主党には、T・Kが不思議に思うことがひとつ。1999年に、PHPから、『郵政民営化論』が出版されている。民主党・松沢成文衆議院議員が、「超党派で研究会を作って直接国民に訴える」と、民主党議員が中心の「郵政民営化研究会」を立ち上げから出版に至る。にもかかわらず、民主党は先の国会で郵政民営化に関する「対案」を早急に出せなかった。なぜだろう。民主党の惨敗のコメント・旧社会党系労組の組織票を無視できなかった。・議員個々の考え方が幅広く、党内のブレが敗因。・共産党や社民党などの存在を否定するがごとき発言。・自軍が招いたピンチが「反小泉票」を共産、社民に奪われた結果。・選挙直前の「議員年金廃止」や「衆院比例区の定数80削減」などを掲げた「日本刷新・政治改革アクションプラン」のアピール不足。・「日本をあきらめない」というスローガンが、支那や朝鮮半島の日本侵略に重なり、ネット上で揶揄されたことが問題。民主党へのコメント・「一国ニ制度」というテーマや、民主党「憲法提言中間報告」を破棄する必要。・日本が二大政党制に向かえば、包括政党同士の戦いになって、政策の違いがますます曖昧になる。国民の投票意識について・国民の危機意識がないことが、この選挙で明らかに。・投票した人達は、党首を選んだわけでもなければ、国全体を代表する政党を選んだわけでもない。選挙区での候補者を選んだに過ぎない。
Sep 28, 2005
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選挙が終わり、さまざまな価値観を知る結果となった。狡いT・Kは、企業・クライエントの関係があるので、他人の情報から、今回の選挙についての、さまざまな「人」の”考え方”を披露することにした。自民支持派 投票前・子々孫々のために我々が我慢できるかどうか?・景気も雇用もかなり改善した今日である。・財政再建が喫緊の最重要課題だ。・郵政改革一つ出来ないような政党は必要ない。・民主党の政策に、投票したくなくなる項目が。・連合を支持母体とする民主党に改革ができるとは思えない。・「郵政改革」を反対するのは、既得権益、自己保身である。・小泉首相の解散総選挙という決断が、国民の支持を得られるだろう。開票後・古い「自民党」が革新され、時代遅れの「野党」・改革路線が信任は予定どおり・国民の大きな支持・徹底した実行力を持つ首相・造反者の粛清・公明党あっての自民党・当たり前の結果である。大満足。今回は、自民党支持者の選択肢である。どう受け止められるか。
Sep 20, 2005
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ノブリスオブリージュとは、「生得的地位にあるものの高貴なる精神」である。つまり騎士道精神、貴族が誇る「自らを犠牲にしてでも守る」という高貴なる精神論だ。マニフェストとは政権公約であるが、ノブリスオブリージュとして誓約しているはずだ。我々も、「政治」に直接参加していることを再確認していただきたいのは、「企業」という組織の中で、我々も政治家と同様に手腕を発揮している。成果主義という公約に、ひとつの成果を成し遂げると、皆が期待し、それに応えようとする。応えようとするたびに、超えてはならない一線に足を踏み入れる。なぜだろう。皆の期待に応える手段に、「超えてはならない一線」があるのだろうか。皆の期待を裏切りたくないがために、疲弊した能力に力をかす「悪魔」にでも「魂」を売ってしまうのか。妨害、誹謗中傷からスキャンダラスなニュースも、「悪魔」が消してくれるのだろう。何度も繰り返すうちに「線」は消えてしまい、晴れて「汚れた英雄」になれるのだ。ノブリスオブリージュの欠片は1片も残ってはいない。黄昏の一瞬の美しさは、すぐに闇に呑み込まれる。マニフェストは、黄昏であってはならないのである。追記選挙の開票速報の時間帯には、ビールを片手にTVの前にいる私を想像してほしい。皆さんは、何時まで起きているのだろうか。
Sep 11, 2005
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私が育った学校生活の中では、「ID」という存在はなかった。それが組織の中で、「ID」を身につけるようになった。つまり、「身分証明書」である。以前にもエントリーしたことがあるが、現在の私の「ID」こそ、不確かなものはない。あるときは、キャリアカウンセラーで、あるときは講師で、そしてリサチャーであり、プロジェクトの一員になることもある。つまり「インデペンデント・コントラクター」であるから、複数の企業の名刺を持ち歩く。職種や肩書きもマチマチである。だから、初めて出会うクライアントへの名刺はプライベート用なのだが、「なにもの」なのかを、相手は幾度となく問うのである。そこで考えたのか「コンサルティング」であるが、MBAほどのキャリアがあるわけでもない。相手はわたしの第1印象で、過大評価をすることも、しばしば。私にとって名刺とは、仮想世界を植えつけさせ、現実の身分を提示するものである。最初の企業を退職したときの理由が、いまはっきりわかる。「人を悪くいわず、明るく楽しく、テキパキと」というレッテルから逃れるためであった。「すかした奴」の印象に戻るのに、苦労した数年があったが、30代後半までの私のキャラクターである。このところ、クライアントの人事・面接に関わり、同席する場合も多いが、人事の視点と私の視点に差異がある。その「レッテル」に縛られたくない私が、相手の演じている「レッテル」を見逃すはずがないからである。
Sep 5, 2005
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仲間が、JOCOSOというSNS系で、各自開設をはじめて約2ヶ月経過した。先日、リンクをせがみにきた川嶋氏であるが、あらかじめ”川嶋”という個人の趣旨として、『様々な思想、考え方を受容でき、私的な狭い考えに囚われず、他者に誠意をもって接する方とのコミュニティとして参加・・・・・removeとは、排除という意味もありますが、私は「障害を取り除く」という意味で使用しおります。・・・・・あるがままを貫くことを前提としている姿勢は、「誰とでも」という博愛主義の方からは敬遠されると思いますし、JO友の申し込みも敬遠されると思いますが、何の意味ももたない所属、属性には関心がありません。・・・・」という日記記事を投稿し、「川嶋という人間はこうである。それでも、交流したい方はどうぞ」という内容だ。川嶋の場合、開設して約2週間になる。外部リンクが多いせいか、ゲストと一部のJO友の訪問だ。ひとつ川嶋に疑問を投げかけてみた。・そもそも、JOCOSOでは、その開設者の「投稿記事」に関心をもつ会員はいるのか。なぜならば、楽天ブログとは相違して、ほとんどの方が日記更新をしていないと見受けられる。・JO友の質こだわるのはなぜか。JO友は、楽天ブログでは、”日記リンク”と同様の気がするからである。その開設者のコンテンツに興味があるからではないのか?・コメント機能を活用しないのはなぜか。我々が原稿料をもらいブログを作成することおいて、決定的な違いは、個人が自由に発言するブログでは、コメントの役割という機能が、そのブログを活性するのではないか?その回答インターネットの情報と公開については、規制する必要はないというのが個人の価値観。そもそも個人の思考とは、これまでの研究・探求に成り立つまでに、「原典」があるからこそで、我々個人が学会で発表し、社会的な貢献によるわけではない。引用・要約、リンクは自由であるとしているが、個人の感情を左右する”コミュニケーション”が問題なのだ。たまたま開設したJOCOSOでは、”足跡”機能による、JO友や会員の訪問による”コメント”のやりとりが主であり、JO友の”量”を競って、足跡の”量”を競っている。つまり記事投稿とコンテンツよりも、”量”とのコミュニケーションが、特徴である。川嶋個人にとって、”友”と名称があることが、一番の問題なのだ。つまりコメント機能も、その開設者個人の”JO友”、よく訪問する会員によるもので、狭い私見に見受けられるのは、その開設者への好意の表現であって、個人の考え方が現れない。だからこそ、必要性がないと考え、本人サイトではコメント機能を活用していない。だからこそ、川嶋は”趣旨”を公開しているのだ。最後の疑問は、まだ川嶋氏に質問をしていないが、匿名性が低いSNSであるが、本当にその名前の人物は、存在しているのか。これが、私がJOCOSOを覗いた最大の疑問なのである。
Aug 30, 2005
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主義をISMという言葉で表すと、体系、信仰を含めた特性である。主義とは、個人や組織の拘りである。拘りとは、私にとって魅力的ではない。捕らわれた囚人のようだ。成果主義、成功法則などがこの部類にはいりそうである。流儀とは、芸術や武術などの流派や、家に昔から伝えられているスタイルである。建築を含めた芸術の様式や、思想、品格、服装、行動などに、「流儀」が現れる。つまり、「流儀」は、その人自身の「履歴書」でもある。嗜みには、Decencyという表現を使いたい。品位、作法、教養、心得である。心得とは、趣味、芸事、芸術への風情に感銘できることだけではなく、つつしみや人の心の機微に感銘することでもある。学術や専門性が高く、主義ばかりを追いかけるよりも、流儀と嗜みを磨く方が先ではないだろうか。
