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というわけで泊りがけで研修に行ってきました。休日扱いというのがつらいところですが、まあタメになるのではりきってやりました。内容はコーチングっていうコミュニケーションスキルの講習でしたが、とにかくよかった。良かったといっても、ためになったという意味であって、やっぱりある意味シンドイよね。自分を知る、それから変えるっていうのがどんなに苦痛なことかがよくわかりました。しかしそれを乗り越えないかぎり誰かを変えることはできない。うーむ。まあこれからスキルを磨きます。でも研修でいちばんよかったのはやっぱり同期と話せたことです。僕らチェーン店の小売業だと同期に会う機会があまりないので、研修などは交流のよい機会なのです。研修終わったあとに、とくに気のあった某さんとごはんを食べて、エロ話、げふん、「プライベートな」話で盛り上がったのが最高に楽しかったです。お互いを再発見という感じでした。ほとんど他人を信用せず、心も開かないぼくのなかに、「友達」っていう言葉が浮かんだのはけっこう久しぶりなことだったので、ものすごく嬉しかった。それでルンルン気分で家に帰りました。実家に帰ってきてます。超多忙な日に、強引に有休とりました。えへ。仕事押し付けてごめんなさい、店長。明日から11月ですね。今日はあれです、パンプキンですね。ちがう、あれだハローワーク。ってなんでやねん、ハロウィンやねん。ズコッ。 ・・・・・なんちゃってえ、ウザい?知るか!!
2007年10月31日
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「ミッションインポッシブル3」ドキドキハラハラ。単純に面白いです。「オーシャンズ11」ハラハラドキドキ。すなおに面白いです。「バイオハザード」すこしグロい。ゾンビ怖くねぇぇぇ。洋画アクションはかなりメッセージ性が弱くて、ラクに見れますね。
2007年10月28日
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合気道の第一義は、役に立たないことにあります。合気道は役に立たない方がよいのです。ぼくは、なんでもかんでも「役に立つ」という観点で見る人が嫌いです。そういう人は、胸のうちからあふれ出る喜びのバイブレーションを知らぬのです。「合気道ずっと続けてるんだ」「武術って何かの役に立つの?」役に立つかどうかが、そんなに大事ですか?ただの「好きなこと」なんだから役になんか立ちませんよ。愛する人と一緒にいるのは、役に立つからですか?違うでしょう?ただ、そばにいたいだけです。おいしいラーメンを食べるのは、栄養補給のためですか?違うでしょう?おいしいからです。「好きだから、する」それでいいと思うのです。なんで役に立つかどうかなんて気になるんですか。心構えがかなしすぎる。ただやってるだけで気持ちいいんですよ。健康のためにやってるわけじゃないんです。ケンカが強くなりたくてやってるんじゃないんです。合気道がしたくて合気道やってるんです。それ以外になんの理由がいりますか。「~のために」と目的を持ってやる「ために思考」はあんまり身体によくないよ。そんなんじゃなくて、したいことしたら単純に気持ちいいんです。カンタンなことです。手段が目的なんです。だから結果はないんです。これを無功徳といいます。嫌なことはやらなくていいんです。
2007年10月27日
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今日ピンと、「おそれなき社会」という言葉が浮かびました。誰もがおそれてないんです。何にも怖くないんです。とおい「おそれ」から消滅していく。だからまず、神が死んだ。そして天皇が死に、教師が死に、上司が死に、親が死んだ。それで、怖くないんです。なんで怖くないかって、それは生きていかれるからです。みんな、「おそれおおいもの」が怖いのは、それ自体が怖いんじゃなく、自分の身が、自分の命の危険が怖いんです。死ぬのが怖いわけです。でも現代では死なない。怖れなくても死なないのです。便利な生活は「ミジュクモノ」を傲慢にします。たとえば先生に見放されても、塾がある。上司に嫌われても、転職できる。親がごはんを作ってくれなくても、コンビニにがある。ものすごい勢いで生活が便利になったので、「目上」が必要なくなってしまったのです。だから怖くない。本来、「おそれおおいもの」として存在して、自分を高めてくれるはずだった目上は、もともとは「うるさいけど、大切な存在」だったのですが、ただの「うるさい存在」になってしまったのです。だからミジュクモノが傲慢になる。ぼくは、この傲慢さというのは最終的に損をすると思うんですね。やっぱり「おそれ」がないと、向上心も湧いてこないですよ。「あの高みにのぼりたい」と思うからやる気がでるのであって、「あーあ、うるさい存在だ」と思っていては、まったく自身の成長はないわけです。いま、コーチングというのをすこし勉強していますが、あれもミジュクモノに甘いコミュニケーション技術です。向上心がある相手だったら、コーチングなんて必要ないと思います。目上(先生・上司)のときに感情的な叱責を、「これは大切な教えだ」と捉えていくのは目下(弟子・部下)の役目でもあるのです。何事も向上心だと思います。「よりよい方へ」その一言に尽きます。向上心さえあれば、なんでもプラスに見えてきます。自分を高めるってことが目的だから、なんでも吸収して、どんどんよくなっていくんです。ぎゃくに向上心がなかったら、なんでも嫌なふうに思いますよ。ちょっと嫌なことあったら、「〇〇サイアク」なんて愚痴るわけです。サル以下ですよ。だから「おそれなき社会」は言葉とは裏腹におそろしい事態だと思いますね。でも向上心ある人にとってはチャンスな社会なわけです。一度動き出したら、どんどん差はつきます。向上心格差ですね。向上心もったら、「おそれ」も出てくるんです。何が怖いって、自分の成長が止まるのがいちばん怖いんです。これが向上心スパイラルですね。あなたの「こわいもの」はなんですか?
