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シベリア永久凍土で凍結、4万6000年前の線虫の蘇生に成功7/29(土) ドイツやロシアの研究チームはこのほど、約4万6000年前にシベリアで凍結した線虫を蘇生させることに成功したと明らかにした。この線虫はこれまで知られていなかった種。今回の研究に関わった独マックスプランク分子細胞生物学遺伝学研究所の名誉教授によれば、線虫は「クリプトビオシス」と呼ばれる休眠状態にあり、シベリアの永久凍土の地下40メートルで生き延びていたという。クリプトビオシス状態の生物は水や酸素が全くない環境に耐えることができ、高温や凍結、極端に塩分濃度が高い状態にも耐えられる。この間、生物は「死と生の間」にいるような状態で、代謝率は検出不可能な水準まで低下するという。名誉教授は「生命を停止させ、また最初から始めることができる。これは大きな発見だ」と指摘。以前にこの状態から復活させた生物が生存していた期間は数千年ではなく、数十年だったとも言い添えた。ロシア土壌科学物理化学生物問題研究所の研究チームは5年前、シベリアの永久凍土で2種類の線虫を発見した。研究チームの一人がこのうち2匹に研究所内で水を加えたところ、復活させることに成功した。その後、さらなる分析のため、ドイツの実験室に約100匹を持って行った。線虫を解凍した後、研究チームはサンプルに含まれる植物性物質の放射性炭素分析を行い、4万7769~4万5839年前から解凍されていなかったことを確認した。ただ、それでもこの線虫が既知の種かどうかは分からなかった。最終的にはドレスデンとケルンの研究者が行った遺伝子解析により、新種に属することが判明。研究者は新種を「パナグロライムス・コリマエニス」と命名した。研究者は今回の新種が休眠状態を生き抜くために、これまで科学研究で多用されてきた線虫のC.エレガンスと同じ「分子のツールキット」を利用していることも突き止めた。どちらの種もトレハロースと呼ばれる糖質を作っていて、これにより凍結や乾燥への耐性を得ている可能性がある。研究グループのリーダーは、同じ生物化学の経路が大昔の種でも使われていることがわかるのは非常に印象的だと発言。「進化の中でいくつかのプロセスは深く維持されていることを意味する」と述べた。また、こうした種を研究することは保全生物学に知見を与え、他の種の保護などにも役立つとも語った。💛古代蓮(大賀ハス)は、2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハスである。2000年以上前の種から発芽・開花だけでもすごいのに4万6000年前の線虫の蘇生とは想像を絶する。
2023.07.31
なでしこJの“強豪粉砕”16選手をブラジル人記者が採点!「完璧なプレー」の宮澤と並ぶ最高点は?「スペインを無力化した天才」8/1(火) ブラジルの大手メディア『globo』のチアゴ・ポンテンボ記者は、この一戦に出場した16選手と監督を採点。「ベスト・オブ・ザ・マッチ」には2ゴールの宮澤を選び、こう称賛した。「大会前は正確さを欠いていたが、今日の彼女は完璧なプレーを見せ、前半に2ゴール・1アシストで試合を決めた。合計4ゴールで、彼女は大会の得点ランキング1位にとなっている。ハーフタイムに交代して、(スペインは)助かった」 また、堅守速攻を徹底させ、大勝に導いた池田太監督も絶賛。「ディフェンスのポジショニングでスペインを無力化し、素早いプレーとカウンターで試合を決めた戦略の天才。キャストの回転も良く、数回交代しても高いレベルを維持した」と称えている。 同記者による採点は以下の通りだ。8.0点、宮澤ひなた、池田太監督7.5点、植木理子7.0点、高橋はな、遠藤純、田中美南6.5点、熊谷紗希、南萌華、長野風花、林穂之香、守屋都弥6.0点、山下杏也加、清水梨紗、猶本光、長谷川唯5.5点、藤野あおば採点なし、杉田妃和【女子W杯】なでしこ4発スペイン粉砕で首位通過!宮沢2発、植木、田中美!先発5人変更も強い7/31(月) <FIFA女子ワールドカップ(W杯)オーストラリア・ニュージーランド大会:日本代表なでしこジャパン4-0スペイン>◇31日◇1次リーグC組◇第3戦◇ニュージーランド・ウェリントン前半12分、センターバックの熊谷紗希主将が、高い位置を取っていた左ウイングバック遠藤純にロングフィード。受けた瞬間にためらわず、相手DF裏へ低くて速いクロスを入れると、快足を飛ばして走り込んだ宮沢が左足で先制ゴールを流し込んだ。 同28分にもカウンターから抜け出した宮沢が躍動する。左を並走していた植木にパス。植木はボックス内に進入すると、目の前に相手DFがいる状態だったが、思い切りの良い右足シュートを放った。これが相手に当たって、高いバウンドとなりゴールに吸い込まれた。 2点だけで終わらない。同40分、ショートカウンターからボールを受けた植木が、今度は右側を追い越していく宮沢へスルーパス。これを倒れながら右足で決め、宮沢が今大会の得点ランキング1位となる4点目を挙げた。宮沢のシュート後半から途中出場させたFW田中美が豪快弾。スローインを受けて右サイドを駆け上がり、中に切り込み、左足でゴール左上に突き刺して引導を渡した。この時点でシュート6本で4点という効率の良さも示した。スペイン全国紙『Marca』「序盤から日本陣内でパスを的確につなぎ、スペースを見つけては押し込んでいたラ・ロハ(赤/スペイン代表の愛称)だったが、日本は組織的な集中力の高い守備で立ちはだかった。12分にミヤザワにカウンターから決められて今大会初の失点。その後もポゼッションで圧倒しながらチャンスは掴めないでいると、29分、40分とまたしてもカウンターから得点を奪われた。なんて衝撃的な展開だ! 後半もスペインのアイデア不足の攻撃は変わらない。選手交代でリズムを変えても日本の守備を崩すには十分ではなく、むしろあわやという場面を何度か作られた。そして81分に致命的な4失点目。スペインは攻撃で積極性を欠き、守備でミスが散見され、その代償を0-4という結果で払わされる格好となったのだ。一方の日本は選手個々の役割が明確で、3試合を通してひとつも失点を許さなかった」スペインメディア『SPORT』「日本の秩序、間合い、優雅さが現実のものとなった。低いブロック、連係プレー、圧倒的なカウンターアタックでラ・ロハ(スペイン代表)を圧倒した」「日本は自分たちのプランに徹し、ラ・ロハはますます居心地の悪さを感じていた。日本が完璧に適用しているディフェンスシステムを曖昧にするために、あえて縦に仕掛けてくる選手もいなかった」「日本のマシンは並外れた効果を発揮していた。シュート3本で3ゴール。まるで決勝戦のような戦いぶりで素晴らしいグループステージの頂点に立ち、世界での威信を取り戻したかのようだった」「(スペイン代表は)何もなかった。どうしようもなかった」
2023.07.31

「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」よりある晩、わたしたちは外へ出て、路上から四人の人たちを救いました。一人は危篤状態でした。わたしはシスターに言いました。「あなたたちは、ほかの人をお世話してください。 わたしはこのいちばん容体の悪い人を見ます」 わたしのありったけの愛を、わたしは彼女にそそぎました。 彼女をベッドに寝かせると、その顔に美しいほほえみが輝いているのです。 彼女はわたしの手をとり、たった2つの言葉を、やっとのことで言いました。「Thank you」(ありがとう) そして彼女は目を閉じました。 貧民街のゴミの中から、虫に半分食べられかけていた男性をわたしたちは救ったことがあります。その男性はこう言ったのです。「わたしは道端で動物のように生きてきたが、愛と看護の手に囲まれて、天使のように死のうとしている」このように話すことができて、そのように死ぬことができる人間の偉大さに立ち会えたことは、とてもすばらしいことでした。だれものろわず、だれにも痛烈な非難を浴びせることなく、自分をだれとも比較することはなかったのです。彼はまさに天使のように死にました(die like an Angel)。☆自分を彼女や彼の身におきかえた時、天使のように死んでいけるか、また、介護する側に身をおいた場合、虫に半分食べかけられた人をその人の心に触れるような介護ができるだろうか。神渡さんの「思考が人生を創る」にマザーのもとでボランティアしたときの話が出てくる。「ある日、プレム・ダンという重度の障害者を抱えている病院で仕事をしていた時です。朝、最初各病室の掃除から始まるんです。みなさん簡易ベッドで寝ているのを、起こして簡易ベッドを片付け掃除が始まる。片付けると、あちこちウンコの山ができている。体力がないから、自分のベッドの脇で用を足す。そういうのが山のようになっている。それをバケツで洗い流し、デッキたわしで磨いてシーツを洗う。部屋がきれいになったら患者さんの沐浴の手伝いが始まる。風呂場でバケツにぬるま湯を入れ、頭からかけながら、一人一人の体を石鹸で洗う。そんな事をやっている時でした。お風呂場に路上から拾われてきた右足を骨折した乞食のおじいさんが担ぎ込まれて来た。かかとが骨折し、骨が突き出していた。蛆虫が湧いて腐っていて非常に臭いも激しかったんですね。彼のテイク・ケアをしようとしたら、泣いてわめいて傍に寄せ付けない。困っていたら、通りかかったボランティアの青年が「僕がやろう」と言って、その方をなだめ着ている物を脱がし、体を洗い、右足の消毒が始まった。消毒液を溜めたバケツに足を入れ、ピンセットで腐ってる肉をつまみ出して行く。蛆虫がいる。蛆虫を引っ張り出すと、もう泣きわめくんですね。そのおじさんを動かないように押さえ込んで、右足の治療をする。それが終ったら、当然、彼を担いで病室に僕は行くものだと思っていました。ところが、その青年は、彼を抱きしめたんです。するとそれまで泣いてわめいて人を寄せ付けなかった、その乞食のおじさん、ポロポロと涙をこぼしたんですね。インドのカースト社会というのはひどい社会で一番下の不可触民は、人間とみなされていません。彼は幼い頃からそういう扱いしか受けてこなかった。それを抱きしめる。その暖かさがその人のかたくなな筋肉を解きほぐしたんだと思うんですね。涙が出ました。そのシーンを見た時に私は「ああ、僕はこれを見る為にカルカッタに来たんだ」と思いました。マザー・テレサはいつもこうおっしゃっていたのです。「みなさん、わざわざカルカッタまで来て、ボランティアをして下さってありがとう。でも、気をつけて欲しい事があるんですよ。私達がやっている事はソシアルワーカーがやっている事と全然変りません、だから、ソシアルワーカーのようにやってしまったら、私たちがやっている意味はなんにも無いんです。その人が「私は生きていて良かった、これほど大切にして頂いてありがたいな」というふうに思って頂かなかったら意味がない。どうぞ、相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいね」
2023.07.31

磐梯山のふもとにある大塩裏磐梯温泉は、「グリーンタフ」と呼ばれる地層に閉じ込められた太古の海水が、高温の地下水に溶け出して源泉になったものです。長い年月で、その海水成分は変質を余儀なくされ、はからずも海水に比べ塩素イオンが少なく硫酸イオンが多い、特殊な泉質になりました。この温泉水を煮詰めて「山塩」を作るわけですが、当然海水をじかに結晶化する「海塩」とは、風味がまったく違うものになりました。山塩と海塩の主成分比較 会津山塩 海塩原材料 温泉水 海水(日本)製造方法 薪窯による煮詰め 濃縮して煮詰め塩化ナトリウム 77.76% 90.05%カルシウム 2.19% 0.29%マグネシウム 0.43% 0.29%カリウム 0.42% 0.08%製造工程
2023.07.31

3 広井勇のビションとハード・ワーク広井勇は、札幌農学校時代の恩師ウィリアム・ホイラーにあてた手紙に「当面の目標は橋梁関係の英文図書を出すことです」と書いた(「山に向かいて目を挙ぐ評伝広井勇の生涯」高崎哲郎著p.107)。ノーフォーク・エンド・ウェスタン鉄道で線路敷設や橋梁の設計施工に従事していた一八八六年二十五歳の時である。最初の著書『プレート・ガーダー・コンストラクション』がニューヨーク市ヴァン・ノストランド会社からサイエンス・シリーズ第九五巻として出版されたのは、二年後の一八八八年である。広井は、米国留学において二期生の先駆けをしたように、英文図書発行でも真っ先にアメリカで刊行した。広井は、「この小著を刊行する著者の目的は、アメリカの実例を参考に、このクラスのガーダーの合理的なモデルを提示することにある。そしていまだこの問題に関する参考文献が身近にないことから、橋梁設計の初心者の助けとなることを希望する」と書いた。この本は高く評価された。「広井勇君小伝」には「私〔宮部〕はハーバート大学で勉強中であったが、ある日同大学の教授チャプリン氏が一書を示し、これは貴国の人が書いたもので、他に比類なき良書である故、広く教科書または参考書として採用されるに至るであろうと云われたのが、実にその著書であった」とある(BBAp.143)。 広井は一八八三年六月七日付の宮部あての手紙で、「僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト教徒の最大の義務だ。神の教えを守るため努力あるのみ」と綴った(BBAp.114)。ホイラーあての手紙にも、「私の『働きながら懸命に学ぶ生活』は特段の病気にも資金不足にもならず順調に進んでいます。(略)私は、どんな厳しい仕事の後でも、先生のご指導通り土木工学などの専門図書や歴史・文学の本を読むよう努めています。そして毎朝朝五時には起床して三〇分間聖書を読み神に祈りを捧げています」と記した(評伝p.107)。広井は、東京帝国大学教授時代に優秀な学生に「アメリカに渡って、同国人の建国にかける意気込みを見て来い」「自費で渡航し自ら生活費を確保せよ」と勧めた(評伝p.121)が、それは自らの『働きながら懸命に学ぶ生活』にあった。青山士は恩師の助言どおり渡航し、パナマ運河建設に当った。広井は一八八七年札幌農学校助教授に任命され、兼ねてドイツ留学を命じられた。宮部は「君の生涯中の最も重大なターニング・ポイント」と言う(BBAp.143)。当時札幌農学校に農学科と併立し工学科が新設されることとなり、主任教授として創業の任に就いた。広井の「努力あるのみ」の生き方はドイツ留学中も変わらない。新渡戸は、一八八八年六月二六日付宮部あての手紙で「広井について僕は彼が健康を悪くしまいかと心配しています。彼はあまりに勉強し過ぎるように思います」と心配するほどだった。新渡戸は札幌農学校在学中、広井を「高尚な言葉や大言を好む」(BBAp.43)と観察し、「ズル」「ズルッコ」とあだ名した。米国留学中も一種蔑称を感じさせるこのあだ名を使っているが、ドイツ留学中の一八八七年十二月四日付の宮部あて手紙では、広井は隔週ごとに便りをくれる、彼は人生が煩悩や誘惑との戦いであると悟ったと言ったと書き、「彼は気高い奴です。また壮語を好むにかかわらず真底は誠実です」と評価する。この辺りを境に、新渡戸は手紙に、「ズル」「ズルッコ」というあだ名を手紙に使わなくなり、「広井」と表記する。たゆまない努力は気品となる。一八八八年四月一五日付の広井のカールスルーエから宮部あて手紙には、「博士号取得は考えないようにします」とある。自らの技術力に自信があるから肩書を必要としない。二〇〇二年ノーベル化学賞を博士号を持たないサラリーマン研究者田中耕一氏が受賞した。東北大学から名誉博士号が授与された時、「自分は職人的技術者としてドクターではなく今後もミスターとしてやっていきたい」と述べた。広井の技術者精神も脈々と受け継がれているようである。
2023.07.31
「やっかいなヤツ」藤浪晋太郎、2回4K無失点と躍動!「藤浪の無失点は大谷のホームランくらいに元気が出る」7/31(月)◆米大リーグ オリオールズ―ヤンキース(30日・ボルティモア=オリオール・パーク)オリオールズ・藤浪晋太郎投手(29)の躍動にファンは大喜びだ。 藤浪は30日(日本時間31日)、本拠のヤンキース戦、6点リードの6回から満員の観客席から「フジナミ」のコールを受け、3番手で登板。2イニングを1安打4Kの無失点に抑え、期待にしっかり応えてみせた。 回を跨いでの0封にネット上では「藤浪の無失点は大谷のホームランくらいに元気が出る」「もはや大谷より藤浪速報楽しみにしてる」「素晴らしい投球だ」好救援の藤浪晋太郎に現地実況も感嘆「フジナミは本当に良さそうだぞ」[ 2023年7月31日現地実況「素晴らしい投球だ」「フジナミは本当に良さそうだぞ」💛できの悪い子と言われ続けて、それでも信じ続けて、ついに期待を超える成長ぶりに歓喜する保護者みたいな(^^)
2023.07.31
第86話教授 「ミスター槙野 今後我が東京大学植物学教室への出入りを禁じる」田邊「なぜ指導を。うちの学生でもないのに」(標本の検定は)「自分が使うためにな」万太郎が来る前から教室には3000の標本があった。多額の国費を費やし、世界各地から書籍を集められたのも、自分が努力したからこそ。「すべて、この東京大学に、植物学研究の礎を築くため。君は、土足で入ってきた泥棒だよ。大学の物を勝手に使い、自分の本まで刊行したんだから。他に言いようがないだろう」万太郎「どういて、ど、どういて、そこまで。私は、私はその、植物学を裏切っては…」田邊「この過ちこそが、裏切りだろう。傲慢で不遜。てがらばかりを主張する。世界に向けて吠えたいんだろう。Here I am!Makino is right here!」万太郎「教授は、わ、わしのこと、憎んでおられるがですか」田邊「ハッハ。自惚れるな。憎む価値もない」万太郎「し、失礼はその、すべて、お詫びいたします。その、けんど、出入りを禁じられたら、研究を続けることができません。その、あの、ほんまに、ほんまに、も、申し訳ございません」田邊「もういい。終わったんだよ。君には何度も忠告してきた。聞かなかったのは君なんだ。私の人生で、君に関わる時間は、終わった。ああ、そうだ。Mr.Makino,忘れるなよ。君の土佐植物目録と標本500点を大学に寄贈しなさい。もともと四国の標本がなかったから、出入りを許しただけだろう。君は、この教室のものを使って本まで出したんだから。清算しなければ」波多野「徳永助教授がいれば。徳永助教授なら、きっと教授を止めてくださった」大窪「できることは、ともかくやるしかない。刷り直した雑誌を見れば、教授の気持ちも変わるかもしれない」牧野富太郎自伝では、「自分(教授)も日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」という理由だった。「らんまん」では論文に教授の功績について記述がないという理由にする。「図篇第六集が出版されたのが、明治二十三年であったが、この年私には、思いもよらぬ事が起った。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣告して言うには、「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上る迄は、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」と強く拒絶された。私は大学の職員でもなく、学生で〔も〕ないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然と先生宅を辞した。」これまでの徳永助教授の「教授に感謝しろよ」や植物学雑誌第1号で大久保講師が教授の功績にふれたことや野宮さんが「この教室では植物を愛することよりも大事なことがある。・・・逆らってはいけませんよ」との忠告が 全て 回収されて、視聴者に衝撃を与える。SNS「月曜の朝からメンタルやられる…」「田邊教授による万太郎の詰め方が正論の極み過ぎて目眩がする」「もういたたまれなくて見てられない」「胃がいたいくなる」「たった一度の過ちで…」そうではない、らんまんではこのシーンのために、何度も伏線が繰り返し貼られていたのだ。💛「教授は高等女学校校長就任に際して身辺をきれいにしたいのでは」なるほど美作教授に女学校出の若妻の事で嫌味を言われ、植物学教室の成果について嘲笑され、「次の植物学雑誌に出ます」と見栄を切ったものの、万太郎の論文に自分の名がなくブチ切れる。とともに、教授をやめることになった場合、自分が入室を許可した槙野を自分の手で出禁にしておこうと考えても不思議ではない。らんまんでは美作教授は山本浩司さんが演じている。実在の箕作佳吉の肖像画とそっくりに寄せてきている。美作教授のモデルは箕作佳吉で実在の東京大学の動物学の教授であった。後に東京帝国大学理科大学長を務めた。箕作 佳吉(みつくり かきち、1858年1月15日- 1909年9月16日)は明治時代の日本の動物学者。理学博士。津山藩医・箕作秋坪の三男。菊池大麓は兄、箕作元八は弟。江戸津山藩邸で生まれ、1870年(明治3年)慶應義塾に入学、1872年(明治5年)大学南校に学んだのち1873年(明治6年)に渡米。ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、のちイェール大学、ジョンズ・ホプキンズ大学に転じ動物学を学ぶ。その後英国・ケンブリッジ大学に留学。帰国後東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、1888年(明治21年)理学博士、その後東京帝国大学理科大学長を務めた。ほか、1883年(明治16年)5月から母校・慶應義塾にて後藤牧太、中村貞吉、印東玄得らと共に理学講習会を教授した。動物分類学、動物発生学を専攻。カキ養殖や真珠養殖に助言するなど水産事業にも貢献した。1907年(明治40年)頃より腎臓炎・脳溢血を患って静養していたが、次第に悪化して精神障害も発症した後、1909年(明治42年)に死去した。後に 美作(箕作佳吉)学長は出禁になった万太郎に同情気味で、ドイツから帰って来て教授となった徳永教授のもとで再び東京大学に出入りするのを許す。こうなってくると、嫌味たらたらで田邊教授に対抗する動物学教授が学長になって万太郎復帰を認めるという、なんともドロドロした大学内の権力闘争に巻き込まれた感じがしてくる。そして不思議なことに牧田万太郎自伝には兄の菊池大麓についての記述はあっても、箕作佳吉に関する記述はさほどなく、客観的叙述にとどまる。
2023.07.31
エ軍・守護神エステベス 魂の今季最長2イニング「勝ち切るためにはこういう登板も必要」7/31(月) ◇ア・リーグ エンゼルスーブルージェイズ(2023年7月30日 トロント) エンゼルスの大谷翔平投手(29)が30日(日本時間31日)、敵地・トロントでのブルージェイズ戦に「2番・DH」でスタメン出場。4試合連続安打を放ち、先制点の起点となった。2試合連続2敬遠と要所での勝負を避けられたが、得点力を欠いていた打線が延長戦で奮起。延長10回、ハンター・レンフロー外野手(31)が決勝の2ランを放ち、守護神のカルロス・エステベス投手(30)が9回から2イニングを投げ切った。PO圏内を直接争うブ軍相手の3連戦3連敗を阻止し、プレーオフ進出圏内までゲーム差4と踏みとどまった。 今季最長の2イニングを投げ切り、チームを勝利に導いたエステベスは「勝ち切るためにはこういう登板も必要だった。乗り越えられることができて良かった」と振り返った。1-1の9回から3番手として登板。この回を3者凡退で終えると、味方が2点を勝ち越した直後の10回は1点を失いながらも、確実にリードを保ったまま試合を終わらせた。 23セーブを記録している絶対的守護神が挙げた今季5勝目。「どの試合も大事だが、ワイルドカードを争うブルージェイズとの今回の3連戦はより大事だった」とさわやかに汗をぬぐった。【MLB】誰も勝負してくれない… 大谷翔平への異常な警戒度にV打の同僚「みんな同じ意見」 7/31(月) エンゼルスの大谷翔平投手は30日(日本時間31日)、敵地・ブルージェイズ戦に「2番・指名打者」で先発出場し、3回の左前打で4試合連続安打をマークした。4、9回の好機では申告敬遠で勝負を避けられ、3打数1安打2四球で打率.302。チームは延長10回に勝ち越し、ワイルドカード進出圏内から4ゲーム差となった。1点リードの4回2死二塁、同点の9回1死二塁と申告敬遠。一塁ベースが空いている状態で、勝負をさせてもらえなかった。2試合連続の1試合2敬遠。延長10回に決勝2ランを放ったレンフローは対戦相手に同情した。「ブルージェイズは必要なことをするだけだと思うよ。彼(大谷)はインクレディブル。彼と勝負するか、ミッキー(モニアック)に対して投げるか。試合に勝つために、やらなきゃいけないことをするだけだからね。(相手の気持ちは)勿論理解できる」 大谷は28日(同29日)の3連戦初戦の初回に先制の39号ソロ。ブルージェイズ三塁手のチャップマンが大谷と真っ向勝負を挑んだことについて怒りを見せていた。「マット(チャップマン)の発言は知っている。みんな同じ意見だと思う」。💛7月29日大谷が第一打席ホームランの後ブルージェイズのチャップマンがベンチ内で監督に抗議Why did we pitch to him?He's only fucking guy on the team that can hit.なぜ奴と勝負するんだ。あのチームで打てるのは奴だけだ「チャップマンの発言は知っている」レンフローは「あのチームで打てるのは奴だけだ」に一発で答えたのかも(^^)
2023.07.31
長崎大学 北教授『5-ALA臨床研究結果』発表「ウイルス量少なく明らかな効果は確認できなかった」2022年4月18日(月) 新型コロナウイルスの治療や予防薬の開発に向けて研究が進められている天然のアミノ酸「5ーALA」について、長崎大学は臨床研究を行ったものの被験者のウイルス量が少なかったため、明らかな効果が確認できなかったと発表しました。人の体内でも作られる天然のアミノ酸「5ーALA」については、これまで、試験管内では一定の濃度以上でウイルスの感染を抑制することを確認していました。今回、長崎大学 北 潔教授の研究チームが『軽症・中等症患者50人を対象に特定臨床研究』を行ったところ、5ーALAを"摂取した人"と"しなかった人"とでウイルス量に差は見られなかったということです。長崎大学 北 潔教授「今回(研究の)対象となった方が80%が軽症の方。5ーALAを飲んでも飲まなくても陰性になってしまう場合には差が出ません」「中等症、重症の患者さんに特化して、きっちりとダブルで(研究を)やれば(効果が)出てくる可能性はあると思っています」新型コロナの症状として挙げられる味覚・臭覚の異常や食欲に関しては5ーALAを摂取した人の方が改善が見られたということです。5-ALA(アミノレブリン酸)の連続摂取による、新型コロナ後遺症の改善傾向を確認28日間の連続摂取、疲労感及び不安やふさいだ気分に関する状態の改善を確認2022年3月29日新型コロナウイルス感染後の後遺症に関して、症状を有する患者を対象とした5-アミノレブリン酸リン酸塩(以下、「5-ALAリン酸塩」)とクエン酸第一鉄ナトリウム(以下、「SFC」)の安全性試験を実施しました。被験者は、5-ALAリン酸塩(300mg)+SFC(174mg)を1日量として28日間、連続摂取しました。摂取したグループにおいて、摂取前後での安全性及び、疲労感及び不安やふさいだ気分に関する状態について改善効果が確認されました。
2023.07.31
【フェンシング】日本史上初の団体金メダル!男子フルーレが韓国や中国を連破し世界選手権初優勝7/31(月) <フェンシング:世界選手権>◇30日◇最終日(第9日)◇イタリア・ミラノ◇団体 男子フルーレが、日本の団体史上初となる金メダルを獲得した。決勝で中国との接戦を45-35で制した。
2023.07.31
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なでしこ池田太監督、スペインメディアから質問を多数受ける…31日に女子W杯C組1位通過かけ対戦7/30(日)なでしこジャパンの池田太監督が、31日の女子W杯スペイン戦に向けた前日会見に臨み、スペインなど外国メディアから多数の質問を受けた。Q スペイン戦にどのように挑むか「スペインのボールの動かし方、しっかりとビルドアップしてくることに対して、我々はコンパクトなディフェンスを構築する。組織的にボールを奪うことも試みたいですし、ベースにある1対1の球際の部分でも、奪うチャンスを作っていきたい」Q スペインのどの選手に注目しているか「一人の名前を挙げるのは難しいもの。特に中盤の選手ミッドフィルダー構を成する選手たちは、クリエイティブに動き、ボールを配れる。そしてゴールも取れる選手が多いので、気をつけなければいけない」DF南萌華(ローマ)「アイタナ選手には特に注意しないといけない。バルセロナと試合をして、うまい選手だなと思いました。スペイン代表の中心選手としてプレーしている。同じ世代の選手としてリスペクトしていますし、いい試合ができればいいなと思っています」スペイン代表ビルダ監督が記者会見、なでしこ戦は「一番難しい試合になる」7/30(日)ビルダ監督「これまでの2試合と違い、一番難しい試合になる」「(日本は)完全なチームで、選手にも多様性がある。フィールドに出た時に何をすべきかわかっている。非常にインテリジェンスの高いチーム」FWゴンサレス「厳しい試合になる」なでしこジャパン、3バック洗練…攻撃力誇るスペイン戦にDF南萌華「最大の見せ場」2023/07/28シュートすら打たせなかったザンビア戦に続き、コスタリカ戦も危ないシーンを作らせることなく2戦連続の無失点。DF南「リスク管理を徹底してきたので、やられなかった」「ディフェンスの最大の見せ場。今までのいい流れをしっかりとぶつけたい」日本は昨年11月の国際親善試合で0―1でスペインに敗れた。DF南「私たちは(あの頃と)違うチーム」池田監督「今までチームが積み上げてきたプレーができている中で集中力をしっかり継続させていきたい。スペイン戦を決勝トーナメントに利用するという感覚ではなく、しっかり規律を持って戦う」(勝敗を分けるポイント)「チャンスを逃さないことと、決定機でペナルティーエリア内でのプレーの質の違いなどが分かれ目になると思う」池田太監督 どんな人?52歳の池田監督は、現役時代はディフェンダーで埼玉の強豪、武南高校から青山学院大を経てJリーグが開幕した1993年に浦和レッズに入団。3年後に現役を引退したあと指導者の道に進んだ。女子サッカーに関わるようになったのは6年前の2017年で19歳以下の女子の日本代表の監督に就任。翌年20歳以下のワールドカップでチームを初優勝に導く。大切にしてきたのが“雰囲気づくり”池田監督「まず、選手が何を考えているのか、何を感じているのかを聞く。そこから話が進んでいく」池田太 監督「みんなが同じ方向に向いていけるようになればいい。大好きなサッカーで世界で戦えている喜びもそうですし、日本代表を背負っているという誇りも持って戦って欲しいということは伝えている。選手それぞれみんながコミュニケーションとれる雰囲気づくりで、私だけでなくスタッフ含めて一体感を作れている」
2023.07.31

