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強い月に挟まれひそやかにたたずむ2月も最後の日ゆく月を懐かしみふとカレンダーに目をやるめくられて、もう3月になっているせっかちは、だれだ?あれれ自分かぁまた来年あおうね神のみゆるしあれば
2017年02月28日
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日曜日午後の集まりに行く。母が行きたいというので、一緒に行った。母と一緒でも、下りエレベーターに乗るのは恥ずかしく、下で待っていて、と言って自分は階段を降りる。会場では、英国人ブレデイ師のメッセージに聴き入った。普段読んでいるウェスレーの説教をより大衆向けにやさしくしたような素晴らしい説教だった。説教を聴く喜びに浸る。集会終了設定時間の4時半を過ぎようとしている。ここで電車に乗らなければ、母の門限に間に合わない。説教はまだ終わっていないのだが「一人で帰れるから、ここに残りなさい」という母をせき立て、会場当番の先生に予約献金を託して教会をあとにする。一緒に電車を乗り継ぎ、最後のバスに母を乗せ、ホームに電話する。やはりここまで送って良かった。
2017年02月26日
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つくずくこだわりの強い人間だと思う。そして激しく、細かく、神経質こんな人間と40年一緒に生きた妻の心を思いやる。孫がこだわりが強く、母親を困らせるという。娘はその子(ボクの孫)のことをメールで書いてよこす。どんなに大変かを書き綴る。そのすべてはボクのものだ。ボクの幼い頃と同じだ。だからことのほか孫をいとおしむ。
2017年02月23日
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裁断したウェスレーの説教集をいつもリュックとかブレザーのポケットに入れて持ち歩いている。電車の行き帰りで、だいたい一つの説教を読み終える。きのう、ある会議に出た。何とその説教集の翻訳者がボクの横に座った。会議が終わると、親しみをこめてご挨拶された。一度だけ、聖会の説教者としてこられて、そこでお目に掛かっただけなのに覚えていてくださったのかな?ところで今日は「主の山上の説教」5を読んだ。軽く衝撃を受けた。ウェスレーが説く、福音と律法異質なものと思っていたがウェスレーにとっては同じものの表裏のようだった。正攻法で聖書に向かえばこうなるのだな?
2017年02月22日
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アウグスティヌス著作集のPDF化を終えた。この中から、「告白録」「三位一体論」を今年中に読みたい。本を切ってスキャンしていると、読書への渇きが心にあふれる。PDF(パソコンやスマホ)で読むのではなく、裁断したペーパーを手にして少しずつ読んでいく。1冊の重い本ではないから、立っていても、電車の中でも読むのが容易なのだ。ウェスレー標準説教53は、できる限りテキストファイルにする。これを何らかのデーターベースに構築したいと思っている。ついで「ジャーナル」を読み終えれば、人生の一つの目標を達成だ。書棚に「デン」と居座っているのは、教文館の「パスカル著作集」1冊1冊こつこつ集めたもの。このシリーズの『パンセ』は普通の配列と違っているので、興味深いものだ。思い切って裁断し、少しずつ読んでいきたい。パスカル著「プロヴァンシャル書簡集」はまだ手をつけていないので、この山にも登りたい。このようなPDF化、テキスト化、そして読書は、この世の生を終える準備の一環である。PDFとテキストファイルは、ボクの代で終わりではなく、だれかに容易に託することができるから、うれしいのだ。父がこの世を辞した年齢は72歳なので、ボクにとっても72歳は一つの壁になっている。そう、72歳の誕生日まで、上記の計画がどこまで進むか? これは自分自身へのチャレンジである。
2017年02月18日
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パスカル著『パンセ』人文書院版の全断章にタイトルを付け終えた。短い断章は全文を差し込んだ。エクセルを使った。ほっとしている。作業の始めと終わりの方では自分のアイデアがずれているのでまた読み直して改訂しようと思う。信仰の言葉信仰に導く言葉これらの断章があるとき、しばし頭を垂れる。神なき人間の心を辛辣に曝露している諸断章にはやりきれなく思う。パスカルのことが大嫌いな芸術家や思想家があること無理もないと思える。そうだよ、パスカルの言辞によると、神に向かう心、以外の地上の営みはすべて「気ばらし」のたぐいとなる。芸術もスポーツも神を必要としている自分の真実の姿から目をそらす営みとなる。でも「抱きしめて」寝たいそんな珠のような言葉も。
2017年02月09日
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「パンセ」を鍵にしてネットを徘徊していた。随分ある。熱を入れてダイジェストを載せている人もいる。わざわざ「クリスチャンでない」と断って「パンセ」を読み解こうとしている人はキリスト教の護教的断章以外は、深く鋭いが護教的な部分になると、文章が平板になりつまらなくなる、などど書いている。まことに心外。パスカルの信仰の言葉は、彼のピュアな心そのままを映し出している。そこにパスカルの真骨頂がある。
2017年02月06日
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「パンセ」のブランシュヴィック編小型本は、断章924が最後だ。松浪信三郎訳では、925以下が置かれている。そこはパスカルの他の著書『プロヴァンシアル書簡』のための覚え書きで、難解な部分である。その中で、断章949は、真理のために命を賭けたパスカルの真精神があふれている。ボクの信仰の心に欠けているものがそこに脈打っていて、頭を垂れるほかはない。みなさんどうぞ読んでください。パスカル著『パンセ』断章949 国家における平和がただ民衆の財産を安全に保つことを唯一の目的としているように、教会における平和は、ただ真理を安全に保つことを唯一の目的としている。真理こそは、教会の財産であり、教会の心の在り場所としての宝である。国家のなかに異邦人が侵入してこの国を掠奪するにまかせ、平穏をみだす怖れからそれに抵抗もせずにいるのは、平和の目的に反することであろう。というのも、平和はただ財産の安全のためにのみ正当であり有益であるのであって、それがかえって財産を失わせるときには、平和は不正なもの有害なものとなり、財産を擁護することのできる戦いこそが、正当であり必要であることになるからである。同様に教会においても、真理が教会の敵どもによって侵害されるとき、彼らが信者の心から真理を奪い取り、そこに誤謬をはびこらせようとするとき、そのときにいたって平和のうちにとどまるのは、教会に仕えることであろうか、それとも教会を裏切ることであろうか?、教会を擁護することであろうか、教会を破滅させることであろうか?明らかに、真理が支配しているときに平和をかきみだすことが一つの犯罪であると同様に、真理が破壊されようとしているときに平和のうちにとどまることは、やはり一つの犯罪ではなかろうか?それゆえ、或る時には平和は正当であるが、他の時には平和は不正である。平和の時と戦いの時があると記されている。それらの時を見分けるのは、真理に対する関心である。けれども、真理の時と誤謬の時があるわけではない。反対に、神の真理は永遠にとどまると記されている。そういうわけで、イエス・キリストは平和をもたらしに来たと言いながら、他方では戦いをもたらしに来たとも言っている。けれども、イエス・キリストは真理と虚偽とをもたらしに来たとは記されていない。それゆえ真理はあらゆる事物の最初の基準であり、最後の目的である。 (松浪信三郎訳 パスカル全集第三巻・人文書院©1959 )
2017年02月04日
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