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ひさしぶりにスラックスを買いました。まえにびりりとおケツのところがやぶれてからスラックスが一着しかなかったのです。2本目半額とのことだったので、2本買いました。ついでに靴も買いました。靴もボロボロですた。がんばれば靴下見えるくらい。っていうかもう壊れてたからね。ダメね、そんなの履いてたら。どうも使えるうちはなんでも使っちゃうんだよね。家着のTシャツとかヒドいことになってるからね。Tシャツっていうかむしろ「布」って感じです。それからスキマのベストアルバムも買いました。いいね!僕の心のすき間にスイッチが入った感じがします。朝から全力少年!!そんな7月最終日でした。
2007年07月31日
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聴くということと観るということはほとんど同じなんじゃないかと思います。というのはどちらの行為も、その対象を知ろうとする試みだからです。からだ全身を澄まして、透明に透明になっていく。相手を感じていく。世界を感じとっていく。誰よりも無言になったとき、たぶんそのときいちばん語っている。なによりも雄弁なのは、聴くという行為なのだ。
2007年07月30日
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愛にはベクトルがない。
2007年07月29日
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愛は、ズルしたほうが負け。
2007年07月29日
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昨日は休日でした。というわけで、車検に出していたグランツァを奪還しにいってまいりました。名古屋は中川区まで1時間半くらいでしょうか。ほとんど迷わなかったのですが、ガソリンがなくなりそうでたいそう怖かったです。エンプティランプを点灯させながら、いつ止まるかしらんと恐怖におののきながらのドライブで生きた心地がしませんでした。ほんとにギリギリでトヨペットにたどりついて安心のあまり失禁しそうでした。お金は思ったよりかからなかったので、まあ助かったのですが、担当の人がまた失礼すぎて怒りを通り越して笑えました。(24日の日記を参照のこと)「どうですか、代車のマーク2は? まじでボロかったでしょう?」「いや、うん、まあまあかな」「でも、お客様のグランツァも まだまだ乗れますんで」「はあ・・・(それって「長生きしてね」ってじいちゃんばあちゃんに 言うのと同じ構造じゃん?)」「今日はこれから?」「名古屋に遊びに行くんです」「ほんと暑いですよ。うちもお客さん少ないですし。 きっと帰りも混むんでしょうねえ」なんでマイナスのことばっかり言うんだよ、バカ!!もう二人ともなかばあきれてしまって、「はあ」としか言えなかった。つまらない話が続きそうだったので、「で、代金は?」と話を切り上げてさっさと遊びに行くことにしました。今日の目的地は大須!!ちょっとした買い物をしにきたわけです。大須は月末夜市とかいって、なんだかお祭り気分でした。あいかわらず雑多だねえ。最近のメンズの流行は「サロン系」らしいです。ゆる~い着こなしが特徴、と書いてありました。でもアシンメトリーなつくりとかが面白く、かなり興味が湧いたのでさっそく試着。で、鏡を見ると・・・修行僧!!どう見てもインドで断食してる人にしか見えません。なにがサロン系なんだ!解脱しちゃいそうだよ!しかもゆるゆるなので、ぜんぜん着方がわからないわけ。着ようと思ったら、ついつい頭にかぶってしまったり、いったん脱いだら、なかなか着れないし。脱ぐにしても、からまったりするし。連れと店員さんに、大いにバカにされました。そんなこんなでサロン系を一着買ってきました。僕に近しい人は、修行僧姿を見るのをお楽しみに。拝んでください。ご利益あります。それから欲しいものがあったのでパルコへいったのですが、パルコは広いね。現代のジャングルっていうか。ラシックも行きましたが、なかなかいいものが見つかりません。ロフトもいってみましたが、なかなかピッタリのものがない。というかだんだん何を買いにきたのかさえ忘れつつありました。それでけっきょく大須に戻りました。ダメもとで最後の力を振り絞って探しました。そしたら、あった!!というか手作りすることにしました。それでたぶん1時間くらいかかったんだとおもいますが、すごい迷いに迷ってアイテムを選んで、手作りのものしました。何を手作りしたかは秘密です。赤ちゃんとか、そういうナマモノを作ったわけではないです。そしたらもう8時をすぎたので、さっそく帰路につきました。案の定道を間違えたりしましたが、なんとか23号に乗って一安心。花火もあったそうですが、渋滞に巻き込まれることもなく、のんびりドライブで帰ってきました。めちゃくちゃ暑くて、そのなかをぶらんらぶらん歩いて、だらんだらんに汗をかきましたがそんな疲れもふっとぶほど、死ぬほど楽しい一日でした。それで今日は仕事をしました。 おしまい。
2007年07月29日
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仕事と家庭と趣味を3つとも欲しがるなんて、バランスよく生きるんじゃなくて都合よく生きているだけなのかなあ。俺が夢を叶えたとして、誰か喜ぶんだろうか?それとも夢なんて自分勝手なもの?金、愛、夢・・・。どれが正しいかなんてないんだろうけど。中途半端、なのかなあ。
2007年07月28日
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バトンが回ってきました。さりげにミクシー歴が長くなってきたかも。自分のタイプをさらけだすバトンらしいですよ。●年上、年下、同い年なら? 年下好きって知ってるでしょ?●どんな髪型が好き? 髪型というより手入れの具合ですね。何にせよテキトーでは女の魅力は半減します。●優しさと面白さどっちを求める? まあやさしさかな。●Mailや電話は大事?いまの時代、それなしで付き合うことができるんならやってみればいいじゃん。 ●スポーツやってる人がぃぃ? どうでもいいよ。でも健康な子のほうが好きです。●メガネ好き? 裸眼が好きです。●血液型にこだわる?NO. ●どんなファッションが好き?キュート&セクシー●背はどの位が理想? 157cmしかしそれ以下なら文句は言いません。実は160cm以上でも文句は言いません。●付き合うならこれが大事だと思う!! そんなことここに書いてはマズイだろう?●コレ、キュンときます。ちょっと首を傾けるしぐさ。「もう、ダメじゃない」っていうセリフ。●束縛されたい?されたくない?案外されても大丈夫だよ。●デートに毎回同じ格好でくる相手どう?服を買いに行く。●ふーん。聞いてると結構こだわるんだね?こだわり。つまり排他性ですよ。恋のひとつの条件じゃないか。 ●じゃぁココが好きってゆぅセクチィーポイント手。おなかのくびれ。 ●男性の方!!誕生日にサプライズとペアリング、どっちを喜ぶ人がぃぃ? むしろサプライズでペアリングを渡せばいい。●じゃぁ、コレをされると冷める。 プライドをズタズタにされる。おざなりに扱われる。●追いかけたい?追いかけられたい? 追いかけられたいんだろうねぇ。●コレをされると弱い あれをされたら、もう・・・●あっ!もしかしてそんな相手と付き合ってたりするの?え、何?もう一回言って?●じゃぁさ、じゃぁさ、理想と現実って違う? 違わないことがあるって知りました。基本的にバトンはまわさない主義ですが、やりたい人はやってみればいいと思うよ。
2007年07月27日
