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考えに考えて考え込んで考えまくって、考え抜いて考えすぎて、それで最終的に「ああ、考えることなどなかったのだ」という気づきにたどり着けたらなあと思います。
2007年03月31日
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実は、かなり恥ずかしく言いにくいのですが、昇格試験に落ちました。テキスト持ちこみ可で、受ければ誰でも受かると言われている試験なんですが・・・。ほぼ形式だけのテストでね。しかも追試まで受けたのに・・・。昇進が一年遅れました・・・orz大学入試が終わり、晴れて大学生になることが決まったとき、浪人決定の友人が冗談まじりに言いました。「お前は挫折を知らない」ふんっと笑い返しましたが、なんかドキッとした一言でした。たしかにあんまり挫折は知らなかったかも。学歴社会でおベンキョは優等生だったし、浪人も落第もしてないしね。テストなんかほとんど落ちたことなかったのに、こんなところで落ちるなんてね。人生って不思議だね。俺はまあショックだけど、納得はしていますが、なんだか期待をかけてくれてる人に悪いなあという気分です。でも、なんか頑張ろうって思っています。今日は「点をつなぐ仕事術」というのを考えました。仕事にはいろいろと種類があるので、時間がないと言い訳せずに、仕事を種類にわけて、点をつないでも仕事になるものに関しては時間をたっぷりとらないようにピリッと時間をとったらいいなと思いました。立体的に時間を組み立てるということが大事だと思った。これは今日の気付きです。
2007年03月30日
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自由とはなにかと言うことを考えていたら、どうしても「悪」というところに行き着く。僕はこのごろ「自然悪」というのを考えているんです。自由な人というのは、自然に悪だと思う。とらわれず気ままにふるまうから、不自由な人から見ると、それは悪に違いないのである。しかし当の本人は悪の意識などまったくない。もちろん、自由気ままに生きるという意識もない。「自由気ままに生きる」なんて言っている人は自由でもなんでもない。ただのご都合主義だ。不自由な自分をごまかして、見せびらかしているだけだ。自由な人は自然に悪である。だが、不自由な人が悪を目指せば、それはただの悪なのだ。自然悪に対して、偽悪であり、またそれが本当の悪であるとも思う。自由は悪だが、悪=自由ではない。自由な人の悪、つまり自然悪は自由な人の外にある。つまり不自由な人が感じる(つくりだす)悪なのだ。それにたいして不自由な人の悪は、その人の中にある。不自由な人はみずからの悪を知っているのだ。また自由な人はその悪を悪と感じない。自由・・・。
2007年03月29日
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舞い降りるしあわせも、ふりかかる災厄も大本は自分にある。僕らは他人の心を読む。彼は楽しんでいるのか、かなしいのか怒っているのか、嬉しいのか。つねにそういうことを無意識的にでも考えて動いている。相手の心を推し量るとき、その目安となるのは自分しかいない。いや、自分しかいない、というかついつい自分を基準にして考えてしまう。相手は何を考えているのか? ↓その見た目(表情など)を判断。笑顔である。 ↓自分なら、笑顔のときは嬉しいときだ。 ↓よって、相手も嬉しいのだろう。もうちょっとカンタンにすると、1:相手は笑顔である2:自分であれば、笑顔=嬉しい、である3:よって相手の感情は「嬉しい」である。というふうな論理によって推量が成り立っている。ここでひとつ見えてくることがある。それは、暗黙の了解として、「自分=相手」という前提になっていることだ。これが人間関係の誤解の根本だ。なぜ、「自分=相手」なのか。そこの根拠がまったくない。同じ人間だから?それは観察を怠っているだけだ。相手そのものを見なければならない。相手のタテの状況(歴史)とヨコの状況(社会など)を十全に把握し、相手を読まねばならないのだ。しかしついつい僕らは自分勝手に、「自分」を相手にあてはめてしまう。うさんくさい道徳が、「相手の立場にたって」なんてことをほざいていたりするが、そんなことはできるわけがない。やってるつもりでも、それは単なる悪意なき偽善だ。相手の立場に立つことなんかより、自分なのだ。自分は自分自身に立脚した視点でしかモノを見れないことに気づくことが大事だ。自分は自分であり、相手は相手なのだ。とらわれてはいかんね。こんな当たり前のことでさえ、サラリと忘れてしまうよ。悟りは遠いなあ。
2007年03月29日
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陰陽五行の本を買ってみました。陰陽五行は東洋医学で知って、それで気になっていたんだね。読んでいると、フムフムナルホドと思えるところが数多ある。体系化が見事ねー、という感じ。し・か・し。逆にいえば体系化が見事すぎ?つまり現実に即していない部分がある。あまりに陰陽五行でとらえようとしすぎて、無理やりでごり押しな感があったりする。まあそのへんは昔っから分かっていたようで、東洋医学のほうでも、そこまで陰陽五行にどっぷりでもないらしい。やはり医学は現実に即した学問だから、「実際にどうなるか・どうするか」ということには強いのだろう。ここにも「思想」の無力性を感じるね。やはりどんなに古くからあって、僕らの生活にふかく根付いている思想であっても、完璧ではないんだね。当たり前だけど、どうしても僕らは「古くから伝わる」というフレーズに弱かったりする。どんなに古くてどんなに良いものでも、それは人が作ったものなのだ。世の中は陰陽五行で成り立っているのではない。陰陽五行という色メガネで世の中を見ることも出来るよ、というあくまで方法論としての可能性なのだ。最近は一部で「東洋!和!ナンバ!」なんて騒がれていたりするが、東洋思想がすばらしいのではない。ただ、西洋思想一辺倒な僕らにとって、東洋思想は「新しい」価値を提供するというだけ。真理でもなんでもない。極東の僕らが、「東洋は新しい」なんて言ってるのもおかしな話だが。とにかく「偏る」、ということが問題なだけです。西洋だって素晴らしい。(とはいえコジン的に日本が好きです)まあ偏っていることにさえ気づかない人が多いから、「西洋の思想は反自然だ!悪だ!」くらいに標榜しても丁度いいのかもしれないね。でも、そういうことをするから時代が蛇行運転してしまう。大衆が右往左往してしまう。価値の無価値性とでもいおうか。明日、もし何か大きなことが起こったときに、自分の「教科書」を「墨塗り」にできますか?ってことなんです。他人や世間に作られた「価値」に踊らされてないだろうか。なんか話が逸れぎみだな。だから陰陽五行もひとつの「文化」にすぎないということ。「文化」っていうのは「世界の区切り方」ということだね。陰陽五行の成り立ちが面白くてね。どんどんいろいろな論をとりいれて膨張していったようだ。五行論に陰陽論があわさって、そこに時間の概念が・・・方位学が・・・みたいな。またその膨らみも人間的っていうか、ある学問が陰陽五行論で自説を権威付けたり・・・。ぜんぜん現代と変わってねえ!!やっぱり壮大な思想をバックボーンにするとその人・技術・集団はカリスマ性を持ったりするわけね。まあカリスマ性といっても、その信者の大半は「伝説」に群がるオタク君たちだったりするんだけど。バックボーン(背骨)としての思想に寄りかかる、つまり妄信するから思考がないのだね。思想に憧れるからただのオタクになる。技術に憧れたら、ちゃんと研究するでしょう。思想に憧れるってことは言説にとらわれるってことですよ。技術に憧れるってのは、その対象をきちんと観ているということです。神格化するか尊敬するかっていう違いです。またまた大きく話が逸れました。何が書きたいのかよくわからなくなったので、今日はやめておきます。俺、こんな日記書いてっけど、ふつうにこんなことしゃべってくるやつがいたら、ウザイだろうな~(笑)
2007年03月28日
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さっき、風呂から出たらパンツがありません。詳しく言えば、洗ったパンツがありません。洗濯サボりすぎました。しかたなく、ノーパンでコンビニへ。ウソです。脱ぎたてホヤホヤのを履いていきました。風呂上りに。ぎゃー。買ってきましたBVD。トランクス派です。今からそれに履きかえます。これでゆっくり眠れます。ふう。
2007年03月27日
