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磐余(いわれ)の編(526年)★・遷宮 蘇我高麗は朝日に輝く大和盆地を眺めていた。空が次第に蒼暗くなり、日輪が徐々に欠けだした。以前にもあった経験を父から聞いていたから、さほど驚かなかった。しかし、民衆は不安げであり、自分も「凶事の兆し」と父が言ったことが気になり、二階堂に向かった。 前・摂政の春日大郎(かすがのいらつめ)が昨日から意識を失い、身体が浮腫み、黄色染みている。胆臟の病気が深刻化したようだ。男大迹王、手白香媛なども空しく帰るばかり。 7日目には危篤状態になり、医師が、付きっきりの蘇我高麗に最後の意識が戻ったことを告げた。 春日大郎は蘇我高麗に次のように遺言した。1. 大変お世話になり、これからもお世話になるだろう。2. 王家の財産すべては手白香媛に譲る。3. 吉備の女を王家には入れてはならない。4. 物部を立てて大伴の力を削ぐべし。5. 蘇我稲目には手白香媛を助けるよう伝えよ。6. 御鷦鷯(みさざき)が大王になったら家宰を息子の稲目に継がせよ。 また、駆けつけた稲目に、自分と蘇我高麗の子供であることを伝えて、王家の立派な家宰となるようにと遺言して、身罷った。・ ・・・・ 葬儀が終わると、蘇我高麗は手白香媛から呼び出されて、遺言の中身を確認されたが、稲目の件は伏せた。 お母上は「ご自身が凶事を一身に受けて王家、大和の国をお守りした」と自分は思うと伝えた。 手白香媛が言うには、「王家には当主が変わると宮を遷す慣わしがあり、大王は枚方や樟葉を遷すまいから、王家の一切を任されている以上、二階堂は撤去し、他に遷さねばならない。」と。 蘇我高麗が、二階堂は宮だけでなく街になっているから勿体ないというと、「王家の仕来りでは、すべてを遷すことになるので、場所の選定を進めるように」との女王の命令にやや不満を感じながら退出した。 物部麁鹿火に聞くと、「雄略天皇の時代に、宮が 「朝倉宮」→「二階堂」 に遷ったのは余りに不便なためであり、稚鷦鷯(わかさざき=武烈天皇)は出雲の近くに宮があっても、実際には二階堂で政務を執っておられた。 新しく王家の財産を相続した新女王が事実を民に知らしめるためのもので、慣わしではないかも。王家の家宰としては大変な出費、ご苦労様。同情する。」といったところ。蘇我一族が大きくなりすぎた事への非難の雰囲気を感じざるをえなかった。★男大迹王と蘇我高麗が翌日の葬儀の席での話である。1. 義母の遺言で、引き続き家宰の仕事を引き受けるようだが、よろしく。2. 西国では、倭国に出陣していた物部一族本隊が無傷で帰国したことで東進論が勢いづき、中間の吉備の下道津父子に手を出している。しかし、大和からは三野氏に茨田大娘を嫁がし、その前には笠氏に朝嬬媛が嫁いでおり、この大和派と、反大和派の対立が目に見えている。難波から加古川までの52kmは、交易商人、水軍にとっては目と鼻の先で、戦となれば都の弱さが致命傷。樟葉の宮や、二階堂では守れないので遷都する気持ちだ。大和盆地の中で、以上の観点から「遷都の候補地」を手白香媛だけでなく、男大迹王、さらには兄君、弟君についても宮造りを行うことを考えるように、であった。・ ・・::::4つの遷宮の候補地:::::1. 耳成山の西方1里、畝傍山の北北西にあり、曽我川と葛城川の囲まれた「曲川」と言う土地で、「水利による防御に優れ、大和盆地のアクセスがよい」2. 天香久山の西で、履中天皇の宮であった磐余(いわれ)のさらに奥地の「池の内」という土地で、進入路は1本のみで、その奥は三方が連山の守りやすい要害の地3. 甘橿の丘の西斜面で、耳成山、畝傍山の二山で前面を防衛し、多くの大塚に囲まれ、砦に造り直させる。蘇我氏の屋形で囲めば守れる4. 平群谷の中央上庄(かみのしょう)で、旧平群氏の本拠地。生駒山地、平群山地に囲まれた狭地で、北を枚方軍団、南を物部の軍団が抑止。----------- 数日後の決定:遷宮先は第2案を採用し、「磐余玉穂宮」とする、となった。----------- 男大迹王は最初、防御上は第1案が攻守にわたり優れているとみたが、王妃が万一大和盆地にまで敵が攻め込めばどこに宮があろうと同じであり、むしろ吉野に逃げるのが一番であると言い、池の内は吉野に通じる街道筋である。----- また、大兄の王子の宮には第一案を、弟君の宮には第3案を当てるとした。但し、民への負担はかけず、二階堂を解体、その部材、家具、調度を遷して、三宮を建てるように。 「磐余玉穂宮」や家宰の役宅も平屋の簡素なものとする。 工事の設計・施工は、漢一族の地方分散を完遂した山木の息子が棟梁として行った。★ ★ ★・・水軍を造れ! 男大迹王の命令 蘇我高麗に突然、男大迹王から勅令が降りた。王家直属で水軍を造れという。物部水軍がいるが、倭国と戦いになれば分家として倭国の水軍に加わるかもしれない。 倭国は水軍戦を新羅、百済と経験しており、吉備は児島水軍、塩飽水軍を持っていおり、大和は角賀、秦、三国の交易船ばかりで、物部、大伴のは川舟程度であり、これらとはとても戦えない。 男大迹王は、蘇我高麗が隼人梟師とも親しく、その隼人族ならば、三国衆にも負けない外洋にも強い大型船を造る技術を持っていることを見抜いているのである。★・★ 王家の所領の250郷に王家が神宮を造営する旨を伝達し、隼人が設計した部材を各郷1隻の造船に見合う部材に振り替えて供出させ隼人の邑で造船する極秘計画である。 王家は旧宮の部材で新宮を造り、新宮の部材と偽って内密に新船を造船する作戦である。 さらに、男大迹王は計算する。 兵船を造船しても、水軍は水兵を必要とし、1郷当たりの人口千人のうち成年男子250人として、うち10人を徴兵すれば2500人が集まる計算になる。 郷としては労働力が不足するから、不本意ではあるが拉致もやむを得ないという。 坂東の兵を集めて蝦夷地を襲い、2500人を拉致し、農奴として各郷に分け与える。 その数だけ兵を募ればいい。 拉致というと聞こえは悪いなら「説得」、「誘惑」でもいい。 舵取り、漕ぎ手は集めなくても本職の隼人に頼む。随分と荒っぽい計画であるが、王家の極秘命令なので、王妃もご存じかを確認した。★ ★ ★ 八丁漕の帆船は熊野、志摩、白子、遠江、伊豆白浜、安房白浜、鹿島、香取に集められ、王家の所領から徴兵された兵が、棒、弓、刀術、漕船術を磨き、湊同士の実戦訓練で水軍らしく育っていた。・・・八丁櫓ぎ船の展示・八丁漕ぎ船の船団・八丁櫓ぎ船の帆かけ・八丁櫓ぎ船の帆走★ 蘇我高麗は、内密でこれだけの大仕事をするに際して、息子の稲目に、その腹心二名を伴い吉備国の探索するよう、帰国したら指揮を代わって執るように命じた。 また、道中では「男大迹王」に探索に行く旨だけ伝えよ、と送り出した。・・・本宮、二の宮、三の宮も完成し、蘇我氏の役宅、諸豪族の別宅も完成するにつれて、「蘇我氏の王家乗っ取り」などの噂が蔓延するようになった。・・・ 男大迹王、王妃の言うがままにしているのだが、蘇我氏への風当たりが日増しに強くなる。 そんななかで、蘇我高麗は病に伏した。 王、王妃はすべてを知らんぷりし、蘇我高麗が日蝕の闇に隠したかのようで、その責任は一身に背負わされたのである。・ あの「日輪の災い(日蝕)」は自分にも襲ってきたかのように思われた。・ ついに、稲目にも会えずに、この世を去ったのである。★(呆けの写経は続く)
Jul 31, 2014
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東莱の編(523年)★ここは朝鮮半島の金井山城である。洛東江を挟んで金海伽那の対岸に聳える金井山750mを北端とし12kmの城壁を2段に囲った堅城は、新羅防備のために、倭兵、東莱の倭人が16年前に、4年の歳月で築城したものである。城内には5千の兵が常駐し、物部本流一族がこれを守っている。烽火台が北、東、南に配置され(西は洛東江なので水軍が当たる)、新羅来襲と見れば烽火により直ちに兵を出し対峙、増派が必要と見れば他の門に要請する仕組みである。城内の自給体制は確立されており、飼葉だけは城下~洛東江の間にある草原から毎日搬入している。この金井山城に対して、新羅は山向こうに長安城、鷲津城を構えてそれぞれに5千の兵を擁している。★新羅側は、散発的に兵を動かし、これに倭軍は対応した。新羅は烽火に怯え倭軍は4度目の攻撃は籠城戦と覚悟して、崖の木は切りたおし、草には油を撒き、城内には石切場の石を粉砕し投石、礫などを備え、東莱谷の農民を城内に収容した。1ヶ月後、新羅軍が猛攻をかけてきた。倭軍が火矢を草原に放てば、新羅軍が慌てて後退し、逆に火矢を放って燃え尽きた草原を進む。断崖に取り付いてよじ登ろうとする新羅軍に、石、丸太が落とされ、さらによじ登ろうとする接近戦では礫が飛ぶ。熱湯が飛び、矢が飛ぶに至って半日で倭軍が勝利した。・・・・・ しかし、籠城戦を守っただけであるから、新羅軍は、偵察を繰り返し高句麗との対峙に当たっていた将軍を金井山城攻撃軍の軍主に任命、5万の大軍を振り向けてきた。・・・・・ この間に、金井山城では倭国本部と作戦を協議した。 倭国から5尺の丸太を揃えて1万本送ってもらい、城壁から板を組んで丸太を並べておき、浅い止め板を鳶口で外せば落下する仕組みを考えた。物部一族が総出で丸太を倭国から切り出し、海上運搬し、城内に備え付けられた。・・・ 結局、新羅軍は、金井山城を堅城と認めて正攻法の力攻めを開始した。戦闘の列が崖の中腹まで登り、最後の列が崖に取り付いたところで、用意した丸太ミサイルの一斉爆撃を続ける。一時間もすると丸太は残り少なくなり、新羅軍も大きな被害が出て体制の立て直しを迫られている隙に、倭国兵と東莱谷の倭人は大事な馬と共に城内を脱出し、迎えに来ていた50隻の船と水軍に乗り移った。太宰府は、金井山城に派遣していた物部の兵がほとんど無傷で帰ってきたので大いに沸いたのであった。★ 金海伽那の城主は遂に倭国に見放された事を悟らざるをえなかった。倭国は新羅に対し、5千の兵で、一度目は倍する敵を完膚無きまでに撃退し、二度目は10倍の敵を相手にして3万の死傷者を出させて、無傷で脱出したのであった。・・金海王は新羅・法興王の占領地視察出迎えの指示に従うしかなく、貢ぎ物をもって出迎えた。新羅がそれ以上のことを金海王に求めなかったのは、倭国水軍を恐れたのである。★参考:金井山城について(WEBより)・金井山城城壁と金井山・金井山城・金井山城の周りのハングル表記(上が西の洛東江で、右が北に当たるようだ))・金井山城の高所・金井山城東門・金井山城南門・金井山城北門・金井山西門・現代の釜山市のハングル表記(Google航空写真) ・釜山の観光地図(WEBのコネスト韓国地図より) 多少の間違いがあるかも。WEBをご覧下さい。(呆けの写経は続く)
Jul 30, 2014
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播磨(=針間)の編(518年)★豈角姫(ささげひめ)が斎王(いつきのひめみこ)に就くため、大和の仮宮で斎戒沐浴生活を二年送った。 (このような仮宮か)二年というのは、この間に、伊勢大社にある前の斎宮や斎王寮を取り壊しすべてを造り直す期間である。 伊勢大社には大宮司がいてすべてを仕切っており、神嘗祭には王家から中臣氏の長者が出向き祭主を勤め、斎王は社の近くの斎王殿にただいるだけで、すべては斎王寮の采女が代行する。斎王寮は大社から3里も離れていて、舎人、蔵、膳、炊、酒、水、殿、采、薬、掃の各部が揃っており広大な敷地をもっている。斎王の第一の仕事は、大社に向かう人々を斎王寮に寄らせて、斎王の禊ぎをうけさせることである。 王家の権威を際だたせる演出と男大迹王は考える。この秋には神嘗祭の斎王となるので伊勢の大社に向かう。 (伊勢大社) 彼女の壮行式と、大兄の王子の顔見せが樟葉宮で挙行された。 (樟葉の宮の跡) ★その出席者から、男大迹王の姻戚、取り巻きが判る。 主賓達を紹介する。 「」は男大迹王が父親である同・異母兄弟姉妹にあたる。 ------------ ・主催・・・男大迹王[=継体天皇]・主賓・・・「豈角姫」、「大兄の王子」(尾張出身)・大和から・・・手白香媛、春日山田姫、橘仲姫・尾張方面より・・・草香王・淡海(琵琶湖)方面・・・息長の真手王、その弟の坂田の大跨王・古志の国・・・都奴牟期王、「角折姫」(つのおりぎみ)・近在から・・・「大兄の王子の弟君」、茨田小望と関媛と「その子・茨田大娘」 これに加えて、大和の家宰から荒斯、大和の警護隊長国見など、 太秦の秦大津父など来賓20数名の大宴会は樟葉の宮の広場で催された。---------- 開宴の始めに男大迹王が挨拶し、斎王の役割は手白香媛が説明した。 「遠き昔、斎王は祭祀を、大王は政治を司り、政祭一体で祭事(まつりごと) を行っていた名残から、斎王は大王が死なないと大和には帰れないのである。」 大兄の王子は、男大迹王が紹介し、日継の御子と宣言した。 「王家では、兄弟従兄弟が相争ったためにその血統は絶えようとしていた。 その原因は日継の御子を予め決めなかったからである。 ここに尾張草香王の娘・目子媛の生んだ我が嫡男・兄君を日継の御子と定め、 大兄の王子と呼ぶ。我が意を体し仕えるように。」-------・------・------ 酒席での大物たちの話題:1.先住民が王家が来る前に使用していた銅鐸が盗掘される事件: 梁国の通貨・銅銭の改鋳(純度を上げる)に伴い銅の需要が増大して、 三国での銅鉱山は活況、古い銅製品も需要が高まり盗難騒ぎが起きている。 滅ぼされた葛城一族の穴居の中から銅鐸などが 盗掘にあっているようだが所有者がいないこと、穴居は墓でもないので 墓盗掘ともならない。そう国見がいうと、荒斯は「宝探しの技術を公開し、 堂々と仕事をさせればいいのでは。私が買い取って寧波で交易して儲からせて 貰いましょう。」2.針間の国の加古川下流域の治水と開発計画: 男大迹王と茨田小望(治水工事専門家)の会話だが、針間の大豪族の忍海細目 からの願い出である。忍海は、嶋王(仁賢天皇)、来日王(顕宗天皇)を 加古川上流に匿った功績で現在の地位を得ている。加古川上流は人が住めるが 下流域は湿原で利用価値がないのでこれを開発したいと言ってきたのであるが、 「小望」がその調査をしたところ、下流域が湿原になっているのは、上流の水を 一部、吉備の支配下にある「洗川」へ隧道を掘削して迂回させる必要がある。 「洗川」流域である耕作適地・印南国原を支配する吉備の三野氏の分派印南氏に 「川幅拡大、川底掘削の工事の了解」を男大迹王が取り付けて貰いたい。3.大陸、半島、倭国の情報: 息長・真手王が交易商人である三尾・都奴牟期王から海外の知識を吸収している。 ・新羅は、国全体が軍制で軍事国家、侵略国家の体質は変わらず、洛東江東岸を 占拠している。おかげで三尾の軍事武具の売り上げはあがっている。 ・伽那諸国は、北部の大伽那連合と南部連合(倭国が軍事支援)に分かれている。 北部の伴跛国が南の帯沙を攻め倭国・百済連合に返り討ちに遭い、今後は 切り取りを待つのみ。息長氏の故郷の金海は、全盛期を過ぎ、鉄が枯渇化し、 その使命を終えたようだ。 ・百済は、統一された軍事国家・新羅と違い、地方軍団長は民政官のままである。 大陸からの文化、制度の受け入れは進んでおり、北魏から仏教などの受け入れで 求心力をつけようとしている。隣国新羅の一途な軍政化に立ち向かうのは 容易ではない。 ・倭国は、豪族たちが強く連合国家の様相を呈している。新羅のような統一軍事国家 との戦いの仕方に迷いがある。戦力は付いてきているようで、また開拓適地が多くて 半島の倭人・韓人を受け入れている。百済経由で大陸の文化を受け入れているが、 海に囲まれているために、独自の文化も育ちつつある。金海を守っているのは 倭国であるがいつまで続くか判らない。 ---------------------- ---- -- 宴会の後日のこと、 吉備の印南の丘陵で、茨田小望は印南氏からこの穀倉地帯を 開拓した苦労を聞いている。普段は雨量が少なくそれを補うために小池を 水田9に対して溜め池1の割合で、幾つも造っているが、溜め池の水の分配で 争いが起きてその調停に苦労する。さらにその下流は平坦に近く水は幾つにも 分流してまるで沼地である。米の収量は苦労の割に僅かである、という。 洗川、加古川ともに下流は同じような沼地であるから、両方の河川では 同様の問題を抱えている。加古川の水を隧道を建設して分岐させ洗川に流すこと、 両方の下流では川底を掘削し、「流れを集めて速し最上川」のようにする訳だ。 費用はすべて大和が持つので、許可だけいただければよい、と言う。 もちろん、水田の開墾は吉備側での負担である。工事の人手がいるが、人員は 現地の吉備が用意し、その人件費は大和が持つともいう。 本家の了解がいるというのでその返事を待っている。-------- 本家三野家の当主は、 「壮大な計画であるが、理にかなっている。 計画自体は20年を要し、印南の工事が始まるのは10年後という。 茨田小望という工事責任者は、その娘が男大迹王に嫁いでおり、 大王が認めた計画であろうから、計画を担保する意味で大和と姻戚関係を 結ぶべきであり、男大迹王と茨田小望の娘の娘を、当主の孫に迎える条件を 提示したい。」という。 男大迹王は、人質のような要求には当初反対したが、茨田小望が男大迹王の 娘としてでなく、自分の娘として(孫から、娘への縁組みを行い)茨田大娘を 当主の孫・三野園部に嫁がした。★(呆けの写経は続く)★・参考(WEBより) 加古川は兵庫県最長の一級河川で、源流を朝来郡山東町、氷上郡青垣町境界にある栗鹿山(標高962m)にあり、分水界は日本一低い標高95mに過ぎません。また、平野部が内陸部まで広がっているため河床勾配は小さく流れは緩やかである。・水分かれ公園 ・加古川源流・加古川中流の瀧?灘?