2007年10月27日
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ぼくらはことばにごまかされるのである。「男と女」といったら、もう当たり前のように対立する概念を思い浮かべてしまう。男←→女というようなイメージ。しかしそれは、あくまでことばのうえでの空想なのだ。真実では、ない。捉え方は、自由だ。便利な捉え方は真実よりも尊い。ぼくが考えているのは「二重円」である。ことばでいえば、「男は女に含まれる」。つまり女という大きな円があって、その中に男が入っているという構造。母体という言葉があるように、女がいて、そのうちの一部が男に変化した、と考える。そうするとことばのイメージは一変してしまう。ほかにも、「ある」と「ない」をいかに捉えるか、ということもあります。ふつう、「ある」と「ない」は反対語のように思われている。でもそれは本当なのか。「ない」は数字で言えば0、「ある」は数字で言えば1である。しかし0と1がほんとうに対立するのか?「数える」のだったら、0の次が1で、その次が2と続くわけで、そうなると0も存在の一形態と捉えることはできないだろうか?0を存在の一形態と捉えると、たとえばことばのうえでも、「あきらめるとは、あきらめないことである」というのが矛盾ではなくなるのだ。というか、もともと矛盾というものは空想や妄想など、頭の中でしか存在しないシロモノだ。「現実」には矛盾というものはない。「あきらめることは、あきらめないことだ」という文言が矛盾していると思う人の頭の中には、「する」と「しない」は対立する概念だという思い込みがある。しかし「現実」を見てみれば、「しない」ということは「行動」の一つの選択肢であり、実際は「しない」ということを「している」のである。つまりこの世界には0(ゼロ)というものはないのだ。わかりにくく言えば、この世には、存在しないものは存在しないのだ。すべてが、ある。あるものだけが、ある。ことばにまどわされるから、矛盾にとまどうのです。ただの世界には、矛盾などないのです。「あちらを立てればこちらが立たぬ」というのもなにかにとらわれているのです。ほんとうはどっちも立つのです。でも「これは変えられない」という何かにがっしりとしがみついているので、「どちらか一方」という考えになる。which―どちらか―という考えは、かならずことばから起こる。なぜなら、ことばのない世界はひとつだからだ。名前のない世界は、それひとつなのである。それひとつしかないので、存在という概念もない。存在するとか、しないとかいうことすらないのです。ぼくらはつねに名前で生きているのです。便利だから名前をつけた。だのにしばしばぼくらは、言葉によって苦しむのである。言葉は道具にすぎないのだから、苦しくなったら捨てればいいのだ。嗚呼、話の内容が表題とまったくズレてしまった。まあよかろう。とにかく「ことば」にとらわれるな、ということなんです。しかしことばがなければ生きていかれない。ことばのない世界を知るにも、ことばが必要になるのだ。ことばも皮肉な運命を背負って生まれてきたものよ。
2007年10月27日
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馬の耳に念仏、ということわざはなかなか面白い構造で示唆をあたえてくれる。ちなみに豚に真珠、猫に小判、馬耳東風も同じような意味である。馬の耳にお念仏を聞かせても、そのありがたさはわからない。つまりどんなに素晴らしいものも、価値が分かる人にしか分からない。だから、「馬」になってはいけないよ、というのが第一義だと思います。「馬」は価値がわからない人のたとえなんじゃないでしょうか。美しいものを美しいと思えない人。素晴らしいものが素晴らしいと思えないのは悲しいことだ。だからぼくらはつねに「目」を磨いて、美しさの判断をあやまつことのないよう気をつけねばならない。これがまず一つ目の意味です。それから、ぼくは昨日おもったんですが、馬の耳に念仏を聞かせてはいけないよ、という意味もあるんじゃないんでしょうか。馬は馬なんです。馬にはお念仏はわかりません。馬に「正しき真理」を聞かせる坊主がいたら、それは馬よりも坊主がバカだということです。馬を動かすには、「正しくてまっとうな論理」ではなく、ニンジンが必要なんです。そしてムチで叩く(笑)「なぜ念仏がわからん!このバカ!」と馬に言っても仕方がないのです。高邁な学問をおさめた僧侶がどれだけ易しく真理を説いても、どうしても馬には通じないのです。そんなことをしていたら、牧場の人にも「あれま、お坊さんなにやってるっぺよー。あんだ、バカでねえか。馬は言葉がわからんきに、ほれ、こうやって、ニンズン食べさすっぺよー」なんてバカにされちゃうわけです。それは何を学び、いかに活かすかということです。美しい真珠でもない、価値ある小判でもない、ここちよい春風でもない、大事なものはその対象にかなった「エサ」なのです。どうやらぼくはバカだったようです。
2007年10月27日
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「スパイダーマン」スパイダーマン初鑑賞!!まずは1から。ぼくはダメでした。子ども向け?と一瞬思ったら冷めてしまって入り込めず。ただ、最後の最後で人間関係が面白くなりそうで、いちおう2も見てみようかと。「UDON」これは面白い!なんか特殊な演出っていうのかな。ぽんっぽんっという区切りの軽快なリズムで心地よく進んでいく。設定もリアルで入りやすかった。かなりのヒットでした。みんな演技うまいし。オススメ度★★★★★「ALWAYS 3丁目の夕日」3丁目キターーーーーーーーー!涙なしには見れないね。あまりに号泣して、4丁目まで何かがはみ出るイキオイです。っていうかDVDで号泣とか初かも。コドモものには弱いんです。っていうか泣ける部分は昭和関係ねー!!って思います。ぼくは昭和57年生まれなので、ちょっと30年代はわからないことが多かったですが、親から聞いた話に出てきたのがたくさんありました。ぜひ見てください。ちなみに小学校の頃、「うちのお父さんは、昭和をさかさまにして『和昭(かずあき)』っていうんだよ」って教えてくれた子がいました。昨日と今日は2本もヒットがありました。
2007年10月26日
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ついにブログ開始から1000日です!!読んでくださる皆様、いつもありがとうございます。
2007年10月26日
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答えよりプロセスより、いちばん大事なもの。それは「問い方」である。まっとうな質問はこの世にすくない。ことばの限界スレスレの疑問は、もうすでに答えなのである。ことばの余力を残してはいけない。ことばには限界があるが、その限界まで駆使すれば、かなりの有用性を持つのである。疑問を質問に変化させねばならない。それは有限なることばによって可能なのである。
2007年10月25日
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健全な精神は、健全な姿勢に宿る。
2007年10月25日
