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最近は本末転倒(アベコベ)な制度や体系が跋扈しています。まずは、学校ということ。小学校1年生のまだ動物に近いような状態のときから、「テスト」なんてものがありますね。それも、わかっていないところを教えてあげるために実施されるのではなく、人の価値を一面的な数字ではかるために、行なわれるテストです。点数が悪い子は、「なんで勉強しないの」などと怒られます。点数がよかった子は、まるでその子の存在自体が素晴らしいかのように扱われます。ちゃんとした価値ということを誰も教えてくれない。視点があまりにも偏っている。たいてい、勉強というのはつまらないものです。書き下せば「強いて勉める」、まあ嫌なことを頑張るということです。つまり、今の学校制度では、好きなことを好きなようにやる人よりも、キライなことを我慢してやる人のほうが評価されているのです。これはおかしなことだと思いませんか。人間の本来の価値である、自由だとか、素直だとか、勇気だとかいうことがまったく置き去りにされているどころか、その正反対のものに価値が置かれているのです。前も言いましたが、キライなことを我慢してやるのは、見返りを求める生き方です。嫌なことを頑張ってやったら、カミサマが何か良いものをくれる、という考えです。こういう考えは、他人を束縛する人の考え方です。「私はこれこれこうしたのだから、あなたはこれこれこうするべきだ」という自分勝手でごうまんな考え方です。それが他人相手ならまだしも、相手はカミサマだからね。罪も重い。そういった価値観に基づいているから、今度は「サボりをふせぐこと」に重点を置いた制度ばかりができてくる。やりたくないことをやる、という価値のもとに体系立てられているから当然のことなのですが。「〇〇のテストで××点以下だったら、単位あげない」といった感じで、罰することを主体にとらえている。もうこうなると、学問の本質からまったく離れている。大学生になっても同じだ。「レポート何枚以上書かないと単位あげない」「何回以上出席しないと単位あげない」学びたくもない学生に、教えたくもない教授が、教える。みんながやりたくないことを頑張っている。だから「さぼりを防ぐ制度」ばかりが発達する。やりたいことをサポートする制度ではなく、〇〇をやらないように締め付ける制度が出来上がる。そういった体系や制度のなかでマジメに生きていくと、最後に地獄が待っている。ま、その地獄も結局は、自分自身が作り出すものなのだけれど。
2007年02月28日
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基本的に上司というものは墨塗り教科書なのだと思う。何かを教えるということ。その何かが本質でない場合、それは文化という体系の中でしか生きない。それがたとえば会社という文化のなかで通用するならまだしも、その部署内、もしくはその上司だけにあてはまる文化であることが多い。教えられたことをきちんとやったって、上司が変われば「学んだ」こともすべて無になる。それが「墨塗り」という意味。だから、誰もが信用できない。だから、いつも冷めた目線でいることが必要だ。マジメな顔をして、話半分に聞いておけばよい。上司から教えられたようなことを、目くじら立てて、後続に教えるようなことはしたくない。けっきょく、自分で覚えたことがいちばん大切なのだ。どんな教科書も、いつかは墨塗りになる。それは戦後だけの話ではない。戦前の僕ら(日本人)は間違っていたが、終戦を経て、目が覚めてマトモになった、なんて勘違いしている人がいちばん危ない。「今の自分はちゃんと思考している」なんてことを思わないほうがいい。僕らは、かならず何かに惑わされているのだ。もう一度言います。今後、かならず「墨塗り」が起きるのです。価値が転換される時期が来る。そんなときに、マジメな人は対応できない。教えられることが正しいと思っている人は、「実はそれがウソでした」と言われたときに、絶望する。すべてに懐疑をかけるということ。自分で考える、ということ。会社というのは、従業員のことを人間とは思っていません。兵士だと思っているのです。会社というのは軍隊です。それが良いとか悪いとかでなく、そういう価値観の集まりだということです。軍隊に、だらしない人間は不必要です。また、楽しい生活に軍隊の行動様式は不要です。ただ、そういうものだということ。ただ、そういうものだということ。
2007年02月28日
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誰かにとって、真に価値ある存在になるためには、他の誰かにとって真に無価値な存在になる覚悟が必要だ。
2007年02月28日
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「ちゃんと教える」というのはなんだか変な気がします。みんな、学校教育や「びじねす」の毒に犯されて、感覚が麻痺してしまっているんじゃないだろうか。いいですか、大切なことは言葉にはならないのです。だから大事なことは教科書には書いてないのです。そんな当たり前のことを忘れてやしませんか?「ちゃんと教えてもらえること」なんてくだらないことばかりです。どこまでもくわしく、わかりやすく、かみくだいて・・・。そうやって、教わる人は、アタマの消化能力がないのです。消化能力を鍛えない人は、アタマが悪いままです。ツバメの子供のようにピヨピヨピヨピヨ、かみくだいた知識を、口をあけて待っている。「ちゃんと教えられること」なんてつまらないものばかりです。そんなものを後生大切にしているのは、バカらしいと思いませんか。ああ、僕はつくづく抽象思考の人間ですね。ときおり、こんなふうにユートピアルな考え方に支配されます。それはアタマの休養にもなるんですけど・・・。技術なき思想は、無力です。思想なき技術は、暴力です。このくだらない世界で、いかにくだらなく生きるか。それが問題だ。
2007年02月26日
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「人は中身が大事だ」よく言われていることです。「人は外見が大事なのだ」これは最近の風潮ですね。一見して、まるで矛盾している意見のように見えます。しかーし。この二つの意見は、矛盾していないのです。コトバの表面しか見えない人には矛盾に見えるでしょう。そう、かわいそうなことに、表面的なことしか観えない人には、世の中というのは矛盾ばかりに見えるのです。それで迷う。しかし、実際には矛盾することなどほとんどないのだと思います。コトバにとらわれなければね。□■□■□「人は中身が大事だ」それは当たり前のことです。可愛くても、性格ブスはサイアクです。「人は外見が大事だ」というのは「技術」のお話なのです。ビジネスマンは清潔な格好をしていなければならない。□■□■□「人は中身」というのは抽象世界のお話です。真理の世界です。理想郷です。ユートピアです。実際には、存在しない世界です。「そうであったらいいな」という「あらまほしき」世界です。「人は外見が大事」というのは、現実の世界の具体的な話です。世の中、世間一般の話です。生きていくための知恵であり、生きやすくするための技術です。もうちょっと言えば、「外見が大事、と思っている人が多い世界」で役に立つコトバです。□■□■□だから、「人間は、中身と外見のどっちが大事か」という議論は成り立たないわけです。そもそも土俵(論点・視座)が違うということです。だから同じ「大事」というコトバでも、意味は違うのです。そこに気づけるかどうか。「人間は本来的には中身が大事なのだけど、実際には、外見がいいやつが幅を利かせているよ」ということを矛盾と感じるかどうか。そういった、この世界の「灰色さ」を受容できるかどうか。□■□■□「割り切りセックス」というのがありますね。「これはお金(あるいは快楽)のためで、愛じゃないのよ」というやつらしい。こういうのは世間にも自分にも負けた考えです。負けたのを認めたくないがために、勝ったふりを演じて虚勢を張っているのですが、ほんとうは目もあてられないくらいの惨敗です。世間というものはズルイものです。そのズルさに触れるたびに心が折れそうになります。「いっそ僕も『悪く』なれば、どんなにか楽だろうか」と。というか僕もよく折れてます。悪になったら、けっこう楽なのです。ほんとうは善が大事なのです。しかし、悪が強いのが現実なのです。そういった事実にどこまで耐えられるか。どこまで「どうせ」というコトバを発さないでいられるか。「現実」という暗闇のすき間からふと見える「真理」という一条の光をどこまで探し続けることが出来るか。割り切らない、というのはそういうことです。これは諦める、ということでもあるんですが・・・。そしてこれは矛盾しない。諦めないことと、諦めることが同時に存在する。そういうあり方を認めることができるかどうか。□■□■□表面にとらわれない、ということは、そういうことだと思う。
2007年02月26日