報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる且(かつ)思へらく我猶(なほ)斯(か)くの如し、況(いはん)や子(し)に於てをや。子(し)退られ、定めて國家(こくか)の道を失ひし事を憂ひ、君の仁心を遂玉(とげたま)ふことのあたはざるを歎き、臣下の忠義ならざるを憐み、下民(かみん)の困苦を免かれざるを哀れみ、上を怨みず、人を咎めず、興復の道中廢(ちゆうはい)せしは皆我が一身の誠心(まごゝろ)足らずして行ひ缺(かけ)たるが爲なり。仰ぎて君恩を報ずることなく、伏して困民を救ふことあたはず、誠忠足らずして退けられ、一家祖先への不孝亦(また)軽からず、假令(たとひ)退けらるゝといへども日夜過(あやまち)を補ひ、一身こそ退去すと雖も心は頃刻(けいこく)も烏山を離れず。君若し再び仁政を布かせ給ふ時至らば、不忠の罪を謝し、身命をナゲウち、精忠(せいちゆう)を盡し、發願(ほつぐわん)の志を遂げ、君の苦心を安んじ、其(そ)の仁心を擴(ひろ)め、國民(こくみん)の窮苦を除き、仁澤(じんたく)に浴せしめ、永く國家(こくか)の憂ひなからしめんと、起ては肺肝を碎(くだ)き、臥しては思慮を盡(つく)し、暫時も過を補ふの念慮を失はざるならんと思ひしに、豈(あに)計らんや今日漠然として人臣の大義を忘れ、區々(くゝ)たる親族の姑息(こそく)に惑ひ、盲弟を助力せよとの請(こひ)を聞かんと々は。子(し)斯(かく)の如き淺々(せんせん)たる心なればこそ、興復の道廢(はい)し、身も亦退けらるゝに至る。是烏山諸臣の罪にはあらず、皆自ら之を招きしにあらずや。此の時に當(あた)り、子(し)苟(いやしく)も忠義の心あらば、自ら責め、自ら悔い、一身の艱難深からざるを憂ひ、道路に立つも猶(なほ)罪を贖(あがな)に足らずとせんか、然らば妻子一族も共に子(し)と同じく困苦を甞(な)め、烏山一國(こく)上下(じやうげ)の貧困を救ふことあたはざるが故に、我等飢渇に及び道路に斃(たほ)るるも當然(たうぜん)なりとせば、身退けられたりといへども其の忠心の馨(かう)ばしき事誰か感ぜざらん。誰か此の志を憐まざらん。烏山道なしといへども子(し)を退けしを悔ゆるの時あらん歟(か)。然らば盲弟活計便りなしといへども、子(し)の志を聞かば、假令(たとひ)食せずして斃(たほ)るるとも何をか求め、何をか怨みん。斃(たほ)れながらも烏山再盛の道生じ、兄の忠義再び立たんことを祈らん。何の暇(いとま)ありて己の補助を流浪の兄に求めんや。假令(たとひ)愚蒙(ぐもう)にして求むるとも此の正理を以て厚く教へ、共に艱苦を蹈(ふ)ましむるこそ兄たるものゝ道にあらずや。然るに國家(こくか)を憂ひ、過ちを悔(くゆ)ることは一言(ごん)もなくして盲弟而巳(のみ)を助けんとし、其(そ)の費用を我に求むるは本末軽重を失ひ、姑息(こそく)に流れ、人臣の大義を忘れたるにあらずして何ぞや。一人の心は誠に僅々(きんきん)たるが如しといへども、其の至誠に至りては鬼神(きしん)之が爲(ため)に感じ、天地の大(だい)なるも之が爲に感動す。夫れ烏山の大飢(たいき)に當(あた)り、國民飢亡の憂ひ旦夕(たんせき)に迫れり。然して上下(しやうか)の窮厄(きゆうやく)既に極(きはま)り、倉廩(そうりん)空虚にして千慮百計之を救ふの道なし。子(し)斷然(だんぜん)として救荒(きうくわう)の志を發し、心に誠に之を求めしかば、我應(おう)じて以て數千人の飢者(きしや)を救ひ、續(つゞ)いて荒蕪(くわうぶ)を擧(あ)げ撫恤(ぶじゅつ)の道を施し、禍を轉(てん)じて國家の大幸(たいかう)を開きしは、全く子の誠心(まごゝろ)より發(おこ)りしにあらずや。然らば此の誠心(まごゝろ)を益(ますます)瑳(みが)き、我が言に差(たが)わず恩禄を辭(じ)し、我が贈りし米粟(べいぞく)を食(は)みて以て忠勤怠らざる時は、君の擧用(きよゝう)彌々(いよいよ)盛んに、功業(こうげふ)も亦日々に顯(あら)はる。奸人(かんじん)ありといへども何れの處(ところ)に言語を費すことを得ん。假令(たとひ)讒者(ざんしゃ)言を放つといへども誰(たれ)か之を信ぜんや。此(こ)れをこれ行はずして一旦辭(じ)せし禄を食(は)み、身の進退を優(ゆた)かにして事を爲(なさ)んとせし過ちより終(つひ)に國家の大幸を失ひ、上下(じやうか)の大患(たいくわん)を生ぜし事なれば、子(し)の退けらるゝもの亦(また)宜(むべ)ならずや。退けらるゝといへども未だその過を顧(かへり)みず、罪を國家(こくか)に託して悔ゆるの心なく、又憂ふるの誠なし。斯(か)くの如くにして歳月を送らば、烏山再盛の道彌々(いよいよ)絶せんこと疑ひなし。子(し)一旦誠を發(はつ)する時は興國(こうこく)の惠政行はれ、誠を廢(はい)する時は再盛の道も亦廢せり。烏山の安危(あんき)は子の誠不誠にありて他にあらざること之を以て見るべし。子(し)は國(くに)の臣下を咎むといへども彼何の罪かあらん。若し彼此の言を以て子(し)を詰(なじ)らば、子(し)何の言(げん)を以て辨(べん)ずるや。且(かつ)子聊(いささ)かも我が辛勞(しんらう)を察せば專(もつぱ)ら過を改め、烏山の再興を祈り、至誠を顯(あら)はし、再び道行はれ積勞(せきらう)空しからざる時至らば當方(たうほう)にも來るべし。左(さ)なき内は我が面(おもて)を見るも忍びざる心あるべし。何ぞ計らん、我が苦心、子(し)の忠孝も共に廢(はい)し、來りて盲弟を我に救へよと請はんとは、假令(たとひ)姑息(こそく)の愛を以て子(し)の弟(おとゝ)を救ひ與(あた)ふるとも、何を以て盲弟獨(ひと)り全き事を得ん。是(こ)れ我が痛歎する處(ところ)なりと。尊徳先生は菅谷にこう続けて言われた。「そして私はこう思っていた。私ですらそうである。ましてやあなははもっとであろう。あなたは、退けられてから、きっと国家(烏山藩)が道を失ったことを憂い、君の仁心が達成できないことを嘆いて、臣下が忠義でないことを憐れみ、人民が困苦を免れないことを哀れみ、上を怨まず、下を咎めず、復興の道が半ばで廃したのは、みんな私のまごころが足らず、行いが欠けていたためである。仰いでは君の恩に報いることがなく、伏しては困窮した民を救うことができず、誠と忠が足りずに退けられた、一家祖先への罪もまた軽くはない。たとえ退けられても日夜あやまちを補い、一身は烏山を退去したといっても心は少しの間も烏山を離れず、君がもし再び仁政をしかれるときには、忠でなかった罪を謝し、身命をなげうって、心からの忠を尽くし、願をおこした志をとげて、君の苦しい心を安んじ、その仁心をひろめ、国民の困窮苦しみを除いて、仁政に浴させ、ながく国家(烏山藩)を憂いがないようにしようと、起きては肺肝を砕き、臥しては思慮を尽くして、しばらくもあやまちを補う気持ちを失わないようにしているだろうと思っていた。なんということか、今日漠然として臣たるの大義を忘れ、どうでもよいような親族の姑息(こそく)に惑い、盲目の弟を援助してほしいという懇請を聞くとは。あなたがこのような実に浅い心であるからこそ、復興の道は廃し、身もまた退けられるに至ったのです。これは烏山諸臣の罪ではない。みんな自ら招いたことではないか。この時にあたって、あなたにいやしくも忠義の心があるならば、自ら責め、自ら後悔し、一身の艱難が深くないことを憂えて、道路に立ってもまだその罪をあがなうに足りないとするであろう、そうであれば妻子一族もともに同じく困苦をなめ、烏山藩一国の上下の貧困を救うことができなかったために、私たちは飢えて道路に倒れるのも当然であるとするならば、身は退けられてもその忠義の心の香ばしさを感じない者はいないだろう。この志を哀れまない者がいようか。烏山藩が道がないといっても、あなたを退けたことを後悔する時もあろう。そうであれば盲目の弟も生活の方法がないといっても、あなたの志を聞くならば、たとえ食しないでたおれたとしても、何を求め、何を怨むことがあろうか。たおれながらも烏山藩が再び盛大になる道が生じ、兄の忠義が再び立つことを祈るであろう。どうして自分の補助を流浪の兄に求めることがあろうか。たとえ愚かであってもとめたとしても、この正しい理をもって厚く教え、ともに艱難を踏ましめることが兄であるものの道ではないか。そうであるのに国家(烏山藩)を憂い、あやまちを後悔することは一言もなくて、盲目の弟だけを助けようとして、その費用を私に求めるのは、本末軽重を失って、姑息にながれ、臣たるものの大義を忘れているといわないで何というか。一人の心は誠に僅かなもののようであるが、その至誠に至っては鬼神もこれに感じ、天地の大なるものもこれに感動する。烏山の大飢饉に当って国民が飢え死にする憂いがすぐそこに迫った。そこで上下の困窮災厄すでに極まって、倉庫は空っぽでさまざまに配慮し計画したがこれを救う道はなかった。あなたは断然として救済の志を発して心に誠に求めたからこそ、私が応じて数千人にも及ぶ飢餓に苦しむものを救って、続いて荒地を開拓し、民を恵み、禍を転じて国家(烏山藩)の大きな幸せを開いたにのはすべてあなたのまごころからおこったことである。そうであればそのまごころをますます磨き、私の言葉にたがわないで恩禄を辞退し、私が贈った穀物を食べて忠勤を怠らないときは、君が用いられることいよいよ盛んに、その功績もまた日々に顕れたことであろう。たとえ邪(よこし)まな者があっても、どこに非難の言葉をあげえよう。たとえ讒言(ざんげん)するものがあっても、誰がこれを信じよう。これを行わないでいったん辞退した禄を食べ、身の進退にあたって自分を豊かにして事業を行おうとしたあやまちから最後には国家(烏山藩)の大きな幸福を失い、上下の大きな災いを生じたことであるから、あなたが退けられたこともまたもっともではないか。退けられて未だにそのあやまちをかえりみないで、罪を国家に託して後悔する心がなく、また憂える誠もない。このようにして歳月を送るならば烏山が再び盛んになる道はいよいよ絶えてしまうことは疑いない。あなたがいったん誠を発するときは、国が興る政治が行われ、誠を廃するときは再び盛大にする道も廃せられる。烏山が安らかか危ういかはあなたが誠か誠でないかにあって、他にないことはこのとおりである。あなたは、烏山藩の臣下を咎めるが、彼に何の罪があろう。もし彼がこのように言ってあなたをなじるならば、あなたはどのような言葉で弁護するのか。さらにあなたが少しでも私の辛労を察するならば、専らあやまちを改めて烏山藩の再興を祈って、至誠を顕わし、再び道が行われ、積労が空しくならなかった時は当方にも来るがよい。そうでないあいだは、私の顔も見るにしのびない心があるであろう。どうして私の苦心やあなたの忠孝もともに廃していながら、来たって盲目の弟を私に救ってくださいと懇請しようとは。たとえ姑息の愛情で弟を救って金を与えても、どうして盲目の弟ひとりが全うすることができよう。これが私が大変嘆くところである」と。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.30

