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もうすぐ2007年も終わります。日も暮れたとき、すこしさみしい気持ちになりましたが、一本の電話で元気になりました。一人じゃないんだなァ。ありがとう。2007年をありがとう。色んな事がありました。このブログを読んでくれている人、読んでない人、ぼくに近しい人へ、そして遠くの人へ。それから、大切な人へ。ありがとう。2008年もよろしくお願いします。
2007年12月31日
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去る12月20日、母方のばあちゃんがなくなりました。大正生まれで、享年82歳でした。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ばあちゃんは2,3年前から体調がすぐれなくて、入院しては退院し、また入院ということを繰り返していました。もともと、ばあちゃんは歩くのがとても好きで、すごく壮健で、はつらつとしていました。電車やバスで席を譲られると、「そんな年じゃない!」と憤慨していたそうです。80歳のころに、趣味の太極拳のクラスで「70歳くらいに見える」って言われるのよ、なんて自慢していました。違いがよくわかりませんでしたが・・・。世間のばあちゃんの例にもれず、孫にはとても甘かったです。家にくるたびに、お小遣いをくれたり、モノを買ってくれたりするので、おかんが困っていたのを覚えています。多趣味な人で、ぼくが知っているだけでも太極拳、ボトルシップ、革細工、かな(書道)などなど、話を聞くたびに違うことをやっていました。ばあちゃんに作ってもらった筆箱(ぼのぼのくんの柄)や財布は学生の頃ずっと大事に使っていました。それからすこし俳句や川柳もやっていたらしく、病院に見舞いにいったときに、むかし俳句の先生から誉められたという自信作を詠ってくれました。バスが揺れ 孫へのみやげ しかと抱きたしかにこれはイメージが自然とわいてくる名句でした。しかも自分がその「孫」の一人なわけです。そうなると、その情景だけでなくばあちゃんの気持ちまでも浮かんでくるのです。ぼくが見舞いにいくと、入れ歯をとってしまったふにゃふにゃの声で「あんたがくると、ホっとするわ」と言ってくれたのをすごく覚えています。それでぼくは、すこしでもばあちゃんの力になれればと思い、お見舞いから帰ったあと、色紙と手紙を書いて、ばあちゃんに渡してくれるようおかんに頼みました。色紙に書くことばは、なやんだあげく「あした天気になあれ」にしました。それをいつもの筆ペンで書いたのです。そうしたら、やはり孫パワーは強いらしく、ばあちゃんはとても喜んでくれ、その色紙をいつも見えるところに飾っておいてくれたそうです。いつも「元気になれ!」「がんばれ!」「病気に勝て!」と励まされていたばあちゃんは、「天気」というのはラクでいいね、と言ってくれたそうです。入院中のばあちゃんは、ちょっと会話のはっきりしない部分もありましたが、ぼくの意図したところが見事に伝わったのには正直おどろきました。そしてとても嬉しかった。でもそれからすぐに茨城に転勤になって、なかなか名古屋にも戻れなくなりました。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★そして今月の半ばのことですが、家族からばあちゃんの容態が急に悪くなっているという報せをうけ、急遽実家に戻りました。そのときばあちゃんは、もう退院して家に戻っていました。というのは、もう病院ではいかんともしがたい状態になってしまったため、いわゆるターミナル(終末)ケアの段階だったわけです。ぼくがベッドで寝ているばあちゃんに顔を見せると、はじめぼくが誰なのかさえはっきりしない様子でした。「俺だよ、直人だよ」というとばあちゃんは「ああ、直くん」と言い、ぼくの手を握り、そしてその手の甲に頬ずりをしました。その肌が存外にもつややかで、潤いに満ちているのに驚きました。老人のかさかさの感じではないのです。それがとても不思議だった。クリスマスプレゼントとして買ってきたスカーフを渡しました。もちろん、これを身につけておでかけしてね、おでかけできるくらい元気になってね、という意味ですばあちゃんは、入れ歯のない、ふにゃふにゃの名古屋弁で、「ありがとう、ありがとう」と言ってくれました。