Aug 22, 2005
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ドイツでは、「高度に教育された人材ならばマイスターでなくてもよい」という企業も少なくはない。新しい起業やIT、技術革新への対応に遅れをとってはならないからである。こうした動きは、ドイツのマイスター制度の技術継承、人材の質を課題に、転換をせまられている。ほぼすべての手工業種が廃止になるドイツ。マイスター制度とは、パン職人、ビール職人、靴職人など、「手工業」と「工業」を中心に、種類は何百にも及ぶ。ドイツのマイスター制度の崩壊から学ぶものは何か。この視点は、どこに重点を置くかで、「学ぶもの」に差異が生じる。18世紀後半からはじまった産業革命は、手工業という「職人と道具」から「機械」へという技術革新のことである。しかしながら、19世紀にイギリスでは、ウィリアム・モリスによる“自然回帰”に戻る、アーツ&クラフツ運動は、アールヌーヴォーやユーゲントシュティールなどの新様式を誘発しながら、「生活」のための工芸運動がはじまる。ドイツでは、W・グロピウスは、「生活機能の総合場である『建築』のもと、彫刻・絵画・工芸などの諸芸術と職人的手工作など一切の造形活動を結集して、芸術と技術の再統一を図る」という教育理念のもと、新しい教育システムを実施している。つまり、技術革新後に、自然回帰が叫ばれるサイクルだ。いま、ITという技術革新は、各国で転換を迫られている。メッセージを送るからメールを贈ってくださった皆様へお見舞いのメッセージ、励ましや賛同のメールをありがとうございました。T・Kは大変嬉しく感じておりますが、私の「わがまま」な、お願いがあります。投稿を、時折休みますようになりましてから、日々メールの”量”が増えまして、「お返事」をどうしようかと大変悩んでおります。多いときには、1日に50前後ほどいただき、今日までに、300を超えております。以前から頂いている方、また、同じブログでお世話になっている方は例外としております。皆様からは、1:1でありますが、T・Kは、1:300以上と向き合うことになります。ですから、一部の方を除き、返信を遠慮させていただきたいと願っております。どうぞ、コメント、BBSをご利用いただければ幸いです。
Aug 19, 2005
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ドイツの基礎学校(日本の義務教育)では、12歳になるまでに、それぞれの向いている能力を探す場である。そのために、学校には専門の相談員が存在する。・社会にはどのような仕事があるのか。・なろうとしている職種が社会とどのように関わっているだろうか。・職人のビデオ学習から、なりたい職人の全体像を知る。・実地見学を遂行し、自分がその職業に適しているかを知る。大学進学率は25%で、75%の子供は実科か普通学校に進学する。つまり、学術も、さまざまな能力の一つであると考えられている。
Aug 15, 2005
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今日は、少し熱も引きましたが、まだPCに向かう余力がありません。コメント、訪問につきまして、非礼をしております。また、メールを送って下さる方に、お返事を書いていない方もいますので、この場を借りまして、お詫び申し上げます。来週には記事投稿をはじめ、皆様のところにも伺います。皆様も、どうぞご自愛ください。
Aug 14, 2005
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経済では、経路依存性:path-dependencyとは、ある企業の資源蓄積プロセスは長期にわたる複雑な学習や投資によるものを指す。キャリアでは、経路依存性:path-dependencyとは、人間や組織、政府、社会が、過去の選択、経験や歴史的背景、学習といったものによって、現在の選択が制約を受ける現象であり、そのプロセスを模倣することが不可能であることを示している。アメリカでは生涯所得と学位とが高い相関関係にある。高い経路依存性(path dependency)の出発点を指し示すのが「学歴」であるからだ。アメリカでは学部段階にパートタイム学生が多いが、単位を取得した者がその後大学院で学位を取得しより良い職へと就いていく。専門分野の「研究するという姿勢」を学部で取得した「学歴」だからである。日本の高等教育が職業教育(vocational education)としての性格をほとんど持ってはいないといわれるのは、ここの認識が相違しているからなのだ。
Aug 8, 2005
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当時、オープンキャンパスなるイベントはなかったが、M先生に連れられて、私を含む3名が大学を見学に行った記憶がある。2度目は担任の先生の引率で、見学先の教授とお会いした記憶。私がそこの大学の専攻を決めた理由が、経済系、教員の資格、著名で本を出版されていた教授がいることであった。(入学するとその教授は、辞められていた・・・)大学院へ進学するなんて、考えてもいなかった。いま、それが致命的でもある。大学とは、「学歴」である。「学歴」とは、研究・開発をする「術」を得ることだ。専門の領域を学び、教養として専門外を学び、さらに、専門と専門外を関連させて新しい領域から考える力を身につけ、「探求」する姿勢を養うことだ。「探求」する姿勢を養えば、自分にとって不足を予測することもできるし、いつでも準備にとりかかれる選択肢を持つことが出来る。大学、大学院を経て、研究・開発や探求がなければ、それは「学歴」とはいえないのではないだろうか。つまり、高校、大学、大学院出じゃなくとも、研究・開発や探求があるなら、それは立派な「学歴」である。
Aug 7, 2005
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息子は高校2年生である。夏休み中に、オープンキャンパスを3~5回まわり、レポートを書き上げなければならない。オープンキャンパスは、保護者も少なくとも3大学をめぐるよう提案されている。息子は大学付属の高校の特進コースであるから推薦枠をもっている。学校の方針として、広い選択肢をもって進学に望めということだと考え、夫婦別々の大学へ向かうことにした。(1度ですむ!)さて、夫婦ともに友人を伴って、それぞれ息子が実際に望んでいる学部のある大学へ向かう。キーワードは「情報と経営・経済」である。ところで、もし私自身が社会人としてではなく、もう一度過去に戻り選択するのであれば・・・と考えた。・情報系・農業・酪農・心理を大学院まで学びたい・建築・デザインを専攻したかった私の相棒は・医療・情報系・美術系・農業・酪農系こう考えると、大学は何度も入学をしなければならない。最近クロス授業というのがあり、学部を超えて単位も取得できるそうだが。もう一度過去に戻り選択するのであれば・・・と前置きしたが、夫婦ともに、いまの自分の欲求を中心に考えている。それは、やりたいこと、やれること、できることという領域が見えている年代だからである。また、習得のコツを知っているし、職業や企業の内容も把握しているからだ。そして、カルチャースクール、社会人大学、大学院によって、あとでも勉強をできる領域も知っているからである。さて私達が選択した理由は、「研究する」という「学歴」において、やはり大学で学んだほうがよいと考えたからだ。ただ単位を取り学位をとって、知識を「雑学」にするための「学歴」ではない。自分のライフスタイルやライフワークの選択肢を広げるためである。さて、もう一度過去に戻り選択するのであれば・・・とにかく成績に見合ったところで、かつ興味を引きそうなところを探しているだろう。この興味とは、リカレントの科目の好き・嫌いがベースである。息子の「情報と経営・経済」は、付属大学にある学部で、パソコンを使いながら、2つの選択肢を持てるからだそうだ。何より多少成績が下がっても、ここなら推薦してもらえそうだから。これが一番の理由ではないか。
Jul 31, 2005