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ものを論理で考えていくと、ある時、どうしても行き詰まります。思考の袋小路に入ってしまうわけです。しかし視点・視座を変えるためにはこの「思考の袋小路」にいったん入ることが大事で、その閉塞感を打破するために、視点のコペルニクス的転回がおこるというわけです。カッコよく言いましたが、「ガラッと変える」ということです。よく言われることです。「視点を変えてみよう」というのは。でも実際やろうとして、カンタンにできるものではないのです。先生「視点を変えて考えてみよう」弟子「はい、変えました!」というわけにはいかないのです。視点はつまり思考の枠組みです。簡単に言うと大前提っていう感じでしょうか。たとえば仕事上の改善をするにしても「翌日も翌々日も会社があり、僕は生きており、 上司がいて、毎月28日に給料がもらえて・・・」といったようなことが大前提となっているのです。どこかに支点を作らないと力が出せないように、思考もまた、どこかに前提をつくらないと論理が進んでいかないのです。視点を変えて考える、というのはその大前提「思考の枠組み」を疑う、ということです。それも適度に疑うというのが大事です。全部を疑うと、話にならないのですね。「明日、地球はないかもしれない」「ぼくの人生は夢かもしれない」「おまえの背中にはファスナーがついてるかもしれない」「ぼく意外は、宇宙人かもしれない」適度さをなくすと、こういったぶっ飛んだ話になってしまうのです。会話も論理も成り立ちません。だけど、こういった前提のほとんどないぶっ飛んだ空想を忘れないことも大事なのです。さて、話を変えて星座のお話をいたしましょう。星座っていうのは面白いですよね。どうにも好きなように星と星をつないで勝手に物語をつくって納得してしまう。なんつー自分勝手な。だけど、ぼくらのふだんの世界も星座のような物語にすぎないのです。真実や客観的事実などありはしない。たといあったとしても、それは表現された時点で、主観になるのです。そして文化という色がついてしまう。じいちゃんが昔言っていました。「今の人は『しごき』だと言って、それを悪いことと捉えているが、その人が鍛えてくれていると考えるかいじめと考えるかで変わってくるのだ」と。だから、捉え方なんです。事実がある、と思ったら負けなんです。事実はないんです。見方を変えるというのは、大前提を疑うことです。大前提が変わると思考の枠組みが変わるので、イメージが変わります。そうなんです。捉える、ということはかならずイメージなんです。カンタンにいうと、ラジオ放送で野球の状況を思い浮かべるということです。ことばからイメージを引き出しているのです。ことばはイメージなのです。枠組みを変えないで、どんなに努力しても苦しいだけです。それは身体(行動)を変えないで、感情を操作しようとするような不毛な行為です。だから星座を変えるしかないんです。生活の星座を変えてしまう。嫌なことは耐えるよりも変えてしまったほうがラクなのです。
2007年10月25日
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最近思うのです。人間は努力と勉強がすべてだな、と。もちろん人それぞれの哲学があっていいと思うんです。人間は幸福になるべきだとか、なによりも愛が大事だとか、人間は遊ばなくてはならないとか、自由と自立を獲得すべきだとか誰しも自分なりの「こたえ」を持っていると思います。でも、ぼくにとっては、努力と勉強というのがいちばん性にあっているようです。努力と勉強が好きだなんていうと、「偉いね」と言われてしまうことがあります。これはとんでもない誤解なのです。というか話がおいしすぎます。こっちは好きなことしかしてないのに、「偉いね」なんて言われたら恥ずかしいのです。ぼくは嫌いなことはできない人間です。それに根性がないのです。だからたとえばお金が手に入るよ、と言われても苦痛な勉強はできません。なにかのために勉強する、というのはぼくは苦手なんです。じゃあなんで本を読むのかといったら、楽しいからです。ものごとを何でも知りたいんですね。何かを知った、分かった瞬間というのは、たとえそれが錯覚や誤解だとしても、ものすごく興奮を覚えるのです。「あ、そうか」というひらめきです。ひらめきほどの快感はありません。ひらめきは蓄積から生まれます。その蓄積にあたるのが、ぼくの場合は読書なのです。だから努力と勉強といっても、実はやりたいことしかしてないのです。それで「偉い」なんて言われると申し訳ないし、それに嫌な気分にもなります。やりたいことをガマンして嫌なことに耐えているわけではないんです。だから偉いわけじゃないんです。本を読むのが苦痛な人からみれば、読書が趣味のぼくは「すごい」と思うのかもしれませんが、本好きが本を読むのは、昼寝好きが昼寝をするようなもので、すごくもなんともなくて、たんに楽しんでいるのだけなのです。まあぼくがなにかやっているのを「がんばってるね~」という目で見てる人というのはただ足をひっぱろうとするだけなので気にしません。ペーパードライバーは、かならずゴールドドライバーになってしまうのですよ。何にもしない人は、けっして失敗しないということです。いろんな「好きなこと」があると思います。それは遊びだったり勉強(読書)だったり、合気道だったりすると思います。それに共通して大事なのは、「本気で取り組む」ということなんじゃないかなと思います。本気で取り組もうとしたら、知らぬうちにその対象が知りたくなって勉強してしまうのです。それを努力と呼ぶか呼ばないかはほんとうはどうでもいいことです。でもぼくはずっと努力と勉強を続けたいなと思います。それが「正しくて偉いこと」だからではなくて、なによりもワクワクして楽しいことだと思うからです。
2007年10月25日
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明日でこのブログを開設してちょうど1000日目です。長かったです。1000日前なんて、はるか昔のように思います。ほとんどコメントはいただけないような日記ですが、ときおり「見てるよ」と言ってくださる方があり、ほんとうに励みになっています。いつもありがとうございます。
2007年10月25日
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女には論理がありません。そのことがわかったとき、ぼくは小躍りしたいくらい嬉しかった。誤解のないように毎度言っていますが、ぼくがいう「女」というのは「女性性」ということです。性別ではなくて性質としての「女」を語りますのでよろしくおねがいします。今日、仕事をしていてぱぁっとひらめいたのです。「女には論理がないのだ」と。よく「男は論理的にモノを言うが、女は感情でモノを言う」ということが言われています。そのことは「知って」いたんです。でも身体で飲み込んではいなかった。でも今日は実感できたのです。たとえば、嫌な仕事を押し付けられたとき、男は「われわれは労働の対価として給料をもらっているのだから、嫌であろうがなかろうが、業務を遂行する義務がある」という論理でもって、なんとか納得することができます。しかし女は「諸君の労働の対価として・・・」と話して、「だから働きなさい」と締めたところで、「でも、嫌なものは嫌なんです」と言ってしまうのです。それで男は説明するのです。「だからね君、そもそも会社が君に払っている給料は〇〇で、つまりその作業が全体におよぼす影響を考えれば云々・・・。わかったかね?」女「はい。わかりました。 でも、嫌なものは嫌なんです」つまり、話の土俵がまず違うのです。論理と感情は、水と油のようなものです。絶対に交じり合うことがないので、男と女はケンカしないほうが得策なのです。男は論理が「正しい」と思っています。事実、論理は論理という土俵の上では「正しい」のです。そして感情も、論理が「正しい」ということを知っています。しかし感情にとっては、正しいか正しくないかはどうでもいいのです。ここが面白いところです。極論で話をしますが、たとえば男女でレストランにいったとします。あまりお金は持っていない状態で。男が注文します。「ライスふたつ。以上で」女「ちょっと、やめてよ。なんでごはんだけなの? 恥ずかしいじゃない。オードブルから頼みましょ。」男「なんで恥ずかしいの?それは錯覚だよ。 よく考えてごらんよ。レストランでライスだけ頼んじゃいけないって誰が決めたんだ?法律で決まっているの?お金もないし、そんなに腹ペコなわけじゃない。ライスだけ頼むのが、いちばん合理的だろ?」女「たしかに合理的だけど・・・。