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ちからを集めるといふことの大事。腰に力を集約させる。脊柱起立筋群はなるべく使わぬこと。(腰を痛める)腸骨→仙骨と力を集める。呼吸はできるだけ下へ。それが何になるのかと言われると困るがなんかいい気がするのだ。修行は無功徳。なにかのために修行するのではない。
2007年04月30日
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なんだか人生がうまくいってないときの法則をまとめてみました。1.自分のことばかり考えている 自分のプライド・名誉・立場。 自分の喜び・しあわせ・うれしさ。 とにかく「自分がよくなりたい」という思いにとらわれるとき、 皮肉なことに、かならずうまくいかなくなる。 自分第一主義のまま うまくいかないのを反省しても、自己嫌悪するだけ。 自己嫌悪も、「自分大好き」の一部である。 自己嫌悪には成長という観点が欠けている。 「俺はダメだ」というセリフのなかには、 「誰か俺のことをステキって言ってくれよ」という 甘えがひそんでいる。 本当に「これではいかん」と思ったら、 その人はさっそく心身を鍛え始めているはずである。 誰かに理解してもらおうと思ってはいけない。 「俺のことは誰もわからぬ」とひねくれてもいけない。 理解してくれても理解してくれなくてもいい。 その自由さを持ちうるかどうか。2.将来のことばかり心配している 未来は永遠にやってこない。 未来は永遠に未来だ。 今を忘れたら、未来も意味がない。 まず「今」ありき。 なぜ、心配し不安になるのか。 それは将来、自分が精神的に身体的に傷付くかもしれないことがあり、 「もしかしたらそれから逃れることができるかもしれない」 という思いがあるから、不安になるのである。 覚悟し、自分が傷つくことをいとわないと決すれば、 自然と不安はなくなっていく。3.自分の過去の汚点を結んで自分史を作っている。 歴史というのは、いつも「ウソ」なのだ。 怒涛のごとく流れきた時間を ある視点で切り取ったものが歴史である。 だから歴史はいくらでも作り変えることができる。 「自分史」においても、取り出す「ポイント」によって 自分の人生はバラ色にもなるし、暗闇にもなる。 誰しも人に愛されたことがあったろう。 また誰かに嫌われたこともあったろう。 計画し、うまくいったこともあったろう。 だが、準備が足りず失敗したこともあったろう。 願いがかなったこともあったろう。 叶わずに、涙をのんだこともあったろう。 要は、どれだけ「良かったこと」を思い出し、 それを結ぶことができるか、である。 その意味では、「事実」などクソ食らえなのだ。というわけでこれの反対のことをすればちょっとはスランプ脱出できるかも?ということです。
2007年04月30日
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不安、心配、絶望・・・。ぼくらの頭の中の暗闇。なぜ僕らは絶望するのか。それは、未来だ。未来という幻想のなかに、絶望が生まれる。後悔先に立たずというが、心配あとに立たず。ものごとが来たりくる前にこそ不安と心配がある。この低性能な頭で描く誤った未来。それが絶望。いかようにもねじれる未来に、間違った永遠性を付与する。脳は変わる。身体は変化する。僕らは、変わる。そして適応する。たとい苦しい日々があったとしても。未来を思い描くな。未来に永遠性を付与するな。僕らは、変わるのだ。
2007年04月29日
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今日も稽古メモです。自分用です。肚で統一するという事。肚は張ることが大事。身体を風船と捉える。肚を最大限に張るために肚を締める。肚で身体を統一する。ここから「統一力」が生まれる。これは物理的に大きな力だ。というか、効率のいい力の出し方だ。重い荷物を持つ。重い台車を動かす。そのとき肚の力を使う。私は武術家ではなく本屋だが、さいわいにも重いモノを扱うことが多いので、いろいろな発見がある。重い武器は良い、という意味がわかったような気もする。筋力鍛錬であり、筋力鍛錬でない。まあ重いモノがなくても指を開くことも鍛錬になるだろう。指は肚を鍛える「方便」なのだと思う。肚の力というのは、なんというか身体の、力の、滞りがない感じ。道路で言うと、全部のクルマが一定の車間距離を正確に保っている。急ブレーキや急発進がない。みんな一緒に動く。肚の力を漢語で言うと、「統一力」とか「総合力」「全体力」「固定力」という言い方がしっくりくる。肚は「膝の抜き」とも関連する。膝は抜くが、体が落下してはいけない。落下する分を相手に伝える。統一されているから、相手(モノ)に伝わる。さて、そんな「肚の力」ですが、これは僕の求めているものでもなんでもない。しかし通過すべき過程だとも思う。早く「肚の力」を捨てたい。「脱力」しちゃいかんということも分かったような気がする。しかし「脱力」の過程も大切だったように思う。身体が変わっていきます。これはロマンです。こんなところに、永遠があるなんて。
2007年04月28日
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自然なんて嘘だ。「あるがまま」なんてナメている。無理することが何より大事だ。不自然であることが肝要だ。嘘。嘘だ!嘘をつけ!ホラをふけ!正直なんて甘えだ。素直という名の弱さだ。「素の自分」?ふざけるな。そんなものが何かの役に立つというのか。ラクするだけで変化できるのか。成長があるのか。自分を認めるな。自分を否定しろ。変わり続けろ。それが、命だ。
2007年04月28日