でもやはり、動きひとつひとつがとても苦しそうでした。それでぼくは何も言えなくなってしまった。何か言いたいと思うのだけれど、言葉が出てこない。なんと言ったらいいのかぜんぜん分からなくて、まさに言葉がないのです。大人たちは、いろいろともののみごとに話しかけ、そして励ますのだけど、ぼくはただ、ばあちゃんがゆっくりと語りかけてくれることばにうんうんとうなずくだけでした。そうしようと思ってそうしたわけではない。ただそうすることしかできなかったのです。そしてそれが、ばあちゃんとの最後の会話になってしまいました。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★12月20日、ぼくが茨城に戻って2日目の昼です。母からメールが来て、ばあちゃんが亡くなったことを知りました。でも実感がわかなくて、仕事もあったし、我慢すれば涙は流れませんでした。22日がお葬式でした。空っぽになったばあちゃんに会ったけれど、やっぱり何も言えなくて、心の中で、ただただ「やっとゆっくり休めるね」と繰り返していました。それからお坊さんも来て、葬儀も順調に進んでいました。いよいよ最後のお別れです。みんなが、やせてしまったばあちゃんのまわりを花でかざっていきます。そのときもやっぱり言葉がなかった。何か、手向けの言葉でもかけてあげればいいのですが、なんにも言葉が浮かんでこないのです。それでぼくはだまって、空っぽのばあちゃんを見ていた。そうしたらじいちゃんがそっとぼくのほうに来ました。じいちゃんは、達観した様子で、いっけん冷静に喪主をつとめていました。いつもと同じような歩き方で、いつもと同じ顔でいつもと同じしゃべり方をしていた。ただ、背中だけが、すこしさみしそうだった。でもそれは当たり前で60年連れ添った人がとつぜんいなくなるというのは、たとえある程度の予想と覚悟はできていたとはいえ、ぼくには想像もできないくらいのかなしみに違いない。だからこそ、そのかなしみは涙ではなく、身体のありかたそのものとして表現されたのかもしれない。そんなじいちゃんがぼくのそばにきて、言いました。「おまえがばあちゃんにくれた、あの色紙な、 ちゃんとこの(棺桶の)中に入っとるでな」その言葉を聞いたとたん、ぼくはとつぜん泣き出してしまいました。身体をぶるぶる震わせて、涙をぽろぽろこぼして泣きました。なぜその言葉が契機になったのかよくわかりませんが、とにかく、じいちゃんの一言で涙が止まらなくなった。おかんが見かねてハンカチを貸してくれました。それから火葬があって、ついで初七日もすませてしまいました。最近は初七日も一緒にやるのが一般的なのだそうです。そのあと、親族でごはんを食べて、その日は終了でした。しとしと雨の降る日でした。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ばあちゃんという近しい人が亡くなったのははじめてだったので、いろんなことを考えました。なんかまだうまくまとまっていなくて、だから、ここには書きません。それよりも、今はばあちゃんにありがとうって伝えたいんです。他には言うことないです。今まで25年間かわいがってくれてありがとねって、それだけ言いたいんです。たぶんあっちの世界からブログ見れると思うんでここに書いておきます。ありがとう、おばあちゃん!!天国で、またいろいろ趣味を楽しんでね!合掌。というわけで、これを見て間に合った方だけでけっこうですので、年賀ハガキはご遠慮くださいませ。
2007年12月30日
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ちょっと季節はずれの人間論。大人になるってのはどういうことかって?それはサンタクロースを待っていたのから、誰かのサンタクロースになるってことなのさ。
2007年12月27日
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ゆっくりやればなんでもできる!!!忙しいから失敗するのではない。忙しいと思うから失敗するのだ。やることがいくつあっても、いまできることは、一つだけだ。同時にはできない。順番にやればいいのだ。焦らずに待つのだ。ほおっておけば、解決することがほとんど。大丈夫。ゆっくりやればなんでもきる!!