恥ずかしいじゃない!」男「君はもっと頭を使わないといけないね。そもそもなぜレストランでライスだけ頼んだら恥ずかしいのだろうか?」女「そんなことどうでもいいから、前菜を注文してよ」男「おまえはまったく論理がわかってない。頭つかってるのか?」女「アンタのほうがよっぽどバカよ!」なんと不毛なケンカでしょうか。これだと、完全に論理が「悪者」になっていますが(笑)もちろん、論理は悪者ではありません。現代の社会をつくってきたのは、まぎれもなく論理の力だと思いますし、論理にはある程度オートマチックに話が進んでいってしまうパワーがあります。・男はエロい。・ぼくは男だ。というふたつの文から、自動的に「ぼくはエロい」ということがわかってしまうわけです。それでその論理をもって、「君はエロいものが好きだ。ぼくはエロい。だから君はぼくを好きだ」と迫ってみても、「たしかにエロいのは好きよ。でもアンタは嫌い」となるわけです。論理は感情に対して無力なのです。もちろん感情は論理に対して無力です。だから男が女を説得したいときは、けっして論理を使って話してはいけないのです。女はその論理が正しければ正しいほど感情的に反発します。説得しなくても、とにかく納得させればよいのです。女の会話には、やたらと「ごめんね」が出てきます。それはお互いが感情を重視しているからですね。男だったら、「ぼくは謝らない。なぜならぼくが〇〇したのは、 ××が△△だったからで、ぼくは間違っていないからだ」と論理をもってくるわけです。間違っていたら誤るが、間違っていなければ誤らない。それが男の論理です。でも女は違うのです。間違っていようがいまいが、とにかく相手の気分を害してしまったことをすまなく思うのです。だからまずは「ごめんね」。それで「ううん、気にしてないよ」となる。そこはほぼデキレースみたくなっているのです。男は女の論理「感情」を理解しないといけません。女を論理でねじふせようとしても無理なんです。男は「どうせ『ううん、気にしてないよ』って言うんだから、 謝らなくてもいいや」と思ってしまう。でも本当は違うのです。女は「ごめんね」と言われて、そこではじめて事実を納得できる、飲み込むことができるのです。逆に男は、論理がないと物事を納得できないところがあります。「来月から給料が下がるけど、ごめんね」じゃ絶対に許せないのです。会社の業績がこうで、人件費がこうで、背に腹は代えられぬから、仕方なく給料が下がるのだと言われないと納得できないところがある。ほんとうに男と女は違うのです。そこがホントに面白いところだと思います。
2007年10月24日
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そんなに売りたいのか。
2007年10月24日
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ぼくにとって、読書というのは勉強であり、娯楽であり、そして行(ぎょう)であります。内容を読むのが娯楽、内容を実践するのが勉強、そして「読む」という行為を通じて身体を鍛えていくのが行(ぎょう)です。だから読書は一石三鳥なんです。行というのは「身体を鍛えること」とぼくは思っています。読書は呼吸によって行になります。というか日常のふるまい全般は呼吸によって行になるのです。生活は、そのまま稽古になりうるわけです。なんの稽古かというと、いわゆる「平常心」をつくる稽古です。それが「落ち着け!」などという精神論ではなく、呼吸を通じて身体を鍛え、ひいては精神を鍛えるのです。ほんらい、身体を鍛えることは精神を鍛えることになるのです。ぎゃくに、そうでない筋力トレーニングは本質的でないといわざるをえない。「こころ」と「からだ」は密接につながっているのです。というか、ひとつのものなので、わけて考えることじたいが不自然なのです。ぼくは「しん」と言ったりします。「心」であり「身」であり「芯」であると。それは姿勢ですね。姿勢というのは存在のありかたそのものです。存在そのもののありかたが自然になっていくように日常生活のふるまいを行とする。そのキイワードが呼吸ということです。ちょっと難しいことを書いてみました。
2007年10月23日
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お金は大切です。でも、なんでお金は大切なんでしょうか。答えからいうと、お金というのは、何かと交換できるから大切なのです。お金が何とも「交換」できなかったら、人の顔が描いてある、ただの紙きれですよね。、鼻をかむかお尻をふくくらいにしか使えません。でもお金は何かと交換することができるのです。もっといえば「交換できる」という「約束」が世間に浸透している、ということです。それが「価値がある」ということです。だから無人島ではお金の「意味」(価値)がなくなるわけです。それで今日思ったのですが、たとえば生きていくのにすべてを自分でまかなえるとしたら、お金は必要ないなと思ったんです。もちろんそれは極論なんですが、いわゆる「自給自足」になればお金はいらないんだと、どうにも当たり前のことに気づいたわけです。でもそれがなぜか嬉しかった。たとえば高級な絵画を買うお金がなくても自分で描ければいいんだということです。買う、つまり交換するのではなく、みずから創り出すのです。畢竟、自分で創ったほうがみずみずしい喜びを享受できるのだ。お金ほど大切で、お金ほど虚しいものも珍しい。
2007年10月23日
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うしなうことをおそれてまもるのはやめよきずつくのがこわくてまもるのはやめよまもるななぜならぼくらはまもられているからふわふわと存在してみようゆらゆらととろけてみようまもらなくていいものをかたくなにまもろうとしてゆえに うしなう手にいれるとかうしなうとかをおもったときぼくらは まもりはじめるおそれなくてもよいものにおびえいきを なくすまもるなぼくらは まもられているのだから
2007年10月23日
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誰かに勝つよりも昨日の自分に勝てばいい。
2007年10月21日
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たしかテレビでさんまが言ってたと思うんです。「すべての恋は間違いや」って。それはわかります。どうも「恋」というと不思議と色は桃色なんです。ピンクです。「灰色の片想い」では重いです。恋っていうのは、ゴキブリホイホイみたいなものだと思うんですね。ぼくらはバカだから、桃色の恋にぴょいと飛びつくんです。甘い匂いにやられるわけです。でもその先には愛という名の苦しみが待っています。誰かを許すことは、すごく苦しいのです。いや、ゆるしたあとはラクなんですが、ゆるすまえがすごく苦しいのです。というのは自分が破壊されるからです。実際にゆるしてみれば、自分が破壊されることはないと分かるのですが、「まるで」自分が破壊されるような恐怖があるのです。誰かを愛するということは、その誰かの「物語」を知っていくことです。その人の、「ことば」をみていくことです。そして最終的に「わからない」というところで、「もうゆるすしかない」という気持ちになって、そこに愛が生まれるとぼくは思ってるんです。「わかりあう」なんて浅薄なもんじゃないんです。分かりにくくいえば「わからない合う」というのがいいと思いますね。けっきょく他人なんて分からないんです。でも、「あ、他人だもんね」というあきらめがないと誰かをみとめることなどできないのです。みとめるまえの「まるで自己が破壊されるような感覚」を何度もはげしく喰らう。これが愛です。逃げちゃいけないんだなと思うわけです。向かい合った先に、かならず喜びが生まれます。だから愛という名の苦しみは、嬉しいのです。
2007年10月21日
