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おまえと過ごす時間はいつも ゆっくりと流れるおまえがそばにいるときは時がはやく流れるけれどもどこかがゆったりとしていて時を忘れて 未来を忘れて今がいまになりぼくはそこに存在するおまえは何も考えていないけれども ぼくよりたぶんかしこいあたま悪いやつって何にも考えてないんじゃないつまらないことばかりかんがえてるんだぼくはときおり未来に住んでいるあんたバカねと「ここ」に引き戻してくれるのがおまえそんなことをいちいち言葉にはしないけれどもおまえはあせることはないんだよと教えてくれるぼくはぼくのことを心配しあまりに心配をしないおまえのことをも心配するなにもかもが正反対でたまには納得いかないときもあるけどねでもおまえのおかげで人生100倍ゆたかになったと思ってんだ過去に生きるよりは未来に生きたほうが良いけれども未来に生きるよりも今に生きることがなによりも大切なことなんだぼくの「いま」と おまえの「いま」がかさなり合うことだけでいとおしく くるおしく時間が流れるんだよ
2007年09月29日
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今日は映画を見まくりました。昼ごろに家を出て、マイカル桑名にゆきました。DVDでなく、映画を見るのはどうでしょう、4年ぶりくらいです。見る映画は決めずに行きました。マイカルに着いて、ごはん食べてシアターにいったら「ファンタスティック4」がちょうどいい時間だったのでそれにしました。やはり劇場は迫力が違うね!そのせいもあってか、すごく面白かった。前作を見てなかったので、はじめ何の話だか分かりませんでしたが、最後のほうは、なんか銀色の人がわが身を犠牲にしちゃったりして泣きそうになりました。それからマイカル内をフラフラして、フラフラといってもフラダンスじゃなくて店内をぶらつくという意味ですが、パンやらパンツやらを買いました。それから帰って、「ナウシカ」を見まし・・・た。でも実は、半分くらいで寝てしまったのでまた明日続きを見ます。オウムが夢に出そうです。ぎゃおーん。で、今さっき「パイレーツオブカリビアーノ」のいちばん最初の作品を見ました。ジョニーがまじでデップでした。すごいな、圧倒的な存在感!(←陳腐な言い方かな)あのフラフラ感はたまらないなー。フラフラ感といっても、フラダンスをしてるわけじゃありません。なんだかユラユラしてるんだよね。というわけで人生で初めて一日3本、いや2.5本も映画見ました。そういえばなんですが、昔は映画見てればかならず主人公に共感、というか良い役と悪い役がいたら、「オレだったら、絶対悪い役がやるようなことはしないのにな」と思っていたんです。金や権力にとらわれたり、リーダーとしての資格がなかったり、自分のことばかり考えてたり、欲望に流される悪役を見ながら、「バッカだなあ。そんなん最後に泣きを見るよ」なんて思いながら見ていたんですね。それで、勇敢で仲間をかばって、自分犠牲にして、一生懸命で、なんていう主人公を見て、「オレはこっち派だな」なんて素直に思ってたんです。でも最近、悪役を見るにつけて、自分のなかの「悪役」の部分を刺激されるようでグサッとくるときがあります。もちろん現実の人間は役じゃなくて、良い部分も悪い部分もあるわけですが、「自分のことばっかり考えてる管理職」「酒池肉林の王様や殿様」「人の命をなんとも思わない軍人」「卑怯で言い訳がましい役人」なんていう役を見てると、自分はこういう人間になりかけているんじゃないだろうかと思って、なんかショックを受けることがあります。だから別にどうってわけじゃないんですが、なんかそう思うことがあるんです。さて、明日で9月も終わりですね。今日から秋の本番です。でも秋の本番は、冬の始まりなんです。捉え方ひとつ、ですね。それでは寝ます。
2007年09月29日
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ぼくらがブランドに弱いのは、自信がないからです。「観る目」に自信がないので、「とりあえずブランド」となるわけです。面倒くさいのは嫌いなんです。だから「とりあえずブランド」。ある程度はそれもよいと思いますが、いつまでそうやって選択を逃げるのか。ブランドだけが、ホンモノではないんです。
2007年09月29日
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ラピュタ見ました!!人生初か2回目。どっちか分かりません。で、めちゃ面白い!!ぼくのなかのベストオブ宮崎「千と~」を越えました。それも20年以上前の作品でしょ?まぢですごくない?はじまって30秒くらいで呑まれました。あとはずーっと宙に浮いていました。夢が詰まりすぎだよぉ。最後の最後に「天空の城」の意味がわかりました。城なら地に足を着けろよってね。「土から離れては生きられないのよ」のセリフがステキね。土っていうのは、現実っていう意味なんだよなあ。まあそんな変な解析なしで、とにかく面白い映画でした。ひとつわかったことは、宮崎駿は天才だということです。それから宮崎駿は「ヒットする映画の作り方」という本は絶対に出版しないだろうと思いました。以上です。
2007年09月27日
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しあわせの大原則「うごく」こと。うごくことは、すでに幸福なのです。あなたが動けば、世界はかならず反応します。しかし不思議と、ぼくらはうごくことができません。こわい。不安だ。心配だ。恥ずかしい。現実的でない。ものすごい剣幕で、「うごけない理由」をさがしてしまう。うごくのは怖いことです。失敗するのは怖いし、心配事は耐えないし、笑われるかもしれない。しかし、うごくのは本当はとてもカンタンなことなのです。大きな一歩を踏み出してやろうと身構えるので、動けなくなってしまうのです。とつぜん5mを踏み出せるはずがない。50cmでいいんです。いや、2cmでもいい。たった2cmでも、「どうせ5mも動けないよ」としたり顔でのたまった人の1000倍は先に進んだのです。誰にでも自分なりの一歩があるのです。それはどんなに小さな歩幅でもいい。そして最初の一歩が、いちばん勇気がいるのです。おびえて身構えることはないのです。「これならできる」何かを、やってみればいいのです。大きすぎて恥ずかしい夢は誰かに言わない方がいいのです。ひっそりとこっそりと大きな夢を温めつつ、小さく分解した夢の階段を、一段ずつ上っていくのです。そしたら誰にも気づかれない。だけど確実に、ゆっくりだけど確実に何かに近づいていく。焦ることはないのです。あなたが踏み出せるほんの小さな一歩ってなんでしょうか。いま、できることは何だろうか。明日やることじゃないんです。いま、です。今この場で、いますぐにできることです。あとからじゃないんです。明日も来月も来年も3年後も一生「いま」にはならないんです。大きく動こうとするからできないんです。できるだけ小さくちいさく、動くのがいいんです。
2007年09月26日