2007年12月27日
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♪「でーでーでーで でででんでででん」連れが鼻歌を歌っていました。「なんの歌?」「小島よしお」・・・そんな年の瀬です。
2007年12月25日
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愛することを恐れなさいそして、愛しなさい。
2007年12月25日
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大切なことは形式ではない。形式を大切にするオトナが多い、ということが大事なのだ。
2007年12月22日
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だれかとぶつかるのがこわくてぶつからないのはいちばん情けないだれかと分かり合おうとしてぶつかってぶつかってからわかりあえるのも悪くないだけどぼくはケンカはきらいだケンカなんかしなくたって相手や自分を責めないように「そこにあること」をすなおにまっすぐに見つめていけばふたつはひとつになると信じている
2007年12月19日
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数あるよろこびのなかで、もっとも美しいのは、誰かが喜んでくれたときの喜びである。
2007年12月19日
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いわゆるバカギャルがなぜ「バカ」に見える行動をとるのかというと、それはバカに思われたくない、という一心であり、私はバカじゃないんだ!と心から主張しているわけです。
2007年12月16日
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真の反論というのは相手を受け入れた時点ですでに完結している。
2007年12月16日
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やっぱり教育に関しては、「教えない」のがいちばんなんだろう。勝手に後進がぼくの背中を見て育つ、というのが理想なのだ。技を盗ませるのだ。押し付けがましいのは、教育という名の自己満足だ。
2007年12月14日
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ぼくが読書するさいに気をつけているのは「素直に読む」ということです。よく「批判的に(クリティカルに)読め」「鵜呑みにするな」など、「内容を検討しながら読め」ということは言われていますが、ぼくはあんまりしません。これまでのブログから、ぼくのことを「批判的でへそまがりな奴」と思ってらっしゃる方も多いと思いますが、本を読むときは意外に素直なんです。素直に読むとよいこといくつかがあって、まずは「速く読める」ということです。いちいち批判しながら読んでいると、読むスピードがやたらと遅くなってしまうので、時間がもったいないのです。その点、素直に読めば、リズムで読めるようになるので、読む速度はあがります。だいたい、説得力のある本って形式が決まっているわけです。「〇〇は××だ!」 ↓「なぜなら、~だからだ」 ↓「実例はこういうのがある」 ↓「もちろん、こうならないこともある。 また反論もあるだろう」 ↓「しかし、〇〇は××なのだ!!だって、△は■なんだもの!」といったような形がほとんどなわけです。主張が最初と最後にバンっと置いてあるわけです。だから素直に読めば、最初と最後だけで事足りるのですね、実は。真ん中の部分は「反対者を説得する」部分ですから、素直に読めば、その部分は飛ばし読みでかまわないということです。というわけで、素直に読むと速くなります。そして時間が節約できます。それから、素直に読むとすぐ行動に移したくなります。批判的に読む人は「鵜呑みにしてはいけない」というのを言い訳になかなか行動しなかったりします。その点、素直に読むと、すぐにやってみたくなります。たとえば人間関係の本なんかを読むとさっそく今日から実践してみたりするわけですね。そうすると、意外に効果のあることが多い。もちろん、効果が薄い、または皆無ということもありますよ。でも、まともな著者が書いた内容を素直に読んで素直に実践すると、驚くほど効果があるというのがぼくの感想です。でも本を読んで実践する人ってけっこう少ないみたいですね。どうしても「そんなこと言ってもさあ」とか「俺(アタシ)にはできないなあ」とか「こういう考えではいけない」とか実践しない理由ばかりをあげつらってしまうわけです。これはとてももったいないことですね。本で読んだらやってみるから価値があるのです。どんな本も素直になって読んでみる。そしてやってみる。そうすると、自然と自分のためになるほんとならない本が識別されてきます。無理に「この本はいい本だろうか?」と頭で考えることはないんです。というわけで本は素直に読んだ方がお得ですよ、というお話でした。