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今日は免許の更新に行ってきました。よくわかんないのですが警察署に行ったら、6月の講習が予約できました。それを受講すると新しい免許交付だそうです。交通安全協会?みたいな団体に加入させられそうになったので、拒否しておきました。さて、DVD日記です。「私の頭の中の消しゴム」★3つくらいでしょうか。最近アルツハイマー系のDVDをよく観てますが、「明日の記憶」が良すぎて、なかなかそれを超えるのがないです。「AIKI」ウワサの「AIKI」観ました。加藤晴彦主演。まあまあ面白い。最後の方だけなぜかコメディーなんですが。それはそれで笑えました。っていうか技とかマニアックすぎ。俺にとっては「常識」のことばかりでもあれはシロウトにはわからんでしょう。アイキジュウジュツの師範を演じてた人はうまかったなあ。師範っぽく見えるもんね。袴の履き方とか。最後の「葦原さん、AIKIです!」には吹き出してしまった。加藤晴彦は道着の着こなしからして、あんな暴漢相手に勝てるわけない。リアリティなかったなあ。でも面白かったかな。大東流に目をつけた人、偉いなあ。以上です。
2007年04月27日
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今まで姿勢姿勢と言ってきたが、最終的に身体の統一ができてしまえば、とくに重力線に対する角度にこだわる必要はないのでは?という考えもでてきた。ぐらぐらする骨をバランスを取りながら立つのもよいが、そんなことよりも身体の内外から統一してしまえば、ピッと立てる。今後はこの方向でやってみよう。
2007年04月27日
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僕は今日発見した。メンチカツとハムカツは違う食べ物だということを・・・。
2007年04月26日
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はい、お次は「博士の愛した数式」なかなか面白い。あの「博士」に会ってみたいな。話が合いそう。合気道と数学は似てるなと思いながら見ていた。それから「日本沈没」けっこう面白い。あの話を「リアル」に思わせるところは苦労したんだろうなあ。あとは「頭消しゴム」と「メトロ乗り」です。
2007年04月25日
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身体運動の理解をさまたげるもののひとつに骨盤の構造の複雑さを挙げることができるだろう。骨盤の構造は美しいほどにあまりに巧妙で、また身体の内部にあるためにモデル化しにくい。モデル化するということは役割を抽出することだが、その切り口が多様すぎて、ある側面から骨盤を捉えると、他の側面が見えなくなり不全になる。だからと言って全体で捉えるには複雑すぎる。イメージで捉えることができないから、感覚を磨くしかない。感覚が磨かれてくれば、自然とその構造を理解できるようになる。しかし感覚を磨いても、それを知らない人には伝えることが出来ない。なんというもどかしさ。骨盤の構造を発明した人は天才だと思う。発明じゃなくて進化だ、なんて野暮なツッコミはいらないぜ。
2007年04月23日
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ちょっとお話してました。実話です。「好きな花は何?」「ん~、ガーベラかな。」「ガーベラって俺、知らないなあ。どんな花?」「えーっとぉ、すっごいキレイな花!」「・・・。」 国語を調教してやらねば・・・。
2007年04月23日
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あんまり速くないのに優勝したと周りに言いふらす・・・見栄はる・シューマッハ。Georgeの、情事。
2007年04月22日
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統一体とか自然体とか「一本になる」とかまあ「身体を統合する」といった意味の言葉はたくさんありますが、その術語(流派の専門用語)を使ってしまうと、混乱を招いたり、また批判ととられたり面倒ですから、ぼくは「適応体」という言葉をつくりました。言葉は作りましたが、もちろん中身に関しては真新しいものを作ってはいないわけでして、先賢の言葉をもとに稽古を続けた結果としての「自分の身体」を表現してみようということです。だからまったく間違いであることもあるし、もしかしたら先賢のいうことを少しは体現できているかもしれません。それはわかりません。さて、適応体というのはなんでしょうか。これは、極端に言えば、どんなことが起きても動じない身体のことです。つまり環境に対して対応しない、というのが完全に適応することなのです。これは身体の問題でもあるし、心の問題でもあります。心身不二。動じない身体には動じない心が宿るのです。適応体は指より起こります。分かりやすく言うと、指から身体を統一していくということです。指(のびる)→小手(のびる)→肩(落ちる)→肚(満ちる)→けつ(開く)→足(満ちる)というふうに統一させていき、適応体をつくります。作りますといっても、ぼくももちろん不完全です。今日、その片鱗を感じたので、今後こうなるであろうという予想も含めて書いています。今日は電車のゆれに対してシッカリ立っている自分がいて嬉しかった。かなり意識的に作っていますので、ぜんぜん自然体じゃないです。でも今はそれでいいのだと思っています。無理もいつか自然になる。脳と身体をゆっくり変革していくのです。<ラク>のなかには進歩も変革もありません。以前はぼくも脱力体と言っていいような上虚下虚の状態を作ってしまっていましたから、なかなか技はかかりませんでした。まあ上虚については学べたので良しとします。<ラク>に立ってはいかん、ということです。エネルギーをためる。「充実して立つ」ことが大事なのだと最近は思っています。だから適応体は蓄重体とも言えるとも思います。まだなんだか曖昧な理論です。もうすこしてキレイに体系化できそうです。まあできてもすぐ壊しますがね。しかし、ちょっとは体系化しないと性格上なかなか稽古研究が進まないのです。スッキリしないと思考はできません。また「発見」したらご報告します。