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地震がありました。思うのですが、自信って、なんなんだろう。俺は、自信がないのかな?自信家に見られることもたまにあるけど、それは自信がない裏返しなのかもしれないな。自分を信じる。自らを信じる。おのずから信じる。信じるというのは、大丈夫という感じ。「待つことが出来る」という感じ。動き回ることは大事だけど、動き回ってないと不安、というのもおかしい。自由。自信。ほど遠いな。あー。
2007年03月26日
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たとえば毎日「愛してる」とささやき、おいしいごはんを作ってくれ、またどんな料理もおいしいと言って笑顔で食べてくれ、家事をさぼっても怒らないし、夜の生活も申し分なく、ウワキもしない、夜遊びもしない、そんな「永遠の結婚詐欺師」とほんとうに心から愛しているのに、気恥ずかしく、言葉にはできず、何も言ってくれず、家事もしてくれないまずい料理はひっくりかえす、会話もない、そしてそのまま死んでいくそんな「純粋な漢(おとこ)」だったら、どっちが愛のある人間といえるだろうか。くだらない話で・・・スマン。
2007年03月25日
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僕の感覚では、肚というのは「張る」ことと「締める」ことができるようです。同時にすることもできるし、片方だけすることもできる。「張る」ほうは割合カンタンです。息を吐ききって、そのあとケツの穴から息を吸い込む感じにすると肚が充実する感じになります。ヘタをすると「どせき」が生じますから気をつけてください。肚を「締める」のは、まさに肚の中をキュッという感じでやるのです。どうしても分からない人はふわふわの背もたれありのクッションに座って、そこに尻からずぶずぶと入っていく感じでやってみてはいかがでしょう。なんていうか「尻からソファーに突き刺さる」ような感じです。自分が固いモノになったようなイメージ。固くするんですが、腹筋やケツ筋、背中の筋肉が固くなっているときは、たいてい間違いだと思います。うまくキュッと締めれたときは、その側の筋肉はゆるんでいます。変な感じですよ。明らかにどっかの筋肉をぎゅーっと締めているのに、触ってみるとフニャフニャしている。今日のはたんなる自分の覚書なので、わかりにくめに書いてみました。
2007年03月25日
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今日は髪を切ってくるついでにちょびっと名古屋を散策しました。思いのほか雨などが降っていて困りましたが、コンビニでカサを買って、九死に一生を得ました。某巨大書店を2つほど見ました。あまりに広すぎて探すのメンドクサイ!!やはりあるべきものがあればよいなと思った。それからアレ、あたらしく完成した、ミッドナイトムーンライトだっけ、いや違うな、ミッドランドスクなんとかっていうでっかい建物に行ってきました。感想を一言でいえば・・・つまらん!!建物は新しいかもしれないけど、発想が古い!695秒くらいで飽きちゃったよ。やっぱり街は一人で歩くにはあんまり面白くないね。孤独と孤独がせめぎあい、そして癒しあう。街という名の窮屈なヴァイオリンは今日も眠らず鳴り響く・・・なんだそれ。
2007年03月24日
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肚というのは、感情でいえば「しのぶ」ということをつかさどっている気がする。笑えて噴き出しそうになるのをこらえるのも肚、怒れて爆発しそうになるのをこらえるのも肚、恐怖に耐えるのも肚である。それに射精を耐えるのも肚だ。(呼吸をともなえば、なおこらえることができる)感情をとりまとめている、というか落ち着ける働きをもっているのが肚だと思う。もちろん肚と呼吸の分化ができて始めて、肚と呼吸を同調させるということができる。こうなると、肚は心なの体なのかということはもはや分からない。心身一如。
2007年03月24日
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さしあたっての、ですが、仕事に関して目標ができました。それで今はちょっとやる気が出ている。じゃあ、その目標ってなんでしょうか。「合気道の真髄を本屋の売上で体現すること」です。我ながらマニアックだよなあ。「キモ!」って感じです。さて、ちょっと別の話になりますが、「知識と知恵」ということがありますね。その違いはなんだろうと今日考えていました。というのも、自分で言うのはおかしいですが、「俺は知識があるなあ」と思うことが結構あるのです。これが傲慢だということは分かっていますが、まあ聞いてください。僕は、いろいろと本も読むほうですし、学問も好きですし、それに雑学も大好きです。もちろん上には上がいることは重々承知していますが、ふだん人と話しているなかでは、「一般の人」に比べたら、「知識」が多いように感じます。しかし、その割に「影響力」がないな、という無力感がすごくあったのですね、最近。なんというか知識はあっても孤独、という感じです。それは「ちから」がないということです。もっと言えば「他人を変化させる力」がないのです。なぜかということを考えると、自分の深化の方向が、つねに「内に内に」向かっていたからだと思うのです。つまり、詰め込み教育の延長線上にいたということです。誤解を恐れずにいえば、本を読むことなんか、なんの意味もないのです。難しいことを考えたって、意味はないのです。思考が深まれば深まるほど、社会との隔絶感がつよまり、厭世の気持ちは大きくなります。そこが僕の甘さでした。社会に居場所がないとわめき、かといって世を捨てる覚悟もない。今日思ったのは、社会の居場所というのは自分でこじ開けていくものなんだということです。そしてその自分の居場所をこじあけていく技術こそが知恵なのだ、と思ったのです。知識というのは、もともと詰め込む性質のものです。で、僕はそれを詰め込んでいけばいつかどうにかなる、なんて思っていたんですね。そこが甘かった。いつか誰かが、この知識を何とか使ってくれるわけなどないのです。結局、自分からビッグバンさせねばならない。ビッグバンするのは、「知をおこなう」ことです。「知識」とは「知を識(し)る」ことです。これは「学ぶ」ことでもあります。なにかに従順な姿勢でもあります。英語で言えば、「WHY」の世界です。性で言えば、知のマスターベーションです。「知恵」とは「知を恵む」ことであります。知を与える、知をおこなう、知を発散させる、ということ。知恵とは、誰かを変化させることです。英語で言えば「HOW」の世界です。知のセックスです。ここには泥臭さがともなう。どちらが大事、ということではない。まずは知識、「知を識る」ということがあり、そののちに知恵、「知を恵む」ということになる。仕事というのは、知恵の通り道です。つまり、僕が溜め込んできた知識を発散させる場所を与えてもらっている、ということです。社会とつながる手段が仕事です。だから愚痴を言っている場合じゃないのです。この世界には真理などというヒヨワなものは存在しないのです。まずは力を持たねばならない。勝つことを目標にしていく。それで「実績」をあげていく。そうすることで合気道の真理を証明したいと思うのです。言葉じゃなくて、数字でね。ほんとは武技で表現したらいいんだろうけど、どうも僕は武道家には向かない性格です。痛いの嫌いだし。だからちょっと横道にそれてしまったが、仕事で合気道の真髄を体現していきたいと思う。もちろん僕は合気道の真理なんかは知らない。それは走りながら、学んでいくつもりだ。
2007年03月24日
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今日は牛丼を作りました。真ん中に卵を乗せたりして、ちょっとイカしたのができました。自分で牛丼が作れるなんてなんだかビックリです。食わず嫌いならぬ、「やらぬできない」ってけっこう多いのかも、と思った。さっき、送迎をかねて3時間ほどドライブしてきました。今は酒を飲んでいます。明日は僕の母校の卒業式だそうです。
2007年03月22日
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肚を止めるということ。このときリキんではいけない。肚を止めることは呼気と吸気が代わる代わる張って肚を固定すること。肚を止めるときに、リキむと「どせき」が起こる。危ない。注意のこと。きちんと肚を分化すること。肚を使うことでできるなめらかな歩き。なるたけ拍をつけぬよう。芯に乗る脱力体から芯に乗らぬ適応体へ(肚に依る)。
2007年03月22日