2 広井勇の海外留学の決意 「海外に出て欧米の土木工学の研究をやりたい」 広井勇の手紙はほとんど残っていない。「工学博士広井勇伝」には「博士が同窓の親友たる内村鑑三氏との信仰上の問題に関する往復の書信などは全部焼き捨てた」(p.186)とある。内村の昭和三年十一月二十一日の日記に、広井の未亡人が来て、「先生の御手紙はハガキ一枚も残さず大切に保存してあります」とある。内村が広井にあてた手紙は『聖書之研究』七二・七三号に邦訳で掲載されたが、原文(英文)は公表されていない。故人の意志を尊重し、世に出ていない広井勇の手紙が存在するのかもしれない。 「工学博士広井勇伝」で、米欧留学を年譜及び記述で追うと概略次のようになる。一八八三年(明治十六 二十二歳)一月十二日 任工部六等技手月俸金三十円 工部省三月十三日 鉄道局出勤申付候事 工部省三月十四日 東京高崎間建築従事申付候事 鉄道局十月三日 依願免本官十二月十日 横浜からCity of Rio deJaneiro号に便乗し渡米する。一八八四年(明治十七 二十三歳)一月二十日アメリカ合衆国ミシシッピ河改良工事雇員となる。九月十日 シー・シエラースミス工事事務所技手(月給60ドル)となり橋梁の設計に従事する。一八八六年(明治十九 二十五歳)一月二日 ノーフォーク市Nofork and Western 鉄道会社技手となり鉄道工事に従事する。 九月三日 Edge moor 橋梁会社技手となり、鉄橋の設計、製作に従事する。一八八七年(明治二十 二十六歳)四月一日 任札幌農学校助教ドイツ国留学を命ず 北海道庁(以下略) 明治十六年三月、広井は鉄道局出勤を申付けられ、日本鉄道会社の東京高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の建設を担当する事になった。昼は現場に出て、夜は勉学を続けた。広井は金銭を浪費する会合には出席しなかった。服装は粗末で屈託する色は無かった。収入の大半は貯蓄に努めた。友人は広井を守銭奴と呼び、彼を排斥したり、交遊を好まなかった。しかし広井は少しも意に介しなかった。「飛ばんとするものは、まず屈しねばならぬ」広井の抱いた志を察した者は無かった。札幌農学校で広井が渇仰したのはクラークの人格であり、親しく教えを受けたのはホイラー教授だった。社会に出てはアメリカに留学した松本・平井に接し、また技師クロフォード氏の優秀な技量を見て海外留学を志した。広井はその志を秘密にし、人に語らなかった。薄給を節制し渡航費用を貯え、渡航できるだけの金額に達した。広井は一日も早く渡米し、土木技術を究めたいと思い、先輩松本荘一郎を訪問し、その心情を打ち明けた。松本は「アメリカへ渡っても苦しいぞ」と容易に賛成しなかった。広井はいかに苦しくても修行を続けたいと説明した。ついに松本も賛成し、その斡旋でアメリカ政府のミシシッピー河改修工事雇員に雇われる内約を得た。広井は叔父である侍従片岡利和を訪問し、渡米の決意と松本の賛助を得たことを語り、渡米して工学技術を極め、将来日本の工学界に一身を捧げたいと抱負を打ち明けた。広井は渡米の準備はできていること、土佐に残した祖母や母には、渡米後も必ずその生活費を送ることなど誠意をこめて話した。片岡は賛成し奨励した。当時片岡とともに侍従であった藤波言忠は、広井のために渡航免状下付願の保証人の一人となった。当時、渡米は水盃をするほどの大旅行だった。広井は親戚や故郷の祖母や母の了解を得て、故国を出発できた。明治十六年(一八八三)十二月二日広井は横浜からアメリカへと旅立った。広井を守銭奴と呼んだ友人達は、ここに始めて彼の大志を知り、驚嘆した。広井の洋行は同窓中最初だった。
2023.07.30

緑の街に舞い降りて 松任谷由実本人緑の町に舞い降りて松任谷由実輝く五月の草原をさざ波はるかに渡ってゆく飛行機の影と雲の影山すそかけおりる着陸ま近のイヤホーンがお天気知らせるささやきMORIOKAというその響きがロシア語みたいだったユーミン招き、イメージソングのレリーフを除幕 いわて花巻空港2009.4.20 18:20「緑の町に舞い降りて」が空港のテーマソングに決まり、レリーフの除幕式で挨拶する歌手の松任谷由実さん=岩手県花巻市の「いわて花巻空港」出発ロビー 今月9日にリニューアルした岩手県花巻市の「いわて花巻空港」が、イメージソングに松任谷由実さんの「緑の町に舞い降りて」を採用。松任谷さんも参加して20日、出発ロビーで自筆の歌詞が彫られたレリーフの除幕式が行われ、抽選で選ばれた70人など大勢のファンでにぎわった。 この曲は昭和50年、空路で岩手を訪れた松任谷さんが、空港近くの景色をモチーフに作った。盛岡のコンサートでは必ず歌われる“定番”だ。 松任谷さんは「(花巻出身の)宮沢賢治が好きで、私も賢治が見た光を5月の花巻に見つけたと思う」と懐かしそうにあいさつ。県立花巻南高合唱部の「緑の町に…」の歌声に拍手を送った。ファンらも「こんな間近にユーミンを見られるなんて」と大感激していた。松任谷由実「日本語じゃないと表現できないこともある」 独自の言葉のセンスの磨き方 | ananニュース – マガジンハウス (ananweb.jp)「やさしさにつつまれたなら」小さい頃は神さまがいて不思議に夢をかなえてくれたやさしい気持で目覚めた朝はおとなになっても 奇蹟はおこるよカーテンを開いて 静かな木洩れ陽のやさしさに包まれたなら きっと目にうつる全てのことは メッセージこの曲は当時、不二家の「ソフトエクレア」のCMソングとして制作を依頼されていたものでした。「クリームをソフトに包んだキャンディ 不二家ソフトエクレア」日常で何かほかの事をしているところに 脳の固まっていたところが急にほぐれるのかふと言葉が浮かんでくるときってあるんです。私は洋楽のなかで育ってきて、リズムのない日本語とずっと格闘しているんです。リズムにのっかるような工夫をしてきているんです。俳句のように余白が生み出せるところもも日本語なんですね。日本語じゃないと表現できないところもあって本当に日本語って素晴らしいなと思います。
2023.07.30

「富田翁談話傍聴筆記」(富田高慶報徳秘録319ページ)富田高慶が相馬藩から一人扶持の命令をやむをえず受けて、そのことをこっぴどく尊徳先生から叱られたエピソードを語った記録が載っている。これは、「二宮金次郎の人生と思想」326ページで二宮康弘氏が言及されている。家老草野は間に立って、二宮先生にわびてなんとか許してもらったのであった。後に相馬藩で仕法を開始するときも、同じように役職と二人扶持の命令があり、池田家老の助言でいったん有難く拝受した後、辞退するという次第に至るのである。原文をよみやすくするため若干直して、その一部を載せる。【11】ある年、先生(富田高慶)青根温泉に入浴せらる。我が父(大槻)博吉是が随従たり。余もまたその席にあり。その時先生(富田高慶)語りて曰く、われ西久保(宇津邸があり、弘化2年1月~同4年5月尊徳一門は仮住いしていた)に在りし時、君家より出頭の命あり。先生(富田高慶)思えらく、今われに出頭の命あるは、これ賜ならん。その時御留守居番小川某なり。某は性質才ありて、また能弁なり。故に先生思慮して思えらく、今われ彼が面前に出頭し、恩賜を辞退せば、彼すなわち僻論をもってわれをなぶらかさん。しかず、先ず大夫草野半右衛門の邸に至り、その実を述べてもって出頭せんと。直に大夫の宅に至り、告げて曰く、今君命あり、故に出頭せんとす。然りと雖も余に出頭の命あるは定めて恩賜ならんことを察せり。恩賜は素より余の受けざる所なりと雖も、当番小川は弁才あり。故に今君に伺へたりと。大夫曰く、決して圧すべからず。もし彼れ能弁をもって子を圧服せんと為さば、委曲大夫に語せりと云うべしと。よって先生暇を乞い、出殿す。小川出でて、先生に達するに、一人扶持の恩賜を以てす。先生謹みて君意の辱なきを謝し、これを辞退す。小川某案のごとく罵って曰く、君命を辞すと。何ぞその無礼なるや。よろしくこれを拝受すべしと云うて肯んぜず。先生(富田高慶)曰く、君定めて左あらんことを前知し、詳細これ大夫に開陳せり。宜しくこれを諒せられよといえば、某ますます罵りて曰く、今君命を達せば謝して拝受せず、あまつさえ大夫に云々を開陳したりと。何ぞ無礼の甚だしきや。たとい大夫に開陳するも大夫は大夫たり。われは君命を奉じて子に達するものなり。何ぞ拝受せざるの甚だしきやと僻論を以て罵りてやまず。故に先生(富田高慶)大論を以てこれを駁せんとして思えらく、今われ大業を興さんとするの時に際し、彼と条理を論ずるも益なしと。よって某に問うて曰く、われ未だ御家法の何たるかを知らずと雖も、一端拝受してしかる後辞退すべきの例なりや。曰く、然り、なお辞退せんとせば、某云々を筆記し、以て後日にこれを上申すべしと。よって先生恩賜を拝受し、席を退き、大夫の宅に至り告ぐるに右の事情を以てす。大夫曰く、事ここに至りては止む事を得ず、よろしく云々を筆記し、以て上申すべしと。よって先生(富田高慶)西久保に帰邸し、二宮先生に告ぐ。先生大いに怒罵したまいて曰く、嗚呼、何ぞその事の甚だしきや。余は無縁の富田を教育すること既に年あり。これただ外ならざるなり。富田の誠心頻りに国家の衰廃を憂い、国家を再興せんとするの誠意に感じ、ここまで子を教育せり。然るに今君賜はるに一人扶持を以てすと。何ぞその軽々たるや。今われ一人扶持と雖も、人の臣たる者何ぞ一刻も預かるべきの理あらんやと罵りて止まず。先生止む事を得ずして暇を乞い、大夫の家に至り告ぐるに、右の次第を以てす。大夫大いに驚きて歎じて曰く、およそ小事を以て大事を敗(やぶ)るとはすなはちこれなりと。直に小川を召して、右の事情を談じ、即刻先生に到り謝すべしと。某畏縮して応ぜず。止むを得ず大夫僕三八に命じて結束せしめ、杖に寄り遙かに西久保に至り、先生に謁し謝して曰く、小川富田に向い暴言を以てし、なお与ふるに一人扶持方を以てす。これを以て考ふれば、年来富田を先生に託し、今与ふるに扶持方を以てすとは、先生より富田を遇せらるの不足より出て与えしなるべしと疑念免がるべからず。然りと雖も、われ敢て意あって為したる者にあらざるなり。これ皆不肖の罪なり。故によろしく先生この老生を哀憐したまえと、詫言止まず。よって先生これを諾す。大夫直に帰邸して先生に謂て曰く。漸くにして先生の許諾を得たり。子行きて能く謝すべしと。即刻大夫の宅を出て、西の久保に帰邸せられたりと。
2023.07.30
7月30日朝起きてテレビ欄を見るとエンジェルス対ブルージェイズ戦をやっている。昨日の試合で大谷が第一打席でホームランを打ったら「なぜ奴と勝負したんだ。奴以外に打てる打者はいない」ブルージェイズベンチ内は監督采配で大荒れ*ブルージェイズのベンチで三塁手チャプマンがジョン・シュナイダー監督に詰め寄る場面があった。フォロワー34・6万人の「ジョムボーイ・メディア」が動画を添え、チャプマンの唇の動きから「なぜ我々は彼と勝負するんだ?あのチームで打てるのは彼だけだ!」と発言を推測した。“Why did we pitch to him? He’s the only fucking guy on the team that can hit” -Matt Chapman after Shohei Ohtani's home run今日は申告敬遠が続く*7月30日の試合後のシュナイダー監督のコメント「チャップマン(の発言)に合わせた。我々の三塁手の話を聞いて、うまくいった。チャピー(チャップマンの愛称)に話しかけておいてよかった」TV視聴を止めていつものサイクリングに^_^
2023.07.30

報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる先生黙然(もくねん)良(やゝ)久しくして曰く、子(し)當然(たうぜん)の道を失ひたり。我今其(そ)の道を告げん。道理を聞きて然る後、金(きん)を借らん歟(か)。先づ金(きん)を借りて後に道理を聞かん歟(か)如何(いか)ん。菅子(すがや)曰く、某(それがし)先生の教を受くること久し。何ぞ金(きん)を得て、然る後道を求んや。願くは夫(そ)れ示教(しきやう)を聞かん。先生曰く、嗟呼(あゝ)子(し)過(あやま)てり古語に曰く、進而思盡忠退而思補過(進んで思ひを尽くさんことを思ひ、退いて過ちを補わんことを思ふ)と、是れ人臣の常道にあらずや。子(し)重恩の君に逐(お)はれ、自から過ちなしとして其の過を國(く)に歸し、更に悔ゆるの色なし。夫れ忠臣の行ひ、國(くに)に幸福(かうふく)あれば其の幸福を共にし、憂患あれば又其の憂患を同じくし、國家(こくか)を憂ひ、下民(かみん)を憐むこと何ぞ身の進退に由らんや。進みて憂ふるもの退く時は、其の憂ひ必ず十倍するもの忠臣の心なり。子(し)烏山の大夫(たいふ)となり、其の政(まつりごと)を執(と)りて其の國(くに)の憂を除くことあたはず。又其の民を安んずる事あたはず。申の大凶に至り、飢民罪なくして死亡を免れざるもの數千人、子(し)百計之を救ふの道を得ず。何の縁由もなき我に救荒(きうくわう)の道を請ふといへども、我之を救ふべきの職にあらず、故に再三辭(じ)すれども、子(し)歎談(たんだん)止まず。誠に民を憐み、國(こく)を憂ふるなりと思ひ、肺肝(はいかん)を碎(くだ)き、救荒(きうくわう)の道を施し、繼(つ)いで國家興復の道を求るが故に萬苦を盡し、興復の政(まつりごと)を示したり。是何の爲ぞや、子(し)の忠心を感じ共に心力(しんりょく)を盡(つく)せしにあらずや。祖先以來幾百年君となり、臣となり又大夫となり、君恩を受くること泰山(たいざん)の高きも比(ひ)し難(がた)き子(し)の身として、用ゐらるゝ時は國(くに)を憂ひ、用ゐられざる時は漠然)ばくぜん)として顧みず、君を非とし、臣下を怨み、他邦にありて其の國(くに)の危難を度外に置かば、何の恩もなく縁もなき我等何の爲(ため)に數千金をナゲウち烏山の民を救ひ、其の土地を開き、上下(じやうげ)永安の道を施すの理(り)あらんや。恩もなく縁もなき我をして烏山の爲に心力を盡(つく)させ、大恩(だいおん)を受けたる君臣の義深き子(し)は身退くが爲(ため)に國家の憂を顧みざるものは亦何の心ぞや。今烏山不幸にして國家(こくか)再盛疑なきの道を廢し、子(し)を退けたりと聞しより以來、烏山上下の爲に憂勞(いうらう)して更に寢食を安んぜず日夜烏山候の過を悔い再び國民を愍(あはれ)み衰廢(すゐはい)の憂を除き、上(かみ)は忠孝を全くし、下(しも)は國人を安んじたまはんことを祈るの外他念なし。先生は、黙ってしばらく考えられてからこう言われた。「あなたは、当然の道を失っている。 私は今その道を告げよう。 道理を聞いてその後に金を借りるか。 まず金を借りて後に道理を聞くか、どちかにするか。」菅谷は言った。「私は先生の道を受けて久しくなります。 どうして金を借りてその後に道を求めましょうか。 願わくば、教えをお聞かせください。」先生はこう言われた。「ああ、あなたは過ちをおかしている。 古語(孝経)にこう言う。 「進んでは忠を尽くさんことを思い、 退いては過ちを補わんことを思う」と。 これは人臣たる者の常道ではないか。 あなたは、重恩の君に放逐されていながら、自分には過ちはないとして、国が悪いとして、更に後悔する色がない。 忠臣の行いは国に幸福があれば、その幸福を共にし、 憂患あればまたその憂患を同じくし、国家を憂い、人民を憐れむことは、どうしてわが身の進退によって異なることがあろうか。進んで憂える者が退く時は、その憂いは必ず10倍するというのが忠臣の心である。あなたは烏山藩の家老となり、その政をとってその国の憂いを除くことができなかった。またその民を安んじることができなかった。天保の大飢饉に至って、飢えた民が罪もなく死亡を免れない者が数千人でるところであった。あなたは百計手を尽くしたが救助の道が見つからなかった。何の縁もゆかりもない私に救助の道を請われた。しかし私はこれを救う職務にはないと再三断った。しかしあなたは強いて嘆いて談じて止まなかった。誠に民を憐れみ、国を憂えていると思って、私は肺肝を砕いて、救助の道を施したのである。継いで国家再興の道を求められたので、万苦を尽くして復興の政治を示したのではなかったか。これは一体何のためか。あなたの忠心を私が感じてともに心力を尽くしたのではなかったのか。祖先以来幾百年と君となり、臣となり、また家老となって、君恩を受けることは泰山の高さも比べがたい身ではないか。国に用いられる時は国を憂い、用いられない時は、漠然として国を顧みず、君に非があるとして、臣下を怨んで、他国にあって、その国の危難を関係ないとするならば、何の恩もなく、縁もない私たちはいったい何のために数千両をなげうって烏山の民を救い、その土地を開いて、上下ともに永久に安泰する道を施す道理があろうか。恩もなく縁もない私をして烏山のために心力を尽くしている。大恩を受け、君臣の義が深いあなたが、身を退いたために国家の憂いを顧みないということは、またいったいどういう心か。今、烏山は不幸にして国家再生が疑いない道を廃して、あなたを退けたと聞いてから、私は烏山の上下のために心配してさらに寝食を安んじなかった。日夜烏山候の過ちを後悔して、再び国民を憐れんで衰廃の憂いを除いて、上は忠孝を全くし、下は領民を安んじたもうことを祈るのほか他念なかったのだ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.30
日本代表が待望のW杯イヤー1勝 トンガとの接戦制すNO8姫野和樹「気力を振り絞って最後まで戦った仲間を誇りに思う」7/29(土) ◆ラグビー リポビタンDチャレンジカップ・パシフィックネーションズシリーズ 日本代表21―16トンガ代表(29日、大阪・花園ラグビー場)世界ランク12位の日本代表が同15位のトンガ代表と対戦。9月のW杯フランス大会(8日開幕)に向け、待望の今季1勝目を上げた。日本は序盤、トンガの強力なFW陣に押し込まれる苦しい展開。耐え抜くと、前半20分に右サイドのラインアウトから展開攻撃を仕掛け、WTBナイカブラが先制のトライ。一時は同点に追いつかれたが、終了間際にはナイカブラがキックパスでゴール前へ。ボールのバウンドの変化をロックのファカタヴァがうまく拾ってグラウンディングし、13―5で折り返した。 後半は開始直後に2つのPGを許して13―11で迎えた13分に左のラインアウトからの素早い展開でWTBマシレワがトライ。直後にラインアウトモールから失点したが、相手の反撃を最後までしのぎきった。今季はここまで3連敗ジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ「なかなかいいスタートが切れなかった。前回の試合でもリーチのレッドカードで自分たちにプレッシャーがかかってしまった」「今週は勝つことも大きなチャレンジだけど、相手(トンガ)には元ワラビーズや元オールブラックスがワールドラグビーのルール変更によりそういった選手が入ってきている」NO8姫野和樹「気力を振り絞って最後まで戦った仲間を誇りに思いたい。ここ最近苦しい試合が続いていましたけど、敗戦の中でチームの絆は深まっていた。それが最後の頑張りにつながっていたと思う。トンガというチームは大きい選手がたくさんいるので、自分たちの勢いを作っていくスタイル。練習からダブルタックルを意識して、試合で出せた。スクラムはサモアで苦しんでいて、トンガさんもそこに圧力をかけていくと思っていて準備してきた。セットプレーは自分たちの武器。今後も使っていきたい。(8月5日のフィジー戦は)国内最後の試合。いい形で終われるようにいい1週間を過ごしていきたい」https://hochi.news/articles/20230729-OHT1T51337.html?page=1元日本代表SHの田中史朗 最後にしっかり勝ちきっての今季初勝利で、すごく良かったです。自信がつけられたっていうのはすごく大きい。スタジアムで見ていてファンも盛り上がって、会場がONE TEAMになった感じがありました。前半60点、後半80点、トータル70点の出来だったと思います。 後半13分から出場したSH流大選手(東京SG)はエリアマネジメント(プレーする陣地を考えて試合を組み立てること)がすごく上手でした。相手にとって疲れている時の流選手は嫌。流選手の速さに合わせて守るのですごく疲れるんです。疲れさせたところで裏のスペースに蹴る。流選手のテンポがあるから、SO松田力也選手(埼玉)もすごく生きました。前半で疲れさせていたことも大きかったと思います。 先発したSH斎藤直人選手(東京SG)は自信を持ってプレーしているように感じました。彼はトライを取る嗅覚がすごくある選手。流選手と斎藤選手は遜色なくてすごくいいバランスです。例えば流選手が先発して相手を崩して疲れさせて、後から嗅覚のある斎藤選手を使うのもいいと思います。あとはSOとのコンビネーションでしょう。 後半39分のFB松島幸太朗選手(東京SG)のビッグタックルはすごかったです。インターセプトされた瞬間に立ち上がってよく戻っていました。ピンチをかぎ分ける能力、嗅覚に優れた松島選手でなければ点を取られていたかもしれない。あのプレーの直前にタックルされて痛がっていたのに、いけるやんけ!と思いました(笑い)日本代表は痛がっちゃダメです。 W杯フランス大会(9月8日開幕)のメンバー33人発表まで残り1試合になりました。19年のこの頃、僕は本当に必死でした。しんどい練習をしてきて選ばれなかったらどうしよう…という思いがあって、メンバー発表の直前は網走合宿でファンサービスをしながら泣きそうでした。 この時期からチームを組み立ていくので、今回出場した負傷明けのベン・ガンター選手(埼玉)、テビタ・タタフ選手(東京SG)は現時点でどの程度できるか見たかったんだと思います。パフォーマンスが良くてもチームに合う合わないもありますし、けがも実力のうちと言って運命といえば運命です。けがをしない選手、していても高いパフォーマンスができる集中力がある選手もいます。けがは言い訳にしかならないです。(2011、15、19年W杯日本代表SH)
2023.07.30
「安居院義道」天の命をたもつは 定食と朝起にあり 天の命をそこなふは 飽食と淫乱にあり 天の命をのぶるは 信心と陰徳にあり 天の命をちぢめるは 奸悪多欲にあり 天の命をやぶるは 酒食遊興にあり 天の命を補ふは 保薬と灸治にあり 天の命をそむくは 五常を守らざるにあり 天の命をそむかぬは 忠孝を勤めむるにあり 天の命を恐るるは 神仏の加護にあり 天の命を恐れざるものは 鬼神の咎めあり 天の命に随ふ者は 君上の幸福あり 天の命に随はざる者は 不慮の禍あり 天の命を恐れ働く者は 子孫繁昌富貴なり 天の命を恐れず慎まざる者は 終に貧乏困窮に至る 天の命を慎むものは 開運立身出世する 天の命を慎まざるものは 先祖の家業を破る 天の命を守るものは 世を安楽にくらす 天の命を忘るものは 家を失ひ乞食となる 天の命をしるものは 足る事を知り安楽也 天の命を知らざるものは 身を崩し他に奔る 天の命をはなるる者は この世より地獄の責を請る 天の命を重んずる者は 子孫栄え愛敬ある也 天の命を弁ふものは 無理非道をせず 天の命を捨つるものは 家を破り人の奴となる 天の命を恣にする者は 人に損をかけ身の立所なし 天の命を穢すものは 法度を破り身を亡す 天の命を蔑にするものは 殺生を好んで短命と成 天の命を考ふものは 家を治め始末を調ふ 天の命をかへり見る者は 堅固に我家を守る 天の命をあきらむる者は 因果を悟り遁世する 天の命を等閑する者は 日にまし貧乏になる 天の命をあはれむものは 慈悲深く人を助る 天の命をいのるものは 極楽天上に生る 天の命を明らかにするものは 仁義を守り正直也 天の命を平かにするものは 天恵を蒙り世に敵なし 天の命を仰ぐものは 天下泰平を祈る ある人曰く、世に生れたるは天地也、死すれば土となるなり、なんぞ地獄極楽のあるべきや、仏法は人を善に進めんとの工夫にして、釈迦の建立されしもの也、という人あり。大いなる心得違ひと云うべし。およそ大千世界仏神人畜草木五穀に至るまで、種なくして生ぜしもののあるべきや。おなじこの世に生れ得たるに貴賎貧富の相違あるべし。生れながらにして人を遣う位に生るる人あり、又人より遣わるる徳に生るる人あり、これを以て知るべし。前の世の種を以て後の世生れ、この世の種を以て後の世に生れる即ちこれ天なり。儒道に積善の家に余慶ありと云うにあらずや。然れば則ちこの世にて慈悲善根、信心功徳の種を蒔く時は後の世にて生るなるべし。因は種なり果は実なり。仙崖和尚の曰く、「神道の高間が原と仏道の極楽とはうら表なり」と示し給ふ、これも皆天の命なるべし。 <この項おわる>
2023.07.30

