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2024年05月24日
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カテゴリ: 戦国




(なべしま つねふさ、 生没年未詳 )は、 室町時代 武将 少弐氏 の出身で 藤原 鍋島氏 の祖。 少弐教頼 の子で 鍋島直茂 の曾祖父に当たる。 少弐政資 千葉胤資 (たねすけ)は実兄。


少弐教頼と、 鍋島経直 (つねなお)の娘との間に生まれる。


のちに外祖父・経直より鍋島家の家督を譲られる。初めは 鍋島清直 (きよなお)、のちに 経房 と改名、いずれも経直より1字を受けて名乗ったものである。


子の 清久 の代から少弐氏の家臣である 龍造寺氏 に仕え、その孫・直茂以降は 肥前 佐賀藩 を務める家系として続いた。


※「少弐 教頼」 (しょうに のりより)は、 室町時代 武将 少弐氏 14 代当主。


永享5年(1433)、父・ 少弐満貞 と兄・ 資嗣 大内持世 との戦いに敗れ戦死すると、教頼は兄・ 嘉頼 と共に 対馬国 に落ち延びることを余儀なくされ、 宗貞盛 の庇護下に入る。


対馬で元服し家督を継いだ兄・嘉頼は、 永享 12年(1440)に6代 将軍 足利義教 の計らいで大内持世との間で和睦を結び、少弐氏の存続が認められるも、翌永享13年(1441)に21歳で早世した。


元服の際、足利義教より 偏諱 を受け「教頼」を名乗る。兄の死を受けて家督を継いだ [6] 教頼であったが、同年の 嘉吉 元年(1441年)24日に勃発した 嘉吉の乱 後に、首謀者・ 赤松満祐 の弟で九州に逃亡してきた 則繁 を隠匿し 李氏朝鮮 への脱出にも協力したことから、 10 14 大内教弘 大友親綱 志賀親賀 らが幕府から教頼の追討を命じられている [7] 。追討を受ける身になった教頼は対馬に逃亡した。


翌嘉吉2年(1442) 12 15 、幕府の命を受けた志賀親賀らが、 大友持直 大内教幸 と並んで教頼の所在を捜索している。


文安 3年(1446)、舅である宗貞盛が上洛し 管領 細川勝元 に教頼の窮状を訴える [9] と共に教頼の赦免を請願している。


翌文安4年(1447)、貞盛から赦免の知らせを聞いた教頼は 肥前国 に戻った。


文安5年(1448)1月、日本に帰国した赤松則繁と共に肥前で大内教弘と戦うも敗北した。


享徳 3年(1454)3月、肥前 巨勢野 九州探題 渋川教直 と交戦し、 康正 元年(1455)には松浦に逃亡する。 長禄 3年(1459)には 筑前国 に入るも大内教弘に敗北し対馬に逃れた。


寛正 6年(1465) 、細川氏と対立していた筑前守護の大内教弘が死去したことから、同 10 、教頼が筑前 守護 に任命されている。


応仁元年(1467)に 応仁の乱 が勃発すると、西軍として上洛した 大内政弘 の留守を突いて勢力回復を図るため東軍に通じ、宗貞盛の子・ 成職 の家臣・ 宗盛直 と共に大宰府を攻めるも敗北、翌応仁2年(1469年)、今度は 千葉教胤 菊池武国 らと兵を起こし大宰府に拠る大内氏の 守護代 仁保盛安 を攻めるも、逆に大内政弘の命を受けた 筑紫頼門 渋川義種 の軍勢に敗北し筑前 志摩郡 高祖城 において自刃した。


少弐氏再興は子・ 政資(頼忠) に引き継が れた。



*「鍋島 清久」 (なべしま きよひさ)は、 戦国時代 武将 龍造寺氏 の家臣。 鍋島直茂 の祖父。 鍋島氏 4代当主。


鍋島氏は元は 肥前国 の在地の小土豪。


延徳 2年(1490)、 鍋島経房 (初名:清直)の子として誕生。父・経房は龍造寺氏の主君・ 少弐氏 の出身で母方の鍋島氏を継承していた。


享禄 3年(1530)、 龍造寺家兼 大内義隆 と戦った際( 田手畷の戦い )、家兼に協力して赤熊の面をかぶって大活躍したという。


これにより清久はその実力を認められる事になり、鍋島氏は龍造寺氏の家臣となった。


天文 13年(1544)、死去。


※「田手畷の戦い」 (たでなわてのたたかい)は、 享禄 3年(1530)、北九州の覇権をめぐり 周防国 大名 大内氏 肥前国 の大名 少弐氏 との間で起きた戦い。


大内氏と少弐氏とは、 室町時代 を通じて北九州( 大宰府 )の覇権を争う宿敵同士であった。


明応 6年(1497)には 大内義興 少弐政資 を滅ぼし、かつては鎮西の覇者であった少弐氏を肥前の一地方勢力に転落させることに成功している。


大内義隆 (義興の子)は宿敵の 少弐資元 (政資の子)に止めを刺すべく 筑前国 守護代 杉興運 に命じて大内方の北九州の諸将を率いさせ、資元の居城肥前 勢福寺城 を攻撃させた。


少弐方の諸将( 龍造寺家兼 馬場頼周 など)が奮戦するが、兵力で劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった。


しかし、 鍋島清久 清房 父子や 石井党 らが率いる赤熊奇襲隊の活躍もあって、遠征してきた興連を敗走させた。大内方は 横岳資貞 筑紫尚門 などが戦死している。


この戦いの後、 佐賀平野 南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した 龍造寺氏 が、少弐家中での発言権を強め、 戦国大名 化していく契機となった。


この勝利に勢いづいた少弐氏は逆に 大宰府 に侵攻するなど一時勢力を回復させたが、大内家の周防国守護代 陶興房 が九州に乗り込んでくると再び劣勢になり、さらには義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて来ると、頼みの家兼にも見放された。


天文 4年(1535)には、資元は自刃して果てたため、少弐氏は一時滅亡した。






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最終更新日  2024年05月24日 05時54分56秒
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