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社会人になって3年目ですが、いっこうにぼくの「強み」が見つかりません。カッコよく言ったら、コア・コンピタンスとか言うんでしょうか。いったい、自分はどうしたら社会の役に立てるのか。いったい、どういう分野で自分は必要とされるのか。ぼくにできることは何なのか。ぼくという資源を最大限に社会で活かすにはどうすればよいのか。どうも分からないので、とりあえず勉強することを続けたいと思います。
2007年08月30日
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たまに「クリエイティブな仕事」という言葉を聞きます。こんな不思議な言葉はないと思う。クリエイティブって何ですか。日本語にしたら「創造的」っちゅうところですか。浅薄なイメージでは、コピーライター、デザイナー、企画担当・・・、みたいなところかな。でもぼくはクリエイティブじゃない仕事ってどこにあるんだよ!と思います。そもそも仕事じたいがクリエイティブなものでしょう。クリエイティブじゃなきゃ、仕事じゃない!!ぼくは書店という小売業に従事する人間だから、「クリエイティブな職業」とは一般に思われていないでしょう。うちのばあちゃんなんか「本屋さんの仕事なんかカンタンそうよねえ」と言っていました(笑)それはともかく、ぼくは自分の仕事が非常にクリエイティブだと思っています。売り場作りをしたことがない人は、その面白さが分からないでしょう。僕も社会人になってからはじめてやったのですが、やっぱり仕事の中でもこれがいちばん面白い!!売り場を練っているときが、いちばん小売冥利につきます。見た目と、便利さを兼ね備えた売り場を作るのは、かなり芸術に近い作業です。機能美っていうんですかね。乱れにくく、売れやすい陳列で、なおかつ美しくないといけない。しかもこだわりすぎてもいけない。うまく商品を並べたあとなんかは、何度も売り場を見にいって悦に入ったりします。それで何か売れていたりすると、もうワクワクしちゃうよね。ぼくはそれをクリエイティブだと捉えているんです。まあ実際に、コピーライター的なことも、デザイナー的なことも企画みたいなことも人事みたいなことも、営業みたいなことも、なんでもできるのは本屋のいいところだとは思いますね。足腰が鍛えられるし。どんな仕事でも言われたことだけやっていたら、クリエイティブとは言いがたいだろう。顧客満足や、従業員満足、上司満足などなど色々な制約の中で、いかにしてクリエイティブに働けるかが問題なのだ。仕事の業種や職種の問題ではないと思う。だからクリエイティブというのは、仕事ではなくて、働きっぷりのことを言うのだと思う。「クリエイティブな仕事がしたいんです」ではなく「クリエイティブに仕事がしたいんです」と言わねばならぬのだ。
2007年08月30日
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出来合いの幸せを ぼくにゆずらないでください社会が幸せだと名づけた何かをぼくに押し付けないで下さい幸せという名前の既製品を一生懸命になってさがさないで下さいつくられた幸福は 世界中のどこにも落ちていません完成された幸せを あがめないでください幸せの象(かたち)に嵌め込まれることを幸せと呼ばないで下さいとんでもない何かを手に入れようとして大切ななにかが指の隙間からこぼれおちていくことに気づいてください今がここにあることのとてつもない幸せをゆっくりと味わってみてください
2007年08月30日
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柳原可奈子という人の映像を初めて見ました。面白い!!なんちゅうデティールの細かさ。女子高生から、女子大生、ショップ店員まで、「若い女性」ならなんでもできる、というのが凄いよね。ショップ店員のモノマネは、僕も昔からやっていたんですが、あそこまでは到底できない。友近の再来、という感じで期待大です。もっと動画みたいなあ。ところで、モノマネというのはどうやるんでしょうか。ぼくは昔から先生のモノマネとか大好きな子供だったのですが、できるのはいきなりできるんですよね。高校の頃は書道の長谷川先生のマネとか人気でした。英語の谷口先生なら今でもできます。最近は上司のマネがマイブームだったりします。あれは、頭で考えてやってるんじゃないんですよね。ぱっとその人をイメージして、それを再現しようとするだけ。頭で、手をこうして足をこうして、口調はこうで・・・と考えているわけではない。もうイメージだけの世界なんです。それだけでできる人はできるんです。マネしようもない人もいるんですが、どういう人がマネしにくいのかはよく分かりません。そういえば知人がある日突然「となりのトトロ」のメイ台詞「メイのとうもころし!」を叫んだのですが、それが存外にもそっくりで驚いたことがありました。それから何度かリクエストしているのですが、いっこうにやってくれる気配がありません。なぜか2度目は恥ずかしいモノマネってあるんですね。ぼくも井上陽水で失敗したことがあります。モノマネって、すごく深いものだと思います。
2007年08月30日
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雨です。静かな日です。昨日ですが、新しい雪駄を買いました。鼻緒のところの模様が気に入りました。今日は蒸し暑い休日です。でも読書にはもってこいの日ですね。2冊くらいは読了したいと思います。
2007年08月30日
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ジブリ3作目!!ゲド戦記!!これは気に食わない!!はじめのほうは好きだったんだけどねえ。世界観はハウルより好き。もともと「この世界どこなの?」っていう不思議さが欲しいんです。かなりヨーロッパ的な設定でしたが、東洋っぽい音楽がミスマッチでここちよく、異世界な雰囲気は楽しめました。あとはストーリー性の強さもあり、それを音楽で盛り立ててあって、「映画!」って感じの仕上がりでした。しかし、いかんせんテーマ・メッセージ性が強すぎる。言葉(セリフ)に頼りすぎなんですね。キモチワルイ。不粋なんです。光だの闇だの、自分を受け入れるだの、死があるから生が輝くだの、もう聞き飽きたような、手垢のついたセリフばかり。それに言いたいことをキャラクターにそのまま言わせたんじゃないかと思うほどのストレートさで、虫唾が走りました。見るほうに読み取る可能性を残してくれないと、押し付けられた感じがして、腹が立ってきます。本当に命なんか大切なんか。あとは、有名な芸能人を声優に起用するのはやめてほしい。どうも頭の中にその芸能人の顔が浮かぶから。話題性はあるかもしれんけどねえ。という感じのイタイ映画でした。
2007年08月29日
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自分の意見があるのはいい事だ。しかし自分の意見がなくて生きていかれるなら、それがいちばんすばらしいことだ。
2007年08月29日
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生まれてはじめてハリー・ポッターに触れました。今まで本も映画もまったく見たことなかったのです。で、感想まず一言。・・・ベタ!!ぼくのギャグもベタだとよく言われますが、それ以上にベタ!!戦隊モノ・ヒーローもの、時代劇、映画のクレヨンしんちゃんのノリですな。まさに世界中が楽しむための大衆エンタテイメントという感じの面白さ。世界観も宮崎アニメよりは、「ふつう」だ。ふつうというか、あれは何なんだろう。西洋の神話・昔話のイメージそのままなのかな。「ああ、そういうのありそ~」っていうのをわざとらしいほどに演出しているのだね。たぶんそこに夢がある。最後のオチとか、笑ったちゃうくらいベタ。どんでん返しの大逆転で、「やったぜ!」で終わり。スッキリしてるっちゃあしてるんですが、ちょっとやりすぎかなとも思ったり。あとは、非常にヨーロピアンな映画だと思った。たとえば「透明マント」なんか。あれで、姿が見えなくなって、姿が見えないから気づかれないっていうのはすごく西洋的だと思うんですね。というのは東洋だったら、「気」でバレてしまうと考えるだろうから。透明マントをかぶっていても、「達人」が「そこにいるのはわかっているぞ」と言ってしまう。姿が見えなくて、なにかをしでかす、というのは西洋的だと僕は思った。それから、チェスの場面だね。魔法のチェスでは、駒がバンバン破壊されていく。日本だったら、将棋ですね。あれは敵兵を殺さず、捕虜としてとらえ、機会があれば仲間として使ってしまう。だから相手を破壊するという観点はないんです。その意味でも、西洋的だなあと感じた。まあまあ面白かったけど、とくに深みはないなあと思った映画でした。2作目、見るか?