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「ゆたか」という言葉が好きです。これ、なんとなく言葉のひびきって思ってたんですが、ふと「じゃあ、ゆたかってなんだよ」と思いました。で、考えて出た暫定結論が「ゆたかさとは、構造の多様性である」ということでした。なんだか小むずかしいですね。ゆっくりお話をすすめましょう。□■□■□「ゆたか」というとパッとイメージで「多い」「大きい」「ひろい」「たくさん」「いっぱい」「あまり」などの言葉が浮かびませんか。僕ももともとはそう思っていました。でもよく考えてみると、ゆたかというのはたぶんもっと内部のことを指しているんじゃないかと思ったのです。「からだのゆたかさ」が大事なのだということを僕は思っています。このときの「ゆたか」というのは「大きさ」ではないですよね。恰幅のよい人、つまりデブですが、そういう人が「ゆたか」で、ガリガリのヤセは身体がまずしい、ということではないのです。見た目のデブだとかガリだとかは関係ない。そうではなくて、「身体の捉え方」ひいては「身体のつくり(構造)」の問題なのです。詳しい人の誤解を恐れずにいえば、「人間の持っている関節のうち、どれだけ多くを使えているか」ということが問題になるのです。脳は、その能力の数%しか使われていないなんてことはよく言われていますが、身体についても、ここでは「関節」に話をしぼるとしても、僕らはたぶん、その全能力の数%しか発揮できていないのです。たとえば、さっき人と話をしましたが、足の小指を動かしてみろ、というと動かせないのです。そこに関節があるのに、動かせないのです。これは僕らが身体を使いこなせていない証拠の一例です。使いこなせていない、というのはアレです、「身体のオートマチック性」に甘えているからです。「オートマチック性」というのは文化であり、先入観のことを言います。文化というのは、本質的に非思考性によって成り立ちます。ここまでくるとちょっと話が分かりにくくなりますね。なので、ちょっと省略して話してしまいますが、「できている、と思った時点でそれ以上のゆたかさは見つけられない」ということになります。たとえば、いわゆる「健常者」なら誰でも「歩く」ことができる。しかし、ここでいう「歩く」は僕が「運転できる」というのと同じレベルです。僕は運転ができる。F1ドライバーも運転ができる。ここで、おなじ「運転」という言葉が使われていますが、その内容はぜんぜん違いますよね。それと同じで「歩く」ということもいろんなレベルがあるということです。「競歩の人は歩くのが速い」ということじゃないですよ。すぐにそういうことを思う人は、ものごとを数値化して大小で見てしまうクセがあるので気をつけてください。話が長くなってきたので歩き方の詳細については割愛しますが、「歩く」ということは無限の捉え方があるのです。僕は今でも新しい歩き方を発見します。2年くらいやってますが、どんどん新しい歩き方は発見されます。歩き方ひとつでさえ、いろいろなやりかたがあるのだから、それを、身体のうごきひとつひとつ考察したら、それこそ宇宙より広い世界がからだの中に広がるのです。最終的には「よく立ち、よく歩く」だけに集約される気もしますが、まだよくわかりません。□■□■□論文ではなくあくまで随感なので、論理が破綻してるところとかも許してください。フィーリングで読んでください。ゆたかさとは、構造の多様性である。つまり、組み替えることは無限であるということです。組み換えによって、あたらしいものが生まれるのです。あたらしいものはどこかにあるのではない。組み替えることによって、見出されるものなのだ。それを自分の身体をつかって試し、その身体のゆたかさ、身体のあたらしさを味わうこと。僕はそういうことが好きなのです。
2007年03月22日
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きのうトイレに入っているときに、「内臓体力」という言葉を思いつきました。東洋医学なんかでは、漢方の処方に「色白で体力のない人には〇〇湯」みたいな診断がされるらしい。でも、この「体力」ってなに?って思ってたんです。いろんな体力があります。西洋的な言い方であれば、筋持久力とか瞬発力とかがありますね。それで、東洋医学的な「体力」というのは、なんなんだろうと考えていたんです。で、その答えが出たわけじゃないんですが、内臓体力という言葉はあっても面白いな、と思ったのです。じゃあ、内臓体力ってなんなんでしょうか。それは一言でいえば、「栄養を循環させる力」です。つまり栄養を取り込んで、吸収し、カスを排出する。その単純な構造を、とどこおりなくいとなむ力。それを内臓体力と言ってみてはいかが?という考え方です。何度も言っていますが、やはり肉体が疲れてくると、内臓も疲れるようです。だから疲れているときには、食事は少ない方がいい。つかれている内臓に食べ物をつめこんでも、内臓が苦しむだけです。食べ過ぎれば、内臓に食物などが滞留します。この「滞留」というのが問題です。滞留すると、消化不良のガスがたまるのか、いろいろ臭くなります。息とかオナラとか。やはり「とどこおる」ということは身体にとって悪であると考えてよいでしょう。(このとき「ダルい」という感じが生まれます)しかし、内臓には「栄養を保持する」という役割もあると思っています。循環がいいことは大事ですが、あまりに垂れ流すと、栄養を取り込むことが出来ない。ある程度の「ねっとり感」は必要だと思うんですね。血液がドロドロになってはかないませんが、適度に「ねっとり感」があって、それが体内に保持されないとエネルギーも湧かない。腹が減っては戦は出来ぬと言いますが、それは結構当っているな、と思う。肚は呼吸で作りますが、やはり適度に胃腸に何かあったほうが肚を意識しやすい。もちろん上達してくれば、空腹も満腹も関係ないと思います。ただ、意識しやすいかしにくいかの違いだと思う。ちょっと話がそれてしまいましたが、とにもかくにも内臓体力。栄養を摂取、消化吸収、そしてカスの排泄。内臓体力が落ちているときは、食欲がない(摂取する欲の低下)消化が悪い(吸収する能力の低下)ウンコがでない(排泄能力の低下)のどれかが起こります、僕の場合。そういう場合は、食を減らし眠る。そうすると自然とよくなっていくのです。こういった「からだの構造」をたとい自分勝手とはいえ体系化してくのは楽しいことです。
2007年03月22日
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男どもに聞きます。自分のカノジョにミニスカートを履いてほしいですか?これって、意見の分かれるところのような気がするんだよね。ちなみに僕は、あんまり履いてほしくない派です。ミニスカというのは、それだけで価値があるものだと思う。もはや、そのひびきだけでもエキサイティングだもんね。そりゃ実際、目の当たりにしたら、凝視してしまうよね、うん。って、こういうケモノのようなやつが多いから、僕は心配になるわけです。だから自分のカノジョに関してはなるべくなら「安全な」、セーフティな格好をしてほしい。それでいて適度なセクシーさも要求するのだからワガママなものです。ごめんなさい。もちろん街ゆく女性は、風邪を引かない程度にどんどんミニスカを履けばいいと思います。疲れ目にはビタミンB1よりもミニスカが効きます。幸せは、ヒザ上20cmに宿ります。★~★~★~★~★~★~カレシが履いてほしいというからミニスカを履いている人もいました。どうも僕にはその男の感覚がわからない。こういう場合、どっちがいいオトコなんだろうか。やっぱり、その男のほうがデッカイかな。俺の考えは、独占欲が強いだけ?カノジョにミニスカを履いてほしがるのはどういう感情なんだろう?「いいオンナ」をつれて歩きたいってこと?単にエロいものがそばにあってほしいってこと?自分のカノジョは、可愛くあってほしいってこと?「履かせたい派」の人、教えて!!もちろん、「履いてほしくない派」の人も共感のコメントちょうだい。履かされる、履くのを禁止されている女性からの意見も聞きたいな。★~★~★~★~★~★~★~★~自分の持っているものがよいものであればあるほど、人に獲られる確立が高くなります。自分の持っているものを手放したくないと思えば思うほど、不安になります。自分だけのものにしたいと思えば思うほど、他人が敵に見えてきます。これを「所有の不幸」と言う。何かを持つということは、だいたい僕らを幸せにしたりしないのだ。だけど持ちたいと思ってしまう。不思議だな。ミニスカのディレンマは、そんなことを教えてくれる。
2007年03月20日