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「いらっしゃい」じゃなく「おかえり」といって迎えようとドアにむかって駆けだした そのときまるで決まっていたみたいに きみは「ただいま」と言った夢みる少女じゃないけれど赤い糸を信じたくなった 夏なあ おまえ千の夜をこえたら俺と一緒にしあわせになってみないか
2007年07月26日
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愛されれば愛されるほど、自由になっていく。
2007年07月26日
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今日は車検の日でした。いぜん予約の電話をいれたのですが、なんとクルマと取りに来てくれるとのこと。助かってしまいました。予定時間の13時に1時間くらい遅れて、クルマ屋さんがやってきました。道に迷ったらしい。代わりの台車はマーク2でした。かなり古い年式のものらしいです。僕のグランツァに乗ったクルマ屋さんが帰り際に言っていきました。「そのマーク2もかなりオンボロですが、 思うぞんぶん乗っちゃってください」「も」って何?!俺のグランツァのこと?!なんて失礼なやっちゃと思いながら、僕は名古屋へ健康診断にいってしまう愛車の背中を見ていました。今日は、超快晴でした。雲ひとつなくて、胸がスカッとするような青空でした。というわけでノリでおでかけです。23号をあてもなく北上していたのですが、ぱっと出てきた看板を見て、名古屋港に行くことにしました。道はけっこう混んでいて2時間くらいかかってしまいました。でもマーク2すごいね。馬力が違うよ。かなり快適なドライブでした。いやー、エンジンでかいのちょっとうらやましいなあ。しかもあれに乗っているとオジサンになった気分だ。なんか偉くなったような気がしますね(笑)こちとらマーク2だぜぇと割り込みしてきた野郎をあおろうとしたら、ベンツだったのでやめておきました。長いものには巻かれろ、です。港に着いてからは、ちょっと行ってみたかったイタリア村に行きました。狭!!思ったより規模が小さく残念でした。海は広いな汚いな~、という感じで、とても茶色かった。フードコードみたいなところで、アラブ料理食べました。アジアンフードみたいな香辛料で、今日のこの暑さにピッタリでした。駄菓子屋があったので、懐かしさにまかせて大量に購入しました。200円の予算から大幅に足が出てしまいました。ボンタンアメを大量に買いました。オブラート最高。かなり入りにくい感じの絵画の個展がやっていました。と思ったらタイトルのところに値段がついていて個展兼即売会のようでした。メチャメチャうさんくさくてうっとうしいお兄さんがやたら話しかけてくるので、どう考えてもまっとうな商売ではないと判断、すぐに出てきました。空気が読めない販売員は世の中から消えてなくなればいいですね。となりでつかまって逃げれなくなっていたおねいさんが絵を買わされていないことを祈ります。その館を出たら、かなり日も落ちていました。一番星が光っています。観覧車がライトアップされてキレイでした。帰りはかなりスムーズでした。23号さえ見つかれば大丈夫なんだけどなぁ、と言っていた矢先に23号に乗ることができ、あとは津まで一直線。あのーあれです、23号一直線です。マンガのタイトルっぽく言うと。なんだか晴れ晴れとした火曜日でした。おしまい。
2007年07月24日
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部屋を掃除しました。きれいな部屋は気持ちいいです。モノが少ないので、片付けも早い。部屋がきれいになったときに「でも前は汚かった」と嘆く人はいないでしょう。掃除が終わったそのあとに「しかしまた汚れてしまうかもしれない」と杞憂する人もいないでしょう。いま部屋がきれいなら、それでいいと思うのです。
2007年07月24日
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かりにその人が「思いやり」しか持っていないのなら、その人には「思いやり」がない、と言わざるを得ない。たとえば、「勇気」しか知らないということは「勇気」がないのと変わらない。それはやさしいだけの男がやさしくすることができないのと同じである。
2007年07月24日
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「愛することを学ぶために生まれてきた」というのは、あながちウソではないのかもしれない。愛することの難しさって何なんだろう。愛することを困難にさせているのは何なんだろう。愛は『空間』に生まれます。その『間』の取り方こそが、愛そのものなのかもしれない。ひとつになりたいけれど、ひとつにならない。なぜひとつになってはいけないか、というとひとつになった瞬間、愛を失うからです。というか、ひとつにはなれない、ひとつではない、ということを実感していくこそが大事なのではないでしょうか。何かと何かの「あいだ」に愛が発生する。換言すれば、「他者とひとつになろうとする働きと自分じしんが自分じしんであろうとする働きのバランス」のことを愛と呼んでもいいのかもしれない。ほんとうにゆたかな孤独を知ったとき、はじめて誰かと、つながることができるのではないだろうか。
2007年07月24日
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ヒトとヒトの関係は、離別をもって完成とする。どうやら梅雨も明けたようです。
2007年07月24日
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読書は毒書なのだ。知れば知るほど、知らないことが増えていく。本は読めば読むほど読みたい本が増えてくる。合気道も同じ。稽古すればするほど、どんどんできなくなっていく。もちろん主観の話をしているのである。知れば知るほど、知らないことの多さに気づく。ここに読書の永遠性がある。永遠性を知っているか知らないかでは大違いなのだ。変化こそ生命。だからこそ、生命は永遠に憧れるのだ。永遠性はロマンである。浪漫である。ロマンとは胸にたぎる焔(ほむら)である。男はいつでもロマンを求めているのだ。合気道の稽古は永遠性である。僕はその道に足を踏み入れてしまった。もう出ることはできない。永遠は存在しないが、永遠性は存在する。ゴールのない道。いや、ゴールがないから道なのだ。だから読書もある意味で道なのだ。読書道という芸能があってもよいのではないか。読書は永遠性というロマンに依存してしまうという点で毒である。しかしロマンに毒されるからこそ、われわれは生きていくことができるのだ。毒を知れ。
2007年07月22日
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どんな目標や目的も「結果的に達成される」ことこそ重要なことなのではないだろうか。ほんとうに欲しいものはたぶん、手放すことで真に手に入れることができるのだ。
2007年07月22日
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やっぱり仕事の量とかではないんだね。人手が減ったって関係ない。自分が楽しく働けるかどうかだ。やりがいというか、楽しくやれば苦にはならないのだ。攻めて攻めて攻めつくす。どんなに若造でも仕事を与えられたらおしまいなのだ。たとい会社に与える影響が少なくとも、こちらから攻めていかねばならん。というか会社に与える影響が少ないからこそいろいろできる。失敗が許される。店長になるまえにいろいろやってしまおう。ぐふふ・・・。楽しいなあ。
2007年07月22日