2007年08月28日
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ハウル見ました!・・・よくわからん!とにかく俺にゃストーリーがまずよくわからんかった。ソフィーがたまに若返るのとか、どういう意味合い?っていうかどういう場面なのか分からないっていうか。ストーリーすらあいまいなので、もちろんテーマなどは読み取れず。なんとなく、「自信」がメインテーマ?とか思ってしまった。城が最後崩壊したところは印象的だったな。ハウルがやっと等身大になれた瞬間なのかな。という感じで、ウワサによれば何度か見るといいらしいけどね。今回はとにかくアニメーションを純粋に楽しみました。というかそれしかできなかった。宮崎アニメ、深し。
2007年08月28日
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この前、「人と人が分かり合えないことがあるか?」という日記を書いたのですが、訂正します。疑問は「人と人は分かり合えることがあるか?」にします。というのは、どう考えても人と人は分かりあえっこない。分かり合う、というのは幻想です。やはり、人間のレベルというのがあります。人間、レベルの高い人に触れると、「分かってもらえた」ような気分になり嬉しくなります。しかし、レベルの低い人は、レベルの高い人を理解することができません。それは、その世界に達したことがないからです。レベルの高い人は、レベルの低いところを経験してきている。だからレベルの低い人のことが手に取るようにわかるのです。だからレベルの違う人どうしが話すと、どうしても「理解」は一方通行になるわけです。レベルの高い人は、レベルの低い人を理解し、レベルの低い人は、「理解され」ていい気分になっている。だからまれにレベルが近似値の場合、「分かり合えた」ような気分になることもありますが、それもたいがいは幻想です。たぶん、レベルがまったく一緒の人などいないからです。レベルは、人それぞれ固有のものだ。レベルというのは魂の成熟度です。カンタンにいえば、「地動説」の人が高レベルで、「天動説」の人が、低レベルです。レベルが下がれば下がるほど、わがままになり、不平不満が多くなります。そんな人たちと分かり合えるはずがないし、分かり合いたくはない。それに分かり合ってもいけない。不平不満ばかり漏らすような人間とは、僕は一生、付き合わない。レベルの高い人は、行動する人間です。「いま」を生きている人。なにかを変えていく人。レベルの違いは確かにあります。だから、「分かり合う」という幻想は捨てたほうがいい。レベルの高い人は、レベルの低い人を「不快にさせない技術」しかないのです。レベルの低い人が、レベルの高い人を「理解」することはないのだから、レベルの低い人のことを「わかってあげる」しかないのです。実はコミュニケーションとはそういうものだと思うのです。
2007年08月25日
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キモイ奴、ウザイ奴、知恵のないやつ、礼儀と挨拶を知らぬやつ、間の読めぬやつ・・・!!おまえらとぼくは関係ないのだ!!おまえらがいくら愚かな行動をとろうとも、ぼくの精神は清らかに、凛として屹立している!!おまえらの精神とぼくの精神にはつながりがないのだ。おまえらに「仕返し」しようとすれば、ぼくの魂が汚れてしまう。どんな態度をされようとも、ぼくは笑顔で迎えよう。現在、磨き中の魂を、穢されてたまるか。
2007年08月25日
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ベタに見てみました、「愛の流刑地」。「千」と違って、なかなか世界に入れないのがつらかった。かなり映画映画してるなあという感じです。トヨエツはどうも好きになれない。「これが寺島しのぶかあ」と思いました。っていうか濡れ場多すぎ。飽きました。という感じで1時間半くらい冷めていたのですが、最後の裁判のところの「この裁判はすべて間違っている!」というのだけ、ちょっと気に入りました。あとはなんだかなあという感じです。たぶんこの感想はぼくが「若い」からだと思います。トヨエツのセリフがよかったです。
2007年08月24日
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ぼくは小学生のとき、お勉強のできる子でした。(←何度も書いてますが)小学校なんで、テストで100点とかよく取るわけです。でも母はぜんぜん誉めてくれなかったんですね。「あら、そうなの」という感じで。友達で100点取ったらお小遣いもらえる、なんて話を聞いて、当時はうらやましく思ったりもしました。でも逆に、たとえ70点のときもけっして怒られませんでした。そのときも「あら、そうなの」の一言なのです。テストが100点でも70点でもぼくはぼくなのだ。そういうことを今思えば教えてもらっていたわけです。けっきょく、感謝する、ということは愛するということと非常に近いことだと思うんですね。それが修飾語をとっぱらうということになるんです。「なにかをしてくれた」だとか「やさしい」とか「容貌がよい」とか「勉強ができる」とか「友達が多い」とか「スポーツができる」とか「お金がある」とか「習い事をさせてくれた」とか、そういった小さくて余計なことを評価してはいけないということです。なにをしてくれようが、なにをしてくれまいが、どんな環境であろうが、どんな性格であろうが、「親」は「親」であり、ぼくがそこから生まれたわけです。それが事実です。その事実を認めるということが、「親に感謝する」ということのおおもとの意味だと思うんですね。その事実を認めることがなによりのはじまりになるのです。生まれた場所を認める、ということは自分の生を認めることに他なりません。自分の生まれてきた場所を認めるからこそ、自分の存在をゆるすことができるのです。だから「親に感謝する」ことが大事なのです。これはウサンクサイ道徳ではない。なによりも実用的な幸福学なのです。幸福本などによると、「親に感謝したら奇跡が起こった!」なんて書いてありますが、奇跡でもなんでもないのです。というのは現実を認めれば人が幸福になるのは当たり前だからです。現実を認めるというのは、現実をゆるす、ということです。自分の思い描くとおりに世界をゆがめようとしないで、現実を現実のままにみることです。「今が今でよいのだ」という感覚こそが、幸福だと信じてやみません。ここからどこへも行くな。ぼくは自分じしんにそう言いたいのです。
2007年08月24日
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親に感謝することが大事だと言われています。古くさい道徳でも「親孝行」が大事だと言われるし、最近では「鏡の法則」はじめ「幸福本」でも親に感謝することの大切さが説かれています。「親」に「感謝」すると幸福になる。これはいったいどういう意味なのでしょうか。ぼくは思うのですが、ここでいう「親」というのは母親や父親という意味だけではないと思うんですね。親とは何かといったら、それは「選べない存在」であり「受け入れるべき存在」なわけです。顔のよい親・悪い親学歴の高い親・低い親性格のよい親・悪い親お金のある親・ない親やさしい親・こわい親甘い親・厳しい親・・・etcです。つまり、色んな親がいます。どの親のもとに生まれるかを、僕らは「選べない」のです。その事実を受け入れるか否かによって僕らの幸福度は決まってきます。思うに、「親に感謝する」というのは理性や論理や言葉ではダメなのです。「よく考えてみれば〇〇や××や△△をしてくれたなあ」という感じで、言葉で思い返すのは、ちょっと感謝と違うのです。というのは「親」というのは何かをしてくれる存在ではないからです。何かをしてくれるから大切なわけではないのです。「鏡の法則」などでは、「分かりやすい例」として「本当は娘を愛していたが、不器用でそれを示せなかった父親」と「その不器用な愛を認めることができなかった娘」が分かり合うシーンがありますが、現実はそんなに甘くないと思うんですね。こっちがちょっとありがとうと言ったくらいで「こちらこそありがとう」と相手が言ってくれる、なんていうのは甘い期待です。ココロ固まってる人はホント石のように固まってますよ。もう憎しみと恨みにあふれているわけです。そんな人に期待してお礼なんか言ってみても、期待が外れて、その人に対する絶望感が増すだけです。幸福本を鵜呑みにして、カタチだけで幸福を得ようとしてもダメなのです。上にかいたようにいろんな「親」がいます。その修飾語をすべてとっぱらってしまわないといけないのです。たとえば顔がよくってお金もある親のもとに生まれたとして、そのことに感謝してはいけない、ということです。「親」についた「修飾語や形容詞」に感謝すると、それが変化した瞬間に感謝がなくなってしまうからです。やさしかろうが厳しかろうが、親は親です。ただただ、「生んでくれてありがとう」の一言に尽きると思うんですね。「してくれたこと」に感謝する、というのは「してくれなかったこと」を恨むというのと同じことなんです。たとえば僕はいろんな習い事をやらせてもらっていましたが、そういうことに対して「良かったなあ」と思うのは感謝ではないのです。もっと根源的な、ぼくがぼくであり、親が親であることへの原始的な感謝ということの話をしているんです。