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フランクルは、「夜と霧」で次のように語っている。「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。」ヴィクトル・エミール・フランクル 池田香代子訳『夜と霧』(新版)みすず書房その「死」を自ら選択したのが、原口統三だ。《その時、彼ははたちだった》 『悪魔が今日、かういふ名刺を作ってくれた。 原口統三 慢性孤独病のマゾヒズム患者』原口は、昭和21年に19歳10ヶ月で入水自殺を果たす。悪魔が名刺を作ってくれたのは、昭和19年の17歳の頃ではないかと思う。一切の芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった―そういう原口の文は難解で、彼を理解する要素は何もない。森有正、橋本一明らの追懐を読み、認識できるのは「死への衝動」と「拒絶する愛」である。『それは永久に秘密であり、不可解なことである、原口統三の死への志が、今ここに上梓されたささやかな小冊子“二十歳のエチュード”で明らかにされるなどと、何人も考えてはならないし、また事実において理解することのできる人は一人もいないだろう。』とある。・・・何人も考えてはならないし・・・人の死を、理論や思想で独断的に認知して、明らかにすることは考えてはならないのかもしれない。それは、社会的獲得地位に甘んじた家庭から、自分は特別な存在として「生きることは素晴らしいと全ての人が思えるように」などと嘯くような言葉を残すこと同じなのかもしれない。「全ての人」とは、一体何を指すのだろう。狭い視野からのコメントなのか、世界の人々を無視しているのか・・・。「死」や「生」を憧憬し、崇拝するものではないと思う。私達は、生まれたときから人としての生涯を完結する「死」への旅に、叶わない希望にも意味の問題に正しく答え、苦悩を受け入れてこそ「生きる力」を保ちながら、運命や宿命へと進んでいくだけだ。その苦味の「味わい」を知らずにして、「生」を急ぐ必要はあるだろうか。「死」とは「生」を急ぐほど、早くやってくるものなのかもしれない。苦味の味わいが、あとになるほど「旨み」を知ることができるのかもしれないのだから。追記私にとって大変興味深いところがある。 『表現と自己との分離。 表現は生れ落ちたとたんに自己から離れて、独立する。 すなわち自己は常に自己だけの孤独な時間の流れを通る。 もはや生み落とされた「表現」は一つの過去の記念碑にすぎない。 * 僕は自分のにせよ、 他人のにせよ記念碑に礼拝するのがいやだった。』原口統三は、赤城に来てからも絶えずペンを握り続けたという。ランプの灯で書きつづけ、時々疲れた眼をあげて「生きている間は絶えず表現していなけりゃならない」と言ったそうだ。1946年10月2日 赤城山にて自殺未遂。1946年10月25日 厨子海岸にて入水。《その時、彼ははたちだった》faithfulさんからいただいたメールから「赤旗の編集部で該当部分だけ送ってくれました。」ありがとうございました。※faithfulさんからいただいたトラックバックの記事「定本・二十歳のエチュード(原口統三)」共産党の上田氏とノーベル賞受賞者小柴昌俊氏の対談記事・・・日経2月6日「私の履歴書」・・・「しんぶん赤旗」2月2日日曜版19頁上田)彼のフランス文学は相当なものだった。同じ部屋にいたとき、午前中、原口がベッドでずっと寝ているんだよ。心配して「どうした?カゼでもひいたか」と聞いたら、「ゆうべ横浜港の人足に行って疲れた」というんで胸をつかれた。両親が「満州」にいて仕送りが途切れ、大変だったんだな。君もいっしょに行ったのか、米軍の荷役に?小柴)行ったんだよ。それで二人でサボって貨車の中で、米軍の食糧を食ってた。「レーション」っていって兵隊に配る箱入りの弁当、あれを積んだりする役目だけど、二人で貨車の中に隠れちゃって食ってた。上田)そうか。僕が小柴の部屋を出た翌年、彼が自殺するっていいだしてね。生きていたらいい仕事したのにな。当時の天野貞祐校長も心配して、みんなで説得したんだが、四六年十月逗子の海岸に入って亡くなったね。小柴)感受性が強すぎて耐えられなかったのかもしれんな、あの敗戦後の世界は。定本二十歳(はたち)のエチュード 筑摩書房二十歳のエチュード 角川文庫 二十歳のエチュード 光芒社reproduction
Jul 27, 2005
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乏しい食糧、劣悪な衛生状態、厳しい強制労働のもとで、人は次々と死んでゆく。希望を信じる者が必ずしも強いわけではなかった。強制収容所にて希望を抱く者が、その希望が叶えられないことに生への意志を失って自殺を決意する。 「あなたを必要とする何か」がどこかにあり、 「あなたを必要としている誰か」がどこかにいるはずです。 そしてその「何か」や「誰か」は、 あなたに発見されるのを待っているのです。自殺を決意する囚人のほかに絶望の淵にあっても、黙々と毎日の日課をこなす囚人の姿もそこにもあった。どこからその強さはくるのだろう。フランクルは、日々の務めに「意味」を感じ、「責任」を果たすことのできる人が、生きる力を保てるのだと答えを導き出す。 『その強さは希望からではなく、 人生が各人に課する使命を果たすこと、 日々の務めを行うことに対する責任を担うことであった。』V・E・フランクル『夜と霧』みすず書房より
Jul 26, 2005
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「自分に与えられた人生の意味を実現するという使命のためにあり、自己目的化した自己実現は単なるエゴイズムに過ぎない。」ナチス強制アウシュビッツ収容所などを体験し、その極限状況のなかから、『ロゴス』(愛・生命力・原理)を目覚めさせる治療法を生み出したV・E・Frankl:フランクルは、『自己実現』をそう批判した。Maslow自身、晩年には、自己実現を超える発達、つまり人間の成長の極限として「自己超越」を想定するようになるのだが。 ウイーン生まれのオーストリア人である ヴィクトール・エミール・フランクル強制収容所生活の体験のなかで、『宿命を超えて、自己を超えて』生きる意味を見つめて『それでも人生にイエスと言う』 人間は悲しみを通して 物事の本質を見抜く力、 世界を透視する力が養われ 高い次元の存在を感じ取れるようになる。 苦悩を受け入れることで 清らかな幸福が流れ出してくる。私は基本的に、どんな理論にも囚われない。どんな理論でも、本質を知る。しかしフランクフルだけは、私にとって「特別な存在」だ。どんな人生にも意味があると教えてくれたから。※本の紹介は、メンタルヘルスケアのアウェアネスに掲載していますので、ご覧になってください。
Jul 23, 2005
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Maslow(マズロー) 自己実現の定義・ 健康である・ 所属、愛情、尊敬、自尊心の満足・ 自己の能力を積極的に活用・ 高次の動機により動機付けられ、それを全力で得ようと模索し、確実に手に入れる。可能性、能力、才能の絶えざる実現として、使命の達成としてパーソナリティの完全な知識の受容として人格内の一致、統合へと向かう絶えまない傾向に動機付けられているのである。自己啓発、能力開発、スピリチュアルなど、さまざまな領域でトレーニングをつむことも、人格内の一致、統合へと向かわなければ自己実現すなわち“人格=個人性=パーソナリティ”といえない他者・共同体・人類・生態系・地球・宇宙との一体感同一性(アイデンティティ)の確立は自己実現を超える発達であり “自己超越”へと深くかかわることができる。“自己超越”は人生観-世界観であり-ライフスタイルそのものなのである。ニューヨーク生まれのアメリカの心理学者Maslow, Abraham H ユダヤ人である。次のエントリーで、FranklがMaslowの自己実現に対しての批判から始めていきたい。
Jul 23, 2005
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B価値とは、Being(存在・生命)を示す。・・・その認識になるもの・・・・・・・・全体性・・・・・完成性・・・・・完成・・・・・正義・・・・・躍動・・・・・富裕・・・・・単純・・・・・美・・・・・善・・・・・独自性・・・・・無礙・・・・・遊戯・・・・・真実、正直、現実・・・・・自己充足これらが、重複し融合する、生命全体の一側面であって、パーツであってはならない。これらの認識は受動的、受容的で、普遍的かつ基本的な人間の価値観と見なしている。
Jul 22, 2005