2007年04月21日
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ぼくらは、誰かのことを「良い」とか「悪い」とか「好き」だとか「嫌い」だとか評価します。また同時に誰かから評価されているわけです。「あなたは良いね」「あなたは素晴らしいね」そう言われると、嬉しくなります。ぼくらの心は、意外にというか、案の定というかもろいものです。「他人の評価を気にするな」「自分で自分を評価しろ」などと言われたりしますが、どうしても他人からの評価というのは気になるものです。他人の目線を気にしないフリをするのはカンタンですが、他人の目線を気にしないのはよほどでないとできないと思います。「あなたはよい」と言われれば「そうかな?」と思うし、「お前はダメだ」と言われれば「そうかな?」と思ってしまう。一人ならまだしも、20人くらいに言われたら、「そうに違いない」と思ってしまっても不思議ではない。ただ、思うのはその「評価」が力を持つときというのは「自分がその人を認めているとき」だけなのです。たとえば、10代のころ部活の先輩から「うまい」と誉められましたが、その先輩がぼくより下手だったので、嬉しくなかったのです。また学生の頃、教授に誉められたことは今でも強く覚えています。その先生が偉大な人だと、ぼくが思っていたから、余計に嬉しかったのです。最近では友達が、会社の後輩に「かしこい!」と言われてキレたという話。「かしこい」というのはホメ言葉ですが、後輩に言われても嬉しくないということです。これは面白いことです。つまり、自分が相手を認めていなければ、どんなに誉めてもらっても嬉しくないということです。だからまずは自分が誰かを認めることだと思うのです。たぶんぼくはそういう基本的なところを何か勘違いしていると思うのです。最近は自分の我が強いんだか弱いんだかわからなくなってきました。今は修行の時代なのだと思います。「人知らずしていきどおらず、また君子ならずや。」何度もそんな言葉を反復しています。
2007年04月21日
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自分メモを残します。指と(肩と)肚の関連。張るということ。抗重力筋のエキセントリックな収縮。やさしく歩くということ。重力を蓄えることと放つこと。なにかもうひとつキーさえあれば。
2007年04月20日
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Gパンを買いました。わーい。今から「イルマーレ」を見ます。
2007年04月18日
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最近のことですが、一夜にして家の前が田んぼになっていました。おかげで毎晩酒が飲めない人の大合唱です。下戸の大合唱です。ゲコゲコと大合唱です。カエルがたくさんいます。オタマジャクシはもう十分です。さて、昨夜は「明日の記憶」を見ました。59です。号泣です。言い過ぎた。ほほをしたたるくらいです。とにかく面白い。いつになっても「オヤジの本気」はカッコよいのです。女の強さ。その涙。なんでこんなにDVD鑑賞しているのか分かりません。ただ夜になると、無性に見たくなるのです。単数用か複数用かという意味で、本とDVDは性質が違うんだなあ。
2007年04月17日
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地震でした。揺れました。震度5強?お店の中ぐちゃぐちゃです。2階は閉鎖しました。無念・・・。けっこう偉い人たちが休日なのにヘルプに来てくれました。直してもらった途端に余震がきてまたやり直しです。無念・・・。ともあれ怪我人がでなくて本当によかったです。それだけが救いです。余震が怖いです。家の中の本棚はなんとか無事でした。今日は寝る場所を変えます。さすがはカミナリよりもオヤジよりも怖い地震だぜ。一寸先は闇とはこのことか。何が起こるか、わからないね。
2007年04月15日
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今日は朝から銭湯に行ってきました。昨日、風呂に入らなかったので・・・。そのあとひさしぶりにチャリンコに乗って、買い物に行きました。2ケツでおケツが痛かった。昼はキムチ雑炊にしました。インスタントの。そのあとDVD(スターウォーズ)を見ようと思ったのですが、流しているうちになんかよくわからなくなり、まあいろいろあって、なしくずしになりました。それから、万代書店という古着やらなんやらが売っているところに遊びに行きました。Gパンを買おうと思いましたが、いいのに出会えませんでした。オサレなGパンほすぃ~。(←ウザ)戻ってきてから、キムチ鍋をやりました。キムチ鍋クソうめー!雑炊までたっぷり食べました。本日2杯目。キムチ鍋食べながら、「フラガール」見ました。なにあの映画。面白すぎ!!松雪恭子うつくしすぎ。姿勢が、たまらん。しずちゃん面白すぎ。名わき役。ちなみにキムチ鍋の名わき役は男前豆腐(黒)でした。蒼井優の魅力を初知り&納得です。今度は蒼井そらの魅力を調べてみようと思います。あくまで調べるだけです。そんな休日でした。そんな、休日でした。
2007年04月14日