2007年08月24日
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ありがとうという言葉は、自分にむけて放たれるのだ。
2007年08月24日
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幸福を未来に設置してはいけないのだ。「いま」にしか幸福はない。
2007年08月24日
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「千」をついに見ました!!すご!!なんちゅう作品じゃ!!生まれたこのかた、ここまですごいアニメははじめて!「もののけ」も好きなんですが、コレはすごい!仰天だ!!まずはやっぱり世界観だよね。これどこ?っていう感じの。一から世界を創造したんじゃないかというくらいのオリジナルさ。現実を忘れてひきこまれます。それから「千」と「ハク」の距離感。これは宮崎アニメ特有なんだよね。ベタな男女ものに陥らないところがスゴ!!それからテーマね。まああまりにも意味論で観ると楽しく鑑賞できないので、テーマはほどほどに考えながら見ましたが、金、仕事、社会人としての礼儀などなど、ぼくら若い人が見ると共感するところがたくさん。顔なし。あいつがシブいね。淋しそうな顔するところがオツ。純粋なやつです。かわいい。ゆばあばは浜崎あゆみに似てるね。勝手にメシを食ってるときに、「大丈夫。サイフもカードもある」というお父さんのセリフが伏線だとは気づきませんでした。たしかにお母さんの食べっぷりは異常だったからね。他にもいろいろありましたが、本当にびっくりするくらい面白かったです。
2007年08月22日
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なぜあなたが裁くのですか人が人を裁くことはできないのですなぜあなたは「あの人は間違っている」とのたまうのですか裁くことをゆるされたのは神だけですあなたはただ自然にしたがうようふるまえばよいのです神に逆らうものには天の裁きが下るでしょうあなたはただ自然にしたがうようにふるまえばよいのです
2007年08月21日
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人と人が「分かり合えない」ことはあるか?ぼくはこの疑問が意外に深いんじゃないかと思っているんです。というのも、一般に「ある」ということを証明するのは比較的容易いが、「ない」ということを証明するのは難しいとされています。そりゃそうですよね。宇宙人を発見したら「宇宙人がいる」ということが証明されますが、「宇宙人はいない」といっても「どこかにいるかもしれない」という可能性は完全には払拭されないからです。それと同じように、人と人が「分かり合えない」ことがあるか?というのも可能性の問題からして、いかんとも証明しがたい問題に思えるのです。「バカの壁」で養老さんが「分かり合えない人もいる」ということを説いています。これに反論するには、「分かり合えない人はいない」ということを証明しないといけないのですが、どんなに多くの人と「わかりあった」としても「分かり合えない人はいない」ということを示すのは非常に難しいことなのです。というのは、どれだけ多くの人と「分かり合った」としても世界のどこかに「どうしても分かり合えない人」がいるかもしれないからです。と、ここでもうひとつ問題があるのですが、「こいつとは分かり合えない」ということも実は非常に証明しにくいことなのです。なぜなら「分かり合えない」と思っても、あるきっかけによって、非常に理解しあうこともあるからです。「こいつとは分かり合えない」というのはただの思い込みである可能性がかなり高いわけです。だからある相手と「絶対に分かり合えない」ということを示すのはとても難しいことなのです。だから。もう証明するのはやめたほうがいいんですね。「きっと分かり合うことができる」って思って、対話していくしかないと思うんです。ちょっとウサンクサイ偽善なニオイがしますがね、とにかく「いつか分かり合える」と思ってやるしかないんですよ。でも相手のことを「こいつはバカだ」と思った瞬間に分かり合う可能性はなくなります。どんな人間も、自分の中に「物語」を持っているわけです。それが自然であれ、不自然であれ、ぼくらは「物語」を持つことによって、自分というものを規定しているのですから。自分の「物語」は自然で、正しく、相手の「物語」は論理が破綻していて、間違っている。「頭のいい」学者さんは、すぐにそういうことを考えるようです。だから対話ができなくなって、「バカには壁がある」なんて言い出すんですね。論理なんていう、こまごました言葉あそびにこだわるから相手をバカにしてしまうのです。論理なんて、そんなに気にすることないんですよ。もちろん仕事だったら、論理的にやったら効率も良いと思いますがね、人と人の触れあいってのは論理じゃないんです。たとえば誰かを愛する理由なんて論理で証明できるものじゃない。逆に論理で証明できるようであれば、愛ではない。人と人のふれあいは「ただ」なんです。何か理由があるわけではない。「ただ」一緒にいたい。「ただ」楽しい。それは相手を理解しようと努めることじゃないんですね。頭の問題ではない。身体の問題なんです。「私はこういう考えだけど、あなたはそういう考え。どっちも正しいんじゃないかな」なんて「言う」人はたいてい、自分が正しいと思っています。そうやって言って、自分が「理解のある人間だ」ということをアピールしているだけなのです。ほんとうに「誰もが正しい」と思っている人はそれを当たり前だと思っているので、そんなことを口に出したりしません。身体で示してくるのです。とにかく人と分かりあうというのは論理ではないんですね。だから論理だけで生きていると、いろんな人と分かり合えない。論理ではなく、身体で物語を読んでいくと分かり合える人が増えてくると思うんです。けっきょく、表題の疑問には答えられませんでしたが、ぼくは「思っているよりいろんな人とわかりあうことができる」というふうに思っています。
2007年08月21日
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相手が事実を事実として認められるような、認めざるを得ないような言葉を発する、ということです。どうしても認めたくない事実ってあるんですよね。それを言葉でごまかすことができる。かなり前のことですが、女の友達が「飲み会したんだあ」と話しかけてきました。「合コン?」「ううん、ただの飲み会なんだけど、友達が私の知らない友達を連れてきてね、だから私も自分の友達を連れて行ったんだけど・・・」「それ、合コンじゃん!」「ううん、ただの飲み会」ということなんです。「カレシ探しの合コン」に行ったというふうには絶対に捉えたくないんですね。たとえその飲み会でカレシとなる人が見つかるにしても、「友達が偶然開いた飲み会でステキな人に偶然会っちゃった」というふうに他人に説明できるような会でなくてはならないのです。捉え方、というのはかように面白いのです。また「デート」という言葉も女の子は嫌いのようですね。「デートにいこうよ」とカレシでもない男から誘われるのはキモチワルイという話も聞きます。事実は同じでも「遊びに行こうよ」「〇〇に一緒にいかない?」のほうがやはりうまくいく確率は高いのでしょう。これも捉え方なんですよね。事実を事実として受け入れるための手段として言葉があります。それをいかに利用していくか。その方法論を確立できたらいいなと思います。
2007年08月20日