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欲望を持つことは大事なことだ。僕らは欲望を持つことで、生きている。□■□■□「欲はないほうがいい。」そりゃ、真理にそぐわない欲望はかならず身を滅ぼす。そういった欲望は毒だ。昨日、学習参考書の棚を整理していたら、「我が子を有名私立中学にいれる方法」みたいな本が並んでいて、いまだにこんな滑稽なことを考えている人がいるのかと驚いた。愛してやれよ、と言いたいね。むかし、「受けてる企業は大企業ばかりなんですよ」となぜか自慢げに言っていた就職活動中の学生がいたが、こういう輩もどうかしてる。心ん中のいちばん大切な歯車が落っこちてるんじゃないだろうか。□■□■□満たされるというのは虚しいことだ。「自己満足」という言葉があるが、よくよく考えてみればおかしい。満足はつねに、自己完結している。満ち足りるということは、終幕という意味である。自分のなかで何かを終焉させることを満足という。飽和という言葉があるでしょう。「飽きる」という字が使ってある。満たされたら、それをしたくなくなる。当たり前だ。食欲というものが、いくら三大欲求のひとつだとは言え、お腹いっぱいのときにフルコースを食べきることはできない。そんなとき、僕らは満ち足りることの虚しさを知るだろう。□■□■□どこかへ向かって走ると、そこにたどり着いた瞬間に、先がなくなる。「目標」を掲げて走る人間は、ゴールにたどりついたその刹那、はたと自分を見失ってしまう。そうした人が、なんとか自分の欲望を、つまり「行く先」を見つけようとして、誤った方向に走ってしまうのではないだろうか。□■□■□欲望を持つのは大切なことだ。また欲望を持つのは大変なことだ。それは、シッカリと今の自分と向き合うことだからだ。自分は何がしたいのか。何がすきなのかをきっちり自分と向き合い、対話すること。それが欲望を持つということだ。欲望が見出せないままに、なにがしたいのかもわからないままに、ただ「今苦しめば未来が楽」などという安易な考え方に流れても、ただの苦しみ損に終わる。自分を未来に置く生き方は、見返りを求める生き方だ。やりたいことをするのは、今を味わう生き方だ。「味わう」ということ。良いも悪いもない世界。感じるということ。認めるということ。ゆるすということ。観るということ。□■□■□いま、どうも世間というものが「ゴール」にたどり着いてしまい、右往左往している気がしてならない。「北へ!北へ!」と走り続けて、たどりついた北極点でみんながたむろして、腐っていくような感じ。そろそろこの「北極点」からみんな好きな場処へ還っていく時代になるのではないかと思っている。この大いなる虚しさの北極点から、はじめに抜け出すのは誰だろうか。
2007年02月26日
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上虚というのは透明性のことです。下実というのは、充実感であり、筋力であります。ぼくが思うに、今の僕は下実が足りていないです。身体の透明性に関しては、まあまあよいと思います。通す管があるのに、中身がない。血管があるのに、血液がない。英語は話せるのに、話すべき思想も哲学もない。そんな状態です。逆の人もいると思います。「筋力」はかなり発達している。これは「受身」などでも鍛えられるので、比較的根性論でも上達するのです。しかし上虚ができていないために、その「実」を伝えることができない。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態。こういう人の技は、力強いが強引な感じ。雑な力。自分勝手な技。しかしこれは批判しているわけではない。僕も下実がなってなく、情けない状態だから。つまり、ブレーキは踏んでいないが、アクセルをふかすこともできない腑抜け状態。どっちもどっちだ。けっきょくは、上虚と下実の幅を広げていくこと。つまり下半身の充実と上半身の透明性を同時に鍛えていくということ。なのかもしれないな、という試論に達しました。
2007年02月26日
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どんなに笑顔をつくろっても、けっきょく機嫌で動く人の周りでは、誰もが安心できないのだ。機嫌で動く人には真理がない。機嫌で動く人は信用がおけない。機嫌が基準だから、ぎゃくに計算高い言動になる。やっぱり、信用がおけない。
2007年02月26日
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四股!四股踏み!!四股踏みのように歩くということ。浮き。肚を使うということ。もうすこし。もうすこしで何かつかめそう。
2007年02月24日
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今日は休日でした。それで昼過ぎまでネコのようにゴロゴロしていた。2時半くらいになってやっと動き出して、まああてもなくでかけることにした。「関」というところに向かいました。30分もかからないくらいかな、着いた。住宅街のなかのせまい路地を抜けると、そこに「古い町並み」が残っていた。最近の「古い町並み」というのは、もうカッコつきになってしまっているのだね。つまり、観光地化。僕は観光地というのは好きじゃないが、風光明媚なところをあまり知らないので泣く泣く行ったりしている。観光地というのは、ハレの場所だ。多くの人が住み、そして働く場所がケだ。ケはつまり日常ということ。僕が思うに、もっとも大事なことは日常だ。「まつり」は大したことじゃないのだ。仕事だって、勉強だって、合気道だって、恋愛だって、なにげない日常こそが、なによりも大切なのだ。小学生の作文で、「いちばん思い出に残っているのは修学旅行です」なんてのはウソだ。つくられた「イベント」はほんとうの思い出にはならない。「イベント」は、なにげない日常をつづるための手段<ポイント>に過ぎない。何かをとらえるときに、ポイントでとらえようとすると、かならず過ちが起こる。歴史認識のズレなどは、その典型例だろう。しかし、かなしいことに、僕らは、ポイントをしぼることでしか、そのもの全体をとらえることができないという特性を持っている。教科書をいきなり全部おぼえることはできないが、「要点整理」された参考書があれば、勉強もはかどる。日常茶飯事。日々、朝を迎え、メシを食い、笑い、泣き、はたらき、愛し、そして眠る。そんな他愛もない毎日にこそ、大切なものがひそんでいると思うのです。毎日を大事に出来ない人に、祭りを楽しむことはできない。これは自戒だ。僕は、今を本気で生きているだろうか。素直に自分にぶつかっているだろうか。何が勇気で、何が逃げなのか。どうやって、判断すればよいのだろう。なんだか話がそれました。とにかく「古い町並み」という名前のところに遊びに行ってきました、という日記です。
2007年02月24日
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綺麗じゃないキレイじゃないむしろ自由だよアタシは線なんかにとらわれたくないの頚動脈切ったらぴゅーって天井にまで血が噴くよ白いノートが好きだったまるで未来のようなノートアタシにしか読めないノートそれでもいいの人がつくったおにぎり二つに割るの好きキレイじゃない綺麗じゃないよでもねむしろ自由We Are HAPPY yeah...
2007年02月23日
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おにぎりを作ってみたら、なんだか血まみれな感じになりました。ほんとうはキムチまみれです。無理だろうと思って握ってみたら、案の定ムリでした。 ・・・orz!!(テンション高) 帰り来て 扉を開ければ 豚汁の かおりただよい 外すネクタイ将来のことを考える毎日です。
2007年02月23日
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すごーく久しぶりに畳稽古してきました。いや、マットを敷いてやったからマットプレイかな。それにしてもぜんぜん効かん!!ダメダメですね。何がなんだかわからなくなってきました。ちょっとまとめ直し・考え直しが必要のようです。以下は、ozekeyメモですので、読み流してください。最近は体の力が抜けてきたのは間違いないと思います。身体のパーツとパーツ、床と足裏などのぶつかりが減っているようには思うのです。しかし、効かない。なんで効かないのでしょうか。陰陽虚実のこと。理想は上虚下実。力を抜く、とは「上虚」の稽古。「下実」は、筋肉だと思う。内部の。けっきょく実があるから、虚が生きる。僕には、実がない。だから効かない。相手に響かない。あと、気になること。僕の稽古の方向性じたいが間違っているのか、それとも稽古が足りないのか。「虚の技」の達人の技はどこまで普遍的なのか、ということ。虚・陰の技がおそらく体の技になり、実・陽の技がおそらく気の技になる。この一見すると逆転現象にも見えることがおこるのはなぜか。表面的な筋肉の技は、どこに分類されるのか。柔術最強論。そもそも強さとは何か。「ジャンケン」ということ。ジャンケンを超越した身体を創造すること。力はどう出すのか。呼吸・・・。ああ~。分からないことだらけだよ。今は、力の出し方を修得したいな。人間の身体ってやつぁ、どうなってんだ?!
