全5件 (5件中 1-5件目)
1
ハッピー・マンデーっていつから始まったのかな、とある日何となく気が付き調べてみると、「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」が制定されたのが平成10年だから、もう20年以上も前のハナシなのだ。私は当初、この安直な考え方には反対だった。.祝日本来の意義が薄まってしまうからだ、しかし年月を経ると、考え方が変わってきた。現在当店のお得意先(飲食店)の定休日は、圧倒的に日曜日が最多だが、次に多いのが月曜日なのである。つまり月曜日は比較的ヒマなので、祝日に当たっても何ら問題はない。いやむしろ祝日に当たった方が都合がいいかもしれない。そんな状況なので、実はウチの店も定休日を月曜日に替えようかと思ったほどだ。結局それは実現してないが、それでも月曜日に祝日が多くなっている現状は、こんなカタチでウチの店に影響を及ぼしている。そんなこんなで、もし今ハッピーマンデーが廃止にでもなったら、私としてはかなり戸惑ってしまうかもしれない。何とも都合の良いなハナシだが、現実にそうなってしまっているのでしょうがない。そんなこんなで私は今や「ハッピーマンデー支持派」になってしまっている。
2019年01月30日
コメント(0)
あと数か月で改元である。新しい元号がどういうものになるか、考えただけでもワクワクする。しかしそういう気分って、おそらくすべての日本人が初めて体験するものだろう。考えてみれば明治以降の改元というのは、天皇の崩御とセットになっていたので、まず祝賀ムードにはなり得なかった。改元とはある意味、陰鬱なものだった。それで思い出すのはちょうど30年前のこと。1989年1月7日の夜、当時東京に住んでいた私は、会社の同僚と飲みに出掛けた。六本木の行きつけのスナックは営業していたが、そのほかの店はことごとく閉まっていて、六本木の街全体がまるで死んだようになっていた。後にも先にもあんな真っ暗な六本木は見たことがない。しかし今回の改元は崩御を伴っていないので、全般的に祝賀ムードになることが予想される。たぶん5月1日の午前零時には、あちこちで「カウントダウンパーティー」が催されることだろう。日の出時間には各地の日の出スポットが大混雑になることが予想される。そして10連休だ、それだけでテンションMAXになる人は多いだろう。おそらくは海外旅行に出る人が多くなりそうだ。しかも長期の休みになるから、普段なかなか行けないヨーロッパあたりに人気が集まりそうだ。改元に伴うビジネスチャンスだっていろいろと転がってそうだが、それもこれも生前退位されるからこそなのだ。明るい改元なればこそだ。日本人が初めて体験する「明るい改元」、そしてもしかすると、今後有りえないかもしれないケース、その一部始終をつぶさに見届けたいと思う。
2019年01月16日
コメント(0)
先日、話題の映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきた。私は自分の趣味がら、ミュージシャンの伝記映画は比較的進んで観に行く方だが、実は今まであまり心から満足し得るものに当たったことがない。観る前の期待値が高すぎるせいもあるのかもしれないが、それ以上に考えられるのは、そのミュージシャンのことを並の人以上によく知っているがゆえに、どうしてもリアルな印象との乖離を敏感に感じてしまう、ということだ。特に活動のピークをリアルタイムで追いかけていた人の場合は、気になって仕方がない。今回のこの「ボヘミアン・ラプソディ」も、それに当てはまっているのかもしれない。まあまあ面白いとは思ったものの、世間で騒がれるほどの感動を覚えるものではなかった。しかし映画というものはあくまでエンタテイメントであり、ドキュメンタリーとは違う。この映画とて、クイーンのファン向けだけに作られたものではなく、ありとあらゆる年齢層、ありとあらゆる嗜好の人に向けられて作られたに違いない。考えてみれば映画というものは、すべからくそういうものだろう。ある特定のテーマを、それに精通した人だけに投げかけても仕方がない。それをまったく知らない人に対して問いかける、それこそが商業映画の意義だろう。だから「ボヘミアン・ラプソディ」でも、クイーンをまったく知らない世代からの反響が大きいと聞くが、製作者としては目論み通りといったところだろう。逆に考えると私も、自分のまったく知らない世界のことに対して、映画を通じて目を開かせられる、という経験が今まで何度もあった。そういう作品にしても、その道の専門家からみればツッコミどころ満載だったかもしれないが、私は自分が満足できれば、そんなことはどうでもいいわけだ。映画ってそういうものなんだよね。だから「ボヘミアン・ラプソディ」が大好評を博していることも、決して否定的には捉えない。もひとつついでに言うと、私はクイーンの4人のメンバーを演じた4人の俳優、彼らの頑張りには最大級の賛辞を贈りたいと思う。