☆「尊徳門人聞書集」(報徳博物館資料集1)に小林平兵衛の「報徳教示略聞記」が載っており、小林平兵衛という人が一生懸命尊徳先生の話される言葉を記録する姿を髣髴とさせる。その解説にはこうある。 小林平兵衛は安永8年(1779)、小田原領内、駿州駿東郡グミザワ村(御殿場市)の名主江藤孫市の子として生まれた。二宮尊徳より8歳年長である。文化5年(1808)同郡竈新田村(同市)の富農小林家の養子となり、同10年に家督を相続した。その前年、小林平兵衛は同家を草分けとする和新田(わしんでん)18戸を糾合して「相続講」を結成、共励共栄を図った。文政6年(1823)組頭を拝命。そのころ椎茸販売のため出張した江戸で大島有隣らの心学に触れ、各地で熱心に参会し、前講を務めるに至った。 しかし、天保7年(1823)の大凶荒は近郷一帯にも自分の家にも大きな打撃を与えた。小林平兵衛は翌春巡回してきた二宮尊徳の教諭と施策に感動し、率先推譲して救急仕法に協力し、以来毎年のように尊徳のもとを訪ねて教諭を聴き、仕法の事例を学び、あるいは日光仕法雛形作成に協力した。村内では尊徳からの報徳金100両を土台に、善種加入・表彰入札・荒地開発等を行い、天保14年には質地差戻し代金55両を原資として「知足備金」を設定し、以後年々増殖・活用して永安を図った。嘉永2年(1849)7月、71歳で死去した。「相続講」「知足備金」を法人化した「小林知足財団」も永く存続している。小林家は御殿場市竈1829に現存、当主は平兵衛から7代目の浩氏である。その倉庫に残っている多くの文書の一つが「報徳教示略聞記」である。天保9年9月、小田原領内竹松・曽比・下新田での随聞に始まり、同10年3月~4月と8月~9月、野州桜町陣屋での聴聞に終わる。極めて短文が多く、合計約400話に及ぶ。各話の頭に種々の符号が付けられ、何らかの整理・照合が行われたことを思わせる。小林平兵衛翁手記 「報徳教示略聞記」は、内表紙裏に尊徳先生の次の2つの道歌を掲げる 右の手の箸(はし)に力を入れて見よ左の酒の止むかつのるか 世の中は用いようにて小笠とも草履ともなる竹の子の皮そしてこの聞書きの由来を記す。「天保9戊戌(つちのといぬ)9月11日より15日まで相州竹松(小田原市竹松村)幸内様より曽比両家、下新田までの略書」1 村助けの余荷等は、天恩国恩の為に出金する事なれば、必ず貧のみを助けると思うべからず。実は我が身、家の為なり。2 頭も大根なれば尾も大根なり。3 宗門儒仏神いろいろの道別るるは、柄杓の水、茶碗の水、杯の水と。五色の器に汲むがごとし。本は水なり。4 海川の浪の大小も天の自然。我が腹の中と同じ。勤めて勤めず穀物生き物なる事。5 天の変を災という。地の変を害という。天地と共に禍に至る。6 愚人も智者も共に行うが大道なり。7 子として父の恩は知られず。母の恩は知るなり。母より知る法たるゆえに父の恩を知る。8 今日の業(わざ)をもって、正不正を知れば前後の業を知る。9 恩は君に向かえば忠。親に孝となる。借財に向かえば返済となるなり。10 強欲剛(つよ)き人には柔をもって示す。ゆえに出入りなどする人へは必ず女に化けて出るゆえに、吉原などにて遣い捨てる。それより相場あるいは山事とその病より災難来たり断絶するなり。11 計サツマ芋重きを貧強と分とうはねかえるに譬う。12 三人有る時は必ず我が師有り。13 十室邑には丘がごとき者あらん。(論語、公冶長篇の「十室の邑(むら)には必ず忠信 丘(孔子)がごとき者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。」に由来する。)14 三尊は、父と母と我なり。天地人なり。相和して道となる。万事三度目化て成就するなり。15 農業も夫婦も天自然の道なり。古より今に至るまで同じ。16 貧福は一物を二つに呼ぶときの名なり。貧富一つなるべし。勤めて我が身となる。学び学びて和らぎて君子となる。17 今日までの生命をたもちし御礼には、我が身上差出し人を助ける。これまでの迷いの濁水くみ出せば、すなわち清水となるごとし。井戸水のなにほど汲みほどこしても、一夜のうちに本のごとくたまるごとし。 18 天恩・国恩・主親の大恩の譬えば、道を行くに足をふむところの恩あるごとく、その外までも道あるゆえに、平等の恩を知るべし。悪人もかくのごとく恨むべからず。宗旨宗旨も恩同断。19 今の世の中も身の上も有難しと知れば楽。不足と思うは苦しみるのみ。20 消壷の火外を張る。フタする時は内の火消える。人の本心もかくのごとし。21 外堅固に構ゆれば必ず内より破る。女・酒・不忠・不孝男子22 剛勇にて大丈夫外構ふ物あるいはさざき・アワビ類には蛸が手にて目をふさぐ。息出ぬゆえに口をあけ、その時食わる。23 ワシ・タカが小鳥の子をつかみ取りて我が子に食わする。欲深き人も貧者の物をつかみ取りて我が子に食わし、または名聞・奢りに用いるは禽獣にひとし。24 善も一粒ずつにては功なし。合わして相和す時、大功をなす。悪も同断。日掛けも一文ずつ一人にては用いて功少なし。大勢なれば大功となる。25 我が心を澄ませば水の底見ゆる。見えて疑い無し。我が心濁る時、水の底見えず。どろ水も澄ませば底まで見えて疑いなし。26 泥水に蓮根有るゆえに、水上に花咲きて浄清なり。水上に咲けば泥中に根有るゆえなり。泥は迷い、花は悟りと知る時は、迷悟一つなり。一を知りて根本の一を行え。27 外道の人は草木の心と同じ。また禽獣の心と同じ。人道は譲をもって道とする と。28 上は下を恵むによりて下より貢(みつぎ)を上げるごとくなり。29 賃借一円無増減なり。一つなり。陰陽一つなり、同じ。30 貸借サイソク不済は。左をゆるせば右より幸来るなり。31 偽り計りて田地等隠し置き銀主へ出さざるは、山の芋のつるを切りて土をかけおくごとし、根くさるなり。32 偽りの種蒔くは大根種途中よりても人参種を蒔くがごとし。生いてあらわるる。人も善悪の一念をひるがえせば直にただいま善き種となる。33 剣術使い、我が身に切り付けらるる時は勢い力立つがごとし。人も我が身に不自由成能物、売る時は倹約の心立つなり。酒肴美味好き時は、それだけの代を勤めて用うべし。親の譲り物を遺うべからざるなり。34 過去・未来も出ずる息引く息因縁は善悪業(わざ)の顕われ。35 一度の行業天に通じ、見えぬ所より化けて来り善悪となる。36 往来行帰を悟れば、変化善悪を知る。37 奪う心禽獣草木なり。譲る心人道なり。38 千石の邑、百軒の家、平均して十石と成る。9石以下は下品、十石中品、十一石上品恵むべし。39 髪結かみそりをとぐは人を助る道なり。工人刃物とぐも同じ。人の道を修業するは、世界の為に学(マナブ)するなり。40 善を上げ悪をば隠す故に納まる。悪を引き出しては治まらぬなり。41 塵芥馬ふん糞(こやし)と成る時は、皆物の終わりなり。死なり。成仏なり。変化して五穀となる。五穀変化して人となる。聖賢仏祖も勤め勤めて終り玉えて、化して今の神仏なり。銘々も貧富も貴賎も、それぞれ勤め勤めて終りて後、変化して子孫相続永久の姿とあらわる。42 波の音東西に片寄り聞ける時、天気の善悪あるを知る。是れ天気の澄める方より聞ゆる。器皿の水もすめる方へ目の移るごとし。夕暮れ少日見ゆれば明日の日和、大丗日に少明なれば来年よし、かくのごとし。43 食あれば人有。水有れば魚有。米が先に生じて、人が後に生ず。娘のない所には紅白粉はない。47 人死して葬(うず)む。2,3年過て掘出せば骨のみ残る。50年過ても、頭骨スネの骨は残るなり。先祖の骨折その種はくちぬなり。骨おらずにもうけたる身上は、肉なる故に変化すると潰れる。今生の骨折り子孫へ続く故に。貪欲は女酒色々変化すなり。・・・50 心持の苦しきは恩を失うなりと知るべし。51 天恩を受て地に施し、親の恩受て子孫に施す。52 御恩沢行住座臥忘れざる事。53 貧福貴賎親子なることを悟りて行え。54 一切万物とも恩有る方へ返す事忠孝の道なり。55 世界は牢中の如し。行く所なし。牢法を守の外なし。天子将軍様牢名主。三道も同断。天地間に居て天地の物を食う、自分の物なし。57 舟渡の船頭竿をさし、じっとこらえる事を考うべきなり。58 カンナが、歯がかけては板がむらに成る。上たる人、道が違えば下が治まらず。下々が家業怠れば、家がつぶれる。59 返事が遅くば、イヤと思召。・ ・・63 自分一人の食を求るは、畜生の心なり。人は恩を報ずる為に家業を為すがよい。畜生の心を嫌うが人間だぞ。 略聞記は次の言葉で締める。「念彼観音力」(彼の観音の力を念ずれば)
2023.07.29

「アラプラス 深い眠り メンタルケア」は、睡眠の質を改善し、一時的な気持ちの落ち込みを緩和するサプリメントです。💛5ALAカプセル60日分を買ってきた。20%引の券が前に出てて7月27日から29日までで28日に折角だからと60カプセルのものにした。1カプセル180円くらいの換算になる。3週間で「改善傾向」、6週間で「大幅改善」とある。自分の体で試してみて「大幅改善」と実感できるならば、家人にも勧めてみよう。7月29日 2日目 1.【話題のアミノ酸】5-ALA(5-アミノレブリン酸リン酸塩)を配合5-ALAは健康に良いとされているほうれん草など緑黄色野菜や黒酢、味噌など発酵食品に含まれるアミノ酸で身体を構成する基本的な物質として、美容と健康をサポートする重要な成分です。2 飲むタイミングを選びません。いつでもお召し上がりいただけます。思い出した時に一日1回、忘れずに。質の良い睡眠のためには、睡眠ホルモンと呼ばれる「メラトニン」の分泌が重要です。「メラトニン」は加齢と共にその分泌量は減少してしまいます。5-ALAは体内のミトコンドリアで作られるアミノ酸で、メラトニンの原料である「セロトニン」を増やすことで、睡眠の質を改善します。
2023.07.29

「マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り」より「しばらく前から、私たちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこへ行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。 ガテマラのシシターたちは、どこでもするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、私にあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力でどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりました。彼はシスターにこう話しました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね」 現在彼は、仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつも何かを持ってくるのです。 このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。」☆なにか貧者の一灯を思い出させるエピソードだ。貧しい人がなけなしのものを捧げるとき、それは豊かな者が余裕があるなかから差し出すものよりも心がこもっていて尊い、愛そのものの深さが違うということか。ああ。先日、小田原の飯泉観音に参った帰り道に「復活書房」という大きな古本屋さんがあった。日野原さんのCD付きの本にも心ひかれたが、結局、神渡良平さんの「生き方のヒント」を一冊だけ買った。パラパラめくっていたら、マザー・テレサにかかわる話が載っていた。日本からボランティアに行った女子学生のこんな話だ。「森泉由美子さんは、マザーテレサが亡くなってから2年後の1999年の夏休み1ヶ月、インド・カルカッタのマザー・テレサの宣教会でボランティアをして過ごした。ボランティアを志していったものの、「死を待つ家」で汚物にまみれた衣服やシャツを洗い、ベッドや床を掃除し、食事や排泄の介護をするのは並大抵のことではない。手洗いの最中、衣類から汚物が出てきたり、患者の崩れ落ちた皮膚やがりがりに痩せた体を見ると、耐え切れずに逃げ出したくなった。 言葉も分らず、患者から要求されていることも理解できず途方に暮れる毎日が続いた。 そんな不安の中でのボランティアだったが、不思議と森泉さん自身が癒されていた。病室に毎日外を指差して泣いている同年代の女性がいた。(外に出たいのだろうか、大切な家族に会いたいのだろうか)そう思うと会いたい人に会えない切なさに涙があふれてきた。するとその女性は、手で森泉さんの涙を拭ってくれて抱きしめてくれた。この出来事でそれまで言葉に頼っていた、相手の気持ちを分ろうとする気持ちがあれば言葉の壁はこえていけるのだと気づいた。 森泉さんは5日ほど休みを貰って、ベナレス、ブッダガヤ、ラージギール、サールナートなどの仏跡を巡ることができた。ナーランダの遺跡を訪ねたとき、大勢の物乞いの子どもにまとわりつかれた。森泉さんはあまりのしつこさに、いらないお菓子を与えて追い払おうとした。すると子どもたちの顔がゆがんだ。そのとき、森泉さんの脳裏にマザー・テレサの教えが浮かんだ。「いらないものに思いはこめられていない。 余っているものを与えたとしても、決して自分が満たされることはないのです。」 森泉さんは深く後悔した。ベナレスのガンジス河のほとりの沐浴場に来た時は、そんな反省もあって、子ども達と一緒に遊んだ。子ども達は喜んで見送って、いつまでもいつまでも「サヨーナラ」と叫んでいた。 再びボランティアに戻った森泉さんは、患者の中に自分から飛び込んでいった。歌が好きなおばあちゃんと一緒に歌い、衰弱したおじいちゃんの体をマッサージし、体が硬直したおばあちゃんのリハビリを手伝った。相手が求めているものは、こちらが一心に耳を澄ますと魂に聞こえてくる。森泉さんは自然と笑みが絶えることがなかった。 ある日、ガリガリに痩せ、苦しそうに肩で息をし、肺結核の少女の世話をした。乾いた咳をし、目は赤く変容していた。森泉さんは気を奮い立たせてお世話をした。固形物が飲み込めないので、ミルクをすくってのませようとするが、床に吐き出す。「お願い、少しだけでも飲んで・・・」とつぶやきながら、スプーンを口に運ぶと、少女は少し目を開けて森泉さんを見た。そして苦しそうに顔をゆがめながらも飲んでくれた。森泉さんはうれしくて、ココナツオイルを塗って顔をマッサージしてあげた。翌日森泉さんがその少女のそばにいくと、目をうっすらと開けて微笑んだ。森泉さんがきのうと同じように顔をマッサージすると少女は森泉さんを抱きしめた。涙を浮かべながら何か話しかけてきた。森泉さんも涙を浮かべ、しっかりと彼女を抱きしめた。森泉さんはカルカッタに来てよかったと思った。
2023.07.29
宝石の中に3D状態で保存されていた15億年前の生命体7/29(土)ベルリン工科大学、ウクライナ国立学士院、ベルリン自然史博物館(フンボルト博物館)およびルクセンブルク国立自然史博物館の研究者からなるチームが、地球最古の3次元的に保存された微化石を、ウクライナ・ジトーミル近くのヴォルィーニ石英鉱山で見つかった鉱物から発見した。この種の古い微化石に関するこれまでの証拠は、岩石中の痕跡、有機物が分解された時に形成された化学残留物、あるいは地質学的プロセスだけでは説明困難な複雑なものなど、間接的かつしばしば疑わしい手がかりによるものだった。わずか5億年前、生物は炭酸カルシウムやリン酸塩などの鉱物を使って体の硬い部分を作る手段を手に入れ、生命体の保存可能性を飛躍的に高めた。この15億年前の化石は、研究者らが鉱山で見つかった鉱物を研究していた際に偶然発見された。「原始的な微生物の化石を走査型電子顕微鏡で研究できる初めての機会を得られることはとても大きな喜びです。実際、私たちは鉱山で見つかった緑柱石とトパーズを研究するつもりでした。ここで見つけたものはどんな宝石よりもはるかに価値あるものです」とベルリン工科大学応用地球科学研究所の名誉教授ゲルハルト・フランツ博士は説明した。「今、私たちが電子顕微鏡で見ているものは、主に繊維構造で、枝分かれした細いフィラメントか、小さな突起や凹みのある太いフィラメントです」とフランツは説明する。繊維の太さは、10~200マイクロメートル、長さは数ミリメートル(肉眼でも見ることが可能)で、中間に細い空洞のあるものもある。
2023.07.29
大谷翔平のけいれんは「問題ない」 ネビン監督明かす「100%準備できていると…」昨日2本塁打を打った大谷は7回で交替。「けいれんが原因だ。疲労は溜まっていないし、彼はたくさん睡眠をとる。問題ない。『100%準備できている』と言っていた。張りは感じていない。(昨日は)かい日で大活躍したからけいれんが起きただけだ。彼は、誰よりも自分の体のことを理解している。準備万端だ」「エネルギーの使い方や自分の体については、誰よりも理解している。努力しているし誰もできない活躍をしているが、彼はポジションを守らない選手だから、多少の体力の消耗は抑えられる」「今のところ、ホーム初戦(日本時間8月4日マリナーズ戦)に投げさせる予定だ」〇大谷は筋肉のけいれんにより途中交代を余儀なくされたが、日本時間7月29日の第1打席でいきなり2試合連続となる39号ホームランを放った。9回1死満塁の絶好機では代打を送られ退き、球場は騒然。フィル・ネビン監督は試合後、両ふくらはぎにけいれんが起きたことを明かした。「彼がダグアウトに戻ってきて、少し体を動かそうとしていたが、けいれんが続いた」「明日また診断を受けるが、今の段階ではただのけいれんだ。この2日間かなりの仕事量だった」「なぜ良い睡眠がとれないのか…」バウアーは睡眠について研究したという。オリックスの山本由伸投手が、DeNA・バウアー投手と長時間にわたって会談。サイ・ヤング賞右腕が“睡眠マスター”であることを明かし、質を高める秘けつを教わった。会談の内容を問われた山本は「4年間くらい睡眠を勉強したらしく。睡眠の質を高める秘けつみたいな」と明かし、「内容?秘密です」と笑った。「いいこと言ってました。すごい分かりやすかったし、面白かった」MLBでは、アストロズのエース右腕ジャスティン・バーランダーが、1日10時間睡眠をとっているいることを明かすなど、睡眠のプレーに及ぼす影響が再認識されている。大谷「一番は睡眠じゃないかなと思うので、睡眠、いつ寝るかの準備を数日前から計画的にやる必要はあるかなと思います。」大谷翔平の活躍を支えた「睡眠力」大谷はこれまでも事あるごとに睡眠の重要性を口にしてきた。アシックスジャパンによる動画インタビューでは、「小学生のころは毎日夜9時から朝7時まで寝ていた。昼寝もしますし、半日くらい寝ていたかもしれない」と証言。子ども時代だけでなく、右肘手術明けの2019年の春季キャンプ時には1日に昼4時間、夜7時間の計11時間の睡眠をとっているとスポーツ紙に報じられ、今秋も雑誌のインタビューで「一番大事に考えているのは、寝ることです。もともとシーズン中はいっぱい寝るようにしてきましたけど、今年はとくにいっぱい寝るようにしていますね」(「Number」9月24日号)と話した。子ども時代も今も、1日10時間を超える時間を睡眠に費やしていることがわかる。「ナイターデー(ナイトゲームの翌日がデーゲーム)なら6、7時間寝られればいいほうかなという感じですけど、ナイターナイターだったら、10時間から12時間くらいは寝ています」睡眠導入剤などは使わず、「寝ていいと言われたら、いくらでも寝られます」『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~』(佐々木亨著・扶桑社文庫)の中で、母の加代子さんはこう語っている。「幼稚園や小学校の低学年ぐらいまでだったと思いますけど、学校から帰ってお友達と外に遊びに行く翔平は、夕方に家に帰ってくると体力を全部使い果たしている感じで、ソファで寝てしまうことがよくありました。私が夕飯の支度をしていても、まったく起きない。寝始めると本当に起きなくて。結局、お父さんに寝室まで運んでもらって、そのまま朝まで寝てしまうことが週に何回もあった時期がありました」西野教授「4時間未満の睡眠でも健康を維持するショートスリーパーは、ロングスリーパーと同じく、1%未満の少数と考えられています。いずれも遺伝的な素因を有する方々です。ほとんどの人はそうした遺伝子を有しませんので、睡眠時間を無理やり短くしたり長くしたりすれば体を壊します。くれぐれも、大谷選手のマネをしないようご注意を。重要なのは、身体が必要とする睡眠時間に比べて、どれだけ寝ているか。適正な睡眠時間を確保し、かつ深い睡眠がとれれば、身体のメンテナンスに有利に働く可能性があります」
2023.07.29