2007年02月22日
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自分というものを、つねにどこかバカにしていないといけない。真剣もほどほどにしないとキレちゃうよ。マジメったらしい顔ってば、すごく「自分ラブ」な顔だよね。俺はキライだな。「自分のやっていることが社会に役立つ」とか、そんな表面的で、自己満足な使命感はキライだな。そういうやつに限って、他人の人生は無意味って思ってるんだ。周りが見えてないんじゃ、どんなに真剣にやったって、みんな苦笑してるよ。「がんばってるね」って。誉め言葉じゃないんだよ。みんな、さげすんで笑ってるんだよ。嗤われてるのを、肌で感じながらやらないとダメなんだ。みんなの蔑笑が、声援に聞こえるくらいでないと。「自分のやってることなんて、バカらしくて、どうしようもなくて、くだらないことだけど、だけど、好きでしょうがないからやってる」俺は、それくらいの間抜け感がスキだな。頼むから、そんな真剣な目で俺を見ないでよ。怖いよ。マジメにやっちゃあ、あかんのよ。
2007年02月19日
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ほうら、できました。昔っから、こういうの得意なんだ。おまかせあれ♪http://plaza.rakuten.co.jp/ozekey/diary/200702130000/↑参照してね。
2007年02月18日
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恩の時間差をなくすこと。これは幸せのコツのひとつだと思う。恩というのはたいてい、ひどい時間差でやってきます。すこぶる遅れてやってきます。僕らはなぜか、誰かに何かをしてあげた、ということには敏感なのですが、誰かが何かをしてくれた、ということに関して、ひどく鈍感です。ひどく鈍感なのですが、ほんとうに相手がこちらのことを思ってくれていた場合は、その恩が身体に刻み込まれるらしい。いつもは忘れているのですが、あるときに何かの契機によって、ふっとその恩が浮かび上がってくるのです。「そういえば、こんなこともしてくれていたな」と。しかし、手遅れということがあります。というか、たいていは手遅れです。恩を返そうと思ったときには相手はそこにいない。それは恩の時間差のせいです。「何かをしてもらったこと」と「ありがとう」のあいだにひどく時間差があるために、そういったことが起こるのです。だから僕は、その時間差をなるべくなくしたいと思っている。誰かが何かをしてくれたことに対して、その場で「ああ、ありがたい」と思えるようになりたい。なるべく小さなことに注目したいと思うのです。大きなことを見逃す人はいない。しかし、小さな恩ひとつひとつがたくさん積み重なったとき、それは、とてつもなく大きな恩になるのです。だから気がつかない間に、もう返せないほどの恩を受けることになるのですね。恩が返せない場合、かならず悔やむ気持ちが残ります。悔いの残らぬよう、身体のなかにあるありがとうを出し尽くしたいと思います。
2007年02月17日
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幸せというのは、事実やカタチではなく、心の持ちようなのだ、とよく言われます。探しに行くものではなく、ここにあるのを見つけるものなのだと。見方しだいで、いつでも幸せなのだと。うむう、しかしそれは本当だろうか。というかそんな話を聞いて、「はい、僕は幸せです」といえるか、ということなんです。ふつうは言えませんよ。たしかに僕も心の持ちようが大切だと思います。ものの見方、ということ。角度しだいで、いくらでも楽しく幸せになる。しかし、しかしですよ。心にはクセがあるのです。思考のルートってんですかね。ある事象に対して、バイアスがかかるというのか。たとえば、「なにかあるとすぐ人のせいにする」というのはその人の思考のクセなのです。イメージだけで話せば、「人のせいにする」という思考のルートが太くなっていて、いつも思考がそこを通ってしまう感じです。そういう思考のクセを持つ人が、いきなり「それは仕方がなかったんだ」と思えるようにはならない。やはりいつもどおり「あいつのせいだ」と思ってしまう。誰かに「人のせいにするから不幸なのですよ」と言われても、その人が治そうと思わねば治らないのです。思考のクセを変えるには、ある程度の訓練が必要です。そこには苦しみが生じます。それは自分をいったん破壊せねばならないからです。固く荒れ果てた大地を小さな鍬で耕していくような根気のいる作業です。そうやって未開の脳に、幸せ思考のルートを気づいていくのです。幸せ思考のルートがどんどん増え、それがネットワークになれば、もうしめたものです。ただ、その始めの苦しみ、つまり「自分を壊すこころみ」のときに挫折する人を見かける。「ぼく(わたし)には無理だよ」と言って。そりゃ、無理といってしまえば無理です。しかし、耐えればかならず新しい神経回路ができあがる。脳というのは常に、一瞬で変化するのです。それを知っているかどうか。そこまで耐えられるかどうか。耐えれば、心の持ちようを変えることが出来ます。新しくできた幸せ思考のルートは今後もずっと使えるのです。しかしそのように幸せ思考ルートを開発してこなかった人は、結局どんな経験をも不幸に感じることしかできない。ぼくはそういう人を救う手立てをいまのところ持っていない。心の持ちようを変えることで幸せになる。しかし心の持ちようを変えるときに、けっこう苦しみが必要なのだ。だからなにか苦しいできごとがあったときに、ついでに思考のルートを開発してしまえば一石二鳥なのだ。心の持ちようは変わってしまえばカンタンなことなのだ。
2007年02月16日
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英語が話せるようになりた~い。ダイエットしてやせた~い。金持ちになりた~い。金持ちと結婚した~い。ビッグになりた~い。・・・じゃあ、行動しろボケ!その欲望をかなえるためにどうすればいいか考えろ!!中途半端な欲望ぶらさげてんじゃねえ!!するかしないかはっきりしろ!本気で願え!!心から思え!!本気で願うってことは、行動することだ!どう行動していいか分からんというやつは頭が弱いのだ!ヘラヘラヘラヘラ「〇〇した~い」なんて言ってるやつほど、何にもしていない。本当に、何にもしていない。頑張ってるポーズをとってるヤツはいるけどね。本気で願ってるやつは、黙ってはじめているよ。ヘラヘラしてるやつは、どんどん差をつけられてるよ。気がついたころには、巻き返し不可能になっている。テメエらの欲望なんてウソっぱちだよ。もっとガッツこうよ。貪欲にさ。前でも後ろでも右でも左でも、足を一歩ふみださないかぎり、歩き出すことはできないし、どこかにたどり着くこともないのだ。一生足踏みしてろ!!
2007年02月16日
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質問というのは大切なことですが、していい場合としていけない場合があると思う。合気道なんかはしてはいけない場合が多いのではないか。というのは意味がないからだ。まあ技がヘタで口が達者な人を質問攻めにするのは良いと思いますが・・・。本質は、言葉で伝えられることなどほとんどない。本質は、言葉で教えてもらえるほど甘くない。現代は、勉強や仕事でもあまりに「伝える」「教える」ということが軽視されている。みんな、言葉で伝わると思っている。言葉で伝えられることがすべてだと思っている。言えば分かると思っている。言われればできると思っている。甘い、甘すぎる!!一回言って覚えられるくらいのことなんかはほんとうにくだらないことなのだ。「これはこうするのだよ」と言って、教えた気になっているのも、教わった気になっているのも滑稽だ。なぜ表面的なことしか見えないのか。本当に大切なことは自得するしかない。こんなカンタンな大原則を知らない人が多いのではないか。教科書から学ぶという発想じたいが甘いのだ。教科書は、本来、参考書なのだ。とにかく何かの本質が「伝わる」ということは奇跡に近いものだと思う。それくらいの意識を持って、本気で望まない限り、本質を教わることなど到底できないだろう。
2007年02月16日
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最近思うことがあります。それは・・・「やっぱり合気道。」そこにロマンがあるのです。昨今は、「科学的研究」が盛んです。骨盤がどうだの、仙骨がどうだの、腸腰筋がどうだのということがまさに百家争鳴の様相を呈しています。で、なんですが、正直、僕はそれに飽きてしまったのです。モチロン、自分もそういった論文を多いに参考にしてきましたし、自分でもそういった文章を書いてきました。ただ、そういう類の論があまりにも多くて、ちょっと食傷ぎみなわけです。「武道だけでなく、介護やスポーツ、日常生活に応用!!」こんなキャッチフレーズを耳にタコができるくらい聞いてきました。たぶんこれは僕だけじゃなく、けっこう多くの人が「またか」と思っていると思うのです。いま、武術マニア界は、ひとつの転換点を迎えていると思います。その兆しとして、月刊「秘伝」さんが脱「脱力」の「武道筋(ブドウキン)特集」を組まれました。今後はこういった論がたくさん世に出てくるでしょう。さて、それで僕はどうなのかということなのですが、僕は「やっぱり合気道」なのです。それは、端的に言えば、「もう『何かに応用』とかいうのはどうでもよくない?」という意見です。細かいことごちゃごちゃ言わずに稽古せい、ということです。いろいろ知りすぎてもかえって、よくないことがあります。それに科学的・物理的に解明したつもりになっても、ロマンがないでしょう?「これはこうなのだ」と思った瞬間にすべてが終わる。もういいじゃないですか、「気」で。「気とかあいまいな言葉を使うな」という人は、日常生活でも「気が利く」とか「気が合わない」とか「気がおけない」とか「気持ちしだい」とかいう言葉を使うな。僕が「やっぱり合気道」というのには、ロマンを楽しもうということなんです。これがオトナのたしなみなんです。「達人はたいしたことない。腸腰筋を使っているのだ」なんてしたり顔で言っていても、なんか不幸せじゃないですか?やっぱり僕は道着とか好きみたいです。ハカマとかカッコイイと思いますよ。もちろん「技の上達」には関係ないんですけどね、それを分かってもあえてコスプレしたいですよ。結婚式にお嫁さんがジャージで出てくることはないんですよ。ウェディングドレスじたいに幸せは宿らない。しかし、カタチを楽しんだっていいと思うんです。武道ってのは「えいやっ、とうっ」とやるのですよ。カタチを楽しむ、というのはある意味でカタチをバカにする思想です。カタチをバカにする姿勢があるから、一般の人と話が出来るのです。しかし、「このやっぱり合気道」には個性がない。僕の色がないわけです。僕の色がなければ、僕を世に問うことはできない。なにかしらに特化していかねばならない。しかしそれにはあまりに不勉強だし、鍛錬も足りない。今は、先人や先輩の真似をしていこうと思う。それでいつか、自分の合気道ができればいいなあと思っています。