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physiological needs 生理的欲求生理的体系としての自己を維持しようとする欲求であり、具体的には空気・水・食物・庇護・睡眠・性 ・休養・運動などに対する欲求である。safety-security needs 安全への欲求 (安全・安定性欲求)安全な状況を希求したり、不確実な状況を回避しようとしたりする欲求である。具体的には安全・安定・依存・保護・秩序への欲求である。belongingness-love needs 所属と愛の欲求 (親和の欲求、社会的欲求:social needs)集団への所属を希求、友情や愛情を希求する欲求である。組織、学校、家族の中に居場所があり自分が愛されることである。esteem needs 尊敬欲求 (承認欲求、自我の欲求)自己尊厳を希求する欲求であり、具体的には、他人からの尊敬や責任ある地位を希求。自尊心・尊敬されることへの欲求である。autonomy needs 自律欲求 (esteem needsから独立に考えられる)自律的な思考や行動の機会を希求する。elf-actualization needs 自己実現欲求自己の成長や発展の機会を希求したり、自己独自の能力の利用および自己の潜在能力の実現を希求したりする欲求である。この段階説は、さらに付け加えられることとなる。7/21エントリー「自己実現」7/21エントリー「自己実現的人間の特徴」
Jul 22, 2005
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マズローの欲求が、世間でどのように扱われているのだろうか。重要なのは欲求階層説が次の4つの仮説によって成り立っていることを理解することである。1.欲求は満たされると、それは欲求ではない。なぜなら、満たされない欲求によってひとは動機づけられるからである。欲求が「目標」であり「動機付け」となる。2.この階層上で、基本的な「低次の欲求」が満たされて、はじめてより高次の欲求が出現してくる。つまり、一つの欲求が満たされると、次の欲求を充足させようという動機付けが発生する。ただ、人には成長し続けたいという人間的な高次欲求が存在するため、自己 実現欲求だけは、充足しきることがないということである。生理的欲求が満 たされない人間は、安全への欲求を満たすことが出来ないものなのだ。3.承認と自尊心の欲求に至るまでの欲求は、不足のものを満たすという欠乏欲求=D欲求であるのに対し、自己実現は一人ひとりの人間の「かけがえのない存在:beingそのもの」にかかわる欲求=B欲求である。4.欠乏欲求=D欲求は、生物的基礎が濃厚で、強い本能がそこに働いている。他方、自己実現へのB欲求にも生物学的基礎がないわけではないが、それは弱い本能に基づいているにすぎない。そのために、B欲求の充足にかかわるB価値やB経験に接するためには、いい社会やユーサイキアン・マネジメント「完全なる経営」がいる。モチベーション理論は大きく分けて、「内容説」と「過程説」の二つに分類される。「内容説」・・・『人は何によって働くことに動機付けられるのか』『その内容を重視する』「過程説」・・・『動機付けの流れや背景を議論する』マズローの欲求は「内容説」である。マズローの欲求は、検証されているわけではない。「人間重視の視点」が評価されているのである。現代において、「マズローの欲求」が都合の良いように扱われ、本来の「性質」が抜けている。自己実現的人間の特徴を理解しないまま、目標や動機付け、自己実現の手法に用いると、「自己実現とは何か」、「自己実現的人間とは」という答えが曖昧で、役に立たない「雑学」になるのだ。7/21エントリー「自己実現」7/21エントリー「自己実現的人間の特徴」自己実現、マズローの欲求は、中・高生も、現代国語、保健体育、公民・倫理社会で学ぶ機会がある。
Jul 22, 2005
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マズロー Maslow, Abraham H 「自己実現的人間の特徴」1.現実をより有効に知覚し、それとより快適な関係を保つ2.自己、他者、自然に対して受容的態度3.自発性、単純さ、自然さ4.自己中心的ではなく課題中心的5.孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然としている6.文化や環境からの独立し、意志をもった能動的人間である。7.認識が絶えず新鮮であること。8.神秘的経験-頂上(至高)体験を持つこと。9.共同社会感情を持つこと。10 .心の広い、深い対人関係を持つこと。11 .民主的性格構造を持つこと。12 .手段と目的の区別、善悪の区別が判断できること。13 .哲学的で悪意のないユーモアのセンスを持つこと。14 .創造性を持つこと。15 .文化に組み込まれることに抵抗し、文化を超越することさらに16.確固とした価値体系17.対立性の解決、欲望と理性の調和Maslowは正常な人間にはpeak experience(頂上体験)があると云う。これが現在、至高体験とされている。これは短時間しか継続しないが、さらに長時間継続する高原体験があると云う。Maslowは自己実現をある一部の年配者に限られる到達点としていたが、後に再定義し、誰でも「頂上体験(peak-experience)」によって、一時的に自己実現に到達しうることを示した。つまり、瞬間的な一過性の自己実現は、誰でも可能であるということになる
Jul 21, 2005
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社会や組織のスローガンは「自己実現」に止まらず「ノブリス・オブリージュ」まで日本の大衆社会に落とし込むさて、自己実現とは何かマズローの欲求段階説だけでは答えとして不足である。マズローの欲求が5段階説としての知識ならなお不足である。つまり、獲得的地位(大衆)と生得的地位(階級制度)の教育の開きがここにある。7/20エントリー「高貴な人々の義務」それでは、「自己実現」とは何か。・・・自己実現とは・・・自己実現の特徴・・・自己実現の動機となるものもし、あなたが各種のセミナーや研修を受講しマズローが望む答えを準備できないのなら、あなたは、セミナーの落とし穴にはまっている。つまり、スローガンだけが記憶されていることだ。プロパガンダ(Propaganda)的なセミナーを自ら選択した訳である自己実現とは才能や能力、可能性等を十分に用いて開拓していることであり、その人が潜在的にあるべき姿になり、より一層その人特有の姿になり、その人がなることできるもの全てになろうとする傾向である。それが、自己実現の欲求なのだ。いま、速聴、右脳開発などがさかんであり、成果主義に求められるコンピテンシーもこの「潜在的」がキーワードである。7/4エントリー:速聴と右脳7/7エントリー:コンピテンシー イントロダクション次のエントリーで、自己実現の特徴をエントリーする。
Jul 21, 2005
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「働くことに真摯であれ」という英国には、ノブリス・オブリージュという精神が存在する。「高貴な人々の義務」と訳され、高貴な身分に生まれついた者は、より多くの義務を負うというイギリスの貴族、ジェントルマン、職業軍人、騎士道精神に受け継がれる高貴な身分に生まれついた人間には、 人々に奉仕し、献身する義務があるという、生得的地位にある上流階級の文化と伝統だ。ノブリス・オブリージュとは、その「家柄」、「階級」という「身分」の義務であった。守るべき領土と領民がいる特定の階級。上流階級の子弟がパブリックスクールを経て、グランド・ツアー(大陸巡遊旅行)によって、それまでの教育の総仕上げをする。プライベート教育のことだ。パブリックスクールでは、指導力と奉仕(Leadership & Service)という、人民を指導し、慈善事業や軍務などさまざまな分野で社会に奉仕を、学問と同時に叩き込まれる。いま英国のおける階級制度「class system」の不平等もあり、いよいよ英国も、生得的地位が揺るぎはじめている。こういった「家柄」と「教育」が結びついていない日本で、ましてやパブリックスクールなるものが存在しなくなったこの国では、企業や政治家、教育、また「働く側」へ、ノブリス・オブリージュの精神を取り入れることは、その精神の伝統と文化を乱すだけで、決して「進化」をしているわけではない。大衆社会という現在の日本は、生得的地位ではなく、獲得的地位で成立している。義務教育により、文化の喪失された環境からも、獲得的地位により社会進出を果たしているわけだ。これが「学歴」である。つまり、守るべき文化や伝統、品格や人格、指導力と奉仕においては、家庭教育や学校教育にはバックグランドがないわけだが。このノブリス・オブリージュの精神を、企業、労働者に取り入れようという考えがあるが、日本と英国の違いを、長時間労働で比較してみる。「働くことに真摯であれ」という英国における管理職の残業の理由。 1.キャリアアップ 2. 業績に対して責任 3. 昇進の機 4.スタッフを失望させないため 5.同僚の敬意を得るため日本におけるサービス残業の理由 1.予定の期日に間に合わせる為 2.その日中にやらなければならない為 3.示しがつかない 4.就業規則によるため 5.管理職であるため自主的に自分のためにという理由は16%である。 ※管理職以外では 就業規則 申請できない雰囲気 査定にひびく日本では、長時間労働=サービス残業であり、英国の回答とはこれほど相違する。