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報酬がなければ働く気にはなれない。報酬とはなんだろうか。それはお金であることもあるがしかしお金は本質ではない。本質的な報酬とは何か。それは思うに、「世界が動いた」という実感に他ならない。じぶんの行動がまわりに何の影響も与えないのなら、ぼくらは動かなくなっていくだろう。世界が、動いた。その実感こそが、生きる糧になる。生きた証になる。お金はその一面にすぎない。報酬をください。
2007年09月26日
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地球は60億人にひとつしかないが、世界は60億人分の世界があるのだ。あなたの世界を、教えてよ。
2007年09月26日
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時は金なり?いいえ、時は命なり。
2007年09月23日
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ぼくらが持っているものぼくらはぼくらじしんではなくみずからが「所有するもの」を自慢しようとする叔父さんが会社社長だとかお母さんが美人だとか弟が有名大学に合格しただとかいいクルマといい家を持っているだとか息子が女にモテるとか貯金の額が8ケタ以上とかじぶんじしんではなく「価値のある」と一般に言われているものにじぶんが関係している、という事実について誇りをもつそうしてだれかを見下したりバカにしたりしてじぶんの「価値」があがったような錯覚をおこすのだそしてそれに「しあわせ」などと名づけたりするぼくのちかくにいる人が「価値」のある人でもぼくの「価値」には何の関係もない着の身着のままで 生まれたままの姿で要らんもん全部捨てたときぼくらが誇れるものってなんだろう想像してみようことばもともだちも家族もないまっくらな「死」の世界を 目前にしてぼくらの寄る辺となるのはなんだろうぼくらはきっとだれかに「所有物」を自慢したことを恥じるのではないだろうかだれかをバカにして笑ったことを悔いるのではないだろうかそしてだれかを愛し たいせつにしたことを 誇りにおもいだれかに愛され だいじにされたことを 懐かしくおもうのではないだろうかきっと思い出すのは じぶんの笑顔じゃなくて だれかの笑顔なんだろうなにをもとめているのだろうどうして要らないものをほしがって くるしんでいるんだろう思い出してみよう裸のじぶんをきのみきのままのじぶんを何にも持っていないし何にも要らない生まれたままのじぶんを
2007年09月21日
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夕方がおりてきてひなびた定食屋の豚汁をずすりとひとくちふくんだときそのくちのすきまからきみのなまえが ほろりとこぼれたねえきみのなまえが ほろりとこぼれたんだよ豆腐サラダの豆腐がくずれないようにもういちど きみのなまえを よんでみたそして三つ葉をほうばったそれからごはんをかきこんで豚汁を飲み干したらもう月のキレイな夜でしたきみのなまえが ぼくからこぼれおちないように今夜は口は閉じて ねようかな
2007年09月20日
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昨日は健康診断の日でした。まだまだそんなものは不要ですが、会社の義務で受けないといけないのです。しかも診断書の提出日が過ぎてしまったので自腹。嗚呼。診療所はすこぶる嫌な雰囲気でした。おそらく他の人も会社の健康診断なんでしょうけど、こう、みんながずらずらと並んで、まるで大量生産されるうなぎパイのように順番に処理されていくんです。うさんくさい健康系のポスターも嫌だった。健全系はほんとうにうるさいね。「ぼく、正義!」みたいな顔しやがって。で、まだ結果は出ていませんが、勝手に機械でぼくの身体を数値化されたって、気に留めやしません。気にしてたまるか。病院なんてキライだ。それからまあ色々して、そのあと実家に帰りました。不思議と実家が呼んでいるような気がしました。夜の9時ごろだったかに着きましたが、家族にも何も言ってなかったので、驚かれました。おかんが電話していて、「なんだろう」と思っていたら、ばあちゃんがどうも入院しているらしい。誰かがぼくの中で「帰りなさい」と言っていたのはこれだったのかと思った。なので翌日、つまり今日ですが、さっそくおかんとお見舞いにいってきました。ばあちゃんはイスに座っていて、すこしやせていましたが、ぜんぜん会話もできました。「ひまごの顔が見たい」と言われました。不思議とじいちゃんは超然とかまえていました。「今日は気分が良いらしいが、昨日はもう半分死んどった」というのは60年連れ添ったからこそいえるギャグなのだろうか・・・。病院の部屋代が、僕がこのまえ泊まったホテルの3倍くらいらしい。個室とはいえ、なんちゅう・・・。そのあと、いとこのおばさんが来たので、おかんを職場まで送って、ぼくは実家に戻りました。それから名古屋にいって大型書店を探索。また本を買ってしまいました。もはや病的です。それで夕飯は外食で済ませて、いま家です。ああ、節約しなきゃ・・・。はい、とりとめのない日記の完成です。
2007年09月20日
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最近のことですが、なぜだか「オリジナル」なものにひどく抵抗を感じてしまうのです。うまく説明できないのですが、どうも不自然さが鼻につく、というかウルサイんですね。もっといえばウザいんです。「私が考えた!」とか「○○と××を組み合わせた業界初の~!!」とかやたら造語とか。ぼくも造語するのは嫌いじゃないんですが、それはあくまで新しい概念があるときの話でしょう?概念は一緒で、名前だけ付けるのは詐欺だと思うんです。新たな名前をつけるということは大変なことです。それは文化をすこし破壊する行為だからですね。世界を新たに捉えなおしたとき、そこに名前が生まれる。だからやたらと耳慣れない新語や奇抜なだけの造語というのはひどく不自然に感じるのです。それに品が無い。「オレがオレが」という気持ちがたっぷりと見えるからです。もちろんほんとに世界がひっくり帰るような考え方だったらいいですけどね。当人は、これは世界初!って考えてても歴史は古いし、世界は広いし、「なんだかんだで、二番煎じ(パクリ)じゃん」みたいなのが多い。もちろんパクリも大切なことなんですけどね、腹が立つのは「オリジナルです」と言っておいて実はパクリというやつ。はじめからパクるつもりなのは、パロディといって、それは特に問題の無いことだと思う。とにかく「オリジナル」がウルサイなということです。あまりにひどい自己喧伝には品が無いのです。
2007年09月20日
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今朝は、からっとしたよい朝でした。運動会や文化祭の季節ですね。いろんな学校でカップルが生まれているのでしょう。洗濯しました。フトンのシーツを洗ったので、今日はふんわり眠れそうです。洗濯物を干していると、空一面、透明な水色の空でした。そして雲が浮いている。家の前は道路を挟んで田んぼなんです。向うには、単線の線路が見えます。太陽は高かった。もう11時くらいになっていたのです。ぼくは思いました。空が青くて、田んぼも青くて、それでいいんだなあと。それから、たぶん今から仕事だから「自然」も美しいのだと思った。きっと田舎の人は、「自然」なんて好きじゃないのだ。