2007年12月14日
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大変な出来事など、ひとつもないのだ。一大事などは、ただの妄想なのだ。すべては、「そう、思うかどうか」である。何事が起ころうが、「ああ、そうか」と淡々と構えることが大切なのだ。大変だと思えば大変だし、大したことはないと思えば大したことはない。どこまでを「大したことない」と構えることができるか。最終的には「死」というものを「ふーん、で?」と言えれば悟りと言えるのではないだろうか。小さなことに拘るな。些事に拘泥するな。そう、思うかどうかで決まる。この世界を作っているのはいつでも自分だ。だれかに自分の世界を作らせてはいけない。誰かが作った世界に住んでいるつもりになってもいけない。自分は自分の世界の主人公なのだ。だからこそ、「できない」「忙しい」「ダメだ」などのマイナスの言葉は絶対に発してはいけないのだ。これは決意の問題である。愚痴や弱音、泣き言、恨み節をいっさい言わないと完全に決めてしまうことだ。なにか起きたときにに「さすがにこれは愚痴のひとつも出るっしょ」と例外を作ってはいけない。誰かに同情してもらおうとしたとたんに、自分は「被害者」になり、悪いことばかりが降りかかる。何が起きても「よい言葉」で捉える、と決めてしまうと、世の人がいかにマイナスの言葉ばかりを使っているかがわかってくる。はがゆいほどに、自分で自分を被害者にしたてているのだ。そして「被害者」どうしがなぐさめあい、どうしようもない負のスパイラルに陥っている。どうかその目で周りの人たちを見てみてください。みんな愚痴ばかり言っているでしょう。愚痴というのは「愚」も「痴」もバカという意味ですね。面白いことに、愚痴を言う人は「バカ」なんですが、でも「自分が正しい」と思っている。というか自分が正しいと思うから、愚痴が出るんです。正しいか正しくないかはどうでもよいことなんです。とにかく、「出来事」をよいように捉えることがぼくらに課せられた使命なのです。それを忘れて自分の正しさばかりを主張し、愚痴をまき散らし、そのうえ、自分は「できない」「馬鹿だ」「デブだ」「忙しい」などで自分を守ろうとする。ぼくは、そのような人たちとは深くは関わらないと決めている。「できないんです」「バカだから・・・」「お金がなくて」「才能がないので」「自分って、〇〇なんですよね」といった言葉で自分じしんの弱さを隠そうとしても、その言葉を使った時点で心のよわさが露呈してしまう。もう一度言おう。すべては、「そう、思うかどうか」なのだ。「できない」と言ったらできないのだ。「バカだから」と言ってしまえばバカのままなのだ。とても面白い話を本で読んだのでご紹介しよう。ある人は言います。晴れた日には「紫外線対策をしなきゃ」と。そして雨の日には「洗濯ができない」と言います。そして他のある人はこう言います。晴れた日には「洗濯ができる」。雨の日には「紫外線対策をしなくてもいい」と。これが「世界をいかに捉えるか」ということです。事実など、どうでもよいのです。よいことを見つけ、良いように捉え、よくなるように行動する。「どうすればできるようになるか」「いま、できることは何か」考えることはそれ以外にないのです。「思い方」ほど大切なことはない。最近はそれを実感しているのです。
2007年12月12日
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12月に入ってから働きマンです。昨日も朝8時から夜12時まで仕事してました。でもこれが意外に疲れないんですね。自分でも不思議なくらいに。なんでかなって考えたんですが、いくつか原因がありそうでした。ひとつは、身体のことです。とにかく身体に力をいれないように、また肚(おなか)に力をこめて、呼吸を落として、働きます。呼吸は呼気(吐く息)に重点を置いて、息が浅くなってきたら、とくに吐く息を長くします。胴体のよこ(わき腹)に疲れがたまりやすいので、意識的に伸ばします。(けして無理に伸ばさぬこと)以上が身体に関することです。(他にも足の裏の使い方、腰の使い方、胸・肩の脱力の仕方などいろいろありますがマニアックすぎるので割愛)それからこころの問題です。なるたけ焦らぬこと。焦っても仕方ないと達観すること。スタッフや自分を責めないこと。(←これ大事!!)どうも笑顔で仕事するのを心がけているとかなり疲労は少ないようです。できない人、遅い人を責めると、「疲労」「心労」としてかならず自分に返ってきます。