2007年02月16日
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忍者の里として有名な三重県は伊賀・上野へ行ってきました。昼前には出発して、クネクネのけったいな山道を往くこと1時間半強。目的の伊賀・上野城に到着です。公園は思ったよりも広くなく、20分も散策すればひとまわりでそうなくらいの広さでした。はじめは、忍者博物館というのに入りました。忍者の格好のおじさんが笑顔で迎えてくれます。さっそくチケットを買うと、受付のおねいさんもクノイチ衣装でした。博物館というから客が見学する方式かと思っていたら、きちんと(忍者の)おじさんが説明してくれた。すごいよ、忍者屋敷。小さいころ本で読んでたの、ぜんぶあったからね。感嘆の声をあげまくってしまった。どんでん返ししました~。積年の夢がかなって、感動です。物隠し、刀隠し、かくれ階段などなど、忍者装置が満載。もう、住みたかった。それに石油ストーブのにおいがとてもよかった。思い出すことがあった。忍者屋敷を満喫したあとは、手裏剣体験。投げます、刺さります。クサクサ刺さります。ぜんぜん方向が定まりません。寝起きの小便くらい、方向が定まりません。ましてやあれで敵の急所に刺すとか無理です。途中の看板で見かけましたが、忍者は状況に応じて、さまざまな歩き方を使い分けるとのこと。抜き足、差し足、忍び足、みたいな感じで。名前を忘れてしまいましたが、秘伝中の秘伝で、足の下に手を敷いて歩くのがあるそうです。その説明が、「これならゼッタイ音はしませんが、修行が必要です。帰りの遅いおとうさんは練習しいてくださいね」ためしにやってみましたが、かなり滑稽でした。あんなお父さん、嫌です。次は天守閣に登りました。3階建てでしたが、ほとんど誰もいませんでした。兜とか鎧とか飾ってありました。「歴史はロマンだな~」と思っていると、「カブト 新作!」とのPOP。どうやら今も職人さんが作っているもよう。しかし「新作!」って言われてもねえ・・・。天守閣って、雰囲気がエロイなと思いました。この前いった図書館でも空気がエロイなと思いましたが、これは建物ではなく僕がエロイんでしょうか。ムラムラ。それから、帰ります。まだ早かったけれど、それからどこかに行く時間もなかったので、せんなく帰途につきました。そして今、日記を書いています。今日はラーメンを作る予定ですが、なんだかすごい膨満感です。破裂しそうです。またうまくつくれたら写真でも載せます。そんな半日でした。追記日記@数時間後あれからなんとかラーメンを作りました。札幌ミソ。コーン。ネギ。ノリ。そのあとちょっとだけドライブ。それから生まれて初めてマスカラというのをつけてみました。左目だけ。アイシャドーとアイラインも。つけてみましたというか半強制的につけられたというか。オモチャです、はい。男に生まれてよかったと思いました。いろいろと。
2007年02月16日
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ひさしぶりに対人稽古をしました。ぜんぜん、効きません。はい。やはり古武術とか現代スポーツとか小さなくくりは忘れるべきですね。全国レベルの身体はぜんぜん違う。いちおう武道は初心者だからね、はじめのクイっという動きはなんとなく伝わっているのだけれど、その後の反応がすごくて、というのは柔軟性がすごくて、ゼッタイに倒れないのね。リキんだ男だったら、すごいいきおいで倒れているような姿勢になっても、もどって来る。こりゃまいったと思いました。それから「力を抜く」をすこしレクチャーしたら、かなり飲み込みがよく、パパッといろいろできていました。もはや僕が思いっきり持ち上げようとしてもぜんぜん上がらないのです。ちょっと尊敬してしまいます。稽古には、普段の生活がいかに大事かということを思い知らされました。
2007年02月15日
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「気」というとなんだかウサンクサイと思われています。それは頭のカタイ人が多いからです。目に見えないものや、新しい概念を受け入れる柔軟性がないので、とりあえず「気なんてないよ。ウソっぱちだよ」とうそぶいているのです。傷つくのが怖い人が「愛なんて幻想だよ」というのと同じですね。否定しておけば、自分が崩れることもないから安心なのです。卑怯な考え方です。さて、最近は本の影響もあり、「気」ということをつよく意識しています。でも意識してみると、それは大したことではないことだと分かります。「気」は僕らの世界のあまりにも深く浸透しているために、みんなからほとんど意識されていないだけなのです。それか逆に意識されすぎて、妙に神秘的なものだと思われてしまっているのです。もしくは分析的な「科学的態度」で臨んでしまうために、分かったフリになってしまったり、断定的になったり、視野のせまい結論が出たりするのです。論文で「気とは~である」なんてのが提出されたとしても僕はまったく信じません。まったくというのは言いすぎですが、まあ読み物程度に遊んで読むでしょう。ひとくちに「気」と言っても、いろんな気があるのでしょう。まだその体系化には至りませんが、まあいろいろな事象が「気」と呼ばれているのは間違いなさそうです。ところで昨日は、季節はずれのサンタクロースがやってきました。草木も眠る丑三つ時から2時間くらい経った午前4時くらいでしょうか。とつぜんドアが開いて、僕はハッと目を覚ましました。あれは音を感じたのではないと思うのです。というのも、僕の家は国道が近く、夜でもかなりうるさいのです。だから音を感じて起きたわけではないと思う。じゃあ、なんで起きたのか。それは気を感じたからなんじゃないか。それで思い出したことがあります。ぼくが幼い頃、夜中に調子が悪くなるときがありました。腹が痛いとか、吐き気がするとかですね。ちょっとはガマンするのですが、やばくなると、隣室で寝ているオカンのもとへ行くのです。いちおうコドモながらに「起こしちゃ悪いな」と思いつつそーっと、しかし気づいてくれないと困る、という気持ちでいくわけです。それで、すーっとドアを開けるんですね。そうするとオカンは、かならず一瞬で気がついてくれました。それで「どうしたの?」と言ってくれる。どんなにそーっとやっても気づかれるわけです。「おかあさん、お腹がいたいよ」などと言ってオカンを起こした覚えがない。ドアを少し開けて、心の中で「ねぇねぇ」と思っているだけで、かならずオカンは気がついてくれたのです。あれは今思えば「気」を感じていたんだと思います。他にも、あれですよ、目覚ましを7時にかけたら、6時59分に目が覚める、とかいうのも気だと考えると面白くないですか?睡眠中は無意識だけに、つまり打算計算だとか、分別だとかが弱まるので、気が覚醒するのではないでしょうか。なんとなくケータイを見たその瞬間にメールが来るとか、その人のことを考えていたら偶然会うとかね。それも気ですよ。と言ってみたらなんかワクワクしないですか?というわけで妄信はしないにせよ、気ってなんだろうと考えることは無条件にワクワクすると思うわけです。ぼくにとってワクワクすることは正しいことです。だから、気というものをもっと研究したいと思うのです。
2007年02月14日
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はい、さっそくカカオをゲットしてきました。今年は教頭な、じゃなくて好調な滑り出しです。お店のパートさんからもらいました。「一日早いですが」ということでいきなり渡されて、「こ、これは、不倫のお誘いか?!」と思って中を開けたらどうやら義理チョコのようでした。ぬ。みなさんでわざわざ買ってくださったのですね。「裏では嫌われているんじゃないか」なんて不安もあったのですが、そんな思いも払拭され、とても嬉しかったです。ありがとうございます。嬉しいというのは、「僕が誰かの頭の中に一瞬でも浮かんだのだ」ということを実感することです。それほど僕はいつも自分ことしか考えていないのですね。「自分が誰々のことを考えている」という実感は常にあるのです。しかし「誰かが僕のことを考えてくれている」なんて思いもしないのです。それで孤独を演じたりしてみる。不思議なものです。相手の頭のなかをリアルに思い描くと、その人が親密であればあるほど、「自分」というものが浮かび上がってくるのです。「あの人は自分のことなんか少しも思っちゃいない」なんていうのは謙遜のビトクとかじゃないのです。それは単に想像力の欠如か、傷つくのを恐れているだけです。自分というものを消して消して、もう相手になってみる。相手の脳に乗り移ってみる。そうしたら、かならず少しは自分のことを考えてくれているのです。こういうのは嬉しさを創造する試みだと思う。「あなたが僕を思い出してくれた」こんな感情が嬉しさの根源なんじゃないのかな。さて、知恵の輪が解けません。↓この5つのパーツがくっついたりとれたりするらしいのですが、いったんとれて、それからハマりません。でも近いうちに完成させるので、できたらまた写真を載せますね。
2007年02月13日
