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今日、合計したら5時間くらい運転していましたが、その間、ほぼずっと身体のことを考えていました。そのなかで、アレクサンダーテクニークの「すべては筋肉の緊張として翻訳される」というのが、頭につっかかっていました。それを考えながら、「意識を広げる」練習をしていました。しかし意識は「広がれ」といって、広がる性質のものでもありません。じゃあ、どうするかというと脱力するといい、ということに思い至りました。からだの力を、部分的に順番に抜いていくと、「意識」が変わっていくんです。意識が変わる、というのはなんといったらいいか、「考えの焦点が変わる、もしくは拡散する」というような感じです。たとえば、前の車だけを見ない、ミラーだけ、信号だけに集中しないということです。それで面白いことに、このからだの力を抜く、ということは「今を生きる」という感覚とそっくりなのですね。ほんの瞬間でも未来を生きようとすると、人は緊張します。一般に、「焦る」と言います。それをアレクサンダーテクニークでは「エンドゲイニング」と呼ぶらしいです。エンドゲイニングとは、エンド(目的)をゲイン(得る)することで、大切な「今」を未来のために消費することを言います。「早く到着したい」という思いは焦りであり、焦りは、かならず身体の緊張となってあらわれます。まずはその緊張を感じること。しかし、それがなかなか難しい。自分のからだがどうなっているか、ということは訓練をつまないとわからないのです。今日、そのことで「からだを澄ます」ということばを思いつきました。耳を澄ますのではなく、からだ全体を澄ます。透明にする、敏感にする。いま、じぶんのからだの何処が緊張しているのか。そっと、感じてみる。それができてはじめて、その緊張を解くことができる。からだを澄ますことは、今を生きることです。からだを澄ますことは、感じることです。感じれば感じるほど、ことばを忘れていきます。こういった世界を、ぼくは面白いと思います。
2007年06月30日
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今日も名古屋に行ってきました。ここのところ毎週行ってる気がします。遠いね、名古屋は。外国か!と思うくらい遠いね。今日はクルマで行きましたが、行きは3時間くらいかかったよ。・・・はぁ?迷ってねえよ、ボケ!道が混んでたんじゃ!!(キレてみました)そう、今日は迷わずすんなり行けたのよね。帰りなんて2時間かからず帰ってきました。名古屋は大須をちょこっと歩いてきました。公武堂にひさしぶりにいきました。初見先生のDVD買っちゃったよ~。大光明祭の2003ね。見るの楽しみだなぁ。でも、店員も愛想ないね。なんか眼が死んでるっていうか。DVDの並びも訳分からんし・・・。武道コーナーに興味ある人がいないんだろうな、たぶん。天下の公武堂さんなんだから、もうちょっとこだわればいいのに。残念だ。さて、路中、斉藤孝の「呼吸入門」(角川書店)という本を読んでいたのですが、残念ながら読み終わりませんでした。やはり運転しながらでは集中できません。そのかわり、姿勢についての気づきを得ました。ほんっとに首の緊張って気づきにくいね。というか首の姿勢をよくするのすげえむずかしい。首の姿勢は首だけを直してもだめだ。どうしても胸が関係してくる。しかし、おもしろいことに首と胸を整えれば、勝手に肚に落ちる。肚で呼吸しないと、うまく首は乗らないのだ。もちろん腰に力が入ってもダメ。首・胸・肚はセットなのだと実感しました。それにしても斉藤さんの文体は「詰まり」がないね。なんか速読用に作られたような本ばっかり。読まなくて、眼で見たほうが早いような文体なんだよなあ。つっかかりがなくて読みやすいんだけど、逆に味も素っ気もないというか。そう思うと谷崎の文体はやっぱりシブいよね。というか俺が明治趣味なだけかな。武道家だったら、青木宏之先生の本もなだらかで、胸を打つような調子だったなあ。木村達雄先生の母性をくすぐる文体も好きです。あ、俺の文体はどう見られているんだろうか。なんて、話がそれまくりました。名古屋に行ってきましたよ、という話だったのに。でもやっぱり休みの日は遠出したいよね。毎日毎日、同じ場所にいるのはツマランです。来週も行こかな~。電車で。おしまい。
2007年06月30日
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あなたが自己卑下しているつもりで言ったことが「真実」であるとき、ぼくはとてもこまってしまうのだ。
2007年06月29日
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妄想退治を生業とする人たちがいます。「現実」にすこしでも即さないことがあると「妄想だ」「幻想だ」と目くじらを立てる人たちです。カンタンにいえば、占いとかが大嫌いな人たちです。唯物論者っていうんでしょうか。そういう人をみてぼくは思うんですが、そのような人たちこそ、ほんとうはいちばん妄想を信じたがってるんじゃないでしょうか。それか、もともと妄想家の人です。いろんな妄想をしまくっていたけれど、けっきょくそれが妄想であることが判明して、それ以後「夢」を見ることができなくなってしまった人たち。自分の「夢」が壊れたものだから、他人の「夢」までをも破壊しようとするんですね。けっきょく誰かの妄想を退治しようとするのは、自分のなかに生まれてくる妄想を退治しているのです。コドモの「妄想」をたたきつぶすのはオトナの役目であります。しかし、オトナになろうとしすぎて、自らの夢までをも壊してしまっている人もいるのではないでしょうか。ぼくらは生まれたころからちいさなオトナだし、死ぬまで大きなコドモであると思うのです。自分がオトナになったと思って、「コドモよ」と振り返ったその瞬間、ぼくらはオトナではなくなってしまう。オトナとコドモはむかいあってはいけないのです。オトナが見せるのはつねに「背中」でなければいけない。現実をことばで伝えるオトナはみんなニセモノです。現実というものを背中で語る人がほんとうのオトナなのです。だから誰かの妄想を退治しようとしてはいけない。それは、自分が妄想家であることを証明しているようなものです。夢や幻想は現実と同じくらい大切です。
2007年06月29日
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意識、ということについてぼくたちはあまり意識的ではありません。意識とは何かということを知らないまま、なんとなく意識ということばを使っているのです。「誰誰を意識して」とか「意識的に~~する」とか、まるで意識ということがわかったかのように使っているのです。しかしおそらく、意識というのはこういうものだと簡明に説明できる人は少ないのではないでしょうか。からだについて研究したり本を読んでいるうちに、意識とはなんだろうかということが気になってきました。そして今まであいまいだった「意識」というものをすこし考えてみました。まだ完成した理論ではないですし、もちろん「正しい」とは全く思っていないのですが、ちょっと書いてみますので、「ふーん」という感じで読んでみてください。意識というのは具体的です。あるようなないような、というものではない。かならずあると明言できます。意識というのは、カタチがありません。どこまでも小さくなるし、どこまでも広がるものです。意識には量があります。また意識には濃淡があります。注意、つまり「意」の「注がれる」部分が濃くなります。ですから、ある部分が濃くなれば、ある部分は注意が薄くなるのです。意識は「性質として」広がります。それは薄くなるということと同義でもあります。また「性質として」均一になろうとします。つまり、「何もしないと」、広がっていき、それがゆえに薄まり、そして均一になります。達人のクレープ作りのような感じです。思考とか集中ということは、「注意」のたぐいになります。つまり、意識の「濃」をつくるはたらきがあります。あまりにもある部分が濃くなりすぎたときに、「まわりが見えていない」状態になります。「気」ということばの用法のうち、何点かは意識のことを指していると思われます。気を遣う。気が滅入る。気が引ける。気を配る。などにおける「気」は「意識」と置き換えることができ、なおかつ具体的に実感することで「意識とはなにか」、ということを確認することができるでしょう。意識はほとんど、言語による思考とは別の次元にあるようです。ぼくたちは表面的なものにとらわれがちです。だから、壁がひとつあると、その奥になかなか意識がいかない。いぜん「家は魔境である(考え方がうちにこもる)」ということを書きましたが、意識のことを考慮にいれると、その理由がわかります。つまり壁のせいで、意識が外まで飛ばなくなるので(飛びにくいので)、考えがこもりがちになるのです。また「家(いえ)」のことを「うち」と呼ぶのも意識の作用によるものでしょう。抜けるような青空のしたで、天を仰ぎながら、「俺はダメだ」と思うでしょうか。雄大な自然を眺めながら、「我は偉大だ」と思うでしょうか。たいていは、「自分などちっぽけだ。その自分の悩みなどもっとちっぽけだ」と思うのではないでしょうか。そのとき、左脳的思考や論理で考えるのはありませんね。「自然は偉大である。それに比較すれば、ぼくの悩みは・・・」と考えたのではない。なんとなーく、悩みが晴れていって、そのあとに「自然が雄大さに比べれば、自分なんて・・・」と理由をあとづけしただけなのです。ほんとうは、「なんとなーく」の部分が大事で、雄大な自然にふれて、自然と意識が広がったのです。「自分」という矮小なものに注意しすぎて、ちぢこまっていた意識が、「勝手に」広がったのです。このように、意識というものを曖昧にではなく、「具体的に存在するもの」として捉えていくと、この世界のいろいろな現象が見えてきます。今日思いついたところなので、まだまだ未熟な論でしたが、今後意識についてもっと意識したいと思います。でも、「意識」っていうことばがどうもなじみがないんだよなあ。「気」じゃウサンくさいし・・・。また実感でなにかいい言葉があったら名づけてみます。あ、タイトルの意味がわからないと思いますが、それはおいおい明かされるということで・・・。