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里帰りしました。17日金曜日のことです。3時間くらいかけて下道で帰りました。もう地図もチーズもなしでスイスイいけます。ドライブ楽しい。午後4時くらいについてから、まあ特にすることもないので読書してました。「秘伝」の最新号の特集が興味深い。ひさしぶりにテレビ見ました。おかんが最新の芸人を紹介してくれます。みんな「使い捨て」って感じで、見ていて心が痛かった。いきおいだけじゃないギャグが見たいな。それから夜は2時ごろに本を読みながら寝ました。~翌日~11時半ごろに、ばあちゃん家にひさしぶりに寄りました。じいちゃんから仕事のアドバイスをもらった。やはり60年以上働いている人は違うな。一言ポツリと言っただけでも重いのなんの。「健康だけには気をつけろ」それがじいちゃんのいちばん言いたいことだった。それは俺の身を案じてというだけでなく、身体を壊して仕事ができなくなった人をたくさん見てきた上での、実務的なアドバイスなのだろう。じいちゃんが言う「健康」には重みがあった。そのあとに最寄駅までつれを迎えにいく。家でそうめんとイモの天ぷらや掻き揚げすぎた掻き揚げなどを食う。それから出発。今日はプールに行くのです。小牧のね、温水プール。春日井市民には馴染み深いでしょう。知らん人は知らんでしょう。2時ごろ着きまして、すいーと軽く流れてみました。甘い感じで。流れるプール何年ぶり?!いくつになってもワクワクします。波のプールも満喫!ん?満喫したかな?まあ小満喫だな。市民プールだから、休憩時間とラジオ体操があるんだね。あんな不健康な体操をみんな意外にちゃんとやってるのが笑えた。僕が考える健康というのは、体操しないでざぶんとプールに飛び込める身体を言うのだ。流れるプールでバタ足している子供がいて、その水しぶきをあびた金髪のギャルママがキレて、その子供に水しぶきをかけていた。なぜかぼくもその「流れ弾」を喰らいました。腹が立ったので、水に沈めてギャルママを窒息させました。スッキリしました。あ、うそです。ただの妄想です。1時間半くらいで、かなりバテました。ビート板の上に座って流れる修行とかしたのがキイたね。スライダーはあまりに人が並んでいるので断念。ちょっと聞きたいんですが、海やプールではカップルがいちゃついてもいいという法律がいつのまに成立したんですか?!みうらじゅんがいたら、「これ絶対はいってるよね」って言われちゃうよ。プールのあとは名古屋に向かいます。栄に着いたら、なんか祭りみたいな雰囲気でした。どうやら24時間テレビらしい。なんとかテレビに移ろうとキャメラを探しましたが、見つかりませんでした。しかたないので、たませんだけ食べて踵を返しました。そのあと、新生テレビ塔に上りました。なんだかキレイになったね。上から観ると「オアシス」がまさに宇宙船みたく見えるね。マロンチックなふいんきでした。バカチンと煙は高いところに上りたがりますので、名駅でも高いところに行ってみることにしました。目指すは、ツインタワー!!13階で腹ごしらえをして、いざ51階へ!!・・・で上ってみると、あれれ、パノラマサロンて!!どうやらツインタワーのほうの展望台は店じまいしたみたいですね。みなさん知ってました?ぼくは知りませんでした。というわけで急遽、ミッドランドへ移動です。すごいスピードのエレベーターで地上300メートルまでばびゅーんとひとッ飛びです。うむ~、夜景すご!!高!!しかも、偶然四日市の花火が遠くに見えました。街の光は地上の星空ですね。レディはやはり、こういうところには弱いそうです。オトしたいレディがいる方はぜひミッドランドの展望台まで。実際に突き落としちゃイヤよ。死ぬ可能性がかなり高い。で、なんだかんだで帰路に着きます。ぶーんとドライブしたら2時間もかからず着きました。23時半ごろでした。またしても12時間くらい遊びまクリスティでした。25歳、モリモリです。
2007年08月19日
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メタボってけっきょくデブのことでしょ?
2007年08月18日
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事実は同じでも「3日後に会える」ととらえるのと「3日も会えない」ととらえるのでは、ぜんぜん3日間の過ごし方が違ってしまうのだ。
2007年08月17日
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共感というのはかなりあやういものだと思うようになりました。とくに言葉やロジック(論理)による共感というのは非常に危険な一面を持っていると思いますね。というのは「自分の正しさを証明してくれること」をついつい「共感」と呼んでいるような気がするのです。世間からはみ出た人どうしが「マジ世間ってダメだよね」と「共感」してみたり、他人の悪口を言い合って、「共感」してみたり、お互いなぐさめあって「共感」してみたり、良いことも悪いことも誰かに共感されるととたんに「自分が正しい」ような気分になってしまう。そこがぼくは危険だと思うのです。というのはどうしても人間の視点は狭いのですね。非常に小さくて自分勝手な「因果関係」にとらわれがちだ。そんな人間どうしが「だよね?」「だよね!」「よかった~、オレ間違ってないんだ」なんてやっていても小ざかしいというかなんというか、あまりに勝手な気がするんです。なんでお前ら二人で決めるんだよ、と。言ってみれば「ふたり自己満足」ですね。これはたぶん3人以上でも同じなんじゃないでしょうか。「30人自己満足」とかもありそう。ただ仲間内で「共感」しているだけ、というのですね。やっぱりぼくが思うのは自然か不自然か、天地に沿っているか、そむいているか、ということなんです。人間どうしの共感というのがいかにちっぽけか、ということに気づくべきです。自分が正しいかどうかって、「仲間」や「友達」に聞いちゃいけないと思うんです。どんな答えを聞いたとしても、たかが人間の答えですからね。だいたい、「正しいかどうか」ってもともと身体が知っていると思うんです。それを敏感に聴き取ることができるかどうか、で。だからそれが敏感な人間であれば、聞くに値するかもしれません。実際、僕も信用している人の言葉にはすごく影響されます。とても信用している人から「あなたはなんにでも一生懸命だから絶対幸せになるよ」と言われたときはすごく嬉しかった。その人は絶対に迎合しない人だし、こっちから「理解してくれ」と叫んでも意に介さないし、物事を見て自然かどうかサッと判断してしまう慧眼の持ち主です。だから上のことを言われたときは、とても嬉しくてはしゃぎたい気分になったものです。でもこれは共感じゃないんですね。これは前にかいた「理解者はいらない」っていうのに似ていると思います。「わかってくれ」と「言う」のではなく、「わかってもらう」もしくは「わかってもらえるように努力する」ということです。これは「だよね?」の世界とは次元が違う。いやおうなく誰かを感動させてしまう身体性。それを身につけないで、「共感してくれ」というのはただの傲慢で、自己満足に過ぎない。ぼくは今まで、なにかを勘違いしていたようです。
2007年08月17日
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きっとぼくらは自分で思っている以上に、愛されている。
2007年08月17日
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たいていは、まず目標<ゴール>があって、その目標<ゴール>を達成するために過程<プロセス>があると思われています。しかし最近思ったのですが、過程<プロセス>のために目標<ゴール>があるのではないでしょうか。「今を生きること」が大切だといっても、なかなかそれを実行するのは難い。だから「今を生きる」ための方法論として目標を立てる、ということがあるのではないかと思うのです。目標<ゴール>というのは世間で思われているよりも軽いものなんじゃないだろうか。そもそもゴールはたどり着いた瞬間に泡沫となって消えてしまう代物です。ゴール>プロセスという価値観は未来を主体にした生き方であり、その基本姿勢は「焦り」であります。変な話ですが、僕は文芸書、いわゆる小説というのを読んでいると「焦る」んですね。早く読み終わりたくて仕方ない。結論がどうなるか気になって仕方ない。読んでいる最中に、「この知識は役に立つのか?」ということばかりが気になって、けっきょく先に進めないのです。書店員のくせに、へんな性格です。他の本は、「読んでいること」それじたいを楽しめるのですが、小説だけはどうしてもダメだ。で、こういうことがふだんの生活にもわりかしあるのではないかと思うんですね。つい、結論や結果、目標や目的ばかりを偏重してしまい「焦る」ということが。「焦る」というのは「走る」ということですね。歩かないと楽しくないんです。歩いたら楽しいんです。ドライブで高速と下道とどっちが楽しいかって言ったら、そりゃ断然、下道でしょう。