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「上品な甘さ」という言葉が嫌いです。なんだそれ、と思います。そうやって言うひとは、「上品」だということを知らないのです。たんに「甘すぎない」というのをなんかカッコよく「上品な甘さね」なんて言ってるのです。もうお手ごろセットになっちゃってるのです。「上品」と「甘さ」が。テメエじしんで考えた言葉じゃないのです。だから何も伝わらない。相手も、何も伝わらなくていいと思っているので、その場はおさまってますが、ほんとうの料理人が聞いたら、苦笑しているでしょう。「なんだよ、上品って」と。わかってないのがバレバレですよ。牛乳かタマゴが入ってれば「マイルド」って言っておけばいい、みたいな。それだったら、「なんだかわからないけどオイシイわ」のほうがまだマシです。知ったかぶりで「上品な甘さ」なんて言っちゃうその人の根性が、海に潜って貝とか取っちゃうくらいアマアマです。知らぬこと語るべからず。なんでかって?それは知らないことがバレてしまうからさ。
2007年02月12日
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いま、社会に足りないものは何だろうか。それはやさしさだ。こう印象的な書き出しにすると、まずここで勘違いして言葉に反応する人がいます。これはマインドキャッチ的に書いただけなんです。ぼくがこれから「やさしさ」の説明をしていこうとしているのに、自分勝手に「やさしさ」を解釈して、「いや、やさしさじゃないよ。愛が足りないんだ」とかなんとかわけのわからないことを言い出すのです。そのくせ特別に愛を定義しているわけでもない。それくらい頭のワルイ人は、もうぼくの説明などは聞いていない。「やさしさ」という辞書的な解釈から頭が離れないらしい。言葉にとらわれてはいけない。ある人が放った言葉が、その「文脈上で」どのような意味を持つのか。反論をするなら、そのことを十分に吟味した上でなければならない。だが、そんなカンタンなことでさえも分からない人は多い。さて、いま足りていないのは「やさしさ」だと言いました。じゃあ、「やさしさ」ってなんだろう。僕が思うに、「やさしさ」ってのは「焦らないこと」だ。最近、すこしだけやさしさということが分かってきて、これまでの自分を反省しています。とても粗かった自分を。たとえば、バスタイムなんかでもそうです。ツメを立て、頭皮を掻くように洗う。せっけんをつけたタオルでごしごし洗う。こういうのは刺激的なんです。鈍感な人には、まぎれもなく気持ちいい。鈍感な人は、「刺激」が大好きなのです。このことを覚えておくと、町中の鈍感な人が見えてきます。あなたの隣で大音量でヘッドフォン(笛っどほん)を鳴らしてるやつは、心も体もどうしようもなく鈍感なんです。たしかに鈍感なことが必要なときもあるのです。繊細すぎて、前に進めないくらいなら、鈍感を演じてでも、前に進まねばならないときもある。しかし、鈍感というのはよくない。感じるのが鈍い。センサーがよわい。つまりセンスもない。感性が低い。分別が無い。分ける力が無い。理解する能力が無い。知性もない。感じる力も無い。これが鈍感です。感じる、ということは、観るということです。観じる。観るというのは、今を知ることです。今を知るというのは、う~ん、漢語で言えば、現状を把握することです。今をシッカリ捉えることで焦りがなくなります。今日思ったんですが、病気の半分くらいって「不安」なんだと思います。最近、本とかいろいろ読んでいううちに知識もちょっとついてきて、身体の不調に焦らなくなりました。たとえば腹を下してもなんとも思わない。「ああ、体の浄化作用か。食べるのやめよう」と思う。食欲がない(浄化)とか、カラダがだるい(食べすぎ)とか、唇の荒れ(水分不足)や吹き出物(宿便・胃腸の疲れ)など、だいたい理由がわかるのです。だからそれに対処するだけで、焦りはあんまりない。これが「観る」ということです。焦ったら、観えないのです。「ああ、やばい体調不良だ」と思ったら、それ以上分析しないのです。「なんか調子が悪い」で終わってしまう。それはカラダにやさしくないのです。もっとやさしくするなら、どこがどうしてどうなったということを考えるのです。バスタイムの話にもどすと、ごしごしと鈍感な皮膚に刺激を与えるだけではやさしくないのです。ゆっくりとカラダと会話しながら、いろいろな不調などを聞いてあげる。骨のすき間の疲れなどをいやしてあげる。そのときもあせったらダメなのです。カラダを癒してやろうとか思うのは焦りなのです。やさしさは常に結果なのです。やさしくしようとするのは愚かだ。焦らず、感じること。いまのありのままをゆるしていくこと。それが結果的にやさしさになる。恋人関係だってそうでしょう?やさしくしようとしたら、ただ甘やかすだけになるよ。そうではなく、相手のありのままをただ認める。「お前はそれでよいのだよ」と。それが結果的にやさしさになっていくのではないのかな。ぼくはもっと仕事にやさしくなりたいね。ほんとうは仕事が先にある。目の前に仕事があるのを片付ける。しかし、いまはどうしても「計画」が正義になっている。だからなにかあると、焦ってしまう。まず仕事ありき、なのだ。計画は崩されるものだ。計画にとらわれるから、やさしくない。焦ってしまう。計画など、いくらでも変更できるだろう?仕事量に応じないで、計画を進めることを鈍感という。仕事は刻一刻と変化する。それに対応せねばならない。「こたえる」というのも大事な観点かもしれないなあ。やべ、マジでとりとめない文章。トリートメントのないシャンプー。ごわごわ。では、焦らずに風呂に入ってきます。
2007年02月12日
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最近は議論が嫌いです。議論というものにやる気を感じないのです。というのは人の思考のレベルというものがあるからです。思考のレベルが違ったら、議論にならないのです。人と人が話すときに、「学びあう」ということはあっても、「潰しあう」ということはないのです、本来。二人やそこらの小さい世界で議論に勝っても何の意味もないでしょう?ディベートとかいうのも、一時期流行っていたりしましたが、どこか人間味が感じられなくて気持ち悪い。あんなもので勝って嬉しいのか。一瞬だけ嬉しくても、それは大きく見ればむなしい。まくしたてるように相手を追い込むことが、ほんとうに人間らしいと言えるのか。それは僕からみたら、自然に反している。自然に反している人は不幸になる。これは縁起とかバチとかそういう話ではなくてね。リアルに。なんかこう、がんばって、「自分が自分が・・・」という人は、周りに迷惑だし、自分じしんも不幸感たっぷりなのだ。そしていつも、「お前も不幸になれ」というオーラを出している。残念ですが、僕はそんな汚いオーラには染まりません。幸福はいつも自由だし、輝いている。汚れたものどうしが集まって、さらに汚れていくだけです。自由ってことは議論しないのです。相手もよい。自分もよい。それは「ゆるす」ということにも通じてきます。ゆるすから、ゆるされるのです。議論をふっかけるのは、誰かを叩き潰そうとする試みです。あまり誉められたものではない。とかなんとか偉そうなことを長々と書きましたが、要は議論するのが面倒なだけかもしれません。とにかく最近は議論が嫌いなのです。
2007年02月12日
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気の指圧の本を読んでいたら、気の世界にすごく憧れをもった。もともと僕はそういうものは好きだ。なにかを妄信しているやつをバカにするのは好きだが、唯物論者にはどうしてもなれない。ぜったい見えない何かがあるのだよ。そうは思わないか?ぼくは神を畏れている。ついでに言えば、髪が抜け落ちるのも恐れている。親父の「家業」を継ぐ日が来てしまうのか・・・。いかんいかん、何の話だ。気の世界がある。気の世界は無限なのだそうだ。ふーん。体の世界は有限だ。という話を聞くと、「やはり肉体はダメだ。精神が大事だ」と思う人も多いだろう。合気道家なんかそういう人が多いんじゃない?だがしかし、そもそも「有限=NG」っていう考え方が一面的すぎると思うのよね。月並みなたとえだが、光があれば陰があるように、気があれば、それをあらわすための体がやっぱりいるんだね。具「体」的というでしょう。具体的なことは何よりも大事なのです。それも「抽象」をいったん通過した「具体」がもっとも大切。たんなる「具体」というのは表面的な技術に過ぎないのです。抽象的に言えば、心がない。技だけしかない。しかし心(気)だけというのは、あまりに無力なのだ。佐川先生という人は、そういったことを強く意識していた人だと思う。だから気の世界にいかれなかったし(と透明な力を読む限りでは思われる)そのような世界を極端に嫌った。それで初心者むけの、超具体的なアドバイスなども残されているのです。「肘を出す」とか。(もちろんその真意をぼくが汲んだわけではないが)これは植芝盛平先生には無かったこと。植芝先生はそういった具体的な指導こそ嫌ったという話だ。どっちがいいという問題ではないと思う。ただ、もしお二人が戦ったら、佐川先生が勝ったのではないかと思う。というのは、やはり具体のが強いのだ。気功の先生は、アマチュアボクサーにだって勝てない。どんなに深い気の世界を知ったとしても、それで格闘技が強くなったりはしないだろう。最終的にはバランスになってくるのだと思う。気と体のバランス。体の世界が好きな人もいるだろう。そういう場合、気の世界の無限性を感じることはない。気の世界が好きな人もいるだろう。そういった人は、具体的に強くなることは無い。そしてそのバランスは個人によりけりなのだ。どちらに偏るかによって、その生業にさえ関わる。蘇東成先生や太気拳の先生など「実戦」で知られる先生方は「体の世界」の割合が大きいのではないか。もちろん「気の世界」にも踏み込まれているのだろうが、「体」の割合が大きいような感じがある。合気道のような武道になってくると、「気」の割合が大きくなってくる。だから「実戦」では弱い人が多いのです。それからもっと「気」のほうにかたよると、気功とかになってくるのではないか。気功の先生に、実戦の強さをもとめる人はあんまりいないというものです。何度も言うが、これらは単にバランスの違いなのだ。どれがよいということではない。好みの問題もあるだろう。僕は中間の合気道が好きだが、ちょっと「気の世界」よりのがいちばん好みだ。体の世界のいいところは、やはり具体性、つまり実際性だ。「使える」ということ。それも万人に。気の世界のよいところは無限性だ。終わりがない。果てがない。これは老人向けなのかもしれないね。終わりが見えてくるからこそ、無限のものを求める。世界が深いので、万人向けとは思われない。「互いの心」が重要になってくるので、かたほうがあまりにも「体」に偏っていると、まったく効力を発揮しない。逆に「互いの心」があえば、ものすごいパフォーマンスになる。はい、まとめましょう。バランスなわけです。あとはレベルです。気のレベルも体のレベルも1の人がいます。気のレベルが3、体のレベルが5の人がいます。気のレベルが10、体のレベルが10の人もいるのです。けっきょくどっちも鍛えていかねば成らぬということです。合気道をやる人は。厳しいですね。はたして僕のレベルはどうなってるんでしょうか・・・。体より気のほうが高いには間違いないですが、結局レベルじたいが低ければ意味がない。あー、鍛錬しないとな。おしまい。