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「氷の微笑」というDVDを見ました。たしかに氷の微笑でした。R18でしたが、どこがR18なのか不明でした。最後も釈然としないまま終わりました。でも夜中の12時ごろから鑑賞するってのはなんだか粋だなと思った。いま、手元にシュガー&スパイスがあります。砂糖と香辛料があるんじゃなく、そういうタイトルのDVDがあるということです。時間があったら見ます。スターウォーズも借りてきました。時間があったら見ます。それからフラガール。なんでこんなにレンタルしたのか、魔が差したとしか思えません。さっき、パスタ作りました。コーンと木の子のバターしょうゆパスタです。この前、炒めゴハン作りました。ネギと鳥肉をゆず胡椒でチョイチョイと。そんなつもりはなかったのに、なぜかナシゴレン的なものができました。現在の積ん読は5冊くらいです。でも実際は積んでなくて、ぜんぶカバンに入っています。出かけるときに持っていきます。本がこの世になかったらたぶんぼくは死んでます。あ、でもたぶん言い過ぎました。死にません。映画も音楽も本にはかないません。じゃあ本と合気道は?と言われるとそれは気分によります。なんだか自分の生活を書いてみました。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。
2007年04月13日
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鍛錬と訓練と稽古。こまかな言葉の定義は置くとしても、考え方として何種類かはあってもいいと思う。まずは鍛錬だが、これは肉体を鍛えることだ。必要な部分の筋肉を鍛える。つよくする。同時に「使わない部分」の徹底的な不使用も鍛錬にふくめていいだろう。それから訓練。これは鍛え上げた身体の運用法の練習だ。訓練の「訓」とは「ならす」「なれる」の意。精妙さが要求されるが最終的には無意識というところに持っていく。そしてそれらはつねに「稽古」でなければならない。稽古とは「いにしえを考えること」。つまり自分のやっていることが理にかなっているのか自問を繰り返しながら鍛錬と訓練を続けること。そんなことが大切なのかなと思った。
2007年04月13日
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ほんのちいさなことでいいと思うんです。ちいさなことにこそ大切なことが宿るんです。たとえば、誰かのことを思って米をすこし固めに炊くとか風呂をすこし熱めにいれるとかお返しのできないくらいほんの ほんのちいさな おもいやりそんなことがどれだけ大事なことかちいさなことを見逃すようではおおきなものを見つけられるはずもない
2007年04月12日
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適当に生きることだけはできない。いろいろ嫌なこともあると思う、この先。へこんだり、くじけたりやけっぱちになったりもすると思う、この先。でもね、やっぱり適当に生きていくことだけはできないなと思った。たとえ間違っていようが、うまくいかないことがあろうが、そしてそこに苦しみがあったとしても適当に生きることよりは何倍もよいことだと思う。ぼくは真剣に生きているだろうか。その問いだけは忘れないようにしたい。
2007年04月12日
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じゃんっ!行ってきました。昨日はいわゆる社内出張というやつで、うちの会社の他の支店で働いてきました。人手が足りないということでヘルプに行ってきたのです。で、お恥ずかしいことにワタクシももう社会人3年目なのでございまして、まあちょっとはカイシャのことも分かってきた部分があったりするわけです。で、それだと、他の支店に急に送り込まれてもなんとか働けるんです。店の作りやらなんやらが少し違ったりしてもちろん戸惑う部分もあるんですが、だいたいは分かる。問い合わせをうけても、すぐに場所を案内できる。(知らん商品もありますが・・・)さて、これは何故でしょうか?なぁんてクイズ形式にしても仕方がないですね。というわけで自分で答えます。それは、その支店と自分のお店を照らし合わせて考えているからです。当たり前じゃねーか、なんて言わないでください。当たり前なことをゆっくり見ることでまた見えてくることがあるのです。さて、たとえば「辞書ってどこにあるの?」という問い合わせを受けたとします。普通なら、初めてきたお店なんだから、場所なんてわかるわけないですよね。いきなり分かったら超能力者です。だけど僕には分かるわけです。なんで分かるかっていったら、「うちのお店で言えば辞書はどこにあるだろう」と考えるからです。そうすると自ずと答えは出てきます。あとは、あたかも場所を「知っていた」ような顔をしてお客さんに案内するわけです。一発で見つからないときは、「あれ、前はここにあったのにな」とボソっと言います。これはここだけの話です。アナタだけに教えます。おっとどうでもいい話になってしまいました。で、今日言いたいことっちゅうのはあれなんです、「自分というものがあるから、ものを見ることができるんだよ」ということです。ここでアレ?と思った人は鋭い。僕は以前「自分なんてクソッタレのチンカス以下だ」ということを言っていますよね。なのに今日は「自分があるからものを見れる」なんて言っている。そう、ここがポイントなんです。自分なんてのは、クソッタレです。それは間違いない。しかしそのクソッタレを通すことでしか、この世界を見ることはできないということです。ここに大いなる矛盾があります。自分というのは、どこまでも便利な存在です。自分が「完成」すればするほど判断するのがカンタンになります。昨日の僕はそうです。初めて来た、まったく知らない支店で商品案内ができるというのは、自分―つまり今までの経験―を「活かし」たからです。その意味で、自分というのは便利な存在なのです。しかし「自分の経験を活かす」というのは同時に、ものごとを透明に見る目を曇らせてしまうことでもあるのです。「透明に見る」というのは、「それそのものを見る」ということです。「くくらない」ということ。目の前にいるバンドが「ヴィジュアル系」だ、と思うのは「それそのものを見ていない」ことになります。「くくっ」ているからです。ここにいるのは「ラルクアンシエルだ」と思うのが、「透明に見る」ということです。(分かりやすい説明の例ですが、これも実はウソです。 目の前の存在にいつも名前はありません)話が長くなったのでまとめましょう。要は、自分というものはクソッタレであるけれども、それを通すことでしか世界を捉えることはできない、ということ。また自分という便利なものがあるからまっとうな生活が営めるというのも事実です。しかれども、その自分というものにあまりに頼りすぎることは自分の価値観だけを信じることとなり、見識もせまくなるし、孤立するし、アタマも固くなるし、けっきょく世界を狭めてしまうことになるよ、ということなんです。自分というのは諸刃の剣です。ああ、今日も長くなってしまった。最近はコメントがなく寂しいです。だれか何か書いてください。