2007年09月18日
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「人のセックスを笑うな」、という題名の小説がありましたが、なにも笑っちゃいけないのはセックスだけじゃないと思うんです。このブログの表題は穴埋めをバラすと、「人のソックスを笑うな」つまり、他人がどんな変な靴下をはいていようとそれを笑う権利はあなたにはありませんよ、ということです。もちろん人のファックスも笑っちゃいけないし、他人のサックスを笑ってもいけないのです。人はなぜ、笑うのか。その疑問は、まだはっきりと解明されていないそうです。原理的には「緊張(かたくなる)→弛緩(ゆるむ)」という流れの「→」の部分に笑いが起きると言われているようです。まあ科学的なことは知りませんが、しかし経験で言えば「笑い」と「安心」は関わりが深いと思うんです。ホッとしたときに笑う、というのはよくあることですよね?ぼくらは人をバカにするときも笑います。それはホッとするからです。「ぼくよりも『下』の人がいる」その安心感に甘えて、ついつい笑ってしまうことがある。ぼくらは構造のなかに生きているので、その「立ち位置」が非常に気になってしまうのですね。ぼくらは「構造」の一部です。だから、「じぶん」について考えると不安になるようにできているのです。カンタンにいえば「くらべる」ということで「じぶん」を規定してしまうということです。ぼくの背はみんなより大きいのか?ぼくの顔はみんなよりカッコイイのか?ぼくのモノはみんなより大きいのか?ぼくの収入はみんなより多いのか?ぼくのカノジョはみんなのより可愛いのか?ぼくの頭はみんなよりすぐれているのか?ぼくの仕事はみんなのより価値があるのか?ぼくの人生はみんなより成功しているのか?ぼくらは「くらべる」ことによって、何かを「分かろう」とします。じぶんがわからなくなって、じぶんをわかろうとして、何かと「くらべる」のです。ほんとうは、分かろうとしなくていいのです。なぜ、じぶんを分かろうとするのか。分かってどうする気なのだろうか。じぶんなど分からなくていいのです。結局、じぶんはじぶんでしかないのです。ぼくは170cm52kgの体型で「やせている」と人に言われますが、ほんとうは、やせてなんかいないんです。いったい何と比べて、ぼくを「やせている」と言っているのか?「みんな」や「平均」という幻想とぼくを対比しているのか?それに何の意味がある?理想の体重?そんなもの、偉い人が決めたことはたいがいウソだよ。偉いから、自分の思い通りにできるのだよ。ぼくは170cm52kgの体型ですが、ほとんど風邪も引かないし、健康そのものです。それで何の問題がある?理想の体重なんてどう考えても嘘っぱちでしょう?他人とくらべることによって規定されたじぶんなんて、ウンコだ。ましてや、誰かを笑うことによって安定して存在することなど、もっとも愚かな行為だ。「りんごとビーフストロガノフと焼きそばのうち、どれがいちばんおいしいか?」という質問はバカげているでしょう?ぼくらがじぶんを「隣のだれか」と比べるのはそれくらい愚かな行為なのです。誰かを笑ったり、誰かを馬鹿にしてもぼくらはけっして立派な存在になるわけではないのです。それなのにぼくらは時に、誰かを否定することによって、じぶんを肯定しようとする。それは姑息なこころみなのです。卑怯なおこないなのです。心からしあわせだというとき、ぼくらは何をも比べていないのです。あなたが愛する人の腕の中で眠るとき、「ああ、この人はみんなよりもカッコイイからステキだわ」と思うだろうか。あなたが愛する人をいとしいと思うとき、「ああ、こいつは世間の人よりスタイルがいいから可愛い」などと思うだろうか。否、である。ぼくらが誰かを愛するとき、その誰かの「存在そのもの」をそれ単品で認めているはずです。何かと比べていいのではないのです。だからじぶんを大切にする、じぶんを愛するということは、「じぶんを誰かとくらべない」ということなんです。くらべることに意味はないのです。くらべて分かろうとしても悲しい結末しか待っていないのです。話がかなり長くなりました。まとめます。けっして他人を笑わないでください。そしてじぶんを笑わないでください。あなたと誰かは、くらべることができない次元にいるのです。比較するという幻想におぼれないでください。くらべないでください。そして、笑わないでください。以上です。
2007年09月18日
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うつくしいものは、自然である。何かがよいのではない、「非・不自然」なのだ。実は「良い」ということは存在しない。悪いか、悪くないか、ということしかないのだ。自然ということは、すばらしいことである。手を加えないことの美しさ。中途半端にさわってから、止めるのは「手を加えない」のと違う。一度さわってしまったら、キレイにしなければならない。キレイになったら、ほおっておくのだ。運命に手を加えるな。大河の流れに、身を任すのだ。
2007年09月17日
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AくんとCくんはB子さんが好きでした。Aくんは、ポルシェでぶっとばしてB子さんに会いに行きます。そして高級ブランドのバッグを渡しました。Cくんは、歩いてB子さんに会いに行きました。お金がなかったので、仕方なく道ばたに咲いていたコスモスを摘んでいきました。花が好きだったB子さんは、Cくんと付き合うことになりました。ちゃんちゃん。で、こういった話をすると勘違いする野郎がいるのですね。「やっぱり人間は心だ」とか「ブランドにだまされるな」とか「人間は『スローライフ』が自然なのだ」とか的外れなことを言い出すわけです。何を言っているのだと言いたい。B子さんがブランド品のバッグが好きな可能性のほうがよっぽど高いのです。すくなくとも現代では。のこのこ歩いて花を摘んでくるオトコより、ポルシェに乗るくらいリッチで、ブランドバッグくれるオトコのほうが人気が高いに決まっています。そういう男を選ぶ女は間違っていない。正しくもないけれど、間違いではない。しかし、B子さんが花がとても好きで、ブランドには興味がない可能性もありますよ、というお話なのです。どっちがよいという話ではないのです。どっちが多いかという問題、多寡の話です。ただ「すくない」ということは往々にして「ない」ということにされがちなのですね。「0.1」と「0」のあいだにはものすごく、永遠というくらいの差があるのに、「0」ということにされてしまっていることが多いのです。そして「多い」ことに「ただしい」というレッテルが貼られる。だから「物語」というのはかならず「マイナー」に発生するのですね。「多い」と「少ない」があったら、「多い」ほうは「おはなし」にならないのです。