2007年02月12日
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最近は、元アメリカ大統領が書いたとかいう「不都合な真実」が売れています。なんでも環境問題について書いた本だとか?興味がないので読んでませんが・・・。っていうかそもそも真実はすべて不都合なんじゃないのかなあ。というか人間の都合のよさにはほとほと呆れるよ。言行一致のむずかしさ。どんなに理論だてて話しているようでも、都合のいいことばっか言ってるのは分かるのだね。それで上手いことやってくのが「仕事ができる」ってんなら、俺は一生仕事できなくてもいいよ。まっすぐに生きたい。うん、かなり汚れてたりするけどね、その希望だけは忘れたくないな。
2007年02月12日
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今日は朝だけ激しかった。3時ごろに寝たのはいいが、7時くらいに電話で起きて、それからすこしクルマを走らせ、家に帰って読書していたら寝ていた。目が覚めたので読書の続きをしたら、また寝ていた。気がついたら12時。メルマガを書きためました。1ヶ月ぶんくらいはたまっているので、仕事が忙しくなっても安心です。部屋をすこしだけ片付けた。なぜかすぐに汚れる。図書館にいって、呼吸筋についてすこし調べました。呼息筋についてもうすこし勉強が必要です。くしくも、読み終えた2冊の本が「気」について書いていました。具体的な気の世界。気って本当にあるの?あるに決まっている。僕はその存在が知りたい。そのために何をすればいいか。夜は焼きそばを作りました。ミソやきそばを開発してみました。微妙でした。まずくはないけど。料理というのは奥が深いものです。明日は朝から仕事です。明日は残業をする予定です。
2007年02月10日
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バレンタインデー。甘美なひびきです。もう一度言ってみましょうか。バレンタインデェェェー!よく考えたらあまり甘美じゃないです。よくて甘酸っぱいくらい。大半の男子諸君には、剣道の防具のようにすっぱい思い出しかないんじゃないでしょうか。□■□■□はい、というわけで、毎年恒例のバレンタインデーがもうすぐやってきます。と書いてみたものの、これを言うのはけっこう恥ずかしいのです。というのはもらえなかったら困るからです。基本的には、もらえなかったときのために、あくまでバレンタインなど意識してないよ、というポーズが必要になります。例年通りの結果になったときに、「え?バレンタイン?忘れてた」といえる予防線を張っておかねばならないのです。女の子のみなさん、男子も大変なのですよ。男子はこの季節になると、チョコについてあまり話題を出さなくなります。「チョコっとだけね」と言えばいいものを「すこしだけね」と言い換えたりします。けなげですね。どれだけ知らないふりをしても、当日は朝からソワソワして仕方がないものです。そして、そのソワソワは、たいてい杞憂に終わるのです。そうなると「べ、別に期待とかしてねーし。っていうか甘いもの苦手だし」とか言うのです。それから家に帰って、おかんや妹にチョコをもらうと、より一層みじめな気分になるものです。嬉しいんだけど、やっぱり悲しいのです。それでも寝る前まで、「渡したいものがあるんだけど」なんて電話がかかってくるのを待っていたりするのです。それでやっと電話が鳴った!と思ってケータイをとると出会い系のメールだったりします。バレンタインでいい思いをするのは、ほんの数パーセント。その他大勢は、期待するだけさせられて結局がっくりするということを性懲りもなく繰り返しているのです。罪な一日です。なんとかしてください、バレンタイン監督。□■□■□というわけで女子のみなさん!今年こそは勇気を振り絞って好きな男子にチョコをあげましょう!!告白とかできない気弱な男子もいるのです。告白とかできないうえに、好きだといわせる技術もなくて悶々としているのです。ぜひチョコを渡してやってください。女子諸君よ。「今の関係を崩したくない」とか甘いことを言っているヒマはないのです。好きになったら、友情とかどうとか言ってる場合じゃない。たしかに男女に友情はある。しかしいったん好きになったら後には引けないのだ。弓矢と同じで、いちど放たれたら、失速して落ちるか、的に当るかどちらかしかない。「傷つくのが怖い」とか生ぬるいことを言っているヒマもないのです。安心してください。どうせいつか傷つきます。それならいっそ、自分から「最後の審判」を迎えにいくべきです。積極的に運命をつかみにいくから、失敗してもいい訳がましくならないのです。いさぎよい生き方ができる。「恥ずかしくて言えるわけがない」なんて馬鹿げたことを言ってはいけない。なんのために口がついていると思っているのだ。勇気ひとつで、いくらでも言えるのです。付き合えるとかフラれるとかは些細なことです。大切なのは、自分の胸のうちの気持ちを素直に伝えられるかどうか。もう、それだけです。気持ちを伝えることが目的で、付き合う/フラれるは結果なのです。付き合うために好きになったわけじゃないでしょう?これは当たり前のことですが、いざ告白となると、結果ばかりが頭をよぎり行動できなくなる。そんなことではつかめる幸せもつかめない。ただ、どうしようもなく好きになってしまった。理由なんかない。そんなに素敵なことはそうそうないよ。僕はそう思う。誰かのことを思い焦がれるというのは、とても素晴らしいことと思います。しかし同時に他人の恋愛話ほど、どうでもいいものもない。どうでもいいから、他人の恋愛話は楽しいのです。それはどんなに親身になって聞いてくれる親友でも同じなのです。やさしさで、共感している演技をしているだけなのです。あなたもそうでしょう?これはオンナの得意技なんです。誰かから見れば、自分の「好きな気持ち」とかいうのは大したものではないと悟ることです。他人の恋愛はカフェでいただくスイーツと同じです。せいぜい午後のコーヒーのお供にすぎないのです。恋愛はいつも、自分のものだけ重い。だからもう失敗とか成功とか忘れて、チョコをあげてしまえばよいのです。というか、あげるしかないです。相手も「好き」と言ってくれるかどうかは神様が決めることです。しかし、相手に「好き」と言うかどうかは、あなたじしんが決めることです。ぼくは何度か「告白」というものをしたことがありますが、「告白しなければよかった」なんて思ったことはただの一度もありません。もちろん何度か失敗もありましたが、それはそれでよかったと心から思えます。(戦績はヒミツです)好きな気持ちを伝えないなんて、もったいなさすぎる。女子諸君よ。かわい子ぶってる場合じゃない。腹をくくって、チョコを渡すのだ!!今年のバレンタインは、一生に一度しかないのだよ!いま、大好きな人がチョコを渡せる距離にいることは奇跡です。その奇跡を信じてみないか!健闘を祈る!!追伸:男子諸君へ気になる子には「お前からチョコほしーな」とかなんとか冗談めかして言っておくこと。そうすると女子は「アンタが欲しいって言うから作ってあげたよ」(けっしてあたしがあげたいわけじゃないからね)と言い訳がしやすくなるのです。オトコは言い訳せずに、オンナにさせる。これ鉄則です。では、今年の結果やいかに?それにしても、いったいこの文章は誰に向けて書いているんだろう。・・・まあ学生の女の子対象、ということにしておこうかな。 あ、これは豚肉となすのミソ炒めです↓
2007年02月09日
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塩やきそばのとろふわタマゴのせです。オムそばってやつですか。ちゃんとオープンさせました。スクランブルエッグの失敗から汚名返上です。あとは牛角のメニューにあるという、塩キャベツというのを食べました。キャベツに塩コショーして、ちょっとごま油。バカうまでした。□■□■□ 最近はタラタラした記事ばかり書いていますが、いちおう身体の研究のほうも続けているわけです。「弱そうな四股」なんて言われながら。さて、今日は透明な力試論です。試論といっても、まだまとまっていないので、ブレインストーミング、もしくはエッセイ的になる可能性大ですが、あしからず。最近は腸腰筋の感覚がかなりたしかなものになってきました。立っているときより、座っているときのほうが顕著に意識できます。腹筋と背筋をゆるませたまま、内部を締めるのです。それは呼吸と無関係にできます。吸っても止めても吐いてもできる。しかしやはり呼吸と連動させたほうが、効率がよいように感じる。それは吐くときだ。息を吐く。そのときに、腸腰筋が締まる。吐くのも適当に吐いてはいけない。「ふんっ」と一瞬で吐く。その瞬発力が必要。もしくは、吐ききる。息を吐ききるとき、最後の方におなかの筋肉を使うでしょう。あの感覚。腸腰筋を締めていると、身体は重くなる。重くなるというのはあくまで感覚の話で、つまり実際は「持ちにくくなる」ということ。重心の読まれにくい身体をつくる。「ふんっ」と息を吐く瞬間、その力が出ます。しかし、それではゆっくりできない。ゆっくりやるには?それが逆複式呼吸。息を吸う=腹が膨らむ。息を吐く=腹の膨らみを保つ。しっかり息を吐ききるとき、肩が落ちます。自然と力が抜ける。腹のふくらみをたもつことで、肩の脱力も保てる。連動のこと。「合気は疲れない」というのは、ある意味で幻想かもしれない。あとは骨盤の角度と骨盤底の筋肉のことをもう少し勉強しないといけない。佐川先生のお言葉で「前のめりになってはいけない」というのがありましたが、それは筋肉のほかに神経の問題もあると思った。ああ、思ったとおりとりとめのないメモになってしまった。また考えを整理してから、メルマガに書きます。