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武術というのは本質的に愛です。無敵の道です。敵がいるうちは、未熟なのです。誰かに勝ったとしても、それは相対的な強さです。みずからの精神をつよくして、相手に戦う気をなくさせてしまうのこそ真の武術であります。これを和合といいます。敵をなくしてしまうのです。いいですか、「武」という字は「矛」を「止」めると書きます。つまり、戦いをして止ましめるのが本来の武道です。それは愛ということです。□■□■□・・・はい、全部ウッソー!!僕を知ってる人は、気づいていたと思いますが、そんなつまらんこと書くわけがないでしょう。えへ。「武」という字の一般的な解釈、「ほこをとめる」というのを鵜呑みにしている人が多いようですが、あれはどうにもウソのようです。「止」は、現在の「ストップさせる」の意味ではなく、本来、単に「あし」を意味する言葉らしい。野口三千三先生によれば、たしか「止」は「左の足の裏」をあらわすとのこと。なんにせよ、「止」は「ストップ」ではなく、「足」ひいては「すすむこと」を意味するわけです。言葉の意味がまったく正反対になってしまうことは歴史上でよく起こることですね。で、「武」というのは「矛をもって前進するさま」をあらわしているわけです。積極的に戦争にむかっていく人の姿です。(姿です、といっても象形文字じゃないけど)まあ誤った解釈でも、人が納得すればいいと思うけどね。こういった言葉を舌を躍らせてしゃべってくる輩には注意してね、ってこと。とは言え、いまさら「矛を止める道」なんて言ってる人はいないよね。だって、かなり何年も前から、それは誤った解釈だって指摘されてるもんね。偽善もほどほどにしないと、悪になっちゃうよ。
2007年03月20日
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人間関係は技術で保たれているところが大きい。心だなんだとか、偽善的な夢想をしている場合じゃない。心なんてのは最初と最後の話だ。日常の生活では、技術こそがものを言うのだ。「かならず最後に愛は勝つ」ってね。これはね、「勝つ」の部分が大事なんじゃないよ。「最後に」の部分が大切なわけ。つまり「最後」にならないと、「愛」なんか関係ないってこと。格闘技なんかでも、選手がもう満身創痍になってるときに、「もはや二人とも精神だけでリングに立っています」なんて言うでしょう。でもね、たとえどんなに勝ちたくても、どんなに本気でも、俺がリングにあがったらやる気のないプロ格闘家に秒殺されちゃうわけですよ。気持ちの問題だなんて、そんなに甘くはない。あくまで技術が同レベルのときに、精神がものを言いますよ、という構造なのです。「精神が大事」というのを、コトバのままに受け取ってはいけない。□■□■□前置きが長くなったね。えー、人間関係は技術が大事なのだというお話。しかしだね、その技術がバレているとき、それはとっても醜悪だ。たとえば「わりとできると思われている人が『失敗談』を語ると、それはマイナスどころか『意外に人間性がある』と評価されて好印象」という技術があるでしょう。誰でも使っているベタベタテクニックだ。ただ、これにも上手いヘタがあるのだね。ヘタな人というのは自分を認めていない。だからその「失敗談」が「自慢話」になってしまう。見かけ上は失敗談なんだけどね、それよーく聞いたら自慢話じゃね?みたいな。そうすると話を聞く相手は、失敗を励ましながら、自慢話を聞かされる、という最悪の目にあう。これはもはや悲劇だ。西条は、ヒデキだ。っていうか自慢したいならすればいいのにね、そう言ってくれれば聞くのにね、なんか遠回しなところがウザいんだよなあ。なんでわざわざ失敗談のオブラートにつつむかなあ、と。謙虚な不利すんなよ、と。ただの傲慢な人より数倍みにくいよ。あれ、俺、また愚痴?いやん。
2007年03月19日
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やっぱり笑顔に出るよね、人間性。俺、思うもん。笑顔は隠せないって。笑い方が下品な人はやっぱり下品だよ。やはり笑うのは無垢に笑うのがいちばん素敵だと思う。もちろんTPOはあると思うよ。それは社会人になって分かったけど、やはりその場に即した笑いというのはある。店員さんがお客さんの前でバカ笑いをしちゃいかんのよ。しかし、仕事を離れて、素直な人間関係のなかにいるなら、笑いたいままに笑うのがいちばん美しいと思うのです。技術として笑うのがいちばん醜い。笑うときは自分から笑っちゃいけないのだ。自然と、ぷっと吹き出すのが美しいのだ。愛想よくしてるつもりでも、全部お見通しだぜ。ウソ笑いのチャンピォンさんよ。この俺を、それに世間を、そんなにカンタンに騙せるわけないだろう?甘くみてもらっちゃあ、困る。見たところ、笑い方忘れてるな。
2007年03月19日
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あたらしい立ち方を覚えました。身体についてのこれだけ大きな発見はなんだか久しぶりだ。とても嬉しい。身体がうち震えるような感じがする。新しい身体の構造を「観た」ときはまさにエキサイティング。身体の豊穣なる海にまた深く入ったという快感。身体の深遠なる豊穣性。からだのゆたかさ。身体の内奥に力を込めるということ。恥骨・仙骨・腸骨陵。それは足長手長おじさんへの道。肩の力 抜けるは必然。姿勢の大事。対人稽古をする機会がない幸せ。
2007年03月19日
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肚!丹田の養成。そして・・・。外反母趾。こりゃすげいことだ。
2007年03月17日
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俺ら人間はなんて弱いなんだろうと思うのは、やっぱりどうしても愛に甘えてしまうときだ。俺もそうだし、人を見ていても思う。愛が足りねば、人を乞う。愛が余れば、つけあがる。なんて勝手な存在なんだろう。あまりある愛に甘えず、不足する愛に、媚びず。そんなふうに生きられないものか。とはいっても、その答えが「つかず離れず」なんて陳腐な言葉だとは思いたくない。わがまま。まだ夢を見ている坊やということか。俺はいつも割り切れない。現実主義になることができない。どっかで夢を見てる。俺が現実主義になるのはヤケクソのときだけ。「これが現実だよ」って俺が動いてるときには、冷徹以外のなにものでもない。つめたくてたのしい夢を見れるってこと。これがオトナの条件かもしれないな。
2007年03月17日
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思考というのはなんと無限な世界なんだろう。考えるということはどこまでも広がる。宇宙、宇宙の果てまで!!しかし、それはあんまりいいことじゃないんですね。よく「肉体には限界があるが、精神には限りがない」といって、「精神のほうが上」みたいな言われ方をしますが、とんでもないと思う。広がり続ける、というのはどう考えても危ないことです。まあ風船にたとえれば分かるでしょうけど、どんどん膨らんだら、いつか破裂するのです。まあこれは自戒なんです。僕は思考が得意なほうですから、アブナイ側面を持っているなと自分で思います。「考え」だけが先走ってしまうのですね。僕の文章は偉そうでしょう?何かを悟ったようで。それは思考というものが本来的にもっている傲岸性なんです。尊大さといってもいいかな。むずかしい言葉を使いましたが、「偉そう」ということです。ここがポイントです。「偉そう」であって「偉い」ではないんです。「考える人」は「偉そうな人」です。「できる人」が「偉い人」です。夏目漱石だったかが、「偉き人は、難きことをする人なり」と言っていました(たぶん)。つまり、「むずかしいこと(人ができないようなこと)をするのが偉い人だ」と。ごもっともですね。むずかしいことを考えるのは、カンタンなんです。自分で「むずかしい」と思えばいいのですから。むずかしいことを実行するのがむずかしいのです。なんだか変な言い回しですね。混乱を承知でいえば、むずかしいことは実行するのがむずかしいのだ、と気づくことさえもけっこう難しいのです。はい、わけがわからなくなったのでやめましょう。今日書きたかったのは、現実を否定しちゃいけないよ、ということです。尊大な思考の夜を越えて、仕事の朝になれば、僕はほんとうにちっぽけな存在です。会社という機械の中のなくなっても大して害のないパーツです。「みんな尊い、みんな大切」なんてウソです。会社という観点で見れば、代わりなんていくらでもいるのです。僕らは兵士なんですから。それは社長でも同じでしょう。現実という世界では、僕はあまりにも無力です。売上を30万円あげることさえできない。客数を1000人増やすことも出来ない。そしてそれがウソじゃない、ということです。かならず、現実が基盤なのです。思考を土台にしてはいけない。思考というものが威張ってはいけない。仕事で、「なんにもできない僕」がいます。力ない存在です。それを認めないと、思考の海が大時化(おおしけ=荒れること)になります。逆に、現実さえ認めてしまえば、思考というのはよいストレス解消になると思いますね。もちろん仕事中も考えていたらダメですよ。仕事中は、目先のことを考える。パッと思考が切り替わるから、気持ちがよいのです。その意味で、僕は仕事をしていないとダメになると思いますね。部屋にこもっていると、たぶんそのまま「神」になります。現実のどろくささと、思考の純粋性とそのどちらをも楽しんでしまわないと、ただの泥まみれか、純粋培養の軟弱な神かのどっちかになってしまう。ただの泥まみれには品がない。純粋培養のよわい神には、力がない。やっぱり、バランスなんだ。それがオトナなんだ。