Jul 29, 2014
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固城の編(517年)★ 倭国が百済から五経博士を獲るために、伽那諸国のうち西の3国の上哆唎(おこしたり)、下哆唎(おろしたり)、己汶(こもん)を交換条件としている隙に、高句麗が南下して百済北方の2城を壊滅させた事はお話しした。 倭国としては魅力のない北方地域である大伽那連合ではあったが、その中で最北に位置する「伴跛(はば)」は百済が失った部分の一部を高句麗から奪い返し自分のものとした。 さらに倭国が百済に与えた国の一つ己汶(こもん)に乱入し、略奪を働いていた。・・・・・・ 百済からは、半島に駐屯していた倭国から任命された国司の一人、帯沙(たさ)国司・物部至々(ちち)に「伴跛」を戒めるよう嘆願の使者があった。国司「至々」は、壱岐物部の出身で、穀倉地帯、また漁労に適した「帯沙国」の軍事・警察をここ10年何不自由なく掌握してきた。 本来は百済からの嘆願は本国に任すべきだが、国司として「伴跛国王」に書簡を送ったことで、倭国は軽く見られたようだ。 「伴跛国」は、倭国が百済に委譲した己汶国の都・南原を落とし、知らぬうちに帯沙国境近くに大軍を配置し、驚いて帯沙国が攻め込んだものの、逆襲されて、帯沙国の都・河東は落城した。帯沙国の国民は隣国・史笏(しこつ)に逃れ、倭軍は固城国へ船で脱出再起を図ることになった。★ 物部至々の不手際が太宰府に届き、本部の作戦会議で、「伴跛国」の戦線が細く長く延びすぎており、百済・倭国が協同作戦で挟み打ちにすれば勝機は十二分にある、という結論が出た。 百済に使者を送ることになり、敗戦の責任者の国司「至々」に否応なく白羽の矢は立った。★ 太宰府の司令官・宇佐五百手は、昔、百済の優秀な司令官を友に持っていた。 彼は、気の病に冒された先王・東城王を毒殺し、武寧王に継承させた後に、遁世して仏教に帰依して食を断ち先王を追ったのだが、彼の子息は優秀で百済で要職にあることを知っていた。名を徳率餘白という。 司令官・五百手は使節の物部至々に徳率餘白への書簡を持たせるなどの智慧助けをしてやった。 そのお陰で武寧王に無事に国書を渡すことができた。・・・・・・・・・ 百済軍(州利即爾将軍)が西方から、倭国軍(穂積臣押山将軍)が南方から、それぞれ戦線の伸びた「伴跛軍」の先端を同時に攻めたから「伴跛軍」は孤立無援で、ひとたまりもなく降伏した。・・・ 武寧王は外交を司る長官に徳率餘白を引き上げ、病気の五経博士を交代させるために、餘白と新しい五経博士・高安茂、百済の将軍などの一行を倭国に使節団として派遣した。 もちろん、武寧王の計らいで帯沙の国司「至々」も同行している。・・・ 日本国王である磐井は、次のように褒め称えた。「百済軍・日本軍の共同作戦で、戦線の伸びきった伴跛軍を打ち破り再起不能にさせた。この功績は餘白と至々に帰する」とし、「日本国軍により半島の帯沙派遣軍が勝利した」として将軍たちを労った。 但し、として付け加えた。 「大伽那連合軍の一国である伴跛国を壊滅させたので日本国および百済は大伽那連合軍を完全に敵に回してしまった。両国は連合国のみならず、新羅に対しても一体となって当たらねばならない。」と。★・呆けのメモ当時の国名・地域など 地域・国説明 中国大陸 北朝 北魏・考文帝・・・洛陽遷都、中華思想。三長制、均田制取り入れ→帝王「仰・こう」5才、摂政・胡太后の治世は分裂状態 南朝 (宋→斉→)梁・武帝(蕭衍・しょうえん)・・・生粋の文化人。経済発展、交易拡大 朝鮮半島 高句麗 王・高羅「雲」で文咨明王。長壽王の孫。廣開土大王の曾孫。 百済 東城王→武寧王。民政官による軍統制。大陸文化、制度受け入れ進展。 新羅 智証王→法興王。統一された軍事侵略国家。 伽那諸国・ 南伽那諸国のうち南東部の金官伽那・金海、漆吐、安羅、帯沙、固城、史笏では伽那人の国王がいて、倭国から派遣された国守が軍事・警察権を掌握する。倭人、韓人の上に少数の伽那人が支配する体制にある。治安を有利に治めるためには韓人を西南部の牟婁、上哆唎、下哆唎、己汶という、倭国から派遣された国守が飾り物にすぎない地域に移動させる方針。・ 北伽那諸国(大伽那、伴跛、「卓淳」、古寧、多羅、散半下、「比自火」、「卒麻」、斯二岐、星山など)・・・倭人はいない。「大文字」は新羅が占領・ 百済へ割譲(上哆唎・おこしたり、下哆唎・おろしたり、己汶・こもん)、自ら百済の支配下に申し出で・・・ 牟婁(自由貿易湊) 日本列島 「倭国」 倭王・磐井。日本国王を称する。国府太宰府。出雲~五島列島辺りまで支配。朝鮮半島の伽那諸国に国司を派遣。 「大和」 男大迹王・継体天皇。大和が中心。丹波~夷隅・古志あたりまで支配。水稲栽培が得意。 先住民と第一次~第三次の倭人などの渡来人の集団が和合。 吉備 大和の一員であったが、乱を起こし分離、分裂。倭国と大和の緩衝地帯の役割。 「隼人」 隼人梟師として統括者は前任者が選ぶ。漁労が得意で、捕鯨も行う。黒潮海流の沿岸支配。熊野以東を大和に委譲しようとしている。百済王の弟が漂流しているところを助けて、大和に連れて行くと、その子孫が大和の家宰として全力を尽くす。 蝦夷 次第に東国へ追いやられる ・ このほかにも、渡来人の秦氏という絹織物などの技術集団の存在がある。 ・朝鮮半島が、鉄の生産に必須の木炭供給ができなくなる、 鉱物資源も枯渇などで寂れてゆく背景がある。 (メモに過ぎません。気がついたら修正します。)★高句麗王朝の系図(理解を深めるための参考図、WEBより) /// (WIKIPEDIA) /// この王朝図を見ると、一番上の「朱蒙チュモン」は、韓国ドラマで一番好きな王様である。 そして、もっと好きなのは後妻となった、隊商の娘「ソソノ」の強い行動力、判断である。 最近、顔立ちがよく似た女優・サヘルをTVで見るが、もしかしたら、ペルシャ(イラン)人はシルクロードを通じて移動してきたかもしれない。秦氏だってモーゼ、月・弓月族などと変遷してきたかも・・・ 要らぬお節介でした。 @@@ いま、土佐の「ごっくん馬路村」を飲んで一息ついている @@@★(呆けの写経は間欠泉のように続く)★
Jul 28, 2014
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三輪の編(515年)★大和の祭主・手白香媛により、新嘗祭が執り行われた。<写真はWEBより借用、場所はご想像下さい> 男大迹王も側に並んで参列するが催事は任せている。手白香媛は、大和にいる八百万の神々に祈りを捧げ、亡くなっていったすべての人の霊としか言いようのない存在である。心の有りよう、その美しさで、大和盆地の溜め池が干上がる寸前に、雨乞いをして雨を呼んだのだから凄い力を持っていよう。 <三輪山> <田植えの頃の「逆さ三輪山」> <収穫の頃の三輪山> <大神神社> <立ち入り禁止区域>★ 男大迹王の指示もあって、春日大郎は王家の家事・祭事一切を手白香媛に譲ったが、王家の財産は大郎が掌握し、手白香媛は要求もしない。大郎なら家事・祭事に使ったものは、豪族達に払い下げたものを、大事に再利用して慎ましく暮らし、品性を高めて、かつ、王家の財政は益々豊かになっている。★ 祭りが終わり、男大迹王から、(新)隼人梟師が自分の所に挨拶に来て、蘇我高麗に相談に行くように指示したという。明日、甘橿の蘇我部邸に来るというので、満月を受けて三輪山と、手前の箸墓が妙に調和するのを見ながら、真夜中に邸宅に着き一眠りし、新しい隼人梟師とその妻達にあった。流石に選ばれただけあって礼儀正しい好男子。孫達も行儀が良かったが、挨拶の後は大騒ぎで、此花媛に任せて二人で客殿で会談した。★隼人梟師: 重大なことなので、まずは大和の大王にお話ししたのだが、熊野新宮以東を 蘇我高麗の配下に組み込んで貰いたい。蘇我高麗: 大胆な申し入れであり、簡単にはいかない。布左の国に夷隅の国があり、 最近、夷隅を王家に預けたいというので行って現地を見て、王家に 手白香媛の代理として献上したが、その船旅で「伊勢の白子湊」から 「布左の白子湊」へと渡り、隼人族にはお世話になった。 若いときに、海で漂流した経験から海嫌いになっていたが、治ってしまった。隼人梟師: 「白子」の本貫は、大隅の蛤良(こうら)にある「白子」であり、黒潮の流れる あちこちに邑分けしている。さて、布佐の白子を例としましょう、具体的に 説明を始めます。 ・・・<布佐の白子の例>・・・・ 戸数は70,人口は450人,生業は鰯漁で豊漁、捕鯨も行う、水田30町歩、 畑10町歩、食糧自給体制・ 鰯の捌き方は、日干しにした後、畑(綿や、夷隅では桑)の肥料として 近在や、他の隼人の邑に捌いている・ 西都原に行くときは上納品として安房の真珠百束を持参する(船旅費用が 嵩むので負担を軽くするため)・ 水田耕作が湿田から乾田に移行するに今後、倭人の力を借りねばならない。・ 倭人は漁労では、魚介の採取、投げ網は程度、隼人の地引き網、捕鯨に及ばない ----------------- ----------------これまでは、現状分析だが、、今後の方向としては次に様に考える。・ 隼人には祖先神として大山祇を祭る習慣があるが、それは踏襲する・ 隼人と倭人の和合は婚姻により勧めるべきである・ 白子の例は、やりやすいが、近くに豪族がいる場合は、邑毎に、戸籍、 地図、産品台帳などを用意し、年に一回、土地の人口、田畑の面積、 鉄に換算した蓄積の増減を把握しておいて、蘇我高麗の配下にする 方法を考えよう・ 白子の例だと、西都原への往復の航海がなくなるから、それに見合う産品量 を決めればいいのでは、などなど。いずれにしろ、細部を詰めるために、 隼人の代表が難波津に集まり話し合いが始まった。----------------------★・後継問題1.家宰の長(自分) 自分の後任には、稲目を考えているが、15才と若く、後継者として 公表し、いずれバトンタッチのタイミングを考える。 それまで、国の体制を造っておこう。 2.才伎の長 蘇我一族の繁栄は、王族と共に順調のように思われた。 しかし、手白香媛による質素を旨とする王家の家事一切の仕切りで、 武具・馬具も自ら男大迹王が賄うこと、中央・地方豪族も それなりに半島から才伎を集めることで、ここ5~6年、 需要が急減していると、渡来人の才伎を預かる漢一族の長・山木は、 判断している。つまり、専門職があぶれて畑仕事に出なければならない。 このまま都に留まることは難しいのである。 地方に分散して技術を伝播していった秦氏に見倣い、地方に分散しながら 一人で多くの技術をこなせる才伎になる必要を感じている。 機械に喩えれば、優秀な単能機としてでなく、優秀な複合機として 機能しないと売れないのである。 つまりは世の中が大きく変わろうとしているのであり、他方では自分たちは すこし老いてきている。すでに育ちつつある若者に権限を移す、自分たちの 引退を考えるべき時が近づいている。3.文人官僚を率い王家の財政担当の長 漢氏の地方分散と隼人の受け入れの問題が発生し、一人では無理である。 畿内、北陸道、東海道、中山道に4分割し、各道に長官を配し、 それに隼人の優秀な若者を付けて束ねて行けばよい。4.警護隊長や舎人軍の長 物部や大伴と互角の軍団に育てるには、冷静沈着で、物見をさせても正確な報告 がかえり、経験豊かな後継者が育っている。 ★主要な関係者に相談すると次のような意見が出た。 春日大郎: 大変な改革であり、同年配として全面的に支援する 手白香媛:< 自分は、大和の神々に霊を通ずることはできるが、 隼人が大和の民となっても、彼らの霊を通ずることはできない。 隼人の神を祀るものを大和に置き、隼人の遣り方でやる必要があろう。 男大迹王: 隼人が東半分の放棄を申し出た理由は、東半分には蝦夷もいて、 倭人との混血で隼人が部族の生き残りの方法を考え、東半分は 王家の配下になると言うが他の豪族の動きを警戒して進める必要があり、 その辺を蘇我高麗の目の黒いうちに目途を付けるように。 大和の神、隼人の神については神々の結婚ということもあるが、 手白香媛ではそうはいかないだろうから、気配りをしてやってもらいたい。 ★これらの意見を尊重しながら改革を進めていくことにした。 ★ ・★・・・★・・ 呆けの写経は続く、と言いたいが・・・猛暑で疲れてきた。それに、原書はここら辺から個人の描写が多く、生き生きと書かれている。ぜひ、原書をご覧下さい。 休み休みで、辿ることにします。・・・・・・ 本日の早朝テニス練習(7:00-9:00)は、練習前に雑草取りしたこと、上級~初級者をごちゃ混ぜの日であり上級者が多かったこと、人数が普段の2/3に減っており、駐車場の車のガラスの反射・照り返しも強くて、目が回りそうであった。・・・・・ 本日を以て、ゆっくりと間欠泉の如き写経に取り組みます。
Jul 27, 2014
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伊勢の編(515年)★・・・三輪山麓の祭礼・・・ (以下の写真はWEBより。場所はご想像を) 三輪山の山麓、満開の躑躅(つつじ)に囲まれた二枚の神田で、 王、王妃、重臣達を前に、神官が祝詞を唱え、 男達が田ごしらえで田に水を引き、 もう一方の田では早乙女達が苗を植えている。 豊作を祈願して、 太鼓の音、音曲が流れて、 翁面をつけた男達が踊り、 早乙女達も加わる。 神官が終了を告げると、 人々は二枚の田を囲んで、 二礼二拝一礼してこもごも去る。 ---------- --------- ----------- 男大迹王は、神官に従って、質素で美しい早乙女が音曲の中で田植えする光景が一種の信仰上の儀礼に見えて、自分も大和の風俗に慣れたものだと感じる。★ ・・・大兄の王子 男大迹王が二階堂に帰館すると、尾張の草香王が、男大迹王・目子媛の間に生まれた成人男子を連れて樟葉の宮に明後日には到着する予定との報が入った。 その弟は尾張に置いてきたらしい。手白香媛は、この話を聞いて、ぜひ、二階堂にも連れてくるように、と言う。 男大迹王が、端正な逞しく育った尾張生まれの息子と面会しているところに、追いかけるように手白香媛が現れて初対面の挨拶を交わした。-------------- 手白香媛は「驚くべきこと」を男大迹王に主張した。1.母・春日大郎は、雄略天皇の血筋たる、 手白香媛と男大迹王の嫡子を承継させることを願っているが、 それはいいことではあるが、まだ幼すぎる。 せんだって、幼い武烈天王が事故で身罷ったような不幸が起き、 王家の断絶の危機が起こるのは懲り懲りである。2.成人になった男大迹王・目子媛の男子を「大兄の王子」として、 則ち男大迹王の世継ぎとして世間に知らしめ、 王家からは春日の山田姫(手白香媛の異母妹)を嫁がせる。3.「大兄の王子」に弟がいるが、手白香媛の妹・橘仲姫を嫁がせる。 男大迹王は、この「三重の絆作戦」には、 子供までも種馬扱いするか!と怒った。 しかし、結局、民草の安寧を願う王家というものの本質に驚くしかなかった。----- 手白香媛は、男大迹王、草香王、目子姫を遂に説得した。----- 手白香媛は、男大迹王に心服している物部麁鹿火から説得を始め、「兄君を、大兄の王子にする点」を大議会に提出することに漕ぎ着けた。「弟君などの王家内部の婚姻は王家の問題である」と、大議会では管轄外の問題であるとされた。 春日大郎の説得は、難しかったが、「幼い王子が病気で危篤になったとの大芝居」で、王家の危機を説き伏せることに成功した。★・伊勢大神の斎王 王家の安泰を願い祖先神に仕える、王家からの未婚の斎王が身罷った。伊勢神宮の斎宮は百人近いものが仕え、斎宮領の渡会、多気の賄いで成り立ち、任期は、現王または自分の生存期間である。すでに、男大迹王と麻績娘子の間に生まれた豈角姫(ささぎひめ)は運命として承知していた。 <伊勢神宮> <内宮・神楽殿> <神楽> <皇大神宮> <上空からの写真> ★ ・秦氏による絹製品流通の一元化 従来、秦氏が絹製品の生産から指導を行い、流通も押さえていたが、蘇我高麗が王家の財政の安定資源として絹織物を考えているようで、一族の引き抜きや、絹織物の集荷を二階堂にしているという、不満が秦氏の長・秦公大津父から男大迹王にもたらされた。 丹波征討で多大な貢献をしてくれ、その後も、丹波に積極的に一族を移住させ殖産を興し、季節毎の貢ぎ物を倉単位で届ける位の、男大迹王の有力後援者である。製品を秦氏に一任し、王家には適正な利潤を残すようなシステムで同意した。 交易では梁の銅銭の質の改善が奏功し、大陸とは安定してきたが、朝鮮半島は百済も新羅も軍事に明け暮れ、奢侈品の絹には目もくれず、伽那は落ちぶれている、という。★ ・隼人の東国所領を蘇我高麗に委譲申し出 物部麁鹿火から「難波津沖に停泊中の隼人梟師が男大迹王に面会を求めている」、との知らせで、枚方湊への上陸を許可した。新しく梟師を継承したのは30代前半の、筋骨逞しく、遠くを見つめる、隼人にしては背の高い男で、絶対と言って良いほど他人には譲らない日向駒の番を10頭土産に持参した。途中、野分けのため室戸沖で船待ちしたため7日の旅となったという。用件は、以下のごとし。-------隼人は黒潮の流れる万里に住み、人口は20万に及んでいるが、現在、西都原の統制が及ぶのはその半分の熊野までである。熊野以東では、倭人、則ち大和の影響下の人々との交流が多く、水稲栽培、漁労などで互いが同じような生活をしており、摩擦が起こる危険を孕んでいる。熊野以東を王家の所領に差し上げたく、隼人の地を蘇我高麗の配下に組み入れて貰いたい。-------- 聞くと、隼人梟師の妻は、先代・隼人梟師の娘が蘇我高麗に嫁いで生まれた娘である。男大迹王は蘇我高麗と隼人梟師の間で交渉するように伝えた。新しい隼人梟師は喜んで席を立った。★ (呆けの写経は続く・・・原本を詳しく辿ってください)