「マイナー」には「言い分」があり、「少ない者のくるしみ」があり、「思想」があり、そして「物語」が生まれる。そりゃそうですよね。ヤンキーが先生になるから話題になるのです。東大生がヌードになるから週刊誌にとりあげられるのです。ユダヤには智慧が生まれ、天才と変人は紙一重なのです。しかし多くの人は「多い」ほうに属しています。当たり前ですが。だから「多い」ほうが「現実」なのです。そして「少ない」ほうが「物語」になるのです。「現実」は「物語」にあこがれます。しかし、現実は現実なのです。物語は、たいてい「現実」を批判しています。多くの物語には、「言い分」があるのです。しかし「物語」の言い分は、実は勝手だ。物語は物語であり、それ以上のものではない。どんなに主張しようとマイナーはマイナーであり、そしてそれがマイナーという意味である。つまり、マイナーは非常にアイロニカルな宿命を背負っているわけです。マイナーの物語は、いわばメジャーを獲得するためです。しかし、メジャーになったとたんにマイナーとしての方向性を失ってしまうのです。それでもマイナーはメジャーをメジャしてしまう。目指してしまう。みずからの存在が消える方向に進んでいくのです。かなしい。さて、あなたはメジャーになりますか?それともあなたはマイナーになりますか?どっちにも、幸福があります。
2007年09月17日
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目的的ということは、すこぶる傲慢なことなのだ。原因とその結果を決めるのはあくまでも「神」であり、宇宙の終わりと始まりなのである。なにが善で何が悪であるか、ぼくらには決める権利がない。そしてどういう行動をとれば、どういった結果がでるか、ということを決める権利もない。幸福になるために何かをするのは、非常にあやうい行為である。つまり目的的な生き方である。目的的な努力は、自分勝手な考え方である。たとえば「これこれこういう努力をしたから、これこれこういう幸福が待っている」というのは、あまりにも自分本位な論理思考だ。自分で努力にたいする報いとしての幸福を設定し、そしてその努力を怠らない。そんなに勝手でよいのなら、誰もが努力している。本来的に努力というのは無功徳であるから、功徳があるのだ。努力をしたって、何もいい事などないのです。努力をすることが、良いことなのです。努力というのは、何かが起こるが何が起こるかはわからないのです。そこが面白いところなのです。それに耐えられるかどうか。自分勝手に設定する幸福は、ぜったいにやってきません。神様は自分勝手な人がいちばん嫌いなのです。ぼくらは「ただ」何かをするのです。「ただ」ということは、なによりも難しい。頭の良い人などは「ムダだ」と云ってしまう。しかしその人のおろかなところは「何がムダなのか」を「知ったつもり」になっているところです。何がムダで、何がムダでないかは、最後の最後にならないとわかりません。それになにが最後の最後なのかも分かりません。だから「ムダだ」ということをやみくもに口にしてはいけないのです。たぶん、ムダほど面白いことはないのだ。そして効率よりつまらないものもないのだ。なんで直線で走ろうとするのだ。電車に乗っているのに、なんで「新幹線のほうが速い」というのだ。あわてないで、歩けばいいのだ。そのうち着くし、着かなくたっていっこうにかまわないのだ。あせらないで、大地をたわむれるのもゆたかなことだとぼくは思う。
2007年09月17日
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「わたし」が「わたし」を語るとき「わたし」はかならずウソをつく。なぜなら「わたし」は「だれか」によって規定され、「わたし」はかならず「だれか」のあとに存在する。「わたし」が「わたし」を理解したとき、そこにかならずズレが生まれる。「いま、21時36分52秒だよ!」と叫んだ瞬間、21時36分54秒になっている。「わたし」は正確な時間を語ることができない。ぼくらが話す「ことば」は色んな意味で、ものすごく遅いのだ。「ことば」はいつまでも遊びなのだ。「ことば」は海よりも深くて面白いけれど、あくまでも遊びなのだ。「ことば」に真剣になると、頭が狂ってしまう。「ことば」は無限なのだ。「ことば」は永遠に現実になりえないが、しかし現実につよい影響をあたえる。ことばは、「だれかの」世界だからである。ことばは、「だれかひとりの」世界なのである。理解はかならず誤解なのだ。そして誤解はかならず真実である。「わたし」が「わたし」を知ったとき、ひとりの「わたし」が死んでいる。「わたし」は知られた瞬間に死ぬのである。そしてまた「だれか」を知ったとき、ぼくらは誰かを殺すのだ。知ってはならない。分かってはならない。あなたは初めてスイカをみた。あなたはスイカを切った。すると赤い部分が出てきた。そして云うだろう。「中身はこうなっていたということが分かった」と。しかし、ほんとのスイカはまるごと丸いのである。外からは赤い部分が見えなくて、ミドリとクロの縞々になっているのが、普通の状態なのである。ぼくらはスイカを切ったとたんに安心してしまう。中身が赤いということを知り、安心してしまう。食べたら甘くておいしいということを知り安心してしまう。種は食べられないと知り、安心してしまう。あなたはスイカを見たのが2度目である。あなたは「スイカ。わたしは知っている」と云うだろう。あなたはそれを切れば中に赤くて甘くておいしい実が入っていると思い込むだろう。そしてあなたはスイカを切る。そして「無知の」みんなに言いふらすだろう。「ほら、赤くて甘くておいしいでしょう?種は食べられないわよ」と。あなたはスイカを見たのが3度目である。あなたはスイカを「知っている」と思い込んでいる。そしてメロンを食べた。そのスイカの実が黄色いとも知らずに。ぼくらは永遠に無知なのだ。そして永遠に無知でなければならない。知らないという方法を持たねばならない。知らないということは、畏怖することである。「わたし」は「わたし」を知らないということ。つまり「わたし」が「わたし」を尊敬すること。経験は、半分が役に立つ。そして半分が足を引っ張る。経験は諸刃の剣である。同様に、知も諸刃の剣である。わたしが知の技法におぼれるとき、わたしはまるごとの叡智に復讐されるだろう。「知る」の対義語は「待つ」である。「わたし」は「わたし」を待つことだけができるのだ。
2007年09月17日