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畢竟、「誰がぼくを幸せにできるのか」という疑問は「いったいぼくは、誰を幸せにできるのか」という疑問に落ち着くのではないだろうか。
2007年07月22日
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仕事ってなんだろうと考えたとき、生きることそのものかもしれないと思った。なんにせよ、ヒトなんだよなあ。コミュニケーションの技術というものがありますが、あれはバレたらおしまいなのです。ありきたりな心理テクニックなんか使われたら、いくら誉められてもヒいてしまいます。「ほんと、こいつはテクばかりで心がないな」とずっと信用できない人がいたのですが、その人が使っている「技術」ばかり載っている本を見て、あらためて「やっぱりな」と思いました。もう一度いいますが、テクニックはバレたら終わりなのです。それにひきかえ、「心を開いた身体」や「肚」で愛することはバレることが目的と言ってもいい。というか心はバラすためにあるようなものです。テクニックが発達すればするほど、なんとなく相手を操作しているような気分になりますが、それは単なる勘違いです。ヒトは、相手を自分の思うようには動かせないのです。「心を開いて、ぶつかる」なんにもまして難しいことですが、やはりそこにこだわっていきたいと思います。
2007年07月21日
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もう最近はまるで病気みたいに本を買っては読んでいます。「積ン読」との勝負って感じです。ちょっと負けています。堅苦しい本は、けっこう途中でやめたりしてます。それも運命よ。ビジネス書は、サラリと1時間くらいで読みます。ほとんど同じことしか書いてないような・・・。教養新書は頭がよくなったような気がするので好きです。でもさすがに理系の本は「???」で、分かったような分からないような感じで読み進めます。それも運命よ・・・。部屋のいたるところに本が転がっていて、座った場所にあった本を読むスタイル。あとは仕事のカバンに数冊。名古屋へおでかけするときもかならず誰か連れて行きます。運転しながら読書したりもしますが、どうも効率がよくないです。読書というのは一種のリズム運動です。だから呼吸が関連してくる。たぶんセロトニンが出まくってるんでしょう。そうでなければ、あんなに至福にはならない。歩きながら読むこともまれにあるんですが、あだ名が「金次郎」になりそうなので、なるべく人前では控えています。今から紅茶とお菓子をおともに読書します。わーい。今日は2冊くらいが読了できそうです。そしたら積読の残りは3,4冊に!!でもさっき本屋いったら、欲しい本がいっぱい・・・。というわけでみなさんも本を読みましょう。たくさん買って、本屋の売上に貢献しましょう。図書カードを誰かにプレゼントをするのもいいですね。
2007年07月21日
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仕事が終わらなくて残業してたらこんな時間に・・・。というのはウソで長らくダベっていました。なんか寝るのとか面倒くさい。でも風呂には入ります。
2007年07月20日
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思考というのは結果じゃないのかと思うんですね。通常、ぼくらは「自由に」考え、そのとおりに動いていると「考えている」。しかし、思考は環境に作用されます。たとえば、風邪を引くと気分も滅入るとか腹痛で弱気になるとか、そういったことは誰しもが経験している。だからまず、身体があるんじゃないかと思うわけです。身体というのは、イコール姿勢といってもよいです。筋肉の緊張の場所と度合いですね。それはつまり血流にも関わってきます。(『血流』という考えを最近重視しています)「思う」というのは「主<おも>う」、すなわち意識を集約・収束させることでした。その操作をぼくらは恣意的にできると思いこんでいるんですが、実は、それが「思考させられている」のではなかいかと。そうでなければ、「どうしようもなくあの人のことを考えてしまう」とか「仕事のことが頭から離れない」ということは起きないはずです。身体が「そうなっている」ことの後付けで、「今がこうこうこうだから、こうに違いない」と思考をあてはめているんじゃあないでしょうか。睡眠時や安静時には人の血圧が下がるといいます。簡単にいえば、血の流れが弱くなっているわけです。だから思考にも影響する。夜は激しいラブメールを打ったりするでしょう。しかし朝は、血圧が低いので、その思考で見ると、「ぎゃぁ」というくらい恥ずかしい。ということで思考ほど頼りにならぬものはない、ということです。思考は、筋肉の緊張(姿勢)・血流の大小・意識の収束の結果であり、後付にすぎないと思うわけです。だからくれぐれも頭で考えて行動してはいけない。プラス思考などウソです。「プラスに考えよう」なんて思っている時点でそれはプラス思考じゃないんです。まずは身体を整えることです。肚で感じてパッと動く。それが理想です。
2007年07月20日
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今日は昨日書いたとおり、北の山の方へ行ってきました。うん、すごい田舎!!びっくりするね、あの電車。通路せますぎ。対面の人とひざがぶつかるんじゃなかろうかというくらいの幅。めちゃ揺れるし。酔うかと思った。そして遅い。俺よりは早いとしてもカール・ルイスよりは遅いんじゃないか。いやもう一面の緑世界っていうのかな。田んぼやら山やら、なんか草とか?癒しの景観だね。幸いにも最近はストレスもあまりないので、ちょっと物足りないくらいの有閑さ。目的の駅は終点でした。そこから2キロ弱歩いて目的地へ。私服ではじめて会ったら果たして「誰?」って顔をされました。これが嬉しいんだよね。ちょっとだけ仕事の邪魔をして帰ってきました。曇り空が心配でしたが、晴れオトコなんで大丈夫だろうと思っていたら案の定、雨は降りませんでした。やっぱ人間って天気操作できるんちゃうかな?帰りに駅前のスーパー?みたいなところに寄ったら、死ぬほどさびれていた。もう辟易するくらい。ダメね、どれだけ田舎に住んでも、こころが錆びれちゃオシマイよ。生きる気力を失くした人間の醜いこと。目が濁ってんのね。活きろ!!帰りは途中下車して、駅前の本屋に寄りました。夏はやっぱり文庫だね。でも欲しかった「いきの構造」がなかったので、ビジネス本一冊だけ買いました。講談社学術文庫ってけっこう置いてないのね・・・。「鉄道模型を作る」は思ったより大量入荷のもよう。うちのお店はどうなってんだろ・・・?夕ご飯は「ザ・メシや」にしました。あそこは和むねえ。さて、明日は金曜日ですね。英語でいったらフライデーです。最近フライデーが木曜日に発売してます。週刊少年サンデーは水曜日に出てます。かといって、週刊少年ウェンズデイではシマリがないです。「週刊金曜日」という雑誌はありますが、「月刊23日」というのは聞かないですね。もうすぐCancamなどが発売ですね。エビちゃんって、邪悪な顔してると思いません?赤文字系といっても、最近は赤文字ではないです。「わかさ」という雑誌を買う人は、若くないんです。たぶんに希望がふくまれています。セブンティーンの表紙の子はだいたい可愛いです。クロスワードパズル誌の違いが分かりません。パクロス?ピクロス?ピクルス?パチンコ誌の違いもわかりません。スポーツ界に王子が多すぎます。月刊少年ジャンプが休刊って知ってました?あとボンボンもだっけ・・・。雑誌界も大変ね・・・。 週刊ザ・テレビジョンの表紙の人はみんなレモンを持ってるって知ってました?高村光太郎か!!パソコン誌は「違法コピー」の本がやたらと多いですが法律に抵触しませんか?「with」って何と「一緒に?」「more」って何「よりも?」「MOTE-1(モテワン)」ってモテたくても恥ずかしくて買えません。「LEON」みたいな既成の高級感が嫌いです。「HOT HEAVEN」のパックを破ってまで見ないで下さい。ポケモンのカードを盗らないでください。犯罪だよ、子供たち。「55歳以上限定! Z(ジー)」ってちょっと奇を衒いすぎたのでは?ま、青二才のぼくには関係ないですが・・・。思いつきで雑誌ネタを書いてみました。あんまり面白くなかったりして・・・。
