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安居院義道の風景 その3 安居院兄弟の万人講時代の収入鷲山恭平氏は「安居院先生は河内国の杉澤作兵衛の家に身をおいて神道を学ばれた。」とされ、万人講とは何かを記されている。戸石七生氏著「安居院庄七の報徳運動と参詣講」では、「1842~1845年までの4年間、奈良にいて『万人講』という宗教活動に参加していたということ以外、庄七の詳しい足取りは不明である。」とされ、あるいは伊勢講・富士講・大山講を基盤に万人講を展開する計画を構想したのでは、またあるいは安居院家に居づらくなった50代の庄七が万人講を伝え聞いて、万人講なら実家で培った御師としてのスキルが活かせると、弟を誘って作兵衛を訪ねたのかもと、二つの可能性を指摘されている。鈴木道郎著「明治初期における相模大山御師の経済生活」に「大山御師の宗教上の役割と収入」の記述がある。御師には宿坊経営、祈祷、登山先導、御札配布等があるが、大山を離れた兄弟にはない。「御神楽講は、神社に御神楽講を奉納するために組織する講」で御師が成功すると「神社より奉納勧誘の手数料として奉納料の3割を受け、また金幣拝殿、正式参拝で手数料が2割入る」安居院兄弟は無償奉仕として諸国を巡って太々御神楽を勧誘していたのではなく、講を成立させ、代参人を伊勢神宮に案内し、金幣拝殿、正式参拝、神楽奉納させる事によって手数料を得ていたものと思われる。したがって、遠州下石田村の神谷與平次に会ったのも、一義的には報徳普及のためではなく、万人講勧誘のためであった。戸石氏は「要するに、報徳仕法の普及を開始した時点では、庄七・勇次郎兄弟にとって報徳仕法はあくまでも万人講勧誘のための手段であり、目的ではなかった可能性がある」とされる。「言い換えれば、2人が遠江の百姓の要請で本格的に報徳仕法の普及を通じた農村復興活動を行う過程で、講のネットワーク拡大のための報徳仕法利用が、講のネットワークを利用した報徳仕法普及運動へと転じたのではないかと考えられる。」そしてこれは実は遠州でだけで起こった事ではなく、二宮尊徳が報徳仕法を行う過程でも、既存の講等を利用した報徳仕法の普及が行われていた。それは飢饉・農村の困窮に対する対策を持たない講や心学等のネットワークにとって、当時救済手段を持った報徳運動へ関与していく事はある意味必然であったと思われる。大藤修氏著「二宮尊徳」に、文政7年「頼母子講を組織」(p.132)、文政11年、「不二孝の小谷三志と交遊」(p.146)とある。岡田博氏が『尊徳と三志を結んだ人たち』で、不二孝連中の報徳関与を詳述されている。💛浅田勇次郎が気になっている。きちんとした史料がみあたらない。浅田勇次郎は・1796年(寛政8年) - 相模国大住郡蓑毛村(現・神奈川県秦野市蓑毛)に住む大山阿夫利神社の修験者をしていた朝田家の三男として生まれる。朝田→浅田 は 養子に入ったのか?あるいは 朝田の間違いかすら判然としない。・1847年(弘化4年) - 遠江国長上郡下石田村(現・静岡県浜松市東区下石田町)へ向かう。後からやってきた実兄・庄七や村民たちとともに下石田社を結成し報徳思想の普及と同村の復興に取り組む。 なぜ安居院庄七と万人講に入ったのか?西国に向かったのか?『遠州報徳の夜明け』西遠連合報徳社七頁以下に「神谷与平治の思想と生涯」神谷昌志が掲載されている。「神谷与平治」を襲名した人は、神谷家の四代から七代まで続いて正確に記したものはなく、「神谷家家系図」と原戸籍などを史料に正確な与平治の伝記と事蹟をまとめられたものである。庄七と与平治との出会いは、弘化四年(一八四七)で、五代目与平治久太郎である。久太郎(与平治森之を襲名)は安政九年(一七八〇)一月三日生れで、六七歳の時である。森之には丑太郎(後に与平治森時)という長男がいて父と共に安居院庄七から報徳を学んだ。森時三七歳である。森時は子供がなかったため、弟の力伝を養子にした。この人が与平治正信を称した。下石田報徳社の設立は弘化四年(一八四七)三月十一日である。同志十三名は「勤行義定連印帳」に記名調印した。遠州報徳はここから遠州全域へと広まっていった。『遠州報徳の夜明け』七四頁以下に「報徳のリーダーの心意気(三遠農学社)」池田充義が掲載されている。【遠州の報徳運動は、浜松の下石田村から始まった】弘化四年浅田勇次郎は一年前の約束通り、兄の安居院庄七(五八歳)を連れて浜松の下石田村の四代目神谷輿平治森之(六七歳)とその長男森時(三七歳)五男力伝(二一歳)と面会をした。この事が、遠州地方の報徳運動が始まる運命的出合いとなった。安居院は、弟から神谷家の悩みを聞いており下石田村の現地視察をしてから、神谷家へ出向いた。 安居院と浅田の兄弟は東海道を往復しながら、萬人講の寄付を集める事を仕事にしていたので、街道筋の豪農や豪商を訪問し、豊富な知識を持っていた。神谷親子は、安居院の迫力ある弁舌にすっかり圧倒された。翌日、森之は村の有力者を神谷家に招き、再度安居院の話を聞かせた。安居院は疲弊した村をどうすれば再興できるか、具体的に報徳手法を説いた。いままで諦めていた村人に正気が芽生え、真剣に聞き入った。翌日、森之は村の衆と相談の上、村人は勇気ある決断を下した。安居院は、誓約書を書かせて、実践躬行することを求めた、その誓約書の内容は 1、朝も晩も農事に徹する事。毎日縄と草履をつくる事。 2、博打はやらない事。 3、村部とは常に助け合う事。 4、貯金をする習性をつける事。 5、休日の午前中は村民全員で道路の奉仕作業にでる事。 6、毎月一日常会を開き始める事。 7、親に孝行を尽くす事。 安居院の報徳手法は、農民が主導して活動していくことに特徴があった。安居院の指導の下で、村の地主が働き、村人全員で村興しが始まっていった。そして、この評判が、掛川倉見村の岡田佐平治の知るところとなり、六ヶ月後、第二の報徳社が倉真に創立された。これを機会に安居院流報徳運動が大きく広がっていった。安居院庄七と福山瀧助の四二年間は、遠州界隈の農村の生活を根本から変えた時代となった。安居院は一六年間、その後は福山瀧助が二六年間、遠江、駿河、三河の農村改革のための指導をした。」 以下三遠農学社の年譜のみ、同書から抜粋する。明治一四年 松島吉平が気賀村に郡長として着任明治一五年 気賀村に西遠農学社設立、社長は野末九八郎、松島授三郎、神谷与平治正信、井村又三郎、夏目喜平、早戸仙次郎、平井重蔵らで結成。明治二〇年 三遠農学社に改名、松島授三郎が社長となる。「下石田村報徳連中議定下書」「当村の報徳社の大本は、相州大住郡蓑毛村安居院庄七殿と浅田勇次郎殿とが信心の発願で、普く万民のために伊勢神宮の太々神楽講を厚くお世話なされ、道中往返とに宿泊の宿を定めておいて、諸国に広められていたが、残念なことに、遠州においては知る人が無く、広めることができない。そのような話を、三州藤川宿の菱屋長右衛門方で内談していたところ、長右衛門が申すには、遠州浜松の下石田村に神谷与平次殿という信心深い方があります。私どもに定宿をおおせつけられ、よく知った方ですから、お立ち寄りになり相談されれば、あなたのご志願も成就し、遠州方面に広めることもできましょうとの話をした。そこで下石田村の与平次方へ二先生がお尋ねになった。太々神楽講ご志願の趣旨を説明し、並びに二宮金治郎様が始められた報徳善種の法を説明された。神谷与平次は聴聞して、いずれも人道の大本であり感服することが少なくなかった。そこで両人のお伴をして、伊勢太神宮に神楽を執り行い、ご神前で報徳を実行することの善否、当村で取り行ってよいか、みくじを願ったところ、奇なるかな、善なるかな、大吉のみくじをいただき、ついに報徳を実行することを決心しました。帰路さらに報徳についての説明を聴聞し、再度与平次宅へ同伴して、親しい者を招いて報徳について説明を受けたところ、一同恐れ感服し報徳の心の不動の者が取り結んで、この善門に随従するという義定書を差出し、天道人道の正理・大本に基いて本業・余行怠慢無く勤め行い、ぜいたくや悪い風俗をなくし、余財を積み立て、それを報徳善種金と名付け、困窮した民を救済するべき旨を約束し、弘化四年から安政三年まですでに一〇年に及び、ますます人心厚く実行し、いよいよもってありがたいことである。子々孫々まで忘れてはならない。」
2023.05.31
考量「安居院義道」 その5三、野州に報徳を聞き大転換安居院先生は、はるばると野州(栃木県)にまで下って二宮金次郎に接近したものの面会は断られ、希望した安い金利での借金を持ち出す機会もない。ただ衣食住の心配はなく、少しひまはある。そこで「二宮とは何者なのか」との研究心が湧き起ってきて、朝夕出入りする来訪者への対談や門人達への説話を立ち聞きする。初めは金貸しの親方くらいに想像していたのが、大きな見当違いであった。一大痛棒が下された。今その時の説話のどのような要点が衝撃を与えたのかは分からないが、おそらくは天理人道から説き来って、治乱興亡の経綸(国の秩序を整える)に及んで、難村の復興や困窮した民の救済に至る未だ発見されていない実際論であり、人の為、世の為にその身を忘れて全精神を捧げるこれまで聞いたことも見たこともない偉大な聖賢であったことに心が打たれたであろう。つらつらと自分の過去を回顧し反省すれば以前の生活は全く誤っていた。天地や神明に背き、人道を無視し、私利私欲に凝り固まった鳥や獣の姿であったことに想い致って懺悔(ざんげ)せずにはいられない。まるで月が雲を離れてコウコウとした光を放つように、長い眠りから、さめて心機の一大転換を起した。 まず第一に念頭に起ったのは、世の中の人は余りに金にとらわれ過ぎている。自分は金はいらない。自分のような者が金を持ったところで、正しい金の用い方を知らない。それに金を持たしたところで、金を殺してしまう。芸のない事だ。第二に浮かんだことは、しかし金はいらないが、金があったら、二宮先生に差し上げたい。先生は古今独歩の金遣いの名人であるから、と。 このように心機が一転して、当初の借金問題は引っこんでしまった。しかしなおこの機会により多く二宮先生の説諭を聴かなければ、門人にも学ばなければ、また仕法の組み立ても知りたいと、仕法書類の写し取りなどに魂を打ちこんで、遂に借金の件は口にも出せず、また二宮先生にも面会しないで、十八日目に引き上げて郷里に帰った。(竹村篤老、高山藤七郎聞書) この聞き書きは桜町陣屋の七月二十六日の条とほぼ合致する。すなわち 一、「相州浦賀宮原啓三郎、宮原治右衛門、伝右衛門、同大磯宿茂兵衛、十日市場磯屋庄七、豊田村吉左衛門、甲州都留郡小沼村年寄忠兵衛、昨夜より御陣屋へ罷越居同道罷帰候事」p.29 メッセージ③徳島「私の考えるキリストの平和」 K/K「私の考えるキリストの平和」とは何だろう。それはまず、わたしとキリストとの平和、ということだと思いました。 イエス様に祈り、話しかけ、そしてイエス様からの語りかけを聴くとき、そこに「人知をこえた神の平和」が与えられます。それは、状況が変わらないのに与えられる安心感で、イエス様によって心の深いところが静かに満たされていきます。
2023.05.31
菊池雄星 6勝目&日米通算100勝目達成! 5回3安打2失点 打線の援護も2023年5月31日 ブルージェイズの菊池雄星投手(31)が30日(日本時間31日)、本拠のブルワーズ戦に登板し、5回を3安打2失点で6勝目(2敗)&日米通算100勝目をマークした。1回1死一塁から3番のコントレラスに甘いスライダーを右中間スタンドに運ばれた。 いきなりの2失点だったが、この日は打線が相手先発ハウザーに襲いかかり、その裏に4点を挙げすぐさま逆転。菊池も2回以降は連打を許さず、5回を3安打2失点、今季最多の5四球を与えたものの4三振を奪った。防御率は4・47となった。💛菊池雄星投手は、藤浪と違い、素直に人の意見も聴きながら、自分の体にも聞きながら、フォームなどを修正して、メジャーに適応していく賜物だ。それに応じて成績を上げている。菊池雄星が渡米後初の2連勝菊池雄星が6回を4安打1失点開幕3連勝 「まっすぐ立つ」2020年12月。小島圭市さん「雄星、まっすぐ立ててないよ」「このオフすべてを費やすつもりで、まっすぐ立つということを見つめなおした方がいい」理学療養師が、菊池用のメニューを提示。両足を縦方向に揃え、前屈をしては少しずつ位置関係をずらす。一方の足で立って、浮かせた反対の足を細かく動かす。身体に「まっすぐ立つ」をたたき込むための反復練習。菊池投手「なかなかうまくいかないですけど、でもきちんと足の裏のセンサーが動いているな、というのを感じながらやれてはいる」オフはほぼ「まっすぐ立つ」の修練で終わった。 2021年2月。メジャー3度目のキャンプで、菊池は今までと違う感覚を味わうことができた。「そんなに腕を振っているつもりじゃないけど、球がいく」「球速を上げようというつもりはなくて。ただ、ロスをなくそうとしたら、自然と球速が上がった。ずっと身体は鍛えてはきたけど、そこから効率よく出力を生むというところが足りていなかった。あらためてそう思います」
2023.05.31
【MLB】藤浪晋太郎、わずか4球でメジャー2勝目 同点の9回2死から登板…サヨナラ呼び込む5/31(水) アスレチックスの藤浪晋太郎投手が30日(日本時間31日)の本拠地・ブレーブス戦に登板。9回2死から打者1人を抑えた。チームはその裏にサヨナラ勝ちし、藤浪にメジャー2勝目がついた。 2試合連続での登板となった。1-1の9回2死走者なしで4番手としてマウンドに上がると、ライリーをカウント2-1から直球で捕邪飛に打ち取った。最速は2球目の99.8マイル(約160.6キロ)だった。 その裏、チームはブレーブス3番手・イグレシアスから3つの四球を選んで1死満塁のチャンスを作り、ブライドの内野ゴロで得点してサヨナラ勝ちした。 打者1人を抑え、防御率は12.13から12.00となった。29日(同30日)の同戦では3点リードの8回に3番手で登板し、1回1安打1失点で初ホールドを挙げていた。12日(同13日)、本拠地・レンジャーズ戦で挙げたメジャー初勝利に続いて、またもサヨナラ勝ちで勝ち星が舞い込んできた。💛つい先日まで ぼろくそ にけなされていた。やっぱり藤浪は藤浪 で終わるか?覚醒して一時代を築くか?どう変わるか、やっぱり変われないのか?眼が離せない成績ボロボロの藤浪晋太郎 練習嫌い、人の話を聞かない、遅刻魔……問題児を叱れる意外な人物5/23(火) ・4月8日 4回1/3 5失点・4月15日 6回0/3 3失点・4月22日 2回1/3 8失点と、結果はボロボロ。“史上最悪の先発投手”“2023年で最悪の契約”・今、アメリカで苦しんでいる。その理由の1つとされるのが“練習嫌い”だ。・「人の話を聞かない」OBの江夏豊が古巣を指導した際、江夏はキャッチボールの大切さを説いたが、『藤浪だけはまったく耳を貸さなかった』・野村克也氏『お手本となるピッチャーの教えにもっと耳を傾けなさい』『阪神にはメッセンジャーという素晴らしいお手本がいる』・阪神ファンのスポーツライター「藤浪は地元出身で、人気も注目度もピカイチ。最速162kmの速球のインパクトは絶大で、阪神ファンの誰もが『ストライクさえ入れば……』『いつか復活するはず』と、再起を信じてきました。そんな彼がチームを捨ててアメリカに渡ることになり、阪神ファンは落胆しましたが、『環境が変われば活躍できるかも』と快く送り出したのに……やっぱり藤浪は藤浪でしたね。 ストライクが入らず四球でランナーが溜まり、ストライクを取りに行って打たれるのは阪神時代とまるで同じ。アスレチックスが約4億円で契約したと聞いた時は、貴重な宝を手放してしまったかと思いましたが、今の惨状を見ると、“こうなることは分かっていた”としか言いようがありません」
2023.05.31

ひるむしろ牧野富太郎少年が見つけた「白くて丸い怪物」の正体とは?ある時、町はずれの小川から採ってきた水草を庭の鉢に浮かしておいたが、私はそれがどんな名の水草か知らなかった。すると、この下女が「その草、ヒルムシロとかわりませんね」といったので私はびっくりした。その後、高知で買った『救荒本草(きゅうこうほんぞう)』という本を見ていたら、「眼子菜(がんしさい)」という植物がのって居り、これにヒルムシロという名がでていた。まさに、下女のいった通りだった。朝ドラ『らんまん』のモデル、「植物学の父」牧野富太郎が植物に夢中になった“意外なきっかけ”私はその頃盛んに山に草採りに行ったが、かす谷という所で面白い繖形[さんけい]科の植物が水際にあるのを見付けて零余子[むかご]が茎へ出ていたので、それを採って帰り、「むかごにんじん」であることを知った。また町の外から水草を採ってき、家の鉢に浮して置いたが、その草の名を知りたいと思っていると家の下女が「びるむしろ」だといった。私は『救荒本草』という本を高知で買って持っていたが、その中に似た草があったことを想い出し、調べた結果、この草は眼子菜、「ひるむしろ」であることをはじめて知った。おゆう「峰の月ちょうだい ヒルムシロ、何でこんなところに?」 万太郎「今何と」 おゆう「蛭が乗っかる船みたいだから、うちの田舎ではヒルムシロと言ってた」 万太郎「おゆうさんの国はどこですか?」 おゆう「知らないわよ」
2023.05.31
大谷翔平 5試合ぶり13号ソロ!4回に好相性右腕から豪快弾、初回“やられた”高め直球をジャストミート5/31(水) エンゼルスの大谷翔平投手(28)が30日(日本時間31日)、敵地シカゴでのホワイトソックス戦に「3番・DH」で先発出場。4回の第2打席に5試合ぶりの本塁打となる13号ソロを放った。 1―1の同点の4回無死の第2打席、2ストライクからホ軍の先発右腕ジオリトの真ん中高めの直球を完ぺきに捉える勝ち越しの中越え13号ソロ。大谷は前日の同カードでは、4打数無安打、2三振、1死球。試合後にネビン監督は、死球を受けた大谷について「彼はOKだ。膝の下で骨に当たった」💛解説の井口さんが一回のセカンドフライとなった打撃をいい感じで打てるようになってきたと。ジャストヒット、ホームラン
2023.05.31

