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(なべしま きよふさ)は、
戦国時代
から
安土桃山時代
にかけての
武将
。
龍造寺氏
の家臣。
鍋島氏
5代当主。
早くから 龍造寺家兼 に仕え、父・清久や兄・ 清泰 と共に家兼の重臣として活躍した。
享禄 3年(1530)の 田手畷の戦い にて父や 野田清孝 と共に赤熊武者を率いて 大内氏 を破る事に貢献した。
その功により清房は、家兼の嫡男・ 龍造寺家純 の娘婿となる事を許される。家兼の信任も厚く、特に家兼が 馬場頼周 に追われて 筑後国 の 蒲池鑑盛 の下へ逃げ、その後に挙兵した際、清房は 少弐氏 が頼周を助けられないように一揆を煽動すると言う知略を見せている。
天文 15年(1546)に 龍造寺隆信 が還俗し水ヶ江龍造寺家の当主となったが、清房はこの相続に反対であったようで、相続後もなお難色を示したため龍造寺本家の家老・ 龍造寺家宗 により諭されている。
天文17年(1548)、隆信が龍造寺本家を継ぐ際にはその後見役となった。
天文17年(1548) 8 月 11 日 に家純の娘である正室が死去するが、 弘治 2年(1556)に隆信の母・ 慶誾尼 が押し掛ける形で後室に入っている。
後に子・ 直茂 に家督を譲り隠居。
天正 12年(1584)の 沖田畷の戦い の際には 村中城 の留守を守り、子・直茂の生還を知り密かに喜んだとされる。
天文21年(1552)、 高伝寺 を創建。ここは後に鍋島氏の菩提寺となる。
※「沖田畷の戦い」 (おきたなわてのたたかい)は、 日本 の 戦国時代 の 天正 12年 3 月 24 日 (1584)に 肥前 島原半島 ( 長崎県 )で勃発した戦い。 九州 の 戦国大名 である 龍造寺隆信 と 有馬晴信 ・ 島津家久 の合戦である。
「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。
龍造寺氏 は 少弐氏 の被官から 下克上 で戦国大名となり、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国を統一する。
さらに 元亀 元年(1570)の 今山の戦い で 大友宗麟 軍を破り、勢いに乗って 肥後 半国、 筑前 、 筑後 、 豊前 の一部(長崎県、 佐賀県 、 熊本県 北部、 福岡県 )を獲得した。
天正6年(1578)に大友宗麟は 日向 に南征し、 島津義久 に敗れる( 耳川の戦い )。
この結果、 大友家 は多くの武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで衰退する。
そのため大友家は当時九州で成立していた九州三強から脱落し、耳川の戦いで勝利した島津家と、その合戦に乗じて大友領を侵食した龍造寺家の二強が争う時代となる。
天正9年(1581)、島津家は肥後に北上する。これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・ 政家 と義兄弟の 鍋島信生 (後の直茂)を派遣して島津方の赤星親隆を下し、肥後北部の 山本郡 の内古閑鎮房も降伏させた。
このため肥後北部の国人は龍造寺家に帰順する。
しかし隆信は、筑後柳川の 蒲池鎮並 が島津氏へ通謀していることを知り、蒲池一族を小河信貴、徳島長房に殺害させるなどしたため、諸将士の離反を惹き起こし、筑後衆の中では隆信に叛く者が出るにいたった。
沖田畷の戦い
両軍の対応
天正12年(1584年、3月19日、有馬晴信の背信を知った隆信は龍王崎から出陣した。
3月20日には島原半島北部の神代に上陸した。
有馬晴信は八代にいた島津軍に援軍を要請する。当時、島津家は肥後の平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、有馬に対して援軍を送り出した。
ただ、島津軍の主力が動けば、衰えたとはいえ大友家が南下しかねず、 相良義陽 を戦死させた 阿蘇惟光 ・ 甲斐宗運 らの動きもあり、島津義久は大軍を島原に送る事はできず、弟の家久や 頴娃久虎 、 新納忠元 、 猿渡信光 、 伊集院忠棟 、 川上忠智 らを大将にして送り出した。
兵力は島津軍の5千人にも満たなかった。幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日だった事であるが、龍造寺軍を悩ませた海の時化が島津軍の渡海をも遅らせ、またこれにより大軍を送れなかったのである。
一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた。
信生は長期持久戦に持ち込む事で島津の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していたが、圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。
島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、晴信は島津の大軍の後詰を待つ後詰決戦を主張するが、家久は積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定められた。
当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と 森岳城 との間にある道も幅が大変狭かった。
沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であった。連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた。
これらの防備は3月23日の夜までに完了したが、龍造寺軍の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。
この時の連合軍の布陣は晴信を総大将に本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1000余、内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠元ら1000は前山の山裾に伏兵として潜んだ。
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