2007年02月09日
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今日は休日なんですが、昨日、ちょっと売り場を大きく変化させました。もはや書店は春のよそおいです。お店のなかにも、新たな季節の息吹が舞い込んできています。おもしろいね~。自分の意志が出せるというのは。売り場作りは、まさにお客様に話しかけることそのものだと思った。本の並べ方というのは、コトバそのものなのです。もちろん会社の資料などで後方支援はしてもらうのだけれど、具体的に実践するのは、僕ら現場の人間です。ハタキでぺぺっとホコリをはらっていくうちに、そうとうに売り場愛が目覚めるね。やはり棚にさわらないとダメだ。スリップやデータでは、実感が湧かない。数字と感覚のバランスが大事だと思う。なんて偉そうなことを言うのは、まだ早いな。とにかく今は実績を残したいと思います。まだまだ売り場は変革の途中です。同時にいろんなところを変えていっているので、混乱しそうにもなりますが、計画的にやればなんとかなると思った。計画というものは、立てるところではなく、分割するところが大事なのだと思った。特大ステーキでも一口サイズにすれば、いつか食べきれる。それと走りながらやるということ。ステーキを細かく切っているだけでは、食べ終わらない。切りながら食べ、食べながら切る。春が来れば、僕も社会人3年目になってしまいます。将来のことを考える時期が来ます。漫然と働くのだけは嫌だ。未来もまた、切りながら食べていくしかないのだろう。
2007年02月09日
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個性はけっして出したらいけないのです。個性というのを「いい言葉」と勘違いしてはいけない。個性というのは「こだわり」と同じく悪い意味の言葉なのです。「個人の癖」とでも訳すのがよろしい。個性だけは殺した方がいいのです。個性は殺せば殺すほど味が出るのです。どれだけ標準になれるか。どこまで普通になれるか。そういったことにチャレンジしてみるのです。みずから個性を出そうとした瞬間、それは醜くなる。あくまで個性を殺す。しかしどうしてもにじみ出てしまうものがある。みんなに合わせようとする。同じになってみようとする。それでもどうしてもはみ出てしまう部分がある。それがほんとうの個性です。それを恥じながら、なおかつ堂々と大事にしていけばよい。人と違うということ。その恥。そしてその誇り。人と同じであること。その安心。そしてその恥。個性的という言葉に惑わされてはいけない。個性的という言葉は、かならず小さな枠のなかで使われる。個性的ということは幻想です。なぜなら個性的でない人はいないからです。個性という言葉を捨てたところにほんとうの個性がある。まずはこだわりから解き放たれるべきだ。
2007年02月07日
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オトコなら頼らず生きろ!めめしい弱音など吐くな。夢を掲げろ!それにむかって努力しろ!立て!自らの足で!!一生懸命働け!タラタラするんじゃない!甘えるんじゃない!!鮭をかるーくあぶって、塩でいただきます。すし屋のネタを再現したかったけど、失敗しました。直火であぶろうと思って、コンロの火に直接かけたら、箸が燃えました。バーナーが欲しいなあ。↓
2007年02月07日
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草を食ふ 動物たちの 大腸の ながながし夜を ひとりかも寝む ozekey↓カニチャーハンです。
2007年02月07日
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最近は自分の仕事スタイルが変わったような気がします。とにかく残業が少ないです。1時間も残業したら、「今日はよく働いたー」という感じになります。基本は定時。数分過ぎたら、さっさと帰ります。毎日2~4時間くらい残業していた日々がウソのようです。なんでこんなことができるかといえば、仕事をほっぽりだす技術を身につけたからでしょうか。もう、とにかく帰ってしまう。合言葉は「あとはお願いね」と「明日やればいい」。責任感がないわけじゃないですが、無理に背負い込むことはないなと思うようになった。あとは、朝だね。朝30分早く来る。それでいろんな準備を済ませてしまう。朝は昼に比べて人手が多いので、朝の30分は昼の1時間以上に相当するように思う。それから、やたらと手を出さない。僕はけっこう気がつくほうなので、いろいろと見回していると、目に付くポイントがたくさんある。「ああ、これもやらなきゃ、あれもやらなきゃ」となってくる。・・・のだが、見ないフリ。もちろん自分に割り振られたところはやるけどね、人の仕事はやってあげない。ヘルプをお願いされないかぎり手を出さない。越権行為はしない。あくまで自分の仕事だけを計画的にすすめる。あとは冷酷なまでに帰る。最近はこんな調子で働いています。入社してから2年弱でいろんな働きかたをしてみています。何がいいのか分かりませんが、まあいろいろやってみたいと思います。このビジネスライクな働きっぷりはまあスマートだな、とは思います。
2007年02月06日
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「別に死んじゃうことで純愛になるわけじゃないよね」2月にある人は言った。「純愛って言うけど、そうじゃない恋愛ってあるの?」
2007年02月06日
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嫉妬します。思ったよりコドモな自分に驚きます。思った以上の独占欲に自分が情けなくなります。なんで人は嫉妬するのだろうか。自分が享受するはずの喜びを他人が享受している。それが嫉妬なんだとは思います。「はずの」というところが問題なのかもしれない。「はず」というのは予定ということですね。だから「自分が享受する予定の」、ということになる。しかしその「予定」とは自分勝手に決めた、思い込みの予定にすぎない。もとより未来は、とめどなく自由なのだ。同じように、「他人」というものも、どうしようもなく自由なのだ。俺はそれを「知っ」ていて、それを実行しようと勤めてきた。しかし今になって、俺の言っていた「自由」は都合のいい言い訳に過ぎないのではないかというふうに思う。自由というのは、自分をゆるし、他人をゆるすことだ。仏さまの手の平の上で好き勝手暴れまわるのを自由とは呼ばない。あでやかな世界を舞い踊る蝶をつかまえたいと思う。そして標本箱にいれて、ゆっくりと観察したい。これが、束縛という感情だ。違う!蝶と戯れろ!一緒に踊れ!捕らえるな。囚われるな。自分がカッコワルイです。
2007年02月06日
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POP広告って知ってますか?あの、本屋とかにある「店長オススメ!」とか「いま売れています!」とか「今月の最新刊!」とか書いてあって、本が積んである台に屹立してるやつ。ビレッジバンガードさんなんかはPOPがめちゃくちゃいっぱいあるよね。しかもオモシロイ。あれがあると商品が目だって売れるわけです。目立つものは売れるんですよ。けして良い商品が売れるわけではないのです。人間と同じですね。さて、今回はPOPで商品を売りました。しかも最速記録。3日くらいかな。この前つけたPOPを確認しにいったら、本がないじゃないですか!返品されたのかも?と思ってデータを見ると、売れてる!!感激!!思い入れのあるPOPを作ったので、なにかが伝わったのかもしれませんね。何を売ったかといえば「透明な力」(講談社)です。またか、という感じですね(笑)それくらい僕にとってはバイブルなわけです。調子にのって2冊発注かけました。ついでに「合気修得~」も発注しました。木村先生フェアをやります。2冊だけですが・・・。と楽しみつつこんな勝手なことをやっていいのか不安であります。でもまあ売ったもん勝ちです。今は「胴体力入門」にPOPをつけてあります。いつ売れるか楽しみです。そのあとは「武術のヒミツ」を売るつもりです。あの棚だけ、やけにマニアックになっています。そーっとつまらない入門書などを返品しようと思っています。あ、そーだ。武術棚リスト作ろーっと。
2007年02月05日
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色々なバカがいると思うが、けっきょくバカな人間は嫌いだし、バカな人間になりたいとも思わない。ただ、僕はバカをしたいと思う。バカなことをしたいと思う。意味なんかなくたっていい。合理的でなくたっていい。笑われたっていい。ただ叫びたいときに叫び暴れたいときに暴れ、よじれたいときによじる。股を開きたくなったら開き、逆立ちがしたくなったらし、歌いたくなったら、歌う。「ぽんちょめー!!」と言いたくなったら言ってしまう。「ぐわんじょ!」と言いたいときに言ってみる。もう半分くらいは変態だと思う。「変人」なんて誉め言葉は要らない。変態ですよ、ど変態。だけどちゃんと社会生活を営んでいる。変態な時間があるだけだ。2月にある人は言った。「ゼッタイにバカのほうが楽しいよね」僕はそれに深く共感する。バカな瞬間が、なにものにも代えがたい何かになる。
2007年02月04日