Ⅰ アメリカへ―それぞれの旅立ち―1 広井勇と札幌三人組のアメリカ留学 札幌農学校同級生は洋行熱があった(「宮部金吾」)。「在学中から燃えるような洋行熱を持っていた。そして寄ると触るとその頃から誰が先に行くか、それが興味ある一つの問題であった。その間に〔明治十六年十二月二十日〕洋行の先鞭をつけたのが広井勇氏であった。(中略)自費を以て意気揚々渡米の途につき同級生一同の羨望の的になった。次に太田稲造氏は明治十六年五月東京大学文科大学に入ったが不満を感じ、十七年九月一日渡米し、内村鑑三氏は十五年十二月北海道を去り十七年十一月米国に去った。その後これらの人々との通信がいかに博士〔宮部〕の遊学心をそそったかは想像に余りある。しかしこれら三氏は皆私費旅行であって、広井氏はその後、会社に入り幾分余裕があったようではあるが、新渡戸、内村両氏は実に甚しい苦労をされた」。三人の私費留学に対し宮部はハーバード大学へ正式留学した。広井勇の渡米は、新渡戸や内村にアメリカ行きのアンビシャス〔ambitious〕をかきたてた。新渡戸が書いた「帰雁の蘆」の「洋行の動機」によると、在米の友人がヘンリー・ジョージの『進歩と貧窮』を送ってくれた。東大の講義の合間に読んでいると外山教授が来て「何を読んでいますか」「この本です」と出すと、「これは有名な本だが、まだ日本に来ていない。私もまだ見ていないが、大意を書いて学芸雑誌に出しませんか」と勧めた。その本は出版後八年目でヨーロッパの各国語に訳されている。それが日本唯一の大学に来ていないとは、日本の学界は八年遅れている。こんな所に学問したなら最高位に達しても、鳥無き里のコウモリに過ぎない。学に志す以上、自分の知識を発展させ、心を修養し、自分を磨かなければならない。それには広い世界に出なければ遅れるだけだと思い定めたのが、洋行直接の動機であった。」とある。広井が渡米を札幌三人組に直接知らせる手紙はないが、新渡戸は宮部に渡米を手紙で知らせている。一八八四年(明治十七年)八月四日茨城袋田村にて「僕は、東京を去って米国に行くことになりました。充分な学資の用意もないまま行きます。いちかばちかやってみます。それはあまりに大胆すぎるかもしれないが、よく考えてみると、人生は結局のところ、思い切って冒険を試みる以外にないのです。僕は行くことに決心しました。(略)僕は行く。古き友よ、さようなら。おからだを大切に。輝かしい未来が、君の眼前にくりひろげられています。『植物学』に対する君の情熱を消すことなかれ。君の前途は希望に満ち、幸先よいように思われます。(略)さあ、それではさようなら、遥かに遠い国から書くまで。 さようなら、テー・シー・モンキュー〔新渡戸自称〕」内村も広井・新渡戸の渡米に気持はアメリカ行きにあったが、それは新妻との離縁という突発的な逃避の形で実現した。周到な準備など全くなかった。内村も宮部に離縁の苦悩と渡米を手紙で知らせた。一八八四年(明治十七年)十一月四日 東京にて「最も親愛なる金吾 今、なつかしい祖国を去って異国に向かおうとするに当り、一言、君に残したい。きびしい試練の人生が僕を苦しめた。人の心と顔とが、僕をあざむいた。しかし、今、僕は極めて静かであり、涙はつきないがわが救い主にいと近くあると聞いたら、君は僕の上に降りつつある天の祝福をたやすくみとめることができるだろう。(略)兄弟よ、僕を愛し、僕のために祈ってくれたまえ。僕は君のもの、君は僕のものである。本心を白状するが、僕にとり君より貴い人は一人もいない。それ故、いつまでも君のものたり得んことを。 サヨウナラ、サヨウナラ ヨナタン・内村鑑三」最後に宮部が、一八八六年(明治一九年)九月二日、横浜港を出帆し渡米した。ハーバード大学所在地、ケンブリッジに着いたのは、九月二八日である。一八八六年九月からの一時期、札幌三人組と広井はアメリカの地にいて互いに会い交流を深めたのだ。
2023.07.29

愛には限界がありません神は愛であり愛は神だからですですからあなたがほんとうに神の愛のうちにいるなら神の愛は無限なのですだからこそこう言うのですどれだけたくさんのことをするかが問題なのではなくどれだけたくさんの愛をその行為にこめるかが大切なのです「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」89ページより愛という大きな贈物The Great Gift of Loveしばらく前から、わたしたちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこに行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。ガテマラのシスターたちは、どこでもそうするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、わたしにあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力ではどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりいました。彼は、シスターにこう言いました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね。」現在、彼は仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつでも何かを持ってくるのです。このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。
2023.07.29

報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる先生遙(はるか)に櫻町に在りて此の事を聞き、大息(たいそく)して曰く、嗚呼(あゝ)烏山興復(こうふく)の時未だ至らざる歟(か)、圓應(えんおう)既に没し、今菅谷を殘(のこ)せり。此の人辭恩(じおん)の道を全(まつた)くせば、興復の道此(こ)の人に依りて存(ぞん)すべし。辭恩(じおん)の道を行はざるときは人菅谷を進退(しんたい)せん。何ぞ大業(たいげふ)を遂ることを得んや。世人の毀譽(きよ)に由りて心を動かし、行(おこなひ)を變(へん)ずるもの、共に道を行ひ難し と云へり。果して天保某年に至り仕法を廢し、分度を破り、開墾撫育の用度たる二千苞(ぺう)を取りて之を国事の當用(たうよう)に費し、菅谷を放逐して他邦(たほう)に退かしめ、領中に令(れい)して諸民櫻町に至ることを禁じたり、菅谷妻子を具し、他領鴻の山(こうのやま)村里正(りせい)十郎右衛門(じうらうゑもん)なるものゝ家に移り、之に寓(ぐう)して讒(ざん)者の無道を怨みたり。翌年二月菅子(すがや)忽然として櫻町に至り、先生に請(こ)ひて曰く、余不幸にして放たれたり。國家(こくか)の道なきを如何せん。忠を盡(つく)して讒者(ざんしゃ)の爲に放たるゝもの古今(ここん)少からず、又何をか悔(くい)んや。我が身は鴻の山の里正某(ぼう)舊識(きうしき)あり。故に食客(しょくかく)となれば道路に立つの憂(うれひ)なし。唯(たゞ)歎くべきは我が弟(おとゝ)某(ぼう)なるもの盲人にして江都(かうと)にあり。琴瑟(きんしつ)を教ふるを以て業(げふ)とし、活計(くわつけい)の憂なかりしが、幕府天下の侈奢(ししゃ)を制し、善政を布(し)かせ玉ふより以來、琴瑟を學ぶもの少くして活計頓(とみ)に窮す。我其の費用を與(あた)へて生養(せいやう)せしめたり。豈(あに)圖(はから)んや今罪なくして放逐せられ浪々の身となり、盲弟を補助するの力なし。我助けざれば彼生養の術(じゆつ)盡(つき)ん。斯(こ)の如く窮するもの僅(わづか)に二十金の借債あるが故なり。此の借債なき時は技藝(ぎげい)の門人少しといへども、君より受くる所の扶持(ふち)を以て活計(くわつけい)を爲すべし。冀(こひねがは)くは先生我が弟を憐み二十金を貸し給はらば、厚意の恩賚(おんらい)忘るべからずと云ふ。尊徳先生は、菅谷が一旦辞退し仕法金に参入した禄米を再び受けて、桜町からの贈米を断ったことを聞いて、大きなため息をちてこう言われた。「ああ、烏山領の復興の時は未だいたらざるか。 円応和尚はすでに没して、今菅谷を残すばかりだ。 菅谷が辞恩(禄を辞退する)の道を全くすれば、復興の道はこの人によって存したことであろう。 辞恩の道を行わないときは、人が菅谷を進退せしめよう。 どうして大業を達成することができようか。 世間の人の毀誉褒貶によって心を動かし、行いを変ずる者とは共に道を行うことは困難である。」 はたして天保10年12月に仕法を廃し、分度を破り、開墾及び人民救助用に用意していた二千俵をとって、藩政の当面の用途に費やした。 菅谷は12月17日付けで役職を辞退したが、25日には隠居を申し付けられ、相続人半蔵へ百石を給せられた。 さらに天保11年12月には烏山藩から放逐された。 隠居させたにも関わらず、桜町や小田原にたびたび赴いていることを藩政への不満ととらえられ、「上をあなどり、重ね重ね不埒であるから、永くお暇を下しおかる」ということで「烏山藩内や屋敷の近隣へ徘徊することを堅く禁ずる」というものであった。 菅谷は報徳の同志大野恕助の甥にあたる鴻巣村の名主、郡司十郎右衛門の家に移った。 そして天保12年7月14日に桜町に来て、藩政の無情を怨むとともの、盲目の弟のために20両の借財を先生に申し出たのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.29

(「マザー・テレサ愛のこころ最後の祈り」よりバンガロー(インド南部マイソール州の首都)での研修会で、ほかの修道院のあるシスターが、わたしに言いました。「マザー・テレサ、あなたはものを無償(ただ)で与えて、貧しい人たちを甘やかしています。彼らは人間の尊厳を失っています」みんなが押し黙ったところで、わたしは静かに言いました。「神さまご自身ほど甘やかしている人はいませんよ。わたしたちに無償で与えてくださる、すばらしい贈り物を見てごらんなさい。ここにいる皆さんのだれも、メガネなどかけていないのに、皆見ることができます。もし、神さまが、私たちの視力にお金をとることになったとしたら、どうなりますか。わたしたちは絶えず酸素を吸って生きていますが、お金など払ってはいません。もし神さまが『おまえたちは4時間働くなら、日光を2時間分だけやろう』と言ったならどうしますか。そうなったら、この中で、いったい何人が生き残れるでしょう。」そしてまた、わたしは言いました。「お金持ちを甘やかせている修道院はたくさんあります。貧しい人びとの名において、その人たちを甘やかす修道会が一つくらいあってもいいでしょう」会場は水を打ったように静まり返って、そのあとは、だれも何も言いませんでした。☆マザーの回答にはユーモアがあり、微笑みがある。 しかも、深い真実が含まれている。
2023.07.29

尖閣侵奪の動き「強く懸念」 海警局船、徐々に勢力増す 防衛白書7/29(土) 2023年版防衛白書では、石垣市の尖閣諸島侵奪に向け、周辺海域に海警局船の派遣を続ける中国の動向について「力による一方的な現状変更の試みを執拗に継続しており、強く懸念される」と指摘した。 白書では尖閣諸島を巡る中国の動きを詳述。尖閣周辺海域での中国海警局船などの活動を10年前と比較すると、領海侵入日数は22年が37日で12年の約1・6倍、侵入した延べ隻数は22年が103隻で12年の約1・4倍に増加した。 尖閣周辺の接続水域での海警局船の確認日数は、年間の確認日数が20年から300日を超え、延べ隻数は19年から千隻を上回っている。22年は336日で延べ1201隻となった。 中国が尖閣諸島の侵奪に向けた動きを長年に渡って継続するとともに、徐々に勢力を増している実態がうかがえる。 中国海警局に所属する船舶は年々増強されており、22年時点で千㌧以上の船舶は157隻に達した。日本の海上保安庁が保有する千㌧以上の巡視船は71隻で、中国側の勢力が大きく上回っている。 白書では、中国が台湾周辺での軍事演習や台湾周辺空域への軍用機進入などの動きを強めていることにも言及。「一連の活動を通じ、中国軍が常態的に活動している状況の既成事実化を図るとともに、実戦能力の向上を企図している」と分析した。 中国が22年8月、台湾周辺で実施した軍事演習で、波照間島や与那国島周辺への着弾を含む9発の弾道ミサイル発射を行ったことについて「地域住民に脅威と受け止められた」と強調した。 中国が台湾正面に多数配置している短距離弾道ミサイルについて、尖閣諸島を含む南西諸島の一部も「射程に入っているとみられる」と警戒感を示した。★今や中国をストップできるのは 台風 だけ 日本の尖閣諸島は台風に守られている中国船が接続水域出る 台風から避難か 尖閣周辺7/27(木)第十一管区海上保安本部によると、石垣市の尖閣諸島周辺で領海外側にある接続水域を航行していた中国海警局の艦船「海警1302」は25日午後9時ごろ、接続水域を出た。尖閣周辺での中国艦船の連続航行は54日で途切れた。 台風5号が八重山周辺を通過しており、中国艦船は避難した可能性がある。台風6号 週明けに沖縄直撃か 沖縄や奄美は暴風・高波・大雨のおそれ
2023.07.29
SHOHEI SHUTOUT! Shohei Ohtani throws his first MLB shutout!🔥FAN HERO!!!! Shohei Ohtani Crushing HOME RUNS (37-38)🔥 #highlights エンゼルスの大谷翔平投手は27日(日本時間28日)、敵地で行われたタイガースとのダブルヘッダー第2試合に「2番・指名打者」で先発出場した。2回の第2打席で3試合ぶりとなる37号2ランを放つと、続く4回の第3打席では2打席連発となる38号ソロ。衝撃のアーチショーを演じた。 111球の完封劇からわずか1時間20分後の衝撃弾だった。大谷から豪快なアーチが飛び出した。3点リードの2回2死一塁、右腕マニングから3試合ぶりとなる37号2ラン。打球速度107.6マイル(約173.2キロ)、飛距離383フィート(約116.7メートル)で、シーズン58発ペースとした。 さらに続く打席でも驚愕の一発で、敵地のどよめきはしばらく収まらなかった。打球速度116.9マイル(約188.1キロ)、飛距離435フィート(約132.6メートル)。ダイヤモンドを回る際、左の腰を抑える仕草を見せた。マルチ本塁打は今季4度目で、2打席連発は今季2度目となった。 ダブルヘッダー第1試合では9回8奪三振1安打無失点でメジャー初完封。今季9勝目を挙げた。それからわずか45分後に試合に出場。全く疲れを見せず、さらにチームに勢いを生む2発を放って見せた。7回の第4打席で「けいれん」のため途中交代となった。・米データ会社エライアスによると、ダブルヘッダーの1つの試合で完封し別の試合で2本塁打を放ったのは大谷がMLB史上初。またMLB史上で1人の選手が1日で完封し、2本塁打を放ったのは大谷が51年ぶり3人目、完投と2本塁打を1日で記録したのは5人目となる。完封と2本塁打は1971年6月23日にフィリーズのリック・ワイズがレッズ戦に「9番投手」で出場し、ノーヒットノーランを達成し2本塁打をマーク。同年9月2日にレッドソックスのソニー・シーバートがオリオールズ戦に「9番投手」で出場し、1試合で9回3安打完封勝利と2本塁打を記録している。1日で完投と2本塁打は大谷とワイズ、シーバートの他、1962年にインディアンスのペドロ・ラモス、1961年にオリオールズのミルト・パパスが達成している。ネビン監督「8回を終えた後に、彼を見てみたら、『I'm finishing』(自分が投げきる)と伝えられた。彼が望んでいた。私もそれを理解できる」この日はダブルヘッダーで、第2試合は45分後に開始。「マウンドを下りて、彼の顔を見たが、『DHで出場できる。大丈夫』と言っていたよ」フィル・ネビン監督「かつてこんなものは見たことがない、それは確かだ。どのレベルであっても見たことがない」「われわれは、彼のしていることを当然だと思わないようにしている。毎日素晴らしいプレーをすることを期待しているとは言いたくない。だが、結果としてそうなっている。見ていて圧倒される」「これだけの注目を一身に集めながら、彼はこのレベルでパフォーマンスを披露している。それは、精神的に強い者だけができることだ。彼について私が最も感銘を受けているのはそこだ」タイガースのA・J・ヒンチ監督「大谷はフィールド上でベストの選手。この2試合、彼のやってのけたこと、彼の投打両方のベストを目の当たりにした」「彼は不可能なことをやってのけている。我々は1世代に1人の才能の持ち主と対戦している」「大谷が投げるすべての球が、打者のタイミングを狂わせた。他の投手のように同じ球種、同じパターンを繰り返すということを彼は決してしない。どこに投げてもアウトが取れる。彼は本当に優れた才能を持っている」
2023.07.28