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ぱっとやってできたことを「お、うまくいった」と調子にのって、もう一度やろうと思ったらもうできなくなった、という経験は誰にでもあると思います。自然に仲良くなって、話してるといつも楽しくておたがい笑顔がたえない。だのに、「好きかも」なんて思った日から会話さえもうまくいかなくなる。そんな経験のある方も多いのでは?無意識になにげなくやったことはうまくいくことが多い。ぎゃくに、意識的に「うまくやろう」とすると失敗してしまうことが多いものです。これは神様のせいです。はい、でました。お得意の「神様」。いいですか、ここで「宗教かよ!」といって思考停止しないでください。神様はいるんです。もっと言ってしまえば、ちょっと冒涜ですが、「神様はいる」と仮定したほうが、ぼくらは幸せに過ごせるわけです。極論すれば、幸福のために便宜的に「神」という存在を想像しよう、ということです。なぜ、うまくやろうとすると失敗するのか。それは「うまくやる」という概念(ことば)が同時に「失敗」という概念(ことば)を生んでしまうからです。なにげなくやっているときは、何気ないのですから、その気がないのです。その気がないと、神様の力がすなおに働くのです。自分で力を出してはいけないのです。自分でなにかをしようとするとぼくらは卑小なので、その結果も卑小になるのです。ぼくらは神様のお力の「通り道」に過ぎないのです。「成功する/失敗する」のことばの区分がなければ、たいていはうまくいくものです。これは前に書いた、「自然治癒力」と同じです。「大いなるもの」と呼んでもいい。神様の力をお借りするコツは「気長」ということです。「気」は「息」と同じ意味です。すくなくともぼくの中では。焦らないこと。待つこと。それは(神を)信じること。「そんな気持ちになれないよ!」と半分怒りぎみのあなた。そうです、気持ちは操作できないのです。じゃあ、どうするか。それは行動を変えるしかないのです。行動といっても具体的になんなのかといったら、それが努力ということです。努力というのは不安を打ち消すためにやるのです。「不安を消そう」と思うだけだったら、どんどん不安は大きくなるのです。そのまえに「この不安のもとになっているのはどんな『考え方』なのだろう」ということを考えるのです。「~たらどうしよう」という心配は、「それで?」という質問で解いていきます。「たとえば今度のプレゼンで失敗したらどうしよう?」「それで?」「上司に怒られます。評価もさがります」「それで?」「昇進にひびきます」「それで?」「給料があがらないままです」「それで?」「・・・リッチな生活ができません」「それで?」「・・・・・・、まあそれくらいです」「それで?」「あ、なんだ失敗しても大したことないや。 できるだけのことをすればいいんだ!気が晴れた!」―なんてうまくいきすぎでしょうか。でもモデルとしてはよくできていると思っています。神様がいると仮定して、その力をお借りする。そのキイワードは「無意識」。無意識になるコツは、努力なのでした。宗教は迷信と違うのです。宗教は科学なのです。
2007年10月21日
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たやすく「心」などと言うな。まるで「心」というものがあるような気がしてしまう。たとえば感情は結果である。感情の前に身体つまり筋肉の緊張があり、それから「ことば」がある。「事実」があって、その「事実」にたいする判断(←これが「ことば」)があって、それに身体が反応し、それからやっとこさ感情が生まれる。その意味で感情は結果なのである。だから感情に振り回されるのは得策ではない。感情は結果だから変えたりすることはできない。感情を変えるには、意識・ことば・とらえかた・行動を変えるしかない。それをしないで感情を押さえ込むことは、あたかも勉強をしないで、テストの点数だけ書き換えようとするようなことである。感情を押さえ込んではいけない。感情になったときは、もう遅いのだ。そうなるまえに、意識の持ちようと行動を改めないといけない。つまり根本から変更させるということ。「うれしい・たのしい・きもちいい」という感情が結果としてつねに現れるような行動・身体・意識の持ちよう。それを模索しなければならない。
2007年10月21日
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食べるということは栄養を補給することのように思われているが、実際は、ものを食べるのにもかなりのエネルギーを消費するのだ。人はパンのみにて生きるにあらず。なにかを食べる体力はどこから生まれるのだろうか。
2007年10月21日
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「なおる力」がぼくらには備わっているんです。「なおる」というのは「自然になる」という意味だと思います。ぼくらは誰かを叱ったり責めたりします。「おまえが悪いのだ」とぼくらは言います。「おまえがわるい」というのはどういう意味かというと「自分は正しい」という意味です。だから誰かを責めることはときおり、「気持ちよい」行為になりうるのです。叱るということはクスリのようなものです。効き目は強烈なんですが、実はあまり進展がなかったりします。身体の弱いところをクスリでごまかしても身体そのものは強くならないように、誰かをしかっても、長い目で観れば、その人は伸びないのでは?と思ったりします。つまり「その場しのぎ」なんです。やっぱり「自分で気づく」ことがいかに大事かということです。「間違った人」はかならずどこかでつまづきます。それを待つというのもひとつの手なのかもと最近思うわけです。自分で気づかない人は、「偉い人」のことばばかり反復しますからね。ぼくなんかは「自分は正しい」と思い続けて生きてきた人間ですから、誰かを責めず、ひたすら待つという考え方を胸のどこかに持っていてもわるくないなと思っています。自然治癒力が発動するのを待つ。それは信じるってことですよね。信じられないから、やたらと口を出す。「あなたのことを思って」と言っても、それは信じていないのと同じです。恩を着せられるのと信じてもらうのと、自分だったらどっちが嬉しいかすこし考えればわかることです。ちょっと話は変わりますが、人は論理では動かないのですね。そんな当たり前のことがすこしずつ分かってきます。そして論争で勝つということのくだらなさもだんだんとわかるようになってきました。「勧善懲悪」というのはオトナにはないんです。それはコドモだけの世界です。善悪をさばく権利はぼくらにはないんです。ただ、ぼくらは自然治癒力を信じるしかないんです。世界にも人間にも自然治癒力はある。そのことを信じるしかないんです。なんかむちゃくちゃな文章になりましたが、随感なのでゆるしてください。それではカイシャにいってきます。
2007年10月20日
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ぼくの所感なんですが、最近やたらと「ヴィトン」を持ってる人が多くないですか?しかも、これ読んでる人で持ってる人がいたらすいませんが、高級ブランドが似合わないような人ばかりが持ってませんか?品位のなさそうな人とか、甘えん坊な人とか、調子こいてる人とか、頭わるそうな人とか、そういった類の人ばかりがヴィトン~特にサイフですね~を持っているような気がするんです。こうなると高級ブランドも地に落ちますよね。もともとぼくは男だし、ヴィトンには興味もないのですが、「あーゆー人々」の仲間にはなりたくないと思うので、ぜったいにヴィトンを持ちたいと思いません。高級ブランドがわるいと言ってるんじゃないんです。似合う人が似合うように身につければ、モノはいいんだからすばらしくなると思うんですけどね。ぼくからすると、これはそうとう個人的な考えですが、ヴィトンを持って安心しているような人って、すごく劣等感をもっている顔をしていると思います。「どうせアタシ(オレ)はダメだよ」的な。とても不機嫌そうなんです。その劣等感を高級ブランドでごまかしているのかもしれませんね。「これさえ持てば、アタシ(オレ)もそれなりだ」なのかもしれません。気持ちは分からなくもないですが、ぼくはやっぱり今の状況を考えるとヴィトンというのは金をつまされても持ちたくないですね。ましてや高い金は払いたくない。そんなことを最近おもいました。PS:劣等感の強い人をこそ大切に扱うことが大事だと 気がついた昨日でした。