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今朝は7時くらいに目が覚めました。それで10時に起床しました。それからダラダラ洗濯やら片づけやらしてから、昼飯を作ります。今日はいためた鳥肉のネギ乗せゆず胡椒添えマヨネーズ和えです。うん、濃いね。ごはんいっぱい食べました。午後はカラオケにGO!2時間半くらい熱唱しました。最近の歌をぜんぜん知らないことを思い知らされました。カラオケが終わったあとというのはとかく歌いたいものです。クルマの中でもカラオケが続きました。シャウトしようということで、歌はB’zの「ギリギリCHOP」に決定。大声で叫びます。♪だいたいどんな雑誌をめくったってダメ~ため息~、出ちゃうわ~ふふふんふんふふんふふんふんふふふんふ~・・・・・・歌詞わからん!!ということでシャウトは断念しました。そのあとはショッピングセンターへ。風呂の電球が切れたので、それを買ったりしました。ゲームセンターで遊びました。UFOキャッチャーに3000円くらい投資してしまいました・・・orzそれでゲットしたのがタイヤ犬っちゅうのは、うん、してやられたという感じです。ゲーセンおそるべし。人の欲望を知り尽くしているね。夕飯は、節分ということで寿司を食べました。えんがわというのを食べてみました。天ぷらまんじゅうというのも食べました。おはぎが揚げてあるんだけど、食べてる最中に衣が取れてしまい、ふつうのおはぎになってました。お皿の枚数を数える機会に度肝を抜かれました。そのシステムを調べるべくレジのおばさんに聞いたら、皿の裏にタグがついているということを教えてくれました。そんな情報のせいもありつつ、かなりの満腹です。というわけで、腹ごなしがてら今から豆をまこうかと思います。今年は何メートル飛ばせるでしょうか。限界に挑戦です。そんな休日でした。
2007年02月03日
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仕事ができる、なんてのは幻想なんじゃないかと思います。というか、まだ自分が、仕事ができるできないのレベルではないのだろう。もっとベテランになっていけば、仕事の成果が数字であらわれるようになり、それで判断できるのかもしれない。だから今日のお話は社会人2年目のぼくのお話、と思ってください。ぼくは社員です。主婦のパートさんや学生のアルバイトさんと働いています。いちおう、こっちが指示する「立場」になるわけです。いろんな作業をお願いするんですね。そうして見ていると、やはり明らかに違う。それまでの経験や年齢とかが出るのだろうか。当たり前だが、教えるとすぐに覚えてしまう人と、なっかなか覚えられない人がいる。それから作業スピードのことがある。ちゃちゃっと終わらせる人と、やたらと時間のかかる人。一緒に働いていくうちに、そういうことが見えてくるわけです。それを「総合的に」判断して、なんとなく「できる人だな」とかイメージができていくわけです。で、今回ぼくが思ったのは、その「総合的に」というところです。ここがね、たぶんなんだけど、半分くらいはイメージで決まっていると思うんです。客観的にミスの数とか考えたらね、おそらくそんなに違いはないんだね。よく観察してみたらいい。「できる人」とされている人も、よく失敗している。じゃあ何が違うのかと言ったら、態度なわけです。自信があるように振舞っているのか、そうでないのかという態度が違うんです。それをぼくらは「仕事ができる、できない」という観点で判断してしまっているのではないだろうか。ぼくが思うに、「仕事ができる」とされている人は反省しない。何かやってしまっても、「ああ、次からは気をつけますね」という態度なのだ。しかし、それでも嫌な感じが出ない何かを持っている。ただ反省しないだけの人は、「できる人」とは評価されない。学習能力がない、と思われてしまう。ことさらに、イメージというものは大事なのだ。場合によっては真理などよりもイメージが大事なのだ。さっき本で面白いことわざを知った。金持ちがヘビを食べていると、人々は「病気を治すために食べているんだ」と言い、貧乏人がヘビを食べていると、人々は「腹が減っているんだ」と言う。同じことをしても評価はまったく違う。Aが失敗すると「今度からは気をつけろよ」と言われ、Bが失敗すると「またか、この給料泥棒が!」とののしられる。これは部下の立場だが、上司の立場からも言える。Aが失敗すると「次は気をつけるように」と言うのに、Bが失敗すると「何度言ったら分かるんだ」と言ってしまう。こういうのは誰が悪いのだろうか。部下を「平等」に扱っていない上司が悪いのか。そもそも部下を「平等」に扱っている上司などいるのか。というか人間相手に「平等」ということなどあるのか。「平等」という言葉はダイキライです。幻想もいいとこだ。なんか話がそれてきたな。イメージの話でしたね。「人は見た目が9割」のパクリ本で「仕事は見た目が10割」とかいうのがありました。10割はないだろ、と思いますが、うん、確かに実績よりも「仕事っぷり」のほうが評価されていたりするな、とは思います。だから「上司が差別している!」と思う人は自分の態度を反省したらよいかもしれない。また「使えない部下がいる!」という人は、自分の曇った目を、もう一度みがいてみる必要があるかもしれない。客観的評価などはウソですよ、かならず。客観的て、あんた神かい!って話ですよ。客観っていうのは、主観の集まりでしょう?「好き嫌い人事」なんて本もありましたが、そっちのほうが素直でよいかもね。「あいつナマイキだから左遷ね」みたいな。でも、こっちのほうが「ふつう」だったりして。そう思うと、「客観的に評価してもらえない」なんてなげくのもバカらしくなってくるね。そういう人が欲しがってる「客観的評価」というのは大抵、過大評価のことでしょう?仕事ができる、ってなんだろうと思います。まだ、答えは出ません。
2007年02月02日
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USENのランキングより。(07’2/2)第2位 「奇跡を望むなら」 JUJU ・えっ? MISIAじゃないの?第5位 「心のリズム飛び散るバタフライ」 doa ・あれ?福山じゃないの? っていうか「心のリズム飛び散るバタフライ」って何さ?!第9位 「ハナムケ」 w-inds. ・実際は「ズルムケ」だよね?第18位 「てんとう虫」 一青 窈 ・小林はつまり、武史ってことか。推薦曲 「アヒルのワルツ」 マユミーヌ ・アヒル隊長推薦?!アヒルんるんるんるん♪ USENって、ナゾだ・・・。
2007年02月02日
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やっとのことで読み終わりました。ひさしぶりにヒマになったので、ゆるり午後に読みました。3,4箇所、涙でジーパンを濡らしました。最後のほうは、っていうか途中からリリーさんの表現が濃くて、ちょっと食傷ぎみでした。それでこんなに時間がかかってしまった。小説なのこれ?自伝?なんにせよ、こういった類の本は読むのが疲れます。書店員のくせに。やっぱ俺にゃ、人文書がよいね。ビジネス書も好きだけど。まあいいや、せっかく読み終えたのだから、POPを書いてみたいと思います。さ、まだたくさん本がたまっているので、さっさと読んでしまいたいと思います。ではPOPスタンドと「ぴゅーと吹くジャガー」の12巻を買ってきます。
2007年02月02日
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最近のデザートのなかで大ヒットしたのは、ヨーグルトにゆず茶を混ぜるヤツです。ゆず茶知ってますか?お茶じゃないよ。ゆずのジャムみたいなものでね。知らん人は検索してね!(説明責任放棄)これはオススメです。ぜひやってください。写真は、そのデザートを食べるために準備したネギ塩豚丼です。今日も気合の入った昼食です。
2007年02月02日
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いきなり一口チョコを口の中につめこまれました。そのあと、強引にバニラアイスクリームをつめこまれました。だまされたと思って、と言われても納得がいきませんでしたが、ええい、ままよとチョコレートをかみくだきます。すると、あら不思議、口の中でチョコチップアイスが完成したではありませんか!!けっこう感動しました。知覚過敏もなんのそのです。
2007年02月01日
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昼飯です。昨日の。なぜか気合を入れすぎました。パスタ。明太子パスタです。インスタントの明太子パスタです。それから、おかず。なんとか昨日の具材を使い切ろうと、ガンバリマシタ。某料理店の品からヒントを得て、スクランブルエッグに明太子を混ぜてみました。<右下> 大葉もちぎって乗せました。はい、いただきます。・・・濃!!味付けを失敗したようです。いり卵を失敗するなんて、むしろ自分がスクランブルだと思いました。それに、焦げました。火力は常に全開というテーゼをそろそろあらためたほうがいいのかもしれません。ふわふわたまごの夢よ、さようなら。左下は山芋です。山芋とオクラです。ヌルヌル野郎セットです。山芋はヌルヌルするので、大きさを均一に切るのが難しかった。それでオクラを切ってみたけれど、やっぱり切り幅が均一にならなかった。けっきょくヌルヌルのせいではないということなんですよ。均一に切るのは、ムズイのね・・・。しかしまあ均一と申しましても、その概念は18世紀イギリスの産業革命にはじまり、マニュファクチュアによる大量生産のむ~にゃむにゃ・・・。午後のティータイムも愉しみました。それから出勤です。優雅です。というわけで、今日は刻みネギが余っているのです。これをどうしようか勘案中であります。なんとかネギが腐るまえにいい案を出したいです。あ、鳥肉丼でも作ろうかな。最近はデザートはかりんとうが定番です。そんな食生活です。ちなみに食卓はいつもパソコンが鎮座しているので、床で食べています。
2007年02月01日
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