もちろん高速のほうが早いんですが、やっぱり高速って味気ないんです。なんで高速道路が存在するかって言ったら、「やっぱり目的地に早く着きたい」って人が多いからですね。でも早いほうがいい、っていうのはゴール偏重の考え方なんです。けっして普遍的な考え方ではない。歩く生き方。味わう生き方。今を生きる生き方。プロセスを楽しむ生き方。いろいろ言うことはできますが、まとめて言えば「遅さをみとめる」ということに集約されるんじゃないかと思うんですね。「遅い」っていうのは、非常に味わい深いものだと思うんです。もちろん早くやろうとしてできないのはトロいだけですが、「あえて遅くやってみる」場合は、今まで見えなかったものが見えてきます。あたかもクルマでは気づかなかったのに、歩いてみた途端、路傍に咲く花を見つけるようなものです。「夜のドライブ」だって、そうです。オトコとしては早くゴールにたどり着きたいのですが、あまりに早いとオンナは満足しません。ゴールにイキたい!けれど、そこを肚でぐっと耐えて、プロセスに興じるわけです。それがオトコの心意気です。(何言ってんだ)その意味では先天的に女のほうが「プロセスを楽しむ」ということに長けている気がします。そうじゃなきゃ、あんなに井戸端会議に花が咲きませんね(笑)ぼくはよく連れと話をしていると、「で、結論(オチ)は?」と言ってしまう。すると「いや、それだけ」と言われて、ぼくとしてはなんとなくしっくりこない。「なぜ、それを俺に話したのか」と思うのですが、それを聞くと「話したかったから」という答えが返ってくるわけです。論理的に考えると納得がいきませんが、べつに論理的に考えることはないんですね。それが「プロセスを楽しむ」ということだと思うんです。今には今しかない、という事実を認める生き方です。そうとはいえ目標がなく、「いま」だけではやはりどこか焦ってしまう。そんな今日この頃です。
2007年08月17日
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「誰々が言うことを聞かない」ということを僕らはたまに言います。「なんで言うこと聞かないのっ」なんてそこら中で幼な妻が怒鳴ってますね。でも僕は思うのです。「誰々が言うことを聞かない」と言って不満をこぼす人はたぶん一生しあわせになれないでしょうと。というのは、「言うことを聞く」というのは「聞く」だけでなくて、聞いて実際に行動を改めることですよね。つまり「言うことを聞かせる」というのはあーしろこーしろと「命令する」ということです。ぼくが思うに、本来の自然な美しい人間どうしの関係で「命令する」ということはありえません。誰かを自分の思い通りに動かそうとする思いは天にそむく行いであり、かならず自分を不幸にすると直感します。ましてや自分の思い通りにいかないからといって、その相手を批難するなどもってのほかです。なぜなら正しいということはどこにもないからです。「言うことを聞かない」のは、相手ではなくて自分なのです。「言うこと」は相手・他者・世界が発すること。ミスチルでいえば「sign」ですよ。それを聴いていないのです。言い換えれば感じていないのです。鈍感なのです。言うことを聞かせようという行為じたいが間違いである。間違い、というのは自らを不幸に陥れるということです。こんなことを書いていたら仕事中の自分を反省してきました。ごめんなさい。ゆっくりと悔い改めます。
2007年08月14日
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僕はこわいジジイになりたいんです。怖いといっても、怒鳴るジジイじゃありません。いつも笑っている怖いジジイになりたいんです。いつも笑っているから、子供には人気があって、「おじーちゃーん」と言われつつ、頭をバシバシ殴られているような人が理想だ。よくしゃべるジジイは怖くない。言葉がポンポン出てくるんだが、僕の手前で、かなしいほどポトポト落ちていく。面白いことに、適当に聞いていても対して気づかれない。内心くすくす笑っているのだが、ぜんぜんバレないのでまたそれがオカシイ。ぼくはそういう鈍感なジジイにだけはなりたくないのだ。静かなジジイは怖い。目が深すぎて見ることができない。うるさいジジイの目はいくら見ても怖くない。いろんなジジイを見ていると、まっとうに生きることの大切さを身にしみて感じる。
2007年08月14日
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このひとつまえに「しゃべれどもしゃべれども」っちゅう日記を書いていて、そこにコメントがある。このコメントがマルチポストだとぱっと気づきますか?まあ気づきますよね。かなり違和感のあるコメントだから・・・。(マルチポストとは・・・複数の掲示板に『コピー&ペースト(貼り付け)』で投稿していくこと。自分のブログの閲覧数をあげるのが目的だったりする)ほんとに性根の腐った野郎というか、品性がないというか、宣伝したいんなら宣伝ですと言えばいいものをあたかも日記を読んだようなコメント。ほんとにコスいというか、能のないというか・・・。いつも無視してさっと消してたけど、このブログを見てる人がひっかかっているといけないので書いておきます。だって、そいつのブログにいくと、そのマルチポストに対して「コメントありがとうございました~」って返事してるやつがいるんだよ。どんだけ周り見えてないんだ。お前のつまらん日記にそんなコメントくれるわけないだろう(笑)見えないことが多いネットだから、現実より注意しなきゃいけないことがいっぱいなんです。危険性にたいして鈍感になってはいけません。つねに気をはりめぐらすのです。気が抜けたところから生命は死んでゆきます。自分で言うのもなんですが、ぼくが日記を書くのに、いったいどれだけの目を意識しているでしょう。近しい人から遠く離れた人まで、読んだ人がどのように感じるだろう、他の誰が読む可能性があるだろうか、その人はどう捉えるだろうか、ということを書いているわけです。けっして思うがままに、奔放に書いているわけではない。「誰かが傷つくかもしれない」という恐怖はつねに隣にあるのです。その恐怖がなくなったとき、人はダラけきって、生気がなくなっていくのでしょう。見えない社会を生きるためには見る力がなおのこと必要になってくるのです。
2007年08月14日
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知らんやつほどよくしゃべる。
2007年08月13日
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うまい棒というかむしろ「デカイ棒」です。つれがもらったらしいのですが、僕が夜な夜なこっそり食べています。仕事が終わったあとの塩分補給にちょうどよいです。そうするとちょっと体内濃度が濃くなるので、アイスを食べます。これも特大で、半分「出落ち」的なギャグみたいな感じでじゃじゃーんと買って帰ってきたのですが、食べても食べてもぜんぜんなくなりません。でもいつでもアイスがある冷蔵庫というのはちょっぴり嬉しいものです。
2007年08月13日
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昨日は、月の最高売上をたたき出そうという日でした。うちの会社はあんまりノルマとかないし、数字にそんなにうるさくないんですが、たまにゃやってみようかという気まぐれなかんじで数字の目標が提示されます。というわけでけっこう前から色々準備していて、当日も気合をいれて出勤したわけです。スタッフの人もほんとうによくやってくれました。おかげさまでなかなかいい売り場で当日を迎えることができた。裏工作っちゅうわけじゃないんですが、家族に話をしたら、親族こぞって本やCDを注文してくれました。今度の帰省で大量に持って帰ります。(5.4kgは重い・・・。)家族のみんな、ありがとね!それにしても「協力しましょうか」という気持ちは本当にうれしいものですね。シフトとかでも人手が足りないと「入りましょうか」なんて言ってくれる人がいる。そういうことも本当にありがたいことです。昨日は、なんて自分は恵まれているんだろうと実感した。それでさっき、お店に確認にいったら、ジャジャン!!きっちり目標達成してました~!!がんばったかいがあったというものです。かなりドーパミン放出してます。ドゥピドゥピです。今度は何を達成しようか、ただいま検討中です。
2007年08月12日