Jul 26, 2014
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慶州の編(511年)★ 太宰府の倭国は日本国を宣言し、大陸の呪縛を解きはなった。 (当面本稿では倭国のままとする)-------- 倭国は朝鮮半島では、金海(キメ)地域にあった金官伽那(かや)を支援し、新羅軍の侵入を察知する烽火台を設置、邀撃する体制を敷いている。南伽那の残りの5ヶ国には固城に倭館を築いて、九州山鹿の物部系穂積氏を将軍に任じ、軍事・治安に当たらせている。 ---------- <4~5C半ばの朝鮮半島南部> (WIKIPEDIAより) (本文の伽那の位置は上図では、ほぼ「加羅+任那」のゾーンに近い。 津島は対馬、地図の欄外には上部に高句麗がいて、下部左に済州島がある。)------ 百済国境の西3ヶ国は百済に割譲したいが、他の伽那国とのメンツもあり、タダで呉れてやることは不味い。倭国は、日本国と宣言した以上、文化的な面で大陸に引けを取らない人材が欲しい。百済が北魏で学ばせたものの、余りに優秀すぎるために、持て余していた五経博士・段楊爾(だんように)を1年かけて、この3ヶ国と交換して貰うことに成功した。 百済と、「優秀な人材との3国交換」に時間を割いている間に、高句麗が急遽南下侵入し、百済の北方の守りの、2城を壊滅して引き上げた。百済は南方3ヶ国を獲たばかりに、北方の2城を失ってしまった。------ 倭国には、北伽那に興味がないことがハッキリしたことで、大伽那を中心に纏まりを図っていたところ、かつて倭人を恐れていた新羅人、特に慶州人は好機と見て、新羅の智証王が攻め込んで、洛東江以東を支配してしまった。 新羅と金官伽那の戦いが迫った2年後、倭国の宗像や物部水軍の救援隊が加わり、浦項に上陸し、都の慶州(古代には金城・クムソン)を襲撃して引き上げた。背後からの奇襲作戦は大成功であり、この戦いで智証王は傷死した。 翌年、新羅では若い法興王が王位に就いた。★・★・★・★・★・★・ <新羅の都・慶州(キョンジュ)の仏国寺石窟庵:WEBより>★(呆けの写経は続く)
Jul 25, 2014
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伊甚(いじみ)の編(511年)★・二階堂にて 今日は、王家所領の運営を掌る宰部の長である、蘇我高麗が摂政・春日大郎に財産目録を報告する年に一度の日である。 「郷の数235(+3)、 里数(=50戸の単位)730(+6)、 人口243、000(+5,000)、 上田1,057,000畝、中田1,720,000畝、下田702,000畝(+320,000畝)、 倉数2,032(+33)、 蓄米607,000俵、 鉄製品106,000貫、・・・」と、 読み上げる宰部長に摂政はウンザリし、要点の「里数」を物部と比較せよという。 里数とは、50戸が1里であり、1戸が7人として水田耕作の邑の人口が計算できる。 つまり、概算だが1里=人口単位350人と見るのである。・・・「王家」VS「物部」を比較する・・・1. 里数: 王家730 < 物部 1,000以上2. 倉数、蓄米、挺鉄換算鉄量: イーブンだが王家は増勢にある (王家は地方分散型:物部は本家集中型、王家を凌ぐのは物部のみ)3. 単独徴兵力: 王家=6,000(うち舎人兵500未満)<物部=万単位(河内常備軍2,000) 鍛え方 王家軍 < 物部軍 ただし、舎人兵の王宮警護で治安面が改善された、と摂政は感謝を表した。・・・大伴氏・・・ 物部の勢力と、蘇我の台頭などで大伴の影が薄くなってきている。 王朝より、大伴氏は、辰砂の利権を歴代保護されてきた。 春日大郎にはそのことを知らせていなかったことが判明し、 彼女の怒りを買った。 辰砂採掘権を剥奪するように命令が出た。 王家は経済基盤を立て直しつつあるが、 まだまだ、大伴が物部に次ぐ力を持っている。 ---------------------------------- 摂政は話題を王家の後継者に変えた。 男大迹王の2歳の嫡男の成長を見守り、帝王学を学ばせよう。また、その補佐役に蘇我の後継者たる稲目(=蘇我高麗の子で、極秘に摂政が生んだ子である)の8歳の逞しい成長をみて、この子に宰相学を学ばせ、将来、幼帝を補佐させたい、との願望が二人に共通している。 摂政は、宰相が現百済王の甥に当たることを知っているが、本人はその繋がりを捨てて、大和のために全力を尽くしている。★・夷隅の国の伊甚の来訪 蘇我高麗が役宅に着くと、3日前に約束した伊甚なる倭人が待っていた。 夷隅の国は、優秀な能力がある先住民・夷人が半数を占め、 暦がなくとも桜の開花時期で苗田を判断しており、 間違ったことが一度もないと言う。 国は豊作で、蓄米も随分と増え、現在の里数は、御宿に1里を開設したので 20里となっているとか。---------------- 伊甚との下記のような話の中で、夷隅に行ってみたくなった。1. 盆地の中にばかりいると王家の宰相の仕事は勤まらないことが判った。、2. 伊甚と交流がある布左の国に隼人の聚落がある。鯨捕りの勇壮さ、 その銛打ちが長となり、さらに隼人族の長の最高責任者・梟師は 勇気、気力、統率力、あるいは寛容そんな超人的な力を持ったものが 現在の梟師の引退時に、次の梟師として選ばれる、などの話は興味が あった。もちろん、宰相は、梟師本人にも会っているし、妻はその娘である。3. 宰相は海で遭難した経験から海を苦手としているが、陸路では20日を 海路では5日も掛からないという。 ★・以下は宰相の旅日記である。<古代の地図など:WEB資料より>1. 鈴鹿川を下り道を南に、白子湊(布左の白子は邑分け)で帆船に 乗船、漕ぎ出す。伊勢の海内から沖に出て、黒潮に乗り、帆を張る。 向かいに不二の霊峰が見える葛飾北斎「神奈川沖浪裏」2. 興津に沖止まりし、一泊3. 坂東を知るために上陸し、足柄峠を目指す。黄瀬川を遡上、土狩から 眺める不二の山肌は荒々しく噴煙揚がる。鮎沢より騎乗、樹海の中を進み、 峠を越え、下り、麓で宿る。どこからともなく二人の遊女が現れる。 <この頃は富士山が噴火していた。天然木炭C14計測による推定、 WEB「富士山の歴史年表」参照>4. 相模川の下流の須賀で稲置(律令制での県を治める首長)を集めて止まる。 相模川は甲斐の国の不二の樹海を源流とする。吾妻の(太郎、次郎)に次ぐ 三郎に過ぎないから、大和の川は潺程度である。鳶が飛び交う中を武左(武蔵) に向かい、六郷の渡しで都鳥を見る。葦の生い茂る岸辺を過ぎ、竹芝で 国人税を徴収され、墨田川を渡ると布左の国である。河川、湖沼、湿地帯が続く。 (古代、利根川を、現代のように坂東、銚子まで迂回させていなかったので湖沼が多い。) <古代の利根川> <現代の利根川へ(利根川・鬼怒川などを銚子方面に大迂回)> 海上(うながみ)の国に入る。 養老川上流に堰があり、水田があるが、今は、 水が引かれておらず、田にはレンゲ、畦には菜の花が一面花開いている。 海岸には塩田があり塩釜を焼き、塩を産出し、その繁栄の上に大塚(姉崎 二子塚古墳)が水田に忽然と立っている。養老川を遡上、峠近くの仮小屋で 伊甚の里から兵の出迎えを受ける。宴の後熟睡する。5. 養老川から峠を越えて夷隅川へ。大多喜が伊甚の館である。里山に沿って 農家が点在し連なり、道脇には水路が張り巡らされ、水田に水を配り、 農具、牛馬はそれぞれの家にあって、倉は持っていない。 丘陵には桑田があって、郷に秦一族が住み、絹布を織って鉄に替え、墾田を 行うという。★ ・伊甚の旅で得た経験1. 吾妻には、膨大な荒蕪地があり、開発し耕作する人がいれば可能性は無限に ある。大和では土蜘蛛と先住民を奥地に追い込むだけだが、吾妻や伊甚の地では 半数いる従順な先住民・蝦夷を旨く使っていて、というより婚姻を奨励しており、 焼き畑や雑穀栽培を行っていた先住民は驚くほどの器用さで、渡来人の 持ち込んだ水稲栽培を使いこなしている。 先住民が、あらゆるものに精霊を感じ崇め奉る従順な民であることに 気づくべきであり、むしろ、吾妻の名代、子代に婚姻を勧めるべきかも。2. 陵墓を造るのは、一石三鳥という話。造墳、開墾、農閑期労働が一体になる。 水田の開墾には谷の開口部に大堰(60丈=180m)を土石で切って大池を造る。 その堰から幅4尺深さ5尺の水路を下流に向かって掘削し、水路に沿って 大畦を造り、傾斜が下がるに従い小畦を決めていく。畦と畦の間を掘って 底に里の腐葉土を敷いて初めて水田ができる。 水路、水田を掘った土の処理が問題となるが、それは陵墓を築くことで 解決できる。丘の上に土を上げて足で踏み固めたあと、大杵で突き堅める。 作業は収穫が終わった農閑期に歌を歌いながら呑気にやるのである。 土師師が入る余地がない陵墓つくり、水田開発記念碑でもある。3. 秦一族がよりよい絹糸を得るための蚕、桑の木の新種の導入、より細かい 布を造るための織機の改良などを太秦の本家から受けて地方の民に指導している。 蚕を飼って機織りをするのは女の仕事であり、先住民の穴居民も区別無く 勤勉に働いている。出来上がった絹織物は、海上の市で鉄と交換している。 今後は、技術集団:秦氏とも関係を深めるように男大迹王とも 図っていくべきであると思った。★(呆けの写経は続く)
Jul 24, 2014
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丹波の編(508年)★ 大和の新王・男大迹王(継体天皇)は枚方の北端・樟葉の宮に住まいながら、催事が大和の二階堂であれば出かける日々を送っている。 大和の正妻・手白香媛には男子が誕生し、重臣達は、嫡男の誕生によって「暫く戦がなくなった」と喜んで賀意を表し、地方豪族達は産品を添えて祝賀の木簡を送ってくる。 大和の民達もこぞって祝賀の列に加わってくれた。★ 皇子誕生から3ヶ月後、樟葉の宮では麻績娘子に女子が産まれ、今後の王家を守る神女と期待されている。 手白香媛は麻績娘子の出産を労うために、二階堂から樟葉の宮にゆるゆると行列を連ねた。 この時の民の喜びは凄まじく、それだけ王統の継承を大切に思い、「雅や風儀」という大和の伝統の継続を喜んでいることが身に沁みて感じられた。男大迹王は、まるで種馬のように後継を説得されたことには、まだ、わだかまりを持っていたが、今、二人の妻がそれぞれの子供を抱きながら、睦み合う様は男大迹王の心からの喜びとなっていた。★ 男大迹王は、隼人梟師の地図を補うべく三国衆との研究を進めていたが、その席で、新羅船が丹波・宮津に上陸したことが報告された。・★・ 三国の舵取り達は、交易の民達が言うように、天星(北極星)を基準にすれば南北の位置関係は得られる、と言う。 しかし、東西の位置関係はどのように決めるか判らない。 舵取り達は、経験で航海はできるという。 男大迹王は、大和の大王であるから、地図を航海のためではなく、国の統治のために使用したい。 方向感覚の経験でなく、是非とも地図で我が国を俯瞰する必要があるのだ。 隼人族の作成した東西の古地図に合わせるためには、木(=紀伊)の国の加太岬を南端として、その北端を北極星の方角に求めれば丹波の何処かの海岸に達するはずである、と三国の椿が愚直に発言する。椿に、夜行での調査命令が下る。その地点は竹野川の河口で間人湊(丹後国竹野郡)であった。★ この地図の南・北端を決める調査には思わぬ副産物があった。椿は宮津に入港する三隻の新羅船を発見したのだった。・★・宮津について 宮津の族長は、新羅の王族から嫁を迎えている。 その地域には倭国・百済が羅州で戦った時以来、牟婁の海に似たところがあり大勢の海人が渡来している。もともと、宮津の族長籠氏は、物部氏より早く新羅経由で列島に渡来した原始倭人で、大和で言えば葛城氏と同じだが、交易が不得意で発展できず、先住民との和合を図った結果、後進性が著しく、丹波に鬼がいるという噂もある。 この度、大和の新王が即位したことについて、族長籠氏は新羅に次のように報告している。「自分の方がよほどその資格がある」と。 新羅と共謀し、樟葉の宮を新羅兵と共に襲う計画がある。・・・椿の命がけの情報だという。★ ・ ★ ・ ★ 男大迹王は、直属の騎馬隊長に訓練と待機を命じた。 情勢を更に分析する・・・ 半島で新羅は倭国(日本国と公言している)と睨み合って、金海を囲んでいる。 新羅が列島の丹波にまで楔を打ったと認識させることで、半島の倭国の脅威を削ぐ目論見であろう。 新羅本国には大和を攻撃するまでの緊急性を持ち合わせていないはずであり、族長・籠氏のみが浮かれているに過ぎないのでは。 男大迹王の素早い決定は次の通りである。1. 丹波半島を三国衆が海上封鎖する。2. 新羅に勅使として大伴氏を派遣し、その旨を伝達する。3. 族長籠氏を召還して、詰問し、大和の総意で大王が選ばれていることを示す。★・ ・★その後の丹波侵攻前の経緯1. 新羅の反応---新羅は此の件に関し一切知らぬ。海上封鎖はご随意に、である。2. 族長籠氏は召還に応ぜず、国内の武装集団が間近にいることの脅威を除去すべき ことが明白となった。3. 山背の大豪族・秦氏は渡来系の殖産集団(血縁関係でなく職掌関係)で、 東国一帯に秦族を配し絹織物を生産、山背の太秦に集荷し、川から瀬戸内海を経て 大陸との交易を行っている。漢の武帝が朝鮮半島4郡を開いたときに桑の生産適地が 発見され、養蚕家が大挙して楽浪郡に移動し、楽浪繭が生産された。 楽浪郡の養蚕業者はその後の統治者に付かず諸国を彷徨い、海を渡って、 列島に移り住み、彼らの養蚕業が、先住民の繭のサナギ(*)を蛋白源として 食する風習とマッチし、秦族は急速に列島に広まっていった。 その秦氏の部落が丹波に7つあり、丹波街道に沿っては3つあり、 丹波征伐に協力してくれるという。 秦氏が途中3箇所で水と握り飯の用意をして、強行軍の進軍を容易ならしめる というのだ。 (秀吉の「備中大返し」の魁である。軍師・黒田官兵衛は知っていたかも。 トヨタの看板方式もここから? 寿司のベルトコンベア給仕方式は?)4. この行軍を支えたのは、兵糧の流れ作業のような供給ばかりではなかった。 赤、黄色の烽火(のろし)を色だけでなく、数を組み合わせて攻撃目標を知らせる 工夫を騎馬隊長と打ち合わせたことである。5.丹波討伐は見事に成功した。男大迹王は列島北の地図にも隼人梟師の烽火による確認の 同時性を適用し完成させた。★ 地図には、倭国の勢力圏(出雲~五島)が未だ白紙である。「和子のためにも倭国を討たねばならない」と男大迹王は胸に刻んだ。★・★・★・脱線です・★・★・★(*)土佐の田舎の子供の頃の話。このサナギをお酒に浸して一升瓶で保存して、鯉や、鮒などの川魚の釣り餌などに利用したことがある。もちろん、屋根瓦の隙間などから蜂の(巣の)子を探して、鮠などを釣る餌としたのであるが・・・絶大な釣果があった!親蜂に追いかけられたり、屋根瓦を壊して怒られた思い出と共に。・・・ ついでだが、小生の家の紋付きには、矢羽根を交差させた家紋が付いている。全く関係はないと思うが、こじつければ矢羽→矢→弓→月に関係し、渡来した倭人の血・DNAがわずかでも入っているのだろう。秘密にしても仕方がない。-------人類は、現在は国境問題で啀み合っているが、気候変動などで、生活適地を求めて世界を彷徨っていたのであり、マヤ文明などはそれを物語っている。キリスト教文明が世界征服のためにアステカ文明を地上から抹殺しようとしたように、「すべてが勝利者の歴史で飾る試み」は地道な歴史・地学などの学者の努力によって次々と覆されている。世界遺産を見て、自分が征服者であったかの感覚でなく、人類の芸術感覚の素晴らしさ、とともに、それを実現させた「裏方」が99.99%の貢献をなしたことを噛みしめたい。 「歴史認識」を政治的な自分の身分保障に使用することはこのことをみても人類愛からかけ離れた行為だろう。かくいう小生は映画を見ても、まるで「主人公」のような気分になる呆け男である。映画監督の思うようになる、その呆けが言っても仕方がないが・・・(呆けの写経は続く)