2007年10月20日
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死ぬほどDVDを観ています。なんでこんなに観ているのかって?知らないよ!「マリーアントワネット」昔は世界史が得意だったのですが、もはやかつて覚えていたことの95.2%くらいは忘れてしまったので、マリーがどんな人かも分からず見ていました。とにかく見た目が華やかな映画だと思った。やたらとPOP(?)な音楽はなんなのかな。何が言いたいのかよくわからないような映画でした。「ドリームガールズ」めちゃくちゃ期待して観たのですが、ぼくの中では今ひとつ。ミュージカルみたいな映画でした。とつぜん歌いだすんだもん。でもあまりに歌がうまいのでそれを聞いているだけで快感ですね。ソウルミュージックっていうのかな?違うかな?音楽はまったくわからないのでヘタなことは言えませんが、とにかく「歌うま!」が正直な感想です。映画を見終わってからビヨンセが出てると知りました。「幸せのちから」親子の涙系かなあと思ったらちょっと違いました。アメリカンドリームとでもいうんでしょうか。「成功」物語みたいな。ちょっとコメディっぽいんだけど、ぼくとしてはすごく重かった。途中からストーリーが見えた感じはありました。アメリカ人のフランクさにバンザイ。「ただ、君を愛してる」なんとなく観てしまいました。世間の評価は知りませんが、これもあんまりでした。また人死んじゃったよ、みたいな。ミスチルに怒られますよ。宮崎あおいが眼鏡を外して可愛くなるのは予想してましたが、予想を上回る可愛くなりっぷりでヤラレました。ぼくとしてはそこがクライマックスでした。はじめの1時間半くらいは全然入り込めず。最後の20分だけ、「あー、そういうこと」的な。というわけで今回4作はなかなかグッときませんでした。なかなか名作にあたるのは難しいです。本と一緒ね。
2007年10月20日
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ことばは世界だ。ことばとは、意識だ。意識は、ものさしだ。こわい映画を見たあとは、やたらと風呂に入るのがこわい。でも普段はそんなことはない。風呂は怖くない。つまり、こわい映画をみたあとは意識が「こわいもの」に集中しているのだ。ぼくらの気分は意識の集中の度合いだ。世界が変わるわけではない。世界をどう見るかが変わるのだ。ぼくは不幸でもないし、孤独でもない。それは事実だからではなくて、そう思っているからだ。事実、とくに「客観的事実」ということはありえないのだ。「客観的」なんてことばにだまされるな。それではまるで「主観」と「客観」が存在するような気がしてしまう。意識の問題というのは大きいのです。意識というのは、「どこを見るか」ということです。意識が基準を決めているんです。しあわせになるんだったら、そういう見方をしなければいけない。しあわせになる見方(意識)がかならずあるんです。現状を打破することよりも、現実を認めることのほうが難しいし、すばらしいと思うのです。意識とことばのものさしを使いこなすことができたらなあ。
2007年10月19日
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見れば見るほど見えてくる分かってくる。分かったような気になってくる?そして距離が生まれる。さみしく、むなしい。分かれば分かるほど、孤独だ。人に好かれるのと人を好きになるのは、どっちが嬉しいことなのかな。
2007年10月18日
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仕事は、試合だ。人生は、稽古だ。そして夢は、命だ。
2007年10月16日
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愛とは愛していく過程だ。
2007年10月16日
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オトコがつらけりゃ、オンナもつらい。それが、喜びだ。
2007年10月15日
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「くれぶた」を見ました。シブ!!シブすぎます。ブタがシブい。映画がシブい。けっきょく「ブタの真相」はわからず終わるし。でもわからなくていい、そう思える映画でした。
2007年10月15日
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先日、映画でファンタスティック4を見て、「1」が見たくなったので、さっそく借りてみました。うん、面白いね。やはり超人的な能力っていうのは夢があるよね。4人の掛け合いが面白いです。それから「手紙」ね。重いね、うん。「泣ける映画」とのことでしたが、あまりに重すぎて泣けません。昨日は「もののけ姫」を再度見ました。「もののけ」ももう10年くらい前の作品なんだねえ。いま、「紅の豚」を見ています。なんて上品な映画なんだ。今から続きを上映します。
2007年10月14日
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一、ゆたかな息をしよう一、人をさばくな一、宇宙を思い、「おおいなるもの」を信じよ一、焦ったら負け一、「いま、ここ」からはじめよ
2007年10月14日
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ぼくらはきっと何かの天才なのだ。みんなができないようなことを苦労せずにできるようなことがあるはずだ。かがやいて生きるということは自分の中の「天才」を証明することなんだ。天才は「なる」ものではなく、証明するものだと昨日思った。
2007年10月14日
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人は直線のものさしじゃ測れない。ぼくらは誰ともくらべられない存在なのだ。仕事ができるとかできないとか、あまりに浅薄な考え方だ。成果や能力で人の価値が決まるのか。社会に役立つか役立たないかで価値が決まるのか。伝統に貢献するかしないかで価値が決まるのか。人間の価値ってなんだろう。価値っていうのは「いったいこれは何に置き換えることができるか?」ということでしょう。だけどぼくらは、何ものにも置き換えることができない存在なんです。たしかに、「仕事」という意味でみればぼくの代わりなんかいくらでもいるんです。でもそれは「仕事」という基準を導入したからであって、ひとつの価値観にすぎないのだ。ぼくらはきっと何かの負け犬で、仕事ができても家庭が乱れていたり、家庭は温かくても仕事ができなかったり、お金はあっても愛がない愛はあっても金がない才能があっても徳がない人徳があっても才能がない、顔がよくても性格がわるい性格はわるいが顔はよい、勉強はできるが友達はすくない友達は多いが勉強はできない出世はしたが健康をそこねた健康だが平社員、などなど、いろいろ足りない部分をもっていて、ぼくなど「じぶんの負け犬の部分」をゆっくり反省しているだけでかなりブルーになってくる。そのかわり「自分の勝ち組な部分」に目を向けてすごく調子をこくこともある。なにがいいのかなあ?何がしあわせなのかなあ?ほんとうは何が大切なのかなあ。きっと「生きること」から見つめたら分からなくて、「死ぬこと」から見つめれば、見えるものも多いんじゃないかなあ。