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前回のまとめ:オタクはキモイ。なぜなら理解できないからだ。理解できないものはこわいのだ。こわいものに対して人間は二つの反応をする。それは「あがめ」と「さげすみ」だった。そのふたつの共通点は、「拒絶」である。★★★★★★★★★★★★★★★★(^0^)★★★★★★★★★★★★★★★★★★★「さげすむこと」が拒否というのは分かるとしても、「あがめること」が拒否、というのには反駁もありましょう。なので少し説明します。「あがめ」と「さげすみ」の関係は「期待(あまえ)」と「憎しみ」の関係に似ています。相手に対する期待が大きければ大きいほど、それが裏切られたときの「憎しみ」は大きくなります。それと同様に、あがめればあがめるほど、その対象に欠点が見えたときに、とつぜんさげすみはじめるのです。「完璧だ~、完璧様だ~」とあがめたてまつっていたものにちょっとでも瑕疵が見つかると、「こりゃダメだ。最悪だ。ぜんぶニセモノだ」とさげすみます。そして「あがめている人」にも吹聴しだすのです。「お前、何あがめてんだよ。バカだなあ」とかつての自分を棚にあげて、とつぜん現実を知ったような顔をします。そういう人は、けっきょく拒否から拒否へ移行しただけで何にも学びがないわけです。表面的なふるまいが「あがめ」から「さげすみ」に変わっただけなのです。というわけで、「あがめ」たり「さげすん」だりするのは根本的には同じことだということです。さて、ここからすこし話が変わるのですが、なぜキモイオタクをぼくは嫌うのか、ということです。それは、自分のなかのキモイ部分を具象化して見せられているような気分がするので嫌な気持ちがするのではないでしょうか。キモイ部分は「逃げ」の部分です。自分のなかに逃げたい気持ちがある。いや現実に、逃げている部分が少しはある。それをまとめてドバーンと提示してくるのがオタクどもである、といえると思うのです。だから彼らを認めることができたとき、自分の中の「逃げ」の気持ちをゆるすことができるのかもしれない。逆に、自分の中の「逃げ」を認めることで、もしくは「逃げ」の気持ちがなくなることで、キモイオタクをゆるすことができるようになるかもしれない。自分と価値観が似ている人を認めるのは簡単です。しかしそこには成長がない。たぶんいろんな人種のひとを認めていくことで、自分じしんのパーツがひとつひとつゆるされていくのでしょう。まだまだその機会はたくさんあります。さしあたってはギャルですね。どーも理解不能。そしてふてぶてしいオバサン。なんて不幸せそうなんだ。それから鈍感なジジイ。心身の硬化!!こやつらのことを認めることができるようになったとき、きっとステキな世界が待っているような気がしています。
2007年08月12日
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僕はオタクが嫌いだ。なんといっても、オタクはキモイからです。と、刺激的にはじめてみましたが、いろいろと誤解を招きそうなので、くわしく語らねばなりません。今日話す、「オタク」というのは「マニアックな趣味を持つ人」のことではなく、「まともに人間と会話ができない人間」のことを指します。2次元好きでもマトモな人っていっぱいいるんですよ。というか本当の「2次元好き」な人って、逆にマトモだと思うんですよ。流行の言葉でいえば「オタクの品格」があるというか、誇りを持って2次元を愛しているわけです。たぶんキモイオタクというのは「2次元が好き」なのではなくて、「現実が嫌い」なんじゃないでしょうか。現実が嫌いで、なおかつ逃げているわけです。だからキモイオタクとしゃべると、会話全てが言い訳なんですよね。「オタクで何が悪い」なんてうそぶきながら、心の奥底では逃げ続けている自分を嫌悪している。現実から逃げ続けた成れの果てに、オタクとしての自分がある。いわば消去法で2次元好きになっているのです。そんな人間がまっとうな社会の人間とまともに会話ができるわけがない。会話の基本は「聴く」ことにあります。それは耳を傾けるだけにとどまりません。相手の身体の動き・反応すべてを「きく」ことが会話です。前述しましたが、キモイオタクの会話はほとんどすべてが自己防衛のための言い訳です。キモイオタクはこっちの反応を見ていません。いつも一方通行なのです。だからこちらがつれない反応をしていても、ほとんど意に介しません。というかウザがられていることにすら気がつかないのです。しかしそんな彼らもときおり、こちらの反応を気にしているようで、媚びを売るようにこちらの目を見てきます。(その目線がまたキモイ!!)しかしそれも「自分が嫌われないかどうか」だけを気にしているだけで、こちらが快適に話しているかどうかを見ているわけではない。けっきょく口から出てくるのは自慢と言い訳ばかり。どうもキモイオタクどうしでは、それが傷の舐めあいのようになって会話が成立するらしいですが、まっとうな社会の人間はそれが理解できません。だからキモイわけです。僕らは、どうにも理解しがたい、つまり分析できないものに対して恐怖を感じます。遠いものはこわい、という原則があるのではないかと僕は感じています。課長よりは部長、部長よりは社長のがこわい留学なら、駅前より海外のほうがこわい。病気よりは死がこわい。哺乳類より、爬虫類、爬虫類より昆虫がこわい。お姉系より、ギャルがこわい。黄色人種より黒色人種がこわい。(↑白人の黒人差別にはこのような心理があったのでは?)「遠いもの」は「分からない」からこわいのです。そしてその恐怖に対する対処法は2つです。「あがめる」か「さげすむ」のどちらかです。この処置は、実は「まるごと袋にいれて、保留しておく」という扱いなのです。いっけん対義語のようですが、「あがめる」も「さげすむ」も相手を理解しないという点では同じです。「拒否」という態度なのです。 続く
2007年08月12日
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今、できること。これがどんなに大事なことか。ぼくらが今できることは、「今できること」しかない。この世はできないことだらけです。あの山を動かしたり、自力で空を飛んだり、100mを2秒で走ったり、3分で50冊の本を読んだり、30時間息を止めたり・・・etcしかし嘆くことはありません。できないことが多いのは誰しも同じなのです。だからこそ、「自分にでもできることは何なのか」ということを考えるわけです。これも捉え方の問題です。僕らはいろいろと限界のある人間です。それは皆同じです。しかし「できないことが多い」と嘆くのと「自分には何ができるのか」と考えるのとでは大違いなのです。嘆いていると迷いのツボにはまります。「できないことが多い」 ↓「なぜ、できないことが多いのか」 ↓「なぜ、親はこんな自分に生んだのか」などなど、わけのわからない恨みのツボにもハマっていきます。まったく不毛な行為です。そんなことをしてる間に「何ができるのか」を考えている人は「何が問題なのか」 ↓「どう解決すればよいのか」 ↓「今何をすればよいのか」とどんどん前に進んでいます。こういった思考の習慣、ひいては行動の習慣が将来的に大きな違いになってくるのだと思います。もちろん僕は後者の道を歩みたいと思っております。迷ったら即「イマデキ」。「今、何ができるのか」ただそれだけを考える。単純明快なセオリーです。
2007年08月12日
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誇りを持って生きることは美しい。そう思います。じゃあ、誇りって何なのかと言ったら、ぼくは「積極的・能動的に我慢すること」と定義しています。積極的・能動的というのを和語にすると「みずからすすんで」というのがよいでしょうか。「みずからすすんで、耐えること」これが誇りであり、品格であります。受動的な我慢、つまり「させられる我慢」は単なる弱さでしかありません。そういった我慢はただの逃げなので、いつまでたっても事態が好転しないのです。たとえばケンカが弱い子で、チカラの強い子にパシリにさせられている。嫌だけれど、はむかうと殴られる。もしくは嫌われる。だからヘラヘラと追従してガマンしている。こういうのは、悪いガマンです。いつまで経っても奴隷のままです。チカラの強い人がチカラの弱い人をしいたげない、というのが誇りであり、品格であり、やさしさであります。その意味で、モテない男に純愛は存在しない。「自分が好きなのはその人だけだ!」というのは純愛ですが、「自分を好いてくれるのは、その人だけだ」というのはただ悲しいだけです。選ばれる、ということより選ぶということを大事にしなければなりません。選ぶということは、他を捨てることです。「自分がそれを選び、他を捨てたのだ」という決意が誇りになります。そうなると、みずからが選んだ道を自らで歩いていく、と決めることを誇りと呼ぶこともできるでしょう。誇りをもって働いているか、誇りをもって人を愛しているか、つねに自問自答しながらやっていきたいと思います。