2007年03月17日
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どうも僕はちょっと時代おくれなところがあるのです。その意味では、オクレ兄さんなんです。たとえば、どうしてもカーナビを買う気になれません。超方向オンチなくせに、カーナビを買おうとは思わない。もちろん金銭的なこともありますが、それ以上に、なんかメカに抵抗があるのです。そのおかげで、よく見てもわからん地図を開き720度もぐるぐる回転させ、助手席を困らせながらドライブするわけです。辞書もそうです。電子辞書。あれが便利なことはぞんぶんに知っているのですが、どうしても買う気にはならない。もちろん金銭的なこともありますが、それ以上に、なんかメカに抵抗があるのです。iPODとかも興味ないですね~。あんな小さなフェッドホンでPOPSを聞かなくても、僕には風という名の音楽が聞こえる。なんてウソです。ほんとはメカに抵抗があるのです。つまり、便利なものに抵抗がある。便利なものが僕は怖いんですね。クレジットカードとか。便利なものを使うと、かならず何かを失う。といっても、それは悪いことではない。得られるものはもっと多いのだから。だから僕はただの旧態依然、旧套墨守で守株の愚を犯しているのかもしれない。けれどやっぱり怖いのです。使わなくても誰にも叱られないので、けっきょく使おうと思わないのです。ウサギかカメかって言ったら、ムダにカメ派です。カメハメハです。しかし、ウサギかメカかだったら、ウサギをえらびます。せめて自分の足で走ろうよ、とね。・・・う~む、なんだか上手くオチてないような。まいっか。
2007年03月17日
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さっき、スーパーに行ってきました。それはうどんを買うために行ったのです。うどんというのは安いのだと分かってからよくうどんを買います。いっしょにきざみネギも買いました。ふと、大根が目に入りました。もちろん、実際に目の中に大根が入り込んだわけではありません。そんなことになったら、大混乱です。さて、ダイコン足と言いますね。あれは、なんでしょうね、太い足のことを言うのでしょうか。それとも肉付きの問題でしょうか。まあそれはよいとして、ダイコン足というのは、ホメ言葉じゃないですね。ということは逆に、大根も一緒に侮辱されているということです。ダイコン足、というのはダイコンのように醜い足という意味です。つまり、ダイコンは醜いという前提が浮かんできますね。で、よくよく見てみると、やはり大根というのはよいものではない。どちらかといえば醜い。それはなんでかっていうと、スーパーに売られている大根は葉っぱが取られているからです。葉っぱの部分がないから、バランスが悪いわけです。他の野菜も見てみますと、やっぱりカットされているから、醜いものが多いですね。□■□■□「信号が見えない」だとか、そういった人間の都合によって枝を伐採された街路樹は美しくない、ということに高校生の頃、気づきました。切り取られた部分が、どうにも醜い。それと同じことがスーパーのなかで起こっているわけです。シソの葉一枚なんかは、キレイだと思いますけどね。オイシイところだけパックしてあるエリンギなんか、醜い。それは「全体性」というのを失っているからだと思います。全体性っていうのは、なんていうのかまあ「まるごとぜんぶ」っていうことですね。もちろんスーパーで売られている野菜が美しくなくても問題はないわけです。ただ、そういうことに気づく人がいるかどうかっていうことです。自然というものに触れていないと、自然ということは分からないと思います。それは美しいものに出逢うということです。美しいものがあってはじめて醜いものがわかります。それは感性を磨いていかねばならないのです。何度も言ってますが、「オンリーワン」なんてクソッタレのペテンです。詐欺です。大ウソです。詐術です。詭弁です。言い訳です。なんだって優劣があるのです。そりゃ「劣」のほうから見たら、「オンリーワンの思想」はありがたいかもしれないが、そんなに世の中あまくないわけです。みんなラクしようとして「オンリーワン」とか言ってるんです。「オンリーわんっ」です。負け犬の遠吠えです(笑)最近、あいだみつをさんの「にんげんだもの」をパクッた「いぬだもの」という本が出ていましたが、まさにパクリもの、相田みつをさんの書に遠く及ばぬ作品でした。自分でもかけると思って書いたんでしょうね。それで書いてみて、「書けた」と思ってしまった。それがイタイ。それに、あーゆーのを目のない人が誉めたりするんです。もう、そう言えばいいと思って。決まってるんです、コトバは。「味があるね」と。味とか意味わかってないのに使う。書道で楷書体じゃないものを見たら、こう言うってもう刷り込まれてるんです。そこに脳みその入るすき間はない。脊髄反射だけで生きている。何重の不幸だよ。誰か気づこうよ。牛乳が入ってたら「マイルドだね」とりあえず、っていうのと同じです。感覚、感性が発達していないし、表現する力もない、ということを恥もなく披露してしまっているのです。生活のすべてが「あいさつ化」してるんです。みんな疲れてもいないのに「おつかれさま」って言う。思ってもいないことばかり、とりあえず言っている。自分の意見を言えていないことにも気づかずに。鈍感力なんて言ってる場合じゃないのよ。鈍いということは死ぬということです。鋭敏で、繊細であるものがあえて鈍感であるかのようであるから、粋なんです。ほんとうに鈍感な人なんて、一緒にいる意味ないよ。話それまくった。ダイコンの話はどこにいった。とにかく、葉のないダイコンは醜いということです。
2007年03月16日
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苦しみというのは、明かりのないトンネルを歩くようなものだ。トンネルなのだから、かならず出口はある。今は、かすかな光さえも見えなくても、歩き続ければ、いつか抜け出せるものだ。しかし、面白いことに光は後ろにもある。入ってしまった真っ暗闇なトンネル。しかし数歩後ろにもどれば、そこには光があるのだ。だが同じ「ひかり」といえど、まったく質が違う。苦しみぬいて、考え抜いたすえに出た答え(ひかり)なのか、苦しむことをやめ、考えることを放棄した答えなのか、では、その後の思想の深さも、人間としての深さもまったく違ってくる。つまり、トンネルを抜け出たのか、のこのこ戻ってきたのか、だ。明るい人間にも2種類ある。ひとつは、苦しみを抜け出た人間。もうひとつは、苦しみから逃げた人間。同様に明るくても、まったく質が違う。その見分け方は、前者には「かなしみ」がある。かなしみがあるからこそ、明るさが引き立つ。そういった人を僕は、素敵だなと思う。ものを考える能力がないがゆえに、やたらと幸せそうな人がいるが、そんなのはただのオメデタイ人たちであって、幼稚園児と変わらない。僕はそういう人たちが大嫌いで、よくて数秒くらいしか話さない。一生精神年齢が発達しない人もいるんだな、と変に感心してしまう。仕事柄、飲みュニケーションをあまりしなくてよいので、こういう手合いに大事な時間を取られなくて幸いである。
2007年03月16日
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おなかのことを書きます。「肚に力が入ると、自然と力が抜ける」こんな言葉がなんとなあく分かってきたような気がします。肚に力が入れば、腰にも力が入ります。骨盤は肩甲骨に影響し、肩が下がります。このとき、首から肩にかけての筋肉が伸びます。鎖骨あたりも伸ばされます。このとき、自然に上半身の力が抜けます。足も軽くなるし、おなかの効用はすごいなと思います。
2007年03月15日
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けっきょくは人間でもなんでも生きていることは素晴らしいとか命あることの尊さとかそういった生命・人間賛歌もぼくたちが作りだした価値観にすぎずもちろんそれを信じることもそれを拒むことも自由だけれど人間が素晴らしいとか地球が美しいとかそういった一面的な価値観は最終的にあらそいを生み戦を生み戦争に発展するだろうイコールでむすばれることばとことばは同等なのではなく同一であるべきだ人間は人間だ素晴らしいは素晴らしいだウンコはウンコだセックスはセックスだそれは他のなにものでもなくてそれはそれでしかないそれでいい