2019年01月12日
コメント(0)
こういうことに言及するとたぶん「門外漢は黙ってろ」という人がいるかもしれないが、箱根駅伝のハナシである。今年の箱根駅伝は往路、復路、そして総合で優勝校が異なり、しかもすべて大会新記録という、話題の多い大会だった。私も興味深く観ていたが、そんな中で気になったことがひとつ。1区のスタートからしばらくして、大東大の選手が転倒した。すぐに起き上って走り始めたが、どこかを痛めたのか本来の走りではない。結果的に次の中継点では最下位でタスキをつないだ。かなり無理をした(ように見えた)とはいえ、走れる状況だったから走ったのだろう。これがもしまったく走れないような状況だったら....棄権ということになるだろう。箱根駅伝では過去にも何度か棄権はあった。その場合もちろん総合順位はつかないが、形の上ではその後も走ることは出来るらしい。そして区間記録もそれ以前のものは認定されるが、棄権区間以降は参考記録になるらしい。しかし今回の場合は初っ端の1区、もしここで棄権になったら後の選手はやりきれない。いや、もちろんルールだから、ということは分かっている。でもそのルールが存在するあまり、選手に余計な負担を強いているということはないだろうか?記憶に新しいのは昨年11月の全日本実業団対抗女子駅伝。岩谷産業の選手が途中からはいつくばって全身に、血まみれで中継所にたどり着いた、あれだ。その選手は結果的に骨折してたらしいが、中継所にたどり着けないと棄権、というなら、今後もこうやって無理をする選手が続出するだろう。後の選手生命のことも考えると、ナンセンスでしかないと思う。途中で走れなくなった場合、次の中継所で繰り上げスタート扱いにしてレースを続行、そしてその後の区間の記録は公式記録として認定、という形にルール改正できないものだろうか?
2019年01月10日
コメント(0)
大晦日の閉店時間を繰り上げたため、昨年の紅白は一部を除いてほぼリアルタイムで観た。いろいろと思うところはあるが、総じて言えば「紅白」ってやっぱり「祭」なのだ。「祭」なんだから、細かいことは気にしなくていい。視聴率だとかそういうこと気にしちゃいけない。「紅白」とは「歌番組」のようで「歌番組」ではない。歌番組を観たければ裏番組のテレ東の番組を観ればいい。「紅白」とは「歌を媒介にして今年を振り返る」番組なのだ。観てるすべての人が、胸に去来する何かを噛みしめながら観ることができたなら、それだけで番組の役割は果たせたんじゃないかと思う。体裁なんか繕わなくていい。なんでもありの「ごった煮感」とNHK特有の「バタ臭さ感」、それこそが紅白の醍醐味かもしれない。みんなそれを承知で観てるんだから。それにしても今回の紅白は、とにかく話題に事欠かなかった。極めつけはラストのサザンとユーミンの共演。紅白のトリは大御所の演歌歌手が努めるものというイメージからまだ抜けきらないが、実際のところ桑田佳祐もユーミンももう60代なのだ。考えてみればサザンやユーミンとともに青春時代を送ってきた世代も、今や50~60代という年齢層になっている。どちらも現役で頑張っているから失礼かもしれないが、そういった世代の「懐メロ」は彼らになっている。それに比べると、演歌はずっと影が薄くなってきている。今回は久しぶりに北島三郎が出演したが、歌唱力の衰えようは隠しようがなかった。五木ひろしもまるでDA PUMPに忖度したようなパフォーマンスだった。新進気鋭の歌手も出てきてはいるが、まだまだ小粒感が否めない。演歌は日本人の心の歌、などと言われもするが、考えてみれば演歌の歴史は意外と新しい。チコちゃんによれば、昭和40年代に定着したものらしい(仕掛け人は五木寛之氏)。つまりある意味、極めて世代象徴的な音楽なのではないか、という仮説も成り立ちうる。つまり後の世代に引き継がれない可能性が高いということだ。実際ニューミュージックの洗礼を受けた今の50~60代が今さら演歌に流れるとも思えない。となると近い将来、「演歌」というジャンルが消滅するかもしれない。もっとも音楽をジャンル分けすること自体ナンセンス、という考え方もあるわけだから、三山ひろしや山下恵介なんかも「歌謡曲」という括りに入っていくことだろう。それにしても男女が分かれて対戦するというフォーマット自体、すでに劣化している。しかしそれが紅白のアイデンティティーだという考え方もある。こういった多様な考え方のせめぎ合いの中、紅白は「何となく」続いていくことだろう。視聴率がどうの、とか何とか言いながらも、「やめちゃえ」という結論が出ないことが、何よりその証左だろう。
2019年01月08日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1