2007年04月12日
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もしかしたらだけど、勘(感覚)違いかもしれないけど、「手の内をきめる」ことで、肚がきまるということもありえると思う。手首→前腕→肩→肚という感じで。要研究。
2007年04月11日
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つま先で歩くこと。肚を意識できる。手の内。小指がはじめ。小指が支点。親指の伸び。姿勢のこと。一本になる。伊藤昇先生の言われることを意識する。感覚は、どこまでも。
2007年04月09日
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価値観というのは面白いと思います。言ってみれば価値観というのは「ものの見方」ですよね。もっとわかりやすく言えば、「何が大事で何が大事でないか」ということです。それで面白いのは、みんなそれが違うということです。それぞれが「〇〇が大事だ。××はどうでもよい」という、何が大事かということについてランク付けしています。ある人は〇〇が大事だといい、ある人は××が大事だと言います。このことを価値観が違う、と言います。とまあ、こういうふうに文章で冷静に書くと「そりゃ当たり前だよな」と思うわけです。ところがどっこい、いざ誰かと話してみると、「いや、違う。××よりも〇〇のほうが大事なんだ!」と××を大事にする人に言ってしまうわけです。これを「価値観を押し付ける」と言います。これは熱帯に住む人に毛皮のコートを着せたり、ツンドラ地帯にカキ氷を売り込みに行くようなものです。たしかに極寒の地域では毛皮のコートは不可欠でしょう。また日本の夏にはかき氷は欠かせないのです。しかし暑い地方ではコートは必要ないのです。湖に分厚い氷が張っているようなところでは、かき氷は用なしなのです。自分はそんなことくらい分かっている。そんなバカげたことはしない。、と思っていても実際にはたぶんやっているのです、価値観の押し付けを。たとえば、「お涙ちょうだいもの」だって、けっこう価値観を押し付けていたりします。「親子愛」だとか「家族愛」だとかね。僕は両親と妹弟と長いこと過ごしてきた人間だから、そういうものが大切だと思っています。でも、幼くして親を亡くされた方なんかは、「別に親なんていなくたって生きていけるよ」と思っているんじゃないでしょうか。そう本人が思っているのに、「親がいなくてかわいそう」だとか「親がいないから〇〇な性格なのだ」だとか、僕らは自分の価値観で判断しているのではないでしょうか。(そういう人に限って「自分は心優しい」と思っているものです)これも、もはや価値観を押し付けているのと同じなのです。「親というものは大事なものだ」という価値観を絶対視してしまっているのです。思い込みもはなはだしいのですが、マスコミに踊らされた「世間一般」がそういった「情」をあおるため、ますます自分を正当化してしまったりするのです。いいですか、価値観と言うのは自分で決め付けているもので、いくらでも、というのは言いすぎですが、少なからず変えることが出来ます。また自分の価値観を変えることができなくても、相手の価値観を「認める・ゆるす」ことはできます。あらそいというのは、相手の価値観をねじまげようとしたときに生じます。ぎゃくに「相手をみとめる」というのは「相手の価値観を認める」ということとほぼ同一なのです。価値観というのは価値「感」でもあります。価値があるのではない。価値がある感じがするだけなのだ。しかし、その「感じ」が「いきがい」「やりがい」になったりします。つまり価値観(感)というのは、その人がその人であるためのひとつの考え方、ということなのです。それは個々のものであり、普遍性をおびたりはしないのです。もちろん他の誰かと共通項を持つことはあります。(これがいわゆるトモダチというものになります)僕らは自分の価値観が認められると喜び、自分の価値観が認められないと怒りと憎しみをおぼえます。僕らは色んな経験を重ねながら、自分の価値観をつくっていきます。同時に、自分の経験でしか価値観を作ることはできない。人の経験で価値観を語る人の言葉は、重みがない。自分じしんが経験したことで、自分じしんの価値観をつくりあげる。しかしそれは、誰にも押し付けることは出来ない。「〇〇が大事だ」、はあくまで「僕にとって、〇〇は大事だ」でなければいけない。それは自分の価値観を知る、ということです。自分の価値観を知るから、相手の価値観を認めることができます。自らが「正しい」、つまり自分の価値観が、世界のどこでも通用すると思ったときに、あやまちが起こります。たしかに幼稚な価値観も、円熟した価値観もあると思います。しかし、本当に大切なのは価値観の優劣ではなく、誰しも自分の価値観にしたがって生きている、ということを知ることではないでしょうか。価値観のない人間などいない。たといそれが支離滅裂で、一貫性のない価値観だとしても、「間違っている」というわけじゃないんです。そういったことに気づくのが他者を理解する第一歩になるのではないかと思う。傲慢で不遜で自分勝手な僕が、最近気づいたことを語ってみました。おしまい