また上司や会社・本部などに不満を募らせることも「疲労」の要因のようです。自分はできないんだ、という思いも疲労を呼びます。あとは「やらなければならない」「やらされている」という感覚も疲労の一因です。そもそも、「疲労」というのは幻想(おもいこみ)なのです。よく考えてみてください。なぜ休日に「疲労」が「回復」するのでしょうか。仕事の日は動くから疲れて休日は寝ているから疲れがとれるのでしょうか?違いますね。たぶんカロリーの消費量でいえば、平日も休日も同じくらいでしょう。ふだん、パソコンで仕事されている方などは、アクティブな休日のほうが運動量は多いはずです。それでも休みの日に疲れがとれるのは、「意識」が違うからですね。「今日は休みだ。のんびりしていい」という意識になるから、疲れがとれるわけです。けっきょく、平日と休日で違うのは、運動量や服装や実際にすることではなく、意識の問題なのです。「仕事をすると疲れる」「忙しいと疲れる」というのは妄想です。ほんとうは「仕事があって、それにたいして力んで取り組むので疲れる」のであって、「忙しさに慌ててしまって、それで疲れる」のです。精神的緊張は、かならず身体的緊張を呼びます。これはかならずです。精神と肉体はふたつのものではありません。だから焦って緊張すると、身体が固くなるんです。固くなるのは、筋肉に力を入れるからです。筋肉に力を入れ続けたら、当然疲れます。これが疲労です。つまり「疲れる」のは「仕事」のせいではなく「自分」のせいだったのです。これはたとえば、ぼくは読書が趣味のひとつですが、人によっては読書が苦痛で仕方がない、ということなのです。原因は「読書」にあるのではなく、「自分じしん」にあるのです。仕事も同様で、「疲れるのは自分のせいである」と自分じしんで疲労を「背負う(=責任を負う)」ことによって、疲労を軽減することができます。自分じしんの運命は、自分で決めてきたのだ。今の状況は自分のせいなのだ。と、他人や環境のせいにしなくなると、疲労は激減します。そのコツは、「いま」「できることを」「自分なりのベストで(一所懸命に)」「淡々と」「笑顔」でやることだと思います。愚痴は言わぬこと。言いたくなるのは仕方がないが、その瞬間に「これは愚痴だ」と気づいたら、それを無理にでも封印する。誰かの同情を買おうとするとき、ぼくらは「被害者」や「犠牲者」になろうとするんです。被害者を演じた人間には、また被害が降ってくるのです。「最近たのしいことがない」のは自分がたのしくない人間だから。「仕事がつまらない」のはじぶんがつまらない人間だから。「じぶん」を助けてくれるのは「じぶん」以外に誰もいないんです。けっきょく僕らは、最終的にひとりなのです。その孤独感からしか、ほんとうのつながりーそれを愛と呼びますがーは生まれないのです。ぼくのわるいクセでなんか話がどんどんズレてしまいました。まとめると、自分の責任を自分で負うことで、「疲労」というのはなくなる可能性が高いということです。急な終わり方でスイマセン。
2007年12月11日
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歩くということはよいことだ。なぜなら、歩くことは遅いからだ。さっき歩いてコンビニにはがきを出しにいきました。家から500mくらいのところにあるんです。いつもは車でいくのですが、今日は休日だし、風呂上りの湯冷ましがてら、のんびり歩いていったのです。そうしたら、やっぱりとてもいいんですね。風を受けます。曇り空の、12月にしてはすこし湿った、つめたい風。朽ちた枯葉が、カラカラと鳴っていて、ぼくの手足は冷たくなる。そのうち、約200mの地点でぴちゃぴちゃという水の音が聞こえてきました。見ると下に小川が流れているんです。幅1メートルくらいのほんとうに小さな川ですが、歩いているとその川音が鮮明に聞こえるのですね。水の音はいつも美しい。水の音は清らかだ。水の音には、迷いがない。水の音は、生きている。だからぼくは水の音が好きなんです。それもすこしの水が流れる音です。車に乗っていると、風のつめたさや水の音を聞くことはできません。車のよいところは「はやい」ことですが、はやいことの何がよいの?と聞かれたら、はたと困ります。ほとんどの人は、「はやい」ほうがよいことだと思っています。だけど、「死ぬのは?」と聞くと、「遅いほうがいい」というわけですね。時間というのは、「遅く流れてほしい」と思うのがよい時間です。だから「このまま時間が止まってほしい!」と切に願いたくなるような状況を作り出すのが、よい生き方なのかもしれないなと思ったりするんです。ぼくは、遅いことはすばらしいと思ってるんです。仕事してるとめちゃくちゃせっかちですが、プライベートでは遅いのはよいなと思ってるんですよ。遅いからこそ、いろいろ分かることがあるんですね。味わうためには、遅くなくちゃいけないんです。