Jul 23, 2014
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宇陀の編(508年)★ 幼帝を不幸な出来事で失った、母の摂政・春日大郎は自分の陵に幼帝を合葬させると主張するので、蘇我高麗は仮陵に埋葬だけは済ませた。 大郎は悲しみを酒や罌粟(ケシ)の実に溺れることで黄泉の国からの迎えを待っていた。 ところが、娘の手白香姫が懐妊したとの朗報で大郎は蘇り、周りに気を使うようにまでなった。大和の新大王となった男大迹王(継体天皇)は、枚方の北に小さな宮・樟葉の宮を建てて住んでいるが、王家の催事があると、大和の二階堂に来て、催事を司る妃・手白香姫とともに過ごすこととなる。大議会も、大伴が発言を控えて、物部の主張が良く通るようになった。(おっと、臣のなかで平群は滅ぼされたハズで7人の合議では・・・)★蘇我高麗の日常を追ってみる。1. 倭国から一方的に「倭国は日本国と称する」の使者があった。 男大迹王の解説によると、「新たな国号を名乗った新羅が軍事強化しているので 対抗して倭国が独立宣言し、古い大陸の呪縛を自ら解放したのだ」となる。2.男大迹王から倭国および新羅の情報を探索するよう命令が出された。3. 地方豪族からの王への寄進について: 布左(不先)の豪族が大和に寄進することは、大和という「本家」が土地の安全を 守ってくれると期待した考えによるものである。 以後は、王に代わり、大和より以東は全て王妃が所管することにする。4.男大迹王は、蘇我高麗が隼人梟師から貰った「列島の南半分地図」が気に入り、 譲って貰いたいと言うので、その写しを渡した。 男大迹王は北半分の地図を三国衆にいつか作らせるという。★ ・ 蘇我高麗の義父、隼人梟師がやってきた。「梟師の位を譲ることにして、そのものに孫を嫁がせたいので、此花姫の子を頂きたい」とのこと。了承。男大迹王に遇いたいというので、手順を踏む。「隼人梟師に貰った地図に大王が興味を持ち、空白の部分を自分の所で埋めさせるということや、また新王は狭い大和を出て樟葉に宮を持っている」、というと、「大和は良い王を迎えたものだ」と隼人梟師は感心した。男大迹王に密かにお会いした後、満足して西都原に帰って行った。★・・「辰砂」と大伴氏の秘話 隼人梟師は、大和の辰砂(湖南・辰州で採れる朱丹)が大陸で膨大な利益を揚げていると言った。調べた結果を隼人梟師に木簡で認めた。・・・ 辰砂は「宇陀の真赤土(まはに)」と呼ばれ、原石は血原という土層または露呈、または鉱脈から採取される。穴民とか土蜘蛛と蔑まれる、土着の先住民が鑿で穿ち、削って粒状にして俵に背負い集積場に持ち込む。水力を利用して石臼や石杵を動かし、粉砕、細かい砂状とし、水で洗い、重い粒子だけを集めて乾燥させて「宇陀の真赤土」を作る。これらは泊瀬・朝倉の大伴氏が独占的に採掘管理・流通ルートを掌握している。大和の王が代々、その独占を認めているのである。/// 流通ルート ///1. 直接に土師師に渡り、古来からの埋葬用装飾に使用される。 ただし、その流行は廃れ気味で、武具、馬具の装飾ものに取って代わられつつある。2. 大和の海石榴市を通して一壺単位で売られる。朱に厄除けの効用があるとして、 朱と漆を捏ね合わせた塗料に仕立ててから利用する。3. 物部氏の湊・難波津の交易商人により船で、筑紫・名の津に回送されて、 初めて大陸、半島諸国との交易が行われる。莫大な利益が揚がっている。 (大昔は、大陸の越人が直接に海石榴市に来て数倍の規模の取引が、奴隷取引と併せて行われた。)4.最近は銅製品に、辰砂を精錬して水銀を得て、金1対水銀5を混ぜたものを 塗り、炭火などで加熱して水銀を飛ばす鍍金技術が流行り、需要が増加している。★・・・大和地の勢力の変遷さらに、先住民、王家、大伴氏、物部氏の関係を纏めている。 ・先住民・・・ いまでこそ土蜘蛛と揶揄される先住民は、 悠久の時の流れにまかせ、 自然風土に手を加えず自生しつつ 神と共存する生活様式を育んで 高い精神文化を作り上げた。 ・第一派の倭人は、大伴族、鴨族、和珥(わに)族、三輪族、葛城族である。 王家の祖先は三十数世代前に 精神文化の濃い先住民のいる列島に、東より渡来(*)、 稲をもたらした倭人である。 両者は同胞が少なく共存しながら融合し、今の大和文化の基礎ができた。 先住民は、形の良い山に神が宿るとして「神奈備」と称し祭祀の中心とし、 倭人は、「真名井」という湧き水を主に利用する、まだ幼稚な湿田稲作を 行ったが、両者は容易に合体できた。・第二派の倭人は、十数世代を経てやってきた。砂鉄を原石に踏鞴を吹いて 優秀な鉄器をえて支配者集団として先住民の上に君臨した。鉄製の農具で 開墾を行い、領地を列島を埋め尽くした。彼らは技術は優秀ながら、 先住民に精神文化面で適わず、十数世代を経て先住民の文化を受け入れ ざるを得なかった。物部族、中臣族、巨勢族、佐伯族、紀族などの中央豪族 がそれである。・第三派の倭人は、伽那の鉄生産技術集団が鉄鉱脈を求めて 各地に分散、地方豪族発生の基礎を作った。鉄鉱石から大量の鉄を自家生産し 大型の開墾用具で池、溝を掘削、乾田技術を導入、水田面積は飛躍的に拡大した。 淡海の息長氏、三国の三尾氏がその代表である。 ★・★ ・★・ 王家を中心に言うと、大伴一族は王家の伴の中の伴として仕えてきた古族である。物部氏は西より順次、列島を席巻し、東で大和王家と衝突したが、今は分家として西から分離し、王家に妥協する姿勢を取っている。★ 新王は大和の王家とも、物部氏とも違った家系に育ち、狭い土地を出て、 樟葉の宮から列島を眺め、大陸文化の素養も充分身に付けているから、 新しい大和の歴史が始まるのは間違いない。★以上が、隼人梟師への報告書の要旨である。しかし、間もなく、西都原から隼人梟師の訃報が風の便りで大和に届いた。★ ・ ★ ・ ★(*)呆けの小生には「東より倭人が渡来」と本文P.284にあるのがよく判らない。「大陸(=中国)の東に住んでいた倭人が揚子江近くの水稲技術とともに渡来した」と言う意味なのではないのか。方角の基点を「大和」に限定すると、東は名古屋方面だが、倭人がこの盆地に入り込んだのが単に東の方角からであったのであり、どこから来たのかを示している訳ではなかろう。著者は故人となったので聞くことも叶わない。神話で古代は輝いているから少々の疑問には、特に、東西の方角には、気にすることはないのだ。太陽神を崇める国だから、何事も「東」に求めたがる国民性を理解しよう。どこかの国も「東海」の名を東の海の名称に求めるように・・・・★・大陸から東の海を、大陸人は自分中心、または、人がいないと考えて単純に「東海」と呼んだ。渡来人は東の海を「東海」と呼ぶものだから東西の基準軸を失ったように呆けの小生は感じる。彼らは、自分たちが「東海」を経て上陸した場合、東から来たと言ったのではないか。地球儀で見ると、日本海を経由して奈良に行った場合は、「南西から対馬海流に乗って上陸し、陸を南に向かった」ハズである。「東海(トンヘ)」から「大和」にというのを「東から大和に行った」というのは、東西基準を持たない渡来人では仕方がないことである。当時は、隼人梟師が地図をもっており、男大迹王がその地図に載っていない地域を完成させようとしていた。 「東海」ではこのように国際的な固有名詞にすると紛らわしいばかりである。★・★東海銀行、中国銀行などは「国内だけに通用する」のであり、固有名詞は難しい問題である。脱線したようだ。(呆けの写経は続く・・・少し疲れてきた)
Jul 22, 2014
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国府(日本国・国府)の編(507年)★昨年末の大和・幼帝の訃報が太宰府に届いたのは、翌年2月末であった。・ 交易船が「難波津」から「名(奴)の津」に着き、噂が船乗りから商人に伝わり、「太宰府」に知れたのだった。亡き大和幼帝は妃は決まったばかりで、もちろん世継ぎはおらず、係累も少なく、王家は断絶の憂き目を彷徨い、物部・大伴の豪族は王統の曾孫を担ぎ睨み合い、内乱の様相さえ呈している。一方、太宰府の物部氏は本家として絶大な勢力があり、同じく、規模はさほどでないが大伴氏も同様であり、この際に東進派が倭国内の勢力を強める可能性がある・・・との情報を倭王磐井はもっている。・・・吉備の国 磐井は、倭国と大和の中間に位置する「吉備の国」の動きが気に懸かる。吉備は大和から姫を受け入れたばかり。瀬戸内にある吉備というと、そこを通過する交易船から通過税を徴収でき、気候温暖で海山の幸で溢れており、扇状地が時間と伴に自然に水田となって、作物は自給体制がとられており、鉄、塩も産出しているために、大和や倭に属しない中立国として存立している。・・・従って、吉備は倭国の東進策には同乗しまい・・・、となる。<岡山県古代吉備文化センター> ★・・各地の王陵建設事情 磐井の命で王陵の建設を準備している「土師師の長」が来て、各地の陵の情報を伝えた。・吉備の国・・・数基、しかも大型を同時に製作中である。・大和の国・・・幼帝は死後の準備も無く身罷ったので、王母が自分の墓を造り 一緒に埋葬との考えである。物部氏と大伴氏は内乱をもたらしては、倭国の 本家に乗っ取られるので、互いに不利として抑制的である。 大和では、王母が卑弥呼のように振る舞うような可能性もある。・隼人の国・・・西都原に隼人梟師の陵墓を建築中・武左の国・・・武蔵の国の埼玉古墳群で、蝦夷に対する物見台のような墓がある。 大和を心の支えにして貢いでいるように思える。★・・・半島情勢 金海派遣軍の長・宗像一族による朝鮮半島情勢報告・新羅・・・全土に軍制を敷き、軍民の心を集中させ、伽那の小国を併呑しつつある。・金海・・・新羅が金官伽那を囲むべく、2つの県城を築城したのに対して、 山城を築城して対抗しようとしている。倭国に資金供与と派兵を要請してきている。・他の南伽那・・・住民の多数を占めている倭人の保護が最も重要な課題である。 倭人住民を保護するためには倭国から派兵が必要である。 5ヶ国に国守を配して、伽那人に代わり倭国が守るべきである。 住民のうち韓人を牟婁に移住させることを同時に行えば治安がしやすい。・北伽那・・・大伽那などの内陸地方は魅力が薄く、放棄すべきとも考える。・牟婁・・・西海岸は倭人・韓人が入り乱れて生活しており、見分けが付かない。 耕地が少なく、人数も多くないので希望者を「倭人」とみなして倭国に移住させる。・百済・・・羅州で倭国と形式上の睨み合い中であるが、羅州以南の統治権を 百済に与え、代わりに倭国が羅州の鉄を年貢として受取る。木浦を交易湊とし、 倭国が徴税権を持つこととする。★・・・日本国の誕生と、国府・太宰府<倭国王から「日本国王」に独立宣言など>1. 豪族達の眷属を集めて太宰府に王の親衛隊を常備させることにした。2. 倭国では、隼人の国を切り取り後、豪族達が開墾に人力を必要としているが、 朝鮮半島から移民する倭人をあてがえばよい。その豪族から兵を調達できる。 南伽那では韓人を牟婁に移住させることで治めやすくなる。3.半島では、 新羅が新しい国名を命名した。百済も統一したら 「朝鮮国」(朝日が鮮やかな国) にしたいという。 倭国も独立した国家として「日本国」(日の本の国)と名乗ればよい。 どこからも支配は受けていないのだから。 太宰府を「国府」とする。 豪族を集めて宣言をすればよい。4.倭王磐井が諸豪族長の前で「日本国」の命名を行い、 自らを「日本国王」であると宣言した。★・・・捕捉説明・・・ 倭国は、東の果ての倭人(小さい人)が住む倭国と大陸から呼ばれる呪縛から日本国宣言で遂に脱皮したのである。大陸は、半島を属国(朝貢国)扱いし、倭国を小さい国と認識してきたが、 「日出る国の天子として、 日沈む国の天子に 対等の関係で外交交渉をしていく」 姿勢に脱皮したのである・・(呆けの写経は続く)
Jul 21, 2014
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樟葉(くずは)の編(507年)★大和の大王家に娘を代々嫁がせてきた息長家は、三輪山の麓に息長邑を構えている。戸数は2百ほどで、王家に嫁いだ息長の媛たちが何一つ不自由をしないように邑人達が住み着いて賄っている。ここにきて真手王の娘・麻績娘子(おみのいらつめ)が、幼い武烈天皇に嫁ぐことが決まったために、その準備を段取りよく進めている。★息長家の宗主・真手王が、男大迹王を息長邑へ誘った時のことである。・ ・・・・・ ・摂政・春日大郎(かすがのいらつめ)の命で、大伴一族は軍事訓練の一環として、武烈天皇を大将として狩猟・巻狩りを挙行していた。舎人達が森の動物たちを追い出したところ、あまりに多い数を追い込んだために大鹿が幼帝を襲うこととなり、傷を負った幼帝は治療の甲斐なく息が途切れた。★王家の富と権力を一手に掴むはずの幼帝が亡くなったことは、大王家の継承者をあらためて調査しなければならないこととなった。曾祖父・仁徳天皇、さらにその親・応神天皇の代まで遡って新王の候補を求めねばならない。王家に嫁いだ豪族(大伴、物部)の娘をみて大伴系、物部系などの王子が候補に挙がる。大和の物部氏は、倭の本家物部氏と違い、分家である。大和の混乱に乗じて倭が号令すれば、大和の物部氏は本家に隷属するしかない。倭が天下を握れば、本家が上に立つから、大和の物部氏は大伴氏とは仲違いしてはならないのだ。★大和大王候補者調査の中で、息長・真手王と男大迹王が又従兄弟の関係である、その二人の共通の先祖は応神天皇に繋がり、さらに「伝説の美女」忍坂大中津姫を系譜として春日大郎とも繋がっていることが判明した。男大迹王は外国での生活、大陸文化の素養もあり、大王家の後継者として問題ない。///大伴、物部、さらには春日大郎の懇請にもかかわらず男大迹王は拒絶した。武烈天皇の姉弟である手白香姫の夫となるのであり、まるで種馬探しだと怒っていた男大迹王も、最終的には条件を提示して受け入れた。「手白香姫とは婚姻するが、手白香姫は大和(二階堂)に住んで祭りを司る」、「男大迹王は枚方の北の樟葉に新宮を構えて麻績娘子(真手王の娘)と住む」ことになった。男大迹王が大和の大王・「継体天皇」となったが、本文のまま、男大迹王を使用する。★(呆けの写経は続く)
Jul 20, 2014