獲得的地位により経済的・社会的な成功者が、対極側の人間に対して、自発的に指導が行われるのだろうか。労働者は仕事の意味づけや理想の職場を追求するようになり、組織は、社員を動機づけたり、職場の福利厚生を充実させたり、さまざまな研修・手法を使って、「よき労働者」と「よき雇用者」のマッチングを求め、「いかに安い賃金で人を働かせるか」の結果を得ようとしている。いま、成果主義に変わった日本にも、ライフ・スタイル・バランスが普及しようとしているが、申請できる「職場」が普及するのだろうか。ワーク・ライフ・バランス T・Kのディキャリア 過去エントリーパク・ジョアン・スックチャ「会社人間が会社をつぶす」・ ワーク・ライフ・バランスの背景・ ワーク・ライフ・バランスの取り組みワーク・ライフ・バランス 参考:濱口桂一郎「EU労働時間指令の改正案とその影響」(世界の労働2004年10月)欧州生活労働条件改善財団は、ワーク・ライフ・バランス政策は、企業にとっては生産性と競争力の向上、労働者にとっては仕事の質の改善、職業訓練・能力開発へのアクセスの面で、大きな利益をもたらす顕著な証拠が見られるとしている。調査は、労働条件の改善、個人生活の充実、職業訓練やボランティアへのアクセスの向上のために、労働時間を生涯全般に渡って再配分できるよう、政策担当者が新しい時間と所得の選択肢を改善または創造していくべきである、と提案している。また、もし退職年齢が引き上げられ、職業生活が延長されるなら、政策担当者は、その代償として、人生でストレスを受けやすい期間により多くの有給休暇が取得できるよう保証すべきであると主張する。また、職業生活を通じた新しい労働時間の設定を可能にしていくためには、新しい社会保障制度の構築が不可欠であるとしている。「いかに安い賃金で人を働かせるか」これは先進国の企業は国内だけに止まらず、人件費の低い開発途上国に工場や農場を持ち、現地人を雇用し、不当に安い賃金で、苛酷な労働を強いることをはじめる。(昨日のエントリーで、産業革命後の例をあげているが、歴史は繰り返すのではなく、続いている?)その一方、1940年代にアメリカのNGOから始まったと言われ、ヨーロッパを中心に1960年代から本格的にひろまったフェアトレード。・・・【Fairtrade】その基準とは・・・・・・貧困のない公正な社会をつくるための、対話と透明性、互いの敬意に基づいた貿易のパートナーシップ。・・・アジアやアフリカ、中南米などの農村地域や都市のスラムなどに暮らす人々に仕事の機会を提供することで、貧しい人々が自らの力で暮らしを向上させることを支援。・・・小規模農家や手工芸職人に継続的な仕事をつくり、農薬や化学肥料に頼らない自然農法や、生産地で採れる自然素材と伝統技術を活かした生産によって、持続可能な社会を目指している。消費者の我々が、必需品をフェアトレードで購入すると、途上国の生産者たちが自立した生活を送ることに貢献できるというしくみだ。自給自足の生活から、暮らしを向上させること。これは、生存の欲求を満たす「労働」ではないだろうか。「働くことに真摯であれ」という英国の文化と伝統を、単なる「義務と権利」に置き換えてしまう危険性。職業に対する意味づけや理想、動機付けよりも、いかに我々が貧困なのだと自覚したほうが良いのかも。働くことは生存の欲求なのだと。中流家庭というレッテルを自ら剥がす時期なのではないか。
Jul 20, 2005
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人間の文化:ぱぴ1729さんのコメント『働き手を大切にする企業の方がいいんだという価値観を社会がもつべきなのでしょうけど・・・海外との競争もあるから、なかなか難しいですね。この前、100円ショップで、竹を編んだかごを見つけました。ベトナム製でした。日本の企業は、海外でも搾取をしており、私たち日本人の豊かな生活がその上に乗っかっていることを思うと、悲しくなりますが、自分に何ができるのかわかりません。>機械に使用によって単純になった作業に女性や子供を低賃金で雇い、長時間の労働が課せられた。というのは、東南アジアでは昔のことではないのでしょうね。』Re:ぱぴ1729さんおっしゃるとおり、東南アジアも、実は日本でも他国でも続いています。先進国に本社を持つ企業が、人件費の低い開発途上国に工場や農場を持ち、現地の人を労働者として雇う例は多くある。一方で、生産者と購入者が対等なパートナーとして、生産が続けられるように環境に配慮しながら、労働に見合った公正(フェア)な価格で取引をする貿易が生まれた。これがフェアトレードという。我々消費者が、自分の生活に必要な範囲でフェアトレード商品を購入するだけで、途上国のより多くの人々が持続的に自らの力で生活を向上させることができる。この件については、次のエントリーで挙げてみたい。
Jul 20, 2005
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ルネッサンス以降、人間中心の文化がはじまった。混色がはじまったのもこの時代である。ガリレオ・ガリレイ、ニュートン、ゲーテ、ルンゲなど、14c~19cと、光・色彩を追求していく。17世紀は「光」の世紀18世紀は「産業」の世紀19世紀は「視覚」の世紀神の時代から何世紀も経て、宗教革命、産業革命、IT革命が起こり人間は神よりも職業との関わりの時間が長くなる。産業革命は、18世紀後半に、イギリスではじまりナポレオン戦争の終了後、ヨーロッパ諸国やアメリカではじまる。19世紀末頃、ようやく日本とロシアの産業革命がはじまった。19世紀という時代は、道具から機械の使用により、人々の生活が一変し、生活が豊かに便利になった。社会・政治・文化などあらゆる面に大きな影響を与える、資本主義経済。その資本主義に、自然回帰を謳うアーツ・アンド・クラフト運動のウィリアム・モリスが誕生したのは、1834年。造形活動の基本を手工芸におく、バウハウスのグロピウスは、1883年に生まれている。機械に使用によって単純になった作業に女性や子供を低賃金で雇い、長時間の労働が課せられた。命を賭けた使命ではなく、命を削った労働である。平凡社『西洋史料集成』 証言より「活況の時期には、少女たちは朝のなん時に工場に行つたか。」 「活況の時期には、それは6週間ばかりの期間ですが、少女たちは朝の3時には工場に行き、仕事を終えるのは夜の10時から10時半近くでした。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「普通の労働時間は朝の6時から夜の8時半までだったのだね。」 「そうです。」日本では「野麦峠」を読んでみるとよい。現代と変わらないと思う方々がいるのかもしれない。肉体ではなく、精神の命を削った労働であるなら。
Jul 19, 2005
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聖書にある「2つのものを混ぜてはいけない」古代のプラトン以来、中世のロジャー・ベーコンに至るまで光や色彩も「神の創造物」であった。つまり混色によって「新たな色」を造りだすことは、神への冒涜でもあった。神の時代である古代ギリシャ。「労働は卑しいこと」人間がしなければならないことは何か。「祈り」そして「考えること」だったのだ。
Jul 19, 2005
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政治的意図をもつ宣伝をロシア語でプロパガンダという。主義や思想の強調を、「大衆」に向けて「理性」ではなく、「感情」に訴えることだ。ボルシェビキの指導者「レーニン」ファシストの総帥「ムッソリーニ」ナチス総統「ヒトラー」彼らが引用したのは、ル・ボンの著作「群集心理」大国によるプロパガンダは事実の誇張・歪曲を含むあらゆる手段を行使しやすく、対応が困難であるとされている。プロパガンダは、メディアを通して、大衆の心の中にどこにも存在しない感情や欲求を新たに植えつけるのではなく、眠っている感情を揺り起こす。アメリカ大統領選挙のCM、ナチの演説、レッテル張り、スローガンは反復することによって強大な効果を挙げた。いま、プロパガンダは、「新しい」、「やさしい」など言葉を掲げて、環境、化粧品、食品など、新聞、広告・チラシ、TV、ラジオ、インターネットを通し、「感情に訴えかける」、「反復する」、「単純化する」という戦略を、企業や自治体も利用している。エレン・ランガーは、宣伝に対してほとんど心あらずというやり方で、ある説得や宣伝を受けた時に、感情的に決断してしまう反応を「無思慮」と呼んだ。それは、ただ漫然と行う行為、思慮のないことばづかい、これら散漫な心にあたるマインドレス:mindlessである。マイケル・ムーア監督「華氏911」は、総動員をかけ、「ブッシュ政権を支持し、強いアメリカを誇り、イラクにおいて正義を果たしていると信じる、多くのアメリカ国民」へ説得しようという構造を持っている。こういった”もう一つの”プロパガンダ(Propaganda)もあるのだ。私たちは深く考える力を持っている。いま、子供も大人も不足しているのは「探究心」である。学校教育に依存し、家庭教育はどこにいったのか。自宅で探求する時間や機会はどこに行ったのか。学校や塾だけで全てが身につくなら、みな天才である。参考文献洗脳の科学/リチャード・キャメリアン/兼近修身 訳/第三書館20世紀の権力とメディア/平井正/雄山閣プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く/A・プラロカニス E・アロンソン著/社会行動研究会 訳/誠信書房