報徳記 巻之二【8】(2)川副氏采邑青木邑の衰廃を興す 柳助(りうすけ)、勘右衛門(かんうゑもん)村民を率ゐて櫻町に到り、一邑(むら)再興の方法を請ふ。時に天保三年なり。先生暇なきを以て之を辭(じ)す。邑民(いふみん)屡(しばしば)請ひて止まず。先生曰く、汝の邑(むら)衰廢(すゐはい)極(きはま)るもの、獨(ひと)り田水(たみず)を失ひ、農事を勤むること能(あた)はざるのみに非ず。何ぞ用水なくんば從前(じゅうぜん)の田を畑(はた)と爲し、多く雜穀を得て、活計(くわつけい)をなさゞるや。豈(あに)人命を養ふもの、獨(ひと)り稲梁(たうりやう)耳(のみ)ならん。百穀(こく)皆生命を養ふもの也。而して田水乏しきを口實(こうじつ)となし、良田を蕪没(ぶぼつ)に歸(き)して顧みず、博奕(ばくえき)を事とし、他の財を借り、一時の窮(きゅう)を補はんとす。是家々絶窮(ぜつきゅう)、遂に離散する所以(ゆゑん)にあらずや。抑々(そもそも)博奕(ばくえき)なるもの富家(ふうか)と雖も祖先傳來(でんらい)の家株(いえかぶ)を傾覆するに至る。況(いはん)や貧人(ひんじん)にして此の惡業(あくげふ)を爲(な)す、其の亡滅迅速ならざるを得ず。且(かつ)田水なきを以て良田を荒し、衣食なきを憂ふ。夫れ田圃(でんぼ)は衣食の本也。其の根本を棄てゝ以て他に求む。猶(なほ)井を塞(ふさ)ぎて水を求るが如し。何れの時か之を得んや。農力勸(すゝ)み、糞培(ふんばい)怠らざる時は、圃(ぼ)の有益たる田に勝(まさ)れり。何ぞや、田は一作に止(と)まり、圃(ほ)は両毛(りょうげ)作なればなり。汝等農を以て業(げふ)とす、素より畑(はた)の有益を知らざるには非ず。知りて而して耕耘せざるは他無し、其の勞苦(らうく)を厭(いと)ひ、怠惰を旨とし勞(らう)せずして米財を貪らんとするが爲(た)め也。我が方法は節儉(せつけん)以て冗費(じょうひ)を省き、有餘(いふよ)を生じ、他の艱苦を救ひ、各(かく)其の業を勉勵(べんれい)刻苦、修身(しうしん)善行を履(ふみ)み、惡業(あくげふ)を爲さず、勤動(きんどう)以て一家を全(まったう)するにあり。戸々(ここ)此(こ)の如くならば貧村必ず富ますべく、廢亡の邑里(いふり)と雖も必ず興復再盛に至るなり。然して汝の邑(むら)の如きは我が再興の道と反對(はんたい)せり。其の窮苦は憫然(びんぜん)なりと雖も自業自得、他より如何(いかに)ともなすべからざるもの也。汝ら再び來ること勿れ と教誨(けうくわい)す。勘右衛門涕泣(ていきう)して曰く、邑(いふ)民の無頼(ぶらい)實(じつ)に高諭(かうゆ)の如し。然れども今一邑(むら)再興の大業(だいげふ)を請願するに至りては、舊來(きふらい)の懶惰(らんだ)を改め、示教(しけう)を得て、以て粉骨の勞を盡(つく)し、勘苦に堪へ、再興の業に從事せんと誓約の上歎願せり。冀(こひねがは)くは先生の許容あらんことを。先生曰く、無頼の習慣己(すで)に久矣(ひさし)、今一時の約言何ぞ永年を保つことを得んや。人情困苦に迫る時は艱苦(かんく)の業も厭(いと)はずと雖も、少しく欲する所を得るに至りては、忽然(こつぜん)惰心(だしん)を發(はつ)し、舊弊(きうへい)再び起るもの也。汝安(いづく)んぞ後年の憂なきを保たんや。一旦再興の大業を擧げて後、廢棄に至らば、寧(むし)ろ其の初(はじめ)より止むには如かざるなり と。邑(いふ)民、何等(なんら)の苦行にも堪えんと云ひて歎願止まず。先生曰く、汝等衰村を興さんこと甚だ難し。目今(もくこん)其の易き事をも爲さずして、其の難きことを爲さんとする惑(まどひ)にあらずや。今其の易(やす)き者(もの)を示さん。汝邑(いふ)民目下(もくか)の良田蕪ライ(ぶらい)し、葭(よし)茅(かや)茂盛(もせい)し、冬に至れば野火(のび)茅(かや)を焼き、之が爲に民家を焼亡(せうぼう)するもの數々(かずかず)なりと聞く、假令(たとひ)開田耕耘の力足らずと雖も、此の茅(かや)を刈る何の難きことか有らん。而して之を刈らず、家をも灰燼(くわいじん)となし、他邦(たほう)に流離(りうり)す。何ぞ愚の甚だきや。一邑(むら)再興の事は暫く措き、先づ火災の本たる茅(かや)を刈るべし。刈り畢(をわ)らば我れ用ゐる所あり、至當(したう)の代價を以て之を買ふべし。汝能くするや否や。川副氏の用人並木柳助と勘右衛門は村民を引き連れて桜町陣屋に来て、尊徳先生に一村再興を願い出た。天保3年のことである。尊徳先生は「ひまがない」と断ったが、村民は何度も懇願した。先生はこう言われた。「汝の村が衰廃したのは、単に堤防が壊れ、田の水を失って、農事を勤めることができないということだけではない。用水がなければ、どうして田を畑にして、多く雑穀を作らないのか。人命を養うのは米だけではない、百穀みな生命を養うものである。それなのに田の水が乏しいことを口実にして、良田が荒れるのもかえりみず、バクチにふけり、借金をしては、その場しのぎをする。これが家々が絶え、ついに離散する原因ではないか。そもそもバクチは金持ちでも祖先伝来の家を失うに至るものじゃ。まして貧乏人がこの悪い行いをなす、その亡滅は迅速である。それでいて田の水がないといいわけして良田を荒れるままにして、衣食がないことを憂えている。たんぼは衣食の本である。その根本を棄てて、他に求めるのは、井戸をふさいで、水を求めるようなものだ。いつになってこれを求めようというのか。農事に勤め、こやしを怠らない時は、畑は田よりまさっている。どうしてかというと、田は一作だけだが、畑は年に2回も収穫できるからだ。汝らは農業をしているから、畑が有益であることを知らないわけではあるまい。知っていて耕作に励まないのはほかでもない。その労苦をいやがって、怠惰を好んで、労せずして米や財を貪ろうとしているがためである。私の方法は、節倹して無駄な出費を除き、余剰を生じて、他人の艱苦を救い、おのおのその業務を勤め励み、生涯善行を踏み行い、悪行をなさず、勤勉をもって一家を全うするということなのだ。全ての家がこのようにするならば貧村も必ず富ませることができ、廃れた村も必ず復興することができる。しかし、汝の村のありさまは私の再興の道と反対である。その窮乏は憐れむべきだが、自業自得ではないか。他からどうすることもできない。汝らは二度とここへ来てはならない」と教えいましめられたのであった。勘右衛門は、涙を流して言った。「村民が無頼なことはまさに仰せのとおりです。 しかしながら今一村再興の事業を請願するにあたっては、旧来の怠惰を改め、先生の尊い教えを受けて、必ずや骨惜しみせずに働き、苦労に耐えて、再興の事業を行おうと誓約の上嘆願するものです。どうか先生、ご許容のほどをお願いします。」尊徳先生はこう言われた。「汝らは怠惰の習慣が久しい。今一時の約束がどうして永い年月保つことができよう。人情として困苦に迫られると、どんな苦労も厭いませんと言うけれども、少し欲するところが得られると、急に怠惰の心を起こして、旧来の弊害が再び起るものだ。汝がどうして後年そのようなことがないと言い切れるのか。いったん再興しても、後年廃棄するのであれば、始めから止めておいたほうがよい。」青木村の村民はそれでもどのような苦しみにも耐えますから仕法を発業していただきたいと懇願の止むことがなかった。先生はこう言われた。「汝ら衰村を興すのはとても難しい。 ただいま為すことを為さないで、難しいことを行おうというのは惑いではないか。汝の村は今、良田が荒れ果て、ヨシやカヤが生え茂り、冬にもなると野火がカヤを焼いて、民家も焼け失うものが数多いと聞いている。たとえ開田し耕作する力がないといっても、このカヤを刈るくらどうして難しいことがあろうか。それなのにカヤを刈らず、家をも灰燼に帰し、他国に流離する、なんという愚かしいことか。一村再興のことはさておき、まず火災の本であるカヤを刈るべきである。刈り終わったら私が用いるところがある。それなりの代金を払って買い取ろう。汝よくするやいなや。」二宮翁夜話巻の4【6】翁曰く、わが道は至誠と実行のみ。ゆえに鳥獣や虫・魚、草木にも皆及ぼすことができる。いわんや人におけるをや。ゆえに才智や弁舌を尊ばない。才智や弁舌は、人に説くことはできても、鳥獣や草木を説くことはできない。鳥獣は心があるからあるいはだますことができても、草木をだますことはできない。それわが道は至誠と実行のみであるがゆえに、米麦、野菜、瓜、ナスや、蘭菊までも皆繁栄させることができる。たとえ知謀が諸葛孔明を欺き、弁舌が古代中国の雄弁家である蘇秦や張義を欺くといっても、弁舌を振るって草木を栄えさせることはできまい。だから才智や弁舌を尊ばず、至誠と実行を尊ぶのである。「大学」に「至誠神のごとし」という。「至誠」とは、すなわち神といってもさしつかえない。およそ世の中は知恵があっても学問があっても、至誠と実行がなければ事は成就しないものと知るべきである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。p.21 「言ってはいけない言葉があるのよ。言っちゃうと、幸せがふっとんじゃうの。」「へえ~、どんな言葉なんです?」「まずわね、汚い言葉。汚い言葉を平気で使う人というのはね、そういう人生を歩むのよ。だからきれいな言葉を使いなさい。」
2023.05.31
「丈之助さんのシェークスピアがここで!」万太郎(神木隆之介)の人心掌握術に、SNS驚き「人たらしや…」【らんまん】5/30(火) 5月30日放送の第42回では、「峰屋」が窮地に陥るなか、万太郎が西洋音楽の演奏会に同行することになるシーンが描かれた。学生の藤丸から、酒への課税が重くなり日本の酒屋が軒並み潰れかねないという話を聞いた万太郎。そんな噂話の通り、土佐の「峰屋」では政府の取り締まりが厳しくなり、酒を造った時点で税が課せられる「造石税」に苦しめられていた。「峰屋は不正な酒は造っちゃおりません」と密造酒を疑う役人に綾は言う。 綾は番頭に歎く。「酒を寝かしたり古酒も造れんようになる」 またタキに訴える。「ばあちゃん、これから考えんと。いざという時、政府は峰屋を守っちゃくれん」一方、田邊教授の誘いで西洋音楽の演奏会に同行することが決まった万太郎は、その場で専門誌作りの許可をもらおうと意気込むのだった。万太郎が田邊教授の愛する西洋音楽や美術に関する話をすることで、演奏会に誘われることに成功するシーンが描かれた。先日、陸軍練兵場を通ったところ、なんじゃもんじゃの木がありました。(教授は興味を示さない) そこで万太郎は話題を変え、画工、野宮から聞いた西洋画の影をつける手法、遠近法について話す。同じ長屋の丈之助から聞いた、シェクスピアは勧善懲悪ではなく、人の心理描写を語るという聞きかじりの話をすると、田邊教授は関心を示す。田邊教授が「らんまん」に最初バイオリン演奏で登場するシーンで教授の机の上にはシェークスピアの英語の原書が置いてあった。細かいところまで接点を繋ぎあわして映像にしているから、万太郎のシェークスピアが教授の心に届くのが納得できる。西洋の植物画は影がある、奥行きがある。シェークスピアも日本の勧善懲悪と違う。田邊教授「いい着眼だ。 週末に室内音楽会を聴きに行くが、一緒にいくか?学生として私に同伴するか?」長屋の住人・丈之助や画工の野宮との話をうまく活かして教授の心をつかんだ万太郎に、SNSでは「万ちゃんってホント人たらし!」「丈之助さんのシェークスピアが、田邊教授との接点作りに生きてくるのか!!」「万太郎、田邊教授にうまいこと取り入ったな」など、万太郎の人心掌握術に称賛の声が寄せられた。💛長屋の住人・丈之助との出会いは、ある意味、このための伏線だったんだ。万太郎の「らんまんさ」は、人の心をつかみ、人との距離をちぢめ、己の使命とする金色の道へといざなう(^^)9う~ん、わけ隔てのない明るい人柄が呼び起こす、人と人との繋がりが生きる、藤丸の「癒し」や寿恵子の「推し」など、現代の風潮もたくみに取込む、「ホント人たらし!」は脚本家の長田育恵さん だあ(^^)。
2023.05.31
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「今日コーヒー豆と通信第6号が届きました。ありがとうございます。第6号目を通して何か気がつきましたら連絡します。」とS/Hさんから、メールがあった「よかったです。W/I先生からお便りが後で届きました。きっとコーヒー豆の発送依頼だけお店にされてそれから、お便りを書かれたのでしょう。前書きも素敵です。大きく広がる五月の青い空の中、穏やかに毎日を過ごされておられることと拝察します。昨年12月18日に袋井市で開催の「第9回報徳講座」終了後。W先生に大会資料と掛川茶をお送りしていたのです。それが今になって、コーヒー豆が2袋届いたのです。真実、驚かされます。以前、K/K先生に ハッピーウォーター1本を発注したときは、ハッピーウォーター の他に スクワランなど2種類の瓶とK先生の著書、講演のCDなど送られてきて3倍以上になって返ってくるとは、 神様のなされよう みたいだと思ったものですが。W先生もいつも 倍数助成法 で対応されるようです、相馬仕法で、坪田村北組が報徳仕法に立ち直り、「よその村へご仕法を移していただきたい」旨申し立てがあったので、その意に任せ、日掛け縄ないなどによって積み立てられた五両を戻すと同時に、それと同額のお金を「倍金ご褒美として下しおかれ候」褒美として与える方法です。安政5年も「貧乏してた右馬之助が長い闘病の末、亡くなった。感心な村人たちが右馬之助の家に米を11俵助成したので、倍数の取り扱いを下し置いた」と岩崎敏夫著「二宮尊徳の相馬仕法」118頁に記載される仕法の方法です。W先生にご講演をお願いしたあと、講演の内容に感動して、講演そのものは福山滝助の「自費自弁主義」で報酬は出していないので、お正月に みかんをひと箱5キロ をお送りしたところ、なんと ビニール袋に入った 生ガキ が送られて驚いたものです。まさにエビで鯛を釣る、そのままで、報徳仕法における 倍数助成法 を感得したものでした。今回もまた お茶一袋に対して、コーヒー豆二袋 です。一袋をSさんに喜びと共に送った次第です。W先生のお便りの最後には、「〇〇様の今年の構想はいかがですか? 固まり、関係者への広報ができる段階になりましたらお教えください。楽しみにしています」とありました。本当に偉い先生というものは 言葉と行いで 常に人を励まし、勇気づけ、前進させずにおかないそんなパワーを持っているようです。
2023.05.31
考量「安居院義道」 その4そんな時、天保十一年(一八四〇)になって報徳二宮先生は小田原領内曽比・竹松の二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立て直しにあずかる。安居院先生は仕法事業の性質は知らない。また深く究めるほどの興味は起こらない、そのうちに利息の安い金を貧乏人に貸す一事だけは天来の福音と感じて受け取った。しかしまた他面には今のようなセチ辛い世の中に利息が安いことなどあるはずがない。それを貸すということがわからない。事によると、二宮という者は大山師で、一芝居うつのではないかと疑った。しかし自分は二宮に用があるのではない。金を借りることが目的だ。よし一つ頼もうと決心した。その時二宮先生は小田原領におられない。野州(栃木県)桜町陣屋にあると聞いて、はるばると同地に向かった。すなわち陣屋日記の条に一、相州十日町市場磯屋庄七と申す者、田蔵をたよって罷り越し候事と記載されている。また別日記の二宮先生の孫尊親氏二十二歳の時の筆記にも、田蔵の上に中沼村を加え、その末文に「始めて来る」と付け加えられている。(根拠?) 安居院先生は陣屋に行き、早速二宮先生に面会を求めたが、公務多忙のためと、即座に拒絶されてしまった。 それは陣屋としては誠に無理もないことで、その当時、二宮先生は老中水野忠邦より江戸表へ出府するように命をこうむっていた。続いて利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せつけられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格(ごふしんやくかく:土木工事職係)を拝命するという、一世一代の光栄の出世時代に遭遇して内外実に大変多忙な時であって、それらは七月二十六日の陣屋日記に照らして逐一次第がうかがわれるからである。 このような場合であったから先生に対して面談の余裕はない。しかし郷土の方から尋ねて来た情義で門前払いも忍びない。まあ当分風呂番でもさせておけといわれ、それから雑用をしながら面会の機会を待って暫く陣屋に厄介になっていた。後に二宮先生はかいま見られて「彼は風呂の焚き方を心得ている」と言われたと伝えられている逸話がある。 この安居院先生と報徳のつながりについては次の一説がある。「その頃竹松村の隣村に安居院庄七という人がいた。先師が曽比。竹松の二村に取り直し仕法取り調べのため出張されると、筆算するべきものが多いことから、この庄七氏を書記に命じた。氏はもとより英才かつ志あり。師の教諭を聞いてよく筆記し、仕法の書類を多く書写し、厚くその教えを信じ、よくその意を理解した。事が終わって後に伊勢神宮に詣でて、帰路この教えをもって駿遠二州に遊ぶ、二州にこの道が伝播したのは全く庄七氏の力である、云々」(福住正兄著「富国捷径」首巻)「時に翁その隣村にあり。子弟に授くるに法書(手本となる仕法書)を以てす。先師その能筆を聞いて、挙用して書記役とする。弟の浅田勇次郎もまた随う。兄弟は昼夜先師に親んで会得することが大変多かった。翁が一代の経営は既にここに基づく、云々」(雑誌報徳二十三号)とあることから、安居院・浅田兄弟の書記採用説が伝えられるが、我が遠江地方において先輩の伝える所では聞くところがない。桜町陣屋訪問の記事のように全く報徳には親しみも見えない、また二宮先生も未見の人のように面会も許されないと伝え、後の嘉永六年遠州七人組の日光訪問が初会見であったように伝えられている。(竹村篤氏・高山藤七郎老「聞き書き」による)また足柄下郡曽比竹松の仕法地について調べてみたが、安居院先生の関係は見つからない、また先生がその隣村に住んでいたとあるが、郡が大住郡と足柄郡との違いもあって理解しかねる。 本社理事、故神谷喜源治氏は、安居院先生は初め能筆ではなかった。筆道の研究にふけったのは晩年の五十余歳からである。能筆であったのは弟の浅田氏であって、或は同地仕法の手伝いに出たのは同氏であったかと思われる、と語られた。なお、筆者の意見として述べれば、浅田氏が近江・伊勢地方において早くから報徳を説かれた所から、その資料はいずこから仕入れたか判然としていないが、必ずや小田原領の仕法から学んだより外にない、と思う。 【編者注】「富田高慶先生との対話」(『富田高慶報徳秘録』所収)に次の一節があり、それからすると安居院先生は小田原の曽比・竹松の報徳仕法の際、二宮先生の村民への教戒を聴聞したり、仕法書の書き写しをしていたようである。*3 遠州系の伝記に「曽比竹松村書記採用説」が多い。「遠江駿河両州結社由来の概誌」中上喜三郎稿(「報徳」第1号)においても「天保七年申年凶歳飢饉に際し、藩主大久保公、二宮先生に命じて領内飢民撫恤の良法を施行せらる。先生蹴然野州を出て東府に向ひ命を奉じて相州小田原城に至る領邑悉く困窮急迫活計の術殆んど尽く。而して足柄上郡曽比村竹松村の両邑尤も衰弱甚し。先生乃ち臨機の所置を以て回復の良法を施行す。時に安居院・浅田の二氏隣邑に居れり。之に因りて先生の事を聞き従ふて弟子と為る。筆算を要すべきもの多きを以て書記役を命ぜらる。二氏素より英才勇力志し厚く教訓の都度拝聴し仕法の書類を筆記し、且つ至教の要旨を能く了承せり。事終て後ち二氏同行伊勢神廟へ参宮せり。三社太々万人講を大結せんとするに方り、伊勢太々御神楽の講中を募集せんと約せしは実に嘉永元年戊申正月なり。一日神詣の帰途之を同行者に説き旁報徳の教に及ぶを常とす」とある。 現在のところ、安居院庄七が二村で書記役を勤めたことを裏付ける資料は発見されていない。 一方、野州桜町陣屋に赴いたことは「天保13年7月2日の野州桜町陣屋日記の条に 一、相州十日市場磯屋庄七と申す者田蔵相便り罷り越し候事」とあり「富田久助、曽比村広吉、竹松村幸内」らとともに、庄七は紹介者中沼村田蔵と長屋に詰めていたことが分る。 「報徳史料 富田高慶先生との対話」(「富田高慶 報徳秘録」p334)の「遠州岡田佐平治が故先生に随身したのはどのような理由か」という質問に、富田高慶は「岡田佐平治は安居院庄七とともに、故先生が発病される二日前に野州官舎に参り、夕刻から夜9つ頃まで懇諭を受け翌日帰国した。(略)安居は旧大山御師なりという。曽比・竹松の両村の仕法施行の頃、故先生が村民一同へ御教誡されたのを障子の外で立ち聞きした人物で、仕法書はその頃、筆記に頼っていたのを幸い写し置いて、その仕法に感じて駿河遠州地方に説諭して回った」と答えている。富田にとって少なくとも同門の門弟という意識はなかった。安居院庄七は何度か門弟としてではなく二宮先生の教諭を聞き感動し、仕法書等書籍によって報徳を学び、独自の境涯を得たように思われる。それだけに森町七人衆に同道して門弟扱いされず(恐らくは当初は駿河遠州地方への報徳布教を二宮先生に褒め称えられると期待していったのではないか)、初見の者として扱われ、非常に傷ついたようにも思われ、同道した遠州七人組も安居院を有力な門弟と思って師事していただけに意外に思ったのではあるまいか。日光からの帰路、安居院は一行から別れ甲府へと旅立っている。曽比・竹松村の書記説も富田高慶のいう聴聞し後に仕法書等を書写した安居院兄弟を二宮先生の正式の弟子として印象付けるために唱えられたのかもしれない。p.9聖書講話「主の平和ー無教会キリスト教のSDGsをめぐって」矢田部千佳子聖句ヨハネによる福音書14章27節わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。受難を前に、いよいよ弟子たちとの別れに当たって、イエスは別れの言葉である「シャローム(安かれ)」を弟子たちに残すと言います。しかし、それは「主の平和」であって、世の人が別れ際に「ごきげんよう」というように「シャローム」を残すのでない。だから、私たちは心を騒がすことなく、平安の内に生きよ、そのような教えです。・・・・・・内村鑑三は「平和の長短」*という短文の中で、武力をもって来たらされた平和は瞬間的ー一瞬の平和ーであり、政治をもって来たらされた平和は、暫時的ーーほんの暫くの平和であり、キリストの福音をもって来たらされた平和のみ永久的ー恒久平和ーであると記しています。*「内村鑑三所感集」(岩波文庫)より平和の長短武力でもって実現させた平和は瞬間的な平和です、政治によって実現した平和も暫定的な平和だけです。そして、キリストの福音をもって実現した平和のみ、永久的な平和となるのです。平和は、その長短にかかわらず貴いものには違いありません。しかし、その長いのは短いのに勝ります。ですから、わたしは軍人や政治家にならず伝道師になることを切に望むのです。使徒パウロがコリント教会の人々に力を込めて訴えかけた手紙を読んでみたいと思います。一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。古のイスラエルから予言者イザヤが叫ぶ神の言葉はすでに私たちのものだからです。旧約聖書 イザヤ書41章10節恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助ける わたしの義の右の手で、あなたを守る。
2023.05.31
藤浪晋太郎 12試合ぶり被弾も初ホールドでチームの12連敗阻止に貢献…8回から登板5/30(火) アスレチックスの藤浪晋太郎投手(29)が29日(日本時間30日)、本拠のブレーブス戦、4―1の8回に3番手で登板。1回を1安打1失点でメジャー初ホールドを挙げた。 いきなり、アクーニャに痛烈な打球を浴びるも左翼正面。続くオルソンにカウント1―1からのスプリットを右翼席に放り込まれたが、ライリーを3球で空振り三振、マーフィーを一邪飛に終えた。Welcome back 💪Three home runs in two games for Matt Olson. 藤浪は開幕から先発で4戦4敗、15イニング24失点、一時は防御率14・40でブルペンに回るも、5月12日レンジャーズ戦、逆転サヨナラで白星が転がり込んだ。27日アストロズ戦では1回を3者凡退。自己最速の100・9マイル(約162・3キロ)を記録。この日も100・2マイル(約161・2キロ)を記録し、試合終了時の防御率は12.13となった。 11連敗中のアスレチックスは1点をリードされていた5回にルイーズの適時打で追い付くと、ノダが左翼席に勝ち越し3ランで一気に逆転。藤浪が1点を失った8回裏にも3点を追加していた。地元放送局NBCスポーツ・カリフォルニアのコントロニオ実況「最近の藤浪はコンスタントに直球のスピードを上げつつあり、球速が3桁に届きます」*野球のホールドは、中継ぎのピッチャーに与えられる記録の1つ。ホールド(hold)には「保つ」という意味があり、中継ぎの「リードを保つ、試合展開を保つ」という役割から「ホールド」と定義されている。野球のピッチャーには先発、中継ぎ、抑えとで役割が異なり、先発→勝利数、中継ぎ→ホールド数、抑え→セーブ数という項目でそれぞれ成績が評価される。つまり、ホールドとセーブとの違いは、中継ぎのピッチャーなのか、抑えのピッチャーなのか、ということが大きなポイント。💛㊗藤浪晋太郎選手初ホールドベイスターズのバウアーの不調と重なるな、藤浪同様、早く立ち直った姿を見たいものだ。そして日本球界の投手のお手本となってほしいと思う。
2023.05.30
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S/H様先日、W/I先生から コーヒー豆が二袋がレターパックで送られてきたので、一袋Sさんに送りました。W先生については第6号の後記に記したとおりです。別便でお便りが届き、「昨年には、十二月十八日に開かれました『第九回報徳講座』の資料ならびに掛川茶をいただき、真実ありがとうございました」とありました。報徳仕法の中で「助成倍数法」というのがあります。『二宮尊徳仕法の研究』岩崎敏夫著(一一六頁)に「助成倍数米金扱い」として載っていて、相馬仕法において「仕法中特色があり、効果もあがった方法であった」とあります。たとえば日課縄ない法で村から五両を仕法資金にと報徳役所に差し出した場合、役所が同額の五両を加え、倍数にして村の困窮者の救済に用いる方法です。そうした「助成倍数法」に通じる趣きのある先生の行いに感激して、その歓びをSさんにお送りした次第です。I/T先生といい、O/O先生といい、本当に偉い先生は、つくづくと謙虚だなと思い知らされます。周りの人を自ずと 育てる そうした まなざし と 励ましそして援助があります。「〇〇様の、今年の構想はいかがですか?」と文中在りました。日曜日、お礼状と共に、通信第6号を送っていたところで、ちょうどよかったです。
2023.05.30
第76回カンヌ国際映画祭で「怪物」で脚本賞を受賞した坂元裕二氏と、同作品で公式部門とは別の独立した審査員によって選出され全部門の中からLGBTQを扱った作品に贈られる「クィア・パルム賞」*を受賞した是枝裕和監督の記者会見が5月29日、羽田空港内の「TIAT SKY HALL」で行われた。是枝監督「プロットいただいた時から一体何が起きているか分からない。分からないのに読むのが止められない。どこまで行っても分からない映画が半分くらい行ってもまだ分からないということが、自分の中にはない物語の描かれ方でしたし、読み進めていくうちに読んでいた自分が作品に批評されていく。クラクションを鳴らす側に否応なくなってしまう。ある種の居心地の悪さ、いい意味でですよ。それが最後まで持続するというのがエンターテイメントとして本当に面白かったですね。それが僕がチャレンジしがいのある脚本だなと思ったことの一つです」レッドカーペット登場時にかかった音楽が、北野武監督作『菊次郎の夏』の久石譲によるテーマ曲だった。是枝監督「事前に、何の曲をかけますかと聞かれたので今回の坂本龍一さんの『怪物』の音楽をお願いしますとお伝えしたんですが、かかったら久石譲だったんですよ。大好きなんですけど、せめて坂本さんの音楽にしてほしかった。でも授賞式で歩いていても“タケシ!”と声をかけられたので、もしかしたらどこかで何かが間違って伝わっていたのかも(笑)」坂元氏「実感は正直ありません。受賞したと初めて聞いたときは寝ていたものですから、第一報を聞いた瞬間、夢を見ているのかな、と。今もまだ夢の中にいるような思いと、この重み自体が作品への責任感。私自身の手にも背中にも乗った大きな責任だと思っています」「(クィア・パルム賞審査員長の)ジョン・キャメロン・ミッチェル監督から昨日、脚本賞受賞おめでとうございますというメッセージを頂きまして、タクシーの中で涙が出ました」「自分ではなかなか評価しづらいですが、ミッチェル監督は、人の命を救う映画になってくいるとおっしゃってくださったので、誰かの心に届くならこんなにうれしいことはないなと思います」「3日間いたんですが、お腹を壊しまして3日のうち2日寝込んでいました。映画のスタッフさんがクッキーとウエハースを持ってきてくれて、そのウエハースがとてもおいしくてカンヌに来てよかったと思いました」「楽しい仕事でもないですし、真面目に文字を書くことだけでしか何も得られないものですから…。こうやってとても華やかな場に立たせていただきましたが、(映画の)公開が終わったら、また私、締め切りに追われてコツコツとパソコンの前に向かうしかないですので、とても楽しい気持ちにはなれないです」」「モロゾフのプリンを買って自分へのご褒美だと思って食べました」「30年前にカンヌ映画祭へ観光で行った時、いつかこの場で自分の作品が紹介されればどんなに幸せだろうかと、遠巻きにレッドカーペットを見ながら思った。忘れていた願いがかないました」「私はけっこうなベテランで、もうカスカスなんです。絞っても何も出ないような状態で、日々周りの方に助けられながら書いているんですが、これから何が書けるのか」「インスピレーションももうない」「『怪物』が自分を成長させてくれたと10年後に思えたら良いんですが」「こういう場は初めてなので、とても緊張しています」「私、感情の起伏がないものですから、『うれしい』とか『ヤッター』というより、何かズシンという思いが訪れまして、水を1杯飲みました」「脚本はあくまで設計図のようなもので撮影の過程で、作品がどんどん成長していった」「以前に車を運転していて、横断歩道で青になったのに前のトラックが進まず、クラクションを鳴らしてしまったが、そのトラックが車いすの方が渡り切るのを待っていたのが私には見えず、それ以来クラクションを鳴らしてしまったことを後悔していまして」「自分が加害者だと気づくのはとても難しい。どうすれば加害者が被害者に対してしていることを気づくことができるかなと10年近く考えていて、それを今回書くことができました」「インスピレーションは皆無。スカスカです。脚本書くのは、もう地味に毎日朝、仕事机に座って夜寝るまで、ずっとパソコンの前に座ってます。私の万歩計、日々12歩なんですね。トイレに3回ぐらい行ったぐらいなんですけど…」「当面映画(の脚本を)書くことは決まってます。ドラマは決まってません」*カンヌ国際映画祭 クィア・パルム (La Queer Palm) は、カンヌ国際映画祭の独立賞のひとつ。LGBTやクィアをテーマにした映画に与えられる。ジャーナリストのフランク・フィナンス・マデュレイラによって2010年に創設され、第63回カンヌ国際映画祭から授与されている。公式部門とは別に独立した審査員が組織され、映画監督や俳優、ジャーナリストや大学教授、各国のクィア映画祭のプロデューサーなど、毎年5~8人が審査員となる。カンヌ国際映画祭のコンペティション部門、国際批評家週間、監督週間、ある視点部門に出品されたすべての作品が対象となる。LGBTQ+のQとは?LGBTがレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーそれぞれの頭文字をとっているように、「Q」も「クエスチョニング」「クィア」という2つの言葉の頭文字をとっています。クエスチョニングとは、自身の性自認や性的指向が定まっていない、もしくは意図的に定めていないセクシュアリティを指します。クィア(Queer)とは、元々は「風変わりな・奇妙な」といった英語圏の言葉です。「男・女、異性愛」以外の性に対する理解がなかった時代に、「変態」の意味合いを持って、侮蔑的にゲイを表現する言葉として用いられていました。20世紀終盤以降、その侮蔑を向けられてきたセクシュアルマイノリティが中心となって、あえて自身を指す言葉として使うようになり、「自分たちはクィアである」という一種の開き直りの態度と共に、運動や研究が展開され始めました。というのも、この「クィア」は、当時権利を主張していたゲイだけでなく、その運動の陰に隠れてしまっていたレズビアンやトランスジェンダー、クロスドレッサー(自身の性を表現するにあたり、異性装を行う)なども包括する概念であるため、マイノリティ全体を繋ぎとめ、連帯へと導く働きがあるのです。
2023.05.30