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甘橿(あまかし)の編(506年)★大和朝廷は、内廷(祭祀=神祗部、王家の家事=膳部、王家所領の運営=宰部)と外廷に分かれている。 蘇我高麗は王家への忠誠を評価されて、摂政・春日大郎(かすがのいらつめ)により「臣の姓(おみのかばね)」を与えられ宰部を分掌している。外廷では、部族間の争いの決裁(部族内の争いは原則部族内解決)が過去の判例に基づき処理されるのが原則であり、それは、外事部の長:物部麁鹿火(もののべのあらかい)の手による。族長会議には大議会、神議会があるが稀である。大議会は有力部族長: 連・・物部、大伴、佐伯、阿部、 臣・・・春日、平群、巨勢、紀、の合議、全員一致が原則である。神議会は大議会に大王が出御する場合をいい、1.大嘗祭関係、2.大王と豪族等との婚姻承認、3.諸外国(倭国、隼人、伽那、新羅、百済、+吉備)との外交、に限定されている。 外交問題は、特に重大であり、大王に求められる第一の素養は諸外国に対する知識と言葉の理解である。高句麗や大陸とは外交までの関係には至っていない。吉備とは同盟関係を失っているから外交問題とされる。★今日は神議会であり、武烈天皇が中央に端座し、摂政・春日大郎が控えている。決め事は、「吉備との関係修復のために姻戚関係を持つ」であり、これは大王家に嫁がせることでなく、大王家から誰かを嫁がせることを検討することとした。ついでに、春日大郎から大王家内の問題であるが、武烈天皇に真手王の娘を(正妻とは決めないが)嫁がせることで付議され異議はなかった。///// 春日大郎と蘇我高麗は「吉備の件」を内密に打ち合わせた。吉備の国は分裂しているが、そのうち倭国と対峙している分国に、朝嬬姫(故仁賢天皇が丹波で卑賤の女に生ませ、寡婦で戻っている)を嫁がせる計画であった。★日を改めて、春日大郎は蘇我高麗に与えた新居、明日香川周辺の王家直轄領の「甘橿の丘」を訪問した。そこには、春日大郎・蘇我高麗の秘密の子・稲目が、蘇我高麗の正妻・此花姫(*)との間に生まれた双子の姉とともに成長する姿を見ることができる。摂政と宰部長の二人の政治の話は、込み入ってくる。(*)此花姫は、言わずと知れた、隼人梟師の娘である。 平群一族は王家が東から三輪山に移動してきたのを支えた古い土着氏族だが、最近、物部氏の商人から宝玉類や伽那の王冠の類が平群に運ばれて、平群では大和よりも豪勢な新殿を構築しつつあるが財力もないのに不思議であるという。また、摂政は、いずれ外戚になる真手王の人物像を調べるように蘇我高麗に命じた。★・・★ 蘇我高麗が、真手王のいる伊吹山山麓を訪れている。真手王が「伽那国の出身(王族)」というと、蘇我高麗が同じく朝鮮半島の「百済からの渡来人(王族)」であるという。大和王家の宰相が百済人と聞いて驚く真手王であった。そこに打ち合わせてあったのだろう、男大迹王が現れて、三人で朝鮮半島の情勢、大和の「雅と風儀」などを熱心に語り始めた。★・・★蘇我高麗が、淡海(あわうみ→近江)、山城(山代→山背、木津川市付近)、摂津(淀川・大和川水系の結節点難波津)などの国に寄り道し、大和に帰ると、平群の新殿が大和を凌いで、気分は皇帝のようであり、臣にあるまじき祭りを行っているため、これを討つという。遂に、古代在地豪族は葛城氏に続いて平群氏も滅ぼされ、各地に支族を配し軍事力を高めつつある連(むらじ)の姓の物部氏は漁夫の利を得た。同時に臣(おみ)の姓を新たに名乗った蘇我氏との軋轢が起こる危険性も孕んだ「平群滅亡事件」であった。雅と風儀で治める国の難しさを象徴する事件でもあった。・蘇我高麗は甘橿の邸宅に諸臣を集め、蘇我の律の遵守を言い渡した。★呆けついでにコメントしておきたい。蘇我の律は、小生が歴史教科書で教えられた、聖徳太子の十七条の憲法 によく似ている。 百済王族の渡来人達が、大和独自の風土に沿った、「雅と風儀」を採り入れた「蘇我の律」 で充分事足りている。もしかしたら、後の憲法は何らかの目的でお膳立てした飾り物の可能性は? [雅と風儀]そのものも権威を持つためには何らかの重みが必要とされる。そのような重みを神話や、自ら造ったという憲法に頼ることも許されるかも。和を以て尊しとして、民を安寧に統治するための手段ならば・・・ なにか、歴史に陰謀があっても、Back to the Past できないから過去の歴史はブラックボックスである。 何処の国でも神話がある。どんな宗教でも神話そのものである。 (呆けの写経は続く) ★
Jul 19, 2014
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金海の編(504年)★秦の始皇帝が(今の山東省)琅邪に夷族討伐の拠点を置くに至り、莢夷(らいい・・・九つの夷族のうち強豪)は、山東半島から黄海を渡り朝鮮半島に渡り、洛東江の河口を東莢(とんらい)と呼んで、湿原地帯を開墾し、水稲栽培を再現させた。後に、北からの伽那人が征服者として金官伽那国を造り、その住民の多くが倭人であるという。 (古代の琅邪の位置:山東半島の根元にある) ///////////つまり、著者は、倭人が、莢夷と越人の混血であろうとの見解を取っているようだ。倭人が、水稲栽培を得意とする地域からやってきたこと、「越」(*)と言う中国の西南方面(浙江省辺りより西南)の民族を起源とすることを指している。伝播ルートは「対馬海流」、「黒潮」、「遼東半島→朝鮮半島経由」、「山東半島→朝鮮半島経由」などが有力。この方面では、日本人にそっくりな容貌をした小柄な少数民族が今でも住んでいるのである。やってきた場所は決まっているのではなく彼らはあちこちと移動をしてきたので起源を決めつけることはできない。倭人との交易を掌握しているのも、越人と言うから倭人は大陸を移動している内に混血していたと推定される。・・・・・文化人類学の鳥越憲一郎氏「古代中国と倭族」では、江南に原住した稲作民を「倭族」と捉え、その中で漢民族の圧迫により雲南、アッサムに移住した一派が倭族の一派であるとしている。その意味で、東に水稲を伝播させたのも同じ倭族であると言えるだろう。 また、歴史を1万2千年前に遡ると東シナ海は平原であった、つまり、渤海湾、東シナ海はなくて、黄河は中国大陸・朝鮮半島が陸地としてくっついているなかを流れている時代に、東シナ海平原に住んでいた東夷が稲作を始めたという説も現れている。本文の倭人の起源が、夷と越の混血と述べているのはこの辺を捉えているのかも知れない。 <欄外参照>この説は、ヴュルム氷河期で北米、北欧州が巨大な氷に覆われて、そのために海面が大幅に低下して東シナ海平原ができたとしている。呆け頭の小生などはくっついていた中国大陸・朝鮮半島が地殻変動で引き裂かれて黄海、渤海湾ができたように地形から「想像」したい。日本列島が形成されたのも地殻変動である。地殻変動(地震を含む)を想定して、原発再開を決めた頭の良い方は、放射能の生命(最長万年~億年単位)と地殻変動を政治数学でカウントしたに違いない。 あくまで呆け頭の想像であるが・・・ しかし、沖縄海底遺跡の謎(木村政昭氏)を読んでみれば地殻変動が起こっているのは証明済みであろう。 ・・・・・ この世に純粋な民族は存在せず、ブレンドされてこそ健全な人間であろう。同族間の血縁が強すぎると(血が濃すぎると)、遺伝的に問題が起こるのは明白な事実なのである。家系図を重視する日本でも、血縁での結婚は近すぎれば憚られる。民族間対立も、政治的な思惑に左右されているのかも知れない。難しい問題だ。脱線した。///// (*)更に南になると「越南」(=ベトナム)といって、越の南であり、略号は「越」で紛らわしい。この本では、日本の「越前・中・後」の越は「古志」というから混乱しないで欲しい。 /////★さて、淀江湊を船出した、真手王、男大迹王を乗せた三国船団は隠岐の島で東風を待ち、一気に半島への航路を取った。到着した洛東江の沿岸は、岩肌の露出した枯れ山が目立つが、網を打つ様や水稲栽培などの姿は、琵琶湖の淡海とよく似ていた。ただ、濁っていること、干満の差が激しく、特に不思議に思ったことは、満潮時に逆流する真水部分を足踏み水車で汲み上げて堰の上の方の田圃に引き込んでいることであった。舵取りの龍次は、九州の筑紫川で「アオ」(*)という同様の方式があると、見聞の広さを披露した。目的地の金海は漢人が拓いた街だけあって、四周を城壁で囲まれた堅牢な県城造りで、海岸線には桟橋があり、百済、新羅、高句麗、魏、梁、南海の船が並び、倭船もいて、度肝をぬくような殷賑さである。男大迹王が母と暮らした金海には、10才年上の従兄弟がいて、男大迹王を可愛がり、大陸文化、素養を身に付けさせてくれたのだ。・ ・・・・・・ (*)筑後川下流域のシオ(アオ) についての参考http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p119-143.pdf 真水と塩水が交差する汽水域では、塩水の比重が重いので、塩水が下層を造り真水は上層に浮いている。満潮で川を遡上してきた上澄み部分の真水を容易に汲み上げることができる装置である。 ・・・・・ ・ :::男大迹王による各地探索の朝鮮半島の情報分析サマリー:::百済・・・武寧王の治世は安定、高句麗対策万全、倭国との対峙は緊迫なく 倭国が多少の侵食を甘受。新羅・・・智証王は軍事態勢に改変、屯田兵を北の砦に置き対高句麗防衛力を強化。高句麗・・・王・雲は宮廷内部の不安定化を抱えて動けない。大伽那・・・新羅に倣い急速な軍制強化で、星山伽那、古寧伽那など北伽那を 併呑しつつある。南伽那国・・・(加羅、多羅、安羅、帯沙、卓淳など小国)は、内部分裂で 大伽那、百済、新羅のどちらに付くか動向は未定。金海・・・これが不思議で、倭国に娘を献上するのが王の取り巻きの意向。 だが、倭人の支配者というプライドを持つ者達がこれに反対して、 新羅派、大伽那派に分かれて争っている。新羅はもともと伽那人であり、 金海王の弟や、鉄山を支配するものが新羅派に取り込まれた。 挺鉄が金海に回らず新羅に送られているので、通貨の役割の挺鉄が減り交易が 鈍ることになる。百済派は遠いのと人種が違うのでいないようだ。 また、金海王の娘は、ここ二年になるが倭国に嫁いでいないようで、 金海王は国内を纏められないようである。以上。・・・・・ ★男大迹王はこの国の調べは済んだので、倭国に立ち寄り帰りたいという。交易船の格好をするために金海で壺、茶器の類を急遽買い集めて半島から潮流の早い海峡を乗り切って、倭の役人の検問船の乗り込みを受けた。そして「名(=「奴」を当てる)の津」に向かった。実に煌びやかな30数隻の軍船らしきものが目にとまった。それは、倭王磐井が金海王との約束で、王の娘を妃に迎えるために、水軍を金官伽那に送る一行であった。★ 真手王、男大迹王達が「名の津」を放蕩気分で散策している頃、香椎の宮に戦勝祈願する倭王磐井一行が通りかかり、皆平伏して見送った。倭王磐井は、目聡く、男大迹王を垣間見て、「只者とは思えない。調査せよ」と司令官に命じた。 ・ /////// 参考資料<現在の香椎の宮のパンフレット: 同HPより> //////// (呆けの写経は続く)・・<欄外参照> 下記のWEBを参照してください。 http://homepage2.nifty.com/whoseng/ancient/komes-origin-and-etymology.html
Jul 18, 2014
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息長の編(504年)★ 男大迹王が領地とするのは、大淡水湖(形状からみると琵琶湖)の西岸の安曇川の扇状地・高嶋(現在は高島市)である。その地で息長一族は鉄の鉱脈を当てたことが大きな発展をもたらした。鉄を武器に用いず、鍬、鋤きなどの農耕具に用いて美濃・飛騨まで水田地帯を拡大した。 淡水湖・淡海(あはうみ→近江)を眺めれば北東に神の島・竹生島、東岸遙かに神の山・伊吹山が見渡せる。 下図では、伊吹山(標高1,377m)は長浜市の13km東方にある。天野川は長浜と彦根の中間を琵琶湖に流れ込む。 ・・・・・・・・・・・ <琵琶湖:公式の水深(s)最大103.58m、面積670平方km、周囲241km>(WEBより) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先ほど男大迹王は、伊吹山の山麓に住む真手王を訪ねて話し込んでいた。しかし、真手王が自分の幼い娘を、息長家伝来の家訓に沿って大和の幼い武烈王に嫁がせるという約束を結びたがっている話題には、男大迹王はあまり触れたがらない。なぜなら、百済、新羅、伽那でも新しい国造りが行われ、倭国でさえそうなのに大和と言えば旧態依然なのである。真手王だけは、「伝統&雅」のみで民を治めんとしている大和が、最後には勝つと信じているようだ。気分が優れない男大迹王は、天野川に沿い、湖畔に降りて、坂田に住む真手王の従兄弟・大跨王の所に出かけた。そこには三尾に住む男大迹王の妃の弟・椿が来ているという。///椿は、「朝鮮半島の伽那の情勢が怪しいので、男大迹王が渡って、探って欲しい」との三尾の都奴牟期王の命令を伝えた。伽那は息長一族の故郷でもあり、その「真金」、「琴」、「法」で、交易で生活は守られ、癒され、律せられている。///男大迹王と真手王達は3月に三国湊を立ち、伯耆不二(大山)を左に見ながら淀江港に立ち寄った。淀江の族長・加茂王が屋敷で出迎えてくれた。(伯耆大山 標高1,729m)加茂王には「息長ほどの大族が大和の下にいる理由が判らない」ようだ。男大迹王は真手王の代わりに説明する。「大和は雅と風儀(てぶり)で国を治めている」と。真手王が捕捉する、「風儀とは古き仕来りを守っていくことかと。」加茂王は、「それは正しい。そうしたいのであるが、しかしそうもいかぬ。倭国を見れば判るのであるが、先王・武は南朝に多くの貢ぎ物をした返礼に鎮東大将軍の称号をもらい将軍府(太宰府)を開けたうえ、部下に将軍、三相の位を授与する権限を得、国の形ができた。ここまでは良い。現王は若いとき寧波に留学して南朝を熟知しているから位を大盤振る舞いで、自分も副将軍様!」と大笑い。さらに、「倭国は百済と半島で対峙しているというが、実際には戦闘はない。軍尼に徴兵を命じて統制しようとしており、淀江からも騎馬、兵を送った。」真手王は「倭国も百済や新羅のように成りつつあるのですか?」と尋ねる。「そのとおり。吉備が中立を守っているが、どちらかに付けば大和は巻き込まれ、雅、風儀だけでは国は保てない」と加茂王。皆、酒に酔いしれた。★脱線:近江国について 近江国は古代律令国のひとつ。古事記には「近淡海(ちかつあはうみ)」、「淡海(あはうみ)」と記載されている。 遠江国(=遠淡海、とほつあふみ)が遠い浜名湖畔にあるの対して、 近江国は近くの琵琶湖畔にあることから命名された。なお、浜名湖は、古代には淡水湖であったが、1498年の明応東海地震津波で海に繋がったことを忘れてはならない。ということは、ここは大地震に将来遭遇する可能性が高いかも知れないと、歴史認識しよう。 南海トラフ地震!////////////// Ref. [講演記録] 1498年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災 新潟大学人文学部 矢田俊文 氏 は WEBに掲載されています。/////////////また、大陸から借用した漢字をもてあそんだ日本人は、仮名書きでも遊んでいる。先人のお遊びで、子孫は頭脳が鍛えられるが、呆け頭には大変な苦労だ! ・・・・・アナウンサーでも大地震の時など、各地の地名を間違って読んでいて、地元の人には、くすぐったく感じるものである。 ・・・・・ ★(呆けの写経は続く)
Jul 17, 2014
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球磨の編(503年)★日本列島に渡来し建国した倭国の倭人達は、既に九州北部に住んでいた隼人族を南に追放した。倭人達は水稲耕作、隼人族は焼き畑耕作、漁労・狩猟を主な生活基盤としていたので、中間地帯は隼人族が支配していながら、支配下の倭人が耕作を行う広大な場所があった。一週間も雨が降り続き、阿蘇山麓から有明湾付近まで水浸しとなり、上流の倭国では堰を切り、それ以上の浸水を防いだが、下流の隼人支配村落では耕作を行う倭人が多数犠牲になった。倭国でも被害甚大であったが、堰を切ったことで下流の隼人の支配する地帯がそれ以上の死者まで出したのである。死者は主な住民である倭人だが、領地は隼人が3百年も治めたものだ。★3ヶ月後に、堤切りの詫びをいれるべく、倭国から隼人梟師へ使者が送られた。と同時に、倭王磐井は有明湾に朝鮮半島の木浦、金海から水軍を集結させた。また、倭国の豪族に兵を徴兵させて、論功に土地を供与するとして隼人退治に大軍を送った。三日間で隼人の出砦などを包囲し、菊地川河口の出砦や、球磨川河口に駐屯していた隼人の支族・熊襲を一昼夜で倒して、上流の隼人梟師の反撃に備えた。その知らせを聞いた、西都原(下図)の隼人梟師は「土地は所詮彼らのものだが、隼人の死に対しては必ず報復をする」と宣言した。 ・西都原の古墳群とその位置: (WIKIPEDIAより) (西都市のHPより) ////////★ 参考資料:九州北部水害事例 古代で起こったような災害が現代でも起こっている。平成24年7月九州北部豪雨である。11日から14日の集中豪雨。人的被害: 死者30人、負傷者27人建物島被害: 全壊363棟、半壊1500棟、一部損壊313棟、床上浸水3298棟など (増水する白川:WIKIPEDIA) ★ 物語に出現する九州の主要河川水系: 河川局HPより 1.菊地川水系 2.白川水系 3.球磨川水系 /////// 古代地名について:原本は、古代の地名で表記している。小生は位置関係が細かには把握できないから大掴みするしかない。詳しくは原文をご覧下さい。 欲を言えば、著者のいう古代の地名と地図、現代の地名の添え字が欲しかった。と言うよりも、伝承物語なので、明確な対応は不可能であるのが、伝承物語りたる所以であろう。/////// (呆けの写経は続く)