2007年03月14日
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ミスチルのNEWアルバム「HOME」を聞いています。家にいるときはずーっと流しています。というのは聞けば聞くほど味がでるからです。僕はそれを知っているわけです。いつものように、はじめて流したときは、「あれ?」と思いました。「あんまりよろしくない」ミスチルの音楽っていつも僕はそうなんです。はじめて聞いたときに、感動がない。むしろ、がっかりするくらい。それが不思議なことに、まったく飽きないのですね。ミスチルのアルバムで聞き飽きたのって、ないですよ。聞けば聞くほどよい。これはとても不思議です。僕は音楽に詳しくないので、なんでなのかまったく分からないのです。とにかく聞けば聞くほど味が出る。それは、噛めばかむほど味が出る米のようなものです。というわけで、最新のアルバムは俺的に「KOME」。おあとがよろしいようで。
2007年03月14日
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ミスチルのアルバムが発売になりました。買ってきました。聞いています。今日はリクエストにおこたえして雑炊を作りました。鳥肉となめたけの雑炊です。ねぎと紫蘇がいい味だしてくれました。
2007年03月13日
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もう俺も24歳だ。オトナの年齢だよ。相手をゆるすことだとかみとめることだとか、甘いことばかり言っていられない気がしてきた。他人を否定すること。そうじゃないとはっきりと言うこと。たとえ自分が「正しい道」を示すことができないとしても、「お前は間違っている」と言ってあげること。その言が正しくあろうがなかろうが、とにかく相手を否定すること。ぶち壊すこと。オトナには、そんな役割があるんじゃなかろうか。コドモたちは、オトナたちが作ったものをぶち壊す。オトナたちは、コドモたちが持ってる、幼稚な夢をぶち壊す。壊しあい。それは壊し愛。ぶち壊されたら、いやおうなく新しいものが生まれる。あたらしい仕組みが生まれる。何度でも 何度でも 壊し愛。そのたびに、傷つき、バラバラになり、悩み、迷い、そして答えを出していく。自分のこころを、からだを組み替えなおした、その回数を強さという。壊れるかどうかは、まったくどうでもいいことだ。再生するかしないか、それだけが問題なのだ。否定しろ。否定されろ。自分に。他人に。自分を壊せ。他人を壊せ。そして、生きろ。
2007年03月13日
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誇りとは、あえて何かをしないことだ。その前提には自由がある。僕らは何をしてもよい。すべてが自由である。目の前に食べ物があれば食べてもよい。そんな小さなことでも僕らの自由だ。しかし、あえてその食べ物を食べない、ということもあるだろう。武士は食わねど高楊枝、というやつだ。やってしまえばよいものをかたくなにやらないということ。ともすれば、そこに命を懸ける。他人からすればただの阿呆である。しかし、自分にとってのみ大切なものをたとえ愚かと思われようが守っていくこと。僕はそこに誇りと品格を感じるし、美しくさえあると思う。僕らが守るべきもの。それは、地位やお金ではなく、自分で決めたルールなのだ。自分じしんに課したルールをどこまで守りきれるかで品が決まる。上品下品というのはカタチじゃないんだ。品がない。というのは商品価値がない、ということに似てると思います。つまり相対的に(体系的に・社会的に)人を見たとき、品がある人ほど、価値があるということです。僕はたとい小さなことでもいいから、誇りを持って生きたい。
2007年03月13日
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背反する、もしくは対極にあるような事柄があります。男女、陰陽、南北、前後、上下、左右・・・etc以上のようなことは、だいたいにおいて「対立する概念」と捉えられているのではないでしょうか。たといそれが一歩進んだとしても、陰と陽が和合して、新たなエネルギーを生む、くらいの思考で止まっているのではないでしょうか。僕が思うに、上に書いたようないわゆる背反するような事柄というのは「対立の構造」で見てはいけないのです。「対立様概念(正反対に思えること)」を捉えるとき、僕が面白いなあと思っているのは、「内包のモデル」です。「内包のモデル」とはなんでしょうか。これは僕の造語です。簡単に言えば、二重丸の構造です。内側と外側、というふうに見るのです。たとえば、それを男女という事柄にあてはめると、男が内側、女が外側になります。エネルギーの観点でいえば、男(男性性)のエネルギーは陽で、外に向かい、女(女性性)のエネルギーは陰で、内に向かうということです。子供が内側で、親が外側です。右と左に関しても、左右対称ということは忘れた方がたぶんいいのです。左右対称は人為的非自然現象だと思うのです。アシンメトリーこそが自然ではないかと。それでいえば、たぶん左が内側になると思います。基盤のほう。右が外側です。触手のほう。前後上下に関してはまだ思索が及んでいないので、書きません。一般に対立すると思われていることが実は内包のモデルで捉えてみると、まったく矛盾にならないということがよくあると思います。バカと天才は紙一重などと言いますが、ほんとうにそうなのか、考えてみると面白かったりする。バカの対極に天才があるのか。もしくは、バカは天才を内包するのか。それとも天才がバカを含むのか。とにかく「あちらを立てればこちらが立たず」などというのは自由性の足りない脳みそが言うことなのだと思う。捉え方次第で、あちらもこちらも、ついでにそちらも立ってしまうのだと思う。とはいえ、それが難しい。捉え方、というのは物事の根本だからね。「工夫する」とかそういった浅いレベルではない。「捉え方」が違えば、話すらできない。捉え方はいわば次元だ。僕は、この次元というのを発展させていきたいと思う。
2007年03月12日
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丹田というものについて考えています。考えています、というか自分の感覚に基づいて仮説が生まれたのでご紹介します。丹田は重力(エネルギー)の貯蔵と解放をつかさどる場所と、とりあえず考えています。重力に拮抗する力を丹田がたくわえていることは感覚的に間違いないと思います。そのエネルギーの解放に関して方向性をつかさどるのが「腰」であると、そんな暫定結論をすえて、稽古に望みたいと思います。対人稽古がしたいです。
2007年03月12日
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きのうはさんざんな日でした。まあ詳細には書きませんが、あまりに仕事がはかどらず、ずぅ~っとイライラしていた。滞る、ということは良くないことですねえ。あまりにイライラしてついついトランクスをひとつダメにしてしまった(笑)目が覚めたら今日は気分がよいです。あらためて頑張ります。関係ないですが、ミクシーが流行っているが、あれの面白いところは、「マイミクしない」ところにあると思う。「あ、あいつもやってんだ」と足あとをつける。しかし、マイミク申請はしない。相手もしてこない。そこに人間の心の機微があるような気がしますね。「ひさしぶり~」で仲良しごっこも楽しいとは思いますがね。それだけではいかにも浅い。でも「足あと」というのは非常に面白いシステムだと思います。
2007年03月12日
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昨日は、ひっさびさに運動しました。バドミントンやら、そのラケットを使って、テニスみたいなのとか、ふにゃふにゃボールでサッカーとか。・・・身体が持ちません。え!?っていうくらい疲れます。隣で子供たちが暴れまわっているんですが、とうていかないません。一瞬だけ鬼ごっこもしてみましたが、30秒くらいで終わりました。息が切れすぎて。子供の頃、どうやって長時間おにごっこをしていたのか忘れてしまいました。8時間仕事をしてもぜんぜん疲れなくなったのに、琵琶湖まで運転しても、翌日に疲れはまったくなかったのに、外遊びに関しては、カンペキにオジサンでした。このままでは、将来こどもの運動会で・・・こける!!体力っていろいろあるんだなあ。
2007年03月11日
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はい、次の作品できました。はんごろし豚キムチ!!レシピ1:豚肉をいためます2:はんごろしキムチを投入します3:完成します4:食べます5:辛いです6:アイスクリームを食べますあとひとつ何か作ったらなくなります。そうなるとちょっとさびしい気分です。