2007年04月08日
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「涙そうそう」を見ました。レンタルDVD。・・・。けっきょく何が言いたいのかわからないまま終わりました。なんでツマブキ(にーにー)は死んじゃうんでしょうか。命粗末だな~。まさみは可愛いが、標準語でしゃべったほうが良いと思う。そんなDVDを見た午後でした。そのあと合気道の稽古もしました。ちゃんちゃん。
2007年04月08日
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ひさびさに畳で稽古してきました。思ったこと。どーやったって後輩の伸びの方が早い!なんともならん。認めるしかない。地道に稽古を続けるしかないわな。地道に、正直に。そーいえば、「開いて閉じる」という技法を思いつきました。閉じてから、尾骨中心に動きます。そうすると、ちょっといいようだ。今日は空気投げを決められました。
2007年04月06日
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ぼくが思うに、悪人というのは、地獄へ逝くんじゃないんです。そもそも「悪人」という考え方じたいが主観的というか自分本位で、よくて世間様に裏づけられた「常識」にもとづいている。悪人は地獄に落ちる、というのは自分は天国にいけるという思いです。悪人という人がいるわけじゃないんです。「あいつは悪人だ」と思っている自分がいるだけです。悪人という観念がなくならない以上、なにかを恨んだり憎んだりすることはなくならないでしょう。誰かを呪うことは不幸です。誰かを祝うことは幸いです。呪われることが不幸で祝われることが幸いなのではないのです。自分に対して誰が何を思おうが、関係はありません。とはいえ、これが理想論だということも知っています。そんなに簡単に人を恨んだり憎んだりする気持ちがなくなるわけではない。僕も、人をねたみ、人をうらみ、人を憎むこともあります。しかしそれが正しいことだとは思っていない。正しくはないけれど、仕方なく憎んでしまっている。それはそれでよいのだと思います。正しいと思ったら、そこから過ちがはじまります。悪人は地獄へ落ちる、という考えからは「自分が正しい」が導き出されてきます。それは気をつけないといけない。そういう意味で、僕は「悪人は地獄へいくわけではない」と言っているのです。
2007年04月06日
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イメージするのをやってみたら世界が変わりました。自分が見えた瞬間、つまり自分が消えた瞬間、「すべての苦しみは『自分』にあったのだ」ということがわかった。それで、ムカつく人などいないのだと思った。そうではなく、ムカついてしまう自分がいるだけ。嫉妬するということは、自分のことばかり考えていることだと思った。失ってしまう不安というのも、自分というものにとらわれているからだと思った。「自分」さえいなければ、周りの評価が気になったりはしない。「理解してくれ」から「理解してくれると信じている」「理解したい」に変わった。(「理解してあげよう」ではないことに注意)一生懸命という大義名分でムキなっている自分がいた。目標を持つのは大事なことだが、楽しむことを忘れたら、意味はない。考えてはいけない。観察してはいけない。「こうしよう」と思ってはいけない。なにもしないことが合気道の究極だとしたら、なにも考えないことが禅の奥義なのかもしれないと思った。自信というのは、自分を信じること。信じるというのは何もしないことだ。つまり自分について、なにも思わないこと。自分というものを忘れていること。自分というものがいかにどうでもいいものかということを知っているということ。それが自信なんだろう。と、偉そうに書いたのですが、別に開眼したわけじゃないんです、僕。やっぱりイラッとする人に出会ったりする。カチンとくる出来事がおこったりする。で、そうなると他人を評価しだす。「なんだこいつ。ウザイ」「相手の気持ちがわからんやつだ」「周りが見えてない人だ」しかも面白いことに、イライラの最中というのはこのイメージ法がすこぶるやりにくいのだ。自分にとらわれているうちは、ぜんぜん自分が見えない。カリカリしている自分が見えたときには、もうだいたい怒りは収まっている。まだまだ悟りは遠そうですが、自分をコントロールする指針を得た気がして嬉しい。とにかく「自分」なんてものはチンカス以下のクソッタレのゴミだということです。で、そんなふうな考えで何かが起きるのかといったら、「そんなこと知らん」ということなんです。今夜は長々と書いてみました。それほど自分にとって大発見があったということです。
2007年04月05日
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そうなってくると、たとえば愛するとかそういった一般にプラスに捉えられているものさえも、疑問の余地がでてきます。たとえば、「思い焦がれる」などということです。これは、ちょっと違うかもしれませんが「誰かを『良い』と評価すること」です。これは自己満足なんです。悪いことではないと思いますが、素晴らしいことでもない。あわよくば「付き合う」ということになっても、「思い焦がれる」だけでは、その相手を幸せにするなんてことはできない。(「相手を幸せにしたい」という気持ちも自己満足であることは後述します)それどころか、「手にしたものを失いたくない」という苦しみにさいなまれることになる。けっきょく、「好き」とか「愛する」とかいう気持ちはそれ自体では何の意味もなく、相手が受け取った時点で成立するといってもよいでしょう。これは「ムカつく」の構造と同じなのです。「愛の言葉」があるわけではない。「愛の言葉だと感じる心」があるのです。