2007年06月28日
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「じゃあ、インターネットで調べるわ」と言うおじいさんは、どこかほこらしげに話しているようにみえる。
2007年06月28日
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ぼくの家は、ようクモがでます。あの8本足の蜘蛛です。築10年くらいだからでしょうか。1週間に一回はかならず見ている気がします。もう慣れました。ひとこと「南無」とことわってから、プチッとやってしまいます。その話を人にしたら、いわく「どこかに巣があるんじゃないの?」そう、そこらにクモの巣があるんです。まれに家のなかにも作られます。なので「そう、いたるところにあるよ」というと、その人は何か恥ずかしそうな顔をしていました。そのときぼくは気づいたのです。その人がいう「巣」のイメージは、アリの巣のような「穴」だったのです。それでぼくがいわゆる「クモの巣」の話をしたので、「そういえば、クモの巣ってアレだった」と思い出して赤くなっていたのでした。でも実はぼくも、たくさんのクモに遭遇し、「これはもしやどこかに巣が?」と思っていたのです。というのも「クモの巣」にそのクモはいないんですね。だから「穴」みたいな巣をイメージしてしまった。あの「本人」がいない巣っていうのは何なのでしょうか。あそこで獲物を待ち構えるんじゃないんだろうか。部屋のなかにでてくるクモはいったい何をしているのか。おとなしくしていりゃ、成仏せずにすんだものを。これからまた虫の夏がきます。生きることとは何か。ぼくはちいさな死を前にまた考えるのでしょう。
2007年06月28日
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まちがいは、まちがいという存在なのだ。
2007年06月28日
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ことばを捨てなければならない。ことばは捨てれば捨てるほど、その意味が鮮明になる。ことばこそが、「そのものまるごと」を殺してしまうのだ。暑い。夏だ。というか梅雨だ。蒸し暑いよ。はい、じゃあここで「あつい」ということばをなくしてみましょう。そしたら、どんな「感想」が出てくるでしょうか。なんか汗ばんでくる。ベタベタする。息苦しい感じさえする。扇風機つけたい。クーラーつけたい。つめたいお茶飲みたい。アイス食べたい。まだまだあるとは思いますが、主なものはこんなところでしょうか。つまり上に書いたようことが、ぼくらが「あつい」と言っているときの「正体」だったのです。ぼくらは以上のような「感じ」を総合して「あつい」と言っているわけです。だから、同じ「あつい」でも実はいろんな「あつい」があるんですが、まあそこまではやってられないので、とりあえず「あつい」にまとめとこか、というのが「ことば」ということです。ぼくらはことばにとらわれがちです。あることばを聞くと、それに対応する対象があると思い込んでしまいます。それは「好き」ということばにとらわれて、まるで「好き」という感情というもの、が存在するような錯覚におちいってしまうようなものです。このあたりはちょっとむずかしいので、今日はこのへんまでにしておきましょう。とにかく、一度「ことば」を消してみてください。「明日も仕事だ」の「仕事」ということばがないとしたら?「あいつむかつく」の「むかつく」がないとしたら?「俺はダメ人間だ」の「ダメ人間」ということばがないとしたら?「わたしのカレはやさしいの♪」の「やさしい」ということばがないとしたら?こういう実験をしていくと、自分がなにをどうとらえているのかが分かってきます。ぜひやってみてください。
2007年06月28日
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君がどんなときでも美しいその理由は、ぼくの中にあるんだ。
2007年06月27日
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呼吸点ゼロ、という観点を考え付きました。これは呼吸筋群がまったく働いてなく、脱力している状態をさします。で、その状態をもとに呼気と吸気の関連を考えたいのですが、まだ理論すらあいまいです。たぶん思っているより、呼吸の仕方というのは種類が多いのだと思います。歩くということが何種類もあるように。そこが要研究だ。
2007年06月27日
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私たちが考えてもよいことは、人生において、世界においてたわいもないことだけである。また、私たちが考えることができることの解答はすべて「どっちでもいい」「どうでもいい」に帰着するのである。大切なことほど考えてはいけない。大事な岐路こそ、流れにまかせるべきなのです。私たちは守られています。だからそれにまかせればよいのです。じぶんの人生をじぶんで切り開いてはいけません。私たちはそのような傲慢な力を持つことをゆるされていないのです。私たちにできることは、ただ「歩く」ことだけなのです。
2007年06月26日
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なぜ迷うのか。それは一所懸命でないからということに尽きる。
2007年06月26日
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愛されないといって苦しむものはいない。苦しいものは、愛せなくて苦しんでいるのだ。騙されたといって苦しむものはいない。苦しむものは、自分を騙しているのだ。
2007年06月26日
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愛と同時に距離が生まれた。いや、距離と同時に愛が生まれたのだ。畢竟、それは同じなのかもしれない。
2007年06月25日
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いちばん役に立つ学問というのは宗教です。ぼくらの根底にはかならず「神話」が根付いています。「神話」なしに世界を飲み込むことはできない。なにかの理由をさぐり、そのしくみを知ることは世界を「かみくだく」ことです。しかし、最終的には飲み込まねばならないのです。世界をどこまでもかみくだこうというのが科学であります。それは悪いことではない。飲み込みやすくなることだから。だが、かみ続けることには際限がない。また、「かむこと」と「のみこむ」ことは本質的に違う。飲み込むために、かむのです。それを忘れてはならない。かまないで、それか一口だけかんでゴクンと飲み込んでしまうのが宗教です。どっちが早いかといったら、言わずもがなです。あとは好みの違いになるんじゃないでしょうか。いつ「飲み込むか」ということです。そういえば、ぼくは小さい頃から何かを飲み込むのが苦手でした。錠剤とか、焼肉のホルモンとかイカ焼きとか。そのことと、ぼくが「なぜ」と問い続ける性格であることは、きっと何らかの関係があるのでしょう。世界を飲み込むというのは、「なぜ」の世界を捨てることです。そして「どう」の世界に移行していくのです。すこし具体的に言えば、「なぜ生きる」という問いを無駄として破棄し、「どう生きる」ということをのみ問うということです。「どう生きる」の「どう」は力強いあゆみのことばです。なぜなら「どう」と言った瞬間、生きることが前提となるからです。「なぜ」はいつも過去です。そして「どう」は未来にあります。誰の心にも神がいます。だから誰もが宗教家なのです。そして宗教こそが、何にもまして生きていくことに役に立つ学問なのです。そしてぼくのなかの神が云っています。「おまえはまだ、なすべきことをなしていない」と。