2007年03月10日
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BABジャパンさんの月刊「秘伝」に投稿したら、またプレゼントが当りました。「プロの整体術・伝授!2 下半身編」というやつです。まえは火の呼吸の本が当りました。「秘伝」編集部さん、ありがとうございます。(ひそかに)御社商品の拡販につとめますので、また景品ください。おねがいします。
2007年03月09日
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今日は休日だったので琵琶湖に行ってきました。11時ごろに起きて何しようかとブラブラしていたのですが、なんとなく行ってみることにしました。昼の2時すぎに出発して、たしか5時くらいに琵琶湖に到着しました。で、そのあと宿とかどうしようかと思った。また3時間かけて帰るのは面倒だなあと。それで、ブラブラ車を走らせてみたものの、なかなか見つかりません。じゃあ、メシにしようと思いましたが、(せっかくなので近江牛を食べることにしました)それもなかなか見つかりません。ノープランで来ると、こういうことになるのですね。いつものことですが。で、もうやみくもに走りまわったら、一軒の焼肉屋にでくわしました。なんでもいいので半ばヤケクソで入りました。肉が焼ける前にクソが焼けてしまいました。でも肉はおいしかったよー。ひさしぶりにユッケとかも食べました。キムチもおいしかった。最近思ったのだけど、キムチの本質は甘みだと思う。で、たらふく食べたあと、さてどうしようということになりました。俺的あいまいプランの中には「お泊り」案もあったのですが、なんかもう泊まることじたいが面倒になって、もう帰ってしまおうと思った。ほとんど琵琶湖も堪能してないんですが、ガイドブックなんか見ると、それほど遊べそうなところではなさそうです。まあ長距離ドライブだと思えばいいかと思い、帰ることにしました。夜11時くらいには帰りたいものだと思っていたら、意外や意外、10時前には到着できました。今日だけで200kmくらい走りました。よくがんばった、俺。今日は早く寝ます、たぶん。あー明日も休みだ嬉しいな。あさっては仕事だ嬉しいな。
2007年03月09日
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先日、人は相対的な存在であることを説きました。人は体系の中にあってこそ、意味があると。世界の空白の部分を、自分と呼んでいるのだと。ところで僕は思ったのですが、それはけっきょく、恋人や家族といったコミュニティにおいてもそうなのではないでしょうか。つまり、「それ」というのは、「それ以外」が存在することによって、はじめて存在する、ということです。この世界に、僕ひとりしかいなかったら、孤独は存在しない。またこの世界に人間が二人しかいなかったら、「恋人」という関係は存在しない。それからこの世界に、あるひとつの家族しかなかったら、家族という概念は存在しない。これはどこまで膨らましてもおんなじです。日本という国は、日本以外の国があってはじめて成立する。という具合に。かように、僕らはどれだけ他者の影響を受けないようにしても、その存在からして、他者に依存しているというわけです。この根本がなんだか面白いと思います。こういう考え方をしていると、やっぱり「どうにもならない部分もあるんだよなあ」という明るい諦めの気持ちになってきます。「他」ということ。それはそのまま、「自」でもあるんだなあと思うのです。
2007年03月09日
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背骨というのは、思ったよりも弱いものだと思う。一見、体を支えているようだけど、ひとたび姿勢が崩れれば、背骨はすぐに悲鳴をあげる。だから、緩衝材が必要だ。それは空気なのです。肚に息をためる、ということ。それが背骨を守るクッションになります。背骨を空気が取り巻くのです。息をためるが、息は止めない。息を止めれば、すなわち動きが止まります。とまあ、いろいろ合気道に使えそうな感じがあるのですが、いかんせん実践の場がないのがイタイです。
2007年03月09日
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くだんの「はんごろしキムチ」です。まずは、はんごろしチャーハンを作りました。レシピ1:チャーハンを作ります2:はんごろしキムチを混ぜます3:完成ですこれは辛いですね。非常に。次は、はんごろし卵ご飯です。レシピ1:卵かけごはんを用意します。2:はんごろしキムチを混ぜます。3:完成ですこれは、あの、辛いですね、非常に。その次に、はんごろし伊勢うどんももくろんでいたのですが、あまりに辛くて断念。ただのうどんにしました。カプサイシンで、かなり胃が活性化します。活性化しずぎて、下りました。・・・orzこれでスッキリ♪はんごろしシリーズ。みなさまもお試しあれ。
2007年03月09日
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これは相対性ということです。マジメかフマジメかは、その人の「性格」によるような気もしますが、それ以上に、その「体系(システム)」が大事だということなのです。(もちろん「絶対的な」性格もあると思います)分かりやすく言えば、「誰々はマジメだ」という言い方は間違っていて、ただしく言うなら、「誰々は、誰々よりもマジメだ」と言わねばならないということです。僕たちは通常、この「誰々よりも」の部分を「平均的な人よりも」と置き換えたうえに、それを分かりきったこととして、省略しているのです。人間の性格というのは、つねにそういった性質を帯びています。つまり、比べなければ、人を見ることはできないということです。これが相対性ということです。人の「性格」は、いつも社会という体系のなかにあるのです。身の丈180cmの大男も、ロシアのバレー選手に混じれば小柄、ということです。□■□■□だから、自分の性格を変えたい、なんてクヨクヨしながら悩むくらいなら、環境を変えたほうが早かったりするわけです。僕の経験則からいうと、ある社会の中で「自由度」が高い人が得をするようになっている。どんなに小さなコミュニティでも、すなわち二人でも、「自由」なほうが甘い汁を吸うようになっているようです。だからマジメな人は損をしていることが多い。正直者はバカを見る、と言いますが、それはある意味真理であります。心からの正直者ならいざ知らず、たとえば、それが思考停止や臆病からくる正直さの場合、彼らはかならず損をします。なんででしょうか。僕はその答えを知っていますが、もう何度もブログのなかで言っていますので、今日は事実だけを書きます。「マジメな人は損をする」という事実だけを。だから得をしたい、オイシイ思いをしたい、もっとモテたい、などと思っている人は、自分より少しマジメな人たちが集っているようなところへ行くとよいのです。それが他人を替えるということです。逆に、自分よりもちょっとフマジメな人がいるところに行くと、今度は仕事ができるようになったり、勉強ができるようになったりするでしょう。不思議なもので、やる気のない人を見ていると自分のやる気が倍増する、ということが往々にしてあるのです。もちろんその逆もしかりです。ガンバッテるやつを見ると、なんか萎えたりしませんか。そうだ、ちょっと話がもどりますが、価値観は違いすぎてはいけないのです。自分より「ちょっとマジメ」というところがポイントです。自分より、あまりにマジメな集団というのはどうにもこうにも面白くないのです。つまらなくて仕方がない。ちょっと違うくらいがちょうどいいようです。□■□■□話がめちゃんこ長くなってしまいました。しかも構成もめちゃくちゃ。コーヒーを飲みながら考えたことを言語化してみましたが、けっこう色々考えていたようです。思考は網の目だというのに、言葉というのは一本線ですから、長くなるのは必然ですね。まあ、いちおうまとめてみましょうか。一言で言えば、「ホントのワタシ」なんてものはいないんだよ、ということです。人は多少なりとも、「誰かを演じている」わけです。それが社会のなかで生きている、ということだと思うのです。文学的に言えば、演じることで、この世界という舞台ととつながっているのです。もっと言えば、「僕などはいない」ということ。世界だけがある。世界が存在しない、空白の部分。そこを僕と呼んでいるだけのことなのです。一枚の紙があります。その真ん中をはさみでくりぬきます。そこに穴が開く。穴は、あるのか、ないのか。ない部分がある、ということ。無が存在するということは、そういうことです。ここまで来ると極端に理解者が減るのでもうやめましょう。こういう言い方に拒絶反応をする人がいますからね。まあ論文じゃないですし、キレイにまとめなくてもいいでしょう。ということでこのへんで終わります。長いことお付き合いありがとうございました。思考する楽しみ、というのは尽きないものです。