2007年07月19日
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遅ればせながら、ですが。「鈍感力」たぶんつまらないだろうなあと思って読んだせいか、やっぱりつまらなかった。なんでこんな本みんなこぞって読むんだ。あ、俺もその一人か。くそぅ。言い訳すれば、俺はこの本を批判するつもりで買ったのだ。タイトルからして気に入らなかったからね。で、内容ですが、主張に真新しいことが何一つないんですけど。「敏感すぎてはいけない」って鈍感を推す割には、「鈍感すぎてはいけない」って何度も言うんだよね。そりゃ、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、過剰なことはなんでもいかんでしょう。けっきょく、何にも言ってないのと同じなんですが。これぞ内容が無いよう。いったい誰があの本に共感したんでしょうか。それに鈍感がいい、鈍感になれ、って全体では言っているけれど、その方法については触れてないんだよね。それは自信のない人に「自信を持て」と言ったり、アガリ症の人に「アガルな」と言ったりするのと同じでまったく効果がない。「こうすれば鈍感になれる」というのがないんだよね。渡辺さんって医学博士らしいんだけど、そのせいなのか、なんか西洋的思考っていうか、とにかくピーンとくることが1つもない。そもそも鈍感ということはよくないことです。鈍感・ニブイというのは「死」と同じ意味です。人間関係や健康のことについて書いてあったが、どこかズレているんだよナァ。人間関係も鈍感のほうがうまくいく、ってそりゃ鈍感な人はシアワセだろうが、それはオメデタイだけであって、その陰で繊細な人は傷ついているんです。鈍感になりたくてもなれない人がいるんです。渡辺さんは鈍感だからそこまで気が回らないんだろう。あの本はたんなるオメデタてくてニブい人間の贖罪じゃないのか。人間関係はバランスの問題です。鈍感な人どうしはうまくいく。そしてまた繊細な人どうしもうまくいくのです。そこに「差」があるときに、齟齬が生じるのです。簡単な法則です。鈍感では、「味わう」ことができないでしょう。美しいものを、なにげない体験を、こころ震える言葉を、どうしようもないかなしみを、味わうことができるのは、繊細だからです。繊細というのは違いが分かるということです。少々文学的に言えば、感覚の網の目が細かいということです。だから色んなものをキャッチできる。鈍感で、網の目が粗かったら、なにもつかまえることができない。そのおかげで傷つくこともなく、味もわからず、タノシク、オメデタクすごせる、ということらしいのですが、僕にはまったく共感できない。こういった鈍感は人はどんどん強い刺激を求めます。際限なく。そして言うのです。「なんかオモシロイことないかなあ」と。面白いことなど何処にでも転がっているのに、それに気づかなくなっていくのです。味わう、ということはちいさなものを探していく試みです。ちいさなものにこそ、壮大なドラマが宿っているものです。強大で、膨大で、高速で、大量なポジティブ思考にはもうウンザリです。たったひとつでいいんです。それを味わい深いものとして味わう能力さえあれば。この世の中に単調なことなどない、ということはもっと知ってもらいたいと思います。
2007年07月19日
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丹田というのは丹薬という不老不死の薬を作る場所、という意味らしいです。それが身体という小宇宙に3つあると古代中国人は考えたわけです。(というか実感していた?)それが上丹田・中丹田・下丹田です。場所はそれぞれ、眉間(印堂)・両乳首の間・臍下3寸の奥、とのこと。それが知・情・意をそれぞれ司っているということになっているのです。で、今日ぼくが思ったのは、それらの丹田はそれぞれ時間軸でいえば、未来・過去・現在にあたるのではないかということです。下丹田の意識は、「今を生きること」にたぶん関連してきます。うまく説明できないんですが、肚の意識・腰の脱力などは、「神」にまかせる精神性を生み出し、その「ゆだね」こそが今を生きることだと思うからです。中丹田は「情」に関わってくる。それはつまり過去です。未来の感情というのはないのです。情は、かならず過去に関わることです。だから中丹田は過去を司るのです。上丹田は未来に関係します。未来を予測するのは頭です。知です。ですからおそらく、ですが、不安や心配事は上丹田に宿り、後悔は中丹田に宿るのではないだろうか。ちなみにインドのチャクラは7つ、それが中国で「丹田」となりそれが3つ、日本においてはそのうち下丹田のみが重視され、下丹田のことを丹田と呼ぶようになったという歴史があるようです。それから、今日思ったのは、「おもう」ということについてです。「思う」とは何かといったら、「意識すること」だと思うんですね。逆に「意識すること」とは何かといったら、「思うこと」だと思うんです。これでは説明になってませんね。意識すること、というのは意識を集約させることです。意識を収束させるといってもよいです。これが「おもう」、すなわち「主(おも)う」真ん中に集めてくる、ということです。これが過剰になると「重い」ということになります。相手を「想う」気持ちも度が過ぎると「重く」なります。意識の疎密の操作を意識的に行なえるようになれば、たぶんまさに自由自在になります。いま、それを身体を通じて研究しているところです。「目に見えない世界」がかならずあります。それはあなたが今「想像」している世界です。今ある現実の世界と想像の世界をつなぐ「鍵」が意識だと思われます。意識の集中のさせどころ、がポイントなのだ。「腰の脱力」というのはおそらくリセット作用がある。ココから先の展開が楽しみです。また報告します。
2007年07月19日
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「状況」というのは現実でありながら、どこか幻想じみていると思う。たとえば「責任ある立場で胃が痛い」ということがあるでしょう。そういう場合、「状況」はけっしてウソじゃないんです。しかし「責任ある立場」だから「胃が痛い」わけではないのです。実は「責任ある立場」というのは「その立場を責任の重い立場だと思っています」ということに他ならないんですね。その「重い立場だと思っています」というのが直接的に「胃が痛い」につながっているわけです。「重い立場だと思っています」というのは状況ではなくて、認識です。それは他のことでもおんなじだと思います。謙虚に言えば、世界をぼくらはかなり自分勝手に解釈している。傲慢に言えば、自分の認識で、世界が成り立っている。それをMr.chiledrenの桜井は「Center of universe」という曲で端的に表現しています。「僕こそが中心です」というのはけっして「オレ様」の思想ではない。状況を固定化しない、というか状況を「どうしようもないもの」と思わないことです。状況というのは真実よりも幻想に近い。そのことは覚えておきたいと僕は思っているんです。
2007年07月19日