2007年06月24日
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最近といえば最近ですが、「あなたは独特の考え方をする」と言われました。それはその人の意見だけでなく、他の人もそう思っていて、ぼくはぜんぜん知らなかったのですが、彼らは「独特だよね~。ちょっと観点違うよね~」とよく話していたそうです。以前のぼくだったら、これほど嬉しい誉め言葉はありませんでした。独特。人と違う。個性的。ちょっと視点が違う。変な人だ。そういったことをぼくはとても言ってもらいたがった。そして同時に他の人が「あの人、ヘンだよね」と言われているのを聞いては、「いや、彼(彼女)はフツーだよ」と言ったりしていた。ぼくはぼくだけが「変な存在」であることを願っていた。しかし今、ほんとうにぼくは変なのだろうか、独特なのだろうか、と思います。というか、ぼく独自の発想なんてないのに、ひどく誤解されているんじゃないかと思うのです。ぼくはたくさんの本を読みます。(この半年では50冊前後)それにくわえて感化されやすい性格です。だからその本の思想がすぐにこころに入ってきてしまう。それで自分の中で「思想のごった煮」ができて、それを書いたり言ったりしているだけなのです。ぼくが考えたことなんてのは、ほんのすこしなんです。それでも、今いる「周りのみんな」や「友達」の考え方しか知らなければ、ぼくの考え方が「独特」に写るかもしれない。もう一度いいますが、しかし、ぼくはただ、たくさんの本を読んだだけなんです。ほとんど無批判に読んだ本も多かったですが、反対意見の本を読むことで自然と、自分の中で「なにが正しいのか?」という問いが常に起こった。ぼくは、もともと独創的な考え方を持っていたわけでもないし、生まれたときから変だったわけじゃないと思います。ちょっと気が引けますが、イチローが「ぼくは天才じゃない」と言い続けているのを真似して、「ぼくは独特ではない」と言ってみたいと思います。謙遜なのかどうかも自分でよくわかりませんが、なんとなく誤解されている気がしたので書いてみました。
2007年06月24日
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尊敬とは方向性である。尊敬というのは、自分があるく道の、はるか先をいく人の背中にむけて送られるまなざしだ。尊敬とは、近づこうと努力すればするほど離れていくような感覚だ。尊敬とは、人間の奥深さを学ぶ機会である。だから、道を歩くことがない人は、誰をも尊敬することがない。道を笑う者は、歩くものを「自分から疲れてどうするの」と軽蔑する。道を歩かない者は「どこへ行くのか」という不毛な問いかけをする。道を知らぬ者は「ここで酒を飲めばよいのだ」と云う。道を歩く人は、どこかへ行くのではない。道は、どこかへ通じているのではない。またどこかとどこかをつないでいるわけでもない。わたしが歩いているところが道なのだ。歩く理由などはないのだ。歩くことじたいが、意味なのだ。どこかにたどり着こうが、どこかで野垂れ死のうが、そんなことは関係ない。道を歩く者はときおり思う。「わたしはバカなのではないか?」と。それはある意味で正解である。賢いものは、酒と、そして「友」と戯れている。けっきょく道を歩くことなど、時代遅れのバカがやることなのだ。しかしバカに生まれたからには、歩くしかないのだ。
2007年06月24日
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わたしよ、おそれることはないのだがんらい、じぶんというのは幻想なのだ何もないということが しあわせなのだどんなに強固な雪玉をつくっても春が来れば、とけてなくなるおそれることはないのだおまえは おまえなのだたとい その証明がなくともカタチにして誰かに提出する個性など必要ではないのだわたしよ、おそれることはないのだ固めるから、くずれることがこわいのだゆっくりとやさしく、とかしていけばいいのだおまえは おまえだなにをすることがなくともわたしが わたしであるために努力することはやめよおまえは おまえとして 存在せよおそれて だから とんがって誰かを拒むことで、自分をみとめようとして、同時に愛されたいとねがうわたしよ、もうやめるのだおそれることをやめるのだおまえは おまえの特技によってこの世界に存在するのではない勝ちの数が多いほど価値があるという幻想にふりまわされるのはやめよ人々に点数をつけるのをやめよ満点じゃないというあたりまえの事実をこばむなわたしよ おそれることはないのだなにはなくともおまえは おまえなのだ
2007年06月23日
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同一性の消失の危機こそがもっとも人々の恐怖と不安をかき立てるのであり、それがゆえに、怒りをともなうのだ。なぜなら同一性の消失は、ほとんど死に等しいからである。
2007年06月23日
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理由なきものをこそ愛せよ。
2007年06月23日
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わたしは加害者でもなければ、被害者でもない、はずなのだ。
2007年06月23日
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耐えよ!!どこまでも深く、どこまでも強く、どこまでも激しく抑制しなければ、ほんとうに解放されることはないだろう。
2007年06月23日
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うつくしいものをさがすな目の前にあるものが うつくしいのだきずを いやそうとするなきずは いえるものだただしいことをしようとするなどうせ まちがっているのだからいまから 世界にいってきます
2007年06月23日
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古代ギリシャでは、少年愛の習慣があったそうです。いわゆる同性愛です。またそれが、ふつうの恋愛よりも高貴なものとされていたとのこと。なんだか、現代の感覚でいくと、不思議な感じがしますね。しかし、織田信長もその気があったそうですし、まあ昔から、「少年愛」というのはけっこう「ふつう」のことだったのですね。っていうか現代にだって、ふつうにありますからね。ぼくの周りにはなかなかいませんが・・・。感情は、個人個人が持っているのではなく、「構造によってきまる」という考え方があります。つまり、感情がまずあって、それで構造ができるのではなく、構造にしたがって、それを保つべく感情があるというのです。また、思考も構造に左右されます。ぼくは日本語の文化に生きているので、「日本語(という構造)による世界の分け方」しかほぼ知らないのです。だから必然的に「日本思考」になってしまう。と、いうのが構造主義なんですが、ホントにそうか?って思ってきました。ほんとうに言語がないと思考ができないのだろうか?言葉を知らない赤ちゃんは思考していないのだろうか?言語でしか思考することができない、というのは思い込みにすぎないのではないだろうか?っていうかね、西洋の哲学者たち、自殺しすぎです。これは、言葉で考えることの弊害だと思うんです。言葉で考えるからいきづまる。言葉というあいまいなものに頼りすぎるので、限界がくるのではないでしょうか?やはりここは東洋哲学の出番なんじゃぁないでしょうか。もちろん禅病なんかもありますけどね、「そういったことがある」とはっきり判明しているのは、すくいになったりすると思うんです。仏教系で大成すれば、自殺したりしないでしょう。結局、しあわせになって、しあわせにできればいいんです。自分だけがしあわせなのを「オメデタイ」と言います。ぼくはそうはなりたくない。オメデタイ人は醜いと思う。やはり、人をしあわせにするちからを持たないといけない。というか持ちたい。だから、考えるんです。
2007年06月23日
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含胸抜背というのは中国語ですから、自分の感覚に置き換えて日本語で表現してみると、「胸を抜く」という感じです。胸をペコン・フニャンとさせる感じ。これは筋肉でいったら小胸筋を弛緩させることなんじゃないかと。またそれが肚の力を使う素地になるとも思う。しかしいまひとつ肚の運用がわからない。うむ~。
2007年06月23日
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意外にも、「モーニング娘とは何か」という問いは、非常に深い何かをふくんでいると思う。ヒント:モーニング娘は誰ですか? あなたは誰ですか?