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最近、右脳の本を2冊くらい読んでかるーくマイブームです。左脳は言語や論理をつかさどるそうです。それに対して右脳は、イメージや直感に関する脳なのだそうだ。右脳を鍛える方法の本はたくさんあります。すこし読んだところだと、パッと一目見て、その映像を目に焼き付けて記憶するということが右脳ではできるらしい。その能力を開発するのに、大切なのは「書き出し訓練」ということだ。パッと集中して見て覚えて、目を閉じてから、イメージで思い出す。それで覚えたものをできるだけ書き出す。書き出すということは思い出さないとできません。つまり思い出すこと、ひいては「思い出そうとすること」が大事なのです。(とぼくは本を読んで思った)で、「その書き出し訓練」を毎日続けているとある日突然脳が変化して、速読やらいろいろな能力が身につくらしい。でも、ぼくは思ったのです。右脳右脳というけれど、結局のところ、「それって一生懸命勉強するってことじゃん」と。教科書覚えて、テストで「なんだっけぇ」と頭をひねる。そこが大事なのですね。それが「分からん。まあいいや」では能力は開発されないのです。「なんだっけぇ。えーーーーっと。あのさあ、あれだよ、うーんと」とがんばって思い出そうとするところにヒミツがあるようです。言われてみれば、学生のころのテストでも最後の最後まで思い出そうとがんばっていると、ギリギリのところで教科書やプリントの文字が頭に浮かんでくることがよくありました。あれはもしかしたら右脳を使っていたのかもしれないですね。一生懸命だったからできたんです。あれが「まあテストなんかどうでもいいか」と言っていたら、たぶん解答は思い浮かばなかったでしょう。一生懸命から得られるものは多い。いや、なにごとも本気で取り組まないと学ぶことはないのだ。「ほどほど」がよいときもあるが、たいていは一生懸命にはかなわない。一生懸命というテクニックを確立することもできるだろう。たとえば、誰か人の名前が思い出せない、というときなど、「まあいいや」ではなくて本気で思い出してみる。また、おのずから「あの景色の細部はどうだっけ」と自分に問いかけ、一生懸命思い出してみる。最近は、本に書いてあった「夢を思い出す」というのをやっています。ちなみに昨日は、「うんこみたいな怪物(体長70cm程度)が『人間はウソをつくやつか、つかないやつかのどっちかだ』」と諭してくる夢でした。解析不能です。なんでウンコなんだ。え?漏らしてませんよ。ということで、なにごともカンタンに妥協しないことです。まずは小さなことからがよいと思います。「えっと、あれどこにあったっけ?」そんな疑問が湧いたときは、一生懸命に考えてみてください。
2007年09月16日
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あわてないことが、だいじです。ぼくらはすぐに、あわてます。仕事がどうだ、人間関係がどうだ病気がどうだ、お金がどうだ・・・。どうせ大したことでもないのに、あわててしまうのです。あわてるというのは、かまえるということです。何かが起こると、ぼくらはそれが怖いので、かまえてしまうのです。かまえるということは、対処しようとするいうことです。かまえると身体のどこかが緊張します。筋肉のどこかに力が入ります。腰だったり、眉間だったり、肩だったり肘だったりしますが、どこかに力が入って、そしてだんだんゆがんでくる。身体がゆがんでくると、感情もゆがんできます。そもそも感情というのは後付けなのです。身体の反応があって、その後付けとして感情があるのです。だってそうでしょう?まずは心臓がバクバクなって、それをフィードバックで感じ取って、「あ、オレ緊張してるな」ということがわかるのです。あわてる、の反対語は「まかせる」です。まかせるということは、勝とうとしないこと、つまり「負ける」ということです。「負ける」というとどうしてもマイナスのイメージがありますね。でも、そうではないのです。ぼくが言うのは、いわば「積極的敗北」なのです。自分から負けてしまう。それは「勝敗」という世界を脱することでもあるのですが、「勝ち負けの世界ではない」と言わないことでもあるのです。「ぼくは勝ち負け関係ないから」と周りに言ってしまうのは、たんなる敗北です。仕事や勉強ができない人が、「いや、誰かと競争してるわけじゃないし」なんてことを言ってはいけないのです。それはただの言い訳です。積極的敗北「まかせる」というのは勝ちたい人には勝たせておく、という哲学です。そしてそれを口にしない。「私は負け組ではない!」とわめいている人がいちばんの負け組です。「負けるが勝ち」と言っているうちは、やはりそれは勝負の世界であり、相対の世界なのです。「私は負けです。負けは負けです。あなたが勝者です」と心から言える、つまりその哲学を身体で表現できたとき、その人はほんとうに勝つのです。誰にも負けない。それが「あわてない世界」だと思うんです。対処しない、ということ。どうにかしようとしないこと。便宜的に「神」を立てても悪くないと思いますね。「神は子供である私たちを愛している」と信じること。まさに「信じるものは救われる」です。べつに神を立てなくなって、身体論で見れば、筋肉に余計な力をいれないこと、です。西洋医学で見れば、α波を出してリラックスし、自律神経を整えるといってもいいんです。言い方は、自在です。ただ、「われわれ人間の精神がもつ、波動を~、宇宙のパワーと~」と言い出すと興ざめする人はいますね。かならず突っ込みは「宗教か!!」と言うんです。でも、「α波」といえば信じる。おんなじ波なのにね。宗教はアヤシくて、科学は正しい、と思っている人がいちばん危ない。科学も宗教も、大して変わりはないのです。おっと話がそれかけましたが、とにかく科学の観点でも、宗教の観点でも「あわてない」ことが大事だということですね。「ヤバイ」と思うことがいちばん「ヤバイ」のです。ぼくらはかならず大丈夫なんです。大きな何かに、守られているんです。だからあわてないで、安心していればいいんです。今日はそういうことが言いたくて日記を書きました。
2007年09月14日
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「小島よしお」です。そんなの関係ねえのおっぱっぴー小島です。はじめて見たときはちょっと好きでした。でももう飽きました。彼はもうすぐいなくなりますね、きっと。でも、「そんなの関係ねえ」は流行っているみたいです。なんでかなと思って、ちょっと考えてみました。それは、セリフの汎用性が非常に高いということではないでしょうか。カンタンにいえば、「いつでも使える」ということです。「でもそんなの関係ねえ」って、どんなときに言っても整合性があるんですよ。ふつうの会話では、つながりがなくてはいけない。「今日は天気がいいね」「うん、昨日のステーキおいしかったね」「それに、仕事は忙しいよ」では、会話にならないのです。でも、「関係ねえ」は文字通り「関係ねえ」ことが肝腎なわけです。それまでのいろんな文脈や、連続性、関連、整合性、論理などなど、ふつうの会話で大切にしていることを、すべて断絶してしまうチカラを持っているのです。だから、どこにでもつながる。「今日は天気がいいね」「うん、ほんと気持ちいいよね」「でも、そんなの関係ねえ」「ステーキおいしかったね」「ほんと、また食べにいきたいね」「でもそんなの関係ねえ」「仕事が忙しくて」「でも、そんなの関係ねえ」というぐあいに、「関係ねえ」からこそどこにでも関係することができるのです。 ぼくはこの構造を見たとき、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」を思い出しました。僕が知っているモトの歌は「切り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」(山岡鉄舟?)