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意味はかならず全体のなかにあるんです。その全体は大きければ大きいほどよい。
2007年07月19日
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愛はかなしみ愛はやさしさ愛はひとつになること愛は絶対愛ははかなさ愛は孤独愛は距離愛は憎しみ愛は犠牲愛は思いやり愛は献身愛は失うこと愛は捧げること愛は観察愛はゆるすこと愛は争うこと愛はつつむこと愛は選ばないこと愛は考えないこと愛はエロス愛は何もしないこと愛は偏在するがゆえに、どこにも存在しない愛は・・・
2007年07月19日
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最近、生物学的な本を読んでいるんですが、そのテーマが「生き物とは何か」ってことなんです。まだ読了してないんですが、途中で「自己複製システム」の話がでてきました。細胞っていうか、染色体っていうか、DNAっていうか、まあ生物の小さな単位が複製されるっていうことなんですが、その仕組みはジグソーパズルに似ているよ、という説明でした。たとえば、ジグソーパズルのピースが3×3で9ピースあったとします。(今は絵柄などは無視し、形だけを追います)そうすると、ある意味で真ん中のピースはあってもなくても関係ないんですね。というのは真ん中のピースは周りの8ピースによっておごそかに規定されるからです。だから身体というジグソーパズルは、どこかが破損しても元に戻ることができるのだ、と。ちょっと飛躍するんですが(基本的にぼくの発想はいつも飛躍しすぎます)それを読んで、「ああ!」と思いました。なんでぼくらの心はこんなにも淡く、切なく、移ろいやすいのかということがわかったような気がしたのです。(「こころ」という語の語源は「ころころ転がる」である、という説もあるそうです)つまり、ぼくらには「心」などないのです。他者のこころが集まっている、そのすき間を、便宜的に「自分」と呼んでいるだけなのです。だから人が変われば自分も変わる。逆に自分が変われば、人も変わる。他人が変わってしまい、それにつられて自分も変わる、というのはこころが「弱い」からではないのです。それがこころの本質である、ということです。変わりゆくこころを嘆いてもはじまりません。大切なのは、その「変化」をいかに活かすか、ということではないでしょうか。つまり、変わっていく心を嘆くのではなく、むしろおおげさなほどに変えていく。ためらうことなく、おそれることなく、こころを変化させていく。そうすると最終的に「変わらないもの」が見つかるんじゃないかと思うんです。これは不易流行というやつですね。不易、つまり「変わらないもの」と流行、つまり「変わっていくもの」。生き物というのは、細胞がどんどんどんどん入れ替わっている。というのも、どんどんどんどん入れ替えることこそが「ぼく」というものを保つ唯一の方法なんだそうです。そうしないと、エントロピーが増大しちゃうんですよ。エントロピーが。このひびき、好きだなあ。僕が思うに、生命っていうのは、宙に浮いたお手玉なんです。3つ以上でお手玉ができる人がいるでしょう?あれ、すごいですよね。ぼくは二つでしかできないんですが、3つ以上となると、かならず宙に浮いているやつがありますよね。その「浮いているやつ」こそ生命そのものなんじゃないかとぼくは感じるのです。「どのお手玉」ということではなくて、「浮いているやつ」。そこには「個性」などというウサンクサイ発想はまったく浮かぶ余地がないわけです。変わりゆくものと変わらないもの。なんとなくなんですが、変わらないものがもし見つかったとしても、それはたわいもないものなんじゃないかなあという気がします。
2007年07月18日
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今日は24時までの勤務でした。18時過ぎから、お店の責任者がぼくしかいなくて、ひさびさに忙しい感じでした。かなりお店の中を行ったり来たりした。今日は「良いところしか見ない」という哲学を思いつきました。結局誰しも主観でしかモノを見ることができないのだから、「なるべく客観的に」なんてウサンクサイことは言わずに、もういっそ「良いところ」しか見ないようにしたら楽しい人生になるんじゃないかと思った。「良いところ」を見るというのは実は難しいのだ。それこそ「客観的」になるからこそ、良いところが見えてくる、という皮肉にも近い真実もある。だから表現の問題なんだね。あるモノを捉えたとき、それをいかに表現するか。その表現をつねにプラスで発想していこう、ということなんだね。まあカッコイイこと言っても、「こいつの長所が見つかんねー!!」ということもあるけどね(笑)理想として持っていても悪くないんじゃないのってさ。今日は仕事が終わってから近くのスーパー銭湯に行きました。まさに極楽だね。露天から、水風呂、電気風呂、ジャグジーなどなどを堪能してさっぱり汗を流して帰ってきました。で、今はピリ辛の漬物をほおばりながら晩酌をしています。ほろ酔いです。年を重ねるにつれ、塩味が好きになってきますね。これはなんででしょう?昨日は「さきいか」だったしなあ。かつて見ていた親父の姿がここにあります。そっくりすぎて自分でもびっくりします。そんな自分をどこか嫌悪しつつも、どこか懐かしくそして嬉しく思っていたりします。明日休日なんで、夜をぞんぶんに楽しむつもりです。本の続きも早く読みたいなあ。明日は、午後から北の山のほうに遊びにいってきます。「まるでトトロの世界」と言われる単線で行くらしいのですが、どんなところか楽しみです。それにしても愛って何なんだろうか。じゃあ、おやすみなさい。
2007年07月18日
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またか「雨」をたたえた暗雲がのっそりと空にかかる梅雨は明けない梅雨は好きな季節じゃないけれど仕方がないんだよね雨は嫌いじゃないくるったような大雨を貴族のような気分で窓の外に眺めながらブラックのコーヒーを準備して本を開く 至福の午後しかし扉を抜けるとぬれた空気がかわいたぼくに纏う跳ね返る水しぶきが傘のすき間から漏れこむ雨粒が何も写さない水たまりが雨は 雨は 雨は・・・!!梅雨は明けない梅雨はいつか明ける梅雨が明けたら 夏になる
2007年07月18日
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世界はひとつなのだ、なんにしても。だからこそ、順番という魔法が使えるのだ!!区切れば区切るほど、世界に近づいていく。もうこれ以上ないというくらい分解して、分解する意味はなかったのだということを知る。
2007年07月16日
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どうも、トムヤンくんです。今日はバンコク父さんが、プーケット兄さんと象使いの練習に出かけたよ。母さんは今日もムエタイ観戦です。というわけで、タイ風一家です。もとい、台風一過です。期待ハズレですなあ。今日はものすごい青空でした。コカコーラくらいスカッとさわやかに晴れていました。なんで空は青いんだろうねえ。なんでか分からんが、とにかく美しい。たぶん、理由なんていらないんだろう。愛することにいちいち理由をつけるのは野暮だ。ただ、それがそこにあればいいんだよ。それがパッとあって、パッとなって、パパッとなってしまう。それが理想だと思うんだよね。
2007年07月15日
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夢を持つことは幸せだが、夢を持たぬこともシアワセなことではある。どっちを選ぶかは・・・自由だ!!