2007年06月22日
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人の心を読んでみたいですかと訊かれたら、多くの人がYESと答えるだろう。そう、ぼくらはいつもは見えない他人のこころを見てみたいと思っている。逆に、自分の心を読まれたいですかと訊かれたら、NOと答える人が多いのではないだろうか。自分のなかの、みにくい部分を読まれたら困るからだ。しかし実際のところは逆だったりしないだろうか。ぼくは「ぼくの心を読んでくれ、読んでくれ」とたまに叫んでいる。ぼくのこころを忖度してくれと願っている。そのとき、ぼくは相手のこころを読もうともしていない。ただ、自分に照らしあわせて、相手のこころを決め付けているだけだ。これでは、単なる大きな子どもだ。「俺の気持ち、わかってよ」ってダダをこねる25歳。情けないじゃないか。自分のこころを読んでほしいのか、相手のこころを読みたいのか、はっきりしなよ。
2007年06月22日
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美人はオーラで決まる。顔のつくりじゃないのだ。
2007年06月22日
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情というものがさっぱりわかりません。だいたい、世間においては情のある人間のほうが「よい人間」ということになっている気がしますが、いかがでしょう?みんなそのことを知っていて、情の深い人間であることをお互いに主張しあったりしてないでしょうか。テレビの扇動的な編集にも気づかず、それらしい話を聞いては、「かわいそう」だとか「泣ける」だとか「〇〇してあげたい」だとか「私は人の感情を共感することができますよ」的な主張があふれかえってないだろうか。あまりにも浅薄すぎる。「やっぱり親子の愛情というものは どこの国でも同じなんですねぇ」なんてオマエ、どんだけ調査したんだっつーの!!勝手に普遍化するなよ。たとえば「親殺し」はほんとうに「痛ましい事件」なのか?そういったことは問題にされない。「痛ましいに決まっている。お前にはココロがないのか」といった回答。そして決まったように、「最近の若い人は想像力が欠如していますね・・・」アンタは脳みそが欠如してるよ。もっと考えなきゃダメだ。常識知ってるフリしたってダメだ。自分で考えるというのはすごく難しいのだ。自分で考えてるつもりでも、すぐに常識にのっとられたりする。本質的には、「自分で考える」ことはできないかもしれない。しかし、自分で考えようと努力しなければ、なんの考えも生まれない。煽られてはいけない。疑義だ。疑義をはさめ。感傷的なつくりにたいして盲目的に涙してみせることが愛情のある人間ということではないのだ。
2007年06月22日
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ぼくらは何かを想像することができるのだろうか。なにかを組み合わせることはできているような気がします。しかし、まったくのゼロから、見たことも聞いたこともないようなものを頭のなかで創造し、想像することができるだろうか。例えば愛の象(かたち)もただ愛するだけで、そこへ向かうのだろうか。想像というのは、本質的に「実感」でなくてはならないと思う。そうでなければ意味がない。人が経験より先に、実感を得ることはあるのだろうか。おそらくないだろう。だからぼくらは、偶然による経験を待つ以外には手だてがないのだ。
2007年06月22日
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〇〇「だから」××。「だから」はふつーに使われている接続詞ですが、こいつは意外にネックなんじゃないかと思う。ふざけていた。だからケガをした。がんばって働いた。だからお金がたまった。睡眠不足が続いていた。だから体調不良になった。だから、だから、だから・・・。ぼくらはカンタンに「だから」という言葉を使う。そして「だから」というとコロリと納得してしまったりする。しかし、ぼくらの「だから」はあまりにも身勝手な、自分中心の論理だったりはしないか。ふざけていてもケガをしない人もいるのです。がんばって働いても、お金がたまらないこともある。睡眠不足が続いても、体調不良にならないこともある。自分の「だから」を正しいと思い込むと、たいていはケンカになります。とはいえ、たぶん「正しい『だから』」というのは存在しないのです。要は、「納得できるかどうか」で。納得というのは、「納豆食う」ことだと思います。なにかネバネバした、得たいの知れない「事実」というやつを強引にかみくだいて、そして強烈に飲み込んでしまう。そして腑(内臓)に落としてしまうのです。食べきってしまえば、なんで納豆食ってんだ?という疑問もなくなります。きっと最後に、「おいしかった」と言えれば、それでぼくらは満足できるんじゃないだろうか。長くなりましたが、「こころを探るシリーズ」これにて一時的に完結です。ついてこれた方はいらっしゃるでしょうか。コメントお待ちしております。
2007年06月22日
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たぶんぼくらは、神話がなければ死ぬ。なぜなら生きることは「本質的に」くるしみだからです。だから、「なぜ苦しいのか」ということを誰かが教えてくれなければ、僕らはたぶん死ぬでしょう。「うつ」というのは「うつつ」と関係があるんじゃないでしょうか。「うつつ」は漢字で「現」です。現在の現実。生きることは苦しいという現実。それが見えてしまうのが、うつという状態なのかもしれません。まあ、通俗的語源解釈の域を出ませんが。生きるということが「本質的に」くるしいから、生きるということにはよろこびがあります。それは、冬というものが本質的にさむいので、コタツというものが嬉しいという構造に似ています。だから人生をたのしむ、というのは冬を楽しむというのに似ていると思います。冬はさむい。だから、かなしい、つらい、くるしいのでしょうか。だから、こごえ、ちぢみ、凍てついていくのでしょうか。それもあるでしょう。しかし、その逆もあるのです。家に入ればコタツにみかん、みんなで囲むナベ。外に出ればスキー、スケート、スノーボード。「冬」だから、楽しい。楽しいということは意味がいらないということです。意味というのは、「理由」と同じことです。ぼくたちは死に向かって生きている。ぼくたちは、かならず死ぬ。なぜ、死ぬのだろうか。わかりません。「死こそが生をもっとも輝かせる」なんてわかったような解答を出すこともできましょうが、今はそんなことを言いたい気分ではない。ぼくが疑いたいのは、生と死が対極にあるのか、ということです。生と死はどういう関係にあるのだろうか。生と相反する死?死は生をふくむ?生は死をふくむ?生は死である?死は生である?死生観、といいますね。「死」が先に来ている。順番と逆だ。よくわからないが、たぶん生と死は、女と男と似ているんだろう。
2007年06月22日