Jul 16, 2014
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八女の編 (502年)★ 矢部一族が領する八女丘陵から西を眺めれば、有明湾を抱いて筑紫大平原が拡がり、中央を筑紫川が悠然と流れている。その地は、太宰府に遷都する以前の倭国の王達の墳陵が大小3百基あり、「王家の谷」(エジプトにも同名の谷があるが)と呼ばれている。いま、倭王磐井が、王家の谷を預かる部下であり、軍の総指揮者である五百手と「王家の谷」を訪れて、倭王磐井の大陵墓の建設について工事業者の土師師達と相談している。 それまでの、土による円墓に加えて最近流行の台形の王族の祭祀場を設けること、埴輪を減らして石像を多く配することなどであった。★ <現代に見る大陵墓>手前にみえ、台形(社務所など)の上に陵墓のある森である> <現代に見る石像のひとつ> (資料:岩戸山古墳についてWEBより)<ときどき入る写真は小生が理解するためにWEBから借用したものである> ★ 伽那六国リーダーである金官伽那の都・金海から急ぎの使者が来た。従来は新羅・百済の緩衝地帯として軍事的に中立というより、無力であった伽那六国がそれぞれ中国の斉や魏に朝貢したことで新羅・百済を刺激し、軍事力が必要になった。金官伽那は鉄鉱脈があっても、木炭原料の樹木が枯渇し鉄の精錬ができなくなっているために、雨の多い倭国などに原木を求めている有様。伽那六国を治める金官伽那は倭国の救援を得るために、絶世の美女で名高い王女を倭王に差し出すという。伽那国は、倭人が7割、韓人が2割、伽那人1割の構成で、支配層は伽那、農耕・漁労・交易は倭人と、倭人に乗っかった国勢である。倭王は伽那の王女を王妃に迎えることを承諾。新羅が軍拡政策に動いたために朝鮮半島のみでなく、倭国にも波乱が及んできたのである。★ところで、中国の南朝はと言うと、斉王の圧政、腐敗した貴族社会は崩壊。代わって梁が、文治主義を全面に押し出し、智慧、武力の国造りに邁進していた。★現代に戻っての参考資料:WEBよりBack to the present age in Kyushu ★ (呆けの写経は続く)
Jul 15, 2014
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佐渡の編(501年)★ 神が丘から産出された金、銅は、当初、小物の装身具に加工されて大陸、朝鮮半島に送られた。日本列島の豪族達の権威が高まるにつれて、大物の馬具類、武器飾りに利用されるようになり、水銀による鍍金技術により家具、調度品にまで行き渡ると、国内向けの運搬ルートが開発された。三国港、琵琶湖、淀川を経て難波に運び、そこから西へは瀬戸内海航路、東には中山道を荷駄で運ぶのである。物部氏が難波で通行料を徴収していたので、三尾氏は料金、居住費用などで次第に財政的な不便を感じるようになった。男大迹王は自前の積出港を秦氏(*注)の眷属・茨田氏と組んで枚方に小さな新湊を築いた。///物部氏は大和盆地の水流が河内平野に流れ込むのを、掘り割りの開削で大阪湾に直接流す大規模工事を実施し、巨万の富を得たのに対して、茨田氏は淀川南岸の氾濫を堤、池の築造で収めたと言われる。物部氏は「力」で、茨田氏は「智慧」で治水したと言われる所以である。1.古代の淀川 (以下の資料は大阪府)2.江戸時代の淀川 3.明治時代の淀川 4.現代の淀川 ★ 枚方の新湊では、物部の妨害に備えて水陸に軍備を備えている。三国船の一番船は、男大迹王が伽那にいたころの幼なじみの龍次が舵取りしていた。 龍次の三国船の来航の目的は、朝鮮半島では木材原木が枯渇化し、埋葬用の巨木を日本列島で得るためであった。日本では、多湿な気候から樹木の再生産は時間を要せば比較的容易であるが、朝鮮半島では一旦伐採すると禿山になりがちであるのだ。鉄の生産に、炭の原料として原木を利用することが続くと、すぐに原木が枯渇化し始めた。 ★ 龍次から朝鮮半島の重要な秘密が伝えられた。百済の名君の東城王が突然精神異常をきたしたので、高句麗が好機到来と見て南下の準備を始めたため、重臣が東城王を密殺し、嫡男・武寧王が継承した。高句麗が南下したのを百済は何とか押し返し、高句麗が南下で東部が手薄になったため新羅が北上を企てるなど不安定さが朝鮮半島を覆っているという。★ 物部から、三国船の枚方入港に対し、通行料の徴収を言い渡された。 男大迹王は、多くの軍船を引き連れた物部と争うよりも年賦を支払うことで交渉を纏めた。★ 翌年4月、男大迹王は真手王に誘われ目子媛、二人の子息のいる尾張に向かった。目的は、息長一族が草香王との領地線引きで自国に貰った地域から良質の鉄鉱石が採れることが判明したためで、共同発掘(資金は息長、人夫などは尾張)が成約した。★その年の8月、三国の龍次から、火急の知らせが入った。得体の知れぬ北方種族が佐渡に侵入して、住民を襲う事件が頻発し、三国は討伐隊として、水軍長を龍次、総帥を男大迹王として編成し、急遽派遣したいと。 尾張の騎兵を50騎預かり三国の水軍が佐渡に渡った。かろうじて、賊を殲滅でき、三国衆の戦いは「佐渡の奇跡」として北国中に伝わった。賊の持っていた鉄剣は鋭く甲冑をも突き通す力があり、蹈鞴で得た鉄を鍛える方法が改めて検討されることとなった。・低シャフト炉(人力による冷風送風)+人力ハンマーによる鍛造・ ・・・・・・・・・注:呆けの記録:秦氏について秦氏は秦の始皇帝の命で東方を調査に出た徐福に関連している。徐福は、2千2百年前に不老不死の薬を求め、稲などの五穀の種子と金銀・農耕機具・技術、男女3,000人もの若者、技術集団を乗せた「五穀百工」の船団を率い、東方に向かい、「平原広沢」の地を見つけてその地の王となったとされる。少なくても、その中から古代の技術職の繊維事業などを担う部族、秦氏が生まれており、古代の技術の発展に多大な寄与をしたことが判る。 小生が感じたことを言うと、この若者や技術集団の船出はモーゼの方舟の話と類似点を持っている。さらに不思議なことには、小生の会社に計数に長けた「秦姓」の先輩がいたが、その人は白人のような顔をしており、背が高く、顎髭を生やして、まるでモ-ゼそっくりな様相をしていたのを思い出す。もしかしたら、モーゼの末裔が中国を経由して、日本の三神山に住む仙人を探すと言って、秦の始皇帝に旅立ちのための船団を用意させたのではあるまいか。知っている秦さんご自身も、意識して自分の立場を律しているように感じた。中国には、今でも徐福の子孫が住んでおり、先祖は日本に渡り秦氏と称していることが記録に残っているという。小生には、「三神山」が「三輪山」ならもっと判りやすいが・・・・ もしかして、世界に知られる富士山かも?/////呆けついでに言うと、秦の始皇帝はもしかしたら、モーゼのような白人を祖先に持っていた。太陽を崇拝するエジプトを大洪水を避けるために脱出したが、同じ太陽を崇拝する国の日本に求めるものがあると信じて、自らの優秀な子孫達を同族の徐福に託したのかもしれないと。自分の不老長寿の薬という馬鹿げたものを求めてはおらず、大洪水でエジプトに置いてこなければならなかった大切な何物かを求めていた。何物かとは、太陽神を崇拝し、民を治める上で必要不可欠なものなのだろう。 また、日本にはモーゼの血が伝わっているのかも知れない。DNAの何百分の一~何兆分の一かもしれないが・・・ また、脱線したようだ。★★★★★「日本書紀と日本語のユダヤ起源」 ヨセフ・アイデルバーグ著は、言語学の視点から、シルクロードを経由してヘブライ語が日本語に融け込んでいることを興味深く説明しているので、ご覧下さい。★ いくら国境を敷こうとも、人類は古代エジプトなどから大陸を越えて分散拡大したようだ。多くの宗教が他の宗教を抹殺してきているが、歴史とは勝利者が自分たちの都合の良いように記載しているに過ぎないかも。そもそも歴史認識を最優先に言うのは、勝利者の一方的な声明に過ぎないことを小生もメキシコのアステカ文明と、それを埋設したキリスト教文明などを見ても明らかである。勝利者の歴史認識ではなくて、人類愛から将来を見据える努力が大切である。今時、歴史認識を主張するものは、この類である。カトリック教会が中世の残虐行為を忘れて、慰安婦問題を捉えるのはなぜか寂しい世の中であり、南米での騒動も人類愛から離れた宗教界への反動のように呆け頭には映る次第・・・ ★★★★★(呆けの写経は続く)
Jul 14, 2014
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牟婁(むれ)の編 (498年)★ 牟婁の国(木浦がその都)には、王がおらず、倭国からの国守が外交問題だけを裁き、その他のことは族長会議が決定する・・・自由国家である。他方で、狭隘な山地で稲作を、倭人、韓人、またはそれらの混血が耕作している程度であって、他国が侵略する価値なしとも言える。その国が、百済からの侵略を承けていると太宰府に訴え出たのだ。 百済は、高句麗から圧迫され都・漢城を追われて南下を余儀なくされており、羅州に築砦を開始、同時に聚落を襲い民衆を奴隷化して羅州以北に送り、百済化を図っているという。いわば、北からのドミノ倒しのような流れである。+++++高句麗王が百済の都・漢城を討ち、公州まで追い詰め、都は、白村江(*)を河口とする錦江の上流の、狭い公山城に移った。倭王が兵を率いて漢城を襲ったため百済が壊滅を免れたことは随分前のことである。---------- (*)白村江では、これから約160年後に有名な、白村江の戦い: 「復興百済+日本国」VS「新羅+唐」の戦いが起こっている。「新羅+唐」軍は、「復興百済+日本国」軍に複雑な海域で勝利し、また、高句麗をも滅ぼしてしまう。日本が敗戦した歴史がここにある。ただし、海外での敗戦である。日本が国内外ともに外国に敗戦したのは、第二次世界大戦であった。---------- +++++ その高句麗王が逝去し、その孫・雲を高句麗王に魏王が就かせた。新王・雲は再び百済を討たんと、まず、百済に加勢している太宰府を配下にするべく、大使節団を送ったのだが、太宰府は冷ややかに、これを拒否した。★太宰府は牟婁の国には魅力を感じないが、伽那の国に、支援しない態勢をとることもできず、倭国は百済王が密かに要求する南下の境界線を認める方法を思案した。倭国は、倭人が不毛に近い伽那から撤退しても、倭国領土内に伽那難民を受け入れる地を用意することは可能であった。 密約の条件は、羅州以北を百済へ割譲し年賦を受け取る、両国が人質を交換する事であった。ただ、伽那国のために百済と戦う姿勢だけは見せないといけない。 ★ 倭王磐井は各地の豪族を軍尼に指名、徴兵制を敷いた。軍船を建造、伽那国で挺鉄を増産させ、太宰府に鍛冶師を集めて鉄製甲冑を量産、練兵を行った。豪族物部氏(*)に率いられた倭国軍は多島海の変化に富んだ潮流を何とか乗り越え、木浦に上陸し、羅州城を陥落させたものの、百済本隊との睨み合いとなった。・・・ (*)物部氏などの、同名の豪族は倭国や大和にもいるが、倭国の豪族が分家したもので、本家は分家を潰そうと虎視眈々としていると言う。 ・・・睨み合いは、倭王と百済王の内密の謀議に、ほぼ沿った「早期休戦」であった。かくして、高句麗王・雲の南進のチャンスは失われた。・・・・・脱線・・多島海の複雑な潮流に絡んで・・ 今年になって、木浦の沖では、人為的な大型フェリー客船沈没事故が起こっている。日本で運行していたフェリーの上層部を拡張し、船の復元力を失わせ、また、船内の客室を細かく区分け、避難行動を困難化させたこと、船内救命ボートの取り付け部分が錆び付いて使用不可能になっていたこと、船長・船員が避難訓練をしておらず、乗客には船内待機させて自分たちだけが逃げ出して、乗客の溺死を放置させたこと・・・これらは海の男のなせる業でなく殺人罪として世界に報道された。利益優先、人命軽視が、古から危険な潮流が支配する海域で起こったことに小生でさえ驚いている。 ・・・(呆けの写経は続く)
Jul 13, 2014
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泊瀬の編(498年)★ 三輪山の南麓の泊瀬川北岸、出雲の里の仮宮で、大嘗祭が催された。この大和の王朝は、経済、宗教などの強力な背景もなく、ましてや城壁で囲まれた城も構えていないにも拘わらず、臣・連に加えて地方豪族がこぞって寄り集まっている。 渡来人・蘇我高麗は驚きを憶えた。★新たな王は、雄略天皇の遺言で結ばれた、大和の財産継承者・春日大郎と、弟から王位を受けた仁賢天皇との子供である。 待望の幼い理知的な王子の王位は、先王の病死により10才で後継した武烈天皇である。春日大郎は王家の家宰となった蘇我高麗を重用し、幼帝政治は大連達が補佐していた。 /// 朝廷財産から地方へ財政支援を行うことで、人材、富が中央に集中する流れが生まれ、軍事的に物部、大伴に対する新しい勢力が生まれた。舎人という。////// ・・・ 有馬温泉で、春日大郎が極秘裏に生んだ男の子が、蘇我高麗の嫡子・蘇我稲目である。・・・ 蘇我高麗は、蘇我の里の才伎長、護衛の舎人長、王家の所領管理長、秘書役を配下に置き、大陸には見られない、その風土に合致した独自の律をもちいる事を、王家所領管理長・久米青梅に検討を開始させた。///////////// 「和を以て貴しと為し・・」の七箇条を蘇我一族、および王家所領の民の律として公布することに決したのである。////// //////七箇条の蘇我の律////// //////曰く、和を以て貴しと為し、忤(さから)うこと無きを宗と為す。 上和らぎて下睦びて、事を論ずるに諧(なら)へば事理自から通ず。曰く、君を即ち天とし、臣を即ち地とす。天地を覆せば 壊わるるのみ、よって君言えば臣承わり、上行けば下 靡(なび)く、詔を承けては必ず謹め。曰く、民を治(じす)る下(もと)必ず礼有り、上礼ならざれば下従わず、 下礼なければ必ず罪あり、群臣礼あれば位次乱れず、 百姓(ひゃくせい)礼あれば自から治まる。曰く、人各々任あり、掌る所宜しく濫れざるべし。賢哲を 官にに任ずれば社稷(しゃしょく)危うからず。故に古の聖王官のために 人を求め、人のために官を求めず。曰く、信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。善悪成敗は必ず 信にあり。群臣ともに信あれば何事かならざらん。群臣信 なくば、万事悉く敗れん。曰く、嫉(そね)み妬(たね)みの心は乱の本なり。我人を嫉めば人また我を 嫉む。嫉み妬む患(やまい)その極まりをしらず、ついには和を乱し 義を損ない、やがて信を失う。曰く、大事を論ずるに及びては必ず衆とともに論ずべし。 衆とともにあい弁ずれば、辞(じ)則ち理を得ん。・・・・・聖徳太子の十七箇条の憲法と比較すると似ている!WIKIPEDIAに載っているので比較して欲しい。 ・・・・・//////(呆けの写経は続く)
Jul 12, 2014