報徳記 巻之二【8】川副氏采邑青木邑の衰廃を興す常陸國(ひたちのくに)眞壁郡青木村高八百五十石餘(よ)、幕府の旗下(きか)川副(かわそえ)某(なにがし)の采邑(さいいふ)なり。往時(わうじ)公料(こうれう)にして野州芳賀(はが)郡眞岡縣令(けんれい)の管轄に屬(ぞく)す。元禄度(ど)民家百三十戸、頗(すこぶ)る繁殖富饒(ふぜう)と稱す。寶永(ほうえい)年中に至りて川副氏の采邑となる。邑(むら)の西北川あり、櫻川と云ふ。此の川を堰(せ)き、青木高森二邑(むら)の田水(たみづ)となす。此の堰の左右(さいう)水底皆細砂(さいしゃ)灰の如くにして、更に岩石無し。故に木石を遠所より運搬し、縦横大木を用ゐて建築すと雖も、大雨洪水至れば、忽焉(こつえん)細砂(さいしゃ)と共に流失(りうしつ)し、田水沽渇(こかつ)耕耘(かううん)を得ず。公料(こうれう)の時に當(あた)りては破壊毎(ごと)に役夫三千餘人を諸村に課し、入費數百金を以て造築せり。 寶永(ほうえい)度以來は一邑(むら)の民力之を修築する能(あた)はず。耕田の道を失ひ、民心放肆(ほうし)、良田(りょうでん)蕪頼(ぶらい)、怠惰、博奕(ばくえき)を常とし、戸々(こゝ)絶窮遂に四方に離散するに至り、民屋(みんをく)切近の田と雖も茫々(ぼうぼう)たる原野に歸(き)し、葭茅(かぼう)荻萩(てきしう)繁茂、狐兎斯(こゝ)に住す。天明度野火茅(かや)を焼き、延(ひ)いて民屋に及び、之が爲に三十一戸灰燼(くわいじん)となる。是に於て益々窮し、僅(わづか)に二十九戸を存(そん)す。是も亦貧困支ふ可(べ)からず。曾(かつ)て遊歴の者此邑(このむら)を過ぐるに茅中(ぼうちゅう)炊烟(すゐえん)の起るを見て一句を吟ず、曰く、家ありや すゝきの中の 夕烟(ゆうけむり) と。此(こ)の句を以て衰廢(すゐはい)亡村に等しきを推知す可し。租税僅少、川副氏の窮も亦甚し。邑(むら)の里正(りせい)を舘野(たての)勘右衛門と云ふ。性廉直篤實にして、大いに衰邑(いふ)亡地に至らんとするを憂ひ、再復の事を謀ると雖も貧村の力如何とも爲すべからず。櫻町陣屋を去ることを僅(わづか)に三里、故に先生の良法三邑(いふ)再興の事業を聞き、邑(いふ)民を會(くわい)し、諭(さと)して曰く、我邑(わがむら)の衰頽(すゐたい)既に極る。是獨(ひと)り人民の力足らざるのみに非ず。櫻川の堰破壊、闔村(かふそん)の用水を失ひ、水田悉く蕪没(ぶぼつ)に歸し、戸戸(こゝ)耕耘(こううん)を得ず。故に衣食缺乏(けつぼふ)、往々家産を破り流民となる。今にして衰廢(すゐはい)、再興の道を謀らざれば、八百石の邑(むら)亡滅に至(いたら)んこと必(ひっ)せり。然りと雖も、愚(ぐ)不肖(ふせう)貧弱の力を以て何事をか成し得んや。曾(かつ)て聞く、物井村陣屋詰(づめ)の二宮先生、相模(さがみ)小田原候の命を以て櫻町に至り、數年にして三邑(いふ)を興復し、邑(いふ)民を安撫すること、父母の其の子を保(ほ)するが如しと。其の事業誰か感動せざらんや。我輩(わがはい)物井(ものゐ)に往(いっ)て再興の方法を歎願せば、先生は仁者なり、憐愍(れんみん)の處置(しょち)なしと謂ふべからず。果して許諾あらば是の廢堰(はいえん)も擧(あ)ぐべく、荒蕪も開くべく、邑民(いふみん)の困苦をも免るべし。然れども先生は他の誠(せい)、不誠(ふせい)を察観(さつくわん)すること明鏡の如しと。故に懇願のもの純誠(じゅんせい)にあらざれば、百度(ひゃくたび)歎願すと雖も斷然許諾せず。故に此の願の成否は先生にあらずして、當邑(たういふ)一同の一心にあり。各(おのおの)の思慮如何んと。邑民(いふみん)應(こた)へて曰く、素(もと)より冀望(きぼう)する所なり、速に歎願せんと云ふ。勘右衛門曰く、我等の請願而己(のみ)にては、是相對(あひたい)の如くにして先生許容ある可(べか)らず。地頭よりの依頼に非れば不可也と。直(たゞち)に出都此の條(でう)を川副某(ぼう)へ具陳す。川副氏大いに悦び、時の用役並木柳助(りうすけ)に命じ、直書(ぢきしょ)を以て依頼せしむ。「補注報徳記」(佐々井典比古)にこういう。青木村は、近隣10ヶ村とともに旗本川副勝三郎の所領である。その仕法は、他領における最初の報徳仕法として顕著な成績をあげたが、その後、領主の分度が定まらないため、永安の道を確立することはできなかった。 仕法の嘆願は、文政11年(1828)から行われたが、天保2年(1831)の末、名主勘右衛門以下37人の連名で願書を出し、一同桜町に出向いて熱誠こめて嘆願し、その結果、茅の刈取り、屋根の修理となり、それが終ったのは天保3年(1832)2月である。それから荒地の開発が急速に行われたが、この年の末に至るまで、領主からの依頼がなかったので、先生はやむを得ず、その夏、大夫と費用を出して堰の仮工事を行わせた。 天保4年(1833)2月に至り、並木柳助は領主の正式書状を添えて、村役人を引き連れて仕法を依頼した。(ということは、報徳記本文では、 勘右衛門が「我等の請願だけでは、先生は許容されないだろう。領主からの依頼がなければならない」と川副氏に申し出て、川副氏は喜んで直書をもって依頼した となっているが、実に正式の依頼まで5年かかっているのだ。)☆二宮先生語録(斎藤高行)【26】わが道は天子の任であり、為政者の任である。 もとより小役人の任ずるところではない、 なぜかというと、国を興し、民を安んじ、天下を経営する道だからだ。 そうであっても、人々それぞれ自ら任じて行わなければならないことがある。家主の家督における、百姓の田畑における、などである。要するに自分が主体となるものであれば、この道をよく行うことができるのだ。【28】わが道は恕をもって要とする。 すなわち貧民の心を恕し、あるいは食べ物や農具を与え、馬屋などを与える。君主からみれば、すべて無用であるようだが、貧民において、すなわち死生存亡の係わるところであり、一日も欠くことのできないものである。私の立てた無利息貸付法も貸主には無用のようだが、貧民がこれを得れば、一日も欠くことができなかったものを全うし、その生を安んじ、その家を保たせる。その用たるや、何と大きいことか。【29】ある人が、わが道を迂遠だとして、私を迂翁だと言った。 私は笑って答えた。 「わが国は万古に存して、しかしてわが道は万世変らない。 万古に存する国にあって、万世変らない道を行う以上、これを自己一代の短さに比べて迂遠などといっておられようか。 今日道がおこなわれなくても、気にすることはない。 なぜならば、これは天照大神以来行われてきた道であって、国を興し、民を安んずるには、このほかに方法はないからだ。 それに人は人生60などというが、もっぱら今日の暮らしを営み、現世のことのみをはかって、後世のことを考える者はいない。 しかし朝飯を食べれば、すぐ昼になり、昼を炊いたかと思えば午後になり、今日はたちまち明日になり、今年はたちまち来年になり、父祖の代はたちまち子孫の代となり、100年もまた一瞬にすぎないのだ。 わが開墾法では、一両の金によって荒地一反歩を開き、その産米を一石として、半分を食べて半分を譲り、繰り返して開発してやまなければ、60年の総計は、開田24億548万2253町歩に及ぶのである。 行わないなら仕方がない。行う以上、わずかな一生にくらべて、どうして迂遠だなどと言っておられようか。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメp.21 「絶対に人の悪口を言っちゃダメよ。あなたが自分の部屋にポツンと一人でいる時でさえも、人の悪口をいっちゃダメ。」
2023.05.29
安居院義道の風景 その2 青・壮年期の安居院庄七鷲山恭平氏は「先生は長じて同郡曾屋村十日市場の安居院家に婿入りしてその家をついだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。・・・・・・この前後の経歴は全く不明」とされる。安居院庄七が歴史に現れた最初は、桜町陣屋日記天保13年7月2日に「相州十日市場磯屋庄七と申者田蔵相便り罷越候事」である。戸石七生氏は「安居院庄七の報徳運動と参詣講」で、庄七の実家・神成家の協力を得て、庄七の文化的バックグラウンドである大山信仰と蓑毛御師文化についてその一端を明らかにされた。1.『御師の村』での神成栄氏への聞取によると、「1930年代半ばまで父親と一緒に節分から4月10日の祭りまで三島、沼津、足柄方面の檀家を廻った。この分布は近世と同じである。日程の内訳は興津10日間、清水4日間、静岡市周辺14日、広野4日間というものであった。」戸石氏は「安居院庄七の報徳運動普及運動も・・・・・・大山講を組織するノウハウが万人講や報徳社の設立に応用されたと考えられる」とされる。2.庄七が天保13年54歳で報徳に触れ発心する前の前半生は不明である。戸石氏は「安居院家婿入り前に縁談がなければ、庄七は30代か40代まで朝田家にいたことになる。安居院家婿入りが決まるまで、庄七は父や兄弟と駿河にある壇家廻りをしていたと推測できる。」「庄七の報徳仕法普及は檀家廻りのノウハウに負うところが大きかったとも言える。」とされる。3. 元禄年間に御師と子安村の百姓の間の紛争が起こった。御師は参詣客の案内・宿泊の提供、大山寺への加持祈祷と阿夫利神社御札配布の依頼の仲介、神事・仏事の祭礼への奉仕は御師のみに許された特権と訴えている。また大山の阿夫利神社の祭神の大山祇大神は木花咲耶姫の父で、大山と富士山の両方を参拝することが推奨されていた。御師の活躍によって、檀家が増え、各地に大山講が作られた。農村での大山講の組織化は村単位が一般的で、御師と檀家の関係は固定的だった。幕末の庄七の実家の檀家は、『開導記』によると、沼津宿の他、その近辺の村々に15村に合計469軒が分布していた。4.戸石氏は「なぜ庄七は関西の作兵衛を訪ねたのか?なぜ万人講に目を付けたのか?」と問題提起されている。 安居院家に居づらくなった庄七が、万人講を聞き、弟を誘って作兵衛を訪ねたとも想像されるが、今後の研究が待たれる。1 神成栄氏への聞取によると、1930年代半ばまで父親と一緒に節分から4月10日の祭まで三島、沼津、足柄方面の檀家を廻った。この分布は近世と同じで、日程は興津10日間清水4日間静岡市14日広野4日間だった。神成勇三弟の昇作は分家して小山に転出し大山講を組織した。2 御師の家の子弟が分家先で大山講を組織する事が一般的なら、安居院庄七の報徳仕法普及もその延長で理解できる。大山講を組織するノウハウが万人講や報徳社の設立に応用されたと考えられる。3 庄七が天保13年54歳で報徳に触れ発心する前の前半生は不明。安居院家婿入前の庄七は30代40代まで朝田家にいた事になるが、この地域では珍しい事ではなかった。安居院家婿入まで父や兄弟と駿河の壇家廻していたと推測できる。庄七の報徳仕法普及は檀家廻のノウハウに負う処が大きかったといえる。4 大山寺の祈祷は毎日の護摩供と元旦3月3日5月5日9月9日の4節句の手長御供で諸神へ供物幣帛を捧げ祝詞を読み神楽を奏で天下泰平五穀豊穣を祈願した。蓑毛に移り住んだ御師は大山寺に檀家を仲介した。御師の布教により檀家と布施を獲得した。御師は御祈祷之師の略だが参詣人の案内人の意味に転じた5 元禄年間御師と子安村百姓の紛争で御師は参詣人案内宿泊提供加持祈祷御札配布の仲介土産店祭礼奉仕は御師の特権と主張。大山の大山祇大神は木花咲耶姫の父で大山富士山の両詣が推奨された。大山講は村単位が一般的で御師と檀家の関係は固定的だった。幕末庄七実家の檀家は沼津宿他15村469軒分布した6 戸石七生氏は「安居院庄七の報徳運動と参詣講」でなぜ庄七は関西の作兵衛を訪ねたのか?なぜ万人講に目を付けたのか?と問題提起される。庄七は伊勢富士大山講を基盤に万人講展開の計画を構想したのでは或は安居院家に居づらくなった庄七が万人講を伝え聞き弟を誘い作兵衛を訪ねただけかも想像される7 弘化3年11月勇次郎は三河国藤川宿で遠州への万人講布教を探り神谷與平次を訪問する。與平次は信心家で万人講はすぐ受け入れた。雑談で水害不作に悩む村につき勇次郎が報徳仕法を語ると與平次は強い関心を示す。戸石氏はこの時点では報徳仕法は万人講勧誘のツールでしかなかったのではと推論される。
2023.05.29
寝たい、眠れない…睡眠を操る食事術とは?糖質オフで眠気を予防、眠りたいならメラトニン入りの食材を症用のサプリメントに使われる「メラトニン」。食品に含まれる量は少ないが、青汁の原料となるケールはずば抜けて多い。100g中に含まれるメラトニンは、トウモロコシ139ng(ナノグラム=10億分の1g)、白米100ng、バナナ46ngに対し、ケールはなんと4300ngも含んでいる。💛トウモロコシを友人からひと箱いただいた。日頃、不眠を訴える妻が日曜日遅くまで寝ていたので、「とうもろこしが睡眠導入にいいんじゃない?」「まさか??」調べてみると、トウモロコシにはセロトミンが140ng含まれていて、睡眠導入によさそうだ。ところがケールはその30倍の4,200ng含まれている。先日、眼に良いルティンがケールには含まれるというので、薬局で分包ののを買ってきたばかりだ。データを示して勧めてみよう。※表記は食品100gあたりのメラトニン量(ng)です。ケール :4,200ngさくらんぼ :1,350ngオート麦 :180ngとうもろこし :140ng 「糖質オフで夜にご飯などの炭水化物を食べない人は血糖値が上がらないので眠くならず、メラトニン不足にもなりがち。夜、ご飯をしっかり食べるか、ケールの青汁を飲むのがオススメです」(伊達さん)1958年に米国で Lemer(ラーナー)等が牛25万頭の松果体から新しいホルモンを発見した。それは、メラニン色素を減らす作用があり、そして前駆物質がセロトニンであることより「メラ+トニン」と令名した。ヒトでは生後3ヶ月、昼夜の区別とともにメラトニンは増加し、10 歳前頃にピークとなり、それ以降は漸減して 60~70 歳頃には僅かになります。ケールの効果💛寝る前に ケール を飲めば眠りやすくなるかも?「草の味がする」(^^)
2023.05.29
考量「安居院義道」 その0考量「安居院義道」 その1考量「安居院義道」 その2💛「先生は長じて同郡曾屋村(秦野市曽屋)十日市場の安居院(あごいん)家に婿入りしてその家をついだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。その妻を「ヒサ」といい、すでに先夫藤吉との間に数人の子があったと伝えられるから、相当の年配になってからのように推定されるが、この前後の経歴は全く不明である。」とある。 5月28日(日)鎌倉図書館に行って「御師の村」を読みたいと受付に申し出ると、調べていただいて、「おしの村」ですね。「御師」は「おし」と読むという。「館内利用の本ですので、2階の読書室で本をお渡しします」と言われた。最初の「(1)大山信仰略説」に興味がひかれた。よく昔話等で赤ん坊が鷲につかまれて運ばれてという物語展開がある。その伝奇が大山寺の開山良弁にある。良弁は相模国の国司の太郎太夫時忠の子で、生後70日に金色の鷲が来てさらっていき、奈良の覚明上人の坊に運ばれ、育てられた。時忠夫婦は後に、西国への旅の途中、淀で渡し船に乗った際に、当時東大寺別当をしていた良弁は鷲の巣から取り出されたと聞いて、もしや我が子ではと東大寺に良弁を尋ねる。しかし周囲に嘲笑されるばかりで会えない。やむなく大仏殿の南門のかたわらにこもを張ってそこで寝た。そこへ加持祈祷が終わった良弁が通りかかると、そのこもから光がさすのを見た。そこには二人の老夫婦がいた。こうして親子の対面がなったと、「大山寺縁起絵巻」(大山寺蔵)は記す。(^^)蓑毛に「御師」の灯籠「石の灯籠は、御師集落の特徴のひとつとされる。」後に庄七兄弟は「万人講」でも燈籠寄進にもたずさわるが、二人にとってなじみ深いものだったのである。考量「安居院義道」 その3 二、安居院家をついで商人となる 先生は長じて同郡曾屋村(秦野市曽屋)十日市場の安居院(あごいん)家に婿入りしてその家をついだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。その妻を「ヒサ」といい、すでに先夫藤吉との間に数人の子があったと伝えられるから、相当の年配になってからのように推定されるが、この前後の経歴は全く不明である。これより一商人として家業に従事したことと思われるが、元来慧敏といわれる多芸の才物であったから、壮年時代は特に鋭気満々として、空しく一草蘆(そうろ:草ぶきの庵)に起き伏しすることをいさぎよいとしないで、常に一攫(いっかく)千金を夢見る山気があった。そのためその考えから出発し、たどった道は米相場であった。これは修験の家に生まれて陰陽説の信奉、気候風土の物産や物価に影響する等の天文記、安居院先生の没後に遺物として残された著作物に結びついて考えられる。しかしこの手筋は一般に金儲け猛者(もさ)連の着眼する常道で、新発見でも天外からの福音でもない。ちょうど賭博(とばく)をする者が金にのみ眼がくらんで、自分だけは当たることだけ思い込んで、外れたら損をすることの分別が見忘れているのと同じである。さすがの先生といえどもまた一直線に突進して浮き身をやつして、一進一退挙々実々の場面にしのぎをけずった。時には面白おかしく鼻高々の面もあったと想われるけれども、いつまでもそうは甘くはない。遂には一敗地にまみれて大きな傷を受けるはめに落としいれられた。そしてしまったと気づいた時は、自分の金銭を失くしたのではなく、養家の財産をすっかりなくしてしまった。しかし申し訳がないからと腹を切る気にもなれず、運が悪いからだと自己弁護に都合のいいふうに解釈し、もし金があったら取り返せそうな気がする。誰か資本を貸してくれる人はないか、最後の一戦に運命を賭けてみたいと念じていた。p.9聖書講話「主の平和ー無教会キリスト教のSDGsをめぐって」矢田部千佳子聖句ヨハネによる福音書14章27節わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。受難を前に、いよいよ弟子たちとの別れに当たって、イエスは別れの言葉である「シャローム(安かれ)」を弟子たちに残すと言います。しかし、それは「主の平和」であって、世の人が別れ際に「ごきげんよう」というように「シャローム」を残すのでない。だから、私たちは心を騒がすことなく、平安の内に生きよ、そのような教えです。・・・・・・内村鑑三は「平和の長短」*という短文の中で、武力をもって来たらされた平和は瞬間的ー一瞬の平和ーであり、政治をもって来たらされた平和は、暫時的ーーほんの暫くの平和であり、キリストの福音をもって来たらされた平和のみ永久的ー恒久平和ーであると記しています。*「内村鑑三所感集」(岩波文庫)より平和の長短武力でもって実現させた平和は瞬間的な平和です、政治によって実現した平和も暫定的な平和だけです。そして、キリストの福音をもって実現した平和のみ、永久的な平和となるのです。平和は、その長短にかかわらず貴いものには違いありません。しかし、その長いのは短いのに勝ります。ですから、わたしは軍人や政治家にならず伝道師になることを切に望むのです。使徒パウロがコリント教会の人々に力を込めて訴えかけた手紙を読んでみたいと思います。一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
2023.05.29
考量「安居院義道」 その0考量「安居院義道」 その1考量「安居院義道」 その2💛K/H先生安居院庄七という人は本当に不思議な人です。二宮尊徳の正式な門人ではないのに、静岡県の報徳運動の種を蒔き育て、後世の報徳社運動に甚大な影響を与えています。二宮先生に接したのは天保13年7月2日桜町陣屋の日記に「相州十日町市場磯屋庄七と申す者まかりこし」とあり、確かですが、面会は拒絶され、陣屋で暫く下男として働きながら、門弟に聞いたり、二宮先生の訓戒を立ち聞きした程度です。おそらくは報徳の知識は小田原仕法の際の仕法書などを読み込んだものです。 しかし考えてみれば、後世の私たちも本を読んで、報徳の理解をしている、つまり庄七の立場と同じです。 安居院庄七の偉いのは伝道者、実践者の力にある。 58歳から諸国を遍歴し、遠州に数多くの報徳社を設置した。 石田村回復の方法を読んでも「まず汝らの日常の心掛けを聞こう。汝らは天道の為に尽くすこといかほどか?」石田村の代表七人誰一人声をあげることができない。この問いは読む私たち一人一人に発せられている。「お前は天道の為に尽くすことどれほどのことをしているのか?」私たちの多くは石田村の代表と同様に下を向いて声を発することができない。グーの音もでない。「衣服・家財を売却して負債を償還せよ。人の下男となって働き借財を返済せよ」村人は驚き、妻女は泣き叫ぶ。尊徳先生が岸右衛門に全財産を売却して、その金を開発資金として差し出せと言われたのと同様ですが、二宮先生の場合には岸右衛門に未開拓地を与え、開発資金を与える備えがあった。ところが庄七の場合は、そういう備えがないから、苛烈な物言い、処置となって、まず心の開発から入る。ただ徹底し建てなおったときに、その感動は肝に徹する。こうして駿河、遠江と広がっていったということでしょう。庄七は58歳~75歳に「一度(私欲を)死に切って、(報徳に)生まれ変わる」活動を行っている。現代の超高齢化社会において、特に定年退職後の男性諸君において生きるヒント、取り入れるに値する考え方、実践法があるようにも思います、その意味で、現代語版「安居院義道」を出版する価値があるようにも思われます。 5月28日一、家系と生い立ち 安居院庄七先生は相模国大住郡大山の生まれである。すなわち現在は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社のこと、その本山の修験(しゅげん)密正院の香感法印がその先祖であって、中古、藤原長洛法印の代に至って大山山麓の蓑毛村に下って居住した。その六代を権大僧都(ごんだいそうず)密正院藤原秀峰法印といい、実に氏の父である。特に諸道に通じた碩学(せきがく)の人と称せられ、天保八年(一八三七)七月十一日八十六歳でなくなった。その妻を「サノ」といい、同国笠久保(伊勢原市笠窪)村添田儀右衛門から嫁に入り、三男二女をあげた。長男はすなわち秀英法印で先生の長兄で家をつぎ、次は女子で江戸本多佐渡守の藩中の新井万方に嫁に入り、その次はすなわち本書の主人公である庄七先生であって三男は勇次郎氏で有信(ありのぶ)と称し、浅田を苗字としている。 先生は通称庄七、諱は義道(よしみち。ぎどう)、字(あざな)は蘆翁また乾坤齋と号し、寛政元年(一七八九)某月を以て密正院の家に呱々(ここ)の声をあげた。 それから幼年青年と壮年期に至るまで、何ら伝える所を聞かない。大正の時代に至って同地に報徳社が結成されるに及んで、同地の桐生庄之助君を煩わして、更に社長でかつ当主である勇三君を訪問し、調査をしたが、残念ながら何ら伝えるものを聞かない。ただ同家は従来朝田を苗字としたが、維新後は神成(じんじょう)に改めたと記録にとどめたに過ぎない。(明治四十二年五月三日同家を訪問し一泊)p.9聖書講話「主の平和ー無教会キリスト教のSDGsをめぐって」矢田部千佳子聖句ヨハネによる福音書14章27節わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。受難を前に、いよいよ弟子たちとの別れに当たって、イエスは別れの言葉である「シャローム(安かれ)」を弟子たちに残すと言います。しかし、それは「主の平和」であって、世の人が別れ際に「ごきげんよう」というように「シャローム」を残すのでない。だから、私たちは心を騒がすことなく、平安の内に生きよ、そのような教えです。・・・・・・内村鑑三は「平和の長短」*という短文の中で、武力をもって来たらされた平和は瞬間的ー一瞬の平和ーであり、政治をもって来たらされた平和は、暫時的ーーほんの暫くの平和であり、キリストの福音をもって来たらされた平和のみ永久的ー恒久平和ーであると記しています。*「内村鑑三所感集」(岩波文庫)より平和の長短武力でもって実現させた平和は瞬間的な平和です、政治によって実現した平和も暫定的な平和だけです。そして、キリストの福音をもって実現した平和のみ、永久的な平和となるのです。平和は、その長短にかかわらず貴いものには違いありません。しかし、その長いのは短いのに勝ります。ですから、わたしは軍人や政治家にならず伝道師になることを切に望むのです。
2023.05.28
考量「安居院義道」 その1はしがき安居院先生は相州の産、報徳界の高徳で、早くから我が駿州遠州の地に報徳の種を蒔きつけて育て上げた、第一人の開拓者である。そしてその事蹟は先生の晩年のことで、五十八歳から七十五歳の終焉に係る、その青壮年の経歴は残念であるが全く不明であって、初老の時に商業に従事して最後に一敗地に落ちた時が、報徳への序幕となる。 しかしその失敗が幸いにも二宮先生の報徳に縁を結ぶ機会となって大転換をしたのである。しかも天地をひっくり返したほど百八十度の逆転換をした。今までは勤・倹・譲を裏返しに着て、独酔的な良い心持で高歯の下駄をはいて歩いていた。つまずいてからはだしになり、怠・奢・奪を引っ込めて、表を出して着替えて見れば、一ちょうらの晴着で通用する立派なふん装である。 暫く陣容を整えてかかれば、本来の人物はまた光を放たずにいない、報徳の先生として出発する。そして我れよく二宮先生の道をひろめんと唱えて、その郷里を去った。 以上のような先人の歩みはぜひ調べておきたい。出版するという考えもなく、書き綴っていたのが明治の四十二年から始まる。 資料を与えられた先輩は 高山藤七郎老、中遠袋井町の人、青年時代、 家道失脚のため、報徳式に取り直した権威者で、安居院先生の著及び説話は大体筆記してある。晩年遺稿として我が家憲の一書を残されている。また老は我が父と同年で、親交もあって特別に知遇をこうむっている。 竹村篤老、浜松在入野の人、若くして商業を浜松に見習い、その間より厚く報徳の道に帰依して安居院先生門下の人々に教えを受けてよく記憶している。また丹念に道歌のようなものは記録してあった。淡山先師(岡田良一郎)、安政六年二宮門を辞して以来、文久三年翁歿年まで最もよく安居院先生を見ている。特に明治四十二年浜松において先生墓参追吊会の時、講演も筆記していた。 中上信英氏・静岡の人、「報徳」雑誌を発行して安居院先生の記事は多く載せられている。 同雑誌は明治二十五年第一号を発行して同三十六年に五十六号を発行して中止された。また明治の末年、相模(神奈川県)中郡において井上福松氏等を中心として報徳の大運動が起こされ、私も各村ごとに講演し、時々安居院先生をはさんで対話したが、到るところ先生の事はほとんど知られていなかった。後に山田霞洲兄が十日市場の家について一端を聞き取ってくれた。 以上がこの伝記の全部であって、内容として貧弱なものであった。あるいは先人の余栄を傷つけるなきやと、空しく箱の底にしまっておいたのだが、昨年まとめてみたいと一大念願を起して、おいぼれの最後の努力を試みた次第である。 顧みて安居院先生が亡くなって今年で九十年(本書発行は一九五三年)になる。この間に実に大きな変動が二回も起こった。第一回は明治維新の改革で、諸制が刷新されて、報徳の仕法は日光御神領はじめとして廃止された。ただ安居院先生によって伝えられた民間同士の結合になる報徳社だけはお構いなしであって、ついで福住正兄先生、岡田淡山師等がその全力をそそがれたので、漸次隆盛に向かったことはうれしい。第二回は敗戦日本の末路であって、根本的に取り除かれて、新しいアメリカ式の風になびかされている。加えるに混乱怒涛中に様々な思想が入り込んでいる。したがって報徳社徒の中にまで影響し、不振の状態におかれている。 今、安居院先生の伝記を出版しようとする事は、あるいは「落花深き所南朝を語る」の評もあるかも知れない。しかし私は前に眺めて後ろに鑑みて、後に腹は切れない、あえてここに安居院先生の伝を編集する、誠に止むを得ないからである、幸いに報徳社同志が一顧されんことを切望する。 終わりに、この念願を不敏として河井社長は題辞を寄せ、激励され、ついで神谷副社長は賛辞を尽し序文を投ぜられ、光栄の至りと肝に銘ずる。更に本社の中山、小野、太田の各位は陰に陽に援助をたまわり、いわゆる「死に花を咲かせる」の同情をこうむる。深く謝意を表する次第である。 昭和二十八年初秋 八十二老 鷲山恭平誌す安居院(あぐい、あごいん)庄七は、神奈川県秦野市出身で早くから静岡県に報徳の種を蒔き育てた。58〜75歳の時で青年壮年期の事蹟は不明である。初老のとき商業に従事し投機に手を出して失敗し、初めて報徳に縁を結ぶ。💛現代の超高齢者社会で定年後の迷える人のテキスト、手引になり得るかも^_^「キリストの平和」まえがき目次1.開催案内2.プログラム3.開催要領4.開催挨拶5.聖書講話「主の平和ー無教会キリスト者のSDGsをめぐって」6.主題講演7.各地からのメッセージ①沖縄②福岡③徳島④清水⑤横浜⑥東京⑦韓国8.自由な発言・話し合い9.閉会挨拶(略)💛「ボーイズ・ビー・アンビシャス」は現在第5集まで発行し、今井館ですべて所有されている。内村鑑三については第5集で、アメリカ留学後、帰国して第一高等学校での不敬事件の顛末までで、構想では不戦論やキリスト再臨まで扱うつもりだったが、内村鑑三については多くの方が論じ、また資料も出ていることから、その後の内村鑑三を扱う意義を見つけかねていて、まだ手をつけていない。日露戦争において内村鑑三が主張した不戦論は、現在のウクライナ戦争につながるところがあり、る。いま、「キリストの平和」を討議する意義は大きい。主題講演では「ウクライナは中立を表明し、NATO加盟を放棄し、ウクライナ全土の非武装宣言をした上、非戦・降伏を選ぶべきであった」と主張されているが、違和感がある。「非武装非戦が犠牲の最小化につながる道」だとされるが、内村鑑三の非戦論は、「犠牲の最小化」するために主張されたのではない。聖書を読み込むとキリスト者は「戦争絶対的廃止論者」にならざるを得ない、ということからくるように思われる。・内村鑑三の非戦論(ウィキペディア)キリスト教信者である内村鑑三の非戦論は、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現を通じて、あらゆる暴力と破壊に抗議し、不義の戦争時において兵役を受容するという行動原理を正当化した。内村は、その立場から日露戦争に反対する言論を展開した。内村に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、同様の立場から「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。例えば、斎藤宗次郎は、内村に影響されて非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をしたが、後に内村の説得により翻意している。内村の非戦論は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める無教会主義者の教理に基づく。「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、内村は弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。内村は「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じ、「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げた。また、若きキリスト教兵役者に「身体の復活」と「キリストの再臨」(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。・余は日露戦争非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。(内村鑑三「戦争廃止論」1903年)・内村鑑三が訴えた「非戦」の意味を今こそ考えたい 若松英輔氏内村が斎藤宗次郎の元に駆け付けた翌朝、二人だけで散歩をし、周りに誰もいないときに内村は一言だけ言ったという。「もしお前が本当にお前の信念を曲げたくないならば、ただ一人立って一人でやれ」斎藤はそれを聞いて、「分かりました。やめます」と言ったという。そこから若松英輔氏氏は次のように語った。「本当に勇気がある人間は一人で立つ。内村も斎藤に家族に類が及ばないようにし、それでも命を懸けるなら一人でやれと言った。良心的兵役拒否など甘いものはない、兵役拒否が大罪だった時代、殺されても文句は言えなかった。それでも一人でやれ、と内村は言った。内村の非戦論は本物だったと思う。平和を考えるとき、われわれは一人であることを考えないとだめだと思う。たくさんの人が集まって声を上げることが無意味だとは言わない。今日、テレビに人がたくさん映って大きな声を出し、10万人集まったという。それもいいかもしれない。でもそれは本当に効果があるのだろうか。むしろ一人の人間が本当に心から発する言葉はものすごい力を持つ。だから官憲は幸徳を恐れ、殺した。団結とは烏合の衆になれということではない。一人一人で立ち、その責任で集まれということだ。不敬事件を経験した内村と大逆事件で殺された幸徳が強く結び付いていたというのは興味深いし、必然なのだろう」
2023.05.28
役所広司 男優賞 日本人19年ぶり2人目「やっと柳楽君に追いついたかな」カンヌ国際映画祭5/29(月) 日本アカデミー賞では最優秀主演男優賞を3回、各種は計20回以上受賞し、世界中でも数々の賞を獲得してきた役所が、ついにたどりついた世界三大映画祭での栄冠。カンヌでは1997年、主演した今村昌平監督作品「うなぎ」がパルムドールを獲得し、監督の代理としてトロフィーを受け取ったが、「今回は監督もすぐそばに居ましたし、本当に一緒にスタッフ達と受賞を分かち合えた」と感無量の様子だった。 スピーチの冒頭で飛ばしたジョークには「ちょっとウケるかなと思って言ったんですけど、半分ぐらいスベってましたね」「やっと柳楽君に追いついたかなと」「いろんな男優賞をいただきましたけど、この賞に恥じないように頑張らなきゃいけないと思います」「いい作品、自分の表現が役に立つようないい作品があれば参加したい」「基本的には、自分たちの国の映画で世界中の人たちに楽しんでもらえるのが、一番の早道かなと思います」【仲代達矢さんコメント】「良い監督、良い作品に恵まれたこと、自分の実力でしっかり掴んだ男優賞。素晴らしいです。 同じ役者、日本人として誇りに思います。これからも素敵な仕事をして欲しい。大変、おめでとうございます。」カンヌ映画祭 「怪物」が脚本賞、役所広司さんは男優賞 第76回カンヌ国際映画祭で27日夜(日本時間28日未明)、授賞式が開かれ、是枝裕和監督の日本映画「怪物」の坂元裕二さんが脚本賞を、ドイツのビム・ベンダース監督が日本で撮影した日本映画「パーフェクトデイズ」に出演した役所広司さんが、男優賞を受賞した。日本人の男優が同賞を受賞したのは、2004年「誰も知らない」(是枝裕和監督)の柳楽優弥さんに次いで2人目。 「怪物」は小学校で起きた体罰事件を三つの視点から描いた作品。明らかになっていく真相の中にLGBTQなど性的少数者やいじめ、学校の閉鎖性などの今日的な題材を織り込んだ。人気脚本家の坂元さんと是枝監督が初めてタッグを組んだ。 男優賞の役所さんは1956年生まれ。公務員時代に俳優を志し、仲代達矢さんが主宰する養成所「無名塾」に入所した。80年代から舞台、テレビ、映画など国内外で幅広く活躍している。カンヌでは97年に最高賞パルムドールを受賞した「うなぎ」(今村昌平監督)や2000年に国際批評家連盟賞を受賞した「ユリイカ」(青山真治監督)、06年にアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が監督賞を受賞した「バベル」などに出演し、海外でも広く知られている。 「パーフェクトデイズ」は役所さん演じる公共トイレの清掃員、平山の日常を淡々と描き、人生の意味を考えさせる作品。 役所さんは同作について「平山は質素でお金もないが、一日を満足して幸せに生き、静かに眠る。見過ごしがちな小さなものを美しく描いている」と話していた。また、ベンダース監督は役所さんを「『Shall we ダンス?』『うなぎ』などで見て、いつか仕事をしたいと思っていた。彼は自ら、役のためにトイレ清掃の仕事を経験していた。彼なしには作れなかった。夢の俳優」と絶賛していた。役所広司にカンヌ男優賞!日本人19年ぶり2人目の快挙【第76回カンヌ国際映画祭】 第76回カンヌ国際映画祭授賞式が現地時間27日にフランスで行われ、コンペティション部門出品作『パーフェクト・デイズ(原題) / Perfect Days』で主演を務めた役所広司が男優賞に輝いた。日本人のカンヌ男優賞受賞は、2004年の是枝裕和監督作『誰も知らない』の柳楽優弥以来、19年ぶり2人目の快挙だ。 『パーフェクト・デイズ(原題)』は、『パリ、テキサス』でカンヌ最高賞パルムドールを手にしているドイツの巨匠、ヴィム・ヴェンダース監督が東京で撮り上げたドラマ。渋谷の公共トイレ清掃員・平山の、小さな喜びと美しさに満ちた日々を丹念に追っていく。無口な平山の胸の内を表情と佇まいのみでありありと表現した役所の演技には、批評家からも賞賛の声が上がっていた。 ステージに上がった役所は「僕は賞が大好きですが、こうやって華々しいカンヌ映画祭でスピーチするのはあまり好きじゃない」と照れながらも、「でも本当にカンヌ映画祭、そして審査員の皆さんありがとうございました。観てくださったお客さんも、ここにいらっしゃると思いますが、ありがとうございました」と語ると拍手喝さい。ヴェンダース監督をはじめとしたチームの面々、事務所、妻への感謝を述べ、トロフィーを掲げて「これもらって帰ります! ありがとうございます!」と締めくくった。 『Shall we ダンス?』『バベル』そしてパルムドール受賞作『うなぎ』などで役所を見て「いつか一緒にやれたら」と思っていたというヴェンダース監督。取材では「彼の貢献がなければ、この映画は存在しませんでした」「広司と仕事をするのは夢のようでした」と役所を絶賛していた監督が、誰よりもこの結果を喜んでいるのは間違いない。満面の笑みで壇上の役所を見つめていた。
2023.05.28