2007年03月06日
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今朝、出勤したらまだ時間が早かったので、お店の前で缶コーヒーを飲んでいました。そうしたら、お客さんが来た。レンタルDVDを「営業時間外返却BOX」に返却に来たらしい。僕はついつい「いらっしゃいませ」と言いそうになったが、喉もとでその言葉を飲み込んだ。店の人間のくせに、なんでお客さんにあいさつもしないかというとまだ「本屋エプロン」を着ていないからです。お客さんから見たら、俺はコーヒーを飲んでる「ふつうの人」だし、それに僕はまだ「出勤前」なわけです。だからお客さんを「無視」して、僕はコーヒーブレイキングを続けた。□■□■□うちの会社はタイムカード制が厳しくって、登録が1分でも遅れると、罰金になります。逆に、サービス残業はしなくていい、むしろ「しちゃダメ」くらいないきおいなわけです。出社の登録をしてから、退社の登録をするまでが僕の「仕事人」としての時間になります。そういう制度の中で働いていると、そういう感覚になってきます。つまり、仕事とプライベートのオンオフがはっきりしてくる。お店の中にいても、休憩中はまったくお客さんにはあいさつをしないのです。でもお店の仲間にはあいさつをする。もちろん先輩や上司にも。そのとき、いったい僕はどんな状態なのだろう。休憩中の僕は、ビジネスなのかプライベートなのか。□■□■□そんなことを考えていたら、人間というのは、かならず役割を与えられるんだな、と思った。「やくわり」というのは、「役」を「割」り振られることです。「世界のはたらきの一部を担う」というのが役割を演じる、ということです。個人の自分、というのは本当は存在しない。人というのは、関わりあいで生きていくということです。だから友達や仲間を大切に、なんて、くだらない道徳は言いません。「ひとりで生きていく」という生き方もあるでしょう。別にみんなとワイワイやらねばならないとは僕は思わない。しかしそれは本来的にひとりなのではなく、「関係性を持たない」という選択をした、ということなのです。つまり他者が存在するからこそ、「あいつらとは関わらない」という選択が生まれるということです。そういう意味では、真の孤独はありえない。「あいつら」を意識した時点で、すでに関わっているのです。もしこの地球上にはじめから僕しかいないのなら、孤独という観念は生まれないはずです。誰かがいるから、孤独が生まれるのです。□■□■□役割ということを考えると、よりよく生きたいと思うときに、自分を変えるより他人をかえたほうが良い場合があります。よく「他人は変えることができないが、自分は変えることができる」などと言われます。確かに他人を「変える」ことはできない。しかし、他人を「替える」ことはできるのです。カンタンにいえば、付き合う人を変えるということです。環境を変える、ということでもあります。最近、面白い話を読みました。働きアリと言いますが、実は、その中でマジメに働いている「勤勉な」アリというのは、2割にすぎないのだそうです。あとの8割はサボっている。サボタージュしている。それでは、ということで、そのフマジメなアリを排除して、「勤勉な」アリを集めるとどうでしょう。生産性はあがるのでしょうか。すると、その集められた「精鋭」がまた二つに分かれて、2割がマジメに働き、8割がサボるのだそうです。これは何度繰り返してもそうなるらしい。そういえば、日本の学校でもそうですね。中学校のとき勉強ができて、学年で2割以内だとしても、高校に入って、「上位2割」に入れないことが確実となると途端にやる気がなったりする。アリも人間も大差ないのということです。だからカンタンに「あいつは怠慢だ」などということは出来ないと思います。勤勉なやつが一人いれば、かならず怠慢なやつが一人「生まれる」わけです。それは個人のせいではありまんね。 第2夜に続く
2007年03月06日
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丹田は、―もちろんここでいう丹田は僕の肚の感覚を説明するために仮借したコトバだがー動きを安定させる働きがあるのかもしれない。言うなれば、ロケットの着陸時に逆噴射をしてゆっくりと着陸するような。重力VSうちに締める筋肉、という構造。剣を振るということや歩くということ。つまり呼吸ということ。これを静かに行なうための安定装置が丹田。今朝、身体の感覚から、そんな仮説を得ました。
2007年03月06日
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愛は証明することはできない。
2007年03月05日
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はんごろしキムチという漬物を食べました。ホントに殺されかけました。まだまだ僕は甘かった・・・
2007年03月05日
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たまに、「ありがとう」と言われたいだとか「感謝されたい」なんて話を聞くが、なんだか違和感を感じる。就職活動をしていたころ、就職の動機で、「感謝される仕事につきたいんです」なんて目をキラキラさせてるやつがいた。そういうのと一緒に「討論」なんてやるのは疲れるんです、とても。「感謝される仕事」って言うけど、感謝されない仕事なんて成立しないわけで、そいつの言ってることはまるっきりウソなわけよ。もっともらしく話していても、後付けの理由だから説得力がない。もっとも、就職活動中の学生の9割以上は志望動機でウソをついているから、仕方のないことではある。俺もウソをついていた。ほんとはみんなずっと学生をやっていたいのだ。おっと話がそれてしまったが、「ありがとうを聞きたい」というのはクセモノだ。俺の考えでは、ありがとうというのは言ってもらうものではなく、自分から言うものだ。おっと、これはそこらへんに転がってる道徳ではないから注意。自分からありがとうと言う、というのはどういうことか。それは自分がありがとうと言うような状況をつくる、ということ。つまり、自分が何かをしてもらうということだ。はっきり言って、ありがとうなんて言われても、それ以上に良いことはないのだ。「好意」と「感謝」というものは反対方向のベクトルを持つ。「好き」も「ありがとう」もどっちも素晴らしい感情だと思う。しかし、なかなかこの両立は難しいのだ。AとBがいるとして、いつもBがAに「ありがとう」といっている場合、(B⇒ありがとう⇒A)AのBに対する好意が大きくなっていく。なんとなく、BがAに好意を抱きそうなものだが、そういうことはあまりない。というのは、「好意」というのは満たされない気持ちだからである。「好き」というのは、何かが足りないような気持ちだ。だから「さみしい」という感情に似ている。「ありがとう」というのは満ち足りた気持ちだ。だから、相手に対して感謝はするが、それ以上の気持ちは起こらない。好意と感謝のバランスが大事だ。片方だけが得られても、たいていは虚しいのだ。好意と感謝の問題は、迷惑の問題でもある。人は迷惑をかけながら、そして迷惑をかけられながら生きていく。迷惑ってのは、ほぼ愛と同義なんだなあと僕は感じているのです。
2007年03月03日
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なにかにつけて笑顔笑顔だなんて言われているが、笑顔がそんなに大切だろうか。昨日今日と名古屋の街を歩いてみましたけどね、やっぱり気取った奴が多いね。特にタカシマヤの中なんてのは、みんな気取ってる。上品な人はあんまりいなくて、「ワタシは上品よ」っていう下品な笑顔が多い。誰かに教えてもらった笑顔なんだろう。客も店員もね。「ワタクシタチ、上品でございましょ」ってな感じ。滑稽だ。まあそんなふうな上品ごっこで遊んでみるのも楽しいのかもね。分かってやってるんならいいんだけど、どーも自分に惚れちゃってる感じ?どんだけ高級なもん食ってても、けっきょく安い定食屋なんかで、「ごちそうさま」の一言も言えないようじゃ、心の貧民層だと思いますよ。笑顔が大切だって言われて、それを鵜呑みにしてるんでしょーが、それも脳みそがまずしい証拠だよ。笑顔なんて出すもんじゃない。笑顔があふれでなければ意味はない。笑顔っていうのはカタチなんだよ。自分のために笑うなかれ。誰かのために笑え。
2007年03月03日
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