2007年07月15日
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「けっきょく、迷ってるうちはダメなのよね」まえ実家に帰ったとき母がぼそっとそう言った。そのときは、そりゃそうだろうと思っていたが、いま思い返してみると、なるほどと思わざるを得ない。
2007年07月15日
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こころを開くというのはなんだろうか。それはカタチではないということです。つまりコトバではないということです。たとえば相手と親密になる方法に「失敗談を語る」というのがあります。しかしこれはカタチなのです。「失敗談を語る」には覚悟が必要だ。それは自分を笑い飛ばす覚悟だ。それを勘違いして、失敗談を語って、それを相手にフォローさせる人がいる。失敗談というか、いわゆる自己卑下だ。「俺ってダメだから、またミスしてさ」「仕事できないんで」「私って男っぽいでしょう?」「もう〇〇(←年齢)ですから」「オバサンだから・・・」こんなことを言われた日にゃあ、こっちはそれを否定するしかないっしょ。「いやいや、そんなことないですよ」けっきょく、そういうことを相手に暗に要求する人とはこころを開いた交流などできっこないのだ、最後まで。ぼくはすこし悲しかった。相手が死ぬ気で「自分」を守っているかぎり、こころで触れ合うことなどできぬのだ。こころを開いたフリして話をしていても、「コトバだけだな、こいつ」っていうのは伝わってくる。「口だけ」「心がない」「言ってること全然ちがう」「うさんくさい」「信用できない」「計算高い」そんな印象。意識的に、ビジネス本で読んだようなコミュニケーション術を使ってもダメなのだ。テクニックでは人は動かぬ。コトバは遅い。遅すぎるのだ。もちろん「芯」がなければ、ちょっと相手の言葉がやさしいだけで、「やっぱりいい人かも」なんて思ってしまう。コトバに惑わされるならば、頭が遅い。コトバでは、何も分からぬのだ。コトバは、なくなるために存在する。コトバは、なくなったときにはじめて意味がわかる。コトバに頼るのはわかっていない証拠なのだ。コトバに甘えるのは、コトバが世界だと勘違いしているのだ。謙虚というのは、むずかしいことと思います。ひとつの基準として、「相手からの『見下し』に耐えられるか」というのがあると思う。たとえば「お前はほんとバカだな」「何言ってんだ。俺は稀代の天才だ」というのは明るい。心が開けている。お互いがウソで言っているのが分かっている。コトバ遊びを楽しんでいる。しかし「俺ってほんとバカだよ」「そんなことないって」というのは、逃げであり、甘えであり、コトバだけ、カタチだけなのだ。つまり、自分で卑下することによって、相手から卑下されないように「守って」いるのだ。もちろんたまにはそういう心境にもなろうが、いつもそればっかりの人といると疲れる。「いい加減にしろ」と。相手からの卑下に耐えるこころがない人はテクニックで武装する。人間相手にコミュニケーション術で対応しようとする。それがうさんくさい原因だ。人と人は技術ではないのだ、ほんらい。コトバが蔓延する社会だが、大切なところを見失わないようにしたい。
2007年07月15日
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台風が近づいているようです。こういうときテレビがないとちょっと不便です。かなり雨風がつよくなってきました。明日のあさ、が激しいのかな?家が揺れています。ぜんぜん、こわくないです。ほんとマジこわくないです。ビビッてないです。は?ビビッてないって言ってんだろが!!今日は伊勢の花火だったようですが、こんな雨だから中止でしょう。今日はよく本を読みました。また寝る前に読みます。幸せです。晴耕雨読といっても、晴れの日に耕したことがありません。片付けもしました。2週間ぶりくらいにキッチンを掃除。気持ちよいです。あとは風呂じゃ・・・。片付け中に豆菓子が出てきたので食べたら変な味・・・。というかどうしても飲み込めない。変だなと思って賞味期限を見ると、5ヶ月過ぎていました。あぶないところでした。つまらない日記を書いてしまったついでに、ぐうぜん見つかった15年前(小学5年)の今日の日記を載せてみます。7月14日 「ねつが出た」今日ぼくは、朝は良かったけど夕方ごろ「なんか熱いな」と思って、熱をはかったら、37,5度あって陸上部と合気道を休みました。一回合気道を休むと、いろいろ分からなくなるので、ちょっと困ります。先生のコメント:今回はわりとゆっくり過ごしていたけれど、この変わりやすい天候にからだがついていかなかったようですね。よく食べて(バランスよく)いつもより早めに寝るようにしていこう。あ、結局つまらないね・・・。以上です。
2007年07月14日
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すごくよく使ってしまうんですが、あんまりよくないなあと思っている言葉が、「じゃあ」 です。どうも「じゃあ」っていうのは邪悪な感じがするのです。じゃあ、その話を始めましょう。「じゃあ」っていうのは、「では」ということですね。「では」は「それでは」とほぼ同じ意味です。じゃあ、「それでは」とは何なのか、というと「そうであるならば」です。こういった言葉は、日本語ではすべて「別れのあいさつ」ということになっています。「じゃあね」「そいじゃ」「んじゃ」「さようなら(然様なら=そうであるならば)」「それでは」カタチとしてはさまざまですが、これらはすべて同じ意味を持っています。英語で言い換えると「バイバイ」にあたるんですが、ぼくの考えでは、「直接的にバイバイというのを避け、婉曲した」カタチになっているのだと思います。つまり「そうであるならば(バイバイ)」ということで、あえて「別れの言葉」である「バイバイ」を表現しないようにしてある日本的な構造なのではないかと。(ちなみに、「そうであるならば」の「そう」とはもうそろそろ別れよう、というお互いの心身の状態だと思われる)まあ、それはよいとして、「AならばB」というのが使われているというところがポイントなんです。「じゃあ」というのは「AならばB」の「ならば」にあたります。「じゃあ」にただようどこか狡猾なひびきというのはそこにあります。「じゃあ、それやろっか」「じゃあ、俺は~~するわ」「じゃあ、あなたは〇〇ね」この言い回しは、なんらかの前提があってそれに呼応するように私は行動する、ということです。つまり、「じゃあ」にはみずからの内に起こる、内発的自発的な欲求をひた隠しにしようとする思惑が暗に含まれているということです。次の会話を見てください。「映画行きたいなあ」「じゃあ、行こっか」「ちょっと芝刈りに行ってくるわ」「じゃあ、わたしは川へ洗濯に行くわ」「こちらの製品はお買い得です」「じゃあ、買っちゃおうかな」これらの「じゃあ」はすべて「ならば」という意味です。一つ目の会話を受けて、「そうであるならば、私はこう行動する」という態度なのです。そこには、自分のこころの内にわきあがるいきいきとした欲求がありません。他者・世界・環境が「そうであるならば」私はこうする。これは、みずから背負うべき「責任」を放棄することです。他者・世界・環境が「どうあろうとも」私はこうする。「わたし自身」に真正面から向き合い、「わたし自身」の望みをかなえるため、他者・世界・環境に働きかけていく。それがしあわせへの道というものです。最近、ナインティナインの「やべっち」が長年付き合った彼女にプロポーズしてフラれた、というニュースがありました。フッた彼女のコメントで、やべっちの「じゃあ、結婚しようか」の「じゃあ」が気になったからOKしなかった、ということが書いてありました。真偽のほどは本人たちにしかわかりませんが、あながちふざけたコメントには思えませんでした。「愛してるよ」「・・・じゃあ、愛してる」なんて言われた日にゃあ、100年の恋も冷めますね。短くてよく使われる「じゃあ」ですが意外にも深い意味が含まれていたりするんです。そしてその多くは、卑怯なひびきを持つ。みなさんも「じゃあ」にはお気をつけ下さい。じゃあ、今日はこれでおしまいにします。じゃあね。
2007年07月14日