発信することよりも、受信する方が大事なわけです。だからいかに発信するか、ではなく、いかにうまく受信させるかということに腐心しなければならない。相手を幸せにしたい、というのは発信が強すぎるし、強引で傲慢だし、自分勝手だ。それは「相手を幸せにしたい」という「自分」がそこにいるからです。度が過ぎると、「相手を幸せにしている自分大好き」ということになりかねない。それは単に自分に酔っているだけで、愛でもなんでもない。「幸せにさせられている」方はダイメイワクだったりします。なぜなら「幸せにしているお返しをくれ」なんてことを表現されたりするのだから。やはり、自分なんてものを大切にすればするほどなにもかもを失っていくのです。じゃあ、どうやって自分を消していくのか。それはこのまえ書きましたが、ただ相手になって自分をイメージするということです。言葉による情報や、論理というのは邪魔になるので忘れます。目の前の人を見て「この人は何を考えているんだろう」と思ってはいけません。ただ、相手になることです。ただ、自分を見ることです。客観的に分析するんじゃないんです。イメージするだけなんです。そしたら、世界が変わった。 続く
2007年04月05日
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僕が今日思ったことというのは、他人を評価してはいけない、ということです。なぜなら他人を評価するのはいつも、「自分様」だからです。「あいつはいいやつだ」でも「あいつはイヤな奴だ」でも同じです。他人を評するようなことは、つまり自分というものを正当化することにつながります。「自分」という土台があってはじめて、誰かを評価することが出来ます。ここに不幸の根源があります。自分という本来クソッタレのチンカス以下の存在をものごとを評価する基盤にしてはいけないのです。「自分というものがある」という前提からは、どんなにすばらしい論理を展開してもけっきょく不幸にしか行きつくことはないのです。「自分大好き」も「自分がキライ」もまったく同じことです。大差ない。わかりやすいので、「自分がキライ」からいきますが、「自分がキライ」というのは、ほんとうは「自分が大好き」なのです。やはりここにも「自分様の思想」が隠れている。「自分がキライ」というのはまあ何か性格的な問題か何かで、うまくいかないことがあるのでしょう。なかなか積極的になれないとか言いたいことが言えないとかいつも気を遣ってばかりで疲れるとか、そういうことです。じゃあなんでそうなるのかといったら、「自分が大好き」だからです。自分様が傷つかないように過剰に保護にしているのです。そもそも「気を遣う」ことは自己満足な行為です。気を遣うのは他ならぬ「自分」です。「わたしは気を遣っている」という傲慢な意思があるのです。自分からものを見るので、自分が見えない。「自分大好き」も同じです。自分大好きというのは、「自分が素敵だ・素晴らしい・よい」という評価を下すことです。となると今度は、その「評価」を評価してくれない人を否定せねばなりません。否定しないなら無視する必要がでてきます。「あんな奴のいうことなんか関係ない」この孤立性は、つまり自己満足です。つまるところ、「自分大好き」も「自分がキライ」も「自分」というクソッタレのチンカスにとらわれているだけで、単なる自己満足に過ぎないということです。「俺は素晴らしい!」という思いも「俺はダメ人間だ」という思いも、根源は一緒なのです。見た目が正反対なのでまどわされることも多いですが、けっきょくは自分という存在に執着しているだけです。他人や自分を評価してはいけないのです。ただ、自分や他人がそこにいること。それをゆるすということ。その一点に尽きると思います。話が論理的に構成されてないから大変だね。フィーリングでついてきて! 続く
2007年04月05日
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「自分」というのは、どうにもならないほどクソッタレな存在です。「自分」というのはチンカス以下の存在です。苦しみというのは、かならずそんな「自分」から生まれます。苦しみというものがあるわけではない、苦しみを感じる「自分」がいるだけなのです。(自我だとか自己だとかはムズカシイので今日は「自分」で統一します)たとえば、一般には「ムカつく奴」というのがいるとされています。「あいつはムカつく奴だ」というのはよく聞くフレーズでしょう。(似たようなもので、あの人は「こまった人だ」というのもある)しかし、本当は違うのです。彼が「ムカつく奴」なのではない。「ムカついて」いるのは、他ならぬ僕ら自身なのです。たとえば横柄な態度の後輩がいたとすると、僕らはどうしても、「あいつは生意気だ」といった評価をしたがります。またその評価が「正しい」ことを証明するために(その本質は、「正しくない」ということを「知って」いるがゆえに)「他の誰か」を巻き添えにして、「あいつは生意気だよな」というふうに言います。しかし本当は、「あいつは生意気だ」と感じている「自分」がいるだけなのです。その生意気な後輩を否定したがるのは自分という存在が否定、または軽視されたからです。「本来」、先輩として大切に扱われるはずだったのが予想外にバカにされているような感じがする。「自分」が望む程度の「尊敬」が得られない。そのような苦しみ(怒り)は、自分というクソッタレな存在を大事に大事に無菌室で保護しようとすることから生まれます。大切な大切な「自分様」を傷つける「ムカつく奴」、という論理は、ひどく自分勝手な構造です。こういうことを提示すると、かならずこういう反論が予想されます。「だってあいつは、こんなにムカつくことを言うんだよ!」と。そしてくわえて「ムカつくにきまってるじゃん」とも言うのです。しかしほんとうは他人が何を言おうと関係がないのです。ムカつく言葉があるわけではない。その言葉をムカつくと感じている「自分」がいるだけです。自分さえいなければ、ムカつくこともないのです。苦しみというのは、「自分は正しい」という思いから生まれます。「自分は正しい」というのはたいてい、「相手は間違っている」ということが言いたいのです。「ムカつく奴がいる」というのは、「自分は正しいけれども、あいつは間違っている(人をムカつかせる)から、直せ」ということです。ムカつくのは、自分様が大切に扱われないからでした。次のように言い換えると、なんだか自分が恥ずかしくなったりしませんか。「あいつ、僕ちゃんのことぜんぜん大事にしてくれないんだよ。人間として間違ってるやつだよな。」これが「あいつムカつく」の正体です。だから小学生というのは「ムカつく~」といつも言っているのです。彼らはコドモなので、自分様しか見えてないのですね。はい、長くなってきたので一旦休憩です。まだまだ続きます。