ですが、とにかく「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのはなんにでも使えるのです。「身を捨ててこそ~」は、背水の陣、決死の心構えでいけば成せぬことはない、といったような意味です。死ぬ気でやればできるって!って感じでしょうか。これは色々な歌に使われているようです。たしかに、「死ぬ気でやればできる!」というのは何にでも使えますよね。「うまくいくかもしれない。でも失敗するかもしれない。でも死ぬ気でやればできる!」「お金のこと、身体のこと、家族のこと、 心配なことはたくさんある。 けど、死ぬ気でやればなんでもできる!」という感じで、どんな歌の最後にもつけることができるんですね。だからこそ、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのが昔から使われてきたわけです。ほかにも「けっきょく金だよね」みたいなのもあったと思うんですが失念してしまいました。それでまあ結論としては「そんなの関係ねえ」というのは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」に構造が似てるなあってことなんです。え、面白くない?追記:調べてみたら、もとの歌は「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」(空也上人)のようです。たしかに「こそ~已然形」が2回も使われてるからちょっと違和感はあるなと思いましたが。鉄舟のは「切り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 踏み込みみれば そこは極楽」というのもあるそうです。いろいろあって、なにが正しいのかわかりません。
2007年09月14日
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人間は 疲労するから 恋をする ozekey
2007年09月14日
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こんなこと書いたらファンに怒られるのかな。「粉雪」♪それでも一億人から君を見つけたよ、ってさ、よく意味が分からないんだが、たぶん「一億」ってことは日本の人口の象徴みたいな数字じゃん?だから日本に人がいっぱいいるなかであなたを見つけました、的な歌詞なんだよね?でも一億ってアンタ、女は半分の6000万人くらいでしょう。それに恋人にできるくらいの妙齢の女性でいえば、1000万人くらいだよね。じゃあ一億って数字はなんなんだよって話して、赤ちゃんや、おばあちゃん、果ては男も含めているのだよ。だからレミオはホモでロリコン?なのかなって。あー、こういうひねくれたこと言う人って、嫌われるよね(笑)
2007年09月13日
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さて、アジアンリゾート的なホテールで迎えた朝はステキでした。湿度も少なくカラッと晴れていて、秋風が吹き込むベランダで、焼きおにぎりのおかゆモーニングをいただくという、ヒデブ!ならぬセレブのような朝でした。それから四股踏みなどの朝の鍛錬をしたあと、もう一度、奈良公園方面に向かいました。世界遺産の興福寺が見たかったのです。昨日は疲れて見れなかったのですが、やっぱり見たくなったので、行きました。阿修羅いたー!アシュラマンです。まえに阿修羅の本を読んでから気になっていたのですが、いやー、なかなかいいですね。男前でした。あとはどこに何の仏像がいたか、完全に忘れました。ただ、ぼくは自分に体型が似ている仏像が好きなのだと思った。やせぎみの奴ね。ふっくらしたのは、どうも好きになれない。興福寺を出て、ふたたび奈良公園を散策していると、ほんとうにたくさんの学生がいます。だいたい中学生か小学生かな?たわいもない会話ばっかり聞こえてきますが、「あー、シカだよ。オレ、シカになりてえ」ってのは良かったですね。ピュア菜です。それから、ボクシングの元世界チャンプじゃなく世界遺産のほうの「薬師寺」に行くことにしました。いいよね「世界遺産」って。ひびきが。俺、あわよくば世界遺産になりてえ。さて、薬師寺はなんだか異国情緒でした。全体的に朱色がかっていて、古さというか歴史の重みというかそういうのがないんです。最近改修したんでしょうか。これがマチュピチュと同列に並ぶのとかってまじウケる~★それから歩いて500メートルほどの唐招提寺にもいきました。かの鑑真のお寺だからねえ。もちろん世界遺産です。でも本堂?本尊?は改修中でした。9年越しだって!!ロングスパンだよなあ。蚊の多い庭園を足を掻きむしりながら散策しました。でね、コレ日記だから、「〇〇いきました」ってカンタンに書いているけど、実際はかなり歩いているわけです。歩き回った日はかならず、終わりがけに「今日、万歩計つけておけばよかった」と言いますが、はっきり言って今後も万歩計は着用しません。だってヒワイだもん、名前が・・・。で、唐招提寺を見たあとは、もう帰路に着きました。名阪国道という高速道路みたいなのがあって、それに乗ったら、なんだかすごいスピードで帰ってこれました。快適快適。でも伊賀あたりの山道で、とつぜん雨が降ってきて、もう暗いし、胃が痛いくらいにちょっと怖かった。でも無事に家には着きました。今はまったりしているところです。仏像たくさん見れてよかった。仁王は、匂う。ウソです。仁王は筋肉美が凄いね。あの発達の仕方は筋トレしたんじゃないか。ああいったマッチョ体型は西洋のものかと思っていたが、鎌倉時代にもああいう人がいたんだね。僧冒筋の発達ぐあいはまるで、”戦慄のヒザ小僧”ヴァンダレイ・シウバのようでした。しかしあれも好きになれない。どうも力の焦点がまとまらないというか。やっぱりすっとした線があるような像が好きですね。そういえば、たたずまいがものすごくすんじりとしているお坊さんがいました。あの人はきっと高僧だよ。だって、他の坊さんはあんな高貴な感じしなかったもん。やはり姿勢でいろいろわかるね。観光客の外人さんたくさんいたけど、とくに女性はスタイルがあんまりよくないねえ。みんなフヌケな体型をしている。ああ、あとは旅行で思ったこと。日本文化とか和風とか言うけれど、お寺や仏教に触れるかぎり、かなり異国的だよね。やはりインド抜きには日本は語れないでしょう。それから中国の影響も多大だし。だから日本文化に拘るのは、アホウだね。好きこのむのは勝手だけど。「世界に誇る日本文化」なんて、噴飯ものだよ。「個」や「創造」というのは、たんなる歴史の交点にすぎないということです。価値はあるけど、価値はないのです。けっきょくゼロから何かが生まれることはないということです。なにかとなにかが結ばれて、何かが生まれる。歴史と衆知の精華ここにあり!ということはないのですね。それは先代から見れば新しく、後世から見れば、古いということです。おっと、また込み入った話になってしまいました。今日は日記なので、このへんでやめておきます。古のみやこ、奈良。行ってみる価値はありますよ。追伸:さっき、そういえば家族で大仏を見に行ったのを思い出しました。あれは、たしか5歳くらいだったような気がしますが、定かではありません。おかん、どうですか?