報徳記 巻之二【7】(4)先生辻門井二邑の里正を教諭す 二人(ふたり)之を聞きて感動し、其の教に從はんと云ふ。後、源左衛門は私心去り難く、地頭を怨み、財を出さず、地頭之を放逐(ほうちく)す。終(つひ)に家を失ひ他邦に走る。藤藏此の教を尊信して君命至るあらば時刻を移さず残らず家株(いへかぶ)を奉ぜんとす。時に某(ぼう)なる者用金督促の命を受けて門井村に至る。藤藏の誠意を聞き、命を傳(つた)へずして歸る。後再び至ると雖も命を發(はつ)することを得ず。一家亡滅の禍を免れ、今に至るまで一家を保全するに至る。或(ある)人先生に問ひて曰く、先生其の未發(みはつ)を察し、教を下し、毫毛の差(たが)ひなきものは何ぞや。先生曰く、夫れ大風の興るや木に触れて以て動搖(どうえう)止まず、其の木を伐るに及びては暴風と雖も之に觸(ふ)るゝことあたはざるは自然にあらずや。易に曰く同聲(どうせい)相応じ同氣(どうき)相求む。水濕に流れ、火は燥に就く と。主人多欲にして其の求めア(厭に心)くことなし。源左衛門、我が言を用ゐず、欲を以て之に應(おう)ず。故に亡滅を免れず。藤藏欲を伐(き)りて更に私念なし、故に多欲も之に觸(ふ)るゝこと能はずして全き事を得たり。自然の理、未發已發(みはつきはつ)を論ぜずして自(おのづ)から明かなり。何の差(たが)ふこと歟(か)之有んや。二人とも先生の教えに感動して、これに従いますと言った。後に源左衛門は私心を去ることができず、領主を怨んで、財を出さずに、領主から追放された。藤蔵は、先生の教えを厚く信じて、君命があればいつでも家財残らず献上しようとした。ある時、領主の用人が御用金の督促の命令を受けて門井村に来た。そして藤蔵の誠意を聞くと、命令を伝えないで帰ってしまった。後に再び来たけれども、命令を伝えることができなかった。藤蔵の家は、亡滅の禍いを免れ、今に至るまで一家を保全している。ある人が先生に質問した。「先生はどうして未だ起らない先のことが分り、教えを与え、少しもたがわないのは何故ですか?}先生はこうおっしゃった。「大風が吹くと木に触れて揺れ動いて止まない。 その木を切れば、どんな暴風であってもこれに触れることはできないことは自然ではないか。 易経に『同声あい応じ、同気あい求む 水は湿に流れ、火は燥に就く』とある。 領主は多欲でその求めるところ、厭(あ)くことをしらない。 源左衛門は、私の言を用いず、欲をもってこれに応じた。 だから亡滅を免れない。 藤蔵は欲を伐って、少しも私念がなかった。 だから多欲もこれに触れることはできずに全うすることができた。 自然の理、未発已発を論ずることなく明らかなり。 どうしてたがうことがあるだろう。」☆「報徳訓控」(秋葉三太夫)に面白い感想が書き付けてある。「先生のそばにいて、ありがたい話を聞くうちは なるほどと思うのだが、 外へ行くと忘れてしまう。 たとえば、たきつけたマキのようなもので、 中で一番火のついた木を引き抜かれると後は黒消しになる。」 実際、報徳記を読むとそのような事例が数多く生じている。 尊徳先生に説諭されると、なるほどと感動してこの道しかないとはっきりとわかるのだが、いったん外に出ると、またぞろ私心に覆われて実行することができない。そして先生の言うとおり実践した者は栄え、実践できず私欲のまま行った者は衰える。 山岡鉄舟の弟子の小倉鉄樹は、「給仕でおれなどが師匠の傍に居ても、ぽっと頭が空虚になってしまって、ただ颯爽たる英気に溢れるばかりであった」と語っている。 魂のレベルの高い人の側にいると、そのオーラに満たされて自分の精神的レベルまでいったん同化するのだけれど、本当の気付きによって高まらなければ、その人のそばを離れるとまたぞろ現実のレベルに戻ってしまうということかもしれない。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)1 決して怒ってはいけない。p.21 「それに、人を怒っても幸せは逃げていくの。怒れば怒るほど、あなたがせっかく積み上げた幸せはどんどんなくなってしまうのよ。」
2023.05.28
W.I先生からレターパックが送られてきた。配達時不在で翌日取りに行った。レターパックとあったので、先生の新刊の著書の贈呈かなと思ったらコーヒー豆。ゴールドマウンテンウェブサイトで調べると「京都一番人気のコーヒー」とある。感謝します。思いがけない幸運のときに、Sound of music の「Something good(何かよいこと)」を思い出す。💛きっと何か良いことをしたことがあったのでしょう。 無からはなにもうまれない。どんなことがあっても。 Something Good (Maria & Captain von Trap)Perhaps I had a wicked childhoodきっとわたしは悪い子供だったでしょうPerhaps I had a miserable youth若い時だってみじめだったかもしれないBut somewhere in my wicked, miserable pastでも私の悪い、みじめだった過去のどこかで、There must have been a moment of truthきっと真実の瞬間があったのでしょうFor here you are, standing there, loving meだってここにあなたがいて、私を愛してくださるWhether or not you should義理なんかではなく、心からBut somewhere in my youth or childhood私の若い頃や子供時代に、I must have done something goodきっと何か良いことをしたことがあったのでしょう。Nothing comes from nothing無からはなにもうまれないNothing ever couldどんなことがあってもSo somewhere in my youth or childhoodだから、そんなわたしの若い頃や子供時代のどこかで、I must have done something goodなにかきっといいことをしていたのでしょうCaptain:(トラップ大佐)For here you are, standing there, loving meいまあなたはここにいて、僕を愛してくれるWhether or not you should義理ではなく、心からMaria:(マリア)So somewhere in my youth or childhoodきっと 若い頃や子供時代のどこかでI must have done something goodなにかいいことをしたことがあったのでしょうMaria and Captain:(トラップ大佐&マリア)Nothing comes from nothing無からはなにもうまれないNothing ever couldどんなことがあっても京都一番おいしいコーヒー!出町輸入食品 ゴールドマウンテン京都の人が美味しいというコーヒー豆のお店があります。「出町輸入食品」さんの「ゴールドマウンテン」です。京都の人が美味しいという京都一番人気のコーヒーです。出町輸入食品の「ゴールドマウンテン」は、京都のスーパーなど別のお店では一切入手できません。濃厚なコーヒーの香りに鮮やかな酸味が抜群の調和を魅せるコーヒーで、一度買ったら他のコーヒー豆は買えません。
2023.05.27
W.I先生からレターパックが届いた。留守で翌日郵便局まで受け取りに行った。レターパックとあったので、てっきり新刊の著書の贈呈かなと思ったら、コーヒー豆だった。思いがけない幸運のときに、Sound of music の「Something Good 何かよいこと」の歌を思い出す。「青春時代のどこか、子供のころかどこかで わたしは きっと 何か よいことを していたんだろう。きっとここに繋がる何かが。「無」からは何も生まれない。だから青春時代のどこか、子供のころかどこかで わたしは きっと 何か よいことを していたんだろう。」自らの行なった事の三倍以上のものが還るときには、これは神様の仕業かもと感謝する^_^ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入歌『Something Good(何かよいこと)』の歌詞Something Good何かよいことPerhaps I had a wicked childhoodPerhaps I had a miserable youthBut somewhere in my wicked, miserable pastThere must have been a moment of truth多分わたしはイタズラっ子だったし青春時代もダメダメだったけどそんなイタズラ娘でダメっ子だった過去にもきっとここに繋がる瞬間があったんだわFor here you are, standing there, loving meWhether or not you shouldSo somewhere in my youth or childhoodI must have done something goodだってあなたが今ここに、こうしてわたしを愛してくれているお義理なんかじゃなくてだから青春時代か子供時代のどこかでわたしはきっと何かよいことをしていたんだわNothing comes from nothingNothing ever couldSo somewhere in my youth or childhoodI must have done something good「無」からは何も起こらない「無」にそんな力はないだから青春時代か子供時代のどこかでわたしはきっと何かよいことをしていたの
2023.05.27
【世界卓球】早田ひな インタビュー「恩返しになったかな」世界3位の中国選手を撃破し、殊勲のメダル獲得5/27(土) 世界卓球2023南アフリカ<5月20~28日/ダーバン> 26日、女子シングルス準々決勝で早田ひな(日本生命/世界ランク10位)が王芸迪(中国/同3位)をゲームカウント4-3で撃破し、銅メダル以上を確定させた。シングルスのメダルは平野美宇(木下グループ)以来6年ぶり。さらに中国選手を破っての世界卓球シングルスメダルは、男子を含めても1979年大会の日本最後の世界王者・小野誠司以来、44年ぶりの快挙だ。 歴史に残る死闘だった。第1ゲームは王のサーブや強打に4―11と圧倒された。第2ゲーム以降はフォア前のサーブを軸に展開を変え、ラリーに緩急を付けて流れを引き寄せ、ゲームカウント3―2とした。8―5とメダルまであと3点に迫った第6ゲーム。6連続失点で押し切られると、第7ゲームも8―5から再び追い上げを許し、8―10と引っ繰り返された。 だが、ここから驚異の粘りを見せた。10―10と追い付き、一進一退の攻防は続いた。何度もマッチポイントを握られながら、耐えた。「最後は気持ちの勝負。どこに攻めるかだけを考えて試合をしていた」。ゲームポイント20―19。相手のフォア側へのバックドライブが鮮やかに逆を突き、激闘に終止符を打つ21点目。早田が歓喜の涙を流し、南アフリカの会場に割れんばかりの拍手と「ヒーナ」コールがわき起こった。 中国選手を相手に、9度のマッチポイントをしのいでの奇跡的な勝利。世界選手権個人戦の舞台で中国選手に勝つのも、歴史的な快挙だ。「中国人選手に勝つまで本当に長い道のりで、自分が中国を超えるために毎日“チームひな”に支えられて頑張ってきたので、この舞台で勝つことができてうれしい。今までやってきたことは間違ってなかったんだなって、今日思いました」と万感の思いを込めた試合後、早田ひな(日本生命)がインタビューに答えた。Q.今の気持ちを教えてください中国(選手)の壁を超えるために、チームひなの皆さんに支えてもらってきたので、この大舞台で勝つことができて嬉しいです。Q.メダル確定ですね本当に苦しくかった。でもやってきたことは間違っていなくて、1つずつクリアしていった。最終的には金メダルを目指せる力を付けていきたいです。Q.会場がひなコールに包まれましたが常に自分を応援してくれる方がいて、シングルスで期待に応えられていなかった分、(メダル獲得の壁を)乗り越えれたのは、恩返しになったかなと思います。Q.チームひな、そして石田コーチも両手を挙げて喜んでいましたが心臓に悪い試合ばかりして、皆さん寿命が縮まっているだろうなと思います。Q.明日の対戦は孫穎莎(中国)ですが、どう戦っていきたいか相手に何が効くのかを試合の中で探って、一つでも弱点を見つけて、攻めていけるように頑張りたいと思います。・「違う位置にいると、フォームが一緒でもボールとの飛距離が違う」「自分のプレー位置をラリーをしている中で自分が感じて、それに応じてフォームを変えていく。中国人選手とやるときには追い込まれないボールがない。追い込まれた時に、どう自分がプレー展開を変えていくかが大事。そうした感覚を研ぎ澄ますことができるように練習している」→ 凄い👏💛次々とはねかえされる中国の厚い壁をまた一段登ってみせた 早田選手に👏
2023.05.27
安居院義道の風景 その4 新村豊作(山中里助)安居院庄七と農業技術「森町史」通史編下巻(59~75頁) 新村里助は、山中勘左衛門(豊平)の子で、1851年森町内の廃家新村家を継ぎ、負債も引き請け、家業の古着屋を営んでいた。里助は、衰家を興し貧村を立て直すという「報徳先生」の話を聞いて中村常蔵と会いにいこうと約束した。常蔵が佐野郡で「報徳安民」の方法を行っている者の噂を聞きつけ、里助はすぐに一緒に山名郡不入斗村(現袋井市)庄右衛門方にいた「報徳先生」に会いにいった。これが安居院庄七で、庄七の語る報徳の理念や方法に感銘した里助らは、森町村の里助の家に招いて教えを乞うた。安居院庄七は、新村里助家に滞在したが、滞在中激症のおこりにかかった。庄七は数百日病床にあり、里助らは、看病をしながら庄七が持っていた尊徳の教書を筆写したり、その説話を筆記したりして報徳の理解を深めた(静岡県「静岡県報徳社事績」)。 現在、森町内にある報本社(1895年設立、現在廃止)には581点の報徳関係資料が保管されている。その中には新村里助の筆写と思われる仕法書や報徳関係書の写本も含まれる。写本の多くは、庄七病気滞在中に筆写されたものと思われる。 庄七がとった方法は、報徳社を組織する方法だった。森町報徳社は庄七の指導により組織された。明治になり、報徳運動の拠点は静岡県がなった。報徳社が群がるように生じ展開したが、その出発点に庄七がいた。庄七の報徳の特徴は、結社の他に、上方の進んだ農業技術を伝えたことにある。庄七は遠州に入る前は上方にいて敬神家として活躍する一方、上方の進んだ農業技術を見聞し、それをもとに自らの考察を加えて伝えた。この農業技術は、遠州の農民に大きな影響を与え、報徳運動が遠州で発展するひとつの大きな要因になった。「報徳作大益細伝記」には、報徳理解の上に立って庄七が会得した農業技術の集大成が記されている。新村里助は「縄張定木を用ひ方向を正し東西南北縦横一直に挿することを始め衆に先ちて之を実行したり」(静岡県報徳社事蹟)とある。正条植は「報徳植」ともよばれた。苗代の薄蒔きは、苗代への播種数を少なくすることである。薄まきは健苗を生み、多収につながるといわれる。客土は性質の異なった土壌を加えることで、庄七は「和らき田」に山の荒れ地を持ち込むことや畑の土と田の土を入れ替えること、土肥(つちごえ)を入れることなどを勧めた。以上のような庄七の報徳の方法や農業技術を、庄七の病気滞在中に里助らは学んだと思われる。
2023.05.27

役所広司 カンヌ国際映画祭に登場 主演映画に10分間のスタンディングオベーション俳優の役所広司さん(67)が現地時間25日、開催中の第76回カンヌ国際映画祭に登場。コンペティション部門に出品されている主演映画『PERFECT DAYS』の公式上映に出席しました。映画は、『ベルリン・天使の詩』(1987年)などで知られるドイツの名匠・ヴィム・ヴェンダース監督がメガホンをとった作品。役所さん演じる東京・渋谷の公共トイレの清掃員の日常を描いた物語です。役所さんは今回、ヴィム・ヴェンダース監督やキャストの中野有紗さん、アオイヤマダさん、田中泯さんとレッドカーペットに登場。大きな声援と祝福を受けました。その後、2,300人以上収容できる上映会場の『パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ』に入った役所さんたち。2時間5分の上映が終了すると、満員の観客が一斉に立ち上がって、約10分に渡るスタンディングオベーションが起きました。役所「楽屋で大体、キャラクターを聞いて。365日、休まず1日3回、トイレを清掃する男」「すごく美しい物語になる予感がしました。そこで働く人間、利用する人間たち…日本人というものを、何か、理解してもらえるような物語になるかなという予感がしました」役所「(トイレは)誰しも1日、何回も利用して、人間にとって欠かすことの出来ないもの。清潔で使いやすいものを要求する。でも、公衆トイレは汚かったり、におったり、ちょっと危険な場所だったり、壊れたりすると、どんどん使う人のマナーがエスカレートして、ますますダメになるイメージがある」「初めて入って、汚れているのを見た時、どういう気持ちになるんだろう。なめるようにきれいにした後、トイレに入ってきた人間が、その美しさに、どういう気持ちになるんだろう」「1日3回、掃除する。汚れたものを掃除しますが、仕事だから清掃しているだけでは、ないのではないか? という気がしています」「清掃するだけでないので、私生活も監督は考えてくださっている。どんなところ住み、好きな飲み物、音楽を聞きました。人物が、美しい人間という感じがした」「ヴェンダース監督の作品…その日、その日に何を撮るか、どういうアクションになるか分からない。何とか監督についていきたい」ヴェンダース監督は「(公衆トイレの)維持のためにはケアテイカーが必要であり、存在している。これからする仕事が、彼らに見合うものになれば」ヴェンダース監督「男性(役所が演じる清掃員)は、恐らく、こういう仕事をしているだけに、人間を愛していなければいけない。人間が好きでなければ、トイレを清掃する意味がない」「人のためにサービスするのを愛し、他人にも献身的だと考えています」◆「Perfect Days」東京・渋谷でトイレの清掃員として働く平山は、淡々と過ぎていく日々に満足している。毎日を同じように繰り返しているように見えるが、彼にとってはそうではなく、常に新鮮で小さな喜びに満ちた、まるで風に揺れる木のような人生である。昔から聴き続けている音楽と、休日のたびに買う古本の文庫を読みふけるのが喜びで、いつも持ち歩く小さなフィルムのカメラで木々を撮る。平山は木が好きで、自分を重ねているのかもしれない。ある時、平山は思いがけない再会をし、それが彼の過去に少しずつ光を当てていく。役所「みなさん褒めるの上手ですよね(笑)」「監督が言ってたんですけど、褒められても自分がうまいと思わないで、けなされても自分がダメだと思わないで、映画で語りなさい、と。まさにそうだなと。でも今日みたいな暖かい拍手を受けて、ああ、お客さんが喜んでくれてるんだ。良かったな。と単純に思いました。」
2023.05.27

報徳記 巻之二【7】先生辻門井二邑の里正を教諭す(3)若し此の言(げん)を是(ぜ)とせば速に君に奉じ、然後(しかるのち)地頭へ歎願すべし。其の言(げん)に曰く、目今(もくこん)君家(くんか)の艱難に當り報恩の爲に力を盡(つく)し之を補ひ、君(きみ)の苦心を安(やす)んぜん事を念願すと雖も、貧民の微力に能(あた)はず。聊(いささ)か報恩の一端にも當(あた)るに足らずと雖も、衣類家財田地(でんぢ)に至るまで餘(あま)す所なく之を鬻(ひさ)ぎ、猶(なほ)些少(させう)たりとも價(あたひ)多くして君の小補(せうほ)あらん事を願ひ、四方に奔走(はんそう)し、以て高價に販(ひさ)ぎ之を奉ず、然(しかれ)ども君の艱苦何ぞ此の微金(びきん)を以て補ふに足らん。某等(ぼうら)二村の里正(りせい)として諸民に先んじ、君家(くんか)の爲に家株(いへかぶ)を廢(はい)して之を獻(けん)ず。諸民も之にナラ(人に効)ひ、稍々(やや)家を廢して獻(けん)ぜんこと疑ひなし。君ありて民あり、民ありて君も亦安(やす)んじ玉ふ。故に二邑(いふ)の民悉く退散するに至りては、田圃(でんぼ)荒蕪し、租税出づる所なく、君家(くんけ)の禍(わざはひ)益(ますます)深きに至らんか、是(これ)某(ぼう)等の悲歎止み難き所なり。仰ぎ願くは君の賢明を以て後榮の道を慮(おもんばか)り、先君への孝道(かうどう)を全(まった)くし玉(たま)はゞ、某等(ぼうら)の大喜(たいき)豈(あに)之に加ふるものあらんや。今一家をナゲウち君命を奉ず。明日(あす)より道路に立たんか、素(もと)より某等の甘ずる所なり。然して君若し某等(ぼうら)を憐み、采邑(さいいふ)中の居住を許し玉はゞ幸甚(こうじん)なり。極窮(ごくきゆう)飢寒を免(まぬが)れ難(がた)しと雖も、數百年來世々(よゝ)君恩に浴し、相續(さうぞく)せしを以て、拳々(けんけん)として故郷(こきやう)を去るに忍びず。是故に邑人(いふじん)の家を借り、其の餘田(よでん)を耕して以て永く君の采邑(さいいふ)に居住せんことを願ふなりと。地頭之れを許さば君の善心自ら發動(はつどう)して永安の道も生ぜん。然らば汝等も邑(むら)の餘田(よでん)を耕し、或は荒地を開き、心力(しんりょく)を盡して稼穡(かしょく)すべし。必ず天の惠(めぐみ)を得て以て再び相續の道を生ぜん。能く勉め、能く愼み、彌々(いよいよ)以て君恩を忘る可(べか)らず。若し斯(かく)の如く歎願すと雖も、君許し玉はざる時は如何(いか)にせん。君民の道既に盡(つき)たり。是に於て已むことを得ずんば、妻子と倶(とも)に當邑(たういふ)に來れ。元拾石(じっこく)を所有せば拾石の民となし、五拾石を所有せば、五拾石の民となし、百石の所有(しょゆう)なれば必ず百石の田圃(でんぼ)を與(あた)へ、以前有する所の家財に至るまで悉く之を與(あた)ふべし。夫(それ)天下の人民各(かく)其の主(しゅ)に事(つか)へて田を耕し租(そ)を納め一家を經營す。其の主君僻令(たとひ)道なしと雖も、下(しも)として之を怨むべきの道なし。然るに怨心(ゑんしん)を發(はつ)し、家財を持ちて來(きた)るものを容(い)れ、此の地の民と爲す時は、其の地頭へ對して信義の道立つ可(べか)らず。且(かつ)衰運に會(くわい)し、將(まさ)に亡びんとするの原因を抱きて以て來る者は、僻令(たとひ)如何なる多福を與(あた)ふと雖も原因盡(つ)きず。再(ふたゝび)災害並び至り、廢亡(はいぼう)に及ぶこと天理自然にして疑ひなし。故に我は斯(かく)の如きものを受けざるなり。然して地頭の憂(うれひ)を憂ひ、報恩の爲に良民の道を盡(つく)し、一家一物も餘(あま)さず君に奉じ、一身を容(い)るゝの地なくして來るに及びては將(まさ)に亡びんとするの因縁(いんえん)爰(こゝ)に滅す。故に新(あらた)に幸福(かうふく)を與(あた)ふる時は必ず再榮(さいえい)疑なし。其の主人も亦是(こ)の如き良民を廢棄(はいき)し、采邑(さいいふ)の居住をも許さゞる時は、此の地の民と爲すと雖も、何の子細(しさい)か有ん。汝等此の道理を了解し斷然(だんぜん)私心を去り、此の道を行ふべし。若し我が言を疑ひ、行ふことあたはずして、主君と家財を争ひ、君を怨(うら)みて己(おのれ)を是(ぜ)とし、禍(わざわひ)を免れんことを謀(はか)らば、數年を待たずし、必ず亡びん。汝夫れ之を疑惑することなかれと。尊徳先生は、辻村の源左衛門と門井村の藤蔵に「祖先以来の大恩を顧みて、家財田畑をすべて売り払い主君に献ぜよ。 この場合主君の行いを怨む心があってはならない。 報恩を主として主君の家のためにできるだけ高価に売り払うようにせよ。 これが主家が衰える時に当たって、臣民が行う常道である。 もし、その道理をわきまえず、知計で一旦主君の求めを逃れたとしても、子孫にどうしようもない者が出て、必ず家を失うであろう。 子孫無頼の者のために家を失うより、主君の艱難の一助として良民報恩の道を行えば、神明もこれを感じ、人もこれを憐み、後にきっと再興する時が来るであろう。これもまた自然の理法である。」と懇々と説諭された。そして、さらにこう諭された。「もし、私の言葉が正しいと思うならば、 すぐにこのように主君に歎願せよ。『現在の殿様のお家の艱難にあたって、報恩のために力を尽くし、少しでもご苦悩を安んじたいと念願しておりますが、貧民の微力に及ぶところではありません。わずかな報恩の一助にも足らないといっても、衣類家財田地にいたるまで、全て売り払い、少しでも高く売っては殿様の補いとなることを願って、四方奔走して高価に売り払って献ずるものです。 しかしながら殿様の艱苦がこの僅かな金額でどうして補うに足りましょう。 私たち2村の名主として、諸民に先立って、殿様の家のため、家を廃してこれを献上しました。村民もこれにならって、家を廃して献上すること疑いありません。 君主があって民がある、民があって君主もまた安んずることができます。それゆえに2村の民がすべて退散しては、田畑は荒れて租税が出るところもなく、殿様の禍はますます深くなるでありましょう。これは私たちの悲歎するところであります。仰ぎ願わくは、殿様の賢明をもって、将来栄えるための道をよく考えられ、先君への孝行の道を全うされるならば、私たちの喜びはこれに過ぎるものはありません。今、一家をなげうって君命を奉じますと、明日から道路に立つことになりますが、これは私たちの甘んずるところです。殿様が私たちを憐れんで、ご領地のなかに居住をお許しいただければ幸いです。たとえ貧しく飢えや寒さに苦しみましても数百年来君恩に浴して相続して参りました。故郷を去るにしのびません。このために村民から家を借りて、その余田を耕して、永く殿様の領地に居住することを願うものです』と。領主がこれを許せば、君主の善心が自ずから発動して永安の道も生ずるであろう。そうであれば、なんじらも村の余田を耕して、荒地を開墾して、心力を尽くして働くがよい。必ず天の恵みを受けて、再び相続する道も生じよう。よく勤め、よく慎んで、いよいよ君恩を忘れるでない。もしもこのように歎願しても、主君が許さなければ仕方がない。君民の道もすでに絶えたのだ。そうなったならば妻子を連れてここへ来るがよい。元10石を所有すれば10石の民となそう。50石を所有していれば50石の民となそう。100石の所有であれば必ず100石の田畑を与え、以前所有した家財にいたるまでことごとく与えよう。それ天下の人民はそれぞれに主君に仕えて、田を耕し、租税を納め、一家を経営する。その主君がたとえ無道であったしても、下としてこれを怨むべき道理はない。それであるのに怨む心を発して、家財を持ってきたのを受け入れて、この地の民となすときは、その領主に対して信義の道が立たない。しかも衰運にあたって、まさに亡びんとする原因を抱いて来る者は、どんなに恵んでも、その原因がなくなっていなければ再び災害がならびきたって、廃亡におよぶことは天理自然であって疑いのないところだ。だから私は受け入れないのだ。そして領主の憂いを憂いとして、報恩のために良民の道を尽くして、一家一物も余さず主君に献上し、一身を容れるところがなくなって、来た者であれば、まさに亡びる因縁が滅している。これに新たに幸福を与えるときは、必ず繁栄すること疑いがない。その領主もこのような良民を廃棄し、領内の居住をも許さないような時は、この地の民となしても何の支障もありまい。なんじらはこの道理をわきまえて、断然私心を去って、この道を行うべきである。もし、なんじらが私の言うことを疑い、行うことができず、主君と財産を争って、主君を怨んで自分を正しいとして禍を免れようとするならば、数年を待たずして必ず亡びるであろう。なんじら、このことを疑ってはならない。」二宮先生語録【62】「過去をかえりみれば、きっと恩を受けて返さなかったことがあろう。 また徳を受けて報いなかったことがあるに違いない。 報いることを思わない者は、必ず過去の恩を忘れて、目前の徳をむさぼり受けるものだ。だから貧賤がその身を離れない。 報いることを思う者は、必ず過去の恩を覚えていて、目前の徳を追い求めようとしない。だから富貴がその身を離れないのだ。 なぜかといえば、恩を返し徳に報いるということは、百行の本、万善の源だからである。 体の隅々まで自由に動かせるのは父母の徳である。その恩に報いるのを孝という。 禄位があって人に敬われるのは主君の恩である。その恩に報いるのを忠という。 わが田を安らかに耕し、わが家に安らかに住んで、父母妻子を養うことができるのは、国家治世の恩である。その恩に報いるのを納税という。 穀物や野菜を産み出して、人の身を養い、安らかに生活させるのは、田畑の徳である。その徳に報いるのを農事に励むという。 日用の品が、何でもほしい時に手に入るのは、商人の徳である。その徳に報いるのを代金を払うという。・・・ こうしてみれば、人道とは、恩を返し、徳に報いるということにつけた名前なのだ。人たるものは、どうして報いることに努めないでよかろうか。」二宮尊徳先生道歌忘るなよ 天地のめぐみ 君と親 我と妻子を 一日なりとも☆鷲山恭平著報徳開拓者 安居院義道 大日本報徳社 はしがき(その1)安居院翁は相州の産、報徳界の高徳で、夙(つと)に我が駿遠の地に報徳の種を蒔きつけて育て上げた、第一人の開拓者である。そしてその事蹟は先生の晩年のことで、五十八歳から七十五歳の終焉に係る、その青壮年の経歴は遺憾であるが全く不明であって、初老の時に商業に従事して最後に一敗地に落ちたときが、報徳への序章」となる。 しかしその失敗が幸いにも二宮先生の報徳に縁故を結ぶ機会となって、大転換をしたのである。しかも天地をひっくり返したほど百八十度の逆転振をした、今までは勤倹譲を裏返しに着て、独酔的なよい心持で足駄をはいて歩いていた。つまづいてから恐れ入って洗足になり、怠奢奪を引っ込めて表を出して着替えて見れば。一帳らの晴れ着で通用する立派な扮装である。 暫く陣容を整えてかかれば、本来の人物はまた光を放たずにはおかぬ、報徳の先生として出発する、そして我れよく夫子の道をひろめんと唱えて、その郷里を去った。 以上のごとき先人の歩みは、ぜひ調べておきたい、出版するという考えなく、書き綴りおいたのが明治の四十二年から始まる。 資料を与えられた先輩は 高山藤七郎老、中遠袋井町の人、青年時代、 家道失脚のため、報徳式に取り直した権威者で、安居院翁の著及び説話は大体筆記してある。晩年遺稿として我が家憲の一書を残されている。また老は我が家憲と同年で親交もあって特別に知遇をこうむっている。 竹村篤老、浜松在入野の人、若くして商業を松に見習い、その間より厚く報徳の道に帰依して安居院翁門下人々に教えを受けて能く記憶している。また丹念に道歌のごときは記録してあった。淡山先師、安政六年二宮門を辞して以来、文久三年翁歿年までもっともよく翁を見ている。特に明治四十二年浜松に於て安居院翁墓参追吊会の時、講演も筆記していた。 中上信英氏静岡の人、「報徳」雑誌を発行して安居院翁の記事は多く載せられている。 同雑誌は明治二十五年第一号を発行して同三十六年に五十六号を発行して中止された。💛「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。今野華都子先生は、エステ世界大会でグランプリをとられた方である。今野先生の洗顔教室に以前何度も友人と連れ立って通ったことがある。洗顔の方法を学ぶためよりも、お話を伺うためであるが、友人はいまでもきちんと教わった洗顔方法を実行しているらしく顔の肌がツヤツヤきれいである。あるとき今野先生はおっしゃったことがある。「私たちは家でも学校でも正しい洗顔のやり方を教わったことがないと」同様に私たちはきちんと「言葉の使い方」を親からも学校の先生からも、教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いたこの小冊子にある「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき、身に付けるべき大切な「言葉の使い方」の教えであると思う。そこで「報徳の精神」とともに繰り返し繰り返し掲載し続けている(^^)1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)4は私が思うに、自分の深層心理をコントロールする方法であろう。「報徳の精神」と「魔法の言葉」は、使い続ける人にとって、生涯使っても使い尽くせない無尽蔵の宝庫である。それを受け入れて実践し続ければ、子孫や共同体まで豊かにうるおしてくれる。
2023.05.27
今井館から「無教会全国集会2022」が送られて来た。今井館には内村鑑三文書が収蔵されていて、何度か調べ物でうかがったことがある。今井館は現在は文京区本駒込の六義園近くにある。移転後は赴いていない。「ボーイズビーアンビシャス第五集 内村鑑三 神と共なる闘い」を出版し、今井館にも収蔵されている。今は亡き畏友・木谷文弘が「記録せよ、発信せよ」と言っていた。記録されたものを、いくつか抜粋して発信してみよう。p.24 メッセージ 沖縄 石原 つや子・・・・・・辺野古基地への反対、座込み闘争に参加してきました。”NO WAR、命どう宝”のうちわを掲げて、戦争反対、新基地造るな、憲法第9条守れと叫び続け、二度と戦争をしない世を願い求めて今も叫び続けています。そんな現場で海は泣いている声が私の心に迫り即興の歌も生まれました。(写真は”NO WAR、命どう宝”を溝口春江さんが毛筆で清書(あとがき))・・・・・・p.25 さとうきび畑は小鳥たちのゆんたく広場 ピチクリピチクリピイピイにぎやかだ 私たちも小鳥にまけずゆんたくしよう 戦争なんてしないよ 戦闘機もミサイルもいらないよざわわざわわとさとうきび畑を渡る風に乗って、あの日の戦の魂たちの声が 父の母の兄弟たちの声が聞こえてくる 命どう宝みんな友だちになろうね、平和が一番!!(詩:つや子)
2023.05.26