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「病気」ということが発生するときには、いろいろな理由があります。西洋の医学では、病気の理由を「しくみ」で説明します。〇〇菌が入って、××が化膿したため、とか〇〇が炎症を起こし、△△が異常をきたしたため、とかです。それも、もうすこしは「解明」されているようです。なぜ、〇〇菌が入ると化膿するのかというのは、たとえば〇〇菌の持つ、××ぺプチターゼがサイクロ△△オキシジェンにATPを放出し・・・、みたいな「理由」です。でもこれも「しくみ」を説明したにすぎない。本質的な「理由」ではない。「病気」ということには、やはりこころも関係してくる。おおいなる矛盾をかかえた、こころというやつが。人は病気をイヤなものだと思っていて、みな健康になりたいと思っている(と人は思っている)。しかしぼくらは、ときに病気になりたがる。それは表面的には出てこないけれど、たしかにぼくらは病気になりたがることがある。「治りたい」と叫びながら、みずからその症状を重くしていく。野口晴哉先生の本に、「アンタのは大した風邪ではない」ということはあるタイプの患者には決して言ってはいけない、ということが書かれている。というのも、患者が心配してほしがっているときに「大したことはない」というと、「いいや、これは重大な病気だ」ということを身体が主張するために、風邪が治りにくくなるというのだ。これはことさらに面白い事例だとは思いませんか。先ほどに申した「こころの矛盾」の一例です。「いいや、これは重大な病気だ」というのはプライドとか意地の問題でしょう。すなおに「ああ、大したことないんですか。良かった」と言える人なら、たぶんすーっと病気は治るのです。それをなぜか、なにか大切でないものを守ろうとして、大切ななにかを失っていく。だが、このような構造にハマってしまいうる、構造になっているのはなぜなんだろうか。もっとシアワセな構造はつくれないのか。こころの偏りや病気は、「試練」だという考え方もあるようです。スピリチュアルな方向では。みずからの魂を鍛えるために「今」という試練があるのだと。これはまさに神話です。神話を使うのがわりかし早い例です。ぼくも「神話」に手を出すのは早いほうです。まったく唯物論者ではない。しかし唯物論者といえど、かならず「神話」を使っている。そうでなければ、たぶん、死んでいる。「死」ついに「死」が出てきました。これから「死」について考えてみましょう。
2007年06月21日
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世界の「なぜ」について考えているところでした。そして最終的には誰しもが「なぜ」の「理由」について答えることはできず、「神話」に頼らざるを得ないのでしたね。さて、今日は「こころ」ということを考えてみましょう。なぜ、こころは矛盾するのでしょうか。なぜ、不幸になる人が現れるのでしょうか。本を読んでいると、人が幸福になる原理、不幸になる原理というのは解明されているようです。和語のがわかりやすいですね。「しあわせになるしくみ」「ふしあわせになるしくみ」としましょう。よくこのブログでも書いてますが、どうやら「こころ」というのは「やりたいことをやる」としあわせになるようです。こころが思ったことを、勇気を持って、すなおに表現し、まっすぐにすすむこと。おそらく、それが言葉にできる幸せの方程式です。自分でもこれが体現できているときは、非常に心地よく、幸せな気分になります。しかし、これがうまく運ばなくなるときがあります。なんだかんだで意地を張ってしまったり、プライドや世間体、見栄や見かけにとらわれて、先に書いた「原則」を守れなくなってしまうのです。そうすると、途端に不幸せになります。それがなぜかというと、たぶん「こころがこころを守るはたらき」のせいだと思うんです。こころが自分を守ろうとして、それはたとえばプライドなどですが、そのおかげで「原則」から逸脱し、不幸になります。しかし、その「理由」というのはあくまでも「しくみ」なんです。「原理」のことしか答えてないんです。「なんでこころが自分じしんを守ろうとするのか」というところはまったく不明なのです。こころが自分じしんを守ろうとすると、そのことで不幸になるということをこころは知っているはずなんです。しかし、こころはこころを守ろうとする。これは不思議なことなんです。そしてこれは「病気」ということに似ているんです。
2007年06月21日
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「なぜ」について考えているのでした。なぜ、なぜと問うのか。なぜということは意外にも早く煮詰まってしまうけれども、もうすこし奥までツッコんでみよう、ということでしたね。さて、そのナゾを解くカギは「原理(仕組み」)」と「神話」なのでした。それはいったいどういう意味なのでしょうか。ぼくが思うに、なぜという問いに対する答えは2種類になります。それが「しくみ」と「神話」です。たとえば、「なぜ、音が聞こえるのか」という問いがあったとします。その答えとして、「空気が振動して、その振動を鼓膜が感知し、それが聴神経をとおして、脳に伝わるから」というのが挙げられる。(正確ではないですが、例ということで。)これはある意味で、正解の答えです。しかし、同時にまったく答えになっていない。というのは、「しくみ」については答えたけれども、その本質的な「わけ」については何にも答えていないのです。なぜ、音が聞こえるのか。ということは、「なぜ、音が聞こえるような構造に人間がなっているか」という問いでもあります。それをたとえば「なにかを伝達し、また受容するため」などと答えたり、もしくは何かしら進化論的な答えを与えたりしても、「その理由は?」と聞かれつづけたら、最後には「いい加減にしろ!」という「あきらめの解答」しかないのです。そこに「神話」が生まれます。神話は、人々が「納得」するために生まれました。人類が生まれてから、みんな「あれはなぜだ、これはなぜだ」といろいろな疑問を持ちました。しかし突き詰めていくと、結局、理由などわからないことがわかった。それでも「理由などない」というほどぼくらは強くなかった。それに「理由などわからない」ということを証明することすらできなかった。それで神話が生まれた。ウソかホントウかというレベルではない。ぼくらが「納得」するために、おおきく言えば生きるために、神話は生まれた。つまるところ、神話をどのレベルで使用するかということなんです。たとえば、「なぜモノを見ることができるか」という問いに、「光がモノに反射し、それが人間の眼に入り、その刺激が視神経を通って、脳に入るから」と「しくみ」を答える方法もあるし、はなから、「神が世界を教えてくれるために光を与えた」などと言うこともできるのです。「科学的に」考えれば、前者が「正しく」て後者が「古くさい迷信」ということにでもなるでしょう。しかし、最終的に「神話」を用いなければ、誰かを納得させることはできないのです。その神話を使うのが早ければ早いほど、宗教色が濃くなる。スピリチュアルな話になっていく。反対に、最後の最後まで「神話」をとっておくと、「科学的」な色合いの濃い説になっていく。だから勘違いしてはいけないのは、たとえば科学と宗教が反対の立場にあるというふうに考えることです。結局は、どちらも「神話」に基づいているのです。そのレベルが違うだけなのです。「神話」がなければ、誰もが何をも説明することができない。そのことをぼくらは自覚しておかねばならないのです。
2007年06月21日
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心は、心そのものはいったい何を求めているのだろうか。僕たちに関するいろんな疑問は、その多くが「生きたいから」という答えにたどりついてしまう。なんで食べるの? 生きたいから。なんで寝るの? 生きたいから。じゃあ、なんで生きたいの?と考えてみると、それは「自分の子供を残したいから」という理由になるわけです。それを難しく言うと、「種の保存」といいます。でも、その次になると、つまり「なんで自分の子供を残したいのか」という疑問を投げかけると、もうほとんどみんなが「うん」というような仮説がないのです。いちおう「遺伝子が自分じしんを増やしたがっている」という「利己的な遺伝子」という説があるようですが、たといそれが真実であろうと、じゃあ「なぜ遺伝子は自分を増やしたがっているのか」となると、もうお手上げになってしまうのです。(なんか最新の仮説があったらすいません。ぼくは知りません。)なぜ、ということは意外に早く煮詰まってしまうものです。だから「なぜ、なんて考えているヒマがあったら行動しろ」という哲学を持っている人もいますし、またそれは非常に「実用的」です。というのも、社会で生きていくうえでは「なぜ」ということを考えなくてもできることがほとんどであり、いやむしろ、「なぜ」と考えない方がうまくいくことのほうが多いのです。そもそも「なぜ」を知ることはほとんど意味のないことです。「なぜ」を知っても何の役にも立たないのです。しかし、今夜からは「なぜ」のなぜについてせまっていきます。なぜかといえば、楽しいからです。先ほど「なぜを知ることに意味はない」と言いました。意味がないということは、「楽しい」ということです。その意味もおいおいわかっていただけるでしょう。なぜを解く鍵は「仕組み(原理)」と「神話」です。それをこれから、ゆっくりお話しましょう。というかぼくも考えながら書いています。それでは今夜からどうぞごゆるりとお付き合いくださいませ。