2007年09月13日
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昨日と今日で、奈良に行ってきました!!奈良は以外に近いのだね。行きは3時間くらいで着きました。愛車も良い走りをしました。奈良に行ったのは小学生の修学旅行以来ですから10年ぶり以上でしょうか。というわけでベタに大仏から攻めます。奈良公園!シカいっぱい!!ワクワクしてシカせんべいを買ったら、シカどもがこぞって集まってきます。さっきまで悠々とかつ行儀良く座っていたやつらが、エサをみたとたん本能むきだしでせまってくるわけです。これは怖いよ。なんか目が野生だもん。♪小ジカのバンビは可愛くねえ!むしろゾンビ!!さっそく連れはお尻をかまれてものすごい大声でぎゃーと叫んでいました。ちょっと妬いたので、そのシカの尻をかんでやりました。ぼくもせんべいを渡されましたが、無我夢中でまいてしまって、何がなんだかわかりませんでした。まさに「シカは食っても食われるな」ですね。はっと気がつくと修学旅行生や外人さんが同じような目にあっていました。恐怖のあまり、みんなせんべいがなくなると手を上にあげて「ほら、もうないってば。もう終わりだよ」とシカにしゃべりかけてしまうんですね。9割くらいの人が、「もうないよ」ってシカに話かけていました。それから大仏さんを見にいきます。デカ!!断然ボブ・サップよりデカイです。神々しい、のかな?とにかくデカイ。それに古い。もうそれだけで見る価値アリだね。有名な「大仏の鼻の穴」を通りました。柱に「大仏さまの鼻の穴」の大きさの穴が空いていてね、そこを通ってみましょうという小イベントがあるのです。意外にせまいよ。僕はガリレオ・ガリレイ、じゃなくてガリガリと言われるくらいやせてますが(自称やせマッチョ)それでもけっこうギリギリでした。連れに引っ張ってもらってなんとかくぐり抜けましたが、あれが傷心一人旅とかで、詰まって出られなくなったら、よけいに傷が深くなるだろうなあと思った。大仏さんを拝んだあとは、有名な春日大社に行きました。といっても何が有名なのか分かりません。なんか12個くらい神社が連なっている道があって、そこは道も険しく大変でしたが、なんかの役得がありそうな感じでした。刀と鎧のなんとか展をやっていましたが、入場料も高いことだし見るのはやめておきました。そしたらいい時間になってきたので、夕食にします。せっかくの旅行なので、覚醒剤覚醒剤、じゃなくてホテルが経営するしゃぶしゃぶ食べ放題にしました。ちなみに「覚醒剤=しゃぶ」というギャグです。肉大量、野菜大量です。やっぱり若人は肉ですね。そして野菜もうまいですね。もうすぐ鍋の季節ですね。何が言いたいんだ、俺。とにかく腹いっぱい食べた後はホテールに向かいます。ホテールは国道沿いにある、隠れ家的なアジアンリゾート的なところです。いわゆるラブホテールじゃありません。新しいところらしく、かなり快適に過ごせました。風呂にジャグージとテレービ着いてるし!!ベッドも広くて、気持ちよかった。これで一日目は終了です。 続ーく。
2007年09月13日
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ぼくが嫌いなフレーズ。「聖人君子にはなれないけれど」・・・あきらめんなよ!!やっぱ聖人君子目指さないと。「聖人君子にはなれないけれど」なんて陳腐なフレーズをとくに何の考えもなく使ってしまうのは、詩文では問題があるとぼくは思う。しかもたいていその続きは「俺は俺の生きたいように生きる」とか「ぼくにはぼくの生き方がある」とか現状に甘んじるようなセリフばっかりなんだよな。はいはい。そもそも聖人君子って誰だよ、って話で。昔っから、聖人君子って崇められた人ほど実は人間味があるもんだと思うんだよね。聖人君子もエッチなこと考えたり、酒好きだったり、癇癪持ちだったりするんだけど、とかく「聖人君子」と崇められていて、その信者どもが人間味溢れるエピソードを隠したがるのだ。そして神秘化して、全能神として崇めてしまうのです。で、ついでにその全能神を崇めている自分も偉い、みたいな発想になっていくのだね。現実を見る、ということはかくも難しいことなのだ。とにかく聖人君子だって人間なのだということです。だからかならず失敗をしている。それに失敗をし続けている。世間が勝手に作り上げたような「聖人君子」のイメージにだまされてはいけない。人間は、みんな人間なのだ。誰しも欲望を持っている。欲望は悪ではない。「いかに欲望をつかうか」が問題なのだ。だから聖人君子を目指しましょう。ちなみにたぶん孔子の説だと思いますが徳と才が秀でているのが聖人、徳が才より秀でているのが君子、それから才が徳より秀でているのが小人だそうです。謙虚ぶった人はここで、「俺は小人だな」なんて言いますね。まあそれはよいとして、ぼくは聖人君子を目指します。がんばります。
2007年09月11日
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「屹立せよ!!」最近そのことばが、やたらと頭のなかに浮かびます。精神が屹立し、即ち身体が屹立し、そして自己が屹立する。この大地に、「立つ」という意味。屹立せよ。
2007年09月10日
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今年初の花火を見てきました。開始が19時半、会場が16時とのことだったので、15時半くらいに出発して伊勢に向かいました。行きの電車のなかで、さっそく浴衣姿の人をたくさん見ます。それにみんなものすごく重装備です。3泊ぐらいの旅行できちゃうんじゃないか、っていうくらいのカバンの大きさです。われわれはいっつも軽装備なので、ちょっと不安になりました。1時間くらい電車に揺られて、宇治山田の駅に着きました。ここからシャトルバスが出ているわけです。会場についたら、まだ人はまばらでした。まばらといっても、けっこうな人がいるんですが、どこに座ろうかと検討する余地がありました。出店の数もすごいね。川の両岸にずらりと並んだお店の数はおよそ、およそ・・・、わかりません。200くらいかな?何百メートルか、出店街道が続いてました。出店を見ながらフラフラしていると、見る見るうちに人が増えてきたので、ビニールシートを購入して、さっさと場所を決めました。で、それが18時ごろ。花火開始は19時半。 ヒマです。とてもヒマです。すごーくぼんやりと1時間半をすごしました。そのうち花火が始まりました。なんといったらよいのやら・・・、花火は・・・いいね!!光と音のズレがそこはかとなく幻想的だよね。非現実感というか。で、またその音が身体に直接響きかけてくるんだね。花火の音はストレス解消になると思う。ただ、会場に音楽が流れていたのが残念でした。なんか「クラシックやJ-POPと花火の競演」みたいなコンセプトなのかもしれませんが、花火の音は「間」がいいのであって、その「静」にリズムが入り込むとうるさいのですね。シブさを知らねばならん。シブさを。シブいものは飽きないんですよ。それが奥深さということです。まあそんな些事はよいとして、でも花火はやっぱり夏の風物詩だなと思いました。秋風吹きはじめる頃に、ギリギリで花火を楽しめてよかったです。ちゃんちゃん。