親切で慈しみ深くありなさいあなたに会った人がだれでも前よりももっと気持ちよく明るくなって帰るようにしなさい親切があなたの表情にまなざしに、ほほえみに温かく声をかける言葉にあらわれるように子どもにも貧しい人にも苦しんでいる孤独な人すべてにいつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい世話するだけでなくあなたの心をあたえなさい(「マザー・テレサへの旅路」神渡良平)マザーテレサは1910年8月26日は、バルカン半島のマケドニアの首都スコピアで生れた。父はニコラ・ボヤジューとドラナフィル・ボヤジュー。兄弟は長女アガサ、長男ラザロ。マザーの本名は、アグネス・ゴンジャ。(?なんで両親と苗字が違うんだろ)父ニコラは、アグネスが9歳の時なくなった。スコピオでは、イスラム教徒が多く、キリスト教もギリシャ正教が主流だったが、アグネスはカトリックに属した。アグネスは聖心小学校に通い、ここで海外布教を知り、幼心に「異国の地で宣教活動に身を捧げたい」と願った。18歳のとき、ロレッタ修道院に入会志願した。母に告げると、部屋にひきこもるほど悲しんで、どうすべきか祈った。涙を拭って娘の前に現れ、「ゴンジャよ、心を固くし、主イエスと歩きなさい。」と許した。アグネスは1928年9月26日母と姉に付き添われ、スコピオ駅を発ち、ザグレブ駅で二人に別れを告げ、パリ経由でアイルランドのダブリンにあるロゼッタ修道院に入った。そして12月1日インドへと派遣された。カルタッタに着いたのは翌年1月、ダージリンのロレット修道院でテレサの名を貰い、この地で2年修練を積んだ。1936年、シスター・テレサはカルカッタ東部のエントーリにある聖マリア小学校で、地理と歴史を教えていた。1939年5月24日、テレサは終生誓願を立てた。もはや還俗は許されず、親の死に目にも帰省できない。この年、第2次世界大戦が起った。1944年テレサは聖マリア小学校の校長に就任した。34歳の時であった。1945年世界大戦は終り、インドはマハトマ・ガンジーの指導のもと独立したが、ヒンドウーとイスラムの間で紛争が続き、カルカッタでも大暴動が起き血の海に染まった。その年1946年ぼ9月10日の早朝、シスター・テレサはシャルダー駅から避暑地のダージリンで観想するために汽車に乗り込んで、ロザリオをたぐってカルカッタの暴動で傷ついていた人々をお祈りした。「あの方々が今日もよき生活を恵まれますように」と。汽車は、北上して、シルグリ駅で乗り換え、ダージリンに向う汽車に乗り、祈り続けていた。ヒマラヤ第三の高峰カンチェンジュンガが見えてきた。その時、突然魂の深みに神が語りかけてこられた。「すべてを捨てて、スラム街に出なさい。 そこで貧しい人々に仕えなさい。 あの見捨てられた人々こそ、私の友です。 そこでキリストに従うのです。」シスター・テレサはあぜんとした。思わず周囲を見回した。二つ向こうのボックスに白人の夫人がお喋りに夢中になっているだけだった。その声は再度響いた。「私についてきなさい。 私は貧しい人々とともにいます。 あなたはそこで人々に仕えなさい。」シスター・テレサは逡巡した。テレサは終生誓願を立てており、上長の許可なしに外に出ることはできない。それは、ローマ法皇の許可を得て、新たな修道会を興して初めて可能になる。苦しみ、そして祈った。 ああ、イエス様はおっしゃっている。 「あなた方によく言っておく。 私の最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことである」 あの見捨てられ、のけ者にされ、食べるものにもありつけず、ひもじい思いをしている人々を放っておいてはいけない。 一介の修道女の私に何ができよう。飢えている人はあまりに多い。しかし、シスター・テレサは、終生を貧しい人々に捧げることを決意した。「ハイ、私はあなたの命令に従います。」 ダージリンでの瞑想の日々、テレサはあの汽車の中での霊的体験を思って繰り返し祈った。そして確信した。 私の生きるところはスラムしかない。そこがイエス様が私に望まれる所だ。シスター・テレサ36歳のときだった。1997年9月5日(現地時間)午後9時半マザー・テレサがなくなられた。マザーはいつものように元気に活動し、夜になって呼吸ができないと苦しみだし、医者に連絡する間もなく午後9時半に息を引き取られた。一緒に働いていたシスター・フレデリックが付き添っていた。「マザーはいまやっとお休みをいただかれたのだ」とこぼれ落ちる涙をどうすることもできなかった。マザー・テレサは、第2の召命を受けて、実に50年間貧しい人々に仕えてきた。マハトマ・ガンジーも実践の人だった。非暴力と愛の実践によりインドの独立を勝ち取った。マザーテレサが愛した言葉だれかがやるだろうということは、だれもやらないということを知りなさい
2023.07.28
「安居院義道」 57莫忘想〔莫妄想か、「まくもうぞう」禅語であり、妄想することなかれの意味〕天命一定にして常なし。命を造(なす)は天なり。命を立つるは我なり。柔は強に克(か)ち、礼は義に克ち、故に謙虚は鬼神に克つ。陰徳を以て子孫後栄を請(ねが)ふ。 仁、仁心は一世の栄花、 義、正直は家を保つの元出、 礼、堪忍は万代の宝、 智、慈悲は子孫の禄、 信、倹約は身を立るの本、天命論中庸に曰く、天命これを性と謂(い)う、性に率(したが)う、これを道と謂う。道を脩(おさ)むる、これを教と謂う、道なる者は須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。この故に、君子はその睹(み)ざる所を戒慎し、その聞こえざる所を恐懼(きょうく)す。隠れたるより見へる莫(な)し。微(かすか)なるより顕(あら)はるる莫し。故に君子はその独(ひと)りを慎むなり。それ人なる者は、天地の精を得て、万物の霊と為る物なり。命は天の賦する所、形は精の舎(おる)所なり。舎に善悪高卑有り。賦に富貴貧賤有り。すなわちこれ天なり。人克(よ)くこれを守りこれを勗む。もし天の命を奉じ、その分に越ゆる無くば、厥(そ)の徳、日に新(あらた)に永して、終り有らん。故に題して天命論と名づく。しか云ふ。 天保七年丙申孟春 万歳楼識
2023.07.28

正しい鼻血の止め方・ティッシュではなく圧迫止血で正しい鼻血の止め方・鼻出血の止血法出血を止める救急措置の基本は「圧迫止血」。鼻血の場合も同じです。ただし鼻の骨がある硬い部分を圧迫しても出血は止まらないので、外から触って骨が無くて硬くない「小鼻の部分」を親指と人差し指でつまんで圧迫しましょう。圧迫時間の目安は15分です。よくティッシュを詰める人が多いようですが、これは直接的な止血効果はないのでオススメできません。圧迫止血をする前に鼻の中に詰め物をする場合も同様。出血が止まった後で詰め物を取ると、再度出血してしまう可能性があります。圧迫止血をする時に詰め物はしないようにしましょう。圧迫止血で止まるのはキーゼルバッハ部位からの鼻血のみ。それより奥からの鼻血の場合、外部からの圧迫止血では止まらず、出血部位の血管を直接止血する外科的な処置が必要な場合があります。鼻血が30分以上続くような場合は救急車を呼ぶことも考えましょう。💛昨日(7月27日)の夜、夕食後テレビを見ていたら いきなり鼻血こんなに出したのはコロナ前に倉敷→岡山と旅行して岡山のホテルの部屋でのこと以来翌朝岡山の病院の外科に行ったら、鼻血の箇所を焼く外科処理その日小豆島に行く予定を断念し、神戸で下車して観光して帰った。岡山の病院で鼻血の時 今は 1 顔を上向きにしたり、寝たりして気道をふさがない。下を向く。2 ティッシュを鼻に詰めない顔を立てて小鼻の付根を押えると看護士から教わっていて、暫くそうしてたら鼻血が止まった。岡山での経験が役に立った、良かった。この暑さだ、今日一日すぐにティッシュが出せるようにして用心しておとなしく過ごさなきゃ(^^)
2023.07.28

蓮池へ行くと終わりの白蓮の池に朱を含んだ蕾の先に赤とんぼが止まっている赤い蓮の華や葉を見渡しながらスロースクワットを30回蓮のうてなは種をこぼさんばかりに傾けていく種を吐き出すと茶に干からびて枯れていく蓮の命のいとなみ昨日の職場の健康診断で血圧が107-78という近来ない数値アメリカの血圧の基準は厳しく正常値は120以下&80以下で適合している140以上or90以上は高血圧stage2stage1の高めが130∼139or80·89だおそらく日本人男性のほとんどnormalを得られないのではと思われる日本では高血圧(家庭)は135/85以上だ果して何が良かったのか?前日睡眠導入剤を飲んでよく眠ったからこのところケールの青汁を飲むのが習慣化家人「血圧計がおかしかっただけよ」
2023.07.28
日本郵便、ゆうパック代引料金など値上げ 10月1日から日本郵便は、10月1日から郵便物の特殊取扱料や荷物の付加サービスなどの値上げを実施する。あわせて、ゆうパックやゆうメールなどで利用の少ない付加サービスの一部を廃止する。郵便物の特殊取扱料は現行価格から数十円の値上げとなる。一例として、一般書留料/現金書留料が435円から480円、簡易書留料が320円から350円、内容証明料(謄本が1枚のとき)が440円から480円、代金引換料が265円から290円に値上げされる。ゆうパックの付加サービスは、セキュリティーサービス料金が380円から420円に、代金引換料金(都度代引)が265円から290円に値上げ。本人限定受取サービスは廃止となる。ゆうメールは、一般書留料金が380円から420円、簡易書留料金が320円から350円、代金引換料金が265円から290円に値上げ。引受時刻証明、配達証明(差出時)、配達証明(差出後)、本人限定受取等のサービスは廃止される。
2023.07.28

サモア代表】指揮官、リアリーファノを絶賛。「いまも自身が進化しようと学び続けている。その姿が、若手にとってどれだけ大きいか」7月22日、サモア代表は北海道・札幌ドームで日本代表から勝利を挙げた。SOクリスチャン・リアリーファノはオーストラリア代表26を持つベテランも、サモア代表でプレーするのは、この日が初めてだった。7月22日、サモア代表は北海道・札幌ドームで日本代表から勝利を挙げた。ワールドラグビーの規定変更により、『最初の代表チームで最後に試合出場してから36か月間以上経過していること』、『選手が代表資格変更を希望する国で生まれている、または親や祖父母のうち誰かがその国で生まれていること』という条件を満たせば、2か国目の代表選手となることができるようになった。リアリーファノは、それらの条件を満たし、サモア代表として出場することが可能になった。試合前のナショナルアンセム時には感極まった表情を見せた。リアリーファノ「言葉にし難い気持ち。祝福を受け、特別な気分。家族、国を代表してプレーできたことを誇りに思う」「経験を伝えようとしています。試合の中の瞬間、瞬間にやるべきことや、日々の準備の必要性、マッチデーの過ごし方。自分の経験、知識をもとに伝えようと思ってきました」セイララ・マプスア ヘッドコーチ「若い選手たちは言葉を聞くだけでなく、言った本人がどういう行動をしているかを見ています。クリスチャンは、テストマッチの準備をどうするかを示してくれました」「チームの外にいる人たちは試合の80分のことしか分からないと思いますが、毎日をクリスチャンらと過ごすことで、どれたけ影響があるか。彼はチームにインパクトを与え、本当にオープンマインドで経験をシェアしてくれる。そして何より、彼が自分自身を成長させるため、学び続ける姿勢を見せてくれているところが素晴らしい」白血病克服のリアリーファノ 競泳池江璃花子にエール「強くあり続けていただきたい」2019年6月1日リアリーファノは、日本のトップリーグ・サントリーへの入団が決まっていた2016年8月に白血病が発覚。長期休養を余儀なくされたが妹からの骨髄移植受けるなどして見事に克服し、翌17年には欧州のプロ14のアルスター(北アイルランド)で復帰を果たした経緯がある。池江へのエールを求められ、「私はまわりの方のサポートに敬意の念を持っている。周囲の応援があったことが、自分の闘病中のモチベーションになった」「強くあり続けていただきたい。まわりのサポートや応援を、いい意味でうまく使って、力にしてほしい。ラグビー界、スポーツ界から励まされた私は、そういう意味でラッキーだった。全ての人に感謝したい」
2023.07.28

ボーイズ・ビー・アンビシャス第二集ー米欧留学篇ー 目次 編集者自序 2第一編 コラム Ⅰ アメリカへ―それぞれの旅立ち―1 広井勇と三人組(内村・新渡戸・宮部)のアメリカ留学42 広井勇の海外留学の決意 63 広井勇のビジョンとワーク・ハード 84 新渡戸稲造のアメリカ留学の決意 105 新渡戸稲造の渡米のエピソード「帰雁の蘆」より 126 内村鑑三の破婚の真相と渡米のアンビシャス 147 内村鑑三は、なぜ、何しに何になる為に渡米したのか 168 宮部金吾のハーバード大留学と在米四人組の絆 18 Ⅱ 内村鑑三 エルウィンからアマストへの道1 内村鑑三のエルウィン白痴院のヨブ記体験 202 ソクラテスのデーモンと内村の聖霊の働き 223 断食の奇跡:「ホーム」エルウィンの白痴院 244 新渡戸と内村の手紙(親しい交りから絶縁へ) 265 内村の新渡戸への絶縁?の書 286 読書会にて エルウィン日記書簡と新島襄書簡 307 新島襄と内村鑑三―アマストへの道 348 「内村鑑三と新島襄」魚木忠一 369 グロスターにおけるSaying(神の約束)体験 4010 宮部金吾の見たアメリカの内村鑑三 42Ⅲ アメリカ・ドイツ留学の新渡戸稲造、勉学と結婚1 ジョンズ・ホプキンズ大学の苦学生 442 新渡戸稲造のフレンド派入信とメリーとの出会い 463 稲造とメリー 「神のお導きによる結婚」 484 アメリカ・ドイツのエピソード「帰雁の蘆」より 505 新渡戸の教育のヴィジョンは米欧留学中育まれた 54Ⅳ 「代表的日本人」と戦後日本の土台内村・新渡戸1 「代表的日本人」と日本は高貴な野心を有する 562 二宮尊徳は「宇宙の永遠の法則」の意識を持つ 583 内村鑑三の広井勇あて手紙 604 戦後日本は新渡戸と内村の土台に立てられた 645 桜川市講演会にて 回心とは向きが変わること 66 終りに 70第2編 資料集 目次 72編集者自序 本書は四人の若者の『高貴(ノーブル)な生涯』についての本である。前書「ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集―クラーク精神&札幌三人組と広井勇」所収の「旧友広井勇君を葬るの辞」において、内村鑑三は「私ども五十年前に高貴(ノーブル)なる生涯を誓うて共に学窓を出ました。そして神のお導きのもとにそれぞれの誓約に叛(そむ)かざりし事を感謝します」と述べた。『高貴な生涯』とは何か?それは本書資料集で明らかになろう。ここで『二宮尊徳の会』が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を発行する理由と経緯について記す。 本会は『報徳記』を読む会として立ち上げ、『報徳記』全巻読了記念に日光市今市の報徳二宮神社に見学会を実施した時、砂糖王と称された鈴木藤三郎が奉納した『報徳全書』と出会った。これは二宮尊徳の遺書約一万巻を約三年の歳月をかけ二十名の書生に謄写させ、二千五百冊の謄本を作成したものだ。 私達は鈴木藤三郎の『願文』に感動し、顕彰事業を企画し、『日本近代製糖業の父 台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎』、『報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎』、『二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎』、『砂糖王鈴木藤三郎』を逐次刊行した。二宮尊徳と鈴木藤三郎を研究するうち、札幌農学校に係る人々に関心を持った。内村鑑三は『代表的日本人』で二宮尊徳を農民聖者として称揚し、『予が見たる二宮尊徳翁』で尊徳を高く評価した。新渡戸稲造は鈴木藤三郎が台湾製糖株式会社社長の時、台湾総督府の糖務局長として貢献し、台湾高雄市の糖業博物館では、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、鈴木藤三郎の四人が台湾の製糖業の貢献者として写真に並ぶ。また台湾で烏頭山ダムを築造し台南の荒地を沃野と変え、現地で敬愛される八田與一は東京帝国大学工学部で広井勇の教え子であった。広井も内村らと同期生である。広井は日本の土木工学に「民のため人類のため」という考えを注ぎこみ、日本の工学を「工学的良心」に満ちた品格あるものとした。私たちは報徳精神とともに札幌農学校精神は日本の近代化の一源流といえるのではないかと考えた。本書においては、内村鑑三等の個人史的研究ではなく、札幌農学校二期生の宮部・内村・新渡戸・広井を中心に集団的にとらえた。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の視点の一つは、集団的な経済倫理的活動(エートス)が近代資本主義の原型を作ったというものである。私たちは、ピューリタニズムはヨーロッパとアメリカにだけにもたらされたのではなく、クラークがピューリタニズムの倫理を札幌の農学校に持込み、二期生を中心として日本に広まったと考える。また、台湾の糖業政策の新渡戸稲造と実業の鈴木藤三郎という役割が日本近代化の象徴であると考える。札幌農学校精神とは、文明史的に見れば、イギリスでピューリタン革命を起こし、アメリカにピルグリム・ファーザーズが契約による新しい国作りをしたピューリタニズムのエートスが日本へ伝播したものと見ることもできる。それはあたかも仏教がインドから中国へ、中国から日本へと伝播したことにも比定できよう。一方、報徳精神は江戸時代後期、二宮尊徳が提唱実践したものだが、至誠、勤労、分度、推譲という『報徳の精神』は、倫理的生活態度においてピューリタニズムに近似する。二つの精神は日本が自発的に近代化することに貢献したと考える。本書は、「資料集」として編集した。資料を読んでもらう工夫として、最初にナビゲーション的な解説を施し、資料と一体的に読めるようにした。また資料を読みやすくするため、ひらがなを多用するなど、原文を現代語表記に改めた。文責は編集者にある。専門的研究に当っては、原典にあたって頂きたい。「二宮尊徳の会」は二〇〇八年六月に立ち上げ、本年で五年になる。これまで「報徳記」等の読書会を行うほか、本年で没後百年という鈴木藤三郎氏の顕彰活動を行った。会員の継続的な努力に感謝する。平成二十五年十月四日 編集者
2023.07.28

バウアー「守りに救われた」6回の牧の併殺プレーを称賛 7イニング1失点で中日戦初勝利【DeNA】7/27(木) DeNAのトレバー・バウアー投手が7勝目を挙げた。最速158キロの速球と多彩な変化球で、中日打線を7イニング1失点に抑えた。「苦しい投球だったが、何とか試合をつくる方向を見つけて粘った。守りに救われました」と大汗をぬぐった。 初回1死二塁。宇佐見の中飛を桑原がフェンスにぶつかりながら好捕。6回1死一、三塁では高橋周の二ゴロを捕った牧が一走・大島にタッチした後、一塁に滑り込んで併殺にした。同点の危機を切り抜けたプレーに、「併殺にするには打球が弱かったので、間違いなく点が入ると思った。とっさにああいう判断をしたことにびっくりした」と牧を称賛した。3連戦を勝ち越した三浦監督「接戦を取れたというのをチームの力に変えていきます」💛バウアーの時、守りでエラーすると激高されるのが皆わかっているのでいい緊張感で最高のプレーをしよう、そのための日々の訓練がされているのかな(^^)【DeNA】バウアー7勝目「どういう考えであのプレーを」ピンチ救った牧の好判断併殺に感謝バウアーは広島で開催された20日のオールスター翌日のオフに宮島、原爆ドーム、平和記念公園を訪問。「広島の今の街の様子を見て、そこから原爆ドームを見ると、これが1秒でこうなったのか、その1分後には、どうなったかということを考えるとたくさんのことを考えさせられた」かつては自身への怒りを込め、ほえた。この日は守備のミスにも自ら切り替えるように声かけ。試合後は牧のビッグプレーを含めた味方の守備、リリーフ陣に「本当に助けられた」と感謝。「打たれた瞬間、これは1点は仕方ないと思ったが、どういう考えであのプレーを思いついたのか、すごいと思った。点が入らなかったことに気付くのが遅れるほどびっくりした。あのプレーに救われた」「後半、苦しい状況でもファンの声援が大きな力になったので、ありがとうございます」▽DeNA三浦監督「ランナーを出しながらも、粘り強く投げた。ミスもありましたけど、しっかりとカバーして、牧のプレーも好判断で大きなプレーでした」DeNA・森原康平が雪辱の移籍後初セーブ『ない脳みそで考えんな』三浦監督の愛あるゲキに応えた2023/7/27 森原康平投手*が2―1の九回に3番手で登板。1回を三者凡退で抑え、昨季の楽天からの移籍後初セーブを挙げた。7月25日の中日戦で5―1の九回に登板するも3安打2失点、なお2死満塁のピンチで途中降板。「勝手にいろいろ余計なことを考えていた。監督にも『ない脳みそで考えんな』と言われて、考えても駄目だと。自分のスタイルでどんどんゾーンに投げ込めるように準備して、集中して投げられた」三浦監督「きょうはふっ切れた感じで、ストライク先行で投げられていた」*研究熱心。ウイニングショットのフォークに磨きをかけるため、2021年2月のキャンプではヤンキースから復帰したばかりの田中将大投手に“弟子入り”した。臆することなくスプリットの握り方を積極的に質問。「あれだけの投手がどういう練習をしているのか。見ているだけでも全てが勉強になる」。大投手のブルペンでの投球にも目を凝らし、リリースのタイミングなど成長のヒントを探り続けた。💛きっとDenaではバウアーに弟子入りし、森原投手なりの「金色の道」を歩くことを期待
2023.07.27