2007年10月10日
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仕事でいろんなお客さんを見ていると、自分も「いいお客さんにならないとな」と思います。「いいお客さん」はけっこう難しいのです。不機嫌そうな顔をして、ボンと商品を置いて、「いいから早くしろよ」と接客業を目下だと思い込んで偉そうな顔で調子こいているような人は問題外です。そんな甘えん坊のお子ちゃまを相手にしているヒマはありませんので、最高の笑顔であしらっておしまいです。さようなら。とりあえずは店員さんに「ありがとう」を言うことからはじめましょう。接客した事のある人なら分かると思いますが、お客さんの「ありがとう」の一言でいろいろ救われる気持ちになるのです。じゃあ、自分が「お客さん」のときは、そこの店員さんのために一言いってみようじゃないか「ありがとう」。しかしここから先が難しいところで、店員さんはプロなので色々知っていますが、先生や先輩ではないということです。こちらは「いい人」じゃなくて「いいお客さん」になりたいのだから、お客さんとしての権利は行使してもよいわけです。偉そうな店員はウンコ以下です。そんなやつに恐縮することはありません。レシートでも投げつけてやりましょう。おっと話がそれましたが、ぼくは「ありがとう」はなかなか難しいなと思ってるんです。自然にさりげなく「ありがとう」はなかなか出ないです。なんか強引に口だけ「ありがとう」だったり、おそれからくる「ありがとう」だったり、「ありがとう」は不自然になりがちです。「ありがとう」にも修行が必要なのです。みなさん「いいお客さん」になってみましょう。
2007年10月09日
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なにかをすることは、なにかに役立つことではない。行為の外にその意味を求めることは行為を犠牲にすることだ。たとえば読書は読書という意味なのであって、「~のために読書」というのはいやしい考え方なのである。目的意識を持つことは大事だが、目的意識を持たないことが本質的にはいちばん大事なのだ。だから健康のためにスポーツをする、という考えにはぼくは反対である。なぜ健康などのためにスポーツをせねばならないのか。好きなことをやるのがゆたかな行為なのである。
2007年10月08日
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最近「提案」ということばがマイブームです。和語でいったら「これ、どうでしょう?」っていうことですね。誰かに案をささげてみる。すばらしいことだと思いませんか?提案するってことは、相手の世界をすこし壊すことです。新しいことばを捧げることです。世界は多くの提案で成り立っています。本屋業などは、提案業そのものです。もちろん「自分が売りたい本」も売りますが、まずはお客さんが欲しい本を置く。それが当たり前です。そのうえで、「こんな本はいかがですか?」と提案していくのです。つまり相手が顕在的に欲しがっているものでなく、潜在的に欲しがっているものをポンと置く、それが提案ということです。売れ筋を売るのはカンタンですが、「オススメ」を売るのは難しいのです。そこが面白いところでもあるのですが。ぼくが思い出すのは母のことです。母は提案の達人でした。折を見て、そのタイミングが偶然か故意かわかりませんが、ポンッと「おもしろいもの」を提案してくる。それは本だったり、考え方だったり、洋服だったり、オモチャだったりしましたが、いずれにせよ、いつもぼくの興味に非常にかなっていたのです。ぼくの欲しいものというよりは、「こんなものがあるんだ」と世界を広げるようなものをポンっと買ってきて渡してくれるのです。そのさじ加減がすこぶる絶妙だった。提案は「ちょっと背伸び」がポイントです。相手が欲しいと言ったものをあげるのが3流。相手が欲しいと思っているものをあげるのが2流。相手が潜在的に欲しいものを提案するのが一流だとぼくは思っています。これからは「提案力」が重要になってくると思います。提案力は誰かの世界を変える力です。もやもやとした概念を「ことば」というカタチにおさめることでもあります。既成概念ではなく、突飛でもない。相手が手を伸ばせば手に入れることができるものをポンッと置いておく。提案ってすばらしいと思いませんか、と提案してみます。↓先日の夕ごはんです。
2007年10月08日
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言葉は発せられる瞬間にはもう力を失っている。言葉は生まれる瞬間がいちばん強烈なのだ。言葉が生まれるときを観察せよ!そこにあなたがある。そこに世界が生まれる。言葉がうまれた事後に、なにかしらの努力をしてもムダだ。言葉がうまれる瞬間に最大の集中をそそぐのだ。しかしほんとうは、ことばなど生まれない方がいい。世界は崩壊した瞬間にひとつになる。NO BOARDERカップヌードル。
2007年10月07日
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キンモクセイのかほりが風にたわむれてやってきます。秋です。今日は来年2008年用の手帳や日記が入荷してきました。もう本屋には年賀状CD-ROMも並んでいるんですよ!手帳をお店に並べていると、カッコイイのがたくさんあります。ビジネスマンっぽくイカした手帳でも買おうかとちょっと思いました。でもぼくは大学1年の頃から使っている手帳があるのです。だから新しいものは要らないなと思いました。ずっと使ってるのは、別に高級品でもなんでもないんですが、ただ捨てる理由がないのです。それだけで、もう7年以上使っています。自慢ですが、ぼくはモノ持ちが人並みはずれてよいのです。10年以上履いているGパンがあったり、10年くらい着ているTシャツ(家用)があったり、5年ものなんかはそこら中にあります。基本的には飽き性なんですが、やたらとモノ持ちがよいのです。それで思ったんです。飽き性の人ほど、継続する力が強いんじゃないかと。日記も中学卒業からずっと書いていました。今はブログっていうカタチになってしまったんですが。10年以上続いています。合気道も今年で16年目ですね。これも飽き性だからこそ続けることができるのでは?と思うわけです。たとえば合気道研究にしたって、いつも同じテーマをやってるわけじゃありません。最近は呼吸に凝っていますが、骨格を勉強したときもありますし、気功の本を読んでみたり、禅に興味もったり、筋肉をやたらと覚えたり、右脳開発してみたり、ダンスを研究したり、いろいろやっているわけです。飽き性だからいろんなテーマに手を出すわけですね。でも「合気道」という道からは外れないのです。研究テーマは思いつくままにいろいろ変えていきますが、合気道という根っこは絶対に変わらない。逆に、ひとつにこだわろうとするとつまったときに「もうやめよう」となってしまうわけです。「逃げ道」が見つからない。だから飽き性だからといって継続ができないということはないと思います。一事に万事あり。万事に一事あり。(ひとつのことを極めればいろんなことが見えてくるいろんなものを見ていけばひとつのことを極めることができる)ぼくのモットーのひとつです。(ちなみに「モットー」はイタリア語、ひいてはラテン語が語源らしいです。)きっとどっちも真実で、人生はいろいろなのだと思うのです。
2007年10月07日
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夢をかなえるためのはじめの一歩は夢から覚めることだ。子供は夢を見るが、現実にしか夢は咲かない。夢を捨てた大人だけが、夢をかなえることができる。現実に立つか?夢に立つか?それが問題だ。