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筑紫の編(497年) 紹興、杭州を後背地に持つ中国大陸最大の貿易港・寧波(にんぽう)は荒波を避ける自然条件が備わり、南北交易の拠点である。(現在の寧波の位置) 揚子江域の南京に南朝を建設した東晋は、華北の晋が北方胡族、西方戎族に滅ぼされて、五胡十六国の軍人政権が樹立されるにおよび、北方の貴族を大量に受け入れ江南を開発し、貴族文化を花咲かせて2百年になった。帝室は東晋、宋、斉と代わり、今は、斉の6代帝王が暴虐非道の統治を行って、帝国終焉の淵を彷徨っている。 華北では、鮮卑族の魏が五胡十六ヶ国を滅ぼして約70年、現皇帝・考文帝は漢族の教養を備え、仏教に帰依し、漢人の心の故郷・洛陽に遷都し、均田法を施行した。・・・ ・・・ ・ 黄河文明の漢族は優秀としても、上記の治世振りを見ると、王の優劣は民族の差ではなくて個人の資質によるものが大きいと感じるのは小生だけだろうか。フン族、モンゴル帝国など多民族からも優秀な王を輩出した国が中国である。 ・・・ ・・・ ・ 漢族は、海に対しては恐怖感を持つようで(*)、また、政局の不安定なことも手伝い、寧波には交易人の自治により、殷賑を極めている。 (WIKIPEDIAによる南北朝時代の北魏・斉) その寧波には大陸文化を吸収する目的で倭国から派遣された、王族、それに類する子弟の宿舎となる倭人館がある。正式には10年に一度だけ倭国の朝貢使が使う本館と、それ以外の用途で使用する別館がある。 倭人館別館には、倭王武の三男・三郎丸、と従者、および、宗像三宮の総宮司・宗像一族の族長の嫡男・宗像赤胡の三人組が居留していた。国元から使者が来て、倭王武が流れ矢による逝去の知らせと、三郎丸の帰国が要請された。留学中の彼らは、南朝が没落寸前にあるのを見ているから、これ以上の長居も不要であった。帰国するには、三国湊へ向かう船に便乗させてもらい、多島海で潮流の流れが複雑で危険な朝鮮半島の南岸を経て、対馬で下船した。この航海は近いものの、風向き、潮の流れの変化などを待つために日時を要することになったが、地域の情勢を把握するのに役立った。 二人を対馬の厳原に残して、宗像赤胡が宗像の母港・神港に上陸して、父・宗像荒海から倭国の情報を収集した。・ ・・それによると、 倭王武は南朝の宋から大将軍府の開設を許され、都を太宰府と命名した。しかし、同年南朝では、宋がクーデターで倒され、斉に代わった。 大和では吉備(岡山県、広島県東部、兵庫県西部、香川県島嶼部を支配)との不和が発生し、吉備は倭国に接近しようと画策していた。武王が流れ矢で死に至るなかで、長男VS次男の二つの勢力が拮抗して争った。次男は吉備を吸収して大和を東に追い払う東進派であり、長男は「大和と吉備の争いで東国の憂いが薄れたと見て、朝鮮半島への兵力を増強し、倭国の影響力の回復を図る旧来派」である。・ ・・ 次男の東進派が太宰府朝廷を襲い、長男は近くの城に逃亡し、睨み合った。宋に留学した三人がこの危機に協力して豪族を説得した。説得は、三郎丸が倭国の新王となって、東進も、半島重視もしない、民の国造りである。長男、次男を誅殺し、倭王磐井が誕生した。★・・呆け頭の脱線・・古代、中世おいて中国は海には興味が薄かった? 小生は、中国が、多民族国家として、世界に進出した偉大な国だと思っている。古代には、フン族という中国北方民族が気候変動のために、西進を開始し、ゲルマン民族の大移動をもたらし、自らはイタリアにアッチラ王という名前を残した。ハンガリーやフィンランドにも影響を残している。さらに、中世には、同じく中国北方にモンゴル帝国が興り、アジア大陸から東欧まで版図を広げ、大元を本国に建設している。ただ、これらは騎馬軍団であって、その行軍は陸路を経ている。北欧のヴァイキングと比較すれば、ヴァイキングが海路での侵攻であるのに比べて、もっぱら広い平原中心の侵攻が特徴的である。中国での水上の戦いは、三国志でも河川(長江)での戦いが知られている。 //////// 「赤壁の戦い」=孫権・劉備連合軍VS曹操軍 at the Red Cliff in 208 (WIKIPEDIA赤壁の戦い:長江) //////// 漢民族だけでなく、古来、中国の多民族は海での侵略はあまり興味がなかったかも知れない。沖縄などには朝貢の要請を行う程度で、台湾は無視されたような時代が多く、海を渡って侵略することは稀であったように感じる。中越戦争でも古来、海戦は得意でなかったと思う。日本に侵攻した、元寇(元と当時の属国・高麗の連合軍)も、神風(台風)という特殊事情もあったが、越に海戦で敗れたことが尾を引いたようだ。(もっとも、現代では、GDP世界第2位の国力と核心的利益の追求を旗印に、大陸南方の海底資源確保の観点から海軍を強化し、多くの隣国と摩擦を開始しているが、本稿は古代のことである。・・・ただ、元寇には日本の島嶼部では凄まじい殺戮が行われており、戦いの場では元・高麗軍が非道を越えた行いを島民に加えている。隣国同士の戦争・交流の歴史をとらえるならば、近代の事で政治的な批判を加えるよりも、未来志向の方が人類愛となると感じる。また、中国こそ多民族国家として纏まりのある国家を造り上げて、ボリュームだけの世界No.2でなく、嘗ての世界制覇を目指した国の姿を反省して、世界・人類平和に貢献して欲しいものである。 (呆けの写経は続く)
Jul 11, 2014
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尾張の編(496年)★「古志の編」で述べたが、琵琶湖畔の息長一族の長・真手王は子が無いため、弟の子を後継者に期待していた。 一方、古志の三尾一族は琵琶湖畔に進出するために、息長に姫を嫁がせ、カップルから男子が産まれた。男子は父の死に際して、母の意向で、三尾および三尾一族の出身地である朝鮮半島の伽那(*)で育てることになった。男子は大陸の文化を吸収し、商業、航海術を学んだ、逞しい大柄な王子に成長した。男大迹(おおどの)王子という。(後の継体天皇であるので注目)。///(*)朝鮮半島の「伽那」は高句麗、新羅、百済の三国に対して、韓人や倭人達が混在支配する南部の地域である。下図では、高句麗が百済を南に押しやり(漢城を失う)、百済が伽那に少し南東に押し入った形の時代の歴史地図である。伽那国が複雑な状態にあり、最後には、新羅、百済により滅ぼされるので、これを無視できると見て朝鮮半島では三国時代と呼んでいるようだ。 (WIKIPEDIAによる朝鮮半島の三国時代より。細かく見れば、4国台頭時代でもある) ///★息長一族が勢力を持つのは伊吹山どまりであり、その先は小牧を本拠に、尾張・美濃地区を治める旧・葛城一族系の草香王の支配が及んでいる。息長一族の長・真手王が、帰国した男大迹王子と共に、草香王のもとに出向いて、互いの境界を友好的に引こうとしている。木曽川流域は、草香王の先代から治水、灌漑工事が進められており、大和から持ち込んだ挺鉄を熱田で蹈鞴により鋳直し、大量の農耕具に変えることで、尾張は大穀倉地帯に変身した。真手王達が土産としたのは生きた松葉蟹で、開かれた宴では、地元の伊勢海老との食べ比べなどが豪勢に振る舞われた。★酔いの中で、密かに結ばれたもののうち、当人達ははじめは互いに気づかなかったが、男大迹王子と、草香王の娘・目子姫がいた。(写経は続く)
Jul 10, 2014
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蘇我の編(488年) 昆支君が隼人梟師の後ろ盾を得て、雄略天皇の許可を受け、大和に入植したのは13年前である。百済の王子が大和に移住した噂を聞いて百済からの渡来人達が集まり部民は増加した。国見山北麓に大池を造成、そこから灌漑用の溜め池に分水し、豊かな耕作地を造成した。また、部民を職能別に再編成した。大和の大王はその4年後に身罷られた。/// この年、百済では、文周王が長官に殺害され、長官は幼帝を擁して、政権を握ったために豪族の怒りを買い、国元の豪族の要請で昆支君は帰国をすることとなり、代わって、大和には昆支家・家宰の荒羅斯が蘇我部の長として入った。昆支君は国元に帰り、長官による傀儡政権を打ち破ったが、流れ弾に当たり戦死、新政権は昆支君の長男・東城王が百済を治めることとなった。日本に昆支君と漂流・渡来した3男・蘇我高麗と、東城王とは同母兄弟である。///大和では、雄略天皇が亡くなり、その後継争いの中で吉備氏系の星川王子が大連大伴氏に焼殺される事件が発生、大和と吉備は反目し合う仲に変わった。王統を承継したのは葛城氏系の清寧天皇だが、病弱と後ろ盾のないために王家の勢力は軽んぜられた。///大和では王権とは別個に財産は女系で引き継がれた。雄略天皇の皇女・春日大郎達の財産管理は、計数管理に優れた荒羅斯達に任された。清寧天皇は早死し、又従兄弟の顕宗天皇が後継した。結局、大和の財産は春日大郎に集中し、その管理を行う役目の荒羅斯も死んだので、蘇我高麗が蘇我一族の総帥となった。///・・・ この春日大郎の夫であり、顕宗天皇の兄が、後の仁賢天皇である。この又従兄弟同士の婚姻は雄略天皇の遺言によるもので、富と権力の集中をいわば約束するものであった。(写経は続く)
Jul 9, 2014
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古志の編(480年) 三国湊は古志(*)以北の産物、朱(三国)、漆(輪島)、翡翠(沼河)、鞣し革(蝦夷)、金銀(沿海州)を集荷し南の国への中継地であり、豪族の三尾君都奴牟斯王が治めている。///・・(*現代、新潟県は上・中・下越、佐渡というように「越」を使用、小生には地震で有名となった「古志郡山古志村」を思い出したが、地名は、長岡市山古志に変更されている)///・・王の祖父は、東海(=日本海@)の遙か西の、朝鮮半島の伽那で鉄鉱山、踏鞴燃料となる木材の枯渇を見限り、鉱山開発技師、交易商人を率いて渡来した。まず、国見岳山麓から辰砂を発掘、埋葬用の朱を生産して、その交易などで富を蓄積した。さらにその富で伽那の蹄鉄を得て、農耕具に鋳直し、九頭竜川の治水、農地拡大に励み穀倉地帯を造り上げた。しかし、本来の彼らの興味は鉱山探査であり、白山山地奥の「神が丘」で金、銅、鉛、錫、亜鉛の鉱脈を発見できたのは祖父の死の直前であった。父の時代に、「神が丘」鉱山開発が乗軌化、金、銅を産出し、金塊、金細工品などが日本列島、朝鮮半島に搬出されて、それまでの中継品に加わり三尾衆は富を蓄積した。しかしこの交易は冬場に荒れ狂う日本海に閉ざされて、仕方なく、冬場の航行は瀬戸内海を利用するために、三国湊から駄馬に載せられて河内の難波津まで運搬された。三尾君の名はこのルートで知られるようになった。大陸の国々では海に勢力は及ばず、海賊が跋扈していたから、三尾君は水軍や騎馬集団を自ら整備していった。当時、琵琶湖畔に強い勢力を持っていた息長一族は、同じ伽那からの渡来人であり、三尾君の父親は、娘・振姫を息長君の弟の息子・汗斯王に嫁がせることを願った。息長君の家系は、大和の大王と(母方の)深い姻戚関係にあった。数代に亘り息長家の娘達が大和の大王家に嫁いでおり、自ら多大な出費などを犠牲にしている。/////////// 語り部の言うには、嘗て息長君の渡来に対して、東から侵入を防御したのは大和であった。息長君の鉄製武器に対して大和は銅製武器であり、人数は勝っても武器の優劣で勝敗は決まり、大和は南に追いやられた。その祟りなのか息長家は断絶の危機に陥り、大和を三輪山で探し出して、娘を嫁がせることで祟りは断たれている。神代の語りで真意のほどは定かでないという。///////////婚姻は滞りなく行われ、嫡子・男大迹(おおど)が誕生。まもなく父が病死し、振姫と男大迹は三尾に里帰りし、さらに、朝鮮半島の伽那に帰ったという。(注)男大迹については、後に「継体天皇」として現れるので注目しておいて欲しい。<脱線> ★「神が丘」とは「カミオカンデ」で有名な神岡鉱山のことであろうか。神岡鉱山は1,000年の歴史を持ち、養老年間(717~23年)には黄金を産出して朝廷に献上したという。日本の高度成長も支えた非鉄金属鉱山は、他方で排水されるカドミウムで公害病「イタイイタイ病」を引き起こし、採掘を止めて輸入鉱石の精錬のみとなり、神岡鉄道も廃線になった。閉山後の坑道を利用した、カミオカンデ、スーパーカミオカンデは微量の素粒子・ニュートリノの発見で小柴昌俊東大教授のノーベル賞受賞に貢献した。 /// *@ また、古志の王は朝鮮半島から渡来したので、我々が「日本海」と呼ぶ海を「東海」と呼んでいる。 彼らから見れば朝鮮半島の「東の海」であり、日本では名古屋地方を東海地方、最北の都道府県を北海道というように、方角を示す海である。朝鮮半島の「西の海」は、彼らの旧宗主国・中国の黄海、広域には東シナ海なので、ここには方角を示す呼び名はなさそうである。欧州の「北海」は多くの国から見ても「北の海」であるが、日本海のように大陸と日本に囲まれた広大な海域を一つの国からの方角で特定することは、難しいように呆け頭は感じる。 特定化を意図する固有名詞は難しい。敢えて言えば、「アジア大陸東南海・日本北西海」であるが、前者には多くの国があり、海もシナ海と混同するから、一国の日本で示した方が判りやすく感じる次第。 海域の名称での国際的な「命名合戦」の流れは、第二次世界大戦でのお互いの経緯から派生したものであるが、この「茜色に燃ゆ」で見るように、古代には大陸との文化、人の行き来は頻繁であり、現在のような言葉による互いの誹謗合戦とはまるで異なる生き生きとした人間性が溢れていたように感じる。政治的な離反とは別に、国民間には古代と共有する民族的な繋がりを感じたいものである。 ★(写経は続く)
Jul 8, 2014
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隼人の編 (475年) 宋に救援を求めに向かった百済の昆支君父子一行は嵐で難破し、30杯の漂流船に乗った一行が東に漂着した日本列島は、倭国ではなく、同じ言葉を話せる商人を抱えた、隼人梟師(たける)の国であった。なぜ、百済王の次子昆支君が漂流したかというと話は長くなる。///// 百済は、それまで南朝の宋(*)に朝献していたが、北魏に使者を送り高句麗を糾弾、北魏に高句麗攻撃軍の派遣を求めたことが高句麗の怒りを買い、475年に高句麗王の侵略を受けた。<注:*魏晋南北朝時代の宋(420~479)>百済の嫡子が救援を請うため新羅に赴いている間に、首都を包囲され、百済王は逃亡中に殺害された。嫡子・文周王は新羅軍の救援の元で、高句麗軍を追い払うことができた。高句麗軍と対立するために、倭国と宋へ使者を送ったが、宋への使者が王の弟である希代の英邁・昆支君であった。 木浦港から順調な船出であったが、寧波港の直前で、暴風雨に襲われて東に漂流し、嘗て知った列島の倭国ではない、薩摩半島に漂着した。///// 隼人の国は北の倭国を信用せず、騎馬軍を育成し、隼人梟師(はやとたける)を総大将とする軍事組織を持つ。邑人1千人の邑が一つの単位として、多数の邑々が存在する。土地が瘠せているためにもっぱら、海に出て、黒潮を辿り東に東に今の霞ヶ浦辺りまで邑が細長く連なっている。西都原を倭の国への前線基地とし対峙し、騎馬軍の食糧は邑々から供出される。////// 隼人梟師が流浪の昆支君に知らせたことは、1.文周王が遣宋使として昆支君を送ったのは有能な弟を暗殺する計画であった、2.将来であるが、昆支君が連れてきた幼い三男・蘇我高麗と、隼人梟師の幼い娘・此花姫を婚姻させ姻戚友好関係を結びたい、3.隼人族が大和大王・雄略天皇をこの国の新興の王と認めて、昆支君一行の高い技術を大和の国に導入させて、倭国に対抗する強大な国造りを行いたい、というものであった。/// 昆支君が本国の状況を偵察させている間に、本国では高句麗軍が大挙して百済を襲撃し、都・漢城は高句麗軍の手に落ちた。 ここに漢城の高句麗軍と、百済からの救援要請に応じて南伽那に進軍した倭王武の軍勢とが対峙する構図となった。★ 百済が悲惨な状態になっているときだが、百済人を薩摩に亡命させる好機が訪れたことにもなるので、昆支君は迎えの船を半島に送った。その一方で、大和側の受け入れ態勢を確認する必要があった。 昆支君と隼人梟師は船で黒潮に乗り、薩摩半島から紀伊半島に向かい、熊野川、十津川を上り、騎馬に乗りかえて、吉野川上流に達し、大和盆地の大和朝廷・雄略天皇に対面した。 そして、百済人の才伎千人、百姓二千人の亡命と移住地の確保を快諾して貰った。★(写経は続く・・内容は勝手ながら、時々、訂正させてもらいます)
Jul 7, 2014