報徳記 巻之三【6】(2)烏山仕法中廃菅谷放逐せらる烏山仕法の初めに當(あた)り、先生菅谷に諭(さと)して曰く、古(いにしへ)より國(くに)の爲に力を盡(つく)すもの、往々(おうおう)其(そ)の事を遂ぐるあたはず、中道(ちゅうだう)にして讒人(ざんにん)の爲(ため)に廢(はい)せらる、豈(あに)讒人(ざんにん)のみの罪ならんや。忠臣も亦(また)其の身を處(しょ)すること至らざるが故なり。何となれば、國(くに)の衰廢(すゐはい)艱難に當(あた)りて之を興し、之を安んぜんとするもの、何ぞ平常のものと共に其の禄を食(は)み、其の身を安んじて國(くに)を興すの理あらんや。自(みづか)ら禄位をナゲウち、之を國家(こくか)再興の入費に加へ、其の身國中(こくちゅう)第一の貧者(ひんしゃ)となり、終身の苦を盡(つく)し、上下(じょうげ)の爲に千萬(まん)の勲勞(くんらう)を盡(つく)す時は、一藩之を視(み)て恩禄を不足なりとするの卑心(ひしん)忽(たちま)ち消(せう)し、領民之を見て飢寒の苦をも當然(たうぜん)なりと覺悟(かくご)し、唯(たゞ)自ら國(くに)の爲に力を盡(つく)すことの足らざるをのみ憂ふるに至らん。一國(こく)の人情是(かく)の如くならば、何の大業(たいげふ)か成(な)らざらんや。假令(たとひ)其の身の智足らずして過ちありと雖も、無禄にして萬(まん)人に先立ち、國の爲に心力(しんりょく)を盡(つく)せるの勲勞(くんらう)は、讒人(ざんにん)と雖も之を廢(はい)することあたはず。是大業を成し其の終りを遂ぐるの本原(ほんげん)なり。惜哉(をしいかな)、古人といへども此の道を蹈(ふ)まず。是を以て奸人(かんじん)の讒言(ざんげん)を免れざるなり。子(し)今國家(こくか)の興復を遂んとせば、必ず其の禄を辭(じ)し、無位無禄にて忠義を盡(つく)すべし。然らざれば賢人猶(なほ)あたはざるの大業を平人にして成さんとす。其の成功の難(かた)き知る可(べ)きのみ。然りといへども家族あり、俄(にはか)に恩禄を辭(じ)せば飢亡(きぼう)を免れ難し、烏山の出納(すゐたふ)に與(あづか)らざる米粟(べいぞく)、我より之を贈り、子(し)の活計(くわつけい)を爲さん。此の道を蹈(ふ)むことあたはざる時は、良法を發(はつ)するも何の詮(せん)かあらんや と諭(さと)せり。菅谷大いに感じ烏山に歸(かへ)り、祖先以來の禄百五十石を辭(じ)したり。君之を領中再復の用度(ようど)に加ふ。先生之を聞き、其の禄に換はるの米粟(べいぞく)を送り、菅谷奉仕の入費に充(み)つ。而(しか)して常人何ぞ此(こ)の如き深理を知らん、知らずして人を謗(そし)るは凡庸の常也。是(これ)に於(おい)て人々菅谷を誹謗(ひぼう)して曰く、笑ふべし、大夫(たいふ)菅谷恩禄を辭(じ)して二宮の扶助(ふじょ)を受けたり。大夫は一國(こく)の仰ぎて其の指揮に隨(したが)う所なり。君禄を受くればこそ大夫なり、臣なり。其の禄なくんば流浪人(るらうにん)と何ぞ異ならん。今、二宮の扶助(ふじょ)を以て一家を立つ、是二宮の家來(けらい)なるべしと嘲(あざけ)る。菅谷之を聞き歎(たん)じて曰く、恩禄を辭(じ)し興復の道を行ふ時は人(ひと)之を感じ、人も亦之に則(のっと)り、一藩皆禄を辭(じ)すること能(あた)はずと雖も、禄扶持(ろくふち)の不足を憂ふるの卑心(ひしん)を消(せう)し、良法其の終りを遂(とげ)んと思ひ先生の教に隨(したが)ひたり。豈(あに)圖(はか)らんや、人情此(こ)の如くにして、却(かへ)って誹謗談笑して我を輕侮(けいぶ)せんとは。此(こ)の如くなる時は、禄を辭(じ)して仕法に益なきのみに非ず、其の害少なからず、止(とゞむ)るには如(しか)ざる也(なり)と、先生に問はずして又其の禄を受け、先生の贈米(そうまい)を辭(じ)せり。是(これ)菅谷一世の過(あやまち)にして、烏山の仕法中廢(ちゅうはい)の根元(こんげん)なり。烏山の仕法を始めるに当って、尊徳先生は家老菅谷八郎右衛門にこう言われた。「昔から国のために力を尽くす者がいるが、往々にしてその事を成し遂げることができない。 道半ばにして、讒言する者によって廃除される。 これは讒言する者の罪だけではない。 忠臣もまたその身を処することが至っていないためである。 なぜかといえば、国の衰廃艱難にあたって、これを興し、これを安んじようとする者は、どうして平常の者とともにその禄をはみ、その身を安んじて国を興すことができる理があろうか。 自ら禄位をなげうって、これを国家再興の入費に加えて、その身を国中の第一の貧者となる。そして、その身を終るまで苦しみを尽くして、上下のために千万の勲労を尽くすときは、一藩これを見て恩禄を不足だとする卑しい心がたちまち消える。領民もこれを見て飢えや寒さの苦しみを当然だと覚悟し、ただ自ら国のために力を尽くしていないことを憂うようになるであろう。一国の人情がこのようであれば、どのような大業もなしとげることができる。たとえその身の知恵が足らずに過ちがあったとしても、無禄で万人に先立って、国のために心力を尽くしている勲労は、讒言する者にもこれを廃することはできない。これが大業を行って、その終りを遂げる本源にほかならない。惜しいことに、古人もこの道を踏まずに、讒言を免れなかったのだ。あなたが今一藩の復興を遂げようと思うならば、必ずその恩禄を辞して、無位無禄で忠義を尽くしなさい。そうでなければ賢人ですらなお為しがたい大業を平凡な人間が成功することは難しいであろう。そうはいっても家族もある。すぐに恩禄を辞せば、困窮してしまうであろう。烏山の財政に関わらない穀物を私が贈ってやるから、それであななの生計をたてよ。この道を踏むことができなければ、良法を発しても仕方があるまい」と諭された。菅谷は感銘を受けて、先祖以来の禄150石を辞して烏山復興の入費にあてた。尊徳先生はそれに代わる穀物を贈って、菅谷の入費にあてた。ところが烏山の人々は菅谷を誹謗して、家老ともあるものが恩禄を辞して二宮の扶助を受けるとは笑うべきだ、まるで二宮の家来だと嘲笑した。菅谷はこれを聞いて、恩禄を辞して烏山復興の入費にあてれば、烏山藩士が分度確立によって恩禄が不足するようになったという卑しい心が消えるかと思ったら、かえって私をあざけり軽侮する、これでは禄を辞した甲斐が無いと尊徳先生に聞かないで勝手に禄を受けて、尊徳先生から贈られてきた贈米を断った。これが菅谷の一世の過ちであり、烏山の仕法が中途で廃止した根元である。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.27

「訳注静岡県報徳社事蹟」 が横浜市立図書館で蔵書となった。神奈川県内公共図書館で尊徳生誕の小田原市 安居院生誕の秦野市 南足柄市 伊勢原市 厚木市 平塚市 藤沢市で蔵書となっている。横浜市中央図書館で開架となっているから、一般の人が閲覧したりあるいは借り出しできる。秦野の方に事蹟を郵送したばかりだ。「初めて連絡させて頂きます。小生 秦野市に住んでおります。最近 ゆかりの 安居院庄七 に興味を持ち 繋がり で 二宮尊徳 も合わせて 資料を見たりで 尊徳さんに付いて更に知ろうと思い図書館にて、貴会発行の 二宮先生語録 を発見、個人的に入手可能か教示頂ければ、とmailさせて頂きました。突然ですみませんが宜しくお願いします。」「〇〇様メールありがとうございます。二宮先生語録 は「報徳記を読む」シリーズの第5集にあたり、図書館に寄贈するために作成し、大学図書館、ゆかりの公共図書館に寄贈したもので、残部は手元にありません。つい最近、昨年クラウドファンディングで資金を募集し作成し、寄贈した「静岡県報徳社事蹟」が秦野市立図書館で蔵書となっています。図書館で手にとって読んでみていただいた上で、必要なら、まだ手元にいくらかありますので「報徳の師父第1集」とともに送付は可能ですので、またご連絡ください。」「返信ありがとうございます。第1集新版は、クラウドファンディング賛同者に差し上げるために作ったもので非売品で値段がついていません。通信第11号で「安居院義道」の道歌を示しましたが、味わうべきものがあります。二宮尊徳先生は道歌を多く作って、民衆に報徳の原理をわかりやすく諭そうとされました。それを受け継ぐ者は、安居院庄七が第一だと思います。秦野市内で報徳や安居院庄七の遠州報徳普及が伝わるよう願います。ご連絡ありがとうございました。まだ暑さが続いています。熱中症などお気をつけください。」
2023.07.27

八田與一の師・広井勇と「紳士の工学の系譜」「二宮尊徳の会」では「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士―紳士の工学の系譜―」を二〇一四年七月に刊行し、全国の大学図書館、公共図書館に寄贈しました。 また「ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集」の資料編には「故廣井勇君の小伝」を収録しています。 広井は旧高知藩士広井喜十郎の長男として一八六二年(文久二)九月十二日高知県佐川村に生まれ、昭和三年十月一日東京市牛込の自宅で亡くなります。六十七歳でした。九歳の時、父が亡くなり、十一歳で上京し、叔父片岡利和のもとに身を寄せます。東京外国語学校に入学した後、工部大学校予科へ転じ、一八七七年(明治十)札幌農学校の官費生募集に応じて二期生となりました。同級生に宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造らがいます。広井は同級生六名とキリスト教の信仰に入りました。また、アメリカの土木技師ウィリアム・ホイラーに工学を学びました。札幌農学校ではそれぞれ天賦の才能にしたがって、規定の学科以外に特定の学科を選び研究し、卒業後はその専門を以て開拓使に奉職することになっていました。広井は土木工学を選び、ホイラーに従い数々の設計等を行いました。広井の札幌農学校卒業演説は「最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり」で、北海道の農業振興にはキリスト教道徳が必要であるというものでした。一八八一年(明治一四)卒業すると、広井は開拓使御用掛の辞令を受け、幌内鉄道工事の一部を担当したりします。内村鑑三は広井の告別式で北海道鉄道の橋梁の建設に従事していた頃の広井について語っています。「君は君の当時の工学的知識の全部をしぼりてその任に当たりました。そしてようやくにしてその橋は成り、列車の試運転が行われんとせし時、君は顔色あおざめ、四肢震いて憂慮に堪えざるものがあり、列車の無事通過を見て安心して胸を撫で下したと聞きました。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります」(第一集一四二頁) 一八八三年(明治一六)六月七日付けで広井が宮部宛に出した英文の手紙には「僕が君に打ち明けた宗教上の確信は日に日に強まるばかりだ。僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト教徒の最大の義務だ」とあり、手紙に添えられた詩に「我らは救い主を固く信じ 生涯闘い続ける ついに勝利した時闘いを止め 神の栄光を分かちあうのだ」とあります。(第一集一一四頁)同年十二月広井は同級生中で一番先に留学します。ミシシッピー河の治水工事に従事するなど、働きながら工学を研究する生活を続け、後にアメリカ留学を果たした新渡戸、内村、宮部と親交を深めます。 一八八七年(明治二〇)広井は札幌農学校助教に任ぜられ、土木工学研究のため三年間ドイツ留学を命ぜられます。一八八九年(明治二二)七月帰朝し、九月に札幌農学校教授として新設の工学科の運営に苦心努力し、八年間教育に従事し、岡崎文吉、真嶋健三郎など優れた工学者を育成します。『広井勇伝』には、明治二三年頃、ドイツ艦隊が小樽に寄港し司令長官が札幌に来て道庁を訪問し、長官が広井に通訳を依頼しましたが、「今、授業中です」と平然と授業を続けたというエピソードが紹介されています。 広井の設計監督による小樽港工事は明治三0年五月に始まり、四一年六月まで十一年間にわたる大工事でした。この工事で広井は科学的実験の結果を経て、始めて火山灰をセメントに混和してコンクリート・ブロックを作り、これを大規模に使用して好成績を収めました。明治三三年一二月二五日の大暴風雨の際の事が市立小樽図書館所蔵の「原稿」に記されています。「山のごとき激浪が非常の力でもって防波堤に衝突し、その勢いといったら実にたいしたもので、積重機を平気で打ち越え、積重機の上の枕木等を皆さらわれた。今まで多大の辛苦をして、漸くここまで仕上げたことがすべて水泡に帰してしまう。自分の熱血をそそいだ防波堤と共に情死する決心をした。暁近くまで心配したが、疲れで寝込んでしまい、翌日十時頃目がさめてみると、昨日と打って変って好天気なのに喜んで飛び出してみると積重機が少し傾いただけで無事だった。その時の嬉しさはいいようのないほどであった」(第四集一三三―八) 一八九九年(明治三二)九月広井は東京帝国大学教授に任ぜられ、大正八年までおよそ二十年間教鞭をとり、幾多の優秀な土木工学者や技師を輩出しました。東京帝大時代の授業について『広井勇伝』では、朝の九時からの授業に一人でも遅刻者がいると、講義はさっさと切り上げ、級の総代は教授室に呼びつけられ「教室は寄席ではない、学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講するべきものである」と言い渡され、広井の授業中、学生はいつもより早く腰掛に座って、静かに広井を迎えるようになったといいます。(第四集一二頁) 広井はアメリカ留学中一八八八年にニューヨークのバン・ノストランド社からプレートガーダー橋の設計参考書を発行しています。この本はハーバード大学の土木工学のチャプリン教授が「これは貴国の人が書いたもので、他に比類のない良書です」と宮部に語ったように、広く教科書・参考書として採用されました。英語による出版もまた広井が新渡戸や内村に先駆けて出版したのです。(第一集一四三頁) 内村は「旧友広井勇君を葬るの辞」(第一集一五五―九)において「君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に貴いのであります」と述べています。内村は最後に述べます。「『この貧乏国の民に教えを伝える前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。」 八田與一の台湾における事業もまた、広井の「紳士の工学」を受け継いで、「一種独特の永久性のある事業」が刻印されているように思えます。
2023.07.27

報徳記 巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる烏山領中の衰廢(すゐはい)上下(じやうげ)の艱難極(きは)まれり。先生の丹誠良法を以て、申(さる)の大飢(たいき)に當(あた)り飢渇の民を救ふこと數千人、百年の廢地(はいち)を擧(あ)ぐること貳(に)百貳拾(にじゅう)四町歩(ちやうぶ)、餘分外の米粟(べいぞく)を生ずること貳千苞(べう)、兩(りょう)三年にして是(こ)の如く國益顯然(こくえきけんぜん)たれば、上下(じやうか)艱難の時に隨(したが)ひ、國家の再興を待たば、舊復(きうふく)の道成就せんこと十年のうちにあり。然るに天性寺圓應(えんおう)忽然(こつねん)として寂(じやく)し、菅谷一臂(ぴ)を失ひたるが如く大息せり。仕法の道是より衰弱に赴けり。凡そ奸人たるもの、善道盛んなる時は其の意に阿諛(あゆ)して力を盡(つく)すが如し。少しく其の隙あるを見れば、之に投(とう)じて善道を破り、忠臣を妨害すること至らざる所なし。是(これ)和漢古今小人(せうじん)の常なり。 圓應既に没し、菅谷一人の指揮足らざる所あるを見て讒言(ざんげん)を入れ、上(かみ)君の心を惑わし、下(しも)國民の目を暗(くら)まし、仕法の爲に一藩艱難に迫れりと唱へ、藩士を煽動し、遂に仕法を廢(はい)し、開田貳百貳拾四町の出粟(しゅつぞく)貳千苞(ぺう)を分内へ入れ、目前の艱苦を補はんことを謀(はか)り、突然として菅谷某(ぼう)を放逐し、分度を破り、良法を廢(はい)せり。 天保の大飢饉にあたって、尊徳先生は天性寺の境内に救助小屋12軒を建て、桜町から穀物を荷車に載せて運び込み救助にあたった。烏山の領民は驚き、穀物を運ぶ車を礼拝したと伝えられる。 天保7年12月25日までには米252俵を送り、桜町からの穀物の輸送は年を越えて増加し、翌年の天保8年5月、麦が実って焚き場を閉鎖するまで約半年に米243俵、ひえ234俵、種もみ171俵余に及んだ。 尊徳先生は救助小屋で飢えた人々に粥を与えるとともに、開発仕法を行って壮健な者は開発に従事させて通常より高い賃金を与え、自主的な再建を促した。また、勤労意欲を増すため、農業に精を出す者を記名投票で選挙させ、投票の多かった順に開発資金を貸与したり、鍬などを与えたりした。烏山の領民はそうした救民開発を目の当たりにして良法であることが分り、尊徳先生に本格的に仕法を実施することを要望した。尊徳先生は当時小田原領内の飢饉救済にあたり、また仕法も手広くなっていたことから再三断られた。「烏山候二万石において足らないのはなぜか。 これ一つに財政上の節度がないためである。 天命の示すところに安んじてこの艱難を常とする覚悟がなければ国の衰廃を興すことは不可能である。 烏山は烏山の分を守り、艱難に安んじて国民を恵み、その廃亡を興すのみである。」 菅谷その他は、上下一致してこの道を守ることを誓い、尊徳先生はやむをえず烏山10ヵ年の租税を調査し、その分度を確立して、再建策を作った。当時、大阪詰めとなっていた烏山の藩主は喜んで謝意を表する直書を桜町に送った。「野州領分の儀、年来衰廃、別して昨年の儀は天災凶作にて、窮民とも飢渇に及ぶべきところ、救助の儀重々手あてこれあり、一人も飢えることなき段、全く善種回され候ゆえと厚意実に紙表に謝しがたきかたじけなく存じ候。まさに今般菅谷八郎右門大阪に登り仕法の諸帳面を持参し一覧を遂げ候。荒地帰発初、報徳の道開け、この分にては遠からず復古の基建つべしと悦び候。・・・10月26日」 こうして仕法の成果は着々とあげつつあったが、円応和尚と菅谷は厚木の烏山領内にも仕法指導にも赴き、かの地で流行病にかかり、菅谷は回復したものの、円応和尚は亡くなった。 天保9年は豊作であったが、仕法で土地が開け、豊作で分度外の収入が多いとあって、藩政の中で緊縮財政を続ける必要はない、分度生活は必要ないという声が高まってきた。 天保10年12月江戸から大石総兵衛、大塚孫八郎両名が烏山に直書をもてきたって重役会議を開き、仕法廃止について協議した。その内容は「二宮は小田原へ引き移るから諸方の仕法を謝絶するというからやむを得ない事情だから仕法を断る」というものであった。反論も出たが直書のもとに仕法謝絶が決まり、17日付けで菅谷は役職辞退を申し出た。12月25日に隠居を申し付けられたのであった。菅谷はその後もしばしば桜町に往来したが、藩政は疑いの目をもってその行動を監視し、天保11年12月11日ついに菅谷は放逐されたのであった。「その方儀一昨年中御咎め仰せ付けられ、さる11中慎み御免せられ候ところ、直に他行望み候につき、内々心付け申し達し候えども用いず桜町へまかり候、これにくわえ一応の願いもこれなく御府内へまかり出で、小田原表にも暫時まかりあり、かねがねの御規定も破り・・・」とその行状が不埒であるから永く御暇を下すから早々に引き払えというものであった。 菅谷はやむをえず、鴻巣村の名主、郡司十郎右衛門の家に移り、天保11年を送った。 天保12年7月14日に桜町に来たって、その不満を先生に訴え、盲人の弟のため20両の借金を申し込んで、先生の説諭を受けることとなるのである。(「二宮尊徳傳」(佐々井信太郎)より)「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.27
○売る人は成丈(なるだけ)元を安く買ひ、上手をいふて高く売るらん買方の心は誰も同じ事、値も格好で品のよいのを雑費やら懸たほれやら引去って、其値で売れば同じ事なり現金で元値限りに売る時は、皆下げ銭で遠くから来る安心なこの商売の味ひを、しらねば急に取てかかれず
2023.07.27