2007年06月19日
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男は女の表面的な拒否を見抜き、そして受容されねばならない。表面的、または倫理的拒否を見抜けないならば、男は一生受け入れられないだろう。またそのとき、男の愛は理性に裏づけられていなければならない。
2007年06月19日
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家には魔物が住んでいます。そのなかでも強力なやつがフトンのなかに棲んでいます。家での思考というのは、「こもり」ます。考えれば考えるほど、「こもっ」ていきます。こもるっていうのは、うーん、どう表現すればいいんでしょうか、「煮詰まる」感じですかね。頭蓋骨が、脳みそが、かたまっていくような感じです。また悲観的にもなる。というか「考える」ということじたいが、「こもる」ものでかつ悲観的なものなんでしょう。だから家を出て、働きだせば、また「考え」も変わります。思考は「場」に大きく作用されます。けっして「確固たる自分」が理性的に思考できているわけではない。だから家での思考というのはつねに危険をはらんでいます。しかし同時に家で死ぬほど考えてこそ、そとで動いているときにひらめくことがあるのです。ですから、「家は魔境である」ということに気づかねばなりません。それを知らずに「自分は事実をもとに、合理的に思考している」という思い込みのもとに考え続けると、かならず落胆し、絶望します。思考は「場」に作用されるということを忘れてはなりません。思考ほどあやういものはないのです。家は魔境です。不思議なものです。たんに壁一枚があるだけなのに、どうしてこうも意識が変わるのでしょうか。家というのはほとんど幻想です。しかし思考に多大なる影響を与えます。その意味で、家は魔境と言えるのです。
2007年06月19日
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実家に帰ってきました。ひさしぶりに家族5人そろいました。ひさしぶりにテレビ見ました。なんか動物ものやってました。「幻のイカを探せ!」みたいなやつ。ちょっと珍しい生態を紹介したりして。セックスの仕方とか。で、卵が出来たらしいんだけど、その生み場所(隠す場所)を探しているうちに「流産」しちゃうんだね。それをちょっと感傷的に見せたりして。そのあとに、「昔はさんご礁のなかに、卵を隠す場所がたくさんあったのです。 しかし人間のせいで、さんご礁も減ってしまい、 イカもこんなに苦しい思いをしているのです」・・・って!!子供だましか!で、最終的な「まとめ」が「イカにも人間のような感情がある」おい!思わずふき出してしまいました。お前はイカ以下か!いかにも、というならそれでいいんだけどね。「なんで感情がある」って分かったんだよ~。それ、何をもとにして言ってるんだよ~。イカの「表現」を勝手に解釈してるだけでしょ?イカの気持ちなんてわかるかい!それに「人間に感情がある」ってのもわかった話ではないでしょう。そもそも感情って何さ?って話で。自らの立脚している視座をはっきり捉えるということ、というか自らの「正しさ」につねに疑義を持つ、ということの大事さを改めて思い知ったね。
2007年06月16日
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最大限に面白いね。大学で勉強したことを復讐しつつ、思考法の整理をしつつ、新しいことを学びつつ、楽しむ。これ以上の知の愉しみはないね。快楽ですよ。 今日読んだところで「著作権の否定」というのがありました。カンタンにいえば、「著作権」なんてのは傲慢な考え方だ、ってことらしい。そもそも「作者」とか言ってるけど、あんたの考えは誰かの借り物だろ?ってことみたい。そりゃそうだよね。まずは思考するための日本語。これは借り物。自分でまったくはじめから、言語体系なんて作れる人いないでしょう。それから、なにかを「組み合わせ」、「組み替えた」のは「作者」だとしても、創り上げたわけではない。だから「著作権」なんてのはなくてしかるべきだということらしいのだけど、これはけっこう新しい考えじゃない?まあ新しくはないけど、「著作権」になれた僕らには新鮮な考え方だと思った。ひさしぶりにワクワクしながら本を読んでいます。明日はついにレヴィ・ストロースの章に入ります。ちなみに、ぼくは言語という記号の恣意性についてはわりと懐疑的です。よく「日本語でイヌ、英語でdogだから、そのもの(意味)と表現(音素列)にはなんの関係もない(恣意的だ)」と言われますが、ほんとうにそれだけで「恣意性がある」という証明になるのでしょうか。構造主義では、それを自明としているようですが・・・。そもそも擬音語は完全に恣意的なわけじゃないし。音が持つイメージは伊達じゃないよ、たぶん。言霊だもん。だから文化を比較して見てしまうと、まるで恣意的であるように感じるとしても、その文化のなかでは必然性があったと思うんですね。すくなくともある程度は。世界中で、「母」は「m」で始まることが多いっていうのは有名でしょう?もしそれが証明されたら、つまり言語は記号(符丁)じゃなかったということだったら、また、世界が面白くなるよねえ。そうなったらいいなあ。あ、もちろんこの記事は「ぼく、こんなことも知ってるんだよ!」という知識自慢ですので。
2007年06月15日
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笑い、というのは深いですね。人はなんで笑うんでしょうか。いろんな笑いがあります。微笑・爆笑・失笑・苦笑・蔑笑・・・。わたしはそれくらいしか漢語では思いつきません。まとめてみると、笑うというのは「安心」に関係していると思うんです。ホッとしたときに、人は笑うんじゃないでしょうか。ホッとする、というからには息をつめるような緊迫する事態があって、そこから「安心」に変化する、その瞬間に笑いが生まれるということです。「くすぐったい」と人は笑いますが、あれも安心なのだそうです。くすぐったいところは、だいたい急所ですね。身体の内側に通常かくれている部分が「くすぐったいところ」なのです。脇とかね。だからそこを触られると、僕らは危険を感ずるわけです。重たく言えば、生命の危険です。でも、たいがいそんな部分を触ってくるのは仲の良い関係の人だったりしますね。だから、「ああ、急所だけど触られても大丈夫やん」と「安心」するわけです。「急所を触られた!」という緊張から、「ああ、大丈夫じゃん」という安心へ。そこに笑いが生まれる、ということです。だから自分だとくすぐったくないんですね。それは「はっ!」と緊張しないからです。ずっと緩んでいたら、「安心への変化」がないので、笑いが起きないわけです。また、くすぐったい部分のはずなのに「相手」が触ってもくすぐったくないときがありますね。それは僕が、そしてあなたが、「相手」をゆるしているから、「はっ」と緊張しないから、くすぐったくないのです。それがどんなときなのかは、言わずもがなです。またいわゆる「お笑い」というのもその構造で成り立っているようですが、話が長くなるので割愛します。で、今日言いたかったのは、「人は安心する過程で笑う」という構造を利用して「私は笑っているから安心している」という表現をときおり僕らはする、ということです。ドラゴンボールですよ。相手がどんなに気をアップさせようと、どんな形態に変化しようと、まずは笑っておくのがセオリーですよね。「うおぉぉぉぉ!パワー100倍だ」「フッフッフ(←)。それが限界か?」「ククク(←)。俺を見くびるなよ。こんなもんのはずがないだろう」「ガハハ(←)。俺様はまだ3分の1しか力を出していないよ」「フフン(←)。何が3分の1だ。本気のくせに」「フフフ(←)。俺様の本気を見せてやろうか?」・・・エンドレス!!早く戦えよ、みたいなね。戦闘民族のくせに、意外に能書きが長いのね。まあマンガに対してツッコむのはやめておいて、とにもかくにも僕らは「笑う」ということで、自らの優位を示そうという作戦を立てるわけです。怒れるときほど、「笑う」のですね。でも、人は服従・追従するときにも「愛想笑い」というのをやりますね。あれは何なのでしょうか。もうすこし考えて、「人はいつ笑うのか」ということを解明してみたいと思います。