報徳記 巻之二【7】先生辻門井二邑の里正を教諭す(2)先生深く之を愍(あはれ)み、二人を教へて曰く、汝等今日の不幸は實(じつ)に憐むべしと雖も、祖先以來居住の地を去り、此の土(ど)の民たらんことを求むるに至りては大いに道を失ひたり。今我(わが)臣民たるものゝ道を教へん。凡(およ)そ上(かみ)君となり、下(しも)臣民となるもの、本來一物にして二物にはあらず。猶(なほ)一木の根幹枝葉(こんかんしえふ)離れざるが如し。故に本根(もとね)朽つる時は枝葉(しえふ)獨(ひと)り全(まった)からず。枝葉(しえふ)枯るゝ時は、本根(もとね)も亦(また)全きことを得ず。汝等數百年來(らい)君となり、民となり、平穏無事に相續せしは一朝一夕の故にあらず。祖先以來の主恩を顧(かへりみ)る時は、それ大となす歟(か)、小となす歟(か)、果して大ならば汝一世の力を餘(あま)さず之に報ゆると雖も、何を以て百分の一も報ずる事を得ん。然るに今怨望(ゑんぼう)の心を懐くものは他(た)なし。君は君にして民は自(みづ)から民なりとし、利を主として義を忘れ、財(ざい)のみを見て恩を顧みざるが爲なり。是の故に地頭の艱難に當り、君の憂を憂とせず。唯(ただ)其の求責(きうせき)を遁(のが)れんことを謀(はか)る。豈(あに)是れ難に當(あた)りて臣民の義を盡(つく)すの道ならんや。且つ萬物皆悉く盛衰あり。天地間森羅万象(しんらばんしやう)限りなしと雖も、一物も自然の盛衰存亡を免(まぬが)るゝものなし。國に盛衰あり、家に盛衰あり、人に盛衰あり、是(この)故に盛んなるものは必ず衰へ、存ずるのは必ず亡(ぼう)し、生あるものは必ず死す。是れ天地自然の道なり。然らば則(すなはち)、汝の君家(くんか)何ぞ獨り盛衰なきことを得ん。汝の邑(むら)のみ何ぞ盛衰なからん。汝の家而己(のみ)何を以て盛衰を免れんや。汝の君家(くんか)以前必ず盛んならん。故に今衰ふべきの時運至り用度足らず、是(こゝ)の故に已むを得ず、采邑(さいいふ)に取りて以て不足を補ふ。地頭の盛んなる時は采邑(さいいふ)も亦盛んなり。地頭衰ふる時は邑(むら)も亦衰(おとろ)ふ。君富む時は恩澤下(しも)に及び、君窮(きゅう)する時は下其の憂を受くるもの猶(なほ)枝葉(しえふ)枯槁(こかう)して根も亦(また)朽(くつ)るが如し。故に忠臣良民は君の艱難に當(あた)りては、身命をナゲウち其の憂を除き、祖先歴代の高恩に報いんとす。力足らざれば死して后(のち)止む。米粟(べいぞく)家財何ぞ言ふに足らん。今君惠憐(けいれん)の心薄く多欲にして貪るといへども、其の采邑(さいいふ)に求むるのみ、故に采邑(さいいふ)の物を取盡(とりつく)すに及びては、其の求め必ず止まん事薪(たきぎ)盡(つき)て火の滅するが如し。汝等時運を知らず、又祖先以來受くる所の大恩を顧みて之を報ぜんとするの心なく、薪(たきぎ)を抱(いだ)きて火に向ひ、火の滅するを求めるが如し。早く抱く所の薪(たきぎ)を火中(くわちゅう)に投ぜば、薪(たきぎ)盡(つき)て火燃(もゆ)る所なく、君の求め止まん事何の疑ひかあらん。是の故に家財田圃(でんぼ)一物をも残さず、君に奉じて其の不足を補うべし。然れども君の所行を怨むるの心ありて之を出(いだ)す時は、是(これ)誠心の行(おこなひ)に非ず。從來(じゅうらい)の報恩を主とし、君家の爲め而己(のみ)に計(はか)り、所有の田圃(でんぼ)、家屋、器財悉く之を鬻(ひさ)ぐに、其の價(あたひ)卑(ひく)き時は君の益少なく、價(あたひ)高き時は君の益多し。故に心を盡(つく)し、高價に鬻ぐ可(べ)し。是れ主家(しゅか)の衰ふる時に當り、正(まさ)に臣民の行ふべき常道(じやうどう)なり。家の存亡必ず自然の數(すう)ありて逃るべからず。汝等の家(いへ)亡(ほろ)ぶる時至れり。然れば僻令(たとひ)道理を知らず、知計を以て一旦君の求を免れたりと雖も、子孫無頼(ぶらい)の者出づるに及びて必ず家を失ふべし。子孫無頼の爲に失はんよりは、君の艱難の一助となし、良民報恩の道を行ふ可し。苟(いやしく)も是(こ)の如くならば神明も之を感じ、人之を憐み、後必ず廢家再興の時至らん。是亦自然の理(ことはり)なり。若し此の善行(ぜんかう)を爲さずして自亡(じぼう)を待つは、君と財を争ひ、家を亡ぼし、恩を知らざる無道のものとなり、君も亦下民(かみん)を虐(ぎゃく)するの汚名を顯(あらは)すに至る可(べ)し。誠に歎ずべきの至(いたり)にあらずや。汝等夫れ此の二者の内、何れを是(ぜ)とし、何れを非とするや。今の茨城県真壁郡にあった辻村の名主を源左衛門、門井村の名主を藤蔵といった。二村ともに旗本の斎藤鍬太の領有であった。斎藤氏は負債が多く、来年分の租税まで先納させ、さらに御用金と称して領有の村々に要求すること限りがなかった。このため、二村の百姓達は貧苦のため、逃亡する者も多く、戸数は減少し、田畑は荒れ果てた。名主の源左衛門と藤蔵は、斎藤氏の無慈悲を恨んで語り合った。「領主は情け知らずで、二村から搾り取ること限りない。我々も一緒に滅亡する日も遠いことではあるまい。ところが、二宮先生は桜町三村の衰廃を復興して、父母が子供を恵むように村民を養われていると聞く。苛酷な領主の要求に苦しむより、仁恵深い人の領民になるほうがよい。」そこで二人揃って桜町に来て、領主の無道を訴えるとともに、物井の村民にしていただきたいと申し出た。先生は深く哀れんで二人にこう教えられた。「汝らの今日の不幸は実に憐れむべきだが、 先祖以来の居住の地を去って、この地の民になろうと求めるのは、おおいに道を失っている。 今、私が臣民の道を教えよう。 およそ上は君となり、下は臣民となるものは、本来は一つで二つではない。たとえば一本の木の根・幹・枝葉が離れないようなものだ。だから根が朽ちるときは枝葉だけ全うすることはできない。枝葉が枯れるときは、根もまた全うすることはできない。汝らは数若年来、君となり、民となり、平穏無事に相続してきたというのは一朝一夕のことではない。祖先以来の主恩を顧みるとき、その恩を大きいと思うか、小さいと思うか。もし大きいと思うならば、汝の力を残さずこれに報いたとしても、100分の1も報いることもできまい。それであるのに、今、恨むのはほかでもない。君は君、民は自ら民として、利を主にして義を忘れ、財のみを見て恩を顧みないからだ。このために領主の艱難の時にあたって、君主の憂いを憂いとせず、ただその要求を逃れることのみを求める。これがどうして難にあたって臣民の義を尽くす道であろうか。かつ万物には皆ことごとく盛衰がある。天地の間のあらゆるものは、一物も自然の盛衰存亡を免れるものはない。国に盛衰があり、家に盛衰があり、人に盛衰がある。このために盛んなものは必ず衰え、存するものは必ず滅し、生あるものは必ず死ぬ。これが天地自然の道理である。そうであればどうして汝の君主の家のみひとり盛衰を免れようか。汝の君主の家も以前は必ず盛んであったであろう。だから今衰える時運が来て、資金が足らず、やむなく領有の村から取って不足を補っている。領主が盛んであれば領村も盛んであり、領主が衰えれば領村もまた衰える。君主が富むときは恩沢が下に及び、君主が窮迫するときは、下がその憂いを受けるのは、ちょうど枝葉が枯れて根もまた朽ちるようなものである。だから忠臣良民は、君主の艱難にあたっては、身命をなげうってその憂いを除き、祖先以来の厚恩に報いようとする。力が足りなければ死んでのちに止むのだ。まして米や家財など取るにたりようか。今、君主が仁恵の心が薄く、貪るからといって、その領有する村に求めているだけで、領有の物を取り尽せば、その求めが止むことは、たきぎがなくなれば火が自然と消えるようなものだ。汝らは時運を知らず、また祖先以来受けた大恩に報いる心がなく、たきぎを抱いて火に向いながら、火が消えることを求めているようなものだ。早く抱いたたきぎを火の中に投げ出せば、たきぎがなくなって火が消えるようなもので、君主の求めが止むことに疑いがあろうか。そうであれば家財やたんぼを一物も残さず、君主に差し上げてその不足を補うがよい。このとき、君主の行いを恨む心で出しては、誠の心からの行いではない。従来から受けてきた恩に報いる心を主として、君家のためのみを計り、所有する田畑、家屋、器財ことごとく売り払って、その値段が低いときは君主の利益が少なく、その値段が高いときは君主の利益が多い。だから心を尽くして高価に売り払うのだ。これが主の家が衰えたときにあたって、まさに臣民が行うべき常道である。家の存亡には必ず自然の数理があって逃れることはできない。汝らの家が亡びる時が来たのだ。そうであればたとえこの道理をわきまえず、知謀計略をつくしていったん君主の求めを逃れたとしても、子孫に無頼の者が出て、必ず家を失うであろう。子孫無頼の者のために家を失うより、君主の艱難の一助となし、良民として報恩の道を行うべきではないか。もしもそのような行いをするならば、神明もこれを感じ、人もこれを憐み、後に必ずやは家を再興する時が来るであろう。これもまた自然の道理である。もしこの善行をしないで自ら亡びるのを待ち、君主と財を争い、家を亡ぼし、恩知らずとなる。君主もまた、その民を虐待したという汚名をあげるようになるであろう。誠に嘆かわしいことではないか。汝らは、この二つの道のどちらを是とし、どちらを否とするか。」「尊徳の裾野」(佐々井典比古)に「尊徳、忠真を諌める」として尊徳先生が逆に領主としての大久保忠真候を諌めた話が紹介されている。「私は先君にこう申し上げたことがある。『11万石とは何をさしていうと思し召しでしょうか。 11万石とは、年々歳々、土地から産み出すところの穀物の数量でございます。ですから11万石と申せば領中一円、貧民やこじきまでもその中に含んでおります。一円相でご覧あそばせば、ご家中(藩士)は、土を離れて高い身分ですから、枝葉でございます。百姓は下にいて、低い身分ですから根にあたります。11万石を四公六民に分けますと、ご家中から殿様までが四分で、下が六分でございます。そうでありますのに、ご家中ばかりご改革あそばされて、11万石のご改革とおぼしめされますでしょうか。大根などを作りましても、葉の世話ばかりいたして、根に肥やしをいたしませんと、一切栄えず、ついには枯れてしまいます。一草でさえそうです。一藩の場合、それではお家安泰とは申されません。(略)』このように申しあげたことがあったが、領内の百姓を恵み、藩を富ましていたら、美名・高徳が天下に輝き、御領中は富み栄えていたであろう。」佐々井氏は、これは天明6年の対面の際ではないかとされる。小田原藩鵜沢作右衛門は天明5年から6年にかけて、3回櫻町に赴き、仕法の成果を大久保忠真候に報告した。尊徳先生は、天明6年6月5日に桜町を出て、小田原藩江戸屋敷におもむき、7月7日に帰陣している。このとき、忠真候は金次郎の望みに応じて「誠は天の道なり これを誠にするは人の道なり」という「中庸」の文字を書いて、尊徳先生に渡した。そして、尊徳先生の仕法を小田原藩で行いたいという願いを強くしていったのである。☆「かがり火」136号2010Decemberより佐呂間漁業協同組合の組合員は59名、昨年度末の貯金残高は 67億4千万余縁、組合員の平均1億1千余円、つまり平均すれば組合員全員が億万長者だという。その仕組みは年間2,000万円の水揚げ高があるとして、水揚げ高の70%、1,400万円は月取り貯金として無条件で天引される。このお金は翌年の生活費に回される。そのほか納税準備金10%で200万円、漁協への手数料6%で120万円、船を買い替えたりする場合の漁船準備金が2%40万円、天候が荒れて漁に出れない場合の備荒貯金2%40万円、高齢で働けなくなった場合の養老年金が2%40万円、したがって92%の1,840万円が強制的に天引きされる。つまり自由に使えるお金は8%160万円しかない。生活費はすべて前年度積立てた月取り貯金でまかなう。前年度の稼ぎで今年度生活するのである。だから病気などで1年間まるまる働けなくなっても、1年間は生活できるのだ。「月取り貯金 が1,400万円あってもすべて生活費に回されるわけではありません。生活費としては、月にせいぜい30万円から40万円あれば十分でしょう。それに漁具などの償還や重油など漁にかかる経費もこの中から支払いますが、それでもかなりの金額が残ります。それが毎年貯金されて、組合員平均1億円近い貯金を持つことができたわけです。」と佐呂間漁業協同組合の阿部組合長は語った。 すべての組合員は毎年、1月15日までに、その年の営漁計画書を出す。 ホタテやシマエビ、カキの出荷計画とともに、毎月の生活費まで記入する。 子供が大学に行くので仕送りが必要だとか、娘の結婚、家の改築計画などすべて記入する。その計画書を漁協の担当者と組合員が計画が妥当か話し合う。もし貯蓄額が低いのに家を新築したいといえば『まだ早いのでは、もう少し我慢したら』などとアドバイスする。「たとえ家の新築や船の買い替えを認めても、本人の貯金は解約させません。 漁協が貯蓄額の80%まで貸し出す仕組みになっています。 自分の金だと思って自由に使えるようになれば、気が緩んでしまうからです。 借りたお金となれば、毎月きちんと返済しなければなりません。 お金についての緊張感が維持できます。」 昔の漁師は1回の漁で何百万も稼ぐと、その金を腹巻きに入れてキャバレーに繰り出したりしたという。「佐呂間漁協の組合員は皆堅実で、佐呂間町にはホタテ御殿やベンツ・ポルシェを乗り回す人もありません。その代わり、夜逃げする人も出ません。」 もともとこの仕組みがあったわけではないという。 佐呂間漁協がホタテの養殖を始めたのが昭和40年で、組合員の生活を安定したものにしたいと始めた。 当時の佐呂間漁協の販売取扱高は7,600万円、貯蓄残高は7,200万円。 当時の漁協には新事業を立ち上げる資金がなくて、上部団体に1億5,600万円の借り入れを申し込んで断られた。販売取扱高も貯蓄残高も少なかったからである。 その時、町が債務保証してくれて必要な資金が確保できた。「われわれの漁は漁師だけの努力で成り立っているのではない。 町民みんなのおかげだということを肝に銘じて忘れてはならない。 当時の組合長は懇々と組合員を諭したそうです。 この教えはいまも生きています。」 記事は、報徳の 芋こじ の組織に似た常会や 豊穣の海サロマ湖についてのべている。「全国の漁協の中で組合員一人当たりの貯金がトップクラスなのは、このサロマ方式のおかげである。高額を稼ぐ漁師といえども派手な暮らしをせず、町民として節度のある暮らしを守っている。 この独自なシステムを維持するための重要な役割を果たしているのが、毎月開催される常会である。正組合員59名、青年部31名(息子など後継者たち)が参加して行われる集会だ。漁協から組合員へのお知らせは同報ファックスでほぼ毎日送られているが、重要課題がある時は日に二度も三度も発信されるほど情報公開が行き届いている組合なのだ。常会の開催もFAックスで知らされる。『全員が参加すれば約90人ですが大体、毎月8割の組合員が参加します。この常会では、漁師や漁獲高などの推移など組合からの事務連絡以外に、組合員からいろいろな要求、要請、陳情、相談などが出されて、とことん議論するのです。 かつてバブルのころは、漁協に膨大な資金が蓄積されているものですから、株式などに投資して、その利益を組合員に配当してもいいのではないかという意見もありました。しかし、多くの組合員は漁師は漁だけで生計を立てるべきで、それ以外のことで収入を図るべきでないという意見で一致しました。 われわれの合言葉は”豊かな過疎”ということです。 常会で簡単に結論が出ない議題については管理委員会、組合資格委員会、役員報酬委員会、貯蓄推進委員会など個別の委員会で討議され、最終的には総会で議決されます」』(5~6頁)「船木耕ニさんは『ある意味でわれわれに一攫千金を得るという夢はありません。どんなに頑張っても一人で1億2億という水揚げはできないようになっています。 反対に、過当な競争がないだけに倒産がありません。野心のある漁師には不満があるかもしれませんが、現在の組合員はすべてこのシステムをつくってくれた先人に敬意を払い、尊敬しているのです。』(7頁)もちろん問題もある。娘しかいない漁師の家では、婿をとってまで漁業を続けることはないと、漁師をやめるケースがある。もちろん漁師をやめた時点ですべての貯金は解約されるので老後の暮らしは心配ない。組合員の減少は漁協の経営にもかかわるから、漁師を続けるよう説得するのだが、簡単に船をおりてしまうのが悩みだという。漁業権は簡単にとれないので他から補充するというわけにいかないのだ。 最後になぜこの仕組みが生れたかが、報徳訓との関係で説明されている。 それこそが この仕組みの肝、エートスであろうか。「佐呂間漁協の仕組みは、初代の船木長蔵、二代目の船木長太郎という組合長がつくりだした。 その精神は二宮尊徳の報徳訓にあった。 報徳訓父母の根元は天地の令命にあり。身体の根元は父母の生育にあり。子孫の相続は夫婦の丹精にあり。父母の富貴は祖先の勤功にあり。吾身の富貴は父母の積善にあり。子孫の富貴は自己の勤労にあり。身命の長養は衣食住の三つにあり。衣食住の三つは田畑山林にあり。田畑山林は人民の勤耕にあり。今年の衣食は昨年の産業にあり。来年の衣食は今年の艱難にあり。年年歳歳報徳を忘るべからず。 特に最後の三行が、佐呂間漁協の基本精神になった。」鈴木藤三郎は、尊徳先生の「荒地の力を持って荒地を興す」という言葉を製糖業など近代産業に適用して成功させた。尊徳先生の言葉を自分のものとできるならば、生涯使っても無尽蔵の宝庫となる。その人一代だけではなく、それを受容し実践し続ければ、子孫や共同体まで豊かにうるおしてくれる。💛知人が職場を変わられた。それまで自宅に近く便利だったのが、遠くなると少し歎き気味。そこで元気づけに お菓子とのど飴を 郵送で5月24日(日曜日)に送った。のど飴は「後藤酸のど飴」とあり、成分としてシアル酸と板藍値とあり、調べると美肌やウイルス除去効果があるとある。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)4は私が思うに、自分の深層心理をコントロールする方法です。「報徳の精神」と「魔法の言葉」は、生涯使っても無尽蔵の宝庫となる。それを受け入れて実践し続ければ、子孫や共同体まで豊かにうるおしてくれる。
2023.05.26

張本智和・早田ひな組、中国ペアを破って決勝進出 混合ダブルスで日本勢5大会連続銀メダル以上確定…世界卓球混合ダブルス準決勝で前回2位の張本智和(智和企画)、早田ひな(日本生命)組は林詩棟、クアイ・マン(中国)に3―1で逆転勝ちし、決勝に進出した。林詩棟、■曼組(中国)組を相手に第1ゲームを落としたが、3ゲーム連取で3-1(7-11、11-6、11-7、11-6)と白星をたぐり寄せた。 “はりひな”ペアは24日の準々決勝で林勲鐘、申裕斌(韓国)組を下し、準決勝に進んだ。だが、試合後は喜びは控えめ。張本は「ゴールはここじゃない」と頂点だけを見据え、この試合に臨んでいた。22年世界ユース選手権19歳以下で優勝した中国の若手ペアに対し、第1ゲーム(G)こそ7―11で落としたが、第2G以降は“はりひな”らしい息の合った攻撃を見せ、逆転勝ち。昨年の雪辱を目指す舞台に駒を進めた。 日本勢は世界卓球の同種目で吉村真晴、石川佳純組が2015年から銀、金、銀と3大会続けて表彰台に立ってきた。前回21年は張本、早田組が銀メダル。これで日本勢が5大会連続の決勝進出となった。張本「目標としては最低限の決勝進出。苦しい試合でしたが、勝ててうれしいです」早田「最後まで強い気持ちを持って、決勝を頑張りたいと思います」💛女子ペアチームが、中国チームに敗れる試合を見ただけに、5大会連続メダルとなる男女ペアに「尊い!」らんまん 寿恵子 馬琴先生のファンタジーに 夢中八犬士・犬塚信乃と犬飼現八が出会う名場面「芳流閣の決闘」に「現八と信乃、尊い! 馬琴先生、天才すぎる!」」これはおそらくシナリオライターの感慨がこめられているものか。そうであれば 里見八犬伝からのファンタジーやモチーフがいたるところで炸裂していくのかも寿恵子が里見八犬伝“推し”のオタクだったことが判明ネットでは「やっぱり寿恵子さん、オタクだ。尊いwww」「ヒロインもヲタ設定!?」「すえこさん、予想以上にオタクだw」「寿恵子さん文学少女かと思ったらオタ寄りだったwww」「尊み感じる系www」「寿恵子さんも相当なヲタだったw」「里見八犬伝オタクwww」「ヲタ丸出し」「こっちも違うジャンルのオタクだったw」とにぎやかに
2023.05.26
【MLB】大谷翔平から24歳の有望株に「贈り物として」 敵軍からの“お願い”に快諾5/25(木)ジャマイ・ウェブスターレポーター「アレックス・コーラ監督はお願いごとをしたそうなんですが、それを大谷が承諾したそうです」レッドソックス傘下2Aポートランドに所属する有望株、CJ・リウ(劉致榮)投手の話題。5月5日(同6日)に7イニング制の試合でノーヒットノーランを達成した台湾出身投手について「高校時代二刀流で、オオタニに憧れていたそうです」と、大谷の7回の打席中にレポートした。 コーラ監督は、リウへのお祝いとして、憧れの的である大谷にサインボールを依頼。「どうやらもらえそうです」と二つ返事で快諾してもらったことも付け加えた。さらにウェブスター氏は「コーラ監督は(今オフ)FA権を得るショウヘイ・オオタニと、直に会って話しました。『FAになる選手との違法な接触ではないよ』と言っていましたよ」とのジョークも飛ばしていた。
2023.05.25