2007年09月09日
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外国の方に名前を聞いたとき、「日本語」で教えてくれるとき少しさみしく感じる。たとえば中国人で「毛沢東」という名前だったとしましょう。それで「お名前は?」と聞いたときに、「モウ タクトウです」と言われると、ああ、文化を強制しているのだなあと申し訳ない気がするのです。「毛」さんは中国語で読めば「mao」さんです。(この読みすらも不正確)それをわざわざ日本語に訳して「モウです」と言ってくれているんだなあと思うとなんだか切ない。「Michael」は「マイケル」ではないんです。しかし、そういった理解がないと「Michaelです」「マイケルさんですか?」「NO,Michaelです」「だからマイケルさんですよね?」といった不毛な会話になってしまうのです。相手を、世界を、まるごと捉えるということの難しさがここにある。「分かった」って仕方ないんです。「分からない」ほうが愛せるんです。理解はかならず誤解です。自分の文化を誰かに強制してはいけないのです。文化は言葉です。言葉は手段です。でも、この世界はこの世界なんです。噛み砕くか噛み砕かないかは別として、ごくりと飲み込むしかないんです。だから外国の人よ、あなたはあなたの名前でよいのです。
2007年09月08日
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今日(9月5日)の職場はけっこう重要な日でした。ですが、シフトの関係でぼくはお休みでした。というわけで、矢場町はパルコのスイパラこと「スイートパラダイス」に行ってきました。あれだよ、デザートバイキングというやつだね。前日からあまり食べないようにして、気合を入れていきました。行ったらデデーン!!デザート甘!!これは思ったより食べられませんよ。だって甘いもん。満腹じゃないんですが、「もう要りません」っていう感じ。途中でトマトスープとかコーヒーでごまかすんですが、やはり限界があります。けっきょくどれだけ食べたのかも、モトがとれたのかもわかりませんが、まあおいしい経験ではありました。というよりね、あの業態はどうなんでしょうか。楽しんでおいて批判するのもなんですが、ちょっと度が過ぎているんじゃないかなあ。こう、ね、高校生くらいの女の子なんか、ケーキをドッパぁと景気よく持ってくるわけですよ。持ってくる、というか「盛ってくる」んだね。いろんな種類を楽しむために薄っぺらに切られたケーキをさ、ぐちゃぐちゃと皿に盛り上げるわけです。その隣にゼリーやらプリンやら若いのにババロアやらをぐちょーんと盛り付けるのですね。はっきり言ってそのさまはエサ!!かなり動物的な食餌です。で、デザートだけじゃなく、カレーやパスタもあるんだけど、パスタができるたびに店の人がカンカラカーンってベルを鳴らすわけ。そうすると、いっせいに客が群がってきて、パスタはすぐになくなってしまうのだね。鯉か!!場所がパルコだけに、ちょっとオサレ?みたいに思っている人もいるんだろうが、ちょっと悲惨な光景よ。みんなそれをわかって楽しんでいるのか、デザートバイキングでキュートにお茶★なんて思っているのかそれは分かりませんが、うーん、飽食ニッポンとはこのことか、と思いました。いかんいかん、こんな批判的なことを書いているとまたお連れ様に怒られてしまいます。とりあえず、えーと、デザートバイキングは甘い!!★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★今日は焼き芋買って帰って、山菜クリごはんを焚いて、秋刀魚を食べました。いちおう、ぶどうもなしも食べたので、秋を満喫しています。秋刀魚をはじめて焼きました。意外にできるもんだね。季節を楽しんでいるときは、日本に生まれてよかったな、と思います。
2007年09月07日
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「雨あがる」という寺尾聰の映画を見ました。あれは時代劇?なのかな。まあなんにせよ、面白かった!!シブいね、シブいよ!!押し付けがましくないところがいいね。淡々と話が進んでいって、嗚呼~、って感じの味わい深さ。やはり大人になったら「味わい」を覚えないといけない。味わいってのは「ゆっくり感じる」ってことだね。遅い方が、あじわい深い。寺尾聰って何出身の人なんだろ?あまりに殺陣がうまくてびっくりしました。あのたたずまいはまさに武道家ですなあ。試合のシーンで敵の剣をかわすところだけが、「ん?」って感じだったけど。居合いの稽古をするシーンは、見る目がないので良いのか分かりませんが、血振りのところ以外は、キレイだなあと思ってみてました。というわけで深夜にシブい映画を見ていい気分になりました。
2007年09月04日
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ゆたかである、ということは大きいこと・多いこと・速いことではない。ゆたかさとは、「商品回転率」のことを言うのだ。入れ替わり立ち代り、めくるめく内部が交換される。穢れを排出し、新しい息吹が吹き込む!!いのちとは、入れ替わることだ。入れ替わり続けることで、変わらないものを保ち続ける、という逆説的な存在。それがいのち。大小・遅速・多寡にだまされるな。変わり続けることで、ぼくが保ちたいものとはなんだろう。ぼくのいのちは、なんだろう。
2007年09月03日
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