2007年06月15日
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昨日の夜、すごく上手に技をかけている夢を見ました。こうね、手をパッと触れただけで相手の腰が崩れちゃうんだね。ぜんぜん力をかけている感じがしなくてね。その夢のなかの感覚はまだ覚えています。それで朝起きて、「ああ、人の出す力は、曲線にならないんだなあ」ということを悟りました。さて、今日とつぜんに「合気はインテリの身体操作なのかもしれない」と思った。日本伝のほうで、「合気(之術)は上流階級の武士が修めた武術だ」みたいな説があったと思いますが、まあその説の真偽はおくとして、たしかに合気というのは万人に開かれた道ではないと思いますね。合気はけっして普及されることなく、ある「特殊な人」たちのなかで「伝承」されていく技芸の類だ。もちろんこれから数百年のあいだに人間の身体遣いがまるっと変わってしまったら、合気が当たり前の時代がくるかもしれない。だけど、すくなくとも僕の生きているかぎりでは、そんなことは起こらず、合気は「みんな」にはできないものとして崇められるだろう。おっと、ここで定義をしておきたいが、今日の論でぼくが合気というとき、それは「合気的な技術」をさします。というのは合気というのはさっぱり分からないからです。しかし、続けていくうちに表面的には似たようなことができるようになる。「合気っぽい」くずしができるようになる。その是非と、それらのレベルはさておき、そういった「似たようなこと」をとりあえず合気的な技術と呼びましょう、ということなんです。そしてそれを、今日は思い切って「合気」と言ってしまいますよ、ということです。そいで本題に入りますが、合気はインテリの身体操作というのはどういうことでしょうか。ぼくが思うに、合気ができる人というのは、なべて頭がいいです。実に論理的にしゃべるし、だから分かりやすいし、それに柔軟な思考を持っている。だが、本質的には厳しい。どうやらお勉強の偏差値はあまり関係ないようだが、まったく関係がないこともないらしい。私見では、合気ほど大学教授に向いた身体操作はない。なんにせよ、知的好奇心が旺盛でないと合気のはじまりにも立つことができない。もちろん知的好奇心が旺盛な人とそうでない人がいますから、やはり合気は「限定された人のためのもの」だと思うんですね。これまでも、これからも。もちろん「だからすばらしい」なんて言うつもりはないんです。ただ、非常に「才能」が関係してくる分野だなあと思うんです。それでその「才能」が何かって言えば、「知的好奇心」と「感動する心」だと思うんです。それは少々文学的に言えば、「開かれた心と目」を持つことです。それがない人には、合気は一生できないし、理解することも、その世界に触れることもできないと思います。その意味で合気はインテリ専用の身体操作であるとしてみたいと思います。
2007年06月15日
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ついこないだなんですが、漢数字の二、四、六、八、十、つまり偶数ですね、その形が、左右対称であることに気づきました!え、知ってた?なんかぼくにとっては意外な発見でした。これ、偶然にしてはうまくいきすぎてるよね。2で割り切れる数(偶数)は、形の上でも2で割れるんだよ。これはすごくない?ということで興味が出て漢数字の起源を調べてみたんですが、まだやっぱりはっきりした説はないようです。そもそも「一」からして、なんで1が横棒やねん!っていう話らしい。言われてみれば、そうだ。当たり前と思ってたけど。それで、点でも〇でもいいやんけ!いや、それじゃ鼻くそと間違えるやん!だから間違えんように棒にしてあんねん!的な議論があったりするようです。それから、「じゃあ、二は何ねんな?」ってことになって、これは「対」っちゅう、概念を表しとんねん。しかし、なんで下のが長いんやろ、ってアンタ昔は同じ長さのもあったんやで、みたいな。じゃあ「三」は言ったら、そりゃアンタ、「2+1」に決まっとるやないか、そやかて3は3なんちゃうん?のび太がメガネ外したら、目が「3 3」になってんねな、とか。そんな議論があったりで。四にいたっては、いったいこれ、何の形なん?ちょっと仮面ライダーみたくない?みたいな議論があったりで。けっきょく、結論は「わかりませんな~」というところらしい。数はロマンだねえ。漢字はもっとロマンだねえ。みんなもっと、ロマンを感じないといかんよ。
2007年06月14日
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きょうは あめだ よかったなおなかが いたい よかったなあしたも しごとだ よかったなつらい おもいも よかったなおちゃが おいしい よかったなとけいが うごいてる よかったなかぜが ふいてる よかったなむかいかぜでも よかったなかぜが やんでる よかったなよかったな よかったな よかったなきみが いてくれて よかったな
2007年06月14日
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「寝ながら学べる構造主義」を読んでいます。これがクソ面白い!!内田樹さんやるなあ。ぼくはなんのせいか、たぶん合気道をやっているとかいう同属嫌悪なんですかね、彼が好きじゃなかったんです。でも構造主義を勉強したかったので、ついつい買ってしまいました。そしたら面白いのなんのって。というか、恥ずかしかった。基本的に僕の思考体系というのは大学時代に築かれたものが大きいんですね。もちろん高校のころから考えるのは好きでしたが、モノの見方が変わったのは大学時代です。今おもえば、かなり構造主義に染まった授業ばかりを選んでいたなあと、思うわけです。もともと素地があったんでしょうか。ソシュール研究の大家に言語学を学び、文化人類学の先生が好きだったので、まるまる2年講義を受けました。それにふたりの先生を大いに尊敬していたので、多大に影響を受けたのです。(もうひとり、中国語の先生を尊敬していました)言語学の先生は「すべては差異である」という考え方には懐疑的でしたが・・・。それに「実地調査」をする文化人類学を嫌っていました。「学問は頭の中でやるものだ」とおっしゃっていました。まあ、それはそれとして、そんな学問を学んでいくうちに、知らぬ間にぼくは、構造主義を「真理」と思い込んでいたようです。思い込む時点で構造主義じゃないじゃん!って言われそうですが、まさか自分の思考方法が「ある色」に染まっているなんて気づかないものです。。自分の「考え」が偏っているな、ということくらいわかったとしても、自分の思考方法が偏ってるとは思いもよりませんでした。それが「恥ずかしかった」の正体です。というわけで、「寝な構」ですが読み終わったら、また日記書きます。昨日から、休憩時間が楽しくて仕方ないです。
2007年06月13日