それに「はやい=よいこと」と考えると、「おそい=わるいこと」になって、どうしても焦りグセがつくんですね。焦ったらいかんのです。何事も。焦ったら、こころもからだも固くなって、疲れてしまうのです。逆に「おそいこと=よいこと」と思っていても「はやいこと=わるいこと」にはならないんですね。不思議なことですが。この場合「はやいこと=はやくてもいいんだよ」になるわけです。目標達成は大事です。目的に向かうことも大事です。はやいこともわるいことじゃないんです。けれど、遅~く、ゆっくり、味わうことがいちばん気持ちいいんです。みんなその事実を温泉につかるときだけ思い出すんです(笑)そうじゃなくて、いつもの風をいつもの道をいつもの太陽をいつもの空をそして目の前にいる人をとおく思いを馳せる人をゆっくりゆたかに感じて 味わうのです。そのときぼくらはないものは何もなくて、あるものが今、ここにあるんだという厳然たる事実に気づくのです。ぼくはぼくであり、それ以外のなにものでもない。あなたはあなたであり、それ以外のなにものでもない。世界は世界であり、それ以外のなにものでもない。ぼくはその感覚をしあわせと呼んでいます。
2007年12月11日
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「偉い人」で人格者という人に会ってみたい。
2007年12月10日
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夢を描けなくなることがオトナになることだなんて思いたくない誰かの夢を嗤(わら)うことでオトナであることを証明なんかしたくない他人を見下す人がほんとうに見下しているのは自分で誰かをけなせばけなすほど自分じしんが汚れていく夢を描き続けよう夢を歩き続けよう夢を叶え続けようそして夢を 愛し続けよう
2007年12月09日
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今日は新しいお店の開店日でした!今日は朝から社長はじめお偉いさんがいっぱい来たのでちょっと緊張しました。パートさんが全員はじめての仕事についたのでぼくは4人ぐらいを受け持ったんですが、これが指示を出すのに一苦労。でもやっぱりやりがいはあるよね。自分としてはなるべく焦ったり怒ったりしないようにしたつもりだけど、どうだろう・・・?お客さんは総じていい人がおおくて助かりました。ちょっと「コワイ人」も来たけど・・・。さあて、これからが本番です。心温まる、気持ち触れ合う店舗にできたらいいな。
2007年12月07日
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誰かをよろこばせようとすることがどんなに楽しくて嬉しくてワクワクすることかは、やってみなければ分からない。身を賭して誰かを大切にするということ。そういうとき「お前のためだと思って・・・」というセリフは絶対に出てこない。そんな頭で考えた「お前のため」なんてぜったいに相手のためにならなくてウザイだけなんです。キモチイイのはもっと単純で、とにかくその人の笑顔が見れればいい。笑ってくれさえするのなら、どんな苦労だっていとわない。やってもらいたい。なにかをもらいたい。何かがほしい。そういう考えでいると、どんどんモノや気持ちが離れていくようです。とにかく、あげたい。捧げたい。幸せな気分にさせたい。喜ばせたい。笑顔が見たい。ただ、それだけなんです。そういう気分になると、欲しいということはあまり思わなくなります。なぜかというと、「もう持っている」「もう、ここにある」という気分だからです。相手だけ気持ちよくって、自分は気分がよくない、というのは奴隷なんです。嫌われるのが怖いだけで、それは大切にしているのと違います。相手が気持ちよくなっているのを見て、それと同じくらい自分が気持ちいい。そこに愛の同時性があります。与えるから、受け取る、のではないのです。与えることは、受け取ることなのです。「じぶん」というものが消え去ると、こんなにも心地いいのかとビックリします。
2007年12月05日
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最近は「第2の論理」に凝っています。これは言葉を主に据えた論理を第1としたときに「人間の心情」をその中心に持ってきた論理のことです。人には心がある。このあたりまえの事実をもとに、社会を捉えなおすという考え方が「第2の論理」です。第1の論理は、言葉を重視し、心を無視します。しかし「第2の論理」では矛盾を肯定し、人の心にある相反するものをそのまま受け入れるのです。「第2の論理」は、実践的な考え方です。結果オーライに近いかもしれない。「パワー」を必要とします。人を動かすのが「パワー」です。とかく人の心ははかりがたし。しかし、はかれないわけではない。そこに「論理」を見出せば、人の心は科学で解明することができる。そのとき科学は宗教になる。(宗教は科学です)人は心です。人は身体です。人は呼吸です。そのなかでも「心」に重点を置いたのが「第2の論理」です。また発見があったら、ここに書きます。