■エンゼルス 7ー3 レッドソックス(日本時間25日・アナハイム) エンゼルスの大谷翔平投手は24日(日本時間25日)、本拠地レッドソックス戦に「3番・指名打者」で先発出場し、4試合ぶりの12号を放つなど4打数1安打1打点で打率.280とした。試合は7-3で勝利し、4連勝に導いた。Ohtani knocks in HR #12 on the season 🦄 4-0の3回1死で迎えた第2打席で、内角高めに来たボールを左中間に運ぶ12号ソロを放つと、本拠地は大熱狂に包まれた。左腕パクストンの高め84.4マイル(約135.8キロ)のカットボールを捉えた打球は、速度105.7マイル(約170.1キロ)、飛距離398フィート(約121.3メートル)だった。フィル・ネビン監督「すごいパワーだった」「今夜は(環境として)そんなに打球が飛んでいなかった(The ball wasn't really carrying very well tonight,)」「今の空気の状態で逆方向に持って行った( to go the other way with the air the way it is right now)」「彼は練習するのが好きだ。本人の感覚に任せている」「感覚がよくない状態になり始めた時にあれ(屋外フリー打撃)をやると、再び集中力を取り戻すようだ。それが今日は助けになったと思う」マーク・グビサ「ユニコーンがホームランだ! オオタニさんが12号! 彼はスペクタクルだ」ティファニー・ウィリアムズ「オオタニの本塁打はユナイテッド航空のファーストクラスで飛び立つように堂々としていた」◎21日(日本時間22日)、エンゼルスと対戦したツインズのロッコ・バルテッリ監督「オオタニが今後けがをすることなく順調に投打二刀流をこなしていけば、それだけで他の選手を上回り毎年MVPに選ばれてもおかしくない」「私たちは毎日目にするものに慣れてしまいがちだが、オオタニのしている事に慣れてはいけない。二度と見られないかもしれないのだから。私は彼のような選手を今まで見たことがないし、人生で目にするとは考えたこともなかった」「いつかオオタニも野球人生を終える時がくる。再び彼のような選手を見ることはないだろう。野球ファンに限らず、彼のプレーを見逃してはいけない」
2023.05.25
フィリピン拠点の詐欺グループ4人強制送還 メンバー20人の海外潜伏も判明5/25(木)フィリピンを拠点にした特殊詐欺グループの4人が、日本に強制送還された。また、新たにグループのメンバーおよそ20人が、海外に潜伏していることがわかった。寺島春奈容疑者(28)、熊井ひとみ容疑者(25)、佐藤翔平容疑者(32)、藤田海里容疑者(24)の4人は、フィリピンから移送中の機内で逮捕された。4人は、関東などで相次いだ強盗事件の指示役「ルフィ」との関連が疑われている、渡辺優樹容疑者(39)をリーダーとする特殊詐欺グループで、だましの電話をかける「かけ子」をしていたとみられている。このグループでは、これまでに70人以上が逮捕されているが、警視庁は、さらに海外に潜伏しているおよそ20人の逮捕状を取得し、捜査している。☆鷲山恭平著「安居院義道」現代文の試み より 蒔く種と生いたつさまは異なれど みのればもとの種となりぬる 蒔く種の直ぐにそのまま生いたちて 花と見る間に実法るかずかず 世の中の人は万物の霊にして、すなわち心は万の心なり。その心の置所によっては八方へ走る。片時も油断してはならない。いったん悪い道に行き、後になって後悔しても仕方がないことである。よく考慮して心の置場を定めたく、誰も善事は善いことと知っていても勤める者は少ない。そこを堪忍して何事に限らず、善いことは私が、と教えて怠らず勤めさえすれば成就しないという事はない。
2023.05.25

報徳記 巻之二【7】(1)先生辻門井二邑の里正を教諭す常州(ひたち)眞壁郡辻村里正(しょうや)を源左衛門(げんざゑもん)、同郡門井(かどゐ)村里正(しょうや)を藤藏(とうぞう)と云ふ。二村共に旗下(きか)齋藤某(ぼう)の采邑(さいゆう)なり。齋藤氏經濟不如意(ふにょい)にして負債多く、采邑(さいゆう)に命じて今年に來年の租税を先納せしめ、加之(しかのみならず)時々用金と稱し、下民(かみん)の財を取ること度(きまり)なし。之が爲に二邑(いふ)の民困難貧苦に堪へずして氓民(ぼうみん)となり、戸數減少土地荒蕪し衰貧極れり。里正(しょうや)數々憐愍(れんみん)を地頭に請ふと雖も許さず。豊年尚(なほ)菜色(さいしょく)あり。隣境之を見て爲に悲歎止まず。里正(しょうや)細民を倒して君の求めに應(おう)ずるに忍びず。自財を以て之を補ふと雖も、地頭の費用彌々(いよいよ)足らずしてアク(厭に食)なきの求め止む時なし。源左衛門、藤藏大いに君の不仁無慈悲を怨み語て曰く、里正(しやうや)なるものは邑(いふ)民を安ずるを以て主(しゅ)とす。故に屡(しばしば)細民の爲に憐愍(れんみん)を請ふ。然れども地頭不仁にして二邑(いふ)に取ること限りなし。安(いずく)んぞ衰村貧民の米金(べいきん)を以て限りなきの求めに應ずことを得んや。我等細民と共に亡滅に及ばんこと遠きにあらず。然るに二宮先生三邑(いふ)の衰廢を起し、其の民を撫育する事、父母の子を惠むが如し。速に櫻町に往て物井(ものゐ)の民となれば後榮疑ひある可らず。早く苛酷の苦を免(のが)れ、仁人(じんじん)の民となるには如ざる也と。是に於て二人倶(とも)に櫻町に來り、無道の下(もと)に立ち難きを歎き、物井の民たらん事を請ふ。「補注報徳記」(佐々井典比古)にはこう記する。門井(かどい)は茨城県真壁郡協和町にある。桜町の南方約2里(8キロ)、辻はさらにその東南1里半(6キロ)の所にある。斎藤鍬太の領地は、この2村のほか、付近数里の間に散在する5ヶ村で、いずれも数戸ないし10数戸の村であり、高745石、もとの戸数合計64、それが減少して38となっていた。領主は多年の財政難のため、領民から先納・先々納の名目で取り立てていた。領主の借財は、天保6年には、2300両となっていた。領民は、櫻町・青木村の仁政を聞いて、仕法を依頼することを領主に懇願した。領主及び領民の度重なる懇願により、先生は仕法の案を立て、領主の承諾を得て、天保7年から実行された。天保7年は大凶作であったが、領内には一人の餓死者もなかった。しかし領主は分度生活を十分理解していなかったから、余裕が生じると、奢りを生じ、先生から無利息の報徳金を繰り返し借りようとし、要求がいれられないとなると、怒って領民に無道な要求をした。辻村の源左衛門は進退窮まり、ついに逃亡し行方不明となった。村民達は先生の指導する仕法で朝晩縄をない、23両の報徳金を細々と積み立てていたが、やむを得ずこれを領主に差し出した。門井村の藤蔵も領主に罰せられ、一時先生を頼って桜町に転住したほどであった。しかし先生は仕法を継続され、天保6年から10年までの間に1500両も借金が減じた。ところが領主は分度生活に我慢できなくなり、天保10年には経費増額を要求し、聞き入れられないとなると、領民を搾取し、その末にこの年の終りに報徳仕法の打ち切りを申し出た。先生はこの領主の態度を嘆かれ、応じた。その後斎藤の家計はますます苦しくなり、領主及び領民は困苦のあまり再度の仕法を懇願したが、尊徳先生はついに応じられることはなかった。分度が報徳仕法の土台石であり、これが守られない場合は、報徳仕法はなりたたない。これをよく守って、藩政を立て直したのが、富田高慶が中心となって指導した相馬藩であった。烏山藩、下館藩など多くの領主は、最後まで分度を全うすることができず、報徳仕法の成果も中途半端なものとなった。尊徳先生の出身の小田原藩も分度を建てることができず、ついには報徳仕法打ち切りを宣告するに至る。☆二宮先生語録(斎藤高行)巻一【6】分度は土台石 天下には天下の分限があり、一国には一国の分限があり、一郡には一郡の分限があり、一村には一村の分限があり、一家には一家の分限がある。 これは自然の天分である。 天分によって支出の度を定めるのを分度という。 今日、人々は、贅沢を追い求めて、分度を守るものは少ない。 しかし、分度を守らないかぎり、大きな国を領有していても不足を生ずる。 なぜならば、天分には限りがあるが、贅沢には限りがないからである。 分度と国家との関係は、家屋と土台石のようなもので、土台石があって始めて家屋が営造できるのと同様に、分度を定めて始めて国家は経理できる。分度を謹んで守れば、余財を生じて、国を富まし、民を安んずることができる。【8】腐りかけた大根 一万石の国では、租税1万俵が通例で、それがその国の天分である。これを4等分して、そのうちの7500俵を国費にあて、2500俵を貯蓄するのが周の法制であった。 「3年耕せば必ず1年の食あり、9年耕せば必ず3年の食あり」(礼記、王制篇) この法を守りさえすれば、国の財政は豊かとなり、必ず富強となって、決して貧窮衰弱することはない。 ところがもし1万俵の収入で1万1千俵の支出をするならば、その奢費は分内を腐食していく。ちょうど大根が傷口から腐っていくようなものだ。負債は日々に生じ、田畑は荒れ、租税は減少する。そうなったときは、生きのいいところも少し付けて切り落として、大根の腐れを止めるのと同じように、現在の税収5千俵を天分と心得て、その4分の3の3,750俵を国費にあて、残り1,250俵で負債を償い、荒地を開き、貧民を恵んでいくならば、税収がもとどおりになるのも難事ではない。しかし5千俵の収入で、依然として5千5百俵の支出をしていくならば、ついには滅亡するに相違ない。【9】国家の盛衰貧富は、分度を守るか分度を失うかによって生ずる。分度を守れば繁栄し、分度を失えば衰貧に陥る。国家が衰貧に陥ると、借財したり、人民からしぼりあげたりして補うのが通例となっている。これは種を蒔かずに収穫を得ようとするものでますます窮迫してしまう。そういうときは、分度を守って、貧民を恵み、荒地を開くべきである。貧民を恵み、荒地を開けば、田畑が整う。田畑が整えば税収が増す道理だ。ところがそれを回りくどいと思い、人民から租税をしぼりあげて収入を増やすのが手っ取り早いとする。これがどうして国君の道であろうか。【10】分を定め、度を立てるのは、わが道を行う基本である。分度が確立すれば、そこに分外の財が生ずる。たとい金額はわずかでも、年々分外に余財が生ずるならば、それによって国を興し、民を安んずることができる。反対に、もしも分度が確立しなければ、大きな国を領有してもなお国費が足らない。そこで人民から無理にしぼりとってこれを補い、ついに衰廃に陥ってしまう。どこに興国があろう。どこに安民があろう。戒めなければならない。☆「安居院義道」 鷲山恭平 現代文の試み中村譲庵とは棒屋といわれる豪商の中村藤吉の父であり、また安居院先生の門下であった。いつも「我が事を先に先にとすれば悪、人の事を先に先にとするは善になる。善とは何をなすべきか。今日では不毛の地を開き、道路を通じ、橋をかける等のことは善なり」と、教えた。そのためにその新田地を買い受けて大場治平と共同して経営した。ところが時々波浪のため堤防が荒らされ、そのたびに費用と手数がかかってやりきれない。中村藤吉はこれを放棄するように父に迫ったところ、父は大変怒って「私はソロバンをもってしない。報徳の教えによって開発する」と叱った。後に砂防には松葉をさして砂止めをする事に気付いて、これを実行してから、後に立派な田畑になっている。(中村藤吉伝)💛中村譲庵の「我が事を先に先にとすれば悪、人の事を先に先にとするは善になる。」「私はソロバンをもってしない。報徳の教えによって開発する」の言葉は心を打つ。「報徳」の精神 と「魔法の言葉」の言葉の使い方は、終生用いて誤りがない。
2023.05.25

知人の〇〇さんが、職場が変わられた。それまで自宅の近くだったのが、遠くになったと若干歎き気味だったのでおかしと飴玉(後藤散のど飴)を封筒に入れて、エールを書いて送った。先日、囲む会を開いた際に、〇〇さんから飴玉をいただいていたお返しでもある。後藤散のど飴にシアル酸と板藍値とある。どんな効果があるのだろう。シアル酸・シアル酸はムチンから得られる酸性の糖で細胞と細胞の情報伝達に関わります。人の細胞にも含まれ母乳や卵などにも存在し、ツバメの巣から摂られることで有名です。ウイルスや細菌などが細胞に感染することを防ぎ、免疫力を高める働きが期待されます。。シアル酸の健康効果◎免疫力を高める効果◎美肌効果◎育毛を促進する効果板藍値板藍根とは、生薬の一種であり、抗ウイルス作用があることから、主に中国で風邪やインフルエンザをはじめとする感染症の予防のために用いられています。そのほか、解毒作用や抗炎症作用があることで知られています。・板藍根(ばんらんこん)の健康効果◎感染症を予防する効果◎ウイルス性の肝炎を予防する効果
2023.05.24

ユネスコ「世界の記憶」に平安時代の僧・円珍文書群…登録決定5/24(水)国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)は24日、歴史的な文書類の保存を目的とする「世界の記憶」に、中国・唐へ渡って密教の教えを持ち帰った平安時代の僧・円珍に関する文書群「智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)関係文書(もんじょ)典籍―日本・中国の文化交流史―」を登録することを決めた。💛円仁の「入唐求法巡礼記」は著名であるが、円珍の記録は目にしたことがない。平安前期の天台宗の僧。讃岐(さぬき)の人。延暦寺の第5世座主(ざす)。寺門派の祖。義真に師事。入唐して多数の経疏(きょうしょ)を請来(しょうらい)し、天台密教(台密)を盛んにした。智証大師。著「法華集論記」など。
2023.05.24
鷲山恭平著「安居院義道」現代文の試み○一心八方の図蒔く種と生いたつさまは異なれど みのればもとの種となりぬる 蒔く種の直ぐにそのまま生いたちて 花と見る間に実法るかずかず 世の中の人は万物の霊にして、すなわち心は万の心なり。その心の置所によっては八方へ走る。片時も油断してはならない。いったん悪い道に行き、後になって後悔しても仕方がないことである。よく考慮して心の置場を定めたく、誰も善事は善いことと知っていても勤める者は少ない。そこを堪忍して何事に限らず、善いことは私が、と教えて怠らず勤めさえすれば成就しないという事はない。一、善は富貴・貧賤ともに天地のご恩徳を深くわきまえ、なおこの太平のみ代に生れて安心して暮らしていけることを心に強く感じ、分に応じて報い施すことを善という。よく譲り施すならば助かる者がないということはない。鳥や獣は奪うことを知って、譲ることを知らない。その譲りを受けて助かるときは、その恩義を感じて、ともに譲る志を起して他に譲り返せば、すなわち元へ恩を報うの理である。相互に譲り合えば五常の道にもかなう。これが善道である。一、正直は士農工商ともに天命にもとづき、我が業体はもちろん、利欲から離れ、えこひいきがなく、常々正路の取り計いを行うことが誠という道でもっとも正直の行いである。一、富貴は常に天を頂き、上へ忠勤を尽し父母に孝養を行い、我が業を励み、よく分内をわきまえ吝嗇(りんしょく)なく、真実の倹約を専一にして華美や悪い習慣に流れず、驕奢(きょうしゃ)を省き、身分を謹み、その余沢をもって窮民を恵む。これが富貴の道である。一、貧者は多くは身のほどを顧みず、日々勤労を怠っている。知らず知らずに怠惰に流れている。終に貧苦に陥って、世を恨み、富貴をうらやみ、大きな罪を作る。これが貧の常である。一、邪者はたとえば分限分内あるがまでにも、ただただ目先の利欲に迷い、あるいは口さき又は筆さき、ソロバンの玉などで、人の目をかすめて人の心をまどわし、多分の金銀を取り込み、朝暮利欲に走る。これが邪の常である。一、賎者はとにかく野鄙(やひ:言動が下品でいやしいこと)の心を起し、知らず知らずに吝嗇をいたし、あるいは人より恵みを受けてもその恩をも報じない、かえって人の非をあげて物ごとに惰弱で今日を空しく送る。これが賎しきの常である。一、悪者は常に殺生を好み、あるいは空言で人を偽り、人の仲を遠ざけ、または大酒にひたり、夜遊びを好み、遊女にふけり、その外遊芸などに金銀を費やし、果は我が身に差しつまり、あるいはゆすりかたり、または小盗をいたし、終に命を失うものもあるであろう。その外万事につけて人の難儀を厭わず、あるいは出入り公事訴訟を好み、少しの事も大行に成し、それぞれ家業を休んで、自然に田畑もおろそかになり、その上物入など多くかかり、終に二、三か年間に村中全体が困窮患難に陥ってしまい、実に今日の有り難いご恩も報いず、ただただ煩悩心にて、譲ることを損と心得て、取ることを徳と思い、商いしても高利を貪り、知らず知らずに強欲に流れて大罪を作る。人として人の道をわきまえないのは、これ大悪道である。
2023.05.24
「らんまん」不穏ラストも…竹雄“最高の激励”→万太郎の人物画にネット爆笑「微妙w」「画伯w」5/24(水)万太郎は植物学教室で孤立し、「わしは一人じゃ、佐川にいたときよりも孤独じゃ」落ち込む。竹雄はいきなり「綾さま、若が人並のことをいっちょりますよ」と叫ぶ。💛「ホテル」の 「姉さん、事件です」みたい(^^)「大事な人を裏切ることと、草花の道を極めること、天秤にかけて、こちらに来たがじゃないですか。若は峰屋を捨てたがじゃないですか!研究室のお人らは、さぞご苦労されて、大学の門をくぐられたがでしょう。けんど、わしは、捨ててきたもんの重さなら、若は引けを取らんと思うちょります。若は、覚悟を持って、ここへおるがでしょう!それやったら、相手がどうあろうと好きにしたらええ。どうせ若は、草花にも勝手に話し掛けゆうじゃないですか」万太郎は藤丸に白つめくさをうさぎにとプレゼント藤丸「まきのさん、ありがとう」野宮「もう打ち解けているんですか。教授の役に立つうちはここにいられます。」「この陰影は?」「西洋画の手法です。教授の好きな絵はコーネル大学のものですから。まきのさん、絵を笑ったお詫びに一つこの教室では絵を愛することより大事な事があります。さからってはいけませんよ。「あさイチ」朝ドラ受け鈴木奈穂子アナ「怖っ」華丸「怖いよね、最後」大吉「逆らってはいけません」鈴木アナは「教授に?助教授か?」大吉は「人間関係が大事ってことなのか?」
2023.05.24
西遠山間における模範的報徳社員 小島源三郎 谷上(たにかみ)報徳社 遠州浜松から三方ヶ原の古戦場を過ぎて、北に進むと約2里の山間に一部落がある。都田村という。村内の小字に横尾社、中野社、谷上社、滝沢東社、滝沢西社の5つの報徳社が設置されている。総社員が223人で、報徳社の造成額は12,700余円にのぼって、皆よく報徳主義を実行している。・・・富田林三郎社長の立志・経歴をここに紹介しよう。貧困に処して発奮した少年 富田林三郎は、鳥居大吉という人の3男である。天保14年9月10日に一農家に生れた。家は大変貧乏だったが、幼い頃から勉学を好んで、8歳の時になって、神門源内を師として学ぶこと5か年、13歳の時に村松という人について8年間大工職を習った。ある年のことである。新年の回礼に羽織が無かったので、その師にお願いして茶色の古羽織を借り、なんとか家を出たところ、たまたま一団で遊んでいた子ども達があった。そのなかに師の妹である少女がいた。たちまち林三郎少年の格好を認めて、大きな声で群集に告げた。「見て!見て!あれはお兄ちゃんの羽織を着ているんだよ」と。哀れな林三郎少年は、衆人がみな見守るうちにおいて、貧困のために笑殺された。先に羽織を借りた時の喜びは、一瞬のうちに貧困の悲しみと変じた。この時の悲しみ憤りは骨髄に徹した。しかし彼はそこでただ悲しみ怒るのではなく発奮したのである。思うに、世の中に貧しいことくらい悲しいものはない。早く一人前の男子となって、良い運を得て身をおこすことができるならば、どうにかして世の中の不幸な人たちを救いたいものだと。これから心を励まして、職業に精励し、一日も怠ることがなかった。しかも当時得る所の賃金は一日僅か8厘に過ぎなかった。その半分を師匠に預け、その半分を実家の用に提供したが、極貧の家の負債を償うに足らなかった。長兄が債権者の督促に苦しむのを見てこれを憂え、どうにかしてこれを助けたいと、昼は師匠の家の業務に従い、夜は家に帰って夜業にロクロ棒の製造を行い、時にはあけがたに及ぶこともあった。朝は早く起き出して師匠の家に行って、またこのようにする事が毎夜に及んだので、父母はこれを見て、身体を壊すのではないかとこれを止めることがあったという。成長して父母の高恩を物語るときは、必ず涙が数行流れ落ちたものである。このようにして幾多の歳月を経て、ようやく負債を償却し、満期の後師匠の家を辞し、別に一家を立てて両親を養うに至った。壮年時代とその職業 慶応3年、林三郎24歳の時、富田林左衛門の養子となった。富田の家ももとから貧しく、僅かに道ばたに小さな店を構えて居酒屋を営んでいるに過ぎなかったが、その先代が焼酎を製造していたことがあった。林三郎は思った。家業を興すには、祖先の業務に精励するより外はなかろうと。ここに、数年間、心血をそそいで修得した職業を捨て、きっぱりと酒類製造業に従事した。時に明治2年である。このようにして農事をかたわら励みながら、ついに一家を興し、相当の資産を有するにいたった。明治15年(遠譲社分離3年後)彼は報徳教師福山滝助の門に入って、非常に悟る所があった。ついに同志を集めて報徳社を組織し、農民・村落の改善を企画し、創立以来その社長となって、献身的に尽力して、今日の盛運をもたらすに至ったのである。(略) 明治22年頃、林三郎の養父が、彼に向って言った。「隣村の誰々はお前が知っているように、家計が裕かで家をも新築した。しかし彼はもともと家計が意のようにならないで、私は彼に金銭を貸与したが、彼は遂に家の資産を分散し、そのために私は少なくない損害をこうむった。しかし今や彼は昔の彼ではない。だから前に貸した債権を督促したほうがよい」と。林三郎は答えた。「お父さんの命に背くは不孝であるけれども、今、私の家が幸いにして富貴の天運に至ったというのも、これはもとから人を助けたことによって自然と陰徳の報いが来たのではないでしょうか。今、彼は富んでいるといっても、私がこれを督促すれば自分の徳を損じるようにも思われます。むしろ我が家を自ら省みたほうがよいのではないでしょうか。もし私たちの子孫にこのようなことがあったとしたならば、人が我が家を視ることは、なお私たちが彼を視るようではないでしょうか。」養父は言った。「お前のいうことはもっともだ。我が家も祖先の時に、家の資産を失うことがあったと聞いている。そうであるならば督促は見合わせて、我が家の古い記録を調べよう。」といって、古い帳面をすべて調査したところ、果たして発見することができた。林三郎は言った。「これは実に我が家の一大事です。すぐに償還いたしましょう」と。これから古い帳面を携えて、一には債主に、その理由を述べて、すべて借債を返済した。(債主は引佐・浜名両郡にわたって8名あったという)(略)下男に家を興し貯金を為さしむ林三郎はまたよく下男下女をも薫陶した。だから彼の家を辞して一身一家を確立した者が数多くある。うち最も成功したのは本田儀作である。儀作が17歳のとき、ある日下肥えを畑に施すために、肥え桶を肩にかついでほど遠くない耕作地に行こうとしたが、途中でどういうはずみであろうか、突然一方の紐が切断したため、全部の肥料を地上に散流した。しかしその多くはなお窪地にたまっていた。儀作はためらうことなく、すぐに柄杓で付近の耕作地に散布し、なお一方の大丈夫だった分も加えてすべてこれを散じた。たまたま付近の者がこれを目撃していて言った。「それは他人の耕地ではないか。どうしてお前は自分の肥料を他人の耕作地に散布するという愚かなことを行うのか。」儀作は答えて言った。「このような場合には一勺であっても耕作地の肥料としたほうがいい。どうして自他の区別をする余裕があろうか。もう一方の満足な分も散布したのは、肥料を施すに平均にしようと思っただけである。」と、平然として家に帰った。ある人がこの話を林三郎に告げた。林三郎はこの趣き・味いのある答えに感じて、ついに儀作を雇い入れた。儀作は大変忠実に仕えたので、林三郎は自分の子のようにこれを愛して、毎月1回の報徳の通常会には、日課金を与えて出席させ、教訓を怠らないで、このようにして4年を経て、儀作は家に帰って自分が得た報酬で、すべて父の借金を償却したという。💛報徳には本当に偉い人が多い。浄土真宗の「妙好人」の味わいがある。「肥え桶を肩にかついで耕作地に行こうとしたが、突然一方の紐が切れて肥料が地上に散流した。儀作は窪地の肥しをすぐに柄杓で付近の耕作地に散布し、大丈夫だった桶の分も加えてすべてこれを散じた。目撃した者が言った。「それは他人の耕地ではないか。どうしてお前は自分の肥料を他人の耕作地に散布するのか。」儀作は答えた。「このような場合には一勺であっても耕作地の肥料としたほうがいい。どうして自他の区別をする必要があろうか。もう一方の満足な分も散布したのは、肥料を施すに平均にしようと思っただけである。」と。一、善は富貴・貧賤ともに天地のご恩徳を深くわきまえ、なおこの太平のみ代に生れて安心して暮らしていけることを心に強く感じ、分に応じて報い施すことを善という。よく譲り施すならば助かる者がないということはない。鳥や獣は奪うことを知って、譲ることを知らない。その譲りを受けて助かるときは、その恩義を感じて、ともに譲る志を起して他に譲り返せば、すなわち元へ恩を報いるという理である。相互に譲り合えば五常の道にもかなう。これが善道である。一、正直は士農工商ともに天命にもとづき、我が業体はもちろん、利欲から離れ、えこひいきがなく、常々正路の取り計いを行うことが誠という道でもっとも正直の行いである。一、田畑を耕すのにその極意は、申すならば客を招いても酒好きな人には、第一に酒を吟味し、肴(さかな)もいろいろと心を尽くし、また酒嫌いな人には餅か茶菓子類あるいは麺類等に心を尽してもてなせば、どの客も誠に心に叶い、程よくご馳走に成り、真実に喜ぶであろう。もしその心を知らないで、そちこちのものでもてなす時は、客は大変迷惑に感じ、大変不機嫌となろう。田畑もこのようである。人々がこれを行わんと欲する時は強いも弱いもない。その田畑の心を知って時節を違えないで、蒔き付け、その作物、作物の好きな物をもって養うならば田畑の心に悦びを催し、昼夜を分たず生育する。だから外の作よりも思わず成長し、秋に成熟し、自然実りも多い。我れ、客となり、田畑となり、また五穀と成り、万の味わいをよくかみしめて振舞うべきことが古今の秘伝であろうか。なおまた工商もその心をもって、我が得意と成り、また客となって、今日の家業を勤行いたしたい事である。
2023.05.24
安居院義道の風景 その2 神谷與平治正信「朝日歴史人物事典」に「神谷與平治(文政9.10.10(1826.11.9)~明治38.10.17(1905))幕末明治期の報徳運動家,農事指導者。遠江国長上郡下石田村(浜松市)の生まれ。名は正信。與平治(7代)は世襲名。5代與平治の第5子、幼名力伝。誠翁と号した。安居院庄七から教えられた報徳思想と農業技術の普及に努め、自らも選種培養法・農用器具を開発し、『広益伝』を著した。明治20(1887)年、松島授三郎らが設立した三河・遠江地方の農事研究・普及機関である三遠農学社設立に加わった。」とある。弘化4年(1847)長上郡下石田村の神谷与平治森之(5代)により創立された下石田報徳社が、遠江国最初の報徳結社である。伊勢皇大神宮・氏神を尊び、親に孝行、主従の礼を守り、家族円満に家業を励み、「農間朝夕致丹精第一繩綯並沓草履草鞋等」を作り、その製品を積立て積立金となし、これを「連中評議の上入札致し、無利足年賦に貸付、元金皆済の上末一か年礼金相納」め、その他「村為に相成候事を談合」し合った。また與平治森之は安居院庄七の「報徳作大益細伝記」の方法を自ら実践した。その子與平治森時(6代)もよく父を助け勧誘につとめ、下石田報徳社の名が知られるようになった。続く与平治正信(森時の弟7代)もまた報徳の教義を説くとともに農学社の設立に尽力した(明治三十年「神谷氏報徳碑」)。下石田報徳社社員の作る繩は報徳繩、耕作法は報徳打、苗代田の改良は報徳播、田植を報徳植といわれた。なかでも範となったのは洪水で堆積した砂礫をならし繰込んで埋もれた耕土を掘りおこす繰返し耕法だった。森之の時代は天竜川の水害に続く天保の飢饉直後で、森時及び正信の頃も天竜川の出水が続き、特に万延元年(1860)5月には白鳥村外九か所で堤防が破れ豊田・長上・麁玉・敷知の四郡を横流して遂に浜名湖に注ぎ、中泉・浜松間は舟で渡ること百日に及んだ(『浜名郡誌』)という。その後荒蕪地を元の耕地とするには辛抱強くこの「繰返し」法によって耕地に復するほかなかった。下石田地方の農民は「繰起し」法によって、苦難を克服できた。正信は明治15年西遠農学社(後の三遠農学社)を松島授三郎とともに組織し、農事改良に力を尽した。「朝夕に星見てなせし家の業尽す誠を神祖知るらむ」は正信の感懐であり、当時16歳で父正信を助けて「繰返し」に従った長男喜源治は「わが子孫たるものはよくこれを銘記せよ」と書き遺している(神谷昌志『神谷与平治正信』)。
2023.05.24