Jul 18, 2005
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記号とは、みえざる「神の右手 悪魔の左手」 グランファルーンとは「誇りを感じさせるが意味のない人間同士の連帯」だ。これが、どういう特性や性質を含んでいるか理解できただろうか。『人格を育てるのであって、良さそうに見える「記号」を育ててはいけないのだ。』これを、グランファルーンにあてはめて考える。グランファルーン=「誇りを感じさせるが意味のない人間同士の連帯」これが「記号」である。「人格」をグランファルーンの特性や性質として考えてみる。「セールステクニック」としてのグランファルーン・所属している事に誇りを感じる・規律やルール、期待を破らないように行動する・自分と相手との間に共通項を創り出す顧客の「話を引き出し」、意図して「共感する」つまりその結果が自分への評価を上げることが出来る。「コミュニティサイト」としてのグランファルーン(情報交換などのコミュニケーションを中心としたWebサイト)・同じ職業・同じ趣味・同郷・同じ出身校など要するに、「誇りを感じさせるが意味のない人間同士の連帯」そのものである。その人とのつながりは単に「○○が同じ」というだけで、連帯感が生まれる。○○が記号でもある。もっともグランファルーンの特色を表しているのがSNSである。招待制、非招待制があるにせよ、「○○つながり」が特徴である。ヒューマニズムの感じられるサービスにする為、常に「人」を尊重し、掲示物を大切に考え、変造、毀損、削除されないように最善を尽くして保護を誓約し、新たな友人関係を広げることを目的に、参加者が互いに友人を紹介し合い、友人の関係、個人の興味・嗜好等を登録していく、実名登録制の制約されたコミュニティサイトである。さて、あるコミュニティサイトで、もっともグランファルーンの性質を表しているグループが出現した。『○○のマナー違反者を運営者側へ通報し、平和で安全な場所を作っていく為に力を合わせている「○○ポリス」達が集まるグループです。違反者を追放する為には皆様のご協力が必要です! 正義感の強い方々の参加をお待ちしております!』「マナー違反者を通報し、追放する」という、誇りを感じさせるが意味のない人間同士の連帯である。(コミュニティサイト側の判断に関心がある)「組織・団体・国」としてのグランファルーングランファルーンでは、同じグループに属する人は、同じグループの規律やルール、期待を破らないように行動する傾向にあることがわかっている。・仲間意識(連帯意識)・明確な差別意識・規律をつくる・ルールの徹底・友好的で穏やかな説得と命令・心理的な高揚感と誇らしさ「マナー違反者を通報し、追放する」・焚書・報道、言論の自由と規制・社会的真実(記号による属性)・人権問題群集心理とは、強力に見える指導者の存在を追い求め、進んで服従し、夢を託し、それと一体化しようとする大衆という「記号」ではなく、「性質」を捉えている。※人事工学研究所:人事用語集から グランファルーン所属している事に誇りを感じるが、意味のない人間同士の連帯。例えば、同郷の出身であるとか、同じ学校の出身である等。同じグループに所属する人は、同グループの規範やルール、期待を裏切らないよう行動する傾向があるという。自分と相手との間に共通項を創り出すことによって、自分への評価を上げることが出来ることから、セールステクニックとして使われる。 ・おもいやり・傾聴 ・支持・交渉 ・励まし・愛 ・友情・信頼 ・受容・歓迎・尊敬これは、グランファルーンでは意図的である。「記号」で連帯感を強めているからだ。「人格」といわれる特質や性質に着目すると意図的な「記号」に悩まされない。「やさしい」という記号の性質は何か。その個人の「ものさし」によって差異があるはずである。・たやすい人・わかりやすい人・なんでもしてくれる・怒らない人・口うるさくない・心配りがある人・穏やかな人・物静かな人・思いやりがある人・上品で美しいしぐさ・人に尽くす姿・心づかいをして控えめである。・つつましやかである。「やさしい」という「記号」を使うとき、「何」を指しているのか。「人格」というのはそこである。また、意図的なものを判断することもできるのではないか。それが真実の連帯すべき仲間、伝統的価値観、従うべきルールや秩序を得ることになる。大衆とは、無個性で周囲の人間と同じだと感じ、しかもそれを苦痛に感じない、むしろ満足感を覚える全ての人々のことであるとしたのは、スペインの哲学者ホセ・オルテガだ。フランスの社会学者ギュスターヴ・ル・ボンは、大衆は弱い権力には常に反抗しようとするが、強い権力には卑屈に屈服するとしている。※大衆と政治の心理学/若田恭二/勁草書房※世論と群集/ガブリエル・タルド著/稲葉三千男 訳/未来社※群集心理/ギュスターヴ・ル・ボン/桜井成男 訳/講談社学術文庫
Jul 18, 2005
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「T・Kのディキャリア」に寄せられたコメントから・・・何を見聞し、どう感じる大人になるのか・・・問題提議をしていただいた「一期一会」のみぃー笑さん・子育ては自分育てだと本当に思う。敷かれたレールから飛び出し、砂利道を自分の足で歩き出した、寄り道して転んで怪我もして反発して生きて花の香りや塩の甘さを感じたような。その一方でレール感覚はしっかり根付いていた事感じてた。今まで子供と寄り添って生きてこねばならない状況だったがこの先は?二分する自分の子育てが子供の主張とどう向き合うのか不安でもあり楽しみでもある。自分育て、まだまだ先が長い。・記号+○や△の教育や教養が必要じゃがバターさん・ご自身の思春期の課題をクリアーせずに、子どもさんに投影されてたりして、問題の解決がとってもややこしくなることが増えていますし、裁かれなければいいんだってな具合で、ずっこい生き方を親もしているのでしめしもつきませんし、親御さんがいけないことを・・・身体をはってでも伝えないといけないことを回避しようとしているんじゃーないかとすら思います。マナーの悪さは親の生き方にも現れているので・・・子達はそれを見て自然に吸収してしまうんじゃーないかと思うのです。こちぶおやぢさん かっこいい大人、スタイリッシュなOYAZI・こどもを見守るのが「こうでなくちゃいけない」という価値観しか持ってない大人・ベストなのは「ここまでやっちゃいけない」を知っている大人まんまる84さん・気兼ねや緊張といったストレスこそ、多くを学ぶきっかけに・多くの人は(時には自分自身も含めて)そういった記号から、人格を判断・学校で、苛め方や苛められ方を学んだような気がします。学校という箱の中の、児童、生徒同士の狭い社会で“快”“不快”を嗅ぎ分け、何を選べばよいか・・・それは今でも、私の人格を形成する上で、重要な学びであったと思います。ぱぴ1729さん・まずは、「記号」ではなく、人格を見るように・どのような家庭で育つかで、その子どもの学ぶ意欲は大きく変わるでしょうね。それだけではないでしょうが、非常に大きな要因でしょう。・「学びたくても学べない環境の子ども」や「教育したくてもできない経済状況の大人」も多いですね。そして、それが個人の問題とされる社会になっています。そういう人たちを助ける社会の仕組みも必要です。・「人権を学べば教師が変わり、教師がかわれば生徒が変わり、生徒が変われば学校が変わる。学校が変われば山でも動かす」と言う言葉があります。jeryiさん・上海の方がいらっしゃるですが、その方は一生懸命、日本と上海の情勢の違い、文化の違いなど今の日本人より丁寧な日本語で話してくださいます。私といえば彼らの努力さえ当たり前のように感じていて、その人の母国のことなど全く見ていませんでした。かるてーかさん・国がしなけりゃいけないことは、企業に安定した雇用を求めることじゃないのだろうか。使い捨ての駒であることがわかっていてなお働かざるを得ない状況に、好きで甘んじる馬鹿はいない。それでも食っていかなきゃならないから、フリーターや派遣で働く。それを揶揄されたんじゃたまらない。いづみさんlivedoor・多数派から少数派へと移行すれば、自由な代わりに孤独を味わうこともしばしば。・自分を省みないで他人を大事にするって方がなんかキレイゴトで薄気味悪い。