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「他人を見下す若者たち」、読了です。最後まで読んでおもしろいと思ったのが、「かなしみがなくなってきている」ということでした。昨今は、かなしみではなくいかりが爆発する時代なのだと。かなしみは過去の遺物。まっとうにかなしむことのできる人間が減っている、同時に「仮想的有能感」を持った人が増えている、といった感じの論旨でした。(仮想的有能感についてはこの本を読むべし。著者の造語)思えば、ぼくもかなしみのすくない人間です。というか、かなしむのは苦手です。よく母が、「アンタは小さいころ、転んでも泣かなかったけど、 怒って道路をなぐっていた」と言っていました。幼いぼくにすれば、「道路のバカヤロウ!」ということなんでしょうか。あんまり覚えてませんが・・・。矢沢栄吉が自動ドアにぶつかって、「フェアじゃないね」と言ったのに似てますね。つまり、たぶんぼくは性格的に「他責」のタイプで、相手に責任をなすりつけるクセがあるのでしょう。ぼくはあんまり、先にかなしむことがない。それよりも憎む。しかるのちに悲しむ。かなしむときは、ひどく自己嫌悪しています。それには、何かしらくだらない「プライド」といったものがつきまとっている気がします。もしくは「なぜ」が以上に発達しています。なぜ、なぜ、なぜ・・・?そこに起こっている状況そのものに対して、まっこうから感情を表出するのではなく、「なぜ、こんなことが起きているのか」「なぜ、こんなことになってしまったのか」その理由を、いつも探している気がします。理由なんてないんです。あったとしても必要ないんです。「いま」にまっこうから対峙するとすれば。それでもぼくは「わけ」を欲している。それが何故だかは知らない。たとえば生きる意味だって欲しい。そんなものはないと頭で知っていても、僕は生きていく理由がほしい。ただ、毎日を一生懸命生きていくことができる人もいるかもしれない。でも今の僕にはそれはできない。ゴールがほしい。どこか、たどりつく場処が。それに「夢」って名前をつけた途端に青臭いガキの絵空事になるのかな。みんな、どこへ生きてるんだろう。みんな、なにを目指しているんだろう。みんな、どうなりたいんだろう。そして、ぼくは・・・?なんだか話がそれました。かなしみ。いつでも微笑みを。いつでも、かなしみを。
2007年06月13日
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武道とはなんだろう、と思います。今日は武道・武術・格闘技をすべて武道と呼びます。武道のひとつの完成された姿として、忍者の初見先生がいらっしゃる。初見先生の動きはまるで雲か霞のようで、まるで戦っていない。遊んでいるだけにしか見えない。そして「神秘的」なところがあまりないように見えます。もちろん技を食らえば「なんたる神技!」と思うのかもしれませんが、あまりに自然で、神秘性をほとんど感じません。むしろ必然性を感じる。また尊敬する先生に太極拳の瀬戸師範がいらっしゃいますが、瀬戸師範の技は「神秘的」です。むろん瀬戸師範もなんのてらいもないような姿からなにげなく技を繰り出されるのですが、そこには神秘性があります。お弟子さんは、触れただけで吹っ飛びます。最終的には触れなくても、転がっていきます。両先生とも神技には違いないのですが、その表現のされ方があまりにも違っています。ここに、稽古法または考え方の違いがあるような気がします。ここからは、というか上記もなんですが、すべて私論なので、目くじら立てずに読んでほしいのですが、「取り」ではなく「受け」によって武道の表現方法というのは大きく違ってくるのではないでしょうか。日本の武道は、「受け」(掛けられるほう)が取り(掛けるほう)の技を感じて受けをとる、という稽古法を採用している流派が多いような気がします。(ごめんなさい、調査あいまい。)「受け」に「倒される/倒されない」という観点そのものがない。相手の技を感じられるかどうか、ということに第一義がおかれているような気がするのです。「やわら」という名前も何かしら関係していそうです。それが中国拳法になると、身体を鍛えるという観点が入っている。いわゆる「功夫」ですね。(もちろん日本の武道でも身体を鍛えている流派は多く存在します)「功夫」という考え方を用いると、優劣を比べるということが、比較的たやすくなるわけです。より多く鍛えた方が、より強いという単純明快な原則が生まれます。それでどちらの稽古法も一長一短があると思います。「やわら」の稽古法はご存じ、合気道にも採用されていますが、どうしてもウサンくさくなります。技がヘタなのを、受けのせいにしやすいのです。もちろん受けが悪い場合もあるでしょう。稽古なんですから。しかし、まだまだ自分に改善の余地があるにも関わらず受けを否定するだけで、成長が止まってしまう人もいます。「相手の方が身体がつよい」という事実を受け止められなくなってしまうのです。テクニックでなんとかなると思ってしまいがちだ。逆に「身体を鍛える派」だと、安易な力対決に終始してしまう可能性もあります。また鍛えた身体に頼りすぎると、繊細な感覚を失って、相手が力を入れてくれないと技がかからない、といった状況に陥りがちです。だからどっちが良いということはないと思うんです。ただ、自分の流派の稽古法の特徴をただしく知ることは間違った方向に進まないための第一歩だと思います。どちらの稽古法でも正しくやれば最終的には同じところにたどり着くのでしょう。そんなことを考えながら、最終的に「ああ、武道というものは存在しないのだなあ」という結論になりました。おわり。
2007年06月13日
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「幸福の黄色いハンカチ」見ました。「元気が出るテレビ」を思い出したので、ふと借りてみました。おもろいね。なんか作為的な演出がぜんぜん見当たらない!ごくごく自然に、ごくごく自然ではないストーリーが流れていく。それがすごいと思った。「見せよう」という気張った意識がほとんど感じられず、その自然さこそが名作の所以だろうかと思った。それか武田鉄矢の存在感がありすぎて、他のところに気が回らないというのもあるかも。そしていつのまにか高倉健に焦点が移行しているのが珍しい流れだなと思った。誰が主人公なんだろ、みたいな。最近はドラゴンボールZのアニメをネットで見てるんですが、ちょうど今、人造人間のところなんです。(セルが生まれたところ)16,17,18号が車で移動してるんですが、それが「幸福の黄色いハンカチ」とオーバーラップしてなんだか笑えました。18号はセクシーだと思います。クリリンの気持ちも分からんではない。
2007年06月12日
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最近レンタルが開始された「大奥」を見ました。うーん、面白かったな。★4つくらい。★★★★映像うつくしかったなあ。静中動って感じで。画面がぱーって静止して、一部分だけがヒョイと動くんだけど、むしろそのとき、背景としての動かない部分が語りかけてくるっていうか。居合の演武に通ずるものがあると思った。動く静止背景+仲間由紀恵の「魅せる呼吸」でかなりの緊迫感でした。ストーリーは、「ローマの休日」を彷彿させました。「一夜の恋」を終生おもいつづけるって、すごいよねえ。(ネタバレ?)大奥の「嫌われ役」たち、ハマリすぎです。あれに近い人たちを見てきているので、ぞくっとしました。仲間由紀恵が純真な役のわりにあんまり可愛くないのはなんででしょう。ぼくは純真な乙女は大好きですが、あんまり可愛く感じませんでした。きりっとしてステキだな、とは思うんですが。将軍様、幼すぎです。そのわりに言葉遣いむずかしすぎです。今後はもうすこし名作を見ていこうと思っています。
2007年06月09日
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