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戦闘の勃発
慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる、藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、薩摩藩士・税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。
Ø 同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約15000人と言われている。
Ø 新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。
Ø 翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。
Ø 逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により 1 月 5 日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。
Ø 1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
10、「幕府軍の反撃体制」
幕府陸軍 (ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。
文久2年(1862年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。幕府陸軍に対して海上任務を想定した幕府海軍も存在しており、これらをまとめて幕府軍と呼称する場合が多い。
1867年頃、江戸幕府は、直轄の軍事力としては、旗本や御家人からなる戦国時代以来の体制を続けてきた。これらの旗本などにより小姓組・大番などの伝統的な軍事組織を構成していたが、長期の平和の中で貴族化し、形骸化が進んでいた。アヘン戦争の情報などから次第に危機感を覚えた幕府は、高島秋帆や江川英龍、下曽根信敦らを砲術師範などに登用して西洋式軍備の研究を開始した。
黒船来航後の安政元年(1854年)には、老中の阿部正弘による安政の改革で軍制改正掛が置かれた。軍制改正掛の検討で、旗本・御家人の子弟を対象とした武芸訓練機関である講武場(後に講武所)の設置が決まった。
安政3年(1856年)4月に開場された講武所では、古来の剣術や日本式鉄砲術・大筒術などだけでなく、西洋式の砲術や戦術学の研究も行われた。また講武所には、教導部隊ともいうべき一定の実戦力も期待され、後に奥詰と呼ばれる将軍の警護要員も整備された。
さらに講武所の設置と前後して、安政2年(1855年)9月には徒組、安政3年(1856年)1月には小十人組に対して砲術師範の江川英敏への入門が義務付けされ、洋式銃砲の訓練が始められた。この徒組等への訓練は、講武所設置後には、その中の砲術習練所へと移って続けられた。安政5年(1858年)には、深川越中島に銃隊調練所が建設された。
しかし、阿部の死後に井伊直弼が大老に就任すると、西洋式軍備の導入は停滞してしまった。
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