2007年10月07日
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とつぜん、ではないですが、連れが「ダイエットをはじめる」と言い出しました。そのままでいいのにと言ったのですが、冬に備えて絞っておく、といってききません。じゃあ、ということで目標や課題を書いてもらいました。口だけの人はあんまり好きじゃないのです。そうしたら・甘いものをひかえます・PM6:00以降絶食・きそく正しい生活をします・朝起きてストレッチ・運動する・がんばるじょーとのことでした。さっそくダメ出し開始です。「ひかえますってどのくらい控えるの?」「きそく正しいって、つまりどういうこと?」「6:00以降に外食に行くときはどうするの?」ウザイと思われても連れのためを思っていってあげました(笑)それで「ダイエット課題改訂版」・お菓子などの糖分を多く含むものは 午後3時までに摂取する・午後6時以降でも外食の際はしっかり食べてもよい・起床時間を2時間以上ズラさない・一日腹筋30回・12月1日までに体重3kg減というふうになりました。違いはわかりますよね?前者は抽象的、後者は具体的なのです。別に仕事じゃないんで、こんなに堅苦しくやる必要はないことは分かってるんですが、はんぶん冗談で課題設定してみました。今日からは上の決まりごとをやぶらぬようスパルタで監視します。とはいえぼくは根が甘いので、ちゃんとぼくがスパルタで監視しているか誰かスパルタでぼくを監視してください。まあそんな話はよいとして、いつもダイエットに失敗している方は、目標の立て方が間違っていないか見直してみてください。というか、「ダイエットしたい」なんていう人で、ホントにその必要がある人を見たことがありません。ホントにダイエットが必要な人は、あきらめてしまって、かえって何にも言わないものです。「ダイエットしたーい」なんてキャーキャー言ってるうちが華なのかもしれませんね。では健闘をいのります。
2007年10月06日
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武士の一分見ました。キムチのたくあん付けじゃなくてキムタクの演技をしっかり見たのははじめて、かな?方言うま!さすが木村さんです。あれから「ありましねか!」がちょっとマイブームになりました。ストーリーとかは勧善懲悪ものっていうんでしょうか。すっきり終わりましたね。それからTAXI見ました。「1」を見て、「2」「3」はとばして「NY」。カーアクションすご!あまりにすごかったので、夢に出てきました。主張がぜんぜん感じられないのがいいね!パターン化の妙っていうのかな。ドラえもん的安心感でストーリーが進む。超エンターテイメント。鍋食べながら観ました。ピリ辛しょうゆ鍋の五穀米雑炊は最高でした。
2007年10月05日
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最近すこしだけ「レバレッジ」というのがブームです。というのも「レバレッジ時間術」の本田さんがそれからレバレッジシリーズを刊行していて、ちょっと売れているからです。レバレッジとは聞きなれないことばだと思いますが、テコという意味だそうです。てこの原理の「テコ」です。つまり小さく動いて、最大のリターンを得るということらしいです。昨日仕事をしていたら、そんなことを思いました。当たり前ですが、対症療法的な仕事してちゃあいかんなと。「目の前の仕事に一生懸命になる」というのはもちろんあるのですが、目の前しか見えてないようでは、やはり不毛というか、もったいないのです。もったいなくしないためには計画が大事だなと思いました。そしてその計画をイレギュラーな業務に圧迫されないこと。そのためには一日の計画、一週間の計画、一ヶ月の計画、3ヶ月の計画、1年の計画を立てることです。計画は達成することよりも立てることに意味があるのですね。計画を立てれば、ポイントをついて仕事ができます。大きな計画があれば判断基準にもなります。判断は間違ってもいいから早いほうがいいなと感じます。「兵は拙速を尊ぶ」毎日毎日、死ぬほどの選択をしなければなりません。「あとで」というのはできるだけ避けないとその「あと」からやるのが増えすぎてしまうのです。そうすると結局、ぜんぶ放棄なんてことになりかねない。その意味でも計画が必要なんですね。「目の前のできごと」って仕事でも合気道の稽古でもそうですが、つまらない、取るに足らないことが多いんですよね。だから現実だけ見ていると絶望する。だけど「大きいなにか」が見えていたら、「目の前にあるできごと」に意味が見えてくるんです。やはり自分の一挙手一投足が、できるだけ影響力を持つように動きたいものです。不毛なことは、嫌いです。
2007年10月04日
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ぼくが「キミ」といえばおまえのことなんだよぼくがいう「あなた」もおまえのことなんだよYou、英語で呼んでみてもねそれはおまえをさす二人称は目の前にいる人に使うそれはきまっていない「誰か」だけどぼくが「おまえ」と歌えば、それはおまえのことなんだよそれってすばらしいことだとおもわないか
2007年10月03日
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「チャリチョコ」見ました。不思議な映画!!なんかぜんぜんストーリーが読めなくてかなり戸惑いながら見てました。色もすごいPOPというか奇怪というか、目が痛いような感じでした。生意気なガキが順々にやられていくさまは痛快です。最後の方でほろりと来ました。「大切なもの」はなんだろね?DVD見てからカラオケ行きました。レパートリーが増えてません。歌えると思ったらモンキーマジック全然うたえませんでした。そんな日でした。
2007年10月03日
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息をしてみようときに立ち止まり空をあおいでゆっくりとすずやかにそして あたたかな 息をときに逃げ出そうおそろしい出来事からおぞましい人間から眠れない夜からキリキリいたむ胃腸からそして立ち向かおうまぎれもないじぶんじしんにウソや大義のないじぶんじしんにはだかのままの じぶんじしんにみずからの命のともしびがこの世から消えゆく瞬間を想像しよう「大切なもの」はどこにある?「大切なもの」はここにある後生大事にかくまってるくだらない名誉やちっぽけな財産やこざかしい知恵やどうでもいいプライド忘れてるもの失ったものなくしたもの捨ててしまったもの息をしてみようすずやかにたおやかにしなやかにゆるぎなくゆたかな息をおびえないでおそれないであせらないでゆるやかに空のように海のように大地のようにはるかなるとこしえのあてどない息を忘れてみよう小さなことは忘れてみよう忘れたらきっと 思い出す捨てたらきっととりもどす「大切なもの」を
2007年10月01日
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「パイレーツオブカリビアン デッドマンズチェスト」を観ました。オモシロ!!なんかワクワクもするけど、滑稽っていう意味で面白かった。アクションシーンっていうのかな、ゴロゴロことがったりピョンピョンはねたり、まるで「ピタゴラ装置」を見ているようで、あれよあれよいう展開にかなり笑いました。最後の方の三つ巴の鍵の取り合いなんかも真剣なんだけど、どこかコントじみてるっていうか、「軽い」んだよね。主張や思想性も顕著には見えないし、エンターテイメント性が前面に押し出してあって、すごく楽しめました。「3」がたまらなく楽しみです。ジョニーデップが気に入ったので、今度は「チャリチョコ」を観ることにします。
2007年10月01日
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