2007年12月04日
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会話というのは「解話」なのだ。そして「解話」とは言葉を具体化し、イメージを共有するプロセスである。言葉というのは常にあいまいなのだ。たとえば「私はイヌを飼っている」という文があるとする。これは一見、断定しているように見えるがあいまいなのである。というのは「どんな犬なのか」が分からないからだ。そこで「私はプードルを飼っている」とする。すると「イヌ」が「プードル」に変わった分だけ、「具体化」されたことになる。しかしまだあいまいである。それは「どんなプードルか」がわからないからだ。色は?毛並みは?胴の長さは?足の長さは?血統は?などなどあいまいな点はいくつもあるのだ。そしてその「あいまい」な部分を完全に具体化することは不可能だとわかるだろう。つまり、「具体化」に限界はなく、永久に具体化することができるのだ。基本的に具体化することは「わかりやすく」することだが、具体化しすぎても、わかりにくくなる。たとえば「僕は身長が高いです」という文。これはあいまいだ。どれくらい高いのかが不明である。そこで「僕の身長は180cmくらいです」とする。これはイメージがわきやすく、分かりやすい。かといって、「僕の身長は181.2345736cmです」と言われてもかえって分かりにくい。というか、コンマ以下は「何か意味があるのか?」という疑問を呼び寄せるだけである。これらの例でわかるように、会話というのは、お互いにイメージをすり合わせていく作業なのだ。この「すり合わせる」というのが大事で、そのすりあわせがないと自分勝手な自慰的言語放出におわる。その意味で井戸端会議は自慰に似ている。僕が見るかぎり、「会話」というのはこの世間ではなかなか行なわれていない。お互いが好き勝手に話しているだけなのだ。「会話」というのは自分以外の相手に興味をもってはじめて成立する。自分だけがカワイイお子様どうしでは会話というものは成り立たないのだ。たとえば・・・。A「俺、イヌ飼ってるんだー」B「へー、そうなんだ。俺はネコ飼ってるよ」A「そっかあ。それでうちのイヌなんだけどさ。 マジで可愛くて、俺が飼えると迎えてくれるんだ」B「マジで?うちのネコはねえ、わがままなところがかわいいよ」A「そうなんだー。そういやうちのイヌはね・・・」という具合である。お互いに自分にしか興味がない人どうしだとこうなる。上のセリフが「会話」だと思う人は要注意である。たとえばBの最初のセリフ「へー、そうなんだ。俺はネコ飼ってるよ」これは、相手のイヌの種類にさえ興味がないのである。自分のネコの話を持ち出すのは、「おまえのイヌの種類などどうでもいいのだ」と言っているのと同じなのである。この例ではイメージを共有できていないのだ。Aが飼っているイヌは秋田犬だとする。しかしBはブルドッグを想像している。だのに、お互い自分のことにしか興味がないので、イメージが共有されないまま会話「のようなもの」が続いているのだ。会話というのは話を、つまり相手を分解して「分かろうとするプロセス」であるはずなのだ。しかし実際には、自分を「分かってもらおうとするプロセス」になっていないだろうか。もちろんこれは僕も十分に気をつけないといけないことだと思っている。緻密に神経を張らないと、ほんとうの会話はできない。相手の話のどこがあいまいなのか?そこをいかに具体化するか。具体化する過程で、「相手が話したい部分」が出てくるんです。それを探る。それから話させる。そうしたら相手は気持ちよくなるんです。そんなことしたらつまらない話をえんえんと聞かされるって?それが、この「聞く技術」を意識的にやっていると具体化する力が身につくので、つまらない話を聞かない技術、その話題からそらす技術も身につくのです。ぜひ相手を観察し、具体化し、分析してみてください。やはり人間がいちばん面白いです。
2007年12月03日
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いつのまにかこの楽天ブログにもつまらん機能がついたらしく、どうも「禁止ワード」というのができたらしい。どうもオ〇ナニーとかマ〇スターベーションは掲載できないようだ。セックスは大丈夫みたいだね。うんこ・おしっこ・ちんちんとかもOKらしい。何がダメで何がよいのかわからんわ。こういう規制というやつは大嫌いだ。
2007年12月01日
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