歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

コメント新着

日本真空管大全の著者@ Re:「戦後日本の回想・30年」トランジスターラジオ発売。    川村一彦(02/18) 大変面白く拝読させていただきました。 な…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2023年08月13日
XML
カテゴリ: 戊辰戦争の群臣





北越戦争


Ø 北越戦争を描いた浮世絵。画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い(御館の乱)に見立てて描いたもの。新潟県立図書館蔵。


Ø 越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したが、イタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟にとって武器の供給源となった。


Ø 5月2日、新政府軍の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で、長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府の権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。


Ø これにより長岡藩及び北越の諸藩計 6 藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。


長岡藩は河井により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井の指揮下で善戦したが、5月19日に長岡城が落城。7月25日に同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたが(八丁沖の戦い)、この際指揮をとっていた河井が負傷した(後に死亡)。新政府軍はすかさず長岡城を再奪取し、4日後の29日に長岡藩兵は撤退した。


Ø 一方、新政府軍が軍艦で上陸し、米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。


平潟戦線 ]


Ø 平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。


Ø 当時、榎本武揚の旧幕府艦隊は健在だったが、新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1,500人となった。


Ø 6月24日、東山道先鋒総督府参謀・板垣退助(土佐藩)が率いる新政府軍の迅衝隊が白河から平潟との中間にあった棚倉城を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い磐城平城を占領(平城の戦い)。


Ø 16日には断金隊々長・美正貫一郎の尽力によって、三春藩が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、三春城は新政府軍の病院としての一翼をになった。


Ø 22日に仙台追討総督・四条隆謌が増援を率いて平潟に到着、29日に二本松城を三春城から北上した新政府軍が占領した(二本松の戦い・二本松少年隊)。8月7日、相馬中村藩が新政府軍に降伏。四条隆謌と参謀・河田景与および木梨精一郎らは相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の駒ヶ嶺を占拠、ここで仙台藩と戦闘を繰り広げた。


Ø 白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。


Ø 新政府軍の総司令官・大村益次郎(長州藩)は、仙台藩の攻撃を優先するべきだと主張し、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)と板垣退助(土佐藩)は会津藩を攻めるべきだと主張した。結果、伊地知・板垣の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。


東北戦争の終結


Ø 8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。


Ø 当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。


Ø またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか、白虎隊の悲劇などが発生した。


Ø 9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏、22日に会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、24日に新政府に降伏した。


奥羽越列藩同盟諸藩の降伏後、行き場を失った水戸藩・諸生党を中心とする旧幕府方残党は水戸城に侵攻するが、10月1-2日の弘道館戦争で敗退した。旧幕府方残党は南に敗走し、10月6日、下総国匝瑳郡松山村付近の松山戦争で壊滅した。












お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年08月13日 08時16分03秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: