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テレビやラジオの音楽番組ではよく、ざっくりと「〇〇年代」という特集が組まれる。最近の音楽に今ひとつついていけない身としては、こういう企画は嬉しい。ただ個人的に言うと、洋楽に関して言えば、私が馴染んでいるのは70年代までだ。1980年に私は17歳だったから、80年代の音楽にもそれなりに馴染みがあってもいいはずだが、どうもそうなってはいない。あれこれ考えてみると、ひとつ思い当たるフシがある。80年代前半からいわゆる「打ち込み」が横行して、特にドラムが生音で無くなってきたのだ。ドラマーでもある私としては、それには大いなる違和感を抱いた。そしてちょうど時を同じくして、所属していたバンドのカラーも相まって、それよりもずっと古い音楽に傾倒していったのだ。だから私の洋楽体験は、80年代前半でプツリと途切れてしまった。だがそれ以降の洋楽がすべてつまらないかといえば、決してそんなことはない。たまたま耳にしたアーティストがとんでもなく良かったりして、それまでまったくノーマークだったことを残念に思ったりすることも無いわけじゃない。まあでもそういうのもある意味「巡り合わせ」だから、気にしてもしょうがない。音楽聴くのはいつだって「自然体」が良いのだ。ちなみに邦楽はどうかというと、例えばかつてサラリーマンだった時には、営業車のカーラジオから流れるヒット曲が耳に飛び込んで来たり、今の店に帰ってきてからは、店内で流れる有線のBGMで流れる曲に耳が馴染んでいたりして、意外と時代を超えてあらゆる曲を耳にしてきたと思う。ただし曲とタイトルとアーティスト名が頭の中で結びついていないが(笑)
2019年06月22日
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もう何十年も前、私が今の店を継ぐべく帰って来た時のこと。商品の価格体系表を作ってみて、ちょっと気が付いたことがあった。以前から当店の平均的な利益率は「○○%」と聞かされていたのに、計算してみると全品おしなべてそれよりも低いのだ。しかしその謎はすぐに解けた。この件で父と話をしていた時に、ある大きな誤りに気が付いたのだ。例えば仕入れ値が「A円」の商品に、20%の利益を乗せて売るとしよう。その時、売値はどういう計算をするか、皆さんもうお分かりだろう。いろんな方法はあるが、とりあえずは原価を「0.8」で割ってしまえばいい。「売値×0.8=原価」だから、その逆にすればいいのだ。しかし私の父や母はそうしていなかった。なんと、原価に「1.2」を掛けていたのだ。それで導き出される売価から割り出した利益率は16.67%だから、20%よりかなり低い。ただ父も母も、私にその間違いを指摘されるまで、まったく気が付いてなかったらしい。それが正しいと思い込んでいたから始末に悪い。私が正しい計算方法を説いても、すぐには納得していなかったようだ。私が指摘した時、両親は、「私たちは昔の人間だから....」と言い訳をしていた。でも、こと商売の根幹にかかわるようなことだ、世代論で片付けられるものでもなかろう。ただもっとびっくりしたのは、ごく最近、私よりはるかに若い同業者が、私の両親と同じく、上記のような誤った計算方法を用いていたことを知ったことだ。やっぱり単に世代間の差異ということでは無いのかもしれない。
2019年06月14日
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先日の大津市の事故に続いて、今度は川崎市で幼い命が犠牲となる出来事があった。両者に共通しているのは、子供たちを監督する立場の人に特に落ち度はなかったということだ。ただこういった事件・事故が起きると、被害に遭ったのが幼い子どもだけに、こんなことが二度と起きることの無いように、何らかの対策を講じることを求める声が起こる。それが甘かったからあのような結果になったのだ、という意見も出てくる。大津の事故ならガードレールが無かったことが手落ちと言われればそれはそうかもしれないが、川崎の事件、あれは予見不可能だし、どうやったって防ぎようが無かっただろう。それこそ日本全国、どこで同じようなことが起こったっても不思議ではない。だから対策を講じるといっても、やりようがない。それこそ最終的には、全ての保護者が子供を学校まで送っていくしかない。一時はそのような措置が採られても、永久には続けるのは無理だ。本当はみんな、口には決して出さないが、心の中では思っているんじゃないだろうか?「運が悪かった」もちろん今どきこんなことを公に口にすれば、袋叩きになるのは目に見えている。著名人のSNSならば大炎上することは必至だ。それにこの言葉を被害者の関係者が目にすれば、怒り心頭に達することだろう。だからすべての人は、この考えを「不謹慎」の一言で片づけてしまう。またこんな言葉を吐こうものなら、必ずと言っていいほどこんなリアクションが返ってくる。「じゃああなたは自分の子供が同じ目に遭っても、同じことが言えるのか?」そんなこと訊くまでもない。言えるわけないじゃないか。その問い掛けはある意味、卑怯ですらある。ある方向からの見方を封じるのに万能な論法だからだ。問題はその思考回路にこそあると思う。被害者の心情を理解しようとすることは大切だ。被害者の心情に寄り添うことは大切だ。被害者の心情を慮ることは大切だ。しかし被害者の心情に同化することは、必ずしも大切なことなのか。社会というのは、「当事者意識」と「客観性」で成り立っていると思う。これは相互作用によってバランスが取られるべきものだと思う。そうでないと、多くの人々が被害者の立場=「当事者意識」に立ちたがって、それが図らずも一方的な世論を形成してしまうからだ。なんてったって被害者の立場に立つ方が楽だし、叩かれることが無くて安全だから。その結果として日本では、圧倒的に被害者と同化した前提で様々な対策が採られる。そこには概して客観性はない。一例をあげると、最近にわかに増えてきているプラットフォームの「ホームドア」。プラットフォームから転落する事故が増えたことでああいうものが出来たのだろうが、正直言って、過保護以外の何物でもないと思う。あえて乱暴な言い方をすれば、プラットフォームから落ちる人が悪いのだ。日本では不幸な事故があったためにホームドアが作られるようになったのだろうが、客観的に考えれば、プラットフォームが危険な場所であるという意識を曖昧にしかねない。それは電車に乗り慣れていない子供たちにも、マイナスでしかないと思う。そもそも諸外国にはあんなものないじゃないか。もちろん私が言っていることは極論かもしれない。でもほとんどの人が被害者側に立った時、「客観的見解」というのは極論になってしまう。それがはたして正常な状態なんだろうか?私は今回のような不幸な事件・事故が起こった時、報道を見聞きして言いようのない息苦しさを感じてしまう。それは多くの人が被害者の立場に同化してモノを言ったりしているからではないかと思う。もちろん彼らを責めることは出来ない。でもそれは決して正しいことでは無い、と個人的には思う。すべての人が同じ気持ちになることのリスクが、もっと認識されるべきじゃないだろうか?「運が悪かった」という見解も、ひとつの見方だ。こういう見解が叩かれることの無いような世の中であってほしいと思う。
2019年06月05日
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