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先日、金剛山(葛城山)登山記録記事で、もう一人の旧友・故人寺尾公男氏を思い出し、彼の著書を紐解いてみると、実に詳しく古代の状態が書かれていることを再発見した。 小生には、人名・地名なども昔の名前で難しく書かれているので非常に判りにくく感じる。 呆け頭の小生が、自分なりの言葉で再度ボチボチ理解するしかなさそうだ。 もちろん、浅学なので、賢明な諸兄は原文を詳しくご覧頂ければ幸いである。 <歴史上の方のお名前の敬称類は理解する上で極力省略している。>・・・序章・・・ 漢王朝は高祖劉邦以来緊縮財政を取り、財・武力を蓄積できた。中興の祖・武帝の時代には拡張政策で周辺地を版図に組み込んだ。朝鮮半島も例に漏れず4郡は漢軍の城に守られ、華北商人は鉄の産地で莫大な独占利益を得、さらに海を越えて倭の国との交易(奴の津)で危険は伴うものの莫大な利益を揚げていた。///奴の津まで漢人が出向き、倭人に融け込んでいた越人との交易を行っていた。倭人は朝鮮半島南部にまで海路から進出していた。/// 名(奴)の津では、倭錦など絹織物、翡翠、琥珀、瑪瑙、水晶、真珠等玉石、金、銀、同、朱丹、鉛、錫等金属類、貉、白・黒貂、白熊等鞣し革、珊瑚、護宝螺、芋貝、子安貝等細工品、紫檀・黒檀等高級調度用の原木類などの物産が集積され、交易されていた。 武帝死後、地球規模の寒冷化・黄巾の乱もあって、漢帝国は凋落、人口も10分の一に減少、三国志演義時代には大陸史上最悪の世相となる。後漢・光武帝時代には、朝鮮半島を遼東太守・公孫度が独立して支配し交易は寂れたが、異民族共通語は残った。日本列島では寒冷化に対して、稲の耐寒品種、山間部の狭隘地適応品種が普及し始め、半島から倭人、韓人が大挙して移住できるようになった。 諸葛孔明の死後、魏が公孫度の孫・公孫淵を滅ぼした頃の日本列島は倭国大乱の時代である。魏により帯方郡太守に任じられた劉夏は、張政に漢代の交易路を調査させた。張政は奴の津で住民を捕らえ、「倭国女王が天子に拝謁、朝献したい」旨の偽書を添え、洛陽に送る。洛陽の天子、倭国の王に「親魏倭王の爵号、金印紫綬の印綬」を送るべく、張政ら百人の漢人一行を使節とした。倭国の女王・卑弥呼は老齢のため死去し、張政は幼い新女王「台与(臺與)」を擁し、その軍事顧問として倭国を統制した。 句奴国との不和を解決すべく、隼人族の基地、日向・西都原に侵攻したが、不毛の地で価値なしと見て引き上げ、他方で、漢時代の列島交易路を復活させた。また、朝鮮半島から山師を迎えて列島の砂鉄や鉄の鉱脈を探させ、倭国に踏鞴製鉄の技術者を移住させた。張政は晩年帰国したが、倭国には鉱山開発、踏鞴制作者、木炭製造業、などの基礎が醸成されて、製鉄により鉄製農具が普及し、半島南部からの地縁勢力が成長し、倭人との複雑な血縁、地縁関係が錯綜していった。半島では、4百年もの漢民族(朝貢は残ったとしても、直接)支配が終わり、高句麗、百済、新羅、伽耶の「4国台頭時代」となる。 (WIKIPEDIAによる朝鮮半島三国時代の地図から4国台頭) 日本列島では、魏、晋、東晋など南朝に承認された「倭の国」(筑紫)と、三輪山をご神体とする部族を祭主とする独特の信仰、風俗をもち東国を押さえた新興「大和」の二大勢力に収斂しつつあった。 大和は王・仁徳天皇の時代に、物部一族を使用して河内の水田耕作、瀬戸内海交易支配などで勢力を拡大したが、その後は、物部氏、大伴氏、葛城氏などの豪族に浸食された。 (WEBより「古事記の神々(現代語で)」) 王族の中には、最有力豪族の葛城氏を滅ぼし専制政治を行った雄略天皇もいたが、豪族が祭主権のみを王族に認めていたため、王権は長続きできなかった。/////////////////(注)呆けの小生には、倭国が九州北部を中心とする邪馬台国を指し、句奴国(狗奴国)がその南の西都原や海(黒潮海流域)を支配した隼人族であり、大和が河内・奈良を中心とする新興王族であると推定する。 倭国と大和が主流になる中で、隼人族の首領・梟師が、朝鮮半島の百済王国・住人の亡命を手助けし、大和朝廷に隼人の将来を託して、大和盆地への移民を手助けする姿が記述されているように思う。/////////////////(写経は続く)
Jul 6, 2014
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★昨夜までの天気予報では本日は雨で、早朝テニスの練習、地域振興テニス大会も開催が危ぶまれていた。 5時の目覚ましで起きると外は小雨である。 しかし、7時からの予報では12時頃を除いて曇りに 代わっている。都内は小雨がちであるが、小生の市内は曇りなのである。ピンポイントの予報ができるのに驚く。 TVで2014 FIFA WorldCup ブラジルVS コロンビア戦を見ながら、準備して出かけた。 ネイマール選手の怪我は重傷のようだ。 これをみると、サッカーは格闘技の部分を抱えて、審判が赤、黄色で違反かどうかを微妙に判定する競技である。 テニスのように、紳士的でネットという敵味方の境界がありえない肉弾戦なのだ。大変なスポーツである。小生はホッケーがより厳しいスポーツだと思っている。スティックから弾丸のように放たれる球はまさに恐怖である。 /// スポーツセンターに到着すると早朝の仲間が小雨の中で、熱心に水を掃いていた。 3面の内、1面だけ清掃して少数でチャンピオンゲームなどを楽しんだ。 9時になると小雨も止んで、地域振興テニスの練習が始まった。 初心者グループには入れて貰えないから、若い上級者との練習になる。一週間ばかりやっていないから、とても疲れる。 11時に練習は終了。自販機でカロリーメイトなどを買って昼食の代わりにした。親切な女性の同僚がトンカツ弁当をお裾分けしてくれた。彼女の仇名は「しずかちゃん」、仲間には「のびたくん」もいる。 12時から、地域振興テニス大会が始まった。とても小規模の試合であり、4チーム、40人程度の対戦で、ダブルス、混合ダブルスがある。16時くらいに総当たり戦は終了し、1時間の自由時間が与えられたが小生は早々に引き上げてきた。。 小生としては珍しくパートナーに恵まれて、4試合で3勝1敗の成績であった。小生達のグループBが他のグループに対し全て勝利した格好だ。 優勝賞品であるが、それもいつも貰う参加賞と同じ、必需品のスポーツ靴下1足であった。 今回は、男子ダブルスでは、下手な小生が後衛に回り、上手なパートナーを前衛にして、積極的に手堅く決めるスタイルを取ったことが奏功したようだ。/// ヨチヨチ・テニスの小生にも楽しいが、疲れる一日であった。 疲れたので、例の「茜色に燃ゆ」の写経(というより筋書き辿り)は明日以降に延期する。 もちろん、この写経は、呆け頭の小生がこの歴史物語を理解するために記述するものであり、諸兄には煩わしいだけであろうが書くことで呆け頭の矯正を意図した、小生の無駄な抵抗とご理解いただき、ご放念いただきたい。 小生の記述が可笑しいと思われる諸兄は、ぜひ原書をお読み下さい。 ★
Jul 5, 2014
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★今年の2月27日、早稲田大学大隈記念講堂小講堂に鈴村教授の退官記念・最終講義を聴きに行ったことを翌日のブログで報告した。その時、ミネルヴァ書房から彼の研究の集大成と言うべき新刊書「厚生と権利の狭間」を執筆中と聞いた。・・・ ネットで「鈴村興太郎 厚生と権利の狭間」と入れてみた。なんと、ヒットした。新刊本の発刊予告がそこにはあった!/////http://www.hanmoto.com/jpokinkan/bd/9784623071074.html/////タイトルからは、新しい厚生経済学の方向とも読めるし、サブタイトルには「自伝」my life my world が付いており旧・新厚生経済学を解剖していった鈴村博士を取り巻いた国内外の大学や社会環境とも読める。多面的・歴史的・総合的かも知れない。・・以前の1万ページもある超高価な本は市図書館長に推薦して買って貰ったが、今回の本は小生でも買える値段だ。小生は数学が好きであるが、せいぜい微分積分程度であり、とても鈴村博士の超高等数学は理解できないが、なぜか博士が言っていることの輪郭を想像できる気がする。小生には「おまじないのような本」になるかも知れないが、将来の考え方に何か役立つと祈念して読んでみたい。★ 鈴村博士には、世界賢人会議を開催して、「核心的利益を追求する世界的な潮流」から離れて「個人の権利と社会全体の厚生」を国内のみでなくて、国際的に如何にバランスさせる方法をテーマに人類全体が考えることをお願いしたいものである。国内のみでなくて、国際的な厚生を実現・実装して欲しいのだ。そうなればノーベル賞は誰に行くか明白である。・・・また、呆けの夢物語となってしまった。・・・★
Jul 4, 2014
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★ 先日、小生の友人達の集まり「一火会」を記した。 その時に、会社の多くの支店長を歴任し、役員も勤め上げて、 さらには都内中小企業社長から、息子の成長までの中継役として 社長職を託され、今は悠々自適、有能、果敢な男に遇った。 会合には大阪から駆けつけてくれたが、自宅は東京にある。 風貌からは、以前の社長時代のふっくらさは消え、 修験者のような精悍さが勝っている。何事も自然のように受け入れる 仙人の如き精神を得たようだ。 彼は、全国の県庁所在地の支店長を歴任している間に、 百名山を攻略し、大阪時代には阪奈県境に聳える 金剛山(*標高1,125m)に魅せられた男である。 (金剛山からの元旦の日の出)金剛山には、勤務時代に300回ほどの登山実績がある。 会社退職後、都内の自宅から離れた和泉市のマンション(賃貸)に住み、 たまに府内の会社経営者の相談にのりながら、 毎日のように金剛山に健康登山しているという。 (冬の金剛山を望む) 写真で見せて貰ったが、登山回数は800回越えの名札にあり、 登山道に寄付したのか石柱にも彼の名前が刻まれている。 (金剛山は登山記録を表示できる名峰として貴重な存在である。) 当面の目標の20年来の1,000回登山は1~2年で達成できよう。 どうせなら、100歳まで頑張って、1万回を目指して貰いたいものである。 8割強の頑張りで、金剛杖をついてでも健康登山を続けて百歳 1万回を目指して欲しいものである。 //////// (*)金剛山は、小生のゼミ友・故人寺尾公男が著した「倭三国志演義・茜色に燃ゆ」で、 葛城一族の旧領の「葛城山」(かつらぎやま)に当たる名峰である。 狭義には、「大和葛城山」は959mの修験道最古の霊場を指すが、 古くは南方の金剛山1,125mを含めた広義の山域を指す。 金剛山頂には金剛山転法輪寺、 西麓に千早城跡がある。 歴史的には、雄略天皇の時代に隼人梟師(たける)が百済文周王の弟昆支君を 高句麗との戦いの後、大和朝廷の許可で移住(亡命)させた地であった。 *****抜粋 *****・・・・・・ 翌日(昆支君、隼人梟師)一行に馬が用意されていた。坂本はその名の通り小高い山の麓の集落でその山を一気に駆け上がると綴れ坂の下りとなり、やがて吉野川の上流が見えて来た。「大和の盆地に入りました」十津川衆が眼下を指差して言う。 その日の暮れ、一行は大泊瀬大王(雄略天皇)が朝廷を開いている朝倉宮に着いた。・・・・ 大和の朝廷はまだ情報を掴んでいない様子で(隼人)梟師の説明を丹念に聞き、幾多の質問を発した。「以前と状況が変わったのです。戦乱が続く中、早急に百済の才伎千人、百姓二千人を移住せねばなりません。倭国は本来、自分が行うべきことを大和が成したと抗議に及ぶでしょう。・・」「そのように考えるものなのか。難しい事だな。」大泊瀬は外交の難しさを初めて知ったように答えたが同時に「問題ない」と即答した。「次に、百済人三千人の収容地ですが」「葛城川と蘇我川の間の地を解放する、充分な土地だ問題ない」大泊瀬の回答は明快であった。かくして百済文周王の弟昆支君の大和移住が開始された。・・・・・ ***** 「倭三国志演義・茜色に燃ゆ」 新人物往来社 P.485 より 写真:WIKIPEDIAなどより ////////この際であるから、詳しく読んでいなかったこの本の筋道を「自由が丘氏」が地中海クルーズの思い出を書いてくれるまで切れ切れに辿ってみようと思う。 ★
Jul 3, 2014
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今年は、大学の友人・会社の同僚の13回忌である。 ★ 小生の会社同期生の集まりが「一火会」という名の下に 毎月第一火曜日の18時から、お茶の水・淡路町駅近くの 茶房で執り行われている。 ★ 先ほどの大学友人とは会社に二人だけが、初めて入社した。 本当は、初めてではなくて一人先輩がいるのだが、13年離れている。 小生達以降では毎年二人くらいが入社しているようだ。 小生は、どうぞお先に出世してね!と言っているが、 言われなくてもどんどん成長してくれている。頼もしい限りだ。 呆け呆けの小生とは異なり、亡くなった友人は、頭脳明晰ながら 人徳があり、顧客優先に奔走したために、精神的な苦痛を人一倍 受けたように感じる。 彼は貸出企業の判別関数(貸出の可不可判断補助)および 財務パターン分析手法 を完成させた男なのだ。 判別関数の数字は、それで可否を判定するのではなくて、 その企業が抱えている財務的な問題点を浮き彫りにして、 企業分析に取りかかる方法を、企業審査に長けた 先輩達の鋭い視点から学ぼうとするものである。 米国の心理学分析手法を、財務分析に応用したものである。 彼は、このように数学的にも優れた分析力をもっていたが、 実際には数字に表れにくいファクター・経営者の能力などに より力点を置いていたように小生には感じる。 小生が「近代経済学原論」という数学好きのゼミにいて、 パラメターを入れ替えることで経済モデルを構築していたのに対して、 理論家の彼は、真剣に「マルクス経済学原論」を専攻した学者肌であった。 ★ 彼の死因は肺ガンであるが、 「顧客救助のために紫煙を吸い込んだ人生」 だったように小生には感じる。 肺ガンの末期症状であり、当時導入された治療薬 「イレッサ」のガン細胞縮小の効果よりも、 副作用がきつく、あっという間にこの世を去ってしまった。 良い薬でもタイミングが遅いと効果が逆に出る場合であろう。 支店長室の禁煙を女性職員達から求められても、 哀願するように頑なに喫煙を続けたために、 タバコで命を縮めた男であった。 ちなみに、既に、会社更生法適用の会社であっても、 なんとか支援する方法を命がけで考える支店長であり、 学生時代の理論に強い「冷徹な鉄の男」 の欠片もみえない人間性の高い姿であった。 ・・・・・・・ 政府系銀行マンとして冷徹に生きていたら、 もっと楽な人生を送れたであろうに! ・・・・・・・・ 敢えて相手の中小企業の社長の立場に立って、 苦渋の人生を共有した男の生き様を見たような気がする。 ★ 昨夜は、彼の奥様を囲んで、堅物支店長時代の思い出話に耽った。 幸い、元有名女子高教諭の奥様は、今でも美人、快活で、 最近は水彩画にも興味を持って、人生を楽しんでおられた。 今後も、楽しい人生を送っていただくことを願う次第。 ★ 同期生はなぜか赤穂四十七士であり、 すでに十数名はあの世に逝った。 亡くなった十数名は、残ったものに比べれば、人徳が高く、 なぜか優しい人達ばかりである。 幹事が物故者の名簿をつくってくれて、脳幹梗塞リハビリ中の 小生を是非にと呼び出してくれた。 みんなは、小生の回復振りに驚いていたが、小生は勢いで 美酒に酔いしれて飲み過ぎてしまった。 次回も体力的に参加できることが判ったが、 主治医からは 「あなたは歯止めが利かないから飲酒はいけません」 と言われたことを思い出して、改めて反省している。 ★ さて、あの世に行けない者達は、それぞれ努力をしている。 明日は、その中で金剛山1,000回登山を目指す男を記したい。 //////////////// 追記: 家庭菜園に凝っている九州男児が、自分で収穫したトマトを 袋一杯茶房に持ち込んでくれた。 お店が出してくれた真鯛も美味しかったが、 丹誠込めたトマトは甘くて素晴らしい自然の香りがした。 今や、多民族国家・中国がモンゴル帝国や元寇の再来のような 核心的利益を振りかざし、 隣国・韓国が戦時下の慰安婦問題という特殊事情に他国批判を集め、 かつての宗主国・中国に擦り寄り、 北朝鮮が中国の支援を背景にして、核保有、弾道ミサイルなどを 脅しの道具に頻用し、拉致問題も交渉材料とするなどの 殺伐とした時代である。 またロシアとは一方的な戦後の参戦で北方領土問題を抱えており、 同国のウクライナ・クリミヤ分離政策などの動きを見ても 世界は理論よりも暴力が優先しているようである。 日本もやっと重い腰を上げて [美人(日本)は騎士(米国)が守ってくれるという甘い妄想] から脱出しようとしている。 集団的自衛権問題で殺伐としている折りに、 この自然の恵みのトマトは 世界平和の有り難さを [実] を以て示してくれたような気がする。
Jul 2, 2014
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