YOU は何しに日本でニューヨークから来た40歳の男性が映画「ロスト・イン・トランスレーション」の聖地巡礼に来たというので同行取材していた。行った先は渋谷のスクランブル交差点、主人公が宿泊した部屋、シャブ禅それぞれの場所で主人公が来ていたような服に着替え、シャブ禅では仲居の女性に同じセリフをおねだり。すっかりなりきっておお悦び「ビルと同じ悩みを抱きながら、明日からまた頑張れる」ロスト・イン・トランスレーション監督・脚本ソフィア・コッポラ、出演ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンコッポラ自身が若いころ日本に滞在しており、その体験をもとにした半自伝的作品と告白している。『ロスト・イン・トランスレーション』は言語問題だけでなく夫と妻、男と女、老人と若者、友人間などの現代社会多くの人間関係における相互理解の難しさ(アノミー)をテーマとしている。その孤独感を増幅する演出として、日本以外での上映に際しても、日本語のセリフには意図的に字幕を添付していない。この映画によって渋谷スクランブル交差点が世界中に知れ渡り、その後の外国人観光客の来訪も大幅に増えている。The Shibuya scramble intersection crossing scene from Lost in Translatio
2023.07.26

Q 杏里の「オリビアを聴きながら」で、出会った頃はこんな日が来るとは思わずにいた。making good things better いいえ済んだこと、時をかさねただけという歌詞の英語の意味がわかりません。A オリビアニュートンジョンの曲に"Making a good thing better" (good things と複数形ではない)というのがあって、これは邦題では「きらめく光のように」と訳されています。内容は愛は、限界のないとても深いもので、このままでいいなんてことはない、"いいものをもっと良くする" ことです。Making a good thing better良いことをより良くするThat's the way we're gonna stay togetherそうやって私たちは一緒にいられるの杏里のデビュー「オリビアを聴きながら」は名曲で、耳に残る。お気に入りの唄 一人聴いてみるのオリビアは淋しい心 なぐさめてくれるからジャスミン茶は 眠り誘う薬私らしく一日を 終えたい こんな夜出逢った頃は こんな日が来るとは思わずにいたMaking good things betterいいえ すんだこと 時を重ねただけ疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの眠れぬ夜は 星を数えてみるオリビア・ニュートン=ジョン(Dame Olivia Newton-John1948年9月26日 - 2022年8月8日)は、オーストラリア出身のイギリス人ポピュラー歌手。1970年代から1980年代半ばにかけて多くのヒット曲を放ち、高い人気を博した。オーストラリア勲章(英語版)、大英帝国勲章を受章2021年秋に、日本政府より『日本国の音楽文化の発展及び友好親善に寄与した功』により旭日小綬章が授与された。「日本は大好きな国」 オリビアさんに旭日小綬章イングランド・ケンブリッジ生まれ。母方の祖父はアインシュタインとも親しかったドイツ出身のユダヤ系でノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン (Max Born)、ウェールズ人の父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授であった。5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。1974年のシングル「愛の告白 (I Honestly Love You)」が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。1975年にアメリカに移住した後も「そよ風の誘惑 (Have You Never Been Mellow)」などのヒットを連発する。There was a time when I was in a hurry as you areI was like you私もあなたのように急いでいた時があったThere was a day when I just had to tell my point of viewI was like youあなたのように自分の意見を言わなければならない日があったNow I don't mean to make you frownあなたのようにしかめっ面をさせるつもりはない。No, I just want you to slow downゆっくりしてほしいだけHave you never been mellow?まろやかになったことはないの?1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の「フィジカル」をリリース。全米でビルボード10週連続1位、キャッシュボックス8週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録環境保護活動などに取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。1992年には乳がん闘病中と公表、以後はがん治療の啓発活動にも力を入れるようになった
2023.07.26

広井勇〔後列左より3人目、ハンチングをかぶっている〕と小樽築港事務所所員明治31年8月撮影 「小樽築港時代のシビルエンジニアー広井勇とその設計思想」1ページ 小樽港北防波堤の建設が始まったのは明治30年(1897年)だった。それ以前わが国における本格的な築港事業は、パーマーなどお雇い外国人の知識・経験・技術に依存せざるを得ない状況にあった。それにもかかわらず、明治25年(1892年)には、パーマー指導の横浜築港工事においてコンクリートブロックに亀裂・崩壊が生じたことが発見され、築港事業を推し進めていた明治政府に大きな衝撃を与えた。こういう状況の中で、日本人技術者が近代的な築港事業の調査・設計・施工全般にわたって指導することは、誰も想像できなかった。2ページ• 「小樽港湾調査報文」は広井が小樽築港に先立って、小樽の気象、海象などを調査し、北垣国道北海道庁長官に提出した報告書である。わが国における先駆的な報告書である。• 深浅測量、干満、温度、海底の地質、風浪、潮流等の調査とともに、試験工事による海底の積載力、捨石の挙動等、波浪の防波堤付近の海底における動作、波浪の高さ・長さ・速度・圧力の測定ならびにセメント及び抗張力試験等を実施し、それに基づいて築港の設計を行っている。 「小樽港湾調査報文」(浅田英淇現代語訳) 風浪 おおよそ、回浪は、旋回する角度によってその高さを異にする。 したがって、本港内に侵入する回浪は、各所でその高さに差がある。その一例として、明治28年12月29日に風速27メートルの西北風によって起った波浪の高さは左の通りである。 試験工事付近 4尺 立岩付近 9尺 本年1月21日、風速23メートル、北北東の強風のさい起った高浪は、左の通り、 試験工事付近 7尺 立岩付近 9尺 前後の強風は、その方向において67度半の差がある。そうして、試験工事付近のものに対して、左の割合で減殺された。 風向 減殺率 東北 0.69 北北東 0,75 北 0.67 北北西 0.57 北西 0.47
2023.07.26
バレーボール日本男子イタリアと銅メダルを巡って試合【46年ぶりのメダル】最終セット ダイジェスト【3位決定戦 日本 vs イタリア】W解説 福澤達哉 & 清水邦広 // バレーボールネーションズリーグ20233-2で接戦を制し、念願のメダル🎉VNL 🥉 日本の歴史 🇯🇵!石川祐希&チームジャパン 🇯🇵 ついに14年ぶりの国際メダル獲得。決勝点を決めたキャプテンの石川祐希🤯!「ボールがメダルだと思って拾った」「強さ証明できた」男子バレー、世界大会46年ぶり涙の銅メダル獲得【選手コメント】■石川祐希主将非常にタフなゲームでしたし、一歩間違えれば、相手にやられていた。でもそれを勝ち切った僕たちが強さを証明できたのではないかなというふうに思います。昨日(準決勝)の敗戦からしっかり切り替えることができて、そこもいい経験になったし、この後のアジア選手権、OQT(パリ五輪予選)で、結果を残すために必要な勝利と、大事な一戦だったというふうに思ってます。3セット目、4セット目の途中、難しいというか、集中力が切れてしまったところがあったんですけど、5セット目で何とか切り替えることができて、それがいい経験だったというふうに思ってます。個々の能力が上がって、チーム力も上がってるっていうのは確かなんですけど、僕たちは明確な目標を設定して、それに向けて全員が、その目標に向かって日々練習しているので、その成果がこの結果に表れているというふうに思いますし、まだここは3位なので、僕たちが目標とするところは頂点なので、そこをこれから狙えるように、狙えるチームになっていくことが、僕たちの求めていることです。本当にたくさんの応援ありがとうございました。皆さんの応援、僕たちにも届いてますし、しっかりと日本にいいニュースが、しっかりとメダルを獲った姿を見せることができて嬉しく思います。本当に応援ありがとうございました。■リベロ・山本智大もう信じられない気持ちでいっぱいです。正直3、4セット目は自分たちがうまくいかず、相手にペースを握られたので、僕はポジティブな声掛けをして、「いける」とか、「点数離れてもやることやろう」とか、そういうポジティブな声掛けをして、少しでもチームが良い方向に向いていければいいかなというふうに行動してました。(なんでそんなにレシーブ上がるんですか?)本当にメダルが目の前にあったので、ボールがメダルだと思って拾いました。
2023.07.26

ano - ちゅ、多様性。 / THE FIRST TAKEano - ちゅ、多様性。 / THE FIRST TAKEあのちゃん「調子乗んな!」生放送での失言を猛省「クソヤバ!なめすぎ!こうやって嫌われるんだ」7/26(水)7月15日TBS系「音楽の日2023」あのちゃんは、楽曲「ちゅ、多様性。」を歌いながらスタジオを移動し、他のアーティストと絡むという「特別バージョン」のパフォーマンスを披露「音楽番組出れるの、本当にありがたい」「すごいいい演出をさせてくれて。本当に色んな方々を交えて『ちゅ、多様性。』を歌う、みたいな。スタジオからスタジオに移動するというやつなんだけど」移動途中SixTONESやなにわ男子が待機し、移動先には中居正広や安住紳一郎アナ、宮野真守、AKB48などが踊っているというもので「本当に豪華。ビックリしちゃって」あのちゃん(移動しながら歌う)「事前に言われてたし、台本もあった」「僕台本もあんま読まないほうだし、もうほんとに…もう次の日を考えられない日々を送っていたの、その時は特に。だから、その演出を当日に知って。移動するのだけは知ってたんだけど…こんなすごい人たちと絡むなんて。僕のせいなんだけど」「余裕ない日だった。せわしなくて、ほんとに」「めっちゃ難しくて。歌いながらだし、尺もここまでに間に合わないとスタジオで歌えないとかあって。導線もすごいムズくて。間に合わないと地獄なの、マジで。生放送だから」「リハは1回もうまくいかなかった」「結論から言うと、体感はほんとにヤバかった。まだ見返せてない。結構、最近で一番ヒヤッとしたというか。僕が言うなという話なんだけど。周りのほうがヒヤッとさせられたと思うけど。ヤバかった。なんか、ほんとに汗かいた」「安住さんから『ちゅ、多様性。をみんなで歌って踊ってもらいます』みたいに言われたから、僕はいつも通り『ハーイ』とか言ったら、シ~ンみたいな(笑い)。ハーイ、でシ~ンだよ?誰も何もなくて、僕、『えっ?』って言っちゃって。生放送でだよ?」もうその時点で僕、頭パニック。安住さんが僕の右サイドにいて、左に中居さんがいたけど、中居さんのほうは一切見れなかった。記憶は正直あんまないの。『ハーイ』『えっ?』って言ったら、安住さんに『あっ、みんなとですけど』みたいに言われて。『あっ、別に一人でいいです』みたいに言っちゃったの」「ヤバイよ!も~何してんの!クソヤバ!絶対言っちゃダメだよそんなこと!何ここであのちゃん発揮してんだよ、と。なにここであのちゃんさく裂してんだよ、と。調子乗んな!ほんとに。もう一人の“リトルあのす”が『何してんの、ここで言うなよ』と」「あの日のあの、聞いてるか!調子乗んな!もう!ヤバすぎるからほんとに!僕ほんとは言いたくないのに、なんかあのちゃんが言っちゃったの。心の中の“リトルあのす”はもうパニック。もう、ほんとにヤバかった。マジで。SixTONESさん、なにわ男子さん、マモさん(宮野真守)もいて『一人でいいですけど』って…いや、なめすぎ!ほんとに最低!もうやだ、こうやって嫌われるんだ。出演者さんもめっちゃ好きだし、大好きだよ?心の底ではうれしかったの。紅白みたいな感じ(演出)だったのね、一人だけ。一人だけ紅白演出。すごい豪華で。現実じゃないんじゃないかみたいにうれしくて」
2023.07.26

報徳記巻之三【5】先生烏山天性寺円応和尚の寂するを歎ず 先生之を聞きて大(おほい)に歎じて曰く、嗟呼(あゝ)烏山の事廢(はい)せる歟(か)。圓應(ゑんおう)誠心(せいしん)を盡(つく)して、國家再復の道起れり。今、我が言を用ゐずして没せり。豈(あに)一人の不幸ならん。烏山一國の不幸なり。始め厚木に至らんとする時、我頻(しきり)に之を止めたり。兩人(りやうにん)の意(い)、厚木の富人(ふじん)に説諭し、財を出さしめんとするにあり。彼等(かれら)國君(こくくん)の仁に感じ、貧民救助の志(し)を發(はつ)し、烏山に來(きた)りて其の道を求めば、是其の時を得たるなり。未だ其の時節に至らずして、是より往きて説諭するもの、豈(あに)是(これ)仕法の仁術ならんや。我が言に隨(したが)ひ彼(かの)地に往(ゆか)ずんば、此の憂なからん歟(か)。然りといへども、烏山興復の時至らざるの爲す所か。一人の進退に依りて大道興廢(こうはい)す。如何(いかん)ともすべからず。菅谷猶(なほ)存せり。興復の道絶えたるに非ず。然して圓應と菅谷とは車輪の如し、今忽然として其の一輪を欠く、奚(いづくん)ぞ仕法の盛行を望まんや と、愁歎止まず。尊徳先生は亡くなるとき、弟子達を呼ばれてこう言い残された。「鳥のまさに死なんとするやその鳴くや哀し 人のまさに死なんとするやその言や善し 慎めや小子 速やかならんと欲するなかれ 速やかならんと欲するときは大事を乱す 勤めよや小子 倦むことなかれ」 急がず厭きることなく、水が上の田を満たしてのち、下の田に順々に行き渡るように自然の理にしたがって進めてまいろう。 円応和尚が亡くなったのを聞いて、尊徳先生は大変嘆かれた。「ああ、烏山の事廃せるか。 円応和尚が誠の心を尽くして烏山藩の再復の道は起った。 今、私が言うことを用いないで亡くなった。 これは一人の不幸ではなく、烏山一藩の不孝である。 始め厚木に行こうとする時、私はしきりに止めた。 二人の意図は、厚木の金持ちに説いて、資産を出させようとすることにあった。彼らが君主の仁に感じて、貧民を救助しようと志を発して、烏山に来てその道を求めるならば、この時こそ時を得たものというべきである。未だその時期に至らないのに、こちらから行って説くことがどうして仕法の仁術であろうか。私の言にしたがって厚木に行かなければ、この憂いはなかっであろう。しかしながら烏山復興の時がいたっていないということであろうか。一人の進退によって大道が興廃する。どうにもすることができない。菅谷がまだ存している。復興の道が絶えたわけではない。しかし円応和尚と菅谷は車輪のようであった。今忽然としてその一輪を欠いてしまった。どうして仕法が盛んに行われることを期待できよう」と嘆かれたのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。(3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに言えれば、自然とそのとおりになる可能性が高まる。
2023.07.26
天城山の寄生植物と土佐の「やまとぐさ」 明治十六年に、時の東京大学御用掛で、植物学教室に勤務していた大久保三郎氏が、当時大学で発行していた「文芸志林」に、伊豆天城山で珍しい寄生植物を発見した、この種類は、多分ラフレッシア科のものであろうと発表されたが、私がその前後に郷里の土佐で見つけていたツチトリモチ属の一種の標品を大学に送ってみると、はたして私の考え通り同属のものであったので、バラノホラ・ジャポニカ・マキノという学名で発表した。 同じく十六年に矢田部博士発見のヒナノシャクジョウを土佐の故郷で採集し、露国のマキシモヴィッチ氏に送り学名を得たこともあった。明治十七年に私ははじめてヤマトグサを土佐で採集したが、その翌年に渡辺という人がその花を送ってくれたので、私は大学の大久保君と共に研究し学名を附し発表した。これによってはじめて日本にヤマトグサ科という新しい科名を見るに至った。この属のものは世界に於てただ三種、すなわち欧洲に一、支那に一、わが国に一という珍草である。小岩村で「むじな藻」の発見 明治二十一年頃にミゾハコベ科のエラチネ・オリエンタリス・マキノという植物を発表した。 明治二十三年五月十一日、ハルゼミは最早ほとんど鳴き尽くして、どこを見ても青葉若葉の五月十一日、私はヤナギの実の標本を採ろうとして一人で東京を東にへだたる三里ばかりの、元の南葛飾郡小岩村伊予田ようだ[#ルビの「ようだ」はママ]におもむいた。江戸川の土堤内の田の中に、一つの用水池があって、その周囲にヤナギの類が茂って小池を掩おおうていた……。 と私の採集記には、その頃のことをこんな風に書き出している。 その江戸川の土堤内の用水池の周囲にヤナギが茂っているので、その実を手折たおろうとした刹那せつな、ふと水面を見ると異形なものが浮んでいるので、早速とりあげて見たが、全く見慣れぬ水草なので驚いて大学へ持帰り、皆に見せると、皆も非常に驚いたが、矢田部教授は書物の中に思い当たるものがあるといい、その学名を探してくれたが、これは当時僅かに欧洲と印度と濠洲の一部とにのみ産するといわれたムジナモであった。後に黒竜江の一部、朝鮮、満洲にも発見されるようになったが、当時この発見は正に青天の霹靂へきれきの感があったものだ。 これと前後して私は、ヒシモドキという隣邦支那にのみ産するといわれていた植物を発見し、三十五年には伊勢の本郷というところで、寺岡、今井、植松の三氏の採集した新種を研究したところ、本邦ではじめて発見されたものであったのでこれに学名を下し、ホンゴウソウなる和名を附した。この植物は全体が紫色の小草で、葉がなく生えている様は一寸植物とは思えない姿をしている。 同じ頃土佐で時久という人が同属のものを一種とって見せにきたが、これにはトキヒサソウ一名ウエマツソウなる和名及び学名を附した。この二種は皆熱帯産のものでこれをわが国に得たことは分布学上に興味ある問題をなげた。 明治三十六年には、当時、東京博物館の天産課に勤務されていた桜井氏から、恵那山附近でとった標品を送られたが、これもわが国新発見のものであり、美濃出身の三好学君とこの桜井氏に敬意を表するためにミヨシア・サクライイ・マキノなる学名を附したが、その後不幸にしてマレー産に同属のものがあったのを知り、これを改称した。しかるに欧米の学者はユリ科に入れているが、私はこれは新科をつくるものとして研究した結果ペトライア・ミヨシア・サクライイ・マキノとした。 明治四十年に私は日本の南部にヤッコ草という新属新科のものを発見し、ミトラステモン・ヤマモトイ・マキノとした。これは最も珍しい植物である。*ムジナモ(貉藻、狢藻、Aldrovanda vesiculosa)は、モウセンゴケ科ムジナモ属の多年草の水生植物であり、1属1種の食虫植物である。日本を含む世界各地に分布するが、自然環境下での生息地は50カ所程度と少ない浮遊性の水草で、根は発芽時に幼根があるだけで通常はない。葉がハエトリグサと同じく二枚貝のような捕虫器官になっており、ミジンコなどの動物プランクトンを捕食する。細長い茎を中心にして、捕虫葉が風車のように放射状に輪生する。植物全体の印象は、似た和名を持ち小さな袋状の捕虫葉を持つタヌキモが二次元的・平面のように広がって見えるのに対し、ムジナモは三次元的・円柱のように見える。また、その形がタヌキの尻尾のようなので、発見者である植物学者の牧野富太郎(後述)は和名をつけるとき「タヌキモ」と命名したかったが、既にタヌキモという植物があったため、タヌキの別名であるムジナから「ムジナモ」と名付けられた。英名は Waterwheel plant と、水車の名が与えられている。茎は5cmから30cmほどの長さになり、夏期には1日に1cm伸びることもある。途中で脇芽を出して枝を伸ばし、基部が枯れ落ちていくことで分離、増殖していく。葉柄の長さは5mmから8mmで、その先に付く捕虫葉は5mm程度。捕虫葉の内側にはハエトリグサと同じく感覚毛が生えているが、数は約40本と多く、1回の刺激で葉が閉じる。閉じる速さも50分の1秒とハエトリグサより遙かに速い。しかし捕虫葉が小さく水中にあるため観察は困難である。葉を閉じると狭窄運動を行い、消化酵素を出し、養分を吸収する。ある日、ゆうから誘われて出かけた池のほとりで、万太郎は見たこともない水生植物と出会う。翌日、その植物を持って植物学教室へ行くと、田邊は、それが日本でまだ発見されたことのない食虫植物であることを万太郎に教え、論文と植物図を書いて世界に向けて発見報告をするよう命じる。
2023.07.26
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