報徳記 巻之二【6】物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむ(3) 奥州(あうしう)標葉(しめは)郡代官某(ぼう)なる者此の事を聞き、大いに嘲(あざけ)りて曰く、二宮の道大道に非ずして小道と云ふべし。惡人に大恩を與(あた)ふる時は、何を以てか勸善懲惡の道を行はんや。是一人に行ふべくして、萬人に行ふべからざる也。聖賢の道は萬人に行ふべきの大道(だいだう)なり。故に此(こ)の如き小術を用ひるは聖人の道を知らざるが故也と云ふ。或人之を聞きて高論也と云ひて大いに感ぜり。後某(ぼう)博奕者(ばくえきしゃ)に金五両を貸して其の行(おこなひ)を改めしめ美名を取れり。是陽に嘲り、陰に先生の行ひを真似たりと云ふ。 高慶曰く、固なる哉(かな)郡宰(ぐんさい)之言也(や)。夫れ、聖人の民に於る其の舊染(きうぜん)の汚(お)を去り、固有の善に復せしむる、此の如きのみ。然り而して其の汚を去り、善に復す、豈(あに)變通(へんつう)の略無(なか)らん哉。且つ夫れ人を導く者、之に先んずるに、教を以てし、從はざれば之に繼ぐに刑を以てす。然して刑なる者は聖人藉(か)りて以て消惡の具と爲して、刑無刑に期す。刑を用るの之、善者に非ずや。物井村農夫に至ては、先生其の姦猾未だ遽(にわか)に施すに教を以てす可からざるを知る。故に且之を懐るに恩を以てし、其をして感観して顧化する所有らしめ、一惡を化して三邑の民皆善に歸す。大道に非ずして何ぞや。郡宰淺學固より以て先生の知るに足らず。或者に至ては其言を以て善と爲す。亦論ずるに足らざる也と。「高慶曰く」以下は、原文は漢文である。富田高慶が、当時二宮尊徳先生の言動に対して行われていた誹謗中傷に対して自らの意見・感想・批評を行っている。この報徳記の最初の「例言」において「ある人は、先生の一生の事業と思想とを記述するには漢文で書くのが良いと言う。 また、ある人は、漢文は簡古なのが長所であり、最大の事業を書くには能文者でなければ詳細にできないところがあるから、通俗の文章で記述するのが良いという。 私はいま、後の説に従った。」とある。当時儒学者などのインテリは漢文で記述していた。こうした地の文は軽蔑するむきがあった。後に齋藤高行はおそらくはそうした批判があったことをふまえ、「二宮先生語録」を漢文で書いた。今となっては一般人が「語録」の原文を読むのは難しい。こうして富田高慶が通俗の文章で記述してくれているおかげで先生の口ぶりまでが想起されるというものである。しかも非常な名文であり、声に出して読み上げるとそのリズムが心地よく富田高慶の二宮尊徳先生に対する敬愛、崇敬の想いが伝わってくる。富田高慶は、字(あざな)は弘道、任斎と号し、通称を久助と呼んだ。斎藤嘉隆の二子で文化11年の生まれ、幼い時から能力が優れ、文武の道を修めた。はじめ若殿の近侍(きんじ:側近くに仕える)となった。天明の大飢饉からほどない頃で、藩財政は窮迫を窮めていた。これを見て17歳の高慶は、藩財政を救おうと志を立てて、江戸に上り、成島氏の塾に入ろうとしたが、火災のため果たさず、屋島弘賢の門に入り、ついで昌平黌(しょうへいこう:江戸幕府の学問所。1632年、林羅山が上野の忍岡に孔子廟を営んだのが起源。徳川綱吉が1690年神田湯島に移転。林家が大学頭(だいがくのかみ)となり、官学としての昌平黌(湯島聖堂)が成立した。)の儒官依田、古賀等の塾生となって勉学すること約十年。この間、学費を家に仰ぐことなく、筆耕をもってあてた。そのため、帯を解いて床に入ることなく、常に机によって仮睡した。こうして勉学が大いに進み、師の屋島弘賢の代講をするまでになった。しかし、一藩の衰廃を復興する方法に関しては、なんら得るところがなかった。ところがたまたま病気となり、医者磯野弘道の診察を受ける機会があった。磯野は、読書をやめ、治療に専念することをさとしたが、富田は自分が学問に志すのは、国(相馬藩)を富ますためであって、病気のため年来の志を廃することはできないと答えた。磯野の門弟に、野州芳賀郡から来ている奥野幸民という者がいた。彼が富田に「二宮金次郎という者が自分の近くの宇津家の領地で、荒地を復興して実績を挙げている」と告げた。これを聞いた富田は、これこそ求めていた師だと思い、書籍を売り払って金に替え、芳賀郡物井村に尊徳を訪ね、教えを請うた。天保10年6月1日、富田久助27歳の時であった。陣屋の日記には「天保10年6月朔日(サクジツ:1日)一 下高田より 太助 相馬儒者富田久助殿 伯耆国荒木勝悦殿は医者 四つ半つれ参候事」とある。尊徳先生の娘文子は当時16歳で、富田の妻となる。尊徳先生は儒学者には用はないと面会を許されなかった。そこで富田は小栗村の奥田の家に行き、近くの高田村の太助と、桜町陣屋に出入りしていた畳屋源吉の二人に頼んで先に入門を願い、医者の荒木と同道して尊徳先生の門をたたいた。ところが尊徳先生は「ひまが無い」と面会を許されなかった。6月3日、4日、9日、13日と訪問したが、面会を許されない。出入りの者に聞くと、ちょっとやそっとではだめだろうと言う。そこで彼はこれは自分の誠心が足らぬからだと考えた。昔、熊沢蕃山(くまざわばんざん:江戸前期の陽明学者。京都の人。中江藤樹に学び、岡山藩主池田光政に招かれ治績をあげた。著に「大学或問(わくもん)」、「集義和書」、「集義外書」がある。)は、中江藤樹に入門するとき、二昼夜、軒下に立って面会を待ったという。「半年、一年くらい何であろう」と、半里ほど離れた隣村の谷田貝村の農民の太助の家に仮住まいし、幾度も尊徳先生の陣屋を訪れた。そして生活のため、小栗村に寺子屋を開いた。先生は相変わらず面会を拒絶され、富田は、先生が門人にさとす教えを聞いて慰めていた。 季節は移り、秋となり、ある日尊徳先生は思い出したかのように「かの学者はまだおるのか」と聞いた。「あいかわらず入門を許されたいと待っております」と門人が答えると「会ってみよう」とここに初めて面会がかなったのである。時に天保十年(1839)9月27日実に4ヶ月弱である。「天保10年9月27日 天気今朝大霜厚氷一 相馬藩中儒者 富田久助 今七つ時 谷田貝より罷り越され候事」と日記には残る。喜んでまかりでた富田に尊徳先生は、「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。富田は言われている意味が分からず、紙に「豆」の字を書くと、尊徳先生は笑われて、「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と本当の豆を示されたという逸話が残る。 また、ある時、富田が「先生はこの法を行えば相馬藩は復興するとおおせられたが、わが藩の衰貧ぶりは並大抵のものではない、そう容易に復興できるでしょうか」と聞いた。尊徳先生は、「包装した樽は一見しては何であるかわからないが、錐(きり)をさして漏れる一滴を嘗めればわかる。あなたは相馬の一滴である。」そういって激励したのであった。☆「富田翁談話傍聴筆記」に富田自身が入門した頃の事を語った記録が残っている。「私は幼少の時から国家(相馬藩:福島県相馬市)の衰廃を憂いて、17歳の時、遙かに家を出て、江戸に来て、儒学者の下男となり、家からは一切援助を受けず、下男として働きながら、あるいは書を書き写すなどをした。湯島の聖堂に入って学問することすでに十年過ぎたが、国の衰廃を復興する方法がないのに苦悶していた。ある時、「野州(栃木県)桜町に二宮先生という人がいる。小田原の大久保侯の末葉である宇津家の領村4000石の復興に従事してすう成果を挙げている」と聞いた。私は大いに感嘆し、数千巻の書を投げ捨てて、すぐに野州に赴いて、先生に面会を求めた。先生はこうおっしゃった。「それ儒学に在る者は、たとえば漆をもって塗り固めたようなもので、それにいくら水をそそいでも何にもならない。どんなに言い聞かせても、一向に受け取ることがない者だ。そのような者に面会しても仕方がない。」と会ってくださらない。私はもとから先生が容易に一面会すら許してくださらないだろうと思っていた、それこそが自分が慕うゆえんだと言って、隣村のある者の家に宿をとった。そして時々面会に行った。しかしやはり面会を許してくださらない。すでに季節は春から秋へと移った。ある時先生が門下の者に問われた。「あの儒学者は帰ったか?」門人は答えた。「今も依然として動く様子がありません。」先生は「それほどの大丈夫であれば、面会を許そう。早く連れて参れ。」と門下の者におっしゃった。私はここに始めて志を達して先生の下で学ぶことができたのだ。」☆二宮尊徳先生が、江戸の宇津家の屋敷にいらっしゃった時、宇津家の家来の岩本という者が先生に問うたことがある。「儒者と普通の人とは大いに異なるもののと思っていましたが、先生の門下にある富田氏は、幼少の頃から、人と異なる志を抱き、艱難をなめ、刻苦勉励し、儒書を心に刻み付けること10数年、大変儒学に達していると聞きました。それに比べて私は無学、もとより同じく比較するわけにはいきませんが、今日先生の指揮によって仕法に従事しているところは、そんなに優劣があるようにも思われません。どういうところに差があるといえましょうか。」尊徳先生は笑って言った。「俊傑といい、平人といい、目前の事業をもって言うことはできません。一心の目的と志操の堅固かどうかを見るべきです。だから歳月をたつことの久しくならなければ知ることは難しいのですが、当初の目的は、知ることができます。これを知れば、また将来を察することができます。富田氏は、生れた国の衰廃を憂えて、回復の方法を求めて上下ともに安泰であるように願い、この地に来て私の仕法を研究するものです。これが彼の目的で、いつの日か、きっとその志を達し、6万石を再興することでしょう。あなたは私が再興した桜町4千石の地に留まって、再び衰廃に陥らないための守護の任務さえ、なお力が足りないとして辞任しようとしているではありませんか。彼は今から衰国を興そうとし、あなたは、興したものを保つことすらできない。どうして一緒に論じることができましょう。(「随筆随感」より)☆鷲山恭平著「安居院義道」現代文への試み ◎商売についての例は浜松の地が多い。当時この中心地の田町の巨商は各軒を通じてその教えを奉じている。これに続いては昔の国府である見付町の商業地であって、全町にわたって報徳社が結ばれている。全国において報徳は農業地に専属するように思われるのに、我が遠江の地においては商業地に普及されていることは見逃せない。これはひとえに安居院先生の商業知識を報徳に織り込んだ体験から発生した特色と見てよい。 商売においては、元値商いが話題となる。これは前にも述べたが、その基本となる考えは二宮先生の「売って悦び買って悦ぶようにようにすべし、売って悦び買って悦ばざるは道にあらず。買って悦び売って悦ばざるも道にあらず」から出ていて、お客を大切にする奉仕的な務めを説いたものである。これは後に薄利多売主義を連想させていると思う。当時は報徳風の吹き及んだ所には必ず一、二軒の報徳店があったものだ。その種類には宿屋、飯屋、雑貨商に多く、染物屋にも及んでいる。その一例としては小野江老の談話を紹介する。「当所に豊田屋源蔵といって燗酒(かんざけ:温かい酒)を売る者があった。平素、実直の人で、その頃報徳先生安居院と申す方が、初めてこの地にお越しの際に、ご理解を聴聞し、毎日話合後のお諭しに感服して、報徳商いを行った。これまでは元手が少なく酒一斗(約十八㍑)ばかりを前借りで求めては、生活していた。次第に店も繁昌し、本人の篤実を気の毒に思って、報徳社中である時、酒造家から一駄(酒では三斗五升入(約六十三㍑)二樽を一駄という)の酒を求め、販売を加勢したところ、仕入れ値が格安になり、百文で買って九十文で売る道理。かえって儲けは一割余りの利益があった。その後は酒造家から豊田屋あてに、直に一駄ずつ送ってくれるようになり、大変都合よくなった。またその頃、豊田屋に魚屋がかつおを売りにきて、二、三本買って置いていた。魚屋が申すに、今日は荷物も多いから、五本ほど置くので帰りまでに売りさばいてくれるよう頼んで帰り道に立ち寄った所、そのかつおが残らず売りさばかれていた。小店には余りに多分の事だからいかほどで売ったのかと尋ぬると、一本六百文のかつおを一節百五十文ずつに元値商い(原価のまま販売)したと話したので、魚屋も感心して、それでは手数料もない、気の毒だといって、一本につき百文ずつ値引きしてくれたので、元値売りで二割近い儲けがあった」と。(明治十二年十二月十一日浜松館常会講演)なお、この報徳店と称する家々には必ず次のごとき張り紙が店に張り下げてある。 口上一 この方、報徳に付き諸品改め安売 現金 懸値(かけね)なし一 私義、近年借財相かさみ候に付き 時かし、かけうり、預かりもの 一切お断り申し上げ候 以上 月 日以上のような商業地風で、小野江老は「商家の心得」と題する、心得を説いている。一 商業の秘訣は買人を看出す(見つける)にあらずして、むしろ売人を看出すにあり。何となればもし廉価に貨物を仕入れて薄利を得たらんには買人を招かずにて来たるべければなり。一 売先買先は父母のごとく心得べし。一 労苦なければ利益なし。一 正直に得た利益のみが真の利益なり。一 信用は黄金に優る宝なり。一 信用はその身その家の資本なり。一 商売は金銭を産み出す母なり。一 汝の業務によく注意せよ。一 約束するに先立って善を考えよ。一 黄金種なし、独り勤倹の人の家に産す。等々よくこの道が吹き込まれている。この所に天下の浜松商人としての心構えが偲ばれるわけがある。💛上記の元値売りや商売の心得は非常にためになる。また興味深い考え方である。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」イスラエルのおばあさんから二つの箱をもらった五日市さんは「こんなにお世話になりながら、贈り物までもらうわけにいきませんよ」と遠慮するとおばあさんは真剣な顔をして「それなら買ってください」と言う。いくらでもいいという。そこで現地のお金で大金を渡した。するとp.12 「そのとき、おばあさんが、どうしてこんなことを言ったのか未だにわからないのですが「やっぱりね」とポツリと言いました。人に感動を与え、お金自身も喜んでまた仲間を連れてくるような使い方をする。「売って喜び買って喜ぶ、お互いに喜び合うような商い、それが報徳商い」
2023.05.24
安居院義道の風景 その1 安居院をどう読むか安居院をどう読むかが、まず問題である。安居院の読み方について「あごいん」「あごい」「あぐい」「あんきょいん」とさまざまに読まれている。「報徳に生きた人々」八木繁樹著5頁では「あごいん」とし、10~13頁でその読み方について研究考察される。「その姓『安居院』はなんと読むのか。鷲山恭平翁著『報徳開拓者 安居院義道』では『アゴイン』とルビをしている。・・・遠州地方では通常『アゴイ』で通っており、なまって『あぐい』という人もあり、少年時代からこれを耳にしている私は疑うこともなく『アゴイ』が正しいと思っていた。」とある。ところが「正しい呼び方は何か」を聞かれたことから、静岡市内に住む庄七の玄孫といわれる安居院勝一氏を訪問して調査した。安居院姓の起りは奈良の高松塚付近で、藤原鎌足の勅願寺安居院(あごいん)で、安居院家の先祖はその執事となって、安居院の姓を賜った。後に神奈川県秦野市と中郡土沢村上吉沢(現平塚市)に定住した。勝一氏は父から「庄七翁はこの家の中興の祖であって、当時、大住郡曽屋村十日市場にあった同家に、同郡大山村の密正院藤原家から入婿し、磯屋と称する商家を継いだ」と教えられた。ところが勝一氏の調査によると、庄七翁の入婿先は秦野の安居院家であることが判明したという。勝一氏によれば、この姓の読み方は「正しくはアゴインです。しかし、それがなまってアグイという人も多く、私たちもアグイといいます。」大藤修著『二宮尊徳』287頁では、「安居院(あぐい(あごいん))庄七(しょうしち)」(義道(よしみち))とルビがふられている。秦野市本町地区に「安居院庄七翁頌徳碑」がある。この説明には「あぐい」とある。「本町小学校玄関の西側に、高さ3m程の碑がある。この碑は、安居院(あぐい)庄七の功績を讃え、1919に建てられたものである。庄七は1789年に蓑毛の神成(しんじょう)家の次男として生まれ、曽屋村十日市場の雑穀荒物屋をしていた安居院家の養子となった。1842年54歳の時に、下野国桜町陣屋に居た二宮尊徳を訪ねた。面会はできなかったが、仕法等を学んだ。その後、尊徳の教えを伝え広めるために大阪まで旅をし、59歳の時、浜松地方を中心に報徳社を創立した。1863年75歳の生涯を閉じた。墓は、浜松市の浄土宗・玄忠寺にあり、秦野市元町の妙相寺が安居院家の菩提寺である。
2023.05.23

松坂大輔氏 打者を惑わせたエンゼルス・大谷のスイーパーの「幻影」5/23(火) 大の武器のスイーパーを投げなくても、相手打者の脳裏からはその「幻影」が消えない。投げなくても必殺のボールが効いている。そんな大谷投手の投球だったと思います。 過去4試合続けて1試合3失点以上は自身メジャーワースト。多投していたスイーパーを本塁打されるシーンもあり、中地区首位のツインズを相手にしたこの日は割合を減らしていました。そのスイーパーを巡る攻防が6回。2番・コレア選手を先頭打者で打席に迎えたシーンでした。 3回2死一塁では2球続けたスイーパーを二塁打にされ、先制点を奪われました。6回、大谷投手は追い込んでからの4球目の決め球に外角へのスプリット。これがボールになりました。コレア選手は最後、スイーパーで決めにくると意識したでしょう。18.44メートルを挟んだ2人の読み合いで大谷投手が選択したのは直球。スイーパーの「幻影」が頭にあったコレア選手は、完全に差し込まれた空振り三振となりました。大谷ツインズ3回コレア選手に長打を打たれて一点先行される大谷ツインズ4回第一打者三振に切ってとる。3回一点とられたのを追いかける大谷ツインズ5回を一失点。4回一点返して追いついたので負けはない。大谷ツインズ6回圧巻の三者連続三三振 スイーパーの割合を減らしても打者の脳裏には強烈に残っている。そしてそれ以外の直球はもちろんカットボール、スプリット…と、どの球種もカウント球にも決め球にもなる。打者22人に99球。完璧な当たりは一度もなかったと思います。これまでと違う内容の投球で、相手には改めて「攻略しづらい投手」と印象づけたのではないでしょうか。 開幕の頃に比べると絶好調といえる状態ではないかもしれません。それでも過去4試合で、打たれながらも白星が2つ付いたことも大きかったと思います。大谷投手のスイーパーを徐々に打ち出したメジャーの打者の対応力も見事ですが、大谷投手も先を読んでいます。今後の「駆け引き」も楽しみです。
2023.05.23

報徳記 巻之二【6】物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむ(2) 是(こゝ)に於て先生の前に出でたり。怒氣益(ますます)盛にして曰く、某(それがし)の便所貴君の僕(ぼく)に破られたり。農夫便所なくして一日も農業のなるべきか、無道の者をして邑(いふ)民の便所を亂暴(らんぼう)せしめること何の謂れある。我に彼(か)のものを渡さるべし。十分に此の憤りを散ぜんと云ふ。先生從容として問ひて曰く、汝の便所を破れるは僕(ぼく)の不届なり、然れども彼何ぞ意有て之を破らんや。將(まさ)に倒れんとするの便所なるが故に過(あやま)りて倒せしならん。便所而己(のみ)此(こ)の如くなるには有まじ。本屋(ほんや)も定めて破損有べし、如何(いか)ん。某(ぼう)曰く、元來貧困なるを以て本屋(ほんや)も甚だ大破なれども之を修復するを得ず。斯(かく)の如き貧人便所を破られたれば、憤恨に堪へずと。先生曰く、我が僕(ぼく)、汝の便所を破れり、速に之を普請し與(あた)へん。其(そ)の序(ついで)を以て家屋をも新(あらた)に作り與(あた)ふべし如何(いかん)。某(ぼう)愕然(がくぜん)として驚き、怒氣忽ち消除し、拜伏(はいふく)して曰く、君(きみ)不肖の某(それがし)を憐み、新に家作(かさく)を給(たま)はらんと、何の幸(さいはひ)か之に過ぎん。先生曰く、汝家に帰り、大破の家を除き、地形(ちぎやう)の手配(てくばり)を爲すべし。我速に工(こう)に命じて家作を與へん。然らば僕(ぼく)に恨はなかるべし。某(ぼう)大いに慚愧(ざんき)して家に歸れり。是より先生自ら其の所に臨みて指揮し、大木良材を以て長(ながさ)八間(けん)横三間(げん)の新家(しんか)を作り、外に小屋便所何れも作爲(さくゐ)し、之を與(あた)へたり。某(ぼう)大いに悦び、前非を悔ゆること骨髄に徹し、其の恩を感ずること甚だ深し。一生の間、人々に此の事を語りて涕(なみだ)を流せり。自ら大酒を戒め、博奕(ばくえき)を止め、農業に力を盡し、數年の窮乏を免(まぬが)れ、富優(ふゆう)の良民と化せり。三邑(いふ)之を聞き、之を見て大いに感じ、先生の寛仁なることを唱(とな)え、汚風一變(ぺん)し、勸農の道行われたり。先生の其の人物に應(おう)じ恩澤(おんたく)を布(し)き、善に導くこと、往々此(こ)の如しと云ふ。尊徳先生は。その無頼の農夫を陣屋に呼び入れた。農夫は先生の僕(しもべ)に便所を壊され、6尺棒で打って懲らしめてやろうと大変な剣幕だった。「それがしの便所をあなた様の僕に破られた。 農夫が便所なくして農業が一日もできようか。 あの者を私に渡されたい。懲らしめてくれよう。」先生は静かにその農夫に問われた。「なんじの便所を壊したには、私の僕の不届きである。 しかしかの者がどうして故意に壊そうとしようか。 まさに倒れようとするような便所だから誤って倒してしまったのだ。 便所だけこのようではあるまい。さだめし本屋も破損しているのであろう。」「もともと貧乏で、本屋も大破しておりますが、修理することができません。 このような貧乏人の便所を壊したから、怒りに堪えられないのです。」すると先生はこうおっしゃった。「私の僕がなんじの便所を壊したのだから、すぐにこれを新しく作り直して与えよう。 そのついでに家屋も新たに作って与えようと思うが、どうか。」その者は大変驚いて、怒りはたちまちに消えて、頭を地べたにつけて言った。「あなた様はこんなそれがしを憐れんで、新しく家を作ってあげようといわれる。こんな幸せなことはありません。」「なんじは家に帰って、大破の家を除いて家を建てる準備をせよ。 私はすぐに大工に命じて家を作って与えよう。 そうであれば僕に怨みはあるまい。 僕が便所を壊したお陰でこの幸せを得たのだ。 そうであれば僕もまた恩人というべきだろう」と尊徳先生は笑われた。そして先生自らその農夫の家に赴き、大木良材で新しい家を作って、外には小屋と便所も作ってこれを農夫に与えた。農夫も前非を悔いること骨髄に徹して、先生の恩に感ずることが深かった。その後酒を戒め、バクチを止め、農業に力を尽くし、それまでの窮乏を逃れ、富裕の良民となった。尊徳先生のその人となりに応じて、人の心の田を開拓されることこのようであった。💛森町のM/Tさんからの依頼で昭和28年に鷲井恭平氏が著した「安居院義道」を現代文にして読んでわかるようにして、と依頼があった。やってみると系図のところなど ややこしい。「報徳の師父」シリーズ の続編 ともなろうか?鷲山恭平著報徳開拓者 安居院義道 大日本報徳社序 文 私の友人の話では、農業経営上の進んだ事例を研究するときには、必ず静岡県の農業が問題になるということである。つまりそういう学者の目から見れば、静岡県の農業は全国農業の最先端を進んで来たというわけになる。 「どうして静岡県の農業がこんな具合に発展して来たか」を考察することは、日本農業の発展の言動力は何かというより大きな課題の解決のためのカギを与える重要な問題である。 これについて従来は静岡県特有の報徳社運動との関連が考えられ、静岡県農業発展のかげに報徳運動ありと考えられていたと思う。しかしこれには二つの疑問が残されている。一つには静岡県の報徳運動がいかにして起こったか、また起こっただけでなく百年後の今日までなぜに存続されているのかという問題である。他の一つは静岡県農業の最重要部門である茶業の発展の問題である。茶業発展の基礎は何といっても牧の原大茶園の開墾であって、それの着手は遠州報徳運動と無関係に見えるのである。 本書の著者鷲山氏がこの問題を眼中に置かれたか否か私は知らない。しかし氏の五十余年の研究と雄大な人格から流れ出る自ずからなる科学的筆力はこの大問題に痛快な解答を与えられたと私は深く信じる。 それだけでなくて平々凡々と前半生を終えた一戸の人間が二宮尊徳という偉大な人格にふれ、この「大死一番の発心」がいかに偉大な業績をなし得るものであるか。またそれがいかに永続的な影響を後世に与えるものであるかを、読むものをして悟らしめなければやまないであろう。 しかし以上のような学問上の意味や、農業発展への功績等の世俗半世俗的な人間の仕事についての論述であるだけならば、八十を超えられた鷲山氏が文字通りの心血をそそいでこの著述に没頭されるはずがない。このことは本書を手にされるほどの読者ならば私以上にそれを感得されるに違いない。そして、安居院先生と共に一個の人間であることの「このましさを」また偶然と必然の錯行する人生の深みと、真の日本社会史の妙味をつくづくと味われるであろう。 昭和二十八年十二月二月八日 神 谷 慶 治安居院義道 目 次 題字 河合弥八 序 神谷慶治 はしがき 鷲山恭平一 家系と生い立ち ・・・・・・ 1二 安居院家をつぎ商人となる・・・・・・ 5三 野州に報徳を聞いて大転換・・・・ 12四 信心作兵衛を訪ね万人講へ・・・・ 12五 万人講から報徳の開拓へ六 遠州報徳連代表七人日光に大先生を尋ねる七 先生の指導型と石田村の仕法八 駿河遠州を家とし足跡点々九 その人柄と才芸、逸話の数々十 先生の臨終、葬儀とその遺物十一 没後の余韻十二 浅田勇次郎氏伝十三 先生の残された著作物等々 〇莫妄想 〇人間算当勘定 〇報徳作大益細伝記 〇算法地方大成金 〇万作徳用鏡💛アントニオ猪木さんと『ツキを呼ぶ魔法の言葉』元日本ライト級チャンピオン嶋田雄大(たけひろ)さんが「アントニオ猪木さんが私に『魔法の言葉』の話を始めたんですよ・・・」と話したという。猪木さんは、その時、「感謝する気持ちを持つと大きな力が発揮できる」ということを伝えたくて「魔法の言葉」の話をしたのだという。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」の小冊子は130万部以上売れているが、猪木さんはそれが冊子として発行される前から五日市さんの講演のコピーをもらっていて知っていて、面白くて何回も読んだのだという。猪木さんはすぐ実行した。するとこれがなかなか心地よい。心にも体にも全然悪くない。猪木さんは本当に親しいそして嘱望している人にだけ『魔法の言葉』の話をしたのである。
2023.05.23
26歳初陣の三笘薫は超絶アシストで9戦ぶり得点関与!ブライトン、最下位サウサンプトンに3―1快勝でELへ大きく前進三笘の完璧なラストパスをファーガソンが難なくフィニッシュ40分に自陣から左サイドを一気に駆け上がった三笘の完璧なラストパスをファーガソンが難なくフィニッシュし、リードを広げる。三笘はリーグ戦9試合ぶりの得点関与で、個人成績を7ゴール・5アシストに伸ばした。3-1でタイムアップ。ブライトンが快勝を収め、ヨーロッパリーグ出場に大きく近付く勝点3を手にした。
2023.05.22