・寄生している子供も離れたくないのと同じように、寄生されてる親もまた子供を手放したくない"共依存"的関係・自立ってさ、経済的なことばっかじゃないよ。精神的に自立したい気持ちが一番大事で、それを見届けてやる親のそれこそ"責任"が大事だと思う。他サイトのエントリーからlivedoor carrer counseling ・cultural deprivation -文化の喪失- 労働者階級のバックグラウンドを持つ子供たちが、良い教育を受けることができず、豊かな家庭の子供たちと同様のアドヴァンテージを持つことができない場合などに文化の喪失が起こります。家庭環境に書物をはじめとする文化的経験のできるものが欠如してしまします。※ 引用:English for Intelligent Conversation 著者:Karl・R・Twohig (英国) ベレ出版・ここでは、レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」から引用し「こころ -生きる目的と、それを-」をテーマに取り上げました。1928年の少年の短い夏の出来事をファンタジーに描くだけではなく「この世界の隠れた力」、「隠れたドラマ」をメッセージしたつもりです。死はいつも人の隣にいるからこそ、人の存在価値があるのです。 ・さまざまな事情を抱えながらも -日本でニートと呼ばれて- というレッテルを貼られ、それも経験と文化の違いですが、そのレッテルを「主義とする一人一色の人」、「レッテルを剥がしたく、もがいている十人十色の人」、「壊れそうな心で暮らす一人十色の人」が存在していると思うのです。・How can I go to there Where am I going ・私はどうやっていけばいいの 私のいくあては ・私は何をすべきなのだろう 私はどこへいくのだろう ・私がそこににいかに行くことができるか 私はどのように行くべきなのかライフスタイルコンシェルジュ・『地球にやさしく自然と親しむ程度の感覚であってはなりません。「ごっこ」ではなく、その土地のマイノリティの問題、社会問題、環境などの地球的課題の潜在的役割を意識して。』 ライフスタイルナビ・日々心を配り、目を配り、声をかけて、生命を育てていく。丁重に扱うことですね。それを「おもてなし」というのです。・記憶にわざわざ残さないような、敬愛に溢れる謙虚な行為に、深く考えさせられるのです。 biz&キャリア・さて、よく「多くの」という表現が使われています。「多くの悩みは・・・」「多くの女性は・・・」などとよく聞きますね。本当に、「多くの」なのでしょうか。あらゆる使いやすい言葉を使い、選びやすい言葉を選ぶために、本当の自分の考えや、悩みが一般化される言葉によって曖昧になってはいませんか。・常々思うのは、ひとつの学派、流派だけを述べてはいけないと思うのです。その学派や流派の手法にこだわるのは、たくさんの理論、手法からクライエント自身が選択することで、自分にあったスタイルにこだわれると思うのです。・一生懸命という言葉ですが、あまり好きな言葉ではありません。一生懸命、努力、がんばる、大丈夫、とりあえず、という言葉は、使用しません。努力と一生懸命を、私は「真摯」、ときに「全力」と表現しています。 真摯・・・まじめでひたむきなこと。事を一心に行うさま。 全力・・・出しうる限りの力。すべての能力を出しきる。 LifeGear ソーシャルアントレプレナーシップ「自然、歴史資源が保存され、人々が職に就き、スプロール化が抑制される。近隣の安全性が確保され、生涯教育の機会に恵まれ、公共交通が利用可能で、ヘルスケアにあずかれる。すべての市民が生活の質の改善に平等に参加できる。そんな健康なコミュニティを創造するために、みんなが力を合わせて働こう。」 『人格を育てるのであって、良さそうに見える「記号」を育ててはいけないのだ。』は次のエントリーで。
Jul 16, 2005
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カール・ロジャースの来談者中心療法が、教育・開発系に多く使われているが、もともとロジャーズは、日本には適さないと見なされていた時期があった。社会背景、教育体制などで、心理学の源流が変わることがある。ただ、文明は進化したが、「人」としてどこが進化しただろうか。過去100年間の科学技術の進歩は急速な上向きのグラフになるが、過去100年間の人間関係の進歩は、やや上向きの横ばい状態である。ロジャーズもチョイス・セオリーも、「傾聴」がありマズローもチョイス・セオリーも、「欲求説」がある。その子や、あるいは自分自身の資質や性質、特性、環境を考えて、歴史のある心理学を新しいやり方で取り入れたり、放棄したり、新しい理論を受け入れたりと、人間関係を築く方法を、選択する時代ではないだろうか。何を使うかではなく、誰がどの方法を「どのように取り入れるのか」だ。心理学や療法は、人をコントロール(指示・支配)するものではない。人対人として向き合うための方法なのだ。選択は一つではない。いくつも正しい選択肢があるのだ。それを「選択」できる判断をもつ大人が、「養育する大人」なのだ。「養育する大人 1」 -子育てごっこ- ぱぴ1729さんのコメントからどのような家庭で育つかで、その子どもの学ぶ意欲は大きく変わるでしょうね。それだけではないでしょうが、非常に大きな要因でしょう。また、少し違うことかもしれませんが、「学びたくても学べない環境の子ども」や「教育したくてもできない経済状況の大人」も多いですね。そして、それが個人の問題とされる社会になっています。そういう人たちを助ける社会の仕組みも必要です。 cultural deprivation -文化の喪失- livedoor carrer counseling 労働者階級のバックグラウンドを持つ子供たちが、良い教育を受けることができず、豊かな家庭の子供たちと同様のアドヴァンテージを持つことができない場合などに文化の喪失が起こります。家庭環境に書物をはじめとする文化的経験のできるものが欠如してしまします。 ※ 引用:English for Intelligent Conversation 著者:Karl・R・Twohig (英国) ベレ出版 「養育する大人 2」 -掲載記事から- まんまる84さんのコメントからストレスを“害悪”と決め付けたのはいつ頃でしょうね?気兼ねや緊張といったストレスこそ、多くを学ぶきっかけになるんだけど・・「養育する大人 2」 -掲載記事から- こつぶおやぢさんのコメントから朝起きて学校に行き、塾に行く子供たち。良いサラリーマンになるためにそこまで苦労したいとは思わないんですけどねぇ。うん。「養育する大人 1」 -子育てごっこ- ぱぴ1729さんの質問『人格を育てるのであって、良さそうに見える「記号」を育ててはいけないのだ。』についてはもう少し詳しくお聞きしたいと思います。・・・記号とは、シンボルです。・・・幸せ・不幸せ、良い・悪い、反抗・素直など・・・学歴、身分、職業などいずれも人格を表す表現ではなく、単なる言葉の記号です。
Jul 15, 2005
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コメントへのメッセージ 2 一期一会 掲載記事を読んでいま、歩き方、座り方が無神経な大人が多い。O脚、姿勢の悪さ、身体を揺らす、顔をいじるなどの落ち着きのない行為。手足の指を動かす。口や鼻の中に指をいれる大人。その行為に自分で気づかない。その「大人」を育てた「大人」は何を見て、何を躾けたのだろうか。身体を揺らす、顔をいじる、手足の指を動かす、口や鼻の中に指をいれるなどは、不安な心の現われである。「養育する大人」がいない時間に、子供は不安になる。そういった時間に、子供は身体を揺らす、顔をいじる、手足の指を動かす、口や鼻の中に指をいれるなどの「しぐさ」をはじめる。「養育する大人」が帰ってくると、そういった「しぐさ」が治まるので、「養育する大人」は気がつかない。気がつかないから「躾」ができない。そのままその子供が「大人」になる。公共の交通機関で、その「しぐさ」が、またはじまる。「共働き」で大切なのは、祖父母、親戚や近隣との交流であり、「親」がいないときに、しっかり「躾」や「行動を見守る」ことができる「養育する大人」の配慮を欠かしてはいけないのである。いま、子供に選択肢はない。大人が勝手にレッテルをつけ、このレッテルにはこの薬と騒いでいる。遊びにしても、「ごっこ」遊びをさせなさい。大人も「ごっこ」遊びが好きなようだけれど。・・・・・「仲間との遊びを多く。」道徳責任なのだろうか。一人でいるのが好きだという感覚。その子の資質や性質、特性を考えてほしい。仲間選び・・・自分の子の性質、資質を見据える覚悟 なぜその彼らを選んだのか「支持と交渉」 量から質への本人の気づき「支持と交渉」 「大人」に優れた資質の友人・知人はいるか。関連記事6/18エントリー:アイデンティティ ※まんまる84さんのコメントから ※biz&キャリアのトラックバック・・・・・「親戚や近隣との交流を深める」気兼ねや緊張がないとはいえない。