2007年08月12日
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いったいどうしてしまったものか、そういえば最近、「理解者がほしい」というぼくのなかの強い欲求がなくなってしまった。ぼくは学生の頃からずっと言っていました。「理解者がほしい。だれかにわかってほしい」と。いったい何をそんなに理解してほしかったのか今となっては思い出せませんが、「あなたの考えは正しいね」ということを誰かにすごく言ってほしかった。それがいまは、「理解者がほしい」ということをぜんぜん思わないのです。別に理解なんかしてくれなくても、一緒に楽しんでくれればそれでいいと思うわけです。小難しいことを考えるのが高尚とも思えなくなってしまった。「自分が正しい」ということは今でも信じています。しかしそれを誰かに証明するのをあきらめた感じです。というか「自分が正しい」ということを、言葉や論理でなく、生き方で証明しようと思っているのです。「俺のことを分かってくれ」なんてつまらないことを言っているヒマがあるのなら、大切な人を愛したいな、というのが今おもうことです。
2007年08月12日
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どうも最近、日記の内容がそこらへんに転がっている「こころやさしきおばさん」みたくなっていますが、やっぱり「ありがとう」ということは大切だと思うわけです。感謝の心というやつですか。だれかに感謝することは尊い行為だと感じます。しかしそれにしても「感謝」ってなんやねん!!と思いませんか。「感じて謝る」わけでもないし。やっぱり漢語だからぴっちり頭に入ってこないわけです。で、「感謝」って和語でいったら何?と考えていたら、「おかげさま」なんじゃないかと思いました。「おかげさま」って何なんだろうと思ったら、「あなたがいてくれるから」ということなんじゃないか、という暫定的結論に達しました。でもこれって、言ってみれば「当たり前」なんですよね。社会というのは構造であります。つまり僕らの存在というのは、世界のスキマなわけです。「『人間』というのは『ヒトのあいだ』、と書く」なんてよく言われますが、けっきょく僕が僕であるために、「他の誰か」が必要になってくる。だから「おかげさま」すなわち「あなたがいてくれるから」というのは本当に当たり前のことを言っているだけなのです。その当たり前のことが幸福へのキイワードなんてなんだか面白いですよね。だから、ちょっと飛躍しますが、不幸ということは不自然といってもよいのです。当たり前のことを事実として認めないので、不幸になっているということです。だからたぶん「感謝の心を持とう」と思っているうちはまだまだ不幸なのです。というのは「感謝の心を持とう」と思う人は「感謝の心を持っていない」人だからです。自然と「おかげさま」という言葉が出てしまうようになれば、もう不幸になることはないのでしょう。何度も言っていますが、幸福は状況ではなく、「捉え方」のことを言うのです。
2007年08月12日
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あの人が〇〇してくれた。彼女が××してくれた。彼が△△してくれた。この人がいつも■■してくれた。言い方の達人は、捉えかたの達人だ。どんな出来事であっても、語尾に「クレタ」をつけるクレタ人。クレタ人になりきったとき、そこに幸いが訪れる。幸福は、けっして出来事ではない。写真は友人がクレタ、デッサン人形です。もちろん太気拳の立禅(ギゲキトウ)の格好です。
2007年08月11日
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たとえば生きるということが愛することを知っていく営みなのだとしたらそれはまた「愛されている」ということを知っていく過程に他ならないのだ。
2007年08月10日
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ぼくは「日本語でかんがえる」ということが大事だと思っているんです。日本語、というか和語ですね。なるべく漢字を使わないような言葉で考えるということです。たとえば「関係する」というのは「かかわる」「生命」というのは「いのち」というふうに、できるだけ漢語を和語に置き換える。そしてその言葉をゆっくりと味わっていくと、こう、言葉がほどけてくるわけです。そのとき言葉は愛になる。ぼくは言葉の本質は愛だと思ってるんですね。愛ってなんだよと言われるとはたと困るのですが、たぶん愛は「いま」にしかないのです。愛には時間がない。永遠の愛ということはありえません。なぜなら愛という瞬間が永遠だからです。って、ここまで書いてきて思いましたが「愛」というのも漢語ですよね。和語にしたら何なんだろう。仮説ですが、「いま」というのがいちばん適当な気がします。「いま、ここ」でもいいですが、相田みつをさんのパクリみたいになりますからね。ここにあるのは今だけだ。とてもカンタンな文言ですが、身体で実感している人は少ないのではないでしょうか。「分かっている」と思った時点で永遠に分からなくなります。身体を開いて、世界に耳をかたむけること。それが聞くという行為だと思います。そういうと愛は聴くことだともいえるでしょう。なんだか何が言いたいのかわからなくなりました。
2007年08月10日
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「セピア色の思い出」のセピアっていうのあラテン語で「イカ(甲イカ)」のことらしいよ。
2007年08月09日
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「酒もタバコもやらないなんて、ozekeyさんの愉しみは何なんですか?」と訊かれたりする。「もっぱらオンナです」なんて冗談めかして答えたりしているが、「飲む・打つ・買う」はぜんぜん僕の楽しみにならない。というか「飲む・打つ・買う」が愉しみなんてさみしいなあと思ってしまう。これはきっと性格の問題なんだろう。どうも「娯楽」というのが苦手なんです。本が読めてと合気道ができて愛すべき人がいればそれで十分なのです。あなたの人生の愉しみは何ですか?
2007年08月09日
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攻めず守らず。それが最強。
2007年08月09日
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で、昨日それだけ遊びまくったにもかかわらず、今朝はわりとよく起きました。8時半くらいです。今日もすごく暑い。というわけで、ジョギングにでかけることにしました。出勤は13時から。いまは11時過ぎ。15分くらい走ろうということになりました。さっそく準備して出発!!タラタラのペースで走ります。・・・暑!!・・・むしろ熱!!風はあるので、まあ助かったのですが、それにしても汗がハンパなく流れます。うん、っていうかムリ!!さっそく右足のアキレス腱痛いし。それにかなりキモチワルイ!!朝食べたエッグパンが出そうでした。で、早々に撤退。情けない!最近は息があがることとかほとんどなかったしね。いやー、体力の衰えを感じますな。でも家に帰って浴びたシャワーは最高!!それから仕事にいってきました。8時間ほど働いて帰ったら、アップルパイがありました。わーい。いちばん好きなパイはおっぱいですが、アップルパイもかなり好きです。こんなん作ってもらったら、メロメロです。今井メロです。ありがとうございます。
2007年08月08日
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で、そのまま津まで戻ってきて(帰りは早く感じます)、家に戻ればいいものを何となくプリクラをとりたくなって、それでベルシティまで行きました。プリクラのときは、「ラクガキ」のセンスがなさすぎていつもヘコみます。「男性だけでの入場はご遠慮ください」という看板は切なすぎると思います。ゲーセンでちょっと遊びました。ミッキーとミニーがいっぱい釣れました。そのときどうも僕は、「そうそれ、そのマウスを取れ、いや、その隣のマウスだよ!」とミッキーのことを「マウス」と呼んでいたらしい。あとから聞いてかなり恥ずかしかった。で、他にもうまい棒などをゲットしたので、もうそろそろ帰ればいいものをそのままカラオケへGO!もう9時を回っていました。1時間だけ歌って、やっと家に戻ります。ついたのは11時過ぎでした。ゆうに12時間くらい遊んでいました。気がつけば諭吉さんが行方不明になっているばかりか漱石さんもどこにも見当たりません。ついでに知らぬ間にやら樋口さんも失踪したもよう。残ったのは平等院鳳凰堂ばかりです。それが誰のせいなのかといったら夏のせいです。たのしい休日でした。