2007年04月05日
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こんな本出ました。
2007年04月04日
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感じたあとに考えろ!まずはまるごとを感じることだ。そして、考える。
2007年04月04日
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「なにかをしてあげる」という意識はもうすでに自己中なのだ。たとえば「愛する」という意識があったら、もうそれは愛するということではない。「何かをしてあげる」という「やさしさ」は「なにかをしてやる」という「たくらみ」と根本は一緒なのである。表層にあらわれる現象はちがっても、あくまで自分が中心というところは同じなのだ。自分が中心ということは、不幸ということと同義である。□■□■□「そうしよう」という意思は邪念だ。「そうである」ということが自然である。邪念はつねに己の心に宿るということ。「誰かを幸せにしたい」というのも邪念である。誰かを幸せにするのは自分であり、それはやはり己にとらわれた傲慢な考え方である。「与え」たり「捧げ」たり、「仕え」たり、「尽くし」たりしても、「なんだか相手のいいなりになっている」「自分ばっかり」と感じるのはおおもとの考え方が自己中心的だからである。□■□■□自己中心的、ということは最大の不幸である。「俺が、俺を、俺に、俺は」は不幸になる口癖である。自己中心的な人間が「愛」や「やさしさ」を口にすると、かならず無理をする。なぜ無理をするかというと、その本心は無理をさせたい(してほしい)からである。人間、自分のすることを他人にもさせたがるのだ。自然な人は、けっして無理をしないし、相手にも無理をしてほしくないと思っている。相手も自分も、「そのままでよい」と思っている。□■□■□「おもいやり」というのは言語を絶することだ。他人の気持ちは論理的にはおもんぱかることができない。「おもいやり」というのはもちろん「重い槍」のことではない。「相手を思いやる」ということは、相手の立場でものを考えることでもない。「おもいやり」とは、ひらすらに相手になることである。それはイメージの世界である。何かを思考することではない。ただ、相手になったと想像するだけだ。そうすれば、そこに自分が見えるだろう。その自分がどうであったら、(相手になっている)「自分」は嬉しいだろうかと考えるということ。そのとき「自我」(自己中心的な自分)は消えている。そして同時にそれにまつわるすべての不幸が消えるのである。□■□■□しかし、その「自我の消えた状態」はなかなか長くは続かない。すぐに「自己中心的な自分」がもどってきて、腹立たしくなったり、嘆いたり、不機嫌になったりする。つまりこれは修行なのである。未熟な人ほど、自我の主張している時間が長い。成熟した人ほど、自我の消えた状態を保っている。幼稚な大人というのはいます、どうしても。そういう人を相手に、いかに自我を出さないかということ。幼稚な人は自我の塊だ。その自我にぶつかるということは、自分も未熟なのである。幼稚な人を打ち負かそうとしたり、幼稚な人を否定して、自らの正当性を主張しても仕方がないのだ。けっきょく僕たちは、誰かを否定することで、自分を肯定することは出来ない。その意味では、「仕事のできない人」なんて一人もいないんだな、と思った。なにかをひとつゆるすことで、なにかがひとつゆるされる。□■□■□どうして僕は誰かを理解しようとする前に、誰かに理解されようと思ってしまうのか。自分の勝手さに恥ずかしくなります。さっきも言いましたが、相手の気持ちを想像する(イメージする)ということは大事ですが、けっきょくその意識があるうちはまだまだということです。相手になっている状態、つまり「自分がない状態」を当たり前にする、ということ。これこそが修行なのだと思う。修行ということは、いろいろな意味で自分の中の当たり前を変えていくことだ。当たり前を変えることで、「なんにもしていないのに、なぜか幸せが次々とやってくる」という状態になる(のだと思う)。その意味では努力というのは絶対に必要だが、努力している、という意識はまったく不要ということになる。努力という言葉でなく、努力という行為に楽しさという名前をつけることが大事なのだ。□■□■□という感じで自分の精神修行の目標みたいなものができてなんだか嬉しい感じです。やはり幸せというのは権利でなくて義務なのだ。
2007年04月02日
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あんまり心機一転な感じがしないですが、4月になりました。平成19年度ですね。俺も社会人3年目です、と言わねばならない。なんだか気恥ずかしいです。今年は同期で誰が辞めるんだろうか。どうやら桜もちらほら咲き始めているようです。いやおうなく、時はめぐります。今日は、とてもあたたかい日だ。
2007年04月01日
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