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いま、「積ん読」がたまっています。土井健郎の「甘えの構造」(弘文社)から講談社現代新書の「生物と無生物のあいだに」など計7冊ぐらいあります。今後は、同期に薦めてもらった内田樹とルース・ベネディクト「菊と刀」を読みたいですね。やはり四半世紀生きてきて、だんだんと「名作」に触れたくなります。名作は歴史であり、偉人の共通認識であります。けっきょく歴史を知らないかぎり未来を創造するということなど、どだい無理なのです。名作がなぜ名作なのかを知ること。ここに人間の成長があると思います。さて、宇城先生の「空手と気」(合気ニュース)読みました。先月くらいの新刊です。宇城先生の本は難しいですね。なにが難しいって、言葉の使い方が「勝手」だからです。文脈もすっきりしていて、けっして悪文ではないと思うのですが、いかんせん単語がパパッと出てくるので、とまどう。ぎゃくに、すごく大事なことが書いてあるのに、言葉(定義)の説明はなく、またほとんど造語もなく、まるで一般論のように話が進んでいく。たとえば「『思考の深さ』が大事です。」なんていう文ですが、そういわれたら、「そうだよなー」なんて自分の解釈で読んでしまいそうになります。しかし、宇城先生の言われる「思考の深さ」というのは独特の定義があるのです。身体で考えることであり、けっして頭で考えることではない。思考といっても、それは無意識の話であったりして、その「意味」は読みすすんでいかないと分からない。きっと「空手と気」を読んで勝手な解釈をする人は多いんだろうなと思いました。かくいうぼくも、おそらく「わかっていない」のでしょう。まあ「ことば」はいつか分かるためにもらっておくものです。修行が進めば、自然と道標として現れてくる。ここが面白いところです。最近の読書は、ちょっと速読風です。姿勢と呼吸をただし、読まずに「見る」ようにして読み進めます。これも稽古の一環であります。また何か読んだら読書日記書きます。
2007年07月14日
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ことばは、なくなるために存在する。
2007年07月13日
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接客業というのは、かなり合気道に近い部分があると思います。たとえば、レジでの会計ですね。まずは本を持ったお客さんが、「本を買うぞ」という意識をこちらに向けてきます。意外に背中でも分かったりします。というか仕事してるとレジカウンターのなかで、お客さんに背を向けるのが怖くなります。それで、お客さんと意識があったら、軽く会釈して、本を受け取ります。お客さんはカウンターにボスっと本を置こうとするのですが、ぼくはそれをさせません。会釈して顔を起こすときに、さっと手を出して、自分で受け取ります。これは間を読まないとダメなんです。会釈のタイミング・スピードを調整しないとちょうど受け取ることはできません。それからバーコードを読ませて会計です。本とお金とレジ。モノを触るときは極力やさしく触ります。その存在を侵食しないように。レジをがツーんと叩くやつは鈍感で自分勝手な人だと思う。さて、商品を袋に入れます。ここでは、身体のなかにぶつかりがないか気をつけます。レジの作業をトロトロやることはないんですが、焦った感じではカッコワルイ。焦った感じは、筋肉の緊張から生まれます。ですから肩や胸の力を抜いて、腰からの動きで本を詰めます。このとき、タラタラやっているとお客さんが本のことを忘れて帰ってしまう場合があります。自分のなかで「お金が払う」という行為が完了するので、ついつい本を忘れてしまうのですね。人間心理です。そのときに、歩いていってしまうお客さんに「お客様、本をお忘れです」なんてことを言っちゃうバイトの子とかいますが、とんでもない話です。恥を知れ、と言いたい。それはお客さんを見てないんです。本ばっかりに拘泥しているから、お客さんが帰ろうとすることにも気がつかないんです。ぼくだったら、お客さんがつまさきの向きを変えて、腰をひねった時点で気づきます。それで袋に商品をつめながら、「もう少々お待ちくださいませ~」と言うと、お客さんは「あ、しまった」という顔をされるのですが、実際には動きだしていないので、世間的には恥ずかしくないのです。それが数メートル歩いたあとだったら、他のお客さんにも見られるし、恥ずかしいでしょう?そうならぬよう、「つま先の向き」という無意識の動きのうちに抑えてしまうのです。レジは一期一会ですからね。まあ実際は、何でも足を運んでくださるお客さんもいるんですが、そういうことが問題なのではなく、「その場を最高のレジにする」という意識を持つ、ということです。最高のレジってなんだよってことなんですが、それは心が交流するお会計だと思うんですね。レジの人というのは、ほとんどが人間ではない。みんな単なる機械だ。「いらっしゃいませ」も声が大きかろうと小さかろうと変わりはない。みんな独り言を言っているだけだ。誰にも届いていない。「お前誰にしゃべってんだ」と叱ろうと思ったこともあったが、どうせこの手の話は鈍い人間は伝わるまいとあきらめてしまった。で、そうなんですよ、モノ・人に対する触れ方、相手のとの距離の取り方、間の読み方、意識を見ること、そのあたりはほんとうに合気道にそっくりだと思う。まあ、こんなところにこだわってちゃあビジネスマンとしては一流じゃないかもしれんけどね、最終的にこれがわからなければ、出世しても意味はないと思うんですよ、個人的には。たぶん社内でもこういう視点の人は誰も居ない、というか見たことがないからね。いつか拒絶されるか、重宝されるかどっちかだろう。まあ何はともあれ、レジは奥深いんですよ。ぜひそういった職場の人は楽しんでみてください。
2007年07月11日
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前も書いた気がしますが、ぼくは教育という言葉は嫌いなんです。なんで嫌いかっていうと、まずは直感です。「は?教育だと?」みたいな感情的拒絶です。それでよくよく考えてみると、教育というもののウサンくささが嫌なんでしょうね。そもそも、教えてもらうのが大嫌いなんです。基本的には自分でできると思っている。もしできなかったら助けてくれ、と思ってるんです。だからたぶんぼくは、孔子さまに可愛がられます(笑)アンサーは欲しくないんです。ヒントが欲しいんです。「答え」というのは人にあげようと思った時点でニセモノになります。「こういうものなのだよ」「こうなっているのだよ」教えるものが、教わるものの方向を向いたとき、教育は死ぬと思っている。ぼくが思うに、真の教育というのは「存在」です。そこにいること。それだけで、後世がそれに惹かれ、憧れ、自らの過ちを悟り、導かれる。言葉に依存しないということです。言葉で伝わっているものは、たいてい「ウソ」だ。ウソと書いたのは、宝箱という意味です。残っている言葉は宝箱なんです。だから分からない人には分からない。分かる人には分かる。そしてもちろん、分かったフリする人がいる。そういう人は、宝箱の開け方を知らないのに、中身を見たことがあるような顔をして、「この中身は素晴らしいのだよ!」といって押し付けてくる。いやいや、アンタ開け方知らないっしょ?みたいな。人と人が交流するときって、「交流しよう」と思えば思うほど気が停滞すると思うんですね。お互いが「自然」であればあるほど、気が巡る。交流が深まる。意図のある交流は気持ちわるい。誰々さんと仲良くしておこう、とか今後のために、とか金がありそうだから、とか人脈を広げよう、とかなにか相手を手段にするような交流はどこかしら不自然で、気持ち悪いんですね。まあそれは、そういった<会社社会>の中に上手く適応できない自分が悔しくて言っているだけなのかもしれません(笑)そもそも「お世話になる」っていうのがよく分からないんです。恩知らずな奴だと思われる方もいるでしょう。でも逆に、「誰かの世話をした」という記憶もまったくないんですね。「せっかく世話してやったのに、挨拶にも来ない」とかを思ったことがない。あんまり日本的義理人情というのが分からないんです。ああ、だから「教育」という言葉にもどうも馴染まないのかもしれませんね。うん、話がそれましたが、教育っていう言葉は嫌いだよってお話。
2007年07月11日
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「もうダメだ」と思った瞬間がチャンスなのだ!!