また、気兼ねや緊張が「害」でもない。親のいない時間に「躾」やその子の「行動」を見守る関係であるべきなのだ。・・・・・「自分から進んでやる事」を見守る。子育てを、自分の権利、義務、道徳責任であるという考えではない見守るということは強制や統制がない。見守るということは「支持・交渉」するという行動だ。 ・おもいやり・傾聴 ・支持・交渉 ・励まし・愛 ・友情・信頼 ・受容・歓迎・尊敬こういった行動を示すことが、「自分から進んでやること」ができるようになる。※グラッサー博士の選択理論 エントリー「リード・マネジメント」こどもを見守るのが「こうでなくちゃいけない」という価値観しか持ってない大人が判断するとこういう結果になるのかなという感想でした。ベストなのは「ここまでやっちゃいけない」を知っている大人なのだと思います。OYAZI的 HAPPY MORNING!! 楽天ブログ「小粒な親父の白昼夢」より・・・・・子ども一人ひとりの「よさ」を認める。これは、大人に対してでもある。人権問題はどうなっている?人として一人ひとりの「よさ」を認める教育が必要だ。関連記事6/13エントリー:「私-わたくし-」 かけがえのない自分自身※ぱぴ1729さんのコメントから 「君といっしょにいるとおかしくなる・・・・・。 あれは頭にくる・・・・・。 こちらの気持ちを思いやる気はないのか・・・・・。 君は僕を怒らせた。僕は冷静になれない・・・・・。」人間関係を築くウィリアム・グラッサー博士のチョイス・セオリーby biz&キャリア 新しい生き方 セラピストが消えても、気づかないだろう セオリー セオリー2 principle セオリー3 選択理論 人を動かすもの コメントのメッセージ 3へつづく
Jul 15, 2005
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コメントへのメッセージ NO.1ライフスタイルコンシェルジュの7/10エントリーの「ライフスタイルをつくる旅」で、エコツアーに関するこんな一文がある。『地球にやさしく自然と親しむ程度の感覚であってはなりません。「ごっこ」ではなく、その土地のマイノリティの問題、社会問題、環境などの地球的課題の潜在的役割を意識して。』さまざまな行動の「とりあえず」や「つもり」が、「やさしく、親しむ」という手軽な方向へ進み、自分で探求し考えるという行為が抜けてしまっているのではないか。学問にしても、自分で探求するという力が抜け、「知らない・聞いていないこと」は学校、教師の責任になっている。「担任のあたりはずれ」という言葉を、子供の前で平気で口にする大人や「親」がいるが、「親のあたりはずれ」はないのだろうか。親のいない家庭では、親の務めができる大人がいる。祖父・祖母であり、叔父・叔母である。よく、父親と母親の役割を口にするが、「父・母」を含め、「養育する大人」としていきたい。「資質の優れた大人」である片親、祖父母や親類に育てられると、「資質の優れた大人」になるからだ。人格を育てるのであって、良さそうに見える「記号」を育ててはいけないのだ。
Jul 14, 2005
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クライエント(来談者)やクライアントと、メールのやりとりで、不思議に思うことがある。相手の「つぶやき」に対して1.いま、こういう状態ですか2.それとも、こうですか?3.こういった状況ですか?4.それとも、また違った感じ方ですか?など複数の選択肢で尋ねることがある。たいていは、「はい。3の○○なのです。」あるいは、「はい。4.で○○です。」問いかけで、自分の気持ちを再確認できる。また主訴の相互理解にもつながる。しかし・・・「いいえ」「いえいえ」この場合「いいえ。私は・・・・です。だから○○と考えているのです。」しかし、この○○というのは、私が記した選択肢に含まれているのだが。捉え方が選択肢全体をみず、メッセージを送ってくるのだな。かならず文章の頭に、「いいえ」、「いえいえ」をつけて。yes,noは、難しい言葉である。NOを先頭につける方に、共通しているのは、「○○は難しいですよね。」必ず、最後も否定形である。自分の資質や性質は、何気なく発する言葉からも読み取れる。私は他のブログでも、エントリー(投稿記事より)に対しての、コメントを読むのが好きなのは、人類の巣窟だと思うからである。資質や性質が溢れているからだ。投稿者の意向に向き合う人自分の問題に変える人など私のブログでは、まさにカンタベリー物語のように、語り手の職業や性格にふさわしい「お話」を残してくれる。-カンタベリー物語 ブログの語り手-
Jul 14, 2005
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・・・・・・・・・・日記を投稿する機能が変わっている。・・・・・・・・・・早起きしてよかった。・・・・・・・・・・ちょっと”ためし”・・・・・最近、マテリアルの収集に凝っている。・・・・・・・・photo by teatime http://teatime.velvet.jp/
Jul 14, 2005
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1970年代にハーバード大学の心理学者であるD.C.マクレランド(David.C.McClelland)教授によって提唱され、引き継いだライル・M・スペンサーとシグネ・M・スペンサーのCompetence At Workを参考に、コンピテンシーを紹介しているわけだが、これまでの適正テストや知識テスト、成績証明書やライセンスは、「コンピテンシー:高業績者の行動特性」を意味を持たないということだ。コンピテンシーは、職種、職務によってプログラムも変わる。ここでは、現在日本の企業が、コンピテンシーを導入していても、職務によってプログラムを変更していない点を強調し、これまでの適正テストや知識テスト、成績証明書やライセンスで、成功は予測できないことを再認識してほしいと望んでいる。これは、個人のキャリアにもいえることである。資格は資質と伴ってこそ、意味がある。就職や昇進には全くもって関係がない。自己のコンピテンシーを見極められるような、Personal Development:パーソナル デベロップメントへの自己投資が成功を予測させるだろう。
Jul 13, 2005
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・コンピテンシーの定義職務そのものへの個人の根源的特性状況とは、組織であり、社会であり、広範囲のものへの個人の根源的特性特性とは、自発的に考えて行動する、実際の結果への個人の根源的特性「さまざまな状況を超えて、かなり長時間にわたり、一貫性をもって示される行動や思考の方法」前回のイントロダクション2で・キャリアカウンセラーは、どれだけのクライエントを就職・再就職・転職させた のか。・キャリアカウンセラーは、企業とクライエントの幸運・成功へのマッチングはど れだけあるのか。この2つの領域を、同時にこなすことを求める事業所があるなら、事業の本質を欠いていることになり、職務の負担と無駄を計画していることになる。つまり、組織の方針と特性であるが、「個人の根源的特性」とは、異質な方針ではなく、異質な環境への対応力である。「どこに行っても、何をやっても」という職務そのものへの個人の根源的特性なのだ。・着目項目 成功の特徴的人材の比較 成功に導く、実際の機能している考え方と行動 異文化への対応能力 社会的感受性 基本的尊厳と価値を認める能力 政治的ネットワークこれらの根源的特性と着目の方法については次で説明するとする。
Jul 12, 2005
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「セクシャル・ハラスメント、強迫、思いつく限りのありとあらゆることが掲載されていた。……本気で僕たちにコンタクトしてくる人間が出てくる前にサイトをダウンさせたんだ。そうだね……それがサイトをやめる理由だ」引用:WIRED NEWS http://www.wired.com/ CNNパロディーサイトの製作者のコメントである。その製作にかかわったコメントの彼は16歳だ。おそらくそれほど気にとめていなかっただろう、CNN。製作者側もパロディであるという意識があったのだろう。だが、受けて側はそうではない。実名でパロディに登場させられた人物はどうなのだろう。「セクシャル・ハラスメント、強迫、思いつく限りのありとあらゆること」そのステージに、実在人物が虚偽の世界で勝手に役者をやらされてしまったわけだから。当然、事実を否定する声明を発表した。「人々はなんと騙されやすいことか」とは彼のコメントである。パロディってなんだったっけ。
Jul 11, 2005
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