2007年08月07日
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昨日はすごく遊んできました。夏休みでもないのに、バカンス気分です。出発は10時半ごろ。愛車に乗り込み、さっそく南へ向かいます。目指すは海!!鳥羽市は千鳥が浜のビーチで夏を満喫しようという作戦です。23号はそれほど混んでいなかった。12時前だったと思いますが、二見浦の夫婦岩に着きました。ここは目的地ではなかったんですが、なんとなく面白そうなので立ち寄ってみることに。けっこうお客さんはまばらなんだね。中国人のツアー客もいました。浜辺も少々あるんですが、人がぽつんとしかいないので、他を探すことにしました。そのうち腹が減ったので、栄養補給をしようということに。目に入ったのが、さざえのつぼ焼きの看板。海の幸を食わせてくれる店らしいです。さっそくインして、オーダー。セットで頼んだので、穴子丼と伊勢うどんと大あさりとカニのみそ汁ぜんぶ出てきて、なんかすごい豪勢でした。さて、腹ごしらえも終わったので、今度こそビーチへ向かいます。方向音痴とはいえ、ほぼ一直線、つまり道なりなので、そこまで迷うことなく着きました、白浜。千鳥が浜にむかう途中で体のいいビーチを見つけたので、「まあ、ここでいっか」という話になったのです。適当です。そのとき思い出したのですが、海パンがありません。いわゆる水着というやつです。悟天、じゃなくてトランクスでもいいかと思ったのですが、やはり「ポロリ」の心配がぬぐいきれないので海パンを買いました。有料更衣室で着替えます。カーテンすけすけです。それに短すぎます。完全に見えてます。ちょっと快感です。う、ウソだよ、ウソだってば!着替え終わって、バイトの兄ちゃんに荷物を渡していざ海へ!!実に10何年ぶりの海です。砂浜を走って海へざぶざぶ・・・・・・ち、ち、ちべたい!なんという冷たさ。気温は31度くらいあったと思うのですが、海は広いな冷たいな、腰まで浸かるとブルブルするくらい寒い。それでもガマンして肩まで入っていくと、だんだん慣れてきました。ウキワとかも準備してなかったので、ごくごく浅瀬で遊びました。足がつかないと怖いね。ぶくぶく沈むところでした。1時間もしたら、することがなくなりました。「海ですることは、『焼くか浮くか』のどっちか」らしいです。言われてみればそうだ。肩がヒリヒリします。日焼けなんて何年ぶりだろう。なんで肩が焼けるんですか?太陽の光はあまねく降り注いでいるのに!で、まあ帰ろうかということになりましたが、せっかくなのでちょっと伊勢によることに。伊勢神宮いってきました。おかげ横丁も見てきました。赤福買いました。ベタベタです。
2007年08月07日
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朝9時くらいに目が覚めると、湿気が物凄かった。すこし眠気があったが、強引に身体を動かし起床することにした。今日は休日だ。会社の義務で健康診断を受けねばならないので診療センターに電話をする。すると8月は予約がいっぱいで、次に空いているのは9月の半ばとのこと。それでは提出日に間に合わない。健康診断費用が自腹に決定した。ぐわし!!そのあとコンビニに朝飯を買いに行く。店員が床にワックスをかけている。店員といっても中学生くらいだ。家族経営らしく、そっくりの弟もいつもはいるのだが、今日はいなかった。俺の立ち読みをジャマするように床を磨いてくるので、「絶対にどかない」と心に誓ってフライデーを読んだ。お気に入りの100円たまごパンとフレンチトーストを買って帰る。最近かりんとうは買ってない。むしろハバネロだ。しかしそれも最近はすこし物足りない。もっと辛いやつ出してみろ。買ってきたパンを10時くらいにブランチ的に食べて、それからすこし稽古したら、全身の穴という穴から汗が吹き出て、床にぽたぽた落ちた。ぽたぽた焼きだ。シャワーを浴びた。それからネットや読書をしていると、腹が減ったので牛丼を食べに北へ向かう。目指すは「高級よし牛」。23号沿いにリッチな吉野家があって、いつか行ってみたいと思っていたのだ。店に入る。よし牛らしからぬ落ち着いた雰囲気に驚きを隠せなかった。ジャズが流れている。まるでオシャレな居酒屋だ。照明なども工夫された感じだ。テーブルが上からスポットで照らされて、紅しょうががキラキラ光っている。「いらっしゃいませ」店員が来る。顔が貧相な人だった。どうでもいいか。「ご注文はお決まりですか」メニューを見ると、値段はいつもと一緒。一安心。「豚丼。つゆだく。半熟たまご」またお決まりのセットだ。俺はけっこう保守的だ。運ばれてきた料理は味も同じだった。お店の雰囲気が珍しかったので、ケータイでこっそり写真を撮って知己に送った。そのあとはガストでおやつタイムだ。食事のあとはデザートがないと始まらない。昼のランチをオススメされたのに、トロピカルなデザートを頼むのは恥ずかしかった。男というのは意外に甘いものが好きなのだ。しかし、それだけでは格好がつかないので、ドリンクバーも頼んでコーヒーをブラックで飲んでみたが誰も見ていなかった。けっきょくひとりでファミレスに来て、スウィーツを食べている変な人になってしまった。人に借りた、カミュの「異邦人」を読んでみたが、やはり小説は肌に合わないようで、ぜんぜん進まない。もう返そうかと思っている。帰路で書店に寄りました。鏡の法則マンガ版を立ち読みしたら、不覚にも涙がこぼれてしまった。やはりどんな人間でも根底に愛があるのだと思った。家に帰ってきたら、花がしおれていた。あまりに暑かった。夕方にはひさしぶりにごはんを焚いて料理をした。今日は得意料理のお茶漬けだ。米を焚く。お茶漬けの塩をかける。お湯をかける。こんな工程でできあがるのだ。いったい俺は何を言っているのだ。あまりに暑かった。まだ暑い。今夜は熱帯夜になりそうだ。今日はハードボイルドな感じで書いてみた。どうだろうか。たぶん、「どうだろうかと聞かれても・・・」という感想だろう。きっとそうだろう。俺は知っている。知っているのさ。 おしまい
2007年08月04日
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弾力というのは生き物のひとつの特性だと思うのです。「もとに戻る力」これさえあれば、どんなにゆがんでも安心です。最近はストレスがどう、ということが盛んに言われています。ストレスをためないこと。それに自律神経の交感神経を昂ぶらせないようにし、副交感神経を活性化させろと。リラックスしろ、と。α波出せと。聞き飽きたね。僕は交感神経を活発にすることも大事だと思うんですよ。交感神経ってアレでしょ?アドレナリン出すでしょ?アドレナリンは生物が戦闘体制になるときに出るんだよね。アドレナリン出して闘わないと。それにワクワクするのって楽しいじゃん!で、なにが問題かって交感神経がたかぶった状態が「戻らない」ことが問題なんだね。それがいつのまにか交感神経そのものが悪いみたいな論を見ることが多くなっている。まあどうも現代は刺激が多すぎて交感神経が刺激されやすい環境になってるらしいから、副交感神経を活性化させてちょうどいいくらいなのかもしれないけど、やはり大元を勘違いしてはいけないと思うんだよね。けっきょくリラックスしすぎたら、だらけてフニャフニャになって、タコになって終わりでしょ。それなら交感神経たかぶらせまくって死んでいったほうがまだカッコイイ。でもいちばんいいのは、やっぱりバランスが取れていること。仕事中はアドレナリン出しまくって、家に帰って寝ることにはノルアドレナリン出しまくる。どっちがいいということではなく、バランスの問題。交感神経をバーッと昂ぶらせても、休憩中にピューんと副交感神経が活性化する。リラックスする。そうやって変化に対応できる身体を「弾む身体」と名づけようということなんです。というわけで今日は休日なので副交感神経を活性化させています。また日記書きます。
2007年08月04日
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優遇されているときは、優遇されているとは気づきにくいものだ。「恵まれている」ということを実感すること。気づくこと。そこではじめて「あたえる」ということを覚える。そこに幸せが生まれる、という考えです。
2007年08月04日
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