2007年07月10日
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息を整えることも意識を整えることも姿勢を整えることも(=筋肉の過緊張を解くことも)けっきょくは同じことなのだ。どれかひとつ、得意なものを整えればすべてがよくなる。しかしそれにしても意識したこと(つまり意識が固まってしまったこと)というのは、いつもうまくいかないものだ。いちばん大事なものは、たわいもないものがいい。仕事ができるようになりたい勉強ができるよいになりたいモテるようになりたい、などなど、人にはいろいろな欲望があれど、結局、それらがまっとうに叶うためには、それを目的にしてはいけない、ということ。たとえば、人のため社会のためにとか心から楽しんで働いていたら、自然と仕事ができるようになる、とか。勉強を好きになって、知識を吸収することが喜びになって、自然と勉強ができるようになったとか。自分を磨いて自信がついたら、自然とモテるようになったとか。幸福をもとめて幸福になる人はいない。利他、というか邪念のない心だよね、意図がない心、ぱっとしたいことをする、その素直さ(勇気)で行動した「結果」、幸福が訪れるという図式があると思うんです。まとめてしまえば、幸福はかならず結果であるということです。なにかを求めるときは、たぶんボンヤリと求めるのがいいのです。ボンヤリとほしいものを思い浮かべ、そして地道に行動すること。思いばかり強くても、何にも手に入りません。感情を言葉でおさえこむのは、泥棒に「待てー」というようなものだ。待つわけない(笑)腹が立ってしかたないときに「怒りよ静まれ」と思っても、静まるわけない。感情は、身・息・意のいずれかを整えることによって、自然と収まっていくのです。なんだか話があっちこっちしてしまいましたが、目的は間接的に達成することが望ましい、というお話でした。いかん、まとまりがないなあ。
2007年07月10日
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いまぼくが思っている「正しい骨盤の角度」というのがあって、それは思いのほか難しいのだ。立ってやると難しい。骨盤は癒着している筋肉群が多く、単品で動かすのが難しい。骨盤を丸めた(後傾)させたつもりが背中も丸めてしまう。背中はまっすぐなまま。骨盤のみを丸める。その正しい「型」がとれれば、呼吸は正しくなる。仙骨で呼吸できる。呼吸が上手くいかない場合、型が悪いのだ。腰が定まっていない。据わっていない。腰をすえる練習は、すわってやるのがいちばんやりやすいと思う。重力の影響をうけないようにおもわれがちな仰臥の姿勢では、意外に腰に力が入りやすい。腰が決まれば、自然と呼吸も整う。意識しすぎることもなくなる。「肚で呼吸しよう」を意識しすぎると怒責がおこる場合があるから注意が必要だ。ぼくは、呼吸していて足先がホカホカしてきたら正解、という基準を持っている。しかしこれはあくまでぼくの基準であるから、読者の皆さんは、ご自分の方法で「正しい呼吸」を会得されたし。呼吸はあぶない側面があるので、まずは意識よりも(腰の)形を整えるが先決と思ったほうがよいでしょう。
2007年07月08日
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悟りは、合気道の技と同様、再現性が必要だ。ああ、できた!と思う瞬間がある。ああ、そうだったのか!と悟る瞬間がある。やはり感謝の心が大切だ!自分のことばかりに気がいってたな。邪念にとらわれていた。視界がせまくなっていた。そんなことに気がついて、胸の中がぱーっと晴れわたることがたまにあります。(その気づきは日記に書いています)しかし、すぐに戻る。腹が立つ。憎む。自分ばかりよくなろうとする。王様気取りになる。呼吸が浅くなる。ぶつかる。「気づいた」はずの自分はどこへやら、気がつけば元通りの「俗な自分」がいて、またうまくいかなくなっている。そして思う。「これじゃ前と何も変わってねえ」こんなことを繰り返している気がする。それは再現性がないからだ。悟りには再現性がないといけない。再現性をもつことによってはじめて、それを習慣化することができ、そのうちそれは習慣でもなくなり、当たり前になっていく。あることが「当たり前」になってはじめて次の段階にすすむことができる。再現性を持つには、ポイントを知らねばならない。日本語で言えば「急所」である。その急所がわからねば、「悟り」の状態に自らの意志でもどることができない。つまり偶然を待つしかない。それでは成長がないのだ。悟りに再現性を持つ、ということは心をリセットする技術を持つ、ということだ。それは難しいことではない。酒を飲むこと。カラオケで歌うこと。タバコを吸うこと。好きな音楽を聴くこと。多くの人は、自分なりの「ストレス」解消法を持っている。しかしたいがいは、自分の外部にたよるアウトソーシング的なストレス解消法なのだ。だからストレスを解消しようとすればするほどそれに依存していく。ぼくがやろうとしているのはすがすがしい気分のとき、「自分がどうなっているか」を仔細に観察しそのポイントを探ることだ。「すがすがしさ」を心に見ず、身体の状態にみる。これは「こころはからだ」という感覚だからできることだ。すがすがしい気分のとき、身体はどうなっているのか呼吸はどうなっているのか意識はどこに置いてあるのか、それらを観察し、見極め、その身体をとりもどす技術を極めたいと思う。目下のところ、それは肚の操作である。肚の操作で自分の気分をコントロールする。肚の操作はつまり呼吸の操作だ。息を操作することで「生き」をイキイキさせる。これを今、研究しているのであります。
2007年07月08日
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そんなに計算せんでええ頭つかいすぎたらバカになるそんなに計算せんでええこざかしいことが なによりも愚かみんな悪気はないんだよお前を傷つける気はないんだよ偶然を恨んでどうしようというのだテクニックで生きようとするななにかを分かった気になるな意地悪な人は捨ておけ見下す人はほおっておけこざかしいやつほど 嗤いたがる笑わせておけ勝手に計算させておけバカにさせておけおてんと様はちゃーんと見とる空の上から いっつも見とる神様は ぜったいにお前を嗤ったりしない神様は やさしく見守ってくれとるだから まっすぐ生きてみぃもっと 正直に生きてみぃ むずかしいことは なーんも要らんのんじゃ勝とうとせんでええ負けたってええいんや 負けるしかないんじゃ神様の前ではなみんな誰しも 神様には勝つことができんのんじゃだから こざかしい計算だけはやめんしゃいこころ大の字にして寝っころがっとりゃいいんじゃこころ大の字にして寝っころがっとりゃいいんじゃ
2007年07月07日
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ああ、そうか。言葉で捉えようとするから、勝ち負けが生じるのだ。勝ち負けというのは幻想なのだ。
2007年07月07日
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俺だけでなく世界中からプライドというものが消えてなくなったら、いったいどうなるのだろう?プライドがなくなったら、勝ち負けを争う心がなくなるだろう。なぜ勝ち負けを争うのか。それはもともと生存本能のはずなのだ。「負け」が死を意味するとき、そこに勝ち負けを競う心が生まれる。俺たちが勝ち負けにこだわるのは、負けが死を意味していたときの、たんなる名残ではないのか?プライドの高さはもしかすると死への恐怖に比例するのかもしれない。ゆがんだプライドとまともな自尊心の違いはなんだろうか。相手を尊敬しつつ自分を貴く感じるのがまともな自尊心?自分だけが偉いというのがゆがんだプライド?どうやってこのゆがんだプライドと戦っていけばいいんですか?自分を傷つけ、他人を傷つけるゆがんだプライドはどこから生まれてきたんですか?いま、俺がここにいる当たり前の「奇跡」をもういちど考えてみないか。ああ、タイトルと内容がかなりズレてしまった・・・。
2007年07月07日
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うつくしく なまめかしいからだに出会うとついつい目がいってしまうがおそらく当の本人も またわたしもそれがいつしか そしてかならずおとろえるということをまるで知らなかったというくらいにわすれているのだ
2007年07月07日
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