報徳記 巻之二【6】物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむ(1)物井村農夫某(それ)なるもの、其の性無頼にして大酒を好み、博奕(ばくえき)に耽(ふけ)り、利欲に心を奪はれ、人と爭ひ、家業を怠り、貧困極れり。誠に諭すべからざるの惡人なり。一時(じ)先生陣屋に使ふ所の僕(ぼく)をして物井村百姓某(ぼう)の家に使はす。途中此者の厠(かはや)に往く。腐柱(ふちゅう)傾き、薦(こも)を垂て壁に代へ、竹を以て其(その)仆(たふれ)んとするを支ふ。僕(ぼく)卒忽(そつこつ)として此の竹に觸(ふ)れ、忽ち厠(かはや)傾覆せり。某(ぼう)なるもの之を見て大いに怒り、何ものなれば我が便所を破れるや、不埒(ふらち)のものなりと罵(ののし)る。僕(ぼく)謝して曰く、某(それがし)二宮君(くん)の僕(ぼく)にして此の邑(むら)に使(し)せり。子(し)の便所を借り、過ちて之を倒せり。許し給はれと云ふ。某(ぼう)彌々(いよいよ)怒り、汝二宮の僕(ぼく)なるか、然らば猶以て免(ゆる)し難(がた)し。人の便所を破却せるは乱暴狼藉と云ふべし、思ひ知らせんと六尺棒を擧(あ)げて之を打たんとす。僕(ぼく)驚き、走り陣屋に歸る。某(ぼう)跡を追ひ、逃さじと大音(だいおん)に呼(よば)はり陣屋に來り、我が便所を破却せし狼藉ものを出すべしと詈(ののし)る。衆人來會(らいくわい)して之を諭(さと)し、其の過(あやまち)を詫(わび)ると雖も彌々(いよいよ)憤り、彼是(かれこれ)の別なく棒を振ひ打って掛(かか)る。先生此の動搖を聞き、何の故と問ふ。或者答へて曰く云々(うんぬん)。先生曰く、其の者我れ面曾(めんくわい)せん、此處(ここ)へ連(つれ)來るべしと。物井(もののい)村の農夫で、性質が無頼で、大酒を好み、バクチにふけり、始終人と争い、家業を怠り、貧乏が極まった者がいた。ある時、尊徳先生が陣屋で使う使用人を物井村に使いに出した。この使用人が途中で物井村のこの者の便所に用足しに入った。柱は腐れて傾き、コモを垂れて壁に変え、竹をつっかえ棒としていた。使用人はうっかりしてこの竹に触れると、便所が傾いて壊れた。この者はこれを見て怒って「わしの便所を壊したのは誰だ?」と罵った。使用人は頭を下げて謝り、「それがしは二宮先生の使用人でこの村に使いに来た。 あなたの便所を借りて誤って倒してしまった。許してくだされよ。」「おまえは二宮の使用人か。それならなおさら許しがたい。 人の便所を壊すのは乱暴狼藉というべきだ。思いしらせてくれよう」と6尺棒を振りあげて打ってかかってきた。使用人は驚いて陣屋に逃げる。その者は跡を追う。「逃すもんか」と大声をあげて陣屋に来た。「わしの便所を壊した狼藉者を出せ!」と罵る。みんあが集まってきて諭したり、謝罪するがいよいよ怒りたけり、誰彼の区別なく棒を振るって打ってかかる。この騒ぎを聞いて、二宮先生が何の騒動だと聞かれた。これこれですと告げると、「その者に私が会おう。ここへ連れてまいれ」とおっしゃった。二宮翁夜話巻の2【10】 翁がある村を巡回していらっしゃととき、惰弱で掃除もしない者があった。「汚わいを極めることこのようであれば、おまえの家は永く貧乏神の住所となるであろう。貧乏を逃れようと望むならば、まず庭の草を取り、家屋を掃除せよ。不潔がこのようであれば、また厄病神も宿るであろう。よく心がけて、貧乏神や、厄病神がおられないように掃除せよ。家に汚物があれば、くそバエが集まるように、庭に草があれば蛇や虫が住むようになる。肉が腐れて蛆が生じ、水が腐れてボウフラが生ずる。そうすると、心身が穢れて罪咎が生じて病気となる。恐るべきことだ」と諭された。◎鷲山恭平著「安居院義道伝」現代文化の試み 義定一札の事一 この度たび、当村の者実意じついを申し合せ、農間朝夕、丹精たんせい致し、第一に縄綯なわない並びに沓くつ、草屢ぞうり、草鞋わらじ等に至るまで懈怠おこたり無く造り立て、その外何品によらず、出来た品を積み立て申すべき旨むね示談じだんの上、一同承服仕つかまつる処どころ、実正なり。然る上はこれまで義理ぎりと唱え、組くみ親類その外と取り遣やりの義ぎは申すに及ばず、惣すべて費ついえとなることは一切慎つつしみ申すべし。今後、連中れんちゅうの儀ぎは、何事に限らず一同相談の上、万端ばんたん取り計らうようにしたい。後日のため連印れんいん仕つかまつるところ、仍よって件くだんの如ごとし(前記記載の通りである)。一 ご公儀こうぎ様ご法度はっとの義ぎは堅く守ること一 天てん照しょう皇こう大神宮たいじんぐう様並びに氏神うじがみ様懈怠おこたり無く拝参の事一 常々つねづね親孝行おやこうこう仕つかまつり、主従礼儀正しく、家内睦まじく、親類中なか能よく、銘々家業の儀は大切に相励み、永久えいきゅう相続そうぞく仕つかまつるべき事一 右追々おいおい積立の窮民きゅうみん撫育ぶいく金の義は、御報ごほう筋すじ連中に相守り、その上困窮に相迫るものへは、連れん中ちゅう評議の上入札にゅうさつに致し、無利足むりそく年賦ねんぷに貸付け元金皆済かいさいの上一ヶか年礼金として相納め申すべき事、一 連れん中ちゅうの者途中にて相あい勤つとまり兼かねるもの之これ有あれ ば勝手次第かってしだいたるべし。尤もっとも右みぎ積立分つみたてぶんは報ほう金きんなの で相あい返かえり申さず。一 休日には一同申し合せ、早朝より罷まかり出で、昼前ひるまえまで村内道造みちづくりいたし、昼後ひるごには相休み申す事一 毎月定日を定め置き、連中れんちゅう家並いえなみ小口こぐちより順々じゅんじゅん参会さんかい致いたし、耕作こうさく仕方しかた並びに肥こやし拵こしらえ方かた、手入等は申すに及ばず、その外村むら為ために相成あいなる事を談合だんごう致いたし、万事ばんじ正直しょうじきを申し合すべき事右の条々じょうじょう堅く相あい守まもるべきものなり。 弘化こうか四未ひつじ三月吉日 社員一同連署(略之)💛私たちは、幼いころ、お箸の使い方や「あいうえお」などの言葉は教わるが、「顔の正しい洗い方」や「言葉の正しい使い方」については、きちんと教わったことがない。小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、まさにその「正しい言葉の使い方」を教えてくれる本である。この本を正しく読み込んで、永続して実践し続けている人は少ないようにも思われる。 鈴木藤三郎は「報徳は人類が遵守しなければならない要道であって、これがなければ人道は廃退してしまい、人民は安心安全に生存できない」と説いた。「鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全書を奉納した時の『願文』願がん 文もん 報ほう徳とく社しゃ徒と不ふ肖しょう藤とう三さぶ郎ろう誠せい恐きょう誠せい惶こう謹つつしんで二宮にのみや尊そん徳とく先生せんせいの神霊しんれいに白はくす。恭うやうやしく惟おもんみれば先せん生せい畢ひっ生せい唱しょう道どうし給たまへる報ほう徳とくの教きょう義ぎは洋ようの東とう西ざいを論ろんぜず人じん種しゅ宗しゅう教きょうの如いか何んを問とはず古こ往おう今こん来らい幾いく千せん万まん歳さいを経ふるも凡およそ世せ界かいに生せい存ぞんする人類じんるいに於おいて貴き賎せん貧ひん富ぷ男だん女じょ老ろう幼ようの別べつなく允まことに克よく遵じゅん守しゅせざる可べかからざる要道ようどうにして若もし之これ無なくば人じん道どう廃はい頽たいして民みん衆しゅう安あん息そくすること能あたはざるなり。」と述べている。同様に「ツキを呼ぶ魔法の言葉」に出てくる「言葉の使い方」は、「およそ世界に生存する人類が守らなければならない要道であって、生涯実践するべきもの」と信じる。小冊子p.19 たとえまだ起こっていない未来のことでも・・・本当にそうなてしまうのよ。「訳注 安居院義道伝」が完成しました。大成功でした!感謝します。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」
2023.05.22

駿州石田村回復方法の事(淡山論集第一編より摘載) 駿州有渡郡(うどごうり)石田村は戸数三十一戸、村高三百五十六石一斗四升あり。静岡宿を南にへだたること、およそ三十町、南海岸より僅かに十五町、土地は平らで広く水田が多く、当時久能山東照宮の神領に属して、政教が行き届かず村民はぜいたくで家業を怠り産業を治めず、このため次第に借財が増加し、田園の多くは他村へ質地となり、耕作物の収入もほとんど村民の所有ではなくなった。しかし村民は平気でこれを憂いとしない。おもうに神領の地で、借財が増加すれば政府が救助する恩典がある。訴訟の事があれば政府が常にこれをかばって、借財を返さなくてもよいことにすると。だから小作人は地主の年貢を滞納し、年々歳々怠納の負債は増殖する。地主は他村に住んでいて、これを責めるが、貧窮し窮迫し、人気もこのようであるのでどうにもできない。債権主はやむを得ずこれを当局に訴えるに至り、数々その厳責を受ける。村民の無残なありさまなのも、またこれを憂いとしないものはいない。 安政四年の初め、安居院先生が庵原郡鳥坂村にあって、報徳の法を行う。府中宿の片羽町に伏見忠七という人がいた。資産家であり、当石田村に田地を所有し、以前からその困難の状況を知る。また鳥坂村にも田地を所有し、報徳の法によって村民の農業が進んで、借財の返済の道が行われ、風俗は日に改良におもむくことを知って、良法であるとし、その番頭をして石田村の庄屋石垣治兵衛の家に行かせた。石垣氏が思うに、また借財の督促に来たのかと。心中大いに拒む色があり、それが顔色にあらわれる。番頭が言う、「心配しなくてもよい。今日私が来たのは、決して借財の督促のためではない。極めて良法がある。報徳という。その先生を安居院庄七という。今、現に鳥坂村にいらっしゃる。この法に従えば数年しないで村は回復するだろう。よろしくこの人についてその教えを問い、一村あげてこれに従いなさい。これは主人忠七が私を使いによこしてあなたに告げさせるゆえんである」と。石垣父子は共にこれを聞いて、大変喜んで、詳しくその経緯を尋問し、直ちに村内のおもだった者七名を集会し、この事を話したところ、皆大変にこれを喜んで、まだ村民に告げるいとまもなく、翌日直ちに鳥坂村におもむいた。伏見忠七の番頭がこれらの紹介を行い、安居院先生に請願した。 その時に先生は上座にあった。七人の者は、遠くに見て。彼は、どてらを着た老人ではないか、果してあの老人を先生とするべきか、私たちはだまされたのではないかと後悔した。しかし先生は、直ちに面会を許さない。面会を断るのに「仕法は容易に行うことはできない、彼らが悔悟していないからだ」と。同行の者は皆、眉をひそめ謝罪して帰る。なお再三おもむいて、ようやく面会を許された。先生は言った「あなたがたが報徳の道を慕って教えを求めるのは大変賞賛すべきことだ。しかしこの道は容易の事業ではない。まずあなたがたの日常の心掛けを聞こう。あなたがたが天道のために尽すところはどれくらいあるか」、七人の者は答えることができずに黙っていた。先生は言った。「あなたがたが答えることができないのを見れば、今まで天道のために仕える道を尽くしたことが無いものと見える。村が困窮するは当然の事である」と言って他に言われない。七人の者は、終に答えることができないで去った。翌日また往く。翁教えるのに天道をもってする。翌日また往く。翁教えるのに人道をもってする。日々このように教戒があった。遂に前後十八日を積んで、先生はいよいよ報徳の大意を述べた。七人の者は、一日一回ごとにその説の意義のあることに感じて、深く化する所があるに至った。 この時に当って石田村の村民は皆言う。諸君は報徳神に参詣して福を得る方法を伝えられると聞く。どうしてこれを私たちに告げないのかと。その帰るを待って、往って詰問する。これによって七人の者は詳しくそのありさまを告げて言った。「私たちは諸君に隠すところはない。先生の言はこのようであったと。実に感服するにたえない。この法に従うならば、必ず村の復興は疑いない。どうか村こぞって先生を招いて、その教えに従いたいと思うが、いかがであろうか」と。ここにおいて村民は大変喜び、皆、その言に従って先生を招く事を決した。七人の者はまた非常に喜び、時を移さずに鳥坂村におもむいて先生にげ、来臨してくれるように求めて止まない。先生はその事情を察して、この村に臨むことを承諾した。これにおいて時日を期してこれを迎えることを約束約して帰村した。 すなわち期日を待って、行ってこれを迎える。約束の日、時刻が約束より遅延した。先生は大変に誡めて言った。「あなたがたは、今日私を迎えるに約束の時刻をおくれたことはどういうわけか、私はこれを待って久しい。思うにあなたたちは、帰村の上、村民の評議が変易する所があって遅刻したのであろう。このような状況で、私を迎えても決して成功しがたい。これはきっと時機がまだ至らないからであろう。神が私を誡めること、このようである。私がもし往くならば、必ず神意にさからうであろう。私が行くことを欲しても往くことはできない」と。厳然としてこれを誡めた。迎える者は、大変色を失って謝罪し、辞を尽して、ようやく許していただいた。 ここにおいて七人は、先生に従って帰村し、石垣家に招いた。直ちに村民を集めて、日夜報徳の教えを聞いて仕法を求めた。先生はすなわち毎戸の家政を調査して借財償却の法案を立てるも、家の資本は貧窮、借財は累積して仕法を立てるべき所が無いようである。先生はそのために屈しないで諭して言った、「あなたは衣服・家屋を売り払って負債を償却すべきである。あなたは子女を人に託して、あなたは自ら人の下僕となるべきである。あなたの鍋・釜、膳・椀、鋤・鍬、これは皆債主の恩沢に依るものであるから、その不要のものはこれを売却して借財を返済する資本に供し、必要なものはこれを保存し、常に債主の大恩を思い、謹んで毀損してはならないと。 その法は、厳重で寛かに処置する所が無い。村民は大変に驚き、あるいは妻女が家に泣くものがある。あるいは子を背負って隣村に憐れみを求むるものがある。衣服を質にし家屋を売却しようとするものがある、一村の惨状は語ることができない。人気は再び挫折し、社中を脱しようと欲して村内の境内に会合するものが過半数、昼夜協議して、大変に不穏な状況となった。石垣氏は大変にこれを憂えて、同志と共に力を尽くし、利害得失を説明し、善法の善法たるゆえんを詳しく懇切に諭した。村民はまた心を改めて、挙げてその教えに従い、二心なくその法を遵守するに至った。これにおいて仕法帳を調成し、各債主のもとにいたって、等しく年賦償還の承諾を求めた。その法は別に奇術があるわけではない。農業の余力をもって日掛縄索(ひがけなわない)の業を勤め、日夜怠らないでこれを積立てて負債の返償にあてることに外ならない。また旧来の悪い風習である凧揚(たこあ)げ、雛祭り、その他諸祝儀飲酒の風、一切にこれを廃し、年賀の礼は役場において一同にこれを行い、各々積縄一房を持参することを例となし、また終年の間、毎朝社長が各戸を回り、その積縄を集め一手にこれを売却して負債償還の元資とするにある。その法は、一村の赤誠に成り、少しも違納の疑いなきを認むるを得たことをもって、債主は各々これを良しとし、いずれも速やかに承諾しないわけにいかず、そればかりか農業奨励のために土台金を寄付するものもあり、肥料を寄付することもあり、無利足金を加入するものもあり、借債の督促は急に止み、一村は皆その法のかたじけないことを歓喜し、人気は非常に進み、農業一途に奨励し、積縄の法もまた怠らない、女、子供に至るまで、子を背負って縄をなうにいたる。 これをもって十年で数千金の負債は残らず償却し、なお十年で数千円の社金を積立て得たので、次第に質地を受け戻し、または買戻しを行い、後には遂に他村からの入作地無くなるにいたる。安居院先生、当村に在ること三年、教えをのべること深切、石垣氏はよくその教えを遵奉し、法を行うこと、数十年一日のごとく、誠心堅固であったため社員は一致してよくその業を遂げ、復興し、富盛の実功を成就することを得た。 以来その報徳仕法は四方に伝播し、入社するものは、ほとんど三十余村に及ぶ。これを駿河西報徳社と称する。石垣氏が社長である。明治十三年、社中の諸村が力をあわせて報徳舎を石垣氏の邸中に新設した。毎年六回この舎において発会し、勧業の業は今まで一日も忘れることが無いという。(以上淡山論集一編、摘載、また報徳55号前記転載か)💛木谷文弘氏著「由布院の小さな奇跡」より新潮新書「由布院の小さな奇跡」の中に湯布院の中谷健太郎さんらがドイツの温泉町バーデン・バイラーを視察した時、ホテルの主人グラウテルさんから、あなた方は町をよくするため何をしているかと一人一人指差されて問い詰められ、真っ赤になって何も答えられず、それがきっかけで湯布院の街作りを決意する感動的な場面が載っている。グラウテルさんはこうも言った。「街作りには三人以上仲間がいる。世界中の同じ志をもった仲間と手を握ることが大事だ」と。「由布院の小さな奇跡」96-100ページより南ドイツの、ドイツ、フランス、スイスと三つの国が重なるあたりの黒い森の麓にあるバーデン・ヴァイラーという小さな温泉地を、三人が訪れた時のことだ。バーデン・ヴァイラーは人口約四千人と、由布院に似た小さな温泉地だった。小さなホテルのオーナーであったグラテヴォルさんの話に、三人は感動した。その感動が、いまの由布院をつくったと言っても過言ではない。中谷が熱い想いで綴っている。「私たち三人が、ドイツのバーデン・ヴァイラーという町で受けたあの衝撃を、なんとか由布院の町の人たちにも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきをはじめたのは事実だった。それは今でも続いている。あの日、グラウヴォルさんは私たちに熱く語ってくれた。『町にとって最も大切なものは、緑と、空間、そして静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか?君は?君は?君は?』 グラテヴォルさんは、私たち三人を、ひとりずつ指さして詰問するように言った。私たち三人は顔が真っ赤になってしまった」 このグラウヴォルさんの詰問が、三人を奮い立たせた。 七年後、志出、中谷、溝口の三人は、湯布院の町長を先頭に、約二十人の仲間とともにドイツを再び訪れた。病床の身ながらも、グラテヴォルさんは待っていてくれた。三人が多くの人たちを連れて再びやってきたことに、グラテヴォルさんは大変喜んでくれた。 その時のグラウヴォルさんの話を、中谷はこれまた感動的に書いている。「君たちは約束を守った。君たちは長い道を歩き始めた。世界中どこの町でも、何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの、決して多くはない人たちが同じ道を歩いている。ひとりでも多くの人が、よその町を見ることが大切だ。そして、その町をつくり、営んでいる『まじめな魂』に出会うことが必要だ」 グラテヴォルさんとの出会いについては、溝口も機会がある度によく話をする。「まちづくりは、ひとりでやっていては孤立する。 最低でも、三人は必要だ。 まちづくりは、大勢の仲間で進めることが大切だと、私たちはグラテヴォルさんから教わった」。
2023.05.21
インド首相、ロシアとの仲介に意欲 ゼレンスキー氏と会談 インドのモディ首相は20日、広島でウクライナのゼレンスキー大統領と約30分間会談した。「紛争の解決方法を見いだすため、あらゆることをする」と伝え、ウクライナ侵攻を続けるロシアとの仲介に意欲を示した。ゼレンスキー氏は、モディ氏のウクライナ訪問を招請した。インドのクワトラ外務次官が同日の記者会見で明らかにした。モディ氏側の返答については明らかにしていない。 クワトラ氏によると、会談はウクライナ側から持ちかけられた。モディ氏は、紛争解決のため外交と対話の努力をすると明確に伝えたという。また、ウクライナでの紛争が「グローバルサウス」と呼ばれる新興国・途上国に、経済や食料供給の面で悪影響を及ぼしていると懸念を伝えた。薬品の提供など人道支援を続けることも約束した。 インドは主要20カ国・地域(G20)の今年の議長国で、広島で開催中の主要7カ国首脳会議(G7サミット)に招待国として参加している。インドは武器の供給を受けるロシアと伝統的に関係が深く、ウクライナ侵攻後も、欧米の対露制裁からは距離を取っている。 モディ氏は20日にはG7に招待国を加えた拡大会合にも参加。小規模農家保護を含む食料システム、肥料の流通、健康増進のための人材確保など、途上国の課題解決に向けた対応策を呼びかけた。クワトラ氏は会見で、モディ氏がグローバルサウスの国々のために発信することを重視していると強調。具体的な例として、途上国など100カ国以上を集めたオンラインの国際会議を1月に開催したことを挙げた。
2023.05.21
考量「安居院義道」 その105 万人講から報徳の開拓へ弘化3年11月浅田は万人講募集のため東へと志し、三河国藤川宿に足を移し、これより遠江(とうとうみ)入りの方針だが好い手づるがない。これを宿の主人にはかったところ、同国長上郡下石田村〔浜松市〕神谷与平治氏は篤き敬神家で、毎年伊勢参宮を欠かしたことなく、その上下の都度常宿とせらるる機縁で推薦した。ソコで道を姫街道にとって本坂峠を越え気賀に出でて、三方原を横断して同家を訪れた。万人講の申込みは敬神家の頭にはすぐ受け取られて賛成を得た。それから余談に移って、同地方は近来水害や遺作の災厄を蒙って痛く疲弊を来したことを訴えられた。浅田氏はそれには良法があると切り出して、相模に二宮先生出でて、身代を取り直し貧乏人を富ましめ難村衰邑の興復を行いつつあると、その仕法の大要を説いて善種金の話に及んだという。神谷氏は深く耳を傾けてその道の行われんことを期待した。浅田氏去るに臨んで明年某月一人の兄来たってその道を伝えることを約した。そして翌弘化4年の早春に約の如く安居院翁は来訪し、滞留数日に及び、救貧の道、興復の法を講じ、また農事耕種の術を示した(*1)。村民一同感嘆してその説に服し、遂に同3月には下石田報徳社を創立した。これ我が地方報徳の第一歩で結社の先鞭を掲げたものである。(竹松老及び高山老の聞書き) *1 一説によると神谷与平次は安居院庄七と一緒に伊勢神宮での神楽執行のためおもむき、伊勢神宮で「報徳の教えを村でとり行ってよいか、みくじを引いたところ「大吉」が出たために決心するとともに、その後報徳の教え普及に尽力したという。「当村ご報の大本は、相州大住郡蓑毛村安居院庄七殿・浅田勇次郎殿信心の発願にて、普く万民のため伊勢太々講厚く御世話ござなされ、道中往辺共に休泊取り定め置き、諸国御取り広め遊ばされ候えども、惜しいかな、遠州においては知る人これ無く、弘め候儀成らざる段、三州藤川宿菱屋長右衛門方にてご内談遊ばされ候ところ、右長右衛門申し候には、遠州浜松在下石田村神谷与平次殿と申す信者これ有り。我ら定宿仰せ付けられ、知音の御方にござ候えば、御立ち寄りご相談遊ばされ候わば、貴君様のご志願成就いたし、遠州筋御取弘に相成るべくよし物語これ有り候故、則ち当村与平次殿方へ2先生御尋ね相成り、段々御志願の旨趣御物語これ有り、並びに相州足柄上郡栢山村二宮金治郎様御発起在りなされ候、報徳善種のご理解これ在り。段々聴聞仕り候ところ、いずれも人道の大本にて感服奉り随気少なからず候につき、ご両人の御伴仕り、伊勢太神宮御神楽御執行に罷り出、御神前にて御報の善非、当村にて取り行われ候か、御くじを願い候ところ、奇なるかな、善なるかな、大吉の御くじをうかがい、いよいよ決心憤発いたし、帰路共にご理解聴聞いたし、再度私宅へご同伴仕り、自ら懇ろの者相招きご理解相窺せられ候ところ、一同恐服奉り報心不動の者わずかに取り結び、善門随従の義定書差出し、?々(そそ)天道人道の正理大本に基き本業余行怠慢無く勤行いたし、驕奢弊風を省き余財を積立、報徳善種金と名付け、窮民撫育致すべき段、前約発願、弘化4年より安政3年まですでに10か年に及び、ますます人心感厚致し、いよいよ以て有難き次第、子々孫々に至るまで忘却これ有りべからず候。」*2 *2 「下石田村報徳連中議定下書」一 そもそもご報の儀は、相州足柄上郡栢山村二宮金次郎様、四海万民の苦失を歎き、数10年の間肺肝を砕き、御正業遊ばされござ候、光徳によりて諸家様より厚く御頼みに相成り、御仕法中恐れ多くもご公儀様ご用に相成り召し出され、日本第一の御場所日光ご神領荒地起返し方並びに御領私領とも見込み次第手広に取り計らうべく旨ご用仰せ付けられ、専ら御執行有られ、御道徳の余慶過ぎざるの有難さ、下々なる我々までその余滴を汲みて大先生実業の書籍等を得て、悟道大略を深察明弁し、実地正業遑(いとま)なく、数年積立置き候、報徳善種金を以て連中内貧窮の者へ無利足年賦に貸付、仕法相立ち候ところ、去る嘉永3年大洪水にて一同難渋し、種穀を失い渡世に漂い、余儀なく借財出来致し、これに順いて人気自然に変道仕り、貸付の年賦金等閑に相成り、一同の迷惑少なからず、これにより又々心意を砕き、当人行き立ち相成るよう厳法を組立、余荷(よな)い遣わし候ところ、ひときわ立って出精仕り候儀、全くご報のお蔭と一同有難く憤発仕り候、ついては二宮先生日々ご教戒なされ有り候善道、第一窮民撫育荒地そ田おこし返し米穀取倍は申すに及ばず、祝儀愁嘆諸義理取り遣わし、或いは衣食住すべてに至るまで、万端節倹を尽し守分を究め、奢倹を計りて度外の米金相譲り、潤沢利益の減法を立て、自他平等の行事等、或いは道橋の破損を繕い、人馬の通行を能くし候ようの儀は一々か条に顕さず、文言に含んで後鑑となし、ただ今般各位に依りて親子兄弟同様の因を盟約致し、左のか条に相触れ申さざるよう金石にひとしく後代に至るまで違乱有るべからざるもの也。一 二宮先生報徳の大意は、天地相合して万物生じ、男女相和して子孫生ずるがごとく、貧富相和して財宝を産出し、第一天道人道の弁別して、身を労して心意を労せず、能く分を守り、分外の米財を施譲し、無頼のものを教誡して人となし、或いは人糞・馬糞不浄を引き請け発田に引替え、借財を引き請け無借に引替え 相互に譲り合い御国恩を報ずる大道なれば、よくよく憤発して身を守る事肝要なり。依りてか条左の通り。(略)右の条々今般各位の寄する所によって、日月に誓い、親子兄弟同様の因を結び議定書取替し、銘々の所に預かり置き、子々孫々まで違乱これ有るべからざる候、以上安政3年(1856)9月 与平次(ほか10名連署)
2023.05.21
考量「安居院義道」 その9 それから嘉永4年に弟浅田が勢州に歿して片手を殺(そ)がれ、特に報徳の道は日に月に開拓されて忙わしく、従って万人講を顧みるの遑(いとま)がなくなったから、同年の冬これを遠州の報徳連中に談じて助勢を頼んだ。ここに社中の力に継続されて、次の組織が出来上った。 ◎三社灯籠万人講 三社灯籠 万人講永代太々御神楽金元立仕法帳伊勢春日八幡三社灯籠万人講、並びに永代太々御神楽の儀は、河内国杉沢作兵衛君発起、その趣意は、世人三社の御徳を崇敬、太々御神楽古来より連綿と行われ候えども、悲しいかな貧家の者、太々御神楽奉献と申す事は甚だ稀にして当世の形体(さま)貧民及ばざるが如し。依りて世界一統奉献相成り候よう講中を取り結び、半途にして杉沢君死に退き、相州安居院庄七、浅田勇次郎兄弟の君、杉沢氏の志を継ぎ、年々御神楽奉献専ら世話中、嘉永4亥年浅田君死に退き、安居院君一人と相成り、世話行届き難く、暫時休年、国中の講中へ相達し候得ども、そのまま廃せし事を深く嘆き、報徳連中へ相談の趣意一同感服、則ち報徳連中世話人と相成り、永代御神楽奉献の基本仕法、左に組み立て、いよいよ成就の上は、右講鑑札信心の人へと相譲り貧富に拘わらず御神楽奉献、大神宮に御恩徳を報い奉り善人多からしめんことを希(ねが)うのみ。 覚一金二百両 太々御神楽金元立金 八分利倍 金25両 神谷 與平治 同 岡田 佐平治 同 竹田 兵左衛門 同 小野江善六 同 山中 里輔 同 松嶋 弥左衛門 同 丸尾 文太夫 同 矢部 与左衛門 但し元立金出来の上は右の通り預かり申すべき事 初利金16両 〆金216両 (以下略) 右金満備の上6分5厘利足に世話人取り回し申すべき定、この金廻しの儀は新田開発の趣意取扱い然るべき事、なおこの外取扱い深く勘考致したき事。右利足年々 永代御神楽金 金24両永62文1歩一、右御神楽元立金預け証文世話人年番を以て1ヶ年宛預かり置き後番へ差し送り申すべき事、一、右証文3ヶ年目に切り替え申すべき事、一、御神楽金当番世話方二人にて持参致し御神楽奉献致すべき事、一、外宮御師白米庄太夫、内宮御師山本太夫番をおいて執行致さるべし。しかし小はた旅宿にて右御師へ応対致し参詣の多少によって御師相定め申すべき事、一、春日、八幡両社へ御神楽金の内より多少とも奉献致すべき事、一、永代御神楽奉献の儀、実に大善根に候得ども、後世に至り志し薄く不実意のものこれ有るの時は、この儀を大に誹り申すべき候者、神罰の儀甚だ恐れ入り候間、この儀よくよく子孫へ申し伝え置き、年々怠らず御神楽奉献致すべく候事、右は下石田村へ安居院先生並びに世話人参会、大神宮神前において評議取極(とりき)め、年々怠らず御神楽奉献致すべく候事、 文久2壬戌年6月28日 遠州長上郡下石田村 神谷 與平治 同 佐野郡倉真村 岡田 佐平治 同 引佐郡気賀町 竹田 兵左衛門 同 敷地郡浜松宿 小野江善六 同 周智郡森町 山中 里助 同 長上郡上石田村 松嶋 弥左衛門 同 城東郡池新田村 丸尾 文太夫 同 榛原郡平田村 矢部 与左衛門 太々元立金速名覚金30両 気賀宿 金20両 浜松宿金15両 下石田村 金15両 上石田村金 3両 一言村 金 2両 木原村金 2両 別所村 金 3両 高部村金 2両 小野田村 金10両 山梨村金 5両 市場村 金 5両 森町金 3両 宮が嶋村 金 6両 寺田村金 2両 中 村 金 1両 遊家村金 3両 領家村 金 5両 桑地村金 2両 不入斗村 金 2両 細田村金 5両 深見村 金 3両 飛鳥村金 2両 掛川19首町 金15両 倉真村金 1両 成滝村 金 2両 影森村金 2両 上湯日村 金 2両 桶田村金15両 平田村 金 5両 横須賀金 2両 門屋村 金10両 池新田村金 5両 佐倉村 金 5両 地頭形村金 3両 相良町〆金245両 文久2壬戌年6月28日 遠江国 世話人 〔文久2年は安居院庄七の亡くなる前年である。このように当時は遠州地方全体にわたって盛大に太々神楽奉納を順番制で交代し、明治初年に遠江国報徳社に移し、毎年3月23日代参人2名を派遣し太々神楽を奉納していたのである。現在は絶えている。
2023.05.21
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